巻58

 漢書

公孫弘卜式兒寛伝 第二十八

公孫弘は、菑川国薛県の人である。若い頃は獄吏を務めたが、罪を得て免職された。家は貧しく、海辺で豚を飼っていた。四十歳を過ぎてから、ようやく『春秋』と諸家の学説を学んだ。

武帝が即位した初め、賢良・文学の士を招いた。この時、公孫弘は六十歳で、賢良として博士に徴用された。 匈奴 への使者として派遣され、帰還して報告したが、武帝の意に合わず、〈 師古 が言うには、「奏上した事柄が天子の意に合わなかったということである。」〉上は怒り、能力がないと見なしたので、公孫弘は病気を理由に上書して免職され帰郷した。〈師古が言うには、「移病とは、文書を送って病気であると述べることである。一説には、病気を理由に官職を辞して居を移すことである。」〉

元光五年、再び賢良・文学を徴用することとなり、菑川国は再び公孫弘を推挙した。公孫弘は辞退して言った。「以前にすでに西の都( 長安 )に赴いたことがありますが、用いられずに終わりました。どうか他の者を選んでください。」国人は強く公孫弘を推したので、公孫弘は太常のもとに赴いた。上(武帝)は諸儒に策問の 詔 を下した。

制( 詔 )して曰く。聞くところによれば、上古の至治の世には、罪人の衣冠に模様を描き、礼服を区別するだけで、民は法を犯さなかった。陰陽が調和し、五穀が実り、六畜が繁殖し、〈師古が言うには、「登は成る(実る)ことである。蕃は多いことで、音は扶元の反切である。」〉甘露が降り、風雨が時にかなって起こり、嘉禾が生え、朱草が生じ、〈師古が言うには、「屮は、古い草の字である。」〉山は禿げず、沢は枯れなかった。〈師古が言うには、「童は草木がないことである。涸は水が尽きること、音は胡各の反切である。」〉麒麟と鳳凰が郊野や藪沢におり、亀と龍が池沼に遊び、〈師古が言うには、「邑の外を郊という。水のない沢を藪という。沼は池である。」〉黄河や洛水から図書が現れた。父が子を喪うことがなく、兄が弟のために泣くことがなかった。北は渠搜を発し、南は交阯を撫でた。〈師古が言うには、「威徳の盛んなことを言い、北は渠搜から徴発し、南は交阯を綏撫したということである。渠搜は遠方の夷狄の国である。」〉舟車の至るところ、人の足跡の及ぶところ、足で歩くもの、口で呼吸するもの、すべてその宜しきを得ていた。〈師古が言うには、「跂行は、足があって歩くものである。喙息は、口があって呼吸するものをいう。跂の音は岐。喙の音は許穢の反切である。」〉朕はこれを大いに嘉する。今、どのような道によってこのような境地に至ることができるのか。〈師古が言うには、「臻は至ることである。」〉子大夫(諸儒への敬称)は先聖の術を修め、君臣の義を明らかにし、論を講じ広く聞き知っており、当世に名声がある。敢えて子大夫に問う。天と人の道は、何を本とし始めとするのか。吉凶の効験は、どこに期するのか。〈師古が言うには、「安は焉である。」〉禹や湯の時の水害や旱魃は、その咎は何に由来するのか。仁・義・礼・智の四つについて、その適切なあり方は、いかにあるべきか。統治を継承し業を後世に伝え、万物や鬼神の変化、〈師古が言うには、「属は繫ぐことで、音は之欲の反切である。その下も同じ。」〉天命の符瑞、廃興はどのようなものか。天文・地理・人事の綱紀について、子大夫は習熟している。その心を尽くして正しく議論し、詳しくその回答を備え、簡策に著しなさい。〈師古が言うには、「悉は尽くすことである。篇は簡である。」〉朕は自ら覧るであろう。何も隠すことはない。

