漢書
巻三十六 楚 元王伝 第六
劉交
楚の元王劉交は字を游といい、 高祖 ( 劉邦 )の同父の弟で末弟である。書物を好み、多才多芸であった。若い頃、魯の穆生・白生・申公と共に浮丘伯に師事して『詩経』を学んだ。浮丘伯は、荀子(孫卿)の門人である。 秦 が書物を焚焼した時、それぞれ別れ去った。
高祖には兄弟が四人おり、長兄は伯、次兄は仲で、伯は早くに亡くなった。高祖が 沛 公となった時、景駒が自立して楚王となった。高祖は仲と審食其を留め置いて太上皇(劉 太公 )に仕えさせ、劉交は 蕭何 ・ 曹参 らと共に高祖に従って景駒に謁し、 項梁 と出会い、共に楚の懐王を擁立した。そこで西進して南陽を攻め、武関に入り、秦軍と藍田で戦った。 霸 上に至り、劉交を文信君に封じ、 蜀 漢に入るのに従い、引き返して三秦を平定し、項籍( 項羽 )を誅殺した。帝位に即くと、劉交と 盧綰 は常に帝に侍し、寝室に出入りし、言葉を伝え、宮中の事や密謀に参与した。一方、帝の従兄の劉賈はしばしば別働隊を率いた。
漢の六年(紀元前201年)、楚王 信 を廃した後、その領地を二つの国に分け、劉賈を荊王に、劉交を楚王に立て、薛郡・東海・彭城の三十六県を治めさせた。これは以前からの功績によるものである。後に次兄の仲を代王に、長子の劉肥を 斉 王に封じた。
初め、高祖が微賤の頃、よく厄介事を避けて、しばしば賓客を連れて兄嫁(丘嫂)のところで食事をした。兄嫁は叔父(劉邦)と客が来るのを嫌い、わざと汁物が尽きたふりをして、鍋を叩き、客はそのために立ち去った。後に鍋の中に汁物があるのを見て、これによって兄嫁を怨んだ。斉王と代王を立てた時、伯(長兄)の子だけが侯に封じられなかった。太上皇がこのことを言うと、高祖は言った。「私が封じるのを忘れていたわけではない。その母(兄嫁)が度量の広くない者だからだ。」七年(紀元前200年)十月、その子の劉信を羹頡侯に封じた。
元王が楚に到着すると、穆生・白生・申公を中大夫とした。高后( 呂后 )の時代、浮丘伯が 長安 にいたので、元王は子の劉郢客を申公と共に遣わして学業を修めさせた。文帝の時、申公が『詩経』に最も精通していると聞き、博士とした。元王は『詩経』を好み、諸子も皆『詩経』を読んだ。申公が初めて『詩経』の伝(注釈書)を作り、魯詩と称した。元王もまた『詩経』の伝を編纂し、元王詩と号した。世に伝わるものもある。
高后の時代、元王の子の劉郢客を宗正とし、上邳侯に封じた。元王が立って二十三年で 薨去 し、太子の劉辟非は先に卒していたので、文帝は宗正の上邳侯劉郢客を後継ぎとし、これが夷王である。申公は博士であったが官を失い、劉郢客に従って帰国し、再び中大夫とした。夷王が立って四年で 薨去 し、子の劉戊が後を嗣いだ。文帝は元王を尊び寵愛し、その子が生まれると、爵位を皇子と同じとした。景帝が即位すると、親族を親しむという理由で元王の寵愛する子五人を封じた。子の劉礼を平陸侯に、劉富を休侯に、劉歳を沈猶侯に、劉埶を宛朐侯に、劉調を棘楽侯に封じた。
初め、元王は申公らを敬い礼遇し、穆生は酒を好まなかったので、元王は酒宴を設ける度に、常に穆生のために甘酒(醴)を用意した。王の劉戊が即位すると、当初は常に用意していたが、後に用意するのを忘れた。穆生は退いて言った。「もう去るべき時だ。甘酒が用意されないのは、王の心が怠っている証拠である。去らなければ、楚の人々が私を市中で鉄の枷をはめる刑に処すだろう。」と称病して臥せった。申公と白生が無理に起こして言った。「どうして先王の恩徳を思わないのか。今、王がちょっとした礼を欠いただけで、どうしてここまでする必要があるのか。」穆生は言った。「易経に『幾を知ることは神の如し。幾とは動きの微かな兆しであり、吉凶の先に現れるものである。君子は幾を見て行動し、一日も待たない。』とある。先王が我々三人を礼遇したのは、道が存するが故である。今、王がそれを軽んじるのは、道を忘れたのだ。道を忘れた者と、どうして長く共にいられようか。どうしてわずかな礼のためだけのことだろうか。」こうして病気を理由に辞去した。申公と白生だけが留まった。
王戊は次第に淫乱で暴虐となり、二十年、薄太后の喪服の期間中に私通し、東海郡と薛郡を削られ、そこで呉王と謀議を通じた。二人(申公と白生)が諫めたが、聞き入れず、胥靡(囚徒)の刑に処し、赭衣(赤い囚人服)を着せ、杵と臼を持たせて市場で雅舂(米つきの刑罰)をさせた。休侯(劉富)は人を遣わして王を諫めたが、王は言った。「季父(叔父)は私に与(賛同)しない。私が立ち上がれば、まず季父を取るだろう。」休侯は恐れ、母の太夫人と共に京師(長安)に逃れた。二十一年の春、景帝の三年である。削封の 詔 書が届くと、すぐに呉王の反乱に呼応した。その相の張尚と太傅の 趙 夷吾が諫めたが、聞き入れなかった。そこで張尚と趙夷吾を殺し、兵を起こして呉王と合流し西進して梁を攻め、棘壁を破り、昌邑の南まで進み、漢の将軍周亜夫と戦った。漢軍は呉・楚の糧道を断ち、兵士は飢え、呉王は敗走し、王戊は自殺し、軍は遂に漢に降伏した。
漢が既に呉・楚を平定すると、景帝は宗正の平陸侯劉礼を楚王に立て、元王(劉交)の後を継がせた。これが文王である。四年で 薨去 し、子の安王劉道が嗣いだ。二十二年で 薨去 し、子の襄王劉注が嗣いだ。十四年で 薨去 し、子の節王劉純が嗣いだ。十六年で 薨去 し、子の劉延寿が嗣いだ。宣帝が即位すると、延寿は、広陵王劉胥が武帝の子であるから、天下に変事があれば必ず即位できると考え、ひそかに彼に附き頼って輔佐しようとし、故意に自分の異父弟の趙何斉に広陵王の娘を娶らせた。そして何斉と謀って言った。「私は広陵王と結び、天下が不安定になったら兵を起こして助け、広陵王を即位させれば、何斉は公主を娶り、列侯になることができる。」そこで何斉を使い、書を奉じて広陵王に送り、「どうか耳目を長くして、天下を取るのに後れを取らないように」と言わせた。何斉の父の長年が上書してこれを告発した。事は有司に下され、取り調べて供述に服し、延寿は自殺した。即位して三十二年、国は除かれた。
初め、休侯劉富が京師に逃れた後、王戊が反乱を起こすと、劉富らは皆連座して侯位を免ぜられ、属籍を削られた。後に彼がたびたび王戊を諫めていたと聞き、改めて紅侯に封じた。太夫人は竇太后と親戚関係にあり、山東(崤山以東)の賊(呉楚七国の乱)を戒めとして、京師に留まることを請い、 詔 によって許された。劉富の子の劉辟彊ら四人が供養し、朝廷に仕えた。太夫人が 薨去 すると、塋地を賜り、霊戸に葬られた。劉富は国を伝えて曾孫まで至ったが、子がなく、絶えた。
辟彊は字を少卿といい、また詩を読むことを好み、文章を綴ることができた。武帝の時、宗室の子として二千石の官吏と共に議論に加わり、宗室の中で最も優れていた。清静で欲望が少なく、常に書物を以て自ら楽しみ、仕官を肯んじなかった。昭帝が即位すると、ある者が大将軍 霍光 に説いて言った。「将軍は諸呂の事(呂氏一族の滅亡)をご覧になりませんでしたか?伊尹や周公のような地位にあり、摂政として権力を擅にしながら、宗室を疎外し、共に職務を分かたなかったので、天下の信頼を得られず、遂には滅亡に至りました。今将軍は盛んな地位にあり、帝は年が若く(春秋富む)、宗室を登用し、また多く大臣と共に政事を行い、諸呂のやり方と反対の道を行けば、このようにすれば禍いを免れることができます。」 霍光 はそれに同意し、そこで宗室の中で有用な者を選んだ。辟彊の子の劉徳が丞相府で待 詔 しており、三十余歳で、彼を用いようとした。ある者が言うには、父が存命であり、また先帝(武帝)の寵愛を受けた者でもある、と。そこで辟彊を光禄大夫に拝し、長楽衛尉を守らせた。時に年は既に八十であった。宗正に転じ、数ヶ月で卒した。
