漢書

公孫こうこうそんこう卜式ぼくしき兒寬傳 第二十八

公孫弘は、菑川しせんせつの人である。若い頃は獄吏を務めたが、罪を犯して免職された。家は貧しく、海上で豚を飼っていた。四十歳を過ぎてから、ようやく春秋の雑説を学んだ。

原文公孫弘,菑川薛人也。少時爲獄吏,有罪,免。家貧,牧豕海上。年四十餘,乃學春秋雜說。

武帝が即位したばかりの頃、賢良けんりょう文学の士を招いた。この時、公孫弘は六十歳で、賢良として博士はくしに徴用された。匈奴への使者として派遣され、帰国して報告したが、武帝の意に合わず、武帝は怒り、能力がないと見なしたため、公孫弘は病気を理由に上書して免職となり帰郷した。

原文武帝初即位,招賢良文學士,是時弘年六十,以賢良徵爲博士。使匈奴,還報,不合意,〈師古曰:「奏事不合天子之意。」〉上怒,以爲不能,弘乃移病免歸。〈師古曰:「移病,謂移書言病也。一曰,以病移居。」〉

元光五年、再び賢良文学の士を徴用することとなり、菑川国は再び公孫弘を推挙した。公孫弘は辞退して言った。「以前にすでに西の都で仕えたことがありますが、役に立たずに罷免されました。どうか他の者を選んでください。」国人は強く公孫弘を推し、公孫弘は太常たいじょうのもとに至った。武帝はみことのりを下して諸儒に策問した。

原文元光五年,復徵賢良文學,菑川國復推上弘。弘謝曰:「前已甞西,用不能罷,願更選。」國人固推弘,弘至太常。上策詔諸儒:

詔して曰く、聞くところによれば、上いにしえの至治の世には、衣冠に模様を描き、章服を異ならせて、民は犯すことがなく、陰陽が調やわし、五穀が実り、六畜が繁殖し、甘露が降り、風雨が時を得て、嘉禾が生じ、朱草が生え、山は草木がなくならず、沢は水が枯れず、麒麟や鳳凰が郊外の藪にいて、亀や龍が池沼に遊び、黄河や洛水から図書が現れ、父は子を失わず、兄は弟を泣かず、北は渠搜きょそうを発し、南は交阯こうしを撫で、舟車の至るところ、人跡の及ぶところ、足で歩くもの、口で息をするもの、すべてその宜しきを得たという。ちんはこれを大いに嘉する。今、何の道によってかこのような状態に至るのか。子大夫しだいふたちは先聖の術を修め、君臣の義を明らかにし、講論して広く聞き、当世に名声がある。敢えて子大夫たちに問う。天人の道は何に本づき始まるのか。吉凶の効験はどこに期するのか。とうの時の水害や旱魃は、そのとがは何に由来するのか。仁・義・礼・智の四者は、どのように適用し、どのように設置すべきか。統治を継ぎ、業を後世に伝え、万物や鬼神の変化に対し、天命のしるしは、廃おこはどのようであるか。天文・地理・人事の綱紀について、子大夫たちは習熟している。その心を尽くしてただしい議論をし、詳しくその回答を備え、篇に著せ。朕は自らるであろう。隠すところなくあれ。

原文制曰:蓋聞上古至治,畫衣冠,異章服,而民不犯;陰陽和,五穀登,六畜蕃,〈師古曰:「登,成也。蕃,多也,音扶元反。」〉甘露降,風雨時,嘉禾興,朱屮生,〈師古曰:「屮,古草字。」〉山不童,澤不涸;〈師古曰:「童,無草木也。涸,水竭也,音胡各反。」〉麟鳳在郊藪,龜龍游於沼,〈師古曰:「邑外謂之郊。澤無水曰藪。沼,池也。」〉河洛出圖書;父不喪子,兄不哭弟;北發渠搜,南撫交阯,〈師古曰:「言威德之盛,北則徵發于渠搜,南則綏撫於交阯也。渠搜,遠夷之國也。」〉舟車所至,人迹所及,跂行喙息,咸得其宜。〈師古曰:「跂行,有足而行者也。喙息,謂有口能息者也。跂音岐。喙音許穢反。」〉朕甚嘉之,今何道而臻乎此?〈師古曰:「臻,至也。」〉子大夫脩先聖之術,明君臣之義,講論洽聞,有聲乎當世,敢問子大夫:天人之道,何所本始?吉凶之效,安所期焉?〈師古曰:「安,焉也。」〉禹湯水旱,厥咎何由?仁義禮知四者之宜,當安設施?屬統垂業,物鬼變化,〈師古曰:「屬,繫也,音之欲反。其下亦同。」〉天命之符,廢興何如?天文地理人事之紀,子大夫習焉。其悉意正議,詳具其對,著之于篇,〈師古曰:「悉,盡也。篇,簡也。」〉朕將親覽焉,靡有所隱。

弘が答えて言う。

原文弘對曰:

臣が聞くところによれば、上古のぎょうしゅんの時代には、しゃく位や賞賜を貴ばずとも民は善を勧め、刑罰を重んじなくとも民は罪を犯さず、自ら率先して正しくおこない、民に接するのに信実があった。末世には爵位を貴び賞賜を厚くしても民は勧められず、刑罰を深く重くしても悪事が止まず、上に立つ者が正しくなく、民に接するのに信実がない。厚い賞賜や重い刑罰は、善を勧め非を禁ずるには十分ではなく、必ず信実があってこそである。それゆえ、能力に応じて官職に任じれば、職分が治まり、無用の言葉を取り除けば、事の実情が得られ、無用の器物を作らなければ、賦税や徴収が省かれ、民の農時を奪わず、民力を妨げなければ、百姓は富み、徳のある者を登用し、徳のない者を退ければ、朝廷はたっとばれ、功績のある者を上位に、功績のない者を下位にすれば、群臣はしたがつい正しく、罰が罪に相当すれば、奸邪は止み、賞が賢者に相当すれば、臣下は勧められる。この八つはすべて、民を治める根本である。だから、民というものは、生業を与えれば争わず、道理が得られれば怨まず、礼があれば暴虐にならず、愛すれば上に親しむ。これが天下を有する者の急務である。だから、法が義に背かなければ、民は服従して離れず、和が礼に背かなければ、民は親しんで暴虐にならない。だから、法が罰するところは、義が取り除くところであり、和が賞するところは、礼が取るところである。礼義は、民が服従するところであり、賞罰がこれに順えば、民は禁令を犯さない。それゆえ、衣冠に模様を描き、章服を異ならせて民が犯さないのは、この道が平素から行われているからである。

原文臣聞上古堯舜之時,不貴爵賞而民勸善,不重刑罰而民不犯,躬率以正而遇民信也;〈師古曰:「躬謂身親行之,遇謂處待之而已。」〉末世貴爵厚賞而民不勸,深刑重罰而姦不止,其上不正,遇民不信也。夫厚賞重刑未足以勸善而禁非,必信而已矣。是故因能任官,則分職治;〈師古曰:「分音扶問反。」〉去無用之言,則事情得;不作無用之器,即賦斂省;不奪民時,不妨民力,則百姓富;有德者進,無德者退,則朝廷尊;有功者上,無功者下,則群臣逡;〈李竒曰:「言有次第也。」師古曰:「逡音七旬反,其字從辶。」〉罰當罪,則姦邪止;賞當賢,則臣下勸:凡此八者,治民之本也。故民者,業之即不爭,理得則不怨;有禮則不暴,愛之則親上,〈師古曰:「各得其業則無爭心,各申其理則無所怨,使之由理則無暴慢,子而愛之則知親上也。」〉此有天下之急者也。故法不遠義,則民服而不離;和不遠禮,則民親而不暴。〈師古曰:「遠,違也,音于萬反。」〉故法之所罰,義之所去也;〈師古曰:「去,除也,音丘呂反。」〉和之所賞,禮之所取也。禮義者,民之所服也,而賞罰順之,則民不犯禁矣。故畫衣冠,異章服,而民不犯者,此道素行也。

