漢書

張騫李広利伝 第三十一

張騫

原文張騫

張騫は漢中の人である。建元年間に郎となった。その時、匈奴に降伏した者が言うには、匈奴が月氏の王を破り、その頭を飲器にしたという。月氏は逃げ去って匈奴を怨みながらも、共に匈奴を撃つ者はなかった。漢はちょうど胡を滅ぼそうとしていたので、この話を聞き、使者を通じさせようとしたが、道は必ず匈奴の中を通り過ぎなければならなかった。そこで使者として行ける者を募った。張騫は郎の身分で応募し、月氏に使いし、堂邑氏の奴隷である甘父と共に隴西から出発した。匈奴を直行して通ったところ、匈奴に捕らえられ、単于のもとに伝送された。単于は言った。「月氏は我が北にいるのに、漢はどうして使者を遣わすことができるのか。我が越に使者を遣わそうとすれば、漢は我が言うことを聞くであろうか?」張騫を十数年留め置き、妻を与え、子をもうけたが、張騫は漢の節を保持して失わなかった。

原文張騫,漢中人也,〈師古曰:「陳壽《益部耆舊傳》云騫漢中成固人也。」〉建元中爲郎。時匈奴降者言匈奴破月氏王,〈師古曰:「月氏,西域胡國也。氏音支。」〉以其頭爲飲器,〈韋昭曰:「飲器,椑榼也。」晉灼曰:「飲器,虎子屬也,或曰飲酒之器也。」師古曰:「〈匈奴傳〉云『以所破月氏王頭共飲血盟』,然則飲酒之器是也。韋云椑榼,晉云獸子,皆非也。椑榼,即今之偏榼,所以盛酒耳,非用飲者也。獸子褻器,所以溲便者也。椑音鼙。」〉月氏遁而怨匈奴,無與共擊之。〈師古曰:「無人援助也。」〉漢方欲事滅胡,聞此言,欲通使,道必更匈奴中,〈師古曰:「更,過也,音工衡反。」〉迺募能使者。騫以郎應募,使月氏,與堂邑氏奴甘父〈服虔曰:「堂邑,姓也,漢人,其奴名甘父。」師古曰:「堂邑氏之奴,本胡人,名甘父。下云堂邑父者,蓋取主之姓以爲氏,而單稱其名曰父。」〉俱出隴西。徑匈奴,〈師古曰:「道由匈奴過。」〉匈奴得之,傳詣單于。單于曰:「月氏在吾北,漢何以得往使?吾欲使越,漢肯聽我乎?」留騫十餘歲,予妻,有子,然騫持漢節不失。

匈奴の西に留まっていた時、張騫は機会を見て配下の者たちと共に月氏を目指して逃亡し、西へ数十日間走って到着した。大宛は漢が財物に富むと聞き、通じたいと思いながらもできずにいたので、張騫を見て喜び、どこへ行こうとしているのかと尋ねた。張騫は言った。「漢のために月氏に使いし、匈奴に道を閉ざされてしまい、今逃亡してきました。どうか王様が人を遣わして道案内をし、私を送ってください。もし本当に(漢に)到着できれば、漢に帰り着いた後、漢が王様に贈り与える財物は言い尽くせないほどでしょう。」大宛はその言葉を真実と思い、張騫を送り出し、道案内と通訳を手配し、康居に至らせた。康居は伝送して大月氏に届けた。大月氏の王はすでに胡(匈奴)に殺されており、その夫人を王として立てていた。(大月氏は)すでに大夏を臣従させてその君主となり、土地は肥沃で豊かであり、賊寇も少なく、心は安楽にあり、また自ら漢から遠く離れていると考えて、まったく胡に報復する心はなかった。張騫は月氏から大夏に至ったが、結局月氏の意図を把握することができなかった。

原文居匈奴西,騫因與其屬亡鄉月氏,〈師古曰:「屬謂同使之官屬。鄉讀曰嚮。」〉西走數十日〈師古曰:「走,趨也。不指知其道里多少,故以日數言之。走音奏。一曰走謂奔走也,讀如本字。」〉至。大宛聞漢之饒財,欲通不得,見騫,喜,問欲何之。騫曰:「爲漢使月氏而爲匈奴所閉道,今亡,唯王使人道送我。〈師古曰:「道讀曰導。」〉誠得至,反漢,漢之賂遺王財物不可勝言。」大宛以爲然,遣騫,爲發道譯,抵康居。〈師古曰:「抵,至也。道讀曰導。」〉康居傳致大月氏。大月氏王已爲胡所殺,立其夫人爲王。旣臣大夏而君之,〈師古曰:「以大夏爲臣,爲之作君也。」〉地肥饒,少寇,志安樂,又自以遠遠漢,殊無報胡之心。〈師古曰:「下遠音于萬反。」〉騫從月氏至大夏,竟不能得月氏要領。〈李竒曰;「要領,要契也。」師古曰:「李說非也。要,衣要也。領,衣領也。凡持衣者則執要與領。言騫不能得月氏意趣,無以持歸於漢,故以要領爲喻。要音一遙反。」〉

一年余り留まった後、帰還し、南山に沿って進み、羌の中を通って帰ろうとしたが、また匈奴に捕らえられた。一年余り留め置かれた後、単于が死に、国内が乱れたので、張騫は胡人の妻と堂邑父と共に逃亡して漢に帰った。張騫は太中大夫に任じられ、堂邑父は奉使君となった。

原文留歲餘,還,並南山,欲從羗中歸,〈師古曰:「並音步浪反。」〉復爲匈奴所得。留歲餘,單于死,國內亂,騫與胡妻及堂邑父俱亡歸漢。拜騫太中大夫,堂邑父爲奉使君。

張騫は人となりが強靭で、度量が広く、人を信じさせたので、蛮夷に愛された。堂邑父は胡人で、弓射に優れ、困窮して切羽詰まった時は禽獣を射て食料を供給した。初め、張騫が出発した時は百余人いたが、十三年経って、ただ二人だけが帰還できた。

原文騫爲人彊力,寬大信人,〈師古曰:「彊力,言堅忍於事。」〉蠻夷愛之。堂邑父胡人,善射,窮急射禽獸給食。〈師古曰:「給,供也。」〉初,騫行時百餘人,去十三歲,唯二人得還。

張騫自身が至った所は、大宛、大月氏、大夏、康居であり、またその傍らの大国五、六か国のことを伝聞し、詳しく天子にその地形と所有する物産について述べた。その話はすべて『西域伝』にある。