公孫弘は答えて言った。

臣が聞くところによれば、上古の堯や舜の時代には、爵禄や賞賜を貴ばなくても民は善を勧め、刑罰を重んじなくても民は法を犯さず、自ら率先して正しく行い、民を遇するのに信実があったからである。〈師古が言うには、「躬は身をもって行うことをいう。遇は処遇し待遇することである。」〉末世には爵禄を貴び賞賜を厚くしても民は善を勧めず、刑罰を深く重くしても悪事が止まず、その上(為政者)が正しくなく、民を遇するのに信実がないからである。厚い賞賜や重い刑罰は、善を勧め悪を禁じるには十分ではなく、必ず信実があってこそである。それゆえ、能力に応じて官職に任じれば、職分に応じて治まる。無用の言葉を取り除けば、事の実情が得られる。無用の器物を作らなければ、賦役や徴税が省かれる。民の農時を奪わず、民力を妨げなければ、百姓は富む。徳のある者を登用し、徳のない者を退ければ、朝廷は尊ばれる。功績のある者を上位に、功績のない者を下位にすれば、群臣は順序正しく行動する。〈李竒が言うには、「順序があるということである。」師古が言うには、「逡の音は七旬の反切、その字は辶に従う。」〉罰が罪に当てはまれば、奸邪は止む。賞が賢者に当てはまれば、臣下は勧められる。この八つはすべて、民を治める根本である。それゆえ、民というものは、生業を与えれば争わず、道理が得られれば怨まず、礼があれば暴虐にならず、慈しめば上に親しむ。〈師古が言うには、「それぞれその生業を得れば争う心がなく、それぞれその道理が通れば怨むことがなく、道理によって導けば暴慢がなく、子のように慈しめば上に親しむことを知る。」〉これが天下を治める急務である。それゆえ、法が義に遠からなければ、民は服従して離れず、和が礼に遠からなければ、民は親しんで暴虐にならない。〈師古が言うには、「遠は違うことで、音は于萬の反切である。」〉それゆえ、法が罰するところは、義が除くところであり、和が賞するところは、礼が取るところである。礼と義は、民が服従するところであり、賞罰がこれに順えば、民は禁令を犯さない。それゆえ、衣冠に模様を描き、礼服を区別するだけで民が法を犯さなかったのは、この道が平素から行われていたからである。

臣が聞くところによれば、気が同じであれば従い、声が調和すれば応ずる。〈師古が言うには、「比も和のことで、音は頻寐の反切である。」〉今、人主が上で徳を和らげれば、百姓は下で和合する。〈師古が言うには、「合とは上と徳を合わせることをいう。」〉それゆえ、心が和すれば気が和し、気が和すれば形(身体)が和し、形が和すれば声が和し、声が和すれば天地の和が応ずる。それゆえ、陰陽が調和し、風雨が時にかなって起こり、甘露が降り、五穀が実り、六畜が繁殖し、嘉禾が生え、朱草が生じ、山が禿げず、沢が枯れない。これが和の極みである。それゆえ、形が和すれば病気がなく、病気がなければ夭折しない。それゆえ、父が子を喪うことがなく、兄が弟のために泣くことがない。徳が天地に匹敵し、明らかさが日月と並べば、麒麟や鳳凰が至り、亀や龍が郊野におり、黄河から図が現れ、洛水から書が現れ、遠方の君主はみな義を喜び、〈師古が言うには、「説は悦と読む。」〉幣を奉じて来朝する。これが和の極致である。

臣が聞くところによれば、仁とは愛であり、義とは宜しきであり、礼とは踏み行うところであり、〈師古が言うには、「履いてこれを行う。」〉智とは術の源である。利益をもたらし害を除き、広く愛して私心がないことを仁という。〈師古が言うには、「致とは引き寄せて至らせることである。」〉是非を明らかにし、可否を立てることを義という。進退に度合いがあり、尊卑に分け隔てがあることを礼という。〈師古が言うには、「分の音は扶問の反切。」〉生殺の権柄を専有し、〈師古が言うには、「擅は専らにすることである。」〉塞がった道を通じさせ、軽重の数を量り、得失の道を論じ、遠近の事情や真偽を必ず上(君主)に明らかにさせることを術という。〈師古が言うには、「見は顕わにすることである。」〉この四つはすべて、治世の根本であり、道の用いられるところであり、みな設け行われるべきで、廃してはならない。その要領を得れば、天下は安楽となり、法は設けられても用いられない。〈師古が言うには、「下の者が法を犯さず、刑を加えることがないからである。」〉その術を得なければ、主は上で蔽われ、官は下で乱れる。これが事の実情であり、統治を継承し業を後世に伝える根本である。

