巻53

 漢書

景十三王伝 第二十三

孝景皇帝には十四人の男子がいた。王皇后が孝武皇帝を生んだ。栗姫が臨江閔王劉栄、河間献王劉徳、臨江哀王劉閼を生んだ。程姫が魯共王劉余、江都易王劉非、膠西于王劉端を生んだ。賈夫人が 趙 敬粛王劉彭祖、中山靖王劉勝を生んだ。唐姫が長沙定王劉発を生んだ。王夫人が広川恵王劉越、膠東康王劉寄、清河哀王劉乗、常山憲王劉舜を生んだ。

河間献王劉徳

河間献王劉徳は、孝景帝の前二年に立てられ、学問を修め古を好み、事実に基づいて真理を求めた。民から良い書物を得ると、必ず善く写してそれを与え、原本を留め、金や絹を加えて賜り、招き寄せた。これにより、四方の道術の人は千里を遠しとせず、あるいは先祖伝来の古い書物を多く捧げて献王に奏上したので、得た書物が多く、漢朝と同等であった。この時、淮南王劉安も書物を好み、招き寄せた者は概ね浮華で弁舌に長けた者ばかりであった。献王が得た書物は皆、古文の先 秦 の古い書物で、周官、尚書、礼、礼記、孟子、老子の類であり、皆、経伝や説記、七十子の徒が論じたものであった。その学問は六芸を挙げ、毛氏の詩、左氏の春秋の博士を立てた。礼楽を修め、儒術を身にまとい、どんな時でも必ず儒者の道に従った。山東の諸儒者はこれに従って交遊した。

武帝の時、献王が来朝し、雅楽を献上し、三雍宮での問い及び 詔 策による三十余りの質問に答えた。その答えは道術を推し進めて述べ、事柄の核心を得て、文章は簡潔で要点を指し示していた。

立って二十六年で 薨去 こうきょ した。中尉の常麗が上奏して言った。「王は身が正しく行いが治まり、温厚で仁愛深く、恭しく倹約し、篤く敬い下を愛し、明らかに知り深く察し、鰥寡に恵みを施しました。」大行令が奏上した。「諡法に『聡明で睿智なるを献と曰う』とあります。宜しく献王と諡すべきです。」子の共王劉不害が嗣ぎ、四年で 薨去 こうきょ した。子の剛王劉堪が嗣ぎ、十二年で 薨去 こうきょ した。子の頃王劉授が嗣ぎ、十七年で 薨去 こうきょ した。子の孝王劉慶が嗣ぎ、四十三年で 薨去 こうきょ した。子の劉元が嗣いだ。

劉元は、故広陵厲王、厲王の太子、及び中山懐王の元側室の廉らを側室とした。甘露年間、冀州 刺史 しし の敞が劉元を弾劾し、事は廷尉に下され、廉らが召喚された。劉元は七人を脅迫し、自殺させた。役人が劉元の誅殺を上奏して請うたが、 詔 により二県、一万一千戸を削られた。後に劉元が少史の留貴に怒り、留貴が垣を越えて逃げ出し、劉元を告発しようとしたので、劉元は人を使って留貴の母を殺させた。役人が上奏して、劉元は残忍で改めず、国を治め民を子とすることはできないと述べた。王位を廃され、漢中の房陵に置かれた。数年後、妻の若と共に朱輪車に乗り、若に怒り、また鞭打ち、自ら髪を剃らせた罪に坐した。漢中太守が劉元を処罰を請うたが、病死した。立って十七年、国は除かれた。

絶えて五年、成帝の建始元年、劉元の弟で上郡の庫令であった劉良が再び立てられ、これが河間恵王である。劉良は献王の行いを修め、母の太后が 薨去 こうきょ すると、礼に従って喪に服した。哀帝が 詔 を下して褒め称えた。「河間王劉良は、太后の喪に三年服し、宗室の模範である。その一万戸を加封せよ。」二十七年で 薨去 こうきょ した。子の劉尚が嗣いだが、 王莽 の時に絶えた。

臨江哀王劉閼

臨江哀王の閼は、孝景帝の前二年に立てられ、三年で 薨去 こうきょ した。子がなく、国は除かれて郡となった。

臨江閔王の栄

臨江閔王の栄は、孝景帝の前四年に皇太子となったが、四年後に廃されて臨江王となった。三年後、宗廟の壖地を侵して宮殿を造った罪により、皇帝が栄を召喚した。栄が旅立つとき、江陵の北門で祖道の儀を行ったが、車に乗ると、車軸が折れて車が壊れた。江陵の父老たちは涙を流し、ひそかに言った。「我が王は帰ってこないであろう」。栄が都に至り、中尉の役所に出頭して取り調べを受けた。中尉の郅都が記録に基づいて王を責め尋問すると、王は恐れて自殺した。藍田に葬られたが、数万の 燕 が土をくわえてきて冢の上に置いた。百姓は彼を哀れんだ。

栄は最も年長であったが、子がなく、国は除かれた。土地は漢に入り、南郡となった。

魯恭王の余

魯恭王の余は、孝景帝の前二年に淮陽王に立てられた。呉 楚 の乱が鎮圧された後、孝景帝の前三年に転じて魯王となった。宮室や苑囿、狗馬を整えることを好み、晩年は音楽を好み、言辞を喜ばなかった。口が重く、話すのが困難であった。

