漢書
賈鄒枚路伝 第二十一
賈山
賈山は潁川の人である。祖父の賈袪は、かつて 魏 王の時代の博士弟子であった。賈山は賈袪に学問を受け、その言うところは書物を広く渉猟するが、純粋な儒者になることはできなかった。かつて潁陰侯に仕えて騎兵を務めた。
孝文皇帝の時代に、治乱の道理を述べ、 秦 を借りて譬えとした。名づけて「至言」という。その文は次のとおりである。
臣が聞くところによれば、人臣たる者は、忠を尽くし愚を極めて、主君を直諫し、死罪を免れないことを避けない者があるという。臣、賈山がこれである。臣は遠い昔のことを例に引くことは敢えてせず、秦を借りて譬えとしたい。どうか陛下、少しお心を留めてくださるよう。
布衣に韋帯の士は、内に身を修め、外に名を成し、後世までその流れが絶えることがない。秦に至ってはそうではなかった。天子として貴く、天下を所有して富みながら、租税の取り立ては重く頻繁で、百姓は労役に疲れ、赭衣を着た者が道の半分を占め、群盗が山に満ちた。天下の人々に目を上げて遠くを見させ、耳を傾けて聞かせた。一人の男が大声で叫べば、天下がそれに応じる者が、 陳勝 である。秦はただこのようなだけでなく、 咸陽 から西の雍に至るまで、離宮が三百あり、鐘や鼓、帷や帳は、移動させなくとも備わっていた。また阿房の殿を造り、殿の高さは数十仞、東西五里、南北千歩、従う車と並ぶ騎兵、四頭の馬が疾駆し、旌旗がたわむことがなかった。宮室の壮麗がこのようなものであったため、その後の世の者は、小屋を集めて住む場所さえ得られなかったのである。天下に馳道を造り、東は 燕 ・ 斉 の果てまで、南は呉・ 楚 の極みまで、江湖のほとりから、海辺の楼観に至るまで全て通じた。道幅は五十歩、三丈ごとに樹を植え、その外側を厚く築き、金椎で固め、青松を植えた。馳道の壮麗がこのようなものであったため、その後の世の者は、わき道に足を踏み入れる場所さえ得られなかったのである。死んで 驪 山に葬られ、役人と囚人労働者が数十万人、長い年月を十年も費やした。地下は三泉まで穿ち、様々な金石を集め、銅を溶かして内側を固め、漆を塗って外側を飾り、珠玉をあしらい、翡翠で飾った。中には観覧遊歩の施設ができ、上には山林ができた。埋葬の奢侈がこのようなものであったため、その後の世の者は、蓬の生えた土塊で塚を覆うような葬りさえできなかったのである。秦は熊や羆のような力、虎や狼のような心で、諸侯を蚕食し、海内を併呑したが、礼義を篤くしなかった。故に天の災いがすでに加わったのである。臣は死を冒してお聞かせする。どうか陛下、少し留意され、その中から詳しくお選びくださるよう。
臣は聞く、忠臣が君主に仕えるにあたっては、言葉が厳しく率直であれば用いられず身が危うくなり、厳しく率直でなければ道を明らかにすることができない。だからこそ厳しく率直な言葉は、聡明な君主が急いで聞こうと望むものであり、忠臣が死を冒して知恵を尽くす所以なのである。土地が痩せているところでは、たとえ良い種があっても、生えることはできない。川辺や河岸の地では、たとえ悪い種であっても、盛んに大きく育たないものはない。昔、夏や殷の末世には、たとえ関龍逢や箕子、比干のような賢人がいても、身は死に、その道は用いられなかった。文王の時代には、才能に優れた士は皆その智を尽くすことができ、草刈りや薪取りのような賤しい者でも皆その力を尽くすことができた。これが周が興った所以である。だから、土地の肥沃なところはよく禾を育て、君主の仁なる者はよく士を養う。雷霆が撃つところには、摧き折れないものはない。万鈞の重さで圧するものには、糜らかし滅ぼさないものはない。今、人主の威は、ただの雷霆ではない。その勢いは重く、ただの万鈞ではない。道を開いて諫言を求め、和やかな顔色でそれを受け入れ、その言葉を用いてその身を顕彰しても、士はなお恐れおののいて自ら尽くすことを敢えてしない。ましてや、欲望のままに振る舞い、暴虐をほしいままにし、自分の過ちを聞くのを嫌うような場合にはなおさらであろう。威をもって震え上がらせ、重みをもって圧すれば、たとえ堯や舜の智、孟賁の勇があっても、どうして摧き折れないことがあろうか。このようであれば、人主はその過失を聞くことができない。聞かなければ、 社稷 は危うくなる。古の聖王の制度では、史官が前で過失を書き記し、楽工が箴言を誦して諫め、盲人が詩を誦して諫め、公卿は比喩を用いて諫め、士は言葉を伝えて過ちを諫め、庶人は道で謗り、商人や旅人は市で議論した。そうして初めて君主はその過失を聞くことができたのである。過失を聞いてこれを改め、義を見てこれに従う。これが永く天下を保つ所以である。天子の尊さは、四海の内において、その義によって臣とならない者はない。しかしながら、大学で三老を養い、自ら醤を執って食事を進め、爵を執って食後に口を漱がせ、食べ物が喉につまるのを前で祝い、骨が刺さるのを後で祝い、公卿は杖を捧げ、大夫は履を進め、賢人を挙げて自らを補佐させ、行いを修め正しい士を求めて直言諫めさせる。だから、天子の尊さをもって、三老を尊び養うのは、孝を示すためである。補佐の臣を立てるのは、驕りを恐れるためである。直言諫める士を置くのは、自分の過ちを聞くことができないのを恐れるためである。学問を草刈りや薪取りにまで及ぼすのは、善を求めて飽くことを知らないためである。商人や庶人が自分を誹謗してもそれを改め、善に従うことには全て耳を傾けるのである。
昔、秦の政( 始皇帝 )は力を尽くして万国を併合し、天下の富を有ち、六国を破って郡県とし、長城を築いて関塞とした。秦の地の堅固さ、大小の勢い、軽重の権勢は、一家の富や一人の強さと比べて、どうして数え尽くせようか。しかしながら、兵は陳涉に破られ、地は劉氏( 劉邦 )に奪われたのは、なぜか。秦王(始皇帝)が貪欲で狼のように暴虐であり、天下を害し、万民を窮乏させ、その欲望を快くするためであった。昔、周にはおよそ千八百の国があり、九州の民をもって千八百国の君主を養い、民力を用いるのは年に三日を超えず、十分の一を税として借り上げた。君主には余分な財があり、民には余分な力があり、頌える声が起こった。秦皇帝は千八百国の民をもって自らを養い、力は疲弊してその労役に堪えられず、財は尽きてその要求に堪えられなかった。ただ一人の君主の身であって、自らを養うために駆け回り、弋射や狩猟を楽しむ娯楽は、天下が供給することができなかった。労苦して疲れた者は休息を得られず、飢え寒い者は衣食を得られず、罪なくして死刑に処せられる者は訴えるところがなく、人はこれと怨みをなし、家はこれと仇をなした。だから天下は崩壊したのである。秦皇帝が生きている時、天下はすでに崩壊していたのに、自らそれを知らなかった。秦皇帝が東に巡狩し、会稽や琅邪に至り、石に刻んでその功績を著し、自ら堯や舜の統治を超えたと思った。石(百二十斤)を量って鐘や虡を鋳造し、土を篩って阿房宮を築き、自ら万世にわたって天下を有すると考えた。古の聖王が諡を作ったのは、三、四十世に過ぎない。たとえ堯、舜、禹、湯、文、武が累世にわたって広く徳を積み、子孫の基業としたとしても、二、三十世を超えることはなかった。秦皇帝は、死んでから諡法を用いるのは、父子の名号が時に襲名されることになり、一から万までなら、世々重なることがないと言った。だから死んで号を始皇帝とし、次を二世皇帝としたのは、一から万まで続けようとしたのである。秦皇帝はその功徳を計算し、その子孫の代を推し量って、世々窮まることがないと考えた。しかし、身が死んでわずか数ヶ月のうちに、天下が四方から攻め、宗廟は滅び絶えたのである。
秦の皇帝が滅亡の危機の中にありながら、自分でそれを知らなかったのはなぜか。天下に誰も敢えて告げる者がいなかったからである。敢えて告げる者がいなかったのはなぜか。老人を養い敬う道理がなく、補佐する臣がなく、諫言を進める士がなく、誅罰をほしいままに行い、誹謗する者を退け、直言諫諫する士を殺したからである。それゆえに、道を説いてはへつらい、一時の迎合と苟且の容認が行われ、( 師古 曰:「道は導と読み、君主の考えを邪な方向へ導くことである。媮は偷と同じ。」)その徳を比べれば堯や舜よりも賢く、その功績を評価すれば湯や武よりも賢いとされ、天下はすでに崩壊しているのに誰もそれを告げなかったのである。(師古曰:「水が側面から決壊することを潰といい、天下の崩壊が水の決壊のようであることを言う。」)詩に言う、「言えないのではない、どうしてこれほど畏れ忌むのか、聞き入れられる言葉には答えるが、讒言には退く」と。これはこのことを言うのである。(師古曰:「これは大雅・桑柔の篇である。賢者が事の是非を見て、それを分別して言えないのではないのに、言わないのはなぜか。ただ畏れて顔を犯し罪罰を受けるのを忌むからである。また、言って聞き入れられれば、心を尽くして答えるが、信じ受け入れられなければ、退くのである。今の詩の本文は『聞き入れられる言葉には答えるが、諫言には酔ったようだ』とある。解釈者はまた別の意味づけをして、これとは異なる。」)また言う、「威儀堂々たる多くの士、文王はこれによって安寧を得た」と。(師古曰:「これは大雅・文王の篇である。済済は、威儀が多いことである。これは文王が多くの士のゆえに、天下を安んじることができたことを言う。」)天下に士がいなかったわけではない。しかしながら文王だけが安寧を得たと言うのはなぜか。文王が仁を好めば仁が興り、士を得てこれを敬えば士が用いられ、用いるに礼義をもってするからである。