臣が聞くところによると、気が同じであれば従い、声が調和すれば応ずるという。〈師古が言うには、「比もまた和の意であり、音は頻寐の反切である」〉今、君主が上で徳を和らげ、百姓が下で和合すれば、〈師古が言うには、「合とは上と徳を合わせることをいう」〉心が和すれば気が和し、気が和すれば形が和し、形が和すれば声が和し、声が和すれば天地の和が応ずるのである。それゆえ陰陽が調和し、風雨が時を得て、甘露が降り、五穀が実り、六畜が繁殖し、嘉禾が生え、朱草が生じ、山は禿げず、沢は枯れない。これが和のきょく致である。それゆえ形が和すれば病気がなく、病気がなければ夭折せず、父は子を失わず、兄は弟を泣くことがない。徳が天地に匹敵し、明らかさが日月と並ぶならば、麟鳳が到来し、亀龍が郊外に現れ、河から図が現れ、洛から書が現れ、遠方の君主も皆、義を喜び、〈師古が言うには、「説は悦と読む」〉幣を捧げて来朝する。これが和の極致である。

原文臣聞之,氣同則從,聲比則應。〈師古曰:「比亦和也,音頻寐反。」〉今人主和德於上,百姓和合於下,〈師古曰:「合謂與上合德也。」〉故心和則氣和,氣和則形和,形和則聲和,聲和則天地之和應矣。故陰陽和,風雨時,甘露降,五穀登,六畜蕃,嘉禾興,朱草生,山不童,澤不涸,此和之至也。故形和則無疾,無疾則不夭,故父不喪子,兄不哭弟。德配天地,明竝日月,則麟鳳至,龜龍在郊,河出圖,洛出書,遠方之君莫不說義,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉奉幣而來朝,此和之極也。

臣が聞くところによると、仁とは愛であり、義とは適切であり、礼とは踏み行うものであり、〈師古が言うには、「履いてこれを行う」〉智とは術の源である。利益を招き害を除き、広く愛して私心がないことを仁という。〈師古が言うには、「致とは引き寄せて至らせること」〉是非を明らかにし、可否を立てることを義という。進退に節度があり、尊卑に分け目があることを礼という。〈師古が言うには、「分の音は扶問の反切」〉生殺の権柄を専有し、〈師古が言うには、「擅とは専らにすること」〉塞がった道を通じさせ、軽重の数を量り、得失の道を論じ、遠近の真偽を必ず君主に明らかにさせることを術という。〈師古が言うには、「見とはあらわにすること」〉この四つはすべて、政治の根本であり、道の実践であり、皆設け行うべきもので、廃してはならない。そのかなめ領を得れば、天下は安楽となり、法は設けられても用いられない。〈師古が言うには、「下の者が法を犯さず、刑を加えることがない」〉その術を得なければ、君主は上で蔽われ、官吏は下で乱れる。これが事の実情であり、統治を継ぎ業を伝える根本である。

原文臣聞之,仁者愛也,義者宜也,禮者所履也,〈師古曰:「履而行之。」〉智者術之原也。致利除害,兼愛無私,謂之仁;〈師古曰:「致謂引而至也。」〉明是非,立可否,謂之義;進退有度,尊卑有分,謂之禮;〈師古曰:「分音扶問反。」〉擅殺生之柄,〈師古曰:「擅,專也。」〉通壅塞之塗,權輕重之數,論得失之道,使遠近情僞必見於上,謂之術:〈師古曰:「見,顯也。」〉凡此四者,治之本,道之用也,皆當設施,不可廢也。得其要,則天下安樂,法設而不用;〈師古曰:「下不犯法,無所加刑也。」〉不得其術,則主蔽於上,官亂於下。此事之情,屬統垂業之本也。

臣が聞くところによると、堯は大洪水に遭い、禹に治めさせたが、禹の時代に洪水があったとは聞かない。湯の時代の旱魃は、けつの残した悪影響である。桀やちゅうは悪行を行い、天の罰を受けた。禹や湯は徳を積み、天下を王とした。これによって見れば、天の徳には私的な親しみはなく、これに順えば和が起こり、逆らえば害が生じる。これが天文・地理・人事の道理である。臣の弘は愚かで愚直であり、大問に対する答えを奉るには足りない。〈師古が言うには、「大対とは、大問に対する答えである」〉

原文臣聞堯遭鴻水,使禹治之,未聞禹之有水也。若湯之旱,則桀之餘烈也。桀紂行惡,受天之罰;禹湯積德,以王天下。因此觀之,天德無私親,順之和起,逆之害生。此天文地理人事之紀。臣弘愚戇,不足以奉大對。〈師古曰:「大對,大問之對也。」〉

当時、答えを提出した者は百余人おり、太常は弘の成績が下位であると上奏した。策問の答えが奏上されると、天子は弘の答えを第一に抜擢した。召し出して拝謁させると、容貌が非常に美しく、博士に任命し、金馬門きんばもん待詔たいしょうとした。〈如淳じょじゅんが言うには、「武帝の時、相馬者そうばしゃ東門京とうもんけいが銅馬法を作って献上し、馬の像を魯斑門ろはんもんの外に立てたため、魯斑門を金馬門と改名した」〉

原文時對者百餘人,太常奏弘第居下。策奏,天子擢弘對爲第一。召見,容貌甚麗,拜爲博士,待詔金馬門。〈如淳曰:「武帝時,相馬者東門京作銅馬法獻之,立馬於魯斑門外,更名魯斑門爲金馬門。」〉

公孫弘は再び上疏して言った。「陛下には先聖(古代の聖王)の地位はあるが先聖の名声はなく、先聖の名声はあるが先聖のような官吏はいません。それゆえ、情勢は同じでも治績は異なるのです。先代の官吏は正しかったので、その民は篤実でした。〈師古が言うには、「篤は厚いこと」。〉今の世の官吏は邪なので、その民は薄情です。政治は弊害があって行われず、法令は人々が飽きて従いません。邪な官吏に弊害のある政治を行わせ、飽きられた法令で薄情な民を治めれば、民を教化することはできず、これが治績が異なる理由です。臣は聞きます。周公旦が天下を治めたとき、一年で変化し、三年で教化が行き渡り、五年で安定したと。ただ陛下の志し次第です」。〈師古が言うには、「志しの向かうところを言う」。〉上書が奏上されると、天子は冊書で答えて言った。「問う。弘が周公の治世を称えるが、弘の才能は自ら見て、周公とどちらが賢いと思うか」。〈師古が言うには、「與はごとし」。〉公孫弘は答えて言った。「愚臣は浅薄で、どうして周公と才能を比べられましょうか。それでも、愚かな心で明らかに見えるのは、治道がこのようになりうるということです。虎豹や馬牛は、禽獣のあたでも制御しがたいものですが、それを教え馴らし慣れさせれば、〈師古が言うには、「馴は順うこと。音は巡」。〉ついには手綱を引いて操り従わせ、人の意のままにすることができます。〈師古が言うには、「人の意に従うこと」。〉臣は聞きます。曲がった木を正するのに何日もかからず、〈師古が言うには、「揉は矯めて正すこと。累は積むこと。揉の音は人九反」。〉金石を溶かすのに何月もかからないと。人は利害や好悪について、どうして禽獣や木石の類と比べられましょうか。〈師古が言うには、「好の音は呼到反。悪の音は一故反」。〉一年で変化するというのは、臣の弘はまだ遅いとさえ思います」。皇帝はその言葉を異とされた。

原文弘復上疏曰:「陛下有先聖之位而無先聖之名,有先聖之名而無先聖之吏,是以勢同而治異。先世之吏正,故其民篤;〈師古曰:「篤,厚也。」〉今世之吏邪,故其民薄。政弊而不行,令倦而不聽。夫使邪吏行弊政,用倦令治薄民,民不可得而化,此治之所以異也。臣聞周公旦治天下,朞年而變,三年而化,五年而定。唯陛下之所志。」〈師古曰:「言志所在也。」〉書奏,天子以冊書荅曰:「問:弘稱周公之治,弘之材能自視孰與周公賢?」〈師古曰:「與猶如也。」〉弘對曰:「愚臣淺薄,安敢比材於周公!雖然,愚心曉然見治道之可以然也。夫虎豹馬牛,禽獸之不可制者也,及其敎馴服習之,〈師古曰:「馴,順也,音巡。」〉至可牽持駕服,唯人之從。〈師古曰:「從人意。」〉臣聞揉曲木者不累日,〈師古曰:「揉謂矯而正之也。異,積也。揉音人九反。」〉銷金石者不累月,夫人於利害好惡,豈比禽獸木石之類哉?〈師古曰:「好音呼到反。惡音一故反。」〉朞年而變,臣弘尚竊遟之。」上異其言。

