漢書

樊酈滕灌傅靳周伝 第十一

樊噲はんかい

原文樊噲

樊噲は、はいの人で、犬を屠殺することを生業としていた。後に高祖とともに芒山・碭山の山沢の間に身を潜めた。

原文樊噲,沛人也,以屠狗為事。後與高祖俱隱於芒碭山澤間。

陳勝が最初に挙兵した時、蕭何・曹参が樊噲に高祖を迎えに行かせ、高祖を沛公に立てた。樊噲は舎人しゃじんとして従い、胡陵・方与を攻撃し、引き返して豊を守り、泗水監を豊の城下で攻撃してこれを破った。さらに東進して沛を平定し、泗水郡守を薛の西で破った。司馬镛と碭の東で戦い、敵を退却させ、十五の首級を斬り、爵位を国大夫に賜った。常に従い、沛公に従って章邯の軍を濮陽で攻撃し、城攻めで真っ先に登城し、二十三の首級を斬り、爵位を列大夫に賜った。陽城を攻撃し、先に登城した。戸牖を陥落させ、李由の軍を破り、十六の首級を斬り、上聞の爵位を賜った。後に成武で圉都尉・東郡守尉を攻撃し、敵を退却させ、十四の首級を斬り、捕虜十六人を得て、爵位を五大夫に賜った。秦軍を攻撃し、亳の南に出た。河間郡守の軍を杠里で破った。趙賁の軍を開封の北で撃破し、敵を退却させるのに先に登城し、候一人を斬り、六十八の首級を挙げ、捕虜二十六人を得て、爵位を卿に賜った。従って曲遇で揚熊を攻撃して破った。宛陵を攻撃し、先に登城し、八つの首級を斬り、捕虜四十四人を得て、爵位を封号賢成君に賜った。従って長社・轘轅を攻撃し、黄河の渡し場を遮断し、東進して秦軍を尸郷で攻撃し、南進して秦軍を犨で攻撃した。南陽郡守の齮を陽城で破った。東進して宛城を攻撃し、先に登城した。西進して酈に至り、敵を退却させ、十四の首級を斬り、捕虜四十四人を得て、重ねて封を賜った。武関を攻撃し、霸上に至り、都尉一人を斬り、十の首級を挙げ、捕虜百四十六人を得、降伏した兵卒二千九百人を得た。

原文陳勝初起,蕭何、曹參使噲求迎高祖,立為沛公。噲以舍人從攻胡陵、方與,還守豐,擊泗水監豐下,破之。復東定沛,破泗水守薛西。與司馬镛戰碭東,卻敵,斬首十五級,賜爵國大夫。常從,沛公擊章邯軍濮陽,攻城先登,斬首二十三級,賜爵列大夫。從攻陽城,先登。下戶牖,破李由軍,斬首十六級,賜上聞爵。後攻圉都尉、東郡守尉於成武,卻敵,斬首十四級,捕虜十六人,賜爵五大夫。從攻秦軍,出亳南。河間守軍於杠里,破之。擊破趙賁軍開封北,以卻敵先登,斬候一人,首六十八級,捕虜二十六人,賜爵卿。從攻破揚熊於曲遇。攻宛陵,先登,斬首八級,捕虜四十四人,賜爵封號賢成君。從攻長社、轘轅,絕河津,東攻秦軍尸鄉,南攻秦軍於犨。破南陽守齮於陽城。東攻宛城,先登。西至酈,以卻敵,斬首十四級,捕虜四十四人,賜重封。攻武關,至霸上,斬都尉一人,首十級,捕虜百四十六人,降卒二千九百人。

項羽が戯の下にいて、沛公を攻撃しようとした。沛公は百余騎の騎兵を従えて項伯を通じて項羽と面会し、関を閉ざしたことはないと謝罪した。項羽が軍士に酒食を振る舞い、酒が進んだ時、亜父(范増)が沛公を殺そうと謀り、項荘に命じて座中で剣舞を舞わせ、沛公を撃たせようとしたが、項伯が常に身をかばってこれを遮った。この時、沛公と張良だけが座中に入ることができ、樊噲は営の外にいたが、事態が急を要すると聞き、盾を持って入った。初めて営に入るとき、営の衛兵が樊噲を止めたが、樊噲はまっすぐに突入し、帳の下に立った。項羽が彼を見て、誰かと尋ねた。張良が「沛公の参乗さんじょうの樊噲です」と言った。項羽が「壮士だ」と言い、彼に卮酒と豚の肩肉を賜った。樊噲は酒を飲み、剣を抜いて肉を切り食べた。項羽が「もう一度飲めるか」と言うと、樊噲は「臣は死をも辞さないのに、どうして一杯の酒だけを問題にしましょうか。しかも沛公は先に咸陽を平定し、軍を霸上に曝して、大王をお待ちしていました。大王が今日ここに至り、小人の言葉を聞き入れ、沛公と不和になられるのは、天下の人心が大王を疑って離れることを臣は恐れます」と言った。項羽は黙り込んだ。沛公が厠に行き、樊噲に手招きして去らせた。出た後、沛公は車騎を残し、ただ一人馬に乗り、樊噲ら四人が徒歩で従い、山の下から走って霸上の軍に帰り、張良に項羽に謝罪させた。項羽もそれでやめ、沛公を誅殺する心はなくなった。この日、樊噲が奔走して営に入り項羽を譴責しなければ、沛公は危うかったであろう。

原文項羽在戲下,欲攻沛公。沛公從百餘騎因項伯面見項羽,謝無有閉關事。項羽既饗軍土,中酒,亞父謀欲殺沛公,令項莊拔劍舞坐中,欲擊沛公,項伯常屏蔽之。時獨沛公與張良得入坐,樊噲居營外,聞事急,乃持盾入。初入營,營衛止噲,噲直撞入,立帳下。項羽目之,問為誰。張良曰:「沛公參乘樊噲也。」項羽曰:「壯士。」賜之卮酒彘肩。噲既飲酒,拔劍切肉食之。項羽曰:「能復飲乎?」噲曰:「臣死且不辭,豈特卮酒乎!且沛公先入定咸陽,暴師霸上,以待大王。大王今日至,聽小人之言,與沛公有隙,臣恐天下解心疑大王也。」項羽默然。沛公如廁,麾噲去。既出,沛公留車騎,獨騎馬,噲等四人步從,從山下走歸霸上軍,而使張良謝項羽。羽亦因遂已,無誅沛公之心。是日微樊噲奔入營譙讓項羽,沛公幾殆。

