公孫弘は、菑川の薛の人である。若い頃は獄吏を務めたが、罪を犯して免職された。家は貧しく、海上で豚を飼っていた。四十歳を過ぎてから、ようやく春秋の雑説を学んだ。
武帝が即位したばかりの頃、賢良文学の士を招いた。この時、公孫弘は六十歳で、賢良として博士に徴用された。匈奴への使者として派遣され、帰国して報告したが、武帝の意に合わず、武帝は怒り、能力がないと見なしたため、公孫弘は病気を理由に上書して免職となり帰郷した。
元光五年、再び賢良文学の士を徴用することとなり、菑川国は再び公孫弘を推挙した。公孫弘は辞退して言った。「以前にすでに西の都で仕えたことがありますが、役に立たずに罷免されました。どうか他の者を選んでください。」国人は強く公孫弘を推し、公孫弘は太常のもとに至った。武帝は詔を下して諸儒に策問した。
詔して曰く、聞くところによれば、上古の至治の世には、衣冠に模様を描き、章服を異ならせて、民は犯すことがなく、陰陽が調和し、五穀が実り、六畜が繁殖し、甘露が降り、風雨が時を得て、嘉禾が生じ、朱草が生え、山は草木がなくならず、沢は水が枯れず、麒麟や鳳凰が郊外の藪にいて、亀や龍が池沼に遊び、黄河や洛水から図書が現れ、父は子を失わず、兄は弟を泣かず、北は渠搜を発し、南は交阯を撫で、舟車の至るところ、人跡の及ぶところ、足で歩くもの、口で息をするもの、すべてその宜しきを得たという。朕はこれを大いに嘉する。今、何の道によってかこのような状態に至るのか。子大夫たちは先聖の術を修め、君臣の義を明らかにし、講論して広く聞き、当世に名声がある。敢えて子大夫たちに問う。天人の道は何に本づき始まるのか。吉凶の効験はどこに期するのか。禹や湯の時の水害や旱魃は、その咎は何に由来するのか。仁・義・礼・智の四者は、どのように適用し、どのように設置すべきか。統治を継ぎ、業を後世に伝え、万物や鬼神の変化に対し、天命の符は、廃興はどのようであるか。天文・地理・人事の綱紀について、子大夫たちは習熟している。その心を尽くして正しい議論をし、詳しくその回答を備え、篇に著せ。朕は自ら覧るであろう。隠すところなくあれ。
弘が答えて言う。
臣が聞くところによれば、上古の堯・舜の時代には、爵位や賞賜を貴ばずとも民は善を勧め、刑罰を重んじなくとも民は罪を犯さず、自ら率先して正しく行い、民に接するのに信実があった。末世には爵位を貴び賞賜を厚くしても民は勧められず、刑罰を深く重くしても悪事が止まず、上に立つ者が正しくなく、民に接するのに信実がない。厚い賞賜や重い刑罰は、善を勧め非を禁ずるには十分ではなく、必ず信実があってこそである。それゆえ、能力に応じて官職に任じれば、職分が治まり、無用の言葉を取り除けば、事の実情が得られ、無用の器物を作らなければ、賦税や徴収が省かれ、民の農時を奪わず、民力を妨げなければ、百姓は富み、徳のある者を登用し、徳のない者を退ければ、朝廷は尊ばれ、功績のある者を上位に、功績のない者を下位にすれば、群臣は順序正しく、罰が罪に相当すれば、奸邪は止み、賞が賢者に相当すれば、臣下は勧められる。この八つはすべて、民を治める根本である。だから、民というものは、生業を与えれば争わず、道理が得られれば怨まず、礼があれば暴虐にならず、愛すれば上に親しむ。これが天下を有する者の急務である。だから、法が義に背かなければ、民は服従して離れず、和が礼に背かなければ、民は親しんで暴虐にならない。だから、法が罰するところは、義が取り除くところであり、和が賞するところは、礼が取るところである。礼義は、民が服従するところであり、賞罰がこれに順えば、民は禁令を犯さない。それゆえ、衣冠に模様を描き、章服を異ならせて民が犯さないのは、この道が平素から行われているからである。
