漢書

万石衛直周張伝 第十六

万石君

原文萬石君

万石君の石奮は、その父は趙の人である。趙が滅亡すると、温に移った。高祖が東進して項籍を討つ際、河内を通りかかった。その時、石奮は十五歳で、小役人として高祖に仕えていた。高祖が彼と話し、その恭しく慎み深い態度を気に入り、尋ねた。「お前には何かあるか?」と。答えて言った。「母がおりますが、不幸にも目が見えません。家は貧しく、姉がおり、瑟を弾くことができます。」高祖が言った。「お前は私に従うことができるか?」「力を尽くしたいと存じます。」そこで高祖はその姉を美人に召し、石奮を中涓とし、書簡や謁見を取り次ぐことを任せた。彼の家族を長安の戚里に移住させたのは、姉が美人となったためである。

原文萬石君石奮,其父趙人也。趙亡,徙溫。〈師古曰:「溫,河內之縣。」〉高祖東擊項籍,過河內,時奮年十五,爲小吏,侍高祖。高祖與語,愛其恭敬,問曰:「若何有?」〈師古曰:「若,汝也。有何戚屬?」〉對曰:「有母,不幸失明。家貧。有姊,能鼓瑟。」高祖曰:「若能從我乎?」曰:「願盡力。」於是高祖召其姊爲美人,以奮爲中涓,受書謁。〈師古曰:「中涓,官名,主居中而涓潔者也。外有書謁,令奮受之也。涓音蠲。」〉徙其家長安中戚里,〈師古曰:「於上有姻戚者,則皆居之,故名其里爲戚里。」〉以姊爲美人故也。

石奮は功労を積み重ね、孝文帝の時、官は太中大夫に至った。学問はなかったが、恭しく慎み深く、その振る舞いには比べる者がなかった。東陽侯の張相如が太子太傅であったが、免官となった。傅に適任者を選ぶと、皆が石奮を推挙して太子太傅とした。孝景帝が即位すると、石奮を九卿とした。近くにいることを畏れ憚り、石奮を諸侯の相に転任させた。石奮の長子の建、次男の甲、三男の乙、四男の慶は、皆、素直な行いで孝行かつ慎み深く、官は二千石に至った。そこで景帝は言った。「石君と四人の子が皆二千石とは、人臣としての尊寵がまさにその一門に集まっている。」総計して石奮を万石君と号した。

原文奮積功勞,孝文時官至太中大夫。無文學,恭謹,舉無與比。〈張晏曰:「舉朝無比也。」師古曰:「舉,皆也。」〉東陽侯張相如爲太子太傅,免。選可爲傅者,皆推奮太子太傅。及孝景即位,以奮爲九卿。迫近,憚之,〈張晏曰:「以其恭敬履度,故難之。」〉徙奮爲諸侯相。奮長子建,次甲,次乙,次慶,〈師古曰:「史失其名,故云甲乙耳,非其名。」〉皆以馴行孝謹,〈師古曰:「馴,順也,音巡。」〉官至二千石。於是景帝曰:「石君及四子皆二千石,人臣尊寵迺舉集其門。」凡號奮爲萬石君。〈師古曰:「集,合也。凡,最計也。緫合其一門之計,五人爲二千石,故號萬石君。」〉

孝景帝の末年、万石君は上大夫の禄をもって家に帰り老後を過ごし、年節ごとに朝臣として参内した。宮門の闕を通る時は必ず下車して小走りし、天子の路車の馬を見れば必ず軾に手をかけて敬礼した。子孫が小役人で、帰って来て挨拶に来ると、万石君は必ず朝服を着て彼らに会い、名前で呼ばなかった。子孫に過失があっても、直接責め立てず、便座に座り、食案に向かって食事を取らなかった。そうしてから諸子が互いに責め、長老を通じて肉袒して固く謝罪し、改めたならば、ようやく許した。元服した子孫が傍らにいる時は、たとえ私的な場でも必ず冠をかぶり、整然とした様子であった。使用人たちも謹み深い様子で、ただひたすら慎み深かった。皇帝が時折家に食事を賜ると、必ず稽首してうつ伏せて食べ、まるで皇帝の御前で食べるかのようであった。喪に服する時は、非常に悲しみ嘆いた。子孫がその教えに従う様子も、これと同じであった。万石君の家は孝行で慎み深いことで郡国に知られ、斉や魯の儒者たちで質実な行いを重んじる者たちも、皆、自分たちは及ばないと思った。

