漢書

賈鄒枚路伝 第二十一

賈山

原文賈山

賈山は潁川の人である。祖父の賈袪は、かつて魏王の時代の博士弟子であった。賈山は賈袪に学問を受け、その言うところは書物を広く渉猟するが、純粋な儒者になることはできなかった。かつて潁陰侯に仕えて騎兵を務めた。

原文賈山,潁川人也。祖父袪,故魏王時博士弟子也。〈師古曰:「六國時魏也。」〉山受學袪,所言涉獵書記,不能爲醇儒。〈師古曰:「涉若涉水,獵若獵獸,言歷覽之不專精也。醇者,不雜也。」〉甞給事潁陰侯爲騎。〈師古曰:「爲騎者,常騎馬而從也。」〉

孝文皇帝の時代に、治乱の道理を述べ、秦を借りて譬えとした。名づけて「至言」という。その文は次のとおりである。

原文孝文時,言治亂之道,借秦爲諭,名曰至言。其辭曰:

臣が聞くところによれば、人臣たる者は、忠を尽くし愚を極めて、主君を直諫し、死罪を免れないことを避けない者があるという。臣、賈山がこれである。臣は遠い昔のことを例に引くことは敢えてせず、秦を借りて譬えとしたい。どうか陛下、少しお心を留めてくださるよう。

原文臣聞爲人臣者,盡忠竭愚,以直諫主,不避死亡之誅者,臣山是也。臣不敢以乆遠諭,願借秦以爲諭,唯陛下少加意焉。

布衣に韋帯の士は、内に身を修め、外に名を成し、後世までその流れが絶えることがない。秦に至ってはそうではなかった。天子として貴く、天下を所有して富みながら、租税の取り立ては重く頻繁で、百姓は労役に疲れ、赭衣を着た者が道の半分を占め、群盗が山に満ちた。天下の人々に目を上げて遠くを見させ、耳を傾けて聞かせた。一人の男が大声で叫べば、天下がそれに応じる者が、陳勝である。秦はただこのようなだけでなく、咸陽から西の雍に至るまで、離宮が三百あり、鐘や鼓、帷や帳は、移動させなくとも備わっていた。また阿房の殿を造り、殿の高さは数十仞、東西五里、南北千歩、従う車と並ぶ騎兵、四頭の馬が疾駆し、旌旗がたわむことがなかった。宮室の壮麗がこのようなものであったため、その後の世の者は、小屋を集めて住む場所さえ得られなかったのである。天下に馳道を造り、東は燕・斉の果てまで、南は呉・楚の極みまで、江湖のほとりから、海辺の楼観に至るまで全て通じた。道幅は五十歩、三丈ごとに樹を植え、その外側を厚く築き、金椎で固め、青松を植えた。馳道の壮麗がこのようなものであったため、その後の世の者は、わき道に足を踏み入れる場所さえ得られなかったのである。死んで驪山に葬られ、役人と囚人労働者が数十万人、長い年月を十年も費やした。地下は三泉まで穿ち、様々な金石を集め、銅を溶かして内側を固め、漆を塗って外側を飾り、珠玉をあしらい、翡翠で飾った。中には観覧遊歩の施設ができ、上には山林ができた。埋葬の奢侈がこのようなものであったため、その後の世の者は、蓬の生えた土塊で塚を覆うような葬りさえできなかったのである。秦は熊や羆のような力、虎や狼のような心で、諸侯を蚕食し、海内を併呑したが、礼義を篤くしなかった。故に天の災いがすでに加わったのである。臣は死を冒してお聞かせする。どうか陛下、少し留意され、その中から詳しくお選びくださるよう。

原文夫布衣韋帶之士,〈師古曰:「言貧賤之人也。韋帶,以單韋爲帶,無飾也。」〉脩身於內,成名於外,而使後世不絕息。至秦則不然。貴爲天子,富有天下,賦斂重數,百姓任罷,〈師古曰:「數,屢也。任謂役事也。罷讀曰疲,言疲於役使也。」〉赭衣半道,群盜滿山,〈師古曰:「犯罪者則衣赭衣,行道之人半著赭衣,言被罪者衆也。盜賊皆依山爲阻,故云滿山也。」〉使天下之人戴目而視,傾耳而聽。〈師古曰:「戴目者,言常遠視,有異志也。傾耳而聽,言樂禍亂也。」〉一夫大謼,天下嚮應者,陳勝是也。〈師古曰:「謼字與呼同。謼,叫也,音火故反。嚮讀曰響。」〉秦非徒如此也,起咸陽而西至雍,離宮三百,〈師古曰:「凡言離宮者,皆謂於別處置之,非常所居也。」〉鍾鼓帷帳,不移而具。又爲阿房之殿,殿高數十仞,〈師古曰:「阿房者,言殿之四阿皆爲房也。一說大陵曰阿,言其殿高若於阿上爲房也。房字或作旁,說云始皇作此殿,未有名,以其去咸陽近,且號阿旁。阿,近也。八尺曰仞。」〉東西五里,南北千步,從車羅騎,四馬騖馳,旌旗不橈。〈師古曰:「橈,屈也。言庭之廣大,殿之高敞,衆騎馳騖無所迫觸,建立旌旗不屈橈。橈音女孝反。」〉爲宮室之麗至於此,使其後世曾不得聚廬而託處焉。爲馳道於天下,東窮燕齊,南極吳楚,江湖之上,瀕海之觀畢至。〈師古曰:「瀕,水涯也。瀕海,謂緣海之邊也。畢,盡也。瀕音頻,又音賔,字或作濵,音義同。」〉道廣五十步,三丈而樹,厚築其外,隱以金椎,〈服虔曰:「作壁如甬道。隱築也,以鐵椎築之。」師古曰:「築令堅實而使隆高耳,不爲甬壁也。隱音於靳反。」〉樹以青松。爲馳道之麗至於此,使其後世曾不得邪徑而託足焉。死葬乎驪山,吏徒數十萬人,〈師古曰:「吏以督領,徒以役作也。」〉曠日十年。〈師古曰:「曠,空也,廢也。言爲重役,空廢時日,積年歲也。」〉下徹三泉〈師古曰:「三重之泉,言其深也。」〉合采金石,冶銅錮其內,桼塗其外,〈師古曰:「錮謂鑄而合之也,音固。」〉被以珠玉,飾以翡翠,〈應劭曰:「雄曰翡,雌曰翠。」臣瓚曰:「異物志云翡色赤而大於翠。」師古曰:「鳥各別類,非雄雌異名也。被音皮義反。」〉中成觀游,上成山林。爲葬薶之侈至於此,使其後世曾不得蓬顆蔽冢而託葬焉。〈服虔曰:「謂塊墣作冢,喻小也。」臣瓚曰:「蓬顆,猶裸顆小冢也。」晉灼曰:「東北人名土塊爲蓬顆。」師古曰:「諸家之說皆非。顆謂土塊。蓬顆,言塊上生蓬者耳。舉此以對冢上山林,故言蓬顆蔽冢也。顆音口果反。」〉秦以熊羆之力,虎狼之心,蠶食諸侯,并吞海內,而不篤禮義,〈師古曰:「篤,厚也。」〉故天殃已加矣。臣昧死以聞,願陛下少留意而詳擇其中。〈師古曰:「中音竹仲反。」〉

臣は聞く、忠臣が君主に仕えるにあたっては、言葉が厳しく率直であれば用いられず身が危うくなり、厳しく率直でなければ道を明らかにすることができない。だからこそ厳しく率直な言葉は、聡明な君主が急いで聞こうと望むものであり、忠臣が死を冒して知恵を尽くす所以なのである。土地が痩せているところでは、たとえ良い種があっても、生えることはできない。川辺や河岸の地では、たとえ悪い種であっても、盛んに大きく育たないものはない。昔、夏や殷の末世には、たとえ関龍逢や箕子、比干のような賢人がいても、身は死に、その道は用いられなかった。文王の時代には、才能に優れた士は皆その智を尽くすことができ、草刈りや薪取りのような賤しい者でも皆その力を尽くすことができた。これが周が興った所以である。だから、土地の肥沃なところはよく禾を育て、君主の仁なる者はよく士を養う。雷霆が撃つところには、摧き折れないものはない。万鈞の重さで圧するものには、糜らかし滅ぼさないものはない。今、人主の威は、ただの雷霆ではない。その勢いは重く、ただの万鈞ではない。道を開いて諫言を求め、和やかな顔色でそれを受け入れ、その言葉を用いてその身を顕彰しても、士はなお恐れおののいて自ら尽くすことを敢えてしない。ましてや、欲望のままに振る舞い、暴虐をほしいままにし、自分の過ちを聞くのを嫌うような場合にはなおさらであろう。威をもって震え上がらせ、重みをもって圧すれば、たとえ堯や舜の智、孟賁の勇があっても、どうして摧き折れないことがあろうか。このようであれば、人主はその過失を聞くことができない。聞かなければ、社稷は危うくなる。古の聖王の制度では、史官が前で過失を書き記し、楽工が箴言を誦して諫め、盲人が詩を誦して諫め、公卿は比喩を用いて諫め、士は言葉を伝えて過ちを諫め、庶人は道で謗り、商人や旅人は市で議論した。そうして初めて君主はその過失を聞くことができたのである。過失を聞いてこれを改め、義を見てこれに従う。これが永く天下を保つ所以である。天子の尊さは、四海の内において、その義によって臣とならない者はない。しかしながら、大学で三老を養い、自ら醤を執って食事を進め、爵を執って食後に口を漱がせ、食べ物が喉につまるのを前で祝い、骨が刺さるのを後で祝い、公卿は杖を捧げ、大夫は履を進め、賢人を挙げて自らを補佐させ、行いを修め正しい士を求めて直言諫めさせる。だから、天子の尊さをもって、三老を尊び養うのは、孝を示すためである。補佐の臣を立てるのは、驕りを恐れるためである。直言諫める士を置くのは、自分の過ちを聞くことができないのを恐れるためである。学問を草刈りや薪取りにまで及ぼすのは、善を求めて飽くことを知らないためである。商人や庶人が自分を誹謗してもそれを改め、善に従うことには全て耳を傾けるのである。

原文臣聞忠臣之事君也,言切直則不用而身危,不切直則不可以明道,故切直之言,明主所欲急聞,忠臣之所以蒙死而竭知也。〈師古曰:「蒙,冒犯也。」〉地之磽者,雖有善種,不能生焉;〈師古曰:「磽,埆,瘠薄也。磽音口交反。」〉江皐河瀕,雖有惡種,無不猥大。〈李竒曰:「皐,水邊淤地也。」師古曰:「猥,盛也。」〉昔者夏商之季世,雖關龍逢、箕子、比干之賢,身死亡而道不用。〈服虔曰:「關龍逢,桀之忠臣也。」師古曰:「比干諫紂而紂殺之。論語曰『微子去之,箕子爲之奴,比干諫而死。』」〉文王之時,豪俊之士皆得竭其智,芻蕘採薪之人皆得盡其力,〈師古曰:「芻,刈草也。蕘,草薪也。言執賤役者也。大雅板之詩曰『詢于芻蕘』。」〉此周之所以興也。故地之美者善養禾,君之仁者善養士。雷霆之所擊,無不摧折者;〈師古曰:「霆,疾雷也,音廷。」〉萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;〈師古曰:「特,獨也。」〉埶重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡,又迺況於縱欲恣行暴虐,惡聞其過乎!震之以威,〈師古曰:「震,動也。」〉壓之以重,則雖有堯舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉?〈師古曰:「孟賁,古之勇士。賁音奔。」〉如此,則人主不得聞其過失矣;弗聞,則社稷危矣。古者聖王之制,史在前書過失,工誦箴諫,〈李竒曰:「古有誦詩之工,記過之史,常在君側也。」師古曰:「箴,戒也,音之林反。」〉瞽誦詩諫,〈師古曰:「瞽,無目之人。」〉公卿比諫,〈李竒曰:「相親比而諫也,或曰比方事類以諫也。」師古曰:「比方是也。」〉士傳言諫過,庶人謗於道,商旅議於市,〈師古曰:「旅,衆也。」〉然後君得聞其過失也。聞其過失而改之,見義而從之,所以永有天下也。天子之尊,四海之內,其義莫不爲臣。然而養三老於大學,親執醬而餽,執爵而酳,〈師古曰:「餽字與饋同。進食曰餽。酳者,少少飲酒,謂食已而蕩口也,音胤。」〉祝䭇在前,祝鯁在後,〈師古曰:「䭇,古饐字,謂食不下也。以老人好饐鯁,故爲備祝以祝之。」〉公卿奉杖,大夫進履,舉賢以自輔弼,求脩正之士使直諫。〈師古曰:「脩正,謂脩身正行者。」〉故以天子之尊,尊養三老,視孝也;〈師古曰:「視讀曰示。」〉立輔弼之臣者,恐驕也;置直諫之士者,恐不得聞其過也;學問至於芻蕘者,求善無饜也;商人庶人誹謗己而改之,從善無不聽也。

昔、秦の政(始皇帝)は力を尽くして万国を併合し、天下の富を有ち、六国を破って郡県とし、長城を築いて関塞とした。秦の地の堅固さ、大小の勢い、軽重の権勢は、一家の富や一人の強さと比べて、どうして数え尽くせようか。しかしながら、兵は陳涉に破られ、地は劉氏(劉邦)に奪われたのは、なぜか。秦王(始皇帝)が貪欲で狼のように暴虐であり、天下を害し、万民を窮乏させ、その欲望を快くするためであった。昔、周にはおよそ千八百の国があり、九州の民をもって千八百国の君主を養い、民力を用いるのは年に三日を超えず、十分の一を税として借り上げた。君主には余分な財があり、民には余分な力があり、頌える声が起こった。秦皇帝は千八百国の民をもって自らを養い、力は疲弊してその労役に堪えられず、財は尽きてその要求に堪えられなかった。ただ一人の君主の身であって、自らを養うために駆け回り、弋射や狩猟を楽しむ娯楽は、天下が供給することができなかった。労苦して疲れた者は休息を得られず、飢え寒い者は衣食を得られず、罪なくして死刑に処せられる者は訴えるところがなく、人はこれと怨みをなし、家はこれと仇をなした。だから天下は崩壊したのである。秦皇帝が生きている時、天下はすでに崩壊していたのに、自らそれを知らなかった。秦皇帝が東に巡狩し、会稽や琅邪に至り、石に刻んでその功績を著し、自ら堯や舜の統治を超えたと思った。石(百二十斤)を量って鐘や虡を鋳造し、土を篩って阿房宮を築き、自ら万世にわたって天下を有すると考えた。古の聖王が諡を作ったのは、三、四十世に過ぎない。たとえ堯、舜、禹、湯、文、武が累世にわたって広く徳を積み、子孫の基業としたとしても、二、三十世を超えることはなかった。秦皇帝は、死んでから諡法を用いるのは、父子の名号が時に襲名されることになり、一から万までなら、世々重なることがないと言った。だから死んで号を始皇帝とし、次を二世皇帝としたのは、一から万まで続けようとしたのである。秦皇帝はその功徳を計算し、その子孫の代を推し量って、世々窮まることがないと考えた。しかし、身が死んでわずか数ヶ月のうちに、天下が四方から攻め、宗廟は滅び絶えたのである。

原文昔者,秦政力并萬國,富有天下,破六國以爲郡縣,築長城以爲關塞。秦地之固,大小之埶,輕重之權,其與一家之富,一夫之彊,胡可勝計也!〈師古曰:「胡,何也。勝,盡也。」〉然而兵破於陳涉,地奪於劉氏者,何也?秦王貪狼暴虐,殘賊天下,窮困萬民,以適其欲也。〈師古曰:「適,快也。」〉昔者,周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,用民之力不過歲三日,什一而籍,〈師古曰:「什一,謂十分之中公取一也。籍,借也,謂借人力也。一曰爲簿籍而稅之。」〉君有餘財,民有餘力,而頌聲作。〈師古曰:「頌者,六詩之一,美盛德之形容,蓋帝王之嘉致。」〉秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。〈師古曰:「勝,堪也。罷讀曰疲。次下亦同。」〉一君之身耳,所以自養者馳騁弋獵之娛,天下弗能供也。〈師古曰:「弋,繳射也。」〉勞罷者不得休息,飢寒者不得衣食,亡罪而死刑者無所告訴,人與之爲怨,家與之爲讎,〈師古曰:「言人人爲怨,家家爲讎。」〉故天下壞也。秦皇帝身在之時,天下已壞矣,而弗自知也。秦皇帝東巡狩,至會稽、琅邪,刻石著其功,自以爲過堯舜統;〈如淳曰:「統,繼也。堯舜子不才,不能長世,而秦自以過堯舜,可至萬世也。」師古曰:「此說非也。統,治也。言自美功德,治理天下過於堯舜也。其下乃言一至萬之事。」〉縣石鑄鍾虡,〈服虔曰:「縣石以爲磬也。」蘇林曰:「秦欲平天下法,使輕重如石之在稱也。」師古曰:「二說皆非也。縣,稱也。石,百二十斤。稱銅鐵之斤石以鑄鍾虡,言其奢泰也。虡,猛獸之名,謂鍾鼓之柎飾爲此獸。虡音鉅。」〉篩土築阿房之宮,〈師古曰:「篩以竹簁爲之。篩音師。簁音山爾反。」〉自以爲萬世有天下也。古者聖王作謚,三四十世耳,雖堯舜禹湯文武絫世廣德〈師古曰:「絫,古累字。」〉以爲子孫基業,無過二三十世者也。〈張晏曰:「夏十七世,殷三十一世,周三十六世。」〉秦皇帝曰死而以謚法,是父子名號有時相襲也,以一至萬,則世世不相復也,〈師古曰:「復,重也,音扶目反。」〉故死而號曰始皇帝,其次曰二世皇帝者,欲以一至萬也。秦皇帝計其功德,度其後嗣,世世無窮,〈師古曰:「度音大各反。」〉然身死纔數月耳,〈師古曰:「纔音財,暫也,淺也。」〉天下四面而攻之,宗廟滅絕矣。