二十八年で 薨去 こうきょ した。子の安王の光が嗣ぎ、初めは音楽や車馬を好んだが、晩年は吝嗇となり、財産が足りないことを恐れるばかりであった。四十年で 薨去 こうきょ した。子の孝王の慶忌が嗣ぎ、三十七年で 薨去 こうきょ した。子の頃王の勁が嗣ぎ、二十八年で 薨去 こうきょ した。子の文王の晳が嗣ぎ、十八年で 薨去 こうきょ し、子がなかったため国は除かれた。哀帝の建平三年、再び頃王の子で晳の弟である郚郷侯の閔を立てて王とした。王莽の時に絶えた。

恭王は初め宮室を整えることを好み、孔子の旧宅を壊してその宮殿を広げようとしたが、鐘・磬・琴・瑟の音が聞こえたので、遂にこれ以上壊すことを敢えてせず、その壁の中から古文の経伝を得た。

江都易王の非

江都易王の非は、孝景帝の前二年に汝南王に立てられた。呉楚の乱の時、非は十五歳で、才気があり、上書して自ら呉を討つことを請うた。景帝は非に将軍の印を賜い、呉を討たせた。呉が既に破られた後、転じて江都王となり、かつての呉国の地を治め、軍功によって天子の旗を賜った。元光年間、 匈奴 が大いに漢の辺境に侵入すると、非は上書して匈奴を討つことを願ったが、皇帝は許さなかった。非は気力を好み、宮館を整え、四方の豪傑を招き、驕奢が甚だしかった。二十七年で 薨去 こうきょ し、子の建が嗣いだ。

劉建が太子であった時、邯鄲の人梁蚡が娘を連れて易王に献上しようとしたが、劉建はその美しさを聞きつけ、密かに呼び寄せて、そのまま留め置いて返さなかった。梁蚡は公然と、「あなたは父親と妻を争うのか!」と言いふらした。劉建は人を遣わして梁蚡を殺させた。梁蚡の家族が上訴したので、事件は廷尉に下されて取り調べられたが、赦令が出たため、処罰されなかった。易王が 薨去 こうきょ し、まだ葬儀も済まないうちに、劉建は喪服を着て住む部屋にいて、易王が寵愛した美人の淖姫ら合わせて十人を呼び寄せて姦淫した。劉建の妹の徵臣は蓋侯の子の妻であったが、易王の喪のために帰省してきたので、劉建はまたも彼女と姦淫した。劉建の異母弟の定国は淮陽侯で、易王の末子であった。その母が寵愛されて彼を後継ぎに立てようとし、劉建の行いをことごとく知っていたので、金銭を使って男の荼恬に上書させ、劉建が淫乱で後継ぎにふさわしくないと告発させた。事件は廷尉に下され、廷尉は荼恬が金銭を受取って上書した罪を審理し、棄市の刑に処すと論じた。劉建の罪は問われなかった。その後、劉建はたびたび使者を 長安 に遣わして徵臣を迎えさせた。魯恭王の太后(劉建の姉の姑)はこれを聞き、徵臣に手紙を送って言った。

「国中では噂がひどく立っている。くれぐれも再び江都へ行ってはならない。」後に劉建が謁者の吉を遣わして共太后(魯恭王太后)に挨拶させると、太后は涙を流して吉に言った。「帰って私の言葉をそなたの王に伝えよ。王は以前の行いがいい加減であったが、今こそ自ら慎むべきである。燕や 斉 の事件を聞いたことがないのか?私がそなたの王のために泣いていると言え。」吉が帰って共太后の言葉を伝えると、劉建は大いに怒り、吉を打ち据え、追放した。

劉建が章台宮に遊びに行った時、四人の女子に小船に乗るよう命じ、劉建が足でその船を蹴り返して転覆させた。四人とも水に溺れ、二人が死んだ。後に雷波に遊びに行った時、天候が大風となり、劉建は郎二人に小船で波の中に入るよう命じた。船が転覆し、二人の郎が溺れ、船にしがみついては浮き沈みした。劉建はそれを見物して大笑いし、二人とも死ぬに任せた。

宮人や八子の位の妾で過失のある者は、裸に立たせて太鼓を打たせたり、あるいは木の上に置いたりし、長い者では三十日経ってようやく衣服を着ることを許された。あるいは髪を剃り首枷をはめて鉛の杵で米をつかせ、規定の量に達しないと、すぐに鞭打った。あるいは狼を放って噛み殺させ、劉建はそれを見て大笑いした。あるいは閉じ込めて食事を与えず、餓死させた。無実の者を殺害したのは合わせて三十五人に及んだ。劉建は人に禽獣と交わらせて子を産ませようと思い、宮人を裸にして四肢を広げさせ、雄羊や犬と交わらせることを強制した。ひたすら淫虐にふけり、自ら罪が多いことを知っていたので、国中には告発しようとする者が多かった。劉建は誅殺されることを恐れ、内心不安で、その王后の成光と共に越の婢を使い、神を降ろして天子を呪詛した。また郎中令らに怨み言を言った。「漢の朝廷の使者がまた来て私を調べるなら、私は決して一人で死ぬことはしない!」

