巻22

六経の道は同じく帰するところであるが、礼楽の用は急務である。身を治める者がしばらく礼を忘れれば、暴慢が入り込む。国を治める者が一朝に礼を失えば、荒乱が及ぶ。人は天地陰陽の気を内包し、喜怒哀楽の情を持つ。天はその性を授けるが節することはできず、聖人はそれに節を加えることはできても絶つことはできない。そこで天地を象って礼楽を制定し、神明を通じさせ、人倫を立て、情性を正し、万事に節度を与えるのである。

人の性には男女の情があり、嫉妬の区別があるので、婚姻の礼を制定する。交際に長幼の序があるので、郷飲の礼を制定する。死者を悼み遠きを思う情があるので、喪祭の礼を制定する。尊び敬い上を重んじる心があるので、朝覲の礼を制定する。悲哀には哭踊の節度があり、楽しみには歌舞の容姿がある。正しい人はそれによって誠実さを十分に表し、邪な人はそれによって過失を防ぐことができる。ゆえに婚姻の礼が廃れれば、夫婦の道は苦しくなり、淫辟の罪が多くなる。郷飲の礼が廃れれば、長幼の序は乱れ、争闘の訴訟が増える。喪祭の礼が廃れれば、骨肉の恩情は薄くなり、死者を背き先祖を忘れる者が多くなる。朝聘の礼が廃れれば、君臣の位は失われ、侵陵の兆しが起こる。ゆえに孔子は言われた。「上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない。風俗を移し易えるには、楽に優るものはない。」礼は民の心に節度を与え、楽は民の声を和らげる。政はこれを行い、刑はこれを防ぐ。礼・楽・政・刑の四つが行き渡って矛盾しなければ、王道は備わるのである。

楽は内を治めて同化させ、礼は外を修めて区別する。同化すれば和親し、区別すれば畏敬する。和親すれば怨みがなく、畏敬すれば争わない。揖譲して天下が治まるとは、礼楽のことを言うのである。この二つは並行し、一体となる。畏敬の意は表しにくいので、享献・辞受・登降・跪拜に表す。和親の説は形にしにくいので、詩歌・詠言・鐘石・管弦に発する。敬意を嘉して財貨には及ばず、歓心を美して音声に流されない。ゆえに孔子は言われた。「礼という礼というのは、玉や帛のことか。楽という楽というのは、鐘や鼓のことか。」これが礼楽の根本である。ゆえに言う。「礼楽の情を知る者は作ることができ、礼楽の文を識る者は述べることができる。作る者を聖といい、述べる者を明という。明聖とは、述作のことを言うのである。」

王者は必ず前代の王の礼に基づき、時に順じて適宜を施し、損益を加え、民の心に即して、少しずつ制作し、太平の世に至って大いに備える。周は二代(夏・殷)を鑑として、礼の文は特に詳しく、事ごとに制を設け、細部に至るまで防ぎを設けた。ゆえに礼経三百、威儀三千と称される。こうして教化は行き渡り、民は和睦し、災害は生ぜず、禍乱は起こらず、牢獄は空となり、四十余年が経過した。孔子はこれを賞賛して言われた。「豊かなるかな文よ。われ周に従わん。」その衰退期に至ると、諸侯は法度を越え、礼制が己を害するのを憎み、その篇籍を廃した。 秦 の学問滅ぼしに遭い、ついに乱亡した。

漢が興ると、乱を撥ね正すことに日が足りず、それでもなお 叔孫通 に命じて礼儀を制定させ、君臣の位を正した。 高祖 は喜んで嘆じて言った。「われ今日に至って天子の貴さを知った。」通を奉常に任じ、ついに儀法を定めたが、十分に備わる前に通は亡くなった。

文帝の時、 賈誼 は「漢は秦の敗れた習俗を継ぎ、礼義を廃し、廉恥を捨てている。今その甚だしいものは父兄を殺し、盗む者は廟の器を奪い、大臣はただ簿書の報告や期日の会合を怠ることを常とし、風俗が乱れても平然として怪しまず、当然のことと思っている。風俗を移し易え、天下の心を向き直らせて道に向かわせることは、およそ俗吏のできることではない。君臣を立て、上下に等級を設け、綱紀を整然とさせ、六親を和睦させることは、天のなすことではなく、人の設けるところである。人の設けるものは、行わなければ立たず、修めなければ壊れる。漢が興ってから今まで二十余年、制度を定め、礼楽を興すべきである。そうすれば諸侯は軌道に乗り、百姓は素朴になり、訴訟は衰え止むだろう」と考えた。そこで儀礼の草案を作成し、天子はこれを喜んだ。しかし大臣の絳侯・灌嬰の一派がこれを妨害したため、その議はついに立ち消えになった。