故にその愛敬を致さなければ、その心を尽くすことができない。その心を尽くすことができなければ、その力を尽くすことができない。その力を尽くすことができなければ、その功績を成すことができない。故に古の賢君はその臣に対して、その爵禄を尊び親しんだ。病気になれば何度も見舞いに行き、(師古曰:「心から憂い思い、礼の飾りとしないことを言う。」)死ねば弔問に赴き哭し、その小斂・大斂に臨み、棺を閉じて塗った後に錫衰・麻絰の喪服を着け、(師古曰:「已棺とは、すでに大斂を終えたことをいう。塗とは殯を塗ることをいう。錫衰とは、十五升の布で、縷に施しをしないものである。棺は工喚の反切で読む。」)そして三度その喪に臨んだ。未だ斂しないうちは酒を飲み肉を食わず、未だ葬らないうちは音楽を奏でず、宗廟の祭祀の時に死ねば、そのために音楽を廃した。故に古の君主たる者はその臣に対して、礼を尽くしたと言える。法服を着け、容貌を整え、顔色を正して、その後で会った。故に臣下は敢えて力を尽くし死を以てその上に報いようとしない者はなく、功績と徳は後世に立ち、善い評判は忘れられないのである。(師古曰:「令は善いことである。聞とは声が聞こえることである。」)
今、陛下は祖先を思い、その功績を追慕し、(師古曰:「術はまた述とも作る。」)偉大な事業と美徳を輝かせる方法を図り、(師古曰:「図は謀ることである。休は美しいことである。」)天下に賢良方正の士を推挙させた。天下の人々は皆喜び、(師古曰:「訢は欣と同じに読む。」)堯舜の道、三王の功績が興ると言った。天下の士は皆、精白を以て美徳を受け継ごうとした。(師古曰:「精神を研ぎ澄まして潔白になることである。」)今、方正の士は皆朝廷におり、さらにその賢者を選んで常侍・諸吏とし、彼らとともに駆け回り狩猟をし、(師古曰:「敺は驅と同じ。」)一日に二度三度と出かける。臣は朝廷が緩み弛み、(師古曰:「解は懈と読む。弛は放つこと、音は式爾の反切。」)百官が職務を怠り、諸侯がこれを聞けば、また必ず政事を怠ることを恐れる。
陛下が即位され、自ら努めて天下を厚くし、食事を減らし、音楽を聴かず、外の徭役や衛卒を減らし、歳貢を止めた。厩舎の馬を減らして県の伝馬に与え、(師古曰:「賦は給与することである。伝は張戀の反切で読む。」)諸苑を廃して農夫に与え、帛十万余匹を出して貧民を救済した。高齢者を礼遇し、九十歳には一人の子を役事から免除し、八十歳には二人分の算賦を免除した。(師古曰:「一子不事は、その賦役を免除することである。二筭不事は、二口分の算賦を免ずることである。」)天下の男子に爵位を賜り、大臣は皆公卿に至った。御府の金を発して大臣や宗族に賜り、恩沢を受けない者はなかった。罪人を赦し、その髪のないのを憐れんで巾を賜り、その赭色の衣と背中の文字を憐れんで、(師古曰:「衣は於旣の反切で読む。」)父子兄弟が会う時に衣を賜った。獄を公平にし刑罰を緩め、天下は喜ばない者はなかった。(師古曰:「説は悅と読む。」)それゆえに元年には慈雨が降り、五穀が実り、これは天が陛下を助けたのである。(師古曰:「相は助けることである。」)刑罰が他時より軽いのに法を犯す者が少なく、衣食が前年より多いのに盗賊が少ない、これは天下の人が陛下に従ったのである。(師古曰:「天下の人々のことである。」)臣は聞く、山東の役人が 詔 令を公布すると、民はたとえ老いて弱く病んでいても、杖をついて行ってそれを聞き、少しの間でも死なずに、徳化の完成を見たいと願ったと。今、功業はまさに成り、名声はまさに輝き、四方は風になびき、(師古曰:「郷は嚮と読む。」)今、豪俊の臣、方正の士を従えて、ただひたすら日々狩猟し、兎を撃ち狐を討ち、大業を傷つけ、天下の望みを絶とうとしている。臣はひそかにこれを悲しむ。詩に言う、「初めのないものはないが、終わりを全うできるものは少ない」と。(師古曰:「これは大雅・蕩の詩である。人は初めは皆善道に近づこうとするが、終わりを全うできる者は少ないことを言う。」)臣は大願に堪えず、どうか狩猟を少し減らし、夏の暦の二月に、(師古曰:「当時は十月を歳首としていたので、夏正の二月を五月としていた。今、制度を定め、古法に従おうとするので、特に夏の暦の二月を用いると言うのである。夏は胡雅の反切で読む。」)明堂を定め、太学を造り、先王の道を修められたい。風が行き俗が成り、万世の基が定まり、その後でこそ陛下のなさるままにされるのである。(師古曰:「思いのままにできることを言う。」)古より大臣は軽んじられず、(師古曰:「媟はなれなれしいこと、音は息列の反切。」)故に君子は常にその斉厳の色、肅敬の容姿を見せることはない。(師古曰:「見は示すこと、音は胡電の反切。」)大臣は宴楽や遊びに参与せず、(師古曰:「安息することを宴という。與は 豫 と読む。」)方正で修潔の士は狩猟に従わず、皆その道に務めてその節操を高めさせ、(師古曰:「方は道である。一説に方とは廉隅(角が立っていること、節義)をいう。」)そうすれば群臣は敢えて身を正し行いを修め、心を尽くして大礼に副おうとしない者はない。(師古曰:「稱は副うことである。」)このようであれば、陛下の道は尊敬され、功業は四海に施され、万世の子孫にまで伝わるであろう。もし本当にこのようでなければ、行いは日々悪くなり栄えは日々滅びるであろう。士は家で修養しながら、天子の朝廷でそれを台無しにされる。臣はひそかにこれを哀れむ。陛下は衆臣と宴楽し遊び、大臣や方正の士と朝廷で論議される。遊びに楽しみを失わず、朝廷に礼を失わず、議論に計略を失わない、これが事の法度の大なるものである。(師古曰:「軌とは法度のことである。」)
その後、文帝が銭貨鋳造の禁令を解除すると、賈山は再び上書して諫め、先帝の法を変えるのは正しくないと論じた。また淮南王には大罪はないので、急いで帰国させるべきだと訴えた。さらに柴唐子が悪事を働いたことを挙げ、これは十分に戒めとすべきだと述べた。〈鄧展が言うには、「『淮南伝』に棘蒲侯柴武の太子である柴竒が士伍の開章と謀反を企てたとある。」〉上書は下されて詰問責めを受けたが、〈師古が言うには、「彼が上呈した上書を、役人に詰問させたのである。」〉賈山は答えて、「銭というものは、何の役にも立たぬ器物であるが、それによって富貴を得ることができる。富貴というものは、君主が掌握する権柄である。〈師古が言うには、「操は持つことで、音は千高反である。」〉民にそれをやらせるということは、君主と共に権柄を握ることであり、これを長く続けてはならない。」〈師古が言うには、「長とは養い育てることである。このような事は速やかに禁絶すべきで、養い育ててはならないという意味である。」〉その言葉は多く激しく痛切で、事柄の意味を的確に指摘していたが、結局罰は加えられず、これによって諫争の道が広げられたのである。その後、再び銭貨鋳造は禁止されたという。
鄒陽は斉の人である。漢が興ると、諸侯王は皆、自ら民を治め賢者を招聘した。呉王劉濞は四方の遊説の士を招き集め、鄒陽は呉の厳忌、枚乗らと共に呉に仕え、皆、文才と弁論で有名であった。長い時が経ち、呉王は皇太子(後の景帝)との事件で恨みを抱き、病気と称して朝見せず、ひそかに邪悪な謀略を抱いていた。鄒陽は上書して諫めた。その事柄がまだ隠れている段階で、直接的に指摘して言うのを嫌ったため、まず秦を引き合いに出して例とし、胡・越・斉・ 趙 ・淮南の災難について述べ、それからようやく自分の意図を述べた。その文辞は次のとおりである。