原文騫身所至者,大宛、大月氏、大夏、康居,而傳聞其旁大國五六,具爲天子言其地形所有,〈師古曰:「土地之形及所生之物也。」〉語皆在〈西域傳〉。

張騫が言った。「臣が大夏にいた時、邛竹の杖と蜀の布を見ました。どうしてこれを手に入れたのかと尋ねると、大夏の国人は言いました。『我々の商人が身毒国へ行って買ってきたのです』と。身毒国は大夏の東南、およそ数千里のところにあります。その習俗は定住しており、大夏と同じで、土地は低く湿気が多く暑い。その民は象に乗って戦います。その国は大きな川に臨んでいます」。張騫が推測するに、大夏は漢から一万二千里離れており、西南に位置している。今、身毒はさらに大夏の東南数千里にあり、蜀の物産があるということは、蜀から遠くないということです。今、大夏へ行くのに羌の中を通るのは危険で、羌人がそれを嫌がります。少し北へ行けば、匈奴に捕らえられてしまいます。蜀から行くのが適当で、直行でき、また賊もいません」。天子は大宛や大夏、安息などが皆大国で、珍しい物が多く、定住しており、かなり中国と同じ風俗を持ち、兵力は弱く、漢の財物を貴んでいることを聞いた。その北には大月氏や康居などがあり、兵力は強く、賄賂を贈って利益を施せば朝貢させることができます。もし誠に彼らを道義によって従属させることができれば、土地を万里に広げ、幾重もの通訳を重ね、異なる風俗の国々を招き寄せ、威徳を四海に遍く行き渡らせることができます。天子は喜び、張騫の言葉を正しいと思った。そこで蜀の犍為郡に命じて間隙を狙う使者を派遣させ、四つの道から同時に出発させた。駹から出る者、莋から出る者、徙・邛から出る者、僰から出る者で、それぞれ一二千里進んだ。その北方では氐や莋に阻まれ、南方では巂や昆明に阻まれた。昆明の類には君主がおらず、略奪を得意とし、すぐに漢の使者を殺害し略奪したので、結局通じることはできなかった。しかし、その西千余里のところに象に乗る国があり、滇越という名で、蜀の商人が密かに物資を運び出して時々そこへ行く者がいると聞いた。そこで漢は大夏への道を求めて、初めて滇国と通じた。初め、漢は西南夷と通じようとしたが、費用が多く、中止した。張騫が大夏へ通じることができると言ったので、再び西南夷への経略に取り組んだ。

原文騫曰:「臣在大夏時,見邛竹杖、蜀布,〈臣瓚曰:「邛,山名。生此竹,高節,可作杖。」服虔曰:「布,細布也。」師古曰:「邛竹杖,人皆識之,無假多釋。而蘇林乃言節間合而體離,誤後學矣。」〉問安得此,大夏國人曰:『吾賈人往市之身毒國。〈鄧展曰:「毒音篤。」李竒曰:「一名天篤,則浮屠胡是也。」師古曰:「即敬佛道者。」〉身毒國在大夏東南可數千里。其俗土著,〈師古曰:「土著者,謂有城郭常居,不隨畜牧移徙也。著音直略反。其下亦同。」〉與大夏同,同卑溼暑熱。其民乘象以戰。〈師古曰:「象,大獸,垂鼻長牙。」〉其國臨大水焉。』以騫度之,〈師古曰:「度,計也。」〉大夏去漢萬二千里,居西南。今身毒又居大夏東南數千里,有蜀物,此其去蜀不遠矣。今使大夏,從羗中,險,羗人惡之;少北,則爲匈奴所得;從蜀,宜徑,又無寇。」〈師古曰:「徑,直也。宜猶當也。從蜀向大夏,其道當直。」〉天子旣聞大宛及大夏、安息之屬皆大國,多竒物,土著,頗與中國同俗,而兵弱,貴漢財物;其北則大月氏、康居之屬,兵彊,可以賂遺設利朝也。〈師古曰:「設,施也。施之以利,誘令入朝。」〉誠得而以義屬之,〈師古曰:「謂不以兵革。」〉則廣地萬里,重九譯,致殊俗,威德徧於四海。天子欣欣以騫言爲然。迺令因蜀犍爲發閒使,四道並出:〈師古曰:「間使者,求間隙而行。」〉出駹,出莋,出徙、邛,出僰,〈師古曰:「皆夷種名。駹音尨。莋音材各反。徙音斯。僰音蒲北反。」〉皆各一二千里。其北方閉氐、莋,〈服虔曰:「漢使見閉於夷也。」師古曰:「氐與莋二種也。」〉南方閉巂、昆明。〈師古曰:「巂、昆明,亦皆夷種名也。巂音先橤反。」〉昆明之屬無君長,善寇盜,輒殺略漢使,終莫得通。然聞其西可千餘里,有乘象國,名滇越,〈服虔曰:「滇音顛。滇馬出其國。」〉而蜀賈間出物者或至焉,〈師古曰:「間出物,謂私往市者。」〉於是漢以求大夏道始通滇國。初,漢欲通西南夷,費多,罷之。及騫言可以通大夏,迺復事西南夷。〈師古曰:「事謂經略通之,專以爲事也。」〉

張騫は校尉として大将軍に従って匈奴を撃ち、水や草のある場所を知っていたので、軍は不足することがなく、そこで張騫は博望侯に封じられた。この年は元朔六年である。二年後、張騫は衛尉となり、李広と共に右北平から出撃して匈奴を撃った。匈奴が李広将軍を包囲し、軍の損失が多かったが、張騫は期日に遅れて斬刑に当たるところを、財産を納めて庶人となった。この年、驃騎将軍が匈奴の西辺を破り、数万人を殺し、祁連山に至った。その秋、渾邪王が衆を率いて漢に降り、金城・河西から南山に沿って塩沢に至るまで、匈奴の姿はなくなった。匈奴の斥候が時々来ることもあったが、稀になった。二年後、漢は単于を漠北に撃ち走らせた。

原文騫以校尉從大將軍擊匈奴,知水草處,軍得以不乏,迺封騫爲博望侯。〈師古曰:「取其能廣博瞻望。」〉是歲元朔六年也。後二年,騫爲衞尉,與李廣俱出右北平擊匈奴。匈奴圍李將軍,軍失亡多,而騫後期當斬,贖爲庶人。是歲驃騎將軍破匈奴西邊,殺數萬人,至祁連山。其秋,渾邪王率衆降漢,而金城、河西並南山至鹽澤,空無匈奴。〈師古曰:「並音步浪反。」〉匈奴時有候者到,而希矣。後二年,漢擊走單于於幕北。

天子はたびたび張騫に大夏などのことを尋ねた。張騫はすでに侯爵を失っていたので、機会を見て言った。「臣が匈奴にいた時、烏孫王が昆莫と号していると聞きました。昆莫の父の難兜靡はもともと大月氏と共に祁連・焞煌の間にいて、小国でした。大月氏が難兜靡を攻め殺し、その土地を奪ったので、人民は逃げて匈奴へ行きました。子の昆莫は生まれたばかりで、傅父の布就翎侯が抱いて逃げ、草の中に置き去りにし、食料を求めに行きました。戻ってみると、狼が乳を飲ませており、また烏が肉をくわえてその傍らを飛んでいたので、神の仕業だと思い、遂に連れ帰って匈奴に届けました。単于は彼を愛し養育しました。成長すると、その父の民衆を昆莫に与え、兵を率いさせたところ、たびたび功績を立てました。その時、月氏はすでに匈奴に破られ、西へ向かって塞王を撃ちました。塞王は南へ逃げて遠くへ移り、月氏がその地に居座りました。昆莫はすでに健やかに成長し、自ら単于に父の仇を討つことを請い、遂に西進して大月氏を撃ち破りました。大月氏は再び西へ逃げ、大夏の地へ移りました。昆莫はその民衆を略奪し、そのまま留まって住み着き、兵力は次第に強くなり、ちょうど単于が死んだので、再び匈奴に朝貢して仕えることを肯んじませんでした。匈奴は兵を遣わして撃ったが勝てず、ますます神聖なものと思って遠ざけました。今、単于は新たに漢に苦しめられ、昆莫の地は空いています。蛮夷は故地を恋しがり、また漢の物産を貪っています。誠にこの時に厚く烏孫に賄賂を贈り、東の故地に住むよう招き、漢が公主を夫人として遣わし、兄弟の契りを結べば、その情勢から彼らは聞き入れるでしょう。そうすれば、匈奴の右腕を断つことになります。烏孫と連合すれば、その西の大夏などの国々も皆招き寄せて外臣とすることができます」。天子はこれを正しいと思い、張騫を中郎将に任命し、三百人を率いさせ、馬はそれぞれ二匹、牛羊は万単位で数え、金・貨幣・絹織物など数千万の価値のものを携えさせ、多くの副使に節を持たせ、道中で都合の良い時に傍らの国々へ派遣できるようにした。張騫が烏孫に到着すると、賜物を贈り、天子の意図を諭したが、彼らの決断を得ることはできなかった。詳細は『西域伝』にある。張騫はすぐに副使を分遣して大宛・康居・月氏・大夏へ派遣した。烏孫は道案内と通訳を送って張騫を見送り、烏孫の使者数十人と馬数十匹を付き添わせて返礼の挨拶をさせ、その機会に漢を窺わせ、その広大さを知らせた。