数日後、項羽が入って咸陽を屠り、沛公を漢王に立てた。漢王は樊噲に爵位を列侯に賜い、号を臨武侯とした。郎中に昇進し、従って漢中に入った。

原文後數日,項羽入屠咸陽,立沛公為漢王。漢王賜噲爵為列侯,號臨武侯。遷為郎中,從入漢中。

引き返して三秦さんしんを平定し、別に西丞を白水の北で攻撃し、軽車騎を率いて雍の南でこれを破った。従って雍・焘城を攻撃し、先に登城した。章平の軍を好畤で攻撃し、城を攻め、先に登城して陣に突入し、県令・県丞をそれぞれ一人ずつ斬り、十一の首級を挙げ、捕虜二十人を得て、郎中騎将に昇進した。従って秦の車騎を壤の東で攻撃し、敵を退却させ、将軍に昇進した。趙賁を攻撃し、郿・槐里・柳中・咸陽を陥落させた。廃丘を水攻めにし、功績が最も多かった。櫟陽に至り、食邑として杜の樊郷を賜った。従って項籍を攻撃し、煮棗を屠り、外黄で王武・程処の軍を撃破した。鄒・魯・瑕丘・薛を攻撃した。項羽が漢王を彭城で破り、魯・梁の地をすべて取り戻した。樊噲は滎陽けいように戻り、平陰へいいん二千戸を加増され、将軍として広武を一年間守った。項羽が東に引き上げると、高祖に従って項籍を攻撃し、陽夏を陥落させ、楚の周将軍の兵卒四千人を捕虜とした。項籍を陳で包囲し、これを大破した。胡陵を屠った。

原文還定三秦,別擊西丞白水北,擁輕車騎雍南,破之。從攻雍、焘城,先登。擊章平軍好畤,攻城,先登陷陣,斬縣令丞各一人,首十一級,虜二十人,遷為郎中騎將。從擊秦車騎壤東,卻敵,遷為將軍。攻趙賁,下郿、槐里、柳中、咸陽;灌廢丘,最。至櫟陽,賜食邑杜之樊鄉。從攻項籍,屠煮棗,擊破王武、程處軍於外黃。攻鄒、魯、瑕丘、薛。項羽敗漢王於彭城,盡復取魯、梁地。噲還至滎陽,益食平陰二千戶,以將軍守廣武一歲。項羽引東,從高祖擊項籍,下陽夏,虜楚周將軍卒四千人。圍項籍陳,大破之。屠胡陵。

項籍が死ぬと、漢王が皇帝の位に即き、樊噲に功績があったので、食邑八百戸を加増した。その秋、燕王の臧荼が反乱し、樊噲は従って攻撃し臧荼を捕虜とし、燕の地を平定した。楚王の韓信かんしんが反乱すると、樊噲は従って陳まで行き、韓信を捕らえ、楚を平定した。さらに爵位を列侯に賜い、符を割って与えられ、世々絶えることなく、舞陽を食邑とし、号を舞陽侯とし、以前に食んでいた所は取り除かれた。将軍として従って反乱した韓王信を代で攻撃した。霍人から雲中まで、絳侯らとともにこれを平定し、千五百戸を加増された。そこで陳狶と曼丘臣の軍を攻撃し、襄国じょうこくで戦い、柏人を破り、先に登城し、これを降伏させて清河・常山合わせて二十七県を平定し、東垣を破壊し、左丞相に昇進した。無終・広昌で綦母印・尹潘の軍を破って捕らえた。代の南で陳豨ちんきの別将の胡人王黄の軍を破り、そこで韓信の軍を参合で攻撃した。軍の率いる兵卒が韓信を斬り、陳豨の胡騎を横谷で攻撃し、将軍の趙既を斬り、代の丞相の馮梁・守の孫奮・大将の王黄・将軍大将一人・太僕の解福ら十人を捕虜とした。諸将とともに代の郷邑七十三を平定した。後に燕王の盧綰が反乱すると、樊噲は相国として盧綰を攻撃し、その丞相を薊の南で破り、燕の県十八、郷邑五十一を平定した。千三百戸を加増され、舞陽五千四百戸を食邑と定められた。従軍して、百七十六の首級を斬り、二百八十七人を捕虜とした。別働隊として、七つの軍を破り、五つの城を陥落させ、六つの郡を平定し、五十二の県を平定し、丞相一人、将軍十三人、二千石以下三百石まで十二人を得た。

原文項籍死,漢王即皇帝位,以噲有功,益食邑八百戶。其秋,燕王臧荼反,噲從攻虜荼,定燕地。楚王韓信反,噲從至陳,取信,定楚。更賜爵列侯,與剖符,世世勿絕,食舞陽,號為舞陽侯,除前所食。以將軍從攻反者韓王信於代。自霍人以往至雲中,與絳侯等共定之,益食千五百戶。因擊陳狶與曼丘臣軍,戰襄國,破柏人,先登,降之定清河、常山凡二十七縣,殘東垣,遷為左丞相。破得綦母印、尹潘軍於無終、廣昌。破豨別將胡人王黃軍代南,因擊韓信軍參合。軍所將卒斬韓信,擊豨胡騎橫谷,斬將軍趙既,虜代丞相馮梁、守孫奮、大將王黃、將軍大將一人、太僕解福等十人。與諸將共定代鄉邑七十三。後燕王盧綰反,噲以相國擊綰,破其丞相抵薊南,定燕縣十八,鄉邑五十一。益食千三百戶,定食舞陽五千四百戶。從,斬首百七十六級,虜二百八十七人。別,破軍七,下城五,定郡六,縣五十二,得丞相一人,將軍十三人,二千石以下至三百石十二人。

樊噲は呂后の妹の呂須を妻とし、子の伉を生んだので、諸将の中で最も親しかった。以前、黥布が反乱した時、高帝が病気にかかり、人に会うのを嫌がり、禁中に臥せり、門番に命じて群臣を入れさせなかった。群臣の絳侯・灌嬰かんえいらは誰も入ることができなかった。十余日後、樊噲が扉を押し開けてまっすぐに入り、大臣たちがそれに従った。上はただ一人の宦官を枕にして臥せっていた。樊噲らは上を見て涙を流して言った。「かつて陛下は臣らと豊・沛で挙兵し、天下を平定されました。なんと壮烈であったことでしょう。今、天下はすでに平定されたのに、なんと疲れ果てておられることでしょう。しかも陛下は重病であり、大臣たちは震え恐れています。臣らに会って事を計られず、ただ一人の宦官とだけお別れになられるのですか。しかも陛下は趙高のことをご覧にならないのですか。」高帝は笑って起き上がった。

原文噲以呂后弟呂須為婦,生子伉,故其比諸將最親。先黥布反時,高帝嘗病,惡見人,臥禁中,詔戶者無得入群臣。群臣絳、灌等莫敢入。十餘日,噲乃排闥直入,大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上流涕曰:「始陛下與臣等起豐沛,定天下,何其壯也!今天下已定,又何憊也!且陛下病甚,大臣震恐,不見臣等計事,顧獨與一宦者絕乎?且陛下獨不見趙高之事乎?」高帝笑而起。

その後、盧綰が反乱を起こすと、高帝は樊噲を相国として派遣し、燕を攻撃させた。この時、高帝の病状は非常に重く、ある者が樊噲が呂氏と結託していると讒言した。すなわち、もしも天子(高帝)が一日でも早く崩御されれば、樊噲は兵を用いて戚氏や趙王如意の一族を皆殺しにしようとしているというのである。高帝は大いに怒り、陳平に命じて絳侯を車に乗せて樊噲の代わりに将軍とし、その軍中でただちに樊噲を斬らせようとした。陳平は呂后を恐れ、樊噲を捕らえて長安に連行した。到着した時には、すでに高帝は崩御しており、呂后は樊噲を釈放し、爵位と封邑を回復させることができた。