臣が聞くところによりますと、秦は曲臺の宮殿を頼みとし、〈応劭が言うには、「始皇帝が政務を執った場所で、漢の未央宮のようなものである。」師古が言うには、「倚は頼みとすることで、音は於綺反である。」〉天下を衡(横)に懸けて支配し、〈服虔が言うには、「関西を衡とする。」応劭が言うには、「衡は平らかにすることである。」如淳が言うには、「衡は秤の衡のようなもので、法度をその上に懸けるという意味である。」師古が言うには、「これは秦が自らの威力が強固であると自負したことを説いたもので、法を平らかにすることを論じたのではない。下文でまた陳勝が合従軍を率いて拠ったことを言っているので、これは縦横の事を説いたのである。服虔の解釈が正しい。」〉地に線を引いても犯されず、兵を胡や越に加えた。〈師古が言うには、「地に線を引いても犯されないとは、法制が行き渡っていることである。」〉しかしその晩節末路に至って、張耳・陳勝が合従軍を率いて拠り、〈師古が言うには、「従の音は子容反である。」〉 函谷関 を叩けば、咸陽はたちまち危うくなった。〈師古が言うには、「叩は撃つことである。」〉どうしてそうなったのか。諸郡が互いに親しまず、万戸の家が互いに救わなかったからである。今、胡はたびたび北河の外に渡り、上は飛ぶ鳥を覆い尽くし、下には伏せる兎も見えないほどである。〈蘇林が言うには、「胡が来る人馬の盛んな様子を言い、舞い上がる塵が上は飛ぶ鳥を覆い、下には伏せる兎も見えなくするという意味である。一説には、覆は尽くすことで、上は飛ぶ鳥を射、下は伏せる兎を尽くすという意味である。」師古が言うには、「覆は尽くすことで、この説が正しい。音は芳目反である。」〉城を争って戦いが止まず、救いの兵も絶えず、死者は相次ぎ、輦車は連なり、〈師古が言うには、「属は連なることで、音は之欲反である。」〉穀物を転送し輸送して、千里にわたって絶えることがない。どうしてそうなのか。強国趙は河間の地を責め求め、〈応劭が言うには、「趙幽王が 呂后 に幽閉されて死に、文帝はその長子の劉遂を趙王に立てたが、趙の河間を取って劉遂の弟の劉辟彊を河間王に立てた。その子の哀王に後継ぎがなく国は除かれたので、劉遂は再び河間を得ようとした。」〉六つの斉国は恵帝と呂后を恨み、〈孟康が言うには、「高后が斉の済南郡を割いて呂台の奉邑とし、また琅邪郡を割いて営陵侯劉沢を琅邪王に封じた。文帝はようやく悼恵王の六人の子を王に立てた。六斉は今日の恩恵を保たず、恵帝と呂后を怨み追うという意味である。一説には、恵帝二年に悼恵王が入朝した時、呂后が毒殺しようとしたので、城陽郡を献上し、 魯元公主 を尊んで、難を免れた。六人の子はこれを怨んだ。」〉城陽王は盧博の地を顧みて怨み、〈孟康が言うには、「城陽王劉喜のことである。劉喜の父の劉章と弟の劉興居は諸呂を討伐する功があった。本来なら趙の地をすべて劉章に、梁の地を劉興居に王として与えるべきであった。文帝は彼らが斉王を立てようとしていると聞き、代わりに二郡で彼らを王とした。劉章は職を失い、一年余りで亡くなった。劉興居は誅殺された。盧博は済北王の治所で、劉喜が顧みて怨んだのである。」〉三つの淮南国は心の中で父の墓を思っている。〈張晏が言うには、「淮南厲王の三人の子が三王となったが、父が遷されて殺されたことを思い、墓を思って怨みを報いようとしている。」師古が言うには、「三人の子が王となったとは、淮南・衡山・済北のことである。」〉大王が憂いとしないならば、臣は救いの兵が大王に専心しないことを恐れます。〈孟康が言うには、「漢を救うことに専心しないという意味である。」如淳が言うには、「皆、私的な怨みや積年の恨みがあり、呉のためにはできないという意味である。もし呉が挙兵して反逆し、天子が討伐に来れば、四国はただ意向があるだけで、互いに救おうとはしないだろう。」師古が言うには、「二つの説はどちらも正しくない。諸国はそれぞれ私怨があり、自らの志を成そうとして、呉のために専心しようとしないのであって、互いに救うことを恐れているのではない。」〉胡の馬はついに進んで邯鄲を窺い、越の水軍は長沙に至り、舟を還して青陽に集結するでしょう。〈張晏が言うには、「青陽は地名である。還舟は舟船を集結させることである。胡が趙の難を為し、越が呉の難を為すので、頼りにできないという意味である。」〉たとえ梁国が淮陽の兵を合わせ、淮東に下り、広陵を越えて、越人の糧道を断とうとも、漢もまた西河を遮断して下り、北は漳水を守って、大国(呉)を助けようとするでしょうが、胡はますます進み、越はますます深く侵入するでしょう。これが臣が大王のために憂えるところです。〈応劭が言うには、「当時、趙王劉遂は北で 匈奴 と連合し、呉王劉濞はもとより三越に仕えていたので、鄒陽は微かに胡や越もまた自ら敵を受けることになり、救いの兵が専心しないと述べたのである。胡の馬だから進むと言い、越の水軍だから深いと言った。」蘇林が言うには、「折は遮断することである。鄒陽は呉王がひそかに斉・趙・淮南・胡・越と結びついていることを知り、諫めたいが直接的に指摘して言うことができなかったので、胡・越の難、斉・趙の怨みを述べ、微かに梁が淮陽と合して越人の糧道を断ち、漢が西河を遮断して大国を助けると述べて、その計略を破ろうとした。その言葉を隠そうとして、わざと胡はますます進み、越はますます深く侵入して、大王の患いとなると言い、その言葉を錯乱させ、あたかも呉が漢を憂い助ける者のようであるかのようにした。ここから以下で、ようやくその意図を述べている。」師古が言うには、「蘇林の説が正しい。」〉
臣が聞くところによりますと、交わる龍が首を上げ翼を奮い起こせば、浮雲が流れ出し、霧雨がことごとく集まるといいます。〈師古が言うには、「襄は上げることである。」〉聖王が節操を磨き徳を修めれば、遊説の士は正義に帰し名声を思うといいます。今、臣が知恵を尽くし議論を極め、精神を改めて思慮を極めれば、〈如淳が言うには、「精神を改めて思慮を極め尽くすという意味である。」〉どの国でも干渉することができない国はありません。〈師古が言うには、「奸の音は干である。」〉固陋な心を飾り立てれば、どの王の門の下で長い裾を引きずることができないということがありましょうか。しかし臣が諸王の朝廷を歴訪し、淮を背にして千里も離れて自らここに至った理由は、臣の国を嫌って呉の民を喜んだからではなく、ひそかに大王の行いを高尚なものとし、特に大王の義を悦んでいるからです。〈師古が言うには、「下風に側って聞き、大王の行いと義を高尚なものとし、悦んでいるという意味である。説は悦と読む。」〉どうか大王が軽んじることなく、私の志をよくお聞き取りください。
私は聞く、猛禽が百羽集まっても、一羽の鶚には及ばないと。〈孟康が言うには、「鶚とは大鵰である」と。如淳が言うには、「猛禽は諸侯に比し、鶚は天子に比す」と。師古が言うには、「猛禽とは鷹や鷲の類である。鶚は大きな鳥の中でも特に猛々しいものであり、鵰ではない。絫は古い累の字である。鶚の音は愕である」と。〉かつて趙国が全盛の時、〈服虔が言うには、「全趙とは、趙がまだ分割されていなかった時である」と。〉武力に優れた鼎士が盛装して叢台の下に集まり、たちまちにして市を成したが、〈師古が言うには、「袨服とは盛装のことである。鼎士とは鼎を持ち上げる力士のことである。叢台とは趙王の台で、邯鄲にある。袨の音は州県の県である」と。〉幽王の禍いを止めることはできなかった。〈師古が言うには、「幽王とは趙幽王の劉友を指す。湛は沈に読む。沈患とは、幽王が呂后に幽閉されて死んだことを言う」と。〉淮南王は山東の侠客と結び、死士が朝廷に満ちたが、厲王を西方から帰還させることはできなかった。〈師古が言うには、「厲王とは淮南厲王の劉長である。西とは厳道に廃遷され、雍で死んだことを指す」と。〉しかし、計略がうまくいかなければ、たとえ専諸や孟賁のような勇士であってもその地位を安泰にすることはできない。これもまた明らかである。〈師古が言うには、「諸とは専諸を指し、賁とは孟賁を指す。いずれも古代の勇士である」と。〉ゆえに、どうか大王には慎重に計画を立てられることを願うのみである。〈師古が言うには、「画とは計画のことである。音は獲である」と。〉
