『虞書』に「乃ち律度量衡を同じくす」とあるのは、遠近を整え民の信を立てるためのものである。伏羲が八卦を画き、数より起こり、黄帝・堯・舜に至って大いに備わった。三代は古を稽え、法度は明らかとなった。周が衰え官が失われ、孔子は後王の法を述べて言った。「権量を謹み、法度を審らかにし、廃れた官を修め、逸民を挙げれば、四方の政は行われるであろう」。漢が興ると、北平侯張蒼が初めて律暦の事を掌り、孝武帝の時に楽官が考証した。元始年間に王莽が政を執り、名誉を輝かせようと、天下で鐘律に通暁する者百余人を徴し、羲和の劉歆らに命じて統率させ条奏させたが、その言は最も詳しかった。よってその偽りの言辞を削り、正しい義を採り、篇に著す。
第一は数を備えること、第二は声を和すること、第三は度を審らかにすること、第四は嘉量(良い量器)を定めること、第五は権衡を正すことである。三五を参じて変化させ、その数を錯綜させ、古今に照らして検証し、気象や物に応じて効果を確かめ、心と耳で調和させ、経伝によって考証すれば、皆その実を得て、調和しないものはない。
数とは、一、十、百、千、万であり、事物を算数し、性命の理に順うためのものである。『書経』に「先ずその算命を為す」とある。その根本は黄鐘の数に起こり、一から始めて三倍し、三三で積み重ね、十二辰の数を経て、十七万七千百四十七となり、五つの数が備わる。その算法には竹を用い、径一分、長さ六寸のものを二百七十一枚で六角形(六觚)とし、一握りとする。径は乾の律である黄鐘の一を象り、長さは坤の呂である林鐘の長さを象る。その数は易の大衍の数五十に倣い、その用いるものは四十九、陽の六爻を成し、周流六虚の象を得る。暦を推し律を生み器を制し、円を規り方に矩し、権を重くし衡を平らにし、準縄と嘉量を定め、奥深きを探り隠れたるを求め、深遠なるに至るまで、これを用いないものはない。長短を度るには毫厘も失わず、多少を量るには圭撮も失わず、軽重を権るには黍絫も失わない。一に紀し、十に協い、百に長じ、千に大なり、万に衍す。その法は算術にあり、天下に宣べ、小学の則とす。職は太史に在り、羲和がこれを掌る。
声とは、宮・商・角・徴・羽である。音楽を作る目的は、八音を調和させ、人の邪悪な心を洗い流し、その正しい本性を全うさせ、風俗を移し変えることにある。八音とは、土製は塤、匏製は笙、皮製は鼓、竹製は管、絲製は絃、石製は磬、金製は鐘、木製は柷という。五声が調和し、八音が諧で、音楽が完成する。商というのは「章」の意味で、物が成熟して章度(はっきりした規準)を示すことができるからである。角は「触」の意味で、物が地に触れて出てきて、芒角を戴くからである。宮は「中」の意味で、中央に位置し、四方に通じ、始めを唱えて生を施し、四声の綱紀となるからである。徴は「祉」の意味で、物が盛大に繁茂して福祉をもたらすからである。羽は「宇」の意味で、物が集まって宇に覆われるからである。声というものは、宮において中り、角において触れ、徴において祉せ、商において章になり、羽において宇われる。だから四声は宮を紀めるのである。五行に合わせると、角は木に、五常は仁に、五事は貌(礼儀作法)に対応する。商は金・義・言に、徴は火・礼・視に、羽は水・智・聴に、宮は土・信・思に対応する。君臣民事物に当てはめて言えば、宮は君に、商は臣に、角は民に、徴は事に、羽は物に対応する。唱和に象があるので、君臣が位し事を行う体を言うのである。