当時、ちょうど西南夷(中国南西部の異民族)と通交しようとしており、巴蜀(四川省一帯)の民はその苦役に苦しんでいた。詔によって公孫弘に視察させた。帰還して奏上する際、西南夷は全く役に立たないと強く非難したが、皇帝は聞き入れなかった。毎回、朝廷で会議があると、その端緒を開陳して、君主に自ら選択させ、面と向かって朝廷で諫争しようとはしなかった。そこで皇帝はその行いが慎重で篤実であり、弁論に余裕があり、法令や官吏の事務に習熟し、儒術でふち(修飾)しているのを察知し、〈師古が言うには、「縁飾とは、衣に譬えると、縁を加えるようなもの」。〉皇帝は彼を気に入り、〈師古が言うには、「說はよろこぶと読む」。〉一年のうちに左内史にまで昇進した。

原文時方通西南夷,巴蜀苦之,詔使弘視焉。還奏事,盛毀西南夷無所用,上不聽。每朝會議,開陳其端,使人主自擇,不肯面折庭爭。於是上察其行慎厚,辯論有餘,習文法吏事,緣飾以儒術,〈師古曰:「緣飾者,譬之於衣,加純緣者。」〉上說之,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉一歲中至左內史。

公孫弘が奏事するとき、認められないことがあっても、朝廷で弁論しようとはしなかった。〈師古が言うには、「朝廷で公然と弁論しないこと」。〉常に主爵都尉の汲黯きゅうあんと共に、隙間の暇を請うて、〈師古が言うには、「空隙の暇を求めること」。〉汲黯が先に発言し、公孫弘がその後を推し進めると、皇帝は常に喜び、〈師古が言うには、「說は悅と読む」。〉言うことを全て聞き入れ、これによって日に日に親しく重用されるようになった。かつて公卿と約束して議案を決めたことがあったが、〈師古が言うには、「約は要」。〉皇帝の面前に至ると、皆その約束を背いて皇帝の意向に順った。汲黯が朝廷で公孫弘を詰問して言った。「せいの人間は多く詐りがあって情がなく、最初は臣らと共にこの議案を立てたのに、今は皆それを背くとは、不忠だ」。皇帝が公孫弘に問うと、公孫弘は謝罪して言った。「臣を知る者は臣を忠とし、臣を知らぬ者は臣を不忠とします」。皇帝は公孫弘の言葉をよしとした。側近の寵臣がしばしば公孫弘を誹謗したが、皇帝はますます厚く遇した。

原文弘奏事,有所不可,不肯庭辯。〈師古曰:「不於朝廷顯辯論之。」〉常與主爵都尉汲黯請間,〈師古曰:「求空隙之暇。」〉黯先發之,弘推其後,上常說,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉所言皆聽,以此日益親貴。甞與公卿約議,〈師古曰:「約,要也。」〉至上前,皆背其約以順上指。汲黯庭詰弘曰:「齊人多詐而無情,始爲與臣等建此議,今皆背之,不忠。」上問弘,弘謝曰:「夫知臣者以臣爲忠,不知臣者以臣爲不忠。」上然弘言。左右幸臣每毀弘,上益厚遇之。

公孫弘は人となり、談笑に富み見聞が広く、〈師古が言うには、「談笑が巧みでしかも見聞が広いこと。談の字は或いはかいと作る。音はかいちょうのこと。よく啁謔ちょうぎゃくすること」。〉常に称えて言った。君主の欠点は度量が広大でないことであり、臣下の欠点は倹約でないことだと。後母を養って孝行で謹み深く、後母が亡くなると、三年間喪に服した。

原文弘爲人談笑多聞,〈師古曰:「善於談笑而又多聞也。談字或作詼,音恢,謂啁也,善啁謔也。」〉常稱以爲人主病不廣大,人臣病不儉節。養後母孝謹,後母卒,服喪三年。

内史を数年務め、御史大夫ぎょしたいふに昇進した。当時、また東に蒼海郡を置き、北に朔方郡を築いていた。公孫弘はたびたび諫めて、中国をつか弊させて無用の地に奉仕させるものだと言い、〈師古が言うには、「罷は疲れると読む」。〉廃止を願った。そこで皇帝は朱買臣しゅばいしんらに、朔方郡を設置する利便について公孫弘を難詰させた。十の策を発したが、公孫弘は一つも答えられなかった。〈師古が言うには、「利害十条について、公孫弘が応えることができなかったことを言う」。〉公孫弘はそこで謝罪して言った。「山東の鄙びた者で、その利便がこのようであるとは知りませんでした。西南夷と蒼海郡の経営をやめ、専ら朔方郡に力を注ぎたいと思います」。皇帝はそこでそれを許した。

原文爲內史數年,遷御史大夫。時又東置蒼海,北築朔方之郡。弘數諫,以爲罷弊中國以奉無用之地,〈師古曰:「罷讀曰疲。」〉願罷之。於是上迺使朱買臣等難弘置朔方之便。發十策,弘不得一。〈師古曰:「言其利害十條,弘無以應之。」〉弘迺謝曰:「山東鄙人,不知其便若是,願罷西南夷、蒼海,專奉朔方。」上迺許之。

汲黯が言った。「公孫弘は三公の地位にあり、俸ろくは非常に多いのに、布の布団を使っている。これは偽りである」。皇帝が公孫弘に尋ねると、公孫弘は謝罪して言った。「確かにその通りです。九卿の中で私と親しい者は汲黯に及ぶ者はいませんが、今日、朝廷で私を詰問したことは、まさに私の欠点を突いています。三公が布の布団を使うのは、確かに偽りを飾って名声を釣ろうとしていることです。また、私は管仲かんちゅうが斉の宰相となった時、三帰さんきの家を持ち、君主に匹敵するほど贅沢をし、桓公かんこうは覇者となったが、これは上に僭越せんえつしたことです。晏嬰あんえい景公けいこうの宰相となった時は、肉を二度も食べず、妾に絹を着せず、斉国もよく治まり、これは下に民と等しくしたことです。今、私公孫弘は御史大夫の地位にあり、布の布団を使い、九卿以下から小役人まで区別がないのは、まさに汲黯の言う通りです。しかも汲黯がいなければ、陛下はこの言葉をお聞きにならなかったでしょう」。皇帝は公孫弘に譲る心があると思い、ますます彼を賢者と認めた。

原文汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多,〈師古曰:「奉音扶用反。其下亦同。」〉然爲布被,此詐也。」上問弘,弘謝曰:「有之。夫九卿與臣善者無過黯,然今日庭詰弘,誠中弘之病。夫以三公爲布被,誠飾詐欲以釣名。〈師古曰:「釣,取也。言若釣魚之謂也。」〉且臣聞管仲相齊,有三歸,〈師古曰:「三歸,取三姓女也。婦人謂嫁曰歸。」〉侈擬於君,〈師古曰:「擬,疑也,言相似也。」〉桓公以霸,亦上僭於君。晏嬰相景公,食不重肉,妾不衣絲,齊國亦治,亦下比於民。〈師古曰:「比,方也。一曰,比,近也,音頻寐反。」〉今臣弘位爲御史大夫,爲布被,自九卿以下至於小吏無差,誠如黯言。且無黯,陛下安聞此言?」上以爲有讓,愈益賢之。

元朔げんさく年間、公孫弘は薛沢せつたくに代わって丞相じょうしょうとなった。これ以前、漢では常に列侯れっこうを丞相としていたが、公孫弘だけは爵位がなかった。そこで皇帝は詔を下して言った。「朕は先聖の道を賞賛し、門路を広げ開き、四方の士をべ招く。古においては賢者を任用して位を序で、能力を量って官職を授け、功労の大きい者にはその禄厚く、徳の盛んな者には爵尊く、故に武功は顕重けんちょうをもって顕わし、文徳は行褒こうほうをもって行う。高成こうせい平津郷へいきんきょうの戸六百五十を以て丞相公孫弘を平津侯へいきんこうほうずる」。その後、これが故事こじとなり、丞相が封侯されるのは公孫弘から始まった。

原文元朔中,代薛澤爲丞相。先是,漢常以列侯爲丞相,唯弘無爵,上於是下詔曰:「朕嘉先聖之道,開廣門路,宣招四方之士,蓋古者任賢而序位,量能以授官,勞大者厥祿厚,德盛者獲爵尊,故武功以顯重,而文德以行裦。其以高成之平津鄉戶六百五十封丞相弘爲平津侯。」其後以爲故事,至丞相封,自弘始也。