原文天子數問騫大夏之屬。騫旣失侯,因曰:「臣居匈奴中,聞烏孫王號昆莫。昆莫父難兜靡本與大月氏俱在祁連、焞煌閒,小國也。〈師古曰:「祁連山以東,焞煌以西。」〉大月氏攻殺難兜靡,奪其地,人民亡走匈奴。子昆莫新生,傅父布就翎侯抱亡置草中,〈服虔曰:「傅父,如傅母也。」李竒曰:「布就,字也。翎侯,烏孫官名也。爲昆莫作傅父也。」師古曰:「翎侯,烏孫大臣官號,其數非一,亦猶漢之將軍耳。而布就者,又翎侯之中別號,猶右將軍、左將軍耳,非其人之字。翎與翕同。」〉爲求食,還,見狼乳之,〈師古曰:「以乳飲之。」〉又烏銜肉翔其旁,以爲神,遂持歸匈奴,單于愛養之。及壯,以其父民衆與昆莫,使將兵,數有功。時,月氏已爲匈奴所破,西擊塞王。〈師古曰:「塞音先得反,西域國名,即佛經所謂釋種者。塞、釋聲相近,本一姓耳。」〉塞王南走遠徙,月氏居其地。昆莫旣健,自請單于報父怨,遂西攻破大月氏。大月氏復西走,徙大夏地。昆莫略其衆,因留居,兵稍彊,會單于死,不肯復朝事匈奴。匈奴遣兵擊之,不勝,益以爲神而遠之。〈師古曰:「遠,離也,音于萬反。」〉今單于新困於漢,而昆莫地空。蠻夷戀故地,又貪漢物,誠以此時厚賂烏孫,招以東居故地,漢遣公主爲夫人,結昆弟,其勢宜聽,〈師古曰:「言事事聽從於漢。」〉則是斷匈奴右臂也。旣連烏孫,自其西大夏之屬皆可招來而爲外臣。」天子以爲然,拜騫爲中郎將,將三百人,馬各二匹,牛羊以萬數,齎金幣帛直數千鉅萬,多持節副使,〈師古曰:「爲騫之副,而各令持節。」〉道可便遣之旁國。騫旣至烏孫,致賜諭指,〈師古曰:「以天子意指曉告之。」〉未能得其決。語在〈西域傳〉。騫即分遣副使使大宛、康居、月氏、大夏。烏孫發道譯送騫,〈師古曰:「道讀曰導。」〉與烏孫使數十人,馬數十匹,報謝,〈師古曰:「與騫相隨而來,報謝天子。」〉因令窺漢,知其廣大。

張騫が帰還すると、大行に任命された。一年余りして、張騫は死去した。その後さらに一年余りして、彼が派遣した副使で大夏などの国と通じた者たちは皆、それぞれの国の人々を連れてやって来た。これによって西北の諸国が初めて漢と通じるようになった。しかし張騫が西域への道を開拓したので、その後使者として赴く者たちは皆、博望侯(張騫)と称し、外国に対する信用の証としたため、外国はこれによって彼らを信じるようになった。その後、烏孫はついに漢と婚姻関係を結んだ。

原文騫還,拜爲大行。歲餘,騫卒。後歲餘,其所遣副使通大夏之屬者皆頗與其人俱來,〈晉灼曰:「其國人。」〉於是西北國始通於漢矣。然騫鑿空,〈蘇林曰:「鑿,開也。空,通也。騫始開通西域道也。」師古曰:「空,孔也。猶言始鑿其孔穴也。故此下言『當空道』,而〈西域傳〉謂『孔道』也。」〉諸後使往者皆稱博望侯,以爲質於外國,〈李竒曰:「質,信也。」〉外國由是信之。其後,烏孫竟與漢結婚。

初め、天子(武帝)が『易経』を開いて占ったところ、「神馬は西北から来るであろう」と出た。烏孫の馬が優れているのを得て、名付けて「天馬」とした。そして大宛の汗血馬を得ると、さらに雄壮であったので、烏孫の馬を「西極馬」と改称し、大宛の馬を「天馬」と呼んだ。そして漢は初めて令居より西に城塞を築き、酒泉郡を初めて設置して、西北の諸国と通じるようにした。そこで使者を発して安息・奄蔡・犛靬・條支・身毒国に至らせた。そして天子は大宛の馬を好んだので、使者が道で相望むほどで、一団の多いものは数百人、少ないものでも百余人、携行する物資は、博望侯(張騫)の時を大いに模倣した。その後は次第に慣れて人数が少なくなった。漢は一年のうちに、使者の多い時は十余回、少ない時でも五六回派遣し、遠い所へは八九年、近い所へは数年で帰還した。

原文初,天子發《書》《易》,〈鄧展曰:「發《易》書以卜。」〉曰「神馬當從西北來」。得烏孫馬好,名曰「天馬」。及得宛汗血馬,益壯,更名烏孫馬曰「西極馬」,宛馬曰「天馬」云。而漢始築令居以西,〈臣瓚曰:「令居,縣名也,屬金城。築塞西至酒泉也。」師古曰:「令音零。」〉初置酒泉郡,以通西北國。因發使抵安息、奄蔡、犛靬、條支、身毒國。〈李竒曰:「靬音㓺。」服虔曰:「犛靬,張掖縣名也。」師古曰:「抵,至也。自安息以下五國皆西域胡也。犛靬即大秦國也。張掖驪靬縣蓋取此國爲名耳。驪犛聲相近。靬讀與軒同。李竒音是也,服說非也。」〉而天子好宛馬,使者相望於道,一輩大者數百,少者百餘人,所齎操,大放博望侯時。〈師古曰:「操,持也。所齎持,謂節及幣也。放,依也,音甫往反。」〉其後益習而衰少焉。〈師古曰:「以其串習,故不多發人。」〉漢率一歲中使者多者十餘,少者五六輩,遠者八九歲,近者數歲而反。〈師古曰:「道遠則還遟,近則來疾。」〉

この時、漢はすでに南越を滅ぼし、蜀が通じていた西南夷は皆震え上がり、漢の官吏を置くことを請願した。そこで牂柯・越巂・益州・沈黎・文山郡を設置し、領土を接続させて以前から大夏に通じようとした。そこで毎年十余回の使者を派遣し、これらの新設郡から出発させたが、昆明国に阻まれ、殺害され、幣物を奪われた。そこで漢は兵を発して昆明を撃ち、数万の首級を斬った。その後も再び使者を派遣したが、ついに通じることはできなかった。この話は『西南夷伝』にある。