五声の根本は、黄鐘の律から生じる。九寸を宮とし、あるいは減じあるいは増して、商・角・徴・羽を定める。九と六が互いに生じ合うのは、陰陽の応じ合いである。律は十二あり、陽の六つを律といい、陰の六つを呂という。律は気を統べ物を類別するもので、第一を黄鐘、第二を太族、第三を姑洗、第四を蕤賓、第五を夷則、第六を亡射という。呂は陽を助けて気を宣べるもので、第一を林鐘、第二を南呂、第三を応鐘、第四を大呂、第五を夾鐘、第六を中呂という。三統の意味がある。その伝えによると、黄帝の作ったものである。黄帝が泠綸に命じ、大夏の西、崑崙の北から、竹の解谷に生え、その節の厚さが均一なものを取り、二つの節の間を切り取って吹き鳴らし、黄鐘の宮とした。十二の竹筒を作って鳳凰の鳴き声を聞き、その雄の鳴き声が六つ、雌の鳴き声も六つあり、黄鐘の宮と比べてみると、すべてそれから生じることができ、これが律の根本である。よく治まった世の中では、天地の気が合わさって風を生じる。天地の風気が正しければ、十二律は定まる。黄鐘:黄は中央の色であり、君主の服の色である。鐘は種である。天の中央の数は五であり、五は声となり、声の上は宮であり、五声の中でこれより大きいものはない。地の中央の数は六であり、六は律となり、律には形と色があり、色の上は黄であり、五色の中でこれより盛んなものはない。だから陽気が黄泉に種を施し、万物を芽生えさせ、六気の元となる。黄色をもって元気の律を名付けるのは、宮声を顕著にするためである。宮は九をもって六を唱え、変動してとどまらず、六虚を周流する。子に始まり、十一月にある。大呂:呂は旅であり、陰が大きく、黄鐘の宮気を助けて物を芽生えさせるという意味である。丑の位置にあり、十二月にある。太族:族は奏であり、陽気が大きく、地に奏でて物を通達させるという意味である。寅の位置にあり、正月にある。夾鐘は、陰が太族を助けて四方の気を宣べ、種物を出させるという意味である。卯の位置にあり、二月にある。姑洗:洗は潔いことであり、陽気が物を洗い清めるという意味である。辰の位置にあり、三月にある。中呂は、微かな陰が始まってまだ完成せず、その中にあって姑洗を助けて気を宣べ物を整えるという意味である。巳の位置にあり、四月にある。蕤賓:蕤は継ぐことであり、賓は導くことであり、陽が始めて陰気を導き、物を養うことを継がせるという意味である。午の位置にあり、五月にある。林鐘:林は君であり、陰気が任を受け、蕤賓を助けて君主として種物を長大に茂らせるという意味である。未の位置にあり、六月にある。夷則:則は法であり、陽気が法度を正し、陰気に傷つくべき物を平らかにさせるという意味である。申の位置にあり、七月にある。南呂:南は任であり、陰気が夷則を助けて万物を成り立たせる任に当たるという意味である。酉の位置にあり、八月にある。亡射:射は厭ことであり、陽気が物を究め、陰気に終わらせて剥落させ、終わってまた始まり、厭うことがないという意味である。戌の位置にあり、九月にある。応鐘は、陰気が亡射に応じ、万物を蔵らせて陽を雑え種を閉ざすという意味である。亥の位置にあり、十月にある。
三統とは、天が施すもの、地が化すもの、人事の規範である。十一月は乾の初九に当たり、陽気が地下に伏して、初めて一として現れ、万物が萌え動き、太陰に集まる。ゆえに黄鐘を天統とし、律管の長さは九寸である。九という数は、中和を究め極めて、万物の根源となるものである。《易経》に言う、「天の道を立てるには、陰と陽とをいう」。六月は坤の初六に当たり、陰気が太陽から任を受けて、柔らかさを養い化し続け、万物が生長し、未の方角で茂る。種を剛強に大きくさせるので、林鐘を地統とし、律管の長さは六寸である。六という数は、陽の施しを含み、六合の内で茂らせ、剛と柔に形を与えるものである。「地の道を立てるには、柔と剛とをいう」。「乾は太始を知り、坤は物を作り成す」。正月は乾の九三に当たり、万物が順調に通じ、族類が寅の方角から出て、人が奉じてこれを成し、仁をもって養い、義をもって行い、事物をそれぞれその理にかなうようにする。寅は木であり、仁に当たる。その音声は商であり、義に当たる。ゆえに太族を人統とし、律管の長さは八寸で、八卦を象り、伏羲氏が天地に順い、神明を通じ、万物の情を類した所以である。「人の道を立てるには、仁と義とをいう」。「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」。「后(君主)は以て天地の道を裁成し、天地の宜しきを輔相し、以て民を左右す」。これが三律の謂いであり、これが三統である。