かつて孝文皇帝は関中を拠点として帝位につき、心を寒からしめ志を消沈させ、夜明けを待たずに衣を求めた。〈張晏が言うには、「函谷関を拠点として天子に即位した。諸侯国は文帝が関に入ったと聞いて、これに寒心し志を散じたのである。求衣とは、夜に衣を探し着ることで、明るくなるのを待てない、心が安らかでない様子である」と。臣瓚が言うには、「文帝は関に入って即位し、天下に多くの困難があるため、心を寒からしめ身を震わせ、夜明け前に起きたのである」と。師古が言うには、「瓚の説が正しい」と。〉天子に即位した後、東牟侯や朱虚侯を東方に派遣して義父(儀父)の後裔を褒賞し、〈応劭が言うには、「天下が平定された後、文帝は朱虚侯の劉章を東方に派遣して斉王を諭し、彼が真っ先に兵を挙げて諸呂を誅殺しようとしたことを称え、ちょうど『春秋』が邾の儀父を褒めたのと同じである」と。師古が言うには、「立天子とは、天子に即位したことを言う。義は儀に読む。父は甫に読む」と。〉幼い子供を深く思いやって王に封じた。〈応劭が言うには、「斉王の六人の子を王に封じたが、その中には小さな幼児もいた。文帝の骨肉に対する情の厚さである。ある説では、皇子の劉武を代王に、劉参を太原王に、劉揖を梁王に封じたことを指す」と。師古が言うには、「ある説が正しい」と。〉愛する子を梁や代の王とし、〈如淳が言うには、「文帝の二人の子である」と。晋灼が言うには、「揚雄の『方言』に『梁や益の間では、愛する者をその肥え盛った様子から壤と呼ぶ』とある。あるいは、深く幼児を思いやって王に封じた土地(壤)と言う。壤は土である。壤の字は上に属すべきである」と。師古が言うには、「ある説は誤りである」と。〉さらに淮陽を加えた。結局、済北王は倒れ、弟は雍に囚われた。これはまさに新垣平らのような者がいたからではないか!〈応劭が言うには、「仆とは倒れることである。済北王の劉興居が反乱を起こし誅殺された。弟を雍に囚われたとは、淮南王の劉長が罪を得て移され、雍で死んだことである。このようになった原因は、二国に新垣平のような奸臣がいて、王をそそのかして共に反乱を起こさせたからである」と。師古が言うには、「仆の音は赴である」と。〉今、天子は先帝の遺された事業を新たに受け継ぎ、左には山東を規制し、右には関中を制し、権謀を変え勢力を易えているので、大臣といえどもその実情を知るのは難しい。大王がこれを察知されなければ、私は周の鼎が再び漢に現れ、新垣平のような誤った計略が朝廷に現れることを恐れる。〈如淳が言うには、「新垣平が『鼎は泗水の中にある。臣が東北の汾陰に金宝の気を見た。鼎はそこにあるのではないか?迎えなければ、来ないだろう』と詐言した。呉のために計略を立てる者は、ちょうど新垣平の言葉のように、周の鼎は結局得られないのである」と。服虔が言うには、「過とは誤りである」と。〉そうなれば、我が呉の遺された子孫は、この世に存続することを期待できなくなるであろう。〈師古が言うには、「呉は滅び絶えて子孫を残さないであろうと言う」と。〉高皇帝は桟道を焼き、 章邯 を水攻めにし、〈応劭が言うには、「章邯が雍王となった時、 高祖 は水でその城を灌いで破った」と。〉兵を行くに留まらず、〈師古が言うには、「留まって滞ることがなく、行軍を妨げられなかったと言う」と。〉疲弊した民衆を収め、東は函谷関に馳せ、西楚を大破した。〈張晏が言うには、「 項羽 は自ら西楚 霸 王と号した」と。〉水攻めでは章邯がその城を失い、陸戦では荊王がその地を失った。〈如淳が言うには、「荊もまた楚である。項羽が敗走したことを指す」と。〉これらはすべて国家が安泰であることの証左である。〈応劭が言うには、「庶幾(期待)すべきでないと言う」と。李奇が言うには、「わずかな兆しだけでなく、はっきりと現れているのである。あるいは、幾とは危ういことである。これらの数事は国家にとって何ら危険な懸念がないのである」と。師古が言うには、「漢朝が安泰である以上、諸侯は妄りに邪な考えを起こすべきではないと言う。応の説が正しい」と。〉どうか大王にはよくお考えいただきたい。
呉王は彼の意見を採用しなかった。
この時、景帝の末弟である梁孝王が貴盛で、士を待遇していた。そこで鄒陽・枚乗・厳忌は呉王を説得できないと悟り、皆、呉を去って梁に行き、孝王に従って交遊した。
鄒陽は知略に富み、慷慨として苟も迎合せず、羊勝や公孫詭の間に介在した。〈師古が言うには、「介とは間に位置することである」と。〉羊勝らは鄒陽を憎み、孝王に彼を讒言した。〈師古が言うには、「悪とは讒言して誹謗することである。以下も同じ」と。〉孝王は怒り、鄒陽を獄吏に下し、殺そうとした。鄒陽は客として遊説中に讒言によって捕らえられ、死んで汚名を負うことを恐れ、獄中から上書して言った。
私は聞く、忠は必ず報いられ、信は疑われないものだと。私は常にそのように考えていたが、それは単なる空虚な言葉に過ぎなかった。昔、荊軻が燕の太子丹の義に感じ、白虹が太陽を貫いたが、太子はそれを畏れた。〈応劭が言うには、「燕の太子丹が秦に人質となった時、始皇が彼に礼を失したので、丹は逃亡し、荊軻を手厚く養って、西の秦王を刺させようとした。その精誠が天に通じ、白虹が太陽を貫いたのである」と。如淳が言うには、「白虹は兵の象徴であり、太陽は君主である。燕丹のために克服できる兆しを示したのである」と。師古が言うには、「精誠がこのように至っても、太子はなお畏れて信じなかった。太白星が昴を食うのも、その義はこれと同じである」と。〉衛先生が秦のために長平の戦いのことを計画した時、太白星が昴を食ったが、昭王はそれを疑った。〈蘇林が言うには、「白起が秦のために趙を伐ち、長平軍を破り、趙を滅ぼそうとして、衛先生を派遣して昭王に増兵と兵糧を説いたが、応侯に害され、事は成就しなかった。精誠が天に上達したので、太白星が昴を食ったのである。昴は趙の分野であり、兵事があるため、太白星が昴を食ったのである。食とは干犯して通過することである」と。如淳が言うには、「太白星は天の将軍である」と。〉その精誠は天地を動かしたのに、信義が両主に理解されなかった。なんと哀れなことか!今、私が忠誠を尽くし、意見のすべてを述べて理解を願っても、左右の者が明らかでなく、ついに獄吏の取り調べに従い、世に疑われることとなった。〈師古が言うには、「左右の者が明らかでないと言うのは、王を直接非難しないためである。訊とは取り調べることである。音は信である」と。〉これは荊軻や衛先生が再び現れても、燕や秦が悟らないのと同じである。どうか大王にはよくお考えいただきたい。
昔、玉人(卞和)が宝玉を献上したが、楚王は彼を誅した。李斯は忠を尽くしたが、胡亥(秦の二世皇帝)は彼に極刑を加えた。このため、箕子は狂気を装い、接輿は世を避けた。このような災いを恐れたのである。どうか大王には、玉人や李斯の真意を察し、楚王や胡亥の誤った判断を後回しにされ、臣が箕子や接輿に笑われるようなことのないようにしてほしい。臣は、比干が心臓を抉られ、子胥が鴟夷(皮袋)に詰められて江に沈められたと聞いていたが、最初は信じなかった。今になってようやくその真実を知った。どうか大王にはよくお考えいただき、少しでも哀れみをかけてくださるよう願う。
諺に「白頭(白髪頭)の如く新しき有り、傾蓋(車の蓋を傾けて語り合う)の如く故(旧知)の如し」とある。なぜか。知っているか知らないかの違いによるのである。だからこそ、樊於期は秦から逃れて燕に行き、荊軻に自分の首を借りて太子丹の大事(秦王暗殺)に捧げさせた。王奢は斉を去って魏に行き、城壁の上で自ら首を刎ねて斉軍を退け、魏を存続させた。王奢や樊於期が、斉や秦に対しては新参者であり、燕や魏に対しては旧知であったわけではない。彼らが二国を去り、両君のために死んだのは、その行いが志に合致し、義を慕う心が限りなかったからである。このため、蘇秦は天下から信用されなかったが、燕においては尾生(伝説的な信義の人)となった。白圭は戦いに敗れて六城を失ったが、魏のために中山国を奪取した。なぜか。誠に互いに理解し合うところがあったからである。蘇秦が燕の宰相となった時、人が燕王に彼を讒言したが、燕王は剣に手をかけ怒り、駃騠(名馬)を食わせて厚遇した。白圭が中山国で功績を顕わにした時、人が魏の文侯に彼を讒言したが、文侯は夜光の璧を賜った。なぜか。両主と二臣は、心と肝を分かち合って互いに信頼し合っていたのであり、どうして浮ついた言葉によって心が動くことがあろうか。
だから、女は美醜にかかわらず、宮中に入れば妬まれ、士は賢愚にかかわらず、朝廷に入れば嫉まれる。昔、司馬喜は宋で臏刑(膝蓋骨を削ぐ刑)を受けながらも、ついに中山の宰相となった。范雎は魏で肋骨を折られ歯を砕かれたが、ついに応侯となった。この二人は、いずれも確信する計画を信じ、党派的な私情を捨て、孤独な交友関係を抱えていたので、嫉妬する人々から自ら免れることができなかったのである。このため、申徒狄は雍水から黄河に身を投げ、徐衍は石を背負って海に入った。世に容れられず、義のために苟も朝廷で徒党を組んで主君の心を惑わすようなことはしなかった。だから、百里奚が道端で物乞いをしていたのを、繆公は政事を委ねた。甯戚が車の下で牛に餌を与えていたのを、桓公は国政を任せた。この二人は、もともと朝廷で官に就いていたわけでも、側近に名声を借りたわけでもないのに、その後二人の君主に用いられたのだろうか。心に感じ、行いに合致し、膠や漆のように堅く結ばれ、兄弟でも引き離すことができず、どうして衆人の口に惑わされようか。だから、一方だけを聞けば奸が生じ、一人だけを任用すれば乱が起こる。昔、魯は季孫の言葉を聞いて孔子を追放し、宋は子冉の計略を用いて墨翟を囚えた。孔子や墨子のような弁舌をもってしても、讒言や諂いから自ら免れることができず、二つの国は危うくなった。なぜか。衆人の口は金をも溶かし、積もった誹謗は骨をも銷かすからである。秦は戎人の由余を用いて中国を覇者とし、斉は越人の子臧を用いて威王・宣王を強盛にした。この二つの国は、どうして世俗に縛られ、世間に引きずられ、偏った奇妙な言葉に拘束されただろうか。公平に聞き、広く観察し、後世に明らかな事績を残したのである。だから、意志が合えば胡と越でも兄弟となり、由余や子臧がそうであった。合わなければ骨肉でも仇敵となり、丹朱・象や管叔・蔡叔がそうであった。今、人主が真に斉や秦の明察を用い、宋や魯の偏った聞き方を後回しにすれば、五覇にも匹敵し、三王の業も容易に成し遂げられるであろう。