原文孝景季年,萬石君以上大夫祿歸老于家,以歲時爲朝臣。〈師古曰:「豫朝請。」〉過宮門闕必下車趨,見路馬必軾焉。〈師古曰:「路馬,天子路車之馬。軾謂撫軾,蓋爲敬也。」〉子孫爲小吏,來歸謁,萬石君必朝服見之,不名。子孫有過失,不誚讓,爲便坐,〈師古曰:「便坐於便側之處,非正室也。」〉對案不食。然後諸子相責,因長老肉袒固謝罪,改之,迺許。子孫勝冠者在側,雖燕必冠,申申如也。〈師古曰:「申申,整敕之貌。」〉僮僕訢訢如也,〈晉灼曰:「許慎云古欣字也。」師古曰:「晉說非也。此訢讀與誾誾同,謹敬之貌也,音牛巾反。」〉唯謹。〈師古曰:「唯以謹敬爲先。」〉上時賜食於家,必稽首俯伏而食,如在上前。其執喪,哀戚甚。〈師古曰:「執喪,猶言持喪服也。禮記曰『執親之喪』。」〉子孫遵敎,亦如之。萬石君家以孝謹聞乎郡國,雖齊魯諸儒質行,皆自以爲不及也。〈師古曰:「質,重也。」〉

建元二年、郎中令の王臧が学問によって皇太后の怒りを買い罪を得た。太后は儒者は文飾が多く質実が少ないと考え、今、万石君の家は多くを語らずに自ら行っているとして、長子の建を郎中令に、末子の慶を内史に任じた。

原文建元二年,郎中令王臧以文學獲罪皇太后。〈張晏曰:「竇太后。」〉太后以爲儒者文多質少,今萬石君家不言而躬行,迺以長子建爲郎中令,少子慶爲內史。

建は年老いて白髪頭になっても、万石君はまだ健在であった。五日ごとの休暇に帰省して親に挨拶する時、諸子の住む部屋に入り、こっそりと侍者に尋ね、父の肌着や汗取りの小袖を取り出し、自ら洗濯し、再び侍者に渡し、万石君に知られないようにした。これを常とした。建が皇帝の御前で奏上する時、言うべきことがあれば、人払いをしてから極めて切実に言った。朝廷で会う時は、まるで口の利けない者のようであった。皇帝はこのことで彼を親しく思い礼遇した。

原文建老白首,萬石君尚無恙。〈師古曰:「恙,憂病。」〉每五日洗沐歸謁親,〈文穎曰:「郎官五日一下。」〉入子舍,〈師古曰:「入諸子之舍,自其所居也,若今言諸房矣。」〉竊問侍者,取親中帬厠牏,身自澣洒,〈服虔曰:「親身之衣也。」蘇林曰:「牏音投。賈逵解周官云『牏,行清也』。」孟康曰:「厠,行清;牏,中受糞函者也。東南人謂鑿木空中如曹謂之牏。」晉灼曰:「今世謂反門小袖衫爲侯牏。」師古曰:「親謂父也。中帬,若今言中衣也。厠牏者,近身之小衫,若今汗衫也。蘇音晉說是矣。洒音先禮反。」〉復與侍者,不敢令萬石君知之,以爲常。建奏事於上前,即有可言,屏人乃言極切;〈師古曰:「有可言,謂有事當奏諫。」〉至廷見,如不能言者。〈師古曰:「廷見,謂當朝而見時。」〉上以是親而禮之。

万石君が陵里に移り住んだ。内史の慶が酔って帰り、外門に入っても車から下りなかった。万石君がこれを聞き、食事を取らなかった。慶は恐れ、肉袒して謝罪を請うたが、許されなかった。一族挙げて、兄の建も肉袒すると、万石君は責めて言った。「内史は貴人である。里に入れば、里の長老たちは皆走って隠れる。それなのに内史は車中に座ったまま平然としている。それは当然のことだ!」ようやく慶を許して帰らせた。慶と諸子は里門に入ると、小走りで家に帰った。