劉建はまた、淮南や衡山の陰謀をかなり聞き知っており、いつか発覚して併呑されることを恐れ、ついに兵器を作った。王后の父の胡応を将軍と号した。中大夫の疾は才力があり、騎射に優れていたので、霊武君と号した。皇帝の車の黄色い屋根の蓋を作り、皇帝の璽を刻み、将軍や都尉の金銀の印を鋳造した。漢の使者の節を二十本作り、綬を千余り用意した。軍官の品階と員数を整え、爵位を授け侯に封ずる賞を準備した。天下の地図と軍陣の図を整えた。人を遣わして越繇王の閩侯と通じ、錦織や珍奇な宝物を贈った。繇王閩侯もまた劉建に荃(細かい麻布)、葛(葛布)、真珠、犀の甲、翠鳥の羽、猿や熊などの珍獣を贈り、たびたび使者を往来させて、緊急の際には互いに助け合うことを約束した。淮南王の事件が発覚し、その一味を処罰する中で、かなり劉建にも連座する事態となったが、劉建は人を使い多額の金銭をばらまいて、その訴訟を断ち切らせた。

後にまた近臣に言った。「私は王であるが、 詔 により取り調べられる事件が毎年のように起こり、生きているうちに楽しい日は一日もない。壮士は座して死ぬものではない。人が為さぬことを為そうと思うだけだ。」劉建はその父から賜わった将軍の印を常に佩用し、天子の旗を掲げて外出した。数年が経ち、事件が発覚した。漢は丞相長史を江都の相と共に派遣して共同で取り調べさせ、兵器や璽、綬、節などの謀反の証拠品を捜索して押収した。役人は劉建を捕らえて誅殺するよう請うた。 詔 が下された。「列侯、二千石の吏、博士と議せよ。」議して皆が言った。「劉建は臣子の道を失い、その行いが長く続いたが、常に不忍の思いで許されてきた。ついに謀反を企てた。その行いは無道であり、桀や紂の悪でもここまでではない。天誅を免れず、謀反の法によって誅すべきである。」 詔 により宗正と廷尉がただちに劉建を尋問することとなった。劉建は自殺し、後成光らは皆、棄市に処された。六年で国は除かれ、土地は漢に没収されて広陵郡となった。

百二十一年が絶えた後、平帝の時、新都侯の王莽が政権を執り、滅んだ家を興し絶えた家を継がせ、劉建の弟の盱眙侯の子の宮を広陵王に立て、易王の後を奉じさせた。王莽が 簒奪 さんだつ すると、国は絶えた。

膠西于王の端

膠西于王の端は、孝景帝の前三年に立てられた。人となりは残忍でひねくれ、また陰萎の病があり、一度婦人に近づくと、数ヶ月病気になった。寵愛する少年がおり、郎とした。郎が後宮と淫乱の行為をしたので、端は彼を捕らえて滅ぼし、その子と母も殺した。たびたび法を犯したので、漢の公卿はしばしば端を誅殺するよう請うたが、天子は忍びず、端の行いはますます甚だしくなった。役人が繰り返し請うたので、国を削り、大半を取り上げた。端は内心憤慨し、ついに財産を顧みず、倹約もしなくなった。府庫は壊れて漏り、財物はことごとく腐り、巨万の数に上ったが、ついに収拾して移すことはできなかった。役人に租税を徴収することを禁じた。端は護衛をすべて解き、宮門を封鎖し、一つの門だけから出入りした。たびたび姓名を変え、平民の姿で他国へ行った。

相や二千石の者が着任すると、漢の法に従って統治しようとするので、端は常にその罪過を探し出して告発し、罪のない者には偽って毒薬で殺させた。その詐術を尽くして変化させるやり方は、その強情さは諫言を拒むに十分であり、その知恵は過ちを飾り立てるに足りた。相や二千石が王に従って統治すれば、漢は法によって彼らを縛った。それゆえ膠西は小国であったが、殺傷された二千石の者は非常に多かった。

四十七年間在位して 薨去 こうきょ し、子がなく、封国は除かれた。その地は漢に編入され、膠西郡となった。

趙の敬粛王彭祖。

趙の敬粛王彭祖は、孝景帝の前二年に広川王に立てられた。趙王の遂が反乱を起こして敗れた後、趙王に転封された。彭祖は人となりが巧みで口先がうまく、へつらいへりくだって人に仕える態度をとるが、心は苛酷で深謀であり、法律を好み、詭弁を弄して人を陥れることを得意とした。多くの寵姫と子孫を抱えていた。相(国相)の二千石(郡守クラスの高官)が漢の法律に従って国を治めようとすると、王家の利益を損なうことになった。このため、相の二千石が着任するたびに、彭祖は帛や布の単衣を着て、自ら出迎えて住居を掃除し、多くの疑わしい事柄を設けて彼らを欺き動揺させ、二千石の失言や朝廷の忌諱に触れる言葉を聞き出すと、すぐに書き留めた。二千石が国政を厳しく取り締まろうとする者があれば、この記録で脅迫し、言うことを聞かなければ、上書して告発し、さらに姦利の事で汚名を着せた。彭祖が王位にあった六十余年の間、相の二千石で満二年を勤められた者は一人もおらず、みな罪によって罷免され、重い者は死に、軽い者は刑罰を受けた。このため、二千石は誰も厳しく治めることができず、趙王が権力を専断した。使者を県に派遣して商人の専売を取り仕切り、その収入は国の租税よりも多かった。このため趙王家には金銭が多かったが、寵姫や諸子に賜ったものですべて使い果たしてしまった。