武帝が即位すると、英傑を登用し、明堂を立てることを議し、礼服を制定して太平を興そうとした。折しも竇太后が黄老の言を好み、儒術を喜ばなかったため、その事はまた廃された。後に 董仲舒 が策問に対し、「王者が何かを為そうとするならば、その端緒を天に求めるべきである。天道の大なるものは、陰陽にある。陽は徳であり、陰は刑である。天は陽を常に大夏(盛夏)に置いて生育長養を事とさせ、陰を常に大冬(厳冬)に置いて空虚不用のところに積ませる。これによって天が徳を任用し刑を任用しないことがわかる。陽は出て上に布施し、歳功(一年の収穫)を主宰する。陰は入って下に伏蔵し、時に応じて出て陽を補佐する。陽は陰の助けがなければ、独りで歳功を成すことはできない。王者は天意を承けて事に従うので、徳教に努めて刑罰を省くのである。刑罰を以て世を治めるに任せられないのは、陰を以て歳を成すに任せられないのと同じである。今、先王の徳教を廃し、ただ法を執る吏のみで民を治め、徳化を四海に及ぼそうとしているので、成し難いのである。ゆえに古の王者は教化を大務とし、大学を立てて国で教え、庠序を設けて邑で化した。教化が明らかになり、習俗が成れば、天下に嘗て一人の獄もなかった。周の末世に至り、大いに無道となり、天下を失った。秦がその後を継ぎ、さらに甚だしくなった。古より以来、乱をもって乱を救い、天下を大いに敗ること秦の如きはなかった。習俗は薄悪で、民人は抵触冒犯する。今、漢は秦の後に継いでいる。治めようとしても、どうしようもない。法が出れば姦が生じ、令が下れば詐りが起こる。一年の獄は万千の数に上り、湯を以て沸騰を止めるようなもので、沸騰はますます甚だしくなって益がない。琴瑟の調子が合わないのに譬えるなら、甚だしい場合は必ず解いて張り替えなければ、弾くことができる。政治を行ってもうまくいかない場合、甚だしい場合は必ず変えて改めなければ、治めることができる。ゆえに漢が天下を得て以来、常によく治めようとしたが、今に至るまで残虐を克服し殺伐を除去できないのは、改めるべき時に改められなかったからである。古人に言う。『淵に臨んで魚を羨むよりは、帰って網を結べ。』今、政治に臨んで治まることを願って七十余年になる。退いて改めるに如くはない。改めれば善く治めることができ、災害は日々去り、福禄は日々来るであろう」と述べた。この時、上(武帝)は四方の夷を征討することに専念し、武功に鋭意を注ぎ、礼文の事に留意する暇がなかった。

宣帝の時代になると、琅邪の王吉が諫大夫となり、また上疏して言った。「世に優れた君主はめったに現れないものであり、公卿たちは幸運にもその時代に巡り合えたのに、万世にわたる長策を立て、明主を三代の隆盛に匹敵するまでに高める者はまだいない。その務めは簿書や裁判、訴訟の処理に留まっており、これは太平の基盤とは言えない。今、俗吏が民を治める方法は、礼儀や規範として代々通用するものがあるわけではなく、勝手な解釈で穿鑿し、それぞれ一時の都合を取っている。そのため詐偽が生じ、刑罰が際限なく、質朴さは日々失われ、恩愛は次第に薄れている。孔子が『上を安んじ民を治めるには、礼に優るものはない』と言ったのは、空言ではない。願わくは大臣たちと共に儒生を招き、古の礼を述べ、王者の制度を明らかにし、一世の民を導いて仁寿の域に至らせれば、風俗はどうして成康の世に及ばず、寿命はどうして高宗に及ばないことがあろうか。」と。皇帝はその意見を採用せず、王吉は病気を理由に去った。

成帝の時代になると、犍為郡で水辺から古い磬十六枚が発見され、議論する者はこれを祥瑞だと考えた。劉向はこれに基づいて皇帝に説いた。「宜しく辟雍を興し、庠序を設け、礼楽を整え、雅頌の声を盛んにし、揖譲の容儀を盛大にして、もって天下を教化すべきです。このようにして治まらないことは、かつてありません。あるいは、礼を完備できないと言う者もいます。礼は人を養うことを根本としており、もし過ちがあれば、それは過ちながらも人を養うことになります。刑罰の過ちは、時に死傷に至ります。今の刑罰は、皋陶の法ではなく、役人が法を定めることを請うては、削るべきは削り、筆を加えるべきは加え、時勢の要務を救っています。ところが礼楽については、『あえて手を出せません』と言う。これは人を殺すことはあえてしても、人を養うことはあえてしないということです。俎豆や管弦の間に些細な不備があるからといって、それで絶って行わないのは、小さな不備を避けて大きな不備に就くことであり、大きな不備はこれにまさるものはないでしょう。教化を刑法と比べれば、刑法は軽いものであり、重いものを捨てて軽いものを急ぐことになります。しかも教化は、治めるところの頼みとするものであり、刑法は治めを助けるものです。今、頼みとするものを廃して、助けるものだけを独立させているのは、太平をもたらす道ではありません。京師からは背逆で道理に従わない子孫がおり、大辟に陥り刑戮を受ける者が絶えないのは、五常の道を習わないからです。千年の衰えた周を承け、暴秦の残った弊害を継いで、民は悪しき風俗に染まり、貪欲で邪悪であり、義理をわきまえず、大いなる教化を示さずに、ただ刑罰で駆り立てても、ついに改めることはありません。故に『礼楽をもって導けば、民は和睦する』と言うのです。」初め、叔孫通が礼儀を制定しようとした時、 斉 ・魯の士人から非難されたが、結局は漢の儒者の宗と為り、業績は後嗣に伝わり、これは完成された法です。」成帝は劉向の言葉を公卿に下して議論させたが、劉向が病死したため、丞相と大 司空 しくう が辟雍の設立を上奏した。 長安 城南を調査し、営造の標識を立てたが、まだ着工しないうちに成帝が崩御し、群臣はこれを引き合いに出して諡号を定めた。