臣が聞くところによると、気が同じであれば従い、声が調和すれば応ずるという。〈師古が言うには、「比もまた和の意であり、音は頻寐の反切である」〉今、君主が上で徳を和らげ、百姓が下で和合すれば、〈師古が言うには、「合とは上と徳を合わせることをいう」〉心が和すれば気が和し、気が和すれば形が和し、形が和すれば声が和し、声が和すれば天地の和が応ずるのである。それゆえ陰陽が調和し、風雨が時を得て、甘露が降り、五穀が実り、六畜が繁殖し、嘉禾が生え、朱草が生じ、山は禿げず、沢は枯れない。これが和の極致である。それゆえ形が和すれば病気がなく、病気がなければ夭折せず、父は子を失わず、兄は弟を泣くことがない。徳が天地に匹敵し、明らかさが日月と並ぶならば、麟鳳が到来し、亀龍が郊外に現れ、河から図が現れ、洛から書が現れ、遠方の君主も皆、義を喜び、〈師古が言うには、「説は悦と読む」〉幣を捧げて来朝する。これが和の極致である。
臣が聞くところによると、仁とは愛であり、義とは適切であり、礼とは踏み行うものであり、〈師古が言うには、「履いてこれを行う」〉智とは術の源である。利益を招き害を除き、広く愛して私心がないことを仁という。〈師古が言うには、「致とは引き寄せて至らせること」〉是非を明らかにし、可否を立てることを義という。進退に節度があり、尊卑に分け目があることを礼という。〈師古が言うには、「分の音は扶問の反切」〉生殺の権柄を専有し、〈師古が言うには、「擅とは専らにすること」〉塞がった道を通じさせ、軽重の数を量り、得失の道を論じ、遠近の真偽を必ず君主に明らかにさせることを術という。〈師古が言うには、「見とは顕わにすること」〉この四つはすべて、政治の根本であり、道の実践であり、皆設け行うべきもので、廃してはならない。その要領を得れば、天下は安楽となり、法は設けられても用いられない。〈師古が言うには、「下の者が法を犯さず、刑を加えることがない」〉その術を得なければ、君主は上で蔽われ、官吏は下で乱れる。これが事の実情であり、統治を継ぎ業を伝える根本である。
臣が聞くところによると、堯は大洪水に遭い、禹に治めさせたが、禹の時代に洪水があったとは聞かない。湯の時代の旱魃は、桀の残した悪影響である。桀や紂は悪行を行い、天の罰を受けた。禹や湯は徳を積み、天下を王とした。これによって見れば、天の徳には私的な親しみはなく、これに順えば和が起こり、逆らえば害が生じる。これが天文・地理・人事の道理である。臣の弘は愚かで愚直であり、大問に対する答えを奉るには足りない。〈師古が言うには、「大対とは、大問に対する答えである」〉
当時、答えを提出した者は百余人おり、太常は弘の成績が下位であると上奏した。策問の答えが奏上されると、天子は弘の答えを第一に抜擢した。召し出して拝謁させると、容貌が非常に美しく、博士に任命し、金馬門で待詔とした。〈如淳が言うには、「武帝の時、相馬者の東門京が銅馬法を作って献上し、馬の像を魯斑門の外に立てたため、魯斑門を金馬門と改名した」〉
公孫弘は再び上疏して言った。「陛下には先聖(古代の聖王)の地位はあるが先聖の名声はなく、先聖の名声はあるが先聖のような官吏はいません。それゆえ、情勢は同じでも治績は異なるのです。先代の官吏は正しかったので、その民は篤実でした。〈師古が言うには、「篤は厚いこと」。〉今の世の官吏は邪なので、その民は薄情です。政治は弊害があって行われず、法令は人々が飽きて従いません。邪な官吏に弊害のある政治を行わせ、飽きられた法令で薄情な民を治めれば、民を教化することはできず、これが治績が異なる理由です。臣は聞きます。周公旦が天下を治めたとき、一年で変化し、三年で教化が行き渡り、五年で安定したと。ただ陛下の志し次第です」。〈師古が言うには、「志しの向かうところを言う」。〉上書が奏上されると、天子は冊書で答えて言った。「問う。弘が周公の治世を称えるが、弘の才能は自ら見て、周公とどちらが賢いと思うか」。〈師古が言うには、「與は猶し」。〉公孫弘は答えて言った。「愚臣は浅薄で、どうして周公と才能を比べられましょうか。それでも、愚かな心で明らかに見えるのは、治道がこのようになりうるということです。虎豹や馬牛は、禽獣の中でも制御しがたいものですが、それを教え馴らし慣れさせれば、〈師古が言うには、「馴は順うこと。音は巡」。〉ついには手綱を引いて操り従わせ、人の意のままにすることができます。〈師古が言うには、「人の意に従うこと」。〉臣は聞きます。曲がった木を矯正するのに何日もかからず、〈師古が言うには、「揉は矯めて正すこと。累は積むこと。揉の音は人九反」。〉金石を溶かすのに何月もかからないと。人は利害や好悪について、どうして禽獣や木石の類と比べられましょうか。〈師古が言うには、「好の音は呼到反。悪の音は一故反」。〉一年で変化するというのは、臣の弘はまだ遅いとさえ思います」。皇帝はその言葉を異とされた。