秦の皇帝が滅亡の危機の中にありながら、自分でそれを知らなかったのはなぜか。天下に誰も敢えて告げる者がいなかったからである。敢えて告げる者がいなかったのはなぜか。老人を養い敬う道理がなく、補佐する臣がなく、諫言を進める士がなく、誅罰をほしいままに行い、誹謗する者を退け、直言諫諫する士を殺したからである。それゆえに、道を説いてはへつらい、一時の迎合と苟且の容認が行われ、(師古曰:「道は導と読み、君主の考えを邪な方向へ導くことである。媮は偷と同じ。」)その徳を比べれば堯や舜よりも賢く、その功績を評価すれば湯や武よりも賢いとされ、天下はすでに崩壊しているのに誰もそれを告げなかったのである。(師古曰:「水が側面から決壊することを潰といい、天下の崩壊が水の決壊のようであることを言う。」)詩に言う、「言えないのではない、どうしてこれほど畏れ忌むのか、聞き入れられる言葉には答えるが、讒言には退く」と。これはこのことを言うのである。(師古曰:「これは大雅・桑柔の篇である。賢者が事の是非を見て、それを分別して言えないのではないのに、言わないのはなぜか。ただ畏れて顔を犯し罪罰を受けるのを忌むからである。また、言って聞き入れられれば、心を尽くして答えるが、信じ受け入れられなければ、退くのである。今の詩の本文は『聞き入れられる言葉には答えるが、諫言には酔ったようだ』とある。解釈者はまた別の意味づけをして、これとは異なる。」)また言う、「威儀堂々たる多くの士、文王はこれによって安寧を得た」と。(師古曰:「これは大雅・文王の篇である。済済は、威儀が多いことである。これは文王が多くの士のゆえに、天下を安んじることができたことを言う。」)天下に士がいなかったわけではない。しかしながら文王だけが安寧を得たと言うのはなぜか。文王が仁を好めば仁が興り、士を得てこれを敬えば士が用いられ、用いるに礼義をもってするからである。

原文秦皇帝居滅絕之中而自不知者何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,亡進諫之士,縱恣行誅,退誹謗之人,殺直諫之士,是以道諛媮合苟容,〈師古曰:「道讀曰導,導引主意於邪也。媮與偷同。」〉比其德則賢於堯舜,課其功則賢於湯武,天下已潰而莫之告也。〈師古曰:「水旁決曰潰,言天下之壞如水潰。」〉詩曰:「匪言不能,胡此畏忌,聽言則對,譖言則退。」此之謂也。〈師古曰:「此大雅桑柔之篇也。言賢者見事之是非,非不能分別言之,而不言者何也?此但畏忌犯顏得罪罰也。又言,言而見聽,則悉意答對;不見信受,則屏退也。今詩本云『聽言則對,誦言如醉』。說者又別爲義,與此不同。」〉又曰:「濟濟多士,文王以寧。」〈師古曰:「此大雅文王之篇也。濟濟,多威儀也。此言文王以多士之故,能安天下也。」〉天下未甞亡士也,然而文王獨言以寧者何也?文王好仁則仁興,得士而敬之則士用,用之有禮義。

故にその愛敬を致さなければ、その心を尽くすことができない。その心を尽くすことができなければ、その力を尽くすことができない。その力を尽くすことができなければ、その功績を成すことができない。故に古の賢君はその臣に対して、その爵禄を尊び親しんだ。病気になれば何度も見舞いに行き、(師古曰:「心から憂い思い、礼の飾りとしないことを言う。」)死ねば弔問に赴き哭し、その小斂・大斂に臨み、棺を閉じて塗った後に錫衰・麻絰の喪服を着け、(師古曰:「已棺とは、すでに大斂を終えたことをいう。塗とは殯を塗ることをいう。錫衰とは、十五升の布で、縷に施しをしないものである。棺は工喚の反切で読む。」)そして三度その喪に臨んだ。未だ斂しないうちは酒を飲み肉を食わず、未だ葬らないうちは音楽を奏でず、宗廟の祭祀の時に死ねば、そのために音楽を廃した。故に古の君主たる者はその臣に対して、礼を尽くしたと言える。法服を着け、容貌を整え、顔色を正して、その後で会った。故に臣下は敢えて力を尽くし死を以てその上に報いようとしない者はなく、功績と徳は後世に立ち、善い評判は忘れられないのである。(師古曰:「令は善いことである。聞とは声が聞こえることである。」)

原文故不致其愛敬,則不能盡其心;不能盡其心,則不能盡其力;不能盡其力,則不能成其功。故古之賢君於其臣也,尊其爵祿而親之;疾則臨視之亡數,〈師古曰:「言心實憂念之,不爲禮飾也。」〉死則往弔哭之,臨其小斂大斂,已棺塗而後爲之服錫衰麻絰,〈師古曰:「已棺,謂已大斂也。塗謂塗殯也。錫衰,十五升布,無事其縷者也。棺音工喚反。」〉而三臨其喪;未斂不飲酒食肉,未葬不舉樂,當宗廟之祭而死,爲之廢樂。故古之君人者於其臣也,可謂盡禮矣;服法服,端容貌,正顏色,然後見之。故臣下莫敢不竭力盡死以報其上,功德立於後世,而令聞不忘也。〈師古曰:「令,善也。聞謂聲之聞也。」〉

今、陛下は祖先を思い、その功績を追慕し、(師古曰:「術はまた述とも作る。」)偉大な事業と美徳を輝かせる方法を図り、(師古曰:「図は謀ることである。休は美しいことである。」)天下に賢良方正の士を推挙させた。天下の人々は皆喜び、(師古曰:「訢は欣と同じに読む。」)堯舜の道、三王の功績が興ると言った。天下の士は皆、精白を以て美徳を受け継ごうとした。(師古曰:「精神を研ぎ澄まして潔白になることである。」)今、方正の士は皆朝廷におり、さらにその賢者を選んで常侍・諸吏とし、彼らとともに駆け回り狩猟をし、(師古曰:「敺は驅と同じ。」)一日に二度三度と出かける。臣は朝廷が緩み弛み、(師古曰:「解は懈と読む。弛は放つこと、音は式爾の反切。」)百官が職務を怠り、諸侯がこれを聞けば、また必ず政事を怠ることを恐れる。

原文今陛下念思祖考,術追厥功,〈師古曰:「術亦作述。」〉圖所以昭光洪業休德,〈師古曰:「圖,謀也。休,美也。」〉使天下舉賢良方正之士,天下皆訢訢焉,〈師古曰:「訢讀與欣同。」〉曰將興堯舜之道,三王之功矣。天下之士莫不精白以承休德。〈師古曰:「厲精而爲潔白也。」〉今方正之士皆在朝廷矣,又選其賢者使爲常侍諸吏,與之馳敺射獵,〈師古曰:「敺與驅同。」〉一日再三出。臣恐朝廷之解弛,〈師古曰:「解讀曰懈。弛,放也,音式爾反。」〉百官之墮於事也,諸侯聞之,又必怠於政矣。

陛下が即位され、自ら努めて天下を厚くし、食事を減らし、音楽を聴かず、外の徭役や衛卒を減らし、歳貢を止めた。厩舎の馬を減らして県の伝馬に与え、(師古曰:「賦は給与することである。伝は張戀の反切で読む。」)諸苑を廃して農夫に与え、帛十万余匹を出して貧民を救済した。高齢者を礼遇し、九十歳には一人の子を役事から免除し、八十歳には二人分の算賦を免除した。(師古曰:「一子不事は、その賦役を免除することである。二筭不事は、二口分の算賦を免ずることである。」)天下の男子に爵位を賜り、大臣は皆公卿に至った。御府の金を発して大臣や宗族に賜り、恩沢を受けない者はなかった。罪人を赦し、その髪のないのを憐れんで巾を賜り、その赭色の衣と背中の文字を憐れんで、(師古曰:「衣は於旣の反切で読む。」)父子兄弟が会う時に衣を賜った。獄を公平にし刑罰を緩め、天下は喜ばない者はなかった。(師古曰:「説は悅と読む。」)それゆえに元年には慈雨が降り、五穀が実り、これは天が陛下を助けたのである。(師古曰:「相は助けることである。」)刑罰が他時より軽いのに法を犯す者が少なく、衣食が前年より多いのに盗賊が少ない、これは天下の人が陛下に従ったのである。(師古曰:「天下の人々のことである。」)臣は聞く、山東の役人が詔令を公布すると、民はたとえ老いて弱く病んでいても、杖をついて行ってそれを聞き、少しの間でも死なずに、徳化の完成を見たいと願ったと。今、功業はまさに成り、名声はまさに輝き、四方は風になびき、(師古曰:「郷は嚮と読む。」)今、豪俊の臣、方正の士を従えて、ただひたすら日々狩猟し、兎を撃ち狐を討ち、大業を傷つけ、天下の望みを絶とうとしている。臣はひそかにこれを悲しむ。詩に言う、「初めのないものはないが、終わりを全うできるものは少ない」と。(師古曰:「これは大雅・蕩の詩である。人は初めは皆善道に近づこうとするが、終わりを全うできる者は少ないことを言う。」)臣は大願に堪えず、どうか狩猟を少し減らし、夏の暦の二月に、(師古曰:「当時は十月を歳首としていたので、夏正の二月を五月としていた。今、制度を定め、古法に従おうとするので、特に夏の暦の二月を用いると言うのである。夏は胡雅の反切で読む。」)明堂を定め、太学を造り、先王の道を修められたい。風が行き俗が成り、万世の基が定まり、その後でこそ陛下のなさるままにされるのである。(師古曰:「思いのままにできることを言う。」)古より大臣は軽んじられず、(師古曰:「媟はなれなれしいこと、音は息列の反切。」)故に君子は常にその斉厳の色、肅敬の容姿を見せることはない。(師古曰:「見は示すこと、音は胡電の反切。」)大臣は宴楽や遊びに参与せず、(師古曰:「安息することを宴という。與は豫と読む。」)方正で修潔の士は狩猟に従わず、皆その道に務めてその節操を高めさせ、(師古曰:「方は道である。一説に方とは廉隅(角が立っていること、節義)をいう。」)そうすれば群臣は敢えて身を正し行いを修め、心を尽くして大礼に副おうとしない者はない。(師古曰:「稱は副うことである。」)このようであれば、陛下の道は尊敬され、功業は四海に施され、万世の子孫にまで伝わるであろう。もし本当にこのようでなければ、行いは日々悪くなり栄えは日々滅びるであろう。士は家で修養しながら、天子の朝廷でそれを台無しにされる。臣はひそかにこれを哀れむ。陛下は衆臣と宴楽し遊び、大臣や方正の士と朝廷で論議される。遊びに楽しみを失わず、朝廷に礼を失わず、議論に計略を失わない、これが事の法度の大なるものである。(師古曰:「軌とは法度のことである。」)

原文陛下即位,親自勉以厚天下,損食膳,不聽樂,減外徭衞卒,止歲貢;省廄馬以賦縣傳,〈師古曰:「賦,給與也。傳音張戀反。」〉去諸苑以賦農夫,出帛十萬餘匹以振貧民;禮高年,九十者一子不事,八十者二筭不事;〈師古曰:「一子不事,蠲其賦役。二筭不事,免二口之筭賦也。」〉賜天下男子爵,大臣皆至公卿;發御府金賜大臣宗族,亡不被澤者;赦罪人,憐其亡髮,賜之巾,憐其衣赭書其背,〈師古曰:「衣音於旣反。」〉父子兄弟相見也而賜之衣。平獄緩刑,天下莫不說喜。〈師古曰:「說讀曰悅。」〉是以元年膏雨降,五穀登,此天之所以相陛下也。〈師古曰:「相,助也。」〉刑輕於它時而犯法者寡,衣食多於前年而盜賊少,此天下之所以順陛下也。〈師古曰:「天下之人也。」〉臣聞山東吏布詔令,民雖老羸𤸇疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方鄉風,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。」〉今從豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,擊兔伐狐,以傷大業,絕天下之望,臣竊悼之。詩曰:「靡不有初,鮮克有終。」〈師古曰:「此大雅蕩之詩也。言人初始皆庶幾於善道,而少有能終之者。」〉臣不勝大願,願少衰射獵,以夏歲二月,〈師古曰:「時以十月爲歲首,則謂夏正之二月爲五月。今欲定制度,循於古法,故特云用夏歲二月也。夏音胡雅反。」〉定明堂,造太學,脩先王之道。風行俗成,萬世之基定,然後唯陛下所幸耳。〈師古曰:「言乃可恣意也。」〉古者大臣不媟,〈師古曰:「媟,狎也,音息列反。」〉故君子不常見其齊嚴之色,肅敬之容。〈師古曰:「見,顯示也,音胡電反。」〉大臣不得與宴游,〈師古曰:「安息曰宴。與讀曰豫。」〉方正脩絜之士不得從射獵,使皆務其方以高其節,〈師古曰:「方,道也。一曰方謂廉隅也。」〉則羣臣莫敢不正身脩行,盡心以稱大禮。〈師古曰:「稱,副也。」〉如此,則陛下之道尊敬,功業施於四海,垂於萬世子孫矣。誠不如此,則行日壞而榮日滅矣。夫士脩之於家,而壞之於天子之廷,臣竊愍之。陛下與衆臣宴游,與大臣方正朝廷論議。夫游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。〈師古曰:「軌謂法度也。」〉

その後、文帝が銭貨鋳造の禁令を解除すると、賈山は再び上書して諫め、先帝の法を変えるのは正しくないと論じた。また淮南王には大罪はないので、急いで帰国させるべきだと訴えた。さらに柴唐子が悪事を働いたことを挙げ、これは十分に戒めとすべきだと述べた。〈鄧展が言うには、「『淮南伝』に棘蒲侯柴武の太子である柴竒が士伍の開章と謀反を企てたとある。」〉上書は下されて詰問責めを受けたが、〈師古が言うには、「彼が上呈した上書を、役人に詰問させたのである。」〉賈山は答えて、「銭というものは、何の役にも立たぬ器物であるが、それによって富貴を得ることができる。富貴というものは、君主が掌握する権柄である。〈師古が言うには、「操は持つことで、音は千高反である。」〉民にそれをやらせるということは、君主と共に権柄を握ることであり、これを長く続けてはならない。」〈師古が言うには、「長とは養い育てることである。このような事は速やかに禁絶すべきで、養い育ててはならないという意味である。」〉その言葉は多く激しく痛切で、事柄の意味を的確に指摘していたが、結局罰は加えられず、これによって諫争の道が広げられたのである。その後、再び銭貨鋳造は禁止されたという。

原文其後文帝除鑄錢令,山復上書諫,以爲變先帝法,非是。又訟淮南王無大罪,宜急令反國。又言柴唐子爲不善,足以戒。〈鄧展曰:「淮南傳棘蒲侯柴武太子柴竒與士伍開章謀反。」〉章下詰責,〈師古曰:「以其所上之章,令有司詰問。」〉對以爲「錢者,亡用器也,而可以易富貴。富貴者,人主之操柄也,〈師古曰:「操,持也,音千高反。」〉令民爲之,是與人主共操柄,不可長也。」〈師古曰:「長謂畜養也。言此事宜速禁絕,不可畜養。」〉其言多激切,善指事意,然終不加罰,所以廣諫爭之路也。其後復禁鑄錢云。

鄒陽

原文鄒陽

鄒陽は斉の人である。漢が興ると、諸侯王は皆、自ら民を治め賢者を招聘した。呉王劉濞は四方の遊説の士を招き集め、鄒陽は呉の厳忌、枚乗らと共に呉に仕え、皆、文才と弁論で有名であった。長い時が経ち、呉王は皇太子(後の景帝)との事件で恨みを抱き、病気と称して朝見せず、ひそかに邪悪な謀略を抱いていた。鄒陽は上書して諫めた。その事柄がまだ隠れている段階で、直接的に指摘して言うのを嫌ったため、まず秦を引き合いに出して例とし、胡・越・斉・趙・淮南の災難について述べ、それからようやく自分の意図を述べた。その文辞は次のとおりである。

原文鄒陽,齊人也。漢興,諸侯王皆自治民聘賢。吳王濞招致四方游士,陽與吳嚴忌、枚乘等俱仕吳,皆以文辯著名。乆之,吳王以太子事怨望,稱疾不朝,陰有邪謀,陽奏書諫。爲其事尚隱,惡指斥言,故先引秦爲諭,因道胡、越、齊、趙、淮南之難,然後迺致其意。其辭曰:

臣が聞くところによりますと、秦は曲臺の宮殿を頼みとし、〈応劭が言うには、「始皇帝が政務を執った場所で、漢の未央宮のようなものである。」師古が言うには、「倚は頼みとすることで、音は於綺反である。」〉天下を衡(横)に懸けて支配し、〈服虔が言うには、「関西を衡とする。」応劭が言うには、「衡は平らかにすることである。」如淳が言うには、「衡は秤の衡のようなもので、法度をその上に懸けるという意味である。」師古が言うには、「これは秦が自らの威力が強固であると自負したことを説いたもので、法を平らかにすることを論じたのではない。下文でまた陳勝が合従軍を率いて拠ったことを言っているので、これは縦横の事を説いたのである。服虔の解釈が正しい。」〉地に線を引いても犯されず、兵を胡や越に加えた。〈師古が言うには、「地に線を引いても犯されないとは、法制が行き渡っていることである。」〉しかしその晩節末路に至って、張耳・陳勝が合従軍を率いて拠り、〈師古が言うには、「従の音は子容反である。」〉函谷関を叩けば、咸陽はたちまち危うくなった。〈師古が言うには、「叩は撃つことである。」〉どうしてそうなったのか。諸郡が互いに親しまず、万戸の家が互いに救わなかったからである。今、胡はたびたび北河の外に渡り、上は飛ぶ鳥を覆い尽くし、下には伏せる兎も見えないほどである。〈蘇林が言うには、「胡が来る人馬の盛んな様子を言い、舞い上がる塵が上は飛ぶ鳥を覆い、下には伏せる兎も見えなくするという意味である。一説には、覆は尽くすことで、上は飛ぶ鳥を射、下は伏せる兎を尽くすという意味である。」師古が言うには、「覆は尽くすことで、この説が正しい。音は芳目反である。」〉城を争って戦いが止まず、救いの兵も絶えず、死者は相次ぎ、輦車は連なり、〈師古が言うには、「属は連なることで、音は之欲反である。」〉穀物を転送し輸送して、千里にわたって絶えることがない。どうしてそうなのか。強国趙は河間の地を責め求め、〈応劭が言うには、「趙幽王が呂后に幽閉されて死に、文帝はその長子の劉遂を趙王に立てたが、趙の河間を取って劉遂の弟の劉辟彊を河間王に立てた。その子の哀王に後継ぎがなく国は除かれたので、劉遂は再び河間を得ようとした。」〉六つの斉国は恵帝と呂后を恨み、〈孟康が言うには、「高后が斉の済南郡を割いて呂台の奉邑とし、また琅邪郡を割いて営陵侯劉沢を琅邪王に封じた。文帝はようやく悼恵王の六人の子を王に立てた。六斉は今日の恩恵を保たず、恵帝と呂后を怨み追うという意味である。一説には、恵帝二年に悼恵王が入朝した時、呂后が毒殺しようとしたので、城陽郡を献上し、魯元公主を尊んで、難を免れた。六人の子はこれを怨んだ。」〉城陽王は盧博の地を顧みて怨み、〈孟康が言うには、「城陽王劉喜のことである。劉喜の父の劉章と弟の劉興居は諸呂を討伐する功があった。本来なら趙の地をすべて劉章に、梁の地を劉興居に王として与えるべきであった。文帝は彼らが斉王を立てようとしていると聞き、代わりに二郡で彼らを王とした。劉章は職を失い、一年余りで亡くなった。劉興居は誅殺された。盧博は済北王の治所で、劉喜が顧みて怨んだのである。」〉三つの淮南国は心の中で父の墓を思っている。〈張晏が言うには、「淮南厲王の三人の子が三王となったが、父が遷されて殺されたことを思い、墓を思って怨みを報いようとしている。」師古が言うには、「三人の子が王となったとは、淮南・衡山・済北のことである。」〉大王が憂いとしないならば、臣は救いの兵が大王に専心しないことを恐れます。〈孟康が言うには、「漢を救うことに専心しないという意味である。」如淳が言うには、「皆、私的な怨みや積年の恨みがあり、呉のためにはできないという意味である。もし呉が挙兵して反逆し、天子が討伐に来れば、四国はただ意向があるだけで、互いに救おうとはしないだろう。」師古が言うには、「二つの説はどちらも正しくない。諸国はそれぞれ私怨があり、自らの志を成そうとして、呉のために専心しようとしないのであって、互いに救うことを恐れているのではない。」〉胡の馬はついに進んで邯鄲を窺い、越の水軍は長沙に至り、舟を還して青陽に集結するでしょう。〈張晏が言うには、「青陽は地名である。還舟は舟船を集結させることである。胡が趙の難を為し、越が呉の難を為すので、頼りにできないという意味である。」〉たとえ梁国が淮陽の兵を合わせ、淮東に下り、広陵を越えて、越人の糧道を断とうとも、漢もまた西河を遮断して下り、北は漳水を守って、大国(呉)を助けようとするでしょうが、胡はますます進み、越はますます深く侵入するでしょう。これが臣が大王のために憂えるところです。〈応劭が言うには、「当時、趙王劉遂は北で匈奴と連合し、呉王劉濞はもとより三越に仕えていたので、鄒陽は微かに胡や越もまた自ら敵を受けることになり、救いの兵が専心しないと述べたのである。胡の馬だから進むと言い、越の水軍だから深いと言った。」蘇林が言うには、「折は遮断することである。鄒陽は呉王がひそかに斉・趙・淮南・胡・越と結びついていることを知り、諫めたいが直接的に指摘して言うことができなかったので、胡・越の難、斉・趙の怨みを述べ、微かに梁が淮陽と合して越人の糧道を断ち、漢が西河を遮断して大国を助けると述べて、その計略を破ろうとした。その言葉を隠そうとして、わざと胡はますます進み、越はますます深く侵入して、大王の患いとなると言い、その言葉を錯乱させ、あたかも呉が漢を憂い助ける者のようであるかのようにした。ここから以下で、ようやくその意図を述べている。」師古が言うには、「蘇林の説が正しい。」〉

原文臣聞秦倚曲臺之宮,〈應劭曰:「始皇帝所治處也,若漢家未央宮。」師古曰:「倚,恃也,音於綺反。」〉懸衡天下,〈服虔曰:「關西爲衡。」應劭曰:「衡,平也。」如淳曰:「衡猶稱之衡也,言其懸法度於其上也。」師古曰:「此說秦自以爲威力彊固,非論平法也。下又言陳勝連從兵之據,則是說從橫之事耳。服釋是也。」〉畫地而不犯,兵加胡越;〈師古曰:「畫地不犯者,法制之行也。」〉至其晚節末路,張耳、陳勝連從兵之據,〈師古曰:「從音子容反。」〉以叩函谷,咸陽遂危。〈師古曰:「叩,擊也。」〉何則?列郡不相親,萬室不相救也。今胡數涉北河之外,上覆飛鳥,下不見伏菟,〈蘇林曰:「言胡來人馬之盛,揚塵上覆飛鳥,下不見伏菟也。一曰,覆,盡也。言上射飛鳥,下盡伏菟也。」師古曰:「覆,盡,是也,音芳目反。」〉鬬城不休,救兵不止,死者相隨,輦車相屬,〈師古曰:「屬,連也,音之欲反。」〉轉粟流輸,千里不絕。何則?彊趙責於河閒,〈應劭曰:「趙幽王爲呂后所幽死,文帝立其長子遂爲趙王,取趙之河間立遂弟辟彊爲河間王,至子哀王無嗣,國除,遂欲復還得河間。」〉六齊望於惠后,〈孟康曰:「高后割齊濟南郡爲呂台奉邑,又割琅邪郡封營陵侯劉澤爲琅邪王。文帝乃立悼惠王六子爲王。言六齊不保今日之恩,而追怨惠帝與呂后也。一說惠帝二年悼惠王入朝,呂后欲鴆殺之,獻城陽郡,尊魯元公主,得免,六子以此怨之。」〉城陽顧於盧博,〈孟康曰:「城陽王喜也。喜父章與弟興居討諸呂有功,本當盡以趙地王章,梁地王興居。文帝聞其欲立齊王,更以二郡王之。章失職,歲餘薨。興居誅死。盧博,濟北王治處,喜顧念而怨也。」〉三淮南之心思墳墓。〈張晏曰:「淮南厲王三子爲三王,念其父見遷殺,思墓,欲報怨也。」師古曰:「三子爲王,謂淮南、衡山、濟北也。」〉大王不憂,臣恐救兵之不專,〈孟康曰:「不專救漢也。」如淳曰:「皆自私怨宿忿,不能爲吳也。若吳舉兵反,天子來討,謂四國但有意,不敢相救也。」師古曰:「二說皆非也。言諸國各有私怨,欲申其志,不肯專爲吳,非不敢相救也。」〉胡馬遂進窺於邯鄲,越水長沙,還舟青陽。〈張晏曰:「青陽,地名。還舟,聚舟船也。言胡爲趙難,越爲吳難,不可恃也。」〉雖使梁并淮陽之兵,下淮東,越廣陵,以遏越人之粮,漢亦折西河而下,北守漳水,以輔大國,胡亦益進,越亦益深。此臣之所爲大王患也。〈應劭曰:「時趙王遂北連匈奴,吳王濞素事三越,故鄒陽微言胡越亦自受敵,救兵之不專也。胡馬故曰進,越水故曰深。」蘇林曰:「折,截也。陽知吳王陰連結齊、趙、淮南、胡、越,欲諫不敢指斥言,故陳胡、越之難,齊、趙之怨,微言梁并淮陽絕越人之糧,漢折西河以輔大國,以破難其計。欲隱其辭,故謬言胡益進,越益深,爲大王患之,以錯亂其語,若吳爲憂助漢者也。自此以下,乃致其意焉。」師古曰:「蘇說是。」〉

臣が聞くところによりますと、交わる龍が首を上げ翼を奮い起こせば、浮雲が流れ出し、霧雨がことごとく集まるといいます。〈師古が言うには、「襄は上げることである。」〉聖王が節操を磨き徳を修めれば、遊説の士は正義に帰し名声を思うといいます。今、臣が知恵を尽くし議論を極め、精神を改めて思慮を極めれば、〈如淳が言うには、「精神を改めて思慮を極め尽くすという意味である。」〉どの国でも干渉することができない国はありません。〈師古が言うには、「奸の音は干である。」〉固陋な心を飾り立てれば、どの王の門の下で長い裾を引きずることができないということがありましょうか。しかし臣が諸王の朝廷を歴訪し、淮を背にして千里も離れて自らここに至った理由は、臣の国を嫌って呉の民を喜んだからではなく、ひそかに大王の行いを高尚なものとし、特に大王の義を悦んでいるからです。〈師古が言うには、「下風に側って聞き、大王の行いと義を高尚なものとし、悦んでいるという意味である。説は悦と読む。」〉どうか大王が軽んじることなく、私の志をよくお聞き取りください。

原文臣聞交龍襄首奮翼,則浮雲出流,霧雨咸集。〈師古曰:「襄,舉也。」〉聖王厎節脩德,〈師古曰:「厎,厲也,音指。」〉則游談之士歸義思名。今臣盡智畢議,易精極慮,〈如淳曰:「改易精思以極盡謀慮也。」〉則無國不可奸;〈師古曰:「奸音干。」〉飾固陋之心,則何王之門不可曳長裾乎?然臣所以歷數王之朝,背淮千里而自致者,非惡臣國而樂吳民也,竊高下風之行,尤說大王之義。〈師古曰:「言在下風側聽,高尚美悅大王之行義也。說讀曰悅。」〉故願大王之無忽,察聽其志。

私は聞く、猛禽が百羽集まっても、一羽の鶚には及ばないと。〈孟康が言うには、「鶚とは大鵰である」と。如淳が言うには、「猛禽は諸侯に比し、鶚は天子に比す」と。師古が言うには、「猛禽とは鷹や鷲の類である。鶚は大きな鳥の中でも特に猛々しいものであり、鵰ではない。絫は古い累の字である。鶚の音は愕である」と。〉かつて趙国が全盛の時、〈服虔が言うには、「全趙とは、趙がまだ分割されていなかった時である」と。〉武力に優れた鼎士が盛装して叢台の下に集まり、たちまちにして市を成したが、〈師古が言うには、「袨服とは盛装のことである。鼎士とは鼎を持ち上げる力士のことである。叢台とは趙王の台で、邯鄲にある。袨の音は州県の県である」と。〉幽王の禍いを止めることはできなかった。〈師古が言うには、「幽王とは趙幽王の劉友を指す。湛は沈に読む。沈患とは、幽王が呂后に幽閉されて死んだことを言う」と。〉淮南王は山東の侠客と結び、死士が朝廷に満ちたが、厲王を西方から帰還させることはできなかった。〈師古が言うには、「厲王とは淮南厲王の劉長である。西とは厳道に廃遷され、雍で死んだことを指す」と。〉しかし、計略がうまくいかなければ、たとえ専諸や孟賁のような勇士であってもその地位を安泰にすることはできない。これもまた明らかである。〈師古が言うには、「諸とは専諸を指し、賁とは孟賁を指す。いずれも古代の勇士である」と。〉ゆえに、どうか大王には慎重に計画を立てられることを願うのみである。〈師古が言うには、「画とは計画のことである。音は獲である」と。〉

原文臣聞鷙鳥絫百,不如一鶚。〈孟康曰:「鶚,大鵰也。」如淳曰:「鷙鳥比諸侯,鶚比天子。」師古曰:「鷙擊之鳥,鷹鸇之屬也。鶚自大鳥而鷙者耳,非鵰也。絫,古累字。鶚音愕。」〉夫全趙之時,〈服虔曰:「全趙,趙未分之時。」〉武力鼎士袨服叢臺之下者一旦成市,〈師古曰:「袨服,盛服也。鼎士,舉鼎之士也。叢臺,趙王之臺也,在邯鄲。袨音州縣之縣。」〉而不能止幽王之湛患。〈師古曰:「幽王謂趙幽王友也。湛讀曰沈。沈患,言幽王爲呂后所幽死。」〉淮南連山東之俠,死士盈朝,不能還厲王之西也。〈師古曰:「厲王,淮南厲王長也。西謂廢遷嚴道而死於雍也。」〉然而計議不得,雖諸、賁不能安其位,亦明矣。〈師古曰:「諸謂專諸,賁謂孟賁,皆古勇士也。」〉故願大王審畫而已。〈師古曰:「畫,計也,音獲。」〉

かつて孝文皇帝は関中を拠点として帝位につき、心を寒からしめ志を消沈させ、夜明けを待たずに衣を求めた。〈張晏が言うには、「函谷関を拠点として天子に即位した。諸侯国は文帝が関に入ったと聞いて、これに寒心し志を散じたのである。求衣とは、夜に衣を探し着ることで、明るくなるのを待てない、心が安らかでない様子である」と。臣瓚が言うには、「文帝は関に入って即位し、天下に多くの困難があるため、心を寒からしめ身を震わせ、夜明け前に起きたのである」と。師古が言うには、「瓚の説が正しい」と。〉天子に即位した後、東牟侯や朱虚侯を東方に派遣して義父(儀父)の後裔を褒賞し、〈応劭が言うには、「天下が平定された後、文帝は朱虚侯の劉章を東方に派遣して斉王を諭し、彼が真っ先に兵を挙げて諸呂を誅殺しようとしたことを称え、ちょうど『春秋』が邾の儀父を褒めたのと同じである」と。師古が言うには、「立天子とは、天子に即位したことを言う。義は儀に読む。父は甫に読む」と。〉幼い子供を深く思いやって王に封じた。〈応劭が言うには、「斉王の六人の子を王に封じたが、その中には小さな幼児もいた。文帝の骨肉に対する情の厚さである。ある説では、皇子の劉武を代王に、劉参を太原王に、劉揖を梁王に封じたことを指す」と。師古が言うには、「ある説が正しい」と。〉愛する子を梁や代の王とし、〈如淳が言うには、「文帝の二人の子である」と。晋灼が言うには、「揚雄の『方言』に『梁や益の間では、愛する者をその肥え盛った様子から壤と呼ぶ』とある。あるいは、深く幼児を思いやって王に封じた土地(壤)と言う。壤は土である。壤の字は上に属すべきである」と。師古が言うには、「ある説は誤りである」と。〉さらに淮陽を加えた。結局、済北王は倒れ、弟は雍に囚われた。これはまさに新垣平らのような者がいたからではないか!〈応劭が言うには、「仆とは倒れることである。済北王の劉興居が反乱を起こし誅殺された。弟を雍に囚われたとは、淮南王の劉長が罪を得て移され、雍で死んだことである。このようになった原因は、二国に新垣平のような奸臣がいて、王をそそのかして共に反乱を起こさせたからである」と。師古が言うには、「仆の音は赴である」と。〉今、天子は先帝の遺された事業を新たに受け継ぎ、左には山東を規制し、右には関中を制し、権謀を変え勢力を易えているので、大臣といえどもその実情を知るのは難しい。大王がこれを察知されなければ、私は周の鼎が再び漢に現れ、新垣平のような誤った計略が朝廷に現れることを恐れる。〈如淳が言うには、「新垣平が『鼎は泗水の中にある。臣が東北の汾陰に金宝の気を見た。鼎はそこにあるのではないか?迎えなければ、来ないだろう』と詐言した。呉のために計略を立てる者は、ちょうど新垣平の言葉のように、周の鼎は結局得られないのである」と。服虔が言うには、「過とは誤りである」と。〉そうなれば、我が呉の遺された子孫は、この世に存続することを期待できなくなるであろう。〈師古が言うには、「呉は滅び絶えて子孫を残さないであろうと言う」と。〉高皇帝は桟道を焼き、章邯を水攻めにし、〈応劭が言うには、「章邯が雍王となった時、高祖は水でその城を灌いで破った」と。〉兵を行くに留まらず、〈師古が言うには、「留まって滞ることがなく、行軍を妨げられなかったと言う」と。〉疲弊した民衆を収め、東は函谷関に馳せ、西楚を大破した。〈張晏が言うには、「項羽は自ら西楚霸王と号した」と。〉水攻めでは章邯がその城を失い、陸戦では荊王がその地を失った。〈如淳が言うには、「荊もまた楚である。項羽が敗走したことを指す」と。〉これらはすべて国家が安泰であることの証左である。〈応劭が言うには、「庶幾(期待)すべきでないと言う」と。李奇が言うには、「わずかな兆しだけでなく、はっきりと現れているのである。あるいは、幾とは危ういことである。これらの数事は国家にとって何ら危険な懸念がないのである」と。師古が言うには、「漢朝が安泰である以上、諸侯は妄りに邪な考えを起こすべきではないと言う。応の説が正しい」と。〉どうか大王にはよくお考えいただきたい。