原文是時,漢旣滅越,蜀所通西南夷皆震,請吏。置牂柯、越巂、益州、沈黎、文山郡,欲地接以前通大夏。〈李竒曰:「欲地界相接至大夏也。」〉迺遣使歲十餘輩,出此初郡,〈師古曰:「文山以上初置者。」〉復閉昆明,〈如淳曰:「爲昆明所閉。」〉爲所殺,奪幣物。於是漢發兵擊昆明,斬首數萬。後復遣使,竟不得通。語在〈西南夷傳〉。

張騫が外国への道を開いて尊貴な地位を得て以来、その配下の官吏や兵士たちは競って上書し、外国の珍奇な事物や利害を述べて、使者となることを求めた。天子は、その地が極めて遠く、人が好んで行く所ではないと考え、彼らの言葉を聞き入れ、節を与え、官吏や民衆を募集するに当たり、出身地を問わず、必要な人員を整えて派遣し、その道を広げた。帰還する者の中には、幣物を侵奪したり、天子の意図に背いたりする者が絶えなかったが、天子は彼らがそのことに慣れていると考え、すぐに取り調べて重罪に処し、功を立てて罪を贖わせるよう激励し、再び使者となることを求めた。使者となる口実は尽きることがなく、彼らは軽々しく法を犯した。その配下の官吏や兵卒もまた、しきりに外国の所有物を誇張して推奨し、大げさに言う者は正使に、控えめに言う者は副使にされたので、でたらめを言い品行の悪い者たちは皆、競ってこれを真似た。使者たちは皆、官物を私物のように扱い、安く買い付けて私利を図ろうとした。外国もまた、漢の使者がそれぞれ言うことに軽重があるのを嫌い、漢の兵は遠くて来られないと計算して、食物を禁じ、漢の使者を苦しめた。漢の使者は物資が乏しくなり、非難し合って怨み、ついには互いに攻撃し合うに至った。楼蘭・姑師のような小国は、西域への孔道に当たり、漢の使者王恢らを攻撃し略奪することが特に甚だしかった。そして匈奴の遊撃隊もまた、しばしば遮断して彼らを襲撃した。使者たちは競って外国の利害を言い立て、皆城邑があり、兵力が弱く容易に撃破できると述べた。そこで天子は従票侯の破奴(趙破奴)に命じ、属国の騎兵と郡兵数万を率いて胡を撃たせると、胡は皆去った。翌年、姑師を撃破し、楼蘭王を捕虜とした。酒泉から亭や障塞を列ねて玉門関まで築いた。

原文自騫開外國道以尊貴,其吏士爭上書言外國竒怪利害,求使。天子爲其絕遠,非人所樂,聽其言,〈師古曰:「凡人皆不樂去,故有自請爲使者,即聽而遣之。」〉予節,募吏民無問所從來,〈師古曰:「不爲限禁遠近,雖家人私隷並許應募。」〉爲具備人衆遣之,以廣其道。來還不能無侵盜幣物,及使失指,〈師古曰:「乖天子指意。」〉天子爲其習之,輒覆按致重罪,〈師古曰:「言其串習,不以爲難,必當更求充使也。」〉以激怒令贖,〈師古曰:「令立功以贖罪。」〉復求使。使端無窮,而輕犯法。其吏卒亦輒復盛推外國所有,言大者予節,言小者爲副,故妄言無行之徒皆爭相效。其使皆私縣官齎物,〈師古曰:「言所齎官物,竊自用之,同於私有。」〉欲賤市以私其利。〈師古曰:「所市之物,得利多者,不盡入官也。」〉外國亦厭漢使人人有言輕重,〈服虔曰:「漢使言於外國,人人輕重不實。」〉度漢兵遠,不能至,〈師古曰:「度,計也。」〉而禁其食物,以苦漢使。〈師古曰:「令其困苦也。」〉漢使乏絕,責怨,至相攻擊。樓蘭、姑師小國,當空道,〈師古曰:「空即孔也。」〉攻劫漢使王恢等尤甚。而匈奴竒兵又時時遮擊之。使者爭言外國利害,〈師古曰:「言服之則利,不討則爲害。」〉皆有城邑,兵弱易擊。於是天子遣從票侯破奴〈師古曰:「趙破奴。」〉將屬國騎及郡兵數萬以擊胡,胡皆去。明年,擊破姑師,虜樓蘭王。酒泉列亭鄣至玉門矣。〈韋昭曰:「玉門關在龍勒界。」〉

そして大宛などの国々は使者を発し、漢の使者に随行して来朝し、漢の広大さを見物し、大鳥の卵と犛靬の幻術師を漢に献上した。天子は大いに喜んだ。そして漢の使者は黄河の源流を探求し、その山に玉石が多いのを採って持ち帰った。天子は古い図書を調べ、黄河の源流が出る山を「崑崙」と名付けた。

原文而大宛諸國發使隨漢使來,觀漢廣大,以大鳥卵及犛靬眩人獻於漢,〈應劭曰:「卵大如一二石𦉥也。眩,相詐惑也。鄧太后時,西夷檀國來朝賀,詔令爲之。而諫大夫陳禪以爲夷狄僞道不可施行。後數日,尚書陳忠案漢舊書,乃知世宗時犛靬獻見幻人,天子大悅,與俱巡狩,乃知古有此事。」師古曰:「鳥卵如汲水之𦉥耳,無一二石也。應說失之。眩讀與幻同。即今吞刀吐火,植瓜種樹,屠人截馬之術皆是也。本從西域來。𦉥音瓮。」〉天子大說。〈師古曰:「說讀曰悅。」〉而漢使窮河源,其山多玉石,采來,〈臣瓚曰:「漢使采取持來至漢。」〉天子案古圖書,名河所出山曰「昆侖」云。

この時、上(武帝)はたびたび海上を巡狩しており、外国の客人を皆引き連れ、大都で人が多い所では立ち寄り、財帛をばらまいて賞賜し、手厚く物資を豊富に供給して、漢の豊かさを見せつけた。大規模な角抵(格闘技)を行い、奇技や様々な怪物を披露し、多くの見物人を集め、賞賜を行い、酒池肉林を設け、外国の客人に名だたる倉庫や府庫の蓄積を隅々まで見学させ、漢の広大さを示し、驚かせようとした。そして幻術師の技量を加え、角抵や奇技は年々変化を増し、ますます盛んになったのは、ここから始まった。そして外国の使者は代わる代わる来たり去った。大宛より西の国々は皆、遠方にあることを恃みとして、なお驕慢で勝手であり、礼によって屈服させ、繋ぎ止めて使役することはできなかった。

原文是時,上方數巡狩海上,迺悉從外國客,大都多人則過之,散財帛賞賜,厚具饒給之,以覽視漢富厚焉。〈師古曰:「視讀曰示。言示之令其觀覽。」〉大角氐,〈師古曰:「氐音丁禮反。解在武紀。」〉出竒戲諸怪物,多聚觀者,〈師古曰:「聚都邑人,令觀看,以誇示之。觀音工喚反。」〉行賞賜,酒池肉林,令外國客徧觀名倉庫府臧之積,欲以見漢廣大,傾駭之。〈師古曰:「見,顯示。」〉及加其眩者之工,而角氐竒戲歲增變,其益興,自此始。而外國使更來更去。〈師古曰:「遞互來去,前後不絕。更音工衡反。」〉大宛以西皆自恃遠,尚驕恣,未可詘以禮羈縻而使也。