楽は、聖人の楽しむところであり、民心を善くすることができる。それは人を深く感動させ、風俗を移し易くするので、先王はその教化を著したのである。

民には血気心知の性はあるが、哀楽喜怒の常はなく、外の刺激に応じて動き、その後で心の動きが形となる。そのため、繊細で衰えたような音が起こると、民は憂いを思う。のびやかでゆったりとした音が起こると、民は安康で楽しむ。荒々しく激しく奮い立つような音が起こると、民は剛毅になる。清廉で正直で正しく誠実な音が起こると、民は厳かで敬う。寛容で豊かで和やかで順調な音が起こると、民は慈愛に満ちる。流れが偏り邪で散漫な音が起こると、民は淫乱になる。先王はその乱れを恥じたので、雅頌の声を制定し、情性を根本とし、度数を考察し、礼儀によって制限し、天地の気の和に合わせ、五常の行いを導き、陽気が散逸せず、陰気が凝集せず、剛気は怒らず、柔気はおじけづかず、四つの気が中で暢やかに交わり、外に発作するようにし、皆がその位に安んじて互いに奪い合わないようにした。人の善心を感動させるに足り、邪気が接することを許さないようにした。これが先王が楽を立てた方法である。

王者がまだ楽を作らない時は、先王の楽によって百姓を教化し、その風俗を楽しませてから、改めて作って功徳を顕彰したのである。《易経》に言う、「先王は楽を作って徳を崇め、盛大に上帝に薦め、祖考に配する」と。昔、黄帝は咸池を作り、顓頊は六莖を作り、帝嚳は五英を作り、堯は大章を作り、舜は招を作り、禹は夏を作り、湯は濩を作り、武王は武を作り、周公は勺を作った。勺とは、先祖の道を酌み取ることができるという意味である。武とは、功績によって天下を平定するという意味である。濩とは、民を救うという意味である。夏とは、二帝(堯・舜)の業を大いに受け継ぐという意味である。招とは、堯の後を継ぐという意味である。大章とは、それを顕彰するという意味である。五英とは、英華が茂るという意味である。六莖とは、根や茎まで及ぶという意味である。咸池とは、完全に備わっているという意味である。夏代以降、その流れはもはや聞くことができないが、殷の頌はまだ残っているものがある。周の詩はすでに完備し、その楽器も張り巡らされ、周の官制に具わっている。典楽の官である卿・大夫・師・瞽以下は、皆、道徳のある人を選び、朝夕に業を習い、国子を教えた。国子とは、卿・大夫の子弟である。皆、九徳の歌を学び、六詩を誦し、六舞・五声・八音の調和を習った。だから帝舜は夔に命じて言った、「汝は楽を司り、冑子を教えよ。直にして温かく、寛容にして厳しく、剛毅にして虐げず、簡素にして傲慢でないように。詩は志を言い、歌は言を詠い、声は詠いに依り、律は声を和し、八音が調和するように」と。これがその謂いである。また、外では諸侯のうちで徳が盛んで教えが尊ばれる者を賞した。その威儀は目を満たすに足り、音声は耳を動かすに足り、詩の言葉は心を感ずるに足りるので、その音を聞けば徳が和し、その詩を省みれば志が正しく、その数を論じれば法が立つ。だからこれを郊廟に薦めれば鬼神が饗い、朝廷で奏すれば群臣が和し、学官に立てれば万民が協和する。聞く者は皆、虚心で神を竦ませ、喜んでその流れを受け、それによって海内に遍く上徳を知り、その風に染まり、光輝が日々新たになり、教化が上に及び善に遷り、その所以を知らず、万物が夭折せず、天地が順調で嘉応が降るに至る。故に《詩経》に言う、「鐘鼓は鍠鍠と、磬管は鏘鏘と、降る福は穰穰たり」と。《書経》に言う、「石を撃ち石を 拊 てば、百獣も率いて舞う」と。鳥獣でさえもなお感応するのに、まして人においておや。まして鬼神においておや。故に楽とは、聖人が天地を感ぜしめ、神明を通じ、万民を安んじ、性類を成す所以のものである。しかし雅頌が興ってからも、受け継がれた衰乱の音はなお残っており、これを淫過凶嫚の声と言い、禁令が設けられた。世が衰え民が散じ、小人が君子に乗じ、心耳が浅薄になれば、邪が正に勝つ。故に書序に「殷の紂王は先祖の楽を断ち棄て、淫声を作り、正声を変乱させて用い、婦人を喜ばせた」とある。楽官の師や瞽はその楽器を抱えて奔散し、ある者は諸侯の国に行き、ある者は河海に入った。そもそも楽は本来情性に根ざし、肌膚に浸みて骨髓に蔵されるもので、千年を経ても、その遺風余烈はなお絶えない。春秋の時、陳の公子完が斉に奔った。陳は舜の後であり、招楽がそこにあった。故に孔子が斉に行って招を聞き、三ヶ月間肉の味を知らず、「楽がここまで至るとは思わなかった!」と言った。これを非常に美しいと感じたのである。

周の道が初めて欠け、怨み刺す詩が起こった。王の恩沢がすでに尽きると、詩を作ることができなくなった。王官が職を失い、雅と頌が入り乱れ、孔子が論じてこれを定めたので、言う、「私は衛から魯に帰って、その後楽が正され、雅頌がそれぞれその所を得た」と。この時、周室は大いに壊れ、諸侯は恣に行い、両観を設け、大路に乗った。陪臣の管仲、季氏の類は、三帰の礼を受け、雍の徹を用い、八佾の舞を廷で舞った。制度は遂に壊れ、陵夷して戻らず、桑間・濮上、鄭・衛・宋・ 趙 の声が並び出て、内では病を招き寿命を損ない、外では政を乱し民を傷つけた。巧みな偽りがこれによって飾られ、富貴の者の耳目を惑わすために用いられた。庶人は利を求め、列国は互いに間隙を狙った。故に秦の穆公が戎に贈り物をして由余が去り、斉人が魯に贈り物をして孔子が行った。六国の時代に至り、 魏 の文侯が最も古を好んだが、子夏に言った、「私は古楽を聴くと眠たくなるが、鄭や衛の楽を聞くと、疲れを知らない」と。子夏は辞してこれを弁じたが、ついに受け入れられず、ここから礼楽は失われた。