劉徳は字を路叔といい、若い頃から黄老の術を修め、知略があった。若い時しばしば時事について意見を述べ、甘泉宮に召し出され、武帝は彼を「千里駒」と呼んだ。昭帝の初め、宗正丞となり、劉沢の 詔 獄を雑治(共同審理)した。父が宗正となると、大鴻 臚 丞に転じ、太中大夫に遷り、後に再び宗正となり、上官氏と蓋主(蓋長公主)の事件を雑案(共同審理)した。劉徳は常に老子の知足の計(考え)を堅持した。妻が死ぬと、大将軍 霍光 は娘を娶らせようとしたが、劉徳は敢えて娶らなかった。盛んで満ちることを恐れたからである。蓋長公主の孫の譚が劉徳を遮って自ら訴え出たが、劉徳はたびたび公主の起居に道理がないと責めた。侍御史は、 霍光 が娘を娶られなかったことを恨んでいると思い、意を受けて劉徳を弾劾し、 詔 獄で誹謗の罪に問い、庶人に免じて、山田に隠居させた。 霍光 はこれを聞いて悔やみ、再び上奏して劉徳を召し出し、青州 刺史 を守らせた。一年余りして、再び宗正となり、宣帝を立てることに参与し、策定の功で関内侯の爵を賜った。地節年間中、親族を親しみ行いが謹厚であることを以て陽城侯に封ぜられた。子の劉安民は郎中右曹となり、宗家で劉徳の力で官職を得て宿衛についた者は二十余人いた。
劉徳は寛厚で、生き物を施し放すことを好み、 京兆尹 の職務を代行するたびに、罪人を多く平反した。家産が百万を超えると、兄弟や賓客の飲食のために振る舞い、言った。「富は、民の怨みの的である。」十一年立って、子の劉向が偽の黄金を鋳造した罪に連座し、法に伏すべきところであったが、劉徳は上書して子の罪を訟った。ちょうどその時 薨去 した。大鴻臚が上奏し、劉徳が子の罪を訟ったのは大臣の体を失うものであり、諡を賜い嗣を立てるのに相応しくないとした。 詔 には「諡を繆侯と賜い、嗣を立てよ」とあった。孫の劉慶忌に伝わり、再び宗正太常となった。 薨去 し、子の劉岑が嗣ぎ、諸曹中郎将、列 校尉 を経て、太常に至った。 薨去 し、子に伝わり、 王莽 が敗れるに至って、ようやく絶えた。
劉向は字を子政といい、本名は更生である。十二歳の時、父の劉徳の任子(父の官位による任官)で輦郎となった。元服後、行いが修飾されているとして抜擢され諫大夫となった。この時、宣帝は武帝の故事に倣い、名儒や俊材を招選して側近に置いた。更生は通達して文辞を綴ることができ、王褒や張子僑らと共に進み出て応対し、賦や頌を献上すること数十篇に及んだ。上(宣帝)はまた神仙方術の事を興し、淮南王に『枕中鴻宝苑秘書』があった。この書は神仙が鬼物を使って金を作る術や、鄒衍の重道延命の方を説いており、世の人は見たことがなかったが、更生の父の劉徳が武帝の時に淮南王の獄を治めた際にこの書を得ていた。更生は幼い頃からこれを読み誦し、珍しいものと思い、献上して、黄金を作ることができると述べた。上は尚方の鋳造事業を主管させたが、費用が非常に多く、方術は験しなかった。上は更生を吏に下し、吏は更生が偽の黄金を鋳造したと弾劾し、拘束して死罪に当たるとした。更生の兄の陽城侯劉安民が上書し、封国の戸数の半分を納めて、更生の罪を贖った。上もまたその才能を奇として、冬を過ぎて死刑を減じる判決を得た。ちょうど穀梁春秋が初めて立てられるときで、更生を徴して穀梁を受けさせ、石渠閣で五経を講論させた。再び郎中給事黄門に拝し、散騎諫大夫給事中に遷った。
元帝が即位した当初、太傅の蕭望之が前将軍となり、少傅の周堪が諸吏光禄大夫となった。二人はともに尚書事を統轄し、非常に尊重され重用された。劉更生は蕭望之や周堪よりも年下であったが、二人は彼を重んじ、劉更生は宗室の者で忠誠心があり正直であり、経書に明るく品行が良いと推薦し、散騎宗正給事中に抜擢され、侍中の金敞とともに皇帝の左右で遺漏を補った。四人は心を合わせて政治を補佐したが、外戚の許氏や史氏が高位にあり放縦であることを苦慮し、また中書宦官の弘恭や石顕が権力を弄ぶのを患い、蕭望之や周堪、劉更生は協議して、彼らを罷免し退けるよう上奏しようとした。上奏する前に話が漏れ、ついに許氏、史氏および弘恭、石顕の讒言にあい、周堪と劉更生は獄に下され、蕭望之も免官となった。詳細は蕭望之伝にある。その春に地震があり、夏には客星が昴星と巻舌星の間に現れた。皇帝は感づき悟り、 詔 を下して蕭望之に関内侯の爵位を賜い、奉朝請とした。秋に周堪と劉向(劉更生)を召し出し、諫大夫にしようとしたが、弘恭と石顕が上奏してともに中郎とした。冬に再び地震があった。当時、弘恭、石顕、許氏、史氏の子弟や侍中ら諸曹の者たちは、皆蕭望之らを睨みつけ、劉更生はこれを恐れ、そこで自分の外戚の者に変事(異常な出来事)を上奏させ、次のように言わせた。
ひそかに聞くところによると、故前将軍蕭望之らは皆忠誠で公正で私心がなく、大いなる治世を実現しようとして、貴戚や尚書たちに逆らったという。今、道行く人が蕭望之らが再び進用されると聞いて、まさにまた誹謗や讒言にあうだろうと考え、必ずやかつて過ちを犯した臣下は再び用いるべきではないと言うが、これはまったく正しくない。臣が聞くところでは、春秋時代に地震があったのは、在位する執政者が強大すぎたためであり、三人の孤独な者(蕭望之ら)のために動いたのではなく、それはすでに明らかである。かつて高皇帝(高祖)の時代、季布は罪を犯し、誅滅されるところまでいったが、後に赦されて将軍となり、高后(呂后)や孝文帝の時代にはついに名臣となった。孝武帝の時代、兒寛は重罪を犯して拘束されたが、按道侯の韓説が諫めて言った。「以前、吾丘寿王が死んだ時、陛下は今に至るまでそれを悔やんでおられます。今、兒寛を殺せば、後でまた大いに悔やむことになるでしょう」。皇帝はその言葉に感じ入り、ついに兒寛を赦し、再び用いて、御史大夫の位に至らせたが、御史大夫で兒寛に及ぶ者はなかった。また、 董仲舒 は私的に災異の書を作った罪に坐し、 主父偃 がそれを取り上げて上奏したため、獄吏に下され、不道の罪に至ったが、幸いにも誅殺されず、再び太中大夫、膠西の相となり、老病のため免職されて帰郷した。漢王朝が何かを興そうとする時には、常に 詔 を下して彼に問うた。董仲舒は世の儒者の宗師となり、議論を定めて天下に益があった。孝宣皇帝の時代、夏侯勝は誹謗の罪で獄に繋がれ、三年後に免職されて庶人となった。宣帝は再び夏侯勝を用い、長信少府、太子太傅に至らせた。彼は直言を敢えてする名声があり、天下の人は彼を称賛した。その他の群臣についても、このような例は多く、いちいち記すのは難しい。過ちを犯した臣下であっても、国家に背いたわけではなく、天下に益があるならば、この四人の臣下の例で十分にわかるであろう。
上書が奏上されると、弘恭と石顕はこれが劉更生の仕業ではないかと疑い、上奏してその奸詐を糾明するよう請うた。尋問の結果、その言葉は事実と判明し、ついに劉更生を捕らえて獄に繋ぎ、太傅の韋玄成と諫大夫の貢禹に命じて、廷尉とともに審理させた。劉更生を弾劾して、以前九卿であった時に、蕭望之や周堪と謀って車騎将軍の高氏(外戚)や許氏、史氏の侍中らを排斥し、親戚関係を毀損し離間させ、彼らを退け去らせようとして、独り権力を専らにしたとし、臣下として不忠である、幸いにも誅殺されず、再び恩恵を受けて召し出されて用いられたのに、以前の過ちを悔い改めず、かえって人に命じて変事を言わせ、事実を歪めて不道を働いたとした。劉更生は罪に坐して免職され庶人となった。一方、蕭望之もまた自分の子に上書させて以前のことを冤罪だと訴えさせた罪に坐し、弘恭と石顕が上奏して獄に赴いて対決するよう命じた。蕭望之は自殺した。天子は非常に悼み悔やみ、そこで周堪を光禄勲に抜擢し、周堪の弟子の張猛を光禄大夫給事中とし、大いに信任された。弘恭と石顕は彼らを畏れ、しばしば讒言して誹謗した。劉更生は周堪と張猛が在位しているのを見て、自分もまた進用される機会を得られるかもしれないと思ったが、彼らが危険に陥ることを恐れ、そこで封事(密封した上書)を奉って諫めて言った。