漢の使者が往来することすでに多く、その少従は率いて天子に進熟した。〈孟康が言うには、「少従とは、計略に及ばない者である。あるいは言うには、少とは、少年で従行する微賤の者である。進熟とは、美辞を成熱のように進めることである。」晉灼が言うには、「多く虚美の言や必ず成し遂げる計略を天子に進めて、率いて果たさないのである。」師古が言うには、「漢の時に使者に随行して外国に出る者を少従と言い、総じてその少年で使者に従うことを言う。従は音、材用の反。事は班固が弟の仲升に与えた書に見える。進熟とは、ただ空しく成熱の言を進めることである。」〉大宛に善馬が貳師城にあると言い、隠して漢の使者に見せようとしなかった。天子はすでに宛の馬を好み、これを聞いて甘心し、〈師古が言うには、「志に美悅を懐き、専らこれを求めることに事とする。」〉壮士の車令らに千金と金の馬を持たせて宛王に貳師城の善馬を請わせた。宛国は漢の物に富み、〈師古が言うには、「平素から漢地の財物を持っているので、金馬の幣を貪らないのである。」〉互いに謀って言った。「漢は我々から遠く、しかも塩水の中ではしばしば敗れることがあり、〈服虔が言うには、「水の名で、道は水中を行く。」師古が言うには、「砂礫の中に草木が生えず、水はまた鹹苦で、すなわち今の敦煌西北の悪礫である。数有敗とは、毎に自ら死亡することを言う。」〉その北に出れば胡の寇があり、その南に出れば水草に乏しく、またかつて往々にして邑が絶え、〈師古が言うには、「近道のところに城郭の居がないことを言う。」〉食に乏しい者が多い。漢の使者は数百人を輩として来るが、常に食に乏しく、死者が半数を超える。これでどうして大軍を致すことができようか。かつ貳師の馬は、宛の宝馬である。」遂に漢の使者に与えようとしなかった。漢の使者は怒り、妄言し、金の馬を椎き破って去った。〈如淳が言うには、「罵詈することである。」師古が言うには、「金馬を椎き破ることである。椎は音、直追の反、その字は木に従う。」〉宛の中の貴人は怒って言った。〈師古が言うには、「中貴人とは、中臣の貴い者である。」〉「漢の使者は我々を軽んじること甚だしい!」漢の使者を去らせ、その東辺の郁成王に遮って攻撃させ、漢の使者を殺し、その財物を取らせた。天子は大いに怒った。かつて宛に使した姚定漢らが言うには、「宛の兵は弱く、誠に兵をもってせば三千人を超えず、強弩で射れば、すなわち宛を破ることができます。」天子はかつて浞野侯に楼蘭を攻めさせ、七百騎で先に至り、その王を虜にしたことを思い、定漢らの言を然りとし、そして寵姫の李氏を侯にしようと欲し、〈師古が言うには、「その兄弟を封じようと欲するのである。」〉すなわち李広利を将軍として、宛を伐たせた。

原文漢使往旣多,其少從率進孰於天子,〈孟康曰:「少從,不如計也。或曰,少者,少年從行之微者也。進孰,美語如成孰也。」晉灼曰:「多進虛美之言必成之計於天子,而率不果也。」師古曰:「漢時謂隨使而出外國者爲少從,緫言其少年而從使也。從音材用反。事見班固與弟仲升書。進孰者,但空進成孰之言。」〉言大宛有善馬在貳師城,匿不肯示漢使。天子旣好宛馬,聞之甘心,〈師古曰:「志懷美悅,專事求之。」〉使壯士車令等持千金及金馬以請宛王貳師城善馬。宛國饒漢物,〈師古曰:「素有漢地財物,故不貪金馬之幣。」〉相與謀曰:「漢去我遠,而鹽水中數有敗,〈服虔曰:「水名,道從水中行。」師古曰:「沙磧之中不生草木,水又鹹苦,即今敦煌西北惡磧者也。數有敗,言每自死亡也。」〉出其北有胡寇,出其南乏水草,又且往往而絕邑,〈師古曰:「言近道之處無城郭之居也。」〉乏食者多。漢使數百人爲輩來,常乏食,死者過半,是安能致大軍乎?且貳師馬,宛寶馬也。」遂不肯予漢使。漢使怒,妄言,椎金馬而去。〈如淳曰:「罵詈也。」師古曰:「椎破金馬也。椎音直追反,其字從木。」〉宛中貴人怒曰:〈師古曰:「中貴人,中臣之貴者。」〉「漢使至輕我!」遣漢使去,令其東邊郁成王遮攻,殺漢使,取其財物。天子大怒。諸甞使宛姚定漢等言:「宛兵弱,誠以兵不過三千人,強弩射之,即破宛矣。」天子以甞使浞野侯攻樓蘭,以七百騎先至,虜其王,以定漢等言爲然,而欲侯寵姬李氏,〈師古曰:「欲封其兄弟。」〉迺以李廣利爲將軍,伐宛。

張騫の孫の猛

原文騫孫 猛

張騫の孫の猛は、字を子游といい、俊才があり、元帝の時に光禄大夫となり、匈奴に使いし、給事中となったが、石顕に譖られ、自殺した。

原文騫孫猛,字子游,有俊才,元帝時爲光祿大夫,使匈奴,給事中,爲石顯所譖,自殺。

李広利

原文李廣利

李広利は、女弟の李夫人が上に寵愛され、昌邑哀王を産んだ。太初元年、広利を貳師将軍とし、属国の六千騎と郡国の悪少年数万人を発して往かせ、〈師古が言うには、「悪少年とは行義なき者を言う。」〉期して貳師城に至って善馬を取らせようとしたので、故に「貳師将軍」と号した。故浩侯の王恢が軍を導いた。すでに西して塩水を過ぎると、当道の小国は各々城を堅く守り、食を与えようとせず、攻めても下すことができなかった。下したところでは食を得たが、下さないところでは数日で去った。郁成に至るころには、士はわずかに数千しかおらず、〈師古が言うには、「比は音、必寐の反。財は才と同じ。」〉皆飢えて疲れていた。〈師古が言うには、「罷は疲と読む。」〉郁成城を攻めると、郁成はこれを拒み、殺傷した者は甚だ多かった。貳師将軍は左右と計って言った。「郁成に至ってもまだ挙げることができないのに、ましてその王都に至ることができようか。」引き返して還った。往来二歳、燉煌に至ったとき、士は什一、二を超えなかった。〈師古が言うには、「十人の中、一、二人が還ることを得る。」〉使者を遣わして上書し言った。「道遠く、多く食に乏しく、かつ士卒は戦いを患わずして飢えを患います。人が少なく、宛を抜くには足りません。願わくはしばらく兵を罷め、多く発して再び往きます。」〈師古が言うには、「益とは多いことである。」〉天子はこれを聞き、大いに怒り、使者を遣わして玉門関を遮り、言った。「軍に敢えて入る者あれば、これを斬れ。」貳師は恐れ、よって留まって燉煌に屯した。

