漢書

司馬遷伝 第三十二

昔、顓頊せんぎょくの時代に、南正のちょうに天のことを司らせ、火正のれいに地のことを司らせた。唐・虞の時代には、重と黎の後裔を継承させ、再びこの職務を司らせた。夏・殷の時代に至るまで、重氏と黎氏は代々天地の秩序を司った。周代においては、程伯林甫ていはくりんぽがその子孫である。宣王の時代に、官職が本来の職掌を失い、司馬氏となった。司馬氏は代々周の史官を務めた。恵王・襄王の間、司馬氏は晋に移った。晋の中軍の随会ずいかいが魏に奔ると、司馬氏は少梁しょうりょうに入った。

原文昔在顓頊,命南正重司天,火正黎司地。唐、虞之際,紹重、黎之後,使復典之,至於夏、商,故重、黎氏世序天地。其在周,程伯林甫其後也。當宣王時,官失其守而為司馬氏。司馬氏世典周史。惠、襄之間,司馬氏適晉。晉中軍隨會奔魏,而司馬氏入少梁。

司馬氏が周を離れて晋に移ってから、一族は分散し、ある者は衛に、ある者は趙に、ある者は秦にいた。衛にいた者は、中山の相となった。趙にいた者は、剣術の理論を伝えて名を顕わし、蒯聵かいかいがその子孫である。秦にいた司馬錯しばさくは、張儀ちょうぎと論争し、そこで恵王は錯に兵を率いて蜀を討たせ、ついにこれを陥落させ、その地を守らせた。錯の孫の司馬蘄しばきんは、武安君白起ぶあんくんはっきに仕えた。そして少梁は夏陽かようと名を改めた。蘄は武安君とともに趙の長平ちょうへいの軍を生き埋めにし、帰還するとともに杜郵とゆうで賜死し、華池かちに葬られた。蘄の孫の司馬昌しばしょうは、秦王の鉄官となった。始皇帝の時代、蒯聵の玄孫の司馬卬しばごう武信君ぶしんくんの将となり朝歌ちょうかを巡行した。諸侯が相王そうおうしたとき、卬は殷に封ぜられて王となった。漢が楚を討つとき、卬は漢に帰順し、その地は河内郡かだいぐんとされた。昌は司馬毋懌しばぶえきを生み、毋懌は漢の市長となった。毋懌は司馬喜しばきを生み、喜は五大夫ごたいふとなり、死後、ともに高門こうもんに葬られた。喜は司馬談しばだんを生み、談は太史公となった。

原文自司馬氏去周適晉,分散,或在衛,或在趙,或在秦。其在衛者,相中山。在趙者,以傳劍論顯,蒯聵其後也。在秦者錯,與張儀爭論,於是惠王使錯將兵伐蜀,遂拔,因而守之。錯孫蘄,事武安君白起。而少梁更名夏陽。蘄與武安君坑趙長平軍,還而與之俱賜死杜郵,葬於華池。蘄孫昌,為秦王鐵官。當始皇之時,蒯聵玄孫卬為武信君將而徇朝歌。諸侯之相王,王卬於殷。漢之伐楚,卬歸漢,以其地為河內郡。昌生毋懌,毋懌為漢市長。毋懌生喜,喜為五大夫,卒,皆葬高門。喜生談,談為太史公。

司馬談

原文司馬談

太史公(司馬談)唐都とうとに天官(天文・暦法)を学び、楊何ようかに『易』を授かり、黄子こうしに道論(道家の学説)を習った。太史公は建元・元封の間に仕え、学者たちがその真意を理解せず師の教えに背くのを憂い、六家(陰陽・儒・墨・名・法・道)の要旨を論じて言った。

原文太史公學天官於唐都,受《易》於楊何,習道論於黃子。太史公仕於建元、元封之間,愍學者不達其意而師悖,乃論六家之要指曰:

太史公は天官を掌るだけであって、民政を治めることはなかった。子に遷という者がいた。

原文太史公既掌天官,不治民。有子曰遷。

談の子、司馬遷。

原文談子 司馬遷

遷は龍門りゅうもんに生まれ、黄河と龍門山の南で耕作や放牧をした。十歳で古文を誦読し、二十歳で南に遊歴して長江・淮水を渡り、会稽山に登って禹穴を探り、九疑山を窺い、沅水・湘水を舟で下った。北では汶水・泗水を渡り、ととの・魯の都で学業を講じ、孔子の遺風を観察し、すうえきで郷射の礼を見た。はんせつ彭城ほうじょうで困窮し、梁・楚をけいて帰還した。こうして遷は郎中に任官し、使命を奉じて西征し、巴・蜀以南を巡り、きょうさく・昆明を経略し、帰還して復命した。

原文遷生龍門,耕牧河山之陽。年十歲則誦古文。二十而南遊江、淮,上會稽,探禹穴,窺九疑,浮沅、湘。北涉汶、泗,講業齊魯之都,觀夫子遺風,鄉射鄒嶧;厄困蕃、薛、彭城,過梁、楚以歸。於是遷仕為郎中,奉使西征巴、蜀以南,略邛、莋、昆明,還報命。

この年、天子(武帝)が初めて漢王朝の封禅の儀を挙行したが、太史公は周南(洛陽付近)に留め置かれ、これに従事することができず、憤慨してまさに死のうとしていた。その時、子の遷がちょうど帰還し、河・洛の間で父に面会した。太史公は遷の手を握って泣きながら言った。『我が先祖は周王室の太史であった。上古の時代には虞・夏で功名を顕わし、天官の事を司った。後世には中衰したが、私の代で絶えるのだろうか。もしお前が再び太史となれば、我が祖先の業を継ぐことになる。今、天子は千年の正統を継ぎ、泰山で封禅を行うのに、私が従行できないのは天命か。天命なのだ。私が死んだら、お前は必ず太史になるだろう。太史になったら、私が論じ著述したいと思っていたことを忘れてはならない。そもそも孝というものは、親に仕えることに始まり、君に仕えることによって中ほどをなし、身を立てることによって完成する。名を後世に揚げて父母を顕わす、これが孝の大なるものである。天下の人が周公を称えるのは、彼が文王・武王の徳を論じ歌い、周公・召公の風を宣揚し、太王・王季の思慮を明らかにし、さらに公劉にまで遡って、后稷を尊んだからである。ゆう王・厲王の後、王道は欠け、礼楽は衰えた。孔子は旧来のものを修め、廃れたものを起こし、『詩』『書』を論じ、『春秋』を作ったので、学者たちは今に至るまでこれを規範としている。獲りん(『春秋』の終わり)以来四百有余年、諸侯は互いに併合し、歴史の記録は散逸し絶えた。今、漢が興り、海内が統一され、明主賢君、忠臣義士がいるのに、私が太史でありながらこれを論じ記載しないのは、天下の文を廃することであり、私は大いに恐れている。お前はよく考えよ。』遷は頭を垂れて涙を流し、『愚かな私ではありますが、先人が編纂された旧聞を全て論じ、欠くことのないように致します』と答えた。司馬談が死んで三年後、遷は太史令となり、石室金櫃に蔵された記録を紐解いた。五年後、太初元年にあたり、十一月甲子の朔旦冬至に、暦法が改められ、明堂で制定され、諸神がその記録を受けた。

原文是歲,天子始建漢家之封,而太史公留滯周南,不得與從事,發憤且卒。而子遷適反,見父於河、洛之間。太史公執遷手而泣曰:「予先,周室之太史也。自上世嘗顯功名虞、夏,典天官事。後世中衰,絕於予乎?汝復為太史,則續吾祖矣。今天子接千歲之統,封泰山,而予不得從行,是命也夫!命也夫!予死,爾必為太史;為太史,毋忘吾所欲論著矣。且夫孝,始於事親,中於事君,終於立身;揚名於後世,以顯父母,此孝之大也。夫天下稱周公,言其能論歌文、武之德,宣周、召之風,達大王、王季思慮,爰及公劉,以尊後稷也。幽、厲之後,王道缺,禮樂衰,孔子修舊起廢,論《詩》、《書》,作《春秋》,則學者至今則之。自獲麟以來四百有餘歲,而諸侯相兼,史記放絕。今漢興,海內一統,明主賢君,忠臣義士,予為太史而不論載,廢天下之文,予甚懼焉,爾其念哉!」遷俯首流涕曰:「小子不敏,請悉論先人所次舊聞,不敢闕。」卒三歲,而遷為太史令,紬史記石室金鐀之書。五年而當太初元年,十一月甲子朔旦冬至,天歷始改,建於明堂,諸神受記。