だから聖王は目覚め、子之に譲位しようという心を捨て、田常の賢さを喜ばず、比干の子孫を封じ、妊婦の墓を修復したので、功業は天下に及んだ。なぜか。善を求め飽くことを知らなかったからである。晋の文公は自分の仇を親しくし、諸侯の覇者となった。斉の桓公は自分の仇を用いて、天下を匡正した。なぜか。慈愛と仁恵、心からの誠意が心に加えられ、空虚な言葉で借りることができなかったからである。
秦が商鞅の法を用いて、東方の 韓 ・魏を弱体化させ、天下に強国としての地位を確立したが、結局(商鞅は)車裂きの刑に処せられた。越が大夫種の謀略を用いて、強力な呉を捕らえ中国の覇者となったが、(大夫種は)ついに誅殺された。このため孫叔敖は三度宰相の職を去っても後悔せず、於陵の子仲は三公の地位を辞して人のために園の灌漑に従事した。今、君主がもし驕り高ぶる心を去り、報いるに値する誠意を抱き、心腹を開き、真情を現し、肝胆を砕き、厚く徳を施し、終始(士と)窮達を共にし、士に対して惜しむところがなければ、ならば桀の犬に堯を吠えさせることができ、跖の客に許由を刺させることができる。ましてや万乗の権力を頼り、聖王の資質を借りるならばなおさらである。そうであれば、荊軻が七族を沈め、要離が妻子を焼き殺したことなど、どうして大王のために語るに足りようか。
臣は聞く、明月の珠、夜光の璧であっても、暗闇で道行く人に投げ与えれば、人々はみな剣に手をかけ、横目で見るものである。なぜか。理由なくして目前に至るからである。蟠りくねった木の根や株が、曲がりくねって奇怪であっても、天子の器物となるのは、左右の者が先にそれを飾り立てるからである。だから理由なくして目前に至れば、たとえ随侯の珠や和氏の璧を出したとしても、ただ恨みを結ぶだけで恩徳とは認められない。先に推薦する者がいれば、枯れた木や朽ちた株でも功績を立てて忘れられない。今、天下の布衣で貧窮した生活を送る士は、身は貧しくやせ細り、たとえ堯・舜の治国の術を身につけ、伊尹・管仲のような弁舌を備え、龍逢・比干のような志を抱いていても、もともと根や株のような飾り立てる者がいなければ、たとえ精神を尽くして当世の君主に忠誠を述べようとしても、君主は必ずや(先の例のように)剣に手をかけ横目で見る態度を繰り返すことになる。これでは布衣の士が枯れ木や朽ちた株のような(推薦される)資格を得ることができないのである。
このため聖王は世を治め俗を統御するにあたり、ただ陶工の轆轤の上で自在に変化させ、へつらう言葉に引きずられることもなく、衆人の口に計画を奪われることもない。だから秦の皇帝は中庶子の蒙の言葉を信じて荊軻を信用し、匕首がひそかに突き出されることになった。周の文王は涇水・渭水で狩りをし、呂尚を車に乗せて帰り、それをもって天下を王とすることができた。秦は左右の者を信じて滅亡し、周は烏の集まるように偶然に出会った者を用いて王となった。なぜか。それは拘束された言葉を超越し、領域外の議論を広げ、ただ明るく広大な道理を観察することができたからである。
今、君主がへつらう言葉に沈溺し、帷や壁(近臣)の制約に引きずられ、束縛されない士を牛や駿馬と同じ厩に同居させている。これが鮑焦が世を憤った理由である。
臣は聞く、盛んな装いで朝廷に入る者は、私情をもって正義を汚さず、名誉を磨き上げる者は、利益をもって品行を損なわないと。〈師古が言うには、「厎厲とは、自ら廉潔な節操を磨き上げることで、まるで石で磨くようなものだ」〉だから、里の名が勝母であれば、曾子は入らず、〈師古が言うには、「曾子は至孝であり、勝母という名が道理に合わないので、入らなかった」〉邑の名が朝歌であれば、墨子は車を引き返した。〈 晉 灼が言うには、「紂が朝歌の音楽を作った。朝歌とは、時宜を得ていないということだ」師古が言うには、「朝歌は殷の邑の名である。淮南子に『墨子は音楽を否定し、朝歌に入らなかった』とある」〉今、天下の遠大な志を持つ士人を、威厳と重みのある権力で籠絡し、地位と勢力の貴さで脅迫し、〈師古が言うには、「寥廓とは、遠大な度量である。脅は迫ることで、寥の音は聊である」〉顔を歪めて行いを汚し、〈師古が言うには、「回は邪である。汚は不潔なことで、音は一故の反切である。あるいは汚は曲がっていることで、音は一胡の反切である」〉へつらい諂う者に仕えさせて、左右に近づこうとすれば、士人は死を覚悟して洞穴や岩山の藪の中に隠れるだけであり、〈師古が言うには、「堀は窟と同じである。水のない沼沢を藪という」〉どうして忠信を尽くして宮門の下に駆けつける者があろうか。
上書が孝王に奏上されると、孝王はすぐに彼を釈放し、ついに上客となった。
初め、勝と詭は王に漢の後継者となることを求めさせようとした。王はまたかつて上書し、容車の地を賜って長楽宮まで直通し、自ら梁国の人夫を使って甬道を築き、太后に朝見したいと願った。爰盎らは皆、不可であると意見を立てた。〈師古が言うには、「建とは議を立てることである」〉天子は許さなかった。梁王は怒り、人をやって爰盎を刺殺させた。皇帝は梁が殺したと疑い、使者の冠蓋が相望んで梁王を責めた。梁王は初め勝と詭と謀り、表向きは争って不可であるとしたので、讒言されたと思われた。枚先生と厳夫子は皆、諫めることができなかった。〈師古が言うには、「先生は枚乗である。夫子は厳忌である」〉
梁の事件が失敗し、勝と詭が死ぬと、孝王は誅殺されることを恐れ、そこで鄒陽の言葉を思い出し、深く謝罪し、千金を贈って、皇帝に罪を解いてもらう方策を求める者を探させた。鄒陽はもとより斉人の王先生を知っており、〈師古が言うには、「もとより互いに知り合っていた」〉年は八十余りで、奇計が多いので、すぐに会いに行き、事の次第を話した。王先生は言った。「難しいことだ。君主に私怨と深い怒りがあり、必ず行うべき誅罰を加えようとすれば、誠に解くのは難しい。太后の尊さ、骨肉の親しさをもってしても、まだ止めることができないのに、まして臣下がどうしてできようか。昔、秦の始皇帝は太后に対して伏した怒りを持ち、群臣が諫めて死んだ者は数十人に及んだ。茅焦を得て大義を明らかにし、〈鄭氏が言うには、「斉の人である」応劭が言うには、「茅焦が諫めて言った。『陛下は仮父を車裂きにし、嫉妬の心がある。二弟を袋に入れて撲殺し、不慈の名がある。母を咸陽に移し、不孝の行いがある。臣はひそかに陛下の危険を憂える。臣の言うことは終わった。』そこで衣を脱いで釜に向かって走った。始皇帝は殿を下り、左手で彼を受け止めて言った。『先生、起きなさい。』すぐに太后を迎え、ついに母子として元のようになった」〉始皇帝は彼の言葉を喜んだのではなく、〈師古が言うには、「説は悦と読む」〉自ら強いてそれに従っただけである。茅焦もまたかろうじて死を免れただけで、毛や毫ほどの違いであった。〈師古が言うには、「廑は少ないことである。かろうじて死を免れたことを言う。廑の音は巨刃の反切である」〉だから事は難しいのである。今、あなたはどこへ行こうとするのか。」〈師古が言うには、「安は焉である。之は往くことである」〉鄒陽は言った。「鄒と魯は経学を守り、斉と楚には弁知が多く、韓と魏には時に奇節がある。私は順に尋ねて回ろう。」王先生は言った。「あなたは行きなさい。帰りに、私のところに寄って西へ行きなさい。」