原文萬石君徙居陵里。〈師古曰:「茂陵邑中之里。」〉內史慶醉歸,入外門不下車。萬石君聞之,不食。慶恐,肉袒謝請罪,不許。舉宗及兄建肉袒,萬石君讓曰:〈師古曰:「讓,責也。」〉「內史貴人,入閭里,里中長老皆走匿,而內史坐車中自如,固當!」〈師古曰:「此深責之也,言內史貴人,正固當爾。」〉迺謝罷慶。〈師古曰:「告令去。」〉慶及諸子入里門,趨至家。

万石君は元朔五年に死去した。建は泣き悲しみ、杖をついてようやく歩けるほどであった。一年余りして、建も死んだ。諸子孫は皆孝行であったが、中でも建が最も甚だしく、万石君以上であった。

原文萬石君元朔五年卒,建哭泣哀思,杖迺能行。歲餘,建亦死。諸子孫咸孝,然建最甚,甚於萬石君。

石建が郎中令となったとき、上奏した文書が下されてきた。石建はそれを読み、驚き恐れて言った。「『馬』という字は尾と合わせて五画であるべきなのに、今は四画しかない。一画足りないことで、譴責を受けて死罪になるだろう!」彼の謹慎さは、他のことでもすべてこのようであった。

原文建爲郎中令,奏事下,〈師古曰:「建有所奏上而被報下也。下音胡亞反。」〉建讀之,驚恐曰:「書『馬』者與尾而五,〈服虔曰:「作馬字下曲者而五,建時上書誤作四。」師古曰:「馬字下曲者爲尾,并四點爲四足,凡五。」〉今迺四,不足一,獲譴死矣!」其爲謹慎,雖他皆如是。

石慶が太僕であったとき、皇帝が車で外出された。皇帝が車中に何頭の馬がいるかと尋ねると、石慶は鞭で馬を数え終えてから、手を挙げて言った。「六頭でございます。」石慶は兄弟の中で最も大らかであったが、それでもこのような態度であった。斉の国相として出向すると、斉国の人々は彼の家の行いを慕い、刑罰を加えなくても斉国はよく治まり、石相を祀る祠が立てられた。

原文慶爲太僕,御出,〈師古曰:「爲上御車而出。」〉上問車中幾馬,慶以策數馬畢,舉手曰:「六馬。」慶於兄弟最爲簡易矣,然猶如此。出爲齊相,齊國慕其家行,不治而齊國大治,〈師古曰:「不治,言無所治罰。」〉爲立石相祠。

元狩元年、皇帝が太子を立てられ、群臣の中から傅(教育係)にふさわしい者を選んだところ、石慶は沛郡太守から太子太傅に任じられ、七年後に御史大夫に昇進した。元鼎五年、丞相の趙周が酎金の罪で免職となった。詔書が御史に下された。「万石君(石奮)は先帝が尊んだ人物であり、その子孫は至って孝行である。御史大夫の石慶を丞相とし、牧丘侯に封ぜよ。」この時、漢は南方で両越を討伐し、東方で朝鮮を攻撃し、北方で匈奴を追い払い、西方で大宛を征伐しており、国内では多くの事変が起こっていた。天子は国内を巡狩し、古い神祠を修復し、封禅を行い、礼楽を興した。公の費用が不足したため、桑弘羊らが利益をもたらし、王温舒の一派は厳法を執行し、児寛らは文学を推奨し、九卿が次々に進んで政務を執り行い、事柄は石慶に関わらずに決裁され、石慶はただ醇厚で謹直であるだけであった。丞相の地位にあった九年間、彼は政治を正す発言を何一つすることができなかった。かつて皇帝の近臣である所忠と九卿の咸宣を処罰しようと上奏したが、彼らを屈服させることができず、かえってその過失を負わされ、贖罪した。

原文元狩元年,上立太子,選羣臣可傅者,慶自沛守爲太子太傅,七歲遷御史大夫。元鼎五年,丞相趙周坐酎金免,制詔御史:「萬石君先帝尊之,子孫至孝,其以御史大夫慶爲丞相,封牧丘侯。」是時漢方南誅兩越,東擊朝鮮,北逐匈奴,西伐大宛,中國多事。天子巡狩海內,脩古神祠,封禪,興禮樂。公家用少,桑弘羊等致利,王溫舒之屬峻法,兒寬等推文學,九卿更進用事,〈師古曰:「更,互也,音工衡反。」〉事不關決於慶,慶醇謹而已。〈師古曰:「醇,專厚也,音純。」〉在位九歲,無能有所匡言。甞欲請治上近臣所忠、九卿咸宣,〈服虔曰:「咸音減損之減。」師古曰:「治所忠及咸宣二人。」〉不能服,反受其過,贖罪。