三統が三正に対応するのは、黄鐘の子が天正、林鐘の未の衝(対衝)である丑が地正、太族の寅が人正である。三正は始まりを正す。それゆえ地正はその始まりが陽の東北の丑の方位に結びつくのに適している。《易経》に「東北に朋を喪うも、乃ち終に慶あり」とあるのは、応答の道理に答えるものである。また黄鐘を宮とすると、太族・姑洗・林鐘・南呂は皆、正しい音声で応じ、わずかな誤差もなく、他の律に従属することがない。これは同心一統の意義である。黄鐘以外の他の律では、たとえその月に自ら宮となるものであっても、それに調和して応じる律には空積忽微(わずかな隙間と微小な誤差)があり、正しい状態を得られない。これが黄鐘が最も尊く、並ぶものがない所以である。
《易経》に言う、「天の数に三を参え、地の数に二を両べて数に倚る」。天の数は一から始まり、二十五で終わる。その理は三を基準とするので、一を置いて三を得、さらに二十五分の六を加える。合計二十五回置くと、天の数を終え、八十一を得る。天地の五位の合計が十で終わる数をこれに乗じると、八百一十分となり、暦法の一統千五百三十九年という章数に応じる。これが黄鐘の実(実数)である。この理から、十二律の周径(円周と直径)が起算される。地の数は二から始まり、三十で終わる。その理は二を基準とするので、一を置いて二を得る。合計三十回置くと、地の数を終え、六十を得る。地の中数である六をこれに乗じると、三百六十分となり、一周期の日数に相当する。これが林鐘の実である。人は、天を継ぎ地に順い、気を整えて物を成し、八卦を統べ、八風を調え、八政を治め、八節を正し、八音を調和させ、八佾の舞を舞い、八方を監察し、八荒を覆い、天地の功業を完成させる。ゆえに八八六十四となる。その理は天地の変化を極め、天地の五位の合計が十で終わる数をこれに乗じると、六百四十分となり、六十四卦に応じる。これが太族の実である。《書経》に言う、「天の功業を人が代わって行う」。天は地を兼ね、人は天に則る。ゆえに五位の合計数を乗じるのであり、「唯だ天を大と為し、唯だ堯これに則る」という象である。地は中数を乗じるのは、陰の道理が内を治め、中で食を饋る象である。三統は互いに通じるので、黄鐘・林鐘・太族の律管の長さは皆、寸の整数であり、端数がないのである。
天の中心となる数は五であり、地の中心となる数は六であり、この二つが合わさる。六は虚(空虚な場)であり、五は声(音)であり、声は六つの虚の間を周流する。虚とは、爻(易の卦を構成する線)や律(音律)が陰陽を司り、昇降運行して十二に配列され、それによって律呂(十二律)が調和するものである。太極の元気は、三つのものを包含して一つとなる。極とは中(中心)のことである。元とは始めのことである。それは十二辰(十二支)を運行し、子において動き始める。丑において三倍すると、三を得る。さらに寅において三倍すると、九を得る。さらに卯において三倍すると、二十七を得る。さらに辰において三倍すると、八十一を得る。さらに巳において三倍すると、二百四十三を得る。さらに午において三倍すると、七百二十九を得る。さらに未において三倍すると、二千百八十七を得る。さらに申において三倍すると、六千五百六十一を得る。