臣は以前幸いにも骨肉の身をもって九卿の列に備わり、法を奉ずるのに謹んでいなかったのに、またもや恩恵を蒙りました。ひそかに見るに、災害と異変がともに起こり、天地が常道を失い、その徴候が国家のために現れています。最後まで言わないでおこうと思いましたが、忠臣たるものは畑の中にいても、なお君主を忘れないという、倦むことのない忠義の心を思います。ましてや骨肉の親という重い関係に加え、さらに以前受けた恩恵がまだ報いられていないのです。愚かな誠意を尽くそうと思いますが、また職分を越えることを恐れます。しかし、二つの恩(骨肉の恩と旧恩)がまだ報いられていないこと、忠臣の義を考え、一度愚意を述べ、退いて農耕に就き、死んでも何の恨みもありません。
臣が聞くところによると、舜は九官を任命し、立派な人材が互いに譲り合い、和合の極みに達した。多くの賢者が朝廷で和すれば、万物は野で和する。だから簫韶の楽が九度奏でられると、鳳凰が来て儀容を示し、石を打ち鳴らすと、百獣がみな舞った。四海の内は、和らぎ寧らかでないところはなかった。周の文王の時代に至ると、西郊(岐山)で基業を開き、多くの賢者が集まり、肅んで和がない者はなく、譲り合いの風を尊び推し進めて、争いの訴訟を消し去った。文王が亡くなると、周公は慕い偲び、文王の徳を歌い詠んだ。その『詩経』に「ああ、美しい清廟よ、肅み雍ぎて顕らかなる相け、濟濟たる多くの士、文王の徳を秉る」とある。この時、武王と周公が政務を継ぎ、朝廷の臣下は内で和し、万国は外で喜び、だからその歓心をことごとく得て、先祖に仕えることができた。その『詩経』に「来たりて雍雍たり、至りて肅肅たり、相くる維れ辟公、天子穆穆たり」とある。四方が皆和をもって来たというのである。諸侯が下で和すれば、天は上で応えて報いる。だから周頌に「福の降ること穰穰たり」とあり、また「我に釐麰を飴う」とある。釐麰とは麦であり、天から降り始める。これらは皆、和をもって和を招き、天の助けを得たのである。
下って幽王、厲王の時代になると、朝廷は和せず、互いに非難し怨み合い、詩人はこれを憂えて病み、「民良からず、一方を相怨む」と詠んだ。多くの小人が位にいて邪な議論に従い、歙歙として互いに是とし君子に背いた。だからその『詩経』に「歙歙訿訿、また孔だ哀れなり。之を謀るに其れ臧くんば、則ち具に是に違く。之を謀るに其れ臧からざれば、則ち具に是に依る」とある。君子は独りで正しきを守り、多くの邪な者に屈せず、王事に従うよう努力すれば、かえって憎まれ毒づかれ讒言される。だからその『詩経』に「密勿として事に従い、敢えて労を告げず、罪無く辜無し、讒口嗷嗷たり」とある。この時、日月は蝕んで光がなく、その『詩経』に「朔日辛卯、日に之を蝕する有り、また孔だ醜し」とあり、また「彼の月は微み、此の日は微み、今此の下民、また孔だ哀れなり」とあり、また「日月凶に鞠まり、其の行を用いず。四国政無く、其の良を用いず」とある。天変が上に現れ、地変が下で動き、水泉は沸騰し、山谷は場所を変えた。その『詩経』に「百川沸騰し、山冢卒に崩れ、高岸は谷と為り、深谷は陵と為る。今の人を哀しむ、胡ぞ憯くも懲ざる」とある。霜が降るのに節を失い、その時を以てしない。その『詩経』に「正月繁霜、我が心憂傷す。民の訛言、また孔だ将だ大なり」とある。民がこれを以て非とする、甚だ衆大であるというのである。これらは皆、不和であり、賢者と不肖者の位置が入れ替わったことによって引き起こされたのである。
この後から、天下は大いに乱れ、 簒奪 や殺害、災禍が同時に起こり、厲王は彘に逃れ、幽王は殺害された。平王の末年、魯の隠公が即位し始めた頃、周の大夫である祭伯が不和を生じて出奔し魯に逃れたが、春秋はこれを避けて「来奔」と言わず、その禍害がここから始まったことを悲しんだのである。その後、尹氏が代々卿となり専横を極め、諸侯は背いて朝貢せず、周王室は衰微した。二百四十二年の間に、日食が三十六回、地震が五回、山陵の崩壊が二回、彗星が三回出現し、夜に常星が見えず、夜中に星が雨のように降るのが一回、火災が十四回あった。長狄が三つの国に入り、五つの石が落下し、六羽の鶂が退いて飛び、麋が多く、蜮や蜚が現れ、鴝鵒が巣を作るのが、それぞれ一回見られた。昼間が暗くなり、木に氷がつく雨が降り、李や梅が冬に実をつけた。七月に霜が降り、草木が枯れず、八月に菽が枯れた。大粒の雹が降り、雨や雪、雷が順序を失って相次いだ。洪水、旱魃、飢饉、蝝、螽、螟が同時に発生した。この時、禍乱はただちに応じ、君主を 弑 する事件が三十六回、国が滅ぶことが五十二回、諸侯が奔走し、その 社稷 を保つことができなかった者は、数えきれないほどであった。周王室には多くの禍いがあった。晋が貿戎でその軍を破り、その郊を伐ち、鄭が桓王を傷つけ、戎がその使者を捕らえ、衛侯の朔が召されても行かず、斉が命令に逆らって朔を助け、五大夫が権力を争い、三君が代わる代わる立てられ、正しい道理を行う者がいなかった。ついに衰微して再興できなくなったのである。
これを見ると、和やかな気は吉祥を招き、不和な気は異変を招く。吉祥が多い国は安泰であり、異変が多い国は危うい。これは天地の不変の道理であり、古今を通じた普遍の原則である。今、陛下は三代の業を開き、文学の士を招き、ゆったりと寛容に接し、彼らを並行して登用させている。今、賢者と不肖者が入り混じり、白黒が分からず、邪と正が雑然とし、忠臣と讒言する者がともに進んでいる。上奏文が公車に交わり、人は北軍に満ちている。朝臣は互いに反目し、ねじれて対立し、互いに讒言し、転じて互いに非難し合う。伝聞が加わり、文書は紛糾し、前後が錯綜し、毀誉褒貶が混乱している。それによって耳目を惑わし、心を動かすことは、書き尽くせないほどである。分かれて徒党を組み、しばしば群れをなして朋党となり、心を合わせて正しい臣を陥れようとしている。正しい臣が進むことは、治世の表れである。正しい臣が陥れられることは、乱世の兆しである。治乱の機に乗じて、誰が任に当たるか分からないのに、災異がしばしば現れる。これが臣が寒心する所以である。権勢を握る者の子弟は鱗のように朝廷に集まり、陰で付き従う者は多く、車の輻が轂に集まるように前に集まり、毀誉褒貶が必ず用いられて、ついには不和の咎めに終わるであろう。それゆえ、日月は光を失い、雪や霜が夏に降り、海水が沸き出て、丘陵と谷が入れ替わり、列星が運行を失う。これらは皆、怨みの気が招いたものである。衰えた周の軌跡に従い、詩人が諷刺したことを踏襲しながら、太平を成し、雅頌をもたらそうとするのは、後ろ向きに歩きながら前人に追いつこうとするようなものである。初元以来六年になる。春秋を調べると、六年の間に、災異が今のように頻繁だったことはない。春秋の異変があっても、孔子のような救いがなければ、紛糾を解くことさえできないのに、まして春秋よりも甚だしい場合はどうであろうか。