臣は聞く、堯が洪水に遭い、禹にこれを治めさせたが、禹の時に洪水があったとは聞かない。もし湯の時の旱魃があれば、それは桀の残した悪影響である。桀や紂が悪行を行えば、天の罰を受ける。禹や湯が徳を積めば、天下を王とすることができる。これによって見れば、天の徳には私的な親しみはなく、これに順えば和が起こり、逆らえば害が生じる。これは天文・地理・人事の道理である。臣の弘は愚かで愚直であり、大問に対する答えを奉るには足りない。

当時、策問に答えた者は百余人おり、太常が奏上したところ、弘の評価は下位であった。策文が奏上されると、天子は弘の答えを第一に抜擢した。召し出されて拝謁すると、容貌は非常に美しく、博士に任命され、金馬門で待 詔 となった。

弘は再び上疏して言った。「陛下には先聖(堯・舜)のような地位がありながら先聖のような名声がなく、先聖のような名声がありながら先聖のような官吏がいない。それゆえ、情勢は同じでも政治は異なる。先代の官吏は正しかったので、その民は篤実であった。今の世の官吏は邪であるので、その民は薄情である。政治は弊害があって行われず、法令は倦怠して聞き入れられない。邪な官吏に弊害のある政治を行わせ、倦怠した法令で薄情な民を治めれば、民を教化することはできず、これが政治が異なる所以である。臣は聞く、周公旦が天下を治めた時、一年で変化し、三年で教化され、五年で安定した。ただ陛下の志し次第である。」上疏が奏上されると、天子は冊書で答えて言った。「問う。弘は周公の政治を称えるが、弘の才能は自ら見て、周公と比べてどちらが賢いと思うか。」弘は答えて言った。「愚臣は浅薄であり、どうして周公と才能を比べることができましょうか。そうではありますが、愚かな心にも、政治の道がこのようになりうることがはっきりと見えます。虎や豹、馬や牛は、禽獣の中でも制御できないものであるが、それを教え馴らし慣れさせれば、ついには引き連れ、駕して服従させ、ただ人の言うことに従うようになります。臣は聞く、曲がった木を矯正するのに何日もかからず、金石を溶かすのに何月もかからない。人は利害や好悪において、どうして禽獣や木石の類と比べられようか。一年で変化するというのは、臣の弘はまだ遅いとひそかに思っています。」皇帝はその言葉を異とされた。

当時、ちょうど西南夷と通じようとしており、 巴 蜀 の地はこれに苦しんでいた。 詔 によって弘に視察させた。帰還して事を奏上し、西南夷は全く役に立たないと盛んに誹謗したが、皇帝は聞き入れなかった。毎朝の会議では、その端緒を開陳し、君主自らに選択させ、面と向かって朝廷で諫争しようとはしなかった。そこで皇帝はその行いが慎重で篤実であり、弁論に余裕があり、法令や吏事に習熟し、儒術で縁飾していることを察し、これを喜び、一年のうちに左内史にまで至った。

弘は事を奏上する際、認められないことがあっても、朝廷で弁論しようとはしなかった。常に主爵都尉の汲黯と暇を請い、黯が先に発言し、弘がその後を推し進めた。皇帝は常に喜び、言うことはすべて聞き入れられ、これによって日増しに親しく貴ばれるようになった。かつて公卿と約束して議したことがあったが、皇帝の面前に至ると、皆その約束に背いて皇帝の意向に順った。汲黯が朝廷で弘を詰問して言った。「 斉 の人間は多く詐りがあり情が薄い。最初は臣らとこの議を建てたのに、今は皆それに背いている。不忠である。」皇帝が弘に問うと、弘は謝罪して言った。「臣を知る者は臣を忠とし、臣を知らぬ者は臣を不忠とします。」皇帝は弘の言葉をよしとした。側近の幸臣がたびたび弘を誹謗したが、皇帝はますます弘を厚遇した。

弘は人となり、談笑に富み見聞が広く、常に「君主の欠点は度量が広大でないことであり、臣下の欠点は倹約でないことである」と称していた。後母を養って孝行で謹厳であり、後母が亡くなると、三年間喪に服した。