原文始孝文皇帝據關入立,寒心銷志,不明求衣。〈張晏曰:「據函谷關立爲天子,諸國聞文帝入關爲之寒心散志也。求衣,夜索衣著,不及待明,意不安也。」臣瓚曰:「文帝入關而立,以天下多難,故乃寒心戰慄,未明而起。」師古曰:「瓚說是。」〉自立天子之後,使東牟朱虛東襃義父之後,〈應劭曰:「天下已定,文帝遣朱虛侯章東喻齊王,嘉其首舉兵,欲誅諸呂,猶春秋襃邾儀父也。」師古曰:「立天子,謂立爲天子也。義讀曰儀。父讀曰甫。」〉深割嬰兒王之。〈應劭曰:「封齊王六子爲王,其中有小小嬰兒者,文帝於骨肉厚也。或曰,皇子武爲代王,參爲太原王,揖爲梁王。」師古曰:「或說是也。」〉壤子王梁、代,〈如淳曰:「文帝之二子。」晉灼曰:「揚雄方言『梁益之間,所愛謂其肥盛曰壤』。或曰,言深割嬰兒王之壤。壤,土也。壤字當上屬也。」師古曰:「或說非也。」〉益以淮陽。卒仆濟北,囚弟於雍者,豈非象新垣平等哉!〈應劭曰:「仆,僵仆也。濟北王興居反,見誅。囚弟於雍者,淮南王長有罪,見徙,死於雍。所以然者,坐二國有姦臣如新垣平等,勸王共反。」師古曰:「仆音赴。」〉今天子新據先帝之遺業,左規山東,右制關中,變權易埶,大臣難知。大王弗察,臣恐周鼎復起於漢,新垣過計於朝,〈如淳曰:「新垣平詐言『鼎在泗水中,臣望東北汾陰有金寶氣,鼎其在乎?弗迎,則不至。』爲吳計者,猶新垣平之言,周鼎終不可得也。」服虔曰:「過,誤也。」〉則我吳遺嗣,不可期於世矣。〈師古曰:「言吳當絕滅無遺嗣也。」〉高皇帝燒棧道,水章邯,〈應劭曰:「章邯爲雍王,高祖以水灌其城,破之也。」〉兵不留行,〈師古曰:「言無所稽留,不廢於行。」〉收弊民之倦,東馳函谷,西楚大破。〈張晏曰:「項羽自號西楚霸王。」〉水攻則章邯以亡其城,陸擊則荊王以失其地,〈如淳曰:「荊亦楚也,謂項羽敗走。」〉此皆國家之不幾者也。〈應劭曰:「言不可庶幾也。」李竒曰:「不但幾微,乃著見也。或曰幾,危也。此數事於國家皆無危險之慮也。」師古曰:「言漢朝之安,諸侯不當妄起邪意。應說是也。」〉願大王孰察之。

呉王は彼の意見を採用しなかった。

原文吳王不內其言。

この時、景帝の末弟である梁孝王が貴盛で、士を待遇していた。そこで鄒陽・枚乗・厳忌は呉王を説得できないと悟り、皆、呉を去って梁に行き、孝王に従って交遊した。

原文是時,景帝少弟梁孝王貴盛,亦待士。於是鄒陽、枚乘、嚴忌知吳不可說,皆去之梁,從孝王游。

鄒陽は知略に富み、慷慨として苟も迎合せず、羊勝や公孫詭の間に介在した。〈師古が言うには、「介とは間に位置することである」と。〉羊勝らは鄒陽を憎み、孝王に彼を讒言した。〈師古が言うには、「悪とは讒言して誹謗することである。以下も同じ」と。〉孝王は怒り、鄒陽を獄吏に下し、殺そうとした。鄒陽は客として遊説中に讒言によって捕らえられ、死んで汚名を負うことを恐れ、獄中から上書して言った。

原文陽爲人有智略,忼慨不苟合,〈師古曰:「忼音口朗反。」〉介於羊勝、公孫詭之閒。〈師古曰:「介謂間厠也。」〉勝等疾陽,惡之孝王。〈師古曰:「惡謂讒毀也。其下亦同。」〉孝王怒,下陽吏,將殺之。陽客游以讒見禽,恐死而負絫,〈師古曰:「絫音力瑞反。」〉迺從獄中上書曰:

私は聞く、忠は必ず報いられ、信は疑われないものだと。私は常にそのように考えていたが、それは単なる空虚な言葉に過ぎなかった。昔、荊軻が燕の太子丹の義に感じ、白虹が太陽を貫いたが、太子はそれを畏れた。〈応劭が言うには、「燕の太子丹が秦に人質となった時、始皇が彼に礼を失したので、丹は逃亡し、荊軻を手厚く養って、西の秦王を刺させようとした。その精誠が天に通じ、白虹が太陽を貫いたのである」と。如淳が言うには、「白虹は兵の象徴であり、太陽は君主である。燕丹のために克服できる兆しを示したのである」と。師古が言うには、「精誠がこのように至っても、太子はなお畏れて信じなかった。太白星が昴を食うのも、その義はこれと同じである」と。〉衛先生が秦のために長平の戦いのことを計画した時、太白星が昴を食ったが、昭王はそれを疑った。〈蘇林が言うには、「白起が秦のために趙を伐ち、長平軍を破り、趙を滅ぼそうとして、衛先生を派遣して昭王に増兵と兵糧を説いたが、応侯に害され、事は成就しなかった。精誠が天に上達したので、太白星が昴を食ったのである。昴は趙の分野であり、兵事があるため、太白星が昴を食ったのである。食とは干犯して通過することである」と。如淳が言うには、「太白星は天の将軍である」と。〉その精誠は天地を動かしたのに、信義が両主に理解されなかった。なんと哀れなことか!今、私が忠誠を尽くし、意見のすべてを述べて理解を願っても、左右の者が明らかでなく、ついに獄吏の取り調べに従い、世に疑われることとなった。〈師古が言うには、「左右の者が明らかでないと言うのは、王を直接非難しないためである。訊とは取り調べることである。音は信である」と。〉これは荊軻や衛先生が再び現れても、燕や秦が悟らないのと同じである。どうか大王にはよくお考えいただきたい。

原文臣聞忠無不報,信不見疑,臣常以爲然,徒虛語耳。昔荊軻慕燕丹之義,白虹貫日,太子畏之;〈應劭曰:「燕太子丹質於秦,始皇遇之無禮,丹亡去,厚養荊軻,令西刺秦王。其精誠感天,白虹爲之貫日也。」如淳曰:「白虹,兵象,日爲君,爲燕丹表可克之兆。」師古曰:「精誠若斯,太子尚畏而不信也。太白食昴,義亦如之。」〉衞先生爲秦畫長平之事,太白食昴,昭王疑之。〈蘇林曰:「白起爲秦伐趙,破長平軍,欲遂滅趙,遣衞先生說昭王益兵糧,爲應侯所害,事用不成。精誠上達於天,故太白爲之食昴。昴,趙分也,將有兵,故太白食昴。食,干歷之也。」如淳曰:「太白,天之將軍。」〉夫精變天地而信不諭兩主,豈不哀哉!今臣盡忠竭誠,畢議願知,〈張晏曰:「盡其計議,願王知之。」〉左右不明,卒從吏訊,爲世所疑。〈師古曰:「言左右不明者,不欲斥王也。訊謂鞫問也,音信。」〉是使荊軻、衞先生復起,而燕、秦不寤也。願大王孰察之。

昔、玉人(卞和)が宝玉を献上したが、楚王は彼を誅した。李斯は忠を尽くしたが、胡亥(秦の二世皇帝)は彼に極刑を加えた。このため、箕子は狂気を装い、接輿は世を避けた。このような災いを恐れたのである。どうか大王には、玉人や李斯の真意を察し、楚王や胡亥の誤った判断を後回しにされ、臣が箕子や接輿に笑われるようなことのないようにしてほしい。臣は、比干が心臓を抉られ、子胥が鴟夷(皮袋)に詰められて江に沈められたと聞いていたが、最初は信じなかった。今になってようやくその真実を知った。どうか大王にはよくお考えいただき、少しでも哀れみをかけてくださるよう願う。

原文昔玉人獻寶,楚王誅之;〈應劭曰:「卞和得玉璞,獻之武王,王示玉人,曰石也,刖其右足。武王歿,復獻文王,玉人復曰石也,刖其左足。至成王時,抱其璞哭於郊,乃使玉人攻之,果得寶玉也。」〉李斯竭忠,胡亥極刑。〈張晏曰:「李斯諫二世以正,而二世殺之,具五刑。」〉是以箕子陽狂,接輿避世,〈張晏曰:「接輿,楚賢人,陽狂避世。」師古曰:「輿音弋於反。」〉恐遭此患也。願大王察玉人、李斯之意,而後楚王、胡亥之聽,〈師古曰:「以謬聽爲後。後猶下也。」〉毋使臣爲箕子、接輿所笑。臣聞比干剖心,子胥鴟夷,〈應劭曰:「吳王取馬革爲鴟夷,受子胥,沈之江。鴟夷,榼形。」師古曰:「鴟夷,即今之盛酒鴟夷幐。」〉臣始不信,迺今知之。願大王孰察,少加憐焉!

諺に「白頭(白髪頭)の如く新しき有り、傾蓋(車の蓋を傾けて語り合う)の如く故(旧知)の如し」とある。なぜか。知っているか知らないかの違いによるのである。だからこそ、樊於期は秦から逃れて燕に行き、荊軻に自分の首を借りて太子丹の大事(秦王暗殺)に捧げさせた。王奢は斉を去って魏に行き、城壁の上で自ら首を刎ねて斉軍を退け、魏を存続させた。王奢や樊於期が、斉や秦に対しては新参者であり、燕や魏に対しては旧知であったわけではない。彼らが二国を去り、両君のために死んだのは、その行いが志に合致し、義を慕う心が限りなかったからである。このため、蘇秦は天下から信用されなかったが、燕においては尾生(伝説的な信義の人)となった。白圭は戦いに敗れて六城を失ったが、魏のために中山国を奪取した。なぜか。誠に互いに理解し合うところがあったからである。蘇秦が燕の宰相となった時、人が燕王に彼を讒言したが、燕王は剣に手をかけ怒り、駃騠(名馬)を食わせて厚遇した。白圭が中山国で功績を顕わにした時、人が魏の文侯に彼を讒言したが、文侯は夜光の璧を賜った。なぜか。両主と二臣は、心と肝を分かち合って互いに信頼し合っていたのであり、どうして浮ついた言葉によって心が動くことがあろうか。

原文語曰「有白頭如新,〈孟康曰:「初相識至白頭不相知。」〉傾蓋如故」。〈文穎曰:「傾蓋,猶交蓋駐車也。」〉何則?知與不知也。故樊於期逃秦之燕,藉荊軻首以奉丹事;〈張晏曰:「於期爲秦將,被讒走之燕。始皇滅其家,又重購之。燕遣荊軻欲刺秦王,於期自刎首,令軻齎往。」師古曰:「之,往也。藉,假也。」〉王奢去齊之魏,臨城自剄以郤齊而存魏。〈孟康曰:「王奢,齊臣也,亡至魏。其後齊伐魏,奢登城謂齊將曰:『今君之來,不過以奢故也,義不苟生,以爲魏累。』遂自剄也。」〉夫王奢、樊於期非新於齊、秦而故於燕、魏也,所以去二國死兩君者,行合於志,慕義無窮也。是以蘇秦不信於天下,爲燕尾生;〈服虔曰:「蘇秦於秦不出其信,於燕則出尾生之信也。」晉灼曰:「說齊宣王使還燕十城,又令閔王厚葬以弊齊,終死爲燕也。」師古曰:「尾生,古之信士,守志亡軀,故以爲喻。」〉白圭戰亡六城,爲魏取中山。〈張晏曰:「白圭爲中山將,亡六城,君欲殺之,亡入魏,魏文侯厚遇之,還拔中山。」〉何則?誠有以相知也。蘇秦相燕,人惡之燕王,燕王按劔而怒,食以駃騠;〈孟康曰:「駃騠,駿馬也,生七日而超其母。敬重蘇秦,雖有讒謗,而更食以珍竒之味。」師古曰:「食讀曰飤。駃音決。騠音題。」〉白圭顯於中山,〈師古曰:「以拔中山之功而尊顯也。」〉人惡之於魏文侯,文侯賜以夜光之璧。何則?兩主二臣,剖心析肝相信,〈師古曰:「析,分也。」〉豈移於浮辭哉!〈師古曰:「不以浮說而移心。」〉

だから、女は美醜にかかわらず、宮中に入れば妬まれ、士は賢愚にかかわらず、朝廷に入れば嫉まれる。昔、司馬喜は宋で臏刑(膝蓋骨を削ぐ刑)を受けながらも、ついに中山の宰相となった。范雎は魏で肋骨を折られ歯を砕かれたが、ついに応侯となった。この二人は、いずれも確信する計画を信じ、党派的な私情を捨て、孤独な交友関係を抱えていたので、嫉妬する人々から自ら免れることができなかったのである。このため、申徒狄は雍水から黄河に身を投げ、徐衍は石を背負って海に入った。世に容れられず、義のために苟も朝廷で徒党を組んで主君の心を惑わすようなことはしなかった。だから、百里奚が道端で物乞いをしていたのを、繆公は政事を委ねた。甯戚が車の下で牛に餌を与えていたのを、桓公は国政を任せた。この二人は、もともと朝廷で官に就いていたわけでも、側近に名声を借りたわけでもないのに、その後二人の君主に用いられたのだろうか。心に感じ、行いに合致し、膠や漆のように堅く結ばれ、兄弟でも引き離すことができず、どうして衆人の口に惑わされようか。だから、一方だけを聞けば奸が生じ、一人だけを任用すれば乱が起こる。昔、魯は季孫の言葉を聞いて孔子を追放し、宋は子冉の計略を用いて墨翟を囚えた。孔子や墨子のような弁舌をもってしても、讒言や諂いから自ら免れることができず、二つの国は危うくなった。なぜか。衆人の口は金をも溶かし、積もった誹謗は骨をも銷かすからである。秦は戎人の由余を用いて中国を覇者とし、斉は越人の子臧を用いて威王・宣王を強盛にした。この二つの国は、どうして世俗に縛られ、世間に引きずられ、偏った奇妙な言葉に拘束されただろうか。公平に聞き、広く観察し、後世に明らかな事績を残したのである。だから、意志が合えば胡と越でも兄弟となり、由余や子臧がそうであった。合わなければ骨肉でも仇敵となり、丹朱・象や管叔・蔡叔がそうであった。今、人主が真に斉や秦の明察を用い、宋や魯の偏った聞き方を後回しにすれば、五覇にも匹敵し、三王の業も容易に成し遂げられるであろう。

原文故女無美惡,入宮見妒;士無賢不肖,入朝見嫉。昔司馬喜臏腳於宋,卒相中山;〈蘇林曰:「六國時人,被此刑也。」〉范雎拉脅折齒於魏,卒爲應侯。〈應劭曰:「魏人也。魏相魏齊疑其以國陰事告齊,乃掠笞數百,拉脅折齒。」師古曰:「後入秦爲相,封爲應侯。拉,摧也,音盧合反。」〉此二人者,皆信必然之畫,捐朋黨之私,挾孤獨之交,故不能自免於嫉妒之人也。〈師古曰:「言直道而行,不求朋黨之助,謂忠信必可恃也。畫,計也,音獲。」〉是以申徒狄蹈雍之河,〈服虔曰:「殷之末世介士也。雍之河,雍州之河也。」師古曰:「雍者,河水溢出爲小流也。言狄初因蹈雍,遂入大河也。爾雅曰『水自河出爲雍』,又曰『江有沲,河有雍』。雍音於龍反。服虔曰雍州之河,非也。」〉徐衍負石入海。〈服虔曰:「周之末世人也。」師古曰:「負石者,欲速沈也。」〉不容於世,義不苟取比周於朝以移主上之心。〈師古曰:「比音頻寐反。」〉故百里奚乞於道路,繆公委之以政;〈應劭曰:「虞人也,聞秦繆公賢,欲往干之,乏資,乞食以自致也。」〉甯戚飯牛車下,桓公任之以國。〈應劭曰:「齊桓公夜出迎客,甯戚疾擊其牛角,高歌曰:『南山矸,自石爛,生不逢堯與舜禪。短布單衣適至骭,從昬飯牛薄夜半,長夜曼曼何時旦!』桓公召與語,說之,以爲大夫。」師古曰:「矸字與岸同。骭,脛也。薄,止也。骭音下諫反。曼音莫幹反。」〉此二人者,豈素宦於朝,借譽於左右,然後二主用之哉?感於心,合於行,堅如膠桼,昆弟不能離,豈惑於衆口哉?故偏聽生姦,獨任成亂。昔魯聽季孫之說逐孔子,〈師古曰:「季孫,魯大夫季桓子也,名斯。論語云『齊人歸女樂,季桓子受之,三日不朝,孔子行。』蓋桓子故使定公受齊之女樂,欲令去孔子也。」〉宋任子冉之計囚墨翟。〈文穎曰:「子冉,子罕也。」〉夫以孔、墨之辯,不能自免於讒諛,而二國以危。何則?衆口鑠金,積毀銷骨也。〈師古曰:「美金見毀,衆共疑之,數被燒鍊,以至銷鑠。讒佞之人,肆其詐巧,離散骨肉,而不覺知。」〉秦用戎人由余而伯中國,〈師古曰:「伯讀曰霸。」〉齊用越人子臧而彊威、宣。〈師古曰:「齊之二王謚也。」〉此二國豈係於俗,牽於世,繫竒偏之辭哉?公聽竝觀,垂明當世。〈師古曰:「公聽,言不私也。並觀,所見齊同也。」〉故意合則胡越爲兄弟,由余、子臧是矣;不合則骨肉爲讎敵,朱、象、管、蔡是矣。〈師古曰:「朱,丹朱,堯子。象,舜弟。管、蔡,周之二叔也。」〉今人主誠能用齊、秦之明,後宋、魯之聽,則五伯不足侔,〈師古曰:「侔,等也。伯讀曰霸。」〉而三王易爲也。

だから聖王は目覚め、子之に譲位しようという心を捨て、田常の賢さを喜ばず、比干の子孫を封じ、妊婦の墓を修復したので、功業は天下に及んだ。なぜか。善を求め飽くことを知らなかったからである。晋の文公は自分の仇を親しくし、諸侯の覇者となった。斉の桓公は自分の仇を用いて、天下を匡正した。なぜか。慈愛と仁恵、心からの誠意が心に加えられ、空虚な言葉で借りることができなかったからである。

