巻30

 漢書

巻三十 芸文志 第十

昔、仲尼(孔子)が没して微言(微妙な言葉)が絶え、七十子(孔子の高弟たち)が亡くなって大義(根本的な道理)が乱れた。それゆえ、『春秋』は五つに分かれ、『詩』は四つに分かれ、『易』には数家の伝(解釈書)が生じた。戦国時代には合従連衡が行われ、真偽が分かれて争い、諸子百家の言説は入り乱れて混乱した。 秦 の時代に至り、これを憂慮して、文章を焼き払い、民衆を愚かにしようとした。漢が興ると、秦の失敗を改め、広く書物を収集し、献書の道を大きく開いた。孝武帝の時代に至るまで、書物は欠け、竹簡の紐は切れ、礼は乱れ、楽は崩壊し、聖上(武帝)は嘆息して言われた。「朕はこれを非常に憂慮している」。そこで、蔵書の政策を立て、写書の官を置き、諸子の伝説に至るまで、すべて秘府(宮中の書庫)に収められた。成帝の時代に至り、書物がかなり散逸したため、謁者(官名)の陳農に命じて天下に遺書を求めさせた。 詔 により、光禄大夫の劉向に経伝・諸子・詩賦を校勘させ、歩兵 校尉 こうい の任宏に兵書を校勘させ、太史令の尹咸に数術を校勘させ、侍医の李柱国に方技(医術・薬学など)を校勘させた。一書の校勘が終わるごとに、劉向はその篇目を条記し、その大意を摘録して、目録を作り上奏した。ちょうど劉向が死去したため、哀帝は再び劉向の子で侍中奉車都尉の劉歆に父の事業を完成させた。劉歆はそこで全ての書物をまとめて『七略』を上奏した。それゆえ、輯略、六芸略、諸子略、詩賦略、兵書略、術数略、方技略があった。今、その要点を削って記し、書物の備えとする。

六芸略

易経十二篇、施氏・孟氏・梁丘氏の三家。

易伝周氏二篇、服氏二篇、楊氏二篇、蔡公二篇、 韓 氏二篇、王氏二篇、丁氏八篇。

古五子十八篇、淮南道訓二篇。

古雑八十篇、雑災異三十五篇、神輸五篇、図一。

孟氏京房十一篇、災異孟氏京房六十六篇、五鹿充宗略説三篇、京氏段嘉十二篇。

章句の施氏、孟氏、梁丘氏のものはそれぞれ二篇。

易の類は全部で十三家、二百九十四篇。

《易》にはこうある。「宓戲氏は天を仰いで象を観、地を俯して法を観、鳥獣の文と地の宜を観察し、近くは諸々の身に取り、遠くは諸々の物に取り、ここに始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類した。」殷・周の際に至り、紂が上位にあり、天に逆らい物を暴うと、文王は諸侯として命に順い道を行い、天人の占いが得られて効験があり、ここに易の六爻を重ね、上下篇を作った。孔氏(孔子)がこれに彖、象、繫辭、文言、序卦などの十篇をなした。故に易の道は深いと言われる。人は三聖(伏羲・文王・孔子)を経て、世は三古(上古・中古・下古)を歴た。秦が書を焚いた時、易は筮卜の事であったため、伝える者が絶えなかった。漢が興ると、田和がこれを伝えた。宣帝・元帝の時に至り、施氏、孟氏、梁丘氏、京氏の学が学官に列せられ、一方で民間には費氏、高氏の二家の説があった。劉向は中秘の古文易経をもって施氏、孟氏、梁丘氏の経文を校合したが、時に「無咎」「悔亡」の語が脱けていることがあり、ただ費氏の経文のみが古文と同じであった。

尚書

尚書古文経四十六巻、経二十九巻、伝四十一篇。

欧陽章句三十一巻、大夏侯・小夏侯章句各二十九巻、大夏侯・小夏侯解故二十九篇。

欧陽説義二篇。

劉向五行伝記十一巻。

許商五行伝記一篇。

周書七十一篇。

議論が奏上されたのは四十二篇である。

総計で書物は九家、四百十二篇に及ぶ。

『易経』に「黄河から図が現れ、洛水から書が現れ、聖人はこれに則った」とある。ゆえに書物の起こりは遠く、孔子が編纂するに至り、上は堯で始まり、下は秦で終わり、総計百篇とし、それに序文を付けて、その著作の意図を述べた。秦は書物を焼き学問を禁じたが、済南の伏生だけが壁の中にこれを隠し持った。漢が興ると失われていたが、二十九篇を求め出し、 斉 ・魯の地方で教えた。孝宣帝の時代に至り、欧陽氏、大夏侯氏、小夏侯氏の学があり、学官に立てられた。古文尚書は、孔子の壁の中から出たものである。武帝の末年、魯の共王が孔子の邸宅を壊し、その宮殿を広げようとしたところ、古文尚書および礼記、論語、孝経など総計数十篇を得たが、いずれも古代の文字であった。共王がその邸宅に入っていくと、琴瑟や鐘磬の音が聞こえたので、そこで恐れをなして、壊すのをやめた。孔安国という者は、孔子の子孫であり、その書物をすべて手に入れ、二十九篇と照合して、十六篇多く得た。安国はこれを献上した。巫蠱の事件に遭い、学官に列せられることはなかった。劉向が宮中の古文で欧陽、大夏侯、小夏侯の三家の経文を校合したところ、『酒誥』に一枚の簡が脱落し、『召誥』に二枚の簡が脱落していた。おおよそ一簡二十五字のものは二十五字脱落し、一簡二十二字のものは二十二字脱落しており、文字が異なるものは七百余り、脱落した字数は数十に及んだ。書物とは、古代の号令であり、大衆に号令するのに、その言葉がすぐに整わなければ、聞いて受け取り実行する者は理解できない。古文を読むには『爾雅』に応じるべきであり、ゆえに古今の言葉を解して理解できるのである。