彭祖は宮室や祭祀を治めることを好まず、役人の仕事を好んだ。上書して国中の盗賊を取り締まることを願い出た。常に夜、歩兵の卒を従えて邯鄲の市中を巡回した。諸国の使者や通行人は、彭祖が険悪で偏屈であるため、誰も邯鄲に留まろうとしなかった。

時が経つうちに、太子の丹が自分の妹および同母姉と姦通した。江充が丹の淫乱を告発し、さらに人を遣わして死体を埋めたり強盗を働いたりし、悪事が甚だ多いと報告した。武帝は使者を派遣して吏卒に命じて丹を捕らえさせ、 魏 郡の 詔 獄に下し、死罪に至るまで罪を追及した。彭祖は上書して丹の冤罪を訴え、国中の勇敢な者を率いて匈奴を撃ち、丹の罪を贖いたいと願ったが、皇帝は許さなかった。長い時が経って、ついに赦免されて出獄した。後に彭祖が入朝した際、皇帝の姉である平陽隆慮公主を通じて、丹を再び太子に立てるよう求めたが、皇帝は許さなかった。

彭祖は江都易王の寵姫で、王の建が姦通した淖姫を娶り、非常に寵愛して一男を生み、淖子と号した。彭祖は征和元年に 薨去 こうきょ し、諡を敬粛王といった。彭祖が 薨去 こうきょ した時、淖姫の兄が漢の宦官であったので、皇帝が召し出して尋ねた。「淖子はどういう人物か。」と。兄は答えて言った。「欲の多い人物です。」と。皇帝は言った。「欲が多い者は国を治め民を子とすべきではない。」と。武始侯の昌について尋ねると、兄は言った。「咎められる点もなく、誉れもありません。」と。皇帝は言った。「それならばよかろう。」と。使者を派遣して昌を立てた。これが頃王である。十九年間在位して 薨去 こうきょ した。子の懐王尊が嗣いだ。五年で 薨去 こうきょ した。子がなく、二年間後継者が絶えた。宣帝が尊の弟の高を立てた。これが哀王である。数か月で 薨去 こうきょ した。子の共王充が嗣いだ。五十六年間在位して 薨去 こうきょ した。子の隠が嗣いだ。王莽の時代に封国は絶えた。

初め、武帝はまた親族を親しむ故をもって、敬粛王の末子の偃を平干王に立てた。これが頃王である。十一年間在位して 薨去 こうきょ した。子の繆王元が嗣いだ。二十五年間在位して 薨去 こうきょ した。大鴻 臚 の禹が上奏した。「元は以前に刃物で奴婢を殺害し、その子が謁者を殺害し、 刺史 しし によって挙奏され、罪名は明白でした。病に伏せる前に遺言を残し、音楽のできる奴婢を殉死させ、脅迫して自殺させた者が合わせて十六人におよび、暴虐で道に外れています。故に春秋の義によれば、誅殺されるべき君主の子を立てるのはふさわしくありません。元はまだ誅殺に服していませんが、後継者を立てるべきではありません。」と。上奏は認可され、封国は除かれた。

中山の靖王勝。

中山の靖王勝は、孝景帝の前三年に立てられた。武帝が初めて即位した時、大臣たちは呉楚七国の乱を教訓とし、議論する者は 晁錯 の策を冤罪とせず、皆、諸侯が数十の城を連ねて強大すぎるので、少しずつ侵蝕して削減したいと考え、しばしば上奏して諸侯の過失悪行を暴き立てた。諸侯王は自らを骨肉の至親と考え、先帝が広く封じて城を連ね、犬の牙のように互いに入り組ませたのは、盤石のごとき宗族とするためであった。今、ある者は罪がないのに、臣下によって侵され辱められ、役人は毛を吹いて疵を求め、その臣を鞭打って服従させ、その君主を証言させているので、多くは自らが侵害され冤罪を被っていると考えていた。

建元三年、代王の登、長沙王の発、中山王の勝、済川王の明が来朝した。天子が酒宴を設けると、勝は音楽を聞いて泣いた。その理由を尋ねると、勝は答えて言った。

私は聞く、悲しみに沈む者にはため息をつかせてはならず、思いにふける者には嘆息させてはならないと。ゆえに高漸離が易水のほとりで筑を打つと、荊軻はそれに合わせて首を垂れ食事をとらなかった。雍門子がわずかに吟じると、孟嘗君はそれに心を痛めて泣いた。今、私の心は長らく結ばれたままであり、微かな音を聞くたびに、知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ちるのである。

多くの人の息が山を漂わせ、集まった蚊の羽音が雷のようになり、仲間が集まれば虎を捕らえ、十人の男が力を合わせれば鉄槌を曲げる。このため文王は牖里に拘禁され、孔子は陳や蔡で窮地に陥った。これは民衆の気風が形成され、積み重なったものが害を生むからである。私は身は遠く離れ、味方は少なく、誰も私のために先導してくれる者はいない。多くの人の口は金をも溶かし、積もった誹謗は骨をも砕く。軽いものでも束ねれば車軸を折り、羽や翼が肉を飛ばすように、次々と驚き、網に逢い、涙を流さずにはいられない。