その所以を推し量れば、讒言する邪な者がともに進むからである。讒言する邪な者がともに進む所以は、上に疑心が多いからである。すでに賢人を用いて善政を行っていても、もし誰かが讒言すれば、賢人は退き善政は元に戻ってしまう。狐疑の心を持つ者は、讒賊の口を招き、断たない意思を持つ者は、多くの邪な者の門を開く。讒邪が進めば多くの賢人は退き、多くの邪な者が盛んになれば正しい士は消える。ゆえに易に否泰がある。小人の道が長じ、君子の道が消える。君子の道が消えれば、政治は日に日に乱れる。ゆえに否となる。否とは、閉ざされて乱れることである。君子の道が長じ、小人の道が消える。小人の道が消えれば、政治は日に日に治まる。ゆえに泰となる。泰とは、通じて治まることである。詩にも「雨雪麃麃、見晛聿消」とあり、易と同じ意味である。昔、鯀、共工、驩兜が舜、禹と共に堯の朝廷に雑居し、周公が管叔、蔡叔と共に周の地位に並んでいた。その時、互いに進んでは誹謗し、流言飛語で互いに謗り合ったことは、どうして言い尽くせようか。帝堯、成王は舜、禹、周公を賢として用い、共工、管叔、蔡叔を退けたので、大いに治まり、その栄華は今日に至っている。孔子と季孫氏、孟孫氏が共に魯に仕え、李斯と 叔孫通 が共に秦に仕えた。定公、始皇は季孫氏、孟孫氏、李斯を賢として用い、孔子、叔孫通を退けたので、大いに乱れ、その汚辱は今日に至っている。ゆえに治乱栄辱の端緒は、信任するところにある。信任する者が既に賢であれば、それは堅固で動かないことにある。詩に「我心匪石、不可轉也」とある。善を守ることに篤実であることを言うのである。易に「渙汗其大號」とある。号令は汗のようで、汗は出て戻らないことを言うのである。今、善い法令を出しても、時を過ぎずに撤回するのは、汗を戻すことである。賢人を用いても三旬も経たずに退けるのは、石を転がすことである。論語に「不善を見ること湯を探るが如し」とある。今、二府が佞諂の徒がその位にふさわしくないと上奏しても、数年経っても去らない。ゆえに法令を出すのは汗を戻すようであり、賢人を用いるのは石を転がすようであり、佞人を去らせるのは山を引き抜くようである。このようにして陰陽の調和を望むのは、また難しいことではないか。
それゆえ、多くの小人が隙間を窺い、文字を飾り立て、巧みな言葉で醜く誹謗し、流言飛文を飛ばして、民間に喧伝する。ゆえに詩に「憂心悄悄、慍于群小」とある。小人が群れをなすことは、誠に腹立たしいことである。昔、孔子と顔淵、子貢は互いに称え合ったが、朋党とはならなかった。禹、稷と皋陶は互いに引き立て合ったが、結託して私利を図ることはなかった。なぜか。国に忠誠を尽くし、邪な心がなかったからである。ゆえに賢人が上位にいれば、その同類を引き寄せて朝廷に集める。易に「飛龍在天、大人聚也」とある。下位にいれば、その同類と共に進もうと考える。易に「茅を抜き茹ねて其の彙を以てす、征くは吉なり」とある。上位にあればその同類を引き寄せ、下位にあればその同類を推し進める。ゆえに湯が伊尹を用いた時、不仁な者は遠ざかり、多くの賢人が至った。同類は互いに招き合うのである。今、佞邪の徒と賢臣が共に宮中に並び、徒党を組んで共に謀り、善に背き悪に依り、ひそひそと悪口を言い合い、しばしば危険な言葉を設けて、主上を動揺させようとしている。もし突然これを用いるならば、これが天地が先に戒め、災異が重なって至る所以である。
古より明聖な君主で、誅罰なくして治めた者はない。ゆえに舜には四つの放逐の罰があり、孔子には両観の誅殺があり、その後で聖なる教化が行われ得たのである。今、陛下の明知をもって、誠に天地の心を深く考え、両観の誅殺の跡を察し、否泰の卦を覧、雨雪の詩を観、周や唐が進用したことを歴て法とし、秦や魯が退けたことを推し量って戒めとし、吉祥の応ずる福を考え、災異の禍いを省み、当世の変を推し量り、佞邪の徒党を遠ざけ放ち、険 詖 な徒の集まりを壊し散らし、多くの邪な者の門を閉ざし塞ぎ、多くの正しい者の道を広く開き、狐疑を断ち切り、猶 豫 を分別して、是非を明らかに知らしめれば、百の異変は消滅し、多くの吉祥が共に至り、太平の基、万世の利となるであろう。
臣は幸いにも肺腑に託され、陰陽が調和していないのを見て、敢えて聞いたことを通奏しないわけにはいきません。ひそかに春秋の災異を推し量り、今の事柄に照らして一二を挙げ、その所以を条陳しましたが、公にすべきではありません。臣は謹んで重ねて封をし、昧死して上奏します。
恭と顕はその上書を見て、ますます許氏や史氏と結託し、更生らを怨んだ。堪は公正な性格で、自分が孤立しているのを自覚し、遂にまっすぐな道を歩み、曲がることをしなかった。この年の夏は寒く、太陽は青く光がなかった。恭と顕、および許氏・史氏は皆、堪と猛が政務を執ったことの災いであると言った。皇帝は内心、堪を重んじていたが、また多くの者の口から徐々に讒言が入ることを憂い、信じるべきところがなかった。当時、長安令の楊興は才能によって寵愛を受け、常に堪を称賛していた。皇帝は彼を助けにしようと思い、そこで楊興に会って尋ねた。「朝臣たちが口をそろえて光禄勲にふさわしくないと言うのは、なぜか?」楊興はへつらう巧みな人物で、皇帝が堪を疑っていると思い、それに従って意向に沿って言った。「堪は朝廷においてのみならず、州里においてもふさわしくありません。臣は、人々が堪が以前に劉更生らと謀って骨肉を誹謗したと聞き、誅殺されるべきだと思っているのを見ました。それ故に、臣が以前に堪を誅殺してはならないと言ったのは、国のために恩を養うためです。」皇帝は言った。「では、これは何の罪があって誅殺するのか?今、どうすべきか?」楊興は言った。「愚臣の考えでは、関内侯の爵位を賜り、三百戸を食邑とし、事を司らせないようにすべきです。明主は師傅への恩を失わず、これが最も得策です。」皇帝はそこで疑念を抱いた。ちょうど城門 校尉 の諸葛豊もまた堪と猛の短所を言ったので、皇帝は怒りを発して豊を免官した。その話は彼の伝にある。また言った。「豊は、堪と猛が貞信を立てないと言うが、朕は哀れんで処罰せず、またその才能がまだ何の効果も上げていないのを惜しむ。堪を左遷して河東太守とし、猛を槐里令とする。」
顕らが権力を専断するのは日増しにひどくなった。その後三年余りして、孝宣皇帝の廟の門楼が火災に遭い、その月の晦日には日食があった。そこで皇帝は以前に日食の変異は堪と猛にあると言った者たちを呼び出して責め問うと、皆が叩頭して謝罪した。そこで 詔 を下して言った。「河東太守の堪は、先帝が賢人と認め、命じて朕の傅とされた。資質は優れて盛ん、道術に通明し、議論は正直、心を保って常にあり、憤りを発して真心を尽くし、確かに国を憂うる心があった。尊貴に阿り事えることができず、孤立して助けが少なく、抑圧されて遂に退けられ、ついに明らかにされなかった。以前、多くの臣下が異変を見て、自らを修めようとせず、深くその原因を考えず、かえって曖昧に天を説き、その災いをこの人に託した。朕はやむを得ず、外に出して試し、その才能を明らかにしようとした。堪が出て行った後、大きな異変が相次ぎ、人々も黙り込んだ。堪が治めて一年にも満たないうちに、三老や官属、識見ある士人がその美徳を詠い称え、使者がその郡を通る時、称賛しない者はなかった。これは確かに先帝が人を見抜いたことを明らかにするに足り、また朕が自らを明らかにする理由がある。俗人たちは事の端緒を作り、非難し誹謗し欺き、あるいは幽隠なことを引き合いに出し、明らかにすべきでないことを、類をもって疑い、陥れようとしたが、朕もまた採用しない。朕は俗論に迫られ、専心することができなかった。先般、天が大きな異変を示したので、朕は甚だ恐れている。今、堪は年老いて歳も暮れ、自ら信じることができず、異なる人々に排斥されて、どうしてその真価を究められようか?堪を行在所に召し出せ。」光禄大夫に任じ、秩禄は中二千石とし、尚書事を領させた。猛は再び太中大夫給事中とした。顕は尚書を管轄し、尚書五人はいずれも彼の仲間であった。堪はめったに会うことができず、常に顕を通じて事を奏上し、事の決断は顕の口から出た。ちょうど堪が病気で声が出なくなり、ものを言えずに亡くなった。顕は猛を誣告して讒言し、公車で自殺させた。更生はこれを悲しみ、『疾讒』、『擿要』、『救危』および『世頌』を著し、合わせて八篇、古い故事に依拠して、自分と同類の者を悼んだ。こうして十余年間、官に就けなかった。