漢が興ると、楽家に制氏があり、雅楽の声律を代々大楽官に伝えていたが、ただその鏗鎗とした鼓舞の様子を記すだけで、その意義を言うことはできなかった。高祖の時、叔孫通が秦の楽人によって宗廟の楽を制定した。大祝が廟門で神を迎え、嘉至を奏するのは、古の降神の楽と同じである。皇帝が廟門に入り、永至を奏するのは、歩行の節とし、古の采薺、肆夏と同じである。乾豆を捧げる時、登歌を奏するのは、ただ歌うだけで、管弦で人声を乱さず、在位の者が遍く聞くようにするためで、古の清廟の歌と同じである。登歌が二度終わると、下で休成の楽を奏するのは、神明がすでに饗ったことを美とするためである。皇帝が東廂で酒に就き、座が定まると、永安の楽を奏するのは、礼がすでに成ったことを美とするためである。また房中祠楽があり、高祖の唐山夫人が作ったものである。周には房中楽があり、秦に至って寿人と名付けた。およそ楽は、その生まれた所を楽しみ、礼は本を忘れない。高祖は 楚 の声を好んだので、房中楽は楚の声である。孝惠帝二年、楽府令の夏侯寛に命じてその簫管を備えさせ、名を改めて安世楽とした。

高祖廟では武徳・文始・五行の舞を奏し、孝文廟では昭徳・文始・四時・五行の舞を奏し、孝武廟では盛徳・文始・四時・五行の舞を奏した。武徳舞は、高祖四年に作り、天下が武を行って乱を除くことを楽しんだことを象ったものである。文始舞は、もと舜の招舞であり、高祖六年に文始と改め、相襲わないことを示した。五行舞は、もと周の舞であり、秦始皇二十六年に五行と改めた。四時舞は、孝文帝が作り、天下の安和を明らかに示すためである。およそ自分で作った楽は、制度があることを明らかにし、先王の楽を楽しむのは、法則があることを明らかにするのである。孝景帝は武徳舞を採って昭徳とし、大宗廟を尊んだ。孝宣帝に至り、昭徳舞を採って盛徳とし、世宗廟を尊んだ。諸帝の廟では皆、常に文始・四時・五行舞を奏したという。高祖六年にはまた昭容楽・礼容楽を作った。昭容とは、古の昭夏と同じで、武徳舞から出るものである。礼容とは、文始・五行舞から出るものである。舞人が楽を持たないのは、至尊の前に至って敢えて楽を用いないためである。出て楽を用いるのは、舞が節を失わず、楽をもって終えることができるという意味である。おおむね皆、秦の旧事によっている。

初め、高祖が天下を定めた後、 沛 を通り過ぎ、故人や父老と楽しみ、酒に酔って歓び哀しみ、「風起」の詩を作り、沛中の童児百二十人に習わせて歌わせた。孝惠帝の時、沛宮を原廟とし、皆、歌う児童に習わせて吹いて相和させ、常に百二十人を定員とした。文帝・景帝の間は、礼官が業を習うだけであった。武帝の時に至り、郊祀の礼を定め、甘泉で太一を祠り、乾位に就き、汾陰で后土を祭り、沢中の方丘とした。そこで楽府を立て、詩を採り夜に誦し、趙・代・秦・楚の謡があった。李延年を協律都尉とし、多く司馬相如ら数十人を挙げて詩賦を作らせ、おおよそ律呂を論じ、八音の調べに合わせ、十九章の歌を作った。正月の上辛の日に甘泉の圜丘で用い、童男女七十人をそろえて歌わせ、夕方の祠りから明け方まで行った。夜には常に神光が流星のようにして祠壇に止まり集まり、天子は竹宮から望拝し、百官で侍祠する者数百人皆、粛然として心を動かした。

安世房中歌十七章、その詩に言う、

大孝は備わり、休徳は清く昭らかである。高く四県を張り、楽は宮庭に充ち満ちる。芳しい樹に羽林を飾り、雲の景色は杳冥として、金の支えは秀で華やかで、多くの旄と翠旌がある。

七始華始の調べは、厳かに唱和の声を響かせる。神々が宴に臨み、楽しみ遊ばれる。民衆もまたこれを聴く。粥粥たる音が送られ、細やかに人情を整える。忽然と青玄の車に乗り、めでたい事はすべて成就する。清らかな思いは深遠で、経緯は冥々として測り知れない。

我は暦数を定め、人々はその心を告げる。身を慎み斎戒し、教えを施すことは申申として行き届く。ここに祖廟を立て、尊親を敬い明らかにする。大いなるかな孝の光輝、四方の果てにまで及ぶ。

王侯は徳を保ち、その隣国は翼翼として慎む。明らかに示し、模範となる。清く明らかで暢やかである、皇帝の孝徳。ついに大功を全うし、四方の果てを撫で安んずる。

海内に奸賊あり、東北に紛乱す。 詔 を下して師を成撫し、武臣は徳を承ける。行楽して逆賊と交わり、簫と勺の楽で群悪を和らげる。厳かにして済わしめる、 燕 国を平定する。