私は聞く、太陽が光を照らせば、暗い奥底までも照らし出され、明月が夜を照らせば、蚊や虻さえも夜に見えると。しかし雲が湧き立ち広がれば、昼でも暗く曇り、塵埃が覆い被されば、泰山さえも見えなくなる。なぜか。物がそれを覆い隠すからである。今、私は塞がれて聞くことができず、讒言する者どもが道をふさぎ、道は遠く、ついに私のことを聞いてくれる者もいない。私はひそかに自らを悲しむのである。

私は聞く、社(土地神の祠)の鼷鼠には水をかけず、家屋の鼠には煙で燻さないと。なぜか。それらが身を寄せている場所がそうさせるからである。私は身分こそ卑しいが、皇帝の親族としての地位を得ており、位こそ低いが、東方の藩国として封ぜられ、さらに兄とも称されている。今、群臣たちは葭の莩(葦の皮)ほどの薄い親戚関係も、鴻毛ほどの軽い縁もないのに、群れ集まって徒党を組み議論し、友人同士で助け合い、宗室を排斥し、骨肉の情を氷のように解かしてしまっている。これこそが伯奇が流浪し、比干が真っ二つにされた所以である。『詩経』に「我が心は憂い傷み、心臓が搗かれるようだ。仮寝して長く嘆き、ただ憂いが老いを招く。心の憂いは、頭痛の病のようだ」とあるが、まさに私のことを言っているのである。

役人による侵害の事実をことごとく上奏して知らせた。そこで皇帝は諸侯に対する礼を厚くし、役所が上奏する諸侯に関する事柄を簡素化し、親族を親しむ恩情を加えた。その後、さらに 主父偃 の献策を用い、諸侯に私的な恩情によって自ら領地を分割して子弟に分け与えるよう命じ、漢朝が封号を定め、それぞれ別に漢の郡に属させた。漢朝は厚い恩恵を施したが、諸侯の領地は次第に分割されて弱小化していったという。

劉勝は人となり、酒を楽しみ女を好み、子が百二十余人もいた。常に趙王の彭祖と互いに非難し合い、「兄上が王でありながら、ひたすら役人の代わりに政事を処理している。王者たるものは日々音楽を聴き、声と色を楽しむべきである」と言った。趙王もまた「中山王はただ贅沢で淫らなだけで、天子を補佐して百姓を慰撫することはなく、どうして藩臣と称することができようか」と言った。

四十三年で逝去した。子の哀王劉昌が後を嗣ぎ、一年で逝去した。子の康王劉昆侈が後を嗣ぎ、二十一年で逝去した。子の頃王劉輔が後を嗣ぎ、四年で逝去した。子の憲王劉福が後を嗣ぎ、十七年で逝去した。子の懐王劉循が後を嗣ぎ、十五年で逝去し、子がなかったため、四十五年間絶えた。成帝の鴻嘉二年、再び憲王の弟の孫である利郷侯の子、劉雲客を立てた。これが広徳夷王である。三年で逝去し、子がなかったため、十四年間絶えた。哀帝は再び雲客の弟の広漢を広平王に立てた。逝去し、後継者がいなかった。平帝の元始二年、再び広川恵王の曾孫の劉倫を広徳王に立て、靖王の後を嗣がせた。王莽の時に絶えた。

長沙定王劉発

長沙定王劉発は、母は唐姫で、もと程姫の侍女であった。景帝が程姫を召した時、程姫は忌避すべきことがあり、進み出ることを望まず、代わりに侍女の唐児に扮装させて夜に進ませた。皇帝は酔っており、気づかず、程姫だと思って寵愛し、そのため身ごもった。後に程姫ではないと気づいた。そして子が生まれたので、名を発と付けた。孝景帝の前二年に封ぜられた。その母が身分低く寵愛されなかったため、王は卑湿で貧しい国に封ぜられた。

二十八年で逝去した。子の戴王劉庸が後を嗣ぎ、二十七年で逝去した。子の頃王劉鮒鮈が後を嗣ぎ、十七年で逝去した。子の剌王劉建徳が後を嗣ぎ、宣帝の時に、狩猟で放った火が民家九十六戸を焼き、二人を殺害した罪、および県の公務をめぐって内史を怨み、人に教唆して棄市の罪に陥れるよう誣告させた罪により、八県を削減され、中尉の官を廃止された。三十四年で逝去した。子の煬王劉旦が後を嗣ぎ、二年で逝去した。子がなく、一年余りで絶えた。元帝の初元三年、再び旦の弟の宗を立てた。これが孝王である。五年で逝去した。子の魯人が後を嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

広川恵王の名は越という。

広川恵王の越は、孝景帝の中元二年に封ぜられ、十三年で 薨去 こうきょ した。子の繆王の斉が後を嗣ぎ、四十四年で 薨去 こうきょ した。初め、斉には寵愛する臣下の乗距がいたが、後に罪を得て、斉は距を誅殺しようとした。距は逃亡し、斉はその宗族を捕らえた。距は王を怨み、上書して斉が同母姉妹と姦通していると告発した。この後、斉はたびたび漢の公卿や寵臣の所忠らを告発し、また中尉の蔡彭祖が自分の子の明を捕らえたことを告発し、「お前の一族を皆殺しにしてやる!」と罵った。役人が取り調べてみると、王の言う通りではなく、斉を誣告と大不敬で弾劾し、拘束して処罰するよう請うた。斉は恐れ、上書して広川の勇士と共に匈奴を討撃したいと願い出た。皇帝はこれを許した。出発しないうちに、病で 薨去 こうきょ した。役人は封国を除くよう請うた。奏上は許可された。