原文其後盧綰反,高帝使噲以相國擊燕。是時高帝病甚,人有惡噲黨於呂氏,即上一日宮車晏駕,則噲欲以兵盡誅戚氏、趙王如意之屬。高帝大怒,乃使陳平載絳侯代將,而即軍中斬噲。陳平畏呂后,執噲詣長安。至則高帝已崩,呂后釋噲,得復爵邑。

孝惠帝の六年、樊噲が薨去し、おくりなを武侯とされた。子の伉が後を嗣いだ。伉の母である呂須もまた臨光侯に封ぜられ、樊噲の妻として高后の時代に権勢をほしいままにし、大臣たちは皆彼女を恐れた。高后が崩御すると、大臣たちは呂須らを誅殺し、それに乗じて伉も誅殺した。舞陽侯の家系は数ヶ月の間、途絶えた。孝文帝が即位すると、樊噲の庶子である市人を侯に封じて再興し、以前の封邑を回復させた。市人が薨去し、諡を荒侯とされた。子の佗広が後を嗣いだ。六年後、佗広の舎人が上書して言うには、「荒侯の市人は病のため子を作ることができず、その夫人に命じて弟と密通させて佗広を生ませました。佗広は実は荒侯の子ではありません」と。この件は役人に下され、佗広は侯位を免ぜられた。平帝の元始二年、絶えた家系を継ぐ者を封じ、樊噲の玄孫の子である章を舞陽侯に封じ、邑千戸を与えた。

原文孝惠六年,噲薨,諡曰武侯,子伉嗣。而伉母呂須亦為臨光侯,噲高后時用事顓權,大臣盡畏之。高后崩,大臣誅呂須等,因誅伉,舞陽侯中絕數月。孝文帝立,乃復封噲庶子市人為侯,復故邑。薨,諡曰荒侯。子佗廣嗣。六歲,其舍人上書言:「荒侯巿人病不能為人,令其夫人與其弟亂而生佗廣,佗廣實非荒侯子。」下吏,免。平帝元始二年,繼絕世,封噲玄孫之子章為舞陽侯,邑千戶。

酈商

原文酈商

酈商は、高陽の人である。陳勝が蜂起すると、商は若者を集めて数千人を得た。沛公が土地を攻略すること六月余り、商は率いていた四千人の兵を率いて岐で沛公に従属した。長社を攻撃するのに従い、真っ先に登城し、爵位を賜って信成君に封ぜられた。緱氏を攻撃するのに従い、黄河の渡し場を遮断し、秦軍を雒陽の東で撃破した。宛と穰を陥落させるのに従い、十七県を平定した。別働隊を率いて旬関を攻撃し、西進して漢中を平定した。

原文酈商,高陽人也。陳勝起,商聚少年得數千人。沛公略地六月餘,商以所將四千人屬沛公於岐。從攻長社,先登,賜爵封信成君。從攻緱氏,絕河津,破秦軍雒陽東。從下宛、穰,定十七縣。別將攻旬關,西定漢中。

沛公が漢王となると、商に爵位を賜って信成君とし、将軍として隴西の都尉とした。別働隊を率いて北地郡を平定し、章邯の別将を烏氏、栒邑、泥陽で撃破し、武城に食邑六千戸を賜った。項籍の軍を攻撃するのに従い、鍾離眛と戦い、梁の相国の印を受け、さらに食邑四千戸を加増された。項羽を攻撃すること二年に従い、胡陵を攻めた。

原文沛公為漢王,賜商爵信成君,以將軍為隴西都尉。別定北地郡,破章邯別將於烏氏、栒邑、泥陽,賜食邑武城六千戶。從擊項籍軍,與鍾離眛戰,受梁相國印,益食四千戶。從擊項羽二歲,攻胡陵。

漢王が帝位に即くと、燕王の臧荼が反乱を起こした。商は将軍として従い荼を攻撃し、龍脱で戦い、真っ先に敵陣に突入し、荼の軍を易の城下で撃破し、敵を退却させた。右丞相に昇進し、爵位を列侯として賜り、符節を分割して授けられ、世々絶えることなく、涿郡に食邑五千戸を与えられた。別働隊を率いて上谷を平定し、ついで代を攻撃し、趙の相国の印を受けた。絳侯らとともに代郡、鴈門を平定し、代の丞相である程縦、守相の郭同、将軍以下六百石に至る十九人を捕らえた。帰還後、将軍として太上皇の護衛を一年間務めた。十月、右丞相として陳豨を攻撃し、東垣を破壊した。また黥布を攻撃するのに従い、その前衛陣地を攻め、二つの陣を陥落させ、布の軍を撃破することができた。さらに曲周侯に改封され、食邑五千一百戸を与えられ、以前の食邑は取り除かれた。合わせて別働隊として三つの軍を撃破し、六つの郡を降伏平定し、七十三の県を平定し、丞相、守相、大将軍をそれぞれ一人ずつ、小将軍二人、二千石以下六百石まで十九人を捕らえた。

原文漢王即帝位,燕王臧荼反,商以將軍從擊荼,戰龍脫,先登陷陣,破荼軍易下,卻敵,遷為右丞相,賜爵列侯,與剖符,世世勿絕,食邑涿郡五千戶。別定上谷,因攻代,受趙相國印。與絳侯等定代郡、鴈門,得代丞相程縱、守相郭同、將軍以下至六百石十九人。還,以將軍將太上皇衛一歲。十月,以右丞相擊陳豨,殘東垣。又從擊黥布,攻其前垣,陷兩陳,得以破布軍,更封為曲周侯,食邑五千一百戶,除前所食。凡別破軍三,降定郡六,縣七十三,得丞相、守相、大將軍各一人,小將軍二人,二千石以下至六百石十九人。

商は孝惠帝と呂后に仕えた。呂后が崩御すると、商は病気で政務を執らなかった。その子の寄、字は況は、呂禄りょろくと親しかった。高后が崩御し、大臣たちが諸呂を誅殺しようとした時、呂禄は将軍として北軍に駐屯していた。太尉の周勃は北軍に入ることができず、そこで人をやって商を脅迫し、その子の寄に命じて呂禄を欺かせた。呂禄はこれを信じ、寄とともに外出して遊んだ。そこで太尉の周勃はようやく北軍に入り占拠することができ、ついに諸呂を誅殺したのである。商はこの年に薨去し、諡を景侯とされた。子の寄が後を嗣いだ。天下の人は酈況が友を売ったと称した。

原文商事孝惠帝、呂后。呂后崩,商疾不治事。其子寄,子況,與呂祿善。及高后崩,大臣欲誅諸呂,呂祿為將軍,軍於北軍,太尉勃不得入北軍,於是乃使人劫商,令其子寄紿呂祿。呂祿信之,與出游,而太尉勃乃得入據北軍,遂以誅諸呂。商是歲薨,諡曰景侯。子寄嗣。天下稱酈況賣友。