当時、ちょうど西南夷(中国南西部の異民族)と通交しようとしており、巴蜀(四川省一帯)の民はその苦役に苦しんでいた。詔によって公孫弘に視察させた。帰還して奏上する際、西南夷は全く役に立たないと強く非難したが、皇帝は聞き入れなかった。毎回、朝廷で会議があると、その端緒を開陳して、君主に自ら選択させ、面と向かって朝廷で諫争しようとはしなかった。そこで皇帝はその行いが慎重で篤実であり、弁論に余裕があり、法令や官吏の事務に習熟し、儒術で縁飾(修飾)しているのを察知し、〈師古が言うには、「縁飾とは、衣に譬えると、縁を加えるようなもの」。〉皇帝は彼を気に入り、〈師古が言うには、「說は悅ぶと読む」。〉一年のうちに左内史にまで昇進した。
公孫弘が奏事するとき、認められないことがあっても、朝廷で弁論しようとはしなかった。〈師古が言うには、「朝廷で公然と弁論しないこと」。〉常に主爵都尉の汲黯と共に、隙間の暇を請うて、〈師古が言うには、「空隙の暇を求めること」。〉汲黯が先に発言し、公孫弘がその後を推し進めると、皇帝は常に喜び、〈師古が言うには、「說は悅と読む」。〉言うことを全て聞き入れ、これによって日に日に親しく重用されるようになった。かつて公卿と約束して議案を決めたことがあったが、〈師古が言うには、「約は要」。〉皇帝の面前に至ると、皆その約束を背いて皇帝の意向に順った。汲黯が朝廷で公孫弘を詰問して言った。「斉の人間は多く詐りがあって情がなく、最初は臣らと共にこの議案を立てたのに、今は皆それを背くとは、不忠だ」。皇帝が公孫弘に問うと、公孫弘は謝罪して言った。「臣を知る者は臣を忠とし、臣を知らぬ者は臣を不忠とします」。皇帝は公孫弘の言葉をよしとした。側近の寵臣がしばしば公孫弘を誹謗したが、皇帝はますます厚く遇した。
公孫弘は人となり、談笑に富み見聞が広く、〈師古が言うには、「談笑が巧みでしかも見聞が広いこと。談の字は或いは詼と作る。音は恢。啁のこと。よく啁謔すること」。〉常に称えて言った。君主の欠点は度量が広大でないことであり、臣下の欠点は倹約でないことだと。後母を養って孝行で謹み深く、後母が亡くなると、三年間喪に服した。
内史を数年務め、御史大夫に昇進した。当時、また東に蒼海郡を置き、北に朔方郡を築いていた。公孫弘はたびたび諫めて、中国を疲弊させて無用の地に奉仕させるものだと言い、〈師古が言うには、「罷は疲れると読む」。〉廃止を願った。そこで皇帝は朱買臣らに、朔方郡を設置する利便について公孫弘を難詰させた。十の策を発したが、公孫弘は一つも答えられなかった。〈師古が言うには、「利害十条について、公孫弘が応えることができなかったことを言う」。〉公孫弘はそこで謝罪して言った。「山東の鄙びた者で、その利便がこのようであるとは知りませんでした。西南夷と蒼海郡の経営をやめ、専ら朔方郡に力を注ぎたいと思います」。皇帝はそこでそれを許した。
汲黯が言った。「公孫弘は三公の地位にあり、俸禄は非常に多いのに、布の布団を使っている。これは偽りである」。皇帝が公孫弘に尋ねると、公孫弘は謝罪して言った。「確かにその通りです。九卿の中で私と親しい者は汲黯に及ぶ者はいませんが、今日、朝廷で私を詰問したことは、まさに私の欠点を突いています。三公が布の布団を使うのは、確かに偽りを飾って名声を釣ろうとしていることです。また、私は管仲が斉の宰相となった時、三帰の家を持ち、君主に匹敵するほど贅沢をし、桓公は覇者となったが、これは上に僭越したことです。晏嬰が景公の宰相となった時は、肉を二度も食べず、妾に絹を着せず、斉国もよく治まり、これは下に民と等しくしたことです。今、私公孫弘は御史大夫の地位にあり、布の布団を使い、九卿以下から小役人まで区別がないのは、まさに汲黯の言う通りです。しかも汲黯がいなければ、陛下はこの言葉をお聞きにならなかったでしょう」。皇帝は公孫弘に譲る心があると思い、ますます彼を賢者と認めた。