成帝が即位すると、顕らは罪に伏し、更生は再び進用され、名を向と改めた。向は以前の九卿として召し出され中郎に任じられ、三輔都水を統轄させた。たびたび封事を奏上し、光禄大夫に昇進した。この時、皇帝の母方の伯父である陽平侯王鳳が大将軍として政務を執り、太后に依拠して国権を専断し、兄弟七人みな列侯に封ぜられた。当時、たびたび大きな異変があり、向は外戚が貴盛であること、王鳳兄弟が政務を執ることの災いであると考えた。一方、皇帝は詩書に精通し、古文を観覧し、 詔 して向に中の五経秘書の校訂を統轄させた。向は『尚書』の「洪範」を見て、箕子が武王に五行陰陽の吉凶の応報を述べた。向はそこで上古以来、春秋・六国を経て秦漢に至る符瑞災異の記録を集め、事跡を推し究め、禍福を連ねて伝え、その占いの応験を著し、類を比べて従わせ、それぞれ条目を設け、合わせて十一篇、『洪範五行伝論』と号して、奏上した。天子は内心、向の忠誠と精励を知っていたので、王鳳兄弟のためにこの論を起こしたのだとわかったが、結局王氏の権力を奪うことはできなかった。
長い時が経ち、昌陵の造営が始まったが、数年経っても完成せず、再び延陵に戻ったが、制度が甚だ奢侈であった。向は上疏して諫めて言った。
臣は『易』に「安きを忘れず危うきを忘れず、存するを忘れず亡ぶるを忘れず、これをもって身安くして国家保たるべし」とあるのを聞きます。それ故、賢聖の君主は、終始を広く観察し、事の情を極め尽くし、是非を明らかにします。王者は必ず三統に通じ、天命の授けるところは広く、ただ一姓だけではないことを明らかにします。孔子が『詩』を論じ、「殷の士膚敏にして、京に於いて祼将す」に至り、慨然として嘆いて言われました。「大いなるかな天命!善は子孫に伝えずにはおれない。それ故、富貴は常ならず。このようでなければ、王公はどうして戒め慎み、民衆はどうして励み努めようか?」おそらく微子が周に仕えたことを悲しみ、殷の滅亡を痛んだのでしょう。堯・舜のような聖人であっても、丹朱の子を教化することはできず、禹・湯のような徳があっても、末孫の桀・紂を訓戒することはできません。古から今まで、滅びない国はありません。昔、高皇帝が秦を滅ぼした後、 洛陽 に都を置こうとしたが、劉敬の言葉に感づき、自らの徳は周に及ばず、秦よりは賢いと考え、遂に関中に遷都し、周の徳に依り、秦の険阻に拠りました。世の長短は、徳によって効果が現れるので、常に戦慄し、滅亡を忌み憚ることを敢えてしません。孔子の言う「富貴は常ならず」とは、おそらくこのことを言うのでしょう。
孝文皇帝が霸陵に居た時、北側の側面に臨み、気持ちが凄愴で悲しみに沈み、群臣を顧みて言われた。「ああ、北山の石を槨とし、紵絮を以てその間を斬り漆で塗り固めれば、どうして動かせようか!」張釈之が進み出て言った。「もしその中に欲するものがあれば、南山を閉じ込めてもまだ隙間があるでしょう。もしその中に欲するものがなければ、石の槨がなくても、何を憂うることがありましょうか?」死者には終わりがなく、国家には廃興がある。それ故、釈之の言葉は、無限の将来のための計らいです。孝文皇帝は悟り、そこで薄葬とし、山のような墳墓を築きませんでした。
『易』に言う。「古の葬る者は、厚くこれに薪を衣せ、野中に蔵し、封ぜず樹せず。後世の聖人、棺槨をもってこれに易う。」棺槨の作られるのは、黄帝から始まります。黄帝は橋山に葬られ、堯は済陰に葬られ、丘塚は皆小さく、葬具は甚だ粗末でした。舜は蒼梧に葬られ、二妃は従いません。禹は会稽に葬られ、その行列を改めませんでした。殷の湯王には葬られた場所がありません。文王・武王・周公は畢に葬られ、秦の穆公は雍の橐泉宮祈年館の下に葬られ、樗里子は武庫に葬られ、いずれも丘塚の場所はありません。これは聖帝明王・賢君智士が遠くを見渡し、独自に慮って、無限の将来のための計らいです。その賢臣孝子もまた命を受け、意に順って薄葬した。これは誠に君父を奉って安んじる、忠孝の極みです。
周公は武王の弟であるが、兄を葬るのに非常に質素であった。孔子は母を防に葬り、古い墓を称して墳丘を築かず、「私は東西南北を渡り歩く者であるから、目印を付けずにはいられない」と言った。四尺の墳丘を築いたが、雨に遭って崩れた。弟子たちがそれを修復し、孔子に報告すると、孔子は涙を流して言った。「私は聞いている。古の人は墓を修復しないと」。おそらくこれを非としたのであろう。延陵の季子(季札)は斉に行って帰る途中、その子が死んだので、嬴と博の間に葬り、穴を泉にまで及ばず、その時の衣服で納め、墳丘を築いて穴を埋め、その高さは隠れる程度で、そして号して言った。「骨肉は土に帰る、これが運命である。魂気はどこにでも行くのだ」。嬴と博は呉から千有余里離れており、季子は帰って葬らなかった。孔子が見に行って言った。「延陵の季子のやり方は礼に合っている」。だから仲尼(孔子)は孝子であり、延陵季子は慈父であり、舜と禹は忠臣であり、周公は弟としての道を尽くしたが、彼らが君主や親、骨肉を葬るのに、皆きわめて質素であった。けっして倹約のためだけではなく、まことに体(礼の本質)に適っていたのである。宋の桓司馬が石の外棺を作ったとき、仲尼は「早く朽ちるほうがましだ」と言った。秦の丞相呂不韋は知略の士を集めて『春秋』を作り、薄葬の意義についても述べているが、皆、事の実情を明らかにした者たちである。
呉王闔閭の時代に至り、礼に背いて厚葬し、十余年後に越人がその墓を発掘した。また秦の恵文王、武王、昭王、厳襄王(荘襄王)の五王は、皆大きな墳丘を築き、多くの副葬品を埋めたが、ことごとく発掘されて露わになり、まことに悲しむに足ることであった。秦の 始皇帝 は 驪 山の麓に葬られ、地下は三泉までを銅で固め、地上は山のような墳丘を高く築き、その高さは五十余丈、周囲は五里余りに及んだ。石の外棺を離宮とし、人の脂を灯燭とし、水銀を江海とし、黄金を鳧雁(野鴨と雁)の形にした。珍宝の蔵、機械の仕掛け、棺や外棺の華麗さ、宮殿や建物の壮麗さは、とても言い尽くせないほどであった。さらに多くの宮人を殺し、工匠を生き埋めにし、その数は万単位に及んだ。天下はその労役に苦しんで反乱を起こし、驪山の工事が完成しないうちに、周章( 陳勝 の将軍)の百万の軍勢がそのふもとにまで迫った。項籍(項羽)がその宮室や営舎を焼き払い、以前からあったものはことごとく発掘された。その後、羊飼いの少年が羊を逃がし、羊が掘られた穴に入ったので、羊飼いが火を持って羊を探し求め、誤って火が副葬品や外棺を焼いてしまった。古から今まで、葬儀が始皇帝ほど盛大だったことはなく、数年という短い間に、外には項籍の災難を受け、内には羊飼いの少年の禍いに遭い、なんと哀れなことではないか。
したがって、徳が厚い者ほど葬儀は質素であり、知恵が深い者ほど葬儀は簡素である。徳がなく知恵の少ない者は、その葬儀が厚ければ厚いほど、墳丘はますます高く、宮殿や廟は非常に華麗になり、発掘されるのも必ず早い。このことから見れば、明暗(賢明と愚暗)の効果、葬儀の吉凶が、はっきりと見て取れるのである。周の徳が衰えて奢侈になり、宣王は賢明で中興したが、さらに宮室を倹約し、寝廟を小さくした。詩人がこれを称え、『斯干』の詩がそれである。上の章は宮室が制度に合っていることを述べ、下の章は子孫の繁栄を言っている。また魯の厳公(荘公)は宗廟を彫刻で飾り、多くの台や苑を築いたので、後継者が二度も絶え、『春秋』がこれを風刺している。周の宣王はあのようにして栄え、魯や秦はこのようにして絶えた。これがすなわち、奢侈と倹約の得失なのである。