原文李廣利,女弟李夫人有寵於上,產昌邑哀王。太初元年,以廣利爲貳師將軍,發屬國六千騎及郡國惡少年數萬人以往,〈師古曰:「惡少年謂無行義者。」〉期至貳師城取善馬,故號「貳師將軍」。故浩侯王恢使道軍。旣西過鹽水,當道小國各堅城守,不肯給食,攻之不能下。下者得食,不下者數日則去。比至郁成,士財有數千,〈師古曰:「比音必寐反。財與才同。」〉皆飢罷。〈師古曰:「罷讀曰疲。」〉攻郁成城,郁成距之,所殺傷甚衆。貳師將軍與左右計:「至郁成尚不能舉,況至其王都乎?」引而還。往來二歲,至燉煌,士不過什一二。〈師古曰:「十人之中,一二人得還。」〉使使上書言:「道遠,多乏食,且士卒不患戰而患飢。人少,不足以拔宛。願且罷兵,益發而復往。」〈師古曰:「益,多也。」〉天子聞之,大怒,使使遮玉門關,曰:「軍有敢入,斬之。」貳師恐,因留屯燉煌。

その夏、漢は浞野の兵二万余を匈奴に亡くした。〈師古が言うには、「趙破奴は後に浞野侯に封ぜられた。浞は音、士角の反。」〉公卿の議者は皆宛の軍を罷め、専ら力を胡に攻めることを願った。天子はすでに出兵して宛を誅することを業とし、宛は小国ながら下すことができなければ、大夏の属は次第に漢を軽んじ、しかも宛の善馬は絶えて来ず、烏孫、輪臺は容易に漢の使者を苦しめ、〈晉灼が言うには、「易とは軽んずることである。」師古が言うには、「輪臺もまた国名である。」〉外国に笑われることになる。すなわち宛を伐つことに特に不便を言う者鄧光らを案じた。〈師古が言うには、「その罪を案じて罰を行うのである。」〉囚徒を赦して寇盗を払わせ、〈如淳が言うには、「囚徒を放ってこれに寇盗を払わせるのである。」師古が言うには、「軍に従わせて斥候とさせるのである。」〉悪少年と辺騎を発し、歳余にして敦煌から六万人を出し、〈師古が言うには、「興発部署し、歳余にしてようやく行くことを得るのである。」〉私に負って従う者は与からなかった。〈師古が言うには、「私の糧食を負う者と私に従う者は、六万人の数の中にないのである。与は豫と読む。」〉牛十万、馬三万匹、驢や橐駝は万を数えて糧を齎し、兵弩は甚だ設けられた。〈師古が言うには、「施張すること甚だ具わるのである。」〉天下は騒動し、転じて相い奉じて宛を伐つこと五十余校尉となった。宛城中には井戸がなく、城外の流水を汲んでいた。そこで水工を遣わしてその城の下の水を移し、空をもってその城を穴らせた。〈師古が言うには、「空とは孔である。その城の下の水を移すとは、他の道から流れさせ、その城に迫らせないことである。空をもってその城を穴らすとは、囲んでこれを攻め、孔を作って穿穴させることである。下に『その水原を決してこれを移す』と言い、また『その城を囲んでこれを攻む』と言うのは、皆再びその事を叙するのである。一説には、すでにその水を移し、城の下に流れさせず、しかもその旧い水を城に入れる孔に因り、攻めてこれを穴らすのである。」〉戍甲卒十八万を酒泉、張掖の北に益々発し、居延、休屠を置いて酒泉を衛わせた。〈如淳が言うには、「二県を立てて辺を衛うのである。あるいは二部都尉を置くという。」〉そして天下の七科適を発し、〈師古が言うには、「適は謫と読む。七科は〈武紀〉に解がある。」〉および糒を載せて貳師に給し、〈師古が言うには、「糒とは乾飯で、音は備。」〉車人徒を転じて相連属して敦煌に至らせた。〈師古が言うには、「属は音、之欲の反。」〉そして馬に習熟する者二人を習馬者として執駆馬校尉に拝し、〈師古が言うには、「習とは便と同じ。一人を執馬校尉とし、一人を駆馬校尉とする。」〉宛を破った後に備えてその善馬を択び取ることにしたという。

原文其夏,漢亡浞野之兵二萬餘於匈奴,〈師古曰:「趙破奴後封浞野侯。浞音士角反。」〉公卿議者皆願罷宛軍,專力攻胡。天子業出兵誅宛,宛小國而不能下,則大夏之屬漸輕漢,而宛善馬絕不來,烏孫、輪臺易苦漢使,〈晉灼曰:「易,輕也。」師古曰:「輪臺亦國名。」〉爲外國笑。迺案言伐宛尤不便者鄧光等。〈師古曰:「案其罪而行罰。」〉赦囚徒扞寇盜,〈如淳曰:「放囚徒使其扞御寇盜。」師古曰:「使從軍爲斥侯。」〉發惡少年及邊騎,歲餘而出敦煌六萬人,〈師古曰:「興發部署,歲餘乃得行。」〉負私從者不與。〈師古曰:「負私糧食及私從者,不在六萬人數中也。與讀曰豫。」〉牛十萬,馬三萬匹,驢橐駝以萬數齎糧,兵弩甚設。〈師古曰:「施張甚具也。」〉天下騷動,轉相奉伐宛五十餘校尉。宛城中無井,汲城外流水,於是遣水工徙其城下水空以穴其城。〈師古曰:「空,孔也。徙其城下水者,令從他道流,不迫其城也。空以穴其城者,圍而攻之,令作孔使穿穴也。下云『決其水原移之』,又云『圍其城攻之』,皆再敘其事也。一曰,旣徙其水,不令於城下流,而因其舊引水入城之孔,攻而穴之。」〉益發戍甲卒十八萬酒泉、張掖北,置居延、休屠以衞酒泉。〈如淳曰:「立二縣以衞邊也。或曰置二部都尉。」〉而發天下七科適,〈師古曰:「適讀曰謫。七科,解在〈武紀〉。」〉及載糒給貳師,〈師古曰:「糒,乾飯,音備。」〉轉車人徒相連屬至敦煌。〈師古曰:「屬音之欲反。」〉而拜習馬者二人爲執驅馬校尉,〈師古曰:「習猶便也。一人爲執馬校尉,一人爲驅馬校尉。」〉備破宛擇取其善馬云。