鄒陽は一月余り行ったが、誰も謀りごとをすることができず、帰りに王先生のところに寄って言った。「私は西へ行こうとしていますが、どうしたらよいでしょうか。」王先生は言った。「私は先日、愚かな計略を献じようと思ったが、衆人の意見を覆い隠すことはできないと思い、ひそかに自分を浅薄で見識が狭いと思って言えなかった。もしあなたが行くなら、必ず王長君に会いに行きなさい。士人でこれ以上の者はいない。」鄒陽は心に悟るところがあり、言った。「謹んで承知しました。」別れて去り、梁には寄らず、直ちに 長安 に行き、客を介して王長君に会った。長君とは、王美人の兄で、後に蓋侯に封ぜられた者である。鄒陽は数日留まり、暇を見て請うて言った。〈師古が言うには、「間とは隙間の用事のない時である」〉「私は長君の前に使える者がいないから、来て仕えたのではありません。愚かで鈍く、ひそかに自分を量らず、お願いしたいことがあるのです。」〈師古が言うには、「料は量ることである。謁は告げることである」〉長君は跪いて言った。「大変ありがたい。」鄒陽は言った。「ひそかに聞くところによれば、長君の妹は後宮で寵愛を受け、天下に比類がないほどですが、〈師古が言うには、「ただ一人で、比べるものがないと言う」〉長君の行跡は道理に従わないことが多いと。今、爰盎の事件が徹底的に追及されれば、梁王は誅殺されることを恐れています。そうなれば、太后は鬱積して血の涙を流し、怒りを発する所がなく、貴臣に対して歯ぎしりし、横目でにらむでしょう。私は長君が積み重ねた卵のように危うくなることを恐れ、〈師古が言うには、「絫卵とは、崩れ落ちて粉々になることを言う」〉ひそかに足下のことを憂えています。」長君は懼然として言った。〈師古が言うには、「懼は瞿と読み、音は居具の反切である。瞿然とは、落ち着きのない様子である」〉「どうしたらよいだろうか。」鄒陽は言った。「長君が誠心誠意、上に言上して、梁の事件を追及しないようにさせることができれば、長君は必ず固く太后と結びつくでしょう。太后は長君に厚い恩徳を感じ、骨髄にまでしみ込み、長君の妹は両宮で寵愛を受け、〈如淳が言うには、「太后の宮と皇帝の宮である」〉金城のごとく固いものです。〈師古が言うには、「その栄寵が極まりなく壊れないので、金城にたとえたのである」〉また、滅びた国を存続させ、絶えた家系を継ぐ功績があり、徳は天下に広まり、名は限りなく施されます。どうか長君は深くご自分でお考えください。昔、舜の弟の象は日々舜を殺すことを仕事とし、〈師古が言うには、「日々殺そうとしたと言う」〉舜が天子に立つと、有卑に封じた。〈服虔が言うには、「音は畀予の畀である」師古が言うには、「地名で、音は鼻、今の鼻亭であり、零陵にある」〉仁人は兄弟に対して、隠れた怒りもなく、古い恨みもなく、親愛を厚くするだけであり、それゆえ後世に称えられるのである。魯の公子慶父は僕人に命じて子般を殺させたが、〈師古が言うには、「慶父は荘公の弟である。子般は荘公の太子である。僕人は即ち鄧扈楽である。父は甫と読む。般の字は班と同じである」〉罪は帰するところがあり、〈師古が言うには、「罪を鄧扈楽に帰したのである」〉季友はその実情を探らずに誅殺した。〈師古が言うには、「季友は慶父の弟で、慶父の本情を探らずに扈楽を誅殺した」〉慶父が自ら閔公を殺すと、季子は追及を緩めて賊を免れさせ、〈師古が言うには、「慶父が出奔した時、季友は追及せずに放置し、その賊乱の罪を免れさせた」〉春秋は親を親しむ道であるとした。〈師古が言うには、「公羊の説で、季友がその兄を親しんだことを言う」〉魯の哀姜が夷で薨じた時、孔子は『斉の桓公は法に従って譎らず』と言い、過ちであるとした。〈師古が言うには、「哀姜は荘公の夫人で、二叔と淫通し、閔公を殺すことに加担したので、斉人が夷で殺した。夷は斉の地である。法而不譎とは、法を守って行い、権謀を用いて親を免れさせることができなかったことを言う」〉この説をもって天子に説き、梁の事件が上奏されないように幸いを求めてください。」長君は言った。「承知した。」暇を見て入って言上した。韓安国もまた長公主に会い、事件はついに追及されずに済んだ。
かつて、呉王劉濞が七国と謀反を企てた際、挙兵の時になると、斉と済北の両国は城を守って出兵しなかった。漢が呉を破った後、斉王は自殺し、後継者を立てることができなかった。済北王も自殺しようとしたが、妻子を全うしたいと願っていた。斉の人公孫玃が済北王に言った。「臣が大王のために梁王を説得し、天子に意を通じさせてみましょう。説得が用いられなければ、その時死んでも遅くはありません。」公孫玃はそこで梁王に会い、言った。「そもそも済北の地は、東は強力な斉と接し、南は呉・越を引きつけ、北は燕・趙を脅かす、このような四分五裂の国です。権謀は自らを守るに足らず、兵力は敵を防ぐに足らず、また奇策や怪異なものがあって難に備えているわけでもありません。たとえ呉に失言したとしても、それは彼らの本心からの計略ではありません。昔、鄭の祭仲が宋の要求を許して公子突を立て、その君主を生かしたことは、義ではありませんでしたが、春秋がこれを記したのは、死を以て生に易え、亡を以て存に易えたからです。もし済北が実情を見せ、従わない意思を示していたならば、呉はまず斉を通過し、済北をことごとく平定し、燕・趙を招き寄せてまとめ上げたでしょう。そうなれば、山東の連合は結束して隙がなくなります。今、呉・楚の王は諸侯の兵を選び、訓練されていない民衆を駆り立て、西に向かって天子と勢力を争おうとしていますが、済北だけは節を守り堅固に守って降伏しませんでした。これによって呉は同盟を失い助けがなくなり、わずかな歩みを進めるだけで、瓦解土崩し、破敗しても救われなかったのは、必ずしも済北の力によらないとは言えません。小さな済北をもって諸侯と強さを争うのは、子羊や子牛の弱さで虎狼の敵を防ぐようなものです。職責を守って曲げず、誠実一筋と言えるでしょう。功績と忠義がこのようにあっても、なお上に疑われ、肩をすぼめ首を垂れ、足を重ね襟を撫でて、自ら後悔し進まなかった心を抱かせるのは、国家の利益ではありません。臣は恐れますが、藩臣として職責を守る者が疑念を抱くでしょう。臣がひそかに推量するに、西山を越え、長楽宮を経て未央宮に至り、袖をまくって正論を述べることができるのは、大王ただお一人だけです。上には国を全うさせた功績があり、下には百姓を安んじた名声があり、徳は骨髄にまで浸透し、恩は無限に加えられます。どうか大王にはご留意いただき、詳しくお考えください。」孝王は大いに喜び、人を走らせて天子に報告させた。済北王は罪に問われることなく、淄川に封を移された。
枚乗は字を叔といい、淮陰の人である。呉王劉濞の郎中となった。呉王が初めて恨みを抱き謀反を企てた時、枚乗は上書して諫めて言った。
臣は聞きます。全きを得る者は全く栄え、全きを失う者は全く滅びると。舜は立錐の地さえなくても、天下を有しました。禹は十戸の集落さえなくても、諸侯を王としました。湯王・武王の領土は百里を超えませんでしたが、上は日月星辰の光を絶やさず、下は百姓の心を傷つけませんでした。これには王者の術があったからです。そもそも父子の道は天性であり、忠臣は重い誅罰を避けずに直諫するものです。そうすれば事には失策がなく、功績は万世に流れます。臣乗は腹心を開いて愚かな忠誠を尽くしたいと願います。どうか大王には、臣乗の言葉にほんの少しでも哀れみの心をおかけください。
一本の糸の力で千鈞の重さを支え、上は果てしなく高い所に吊るされ、下は測り知れぬ深淵に垂れ下がっているとすれば、どんなに愚かな者でも、それが今にも切れそうだと哀れむでしょう。馬がちょうど驚こうとしている時に鼓を打って驚かせ、糸が今にも切れそうなのにさらに重しを加えるのです。糸が天から切れてしまえば再び結ぶことはできず、深淵に落ちてしまえば再び出ることは難しい。出るか出ないかの間は、髪の毛一本入る隙もありません。忠臣の言葉を聞くことができれば、どんな行動も必ず禍を免れるでしょう。もしどうしてもご自分の望むことをなさろうとするならば、積み重ねた卵よりも危険で、天に登るよりも難しい。望むことを変えれば、手のひらを返すよりも易しく、泰山よりも安泰です。今、天命の寿命を極め、尽きることのない楽しみを尽くし、万乗の勢いを究めようとされるならば、手のひらを返すような易しさから出ず、泰山のような安泰に居ながら、積み重ねた卵のような危険に乗じ、天に登るような難しさに向かおうとされるのは、この愚かな臣が大いに惑うところです。
人には自分の影を恐れ自分の足跡を嫌う者がおり、背を向けて走れば、足跡はますます多く、影はますます速くなり、日陰に入って止まることを知らず、影が消え足跡が絶えることを知りません。人に聞かれたくないならば、言わないのが一番です。人に知られたくないならば、しないのが一番です。熱い湯を冷やそうとするのに、一人で火を焚き、百人でかき回しても無益であり、薪を絶ち火を止めるには及びません。あちらで絶やさずに、こちらで救おうとするのは、薪を抱えて火を消そうとするようなものです。養由基は、楚の善射の者で、楊の葉から百歩離れて、百発百中しました。楊の葉の大きさに、百発百中を加えれば、善射と言えるでしょう。しかし彼の止まる所は、ただ百歩の内だけです。臣乗と比べれば、弓を操り矢を持つことを知らないも同然です。