孝景帝の時、呉、楚、斉、趙が反乱を起こした。皇帝は寄を将軍とし、趙の城を包囲させたが、七月たっても陥落させることができなかった。欒布が斉を平定して来援し、ようやく趙を滅ぼした。孝景帝の中二年、寄が平原君の姉を娶って夫人にしようとしたので、景帝は怒り、寄を役人に引き渡し、免職とした。皇帝はそこで商の他の子である堅を繆侯に封じ、商の祭祀を継がせた。家系は玄孫の終根に伝わり、武帝の時に太常たいじょうとなったが、巫蠱の罪に連座して誅殺され、封国は除かれた。元始年間、高祖の時代の功臣で、酈商以下の子孫に爵位を賜り、関内侯に封じ、食邑を与えた者は合わせて百余人に及んだ。

原文孝景時,吳、楚、齊、趙反,上以寄為將軍,圍趙城,七月不能下。欒布自平齊來,乃滅趙。孝景中二年,寄欲取平原君姊為夫人,景帝怒,下寄吏,免。上乃封商它子堅為繆侯,奉商後。傳至玄孫終根,武帝時為太常,坐巫蠱誅,國除。元始中,賜高祖時功臣自酈商以下子孫爵乎關內侯,食邑凡百餘人。

夏侯嬰かこうえい

原文夏侯嬰

夏侯嬰は、沛の人である。沛の厩の御者を務め、使者や賓客を送るたびに、帰りに泗上亭を通り過ぎると、高祖と語り合い、日が暮れるまで話し込むことが常であった。嬰はやがて試験を受けて県の役人に補され、高祖と親しく交わった。高祖がふざけて嬰を傷つけると、ある者が高祖を告訴した。高祖は当時亭長であり、人を傷つけた罪は重く、故意に傷つけなかったと申し立てたが、嬰がそれを証言した。取り調べが繰り返され、嬰は高祖の罪に連座して一年余り拘束され、数百回も鞭打たれたが、最後には高祖を逃がした。

原文夏侯嬰,沛人也。為沛廄司御,每送使客,還過泗上亭,與高祖語,未嘗不移日也。嬰已而試補縣吏,與高祖相愛。高祖戲而傷嬰,人有告高祖。高祖時為亭長,重坐傷人,告故不傷嬰,嬰證之。移獄覆,嬰坐高祖繫歲餘,掠笞數百,終脫高祖。

高祖が初めて配下の者たちと共に沛を攻めようとした時、夏侯嬰は県の令史として高祖の使者を務めていた。高祖が沛を降伏させたその日、高祖が沛公となると、夏侯嬰に七大夫の爵位を賜り、太僕に任じて常に車を奉じさせた。胡陵を攻撃するのに従い、夏侯嬰は蕭何と共に泗水監の平を降伏させ、平は胡陵を以て降伏したので、夏侯嬰に五大夫の爵位を賜った。碭の東で秦軍を撃つことに従い、済陽を攻め、戸牖を落とし、雍丘で李由の軍を破り、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速であったため、これを破り、執帛の爵位を賜った。東阿・濮陽で章邯の軍を撃つことに従い、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速であったため、これを破り、執圭の爵位を賜った。開封で趙賁の軍、曲遇で楊熊の軍を撃つことに従った。夏侯嬰は従って六十八人を捕虜とし、八百五十人の兵卒を降伏させ、印一箱を得た。また雒陽の東で秦軍を撃ち、兵車を駆って攻撃し戦闘が迅速であったため、爵位を賜って封じられ、転じて滕の令となった。よって車を奉じて南陽平定を攻めることに従い、藍田・芷陽で戦い、霸上に至った。沛公が漢王となると、夏侯嬰に列侯の爵位を賜い、昭平侯と号し、再び太僕とし、蜀漢しょくかんに入ることに従った。

原文高祖之初與徒屬欲攻沛也,嬰時以縣令史為高祖使。上降沛一日,高祖為沛公,賜爵七大夫,以嬰為太僕,常奉車。從攻胡陵,嬰與蕭何降泗水監平,平以胡陵降,賜嬰爵五大夫。從擊秦軍碭東,攻濟陽,下戶牖,破李由軍雍丘,以兵車趣攻戰疾,破之,賜爵執帛。從擊章邯軍東阿、濮陽下,以兵車趣攻戰疾,破之,賜爵執圭。從擊趙賁軍開封,楊熊軍曲遇。嬰從捕虜六十八人,降卒八百五十人,得印一匱。又擊秦軍雒陽東,以兵車趣攻戰疾,賜爵封,轉為滕令。因奉車從攻定南陽,戰於藍田、芷陽,至霸上。沛公為漢王,賜嬰爵列侯,號昭平侯,復為太僕,從入蜀漢。

三秦を平定して帰還し、項籍を撃つことに従った。彭城に至ると、項羽が漢軍を大破した。漢王は不利となり、駆け去った。孝恵帝と魯元公主を見つけ、車に乗せた。漢王は焦り、馬は疲れ、敵が後ろに迫っていたので、常に二人の子供を蹴落として捨てようとしたが、夏侯嬰は常に収容して車に乗せて行き、子供を抱きかかえて馬を走らせた。漢王は怒り、夏侯嬰を斬ろうとしたことが十余度あったが、ついに脱出し、孝恵帝と魯元公主を豊に送り届けた。

原文還定三秦,從擊項籍。至彭城,項羽大破漢軍。漢王不利,馳去。見孝惠、魯元,載之。漢王急,馬罷,虜在後,常蹳兩兒棄之,嬰常收載行,面雍樹馳。漢王怒,欲斬嬰者十餘,卒得脫,而致孝惠、魯元於豐。

漢王が滎陽に到着すると、散り散りになった兵を収容し、再び勢いを盛り返し、夏侯嬰に沂陽を食邑として賜った。下邑で項籍を撃ち、陳まで追撃し、ついに楚を平定した。魯に至り、茲氏を加増して食邑とした。

原文漢王既至滎陽,收散兵,復振,賜嬰食邑沂陽。擊項籍下邑,追至陳,卒定楚。至魯,益食茲氏。

漢王が帝位に即くと、燕王の臧荼が反乱し、夏侯嬰は従って臧荼を撃った。翌年、陳に至ることに従い、楚王の韓信を捕らえた。食邑を汝陰に改め、符を剖き、世々絶えることなくした。代を撃つことに従い、武泉・雲中に至り、千戸を加増して食邑とした。よって韓信の軍を胡騎と共に晋陽の傍らで撃つことに従い、これを大破した。敗走する敵を平城まで追撃したが、胡に包囲され、七日間通じなかった。高帝は使者を遣わして厚く閼氏に贈り物をすると、冒頓は包囲の一角を開いた。高帝は出ようとして駆け出そうとしたが、夏侯嬰はあえてゆっくりと進み、弩は皆満を持して外に向けさせ、ついに脱出することができた。夏侯嬰に細陽の千戸を加増して食邑とした。句注の北で胡騎を撃つことに従い、これを大破した。平城の南で胡騎を撃ち、三度陣に突入し、功績が多かったため、以前に奪われた邑五百戸を賜った。陳豨・黥布の軍を撃つことに従い、陣に突入して敵を退却させ、千戸を加増し、汝陰六千九百戸を定めて食邑とし、以前の食邑を除いた。