そこで貳師将軍は再び進軍し、兵は多く、行き着く先々の小国はみな迎え出て、食糧を出して軍に供給した。輪臺に至ると、輪臺は降伏せず、数日間攻撃して、皆殺しにした。ここから西へ進み、無事に宛城に至った。〈師古曰:「平行とは、敵の難がないことを言う。」〉兵が到着したのは三万人であった。宛の兵は漢軍を迎え撃ったが、漢軍が射撃してこれを破り、宛の兵は城内に逃げ込んで城を守った。貳師将軍は郁成城を攻撃しようとしたが、進軍を留めて宛がさらに策略を増すことを恐れ、〈師古曰:「留行とは、軍を留めてその進軍を止めることを言う。」〉まず宛に至り、その水源を決壊させ、移してしまったので、宛はすでに苦境に陥っていた。城を包囲し、四十余日間攻撃した。宛の貴人たちが謀議して言った。「王の毋寡は良馬を隠し、漢の使者を殺した。〈師古曰:「毋寡は、宛王の名である。」〉今、王を殺して良馬を差し出せば、漢軍は引き上げるはずだ。もしそうでなければ、その時力を尽くして戦って死んでも遅くはない。」宛の貴人たちは皆これに同意し、共に王を殺した。その外城が崩壊し、宛の貴人で勇将の煎靡を捕虜にした。〈師古曰:「宛の貴人で将軍であり勇者である者の名が煎靡である。煎は子延反と読む。」〉宛は大いに恐れ、中城に逃げ込み、互いに謀議して言った。「漢が我々を攻めるのは、王の毋寡のためだ。」その首を持ち、人を遣わして貳師将軍のもとに行かせ、約束して言った。「漢が我々を攻めなければ、我々は全ての良馬を出し、好きなだけ取らせ、漢軍に食糧を供給しよう。もし我々の言うことを聞かなければ、我々は全ての良馬を殺し、康居の救援もまたやがて到着するだろう。到着すれば、我々は内に居り、康居は外に居て、漢軍と戦うことになる。よく考えてみよ、どちらを選ぶか?」〈師古曰:「貳師将軍に熟考させ、攻撃するか、攻撃せずに馬を得るかを選ばせようというのである。」〉この時、康居は漢軍の様子を窺っていたが、まだ勢いが盛んなので、進むことができなかった。貳師将軍は、宛城中に新たに漢人を得て井戸を掘る方法を知り、城内の食糧がまだ多いと聞いた。考えてみると、誅殺すべき首謀者は毋寡であり、毋寡の首はすでに届いている。このようにして許さなければ、彼らは堅く守り、康居が漢軍の疲れを待って宛を救援に来れば、漢軍を破ることは必定である。〈師古曰:「罷は疲と読む。」〉軍吏たちは皆これに同意し、宛の約束を許した。宛はそこでその馬を出し、漢軍に自分で選ばせ、多くの食糧を出して漢軍に供給した。〈師古曰:「下の食は飤と読む。」〉漢軍はその良馬数十頭と、中馬以下の牝牡三千余頭を取り、そして宛の貴人で以前から漢に好意を持っていた者で、名を昩蔡という者を宛王に立て、〈服虔曰:「蔡は楚の言葉の蔡と読む。」師古曰:「昩は本末の末と読む。蔡は千曷反と読む。」〉盟約を結んで兵を引き上げた。結局中城に入ることはできず、兵を収めて引き揚げた。

原文於是貳師後復行,兵多,所至小國莫不迎,出食給軍。至輪臺,輪臺不下,攻數日,屠之。自此而西,平行至宛城,〈師古曰:「平行,言無寇難。」〉兵到者三萬。宛兵迎擊漢兵,漢兵射敗之,宛兵走入保其城。貳師欲攻郁成城,恐留行而令宛益生詐,〈師古曰:「留行謂留止軍廢其行。」〉迺先至宛,決其水原,移之,則宛固已憂困。圍其城,攻之四十餘日。宛貴人謀曰:「王毋寡匿善馬,殺漢使。〈師古曰:「毋寡,宛王名。」〉今殺王而出善馬,漢兵宜解;即不,迺力戰而死,未晚也。」宛貴人皆以爲然,共殺王。其外城壞,虜宛貴人勇將煎靡。〈師古曰:「宛之貴人爲將而勇者名煎靡也。煎音子延反。」〉宛大恐,走入中城,相與謀曰:「漢所爲攻宛,以王毋寡。」持其頭,遣人使貳師,約曰:「漢無攻我,我盡出善馬,恣所取,而給漢軍食。即不聽我,我盡殺善馬,康居之救又且至。至,我居內,康居居外,與漢軍戰。孰計之,何從?」〈師古曰:「令貳師孰計之,而欲攻戰乎?欲不攻而取馬乎?」〉是時,康居候視漢兵尚盛,不敢進。貳師聞宛城中新得漢人知穿井,而其內食尚多。計以爲來誅首惡者毋寡,毋寡頭已至,如此不許,則堅守,而康居候漢兵罷來救宛,破漢軍必矣。〈師古曰:「罷讀曰疲。」〉軍吏皆以爲然,許宛之約。宛迺出其馬,令漢自擇之,而多出食食漢軍。〈師古曰:「下食讀曰飤。」〉漢軍取其善馬數十匹,中馬以下牝牡三千餘匹,而立宛貴人之故時遇漢善者名昩蔡爲宛王,〈服虔曰:「蔡音楚言蔡。」師古曰:「昩音本末之末。蔡音千曷反。」〉與盟而罷兵。終不得入中城,罷而引歸。

初め、貳師将軍が敦煌の西から出発した時、人数が多かったため、道中の国々では食糧を供給できず、〈師古曰:「起は発するという意味である。道上国とは、道沿いの諸国である。食は飤と読む。」〉数軍に分かれて、南北の道から進んだ。校尉の王申生、元鴻臚の壺充国ら千余人が別行動で郁成に至ったが、城は守りを固めて食糧を与えようとしなかった。申生は本軍から二百里離れており、それを頼みとして敵を軽視し、〈師古曰:「負は恃むこと、つまり大軍の威勢を恃んで敵を軽んじることを言う。」〉郁成を激しく攻撃した。郁成は申生の軍が少ないことを窺い知り、朝に三千人を使って申生らを攻め殺し、数人が脱出して逃れ、貳師将軍のもとに走った。〈師古曰:「走は奏と読む。」〉貳師将軍は搜粟都尉の上官桀に命じて郁成を攻め破らせ、郁成は降伏した。その王は康居に逃げたので、桀は康居まで追った。康居は漢がすでに宛を破ったと聞き、郁成王を出して桀に渡した。桀は四人の騎士に縛らせて守りながら大将軍のもとに連れて行かせた。〈如淳曰:「当時は別将が多かったので、貳師将軍を大将軍と呼んだのである。」〉四人は互いに言った。「郁成王は漢が恨んでいる者だ。〈師古曰:「毒恨していると言う。」〉今生きて連行すれば、突然大事を失うかもしれない。」〈師古曰:「卒は猝と読む。」〉殺そうとしたが、誰が先に撃つかを決められなかった。〈師古曰:「適は主のこと。先に撃つことを主張する者がいないのである。音は丁歷反。」〉上邽の騎士の趙弟が剣を抜いて郁成王を撃ち斬った。桀らはそこで大将軍に追いついた。

原文初,貳師起敦煌西,爲人多,道上國不能食,〈師古曰:「起,發也。道上國,近道諸國也。食讀曰飤。」〉分爲數軍,從南北道。校尉王申生、故鴻臚壺充國等千餘人別至郁成,城守不肯給食。申生去大軍二百里,負而輕之,〈師古曰:「負,恃也,恃大軍之威而輕敵人。」〉攻郁成急。郁成窺知申生軍少,晨用三千人攻殺申生等,數人脫亡,走貳師。〈師古曰:「走音奏。」〉貳師令搜粟都尉上官桀往攻破郁成,郁成降。其王亡走康居,桀追至康居。康居聞漢已破宛,出郁成王與桀。桀令四騎士縛守詣大將軍。〈如淳曰:「時多別將,故謂貳師爲大將軍。」〉四人相謂:「郁成,漢所毒,〈師古曰:「言毒恨。」〉今生將,卒失大事。」〈師古曰:「卒讀曰猝。」〉欲殺,莫適先擊。〈師古曰:「適,主也。無有主意先擊者也。音丁歷反。」〉上邽騎士趙弟拔劔擊斬郁成王。桀等遂追及大將軍。