福が生じるには基があり、禍が生じるには胎がある。〈服虔が言うには、「基、胎は、ともに始まりである」〉その基を納め、その胎を絶てば、禍はどこから来ようか。〈師古が言うには、「納とは、蔵するようなものである。何自來とは、どこからも来ないという意味である」〉泰山の雨垂れは石を穿ち、一本の井戸縄は井桁を断つ。〈孟康が言うには、「西方の人は屋梁を極と呼ぶ。単は一である。一本の梁とは、井戸の轆轤を指す。轆轤の縄が長く擦れて、井桁を断つというのである」 晉 灼が言うには、「䋁は、古い綆の字である。単は尽きることで、極限まで尽きた縄が幹を断つ。幹とは、井戸の上に四角に組んだ井桁である。常に汲み縄によって刻み傷つけられるのである」師古が言うには、「 晉 の説が近い。幹とは、井戸の上に木を交差させて欄干としたものである。孟が轆轤と言うのは、その意味を失っている。䋁、綆はともに音は鯁。鍥、契はともに刻むことで、音は口計反」〉水は石を穿つ錐ではなく、縄は木を断つ鋸ではないが、次第に磨り減らされてそうなるのである。〈師古が言うには、「靡とは、尽きることである」〉銖ずつ秤にかけて計れば、石に至れば必ず誤差が生じる。寸ずつ物差しで測れば、丈に至れば必ず過不足が出る。〈鄭氏が言うには、「石は百二十斤である」張晏が言うには、「乗じて転じた四万六千八十銖が石に至るが、合わせて秤にかければ必ず増減がある」師古が言うには、「小さなことから大きな数に至るまで、軽重が同じでないことを言うのである。度の音は徒各反」〉石で秤にかけ、丈で量れば、直截に計って誤りが少ない。〈師古が言うには、「径とは、直截なことである」〉十抱えもある大木も、初めは芽のように生え、足で掻きむしれば絶え、手で引き抜くこともできる。〈師古が言うには、「如櫱とは、櫱の芽が生えるようなものだと言うのである。搔とは、掻くことである。搔の音は索高反。抓の音は莊交反」〉それはまだ生じていないうちに、形が現れないうちに手を加えるからである。磨き研ぎ、砥石で磨いても、その減りは見えず、やがて尽きる時が来る。〈師古が言うには、「礱もまた磨くことである。厎は柔らかい石、厲は砥石であり、ともに磨くことができるものである。礱の音は聾」〉草木を植え、家畜を飼育しても、その益は見えず、やがて大きくなる時が来る。徳を積み、善行を重ねても、その善さは知らず、やがて用いられる時が来る。義を捨て、理に背いても、その悪さは知らず、やがて滅びる時が来る。臣は願わくば、大王にはよく考えてご自身で実行なさってください。これは百世変わらない道理なのです。
呉王は受け入れなかった。枚乗らは去って梁に行き、孝王に従って遊んだ。
景帝が即位すると、御史大夫の 鼂錯 が漢のために制度を定め、諸侯を削減したので、呉王はついに六国と謀反を企て、兵を挙げて西を向き、〈師古が言うには、「郷は嚮と読む」〉錯を誅することを名目とした。漢はこれを聞き、錯を斬って諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王を説得して言った。
昔、秦は西で胡や戎の難を挙げ、北で榆中の関を備え、〈師古が言うには、「即ち今のいわゆる榆関である」〉南で 羌 や筰の塞を防ぎ、〈師古が言うには、「筰は西南夷である。音は才各反」〉東で六国の合従に当たった。〈師古が言うには、「従の音は子容反」〉六国は信陵君の威勢に乗じ、〈孟康が言うには、「魏の公子無忌は信陵君と号した。無忌はかつて五国を総括して秦を退け、土地の資産があった」〉蘇秦の盟約を明らかにし、荊軻の威を奮い起こし、力を合わせ心を一つにして秦に備えた。しかし秦はついに六国を捕らえ、その 社稷 を滅ぼして天下を併合した。これはなぜか。それは地利が異なり、民の軽重が等しくなかったからである。今、漢は秦の地をすべて領有し、六国の民衆を兼ね備え、戎狄に対する恩義を修め、〈師古が言うには、「恩義を修めて戎狄を撫でる」〉南では 羌 や筰を朝貢させている。これは秦と比べて、土地は十倍、民衆は百倍であり、大王のよくご存知のところである。〈師古が言うには、「地は秦の十倍、民衆は秦の百倍である」〉今、讒言や諂いの臣が大王のために計るのは、骨肉の義も、民の軽重も、国の大小も論じず、ただ呉に禍をもたらそうとしている。〈師古が言うには、「王に反逆を勧めることは、呉にとって禍であると言うのである」〉これが臣が大王のために憂える所以である。
呉の兵を挙げて漢と比べるのは、〈李竒が言うには、「訾とは、量ることである」師古が言うには、「音は子私反」〉まるで蠅や蚋が群牛に付着し、腐った肉が鋭い剣に当たるようなもので、刃が触れれば必ず何事もない。〈師古が言うには、「蚋は蚊の類である。歯とは、当たることである。蚋の音は芮、また人悅反とも読む」〉天子は、呉が職を失った諸侯を率い、先帝の遺された約束を責めようとしていると聞き、〈師古が言うには、「失職とは、削減や罷免を受けて、常の分を失うことである」〉今、漢みずからその三公を誅して前の過ちを謝罪した。これは大王の威が天下に加わり、功績が湯や武を越えることである。呉には諸侯の位がありながら、実は天子よりも富んでいる。辺境の僻地にあるという名目がありながら、〈師古が言うには、「隠匿とは、東南の僻地にあることを言う」〉中原の国々よりも優れた暮らしをしている。漢は二十四の郡と十七の諸侯を併せ、四方から貢物が錯綜して運ばれ、数千里の道を絶えることなく運行するが、その珍奇な物は東山の府庫に及ばない。〈張晏が言うには、「漢の時には二十四郡、十七の諸侯王があった。四方から更に輸送し、錯綜して互いに攻め出るのである」如淳が言うには、「東方の諸郡は王侯に封じられ、封じられていないのは二十四だけである。当時七国が謀反し、その他は反していないので十七である。東山は呉王の府庫である」師古が言うには、「二つの説はともに誤りである。漢がこの時二十四郡、十七諸侯を有し、軌道を並べて輸送し、雑多に貢賦を出して天子に入れても、なお呉の富には及ばないと言うのである」〉穀物を西に向けて転送し、陸路では絶え間なく、水路では河を満たしても、海陵の倉には及ばない。〈如淳が言うには、「漢の京師は山東からの漕運に頼って自給していると言うのである」 晉 灼が言うには、「海陵とは、海中の山を倉としたものである」臣瓚が言うには、「海陵は県名である。呉の大倉がある」師古が言うには、「瓚の説が正しい。郷は嚮と読む」〉上林苑を修治し、離宮を混ぜ、珍玩を積み重ね、禽獣を囲って飼育しても、長洲の苑には及ばない。〈服虔が言うには、「呉の苑である」孟康が言うには、「江水の洲を苑としたのである」韋昭が言うには、「長洲は呉の東にある」〉曲台に遊び、大路に臨んでも、朝夕の池には及ばない。〈張晏が言うには、「曲台は長安の台で、道に臨んでいる」蘇林が言うには、「呉は海水の朝夕を池としたのである」師古が言うには、「『三輔黄図』に未央宮に曲台殿がある」〉深い壁と高い塁を築き、関城を副えても、江淮の険には及ばない。これが臣が大王のために楽しいと思う所以である。〈師古が言うには、「その富饒と遊宴の場所が天子を超えていることを言うのである」〉
今、大王が兵を返して急ぎ帰還すれば、なお十分の五は得られるでしょう。そうでなければ、漢は呉が天下を併呑する心があることを知り、激しく怒りを加え、羽林黄頭の兵を派遣して長江に沿って下らせ、大王の都を襲撃するでしょう。魯や東海は呉の糧道を断ちます。梁王は車騎を整え、戦射を習熟させ、食糧を蓄積して堅固に守り、 滎陽 に備え、呉の飢えを待ちます。大王がたとえ都に戻ろうとしても、やむを得ないでしょう。三つの淮南の国々の計略はその約束を背かず、斉王は身を殺してその跡を消しました。四つの国々はその郡から出兵することができず、趙は邯鄲に囚われました。これは隠しようがなく、すでに明らかです。大王はすでに千里の国を離れ、十里の内に制せられています。張羽と韓安国は北地を将として、弓高侯は左右に宿営し、兵は陣壁を下ることができず、軍は大いに休息することができません。臣はひそかにこれを哀れみます。願わくば大王、よくお察しください。
呉王は枚乗の策を用いず、ついに捕らえられ滅ぼされた。
漢が七国を平定した後、枚乗はこれによって有名となった。景帝は枚乗を召し出して弘農都尉に任命した。枚乗は長く大国の上賓として、英俊とともに交遊し、その好むところを得ていたので、郡の役人となることを喜ばず、病気を理由に官を去った。
再び梁に遊び、梁の客は皆、辞賦を作るのが上手かったが、枚乗は特に優れていた。孝王が 薨去 すると、枚乗は淮陰に帰った。
武帝は太子の時から枚乗の名を聞いており、即位すると、枚乗は年老いていたので、安車に蒲輪を付けて枚乗を招聘したが、道中で死去した。 詔 を下して枚乗の子を尋ねたが、文を作れる者はいなかった。後にようやくその庶子の枚皐を得た。