大海は蕩蕩として水の帰するところ、高賢は愉愉として民の懐かしむところ。大山は崔嵬として、百卉が殖える。民は何を貴ぶか?徳ある者を貴ぶ。

その居所に安んじ、生業を終えるまで楽しむ。生業を終えるまで楽しみ、世々に緒を継ぐ。飛龍は秋に天に遊ぶ。高賢は愉愉として、民人を楽しませる。

豊かな草は葽々と茂り、女羅が絡みつく。滅びは如何なるものか、誰がこれを戻せようか!大いなるものは教徳を成すに如くはなく、長きものは極まりなきまでに及ぶに如くはない。

雷は震震と鳴り、電は燿燿と光る。明徳は郷に及び、治めの根本は簡約である。治めの根本が簡約であれば、恩沢は弘大である。寵愛を加えられ、皆相保つ。徳の施しは大きく、世は長寿に満ちる。

都荔と遂芳の花、窅窊たる桂華。孝道を奏でて天の儀に合わせば、日月の光の如し。玄色の四龍に乗り、回って北へ馳せる。羽旄は殷盛に、芳しきこと芒芒たり。孝道は世に随い、我は文章を署す。桂華。

馮馮翼翼として、天の則を承ける。我が易は久遠にして、四方を燭照して明らかにする。慈恵の愛する所、美は休徳の若し。杳杳冥冥として、よく永福を綽かにする。美芳。

高くそびえ、堂々として、師のごとく山の法則に倣う。ああ、なんと孝なることよ、戎国を安んじ撫でる。蛮夷は歓喜を尽くし、象が来て福をもたらす。兼ねて臨むことを愛し、ついに兵革は無し。

嘉なる薦めは芳しく、霊に告げて饗える。霊に告げて既に饗えれば、徳の音は甚だ善し。ただ徳の善きこと、侯を建つるの常なり。天の美を承け保ち、令聞を忘れず。

煌々たる広大な明らかさ、侯の美徳を蕩う。天の和を嘉んで承け、その福を楽しむ。楽しみにあって荒まず、ただ民の則りとなる。

深く師の徳を浚い、下民は皆殖える。令聞は旧に在り、その容儀は翼翼として慎み深い。

その容儀の常なること、帝の明らかさを承ける。下民の楽しみ、子孫は光を保つ。温良に順い承け、帝の光を受ける。嘉なる薦めは芳しく、寿考を忘れず。

帝の明徳を承け、師のごとく山の法則に倣う。雲の施しは民に称し、永くその福を受ける。その容儀の常なること、帝の明らかさを承ける。下民は安楽し、福を受けて疆界無し。

郊祀歌十九章、その詩に曰く、

時日を練り、望みを侯い、膋と蕭を巽え、四方を延く。九重開き、霊の斿は、恵みの恩を垂れ、大いなる福の美を授ける。霊の車は、玄雲を結び、飛龍に駕し、羽旄は紛い。霊の下るや、風の馬の如く、左に蒼龍、右に白虎。霊の来るや、神なるかな沛い、先ず雨を以てし、般として裔裔たり。霊の至るや、慶び陰陰たり、相い放怫し、心を震澹す。霊已に坐せば、五音を飭え、虞しみて旦に至り、霊の億を承く。犠牲は繭栗の如く、粢盛は香ばしく、尊に桂酒を満たし、八郷の賓をもてなす。霊安らかに留まり、青黄を吟じ、遍く此れを観、瑤堂を眺む。衆の嫭並び立ち、綽として奇麗、顔は荼の如く、兆は靡くを逐う。華文を被い、霧縠に廁わり、阿錫を曳き、珠玉を佩ぶ。嘉夜を侠み、仂めて蘭芳を薫らし、澹く容与し、嘉觴を献ず。練時日一

帝、中壇に臨み、四方は宇を承け、繩繩として意は変じ、備えて其の所を得たり。清和なる六合、数を制すること五を以てす。海内安寧、文を興し武を匽む。后土は富 媼 にして、三光に昭明たり。穆穆として優游し、嘉服は上黄なり。帝臨二

青陽開き動き、根荄遂げ、膏潤並びに愛み、跂行畢く逮ぶ。霆声発して栄え、壧の処頃く聴き、枯槁復た産み、乃ち其の命を成す。衆庶熙熙として、夭胎に施し及び、群生啿啿として、惟れ春の祺なり。

青陽の三番目の鄒子の楽。

朱明が盛んに伸び、万物は帰り、桐が生い茂り、萎えるところがない。花を咲かせて実を結び、豊かで繁栄し、広大な田畑で収穫を上げ、百の鬼神が祭られる。広大に祭祀を建て、厳かで和やかに忘れず、神がもしこれを許すならば、世々に伝えて尽きることがない。

朱明の四番目の鄒子の楽。

西顥が広大で、秋の気は厳しく、秀でたものを含み穂を垂れ、古いものを継いで絶やさない。奸偽は芽生えず、妖しい災いは伏して息づき、辺境の地は遠くまで及び、四方の異民族は皆服従する。この威厳を畏れ、純粋な徳を慕い、付き従って驕らず、心を正して慎み深い。

西顥の五番目の鄒子の楽。

玄冥は陰を高くし、冬ごもりの虫は隠れ、草木は散り落ち、冬に至って霜が降りる。乱を変え邪を除き、正しさを改めて異なる風俗を変え、万民は根本に返り、素朴な心を抱く。条理にかなった信義を整え、礼をもって五嶽を望む。租税を徴収する時、良い穀物を収穫する。