太史公(司馬遷)が言うには、「先人の言葉に『周公が亡くなってから五百年で孔子が現れ、孔子から今まで五百年になる。誰かがその道を継いで明らかにし、『易伝』を正し、『春秋』を継ぎ、『詩』『書』『礼』『楽』の根本を究める者があろうか』とある。その意はここにあるのだろうか!その意はここにあるのだろうか!私ごときがどうしてその任に当たることができようか!」

原文太史公曰:「先人有言「『自周公卒五百歲而有孔子,孔子至於今五百歲,有能紹而明之,正《易傳》,繼《春秋》,本《詩》、《書》、《禮》、《樂》之際。』意在斯乎!意在斯乎!小子何敢攘焉!」

上大夫の壺遂こすいが言った。「昔、孔子はなぜ『春秋』をお作りになったのですか?」太史公が答えた。「私は董生(董仲舒)から聞いたことがある。『周の道が廃れ、孔子が魯の司寇となられた時、諸侯は彼を害そうとし、大夫は彼の道を阻んだ。孔子は自分の時代が用いられず、自分の道が行われないことを知り、二百四十二年間の出来事の是非を論じ、天下の規範とし、諸侯を貶め、大夫を討伐して、王道の事業を実現しようとされただけである』と。孔子は言われた。『私は空論を述べるよりは、事実を通じて深く切実に明らかにする方がよい』と。『春秋』は、上は三王(夏・殷・周の聖王)の道を明らかにし、下は人事の秩序を弁え、嫌疑を区別し、是非を明らかにし、迷いを定め、善を善とし悪を悪とし、賢者を賢とし不肖者を卑しめ、滅びた国を存続させ、絶えた世を継ぎ、弊害を補い廃れたものを起こす、王道の大いなるものである。『易』は天地・陰陽・四時・五行を明らかにするので、変化に長じている。『礼』は人倫の秩序を定めるので、実践に長じている。『書』は先王の事績を記すので、政治に長じている。『詩』は山川・溪谷・禽獣・草木・牝牡・雌雄を記すので、風教(教化)に長じている。『楽』は楽しみが成立する所以を記すので、調和に長じている。『春秋』は是非を弁えるので、人を治めることに長じている。だから、『礼』は人を節度させるため、『楽』は和を発揚させるため、『書』は事績を述べるため、『詩』は意を伝えるため、『易』は変化を説くため、『春秋』は義を説くためにある。乱世を治めて正しい状態に戻すには、『春秋』に及ぶものはない。『春秋』の文章は数万字に及び、その指摘する要点は数千にのぼる。万物の散り集まる道理はすべて『春秋』の中にある。『春秋』の記述の中で、君主を弑した例は三十六、国が滅びた例は五十二、諸侯が奔走して社稷を保てなかった者は数えきれない。その原因を考察すると、皆その根本を失っているからである。だから『易』に『毫厘の差が千里の誤りとなる』と言い、また『臣が君を弑し、子が父を弑するのは、一朝一夕の理由によるのではなく、その兆しは久しい』と言うのである。国を持つ者は『春秋』を知らなければならない。そうでなければ、前には讒言があっても見えず、後には賊があっても知ることができない。人臣たる者は『春秋』を知らなければならない。そうでなければ、常事を守るのにその適切さを知らず、変事に遭ってもその臨機応変の処し方を知らない。君主や父たる者が『春秋』の大義に通じなければ、必ず首悪の汚名を被ることになる。人臣や子たる者が『春秋』の大義に通じなければ、必ず簒奪や弑逆の罪に陥り、誅殺されることになる。彼らは皆、善を為そうとしてそのようなことをしたのに、その大義を知らなかったため、空言(『春秋』の批判)を被って敢えて辞することができないのである。礼義の趣旨に通じなければ、ついには君は君らしくなく、臣は臣らしくなく、父は父らしくなく、子は子らしくなくなる。君が君らしくなければ臣に犯され、臣が臣らしくなければ誅殺され、父が父らしくなければ無道となり、子が子らしくなければ不孝となる。この四つの行いは、天下の大過である。天下の大過を彼らに与えれば、彼らはそれを受けて敢えて辞することができない。だから『春秋』とは、礼義の大本なのである。礼は未然の前に禁じ、法は已然の後に施す。法の効用は見えやすいが、礼が禁じようとすることは知りにくい。」