皐は字を少孺という。枚乗が梁にいた時、皐の母を小妻にした。枚乗が東に帰る時、皐の母は枚乗に従うことを肯んじず、枚乗は怒り、皐に数千銭を分け与え、母とともに住まわせた。十七歳の時、梁の共王に上書し、召し出されて郎となった。三年後、王の使者として、冗従と争い、讒言されて罪に遇い、家財は没収された。皐は長安に逃亡した。赦令に遇い、北闕に上書し、自ら枚乗の子であることを陳べた。上は大いに喜び、召し入れて待 詔 とし、皐は殿中で賦を詠んだ。 詔 して平楽館で賦を詠ませると、上はこれを良しとした。郎に任命し、匈奴に派遣した。皐は経術に通じず、 詼 諧と笑いは俳優に類し、賦頌を作り、軽薄な戯れを好んだので、この故に狎れ親しみ軽んじられながら貴幸を得、東方朔や郭舍人らと同等とされたが、厳助らのように尊官を得ることはできなかった。
武帝は二十九歳にしてようやく皇子を得たので、群臣は喜び、故に皐は東方朔とともに皇太子生賦および立皇子禖祝を作った。 詔 を受けて作ったもので、すべて故事に従わず、皇子を重んじたのである。
初め、衛皇后が立った時、皐は賦を奏上して終わりを戒めた。皐は賦を作るのに東方朔より優れていた。
行に従って甘泉・雍・河東に行き、東に巡狩し、泰山を封じ、決河の宣房を塞ぎ、三輔の離宮館を遊観し、山沢に臨み、弋射・狩猟・射御・狗馬・蹴鞠・刻鏤をし、上が何かを感じると、すぐに皐に賦を作らせた。文を作るのが速く、 詔 を受けるとすぐに完成したので、作った賦は多かった。司馬相如は文を作るのが上手だが遅く、故に作ったものは少ないが皐より優れていた。皐は賦の文中で自ら、賦を作るのは相如に及ばないと言い、また賦を作るのは俳優であると言った。俳優のように見られることを悔い、自ら俳優に類することを悔いた。故にその賦には東方朔を誹謗するものがあり、また自らを誹謗するものもある。その文は屈曲し、事柄に曲げて従い、皆その意を得ており、かなり詼諧を交え、あまり優雅ではない。読むに堪えるものは凡そ百二十篇あり、その特に軽薄で読むに堪えないものはなお数十篇ある。
路溫舒
路溫舒は字を長君といい、鉅鹿郡東里の人である。父は里の監門を務めていた。温舒に羊を飼わせたところ、温舒は沢の中の蒲を取ってきて、それを切り刻んで簡札とし、編んで書を写すのに用いた。次第に習熟して上達すると、獄の小吏になることを求め、そこで法律令を学び、獄史に転じ、県中の疑わしい事柄は皆彼に尋ねた。太守が県を巡行した時、彼を見て異才と認め、決曹史に任用した。また春秋を受講し、その大義を通曉した。孝廉に推挙され、山邑の丞となったが、法に坐して免官され、再び郡の吏となった。
元鳳年間、廷尉の解光が 詔 獄を治めるに当たり、温舒を奏曹掾に任用し、廷尉史を守らせた。ちょうど昭帝が崩御し、昌邑王劉賀が廃され、宣帝が即位したばかりの時、温舒は上書して、徳を尚び刑を緩めるべきであると述べた。その文は次のようであった。
臣は聞く、斉に無知の禍があったが、桓公はそれによって興隆した。晋に驪姫の難があったが、文公はそれによって覇者となった。近世では趙王が終わりを全うせず、諸呂が乱を起こしたが、孝文帝が大宗となられた。これによって観れば、禍乱が起こるのは、聖人を開くためのものである。故に桓公・文公は微を扶け壊れたものを興し、文王・武王の業を尊び、恩沢を百姓に加え、功績を諸侯に潤した。三王には及ばないまでも、天下は仁に帰したのである。文帝は深く思いを致し至高の徳をもって、天の心を承け、仁義を崇め、刑罰を省き、関所や橋梁を通じ、遠近を一つにし、賢者を大賓のように敬い、民を赤子のように愛し、内に恕して心の安んずる所を、海内に施された。これによって牢獄は空となり、天下は太平となったのである。変化の後に継ぐ者は、必ず旧に異なる恩恵がある。これが賢聖が天命を明らかにする所以である。かつて、昭帝が世を去って後嗣がなく、大臣たちは憂い悲しみ、心を焦がして謀を合わせ、皆昌邑王が尊く親しいことを理由に、引き立ててこれを立てた。しかし天は命を授けず、その心を淫乱にし、遂に自ら滅びるに至った。禍変の原因を深く察すれば、これはまさに皇天が至聖を開くためにされたことである。故に大将軍( 霍光 )は武帝より命を受け、漢国の股肱となり、肝胆を披き、大計を決し、義なき者を退け、徳ある者を立て、天に輔けられて行動し、その後、宗廟は安泰となり、天下はことごとく寧ったのである。
臣は聞く、春秋は即位を正し、大一統を重んじて始めを慎むのである。陛下が初めて至尊の位に登られ、天と符合されるに当たり、前世の過失を改め、始めて天命を受ける正統を正し、煩わしい条文を洗い流し、民の苦しみを取り除き、滅びたものを存続させ絶えたものを継がせ、天意に応えるべきです。
臣は聞く、秦には十の過失があったが、その一つが今も尚残っている。それは獄を治める吏である。秦の時代は、文学を恥じ、武勇を好み、仁義の士を軽んじ、獄を治める吏を重んじた。正しいことを言う者を誹謗と呼び、過ちを止めようとする者を妖言と呼んだ。故に盛服の先生は世に用いられず、忠良の切なる言葉は皆胸中に鬱積し、へつらい諂う声が日に日に耳に満ち、虚偽の美名が心を惑わし、実際の禍が蔽い塞がれた。これこそ秦が天下を失った原因である。今、天下は陛下の厚い恩恵に頼り、戦乱の危険もなく、飢え寒さの患いもなく、父子夫婦が力を合わせて家を安んじているが、太平がまだ行き渡らないのは、獄が乱れているからである。獄というものは、天下の重大な命脈である。死んだ者は再び生き返らず、絶たれた者は再び連なることはない。書経に「罪のない者を殺すよりは、むしろ常道を失う方がましである」とある。今、獄を治める吏はそうではない。上下互いに駆り立て、厳酷であることを明察とし、深刻な者(厳しく追求する者)は公正な名声を得、公平な者は後患が多い。故に獄を治める吏は皆、人が死ぬことを望む。人を憎むからではなく、自分が安泰である道が人の死にあるからである。これによって、死人の血が市場に流れ、刑罰を受けた者が肩を並べて立ち、大辟(死刑)の数は毎年万を数える。これが仁聖の君が傷む所以である。太平がまだ行き渡らないのは、全てこのためである。人の心情は安らかであれば生きることを楽しみ、痛めつけられれば死を思う。鞭や杖の下で、何を求めて得られないことがあろうか。故に囚人は痛みに耐えかねると、偽りの供述をしてこれを見せる。吏はその様子を利として、道筋を指し示して明らかにする。上奏して退けられるのを恐れると、罪状を鍛え上げて周到に法網に嵌め込む。およそ罪状を定めた奏上が完成すると、咎繇(伝説上の裁判官)がこれを聴いたとしても、なお死んでも罪が余りあると思うであろう。なぜか。練り上げられたものが多く、文書によって作り上げられた罪が明白だからである。これによって獄吏は専ら深刻(厳酷)であることを旨とし、残忍に害して限りがなく、一時の便法を苟且に行い、国の患いを顧みない。これは世の大いなる賊である。故に俗語に「地面に牢獄を描いても、入ろうとは議論しない。木に吏を刻んでも、必ず対決しようとはしない」という。これらは皆、吏を憎む風潮であり、悲痛な言葉である。故に天下の患いで、獄より深いものはなく、法を壊し正しき道を乱し、親を離間し道を塞ぐもので、獄を治める吏より甚だしいものはない。これが、いわゆる一つが尚残っているものである。
臣は聞く、烏や鳶の卵を毀さなければ、その後、鳳凰が集まる。誹謗の罪を誅さなければ、その後、良言が進む。故に古人に言がある。「山や藪には毒害が潜み、川や沢は汚れを受け入れ、美玉にも瑕が隠れ、国君は恥辱を忍ぶ」と。どうか陛下には誹謗の罪を取り除いて切なる言葉を招き、天下の口を開き、箴言や諫言の道を広め、亡秦の過失を掃い清め、文王・武王の徳を尊び、法制を省み、刑罰を寛大にして、獄を治めることを廃すれば、太平の風は世に興り、永遠に和楽を踏み行い、天と共に極まりなく、天下は幸い甚だしいでしょう。
上(宣帝)はその言葉を良しとし、広陽国の私府長に転任させた。
内史は温舒を文学高第として推挙し、右扶風丞に昇進させた。その時、 詔 書によって公卿に匈奴へ派遣できる者を選ばせたところ、温舒は上書し、雑役夫として仕え、異国の地で骨をさらすことを願い出て、臣下としての節義を尽くそうとした。この件は度遼将軍の范明友と太僕の杜延年に下され、事情を尋問されたが、取り下げられて元の官職に戻された。長い時を経て、臨淮太守に転任し、治績に際立った事跡があり、任地で死去した。
温舒は祖父から暦数や天文を学び、漢王朝の厄が三七の間に訪れると考え、封事を上奏して予め戒めとした。成帝の時代、谷永も同じことを述べた。そして 王莽 が帝位を 簒奪 した時、漢に代わる符瑞を顕彰しようと、彼の言葉を記録したのである。温舒の子と孫は皆、州牧や郡守といった大官にまで至った。
賛に言う。春秋時代、魯の臧孫達は礼をもって君主を諫め、君子は彼に後継者がいると認めた。賈山は下の立場から上を諫め、鄒陽や枚乗は危険な国に遊説したが、結局は刑罰や殺害を免れたのは、その言論が正しかったからである。路温舒は言葉は穏やかでいて意図は篤実であり、遂に世々続く家柄となった。当然であると言えよう。