玄冥の六番目の鄒子の楽。

泰元尊のみ、媼神は福を多く授け、天地を経緯し、四時を作り成す。日月を精妙に建て、星辰は道理を測り、陰陽五行は巡り巡って始まる。雲風雷電、甘露の雨を降らせ、百姓は繁殖し、皆その秩序に従う。統治を継いで共に勤め、皇帝の徳に順い、鸞路と龍鱗の飾りは、ことごとく輝き飾られる。嘉籩を並べて陳列し、宴を楽しみ、凶災を滅除し、八荒に広がる。鐘鼓竽笙、雲のように舞い翔け、招搖の霊旗、九夷の賓客が従う。

惟泰元の七、建始元年、丞相の匡衡が上奏して「鸞路龍鱗」を廃し、詩を改めて「涓選休成」と定めた。

天地は共に豊かで、私だけが慕い、紫壇を整え、その道を求め思う。恭しく祭祀を受け継ぎ、和やかに賑わい、刺繍の敷物を周囲に張り巡らせ、神を至高のものとして承る。千人の童子が舞い並んで八溢を成し、和合して喜びを尽くし泰一を楽しませる。九歌を全て奏でて華やかに異なり、琴竽瑟が軒朱に響き合う。璆磬と金鼓、霊は喜びを持ち、百官は整然として、それぞれその務めを敬う。盛大な犠牲を俎に満たし膏を進めると、神はしばらく留まり、臨んで揺らぐ。長麗が前に輝き光り明るく、寒暑に誤りなく、ましてや皇帝の章典においては。詩を展開し律に応じて鋗玉が鳴り、宮音を含み角音を吐き出して徵音を激しく清らかにする。梁を発し羽を揚げて商音を伸ばし、この新しい音を作り永久に長くする。声気は遠くに届き鳳鳥が舞い、神は夕べに留まり楽しむ、 蓋し けだし 大いに楽しむ。

天地八丞相の匡衡が奏上して「黼繡周張」を廃止し、詩を改めて「肅若舊典」と定めた。

日は出入りして、どうして窮まりがあろうか?時世は人と同じではない。ゆえに春は我が春ではなく、夏は我が夏ではなく、秋は我が秋ではなく、冬は我が冬ではない。四海の池のように広々として、あまねく観る、これ邪かと何と言おうか?私は楽しむところを知る、ただ六龍を楽しむ、六龍の調和が、我が心を安らかにする。訾黄よ、どうして降りて来ないのか!

日出入 九

太一が臨み、天馬が降りる。赤い汗にぬれ、流れる沫は赭色。志は俶儻として、精気は権奇なり。浮雲を連ね、暗くして上へ馳せる。体は容与として、万里を越え、今いずれに匹敵せん、龍を友とす。元狩三年、馬が渥洼の水中に生まれた時に作る。

天馬が来たる、西の極みより、流沙を渡り、九夷服す。天馬が来たる、泉水より出で、虎の背のごとき二つ、鬼のごとく化す。天馬が来たる、草なき地を経て、千里を径り、東の道に循う。天馬が来たる、執徐の時、将に揺り挙げんとし、誰か期せん?天馬が来たる、遠門を開き、我が身を竦めて、昆侖に逝く。天馬が来たる、龍の媒、閶闔に遊び、玉臺を観る。太初四年、宛王を誅し宛馬を獲た時に作る。

天馬 十

天門開き、詄蕩蕩として、穆として並び騁せ、以て饗に臨む。光は夜に燭し、徳信著しく、霊は平らかにして鴻く、長生を めす。大いなる朱塗り広く、夷石を以て堂と為し、玉梢を飾りて舞歌をなし、体は招搖として永く望むがごとし。星は留まりて俞し、塞って隕つる光、紫の幄を照らし、珠は熉黄なり。幡は比びて還り集い、貳双びて飛び常羊す。月は穆穆として金波のごとく、日は華燿として宣明なり。清風に仮りて軋忽し、長きを激して重ねて觴を挙ぐ。神は裴回として留め放つがごとく、殣して親しみを冀い以て肆に章にす。函んで祉福を蒙り常に期するがごとく、寂漻として上天は其の時を知る。泛泛滇滇として高き斿に従い、殷勤として此の路に 臚 びて求むる所を述ぶ。佻として正しく嘉く吉にして弘く以て昌ん、休嘉砰隱として四方に溢る。専精して意を厲し九閡に逝き、紛云として六幕は大海に浮かぶ。

天門 十一

景星顕れ見え、信星彪列し、象は載せて庭に昭なり、日は親しく以て察る。参して開闔に侔しく、爰に本紀を推し、汾脽に鼎出で、皇祜元始なり。五音六律、依韋として饗に昭なり、雑変並び会い、雅声遠く姚なり。空桑の琴瑟信を結び成し、四興代わりに遞りて八風生ず。殷殷として鐘石羽籥鳴る。河龍鯉を供え、醇なる犠牲。百末の旨酒蘭を布きて生ず。泰尊柘漿朝酲を析く。微に感ずれば心攸に通じ修名を修め、周流常羊して思う所並ぶ。穰穰として復た正直にして往きて甯し、馮蠵切和して疏写平なり。上天布施し后土成り、穰穰たる豊年四時に栄ゆ。

景星 十二 元鼎五年、鼎を汾陰に得た時に作る。

斉の地の房室に草が生え、九本の茎が葉を連ね、宮中の童子がその異変を報告し、図録や記録を調べた。玄気の精が、この都に巡り来て、日に日に茂り広がり、芝草は霊妙な花を成した。