原文是以聖王覺寤,捐子之之心,而不說田常之賢,〈應劭曰:「燕王噲賢其相子之,欲禪以燕國,國乃大亂。田常,陳恒也。齊簡公悅之,而殺簡公。今使人君去此心,則國家安全也。」師古曰:「說讀曰悅。」〉封比干之後,脩孕婦之墓,〈應劭曰:「紂刳妊者,觀其胎產。」師古曰:「武王克商,反其故政,乃封修之。」〉故功業覆於天下。〈師古曰:「覆猶被也。」〉何則?欲善亡厭也。夫晉文親其讎,彊伯諸侯;齊桓用其仇,而一匡天下。〈張晏曰:「寺人勃鞮爲晉獻公逐文公,斬其袪。及文公即位,用其言以免呂郄之難。管仲射中桓公帶鉤,而用爲相。」師古曰:「伯讀爲霸。下皆類此。」〉何則?慈仁殷勤,誠加於心,不可以虛辭借也。

秦が商鞅の法を用いて、東方の韓・魏を弱体化させ、天下に強国としての地位を確立したが、結局(商鞅は)車裂きの刑に処せられた。越が大夫種の謀略を用いて、強力な呉を捕らえ中国の覇者となったが、(大夫種は)ついに誅殺された。このため孫叔敖は三度宰相の職を去っても後悔せず、於陵の子仲は三公の地位を辞して人のために園の灌漑に従事した。今、君主がもし驕り高ぶる心を去り、報いるに値する誠意を抱き、心腹を開き、真情を現し、肝胆を砕き、厚く徳を施し、終始(士と)窮達を共にし、士に対して惜しむところがなければ、ならば桀の犬に堯を吠えさせることができ、跖の客に許由を刺させることができる。ましてや万乗の権力を頼り、聖王の資質を借りるならばなおさらである。そうであれば、荊軻が七族を沈め、要離が妻子を焼き殺したことなど、どうして大王のために語るに足りようか。

原文至夫秦用商鞅之法,東弱韓、魏,立彊天下,卒車裂之。〈師古曰:「卒,終也。」〉越用大夫種之謀,禽勁吳而伯中國,遂誅其身。是以孫叔敖三去相而不悔,〈師古曰:「叔敖三爲楚相,而三去之。繒丘之封人謂之曰:『吾聞處官乆者士妬之,祿厚者衆怨之,位尊者君恨之。今相國有此三者,而不得罪於楚之士衆,何也?』叔敖曰:『吾三相楚而身愈卑,每益祿而施愈博,位滋尊而禮愈恭,是以不得罪於楚人也。』」〉於陵子仲辭三公爲人灌園。〈師古曰:「於陵,地名也。子仲,陳仲子也。其先與齊同族,兄載爲齊相,仲子以爲不義,乃將妻子適楚,居于於陵,自謂於陵子仲。楚王聞其賢,使使者持金百鎰聘之,欲以爲相。仲子不許,遂夫妻相與逃,而爲人灌園,終身不屈其節。」〉今人主誠能去驕傲之心,懷可報之意,披心腹,見情素,〈師古曰:「見,顯示之也。素謂心所向也。」〉墮肝膽,〈師古曰:「墮,毀也,音火規反。」〉施德厚,終與之窮達,無愛於士,〈師古曰:「無所吝惜也。」〉則桀之犬可使吠堯,跖之客可使刺由,〈應劭曰:「盜跖之客爲其人使刺由。由,許由也。」師古曰:「此言被之以恩,則用命也。」〉何況因萬乘之權,假聖王之資乎!然則荊軻湛七族,要離燔妻子,豈足爲大王道哉!〈應劭曰:「荊軻爲燕刺秦始皇,不成而死,其族坐之。湛,沒也。吳王闔閭欲殺王子慶忌,要離詐以罪亡,令吳王燔其妻子。要離走見慶忌,以劔刺之。」張晏曰:「七族,上至曾祖,下至曾孫。」師古曰:「此說云湛七族,無荊字也。尋諸史籍,荊軻無湛族之事,不知陽所云者定何人也。湛讀曰沈。」〉

臣は聞く、明月の珠、夜光の璧であっても、暗闇で道行く人に投げ与えれば、人々はみな剣に手をかけ、横目で見るものである。なぜか。理由なくして目前に至るからである。蟠りくねった木の根や株が、曲がりくねって奇怪であっても、天子の器物となるのは、左右の者が先にそれを飾り立てるからである。だから理由なくして目前に至れば、たとえ随侯の珠や和氏の璧を出したとしても、ただ恨みを結ぶだけで恩徳とは認められない。先に推薦する者がいれば、枯れた木や朽ちた株でも功績を立てて忘れられない。今、天下の布衣で貧窮した生活を送る士は、身は貧しくやせ細り、たとえ堯・舜の治国の術を身につけ、伊尹・管仲のような弁舌を備え、龍逢・比干のような志を抱いていても、もともと根や株のような飾り立てる者がいなければ、たとえ精神を尽くして当世の君主に忠誠を述べようとしても、君主は必ずや(先の例のように)剣に手をかけ横目で見る態度を繰り返すことになる。これでは布衣の士が枯れ木や朽ちた株のような(推薦される)資格を得ることができないのである。

原文臣聞明月之珠,夜光之璧,以闇投人於道,衆莫不按劔相眄者。何則?無因而至前也。蟠木根柢,輪囷離竒,〈蘇林曰:「柢音蔕。」張晏曰:「柢,根下本也。輪囷離竒,委曲盤戾也。」師古曰:「蟠木,屈曲之木也。囷音去輪反。離音力爾反。竒音於綺反。一曰離竒各讀如本字。」〉而爲萬乘器者,以左右先爲之容也。〈師古曰:「萬乘器,天子車輿之屬也。容謂彫刻加飾。」〉故無因而至前,雖出隨珠和璧,秖怨結而不見德;〈師古曰:「隨國之侯見大蛇傷者,療而愈之,蛇銜明珠以報其德,故稱隨珠。和氏之璧,即卞和所獻之玉耳。秖,適也,音支。」〉有人先游,則枯木朽株,樹功而不忘。〈師古曰:「先游,謂進納之也。樹,立也。」〉今夫天下布衣窮居之士,身在貧羸,〈師古曰:「衣食不充,故羸瘦也。一曰羸謂無威力。」〉雖蒙堯、舜之術,挾伊、管之辯,〈師古曰:「伊,伊尹。管,管仲。」〉懷龍逢、比干之意,而素無根柢之容,雖竭精神,欲開忠於當世之君,〈師古曰:「開謂陳說也。」〉則人主必襲桉劔相眄之迹矣。〈師古曰:「襲,重也。言躡其故跡也。」〉是使布衣之士不得爲枯木朽株之資也。

このため聖王は世を治め俗を統御するにあたり、ただ陶工の轆轤の上で自在に変化させ、へつらう言葉に引きずられることもなく、衆人の口に計画を奪われることもない。だから秦の皇帝は中庶子の蒙の言葉を信じて荊軻を信用し、匕首がひそかに突き出されることになった。周の文王は涇水・渭水で狩りをし、呂尚を車に乗せて帰り、それをもって天下を王とすることができた。秦は左右の者を信じて滅亡し、周は烏の集まるように偶然に出会った者を用いて王となった。なぜか。それは拘束された言葉を超越し、領域外の議論を広げ、ただ明るく広大な道理を観察することができたからである。

原文是以聖王制世御俗,獨化於陶鈞之上,〈張晏曰:「陶家名模下圓轉者爲鈞,以其制器爲大小,比之於天也。」師古曰:「此說非也。陶家名轉者爲鈞,蓋取周回調鈞耳。言聖王制馭天下,亦猶陶人轉鈞,非陶家轉象天也。」〉而不牽乎卑辭之語,不奪乎衆多之口。〈師古曰:「奪者,言欲行善道而爲佞人奪其計也。」〉故秦皇帝任中庶子蒙之言,〈師古曰:「蒙者,庶子名也。今流俗書本蒙下輒加恬字,非也。」〉以信荊軻,而匕首竊發;〈師古曰:「匕首,短劔也。其首類匕,便於用也。」〉周文王獵涇渭,載呂尚歸,以王天下。〈應劭曰:「西伯出遇呂尚於渭之陽,與語大悅,因載歸。」〉秦信左右而亡,周用烏集而王。〈師古曰:「言文王之得太公,非因舊故,若烏鳥之暴集。」〉何則?以其能越攣拘之語,馳域外之議,〈師古曰:「攣音力全反。」〉獨觀乎昭曠之道也。〈師古曰:「昭,明也。曠,廣也。」〉

今、君主がへつらう言葉に沈溺し、帷や壁(近臣)の制約に引きずられ、束縛されない士を牛や駿馬と同じ厩に同居させている。これが鮑焦が世を憤った理由である。

原文今人主沈諂諛之辭,牽帷廧之制,〈孟康曰:「言爲左右便僻侍帷廧臣妾所見牽制矣。」〉使不羈之士與牛驥同皁,〈師古曰:「不羈,言才識高遠不可羈係也。皁,歷也。揚雄方言云『梁、宋、齊、楚、燕之間謂歷曰皁』。皁音在早反。」〉此鮑焦所以憤於世也。〈孟康曰:「周之介士也。」師古曰:「鮑焦怨時之不用己,采蔬於道。子貢難曰:『非其時而採其蔬,此焦之有哉?』棄其蔬,乃立枯於洛水之上。蔬謂菜也。」〉

臣は聞く、盛んな装いで朝廷に入る者は、私情をもって正義を汚さず、名誉を磨き上げる者は、利益をもって品行を損なわないと。〈師古が言うには、「厎厲とは、自ら廉潔な節操を磨き上げることで、まるで石で磨くようなものだ」〉だから、里の名が勝母であれば、曾子は入らず、〈師古が言うには、「曾子は至孝であり、勝母という名が道理に合わないので、入らなかった」〉邑の名が朝歌であれば、墨子は車を引き返した。〈晉灼が言うには、「紂が朝歌の音楽を作った。朝歌とは、時宜を得ていないということだ」師古が言うには、「朝歌は殷の邑の名である。淮南子に『墨子は音楽を否定し、朝歌に入らなかった』とある」〉今、天下の遠大な志を持つ士人を、威厳と重みのある権力で籠絡し、地位と勢力の貴さで脅迫し、〈師古が言うには、「寥廓とは、遠大な度量である。脅は迫ることで、寥の音は聊である」〉顔を歪めて行いを汚し、〈師古が言うには、「回は邪である。汚は不潔なことで、音は一故の反切である。あるいは汚は曲がっていることで、音は一胡の反切である」〉へつらい諂う者に仕えさせて、左右に近づこうとすれば、士人は死を覚悟して洞穴や岩山の藪の中に隠れるだけであり、〈師古が言うには、「堀は窟と同じである。水のない沼沢を藪という」〉どうして忠信を尽くして宮門の下に駆けつける者があろうか。

原文臣聞盛飾入朝者不以私汙義,厎厲名號者不以利傷行。〈師古曰:「厎厲,言其自修廉隅,若磨厲於石也。」〉故里名勝母,曾子不入;〈師古曰:「曾子至孝,以勝母之名不順,故不入也。」〉邑號朝歌,墨子回車。〈晉灼曰:「紂作朝歌之音。朝歌者,不時也。」師古曰:「朝歌,殷之邑名也。淮南子云『墨子非樂,不入朝歌』。」〉今欲使天下寥廓之士籠於威重之權,脅於位勢之貴,〈師古曰:「寥廓,遠大之度也。脅,迫也。寥音聊。」〉回面汙行,〈師古曰:「回,邪也。汙,不潔也,音一故反。或曰汙,曲也,音一胡反。」〉以事諂諛之人,而求親近於左右,則士有伏死堀穴巖藪之中耳,〈師古曰:「堀與窟同。澤無水曰藪。」〉安有盡忠信而趨闕下者哉!

上書が孝王に奏上されると、孝王はすぐに彼を釈放し、ついに上客となった。

原文書奏孝王,孝王立出之,卒爲上客。

初め、勝と詭は王に漢の後継者となることを求めさせようとした。王はまたかつて上書し、容車の地を賜って長楽宮まで直通し、自ら梁国の人夫を使って甬道を築き、太后に朝見したいと願った。爰盎らは皆、不可であると意見を立てた。〈師古が言うには、「建とは議を立てることである」〉天子は許さなかった。梁王は怒り、人をやって爰盎を刺殺させた。皇帝は梁が殺したと疑い、使者の冠蓋が相望んで梁王を責めた。梁王は初め勝と詭と謀り、表向きは争って不可であるとしたので、讒言されたと思われた。枚先生と厳夫子は皆、諫めることができなかった。〈師古が言うには、「先生は枚乗である。夫子は厳忌である」〉

原文初,勝、詭欲使王求爲漢嗣,王又甞上書,願賜容車之地徑至長樂宮,自使梁國士衆築作甬道朝太后。爰盎等皆建以爲不可。〈師古曰:「建謂立議。」〉天子不許。梁王怒,令人刺殺盎。上疑梁殺之,使者冠蓋相望責梁王。梁王始與勝、詭有謀,陽爭以爲不可,故見讒。枚先生、嚴夫子皆不敢諫。〈師古曰:「先生,枚乘。夫子,嚴忌。」〉

梁の事件が失敗し、勝と詭が死ぬと、孝王は誅殺されることを恐れ、そこで鄒陽の言葉を思い出し、深く謝罪し、千金を贈って、皇帝に罪を解いてもらう方策を求める者を探させた。鄒陽はもとより斉人の王先生を知っており、〈師古が言うには、「もとより互いに知り合っていた」〉年は八十余りで、奇計が多いので、すぐに会いに行き、事の次第を話した。王先生は言った。「難しいことだ。君主に私怨と深い怒りがあり、必ず行うべき誅罰を加えようとすれば、誠に解くのは難しい。太后の尊さ、骨肉の親しさをもってしても、まだ止めることができないのに、まして臣下がどうしてできようか。昔、秦の始皇帝は太后に対して伏した怒りを持ち、群臣が諫めて死んだ者は数十人に及んだ。茅焦を得て大義を明らかにし、〈鄭氏が言うには、「斉の人である」応劭が言うには、「茅焦が諫めて言った。『陛下は仮父を車裂きにし、嫉妬の心がある。二弟を袋に入れて撲殺し、不慈の名がある。母を咸陽に移し、不孝の行いがある。臣はひそかに陛下の危険を憂える。臣の言うことは終わった。』そこで衣を脱いで釜に向かって走った。始皇帝は殿を下り、左手で彼を受け止めて言った。『先生、起きなさい。』すぐに太后を迎え、ついに母子として元のようになった」〉始皇帝は彼の言葉を喜んだのではなく、〈師古が言うには、「説は悦と読む」〉自ら強いてそれに従っただけである。茅焦もまたかろうじて死を免れただけで、毛や毫ほどの違いであった。〈師古が言うには、「廑は少ないことである。かろうじて死を免れたことを言う。廑の音は巨刃の反切である」〉だから事は難しいのである。今、あなたはどこへ行こうとするのか。」〈師古が言うには、「安は焉である。之は往くことである」〉鄒陽は言った。「鄒と魯は経学を守り、斉と楚には弁知が多く、韓と魏には時に奇節がある。私は順に尋ねて回ろう。」王先生は言った。「あなたは行きなさい。帰りに、私のところに寄って西へ行きなさい。」

原文及梁事敗,勝、詭死,孝王恐誅,迺思陽言,深辭謝之,齎以千金,令求方略解罪於上者。陽素知齊人王先生,〈師古曰:「素與相知也。」〉年八十餘,多竒計,即往見,語以其事。王先生曰:「難哉!人主有私怨深怒,欲施必行之誅,誠難解也。以太后之尊,骨肉之親,猶不能止,況臣下乎?昔秦始皇有伏怒於太后,羣臣諫而死者以十數。得茅焦爲廓大義,〈鄭氏曰:「齊人也。」應劭曰:「茅焦諫云:『陛下車裂假父,有嫉妬之心;囊撲兩弟,有不慈之名;遷母咸陽,有不孝之行。臣竊爲陛下危之。臣所言畢。』乃解衣趨鑊。始皇下殿,左手接之曰:『先生起矣!』即迎太后,遂爲母子如初。」〉始皇非能說其言也,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉迺自強從之耳。茅焦亦廑脫死如毛氂耳,〈師古曰:「廑,少也。言纔免於死也。廑音巨刃反。」〉故事所以難者也。今子欲安之乎?」〈師古曰:「安,焉也。之,往也。」〉陽曰:「鄒魯守經學,齊楚多辯知,韓魏時有竒節,吾將歷問之。」王先生曰:「子行矣。還,過我而西。」