当時、皇帝は功業を興そうとしており、しばしば賢良を推挙した。公孫弘は自らが推挙の筆頭となり、徒歩かちの身から、数年で宰相となり侯に封ぜられたことを自覚し、そこで客館きゃくかんを建て、東閤とうこうを開いて賢人を招き、彼らと謀議ぼうぎに参与させた。公孫弘自身の食事は肉一種、玄米げんまいの飯であり、旧友や賓客ひんきゃくは彼に衣食を仰ぎ、俸禄はすべて彼らに与え、家には余るものは何もなかった。しかし、その性格は猜疑心さいぎしんが強く、外見は寛大だが内面は深く険しかった。常に公孫弘と不和だった者たちは、遠近を問わず、表面上は親しくしていても、後に結局その過失を報復した。主父偃しゅふえんを殺し、董仲舒とうちゅうじょ膠西こうせいに左遷したのは、いずれも公孫弘の力によるものであった。

原文時上方興功業,婁舉賢良。〈師古曰:「婁,古屢字。」〉弘自見爲舉首,起徒步,數年至宰相封侯,於是起客館,開東閤以延賢人,〈師古曰:「閤者,小門也,東向開之,避當庭門而引賔客,以別於掾史官屬也。」〉與參謀議。弘身食一肉,脫粟飯,〈師古曰:「才脫粟而已,不精𥽦也。脫音他活反。」〉故人賔客仰衣食,〈師古曰:「故人,平生故交也。仰音牛向反。」〉奉祿皆以給之,家無所餘。然其性意忌,外寬內深。〈師古曰:「意忌,多所忌害也。」〉諸常與弘有隙,無近遠,雖陽與善,後竟報其過。殺主父偃,徙董仲舒膠西,皆弘力也。

その後、淮南王わいなんおう衡山王こうざんおうが謀反を企て、その党与を取り調べることが急務となった。公孫弘は病が重く、自分は功績もないのに侯に封ぜられ、宰相の位にあり、明主を補佐して国家を安定させ、人々を臣子の道に従わせるべきであるとかんがえた。今、諸侯に反逆の計画があるのは、大臣が職務を十分に果たしていないからである。病で死んでしまい、責任を果たせなくなることを恐れ、上書して言った。「臣は聞く、天下の通ずる道は五つあり、それを実行するものは三つである。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の交わり、この五つは天下の通ずる道である。仁・知・勇の三つは、それを行うためのものである。故に『よく問うことは知に近く、力を尽くして行うことは仁に近く、恥を知ることは勇に近い。この三つを知れば、自らを治める方法を知る。自らを治める方法を知って、初めて人を治める方法を知る』と言う。自らを治めることができずに人を治めることができる者は未だいない。陛下は自ら孝悌を実践され、三王の治世を鑑とし、周の道を立て、文武の徳を兼ね備え、四方の士を招き寄せ、賢者を任用して位を序列し、能力に応じて官職を授け、これをもって百姓を励まし賢材を勧めようとされている。今、臣は愚かで才能がなく、汗馬の労もなく、陛下が誤って臣の弘を卒伍の中から抜擢され、列侯に封じ、三公の位に至らせられた。臣の弘の行いと才能はその任にわず、さらに持病を抱えており、恐らくは陛下の犬馬に先立って溝壑に埋もれ、ついに恩徳に報い責任を果たすことができないでしょう。侯の位をお返しし、骸骨を乞い、賢者の道を避けたいと思います。」と。皇帝は返答して言った。「古くは功ある者を賞し、徳ある者を褒め、守成の世には文を尊び、禍乱に遭遇すれば武を尊ぶ。このことを改めたことはない。朕は日夜、ひたすらに心を砕き、至尊の位を継承したが、天下を安寧にできないことを恐れ、共に治めようと思う者は、君がよく知っているはずだ。およそ君子は善を善として後世にまで及ぼすものであり、このような行いは、常に朕の心にある。君は不幸にも霜露の病に遭われたが、何の憂いがあって病が止まないことがあろうか。上書して侯を返し、骸骨を乞うとは、朕の不徳を明らかにするものである。今、政務に少し余裕がある。君は精神を養い、思い煩いを止め、医薬の助けを借りて自らを保たれよ。」そこで、告(休暇)を賜い、牛・酒・雑帛を下賜した。数ヶ月後、病は癒え、政務に復帰した。

原文後淮南、衡山謀反,治黨與方急,弘病甚,自以爲無功而封侯,居宰相位,宜佐明主填撫國家,〈師古曰:「填音竹刃反。」〉使人由臣子之道。〈師古曰:「由,從也。」〉今諸侯有畔逆之計,此大臣奉職不稱也。〈師古曰:「稱,副也。」〉恐病死無以塞責,〈師古曰:「塞,當也。」〉乃上書曰:「臣聞天下通道五,所以行之者三。君臣、父子、夫婦、長幼、朋友之交,五者天下之通道也;仁、知、勇三者,所以行之也。故曰『好問近乎知,〈師古曰:「疑則問之,故成其智。」〉力行近乎仁,〈師古曰:「屈己濟物,故爲仁也。」〉知恥近乎勇:〈師古曰:「不求苟得,故爲勇也。」〉知此三者,知所以自治;知所以自治,然後知所以治人。』〈師古曰:「自『好問近乎知』以下,皆禮記中庸之辭。」〉未有不能自治而能治人者也。陛下躬孝弟,監三王,建周道,兼文武,招倈四方之士,任賢序位,量能授官,將以厲百姓勸賢材也。今臣愚駑,無汗馬之勞,〈師古曰:「言未甞從軍旅。」〉陛下過意擢臣弘卒伍之中,〈師古曰:「過猶誤也。」〉封爲列侯,致位三公。臣弘行能不足以稱,〈師古曰:「不副其任也。」〉加有負薪之疾,恐先狗馬填溝壑,終無以報德塞責。願歸侯,乞骸骨,避賢者路。」上報曰:「古者賞有功,襃有德,守成上文,遭遇右武,〈師古曰:「右亦上也,禍亂時則上武耳。」〉未有易此者也。〈師古曰:「易,改也。」〉朕夙夜庶幾,獲承至尊,懼不能寧,惟所與共爲治者,君宜知之。〈師古曰:「惟,思也。知謂知治道也。」〉蓋君子善善及後世,若茲行,常在朕躬。〈師古曰:「朕常思此,不息於心也。」〉君不幸罹霜露之疾,何恙不已,〈師古曰:「罹,遭也。恙,憂也。已,止也。言何憂於疾不止也。禮記曰『疾止復初』也。」〉乃上書歸侯,乞骸骨,是章朕之不德也。〈師古曰:「章,明也。」〉今事少閒,〈師古曰:「閒言有空隙也。閒讀曰閑。」〉君其存精神,止念慮,輔助醫藥以自持。」因賜告牛酒雜帛。居數月,有瘳,視事。

公孫弘は丞相・御史として合わせて六年間務め、八十歳で丞相の任のまま亡くなった。その後、李蔡りさい厳青翟げんせいてき趙周ちょうしゅうよろこせきけい公孫賀こうそんが劉屈氂りゅうくつりが次々と丞相となった。李蔡から石慶までの間、丞相府の客館はただの丘や廃墟となっていたが、公孫賀・劉屈氂の時代には、それが壊されて馬小屋・車庫・奴婢の部屋となった。ただ石慶だけは誠実で慎み深かったため、再び丞相の位を全うし、その他は皆誅殺されたという。

原文凡爲丞相御史六歲,年八十,終丞相位。其後李蔡、嚴青翟、趙周、石慶、公孫賀、劉屈氂繼踵爲丞相。〈師古曰:「繼踵,言相躡也。屈音丘勿反,又鉅勿反。氂音力之反。」〉自蔡至慶,丞相府客館丘虛而已,〈師古曰:「言不能進賢,故不繕修其室屋也。虛讀曰墟。」〉至賀、屈氂時壞以爲馬廄車庫奴婢室矣,唯慶以惇謹,復終相位,〈師古曰:「惇,厚也,音敦。」〉其餘盡伏誅云。

弘の子の度が侯を嗣ぎ、山陽太守となって十数年を経たとき、詔により鉅野県令の史成を公車に詣でさせようとしたが、度が留めて派遣せず、罪に問われて城旦(刑罰の一種)となった。