后土の神を祀る立派な壇が建てられ、玄色と黄色の祭服が定められ、冀州から祥瑞の物が現れ、兆しとして福が授けられた。四方の辺境は広々として、遠方の夷狄も共に住み、天地を経営し、すべてのものがその居場所を得た。

華やかな鱗が輝き、霊妙な根を固める。神の御旗が、天門を過ぎ、車は千乗、昆侖山に集う。神の出現に、玉の宮殿の扉が開かれ、周りを巡り、蘭の香る堂に至る。神の行進に、旌旗はゆらゆらと、騎兵はひしめき合い、隊列は縦横に続く。神の到来に、軽やかに漂い、甘露が降り、慶雲が集う。神が壇宇に臨まれると、九疑の神々が賓客となり、夔や龍が舞う。神が安らかに坐され、吉時を告げられ、皆が恭しく、思いを一つにする。神は喜び、再び杯を勧め、福は広大に、長く続く。豊かに恵みを施す、汾水のほとりに、金色の光を揚げ、泰河を横切り、雲のように広がり、陽の光を増して波を照らす。広く喜びを述べ、天の歌を高く響かせる。

五方の神が相集い、四方の隣国を包み込み、土地は広大で、浮雲を揚げる。立派な壇を飾り、椒と蘭の芳香、璧玉の精が、華やかな光を垂れる。億年の福を増し、美しいことが始まり興り、神と交わり、何かを承るようだ。広く宣べ伝え延べ、皆が杯を干し終え、神の輿がその位に着き、昂然と躍り上がる。草木がざわめき、どの道を分け進むのか?豊かな潤いの恩沢に、忽然と帰っていかれる。

隴山の頂に朝し、西の果てを眺め、電光のように駆け、白い麒麟を獲た。その五本の足止まり、黄色の徳を顕わし、 匈奴 の暴虐を図り、熏鬻を滅ぼす。流浪を退け、不吉を抑え、百官を賓客とし、山河に饗応させる。車を回し、長く馳せ、雨師を躍らせ、路傍の坂に水を洒ぐ。流星が落ち、風を感じ、雲を引き連れて帰り、懐かしい心を慰める。

象が玉を載せ、白いものが西に集まり、甘露を食み、栄泉を飲む。赤い雁が集い、六羽が乱れ飛び、様々な羽色が交じり、五色の文様をなす。神がこれを見て、福を施し、蓬莱に登り、極まりなき結びをなす。

(象載瑜十八 太始三年、東海に行幸して赤雁を獲たときに作る)

赤い蛟龍は安らぎ、黄色い華蓋をいただき、露は夜に降り、昼は暗く曇る。百君の礼、六龍の位、椒の酒を酌み、霊はすでに酔う。霊はすでに饗され、吉祥を賜い、広大な極みに、嘉なる杯が降る。霊は盛んで、輝きを放ち、寿命を延ばし、永遠に尽きることがない。深く暗く、六合を満たし、恩沢は豊かに広がり、万国を和らげる。霊は安らかで、象の輿はゆるやかに、ひらりと去り、旗はなびく。礼楽が成り、霊は帰らんとし、玄徳に託して、長く衰えることなし。

(赤蛟十九)

その他の巡狩や福応に関する事柄は、郊廟の祭祀に序次されないので、ここでは論じない。

この時、河間の献王(劉徳)は優れた才能を持ち、また治道は礼楽によらなければ成し遂げられないと考え、自ら集めた雅楽を献上した。天子は大楽官に下して、常に習練させ、歳時の祭祀に備えて数に入れたが、常には用いず、常に用いるもの及び郊廟の祭祀に用いるものは皆、雅声ではなかった。しかし、詩楽は後世に施されて、なお祖述すべきところを得ている。昔、殷・周の雅頌は、上は有娀(簡狄)・姜原(姜嫄)、契・稷の生まれ始め、玄王(契)・公劉・古公亶父・大伯・王季・姜女(太姜)・大任(太任)・太姒の徳に本づき、成湯・文王・武王の天命を受けること、武丁・成王・康王・宣王の中興に及び、下は補佐した阿衡(伊尹)・周公旦・召公奭・ 太公 望・申伯・召虎・仲山甫といった者たちに至るまで、君臣男女で功徳ある者は、褒め称えられない者はなかった。功徳がすでに真に優れているので、褒め称える声は天地の間に満ち、このように光輝ある名声は当世に著しく、遺された誉れは無限に伝わるのである。今、漢の郊廟の詩歌には、祖宗の事績がなく、八音の調和は均しいが、また鐘律に協わず、内には掖庭の材人(女楽官)があり、外には上林の楽府があり、皆、鄭声を朝廷に施している。