元封四年、関東から流民が二百万人、戸籍のない者が四十万人出た。公卿たちは流民を辺境に移住させて懲らしめようと上奏することを議論した。皇帝は石慶が年老いて謹直であり、この議論に参与できないと考え、丞相に帰宅を許すことを告げ、御史大夫以下で移住を上奏した者を調査した。石慶は職務を果たせずに恥じ、上書して言った。「臣は幸いにも丞相の職にありながら、疲れ果てた駑馬のようで政治を補佐することができません。城郭や倉庫は空っぽで、民は多くが流浪しており、罪は斧と鉄床に伏すべきです。陛下は法に照らして処罰されませんでしたが、どうか丞相の侯印をお返しし、骸骨を乞うて帰り、賢者の道を避けさせてください。」

原文元封四年,關東流民二百萬口,無名數者四十萬,〈師古曰:「名數,若今戶籍。」〉公卿議欲請徙流民於邊以適之。〈師古曰:「適讀曰讁。」〉上以爲慶老謹,不能與其議,〈師古曰:「與讀曰豫。」〉乃賜丞相告歸,而案御史大夫以下議爲請者。慶慙不任職,上書曰:「臣幸得待罪丞相,疲駑無以輔治。城郭倉廩空虛,民多流亡,罪當伏斧質,上不忍致法。願歸丞相侯印,乞骸骨歸,避賢者路。」

皇帝は返答して言った。「近ごろ、黄河の水が陸地を覆い、十余郡に氾濫し、堤防の労力も空しく、塞ぎ止めることができなかった。朕はこれを大いに憂えた。それゆえに東方の州を巡狩し、嵩山に礼拝し、八神に通じ、宣房で合祀した。淮水や長江を渡り、山を越え海辺を巡り、百歳の老人に民の苦しみを尋ねた。ただ官吏の多くが私利を図り、徴収をやめない。去る者は安楽であり、留まる者はかき乱される。それゆえに流民の法を定め、重い賦税を禁じた。かつて泰山で封禅を行ったとき、皇天は嘉しみを示し、神々の兆しがともに現れた。朕は瑞祥に応えようとしているが、まだ天の意志を受け継ぐことができていない。それゆえに里や集落を厳しく調査し、官吏の奸邪を知った。有司に委任したが、それでも官職は空位のままで民は愁い、盗賊が公然と横行している。かつて明堂で拝見し、殊死の罪を赦し、禁錮を解き、すべての者が自らを新たにし、更始することを許した。今、流民はますます増えているのに、戸籍の文書は改められず、君は長吏を糾弾せず、四十万の民を動かして移住させ、百姓を動揺させようとしている。孤児や幼い子供で十歳に満たない者が、罪がないのに連座させられている。朕は失望している。今、君が上書して倉庫や城郭が充実せず、民は多くが貧しく、盗賊が多いと言い、粟を納めて庶人になることを請うている。民が貧しいことを知りながら、さらに賦税を増やすことを考え、彼らを危険に陥れようとして辞職する。この難事を誰に帰そうというのか?君は家に帰れ!」