詩経二十八巻、魯・斉・韓の三家。

魯故二十五巻、魯説二十八巻。

斉后氏故二十巻、斉孫氏故二十七巻、斉后氏伝三十九巻、斉孫氏伝二十八巻、斉雑記十八巻。

韓故三十六巻、韓内伝四巻、韓外伝六巻、韓説四十一巻。

毛詩二十九巻、毛詩故訓伝三十巻。

総計で詩は六家、四百十六巻である。

書に言う。「詩は志を言い、歌は言を詠む」と。それゆえに哀楽の心が感じられると、歌詠の声が発せられる。その言葉を誦するのを詩といい、その声を詠むのを歌という。それゆえに古には詩を採る官があり、王者がこれによって風俗を観察し、得失を知り、自ら考正するのである。孔子は周の詩を純粋に取り、上は殷を採り、下は魯を取って、合わせて三百五篇としたが、秦の時代を遭っても完全に残ったのは、その諷誦が竹帛だけに留まらなかったからである。漢が興ると、魯の申公が詩の訓故を作り、また斉の轅固、 燕 の韓生はいずれもその伝を作った。あるものは春秋を取り、雑説を採ったが、みなその本義ではない。やむを得ず言えば、魯の説が最もそれに近い。三家はいずれも学官に列せられた。また毛公の学があり、自ら子夏の伝えたものと称し、河間献王がこれを好んだが、立てられることはなかった。

礼古経五十六巻、経七十篇。

記百三十一篇。

明堂陰陽三十三篇。

王史氏二十一篇。

曲臺后倉九篇。

中庸説二篇。

明堂陰陽説五篇。

周官経六篇、周官伝四篇。

軍礼の『司馬法』百五十五篇。

古い封禅・群祀に関する二十二篇、封禅の議対十九篇。漢代の封禅・群祀に関する三十六篇、議奏三十八篇。

礼の部は全部で十三家、五百五十五篇。

『易経』に言う、「夫婦・父子・君臣・上下の関係があり、礼義がそこに施される」と。帝王の質朴と文飾は時代によって損益があり、周に至っては細かく防ぎ、事柄ごとに制度を定めた。故に「礼経三百、威儀三千」と言われる。周が衰えると、諸侯は法度を越えようとし、それが己を害するのを憎んで、皆その典籍を滅ぼし去った。孔子の時代には既に完備せず、秦に至って大きく壊れた。漢が興ると、魯の高堂生が士礼十七篇を伝えた。孝宣帝の世に至るまで、后倉が最も明らかであった。戴徳、戴聖、慶普は皆その弟子で、三家は学官に立てられた。礼古経は、魯の淹中及び孔氏から出て、学七十篇の文は似ているが、三十九篇多い。また明堂陰陽、王史氏の記に見えるところは、多く天子・諸侯・卿・大夫の制度であり、完全ではないが、それでもなお后倉らが士礼を推し進めて天子の説に至らせたものよりは優れている。

『楽記』二十三篇、王禹記二十四篇。

雅歌詩四篇。

雅琴 趙 氏七篇、師氏八篇、龍氏九十九篇。

楽の部は全部で六家、百六十五篇。

『易経』に言う、「先王は楽を作りて徳を崇め、殷くこれを上帝に薦め、以て祖考を享む」と。故に黄帝から下って三代に至るまで、楽はそれぞれに名があった。孔子は言う、「上を安んじ民を治むるは、礼に善るは莫く、風を移し俗を易うるは、楽に善るは莫し」と。この二者は互いに並行する。周が衰えともに壊れ、楽は特に微細で、音律を節とし、また鄭衛の音に乱されたため、伝わる法がなかった。漢が興ると、制氏が雅楽の声律を伝え、代々楽官にあり、その鏗鏘鼓舞の様子をよく記録できたが、その意義を言うことはできなかった。六国の君主の中で、 魏 の文侯が最も古を好み、孝文帝の時にその楽人竇公を得て、その書を献上した。それは周官の大宗伯にある大司楽の章であった。武帝の時、河間の献王は儒を好み、毛生らと共に周官及び諸子の楽事を言うものを採り、『楽記』を作り、八佾の舞を献上した。これは制氏のものと大きくは違わなかった。その内史丞の王定がこれを伝え、常山の王禹に授けた。王禹は成帝の時に謁者となり、しばしばその意義を説き、二十四巻の記を献上した。劉向が書を校訂した時、『楽記』二十三篇を得たが、王禹のものとは異なり、その道は次第に微かになっていった。

春秋

春秋古経十二篇、経十一巻。

左氏伝三十巻、公羊伝十一巻、穀梁伝十一巻、鄒氏伝十一巻、夾氏伝十一巻。

左氏微二篇、鐸氏微三篇、張氏微十篇、虞氏微伝二篇。

公羊外伝五十篇、穀梁外伝二十篇。公羊章句三十八篇、穀梁章句三十三篇。

公羊雑記八十三篇、公羊顔氏記十一篇、公羊 董仲舒 治獄十六篇、議奏三十九篇。

国語二十一篇、新国語五十四篇、世本十五篇。

戦国策二十三篇、奏事二十篇。

太史公百三十篇、馮商所続太史公七篇。

太古以来の年代記二篇、漢の著記百九十巻、漢の大年紀五篇がある。

春秋に関する書物は合わせて二十三家、九百四十八篇である。

古の王者は代々史官を置き、君主の行動は必ず記録された。これは言行を慎み、法式を明らかにするためである。左史は言葉を記録し、右史は出来事を記録した。出来事を記録したものが『春秋』であり、言葉を記録したものが『尚書』であり、帝王は皆これを同じくした。周王室が衰微すると、典籍は散逸して欠けた。仲尼(孔子)は先聖の業績を後世に残そうと考え、「夏の礼については私は語ることができるが、杞国ではそれを証明するに足るものが無い。殷の礼については私は語ることができるが、宋国ではそれを証明するに足るものが無い。これは文献が足りないからである。足りていれば、私はそれを証明できるのだ」と述べた。魯国は周公旦の封国であり、礼の儀式や文物が整い、史官の制度も備わっていた。そこで孔子は左丘明と共に魯国の史記を閲覧し、史実に基づき、人道に則り、成功によって功績を明らかにし、失敗によって罰を定め、日月を借りて暦数を定め、朝聘を借りて礼楽を正した。褒めたり、忌み避けたり、貶したり、削ったりして、書面に表せない部分は、口頭で弟子たちに伝授した。弟子たちは退出してからそれぞれ異なる解釈を述べた。左丘明は弟子たちがそれぞれ自分の考えに固執して真実を失うことを恐れ、そこで本来の史実に基づいて伝(『春秋左氏伝』)を作り、孔子が空論で経典を説かなかったことを明らかにした。『春秋』が貶した当時の権力ある君臣たちの事実は、皆この伝に具体的に記されている。そのため、この書(『左氏伝』)は秘匿されて公開されず、当時の災難を免れるためであった。末世になって口伝の説が流行し、公羊、穀梁、鄒、夾の四つの伝が生まれた。四家の中で、公羊伝と穀梁伝は学官に立てられたが、鄒氏には師がおらず、夾氏には書物が無かった。