原文上大夫壺遂曰:「昔孔子為何作《春秋》哉?」太史公曰:「余聞之董生:『周道廢,孔子為魯司寇,諸侯害之,大夫壅之。孔子知時之不用,道之不行也,是非二百四十二年之中,以為天下儀表,貶諸侯,討大夫,以達王事而已矣。』子曰:『我欲載之空言,不如見之於行事之深切著明也。』《春秋》上明三王之道,下辨人事之經紀,別嫌疑,明是非,定猶與,善善惡惡,賢賢賤不肖,存亡國,繼絕世,補弊起廢,王道之大者也。《易》,著天地、陰陽、四時、五行,故長於變;《禮》,綱紀人倫,故長於行;《書》,記先王之事,故長於政;《詩》,記山川、溪谷、禽獸、草木、牝牡、雌雄,故長於風;《樂》,樂所以立,故長於和;《春秋》,辯是非,故長於治人。是故《禮》以節人,《樂》以發和,《書》以道事,《詩》以達意,《易》以道化,《春秋》以道義。撥亂世反之正,莫近於《春秋》。《春秋》文成數萬,其指數千。萬物之散聚皆在《春秋》。《春秋》之中,弒君三十六,亡國五十二,諸侯奔走不得保社稷者不可勝數。察其所以,皆失其本已。故《易》曰『差以豪氂,謬以千里』。故『臣弒君,子弒父,非一朝一夕之故,其漸久矣』。有國者不可以不知《春秋》,前有讒而不見,後有賊而不知。為人臣者不可以不知《春秋》,守經事而不知其宜,遭變事而不知其權。為人君父者而不通於《春秋》之義者,必蒙首惡之名。為人臣子不通於《春秋》之義者,必陷篡弒誅死之罪。其實皆為善為之,而不知其義,被之空言不敢辭。夫不通禮義之指,至於君不君,臣不臣,父不父,子不子。夫君不君則犯,臣不臣則誅,父不父則無道,子不子則不孝:此四行者,天下之大過也。以天下大過予之,受而不敢辭。故《春秋》者,禮義之大宗也。夫禮禁未然之前,法施已然之後;法之所為用者易見,而禮之所為禁者難知。」

壺遂が言った。「孔子の時代には、上には明君がおらず、下では任用されなかったので、『春秋』を作り、空文を垂れて礼義を断じ、一王の法に当てたのです。今、先生は上には明天子に遇い、下では職を守っておられ、万事は既に整い、すべてがそれぞれその宜しきを得ております。先生が論じられるのは、何を明らかにしようとされるのですか。」太史公が言った。「はいはい、いやいや、そうではありません。私は先人から聞きました。『伏羲ふっきは至って純厚で、『易』の八卦を作った。堯・舜の盛んなことは、『尚書』に載せられ、礼楽が作られた。湯・武の時代には、詩人がこれを歌った。『春秋』は善を採り悪を貶し、三代の徳を推し進め、周室を褒めたのであって、ただ諷刺しただけではない。』漢が興って以来、明天子に至り、符瑞を獲、封禅を行い、正朔を改め、服色を易え、穆清ぼくせいの命を受け、恩沢は極まりなく流れ、海外の異なる風俗の地でも、重ねて通訳して塞にまことし、来て献上し謁見を請う者は、数え切れないほどです。臣下の百官は、力を尽くして聖徳を称えても、なおその意を宣べ尽くすことはできません。かつて士が賢能であっても用いられないのは、国を持つ者の恥です。主上が明聖であっても、その徳が広く知られないのは、有司の過ちです。かつて私はその官を掌り、明聖の盛徳を載せずに廃し、功臣・賢大夫の業績を述べずに滅ぼし、先人の言葉をくずすならば、これより大きな罪はありません。私の言うところは故事を述べ、その世の伝承を整え斉えることであって、作ると言うのではありません。あなたがそれを『春秋』に比べるのは、誤りです。」