原文上報曰:「閒者,河水滔陸,〈晉灼曰:「滔,漫也。」師古曰:「高平曰陸。漫音莫干反。」〉泛濫十餘郡,隄防勤勞,弗能陻塞,〈師古曰:「陻,填也,音因。」〉朕甚憂之。是故巡方州,〈張晏曰:「四方之州也。」師古曰:「東方諸州。」〉禮嵩嶽,通八神,以合宣房。〈孟康曰:「八神,郊祀志八神也,於宣房宮合祀之。」師古曰:「此說非也。自言致禮中嶽,通敬八神耳。合宣房者,於宣房塞決河也,事見溝洫志。」〉濟淮江,歷山濵海,〈師古曰:「濵海者,循海涯而行也。濵音賔,又音頻。」〉問百年民所疾苦。惟吏多私,徵求無已,〈師古曰:「惟,思也。已,止也。」〉去者便,居者擾,故爲流民法,以禁重賦。〈師古曰:「言百姓去其本土者則免於吏徵求,在舊居者則見煩擾,故朝廷特爲流人設法,又禁吏之重賦也。一曰,去者,謂吏出使而侵擾居人以自便也。」〉乃者封泰山,皇天嘉況,神物並見。〈師古曰:「況,賜也。見,顯示也。」〉朕方荅氣應,未能承意,〈師古曰:「言自修整,以報瑞應,恐未承順上天之意。」〉是以切比閭里,知吏姦邪。〈師古曰:「比,校考也,音頻寐反。」〉委任有司,然則官曠民愁,盜賊公行。〈師古曰:「曠,空也。人不舉職,是空其官。」〉往年覲明堂,赦殊死,無禁錮,咸自新,與更始。今流民愈多,計文不改,〈蘇林曰:「校戶口文書不改減也。」如淳曰:「郡上計文書,自文飾,不改正也。」師古曰:「如說是。」〉君不繩責長吏,而請以興徙四十萬口,搖蕩百姓,〈師古曰:「蕩,動也。」〉孤兒幼年未滿十歲,無罪而坐率,〈服虔曰:「率,坐刑法也。」如淳曰:「率,家長也。」師古曰:「幼年無罪,坐爲父兄所率而并徙,如說近之。」〉朕失望焉。今君上書言倉庫城郭不充實,民多貧,盜賊衆,請入粟爲庶人。〈服虔曰:「慶自以居相位不能理,請入粟贖己罪,退爲庶人。」〉夫懷知民貧而請益賦,〈師古曰:「懹此心。」〉動危之而辭位,〈師古曰:「搖動百姓,使其危急,而自欲去位。」〉欲安歸難乎?〈師古曰:「以此危難之事,欲歸之於何人。」〉君其反室!」〈師古曰:「若此自謂理當然者,可還家。」〉

石慶は生来質朴であり、詔書で家に帰れと言われたのを見て、自分が許されたと思い、印綬を返上しようとした。掾史たちは、これは非常に厳しく責められており、結局家に帰れと言うのは、恥ずべき言葉であると考えた。ある者は石慶に自決すべきだと勧めた。石慶は非常に恐れ、どうすればよいかわからず、結局また出仕して政務を執った。

原文慶素質,見詔報反室,自以爲得許,欲上印綬。掾史以爲見責甚深,而終以反室者,醜惡之辭也。或勸慶宜引決。〈師古曰:「令自殺。」〉慶甚懼,不知所出,遂復起視事。

石慶が丞相であったとき、彼は細かく慎重であり、他に大きな方策はなかった。その後三年余りして亡くなり、諡を恬侯といった。次男の石徳を、石慶は可愛がった。皇帝は石徳に後を継がせたが、後に太常となり、法に触れて免職となり、封国は取り上げられた。石慶がちょうど丞相であったとき、子孫で小吏から二千石に至る者が十三人いた。石慶が死んだ後、次第に罪で去る者が現れ、孝行と謹直さは衰えた。

原文慶爲丞相,文深審謹,無他大略。後三歲餘薨,謚曰恬侯。中子德,慶愛之。上以德嗣,後爲太常,坐法免,國除。慶方爲丞相時,諸子孫爲小吏至二千石者十三人。及慶死後,稍以罪去,孝謹衰矣。

衛綰

原文衞綰

衛綰は、代の大陵の人で、戯車の技によって郎となり、文帝に仕えた。功績の順序によって中郎将に昇進し、純朴で謹厳で他の意図はなかった。孝景帝が太子であった時、皇帝の側近を招いて酒宴を催したが、綰は病気と称して行かなかった。文帝が崩御しようとする時、孝景帝に言い含めて、「綰は長者であるから、よく遇せよ」と言った。景帝が即位すると、一年余り、綰を問いただすこともなく、綰は日ごとに謹厳に努めた。