陛下が即位され、自ら倹約に努め、最初の陵を営み始められたとき、その規模は控えめで小さく、天下の誰もが賢明であると称えなかった者はなかった。ところが昌陵に移されると、低いところを高くし、土を積んで山とし、民衆の墓を発掘し、その数は万単位に及び、邑や住居を建設し、工期が逼迫し、費用は大万(億)百余りに上った。死者は地下で恨み、生きている者は上で憂い、怨みの気持ちが陰陽を動かし、それによって飢饉が起こり、死亡したり離散したりした者は十万単位に上り、臣は非常に心を痛めております。もし死者に知覚があるならば、人の墓を発掘することは害が多い。もし知覚がないならば、さらに何のために大規模な墓が必要なのか。賢明で知恵のある者に相談すれば喜ばず、一般民衆に見せれば苦しめる。もし愚かな者や淫侈な人々を喜ばせるためだけならば、何のためにそんなことをする必要があるのか。陛下は慈愛に満ち仁徳が厚く、聡明で見識が広く世に優れておられる。漢王朝の徳を広め、劉氏の美点を尊び、五帝や三王の業績を輝かせられるべきなのに、かえって暴虐な秦や乱れた君主と競って奢侈を尽くし、墳丘の大きさを比べ、愚かな者の目を喜ばせ、一時の壮観を誇り、賢明で知恵のある者の心に背き、万世の安泰を失おうとしておられる。臣はひそかに陛下のために恥ずかしく思います。どうか陛下には、上には明聖なる黄帝、堯、舜、禹、湯、文王、武王、周公、仲尼の制度をご覧になり、下には賢知なる穆公(秦穆公)、延陵季子、樗里子、張釈之の考え方をご覧になってください。孝文皇帝は墳丘をなくし薄葬にして、倹約によって神霊を安んじることが、規範とすべきである。秦の昭王や始皇帝が山を高くし副葬品を厚くして、奢侈によって害を生じさせたことは、戒めとすべきである。最初の陵の規模については、公卿大臣の議論に従い、民衆を安息させるべきです。
上奏文が献上されると、皇帝(成帝)は劉向の言葉に深く感じ入ったが、その計画に従うことはできなかった。
劉向は世の風俗がますます奢侈で淫らになり、趙(飛 燕 )や衛(倢伃)の一族が微賤な身分から出て、礼制を越えているのを見た。劉向は、王者の教化は内から外へ、身近な者から始まると考えた。そこで『詩経』や『書経』に記載されている賢妃や貞婦、国を興し家を顕かにして模範とすべき女性、および孽嬖(寵姫)で国を乱し滅亡させた女性を選び取り、順序を立てて『列女伝』とし、全部で八篇として、天子に戒めとした。また伝記や故事を採録して、『新序』『説苑』を著し、合わせて五十篇を奏上した。たびたび上疏して得失を論じ、法度と戒めを述べた。数十回にわたって上奏文を献上し、皇帝の観覧を助け、遺漏を補った。皇帝はすべてを用いることはできなかったが、内心その言葉を賞賛し、常に感嘆していた。
当時、皇帝(成帝)には後継者がおらず、政権は王氏(外戚)から出て、災害や異変が非常に激しかった。劉向は以前から陳湯の智謀を非常に珍しいものと思い、親しく交際していたが、ひそかに陳湯に言った。「災異がこのようであるのに、外戚(王氏)が日増しに勢いを増している。このままでは必ず劉氏が危うくなる。私は幸いにも同姓の末席に連なり、代々漢の厚恩を受け、身は宗室の遺老として、三帝(宣帝、元帝、成帝)に仕えてきた。皇帝は私を先帝の旧臣として、進見のたびに常に優れた礼遇を加えてくださる。私が言わなければ、いったい誰が言うべきだろうか」。劉向はそこで封事(密封した上奏文)を奉って極諫した。
臣は聞く。君主は誰も安泰を望まない者はいないが、常に危険にさらされ、存続を望まない者はいないが、常に滅亡する。それは臣下を統御する術を失うからである。大臣が権力を握り、国政を掌握すれば、害をなさない者はない。昔、晋には六卿が、斉には田氏や崔氏が、衛には孫氏や甯氏が、魯には季氏や孟氏がおり、常に国事を掌握し、代々朝廷の権力を握っていた。結局、後に田氏が斉を取った。六卿が晋を分割した。崔杼がその君主の光(荘公)を 弑 した。孫林父と甯殖がその君主の衎(献公)を追放し、その君主の剽(殤公)を 弑 した。季氏は八佾の舞を庭で舞わせ、三家(孟孫・叔孫・季孫)は雍の楽で徹膳(食事を下げる儀式)を行い、ともに国政を専断し、ついに昭公を追放した。周の大夫の尹氏が朝廷の事を管轄し、王室を濁乱させたので、子朝と子猛が交替で立ち、連年してようやく定まった。だから経書に「王室乱る」とあり、また「尹氏王子克を殺す」とあるのは、その甚だしさを言ったのである。『春秋』は成功と失敗を挙げ、禍福を記録しているが、このような類は非常に多く、皆、陰(臣下)が盛んで陽(君主)が微かであり、下が臣下の道を失ったことによって引き起こされたのである。だから『書経』に言う。「臣下に威福を作すことあらば、汝が家に害し、汝が国に凶なり」。孔子が「禄公室を去り、政大夫に逮う」と言ったのは、危亡の兆しである。秦の昭王の母の弟である穣侯および涇陽君、葉陽君が国政を専断し権勢をほしいままにし、上は太后の威を借り、三人の権力は昭王よりも重く、家は秦国よりも富み、国は非常に危殆に陥ったが、范雎の言葉を悟ったおかげで、秦は再び存続した。二世皇帝は趙高に任せきりにし、権力を専断して勝手気ままにし、大臣を蔽い塞いだので、ついに閻楽による望夷宮の禍いがあり、秦はついに滅亡した。近い事例は遠くなく、すなわち漢が取って代わった秦のことである。
漢が興って以来、諸呂は道に外れ、勝手に互いに王を尊んだ。呂産と呂祿は太后の寵愛を頼みに、将軍と丞相の地位を占め、南北両軍の兵を兼ね、梁王・趙王としての尊位を擁し、驕り高ぶって飽くことを知らず、劉氏を危うくしようとした。忠義正しい大臣である絳侯や朱虛侯らが誠を尽くし節を全うして彼らを誅滅したことにより、その後劉氏は再び安泰となった。今、王氏一姓で朱輪の華やかな車に乗る者が二十三人おり、青紫の官服や貂蟬の冠を着けた者が宮中の帳中に満ち、左右に魚の鱗のように並んでいる。大將軍は政務を執り権力を用い、五侯は驕り奢って盛んに僭越し、共に威福を振るい、裁断を独断で行い、勝手気ままに振る舞い、行いは汚れているのに政治を委ねられ、身は私利を図っているのに公務を託され、東宮(皇太后)の尊位を頼みとし、甥と舅の親戚関係を仮りて、威厳と権勢を築いている。尚書・九卿・州牧・郡守は皆その門下から出ており、枢機を掌握し、徒党を組んで結託している。称賛する者は登用され、逆らう者は誅殺され傷つけられる。遊説する者は彼らのために弁じ、政権を執る者は彼らのために言葉を添える。宗室を排斥し、公族を孤立させ弱体化させ、その中に知恵や才能のある者がいれば、特に誹謗して登用しない。宗室の任を遠ざけて絶ち、朝廷や省で職務に就くことを許さず、彼らが己と権力を分け合うことを恐れている。しばしば燕王や蓋主のことを引き合いに出して天子の心を惑わせ、呂后や霍氏のことを避けて口にしようとしない。内には管叔・蔡叔のような芽生えがあり、外には周公旦のような議論を仮りて、兄弟は重職を占め、宗族は磐石のように互いに結びついている。上古から秦漢に至るまで、外戚が僭越して貴ぶこと王氏のようであった者はない。周の皇甫や秦の穣侯、漢の武安侯、呂氏、霍氏、上官氏の類であっても、皆及ばないのである。
物事が極まれば必ず並々ならぬ変事が先に現れ、その人の兆しとなる。孝昭帝の時、泰山に冠石が立ち、上林苑で倒れた柳が起き上がった。そして孝宣帝が即位した。今、王氏の先祖の墳墓が済南にあるものの、その梓の柱に枝葉が生え、茂り繁って屋根を突き破り、根が地中に深く張っている。たとえ立石や起柳があっても、この明らかさに勝るものはない。事の勢いは両立せず、王氏と劉氏もまた並び立つことはできず、下に泰山のような安定があれば、上には累卵の危険がある。陛下は人として子孫であり、宗廟を守り持たれるお方であるのに、国柄が外戚に移り、身分が卑しい隷属に降ることを許されるならば、たとえ御自身のためでなくとも、宗廟をどうなさいますか。婦人は内では夫の家を、外では父母の家を大切にするものであり、これもまた皇太后の幸せではない。孝宣皇帝は舅の平昌侯や楽昌侯に権力を与えなかったが、それは彼らを安全に保つためであったのである。