原文壺遂曰:「孔子之時,上無明君,下不得任用,故作《春秋》,垂空文以斷禮義,當一王之法。今夫子上遇明天子,下得守職,萬事既具,咸各序其宜,夫子所論,欲以何明?」太史公曰:「唯唯,否否,不然。余聞之先人曰:『虙戲至純厚,作《易》八卦。堯、舜之盛,《尚書》載之,禮樂作焉。湯、武之降,詩人歌之。《春秋》采善貶惡,推三代之德,褒周室,非獨刺譏而已也。』漢興已來,至明天子,獲符瑞,封禪,改正朔,易服色,受命於穆清,澤流罔極,海外殊俗,重譯款塞,請來獻見者,不可勝道。臣下百官,力誦聖德,猶不能宣盡其意。且士賢能矣,而不用,有國者恥也;主上明聖,德不布聞,有司之過也。且余掌其官,廢明聖盛德不載,滅功臣、賢大夫之業不述,墮先人所言,罪莫大焉。余所謂述故事,整齊其世傳,非所謂作也,而君比之《春秋》,謬矣。」

そこでその文章を論じ整えた。十年にして李陵の禍いに遭い、累紲るいせつに幽閉された。そこで喟然きぜんとして嘆いて言った。「これは私の罪だ。身を損ない用いられなくなった。」退いて深く考えて言った。「『詩』『書』が隠微で簡約なのは、その志の思いを遂げようとするためだ。」ついに陶唐以来を述べ、麟に至って止め、黄帝から始めた。

原文於是論次其文。十年而遭李陵之禍,幽於累紲。乃喟然而歎曰:「是余之罪夫!身虧不用矣。」退而深惟曰:「夫《詩》、《書》隱約者,欲遂其志之思也。」卒述陶唐以來,至於麟止,自黃帝始。

『五帝本紀』第一、『夏本紀』第二、『殷本紀』第三、『周本紀』第四、『秦本紀』第五、『始皇本紀』第六、『項羽本紀』第七、『高祖本紀』第八、『呂后本紀』第九、『孝文本紀』第十、『孝景本紀』第十一、『今上本紀』第十二。

原文《五帝本紀》第一,《夏本紀》第二,《殷本紀》第三,《周本紀》第四,《秦本紀》第五,《始皇本紀》第六,《項羽本紀》第七,《高祖本紀》第八,《呂後本紀》第九,《孝文本紀》第十,《孝景本紀》第十一,《今上本紀》第十二。