論語

論語には、古論二十一篇、斉論二十二篇、魯論二十篇、伝十九篇がある。

斉説二十九篇、魯の夏侯説二十一篇、魯の安昌侯説二十一篇、魯の王駿説二十篇、燕伝説三巻がある。

議奏十八篇がある。

孔子家語二十七巻、孔子三朝七篇、孔子徒人図法二巻がある。

論語に関する書物は合わせて十二家、二百二十九篇である。

『論語』とは、孔子が弟子や当時の人々に応答した言葉、および弟子たちが互いに語り合い、夫子(孔子)から聞いた言葉である。当時、弟子たちはそれぞれ記録していた。夫子が亡くなった後、門人たちが共同で編集し論議して編纂したので、これを『論語』と呼ぶ。漢が興ると、斉の説と魯の説があった。斉論を伝えたのは、昌邑中尉の王吉、少府の宋畸、御史大夫の貢禹、 尚書令 しょうしょれい の五鹿充宗、膠東の庸生であり、ただ王陽(王吉)だけが名家とされた。魯論語を伝えたのは、常山都尉の龔奮、長信少府の夏侯勝、丞相の韋賢、魯の扶卿、前将軍の蕭望之、安昌侯の張禹であり、皆名家とされた。張氏(張禹)の説が最も後出であり、世に行われた。

孝経

古孔氏孝経一篇。

孝経一篇、長孫氏の説二篇、江氏の説一篇、翼氏の説一篇、后氏の説一篇、雑伝四篇、安昌侯の説一篇。

五経雑議十八篇。

爾雅三巻二十篇、小爾雅一篇、古今字一巻。

弟子職一篇、説三篇。

孝経は合わせて十一家、五十九篇。

孝経とは、孔子が曾子のために孝道を述べたものである。孝とは、天の常道、地の義理、民の行いである。その大なるものを挙げて言うので、孝経という。漢が興ると、長孫氏、博士の江翁、少府の后倉、諫大夫の翼奉、安昌侯の張禹がこれを伝え、それぞれ一家を成した。経文は皆同じであるが、ただ孔氏の壁中から出た古文が異なっている。「父母これを生み、継ぐこと大なるは莫し」「故に親これを生む膝下」など、諸家の説で落ち着かないところは、古文の字や読みが皆異なっている。

小学

史籀十五篇、八体六技。

蒼頡一篇、凡将一篇、急就一篇、元尚一篇、訓纂一篇、別字十三篇。

蒼頡伝一篇、揚雄蒼頡訓纂一篇、杜林蒼頡訓纂一篇、杜林蒼頡故一篇。

小学の家は合わせて十家、四十五篇である。

《易経》に言う。「上古は結縄をもって治め、後世の聖人はこれを書契に改め、百官はこれによって治め、万民はこれによって察する。これはおそらく夬の卦から取ったものであろう。」「夬は王庭に揚がる」とは、それが王者の朝廷において宣揚されることを言い、その用いられる所が最も大きいのである。古くは八歳で小学に入った。ゆえに周の官制では保氏が国子を養育し、六書を教えた。これを象形・象事・象意・象声・転注・仮借と言い、これが文字を造る根本である。漢が興ると、 蕭何 が律令を起草し、その法を明記した。曰く、「太史が学童を試験し、九千字以上を暗誦して書ける者でなければ、史官となることができない。また六体で試験し、成績最優秀の者を尚書・御史の史書令史とする。官吏や民衆が上書する際、文字が正しくない場合は、ただちに弾劾する。」六体とは、古文・奇字・篆書・隷書・繆篆・虫書であり、いずれも古今の文字を通じて理解し、印章を模刻し、旗や符節に書くためのものである。古い制度では、文字は必ず統一され、知らないものは欠落させ、古老に問うた。しかし衰えた世になると、是非の基準が定まらず、人々は各自の私意を用いるようになった。ゆえに孔子は言われた。「私はまだ史官が文を欠くのを見たことがあるが、今はもうない。」これはその次第に正しくなくなっていくのを嘆かれたのである。史籀篇は、周の時代に史官が学童に教えた書物であり、孔子の家の壁中から発見された古文とは字体が異なる。蒼頡七章は、秦の丞相李斯が作ったものである。爰歴六章は、車府令趙高が作ったものである。博学七章は、太史令胡母敬が作ったものである。文字は多く史籀篇から取っているが、篆書の字体はまたかなり異なっており、いわゆる秦篆である。この時、初めて隷書が作られた。官の訴訟事務が多忙になったため、簡略化を図り、徒隷(下級役人や囚人)に用いたことに始まる。漢代になると、民間の書師が蒼頡・爰歴・博学の三篇を合わせ、六十字で一章とし、合わせて五十五章とし、これを蒼頡篇とした。武帝の時、司馬相如が凡将篇を作り、重複する字はなかった。元帝の時、黄門令史游が急就篇を作り、成帝の時、将作大匠李長が元尚篇を作った。いずれも蒼頡篇の中の正しい字を用いている。凡将篇にはやや新出の字がある。元始年間に至り、天下の小学に通じる者を数百人徴用し、それぞれに朝廷で文字を記録させた。揚雄はその中で有用なものを取って訓纂篇を作り、蒼頡篇に順次続け、また蒼頡篇の中の重複する字を改め、合わせて八十九章とした。臣(班固)はさらに揚雄に続いて十二章を作り、合わせて百二章とし、重複する字はなく、六経や諸書に載る文字はほぼ網羅された。蒼頡篇には古字が多いため、俗師はその読み方を失っていた。宣帝の時、斉の地で正しく読める者を徴用し、張敞がこれに師事して学び、その学問は外孫の子である杜林に伝わり、杜林は訓故を作り、ここに併記する。