原文衞綰,代大陵人也,以戲車爲郎,事文帝,〈服虔曰:「力士能扶戲車也。」應劭曰:「能左右超乘。」師古曰:「二說皆非也。戲車,若今之弄車之技。」〉功次遷中郎將,醇謹無它。〈師古曰:「無它餘志念也。」〉孝景爲太子時,召上左右飲,而綰稱病不行。〈張晏曰:「恐文帝謂豫有二心事太子。」〉文帝且崩時,屬孝景曰:「綰長者,善遇之。」及景帝立,歲餘,不孰何綰,〈服虔曰:「不問也。」李竒曰:「孰,誰也。何,呵也。」師古曰:「何即問也。不誰何者,猶言不借問耳。」〉綰日以謹力。〈師古曰:「自勉力爲謹慎,日日益甚。」〉

景帝が上林苑に行幸した時、詔して中郎将に副車に乗ることを命じ、帰還して尋ねて言った、「あなたはどうして副車に乗ることができたか分かるか」。綰は言った、「臣は代の戯車の士で、幸いにも功績の順序によって昇進し、中郎将の職を汚すことなく務めておりますが、分かりません」。帝が尋ねて言った、「私が太子の時にあなたを招いたが、あなたは来ようとしなかった。なぜか」。答えて言った、「死罪です、病気でした」。帝は彼に剣を賜ろうとしたが、綰は言った、「先帝が臣に賜った剣は合わせて六振りあります。詔を奉じることはできません」。帝は言った、「剣は人が好んで交換するものだが、ただ今まで持っているのか」。綰は言った、「全てあります」。帝は六振りの剣を取らせると、剣は常に鞘に納められており、一度も帯びたことがなかった。

原文景帝幸上林,詔中郎將參乘,還而問曰:「君知所以得驂乘乎?」〈師古曰:「言何以得參乘?」〉綰曰:「臣代戲車士,幸得功次遷,待罪中郎將,不知也。」上問曰:「吾爲太子時召君,君不肯來,何也?」〈師古曰:「言以此特識之。」〉對曰:「死罪,病。」上賜之劔,綰曰:「先帝賜臣劔凡六,不敢奉詔。」上曰:「劔,人之所施易,獨至今乎?」〈如淳曰:「施讀曰移。言劔者人所好,故多數移易貿換之也。」師古曰:「施讀曰貤。貤,延也,音弋豉反。」〉綰曰:「具在。」上使取六劔,劔常盛,未甞服也。〈師古曰:「盛謂在削室之中也。盛音成。削音先召反。」〉

郎官に譴責があると、常にその罪をかぶり、他の将軍と争わなかった。功績があると、常に他の将軍に譲った。帝は彼を廉潔で、忠実で他の悪心がないと考え、そこで綰を河間王の太傅に任命した。呉楚が反乱した時、詔して綰を将軍とし、河間の兵を率いて呉楚を撃ち、功績があり、中尉に任命された。三年後、軍功によって綰を建陵侯に封じた。

原文郎官有譴,常蒙其罪,〈師古曰:「蒙謂覆蔽之。」〉不與它將爭;有功,常讓它將。上以爲廉,忠實無它腸,〈師古曰:「心腸之內無他惡。」〉乃拜綰爲河閒王太傅。吳楚反,詔綰爲將,將河閒兵擊吳楚有功,拜爲中尉。三歲,以軍功封綰爲建陵侯。

翌年、帝は太子を廃し、栗卿の一族を誅殺した。帝は綰を長者と考え、忍びず、そこで綰に告帰を賜い、郅都に栗氏を逮捕させて処断させた。その後、帝は膠東王を立てて太子とし、綰を召して太子太傅に任命し、御史大夫に昇進させた。五年後、桃侯の劉舍に代わって丞相となり、朝廷で上奏する事柄は職務に従って上奏した。しかし、初めて官に就いてから丞相になるまで、終始取り立てて言うべきことはなかった。帝は彼が篤実で厚く、少主を補佐できると考え、尊び寵愛し、賞賜は非常に多かった。

原文明年,上廢太子,誅栗卿之屬。〈師古曰:「太子廢爲臨江王,故誅其外家親屬。」〉上以綰爲長者,不忍,乃賜綰告歸,而使郅都治捕栗氏。旣已,上立膠東王爲太子,召綰拜爲太子太傅,遷爲御史大夫。五歲,代桃侯舍爲丞相,〈師古曰:「劉舍。」〉朝奏事如職所奏。〈師古曰:「言守職分而已。」〉然自初宦以至相,終無可言。〈師古曰:「不能有所興建及廢罷。」〉上以爲敦厚可相少主,尊寵之,賞賜甚多。