原文漢王即帝位,燕王臧荼反,嬰從擊荼。明年,從至陳,取楚王信。更食汝陰,剖符,世世勿絕。從擊代,至武泉、雲中,益食千戶。因從擊韓信軍胡騎晉陽旁,大破之。追北至平城,為胡所圍,七日不得通。高帝使使厚遺閼氏,冒頓乃開其圍一角。高帝出欲馳,嬰固徐行,弩皆持滿外鄉,卒以得脫。益食嬰細陽千戶。從擊胡騎句注北,大破之。擊胡騎平城南,三陷陳,功為多,閼所奪邑五百戶。從擊陳豨、黥布軍,陷陳卻敵,益千戶,定食汝陰六千九百戶,除前所食。

夏侯嬰は高祖が初めて沛で挙兵して以来、常に太僕として従い、ついに高祖が崩御するまで仕えた。太僕として恵帝に仕えた。恵帝及び高后は、夏侯嬰が下邑の間で孝恵帝と魯元公主を脱出させた恩徳に感謝し、夏侯嬰に北第の第一等の邸宅を賜い、「我に近し」と言って、彼を尊び異遇した。恵帝が崩御すると、太僕として高后に仕えた。高后が崩御し、代王が来朝する際、夏侯嬰は太僕として東牟侯と共に宮中を清め、少帝を廃し、天子の法駕をもって代王を代邸に迎え、大臣と共に文帝を立て、再び太僕となった。八年後に薨去し、諡して文侯といった。曾孫の頗に伝わり、平陽公主を娶ったが、父の御婢と姦通した罪で自殺し、封国は除かれた。

原文嬰自上初起沛,常為太僕從,竟高祖崩。以太僕事惠帝。惠帝及高后德嬰之脫孝惠、魯元於下邑間也,乃賜嬰北第第一,曰「近我」,以尊異之。惠帝崩,以太僕事高后。高后崩,代王之來,嬰以太僕與東牟侯入清宮,廢少帝,以天子法駕迎代王代邸,與大臣共立文帝,復為太僕。八歲薨,諡曰文侯。傳至曾孫頗,尚平陽公主,坐與父御婢奸,自殺,國除。

初め夏侯嬰が滕の令として車を奉じたので、滕公と号した。曾孫の頗が公主を娶ると、公主は外戚の姓に従い、孫公主と号したので、滕公の子孫はさらに孫氏と改めた。

原文初嬰為滕令奉車,故號滕公。及曾孫頗尚主,主隨外家姓,號孫公主,故滕公子孫更為孫氏。

灌嬰

原文灌嬰

灌嬰は、睢陽で絹織物を売り歩く者であった。高祖が沛公となり、土地を攻略して雍丘に至った時、章邯が項梁を殺し、沛公が軍を碭に返すと、灌嬰は中涓として従い、成武で東郡尉を、杠里で秦軍を撃破し、激しく戦ったので、七大夫の爵位を賜った。また秦軍を亳の南・開封・曲遇で攻撃することに従い、戦闘が激しく力があったので、執帛の爵位を賜り、宣陵君と号した。陽武から西は雒陽までを攻撃することに従い、尸の北で秦軍を破った。北は黄河の渡し場を遮断し、南は南陽太守の齮を陽城の東で破り、ついに南陽郡を平定した。西は武関に入り、藍田で戦い、激しく力戦し、霸上に至り、執圭の爵位を賜り、昌文君と号した。

原文灌嬰,睢陽販繒者也。高祖為沛公,略地至雍丘,章邯殺項梁,而沛公還軍於碭,嬰以中涓從,擊破東郡尉於成武及秦軍於杠里,疾鬥,賜爵七大夫。又從攻秦軍亳南、開封、曲遇,戰疾力,賜爵執帛,號宣陵君。從攻陽武以西至雒陽,破秦軍尸北。北絕河津,南破南陽守齮陽城東,遂定南陽郡。西入武關,戰於藍田,疾力,至霸上,賜爵執圭,號昌文君。

沛公が漢王となると、灌嬰を郎中に任じ、漢中に入ることに従い、十月に中謁者に任じられた。三秦を平定して帰還することに従い、櫟陽を落とし、塞王を降伏させた。帰還して章邯の籠る廃丘を包囲したが、陥落させなかった。東に出て臨晋関を出撃し、殷王を撃って降伏させ、その地を平定した。定陶の南で項羽の将である龍且と魏の相である項佗の軍を撃ち、激戦の末、これを破った。灌嬰に列侯の爵位を賜い、昌文侯と号し、杜の平郷を食邑とした。

原文沛公為漢王,拜嬰為郎中,從入漢中,十月,拜為中謁者。從還定三秦,下櫟陽,降塞王。還圍章邯廢丘,未拔。從東出臨晉關,擊降殷王,定其地。擊項羽將龍且、魏相項佗軍定陶南,疾戰,破之。賜嬰爵列侯,號昌文侯,食杜平鄉。

再び中謁者として従い、碭を降伏させ、北は彭城に至った。項羽が漢王を撃破すると、漢王は逃れて西に向かい、灌嬰は従って帰還し、雍丘に軍を駐屯させた。王武と魏公申徒が反乱したので、従ってこれを撃破した。外黄を攻め落とし、西は滎陽で軍を収めた。楚の騎兵が多く来襲したので、漢王は軍中で騎将となるべき者を選んだが、皆かつて秦の騎士であった重泉の人、李必と駱甲が騎兵に習熟しており、今は校尉であるので騎将とすべきだと推挙した。漢王が彼らを任じようとすると、李必と駱甲は言った。「臣らはもと秦の民ですので、軍が臣らを信じないことを恐れます。大王の側近で騎射に優れた者を補佐として付けて頂きたい。」灌嬰は若かったが、しかし幾度も力戦していたので、灌嬰を中大夫に任じ、李必と駱甲を左右校尉とし、郎中騎兵を率いて滎陽の東で楚の騎兵を撃ち、これを大破させた。詔を受けて別に楚軍の後方を撃ち、その糧道を絶ち、陽武から襄邑に至った。魯の城下で項羽の将である項冠を撃ち、これを破り、率いる兵卒が右司馬と騎将を各一人斬った。柘公の王武の軍を燕の西で撃破し、率いる兵卒が楼煩の将五人と連尹一人を斬った。王武の別将である桓嬰を白馬の城下で撃ち、これを破り、率いる兵卒が都尉一人を斬った。騎兵を率いて黄河を南に渡り、漢王を雒陽に送り届け、北から相国の韓信の軍を邯鄲に迎えることに従った。敖倉に戻ると、灌嬰は御史大夫に昇進した。