その後数か月して、 詔 が下された。「広川恵王は朕にとって兄である。朕はその宗廟を絶やすに忍びない。恵王の孫の去を広川王とせよ。」去はすなわち繆王斉の太子である。師について『易』『論語』『孝経』を学び、皆通暁し、文辞・方技・博奕・倡優を好んだ。その殿門には成慶の絵があり、短い衣に大きな袴、長い剣を描いていた。去はこれを好み、七尺五寸の剣を作り、衣服も皆これを真似た。寵愛する姫に王昭平・王地余がおり、後(=正室)に立てると約束していた。去がかつて病気になった時、姫の陽成昭信が看病して非常に謹んで仕えたので、ますます寵愛するようになった。去が地余と戯れている時、その袖の中から刀を見つけ、笞打って事情を問いただすと、昭平と共に昭信を殺そうとしたと自白した。昭平を笞打って問いただしたが、自白しないので、鉄の針で刺し、無理やり自白させた。そこで諸姫を集め、去は自ら剣で地余を撃ち、昭信に昭平を撃たせ、二人とも死なせた。昭信は言った。「二人の姫の侍女たちが口を漏らすだろう。」さらに従婢三人を絞殺した。後日、昭信が病気になり、夢に昭平らが現れて去に訴えた。去は言った。「奴らがまた現れて私を脅かすのか!ただ焼き払うだけだ。」死体を掘り出し、皆焼いて灰にした。

後に去は昭信を後(=正室)に立てた。寵姫の陶望卿を脩靡夫人とし、絹織物を管理させた。崔脩成を明貞夫人とし、後宮を管理させた。昭信はまた望卿を讒言して言った。「私に礼を尽くさず、衣服は常に私より鮮やかで、良い絹織物を全部取って宮人たちに与えています。」去は言った。「もしお前がたびたび望卿の悪口を言っても、私の寵愛は減らない。もし彼女が淫らだという噂を聞けば、私は彼女を煮殺すだろう。」後日、昭信が去に言った。「前に画工が望卿の部屋を描きましたが、望卿は肌を露わにしてその傍らで白粉を塗っていました。またたびたび南戸から出入りして郎吏を窺っており、姦通の疑いがあります。」去は言った。「よく監視せよ。」このため、ますます望卿を愛さなくなった。後に昭信らと酒を飲んだ時、諸姫が皆侍っていた。去は望卿のために歌を作った。「尊章(父母)に背き、軽薄で軽率、謀は屈奇(異様)で、自ら絶つことを起こす。行いは周流(あちこち歩き回り)、自ら患いを生ず。誠に望むところにあらず、今誰を怨むべきか!」美人に相和して歌わせた。去は言った。

「この中には自ら悟る者があるはずだ。」昭信は去がすでに怒っていることを知り、すぐに望卿が歴々と郎吏の寝所を指さし、その主の名前をことごとく知っていると誣告し、また郎中令の錦の被のことを言い、姦通の疑いがあるとした。去はすぐに昭信と共に諸姫を従えて望卿の所へ行き、彼女の衣服を剥ぎ、さらに打ち据えた。諸姫にそれぞれ焼けた鉄を持たせて共に望卿を焼き灼らせた。望卿は逃げ出し、自ら井戸に投身して死んだ。昭信が引き上げさせ、木の杭をその陰部に打ち込み、鼻と唇を切り取り、舌を断ち切った。去に言った。「前に昭平を殺した時、逆に現れて私を脅かしました。今は望卿を糜爛させて、霊魂となれないようにします。」去と共にバラバラに解体し、大きな鍋に入れ、桃の灰と毒薬を取って一緒に煮た。諸姫を召し寄せて皆臨席させて観覧させ、連日連夜で糜爛し尽くした。さらに共にその妹の都を殺した。

後に去はたびたび姫の栄愛を召し出して酒を飲んだ。昭信はまた彼女を讒言して言った。「栄姫の物見や態度が良くなく、私通の疑いがあります。」当時、愛は去のために方領(四角い襟)の刺繍をしていた。去はそれを取って焼いた。愛は恐れ、自ら井戸に投身した。引き上げた時はまだ死んでおらず、笞打って問いただすと、自ら医者と姦通したと誣告した。去は柱に縛り付け、焼いた刀で両目を焼き爛らせ、生きたまま両腿を切り裂き、溶かした鉛を口に注いだ。愛が死ぬと、バラバラに解体して茨で埋めた。去に寵愛された者たちは、昭信がことごとく讒言して殺させ、合わせて十四人で、皆、太后の住む長寿宮の中に埋めた。宮人たちはこれを恐れ、再び逆らう者はなかった。