成帝の時、謁者の常山王禹は代々河間の楽を受け継ぎ、その意義を説くことができ、その弟子の宋囑らが上書してこれを言上したので、大夫・博士の平当らに下して試験させた。平当は「漢は秦が道を滅ぼした後に承け、先帝の聖徳により、広く受け容れ、兼ねて聴き、廃れた官を修め、大学を立て、河間の献王は隠れた賢者を招聘して求め、雅楽を修め興して教化を助けた。当時、大儒の公孫弘・董仲舒らは皆、その音が正雅に中ると考え、大楽に立てた。春秋の郷射の礼は、学官で行われたが、稀で講じられることがなかった。それゆえ、公卿大夫で見聞する者は、ただ鐘や鏞の音を聞くだけで、その意味を理解せず、これをもって庶民を風教しようとしても、その道がない。このようにして百有余年行われたが、徳化は今日に至るまで成し遂げられていない。今、囑らは孤学を守り習い、大旨は教化を興し助けることに帰している。衰微した学問は、興廃は人による。雅楽に属させて、絶えたものを継ぎ、微かなものを顕わすべきである。孔子は言われた、『人は道を弘めることができるが、道が人を弘めるのではない』と。河間の王は小さな存在で、国の藩臣に過ぎないが、学問を好み古を修め、何かを保存することができ、民は今日に至るまで彼を称えている。まして聖主が広く覆う資質を持ち、旧い文を修め起こし、鄭声を退けて雅に近づけ、述べて作らず、信じて古を好むならば、これをもって海内に風教を示し、後世に名を揚げることは、誠に小さな功績や美事ではない。」と考える。事は公卿に下され、久遠で明らかにし難いとして、平当の議は再び取り上げられなかった。

この時、鄭声は特に甚だしかった。黄門の名倡である丙彊・景武の類は世に富み顕れ、貴戚の五侯(王譚・王商・王立・王根・王逢時)や定陵侯(淳于長)・富平侯(張放)といった外戚の家は淫侈が度を過ぎ、ついには人主と女楽を争うに至った。哀帝は定陶王であった時からこれを憎み、また生来音楽を好まなかったので、即位すると 詔 を下して言った。「ただ世俗は奢侈で文飾が巧みであり、鄭衛の声が盛んである。奢侈であれば下は謙遜でなく国は貧しくなり、文飾が巧みであれば末業に趨き本業に背く者が多く、鄭衛の声が盛んになれば淫らで邪な教化が流布し、黎民が質朴で家が豊かであることを望むのは、その源を濁らせて清い流れを求めるようなもので、難しいことではないか。孔子は言われなかったか、『鄭声を放て、鄭声は淫らである』と。楽府の官を廃止せよ。郊祭の楽及び古い兵法の武楽で、経典に照らして鄭衛の楽でないものは、条書きして奏上し、別の官に属させよ。」丞相の孔光・大 司空 しくう の何武が奏上した。「郊祭楽の人員六十二人は、南北郊の祭祀に供する。大楽鼓員六人、嘉至鼓員十人、邯鄲鼓員二人、騎吹鼓員三人、江南鼓員二人、淮南鼓員四人、 巴 俞鼓員三十六人、歌鼓員二十四人、楚厳鼓員一人、梁皇鼓員四人、臨淮鼓員三十五人、茲邡鼓員三人、合わせて鼓十二種、員数百二十八人、朝賀の酒宴で殿の下に陳列し、古い兵法に応じる。外郊祭員十三人、諸族の楽人で雲招を兼ね南郊の祭祀に供する者六十七人、雅楽の給事を兼ねる者四人、夜誦員五人、剛・別柎員二人、盛徳に供して篪の調律をする者二人、律によって冬至・夏至を知る聴工一人、鐘工・磬工・簫工員各一人、諸楽人を主領する 僕射 ぼくや 二人、これらは皆廃止できない。竽工員三人、一人は廃止できる。琴工員五人、三人は廃止できる。柱工員二人、一人は廃止できる。弦を張る工員六人、四人は廃止できる。鄭四会員六十二人、一人は雅楽の給事に供し、六十一人は廃止できる。瑟を張る員八人、七人は廃止できる。安世楽鼓員二十人、十九人は廃止できる。沛吹鼓員十二人、族歌鼓員二十七人、陳吹鼓員十三人、商楽鼓員十四人、東海鼓員十六人、長楽鼓員十三人、縵楽鼓員十三人、合わせて鼓八種、員数百二十八人、朝賀の酒宴で、前殿の房中に陳列するが、経法に応じない。竽を治める員五人、楚鼓員六人、常に従う倡優三十人、常に従う象人(仮面舞踏者)四人、 詔 により常に従う倡優十六人、秦の倡優員二十九人、秦の倡優の象人員三人、 詔 により秦の倡優に従う者一人、雅大人员九人、朝賀の酒宴で楽をなす。楚四会員十七人、巴四会員十二人、銚四会員十二人、斉四会員十九人、蔡の謳員三人、斉の謳員六人、竽・瑟・鐘・磬の員五人、これらは皆鄭声であり、廃止できる。師学百四十二人、そのうち七十二人は大官に供して挏馬酒(馬乳酒)を作り、その七十人は廃止できる。総計八百二十九人、そのうち三百八十八人は廃止できず、大楽に属させることができる。その四百四十一人は経法に応じず、あるいは鄭衛の声であり、皆廃止できる。」奏上は許可された。しかし、百姓は次第に染まること久しく、また雅楽を制定して変える手立てがなく、豪富な吏民は相変わらず耽溺し、衰微して王莽の時に至って崩壊した。

今、海内は更始し、民人は本業に帰り、戸口は年々増加し、刑罰を公平にし、賢良をもって治め、家が豊かで、すでに多くかつ富んでいるならば、学校や礼楽による教化が必要である。今、幸いにも前聖の遺制である威儀があり、誠にこれを模範として補い備え、経綸はこれに因縁して存続させることができる。

孔子は言われた。「殷は夏の礼により、損益したところを知ることができる。周は殷の礼により、損益したところを知ることができる。もし周を継ぐ者があれば、百世先も知ることができる。」今、大漢は周を継いでいるが、久しく大儀が欠け、礼を立て楽を成すことがない。これは賈誼・董仲舒・王吉・劉向の徒が憤りを発して嘆きを増す所以である。