丞相となって三年、景帝が崩御し、武帝が即位した。建元年中、丞相は景帝が病気の時、諸官の囚人が多く無実の罪に坐した者を、君が職務を果たさなかったとして、免職にした。後に薨去し、諡して哀侯といった。子の信が後を嗣いだが、酎金の罪に坐し、封国は除かれた。

原文爲丞相三歲,景帝崩,武帝立。建元中,丞相以景帝病時諸官囚多坐不辜者,而君不任職,〈師古曰:「天子不親政,則丞相當理之,而綰不申其冤。」〉免之。後薨,謚曰哀侯。子信嗣,坐酎金,國除。

直不疑

原文直不疑

直不疑は、南陽の人である。郎となり、文帝に仕えた。同じ宿舎の者が告帰する時、誤って同じ宿舎の郎の金を持って行った。後に同じ宿舎の郎が気づき、不疑を疑ったが、不疑は謝罪して自分が取ったと言い、金を買って償った。後に告帰した者が戻って来て金を返したので、金を失った郎は大いに恥じ、これによって長者と称された。次第に昇進して中大夫となった。朝廷で、廷見の時、ある人が不疑を誹謗して言った、「不疑は容貌が非常に美しいが、ただどうしようもないのは、兄嫁と密通するのが上手いことだ」。不疑は聞いて言った、「私は兄がいないのだ」。しかし終始自分から弁明しなかった。

原文直不疑,南陽人也。爲郎,事文帝。其同舍有告歸,誤持其同舍郎金去。已而同舍郎覺,亡意不疑,〈師古曰:「疑其盜取。」〉不疑謝有之,〈師古曰:「告云實取。」〉買金償。後告歸者至而歸金,亡金郎大慙,以此稱爲長者。稍遷至中大夫。朝,廷見,人或毀不疑〈師古曰:「當於闕廷大朝見之時,而人毀之。」〉曰:「不疑狀貌甚美,然特毋柰其善盜嫂何也!」〈師古曰:「盜謂私之。」〉不疑聞,曰:「我乃無兄。」然終不自明也。

呉楚が反乱した時、不疑は二千石として将軍となり、これを撃った。景帝の後元年、御史大夫に任命された。天子は呉楚の時の功績を評価し、不疑を塞侯に封じた。武帝が即位すると、丞相の衛綰とともに過失によって免職された。

原文吳楚反時,不疑以二千石將擊之。景帝後元年,拜爲御史大夫。天子脩吳楚時功,封不疑爲塞侯。〈師古曰:「塞音先代反。」〉武帝即位,與丞相綰俱以過免。

不疑は老子の学を学んだ。彼が臨んだ所では、官職は以前のままで、ただ人が自分が官吏であることを知るのを恐れた。名声を立てることを好まず、長者と称された。薨去し、諡して信侯といった。子から孫の彭祖に伝わったが、酎金の罪に坐し、封国は除かれた。

原文不疑學老子言。其所臨,爲官如故,唯恐人之知其爲吏迹也。不好立名,稱爲長者。薨,謚曰信侯。傳子至孫彭祖,坐酎金,國除。

周仁

原文周仁

周仁は、その先祖は任城の人である。医術をもって天子に謁見した。景帝が太子であった時、舎人となり、功績を積んで太中大夫に昇進した。景帝が即位すると、周仁を郎中令に任命した。

原文周仁,其先任城人也。以毉見。〈師古曰:「見於天子。」〉景帝爲太子時,爲舍人,積功遷至太中大夫。景帝初立,拜仁爲郎中令。

周仁は人となり、内に重厚で口が堅かった。常にぼろぼろの継ぎはぎの服と尿のついた袴を着て、わざと清潔でないようにし、これによって寵愛を受け、皇帝の寝室に入ることができた。後宮で秘密の戯れがあっても、周仁は常に傍らにいたが、終始何も言わなかった。皇帝が時折他人のことを尋ねると、周仁は「陛下ご自身でお調べください」と言った。しかし、また特に人を誹謗することもなく、このような態度であった。景帝は二度、自ら彼の家に行幸した。彼の家は陽陵に移された。皇帝から賜わるものは非常に多かったが、彼は終始常に辞退し、敢えて受け取らなかった。諸侯や群臣からの贈り物も、終始受け取らなかった。武帝が即位すると、先帝の臣として彼を重んじた。周仁は病気を理由に免職を願い出て、二千石の禄で老後を過ごし、子孫は皆高い官位に至った。