まとめ

六芸の書は合わせて百三家、三千百二十三篇である。

六芸の文は、楽は神を和らげるもので、仁の表れである。詩は言葉を正すもので、義の用いられる所である。礼は体(本体・規範)を明らかにするもので、明らかなものは顕著に現れるため、訓(解釈)を必要としない。書は聞くことを広げるもので、知の方法である。春秋は事を裁断するもので、信の証しである。この五つは、五常の道であり、互いに必要として備わり、易がその根源である。ゆえに「易が見られなければ、乾坤(天地)はほとんど止んでしまうであろう」と言い、易が天地と終始を共にすることを述べているのである。五つの学問については、世が変遷するにつれて改変があり、それは五行が交代して作用するようなものである。古の学者は耕作しながら学問を養い、三年で一芸に通じ、その大要を保ち、経文を玩味するだけであった。ゆえに費やす日数は少なく、蓄えられる徳は多く、三十歳で五経が確立したのである。後世になると、経と伝が既に乖離し、博学な者もまた多くを聞いて疑わしいことは保留するという道理を考えず、細かい解釈に努めて難を逃れ、都合の良い言葉や巧みな説を弄し、経文の形体を破壊する。五文字の経文を説くのに、二三万言に及ぶ。後進の者はますますこれを追い求め、幼い頃から一芸を守り、白髪頭になってようやく語れるようになる。自分が習ったことに安住し、自分が見ないものを誹謗し、ついには自らを蔽うことになる。これが学者の大きな患いである。六芸を序して九種とする。

諸子略

儒家

晏子八篇、子思二十三篇、曾子十八篇、漆雕子十三篇、宓子十六篇、景子三篇、世子二十一篇、魏文侯六篇、李克七篇、公孫尼子二十八篇、孟子十一篇、孫卿子三十三篇、羋子十八篇、内業十五篇。

周史六弢六篇、周政六篇、周法九篇、河間周制十八篇、讕言十一篇、功議四篇。

甯越一篇、王孫子一篇、公孫固一篇、李氏春秋二篇、羊子四篇、董子一篇、侯子一篇、徐子四十二篇、魯仲連子十四篇、平原君七篇、虞氏春秋十五篇。

董仲舒百二十三篇、兒寬九篇、公孫弘十篇、終軍八篇、吾丘壽王六篇、虞丘説一篇、莊助四篇、臣彭四篇、鉤盾冗従李歩昌八篇。

儒家言十八篇、桓寛塩鉄論六十篇、劉向所序六十七篇、揚雄所序三十八篇。

右、儒五十三家、八百三十六篇。

儒家の流れは、おそらく 司徒 しと の官から出て、君主を助けて陰陽に順い教化を明らかにするものである。六経のうちに文を遊ばせ、仁義の間に留意し、堯・舜を祖述し、文・武を憲章し、仲尼を宗師として、その言を重んじ、道において最も高い。孔子は言われた、「もし誉めることがあるならば、それは試みられたものがあるからだ」と。唐虞の隆盛、殷周の盛んな時代、仲尼の業績は、すでに試みられた効果のあるものである。しかし、惑わされた者はすでに精微なところを失い、また偏った者は時勢に従って抑揚をつけ、道の根本に背き離れ、ただやたらに大衆を騒がせ寵愛を得ようとする。後進の者がこれに従うので、五経が乖離し、儒学は次第に衰えた。これが偏った儒者の禍いである。

道家

伊尹五十一篇。

辛甲二十九篇、鬻子二十二篇、筦子八十六篇。

老子鄰氏経伝四篇、老子傅氏経説三十七篇、老子徐氏経説六篇、劉向説老子四篇。

文子九篇、蜎子十三篇、関尹子九篇、荘子五十二篇、列子八篇、老成子十八篇、長盧子九篇、王狄子一篇。

公子牟四篇、田子二十五篇、老萊子十六篇、黔婁子四篇、宮孫子二篇、鶡冠子一篇、周訓十四篇。

黄帝四経四篇、黄帝銘六篇、黄帝君臣十篇、雑黄帝五十八篇。

力牧二十二篇、孫子十六篇、捷子二篇、曹羽二篇、郎中嬰斉十二篇、臣君子二篇、鄭長者一篇、楚子三篇、道家言二篇。

右、道三十七家、九百九十三篇。

道家の流れは、おそらく史官から出たもので、歴史上の成敗・存亡・禍福・古今の道理を記録し、その後に要を握り本を執り、清虚をもって自らを守り、卑弱をもって自らを保つことを知る。これが君主が南面して国を治める術である。堯の「克攘」や易の「嗛嗛」に合致し、一つの謙譲によって四つの益がある。これがその長所である。しかし、放逸な者がこれを行うと、礼学を絶ち去り、仁義をも兼ねて捨て去ろうとし、ただ清虚を任せるだけで政治ができると言う。

陰陽家

宋の司星子韋三篇、公檮生終始十四篇、公孫発二十二篇。

鄒子の書は四十九篇、鄒子終始の書は五十六篇。

乗丘子の書は五篇、杜文公の書は五篇。

黄帝泰素の書は二十篇、南公の書は三十一篇、容成子の書は十四篇。

張蒼の書は十六篇、鄒奭子の書は十二篇、閭丘子の書は十三篇、馮促の書は十三篇、将鉅子の書は五篇。

五曹官制の書は五篇、周伯の書は十一篇、衛侯官の書は十二篇。

于長の天下忠臣の書は九篇、公孫渾邪の書は十五篇。

雑陰陽の書は三十八篇。

以上、陰陽家は二十一家、三百六十九篇。

陰陽家の流れは、羲和の官から出たものであろう。天を敬い順い、日月星辰の運行を観測し、民に時節を敬んで授けることを重んじる。これがその長所である。しかし、こだわる者がこれを行うと、禁忌に引きずられ、小さな術数に拘泥し、人の為すべきことを捨てて鬼神に任せるようになる。

法家

李悝の著作三十二篇、商鞅の著作二十九篇、申不害の著作六篇、処子の著作九篇、慎到の著作四十二篇、韓非の著作五十五篇、游棣子の著作一篇。

以上、法家十家、二百一十七篇。

法家の流派は、おそらく理官(裁判官)から出たもので、賞は必ず与え、罰は必ず行い、礼制を補佐する。《易経》に「先王は罰を明らかにし法を整える」とあるが、これがその長所である。しかし、冷酷な者がこれを行うと、教化がなくなり、仁愛を捨て、ひたすら刑法に頼って政治を行おうとし、ついには最も親しい者を害し、恩情を傷つけ、厚薄を失うに至る。

名家

鄧析の著作二篇、尹文子の著作一篇、公孫龍子の著作十四篇、成公生の著作五篇、恵施の著作一篇、黄公の著作四篇、毛公の著作九篇。

以上、名家七家、三十六篇。

名家の流派は、おそらく礼官から出たものである。古くは名分と地位が異なれば、礼の度数も異なった。孔子は言われた。「必ずや名分を正さなければならない。名分が正しくなければ言葉が整わず、言葉が整わなければ事が成就しない。」これがその長所である。しかし、詭弁を弄する者がこれを行うと、ただやみくもに言葉をひっかけ、分析を乱すだけである。