鄒陽は一月余り行ったが、誰も謀りごとをすることができず、帰りに王先生のところに寄って言った。「私は西へ行こうとしていますが、どうしたらよいでしょうか。」王先生は言った。「私は先日、愚かな計略を献じようと思ったが、衆人の意見を覆い隠すことはできないと思い、ひそかに自分を浅薄で見識が狭いと思って言えなかった。もしあなたが行くなら、必ず王長君に会いに行きなさい。士人でこれ以上の者はいない。」鄒陽は心に悟るところがあり、言った。「謹んで承知しました。」別れて去り、梁には寄らず、直ちに長安に行き、客を介して王長君に会った。長君とは、王美人の兄で、後に蓋侯に封ぜられた者である。鄒陽は数日留まり、暇を見て請うて言った。〈師古が言うには、「間とは隙間の用事のない時である」〉「私は長君の前に使える者がいないから、来て仕えたのではありません。愚かで鈍く、ひそかに自分を量らず、お願いしたいことがあるのです。」〈師古が言うには、「料は量ることである。謁は告げることである」〉長君は跪いて言った。「大変ありがたい。」鄒陽は言った。「ひそかに聞くところによれば、長君の妹は後宮で寵愛を受け、天下に比類がないほどですが、〈師古が言うには、「ただ一人で、比べるものがないと言う」〉長君の行跡は道理に従わないことが多いと。今、爰盎の事件が徹底的に追及されれば、梁王は誅殺されることを恐れています。そうなれば、太后は鬱積して血の涙を流し、怒りを発する所がなく、貴臣に対して歯ぎしりし、横目でにらむでしょう。私は長君が積み重ねた卵のように危うくなることを恐れ、〈師古が言うには、「絫卵とは、崩れ落ちて粉々になることを言う」〉ひそかに足下のことを憂えています。」長君は懼然として言った。〈師古が言うには、「懼は瞿と読み、音は居具の反切である。瞿然とは、落ち着きのない様子である」〉「どうしたらよいだろうか。」鄒陽は言った。「長君が誠心誠意、上に言上して、梁の事件を追及しないようにさせることができれば、長君は必ず固く太后と結びつくでしょう。太后は長君に厚い恩徳を感じ、骨髄にまでしみ込み、長君の妹は両宮で寵愛を受け、〈如淳が言うには、「太后の宮と皇帝の宮である」〉金城のごとく固いものです。〈師古が言うには、「その栄寵が極まりなく壊れないので、金城にたとえたのである」〉また、滅びた国を存続させ、絶えた家系を継ぐ功績があり、徳は天下に広まり、名は限りなく施されます。どうか長君は深くご自分でお考えください。昔、舜の弟の象は日々舜を殺すことを仕事とし、〈師古が言うには、「日々殺そうとしたと言う」〉舜が天子に立つと、有卑に封じた。〈服虔が言うには、「音は畀予の畀である」師古が言うには、「地名で、音は鼻、今の鼻亭であり、零陵にある」〉仁人は兄弟に対して、隠れた怒りもなく、古い恨みもなく、親愛を厚くするだけであり、それゆえ後世に称えられるのである。魯の公子慶父は僕人に命じて子般を殺させたが、〈師古が言うには、「慶父は荘公の弟である。子般は荘公の太子である。僕人は即ち鄧扈楽である。父は甫と読む。般の字は班と同じである」〉罪は帰するところがあり、〈師古が言うには、「罪を鄧扈楽に帰したのである」〉季友はその実情を探らずに誅殺した。〈師古が言うには、「季友は慶父の弟で、慶父の本情を探らずに扈楽を誅殺した」〉慶父が自ら閔公を殺すと、季子は追及を緩めて賊を免れさせ、〈師古が言うには、「慶父が出奔した時、季友は追及せずに放置し、その賊乱の罪を免れさせた」〉春秋は親を親しむ道であるとした。〈師古が言うには、「公羊の説で、季友がその兄を親しんだことを言う」〉魯の哀姜が夷で薨じた時、孔子は『斉の桓公は法に従って譎らず』と言い、過ちであるとした。〈師古が言うには、「哀姜は荘公の夫人で、二叔と淫通し、閔公を殺すことに加担したので、斉人が夷で殺した。夷は斉の地である。法而不譎とは、法を守って行い、権謀を用いて親を免れさせることができなかったことを言う」〉この説をもって天子に説き、梁の事件が上奏されないように幸いを求めてください。」長君は言った。「承知した。」暇を見て入って言上した。韓安国もまた長公主に会い、事件はついに追及されずに済んだ。

原文鄒陽行月餘,莫能爲謀,還過王先生,曰:「臣將西矣,爲如何?」王先生曰:「吾先日欲獻愚計,以爲衆不可蓋,〈師古曰:「蓋,覆蔽也。」〉竊自薄陋不敢道也。若子行,必往見王長君,士無過此者矣。」鄒陽發寤於心,曰:「敬諾。」辭去,不過梁,徑至長安,因客見王長君。長君者,王美人兄也,後封爲蓋侯。鄒陽留數日,乘閒而請曰:〈師古曰:「閒謂空隙無事之時。」〉「臣非爲長君無使令於前,故來侍也;〈師古曰:「使令,謂役使之人也。令音力成反。」〉愚戇竊不自料,願有謁也。」〈師古曰:「料,量也。謁,告也。」〉長君跪曰:「幸甚。」陽曰:「竊聞長君弟得幸後宮,天下無有,〈師古曰:「言獨一耳,無所比類也。」〉而長君行迹多不循道理者。今爰盎事即窮竟,梁王恐誅。如此,則太后怫鬱泣血,無所發怒,〈師古曰:「怫鬱,蘊積也。怫音佛。」〉切齒側目於貴臣矣。臣恐長君危於絫卵,〈師古曰:「絫卵者,言其將隤而破碎也。」〉竊爲足下憂之。」長君懼然曰:〈師古曰:「懼讀曰瞿,音居具反。瞿然,無守之貌。」〉「將爲之柰何?」陽曰:「長君誠能精爲上言之,得毋竟梁事,長君必固自結於太后。太后厚德長君,入於骨髓,而長君之弟幸於兩宮,〈如淳曰:「太后宮及帝宮也。」〉金城之固也。〈師古曰:「言其榮寵無極不可壞,故取喻於金城也。」〉又有存亡繼絕之功,德布天下,名施無窮,願長君深自計之。昔者,舜之弟象日以殺舜爲事,〈師古曰:「言日日欲殺也。」〉及舜立爲天子,封之於有卑。〈服虔曰:「音畀予之畀也。」師古曰:「地名也,音鼻,今鼻亭是也,在零陵。」〉夫仁人之於兄弟,無臧怒,無宿怨,厚親愛而已,是以後世稱之。魯公子慶父使僕人殺子般,〈師古曰:「慶父,莊公弟也。子般,莊公太子也。僕人,即鄧扈樂也。父讀曰甫。般字與班同。」〉獄有所歸,〈師古曰:「歸罪於鄧扈樂也。」〉季友不探其情而誅焉;〈師古曰:「季友,慶父之弟,不探慶父本情而誅扈樂。」〉慶父親殺閔公,季子緩追免賊,〈師古曰:「慶父出奔,季友縱而不追,免其賊亂之罪。」〉春秋以爲親親之道也。〈師古曰:「公羊之說也,言季友親其兄也。」〉魯哀姜薨于夷,孔子曰『齊桓公法而不譎』,以爲過也。〈師古曰:「哀姜,莊公夫人也,淫於二叔,而豫殺閔公,齊人殺之於夷。夷,齊地也。法而不譎者,言守法而行,不能用權以免其親也。」〉以是說天子,徼幸梁事不奏。」長君曰:「諾。」乘閒入而言之。及韓安國亦見長公主,事果得不治。

かつて、呉王劉濞が七国と謀反を企てた際、挙兵の時になると、斉と済北の両国は城を守って出兵しなかった。漢が呉を破った後、斉王は自殺し、後継者を立てることができなかった。済北王も自殺しようとしたが、妻子を全うしたいと願っていた。斉の人公孫玃が済北王に言った。「臣が大王のために梁王を説得し、天子に意を通じさせてみましょう。説得が用いられなければ、その時死んでも遅くはありません。」公孫玃はそこで梁王に会い、言った。「そもそも済北の地は、東は強力な斉と接し、南は呉・越を引きつけ、北は燕・趙を脅かす、このような四分五裂の国です。権謀は自らを守るに足らず、兵力は敵を防ぐに足らず、また奇策や怪異なものがあって難に備えているわけでもありません。たとえ呉に失言したとしても、それは彼らの本心からの計略ではありません。昔、鄭の祭仲が宋の要求を許して公子突を立て、その君主を生かしたことは、義ではありませんでしたが、春秋がこれを記したのは、死を以て生に易え、亡を以て存に易えたからです。もし済北が実情を見せ、従わない意思を示していたならば、呉はまず斉を通過し、済北をことごとく平定し、燕・趙を招き寄せてまとめ上げたでしょう。そうなれば、山東の連合は結束して隙がなくなります。今、呉・楚の王は諸侯の兵を選び、訓練されていない民衆を駆り立て、西に向かって天子と勢力を争おうとしていますが、済北だけは節を守り堅固に守って降伏しませんでした。これによって呉は同盟を失い助けがなくなり、わずかな歩みを進めるだけで、瓦解土崩し、破敗しても救われなかったのは、必ずしも済北の力によらないとは言えません。小さな済北をもって諸侯と強さを争うのは、子羊や子牛の弱さで虎狼の敵を防ぐようなものです。職責を守って曲げず、誠実一筋と言えるでしょう。功績と忠義がこのようにあっても、なお上に疑われ、肩をすぼめ首を垂れ、足を重ね襟を撫でて、自ら後悔し進まなかった心を抱かせるのは、国家の利益ではありません。臣は恐れますが、藩臣として職責を守る者が疑念を抱くでしょう。臣がひそかに推量するに、西山を越え、長楽宮を経て未央宮に至り、袖をまくって正論を述べることができるのは、大王ただお一人だけです。上には国を全うさせた功績があり、下には百姓を安んじた名声があり、徳は骨髄にまで浸透し、恩は無限に加えられます。どうか大王にはご留意いただき、詳しくお考えください。」孝王は大いに喜び、人を走らせて天子に報告させた。済北王は罪に問われることなく、淄川に封を移された。

原文初,吳王濞與七國謀反,及發,齊、濟北兩國城守不行。漢旣破吳,齊王自殺,不得立嗣。濟北王亦欲自殺,幸全其妻子。齊人公孫玃謂濟北王曰:〈師古曰:「玃音俱略反。」〉「臣請試爲大王明說梁王,通意天子,說而不用,死未晚也。」公孫玃遂見梁王,曰:「夫濟北之地,東接彊齊,南牽吳越,北脅燕趙,此四分五裂之國,〈張晏曰:「四方受敵,濟北居中央爲五。」晉灼曰:「四分,即交五而裂,如田字也。」〉權不足以自守,勁不足以扞寇,〈師古曰:「扞,禦也,音胡旦反。」〉又非有竒怪云以待難也,〈如淳曰:「非有竒材異計欲以爲亂逆也,但假權許吳以避其禍耳。」晉灼曰:「非有以怪異之心而城守,須待變難而應吳也。」師古曰:「二說皆非也。此言權謀勁力旣不能扞守,又無竒怪神靈可以禦難,恐不自全,故墜言於吳也。」〉雖墜言於吳,非其正計也。〈蘇林曰:「墜猶失也。」〉昔者鄭祭仲許宋人立公子突以活其君,非義也,春秋記之,爲其以生易死,以存易亡。〈師古曰:「祭仲,鄭大夫祭足也,事鄭莊公,爲公娶鄧曼,生昭公,故祭仲立之。而宋大夫雍氏以女妻莊公而生突。昭公旣立,宋人誘祭仲而執之,曰:『不立突,將死。』祭仲與宋人盟,以厲公歸而立之。昭公奔衞,言足脅於大國,苟順其心,欲以全昭公也。祭音側界反。」〉鄉使濟北見情實,示不從之端,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。見謂顯也。」〉則吳必先歷齊畢濟北,〈張晏曰:「歷,過。畢,盡收濟北之地。」〉招燕、趙而緫之。如此,則山東之從結而無隙矣。〈師古曰:「從音子容反。」〉今吳楚之王練諸侯之兵,敺白徒之衆,〈師古曰:「練,選也。敺與驅同。白徒,言素非軍旅之人,若今言白丁矣。」〉西與天子爭衡,濟北獨厎節堅守不下。使吳失與而無助,跬步獨進,〈師古曰:「半步曰跬,音空絫反。」〉瓦解土崩,破敗而不救者,未必非濟北之力也。夫以區區之濟北而與諸侯爭彊,〈師古曰:「區區,小貌也。」〉是以羔犢之弱而扞虎狼之敵也。守職不橈,可謂誠一矣。〈師古曰:「橈,曲也,音女敎反。」〉功義如此,尚見疑於上,脅肩低首,〈師古曰:「脅,翕也,謂斂也。」〉絫足撫衿,使有自悔不前之心,〈張晏曰:「悔不與吳西也。」〉非社稷之利也。臣恐藩臣守職者疑之。臣竊料之,〈師古曰:「料,量也。」〉能歷西山,徑長樂,抵未央,攘袂而正議者,〈師古曰:「西山,謂崤及華山也。抵,至也。攘,卻也。袂,衣袖也。攘袂,猶今人云掉臂耳。」〉獨大王耳。上有全亡之功,下有安百姓之名,德淪於骨髓,〈師古曰:「淪,入也。」〉恩加於無窮,願大王留意詳惟之。」〈師古曰:「惟,思也。」〉孝王大說,〈師古曰:「說讀曰悅。」〉使人馳以聞。濟北王得不坐,徙封於淄川。

枚乗

原文枚乘

枚乗は字を叔といい、淮陰の人である。呉王劉濞の郎中となった。呉王が初めて恨みを抱き謀反を企てた時、枚乗は上書して諫めて言った。

原文枚乘字叔,淮陰人也,爲吳王濞郎中。吳王之初怨望謀爲逆也,乘奏書諫曰:

臣は聞きます。全きを得る者は全く栄え、全きを失う者は全く滅びると。舜は立錐の地さえなくても、天下を有しました。禹は十戸の集落さえなくても、諸侯を王としました。湯王・武王の領土は百里を超えませんでしたが、上は日月星辰の光を絶やさず、下は百姓の心を傷つけませんでした。これには王者の術があったからです。そもそも父子の道は天性であり、忠臣は重い誅罰を避けずに直諫するものです。そうすれば事には失策がなく、功績は万世に流れます。臣乗は腹心を開いて愚かな忠誠を尽くしたいと願います。どうか大王には、臣乗の言葉にほんの少しでも哀れみの心をおかけください。

原文臣聞得全者全昌,失全者全亡。舜無立錐之地,以有天下;禹無十戶之聚,〈師古曰:「聚,聚邑也,音才喻反。」〉以王諸侯。湯、武之土不過百里,上不絕三光之明,〈師古曰:「德政和平,上感天象,則日月星辰無有錯謬,故言不絕三光之明也。」〉下不傷百姓之心者,有王術也。故父子之道,天性也;忠臣不避重誅以直諫,〈師古曰:「言父子君臣,其義一也。」〉則事無遺策,功流萬世。臣乘願披腹心而効愚忠,唯大王少加意念惻怛之心於臣乘言。

一本の糸の力で千鈞の重さを支え、上は果てしなく高い所に吊るされ、下は測り知れぬ深淵に垂れ下がっているとすれば、どんなに愚かな者でも、それが今にも切れそうだと哀れむでしょう。馬がちょうど驚こうとしている時に鼓を打って驚かせ、糸が今にも切れそうなのにさらに重しを加えるのです。糸が天から切れてしまえば再び結ぶことはできず、深淵に落ちてしまえば再び出ることは難しい。出るか出ないかの間は、髪の毛一本入る隙もありません。忠臣の言葉を聞くことができれば、どんな行動も必ず禍を免れるでしょう。もしどうしてもご自分の望むことをなさろうとするならば、積み重ねた卵よりも危険で、天に登るよりも難しい。望むことを変えれば、手のひらを返すよりも易しく、泰山よりも安泰です。今、天命の寿命を極め、尽きることのない楽しみを尽くし、万乗の勢いを究めようとされるならば、手のひらを返すような易しさから出ず、泰山のような安泰に居ながら、積み重ねた卵のような危険に乗じ、天に登るような難しさに向かおうとされるのは、この愚かな臣が大いに惑うところです。

原文夫以一縷之任係千鈞之重,上縣無極之高,下垂不測之淵,雖甚愚之人猶知哀其將絕也。馬方駭鼓而驚之,〈師古曰:「駭亦驚也。鼓,擊鼓也。」〉係方絕又重鎮之;係絕於天不可復結,隊入深淵難以復出。其出不出,閒不容髮。〈蘇林曰:「改計取福正在今日,言其激切甚急也。」〉能聽忠臣之言,百舉必脫。〈師古曰:「脫者,免於禍也,音土活反。」〉必若所欲爲,危於絫卵,難於上天;變所欲爲,易於反掌,安於太山。今欲極天命之壽,敝無窮之樂,究萬乘之埶,〈師古曰:「敝,盡也。究,竟也。」〉不出反掌之易,以居泰山之安,而欲乘絫卵之危,走上天之難,〈師古曰:「走,趨向之也,音奏。」〉此愚臣之所大惑也。

人には自分の影を恐れ自分の足跡を嫌う者がおり、背を向けて走れば、足跡はますます多く、影はますます速くなり、日陰に入って止まることを知らず、影が消え足跡が絶えることを知りません。人に聞かれたくないならば、言わないのが一番です。人に知られたくないならば、しないのが一番です。熱い湯を冷やそうとするのに、一人で火を焚き、百人でかき回しても無益であり、薪を絶ち火を止めるには及びません。あちらで絶やさずに、こちらで救おうとするのは、薪を抱えて火を消そうとするようなものです。養由基は、楚の善射の者で、楊の葉から百歩離れて、百発百中しました。楊の葉の大きさに、百発百中を加えれば、善射と言えるでしょう。しかし彼の止まる所は、ただ百歩の内だけです。臣乗と比べれば、弓を操り矢を持つことを知らないも同然です。

原文人性有畏其景而惡其跡者,卻背而走,〈師古曰:「背音步內反。」〉迹愈多,景愈疾,不知就陰而止,景滅迹絕。欲人勿聞,莫若勿言;欲人勿知,莫若勿爲。欲湯之凔,〈鄭氏曰:「音悽愴之愴,寒也。」〉一人炊之,〈師古曰:「炊謂爨火也。」〉百人揚之,無益也,不如絕薪止火而已。不絕之於彼,而救之於此,譬猶抱薪而救火也。養由基,楚之善射者也,去楊葉百步,百發百中。楊葉之大,加百中焉,可謂善射矣。然其所止,迺百步之內耳,比於臣乘,未知操弓持矢也。〈師古曰:「乘自言所知者遠,非止見百步之中,故謂由基爲不曉射也。」〉