内史となって数年後、御史大夫に遷った。当時、また東方に蒼海郡を置き、北方に朔方郡を築いていた。弘はたびたび諫めて、中国を疲弊させて無用の地に奉仕するのはやめるべきだとし、廃止を願い出た。そこで皇帝は朱買臣らに弘を難じて朔方郡設置の利便を論じさせた。十の策を発したが、弘は一つも答えられなかった。弘はそこで謝罪して言った。「山東の鄙びた者で、その利便がこのようなものとは知りませんでした。西南夷と蒼海郡をやめ、専ら朔方郡に奉仕することを願います。」皇帝はそこでこれを許した。

汲黯が言った。「弘の位は三公にあり、俸禄は非常に多いのに、布の被子を使っている。これは詐りである。」皇帝が弘に問うと、弘は謝罪して言った。「その通りです。九卿の中で臣と親しい者は黯に過ぎませんが、今日朝廷で弘を詰問されたことは、誠に弘の欠点を突いています。三公が布の被子を使うのは、誠に飾り立てて詐り、名声を釣ろうとしているのです。かつ臣は聞きます、管仲が斉の宰相となった時、三帰(三姓の女を娶り)、君主に匹敵するほど奢侈で、桓公は覇者となったが、これは上に僭上して君主のようでした。晏嬰が景公の宰相となった時、肉を重ねて食べず、妾に絹を着せず、斉国もよく治まったが、これは下に倣って民のようでした。今、臣の弘が御史大夫の位にあり、布の被子を使い、九卿以下から小吏に至るまで区別がないのは、誠に黯の言う通りです。しかも黯がいなければ、陛下はどうしてこの言葉をお聞きになれたでしょうか。」皇帝はこれに譲りの心があると思い、ますます彼を賢人と見なした。

元朔年間、薛沢に代わって丞相となった。これ以前は、漢では常に列侯を丞相としていたが、ただ弘だけが爵位がなかった。そこで皇帝は 詔 を下して言った。「朕は先聖の道を嘉し、門路を広く開き、四方の士を宣べ招く。そもそも古くは賢者を任用して位を序し、能力を量って官を授け、功労の大きい者はその禄厚く、徳の盛んな者は爵尊く獲る。故に武功は顕重をもって示し、文徳は行褒をもって示す。高成県の平津郷の六百五十戸をもって丞相の弘を平津侯に封じる。」その後、これを故事とし、丞相が封侯されるのは弘から始まった。

当時、皇帝はちょうど功業を興し、たびたび賢良を推挙していた。弘は自らが推挙の筆頭となり、徒歩の身から、数年で宰相となり侯に封ぜられたことを見て、そこで客館を建て、東閤を開いて賢人を招き、参画して謀議させた。弘自身は肉一種を食べ、玄米の飯であり、旧友や賓客は彼に衣食を仰ぎ、俸禄はすべて彼らに与え、家に余るものは何もなかった。しかしその性格は猜疑心と嫉妬深さがあり、外見は寛大だが内面は深く険しかった。常に弘と不和があった者は、親疎遠近を問わず、表面上は親しくしても、後についにその過失を報いた。 主父偃 を殺し、 董仲舒 を膠西に左遷したのは、すべて弘の力によるものであった。

一年余りが経ち、ちょうど渾邪王らが降伏したため、朝廷は費用がかさみ、倉庫や府庫が空になった。(師古が言うには、「倉は穀物を蓄える所、府は銭を集める所である」)貧民が大量に移住し、皆が朝廷に頼って生活していたが、(師古が言うには、「卬は牛向反と読む」)全てを養うことはできなかった。卜式は再び二十万銭を持って河南太守に渡し、移住した民衆の生活を支えた。河南郡が富裕層が貧民を助けた者として報告を上げると、皇帝は卜式の名前を見て覚えており、「これは以前、家財の半分を献じて辺境を助けようとした者だ」と言った。そこで卜式に外徭四百人分の免除特権を与えた。(蘇林が言うには、「外徭とは辺境守備のことで、一人が三百銭を出すことを過更と言う。卜式は年に十二万銭を得ることになる。一説には、徭役の免除権を四百人分得たということである」師古が言うには、「一説の方が正しい」)卜式はまたそれを全て朝廷に返還した。この時、富豪たちは皆こぞって財産を隠していたが、(師古が言うには、「匿は隠すことである」)卜式だけは特に朝廷の費用を助けようとした。皇帝はこのため、卜式が結局は篤実な人物であると考え、ついに卜式を召し出して中郎に任命し、左庶長の爵位を賜り、(師古が言うには、「第十等の爵位である」)田地十頃を与え、天下に布告して、彼を尊重し顕彰して、百姓の模範とした。(師古が言うには、「風は諷と読む」)