墨家

尹佚の著作二篇、田俅子の著作三篇、我子の著作一篇、随巣子の著作六篇、胡非子の著作三篇、墨子の著作七十一篇。

右側の墨家六家、八十六篇。

墨家の流れは、おそらく清廟の守から出たものである。茅葺きの屋根に木の枝の垂木を用いることから、倹約を貴び、三老五更を養うことから、兼愛を重んじ、士を選び大射を行うことから、賢者を尊び、祖先を祀り父を厳しく敬うことから、鬼神を尊び、四時に順って行動することから、天命を否定し、孝をもって天下に示すことから、上に同調する。これがその長所である。しかし、偏った者がこれを行うと、倹約の利益だけを見て、それによって礼を否定し、兼愛の意味を推し進めて、親疎の区別を知らない。

縦横家

蘇子三十一篇、張子十篇、龐煖二篇、闕子一篇、国筮子十七篇、秦の零陵令信一篇。

蒯子五篇、鄒陽七篇、 主父偃 二十八篇、徐楽一篇、荘安一篇、待 詔 金馬聊蒼三篇。

右側の縦横家十二家、百七篇。

縦横家の流れは、おそらく行人之官から出たものである。孔子が言われた、「詩三百篇を誦しても、四方に使いして、専ら応対することができなければ、多くとも何の役に立つだろうか?」また言われた、「使いとは、まさに使いであることよ!」これは、その時々の権宜に応じて事を処し、命令を受けるが言葉には拘らず、これがその長所である。しかし、邪な者がこれを行うと、上を欺き騙して信義を捨てる。

雑家

孔甲盤盂二十六篇、大禹三十七篇。

伍子胥八篇、子晩子三十五篇、由余三篇、尉繚子二十九篇、尸子二十篇、呂氏春秋二十六篇。

淮南内二十一篇、淮南外三十三篇。

東方朔二十篇、伯象先生一篇、荊軻論五篇、呉子一篇、公孫尼一篇。

博士臣賢の対一篇、臣説三篇。

解子簿書三十五篇、推雑書八十七篇、雑家言一篇。

以上、雑二十家、四百三篇。

雑家の流れは、議官より出づるか。儒・墨を兼ね、名・法を合し、国体にこれ有るを知り、王治の貫かざる無きを見る。これ其の長ずる所なり。及び蕩なる者之を為すに至りては、則ち漫羨として心の帰する所無し。

農家

神農二十篇、野老十七篇、宰氏十七篇。

董安国十六篇、尹都尉十四篇、趙氏五篇、氾勝之十八篇、王氏六篇、蔡癸一篇。

以上、農九家、百一十四篇。

農家の流派は、おそらく農稷の官から出たものである。百穀を播き、耕桑を勧めて、衣食を足らしめる。ゆえに八政の第一は食、第二は貨である。孔子が「重んずる所は民食である」と言ったのは、これがその長所である。しかし、卑しい者がこれを行うに及んで、聖王に事える必要はないと考え、君臣が共に耕すことを望み、上下の秩序を乱すようになった。

小説家

伊尹説二十七篇、鬻子説十九篇、周考七十六篇、青史子五十七篇、師曠六篇、務成子十一篇、宋子十八篇。

天乙三篇、黄帝説四十篇、封禅方説十八篇。

待 詔 臣饒心術二十五篇、待 詔 臣安成未央術一篇。

臣寿周紀七篇、虞初周説九百四十三篇、百家百三十九巻。

以上、小説十五家、千三百八十篇。

小説家の流派は、おそらく稗官から出たものである。街談巷語、道で聞き伝えで言う者たちの作り出したものである。孔子は言った。「小道といえども、必ず見るべきものがある。遠大なことを成し遂げようとすれば、おそらく行き詰まるだろう。それゆえ君子は行わないのである。」しかし、また滅びることもない。里巷のわずかな知識を持つ者の及ぶところも、また記録して忘れさせないようにする。もし一言でも採用できるものがあれば、これもまた刈り取る者や狂人の議論である。

総括

およそ諸子百八十九家、四千三百二十四篇。

諸子の十家のうち、見るべきものは九家だけである。いずれも王道がすでに衰え、諸侯が力を用いて政治を行い、時の君主や世の主君の好悪が方々で異なっていた時代に興った。それゆえ九家の学術が蜂の巣から出るように並び起こり、それぞれ一端を引き、自分たちが善しとするものを尊崇し、これをもって説きふるまい、諸侯の意に合おうとした。その言説は異なっていても、ちょうど水火のように、互いに滅ぼし合うと同時に生み合うのである。仁と義、敬と和は、互いに反するが、みな互いに成り合うのである。《易経》に言う、「天下は同じところに帰するが道は異なり、一致するが考えは百通りある」と。今、異なる家はそれぞれ自らの長所を推し進め、知慮を極めて、その主旨を明らかにしている。たとえ欠点や短所があっても、その要点を合わせて帰するところは、やはり六経の枝葉や末流である。もし彼らが明王聖主に巡り合い、その折衷を得ることができれば、みな股肱の材となるであろう。仲尼(孔子)に言がある、「礼が失われれば野に求める」と。今、聖人の時代から遠く離れ、道術が欠け廃れ、他に求めるべきものがない。あの九家は、野に求めるよりもまだまさっているのではないか?もし六芸の術を修め、この九家の言説を観察し、短所を捨て長所を取ることができれば、万方の謀略に通じることができるであろう。

詩賦略

屈原の賦二十五篇、唐勒の賦四篇、宋玉の賦十六篇、趙幽王の賦一篇、莊夫子の賦二十四篇、賈誼の賦七篇、枚乗の賦九篇、司馬相如の賦二十九篇、淮南王の賦八十二篇、淮南王群臣の賦四十四篇、太常蓼侯孔臧の賦二十篇、陽丘侯劉隁の賦十九篇、吾丘壽王の賦十五篇、蔡甲の賦一篇、上(皇帝)が自ら作られた賦二篇、兒寬の賦二篇、光禄大夫張子僑の賦三篇、陽成侯劉德の賦九篇、劉向の賦三十三篇、王褒の賦十六篇。