原文復以中謁者從降下碭,以北至彭城。項羽擊破漢王,漢王遁而西,嬰從還,軍於雍丘。王武、魏公申徒反,從擊破之。攻下外黃,西收軍於滎陽。楚騎來眾,漢王乃擇軍中可為騎將者,皆推故秦騎士重泉人李必、駱甲習騎兵,今為校尉,可為騎將。漢王欲拜之,必、甲曰:「臣故秦民,恐軍不信臣,臣願得大王左右善騎者傅之。」嬰雖少,然數力戰,乃拜嬰為中大夫,令李必、駱甲為左右校尉,將郎中騎兵擊楚騎於滎陽東,大破之。受詔別擊楚軍後,絕其饟道,起陽武至襄邑。擊項羽之將項冠於魯下,破之,所將卒斬右司馬、騎將各一人。擊破柘公王武軍燕西,所將卒斬樓煩將五人,連尹一人。擊王武別將桓嬰白馬下,破之,所將卒斬都尉一人。以騎度河南,送漢王到雒陽,從北迎相國韓信軍於邯鄲。還至敖倉,嬰遷為御史大夫。

三年、列侯として杜平郷に食邑を与えられた。詔を受けて郎中騎兵を率い、東進して相国韓信に属し、歴下で斉軍を撃破し、配下の兵卒が単騎将軍華毋傷及び将吏四十六人を捕虜とした。臨淄を降伏させ、宰相田光を捕らえた。斉の宰相田横を嬴・博まで追撃し、その騎兵を撃破し、配下の兵卒が騎将一人を斬り、騎将四人を生け捕りにした。嬴・博を攻め落とし、千乗で斉の将軍田吸を破ってこれを斬った。東進して韓信に従い龍且・留公を仮密で攻め、ついに龍且を斬り、右司馬・連尹各一人、楼煩の将十人を生け捕りにし、自ら副将周蘭を生け捕りにした。

原文三年,以列侯食邑杜平鄉。受詔將郎中騎兵東屬相國韓信,擊破齊軍於歷下,所將卒虜單騎將軍華毋傷及將吏四十六人。降下臨淄,得相田光。追齊相田橫至嬴、博,擊破其騎,所將卒斬騎將一人,生得騎將四人。攻下嬴、博,破齊將軍田吸於千乘,斬之。東從韓信攻龍且、留公於假密,卒斬龍且,生得右司馬、連尹各一人,樓煩將十人,身生得亞將周蘭。

斉の地が平定されると、韓信は自立して斉王となり、灌嬰を別将として楚の将公杲を魯の北で攻撃させ、これを破った。転じて南進し、薛郡の長を破り、自ら騎将を捕虜として入った。博陽を攻め、前進して下相より東南の僮・取慮・徐に至った。淮水を渡り、その城邑をことごとく降伏させ、広陵に至った。項羽が項声・薛公・郯公に淮北を再平定させると、灌嬰は淮水を渡って項声・郯公を下邳で撃破し、薛公を斬り、下邳・寿春を降した。楚の騎兵を平陽で撃破し、ついに彭城を降伏させた。柱国項佗を捕虜とし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降した。苦・譙を攻め、再び副将を得た。漢王と頤郷で会合した。項籍の軍を陳下で攻撃し、これを破った。配下の兵卒が楼煩の将二人を斬り、将八人を捕虜とした。食邑二千五百戸を加増された。

原文齊地已定,韓信自立為齊王,使嬰別將擊楚將公杲於魯北,破之。轉南,破薛郡長,身虜騎將入。攻博陽,前至下相以東南僮、取慮、徐。度淮,盡降其城邑,至廣陵。項羽使項聲、薛公、郯公復定淮北,嬰度淮擊破項聲、郯公下邳,斬薛公,下下邳、壽春。擊破楚騎平陽,遂降彭城。虜柱國項佗,降留、薛、沛、酇、蕭、相。攻苦、譙,復得亞將。與漢王會頤鄉。從擊項籍軍陳下,破之。所將卒斬樓煩將二人,虜將八人。賜益食邑二千五百戶。

項籍が垓下で敗れて去ると、灌嬰は御史大夫として車騎を率い、別働隊として項籍を東城まで追撃し、これを破った。配下の兵卒五人で共に項籍を斬り、皆が列侯の爵位を賜った。左右司馬各一人を降伏させ、兵卒一万二千人を得て、その軍の将吏をことごとく捕らえた。東城・歴陽を降した。長江を渡り、呉郡の長を呉の地で破り、呉の守を捕らえ、ついに呉・豫章・会稽の郡を平定した。引き返して淮北を平定し、合わせて五十二県であった。

原文項籍敗垓下去也,嬰以御史大夫將車騎別追項籍至東城,破之。所將卒五人共斬項籍,皆賜爵列侯。降左右司馬各一人,卒萬二千人,盡得其軍將吏。下東城、歷陽。度江,破吳郡長吳下,得吳守,遂定吳、豫章、會稽郡。還定淮北,凡五十二縣。

漢王が帝位に即くと、灌嬰の邑三千戸を加増して賜った。車騎将軍として従い燕王荼を攻撃した。翌年、従って陳に至り、楚王信を捕らえた。帰還後、符節を割り、世々絶えることなく、潁陰二千五百戸を食邑とした。

原文漢王即帝位,賜益嬰邑三千戶。以車騎將軍從擊燕王荼。明年,從至陳,取楚王信。還,剖符,世世勿絕,食潁陰二千五百戶。

代で韓王信を攻撃し、馬邑に至り、別働隊として楼煩以北の六県を降伏させ、代の左将を斬り、胡の騎将を武泉の北で破った。再び従って信の胡騎を晋陽の地で攻撃し、配下の兵卒が胡の白題将一人を斬った。また詔を受けて燕・趙・斉・梁・楚の車騎を併せて率い、胡騎を硰石で撃破した。平城に至り、胡に包囲された。

原文從擊韓王信於代,至馬邑,別降樓煩以北六縣,斬代左將,破胡騎將於武泉北。復從擊信胡騎晉陽下,所將卒斬胡白題將一人。又受詔并將燕、趙、齊、梁、楚車騎,擊破胡騎於硰石。至平城,為胡所困。

陳豨を攻撃し、別働隊として豨の丞相侯敞の軍を曲逆の地で攻め、これを破り、ついに侯敞及び特将五人を斬った。曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降した。東垣を攻め落とした。

原文從擊陳豨,別攻豨丞相侯敞軍曲逆下,破之,卒斬敞及特將五人。降曲逆、盧奴、上曲陽、安國、安平。攻下東垣。

黥布が反乱すると、車騎将軍として先に出陣し、布の別将を相で攻め、これを破り、副将・楼煩の将三人を斬った。さらに進撃して布の上柱国及び大司馬の軍を破った。さらに進撃して布の別将肥銖を破った。灌嬰自ら左司馬一人を生け捕りにし、配下の兵卒がその小将十人を斬り、敗走する敵を淮上まで追撃した。食邑二千五百戸を加増された。布が既に破られると、高帝は帰還し、灌嬰に潁陰五千戸を食邑とすることを定め、以前の食邑を除いた。合わせて従軍して得た二千石の官二人、別働隊で破った軍十六、降伏させた城四十六、平定した国一、郡二、県五十二、捕らえた将軍二人、柱国・相各一人、二千石の官十人であった。