昭信は専愛しようとして言った。「王は明貞夫人に諸姫を管理させていますが、淫乱で禁じ難いです。諸姫の部屋の門を閉ざし、外出して遊ばせないようにしてください。」自分の大婢を 僕射 ぼくや とし、後宮を管理させ、諸舎をことごとく封鎖し、鍵を後(=昭信)に納めさせ、大々的に酒宴を設けて召し出さない限り、会うことができないようにした。去はこれを哀れんで、歌を作った。「愁いよ愁うな、住まいには慰めなし。心は重く結ばれ、思いは晴れず。内は鬱屈し、憂い哀しみが積もる。上には天を見ず、生きて何の益あらん!日は崔隤(衰え)、時は再び来ず。願わくは身を棄て、死して悔いなし。」昭信に声と鼓を節とさせ、諸姫にこの歌を教えて歌わせ、歌い終わるとすぐに後宮に帰り、門を封じた。ただ昭信の兄の子の初だけが乗華夫人となり、朝夕会うことができた。昭信は去と共に十余りの奴隷を従えて博奕をし、酒を飲み、遊び歩いた。

初め、去が十四、五歳の時、師について『易』を学んだ。師はたびたび去を諫めて正したが、去はますます大きくなり、師を追い出した。内史が師を掾(属官)にしようと請うた。師はたびたび内史に王家を厳しく取り締まるよう命じた。去は奴隷に師の父子を殺させたが、発覚しなかった。後に去はたびたび酒宴を設け、倡優に裸で戯れさせて座中を楽しませた。相の彊が倡優を弾劾して拘束し、無断で殿門に入ったとして、状況を奏上した。事が下って取り調べられると、倡優は、もともと王が脩靡夫人の望卿の弟の都に歌舞を教えさせたのだと言った。使者が望卿と都を召し出した。去は対面して、二人は皆淫乱で自殺したと言った。赦令に会って処罰されなかった。望卿は前に煮殺されていたので、すぐに他の死人を取って都の死体と共にその母に渡した。母は言った。「都はそうだが、望卿は違う。」たびたび号泣して死を求めた。昭信は奴隷に殺させた。奴隷が捕らえられ、自白した。本始三年、相と内史が状況を奏上し、赦令以前の犯行をことごとく述べた。天子は大鴻臚・丞相長史・御史丞・廷尉正を派遣して巨鹿の 詔 獄で共同審理させ、去と後(=正室)の昭信を逮捕するよう請うた。制 詔 して言った。「王后の昭信、諸姫、奴婢で証言する者は皆獄に下せ。」自白した。役人が再び王を誅殺するよう請うた。制 詔 して言った。「列侯、中二千石、二千石、博士と議せよ。」議する者は皆、去が悖逆で暴虐であり、後(=正室)の昭信の讒言を聞き入れ、焼き殺し煮殺し、生きたまま人を切り裂き、師の諫言を拒み、その父子を殺した。合わせて無辜の者十六人を殺し、一家の母子三人に至っては、節を逆らい理を絶っている。その十五人は赦令以前のことであり、大悪がなお重く、顕戮に伏して衆に示すべきである、と考えた。制 詔 して言った。「朕は王を法に致すに忍びない。その罰を議せよ。」役人が王位を廃して王とせず、妻子と共に上庸に移すよう請うた。奏上は許可された。湯沐邑百戸を与えられた。去は道中で自殺し、昭信は棄市に処せられた。

王位に立って二十二年、封国は除かれた。その後四年、宣帝の地節四年に、去の兄の文を再び立てた。これが戴王である。文はもともと正直で、たびたび王の去を諫めたので、皇帝が立てたのである。二年で 薨去 こうきょ した。子の海陽が後を嗣ぎ、十五年、部屋に男女の裸の交接の絵を描き、酒宴を設けて諸父・姉妹を招いて飲ませ、絵を仰ぎ見させた罪に坐した。また、海陽の妹が人の妻であるのに、寵臣と姦通させた。また、従弟の調らと謀って一家三人を殺害し、すでに殺害した。甘露四年に罪に坐して廃され、房陵に移され、封国は除かれた。その後十五年、平帝の元始二年に、戴王の弟の襄隄侯の子の瘉を再び立てて広徳王とし、恵王の後を奉祀させた。二年で 薨去 こうきょ した。子の赤が後を嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

膠東康王の名は寄という。

膠東康王の劉寄は、孝景帝の中元二年に封ぜられ、二十八年で 薨去 こうきょ した。淮南王が謀反を企てた時、劉寄はその事をかすかに聞き知り、ひそかに兵車や鏃矢を作り、戦闘や守備の準備を整え、淮南王の挙兵に備えた。そして役人が淮南王の事件を審理した時、その供述によって(劉寄の関与が)明らかになった。劉寄は天子(景帝)にとって最も親しい間柄であったため、内心傷つき、発病して死に、後継者を立てることを敢えてしなかった。そこで天子は、劉寄に長男の劉賢がおり、その母は寵愛されていなかったこと、また末子の劉慶がおり、その母は寵愛されていたこと、劉寄が常に劉慶を立てたいと思っていたが、順序が違うため、また何か過失があったため、遂に何も言わなかったことを聞いた。天子は彼を哀れみ、劉賢を膠東王に立てて康王の祭祀を奉じさせ、一方で劉慶を六安王に封じて、かつての衡山の地を治めさせた。膠東王の劉賢は立って十五年で 薨去 こうきょ し、諡を哀王といった。子の戴王劉通平が嗣ぎ、二十四年で 薨去 こうきょ した。子の頃王劉音が嗣ぎ、五十四年で 薨去 こうきょ した。子の共王劉授が嗣ぎ、十四年で 薨去 こうきょ した。子の劉殷が嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