右の賦二十家、三百六十一篇。

陸賈の賦三篇、枚皋の賦百二十篇、 朱建 の賦二篇、常侍郎莊璴奇の賦十一篇、嚴助の賦三十五篇、朱買臣の賦三篇、宗正劉辟彊の賦八篇、 司馬遷 の賦八篇、郎中臣嬰齊の賦十篇、臣説の賦九篇、臣吾の賦十八篇、遼東太守蘇季の賦一篇、蕭望之の賦四篇、河内太守徐明の賦三篇、給事黄門侍郎李息の賦九篇、淮陽憲王の賦二篇、揚雄の賦十二篇、待 詔 馮商の賦九篇、博士弟子杜参の賦二篇、車郎張豊の賦三篇、驃騎将軍朱宇の賦三篇。

右の賦二十一家、二百七十四篇。

孫卿(荀子)の賦十篇、秦代の雑賦九篇、李思の孝景皇帝頌十五篇、広川恵王越の賦五篇、長沙王群臣の賦三篇、魏内史の賦二篇、東暆令延年の賦七篇、衛士令李忠の賦二篇、張偃の賦二篇、賈充の賦四篇、張仁の賦六篇、秦充の賦二篇、李歩昌の賦二篇、侍郎謝多の賦十篇、平陽公主舎人周長孺の賦二篇、雒陽錡華の賦九篇、眭弘の賦一篇、別栩陽の賦五篇、臣昌市の賦六篇、臣義の賦二篇、黄門書者仮史王商の賦十三篇、侍中徐博の賦四篇、黄門書者王広呂嘉の賦五篇、漢中都尉丞華龍の賦二篇、左馮翊史路恭の賦八篇。

右の賦二十五家、百三十六篇。

客主賦十八篇、雑行出及び頌徳賦二十四篇、雑四夷及び兵賦二十篇、雑中賢失意賦十二篇、雑思慕悲哀死賦十六篇、雑鼓琴剣戯賦十三篇、雑山陵水泡雲気雨旱賦十六篇、雑禽獣六畜昆虫賦十八篇、雑器械草木賦三十三篇、文雑賦三十四篇、成相雑辞十一篇、隠書十八篇。

右の雑賦十二家、二百三十三篇。

歌詩

高祖の歌詩二篇、泰一雑甘泉寿宮の歌詩十四篇、宗廟の歌詩五篇。

漢興以来、兵の誅滅したる所の歌詩十四篇、出行巡狩及び游の歌詩十篇。

臨江王及び愁思節士の歌詩四篇、李夫人及び幸貴人の歌詩三篇。

詔 賜、中山靖王子噲及び孺子妾冰未央材人の歌詩四篇。

呉楚汝南の歌詩十五篇、燕代謳雁門雲中隴西の歌詩九篇、邯鄲河間の歌詩四篇、斉鄭の歌詩四篇、淮南の歌詩四篇、左馮翊秦の歌詩三篇、 京兆尹 けいちょういん 秦の歌詩五篇、河東蒲反の歌詩一篇。

黄門の倡車忠等の歌詩十五篇。

雑、各主名有る歌詩十篇、雑歌詩九篇。

雒陽の歌詩四篇、河南周の歌詩七篇、河南周の歌詩声曲折七篇、周謡歌詩七十五篇、周謡歌詩声曲折七十五篇。

諸神歌詩三篇、送迎霊頌歌詩三篇。

周歌詩二篇、南郡歌詩五篇。

以上、歌詩二十八家、三百一十四篇。

総括する。

詩賦は合わせて百六家、千三百一十八篇。

伝に曰く、「歌わずして誦するのを賦と謂い、高きに登りて賦を能くすれば以て大夫と為すべし」と。物に感じて端緒を造り、材知深く美しく、事を図るに与ることができるので、故に列大夫と為すことができるのである。古くは諸侯卿大夫が隣国と交接するに当たり、微言を以て相い感じ、揖譲の時に当たっては、必ず詩を称してその志を諭し、 蓋し けだし 賢不肖を別ち盛衰を観るためであった。故に孔子は「詩を学ばざれば、以て言うこと無し」と言われた。春秋の後、周の道は次第に壊れ、聘問歌詠は列国に行われず、詩を学ぶ士は布衣に逸し、賢人の失志の賦が作られた。大儒の孫卿(荀子)及び楚の臣屈原は讒言を離れ国を憂え、皆賦を作って風刺し、悉く古詩の惻隠の義を有していた。その後、宋玉・唐勒、漢興っては枚乗・司馬相如、下って揚子雲(揚雄)に及ぶまで、競って侈麗閎衍の詞を為し、その風諫の義を没した。この故に揚子はこれを悔いて言った、「詩人の賦は麗にして則あり、辞人の賦は麗にして淫なり。孔氏の門人用いて賦するが如きは、則ち賈誼は堂に登り、相如は室に入る。其の用いざるを如何せん」と。孝武皇帝が楽府を立てて歌謡を採集して以来、代・趙の謳、秦・楚の風があり、皆哀楽に感じ、事に縁って発し、亦風俗を観察し、薄厚を知ることができるという。詩賦は五種に分かれる。

兵書略

兵権謀

呉孫子兵法八十二篇、孫臏兵法(斉孫子)八十九篇、公孫鞅二十七篇、呉起四十八篇、范蠡二篇、大夫種二篇、季子十篇、娷一篇、兵春秋一篇、龐煖三篇、児良一篇、広武君一篇、 韓信 三篇。

以上、兵権謀十三家、二百五十九篇。権謀とは、正を以て国を守り、奇を以て兵を用い、先ず計りて後に戦い、形勢を兼ね、陰陽を包み、技巧を用いるものである。

兵形勢

楚兵法七篇、蚩尤二篇、孫軫五篇、繇敘二篇、王孫十六篇、尉繚三十一篇、魏公子二十一篇、景子十三篇、李良三篇、丁子一篇、項王一篇。

右に兵形勢十一家、九十二篇。図十八巻。形勢とは、雷の動き風の吹き上がりの如く、後から発して先に至り、離合背向し、変化常なく、軽快迅速をもって敵を制するものである。