元朔年間、公孫弘は薛沢に代わって丞相となった。これ以前、漢では常に列侯を丞相としていたが、公孫弘だけは爵位がなかった。そこで皇帝は詔を下して言った。「朕は先聖の道を賞賛し、門路を広げ開き、四方の士を宣べ招く。古においては賢者を任用して位を序で、能力を量って官職を授け、功労の大きい者にはその禄厚く、徳の盛んな者には爵尊く、故に武功は顕重をもって顕わし、文徳は行褒をもって行う。高成の平津郷の戸六百五十を以て丞相公孫弘を平津侯に封ずる」。その後、これが故事となり、丞相が封侯されるのは公孫弘から始まった。
当時、皇帝は功業を興そうとしており、しばしば賢良を推挙した。公孫弘は自らが推挙の筆頭となり、徒歩の身から、数年で宰相となり侯に封ぜられたことを自覚し、そこで客館を建て、東閤を開いて賢人を招き、彼らと謀議に参与させた。公孫弘自身の食事は肉一種、玄米の飯であり、旧友や賓客は彼に衣食を仰ぎ、俸禄はすべて彼らに与え、家には余るものは何もなかった。しかし、その性格は猜疑心が強く、外見は寛大だが内面は深く険しかった。常に公孫弘と不和だった者たちは、遠近を問わず、表面上は親しくしていても、後に結局その過失を報復した。主父偃を殺し、董仲舒を膠西に左遷したのは、いずれも公孫弘の力によるものであった。
その後、淮南王と衡山王が謀反を企て、その党与を取り調べることが急務となった。公孫弘は病が重く、自分は功績もないのに侯に封ぜられ、宰相の位にあり、明主を補佐して国家を安定させ、人々を臣子の道に従わせるべきであると考えた。今、諸侯に反逆の計画があるのは、大臣が職務を十分に果たしていないからである。病で死んでしまい、責任を果たせなくなることを恐れ、上書して言った。「臣は聞く、天下の通ずる道は五つあり、それを実行するものは三つである。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の交わり、この五つは天下の通ずる道である。仁・知・勇の三つは、それを行うためのものである。故に『よく問うことは知に近く、力を尽くして行うことは仁に近く、恥を知ることは勇に近い。この三つを知れば、自らを治める方法を知る。自らを治める方法を知って、初めて人を治める方法を知る』と言う。自らを治めることができずに人を治めることができる者は未だいない。陛下は自ら孝悌を実践され、三王の治世を鑑とし、周の道を立て、文武の徳を兼ね備え、四方の士を招き寄せ、賢者を任用して位を序列し、能力に応じて官職を授け、これをもって百姓を励まし賢材を勧めようとされている。今、臣は愚かで才能がなく、汗馬の労もなく、陛下が誤って臣の弘を卒伍の中から抜擢され、列侯に封じ、三公の位に至らせられた。臣の弘の行いと才能はその任に副わず、さらに持病を抱えており、恐らくは陛下の犬馬に先立って溝壑に埋もれ、ついに恩徳に報い責任を果たすことができないでしょう。侯の位をお返しし、骸骨を乞い、賢者の道を避けたいと思います。」と。皇帝は返答して言った。「古くは功ある者を賞し、徳ある者を褒め、守成の世には文を尊び、禍乱に遭遇すれば武を尊ぶ。このことを改めたことはない。朕は日夜、ひたすらに心を砕き、至尊の位を継承したが、天下を安寧にできないことを恐れ、共に治めようと思う者は、君がよく知っているはずだ。およそ君子は善を善として後世にまで及ぼすものであり、このような行いは、常に朕の心にある。君は不幸にも霜露の病に遭われたが、何の憂いがあって病が止まないことがあろうか。上書して侯を返し、骸骨を乞うとは、朕の不徳を明らかにするものである。今、政務に少し余裕がある。君は精神を養い、思い煩いを止め、医薬の助けを借りて自らを保たれよ。」そこで、告(休暇)を賜い、牛・酒・雑帛を下賜した。数ヶ月後、病は癒え、政務に復帰した。