福が生じるには基があり、禍が生じるには胎がある。〈服虔が言うには、「基、胎は、ともに始まりである」〉その基を納め、その胎を絶てば、禍はどこから来ようか。〈師古が言うには、「納とは、蔵するようなものである。何自來とは、どこからも来ないという意味である」〉泰山の雨垂れは石を穿ち、一本の井戸縄は井桁を断つ。〈孟康が言うには、「西方の人は屋梁を極と呼ぶ。単は一である。一本の梁とは、井戸の轆轤を指す。轆轤の縄が長く擦れて、井桁を断つというのである」晉灼が言うには、「䋁は、古い綆の字である。単は尽きることで、極限まで尽きた縄が幹を断つ。幹とは、井戸の上に四角に組んだ井桁である。常に汲み縄によって刻み傷つけられるのである」師古が言うには、「晉の説が近い。幹とは、井戸の上に木を交差させて欄干としたものである。孟が轆轤と言うのは、その意味を失っている。䋁、綆はともに音は鯁。鍥、契はともに刻むことで、音は口計反」〉水は石を穿つ錐ではなく、縄は木を断つ鋸ではないが、次第に磨り減らされてそうなるのである。〈師古が言うには、「靡とは、尽きることである」〉銖ずつ秤にかけて計れば、石に至れば必ず誤差が生じる。寸ずつ物差しで測れば、丈に至れば必ず過不足が出る。〈鄭氏が言うには、「石は百二十斤である」張晏が言うには、「乗じて転じた四万六千八十銖が石に至るが、合わせて秤にかければ必ず増減がある」師古が言うには、「小さなことから大きな数に至るまで、軽重が同じでないことを言うのである。度の音は徒各反」〉石で秤にかけ、丈で量れば、直截に計って誤りが少ない。〈師古が言うには、「径とは、直截なことである」〉十抱えもある大木も、初めは芽のように生え、足で掻きむしれば絶え、手で引き抜くこともできる。〈師古が言うには、「如櫱とは、櫱の芽が生えるようなものだと言うのである。搔とは、掻くことである。搔の音は索高反。抓の音は莊交反」〉それはまだ生じていないうちに、形が現れないうちに手を加えるからである。磨き研ぎ、砥石で磨いても、その減りは見えず、やがて尽きる時が来る。〈師古が言うには、「礱もまた磨くことである。厎は柔らかい石、厲は砥石であり、ともに磨くことができるものである。礱の音は聾」〉草木を植え、家畜を飼育しても、その益は見えず、やがて大きくなる時が来る。徳を積み、善行を重ねても、その善さは知らず、やがて用いられる時が来る。義を捨て、理に背いても、その悪さは知らず、やがて滅びる時が来る。臣は願わくば、大王にはよく考えてご自身で実行なさってください。これは百世変わらない道理なのです。

原文福生有基,禍生有胎;〈服虔曰:「基、胎,皆始也。」〉納其基,絕其胎,禍何自來?〈師古曰:「納猶藏也。何自來,言無所從來也。」〉泰山之霤穿石,單極之䋁斷幹。〈孟康曰:「西方人名屋梁謂極。單,一也。一梁,謂井鹿盧也。言鹿盧爲綆索乆鍥,斷井幹也。」晉灼曰:「䋁,古綆字也。單,盡也,盡極之綆斷幹。幹,井上四交之幹。常爲汲索所契傷也。」師古曰:「晉說近之。幹者,交木井上以爲欄者也。孟云鹿盧,失其義矣。䋁、綆皆音鯁。鍥、契皆刻也,音口計反。」〉水非石之鑽,索非木之鋸,漸靡使之然也。〈師古曰:「靡,盡也。」〉夫銖銖而稱之,至石必差;寸寸而度之,至丈必過。〈鄭氏曰:「石,百二十斤。」張晏曰:「乘所轉四萬六千八十銖而至於石,合而稱之必有盈縮也。」師古曰:「言自小小以至於大數,則有輕重不同也。度音徒各反。」〉石稱丈量,徑而寡失。〈師古曰:「徑,直也。」〉夫十圍之木,始生如櫱,足可搔而絕,手可擢而拔,〈師古曰:「如櫱,言若櫱之生牙也。搔謂抓也。搔音索高反。抓音莊交反。」〉據其未生,先其未形也。磨礱厎厲,不見其損,有時而盡;〈師古曰:「礱亦磨也。厎,柔石也;厲,皂石也;皆可以磨者。礱音聾。」〉種樹畜養,不見其益,有時而大;積德絫行,不知其善,有時而用;棄義背理,不知其惡,有時而亡。臣願大王孰計而身行之,此百世不易之道也。

呉王は受け入れなかった。枚乗らは去って梁に行き、孝王に従って遊んだ。

原文吳王不納。乘等去而之梁,從孝王游。

景帝が即位すると、御史大夫の鼂錯が漢のために制度を定め、諸侯を削減したので、呉王はついに六国と謀反を企て、兵を挙げて西を向き、〈師古が言うには、「郷は嚮と読む」〉錯を誅することを名目とした。漢はこれを聞き、錯を斬って諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王を説得して言った。

原文景帝即位,御史大夫鼂錯爲漢定制度,損削諸侯,吳王遂與六國謀反,舉兵西鄉,〈師古曰:「鄉讀曰嚮。」〉以誅錯爲名。漢聞之,斬錯以謝諸侯。枚乘復說吳王曰:

昔、秦は西で胡や戎の難を挙げ、北で榆中の関を備え、〈師古が言うには、「即ち今のいわゆる榆関である」〉南で羌や筰の塞を防ぎ、〈師古が言うには、「筰は西南夷である。音は才各反」〉東で六国の合従に当たった。〈師古が言うには、「従の音は子容反」〉六国は信陵君の威勢に乗じ、〈孟康が言うには、「魏の公子無忌は信陵君と号した。無忌はかつて五国を総括して秦を退け、土地の資産があった」〉蘇秦の盟約を明らかにし、荊軻の威を奮い起こし、力を合わせ心を一つにして秦に備えた。しかし秦はついに六国を捕らえ、その社稷を滅ぼして天下を併合した。これはなぜか。それは地利が異なり、民の軽重が等しくなかったからである。今、漢は秦の地をすべて領有し、六国の民衆を兼ね備え、戎狄に対する恩義を修め、〈師古が言うには、「恩義を修めて戎狄を撫でる」〉南では羌や筰を朝貢させている。これは秦と比べて、土地は十倍、民衆は百倍であり、大王のよくご存知のところである。〈師古が言うには、「地は秦の十倍、民衆は秦の百倍である」〉今、讒言や諂いの臣が大王のために計るのは、骨肉の義も、民の軽重も、国の大小も論じず、ただ呉に禍をもたらそうとしている。〈師古が言うには、「王に反逆を勧めることは、呉にとって禍であると言うのである」〉これが臣が大王のために憂える所以である。

原文昔者,秦西舉胡戎之難,北備榆中之關,〈師古曰:「即今所謂榆關也。」〉南距羌筰之塞,〈師古曰:「筰,西南夷也,音才各反。」〉東當六國之從。〈師古曰:「從音子容反。」〉六國乘信陵之籍,〈孟康曰:「魏公子無忌號信陵君。無忌甞揔五國卻秦,有地資也。」〉明蘇秦之約,厲荊軻之威,并力一心以備秦。然秦卒禽六國,滅其社稷,而并天下,是何也?則地利不同,而民輕重不等也。今漢據全秦之地,兼六國之衆,脩戎狄之義,〈師古曰:「脩恩義以撫戎狄。」〉而南朝羌筰,此其與秦,地相什而民相百,大王之所明知也。〈師古曰:「地十倍於秦,衆百倍於秦。」〉今夫讒諛之臣爲大王計者,不論骨肉之義,民之輕重,國之大小,以爲吳禍,〈師古曰:「言勸王之反,則於吳爲禍也。」〉此臣所以爲大王患也。

呉の兵を挙げて漢と比べるのは、〈李竒が言うには、「訾とは、量ることである」師古が言うには、「音は子私反」〉まるで蠅や蚋が群牛に付着し、腐った肉が鋭い剣に当たるようなもので、刃が触れれば必ず何事もない。〈師古が言うには、「蚋は蚊の類である。歯とは、当たることである。蚋の音は芮、また人悅反とも読む」〉天子は、呉が職を失った諸侯を率い、先帝の遺された約束を責めようとしていると聞き、〈師古が言うには、「失職とは、削減や罷免を受けて、常の分を失うことである」〉今、漢みずからその三公を誅して前の過ちを謝罪した。これは大王の威が天下に加わり、功績が湯や武を越えることである。呉には諸侯の位がありながら、実は天子よりも富んでいる。辺境の僻地にあるという名目がありながら、〈師古が言うには、「隠匿とは、東南の僻地にあることを言う」〉中原の国々よりも優れた暮らしをしている。漢は二十四の郡と十七の諸侯を併せ、四方から貢物が錯綜して運ばれ、数千里の道を絶えることなく運行するが、その珍奇な物は東山の府庫に及ばない。〈張晏が言うには、「漢の時には二十四郡、十七の諸侯王があった。四方から更に輸送し、錯綜して互いに攻め出るのである」如淳が言うには、「東方の諸郡は王侯に封じられ、封じられていないのは二十四だけである。当時七国が謀反し、その他は反していないので十七である。東山は呉王の府庫である」師古が言うには、「二つの説はともに誤りである。漢がこの時二十四郡、十七諸侯を有し、軌道を並べて輸送し、雑多に貢賦を出して天子に入れても、なお呉の富には及ばないと言うのである」〉穀物を西に向けて転送し、陸路では絶え間なく、水路では河を満たしても、海陵の倉には及ばない。〈如淳が言うには、「漢の京師は山東からの漕運に頼って自給していると言うのである」晉灼が言うには、「海陵とは、海中の山を倉としたものである」臣瓚が言うには、「海陵は県名である。呉の大倉がある」師古が言うには、「瓚の説が正しい。郷は嚮と読む」〉上林苑を修治し、離宮を混ぜ、珍玩を積み重ね、禽獣を囲って飼育しても、長洲の苑には及ばない。〈服虔が言うには、「呉の苑である」孟康が言うには、「江水の洲を苑としたのである」韋昭が言うには、「長洲は呉の東にある」〉曲台に遊び、大路に臨んでも、朝夕の池には及ばない。〈張晏が言うには、「曲台は長安の台で、道に臨んでいる」蘇林が言うには、「呉は海水の朝夕を池としたのである」師古が言うには、「『三輔黄図』に未央宮に曲台殿がある」〉深い壁と高い塁を築き、関城を副えても、江淮の険には及ばない。これが臣が大王のために楽しいと思う所以である。〈師古が言うには、「その富饒と遊宴の場所が天子を超えていることを言うのである」〉

原文夫舉吳兵以訾於漢,〈李竒曰:「訾,量也。」師古曰:「音子私反。」〉譬猶蠅蚋之附羣牛,腐肉之齒利劔,鋒接必無事矣。〈師古曰:「蚋,蚊屬也。齒謂當之也。蚋音芮,又音人悅反。」〉天子聞吳率失職諸侯,願責先帝之遺約,〈師古曰:「失職,謂被削黜,失其常分。」〉今漢親誅其三公,以謝前過,是大王之威加於天下,而功越於湯武也。夫吳有諸侯之位,而實富於天子;有隱匿之名,〈師古曰:「隱匿,謂僻在東南。」〉而居過於中國。夫漢并二十四郡,十七諸侯,方輸錯出,運行數千里不絕於道,其珍怪不如東山之府。〈張晏曰:「漢時有二十四郡,十七諸侯王也。四方更輸,錯互更出攻也。」如淳曰:「東方諸郡以封王侯,不以封者二十四耳。時七國謀反,其餘不反者,十七也。東山,吳王之府藏也。」師古曰:「二說皆非也。言漢此時有二十四郡,十七諸侯,方軌而輸,雜出貢賦,入於天子,猶不如吳之富也。」〉轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉。〈如淳曰:「言漢京師仰須山東漕運以自給也。」晉灼曰:「海陵,海中山爲倉也。」臣瓚曰:「海陵,縣名也。有吳大倉。」師古曰:「瓚說是也。鄉讀曰嚮。」〉脩治上林,雜以離宮,積聚玩好,圈守禽獸,不如長洲之苑。〈服虔曰:「吳苑。」孟康曰:「以江水洲爲苑也。」韋昭曰:「長洲在吳東。」〉游曲臺,臨上路,不如朝夕之池。〈張晏曰:「曲臺,長安臺,臨道上。」蘇林曰:「吳以海水朝夕爲池也。」師古曰:「《三輔黃圖》未央宮有曲臺殿。」〉深壁高壘,副以關城,不如江淮之險。此臣之所爲大王樂也。〈師古曰:「言其富饒及游晏之處踰天子也。」〉

今、大王が兵を返して急ぎ帰還すれば、なお十分の五は得られるでしょう。そうでなければ、漢は呉が天下を併呑する心があることを知り、激しく怒りを加え、羽林黄頭の兵を派遣して長江に沿って下らせ、大王の都を襲撃するでしょう。魯や東海は呉の糧道を断ちます。梁王は車騎を整え、戦射を習熟させ、食糧を蓄積して堅固に守り、滎陽に備え、呉の飢えを待ちます。大王がたとえ都に戻ろうとしても、やむを得ないでしょう。三つの淮南の国々の計略はその約束を背かず、斉王は身を殺してその跡を消しました。四つの国々はその郡から出兵することができず、趙は邯鄲に囚われました。これは隠しようがなく、すでに明らかです。大王はすでに千里の国を離れ、十里の内に制せられています。張羽と韓安国は北地を将として、弓高侯は左右に宿営し、兵は陣壁を下ることができず、軍は大いに休息することができません。臣はひそかにこれを哀れみます。願わくば大王、よくお察しください。

原文今大王還兵疾歸,尚得十半。〈師古曰:「十分之中可兾五分無患,故云尚得十半。」〉不然,漢知吳之有吞天下之心也,赫然加怒,遣羽林黃頭循江而下,〈蘇林曰:「羽林黃頭郎習水戰者也。」張晏曰:「天子舟立黃旄於其端也。」師古曰:「鄧通以櫂船爲黃頭郎。蘇說是也。」〉襲大王之都;魯東海絕吳之饟道;〈師古曰:「饟,古餉字。」〉梁王飭車騎,〈師古曰:「飭與敕同。飭,整也。」〉習戰射,積粟固守,以備滎陽,待吳之飢。大王雖欲反都,亦不得已。〈師古曰:「已,語終之辭。」〉夫三淮南之計不負其約,〈晉灼曰:「吳楚反,皆守約不從也。」〉齊王殺身以滅其跡,〈晉灼曰:「齊孝王將閭也。吳楚反,堅守距三國。後欒布聞齊初與三國有謀,欲伐之,王懼自殺。」師古曰:「齊王傳云吳楚已平,齊王乃自殺,今此枚乘諫書即已稱之。二傳不同,當有誤者。」〉四國不得出兵其郡,〈晉灼曰:「膠東、膠西、濟南、淄川王也。發兵應吳楚,皆見誅。」〉趙囚邯鄲,〈應劭曰:「漢將酈寄圍趙王於邯鄲,與囚無異。」〉此不可掩,亦已明矣。〈師古曰:「言事已彰著。」〉大王已去千里之國,而制於十里之內矣。〈師古曰:「梁下屯兵方十里也。」〉張、韓將北地,〈如淳曰:「張,張羽;韓,韓安國也。時皆仕梁。北地良家子,善騎射者也。」師古曰:「將北地者,言將兵而處吳軍之北以距吳,非北地良家子也。張羽、韓安國不將漢兵,如說非也。」〉弓高宿左右,〈服虔曰:「韓頹當也。」如淳曰:「宿軍左右也。後弓高侯竟將輕騎絕吳糧道。」師古曰:「宿,止也。言弓高所將之兵屯止於吳軍左右也。」〉兵不得下壁,軍不得大息,臣竊哀之。願大王孰察焉。

呉王は枚乗の策を用いず、ついに捕らえられ滅ぼされた。

原文吳王不用乘策,卒見禽滅。

漢が七国を平定した後、枚乗はこれによって有名となった。景帝は枚乗を召し出して弘農都尉に任命した。枚乗は長く大国の上賓として、英俊とともに交遊し、その好むところを得ていたので、郡の役人となることを喜ばず、病気を理由に官を去った。

原文漢旣平七國,乘由是知名。景帝召拜乘爲弘農都尉。乘久爲大國上賔,與英俊並游,得其所好,不樂郡吏,以病去官。

再び梁に遊び、梁の客は皆、辞賦を作るのが上手かったが、枚乗は特に優れていた。孝王が薨去すると、枚乗は淮陰に帰った。

原文復游梁,梁客皆善屬辭賦,乘尤高。孝王薨,乘歸淮陰。

武帝は太子の時から枚乗の名を聞いており、即位すると、枚乗は年老いていたので、安車に蒲輪を付けて枚乗を招聘したが、道中で死去した。詔を下して枚乗の子を尋ねたが、文を作れる者はいなかった。後にようやくその庶子の枚皐を得た。

原文武帝自爲太子聞乘名,及即位,乘年老,迺以安車蒲輪徵乘,〈師古曰:「蒲輪,以蒲裹輪。」〉道死。〈師古曰:「在道病死也。」〉詔問乘子,無能爲文者,後迺得其孽子皐。〈師古曰:「孽,庶也。」〉

子 皐

原文子 皐

皐は字を少孺という。枚乗が梁にいた時、皐の母を小妻にした。枚乗が東に帰る時、皐の母は枚乗に従うことを肯んじず、枚乗は怒り、皐に数千銭を分け与え、母とともに住まわせた。十七歳の時、梁の共王に上書し、召し出されて郎となった。三年後、王の使者として、冗従と争い、讒言されて罪に遇い、家財は没収された。皐は長安に逃亡した。赦令に遇い、北闕に上書し、自ら枚乗の子であることを陳べた。上は大いに喜び、召し入れて待詔とし、皐は殿中で賦を詠んだ。詔して平楽館で賦を詠ませると、上はこれを良しとした。郎に任命し、匈奴に派遣した。皐は経術に通じず、詼諧と笑いは俳優に類し、賦頌を作り、軽薄な戯れを好んだので、この故に狎れ親しみ軽んじられながら貴幸を得、東方朔や郭舍人らと同等とされたが、厳助らのように尊官を得ることはできなかった。