原文黥布反,以車騎將軍先出,攻布別將於相,破之,斬亞將樓煩將三人。又進擊破布上柱國及大司馬軍。又進破布別將肥銖。嬰身生得左司馬一人,所將卒斬其小將十人,追北至淮上。益食邑二千五百戶。布已破,高帝歸,定令嬰食潁陰五千戶,除前所食邑。凡從所得二千石二人,別破軍十六,降城四十六,定國一,郡二,縣五十二,得將軍二人,柱國、相各一人,二千石十人。

灌嬰は布を破って帰還して以来、高帝が崩御し、列侯として恵帝及び呂后に仕えた。呂后が崩御すると、呂禄らが乱を起こそうとした。斉の哀王がこれを聞き、兵を挙げて西進すると、呂禄らは灌嬰を大将軍としてこれを迎撃させた。灌嬰が滎陽に至ると、絳侯らと謀り、そこで兵を滎陽に駐屯させ、呂氏誅伐のことを斉王にほのめかすと、斉軍は進軍を止めて前進しなかった。絳侯らが諸呂を誅殺すると、斉王は兵を収めて帰国した。灌嬰は滎陽から帰還し、絳侯・陳平と共に文帝を擁立した。ここにおいて灌嬰に三千戸を加増封し、金千斤を賜り、太尉となった。

原文嬰自破布歸,高帝崩,以列侯事惠帝及呂后。呂后崩,呂祿等欲為亂。齊哀王聞之,舉兵西,呂祿等以嬰為大將軍往擊之。嬰至滎陽,乃與絳侯等謀,因屯兵滎陽,風齊王以誅呂氏事,齊兵止不前。絳侯等既誅諸呂,齊王罷兵歸。嬰自滎陽還,與絳侯、陳平共立文帝。於是益封嬰三千戶,賜金千斤,為太尉。

三年後、絳侯周勃が丞相を免ぜられると、灌嬰が丞相となり、太尉の官は廃止された。この年、匈奴が大挙して北地に侵入したため、皇帝は丞相灌嬰に騎兵八万五千を率いて匈奴を撃たせた。匈奴が去ると、済北王が反乱したため、詔により灌嬰の兵は罷められた。その後一年余りして、丞相のまま薨去し、諡して懿侯といった。孫の灌疆に伝わったが、罪があり、封は絶えた。武帝は再び灌嬰の孫の灌賢を臨汝侯に封じ、灌嬰の後を継がせたが、後に罪があり、封国は除かれた。

原文三歲,絳侯勃免相,嬰為丞相,罷太尉官。是歲,匈奴大入北地,上令丞相嬰將騎八萬五千擊匈奴。匈奴去,濟北王反,詔罷嬰兵。後歲餘,以丞相薨,諡曰懿侯。傳至孫疆,有罪,絕。武帝復封嬰孫賢為臨汝侯,奉嬰後,後有罪,國除。

傅寛

原文傅寬

傅寬は、魏の五大夫騎将として従い、舎人となり、横陽で挙兵した。安陽・杠里を攻撃し、趙賁の軍を開封で、また楊熊を曲遇・陽武で撃ち、十二の首級を斬り、卿の爵位を賜った。霸上に至るまで従った。沛公が漢王となると、傅寬に共徳君の封号を賜った。漢中に入るに従い、右騎将となった。三秦を平定し、食邑として雕陰を賜った。項籍を撃つに従い、懐で待機し、通徳侯の爵位を賜った。項冠・周蘭・龍且を撃つに従い、率いる兵卒が敖下で騎将一人を斬り、食邑を増やされた。

原文傅寬,以魏五大夫騎將從,為舍人,起橫陽。從攻安陽、杠里,趙賁軍於開封,及擊楊熊曲遇、陽武,斬首十二級,賜爵卿。從至霸上。沛公為漢王,賜寬封號共德君。從入漢中,為右騎將。定三秦,賜食邑雕陰。從擊項籍,待懷,賜爵通德侯。從擊項冠、周蘭、龍且,所將卒斬騎將一人敖下,益食邑。

淮陰侯(韓信)に属し、斉の歴下軍を撃破し、田解を撃った。相国(曹)参に属し、博を壊滅させ、食邑を増やされた。これにより斉の地を平定し、割符を賜って世々絶えることなく、陽陵侯に封ぜられ、二千六百戸を領し、以前の食邑は除かれた。斉の右丞相となり、斉に備えた。五年間、斉の相国となった。

原文屬淮陰,擊破齊歷下軍,擊田解。屬相國參,殘博,益食邑。因定齊地,剖符世世勿絕,封陽陵侯,二千六百戶,除前所食。為齊右丞相,備齊。五歲為齊相國。

四月、陳豨を撃ち、太尉(周)勃に属し、相国として丞相(樊)噲に代わって陳豨を撃った。一月、代の相国に転じ、駐屯軍を率いた。二年後、丞相となり、駐屯軍を率いた。孝惠帝五年に死去し、諡して景侯といった。曾孫の偃に伝わり、謀反を企て、誅殺され、封国は除かれた。

原文四月,擊陳豨,屬太尉勃,以相國代丞相噲擊豨。一月,徙為代相國,將屯。二歲,為丞相,將屯。孝惠五年薨,諡曰景侯。傳至曾孫偃,謀反,誅,國除。

靳歙

原文靳歙

靳歙は、中涓として従い、宛朐で挙兵した。済陽を攻撃した。李由の軍を破った。開封の東で秦軍を撃ち、騎兵千人将一人を斬り、五十七の首級を挙げ、七十三人を捕虜とし、爵位を賜り臨平君に封ぜられた。また藍田の北で戦い、車司馬二人、騎長一人を斬り、二十八の首級を挙げ、五十七人を捕虜とした。霸上に至った。沛公が漢王となると、靳歙に建武侯の爵位を賜り、騎都尉に昇進した。

原文靳歙,以中涓從,起宛朐。攻濟陽。破李由軍。擊秦軍開封東,斬騎千人將一人,首五十七級,捕虜七十三人,賜爵封臨平君。又戰藍田北,斬車司馬二人,騎長一人,首二十八級,捕虜五十七人。至霸上。沛公為漢王,賜歙爵建武侯,遷騎都尉。

三秦平定に従った。別働隊として西進し、隴西で章平の軍を撃ち、これを破り、隴西の六県を平定し、率いる兵卒が車司馬・候各四人、騎長十二人を斬った。東進して楚を撃ち、彭城に至った。漢軍が敗れて帰還し、雍丘を守り、反乱者王武らを撃った。梁の地を攻略し、別働隊として西進し、菑南で邢説の軍を撃ち、これを破り、自ら説の都尉二人、司馬・候十二人を得、吏卒四千六百八十人を降伏させた。滎陽の東で楚軍を破った。食邑四千二百戸を領した。

原文從定三秦。別西擊章平軍於隴西,破之,定隴西六縣,所將卒斬車司馬、候各四人,騎長十二人。從東擊楚,至彭城。漢軍敗還,保雍丘,擊反者王武等。略梁地,別西擊邢說軍菑南,破之,身得說都尉二人,司馬、候十二人,降吏卒四千六百八十人。破楚軍滎陽東。食邑四千二百戶。