公孫弘は丞相・御史として合わせて六年間務め、八十歳で丞相の任のまま亡くなった。その後、李蔡・厳青翟・趙周・石慶・公孫賀・劉屈氂が次々と丞相となった。李蔡から石慶までの間、丞相府の客館はただの丘や廃墟となっていたが、公孫賀・劉屈氂の時代には、それが壊されて馬小屋・車庫・奴婢の部屋となった。ただ石慶だけは誠実で慎み深かったため、再び丞相の位を全うし、その他は皆誅殺されたという。
弘の子の度が侯を嗣ぎ、山陽太守となって十数年を経たとき、詔により鉅野県令の史成を公車に詣でさせようとしたが、度が留めて派遣せず、罪に問われて城旦(刑罰の一種)となった。
元始年間、功臣の子孫を再興するにあたり、詔を下して言った。「漢が興って以来、股肱の臣が位にあり、自ら倹約を行い、財を軽んじて義を重んじた者は、公孫弘ほどの者はいない。宰相の位にあり侯に封ぜられながら、布の被り物と精白しない粟の飯を用い、俸禄をもって故人や賓客に供給し、余る所がなかった。制度を減じたと言えようが、臣下を率い風俗を厚くした者である。内は富厚でありながら外に詭服(心に背いた服装)をして虚誉を釣る者とは種類が異なる。徳を表し義を顕彰することは、世を率い俗を励ますものであり、聖王の制度である。弘の後裔の子孫のうち、現在嫡流である者に、爵位は関内侯、食邑三百戸を賜う。」
卜式
卜式は、河南の人である。田畑と牧畜を生業としていた。弟が一人おり、弟が成人すると、式は身一つで家を出て、ただ家畜の羊百余頭だけを取って、田畑・屋敷・財産は全て弟に与えた。式は山に入って放牧し、十余年で羊は千余頭に達し、田畑や屋敷を買った。ところが弟はその財産を全て使い果たしてしまい、式はたびたび再び弟に分け与えた。
当時、漢は匈奴と戦争中であった。卜式は上書し、家財の半分を輸送して辺境の防衛を助けたいと願い出た。皇帝は使者を遣わして卜式に問うた。「官職を得たいのか?」卜式は言った。「幼い頃から羊を飼っており、役人の仕事には慣れておらず、望みません。」使者が言った。「家に何か冤罪でもあり、事を訴えたいのか?」卜式は言った。「臣は生きて人と争うことはなく、邑の貧しい者には貸し与え、善からぬ者には教え導き、住んでいる所では人々皆が私に従っています。私にどうして冤罪がありましょうか!」使者が言った。「それなら、あなたは何を望むのか?」卜式は言った。「天子が匈奴を誅伐なさるにあたり、愚かながらも思うに、賢者は節を守って死すべきであり、財産を持つ者はそれを輸送すべきです。このようにすれば匈奴は滅ぼせましょう。」使者はこれを報告した。皇帝は丞相の公孫弘にこの話をした。公孫弘は言った。「これは人情に合いません。法に従わぬ臣下を手本として教化に用いれば法が乱れます。どうか陛下はお許しになりませんように。」皇帝は返答せず、数年後に卜式の申し出を退けた。卜式は帰り、再び農業と牧畜に従事した。
一年余り後、ちょうど渾邪王らが降伏し、官庁の費用が多くかかり、倉庫と府庫が空になった。貧民が大量に移住し、皆が官庁の供給に頼ったが、全てを養うことはできなかった。卜式は再び二十万銭を持って河南太守に渡し、移住民の給与に充てさせた。河南が富裕な者が貧民を助けた者を報告すると、皇帝は卜式の名前を見て覚えており、言った。「これは以前に家財の半分を輸送して辺境を助けようとした者だ。」そこで卜式に外徭四百人分の免除権を賜った。卜式はまたそれを全て官に返還した。この時、富豪たちは皆こぞって財産を隠そうとしたが、ただ卜式だけは特に費用を助けようとした。皇帝はこれにより卜式が終始長者であると考え、ついに卜式を召し出して中郎に任命し、左庶長の爵位を賜い、田十頃を与え、天下に布告して顕彰し、百姓の手本とした。