『禮書』第一、『樂書』第二、『律書』第三、『歷書』第四、『天官書』第五、『封禪書』第六、『河渠書』第七、『平准書』第八。

原文《禮書》第一,《樂書》第二,《律書》第三,《歷書》第四,《天官書》第五,《封禪書》第六,《河渠書》第七,《平准書》第八。

『伯夷列傳』が第一、『管晏列傳』が第二、『老子韓非列傳』が第三、『司馬穰苴列傳』が第四、『孫子吳起列傳』が第五、『伍子胥列傳』が第六、『仲尼弟子列傳』が第七、『商君列傳』が第八、『蘇秦列傳』が第九、『張儀列傳』が第十、『樗裡甘茂列傳』が第十一、『穰侯列傳』が第十二、『白起王翦列傳』が第十三、『孟子荀卿列傳』が第十四、『平原虞卿列傳』が第十五、『孟嘗君列傳』が第十六、『魏公子列傳』が第十七、『春申君列傳』が第十八、『范睢蔡澤列傳』が第十九、『樂毅列傳』が第二十、『廉頗藺相如列傳』が第二十一、『田單列傳』が第二十二、『魯仲連列傳』が第二十三、『屈原賈生列傳』が第二十四、『呂不韋列傳』が第二十五、『刺客列傳』が第二十六、『李斯列傳』が第二十七、『蒙恬列傳』が第二十八、『張耳陳餘列傳』が第二十九、『魏豹彭越列傳』が第三十、『黥布列傳』が第三十一、『淮陰侯韓信かんしん列傳』が第三十二、『韓王信盧綰列傳』が第三十三、『田儋列傳』が第三十四、『樊酈滕灌列傳』が第三十五、『張丞相倉列傳』が第三十六、『酈生陸賈列傳』が第三十七、『傅靳崩阜成侯列傳』が第三十八、『劉敬叔孫通しゅくそんとう列傳』が第三十九、『季布欒布列傳』が第四十、『爰盎朝錯列傳』が第四十一、『張釋之馮唐列傳』が第四十二、『萬石張叔列傳』が第四十三、『田叔列傳』が第四十四、『扁鵲倉公列傳』が第四十五、『吳王濞列傳』が第四十六、『魏其武安列傳』が第四十七、『韓長孺列傳』が第四十八、『李將軍列傳』が第四十九、『衛將軍驃騎列傳』が第五十、『平津主父列傳』が第五十一、『匈奴列傳』が第五十二、『南越列傳』が第五十三、『閩越列傳』が第五十四、『朝鮮列傳』が第五十五、『西南夷列傳』が第五十六、『司馬相如列傳』が第五十七、『淮南衡山列傳』が第五十八、『循吏列傳』が第五十九、『汲鄭列傳』が第六十、『儒林列傳』が第六十一、『酷吏列傳』が第六十二、『大宛列傳』が第六十三、『遊俠列傳』が第六十四、『佞幸列傳』が第六十五、『滑稽列傳』が第六十六、『日者列傳』が第六十七、『龜策列傳』が第六十八、『貨殖列傳』が第六十九。

原文《伯夷列傳》經一,《管晏列傳》第二,《老子韓非列傳》第三,《司與穰苴列傳》第四,《孫子吳起列傳》第五,《伍子胥列傳》第六,《仲尼弟子列傳》第七,《商君列傳》第八,《蘇秦列傳》第九,《張儀列傳》第十,《樗裡甘茂列傳》第十一,《穰侯列傳》第十二,《白起王翦列傳》第十三,《孟子荀卿列傳》第十四,《平原虞卿列傳》第十五,《孟嘗君列傳》第十六,《魏公子列傳》第十七,《春申君列傳》第十八,《范睢蔡澤列傳》第十九,《樂毅列傳》第二十,《廉頗藺相如列傳》第二十一,《田單列傳》第二十二,《魯仲連列傳》第二十三,《屈原賈生列傳》第二十四,《呂不韋列傳》第二十五,《刺客列傳》第二十六,《李斯列傳》第二十七,《蒙恬列傳》第二十八,《張耳陳餘列傳》第二十九,《魏豹彭越列傳》第三十,《黥布列傳》第三十一,《淮陰侯韓信列傳》第三十二,《韓王信盧綰列傳》第三十三,《田儋列傳》第三十四,《樊酈滕灌列傳》第三十五,《張丞相倉列傳》第三十六,《酈生陸賈列傳》第三十七,《傅靳崩阜成侯列傳》第三十八,《劉敬叔孫通列傳》第三十九,《季布欒布列傳》第四十,《爰盎朝錯列傳》第四十一,《張釋之馮唐列傳》第四十二,《萬石張叔列傳》第四十三,《田叔列傳》第四十四,《扁鵲倉公列傳》第四十五,《吳王濞列傳》第四十六,《魏其武安列傳》第四十七,《韓長孺列傳》第四十八,《李將軍列傳》第四十九,《衛將軍驃騎列傳》第五十,《平津主父列傳》第五十一,《匈奴列傳》第五十二,《南越列傳》第五十三,《閩越列傳》第五十四,《朝鮮列傳》第五十五,《西南夷列傳》第五十六,《司馬相如列傳》第五十七,《淮南衡山列傳》第五十八,《循吏列傳》第五十九,《汲鄭列傳》第六十,《儒林列傳》第六十一,《酷吏列傳》第六十二,《大宛列傳》第六十三,《遊俠列傳》第六十四,《佞幸列傳》第六十五,《滑稽列傳》第六十六,《日者列傳》第六十七,《龜策列傳》第六十八,《貨殖列傳》第六十九。