当初、卜式は郎官になることを望まなかった。皇帝は言った。「私は上林苑に羊を飼っているが、そなたに牧させたい。」卜式が郎官になると、布衣に草鞋を履いて羊を牧した。(師古が言うには、「蹻は今の鞋(靴)であり、南方では蹻と言う。字は本来屩と書き、共に居略反と読む」)一年余り経つと、羊は肥え、また数も増えた。(師古が言うには、「息は生むこと。羊が肥え、しかも多く生んだという意味である」)皇帝が彼の羊のいる場所を通りかかり、それを良く思った。卜式は言った。「羊だけではありません。民を治めるのもこれと同じです。時節に合わせて生活させ、悪いものはすぐに取り除き、(師古が言うには、「去は除くことで、丘巨反と読む」)群れを害する者を出さないようにするのです。」皇帝は彼の言葉を珍しいと思い、試しに民を治めさせようと考えた。卜式を緱氏県令に任命すると、緱氏県民は彼を便利に感じた。成臯県令に転任すると、漕運の管理で最も成績が良かった。(師古が言うには、「県令でありながら漕運を統率させ、その考課が最上であった」)皇帝は卜式が質朴で忠実であると考え、(師古が言うには、「朴は質素なことである」)斉王太傅に任命し、後に丞相に転じた。

ちょうど呂嘉が反乱を起こした時、卜式は上書して言った。「臣は聞きます。主君が恥をかけば臣下は死すべきだと。群臣は皆、死をもって節義を尽くすべきであり、才能の劣る者は財産を出して軍務を助けるべきです。このようにすればこそ、強国が侵犯しない道となります。(師古が言うには、「国家が威勢強くして侵犯されないこと」)臣は、自分の息子(師古が言うには、「子男とは自分の子を言う」)および臨菑で弩を習った者、博昌で船を習った者を連れて従軍し、死をもって臣下の節義を尽くしたいと願います。」(師古が言うには、「軍に従って死ぬこと」)皇帝は彼を賢者と認め、 詔 を下して言った。「朕は聞く。徳には徳をもって報い、怨みには直きをもって報いる、と。(師古が言うには、「論語に孔子が『直きをもって怨みに報い、徳をもって徳に報いる』と言ったとあるので、 詔 がこれを引用した」)今、天下は不幸にも戦乱が起こっているが、郡県や諸侯の中で、奮い立ってこの直道(怨みに報いる道)に従おうとする者はまだいない。(孟康が言うには、「奮迅して身を労し徭役に従おうとする者がいないということである」臣瓚が言うには、「正直の道に奮厲する者がいないと言っている」師古が言うには、「二つの説はどちらも誤りである。奮は憤激すること。繇は由と同じく読む。由は従うこと。直道とは、怨みに直きをもって報いること、つまり南越征討を指す。奮厲して怨みに報いる道に従おうとする者がいない、という意味である」)斉の丞相(卜式)は行いが正しく、自ら耕作し、(臣瓚が言うには、「雅は平素からのこと。卜式が野で耕作し、名利を求めなかったことを言う」 しん 灼が言うには、「雅は正しいこと」師古が言うには、「 しん の説が正しい。その行いが雅正であり、また自ら耕作したという意味である」)牧畜に従事し、蓄えが増えるとすぐに兄弟に分け与え、自分でまた新たに作り、(師古が言うには、「その牧畜が増えると兄弟に与え、自らまた新たに営むという意味である。番は扶元反と読む」)利益に惑わされることはなかった。(師古が言うには、「利に惑わされないと言っている」)かつて北方辺境で戦争が起こった時、(師古が言うには、「日者は往日のこと。興は軍を発することを言う」)上書して朝廷を助けた。往年、西河で凶作があり、斉の人々を率いて穀物を納入した。(師古が言うには、「歳悪は凶年のこと。礼記に『歳凶、年穀登らず』とある」)今また真っ先に奮い立ち、(師古が言うには、「先頭に立って奮厲し、従軍を願ったこと」)まだ戦っていないとはいえ、内に義の心が形となっていると言えよう。(師古が言うには、「形は現れること」)卜式に関内侯の爵位、黄金四十斤、田地十頃を賜り、天下に布告して、これを明らかに知らしめよ。」