当初、卜式は郎官になることを望まなかった。皇帝は言った。「私には上林苑に羊がいる。あなたにそれを飼わせたい。」卜式が郎官になると、布衣に草鞋を履いて羊を飼った。一年余りして、羊は肥え、繁殖した。皇帝がその羊のいる所を通りかかり、それを良しとした。卜式は言った。「羊だけではありません。民を治めるのもこれと同じです。時節に合わせて起居させ、悪いものはすぐに取り除き、群れを害するものを残さないようにするのです。」皇帝はその言葉を奇異に思い、試しに民を治めさせようとした。卜式を緱氏県令に任命すると、緱氏の民は便利に感じた。成臯県令に転任すると、漕運を統率して成績が最も良かった。皇帝は卜式が質朴で忠実であると考え、斉王太傅に任命し、後に丞相に転じた。
呂嘉が反乱した時、卜式は上書して言った。「臣は聞きます。主君が恥をかけば臣下は死すべきだと。群臣はみな死をもって節を尽くすべきであり、その中でも才能の劣る者は財産を出して軍を助けるべきです。このようにすればこそ、強国が侵犯しない道となります。臣は、自分の息子と、臨菑で弩を習った者、博昌で船を習った者を連れて、行って死のうと願い、臣下としての節を尽くしたいと思います。」皇帝は彼を賢者と認め、詔を下して言った。「朕は聞く。徳には徳をもって報い、怨みには直をもって報いる、と。今、天下は不幸にも事変があり、郡県や諸侯の中で、奮い立ってこの直道(怨みに直をもって報いる道)に従おうとする者はまだいない。斉の相は行いが正しく、自ら耕作し、牧畜が増えるたびに兄弟に分け与え、自分でまた新たに作り、利益に惑わされることはなかった。かつて北辺に軍事が起こった時には、上書して官を助けた。往年、西河が凶作の年であった時には、斉の人々を率いて穀物を納めた。今また、先頭に立って奮い立った。まだ戦っていないとはいえ、内に義の心が現れていると言えよう。卜式に関内侯の爵位を賜い、黄金四十斤、田十頃を与える。天下に布告して、これを明らかに知らしめよ。」
元鼎年間、卜式を召し出して石慶に代わって御史大夫とした。卜式がその地位に就くと、郡国にとって塩鉄の専売は不便であり、船に算賦(税金)がかかるのは廃止すべきだと述べた。皇帝はこのため卜式を快く思わなくなった。翌年、封禅の儀が行われることになったが、卜式はまた文章(礼儀作法や儀式の文書)に通じていなかったので、位を下げて太子太傅とし、兒寬を代わりに御史大夫とした。卜式は天寿を全うして亡くなった。
兒寬
兒寬は千乗の人である。尚書を学び、歐陽生に師事した。郡国の選抜で博士のもとに赴き、孔安國に学業を受けた。貧しくて費用がなく、かつて弟子たちの炊事係を務めた。時には雇われて働きながら、経書を帯びて鋤を入れ、休憩するたびに読誦した。その精励ぶりはこのようなものであった。射策(試験)によって掌故となり、功績の順序により、廷尉文学卒史に補任された。
倪寛は人となり温和で善良であり、清廉で知恵があり自らを守り、文章を綴るのが上手かったが、武勇には弱く、口下手で自分の考えを明らかに述べることができなかった。当時、張湯が廷尉であった。廷尉府には文書や法律に通じた官吏ばかりが任用されていたが、倪寛は儒生としてその中にいたため、実務に慣れていないと思われ、正式な部署に配属されず、従史に任命されて、北地に赴き、数年にわたり廷尉府の家畜の数を監視した。府に戻り、家畜の帳簿を提出した時、ちょうど廷尉が疑わしい案件について上奏したが、すでに二度も却下されていた。役人たちはどうすればよいかわからなかった。倪寛がその趣旨を説明すると、役人たちは倪寛に上奏文を作成させた。上奏文が完成し、それを読んだ者たちは皆感服し、廷尉の張湯に報告した。張湯は大いに驚き、倪寛を呼び出して話をし、その才能を高く評価して、掾に任命した。倪寛が作成した上奏文を皇帝に提出すると、すぐに許可された。後日、張湯が皇帝に謁見した。皇帝が尋ねた。「先日の上奏文は俗吏の及ぶところではない。誰が書いたのか?」張湯が倪寛だと答えると、皇帝は言った。「私は以前からその名を聞いていた。」張湯はこれにより学問を尊ぶようになり、倪寛を奏讞掾に任命し、古代の法の精神に基づいて疑わしい事件を裁断させ、非常に重用した。張湯が御史大夫になると、倪寛を掾とし、侍御史に推挙した。倪寛が皇帝に謁見し、経学について語ると、皇帝は喜び、『尚書』の一篇について質問した。倪寛は中大夫に抜擢され、左内史に転任した。