兵陰陽

太壹兵法一篇、天一兵法三十五篇、神農兵法一篇。

黄帝十六篇、封胡五篇、風后十三篇、力牧十五篇、鵊冶子一篇、鬼容區三篇。

地典六篇、孟子一篇、東父三十一篇、師曠八篇、萇弘十五篇、別成子望軍気六篇、辟兵威勝方七十篇。

右に陰陽十六家、二百四十九篇、図十巻。陰陽とは、時に順って発し、刑徳を推し、斗に随って撃ち、五勝に因り、鬼神を仮りて助けと為すものである。

兵技巧

鮑子兵法十篇、五子胥十篇、公勝子五篇、苗子五篇。

逢門射法二篇、陰通成射法十一篇、李将軍射法三篇、魏氏射法六篇、彊弩将軍王圍射法五巻、望遠連弩射法具十五篇、護軍射師王賀射書五篇。

蒲苴子弋法四篇、剣道三十八篇、手搏六篇、雑家兵法五十七篇、蹴鞠二十五篇。

右は兵技巧十三家、百九十九篇。技巧とは、手足を習熟させ、器械を便利にし、機関を積み重ねて、攻守の勝利を立てるものである。

総括する。

凡そ兵書五十三家、七百九十篇、図四十三巻。

兵家は、古の司馬の職務に由来し、王官の武備である。洪範八政の第八は師である。孔子は国を治める者について「食を足らせ兵を足らせよ」と言い、「教えずして民を戦わせるのは、これを棄てるというものである」と言い、兵の重要性を明らかにした。《易経》には「古えは木に弦を張って弧とし、木を削って矢とし、弧矢の利をもって天下を威した」とあり、その用い方は古くからあった。後世には金属を輝かせて刃とし、革を裁って甲冑とし、器械は非常に整備された。下って湯王・武王が天命を受けて、軍隊をもって乱を克服し百姓を救い、仁義をもって動かし、礼譲をもって行った。司馬法はその遺事である。春秋から戦国にかけて、奇計を出し伏兵を設ける、変詐の兵がともに起こった。漢が興ると、 張良 ・韓信が兵法を順序立てて整理し、凡そ百八十二家あり、要となるものを選び取って削除し、三十五家に定めて著した。諸呂が権力を用いてこれを盗み取った。武帝の時、軍政の楊僕が散逸したものを拾い集め、兵録をまとめて奏上したが、まだ完備できなかった。孝成帝に至り、任宏に命じて兵書を論じ整理させ、四種とした。

術数略

天文

泰壹雑子星二十八巻、五残雑変星二十一巻、黄帝雑子気三十三篇、常従日月星気二十一巻、皇公雑子星二十二巻、淮南雑子星十九巻、泰壹雑子雲雨三十四巻、国章観霓雲雨三十四巻、泰階六符一巻、金度玉衡。

漢五星客流出入八篇、漢五星彗客行事占験八巻、漢日旁気行事占験三巻、漢流星行事占験八巻、漢日旁気行占験十三巻、漢日食月暈雑変行事占験十三巻。

海中星占験十二巻、海中五星経雑事二十二巻、海中五星順逆二十八巻、海中二十八宿国分二十八巻、海中二十八宿臣分二十八巻、海中日月彗虹雑占十八巻。

図書秘記十七篇。

以上、天文二十一家、四百四十五巻。天文とは、二十八宿を配列し、五星と日月の運行を推歩し、吉凶の兆しを記録するもので、聖王がこれによって政治を参考にするのである。《易経》に「天文を観て、以って時の変化を察す」とある。しかし星の事象は複雑で奔放であり、深く緻密でない者はこれを究めることができない。天象を見て自らの行いを戒めること、明王でなければこれに従って聞き入れることもできない。究めることのできない臣下が、聞き入れることのできない王に諫める、これが双方に禍いがある所以である。

暦譜

黄帝五家暦三十三巻、顓頊暦二十一巻、顓頊五星暦十四巻、日月宿暦十三巻。

夏殷周魯暦十四巻、天暦大暦十八巻、漢元殷周諜暦十七巻、耿昌月行帛図二百三十二巻、耿昌月行度二巻。

伝周五星行度三十九巻、律暦数法三巻、自古五星宿紀三十巻、太歳謀日 晷 二十九巻。

帝王諸侯世譜二十巻、古来帝王年譜五巻。

日晷書三十四巻、許商算術二十六巻、杜忠算術十六巻。

以上、暦譜十八家、六百六巻。暦譜とは、四季の位置を配列し、春分・秋分、夏至・冬至の節気を正し、日月と五星の運行の時期を合わせ、寒暑と万物の生死の実態を考察するものである。それ故、聖王は必ず暦数を正し、三統(夏・殷・周の正朔)と服色の制度を定め、また五星と日月の会合を知ろうと探求する。凶悪な災いの患い、吉祥で盛大な喜び、その術は皆ここから出る。これは聖人が天命を知る術であり、天下の最高の才能でなければ、誰がこれに関わることができようか!道が乱れるのは、小人でありながら強いて天道を知ろうとする者が、大きなものを壊して小さなものとし、遠いものを削って近いものとするため、その結果、道術が粉々に砕けて理解し難くなるという患いから生じるのである。

五行

泰一陰陽二十三巻、黄帝陰陽二十五巻、黄帝諸子論陰陽二十五巻、諸王子論陰陽二十五巻、太元陰陽二十六巻、三典陰陽談論二十七巻。

神農大幽五行二十七巻、四時五行経二十六巻、猛子閭昭二十五巻、陰陽五行時令十九巻、堪輿金匱十四巻。

務成子災異応十四巻、十二典災異応十二巻、鍾律災異二十六巻、鍾律叢辰日苑二十三巻、鍾律消息二十九巻。

黄鍾七巻、天一六巻、泰一二十九巻、刑徳七巻、風鼓六甲二十四巻、風后孤虚二十巻、六合随典二十五巻、転位十二神二十五巻。

羨門式法二十巻、羨門式二十巻、文解六甲十八巻、文解二十八宿二十八巻。

五音奇胲用兵二十三巻、五音奇胲刑徳二十一巻、五音定名十五巻。

右の五行三十一家、六百五十二巻。

五行とは、五常(仁・義・礼・智・信)の形と気である。『書経』に「初めの一を五行と曰い、次の二を羞めて五事を用うと曰う」とあるのは、五事(貌・言・視・聴・思)を進めて用いて五行に順うことを言うのである。貌・言・視・聴・思の心が失われると、五行の順序が乱れ、五星の異変が起こる。これらは皆、律暦の数理から出て一つの分野をなしたものである。その方法もまた五徳終始説に始まり、その極みを推し進めれば至らないところはない。しかし小数家(小術を行う者)はこれによって吉凶を判断し、世に行われ、次第に(本来の道理と)混同されるようになった。