元鼎年間、卜式を召し出して石慶に代わって御史大夫とした。卜式がその職に就くと、郡国にとって塩鉄専売は不便であり、船に算賦(税金)がかかるので、廃止すべきだと上奏した。皇帝はこのため卜式を快く思わなくなった。(師古が言うには、「説は悦と読む」)翌年、封禅の儀が行われることになったが、卜式はまた文章(礼儀典章)に通じていなかったため、位階を下げて太子太傅とし、児寬を代わりに御史大夫とした。卜式は天寿を全うして亡くなった。

児寬

ウィキペディア項目:児寬

児寬は千乗の人である。(師古が言うには、「千乗郡千乗県の人。兒は五奚反と読む」)尚書を学び、歐陽生に師事した。郡国の推薦で博士のもとに赴き、孔安國に学業を受けた。貧しく費用がなかったため、かつて弟子たちの炊事係をした。(師古が言うには、「都は全ての、衆の意。養は炊事を給する者を主管する者。貧しく費用がなかったので、諸弟子の炊事を担当したのである。養は弋向反と読む」)当時、雇われて働きに出る時も、経書を帯びて鋤を入れ、休憩するたびに読誦した。その精励ぶりはこのようなものであった。射策(試験)によって掌故となり、功労の順位により、廷尉文学卒史に補任された。(蘇林が言うには、「秩禄六百石で、旧来の郡にもいた」臣瓚が言うには、「漢の注によれば卒史の秩禄は百石である」師古が言うには、「瓚の説が正しい」)

(倪)寛は人となり温良で、廉潔を知り自らを守り、文章を綴ることを得意としたが、武勇には弱く、口先で道理を明らかにすることができなかった。当時、張湯が廷尉を務めており、廷尉府には文書や法律に通じた官吏ばかりが任用されていたが、寛は儒生としてその中にあり、事に習熟していないと見なされ、曹に任命されず、従史に任じられて、北地へ赴き、数年にわたって家畜の数を監視した。府に戻り、家畜の帳簿を提出したところ、ちょうど廷尉に疑わしい上奏案件があり、すでに二度も却下されていた。掾史たちはどうすればよいかわからなかった。寛がその意図を説明すると、掾史たちは寛に上奏文を作成させた。上奏文が完成し、それを読んだ者たちは皆感服し、廷尉の張湯に報告した。湯は大いに驚き、寛を呼び出して話をし、その才能を奇異に思い、掾に任命した。寛が作成した上奏文を皇帝に提出すると、すぐに許可を得た。ある日、湯が皇帝に謁見した。皇帝が尋ねた。「先日の上奏文は俗吏の及ぶところではない。誰が書いたのか?」湯が児寛だと答えると、皇帝は言った。「私は以前からその名を聞いていた。」湯はこれにより学問を尊ぶようになり、寛を奏讞掾に任命し、古い法の道理をもって疑わしい事件を裁決させ、非常に重用した。湯が御史大夫になると、寛を掾に任命し、侍御史に推挙した。皇帝に謁見し、経学について話した。皇帝は喜び、『尚書』一篇について質問した。中大夫に抜擢され、左内史に転任した。

寛は民政を担当するようになると、農業を奨励し、刑罰を緩和し、訴訟を公正に処理し、身を低くして士を敬い、人心を得ることに努めた。仁厚な士人を選んで任用し、真情をもって部下に接し、名声を求めなかったため、官吏や民衆は大いに信頼し敬愛した。寛は上表して六輔渠の開削を奏請し、用水規定を定めて灌漑面積を広げた。租税を徴収する際には、時宜に応じて寛厳の調整を行い、民衆に融通を利かせて貸し与えたため、租税が多く納入されないことがあった。後に軍事行動が起こり、左内史は租税未納のため考課で最下位となり、免官されるはずであった。民衆が免官されると聞き、皆その去ることを恐れ、大いなる家は牛車を、小さき家は担いで運び、租税を納める列が絶えることなく続き、考課は逆に最上位となった。皇帝はこれによりますます寛を奇異に思った。