聡明な者は形のないうちに福を起こし、患いが起こる前にそれを消し去る。明らかな 詔 を発し、徳のある言葉を吐き、近い宗室を引き上げ、親しくして信頼を寄せ、遠く外戚を退け、政務を授けず、皆罷免して邸宅に帰らせ、先帝の行われたことに倣い、外戚を手厚く安んじ、その宗族を全うさせることが、誠に東宮(皇太后)のご意向であり、外戚の幸せである。王氏が永く存続し、その爵禄を保ち、劉氏が長く安泰で、 社稷 を失わないことこそ、内外の姓を褒め睦まじくし、子々孫々限りない計らいとなるのである。もしこの策を行わなければ、田氏が今また現れ、六卿が必ず漢に起こり、後継者の憂いとなることは、明々白々であり、深く図らずにはいられず、早く慮らずにはいられない。《易経》に言う、「君主が秘密を守らなければ臣を失い、臣下が秘密を守らなければ身を失い、機密事が秘密でなければ成功を害する」と。どうか陛下には深く聖慮を留め、機密事を厳重に固め、過去の事柄の戒めを覧て、中道を取って信頼を得られ、万全の実を据え、宗廟を保ち、長く皇太后をお守りくださいますよう、天下の幸いこれに過ぎることはありません。
上書が奏上されると、天子は劉向を召し出して、その意図に嘆息し悲しみ、「卿はひとまず休むがよい、私は考えてみよう」と言った。劉向を中壘 校尉 に任じた。
劉向は人となり簡素で威儀がなく、清廉で静かに道を楽しみ、世俗と交際せず、ひたすら経術に思いを凝らし、昼は書伝を誦し、夜は星宿を観察し、ある時は夜明けまで眠らなかった。元延年間、彗星が東井宿に現れ、蜀郡の岷山が崩れて江水を塞き止めた。劉向はこの異変を嫌い、その話は五行志にある。思いを抑えきれず、再び上奏した。その文は次のとおりである。
臣は聞く、帝舜が伯禹に戒めて、丹朱の傲慢のようであってはならないと言い、周公が成王に戒めて、殷の王紂のようであってはならないと言ったと。《詩経》に「殷の鑑は遠からず、夏后の世にある」とあり、また湯王が桀王を戒めとしたとも言う。聖帝明王は常に敗乱を自ら戒めとし、廃興を忌み嫌わない。故に臣は敢えて愚見を極力陳べる。どうか陛下には留意してご覧くださいますよう。
謹んで春秋二百四十二年間を調べると、日食は三十六回あり、襄公の時が特に多く、およそ三年五ヶ月余りに一回の割合で食があった。漢の興りから竟寧まででは、孝景帝の時が特に多く、およそ三年一ヶ月に一回の割合で食があった。臣の劉向が以前しばしば日食が起こるだろうと言ったが、今連続三年にわたって食が続いている。建始以来、二十年の間に八回の食があり、およそ二年六ヶ月に一回の割合で発生しており、古今を通じて稀なことである。異変には大小稀稠があり、占いには緩急があるが、聖人が疑いを断つ所以である。《易経》に言う、「天文を観ることによって、時の変化を察する」と。昔、孔子が魯の哀公に対し、夏の桀王や殷の紂王が天下を暴虐にしたため、暦が失われて摂提が方角を失い、孟陬に秩序がなくなったと言ったが、これらは皆易姓の変事である。秦の始皇帝の末から二世の時にかけて、日月がかすみ食いし、山陵が崩れ落ち、辰星が四孟に現れ、太白星が天を横切って運行し、雲がないのに雷が鳴り、枉矢が夜に光り、熒惑が月を襲い、謫火が宮殿を焼き、野禽が朝廷で戯れ、都の門が内側から崩れ、長人が臨洮に現れ、石が東郡に落ち、彗星が大角星に現れ、大角星が消えた。孔子の言葉を観察し、暴秦の異変を考察すれば、天命は確かに畏るべきものである。また項籍が敗れた時も、彗星が大角星に現れた。漢が秦に入った時、五星が東井宿に集まったが、これは天下を得る象である。孝惠帝の時には、血の雨が降り、衝で日食があり、光を滅ぼす星が現れるという異変があった。孝昭帝の時には、泰山の臥石が自ら立ち、上林苑の倒れた柳が再び起き上がり、月のように大きな星が西へ行き、多くの星がそれに従うという、これらは特に特異なことであった。孝宣帝が興起する兆しとして、天狗が漢水を挟んで西へ行き、長く曇って雨が降らないことが二十日余り続き、昌邑王が終わりを全うしなかった異変があった。これらは皆漢紀に記されている。秦・漢の易姓を観察し、恵帝・昭帝に後継者がいなかったことを覧て、昌邑王が終わりを全うしなかったことを察し、孝宣帝が継いで興ったことを見れば、天の去就は、豈に明らかでないことがあろうか。高宗や成王にも雊雉や木を抜く変事があったが、その原因を考えることができたので、高宗には百年の福があり、成王には復風の報いがあった。神明の応報は、影が形に応じ響きが声に応じるようであり、世に共に聞くところである。
臣は幸いにも末裔として仕える身であり、誠に陛下に寛大で明らかな徳があるのを見て、大いなる異変を消し去り、高宗や成王のような名声を興し、劉氏を尊ぶことを願い、故にひたすらに死罪を覚悟でしばしば諫言してきた。今日食が特に頻繁に起こり、彗星が東井宿に現れ、摂提星の炎が紫宮に及んでいるのを、見識ある長老は誰もが震動しており、これは変事の中でも大きいものである。その事柄を一々記すのは難しいので、《易経》に「書は言を尽くさず、言は意を尽くさない」と言い、それ故に卦を設け爻を示して、さらにその意味を説くのである。《書経》に「使いをやって図を持って来させよ」と言うが、天文は理解し難いので、臣が図を上程しても、なお口頭での説明が必要であり、その後で初めて理解できる。どうか清閑な折を賜り、図を指し示して状況を陳べさせていただきたい。
天子はその都度取り上げたが、結局用いることはなかった。劉向は召し出されるたびに、しばしば公族は国の枝葉であり、枝葉が落ちれば本根は庇うところがなくなる、と述べた。今、同姓は疎遠にされ、母方の一族が専政し、禄は公室から去り、権力は外戚にある。これは漢の宗室を強くし、私門を卑しくし、 社稷 を保守し、後嗣を安固にするものではない、と。
劉向は自らが上に信頼されているのを知っていたので、常に宗室を顕彰して論じ、王氏や在職の大臣を風刺した。その言葉は多く痛烈で、至誠から発せられた。上はしばしば劉向を九卿に用いようとしたが、その都度王氏の居位者や丞相・御史に阻まれたので、結局昇進しなかった。列大夫の官に前後三十余年居り、七十二歳で亡くなった。亡くなって十三年後に王氏が漢に代わった。劉向の三人の子は皆好学であった。長子の劉伋は易を教授し、官は郡守に至った。中子の劉賜は九卿丞であったが、早世した。末子の劉歆が最も有名である。
向には少子の歆がいた。
歆は字を子駿といい、幼い頃から詩経や書経に通じ、文章を綴ることができたため成帝に召し出されて宦者署で 詔 を待ち、黄門郎となった。河平年間(紀元前28-25年)、 詔 を受けて父の向と共に秘書の校訂を統括し、六芸の伝記を講じ、諸子・詩賦・数術・方技に至るまで、研究しないものはなかった。向の死後、歆は再び中壘 校尉 となった。
哀帝が即位した当初、大司馬の王莽は歆が宗室で才能と行いがあることを推挙し、侍中太中大夫とし、さらに騎都尉・奉車光祿大夫に昇進させ、重用され寵愛を受けた。再び五経を統括し、父の前の事業を完成させた。歆はそこで六芸と群書を集め、種類別に七略に分類した。その話は『芸文志』にある。
歆と向は最初ともに易を研究していたが、宣帝の時、 詔 によって向が穀梁春秋を学び、十数年で大いに明らかに習熟した。歆が秘書を校訂する時、古文の春秋左氏伝を見て、歆はこれを大いに好んだ。当時、丞相史の尹咸が左氏を研究できたので、歆と共に経伝を校訂した。歆はおおよそ尹咸および丞相の翟方進から学び、大義について質問した。初め左氏伝には古字や古言が多く、学者たちは訓詁を伝えるだけであったが、歆が左氏を研究するに及んで、伝の文を引用して経を解釈し、互いに発明し合い、これによって章句と義理が整備されたのである。歆もまた深沈で謀略があり、父子ともに古を好み、博識で記憶力が強く、人より優れていた。歆は左丘明の好悪は聖人と同じであり、夫子(孔子)に直接会っており、公羊や穀梁が七十子の後であることから、伝聞と直接見聞とでは、その詳しさが異なると考えた。歆はたびたび向を難じたが、向は反論できず、それでもなお自らの穀梁の義を保持していた。歆が皇帝に近侍するようになると、左氏春秋および毛詩・逸礼・古文尚書を学官に立てることを望んだ。哀帝は歆に五経博士とその義を講論させたが、諸博士の中には応対を拒む者もいた。歆はそこで太常博士に文書を送り、彼らを責めて言った。