蓍亀

亀卜に関する書物五十二巻、夏の亀卜二十六巻、南の亀卜書二十八巻、巨亀卜三十六巻、雑亀卜十六巻。

蓍筮に関する書物二十八巻、周易三十八巻、周易明堂二十六巻、周易隨曲射匿五十巻、大筮衍易二十八巻、大次雑易三十巻。

鼠序卜黄二十五巻、於陵欽易吉凶二十三巻、任良易旗七十一巻、易卦八具。

以上、蓍亀の部十五家、四百一巻。蓍と亀とは、聖人が用いるところである。『書経』に言う、「もし汝に大いなる疑いがあれば、卜筮に謀り及べ」と。『易経』に言う、「天下の吉凶を定め、天下の勤勉なることを成し遂げるには、蓍亀に優るものはない」と。「それゆえ君子は、行おうとし、行動しようとするとき、これに問うて言葉を発すれば、その命を受けることは響きのごとく、遠近や幽深の別なく、ただちに来るべき物事を知る。天下の至精でなければ、誰がこれに関与できようか!」 しかし衰えた世になると、斎戒を怠り、しばしば卜筮を煩わせるので、神明は応じない。だから、筮を軽んじて告げず、易はこれを忌み嫌い、亀を厭うて告げず、詩はこれを風刺するのである。

雑占

黄帝長柳占夢十一巻、甘徳長柳占夢二十巻、武禁相衣器十四巻、嚏耳鳴雑占十六巻。

禎祥変怪二十一巻、人鬼精物六畜変怪二十一巻、変怪誥咎十三巻、執不祥劾鬼物八巻。

請官除訞祥十九巻、禳祀天文十八巻、請禱致福十九巻、請雨止雨二十六巻。

泰壹雑子候歳二十二巻、子贛雑子候歳二十六巻、五法積貯宝臧二十三巻。

神農教田相土耕種十四巻、昭明子釣種生魚鱉八巻、種樹臧果相蠶十三巻。

右に雑占十八家、三百十三巻。

雑占とは、百事の象を記し、善悪の徴候をうかがうものである。《易経》に「占事は来たることを知る」とある。多くの占いの方法は一つではないが、夢占いが最も重要であるため、周代にはその官職があった。そして『詩経』には熊や羆、虺や蛇、多くの魚、旐や旟の夢が記され、大人(聖人)の占いを明らかにして、吉凶を考察しており、おそらく卜筮と併用されていた。春秋時代の妖祥についての説は、「人が忌み嫌うものは、その気が盛んになって人を取るのであり、妖祥は人によって起こされる。人が常道を失えば妖祥が起こり、人に過ちがなければ、妖祥は自らは起こらない」という。だから「徳が勝てば不祥はなく、義が厭えば不恵はない」と言うのである。桑と穀が共に生じたが、大戊(太戊)はそれによって興隆した。鴝雉(八声鳥と雉)が鼎に登ったが、武丁は宗廟の主となった。しかし、迷う者は自らを省みず、妖祥の出現を忌み嫌う。それゆえ『詩経』が「かの古老を召し、占夢に訊ねよ」と諷刺し、その根本を捨てて末節を憂え、凶咎に打ち勝つことができないことを嘆いているのである。

形法

『山海経』十三篇、『国朝』七巻、『宮宅地形』二十巻、『相人』二十四巻、『相宝剣刀』二十巻、『相六畜』三十八巻。

右に形法六家、百二十二巻。形法とは、おおむね九州の地勢を挙げて城郭や家屋の形を立て、人および六畜の骨法の度数、器物の形状容貌によって、その声気や貴賤・吉凶を求めるものである。ちょうど音律に長短があり、それぞれがその音を徴するようなもので、鬼神によるものではなく、自然の理数によるのである。しかし、形と気は首尾をなすものであり、形はあっても気がないものもあり、気はあっても形がないものもある。これは精妙で微細な独自の特異性である。

総括

総じて数術は百九十家、二千五百二十八巻。

数術とは、すべて明堂や羲和、史官や卜官の職務である。史官が廃されて久しく、その書物も完全には残っておらず、たとえ書物があってもそれを行う人がいない。《易経》に「もしその人でなければ、道は虚しく行われることはない」とある。春秋時代には魯に梓慎、鄭に裨竈、晋に卜偃、宋に子韋がいた。戦国時代には楚に甘公、魏に石申夫がいた。漢代には唐都がおり、おおよその大略を得ることができた。おそらく、基盤があれば成しやすく、基盤がなければ成し難いものである。それゆえ、古い書物に基づいて数術を六種に分類して記述したのである。

方技略

医経

黄帝内経十八巻、外経三十九巻。

扁鵲内経九巻、外経十二巻。

白氏内経三十八巻、外経三十六巻、旁篇二十五巻。

以上、医経七家、二百十六巻。医経とは、人の血脈・経絡・骨髓・陰陽・表裏の根源を明らかにし、百病の根本を起こし、死生の分界を定め、それによって鍼石・湯火を用いる度合いを定め、百薬の調合・配合の適宜をはかるものである。最良の調合が得られれば、それは磁石が鉄を引き寄せるように、物が互いに作用し合うのである。拙劣な者は道理を失い、軽快を劇症とし、死を生と誤るのである。

経方

五臓六腑痺十二病方三十巻、五臓六腑疝十六病方四十巻、五臓六腑癉十二病方四十巻、風寒熱十六病方二十六巻。

泰始黄帝扁鵲俞 拊 方二十三巻、五臓傷中十一病方三十一巻、客疾五臓狂癲病方十七巻。

金創瘲瘛方三十巻、婦人嬰児方十九巻、湯液経法三十二巻、神農黄帝食禁七巻。

以上、経方十一家、二百七十四巻。経方とは、草木・金石の寒温の性質を本とし、疾病の浅深を量り、薬味の滋養を借り、気候の感応に適した方法により、五苦六辛を弁別し、水火の調剤を致して、閉塞を通じ、結滞を解き、正常な状態に戻すものである。その適宜を失う者は、熱に熱を加え、寒に寒を増し、精気が内傷するが外には現れず、これが特に失敗する所以である。故に諺に言う、「病があっても治療しない方が、常に中程度の医者にかかるのと同じである」と。

房中

およそ方技の書は三十六家、八百六十八巻である。

方技というものは、すべて生命を生かすための手段であり、王官の職守の一つである。太古には岐伯・俞拊がおり、中世には扁鵲・秦和がいた。およそ病を論じて国政に及び、診察を推し量って政治を知ったのである。漢が興ってからは倉公がいた。今、その技術は暗く衰えている。そこでその書を論じ、方技を四種に分けて序を付ける。

およそ書物は、六略

およそ書物は、六略三十八種、五百九十六家、一万三千二百六十九巻である。