原文弘子度嗣侯,爲山陽太守十餘歲,詔徵鉅野令史成詣公車,度留不遣,坐論爲城旦。

元始年間、功臣の子孫を再興するにあたり、詔を下して言った。「漢が興って以来、股肱の臣が位にあり、自ら倹約を行い、財を軽んじて義を重んじた者は、公孫弘ほどの者はいない。宰相の位にあり侯に封ぜられながら、布の被り物と精白しない粟の飯を用い、俸禄をもって故人や賓客に供給し、余る所がなかった。制度を減じたと言えようが、臣下を率い風俗を厚くした者である。内は富厚でありながら外に詭服(心に背いた服装)をして虚誉を釣る者とは種類が異なる。徳を表し義を顕彰することは、世を率い俗を励ますものであり、聖王の制度である。弘の後裔の子孫のうち、現在嫡流である者に、爵位は関内侯、食邑三百戸を賜う。」

原文元始中,脩功臣後,下詔曰:「漢興以來,股肱在位,身行儉約,輕財重義,未有若公孫弘者也。位在宰相封侯,而爲布被脫粟之飯,奉祿以給故人賔客,無有所餘,可謂減於制度,〈應劭曰:「禮,貴有常尊,衣服有品。」〉而率下篤俗者也,〈師古曰:「篤,厚也。」〉與內富厚而外爲詭服以釣虛譽者殊科。〈師古曰:「詭,違也。詭服,謂與心志相違也。一曰,違衆之服也。」〉夫表德章義,所以率世厲俗,聖王之制也。其賜弘後子孫之次見爲適者,〈師古曰:「見音胡電反。適讀曰嫡。」〉爵關內侯,食邑三百戶。」

卜式

原文卜式

卜式は、河南の人である。田畑と牧畜を生業としていた。弟が一人おり、弟が成人すると、式は身一つで家を出て、ただ家畜の羊百余頭だけを取って、田畑・屋敷・財産は全て弟に与えた。式は山に入って放牧し、十余年で羊は千余頭に達し、田畑や屋敷を買った。ところが弟はその財産を全て使い果たしてしまい、式はたびたび再び弟に分け与えた。

原文卜式,河南人也。以田畜爲事。有少弟,弟壯,式脫身出,〈師古曰:「脫身謂引身出也。脫音他活反。」〉獨取畜羊百餘,田宅財物盡與弟。式入山牧,十餘年,羊致千餘頭,買田宅。而弟盡破其產,式輒復分與弟者數矣。〈師古曰:「數音所角反。」〉

当時、漢は匈奴と戦争中であった。卜式は上書し、家財の半分を輸送して辺境の防衛を助けたいと願い出た。皇帝は使者を遣わして卜式に問うた。「官職を得たいのか?」卜式は言った。「幼い頃から羊を飼っており、役人の仕事には慣れておらず、望みません。」使者が言った。「家に何か冤罪でもあり、事を訴えたいのか?」卜式は言った。「臣は生きて人と争うことはなく、邑の貧しい者には貸し与え、善からぬ者には教え導き、住んでいる所では人々皆が私に従っています。私にどうして冤罪がありましょうか!」使者が言った。「それなら、あなたは何を望むのか?」卜式は言った。「天子が匈奴を誅伐なさるにあたり、愚かながらも思うに、賢者は節を守って死すべきであり、財産を持つ者はそれを輸送すべきです。このようにすれば匈奴は滅ぼせましょう。」使者はこれを報告した。皇帝は丞相の公孫弘にこの話をした。公孫弘は言った。「これは人情に合いません。法に従わぬ臣下を手本として教化に用いれば法が乱れます。どうか陛下はお許しになりませんように。」皇帝は返答せず、数年後に卜式の申し出を退けた。卜式は帰り、再び農業と牧畜に従事した。

原文時漢方事匈奴,式上書,願輸家財半助邊。上使使問式:「欲爲官乎?」式曰:「自小牧羊,不習仕宦,不願也。」使者曰:「家豈有冤,欲言事乎?」式曰:「臣生與人亡所爭,邑人貧者貸之,〈師古曰:「貸音土戴反。」〉不善者敎之,所居,人皆從式,式何故見冤!」使者曰:「苟,子何欲?」〈師古曰:「言子苟如此輸財,必有所欲。」〉式曰:「天子誅匈奴,愚以爲賢者宜死節,有財者宜輸之,如此而匈奴可滅也。」使者以聞。上以語丞相弘。弘曰:「此非人情。不軌之臣〈師古曰:「軌亦法也。」〉不可以爲化而亂法,願陛下勿許。」上不報,數歲乃罷式。式歸,復田牧。

一年余り後、ちょうど渾邪王こんじゃおうらが降伏し、官庁の費用が多くかかり、倉庫と府庫が空になった。貧民が大量に移住し、皆が官庁の供給に頼ったが、全てを養うことはできなかった。卜式は再び二十万銭を持って河南太守に渡し、移住民の給与に充てさせた。河南が富裕な者が貧民を助けた者を報告すると、皇帝は卜式の名前を見て覚えており、言った。「これは以前に家財の半分を輸送して辺境を助けようとした者だ。」そこで卜式に外徭がいよう四百人分の免除権を賜った。卜式はまたそれを全て官に返還した。この時、富豪たちは皆こぞって財産を隠そうとしたが、ただ卜式だけは特に費用を助けようとした。皇帝はこれにより卜式が終始長者であると考え、ついに卜式を召し出して中郎に任命し、左庶長の爵位を賜い、田十頃を与え、天下に布告して顕彰し、百姓の手本とした。

原文歲餘,會渾邪等降,縣官費衆,倉府空,〈師古曰:「倉,粟所積也。府,錢所聚也。」〉貧民大徙,皆卬給縣官,〈師古曰:「卬音牛向反。」〉無以盡贍。式復持錢二十萬與河南太守,以給徙民。河南上富人助貧民者,上識式姓名,曰:「是固前欲輸其家半財助邊。」乃賜式外繇四百人,〈蘇林曰:「外繇謂戍邊也。一人出三百錢,謂之過更。式歲得十二萬錢也。一說,在繇役之外得復除四百人也。」師古曰:「一說是。」〉式又盡復與官。是時富豪皆爭匿財,〈師古曰:「匿,藏也。」〉唯式尤欲助費。上於是以式終長者,乃召拜式爲中郎,賜爵左庶長,〈師古曰:「第十爵。」〉田十頃,布告天下,尊顯以風百姓。〈師古曰:「風讀曰諷。」〉

当初、卜式は郎官になることを望まなかった。皇帝は言った。「私には上林苑に羊がいる。あなたにそれを飼わせたい。」卜式が郎官になると、布衣に草鞋を履いて羊を飼った。一年余りして、羊は肥え、繁殖した。皇帝がその羊のいる所を通りかかり、それを良しとした。卜式は言った。「羊だけではありません。民を治めるのもこれと同じです。時節に合わせて起居させ、悪いものはすぐに取り除き、群れを害するものを残さないようにするのです。」皇帝はその言葉を奇異に思い、試しに民を治めさせようとした。卜式を緱氏こうし県令に任命すると、緱氏の民は便利に感じた。成臯せいこう県令に転任すると、漕運を統率して成績が最も良かった。皇帝は卜式が質朴で忠実であると考え、斉王太傅に任命し、後に丞相に転じた。

原文初式不願爲郎,上曰:「吾有羊在上林中,欲令子牧之。」式旣爲郎,布衣屮蹻而牧羊。〈師古曰:「蹻,即今之鞋也,南方謂之蹻。字本作屩,並音居略反。」〉歲餘,羊肥息。〈師古曰:「息,生也。言羊旣肥而又生多也。」〉上過其羊所,善之。式曰:「非獨羊也,治民亦猶是矣。以時起居,惡者輒去,〈師古曰:「去,除也,音丘巨反。」〉毋令敗羣。」上竒其言,欲試使治民。拜式緱氏令,緱氏便之;遷成臯令,將漕最。〈師古曰:「爲縣令而又使領漕,其課最上。」〉上以式朴忠,〈師古曰:「朴,質也。」〉拜爲齊王太傅,轉爲相。