別働隊として河内に向かい、朝歌で趙賁の軍を撃ち、これを破り、率いる兵卒が騎将二人を得、車馬二百五十匹を得た。安陽以東を攻撃し、棘蒲に至り、十県を陥落させた。別働隊として趙軍を攻撃し破り、その将司馬二人、候四人を得、吏卒二千四百人を降伏させた。従って邯鄲を降伏させ陥落させた。別働隊として平陽を陥落させ、自ら守相を斬り、率いる兵卒が兵守郡一人を斬り、鄴を降伏させた。朝歌・邯鄲を攻撃し、また別働隊として趙郡を撃ち破り、邯鄲郡の六県を降伏させた。軍を返して敖倉に至り、成皋の南で項籍の軍を破り、楚の糧道を遮断して撃ち、滎陽から襄邑に至った。魯の下で項冠を破った。地を攻略して東は觞・郯・下邳に至り、南は蘄・竹邑に至った。済陽の下で項悍を撃った。軍を返して陳の下で項籍の軍を撃ち、これを破った。別働隊として江陵を平定し、柱国・大司馬以下八人を降伏させ、自ら江陵王を得て、雒陽に送り、これにより南郡を平定した。陳に至るに従い、楚王(韓)信を捕らえ、割符を賜って世々絶えることなく、食邑四千六百戸を定め、信武侯しんぶこうとなった。

原文別之河內,擊趙賁軍朝歌,破之,所將卒得騎將二人,車馬二百五十匹。從攻安陽以東,至棘蒲,下十縣。別攻破趙軍,得其將司馬二人,候四人,降吏卒二千四百人。從降下邯鄲。別下平陽,身斬守相,所將卒斬兵守郡一人,降鄴。從攻朝歌、邯鄲,又別擊破趙郡,降邯鄲郡六縣。還軍敖倉,破項籍軍成皋南,擊絕楚饟道,起滎陽至襄邑。破項冠魯下。略地東至觞、郯、下邳,南至蘄、竹邑。擊項悍濟陽下。還擊項籍軍陳下,破之。別定江陵,降柱國、大司馬以下八人,身得江陵王,致雒陽,因定南郡。從至陳,取楚王信,剖符世世勿絕,定食四千六百戶,為信武侯。

騎都尉として代を撃ち、韓信を平城の下で攻撃し、軍を返して東垣に至った。功績があり、車騎将軍に昇進し、併せて梁・趙・斉・燕・楚の車騎を率い、別働隊として陳豨の丞相(侯)敞を撃ち、これを破り、これにより曲逆を降伏させた。黥布を撃つに従い功績があり、封邑を増やされ、食邑五千三百戸を定めた。総計で九十の首級を斬り、百四十二人を虜とし、別働隊として十四の軍を破り、五十九の城を降伏させ、郡・国各一、県二十三を平定し、王・柱国各一人、二千石以下から五石まで三十九人を得た。

原文以騎都尉擊代,攻韓信平城下,還軍東垣。有功,遷為車騎將軍,并將梁、趙、齊、燕、楚車騎,別擊陳豨丞相敞,破之,因降曲逆。從擊黥布有功,益封,定食邑五千三百戶。凡斬首九十級,虜百四十二人,別破軍十四,降城五十九,定郡、國各一,縣二十三,得王、柱國各一人,二千石以下至五石三十九人。

高后五年、死去し、諡して粛侯といった。子の亭が嗣ぎ、罪があり、封国は除かれた。

原文高后五年,薨,諡曰肅侯。子亭嗣,有罪,國除。

周惞しゅうきん

原文周惞

周惞は、沛の人である。舎人として高祖に従い、沛に起った。覇上はじょうに至り、西の蜀漢に入り、還って三秦を平定し、常に参乗を務め、池陽ちように食邑を賜った。東へ向かって滎陽で項羽を撃ち、甬道ようどうを遮断し、平陰を渡り、韓信の軍に襄国で合流した。戦いには利不利があったが、最後まで陛下(高祖)の心から離れることはなかった。陛下は周惞を信武侯に封じ、食邑三千三百戸を賜った。

原文周惞,沛人也。以舍人從高祖起沛。至霸上,西入蜀漢,還定三秦,常為參乘,賜食邑池陽。從東擊項羽滎陽,絕甬道,從出度平陰,遇韓信軍襄國,戰有利不利,終亡離上心。上以惞為信武侯,食邑三千三百戶。

陛下が自ら陳豨を撃とうとされたとき、周惞は泣いて言った。「かつて秦が天下を攻め破ったとき、自ら行くことはありませんでした。今、陛下が常に自ら行かれるのは、他に使者として遣わせる者がいないからなのですか」。陛下は「私を愛してくれている」と考え、殿門に入るときに小走りに走らなくてもよい権利(不趨)を賜った。

原文上欲自擊陳豨,惞泣曰:「始秦攻破天下,未曾自行,今上常自行,是亡人可使者乎?」上以為「愛我」,賜入殿門不趨。

高祖十二年、周惞を糨城侯きょうじょうこうに改めて封じた。孝文(文帝)五年、薨去し、貞侯ていこうと諡された。子の周昌しゅうしょうが継いだが、罪があって国は除かれた。景帝は再び周惞の子の周応しゅうおう鄲侯たんこうに封じた。薨去して康侯こうこうと諡された。子の周仲居しゅうちゅうきょが継いだが、太常として罪を犯し、国は除かれた。

原文十二年,更封惞為糨城侯,孝文五年薨,諡曰貞侯。子昌嗣,有罪,國除。景帝復封惞子應為鄲侯,薨,諡曰康侯。子仲居嗣,坐為太常有罪,國除。

【賛】

原文

賛に曰く、仲尼(孔子)は「斑牛はんぎゅうの子でも、毛色が赤く、角が整っていれば、たとえ人が用いまいとしても、山川の神々が捨て置くだろうか」と言った。これは、士がその出身や家系に縛られないことを言っているのである。ことわざに「たとえ農具があっても、時運に恵まれるのには及ばない」と言うが、誠にその通りである。樊噲・夏侯嬰・灌嬰の徒も、屠殺や御者、絹売りをしていたとき、どうして自ら名馬の尾に付随し、帝王の記録に功績を刻み、慶福を子孫に及ぼすことを知っていただろうか。孝文(文帝)のとき、天下の人々は酈寄れききを友人を売る者と考えた。友人を売るとは、利益を見て義を忘れることを言うのである。しかし、酈寄の父(酈商)は功臣でありながら捕らえられており、呂禄を討って社稷しゃそくを安んじたことは、主君と親への義を全うしたものであり、正当なことである。

原文贊曰:仲尼稱「犁牛之子騂且角,雖欲勿用,山川其舍諸?」言士不繫於世類也。語曰「雖有茲基,不如逢時」,信矣!樊噲、夏侯嬰、灌嬰之徒,方其鼓刀僕御販繒之時,豈自知附驥之尾,勤功帝籍,慶流子孫哉?當孝文時,天下以酈寄為賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父為功臣而又執劫,雖摧呂祿,以安社稷,誼存君親,可也。