古代の巡狩や封禅の行事を行おうという議論がなされたとき、諸儒の答えた者は五十余人に及んだが、何ら決定することができなかった。これに先立ち、司馬相如が病死し、遺書があり、功德を称え、符瑞を述べて、泰山で封禅を行うに足るとしていた。皇帝はその書を奇異に思い、寛に問うた。寛は答えて言った。「陛下は自ら聖徳を発揮され、万物の根源を統べ集められ、天地を祀り、百神に礼を捧げられました。精神の向かうところ、兆候は必ず応じ、天地ともに感応し、符瑞は明らかです。泰山で封を行い、梁父で禅を行うことは、姓を明らかにし瑞祥を考証する、帝王の盛大な儀式です。しかし、祭祀の意義は経典に明記されておらず、封禅によって成功を告げ、天地の神祇と合致し、ひたすら精誠を込めて戒め慎み、神明と通じるものと考えます。百官の職務を総括し、それぞれの事柄にふさわしい礼儀作法を定めるのです。ただ聖主がこれにより、制度を制定してその適切さを定めるのであり、群臣が列挙できるものではありません。今、大事を挙げようとしているのに、数年も悠長に構え、群臣にそれぞれ思う存分に述べさせても、結局は成し遂げられないでしょう。ただ天子が中和の極みを立て、条理を総合して貫き、金の音を発し玉の音でそれを締めくくり、天の慶事に順って成し遂げ、万世の基を垂れるべきです。」皇帝はこれをよしとし、自ら儀礼を制定し、儒術を採り入れて文飾した。

完成すると、用事を行おうとし、児寛を御史大夫に任命し、東に従って泰山を封禅し、帰還して明堂に登った。児寛が寿を祝して言うには、「臣は聞きます。三代は制度を改め、象徴が相承したと。〈李奇が言うには、「政教の法象が相承属したのである。」師古が言うには、「属は連なることで、音は之欲の反切である。」〉近ごろ聖人の統緒が廃絶し、〈師古が言うには、「聖統とは、聖人の遺業、すなわち礼文のことである。」〉陛下が発憤し、天地の意に合致し、初めて明堂辟雍を建立し、〈師古が言うには、「祖は始めである。」〉泰一を尊んで祭祀し、〈師古が言うには、「宗は尊ぶことである。」〉六律五声が、〈師古が言うには、「六律とは、黄鐘・太簇・姑洗・蕤賓・夷則・無射である。五声とは、宮・商・角・徴・羽である。」〉深く聖意を明らかにし、〈師古が言うには、「幽は深く、贊は明らかにすることである。」〉神楽が四方に合し、それぞれに方角と象徴があり、〈如淳が言うには、「四方の色および五神祭祀の声楽がそれぞれに等級がある。」〉もって盛大な祭祀を助け、万世の法則とし、〈師古が言うには、「則は法である。」〉天下は幸いこの上ない。大元の本瑞を建て、岱宗に登って告げ、福の門を開き、以て景の至るを待たんとす。癸亥の日に尊んで祭祀し、日は重光を宣べ、上元の甲子、粛邕として永く亨けん。〈李奇が言うには、「太平の世、日は重光を抱く、日が重日を持つというのである。」蘇林が言うには、「将は甫始の辞である。太元は太初暦である。本瑞は白麟・宝鼎の類である。以て景の至るを候うとは、冬至の影である。上元甲子は、太初元年甲子の朔旦冬至である。」師古が言うには、「宗は尊ぶこと。粛は敬うこと。雍は和らぐこと。既に敬い且つ和らげば、則ち長く天に亨けられるのである。闓は開と同じく読む。」〉光輝が充塞し、天文は粲然とし、〈師古が言うには、「塞は満ちること。粲然は明らかな様子。」〉象が現れて日々に昭らかになり、報いが降りて符応する。〈師古が言うには、「大いに景象を顕示し、日々に昭明になるという。符応を降下して、以て徳化に報いる。」〉臣寛、觴を奉じて再拝し、千万歳の寿を上る。」 詔 して言うには、「謹んで君の觴を挙げる。」

後に太史令 司馬遷 らが言うには、「暦紀が壊れ廃れ、漢が興って以来正朔を改めていない。正すべきである。」上はそこで児寛に 詔 して遷らと共に漢の太初暦を定めさせた。語は〈律暦志〉にある。