さらに酉において三倍すると、一万九千六百八十三を得る。さらに戌において三倍すると、五万九千四十九を得る。さらに亥において三倍すると、十七万七千百四十七を得る。これは陰陽がその徳を合わせ、気が子に集まり、万物を化生するものである。それゆえ、子においては芽生え、丑においては芽が結ばれ、寅においては伸び広がり、卯においては草が萌え出で、辰においては美しく振るい、巳においてはすでに盛んとなり、午においては広く布き、未においては暗く茂り、申においては堅く伸び、酉においては熟して留まり、戌においてはすべて収められ、亥においてはすべて閉ざされる。甲においては甲が現れ、乙においては乙が奮い起こり、丙においては丙が明るく輝き、丁においては丁が大いに盛んとなり、戊においては戊が豊かに茂り、己においては己が理を整え、庚においては庚が収め改め、辛においては辛がすべて新たにし、壬においては壬が懐妊し、癸においては癸が計画を陳べる。それゆえ、陰陽が施す化育、万物の終始は、すでに律呂に類比され、また日辰を経歴し、その変化の様子が見て取れるのである。
玉衡(北斗七星の第五星)の柄が建つのは、天の綱(大綱)である。太陽と月が初めて運行するのは、星の紀(秩序)である。この綱と紀が交わることによって、万物の始原が造設され、音楽の調和に用いられる。律呂が唱和することによって、生成化育が育まれ、歌や演奏に用いられる。指し示し顧みて象を取ることによって、その後、陰陽万物はことごとく条理が通じ、すべてが完成する。それゆえ、完成の数(前述の亥の数177147)をもって、すべてを包含する積(総体)を推し量り、法に従って一寸とすれば、それが黄鐘の長さとなる。三分の一を損じて(2/3倍して)、下って林鐘を生じる。林鐘を三分の一益して(4/3倍して)、上って太族を生じる。太族を三分の一損じて、下って南呂を生じる。南呂を三分の一益して、上って姑洗を生じる。姑洗を三分の一損じて、下って応鐘を生じる。応鐘を三分の一益して、上って蕤賓を生じる。蕤賓を三分の一損じて、下って大呂を生じる。大呂を三分の一益して、上って夷則を生じる。夷則を三分の一損じて、下って夾鐘を生じる。夾鐘を三分の一益して、上って亡射を生じる。亡射を三分の一損じて、下って中呂を生じる。陰陽が相生するのは、黄鐘から始まって左回りに旋り、八八(八度音程ごと)を一組とする。その法(標準器)はすべて銅で作られる。職務は大楽に属し、太常がこれを掌る。
度とは、分、寸、尺、丈、引のことであり、長短を測るために用いる。その根本は黄鐘の長さに由来する。子の方向に実る黒黍の中くらいの大きさのものを用い、一つの黍粒の幅を基準とし、それを九十分した長さが、黄鐘の長さである。その一を一分とし、十分を一寸とし、十寸を一尺とし、十尺を一丈とし、十丈を一引とし、これによって五度(分・寸・尺・丈・引)が確定する。その法(標準器)は銅で作り、高さ一寸、幅二寸、長さ一丈とし、その上に分・寸・尺・丈の目盛りを刻む。竹を用いて引(長さの基準)を作り、高さ一分、幅六分、長さ十丈とし、その形は矩(曲尺)のようで、高さと幅の数は陰陽の象を表している。分とは、三つの微細なものが集まって目に見えるようになり、区別できることをいう。寸とは、忖ことである。尺とは、卺(物差し)のことである。丈とは、張(広がる)ことである。引とは、信(伸びる)ことである。度というものは、分によって区別し、寸によって推し量り、尺によって測り、丈によって広がり、引によって伸びる。引とは、天下に信を及ぼすものである。職務は内官に属し、廷尉がこれを掌る。