倪寛は民政を担当すると、農業を奨励し、刑罰を緩和し、訴訟を公正に処理し、身を低くして士を敬い、人心を得ることに努めた。仁厚な士人を選んで任用し、部下に情けをかけ、名声を求めなかったので、官吏や民衆は彼を大いに信頼し敬愛した。倪寛は上表して六輔渠の開削を奏請し、用水の規則を定めて灌漑面積を広げた。租税を徴収する際には、時宜に応じて厳格さと寛容さを調節し、民衆に融通を利かせて貸し与えたため、租税が納入されないことが多かった。後に軍事行動が起こり、左内史の倪寛は租税の未納分が多く、考課で最下位となり、免官されることになった。民衆が免官されると聞くと、皆、倪寛を失うことを恐れ、裕福な家は牛車を、貧しい家は担いで、租税を運び、縄でつながれたように絶え間なく続き、考課は逆に最上位となった。皇帝はこれによりますます倪寛を非凡な人物と認めた。
また、古の巡狩や封禅の行事を行おうと議論した際には、〈師古が言うには、「放は依ることで、音は甫往反である」〉諸儒五十余人が答えたが、定まるところはなかった。これより先、司馬相如が病死し、遺書があり、功徳を称え、符瑞を述べて、泰山で封禅を行うに足るとしていた。上(皇帝)はその書を珍奇に思い、寛(倪寛)に問うた。寛は答えて言った。「陛下は自ら聖徳を発揮され、万物の根源を統べ集められ、〈張晏が言うには、「統は察すること、楫は聚めることである」。如淳が言うには、「歴数の元である」。臣瓚が言うには、「統は猶緫べて覧ることである。楫は輯とすべきである」。師古が言うには、「輯・楫と集は、三字ともに同じである。虞書に『楫五瑞』とあるのがこれで、その字は木に従う。瓚が輯とすべきと言うのは通じない」。〉天地を宗祀し、百神に礼を薦め、精神の向かうところ、徴兆は必ず報いられ、〈師古が言うには、「郷は嚮と読む。徴は証である」。〉天地ともに応じ、符瑞は明らかである。泰山で封を行い、梁父で禅を行い、姓を明らかにし瑞を考えることは、帝王の盛んな儀式である。しかし、享薦の意義は、経書に明記されておらず、〈師古が言うには、「封禅の享薦は、常の礼ではないので、経にその文がない。著は竹箸反と読む」。〉封禅によって成功を告げ、天地の神祇と合祛するものと考える。〈李竒が言うには、「祛は開散、合は閉じること。天地に対して開閉することである」。〉ただひたすらに精誠を尽くして神明に接するのである。百官の職務を総括し、それぞれの事柄にふさわしく節文を定める。〈師古が言うには、「称は副うことである」。〉ただ聖主がこれによって、制定して適切なものとし、〈師古が言うには、「当は猶中るである」。〉群臣の列挙できるところではない。今、大事を行おうとして、数年も優游し、〈師古が言うには、「決しないことを言う」。〉群臣にそれぞれ自ら尽くさせても、結局は成し遂げられない。〈師古が言うには、「言うところが同じでなく、それぞれに執見があるからである」。〉ただ天子が中和の極を建て、〈師古が言うには、「極は正しきことである。周礼に『以て人極と為す』とある」。〉条貫を兼ねて総括し、金声にして玉振し、〈師古が言うには、「徳音を振い揚げることを言う、金玉の声の如くである」。〉天の慶びを順成して、万世の基を垂れるのである」。上はこれをよしとし、自ら儀礼を制定し、儒術を採り入れて文飾した。
完成すると、用事に臨もうとして、児寛を御史大夫に任命し、東の方へ行って泰山で封禅の儀を行い、帰還して明堂に登った。児寛が寿の言葉を述べて言った。「臣は聞きます。三代(夏・殷・周)は制度を改め、象徴するものを連ねて受け継いだと。聖人の統緒が廃絶した間、陛下は発憤され、天地の意に合致させ、初めて明堂と辟雍を建立し、泰一を尊んで祭祀し、六律と五声が深く聖意を明らかにし、神々の音楽が四方に響き、それぞれに方角と象徴があり、盛大な祭祀を助け、万世の規範となられました。天下は非常に幸せです。大元(太初暦)の根本的な瑞祥を建て、岱宗(泰山)に登って告げ、福の門を開き、冬至の日影を待ち受けました。癸亥の日に尊んで祭祀し、日は重光を宣べ、上元の甲子(太初元年の甲子の日)に、粛んで和らぎ、永久に天の恵みを受けられます。光輝が満ち溢れ、天文は明るく輝き、象徴が日に日に明らかに現れ、報いとして符瑞が降りて応じます。臣の寛は杯を捧げて再拝し、千万歳の寿を陛下に上げます。」詔して言った。「謹んで君の杯を挙げる。」