初め、貳師将軍が後に出発した時、天子は使者を遣わして烏孫に告げ、大いに兵を出して宛を撃つよう命じた。烏孫は二千騎を出して向かったが、両端を持ち、進もうとしなかった。貳師将軍が東に帰還する時、〈師古曰:「東とは、軍を返して東に出ることを言う。」〉通りかかった諸々の小国は宛が破られたと聞き、皆その子弟を従わせて貢物を献上し、天子に謁見させ、そのまま人質とした。軍が帰還し、玉門関に入った者は一万余人、馬は千余頭であった。後の出発では、食糧が不足したわけではなく、戦死もあまり多くなかったが、将吏たちが貪欲で、兵卒を愛せず、侵害・搾取したため、このために死亡した者が多かった。〈師古曰:「侵牟とは、牟賊が苗を食うように侵害することを言う。物故とは死ぬことである。解釈は〈景紀〉及び〈蘇武傳〉に詳しい。」〉天子は万里を遠征したことを考え、その過失を問わず、詔を下して言った。「匈奴が害をなすことは久しい。今は漠北に移ったが、帝国と謀って共に大月氏の使者を遮断し、中郎将の江と元鴈門太守の攘を遮って殺した。危須以西及び大宛は皆、盟約を結んで期門の車令、〈服虔曰:「危須は国名である。」文穎曰:「漢の期門郎である。車令は姓名である。」〉中郎将の朝及び身毒国の使者を殺し、東西の道を隔てた。貳師将軍の広利がその罪を征討し、大宛に勝利した。天の霊に頼り、河山を遡り、流沙を渡り、西海を通り、山の雪は積もらず、〈張晏曰:「この年は雪が少なかったので、往復できた。天人の応を得たことを喜んだのである。」師古曰:「従は由ることであり、泝は流れに逆らって上ることである。道が山の険を経て、また河を遡ることを言う。泝は素と読む。」〉士大夫は難なく通過し、〈師古曰:「屯難がないことを言う。」〉王の首級と捕虜、珍奇な物をことごとく宮闕に並べた。そこで広利を海西侯に封じ、食邑八千戸を与える。」また、郁成王を斬った趙弟を新畤侯に封じた。軍正の趙始成は功績が最も多かったので、光祿大夫とした。上官桀は敢えて深く入ったので、少府とした。李哆は計謀があったので、上黨太守とした。〈師古曰:「哆は昌野反と読む。」〉軍の官吏で九卿となった者は三人、諸侯の相・郡守・二千石は百余人、千石以下は千余人であった。奮って従軍した者はその希望以上の官位を得、〈孟康曰:「奮は迅のこと。自ら進んで行った者である。」〉罪によって従軍した者は皆その労を削られた。〈師古曰:「適は謫と読む。罪によって謫せられて行った者は、その犯した罪を免じるが、功労は記録しないという意味である。」〉士卒には四万銭相当の賜物を与えた。〈師古曰:「あるいは他の財物で充当したので、直と言うのである。」〉宛を討伐して二度往復し、〈師古曰:「再反とは、今で言うところの二回という意味である。」〉合わせて四年かかってようやく終わった。

原文初,貳師後行,天子使使告烏孫大發兵擊宛。烏孫發二千騎往,持兩端,不肯前。貳師將軍之東,〈師古曰:「東,旋軍東出。」〉諸所過小國聞宛破,皆使其子弟從入貢獻,見天子,因爲質焉。軍還,入玉門者萬餘人,馬千餘匹。後行,非乏食,戰死不甚多,而將吏貪,不愛卒,侵牟之,以此物故者衆。〈師古曰:「侵牟,言如牟賊之食苗也。物故,謂死也。解具在〈景紀〉及〈蘇武傳〉。」〉天子爲萬里而伐,不錄其過,迺下詔曰:「匈奴爲害乆矣,今雖徙幕北,與帝國謀共要絕大月氏使,遮殺中郎將江、故鴈門守攘。危須以西及大宛皆合約殺期門車令、〈服虔曰:「危須,國名也。」文穎曰:「漢使期門郎也,車令,姓名也。」〉中郎將朝及身毒國使,隔東西道。貳師將軍廣利征討厥罪,伐勝大宛。賴天之靈,從泝河山,涉流沙,通西海,山雪不積,〈張晏曰:「是歲雪少,故得往還,喜得天人之應也。」師古曰:「從,由也。泝,逆流而上也。言路由山險,又泝河也。泝音素。」〉士大夫徑度,〈師古曰:「言無屯難也。」〉獲王首虜,珍怪之物畢陳於闕。其封廣利爲海西侯,食邑八千戶。」又封斬郁成王者趙弟爲新畤侯;軍正趙始成功最多,爲光祿大夫;上官桀敢深入,爲少府;李哆有計謀,爲上黨太守。〈師古曰:「哆音昌野反。」〉軍官吏爲九卿者三人,諸侯相、郡守、二千石百餘人,千石以下千餘人。奮行者官過其望,〈孟康曰:「奮,迅也。自樂而行者。」〉以適過行者皆黜其勞。〈師古曰:「適讀曰謫。言以罪謫而行者,免其所犯,不敘功勞。」〉士卒賜直四萬錢。〈師古曰:「或以他財物充之,故云直。」〉伐宛再反,〈師古曰:「再反猶今言兩迴。」〉凡四歲而得罷焉。

その後十一歳、征和三年に、貳師将軍は再び七万騎を率いて五原から出撃し、匈奴を撃ち、郅居水を渡った。〈師古曰:「郅は質と読む。」〉兵は敗れ、匈奴に降伏し、単于に殺された。詳細は〈匈奴傳〉にある。

原文後十一歲,征和三年,貳師復將七萬騎出五原,擊匈奴,度郅居水。〈師古曰:「郅音質。」〉兵敗,降匈奴,爲單于所殺。語在〈匈奴傳〉。

【贊】

原文【贊】

賛に曰く、「『禹本紀』は言う、河は昆侖より出ず、昆侖は高さ二千五百里余り、日月が互いに避け隠れて光明となる所なりと。張騫が大夏に使いして以来、河の源を窮めしも、いずくんぞ所謂昆侖なるものを見んや?(鄧展が曰く、「漢は河の源を窮めたが、どこに昆侖を見たというのか?『尚書』に『河を積石に導く』とある。これは河の源が積石より出るという意味である。積石は金城郡河関県にあるが、昆侖より出るとは言っていない。」師古が曰く、「悪は音ウである。」)故に九州の山川を言うには、『尚書』が近いのである。『禹本紀』、『山経』の記すところに至っては、放蕩である!(如淳が曰く、「放蕩で迂闊であり、信じるに足らない。」師古が曰く、「如の説が正しい。荀悦は誤って『放』を『效』の字とし、それによって『效わない』と解釈したが、これは誤りである。」)

原文贊曰:「〈禹本紀〉言河出昆侖,昆侖高二千五百里餘,日月所相避隱爲光明也。自張騫使大夏之後,窮河原,惡睹所謂昆侖者乎?〈鄧展曰:「漢以窮河原,於何見昆侖乎?《尚書》曰『道河積石』,是謂河原出於積石。積石在金城河關,不言出昆侖也。」師古曰:「惡音烏。」〉故言九州山川,《尚書》近之矣。至〈禹本紀〉、《山經》所有,放哉!〈如淳曰:「放蕩迂闊,不可信也。」師古曰:「如說是也。荀悅誤以『放』爲『效』字,因解爲不效,蓋失之矣。」〉