漢はただ五帝の末流を継ぎ、三代の絶えた業績を受け継いだ。周の道がすでに廃れ、秦は古文を廃し、『詩経』『書経』を焼き滅ぼしたため、明堂・石室・金櫃・玉版に収められた図書や典籍は散乱した。漢が興ると、蕭何しょうかは律令を整え、韓信は軍法を定め、張蒼ちょうそうは章程を作り、叔孫通は礼儀を定めた。すると文学は彬彬として次第に進み、『詩経』『書経』もあちこちで時折出土するようになった。曹参そうしん蓋公がいこうを推薦して黄老の学を説き、賈誼かぎ韓錯かんさくが申不害・韓非子の刑名の学を明らかにし、公孫弘こうそんこうが儒者として顕れるに及んで、百年の間に、天下の遺文や古事で網羅されないものはなくなった。太史公(司馬遷)は父子相継いでその職務を担い、言った。「ああ、私は先人がかつてこの職務を掌り、唐・虞の時代に顕れ、周代に至っても再びこれを司ったことを思う。ゆえに司馬氏は代々天官を主宰し、私に至るまで続いている。謹んでこれを心に留めよ!」と。天下に散逸した旧聞を網羅し、王者の事跡の興った根源を探り始め、その終わりを察し、盛んな様子を見て衰えを観察し、行われた事柄を論考して、三代を略述し、秦・漢を記録し、上は軒轅(黄帝)から記し、下は現在に至るまで、十二の本紀を著した。すでに大綱を定めたが、時代が同じでも世が異なり、年代の差が不明なため、十の表を作った。礼楽の損益、律暦の改易、兵権・山川・鬼神、天と人の関係、弊害を受け継ぎ変化を通じさせることについて、八つの書を作った。二十八宿が北辰を巡り、三十本の輻が一つの轂に集まるように、運行は無限で、これを補佐する股肱の臣がこれに配される。忠信をもって道を行い主上に奉じた者について、三十の世家を作った。義を守り、卓越した才覚を持ち、自ら時機を失わず、天下に功名を立てた者について、七十の列伝を作った。合わせて百三十篇、五十二万六千五百字で、『太史公書』とした。序文を略述し、遺漏を拾い欠落を補い、一家の言を成し、『六経』の異伝と調和させ、百家の雑説を整え、正本を名山に蔵し、副本を京師に置き、後世の聖人君子を待った。第七十は、司馬遷の自叙である。しかし十篇が欠けており、目録はあるが本文がない。

原文惟漢繼五帝末流,接三代絕業。周道既廢,秦撥去古文,焚滅《詩》、《書》,故明堂、石室、金鐀、玉版圖籍散亂。漢興,蕭何次律令,韓信申軍法,張蒼為章程,叔孫通定禮儀,則文學彬彬稍進,《詩》、《書》往往間出。自曹參薦蓋公言黃、老,而賈誼、韓錯明申、朝,公孫弘以儒顯,百年之間,天下遺文古事靡不畢集。太史公仍父子相繼籑其職,曰:「於戲!余維先人嘗掌斯事,顯於唐、虞;至於周,復典之。故司馬氏世主天宮,至於余乎,欽念哉!」網羅天下放失舊聞,王跡所興,原始察終,見盛觀衰,論考之行事,略三代,錄秦、漢,上記軒轅,下至於茲,著十二本紀;既科條之矣,並時異世,年差不明,作十表;禮樂損益,律歷改易,兵權、山川、鬼神,天人之際,承敝通變,作八書;二十八宿環北辰,三十輻共一轂,運行無窮,輔弼股肱之臣配焉,忠信行道以奉主上,作三十世家;扶義俶儻,不令己失時,立功名於天下,作七十列傳:凡百三十篇,五十二萬六千五百字,為《太史公書》。序略,以拾遺補闕,成一家言,協《六經》異傳,齊百家雜語,臧之名山,副在京師,以俟後聖君子。第七十,遷之自敘云爾。而十篇缺,有錄無書。

司馬遷は刑罰を受けた後、中書令となり、尊ばれ寵愛され職務を任された。旧友の益州刺史任安じんあんが司馬遷に手紙を送り、古代の賢臣の義理をもって責めた。司馬遷はこれに返答して言った。