後に太史令の司馬遷らが言った。「暦の紀元が壊れて廃れ、漢が興ってからまだ正朔(暦の元日)を改めていません。改めるべきです。」上はそこで児寛に詔して、司馬遷らと共に漢の太初暦を制定させた。この話は〈律暦志〉にある。
初め、梁の相の褚大は五経に通じ、博士となった。当時、児寛は弟子であった。御史大夫が欠員となった時、褚大が召し出され、褚大は自分が御史大夫を得たと思った。洛陽に着くと、児寛がそれになったと聞き、褚大は笑った。到着して、上(皇帝)の前で児寛と封禅について議論すると、褚大は及ばず、退いて感服して言った。「上は誠に人を知っておられる。」児寛が御史大夫となってからは、意にかなって職務を全うしたので、長く上に対して匡正や諫言することがなく、官属たちは彼を軽んじた。在位九年で、官のまま亡くなった。
【贊】
賛に曰く、公孫弘、卜式、兒寬は皆、鴻漸の翼を以て燕爵に困せられ、〈李奇が言うには、「漸は進むことなり。鴻が一挙して千里に進むは、羽翼の材なり。弘らは皆、大材を以て初めは俗に薄められ、燕爵の鴻の志を知らざるが如し」と。師古が言うには、「易の漸卦の上九の爻辞に曰く、『鴻漸于陸、其の羽以て儀と為すべし』と。鴻は大鳥なり。漸は進むことなり。高平を陸と曰う。鴻が陸に進むに、其の羽翼を以て威儀と為すと謂うなり。弘らが皆、鴻の羽儀有るを以て、未だ進まざるの時は、燕爵に軽んぜられしを喩ふ」と。〉羊豕の間に遠跡し、〈師古が言うには、「其の跡を遠く竄く」と。〉其の時に遇はざれば、焉んぞ能く此の位に致さんや。〈師古が言うには、「焉は何に於てぞ」と。〉是の時に当たり、漢興りて六十余載、海内艾安し、〈師古が言うには、「艾は乂と読む」と。〉府庫充実すれども、四夷未だ賓せず、制度多く闕く。上、方に文武を用いんと欲し、之を求むること弗く及ばんとし、〈師古が言うには、「失はんことを恐る」と。〉始めに蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て歎息す。〈師古が言うには、「『公皆安在ぞ、何ぞ相見るの晚きや』と言ふを謂ふ」と。〉群士慕嚮し、異人並び出づ。卜式は芻牧より抜かれ、弘羊は賈豎より擢げられ、衞青は奴僕より奮ひ起こり、日磾は降虜より出づ。斯れ亦曩時の版築・飯牛の明らかなる已。〈師古が言うには、「版築は傅説なり。飯牛は甯戚なり。已は語終の辞なり。飯は扶晚反と音す」と。〉漢の人を得る、茲に於て盛んなり。儒雅は則ち公孫弘、董仲舒、兒寬、篤行は則ち石建、石慶、質直は則ち汲黯、卜式、推賢は則ち韓安國、鄭當時、定令は則ち趙禹、張湯、文章は則ち司馬遷、相如、滑稽は則ち東方朔、枚臯、〈師古が言うには、「滑稽は転利の称なり。滑は乱る。稽は礙る。其の変乱して留礙無きを言ふなり。一説に、稽は考ふるなり。滑乱して考校すべからざるを言ふなり。滑は骨と音す。稽は工奚反と音す」と。〉応対は則ち嚴助、朱買臣、暦数は則ち唐都、洛下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫、蘇武、将率は則ち衞青、霍去病、遺詔を受くるは則ち霍光、金日磾、其の余は紀すに勝えず。〈師古が言うには、「紀は記すなり」と。〉是を以て功業を興造し、制度遺文、後世及ぶ莫し。孝宣、統を承け、洪業を纂修し、亦六蓺を講論し、茂異を招選す。而して蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始は儒術を以て進み、劉向、王裦は文章を以て顕れ、将相は則ち張安世、趙充國、魏相、丙吉、于定國、杜延年、民を治むるは則ち黄霸、王成、龔遂、鄭弘、召信臣、〈師古が言うには、「召は邵と読む」と。〉韓延壽、尹翁歸、趙廣漢、嚴延年、張敞の属、皆功迹有りて世に述べらる。其の名臣を参するに、亦其の次なり。〈師古が言うには、「武帝の時に次ぐ」と。〉