呂嘉が反乱した時、卜式は上書して言った。「臣は聞きます。主君が恥をかけば臣下は死すべきだと。群臣はみな死をもって節を尽くすべきであり、その中でも才能の劣る者は財産を出して軍を助けるべきです。このようにすればこそ、強国が侵犯しない道となります。臣は、自分の息子と、臨菑で弩を習った者、博昌で船を習った者を連れて、行って死のうと願い、臣下としての節を尽くしたいと思います。」皇帝は彼を賢者と認め、詔を下して言った。「朕は聞く。徳には徳をもって報い、怨みには直をもって報いる、と。今、天下は不幸にも事変があり、郡県や諸侯の中で、奮い立ってこの直道(怨みに直をもって報いる道)に従おうとする者はまだいない。斉の相は行いが正しく、自ら耕作し、牧畜が増えるたびに兄弟に分け与え、自分でまた新たに作り、利益に惑わされることはなかった。かつて北辺に軍事が起こった時には、上書して官を助けた。往年、西河が凶作の年であった時には、斉の人々を率いて穀物を納めた。今また、先頭に立って奮い立った。まだ戦っていないとはいえ、内に義の心が現れていると言えよう。卜式に関内侯の爵位を賜い、黄金四十斤、田十頃を与える。天下に布告して、これを明らかに知らしめよ。」

原文會呂嘉反,式上書曰:「臣聞主媿臣死。羣臣宜盡死節,其駑下者宜出財以佐軍,如是則強國不犯之道也。〈師古曰:「國家威強而不見侵犯。」〉臣願與子男〈師古曰:「子男,自謂其子也。」〉及臨菑習弩、博昌習船者請行死之,以盡臣節。」〈師古曰:「從軍而致死。」〉上賢之,下詔曰:「朕聞報德以德,報怨以直。〈師古曰:「論語稱孔子曰『以直報怨,以德報德』,故詔引之。」〉今天下不幸有事,郡縣諸侯未有奮繇直道者也。〈孟康曰:「未有奮迅樂出身勞於徭役者也。」臣瓚曰:「言未有奮厲於正直之道也。」師古曰:「二說皆非也。奮,憤激也。繇讀與由同。由,從也。直道,謂報怨以直,征南越也。言無欲奮厲而從於報怨之道也。」〉齊相雅行躬耕,〈臣瓚曰:「雅,素也。言卜式躬耕於野,不要名利。」晉灼曰:「雅,正也。」師古曰:「晉說是也。言其行雅正,又躬耕也。」〉隨牧蓄番,輒分昆弟,更造,〈師古曰:「言其蓄牧滋多,則與昆弟,而更自營爲也。番音扶元反。」〉不爲利惑。〈師古曰:「言不惑於利。」〉日者北邊有興,〈師古曰:「日者,往日也。興謂發軍。」〉上書助官。往年西河歲惡,率齊人入粟。〈師古曰:「歲惡,猶凶歲也。禮記曰『歲凶,年穀不登』。」〉今又首奮,〈師古曰:「爲首而奮厲,願從軍也。」〉雖未戰,可謂義形於內矣。〈師古曰:「形,見也。」〉其賜式爵關內侯,黃金四十斤,田十頃,布告天下,使明知之。」

元鼎年間、卜式を召し出して石慶に代わって御史大夫とした。卜式がその地位に就くと、郡国にとって塩鉄の専売は不便であり、船に算賦(税金)がかかるのは廃止すべきだと述べた。皇帝はこのため卜式を快く思わなくなった。翌年、封ぜんの儀が行われることになったが、卜式はまた文章(礼儀作法や儀式の文書)に通じていなかったので、位を下げて太子太傅とし、兒寬を代わりに御史大夫とした。卜式は天寿を全うして亡くなった。

原文元鼎中,徵式代石慶爲御史大夫。式旣在位,言郡國不便鹽鐵而船有筭,可罷。上由是不說式。〈師古曰:「說讀曰悅。」〉明年當封禪,式又不習文章,貶秩爲太子太傅,以兒寬代之。式以壽終。

兒寬

原文兒寬

兒寬は千乗の人である。尚書を学び、歐陽生に師事した。郡国の選抜で博士のもとに赴き、孔安國に学業を受けた。貧しくて費用がなく、かつて弟子たちの炊事係を務めた。時には雇われて働きながら、経書を帯びて鋤を入れ、休憩するたびに読誦した。その精励ぶりはこのようなものであった。射策(試験)によって掌故となり、功績の順序により、廷尉文学卒史に補任された。

原文兒寬,千乘人也。〈師古曰:「千乘郡千乘縣也。兒音五奚反。」〉治尚書,事歐陽生。以郡國選詣博士,受業孔安國。貧無資用,甞爲弟子都養。〈師古曰:「都,凡衆也。養,主給烹炊者也。貧無資用,故供諸弟子烹炊也。養音弋向反。」〉時行賃作,帶經而鉏,休息輒讀誦,其精如此。以射策爲掌故,功次,補廷尉文學卒史。〈蘇林曰:「秩六百石,舊郡亦有也。」臣瓚曰:「漢注卒史秩百石。」師古曰:「瓚說是也。」〉

倪寛は人となり温和で善良であり、清廉で知恵があり自らを守り、文章を綴るのが上手かったが、武勇には弱く、口下手で自分の考えを明らかに述べることができなかった。当時、張湯ちょうとうが廷尉であった。廷尉府には文書や法律に通じた官吏ばかりが任用されていたが、倪寛は儒生としてその中にいたため、実務に慣れていないと思われ、正式な部署に配属されず、従史に任命されて、北地に赴き、数年にわたり廷尉府の家畜の数を監視した。府に戻り、家畜の帳簿を提出した時、ちょうど廷尉が疑わしい案件について上奏したが、すでに二度も却下されていた。役人たちはどうすればよいかわからなかった。倪寛がその趣旨を説明すると、役人たちは倪寛に上奏文を作成させた。上奏文が完成し、それを読んだ者たちは皆感服し、廷尉の張湯に報告した。張湯は大いに驚き、倪寛を呼び出して話をし、その才能を高く評価して、掾に任命した。倪寛が作成した上奏文を皇帝に提出すると、すぐに許可された。後日、張湯が皇帝に謁見した。皇帝が尋ねた。「先日の上奏文は俗吏の及ぶところではない。誰が書いたのか?」張湯が倪寛だと答えると、皇帝は言った。「私は以前からその名を聞いていた。」張湯はこれにより学問を尊ぶようになり、倪寛を奏讞掾に任命し、古代の法の精神に基づいて疑わしい事件を裁断させ、非常に重用した。張湯が御史大夫になると、倪寛を掾とし、侍御史に推挙した。倪寛が皇帝に謁見し、経学について語ると、皇帝は喜び、『尚書』の一篇について質問した。倪寛は中大夫に抜擢され、左内史に転任した。

原文寬爲人溫良,有廉知自將,〈師古曰:「將,衞也,以智自衞護也。」〉善屬文,〈師古曰:「屬,綴也,音之欲反。」〉然懦於武,〈師古曰:「懦,柔也,音乃喚反,又音儒。」〉口弗能發明也。時張湯爲廷尉,廷尉府盡用文史法律之吏,〈師古曰:「史謂善史書者。」〉而寬以儒生在其間,見謂不習事,不署曹,〈張晏曰:「不署爲列曹也。」師古曰:「署,表也,置也。凡言署官,表其秩位,置立爲之也。」〉除爲從史,〈師古曰:「從史者,但只隨官僚,不主文書。」〉之北地視畜數年。〈師古曰:「之,往也。畜謂廷尉之畜在北地者,若今諸司公廨牛羊。」〉還至府,上畜簿,〈師古曰:「簿謂文計也。」〉會廷尉時有疑奏,已再見卻矣,〈師古曰:「卻,退也。」〉掾史莫知所爲。寬爲言其意,掾史因使寬爲奏。奏成,讀之皆服,以白廷尉湯。湯大驚,召寬與語,乃竒其材,以爲掾。上寬所作奏,即時得可。異日,湯見上。問曰:「前奏非俗吏所及,誰爲之者?湯言兒寬。上曰:「吾固聞之乆矣。」湯由是鄉學,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。」〉以寬爲奏讞掾,以古法義決疑獄,甚重之。及湯爲御史大夫,以寬爲掾,舉侍御史。見上,語經學。上說之,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉從問尚書一篇。擢爲中大夫,遷左內史。

倪寛は民政を担当すると、農業を奨励し、刑罰を緩和し、訴訟を公正に処理し、身を低くして士を敬い、人心を得ることに努めた。仁厚な士人を選んで任用し、部下に情けをかけ、名声を求めなかったので、官吏や民衆は彼を大いに信頼し敬愛した。倪寛は上表して六輔渠の開削を奏請し、用水の規則を定めて灌漑面積を広げた。租税を徴収する際には、時宜に応じて厳格さと寛容さを調節し、民衆に融通を利かせて貸し与えたため、租税が納入されないことが多かった。後に軍事行動が起こり、左内史の倪寛は租税の未納分が多く、考課で最下位となり、免官されることになった。民衆が免官されると聞くと、皆、倪寛を失うことを恐れ、裕福な家は牛車を、貧しい家は担いで、租税を運び、縄でつながれたように絶え間なく続き、考課は逆に最上位となった。皇帝はこれによりますます倪寛を非凡な人物と認めた。