原文皐字少孺。乘在梁時,取皐母爲小妻。乘之東歸也,皐母不肯隨乘,乘怒,分皐數千錢,留與母居。年十七,上書梁共王,〈師古曰:「恭王名買,孝王之子也。」〉得召爲郎。三年,爲王使,與冗從爭,〈師古曰:「冗從,散職之從王者也。冗音人勇反。」〉見讒惡遇罪,〈師古曰:「惡謂冗從言其短惡之事。」〉家室沒入。皐亡至長安。會赦,上書北闕,自陳枚乘之子。上得大喜,召入見待詔,皐因賦殿中。詔使賦平樂館,善之。拜爲郎,使匈奴。皐不通經術,詼笑類俳倡,〈李竒曰:「詼,嘲也。」師古曰:「俳,雜戲也。倡,樂人也。詼音恢。俳音排。嘲音竹交反。」〉爲賦頌,好嫚戲,〈師古曰:「嫚,褻汙也,音慢。」〉以故得媟黷貴幸,〈師古曰:「媟,狎也。黷,垢濁也,音瀆。」〉比東方朔、郭舍人等,而不得比嚴助等得尊官。〈師古曰:「尊,高也。」〉

武帝は二十九歳にしてようやく皇子を得たので、群臣は喜び、故に皐は東方朔とともに皇太子生賦および立皇子禖祝を作った。詔を受けて作ったもので、すべて故事に従わず、皇子を重んじたのである。

原文武帝春秋二十九迺得皇子,羣臣喜,故皐與東方朔作皇太子生賦及立皇子禖祝,〈師古曰:「禮月令『祀於高禖』。高禖,求子之神也。武帝晚得太子,喜而立此禖祠,而令皐作祭祀之文也。」〉受詔所爲,皆不從故事,重皇子也。

初め、衛皇后が立った時、皐は賦を奏上して終わりを戒めた。皐は賦を作るのに東方朔より優れていた。

原文初,衞皇后立,皐奏賦以戒終。〈師古曰:「令慎終如始也。」〉皐爲賦善於朔也。

行に従って甘泉・雍・河東に行き、東に巡狩し、泰山を封じ、決河の宣房を塞ぎ、三輔の離宮館を遊観し、山沢に臨み、弋射・狩猟・射御・狗馬・蹴鞠・刻鏤をし、上が何かを感じると、すぐに皐に賦を作らせた。文を作るのが速く、詔を受けるとすぐに完成したので、作った賦は多かった。司馬相如は文を作るのが上手だが遅く、故に作ったものは少ないが皐より優れていた。皐は賦の文中で自ら、賦を作るのは相如に及ばないと言い、また賦を作るのは俳優であると言った。俳優のように見られることを悔い、自ら俳優に類することを悔いた。故にその賦には東方朔を誹謗するものがあり、また自らを誹謗するものもある。その文は屈曲し、事柄に曲げて従い、皆その意を得ており、かなり詼諧を交え、あまり優雅ではない。読むに堪えるものは凡そ百二十篇あり、その特に軽薄で読むに堪えないものはなお数十篇ある。

原文從行至甘泉、雍、河東,東巡狩,封泰山,塞決河宣房,游觀三輔離宮館,臨山澤,弋獵射馭狗馬蹵鞠刻鏤,〈師古曰:「蹴,足蹴之也。鞠以韋爲之,中實以物,蹴蹋爲戲樂也。蹴音千六反。鞠音臣六反。」〉上有所感,輒使賦之。爲文疾,受詔輒成,故所賦者多。司馬相如善爲文而遟,故所作少而善於皐。皐賦辭中自言爲賦不如相如,又言爲賦迺俳。見視如倡,自悔類倡也。故其賦有詆娸東方朔,〈如淳曰:「娸音欺。詆猶刑辟也。」師古曰:「詆,毀也。娸,醜也。詆音丁禮反。」〉又自詆娸。其文骫骳,〈師古曰:「骫,古委字也。骳音被。骫骳,猶言屈曲也。」〉曲隨其事,皆得其意,頗詼笑,不甚閑靡。凡可讀者百二十篇,其尤嫚戲不可讀者尚數十篇。

路溫舒

原文路溫舒

路溫舒は字を長君といい、鉅鹿郡東里の人である。父は里の監門を務めていた。温舒に羊を飼わせたところ、温舒は沢の中の蒲を取ってきて、それを切り刻んで簡札とし、編んで書を写すのに用いた。次第に習熟して上達すると、獄の小吏になることを求め、そこで法律令を学び、獄史に転じ、県中の疑わしい事柄は皆彼に尋ねた。太守が県を巡行した時、彼を見て異才と認め、決曹史に任用した。また春秋を受講し、その大義を通曉した。孝廉に推挙され、山邑の丞となったが、法に坐して免官され、再び郡の吏となった。

原文路溫舒字長君,鉅鹿東里人也。父爲里監門。使溫舒牧羊,溫舒取澤中蒲,截以爲牒,編用寫書。〈師古曰:「小簡曰牒,編聯次之。」〉稍習善,求爲獄小吏,因學律令,轉爲獄史,縣中疑事皆問焉。太守行縣,見而異之,署決曹史。又受春秋,通大義。舉孝廉,爲山邑丞,〈蘇林曰:「縣名,在常山。」晉灼曰:「地理志常山有石邑,無山邑。」師古曰:「山邑不知其處。今流俗書本云常山石邑丞,後人妄加石字耳。」〉坐法免,復爲郡吏。

元鳳年間、廷尉の解光が詔獄を治めるに当たり、温舒を奏曹掾に任用し、廷尉史を守らせた。ちょうど昭帝が崩御し、昌邑王劉賀が廃され、宣帝が即位したばかりの時、温舒は上書して、徳を尚び刑を緩めるべきであると述べた。その文は次のようであった。

原文元鳳中,廷尉光以治詔獄,〈張晏曰:「光,解光。」〉請溫舒署奏曹掾,守廷尉史。會昭帝崩,昌邑王賀廢,宣帝初即位,溫舒上書,言宜尚德緩刑。其辭曰:

臣は聞く、斉に無知の禍があったが、桓公はそれによって興隆した。晋に驪姫の難があったが、文公はそれによって覇者となった。近世では趙王が終わりを全うせず、諸呂が乱を起こしたが、孝文帝が大宗となられた。これによって観れば、禍乱が起こるのは、聖人を開くためのものである。故に桓公・文公は微を扶け壊れたものを興し、文王・武王の業を尊び、恩沢を百姓に加え、功績を諸侯に潤した。三王には及ばないまでも、天下は仁に帰したのである。文帝は深く思いを致し至高の徳をもって、天の心を承け、仁義を崇め、刑罰を省き、関所や橋梁を通じ、遠近を一つにし、賢者を大賓のように敬い、民を赤子のように愛し、内に恕して心の安んずる所を、海内に施された。これによって牢獄は空となり、天下は太平となったのである。変化の後に継ぐ者は、必ず旧に異なる恩恵がある。これが賢聖が天命を明らかにする所以である。かつて、昭帝が世を去って後嗣がなく、大臣たちは憂い悲しみ、心を焦がして謀を合わせ、皆昌邑王が尊く親しいことを理由に、引き立ててこれを立てた。しかし天は命を授けず、その心を淫乱にし、遂に自ら滅びるに至った。禍変の原因を深く察すれば、これはまさに皇天が至聖を開くためにされたことである。故に大将軍(霍光)は武帝より命を受け、漢国の股肱となり、肝胆を披き、大計を決し、義なき者を退け、徳ある者を立て、天に輔けられて行動し、その後、宗廟は安泰となり、天下はことごとく寧ったのである。

原文臣聞齊有無知之禍,而桓公以興;晉有驪姬之難,而文公用伯。〈師古曰:「伯讀曰霸。」〉近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文爲大宗。繇是觀之,〈師古曰:「繇讀與由同。」〉禍亂之作,將以開聖人也。故桓文扶微興壞,尊文武之業,澤加百姓,功潤諸侯,雖不及三王,天下歸仁焉。文帝永思至悳,以承天心,崇仁義,省刑罰,通關梁,一遠近,敬賢如大賔,愛民如赤子,內恕情之所安,而施之於海內,是以囹圄空虛,天下太平。夫繼變化之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者,昭帝即世而無嗣,大臣憂戚,焦心合謀,皆以昌邑尊親,援而立之。〈師古曰:「援,引也,音爰。」〉然天不授命,淫亂其心,遂以自亡。深察禍變之故,迺皇天之所以開至聖也。故大將軍受命武帝,股肱漢國,〈師古曰:「謂霍光。」〉披肝膽,決大計,黜亡義,立有德,輔天而行,然後宗廟以安,天下咸寧。

臣は聞く、春秋は即位を正し、大一統を重んじて始めを慎むのである。陛下が初めて至尊の位に登られ、天と符合されるに当たり、前世の過失を改め、始めて天命を受ける正統を正し、煩わしい条文を洗い流し、民の苦しみを取り除き、滅びたものを存続させ絶えたものを継がせ、天意に応えるべきです。

原文臣聞春秋正即位,大一統而慎始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,存亡繼絕,以應天意。

臣は聞く、秦には十の過失があったが、その一つが今も尚残っている。それは獄を治める吏である。秦の時代は、文学を恥じ、武勇を好み、仁義の士を軽んじ、獄を治める吏を重んじた。正しいことを言う者を誹謗と呼び、過ちを止めようとする者を妖言と呼んだ。故に盛服の先生は世に用いられず、忠良の切なる言葉は皆胸中に鬱積し、へつらい諂う声が日に日に耳に満ち、虚偽の美名が心を惑わし、実際の禍が蔽い塞がれた。これこそ秦が天下を失った原因である。今、天下は陛下の厚い恩恵に頼り、戦乱の危険もなく、飢え寒さの患いもなく、父子夫婦が力を合わせて家を安んじているが、太平がまだ行き渡らないのは、獄が乱れているからである。獄というものは、天下の重大な命脈である。死んだ者は再び生き返らず、絶たれた者は再び連なることはない。書経に「罪のない者を殺すよりは、むしろ常道を失う方がましである」とある。今、獄を治める吏はそうではない。上下互いに駆り立て、厳酷であることを明察とし、深刻な者(厳しく追求する者)は公正な名声を得、公平な者は後患が多い。故に獄を治める吏は皆、人が死ぬことを望む。人を憎むからではなく、自分が安泰である道が人の死にあるからである。これによって、死人の血が市場に流れ、刑罰を受けた者が肩を並べて立ち、大辟(死刑)の数は毎年万を数える。これが仁聖の君が傷む所以である。太平がまだ行き渡らないのは、全てこのためである。人の心情は安らかであれば生きることを楽しみ、痛めつけられれば死を思う。鞭や杖の下で、何を求めて得られないことがあろうか。故に囚人は痛みに耐えかねると、偽りの供述をしてこれを見せる。吏はその様子を利として、道筋を指し示して明らかにする。上奏して退けられるのを恐れると、罪状を鍛え上げて周到に法網に嵌め込む。およそ罪状を定めた奏上が完成すると、咎繇(伝説上の裁判官)がこれを聴いたとしても、なお死んでも罪が余りあると思うであろう。なぜか。練り上げられたものが多く、文書によって作り上げられた罪が明白だからである。これによって獄吏は専ら深刻(厳酷)であることを旨とし、残忍に害して限りがなく、一時の便法を苟且に行い、国の患いを顧みない。これは世の大いなる賊である。故に俗語に「地面に牢獄を描いても、入ろうとは議論しない。木に吏を刻んでも、必ず対決しようとはしない」という。これらは皆、吏を憎む風潮であり、悲痛な言葉である。故に天下の患いで、獄より深いものはなく、法を壊し正しき道を乱し、親を離間し道を塞ぐもので、獄を治める吏より甚だしいものはない。これが、いわゆる一つが尚残っているものである。

原文臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。秦之時,羞文學,好武勇,賤仁義之士,貴治獄之吏;正言者謂之誹謗,遏過者謂之妖言。〈師古曰:「遏,止也,音一曷反。」〉故盛服先生不用於世,忠良切言皆鬱於胷,〈師古曰:「鬱,積也。」〉譽諛之聲日滿於耳;虛美熏心,實禍蔽塞。〈師古曰:「熏,氣烝也,音勳。」〉此乃秦之所以亡天下也。方今天下賴陛下恩厚,亡金革之危,飢寒之患,父子夫妻戮力安家,然太平未洽者,獄亂之也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,𢇍者不可復屬。〈師古曰:「𢇍,古絕字。屬,連也,音之欲反。」〉書曰:「與其殺不辜,寧失不經。」〈師古曰:「虞書大禹謨載咎繇之言。辜,罪也。經,常也。言人命至重,治獄宜慎,寧失不常之過,不濫無罪之人,所以崇寬恕也。」〉今治獄吏則不然,上下相敺,〈師古曰:「敺與驅同。」〉以刻爲明;深者獲公名,平者多後患。故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒比肩而立,大辟之計歲以萬數,此仁聖之所以傷也。太平之未洽,凡以此也。夫人情安則樂生,痛則思死。棰楚之下,何求而不得?故囚人不勝痛,則飾辭以視之;〈師古曰:「視讀曰示。」〉吏治者利其然,則指道以明之;上奏畏卻,則鍛練而周內之。〈晉灼曰:「精熟周悉,致之法中也。」師古曰:「卻,退也,畏爲上所卻退。卻音丘略反。」〉蓋奏當之成,〈師古曰:「當謂處其罪也。」〉雖咎繇聽之,猶以爲死有餘辜。〈師古曰:「咎繇作士,善聽獄訟,故以爲喻也。」〉何則?成練者衆,文致之罪明也。是以獄吏專爲深刻,殘賊而亡極,媮爲一切,〈如淳曰:「媮,苟且也。一切,權時也。」〉不顧國患,此世之大賊也。故俗語曰:「畫地爲獄,議不入;刻木爲吏,期不對。」〈師古曰:「畫獄木吏,尚不入對,況真實乎。期猶必也。議必不入對。」〉此皆疾吏之風,悲痛之辭也。故天下之患,莫深於獄;敗法亂正,離親塞道,莫甚乎治獄之吏。此所謂一尚存者也。

臣は聞く、烏や鳶の卵を毀さなければ、その後、鳳凰が集まる。誹謗の罪を誅さなければ、その後、良言が進む。故に古人に言がある。「山や藪には毒害が潜み、川や沢は汚れを受け入れ、美玉にも瑕が隠れ、国君は恥辱を忍ぶ」と。どうか陛下には誹謗の罪を取り除いて切なる言葉を招き、天下の口を開き、箴言や諫言の道を広め、亡秦の過失を掃い清め、文王・武王の徳を尊び、法制を省み、刑罰を寛大にして、獄を治めることを廃すれば、太平の風は世に興り、永遠に和楽を踏み行い、天と共に極まりなく、天下は幸い甚だしいでしょう。

原文臣聞烏鳶之卵不毀,而後鳳皇集;〈師古曰:「鳶,鴟也,音弋全反。」〉誹謗之罪不誅,而後良言進。故古人有言:「山藪藏疾,川澤納汙,瑾瑜匿惡,國君含詬。」〈師古曰:「春秋左氏傳載晉大夫伯宗之辭。詬,恥也。言山藪之有草木則毒害者居之,川澤之形廣大則能受於汙濁,人君之善御下,亦當忍恥病也。詬音垢。」〉唯陛下除誹謗以招切言,開天下之口,廣箴諫之路,掃亡秦之失,尊文武之悳,省法制,寬刑罰,以廢治獄,則太平之風可興於世,永履和樂,與天亡極,〈師古曰:「與天長乆,無窮極也。」〉天下幸甚。

(宣帝)はその言葉を良しとし、広陽国の私府長に転任させた。

原文上善其言,遷廣陽私府長。〈師古曰:「藏錢之府,天子曰少府,諸侯曰私府。長者,其官之長也。」〉

内史は温舒を文学高第として推挙し、右扶風丞に昇進させた。その時、詔書によって公卿に匈奴へ派遣できる者を選ばせたところ、温舒は上書し、雑役夫として仕え、異国の地で骨をさらすことを願い出て、臣下としての節義を尽くそうとした。この件は度遼将軍の范明友と太僕の杜延年に下され、事情を尋問されたが、取り下げられて元の官職に戻された。長い時を経て、臨淮太守に転任し、治績に際立った事跡があり、任地で死去した。

原文內史舉溫舒文學高第,遷右扶風丞。時,詔書令公卿選可使匈奴者,溫舒上書,願給厮養,暴骨方外,〈師古曰:「求爲卒而隨使至匈奴也。」〉以盡臣節。事下度遼將軍范明友、太僕杜延年問狀,罷歸故官。〈師古曰:「以其言無可取,故罷而遣歸故官。」〉乆之,遷臨淮太守,治有異迹,卒於官。

温舒は祖父から暦数や天文を学び、漢王朝の厄が三七の間に訪れると考え、封事を上奏して予め戒めとした。成帝の時代、谷永も同じことを述べた。そして王莽が帝位を簒奪した時、漢に代わる符瑞を顕彰しようと、彼の言葉を記録したのである。温舒の子と孫は皆、州牧や郡守といった大官にまで至った。

原文溫舒從祖父受歷數天文,以爲漢厄三七之閒,〈張晏曰:「三七二百一十歲也。自漢初至哀帝元年二百一年也,至平帝崩二百十一年。」〉上封事以豫戒。成帝時,谷永亦言如此。〈師古曰:「永上書所謂『涉三七之節絕』者也。」〉及王莽篡位,欲章代漢之符,著其語焉。溫舒子及孫皆至牧守大官。

原文

賛に言う。春秋時代、魯の臧孫達は礼をもって君主を諫め、君子は彼に後継者がいると認めた。賈山は下の立場から上を諫め、鄒陽や枚乗は危険な国に遊説したが、結局は刑罰や殺害を免れたのは、その言論が正しかったからである。路温舒は言葉は穏やかでいて意図は篤実であり、遂に世々続く家柄となった。当然であると言えよう。

原文贊曰:春秋魯臧孫達以禮諫君,君子以爲有後。〈師古曰:「臧孫達,魯大夫臧哀伯也。桓公取郜大鼎於宋,哀伯諫之。周內史聞之,曰:『臧孫達其有後於魯乎!君違,不忘諫之以德。』」〉賈山自下劘上,〈孟康曰:「劘謂剴切之也。」蘇林曰:「劘音摩,厲也。」師古曰:「剴音工來反。」〉鄒陽、枚乘游於危國,然卒免刑戮者,以其言正也。路溫舒辭順而意篤,遂爲世家,宜哉!〈師古曰:「謂子孫爲大官不絕。」〉