六安共王の劉慶は立って三十八年で 薨去 こうきょ した。子の夷王劉禄が嗣ぎ、十年で 薨去 こうきょ した。子の繆王劉定が嗣ぎ、二十二年で 薨去 こうきょ した。子の頃王劉光が嗣ぎ、二十七年で 薨去 こうきょ した。子の劉育が嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

清河哀王の劉乗。

清河哀王の劉乗は、孝景帝の中元三年に封ぜられ、十二年で 薨去 こうきょ した。子がなく、封国は除かれた。

常山憲王の劉舜。

常山憲王の劉舜は、孝景帝の中元五年に封ぜられた。劉舜は皇帝の末子で、驕慢で淫らであり、しばしば禁令を犯したが、天子(景帝)は常に寛大に扱った。三十三年で 薨去 こうきょ し、子の劉勃が王位を嗣いだ。

初め、憲王に寵愛されない側室がいて長男の劉梲を産んだ。劉梲は母が寵愛されなかったため、王からも寵愛されなかった。王后の脩が太子の劉勃を産んだ。王には多くの側室がおり、寵愛された側室が劉平と劉商を産んだため、王后はめったに寵愛されなかった。憲王の病が重くなった時、寵愛された側室たちが看病に侍ったが、王后は嫉妬深くて常にそばにおらず、すぐに自室に帰ってしまった。医者が薬を進めると、太子の劉勃は自ら薬を試飲せず、また一晩中留まって看病もしなかった。王が 薨去 こうきょ すると、王后と太子はようやくやって来た。憲王は平素から劉梲を子として数えず、財物を分け与えなかった。郎官の中には太子や王后に、劉梲に財産を分けるよう勧める者もいたが、皆聞き入れなかった。太子が代わって立つと、また劉梲を引き取って面倒を見ようとしなかった。劉梲は王后と太子を怨んだ。漢の使者が憲王の葬儀を監視に来た時、劉梲は自ら、憲王が病気の時、王后と太子が看病せず、また 薨去 こうきょ してから六日後に(喪服を脱いで)自室に出たこと、太子の劉勃が密かに姦通し、酒を飲み、博打をし、筑を撃ち、女と車に乗って疾駆し、城を巡り市場を通り過ぎ、牢獄に入って囚人を見たことを訴えた。天子(武帝)は大行の張騫に検問させ、関係する証人を逮捕しようとしたが、王(劉勃)はまた彼らを匿った。役人が捕らえようと求めると、劉勃は人をやって殴打し鞭打ち、勝手に漢が嫌疑をかけた囚人を出してやった。役所は劉勃と憲王后の脩を誅殺するよう請うた。上(武帝)は言った。「脩はもともと品行が悪く、劉梲に罪を陥れさせたのだ。劉勃には良き師傅がいなかった。誅殺するには忍びない。」役所は王位を廃して封ぜず、王の劉勃を家族と共に房陵に移すよう請うた。上はこれを許した。

劉勃は王となって数か月で廃され、封国は除かれた。一か月余り後、天子は(劉舜が)最も親しい間柄であったため、役人に 詔 して言った。「常山憲王は早世し、后と側室が仲が悪く、嫡子と庶子が誣告し争い、不義に陥って封国を滅ぼした。朕は甚だ哀れに思う。憲王の子の劉平に三万户を封じて真定王とし、子の劉商に三万户を封じて泗水王とせよ。」頃王の劉平は立って二十五年で 薨去 こうきょ した。子の烈王劉偃が嗣ぎ、十八年で 薨去 こうきょ した。子の孝王劉由が嗣ぎ、二十二年で 薨去 こうきょ した。子の安王劉雍が嗣ぎ、二十六年で 薨去 こうきょ した。子の共王劉普が嗣ぎ、十五年で 薨去 こうきょ した。子の劉陽が嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

泗水思王の劉商は立って十年で 薨去 こうきょ した。子の哀王劉安世が嗣ぎ、一年で 薨去 こうきょ し、子がなかった。そこで武帝は泗水王が絶えるのを哀れみ、再び安世の弟の劉賀を立てた。これが戴王である。立って二十二年で 薨去 こうきょ し、遺腹子の劉煖がいたが、相と内史はこれを上聞しなかった。太后が上書したので、昭帝はこれを哀れみ、相と内史の罪を問い、劉煖を立てた。これが勤王である。立って三十九年で 薨去 こうきょ した。子の戾王劉駿が嗣ぎ、三十一年で 薨去 こうきょ した。子の劉靖が嗣ぎ、王莽の時に絶えた。

賛に曰く、昔、魯の哀公が言った。「寡人は深い宮殿の中で生まれ、婦人の手の中で育った。憂いを知らず、恐れを知らなかった。」この言葉は誠にその通りである!たとえ危うく滅びたくなくても、それは得られない。それゆえ古人は安逸を鴆毒とし、徳がなくて富貴であることを不幸と言った。漢が興ってから孝平帝に至るまで、諸侯王は百を数えたが、多くは驕慢で淫らで道を失った。なぜか? 放縦な生活に沈溺していたのであり、その地位がそうさせたのである。凡人でさえ習俗に縛られるのに、まして哀公の類いであろうか! 大雅の君子のみが、卓然として群を抜いている。河間献王はそれに近い人物であった。