原文仁爲人陰重不泄。〈服虔曰:「質重不泄人之陰謀也。」張晏曰:「陰重不泄,下溼,故溺袴,是以得比宦者,得入後宮也。仁有子孫,先未得此疾時所生也。」師古曰:「張、服二說皆非也。陰,密也。爲性密重不泄人言也。霍去病少言不泄,亦其類也。」〉常衣弊補衣溺袴,期爲不絜清,〈師古曰:「故爲不絜清之事而弊敗其衣服也。溺讀曰尿。尿袴者,爲小袴。以藉其尿。」〉以是得幸,入卧內。於後宮祕戲,仁常在旁,終無所言。〈師古曰:「是不泄也。」〉上時問人,〈師古曰:「問以他人之善惡。」〉仁曰:「上自察之。」然亦無所毀,如此。〈師古曰:「雖知其惡,不欲言毀之,故云上自察之。」〉景帝再自幸其家。家徙陽陵。上所賜甚多,然終常讓,不敢受也。諸侯羣臣賂遺,終無所受。武帝立,爲先帝臣重之。〈師古曰:「重謂敬難之。」〉仁乃病免,以二千石祿歸老,子孫咸至大官。

張欧

原文張歐

張欧は字を叔といい、高祖の功臣である安丘侯・張説の末子である。孝文帝の時に刑名の学をもって太子に仕え、しかしその人柄は長者であった。景帝の時には尊重され、常に九卿の官にあった。武帝の元朔年間に至り、韓安国に代わって御史大夫となった。役人として、一度も人を罪に問うようなことはせず、専ら誠実な長者として官職にあった。配下の官吏たちも彼を長者と認め、また敢えて大いに欺くこともなかった。上奏する裁判事件で、差し戻し可能なものは差し戻し、できないものは、やむを得ず、涙を流して、顔を背けて文書を封じた。人を愛すること、このようなものであった。

原文張歐字叔,〈孟康曰:「歐音驅。」〉高祖功臣安丘侯說少子也。〈師古曰:「說讀曰悅。」〉𢿛孝文時以治刑名侍太子,〈師古曰:「劉向別錄云申子學號曰刑名。刑名者,循名以責實,其尊君卑臣,崇上抑下,合於六經。說者云,刑,刑家,名,名家也,即太史公所論六家之二也。此說非。」〉然其人長者。景帝時尊重,常爲九卿。至武帝元朔中,代韓安國爲御史大夫。𢿛爲吏,未甞言桉人,剸以誠長者處官。〈師古曰:「剸與專同,又音之兖反。」〉官屬以爲長者,亦不敢大欺。上具獄事,有可卻,卻之;〈師古曰:「退令更平番之。」〉不可者,不得已,爲涕泣,面而封之。〈如淳曰:「不正視,若不見者也。」晉灼曰:「面對囚讀而封之,使其聞見,死而無恨也。」師古曰:「二說皆非也。面謂偝之也,言不忍視之,與呂馬童面之同義。」〉其愛人如此。

年老いて篤実となり、免職を願い出ると、天子もまた上大夫の禄を与えて寵遇し、家に帰って老後を過ごさせた。家は陽陵にあった。子孫は皆高い官位に至った。

原文老篤,請免,天子亦寵以上大夫祿,歸老于家。家陽陵。子孫咸至大官。

原文

賛に言う。仲尼(孔子)に「君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す」という言葉があるが、それはまさに万石君(石奮)、建陵侯(衛綰)、塞侯(直不疑)、張叔(張欧)のことを言うのであろうか。それゆえ、彼らの教化は厳しくしなくても成り立ち、威圧しなくても治まったのである。しかし、石建の衣を洗うことや、周仁が汚れた身なりをすることについては、君子はそれを批判する。

原文贊曰:仲尼有言「君子欲訥於言而敏於行」,〈師古曰:「論語載孔子之言也。訥,遟也。敏,疾也。」〉其萬石君、建陵侯、塞侯、張叔之謂與?〈師古曰:「與讀曰歟。」〉是以其敎不肅而成,不嚴而治。至石建之澣衣,周仁爲垢汙,君子譏之。