原文遷既被刑之後,為中書令,尊寵任職。故人益州刺史任安予遷書,責以古賢臣之義。遷報之曰:

司馬遷が死んだ後、その書は次第に世に出た。宣帝の時、司馬遷の外孫である平通侯楊惲よううんがその書を祖述し、遂に広く発表した。王莽の時、司馬遷の子孫を探して封じ、史通子とした。

原文遷既死後,其書稍出。宣帝時,遷外孫平通侯楊惲祖述其書,遂宣佈焉。王莽時,求封遷後,為史通子。

原文

賛に曰く、古より書契の作る有りて史官有り、その載籍は博し。孔氏に至りてこれをせんし、上は唐堯に継ぎ、下は秦あやまわる。唐虞以前には遺文有りと雖も、その語は経せず、故に黄帝・顓頊の事を言うも未だ明らかにすべからず。及びて孔子、魯の史記に因りて《春秋》を作り、左丘明その本事を論輯して以てこれが伝と為し、又異同を籑して《国語》と為す。又《世本》有り、黄帝より以来春秋時に至るまでの帝王・公侯・卿大夫の祖世の出づる所を録す。春秋の後、七国並びに争い、秦諸侯を兼ね、《戦国策》有り。漢興りて秦を伐ち天下を定むるに、《楚漢春秋》有り。故に司馬遷、《左氏》《国語》に据り、《世本》《戦国策》を采り、《楚漢春秋》を述べ、その後事に接ぎ、大漢に訖わる。その秦漢を言うこと、詳かなり。経を采り伝をひろうに至りては、数家の事を分散し、甚だ多く疏略にして、或いは抵梧ていご有り。亦その渉猟する者広博にして、経伝を貫穿し、古今に馳騁し、上下数千載の間、斯れ以て勤めたり。又その是非聖人に頗る繆り、大道を論ずれば則ち先ず黄老にして後に六経し、遊侠を序すれば則ち処士を退けて姦雄を進め、貨殖を述べれば則ち勢利をあがめて賤貧をず、これそのへいうる所なり。然れども劉向・楊雄より自ら、群書を博極し、皆遷に良史の材有りと称し、その善く事理を序するに服し、弁にして華ならず、質にしていやしからず、その文直く、その事核かくにして、虚美せず、悪を隠さず、故にこれを実録と謂う。嗚呼、遷の博物洽聞を以てして、而も以て知を以て自ら全うする能わず、既に極刑に陷り、幽にして憤りを発す、書亦信なり。その以て自ら傷悼する所以の跡は、小雅巷伯の倫なり。夫れ唯だ大雅「既に明らかに且つ哲にして、能くその身を保つ」は、難きかな。

原文贊曰:自古書契之作而有史官,其載籍愽矣。至孔氏籑之,上繼唐堯,下訖秦繆。唐虞以前雖有遺文,其語不經,故言黃帝、顓頊之事未可明也。及孔子因魯史記而作《春秋》,而左丘明論輯其本事是以為之傳,又籑異同為《國語》。又有世本,錄黃帝以來至春秋時帝王公侯卿大夫祖世所出。春秋之後,七國並爭,秦兼諸侯,有《戰國策》。漢興伐秦定天下,有《楚漢春秋》。故司馬遷據《左氏》、《國語》,采《世本》、《戰國策》,述《楚漢春秋》,接其後事,訖于大漢。其言秦漢,詳矣。至於采經摭傳,分散數家之事,甚多疏略,或有抵梧。亦其涉獵者廣博,貫穿經傳,馳騁古今,上下數千載間,斯以勤矣。又其是非頗繆於聖人,論大道則先黃老而後六經,序遊俠則退處士而進姦雄,述貨殖則崇埶利而羞賤貧,此其所蔽也。然自劉向、楊雄博極羣書,皆稱遷有良史之材,服其善序事理,辨而不華,質而不俚,其文直,其事核,不虛美,不隱惡,故謂之實錄。烏呼!以遷之博物洽聞,而不能以知自全,旣陷極刑,幽而發憤,書亦信矣。迹其所以自傷悼,小雅巷伯之倫。夫唯大雅「旣明且哲,能保其身」,難矣哉!