初め、梁の相の褚大は五経に通じ、博士となった。当時、児寛は弟子であった。御史大夫が欠員となると、褚大を召し出した。大は自ら御史大夫を得たと思った。 洛陽 に至り、児寛がそれになったと聞くと、褚大は笑った。到着して、上(皇帝)の前で児寛と封禅について議論すると、大は及ばず、退いて服して言うには、「上は誠に人を知る。」児寛が御史大夫となると、意にかなって職務を任じたため、長らく上に対して匡諫することがなく、官属は彼を軽んじた。〈師古が言うには、「易は軽んじること。音は弋豉の反切。」〉位にあったこと九年、官のまま死去した。

【贊】

贊して言う。公孫弘、卜式、児寛は皆、鴻の漸進する翼が 燕 雀に困らせられ、〈李奇が言うには、「漸は進むこと。鴻が一挙に千里進むのは、羽翼の材である。弘らは皆、大材で初めは俗に軽んじられ、燕雀が鴻の志を知らないようなものであった。」師古が言うには、「易の漸卦の上九爻辞に『鴻陸に漸く、其の羽儀と為すべし』とある。鴻は大鳥。漸は進むこと。高平を陸という。鴻が陸に進み、その羽翼を以て威儀と為すと言う。弘らが皆、鴻の羽翼を持ち、進む前は燕雀に軽んじられたことを譬えている。」〉その跡を遠く羊や豚の間に置き、〈師古が言うには、「その跡を遠くに竄らせたのである。」〉その時に遇わなければ、どうしてこの位に至ることができようか。〈師古が言うには、「焉は於何、どうしての意。」〉この時、漢が興って六十余年、海内は治まり安らぎ、〈師古が言うには、「艾は乂と同じく読む。」〉府庫は充実していたが、四夷はまだ服従せず、制度には欠けるところが多かった。上はまさに文武を用いようとし、求めること追い付かぬばかりで、初めは蒲輪で枚生(枚乗)を迎え、主父偃を見ては嘆息した。〈師古が言うには、「『公らは皆どこにいたのか、どうしてこんなに遅く会えたのだ!』と言ったことを指す。」〉多くの士は慕い向かい、異人たちが並び出た。卜式は芻牧から抜擢され、桑弘羊は賈豎から擢でられ、衛青は奴僕から奮い立ち、金日磾は降虜から出て、これもまた昔の版築(傅説)や飯牛(甯戚)の明らかな例である。〈師古が言うには、「版築は傅説。飯牛は甯戚。已は語終の辞。飯の音は扶晚の反切。」〉漢の人材を得たことは、ここにおいて最も盛んであった。儒雅では公孫弘、董仲舒、児寛、篤行では石建、石慶、質直では汲黯、卜式、推賢では 韓 安国、鄭當時、定令では 趙 禹、張湯、文章では司馬遷、司馬相如、滑稽では東方朔、枚臯、〈師古が言うには、「滑稽は転利の称。滑は乱れる。稽は碍る。その変乱して留碍無きを言う。一説に、稽は考える。滑乱して考校すべからざるを言う。滑の音は骨。稽の音は工奚の反切。」〉応対では厳助、朱買臣、暦数では唐都、洛下閎、協律では李延年、運籌では桑弘羊、奉使では張騫、蘇武、将帥では衛青、霍去病、遺 詔 を受けることでは 霍光 かくこう 、金日磾、その他は記しきれない。〈師古が言うには、「紀は記すこと。」〉これによって功業を興し造り、制度と遺文は、後世及ぶものがない。孝宣帝が統を承け、洪業を纂修し、また六芸を講論し、茂異を招選した。そして蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、厳彭祖、尹更始が儒術によって進み、劉向、王裦が文章によって顕れ、将相では張安世、趙充国、 魏 相、丙吉、于定国、杜延年、民を治めることでは黄 霸 、王成、龔遂、鄭弘、召信臣、〈師古が言うには、「召は邵と同じく読む。」〉韓延寿、尹翁帰、趙広漢、厳延年、張敞の類で、皆功績があり世に述べられている。その名臣を参酌すれば、また次(武帝時)である。〈師古が言うには、「武帝の時より次である。」〉