原文寬旣治民,勸農業,緩刑罰,理獄訟,卑體下士,務在於得人心;〈師古曰:「下音胡稼反。」〉擇用仁厚士,推情與下,不求名聲,吏民大信愛之。寬表奏開六輔渠,〈韋昭曰:「六輔謂京兆、馮翊、扶風、河東、河南、河內也。」劉德曰:「於六輔界中爲渠也。」師古曰:「二說皆非也。溝洫志云『兒寬爲左內史,奏請穿六輔渠以益溉鄭國旁高卬之田』,此則於鄭國渠上流南岸更開六道小渠以輔助溉灌耳。今雍州雲陽、三原兩縣界此渠尚存,鄉人名曰六渠,亦號輔渠。故河渠書云『關內則輔渠、靈軹』是也,焉說三河之地哉!」〉定水令以廣溉田。〈師古曰:「爲用水之次具立法,令皆得其所也。」〉收租稅,時裁闊狹,與民相假貸,〈師古曰:「謂有貧弱及農要之時不即徵收也。貸音土代反。」〉以故租多不入。後有軍發,左內史以負租課殿,當免。民聞當免,皆恐失之,大家牛車,小家擔負,輸租繈屬不絕,〈師古曰:「繈,索也,言輸者接連,不絕於道,若繩索之相屬也,猶今言續索矣。屬音之欲反。」〉課更以最。上由此愈竒寬。

また、古の巡狩や封禅の行事を行おうと議論した際には、〈師古が言うには、「放はることで、音は甫往反ほうおうはんである」〉諸儒五十余人が答えたが、定まるところはなかった。これより先、司馬相如が病死し、遺書があり、功徳を称え、しるしふずいを述べて、泰山で封禅を行うに足るとしていた。上(皇帝)はその書を珍奇に思い、寛(倪寛)に問うた。寛は答えて言った。「陛下は自ら聖徳を発揮され、万物の根源を統べ集められ、〈張晏が言うには、「統は察すること、楫はあつめることである」。如淳が言うには、「歴数の元である」。臣瓚が言うには、「統は猶べて覧ることである。楫はしゅうとすべきである」。師古が言うには、「輯・楫と集は、三字ともに同じである。虞書に『楫五瑞ごずい』とあるのがこれで、その字は木に従う。瓚が輯とすべきと言うのは通じない」。〉天地を宗祀そうしし、百神に礼をすすめ、精神の向かうところ、徴兆ちょうちょうは必ず報いられ、〈師古が言うには、「郷はこうと読む。徴はあかしである」。〉天地ともに応じ、符瑞は明らかである。泰山で封を行い、梁父りょうほで禅を行い、姓を明らかにし瑞を考えることは、帝王の盛んな儀式である。しかし、享薦きょうせんの意義は、経書に明記されておらず、〈師古が言うには、「封禅の享薦は、常の礼ではないので、経にその文がない。著は竹箸反ちくちょはんと読む」。〉封禅によって成功を告げ、天地の神祇しんぎ合祛ごうきょするものと考える。〈李竒が言うには、「祛は開散かいさん、合はじること。天地に対して開閉することである」。〉ただひたすらに精誠を尽くして神明に接するのである。百官の職務を総括し、それぞれの事柄にふさわしく節文せつぶんを定める。〈師古が言うには、「称は副うことである」。〉ただ聖主がこれによって、制定して適切なものとし、〈師古が言うには、「当は猶中るである」。〉群臣の列挙できるところではない。今、大事を行おうとして、数年も優游ゆうゆうし、〈師古が言うには、「決しないことを言う」。〉群臣にそれぞれ自ら尽くさせても、結局は成し遂げられない。〈師古が言うには、「言うところが同じでなく、それぞれに執見しっけんがあるからである」。〉ただ天子が中和の極を建て、〈師古が言うには、「極は正しきことである。周礼に『以て人極と為す』とある」。〉条貫じょうかんを兼ねて総括し、金声きんせいにしてふるぎょくしんし、〈師古が言うには、「徳音を振い揚げることを言う、金玉の声の如くである」。〉天の慶びを順成じゅんせいして、万世の基をれるのである」。上はこれをよしとし、自ら儀礼を制定し、儒術を採り入れて文飾した。

原文及議欲放古巡狩封禪之事,〈師古曰:「放,依也,音甫往反。」〉諸儒對者五十餘人,未能有所定。先是,司馬相如病死,有遺書,頌功德,言符瑞,足以封泰山。上竒其書,以問寬,寬對曰:「陛下躬發聖德,統楫群元,〈張晏曰:「統,察;楫,聚也。」如淳曰:「歷數之元也。」臣瓚曰:「統猶緫覽也。楫當作輯。」師古曰:「輯、楫與集,三字並同。虞書曰『楫五瑞』是也,其字從木。瓚曰當爲輯,不通。」〉宗祀天地,薦禮百神,精神所鄉,徵兆必報,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。徵,證也。」〉天地並應,符瑞昭明。其封泰山,禪梁父,昭姓考瑞,帝王之盛節也。然享薦之義,不著于經,〈師古曰:「封禪之享薦也,以非常禮,故經無其文。著音竹箸反。」〉以爲封禪告成,合祛於天地神祇,〈李竒曰:「祛,開散;合,閉也。開閉於天地也。」〉祗戒精專以接神明。緫百官之職,各稱事宜而爲之節文。〈師古曰:「稱,副也。」〉唯聖主所由,制定其當,〈師古曰:「當猶中也。」〉非群臣之所能列。今將舉大事,優游數年,〈師古曰:「言不決也。」〉使群臣得人自盡,終莫能成。〈師古曰:「所言不同,各有執見也。」〉唯天子建中和之極,兼緫條貫,〈師古曰:「極,正也。周禮曰『以爲人極』也。」〉金聲而玉振之,〈師古曰:「言振揚德音,如金玉之聲也。」〉以順成天慶,垂萬世之基。」上然之,乃自制儀,采儒術以文焉。

完成すると、用事に臨もうとして、児寛じかんを御史大夫に任命し、東の方へ行って泰山で封禅の儀を行い、帰還して明堂に登った。児寛が寿の言葉を述べて言った。「臣は聞きます。三代(夏・殷・周)は制度を改め、象徴するものを連ねて受け継いだと。聖人の統緒が廃絶した間、陛下は発憤され、天地の意に合致させ、初めて明堂と辟雍を建立し、泰一を尊んで祭祀し、六律と五声が深く聖意を明らかにし、神々の音楽が四方に響き、それぞれに方角と象徴があり、盛大な祭祀を助け、万世の規範となられました。天下は非常に幸せです。大元(太初暦)の根本的な瑞祥を建て、岱宗(泰山)に登って告げ、福の門を開き、冬至の日影を待ち受けました。癸亥の日に尊んで祭祀し、日は重光を宣べ、上元の甲子(太初元年の甲子の日)に、つつしんで和らぎ、永久に天の恵みを受けられます。光輝が満ち溢れ、天文は明るく輝き、象徴が日に日に明らかに現れ、報いとして符瑞が降りて応じます。臣の寛は杯を捧げて再拝し、千万歳の寿を陛下に上げます。」詔して言った。「謹んで君の杯を挙げる。」