昔、唐虞が衰えてから、三代が次々に興り、聖帝明王が相次いで現れ、その道は甚だ顕著であった。周室が衰微すると礼楽が正されず、道が完全に保たれないことはこのようであった。それゆえ孔子は道が行われないことを憂い、諸国を歴訪して招聘に応じた。衛から魯に帰ってから、ようやく楽が正され、雅頌がそのあるべきところを得た。易を修め、書に序を付け、春秋を作って、帝王の道を記したのである。夫子が亡くなってから微言は絶え、七十子が終わってから大義は乱れた。重ねて戦国の世に遭い、籩豆の礼は捨てられ、軍旅の陣営が整えられ、孔氏の道は抑圧され、孫呉の術が興った。衰微して暴秦に至り、経書を焼き、儒士を殺し、挟書の法を設け、古を是とする罪を行い、道術はここによって遂に滅びた。漢が興り、聖帝明王から遠く離れ、仲尼の道もまた絶え、法度は因襲するものがなかった。当時ただ一人、叔孫通が略々礼儀を定めただけで、天下には易卜しかなく、他の書はなかった。 孝恵帝 の世になって、ようやく挟書の律が廃止されたが、公卿大臣の絳侯(周勃)や灌嬰の類いはみな甲冑を着た武夫であり、意に介する者はいなかった。孝文皇帝の時に至り、初めて掌故の朝錯をして伏生から尚書を学ばせた。尚書は初め屋壁の中から出て、朽ちて折れ散り絶えていたが、今その書は現存し、当時の師が伝えて読むだけであった。詩はようやく芽生えた。天下の多くの書物がしばしばかなり出てきたが、皆諸子の伝説であり、それでも広く学官に立てられ、博士が置かれた。漢朝の儒者では、ただ賈生( 賈誼 )だけであった。孝武皇帝の時に至って、ようやく鄒・魯・梁・趙に詩・礼・春秋の先師がかなり現れ、皆建元年間(紀元前140-135年)に起こった。この時、一人でその経を全て究めることはできず、ある者は雅を、ある者は頌を担当し、合わせて完成させた。泰誓は後になって得られ、博士が集まって読んだ。それゆえ 詔 書に「礼は壊れ楽は崩れ、書は欠け簡は脱けている。朕は甚だ憂う」と称えられたのである。当時、漢の興りから既に七八十年、完全な経から離れて、固より既に遠かった。
魯恭王が孔子の旧宅を壊して宮殿にしようとした時、壊れた壁の中から古文を得た。逸礼三十九篇、書十六篇である。天漢年間(紀元前100-97年)の後、孔安国がこれを献上したが、巫蠱の急難に遭い、施行されるに至らなかった。春秋左氏は丘明が編修したもので、皆古文の旧書であり、多いものは二十余通もあり、秘府に蔵され、伏せられたまま表に出なかった。孝成皇帝は学問が残欠し、次第にその真実から離れることを憂い、秘蔵を開陳し、旧文を校理して、この三つの事柄(古文尚書・逸礼・春秋左氏伝)を得た。これによって学官の伝えるものを考証すると、経には脱簡があり、伝には編綴の乱れがあった。民間に問うと、魯国の柏公、趙国の貫公、膠東の庸生の遺学がこれと同じであり、抑圧されて施行されなかった。これは識者の惜しみ憂うところであり、士君子の嘆き痛むところである。かつて学問を継ぐ者は、廃絶した欠落を考えず、苟にも陋く寡ないものに因循し、文字を分け析き、煩わしい言葉や細かい文辞にこだわり、学者は老いて疲れてもなお一芸を究めることができない。口説を信じて伝記に背き、末師を是として往古を非とし、国家が大事を行おうとする時、例えば辟雍・封禅・巡狩の儀式などになると、暗く深遠でその根源を知る者がいない。それでもなお残欠を保ち守り、破られることを恐れる私意を抱き、善に従い義に服する公心がなく、あるいは嫉妬を懐き、実情を考証せず、雷同して互いに従い、声に随って是非を決し、この三つの学問を抑圧し、尚書を完全なものとし、左氏を春秋を伝えないものとする。豈に哀しまざらんや。
今、聖上は徳が神明に通じ、統を継ぎ業を揚げ、また文学の錯乱と学士のこのような状況を憂い、その情を明らかにしながらも、なお依違して謙譲し、士君子とこれを同じくすることを喜ばれた。それゆえ明 詔 を下し、左氏を立てることができるかどうかを試み、近臣を遣わして旨を奉じて命を帯びさせ、弱きを輔け微かなるを扶け、二、三の君子と意を合わせ力を同じくして、廃遺されたものを得ることを望まれたのである。今はそうではない。深く閉ざし固く拒み、試みようとせず、みだりに誦しないことを理由に絶とうとし、余りの道を杜塞し、微学を絶滅させようとしている。成功を共に楽しむことはできても、事の始めを慮ることは難しい、これは衆庶のすることであって、士君子に望むところではない。かつてこの数家の事柄は、皆先帝が自ら論じられ、今上も考視されたものであり、その古文旧書には皆証拠があり、内外相応じている。どうして苟であろうか。
礼が失われれば野に求める。古文は野に求めるよりも優れているのではないか。かつて博士の書には欧陽尚書があり、春秋には公羊があり、易には施・孟があったが、孝宣皇帝はなおさらに穀梁春秋、梁丘易、大小夏侯尚書を広く立てられた。その義は相反するものであっても、なお並べて置かれた。なぜか。過ってこれを廃するよりは、寧ろ過ってこれを立てるのである。伝に言う。「文武の道は地に墜ちず、人に在り。賢者はその大なるものを志し、賢ならざる者はその小なるものを志す」。今この数家の言は大小の義を兼ね包む所以であり、どうして偏って絶やすことができようか。もし必ず己に専らにして残欠を守り、同門を党とし、道の真実を妬み、明 詔 に背き、聖意を失い、文吏の議いの中に陥るならば、甚だ二、三の君子の取るところではない。
その言葉は甚だ痛切であり、諸儒は皆怨恨した。この時、名儒の光禄大夫龔勝は歆の移書について上疏して深く自ら罪責し、骸骨を乞うて罷めることを願った。また儒者の師丹が大 司空 となっていたが、これも大いに怒り、歆が旧章を改めて乱し、先帝の立てられたものを誹謗したと上奏した。上(哀帝)は言った。「歆が道術を広めようとするのは、どうして誹謗だと言えようか」。歆はこれによって執政大臣に逆らい、衆儒からそしられ、誅殺を恐れて、出て吏を補うことを求め、河内太守となった。宗室は三河を治めるのに適さないとして、五原太守に転じ、後にまた涿郡に転じ、三郡の太守を歴任した。数年後、病気で免官となったが、再び起用されて安定属国都尉となった。哀帝が崩御すると、王莽が政権を執った。王莽は若い頃、歆と共に黄門郎であり、彼を重んじ、太后に申し上げた。太后は歆を留めて右曹太中大夫とし、中壘 校尉 、羲和、 京兆尹 に昇進させ、明堂辟雍を治めさせ、紅休侯に封じた。儒林史卜の官を統轄し、律暦を考定し、三統暦譜を著した。
初めに、劉歆は建平元年に名を秀と改め、字を穎叔といった。王莽が帝位を 簒奪 すると、劉歆は国師となり、その後の事績はすべて『王莽伝』に記されている。
賛にいう。仲尼(孔子)が「人材は得難い、その通りではないか」と称えた。孔子の後、文章を綴る士は数多くいたが、ただ孟軻、孫況、董仲舒、 司馬遷 、劉向、揚雄のみである。この数名の諸公は皆、広く物事を知り、見聞が豊かで、古今に通達し、その言説は世の中に有益であった。伝に「聖人が現れない間には、必ず世に名を成す者がいる」というが、まさにこのことを指しているのではなかろうか。劉氏の『洪範五行伝論』は『大伝』を解明し、天と人の応報を著した。『七略』は芸文を分析し、百家の学統を総括した。『三統歴譜』は日月五星の運行度数を推歩考査した。その本源を推し究めようとする意図があったのだ。ああ、劉向が山陵(皇帝の陵墓)についての戒めを述べたことは、今となってみれば明らかであり、哀れなことよ。梓柱を指し示して、国家の廃興を推し量ったことは、明らかである。まさに正直で誠実、見識豊かな、古来の益友と言うべきではなかろうか。