原文旣成,將用事,拜寬爲御史大夫,從東封泰山,還登明堂。寬上壽曰:「臣聞三代改制,屬象相因。〈李竒曰:「政敎之法象相因屬也。」師古曰:「屬,連也,音之欲反。」〉間者聖統廢絕,〈師古曰:「聖統,聖人之遺業,謂禮文也。」〉陛下發憤,合指天地,祖立明堂辟雍,〈師古曰:「祖,始也。」〉宗祀泰一,〈師古曰:「宗,尊也。」〉六律五聲,〈師古曰:「六律,謂黃鍾、太蔟、姑洗、蕤賔、夷則、無射也。五聲,宮、商、角、徵、羽也。」〉幽贊聖意,〈師古曰:「幽,深也。贊,明也。」〉神樂四合,各有方象,〈如淳曰:「四方色及五神祭祀聲樂各有等。」〉以丞嘉祀,爲萬世則,〈師古曰:「則,法也。」〉天下幸甚。將建大元本瑞,登告岱宗,發祉闓門,以候景至。癸亥宗祀,日宣重光;上元甲子,肅邕永享。〈李竒曰:「太平之世,日抱重光,謂日有重日也。」蘇林曰:「將,甫始之辭也。太元,太初歷也。本瑞,謂白麟、寶鼎之屬也。以候景至,冬至之景也。上元甲子,太初元年甲子朔旦冬至也。」師古曰:「宗,尊也。肅,敬也。雍,和也。旣敬且和,則長爲天所亨也。闓讀與開同。」 〉光輝充塞,天文粲然,〈師古曰:「塞,滿也。粲然,明貌。」〉見象日昭,報降符應。〈師古曰:「言大顯示景象,日日昭明也。降下符應,以報德化。」〉臣寬奉觴再拜,上千萬歲壽。」制曰:「敬舉君之觴。」

後に太史令の司馬遷しばせんらが言った。「暦の紀元が壊れて廃れ、漢が興ってからまだ正朔(暦の元日)を改めていません。改めるべきです。」上はそこで児寛に詔して、司馬遷らと共に漢の太初暦を制定させた。この話は〈律暦志〉にある。

原文後太史令司馬遷等言:「歷紀壞廢,漢興未改正朔,宜可正。」上乃詔寬與遷等共定漢太初歷。語在〈律歷志〉。

初め、梁の相の褚大ちょたいは五経に通じ、博士となった。当時、児寛は弟子であった。御史大夫が欠員となった時、褚大が召し出され、褚大は自分が御史大夫を得たと思った。洛陽に着くと、児寛がそれになったと聞き、褚大は笑った。到着して、上(皇帝)の前で児寛と封禅について議論すると、褚大は及ばず、退いて感服して言った。「上は誠に人を知っておられる。」児寛が御史大夫となってからは、意にかなって職務を全うしたので、長く上に対して匡正や諫言することがなく、官属たちは彼を軽んじた。在位九年で、官のまま亡くなった。

原文初梁相褚大通五經,爲博士,時寬爲弟子。及御史大夫缺,徵褚大,大自以爲得御史大夫。至洛陽,聞兒寬爲之,褚大笑。及至,與寬議封禪於上前,大不能及,退而服曰:「上誠知人。」寬爲御史大夫,以稱意任職,故乆無有所匡諫於上,官屬易之。〈師古曰:「易,輕也,音弋豉反。」〉居位九歲,以官卒。

【贊】

原文【贊】

賛に曰く、公孫弘、卜式、兒寬は皆、鴻漸の翼を以て燕爵に困せられ、〈李奇が言うには、「漸は進むことなり。鴻が一挙して千里に進むは、羽翼の材なり。弘らは皆、大材を以て初めは俗に薄められ、燕爵の鴻の志を知らざるが如し」と。師古が言うには、「易の漸卦の上九の爻辞に曰く、『鴻漸于陸、其の羽以て儀と為すべし』と。鴻は大鳥なり。漸は進むことなり。高平を陸と曰う。鴻が陸に進むに、其の羽翼を以て威儀と為すと謂うなり。弘らが皆、鴻の羽儀有るを以て、未だ進まざるの時は、燕爵に軽んぜられしを喩ふ」と。〉羊豕の間に遠跡し、〈師古が言うには、「其の跡を遠く竄く」と。〉其の時に遇はざれば、焉んぞ能く此の位に致さんや。〈師古が言うには、「焉は何に於てぞ」と。〉是の時に当たり、漢興りて六十余載、海内艾安し、〈師古が言うには、「艾は乂と読む」と。〉府庫充実すれども、四夷未だ賓せず、制度多く闕く。上、方に文武を用いんと欲し、之を求むること弗く及ばんとし、〈師古が言うには、「失はんことを恐る」と。〉始めに蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て歎息す。〈師古が言うには、「『公皆安在ぞ、何ぞ相見るの晚きや』と言ふを謂ふ」と。〉群士慕嚮し、異人並び出づ。卜式は芻牧より抜かれ、弘羊は賈豎より擢げられ、衞青は奴僕より奮ひ起こり、日磾は降虜より出づ。斯れ亦曩時の版築・飯牛の明らかなる已。〈師古が言うには、「版築は傅説なり。飯牛は甯戚なり。已は語終の辞なり。飯は扶晚反と音す」と。〉漢の人を得る、茲に於て盛んなり。儒雅は則ち公孫弘、董仲舒、兒寬、篤行は則ち石建、石慶、質直は則ち汲黯、卜式、推賢は則ち韓安國、鄭當時、定令は則ち趙禹、張湯、文章は則ち司馬遷、相如、滑稽は則ち東方朔、枚臯、〈師古が言うには、「滑稽は転利の称なり。滑は乱る。稽は礙る。其の変乱して留礙無きを言ふなり。一説に、稽は考ふるなり。滑乱して考校すべからざるを言ふなり。滑は骨と音す。稽は工奚反と音す」と。〉応対は則ち嚴助、朱買臣、暦数は則ち唐都、洛下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫、蘇武、将率は則ち衞青、霍去病、遺詔を受くるは則ち霍光、金日磾、其の余は紀すに勝えず。〈師古が言うには、「紀は記すなり」と。〉是を以て功業を興造し、制度遺文、後世及ぶ莫し。孝宣、統を承け、洪業を纂修し、亦六蓺を講論し、茂異を招選す。而して蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始は儒術を以て進み、劉向、王裦は文章を以て顕れ、将相は則ち張安世、趙充國、魏相、丙吉、于定國、杜延年、民を治むるは則ち黄霸、王成、龔遂、鄭弘、召信臣、〈師古が言うには、「召は邵と読む」と。〉韓延壽、尹翁歸、趙廣漢、嚴延年、張敞の属、皆功迹有りて世に述べらる。其の名臣を参するに、亦其の次なり。〈師古が言うには、「武帝の時に次ぐ」と。〉

原文贊曰:公孫弘、卜式、兒寬皆以鴻漸之翼困於燕爵,〈李竒曰:「漸,進也。鴻一舉而進千里者,羽翼之材也。弘等皆以大材初爲俗所薄,若燕爵不知鴻志也。」師古曰:「易漸卦上九爻辭曰:『鴻漸于陸,其羽可以爲儀。』鴻,大鳥。漸,進也。高平曰陸。言鴻進於陸,以其羽翼爲威儀也。喻弘等皆有鴻之羽儀,未進之時,燕爵所輕也。」〉遠迹羊豕之間,〈師古曰:「遠竄其跡也。」〉非遇其時,焉能致此位乎?〈師古曰:「焉,於何也。」〉是時,漢興六十餘載,海內艾安,〈師古曰:「艾讀曰乂。」〉府庫充實,而四夷未賔,制度多闕。上方欲用文武,求之如弗及,〈師古曰:「恐失之。」〉始以蒲輪迎枚生,見主父而歎息。〈師古曰:「謂言『公皆安在?何相見之晚!』」〉群士慕嚮,異人並出。卜式拔於芻牧,弘羊擢於賈豎,衞青奮於奴僕,日磾出於降虜,斯亦曩時版築飯牛之明已。〈師古曰:「版築,傅說也。飯牛,甯戚也。已,語終辭也。飯音扶晚反。」〉漢之得人,於茲爲盛,儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶,質直則汲黯、卜式,推賢則韓安國、鄭當時,定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚臯,〈師古曰:「滑稽,轉利之稱也。滑,亂也。稽,礙也。言其變亂無留礙也。一說,稽,考也。言可滑亂不可考校也。滑音骨。稽音工奚反。」〉應對則嚴助、朱買臣,歷數則唐都、洛下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將率則衞青、霍去病,受遺則霍光、金日磾,其餘不可勝紀。〈師古曰:「紀,記也。」〉是以興造功業,制度遺文,後世莫及。孝宣承統,纂修洪業,亦講論六蓺,招選茂異,而蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始以儒術進,劉向、王裦以文章顯,將相則張安世、趙充國、魏相、丙吉、于定國、杜延年,治民則黃霸、王成、龔遂、鄭弘、召信臣、〈師古曰:「召讀曰邵。」〉韓延壽、尹翁歸、趙廣漢、嚴延年、張敞之屬,皆有功迹見述於世。參其名臣,亦其次也。〈師古曰:「次於武帝時。」〉