量とは、龠、合、升、斗、斛のことであり、物の多少を量るためのものである。その根本は黄鐘の龠に由来し、度数を用いてその容積を厳密に定め、子穀の秬黍の中粒を千二百粒で龠を満たし、井戸水を用いて概を水平に合わせた。二龠を合わせて一合とし、十合で一升、十升で一斗、十斗で一斛となり、五量の制度は立派に整った。その器は銅で作り、一尺四方の形で外側を円形にし、側面には庣(ちょう:突起)がある。上部が斛、下部が斗である。左の耳の部分が升、右の耳の部分が合と龠である。その形状は爵に似ており、爵禄(しゃくろく:位階と俸禄)を授けることを象徴している。上に三つ、下に二つあり、天の三と地の二を表し、円形で方形を含み、左に一つ、右に二つあるのは陰陽の象である。その円形は規(コンパス)を象り、その重さは二鈞で、気と物の数を備え、一万一千五百二十に合致する。音は黄鐘に調い、黄鐘から始まってまた黄鐘に戻るのは、君主が器物を制定する象である。龠とは、黄鐘の律管の実(容積)であり、微かな気が躍動して物を生じることを表す。合とは、二龠を合わせた量である。升とは、合を登せた量である。斗とは、升を集めた量である。斛とは、斗を角って多少を公平にする量である。およそ量というものは、龠で躍動し、合で合わさり、升で登り、斗で集まり、斛で角るのである。その職務は太倉にあり、大司農がこれを掌る。
衡(はかりの棒)と権とは、衡は平らにするもの、権は重さを表すものであり、衡は権を受け止めて物の軽重を均等に平らにするものである。その道理は底のようであり、それによって基準の正しさ、縄の直さが現れ、左に回せば規(円)が見え、右に折れば矩(直角定規)が見える。それが天にあっては、璿機(せんき:北斗七星)を補佐し、斟酌して指し示し、七政(日月と五星)を整えるので、玉衡と呼ばれる。論語に云う、
「立つとその(道が)前に参わっているのを見、車に乗るとその(道が)衡に寄りかかっているのを見る」と。また云う、「礼をもってこれを斉える」と。これが衡が前にあって南方に位置する意味である。
権とは、銖、両、斤、鈞、石のことであり、物を秤にかけて公平に施し、軽重を知るためのものである。その根本は黄鐘の重さに由来する。一龠に千二百粒の黍が入り、その重さは十二銖であり、二倍して一両とする。二十四銖で一両となる。十六両で一斤となる。三十斤で一鈞となる。四鈞で一石となる。これを忖度すると十八となり、易の十八変の象である。五権の制度は、義によって立てられ、物によって均され、その他の大小の差は、軽重によって適宜に定められる。円形で環状にし、肉の部分が好の部分の倍になるようにし、周りを巡って端がなく、終わってまた始まり、無限である。銖とは、物が忽や微といった微小なものから始まり、著しいものになるまで、区別できることを表す。両とは、二つの黄鐘の律管の重さである。二十四銖で一両となるのは、二十四節気の象である。斤とは、明らかであることを表し、三百八十四銖は、易の上下二篇の爻の数であり、陰陽が変動する象である。十六両で一斤となるのは、四季が四方に乗じる象である。鈞とは、均しいことであり、陽がその気を施し、陰がその物を化して、すべてが成就し平均を得ることを表す。権と物が均しく、重さ一万一千五百二十銖は、万物の象に相当する。四百八十両というのは、六旬(六十日)が八節(二十四節気を八等分したもの)を運行する象である。三十斤で一鈞となるのは、一月の象である。石とは、大きいことであり、権の中で最も大きいものである。銖から始まり、両で二倍になり、斤で明らかになり、鈞で均しくなり、石で終わる。物は石で終わり大いなるのである。四鈞で一石となるのは、四季の象である。重さ百二十斤というのは、十二月の象である。十二辰で終わってまた子に戻るのは、黄鐘の象である。千九百二十両というのは、陰陽の数である。三百八十四爻は、五行の象である。四万六千八十銖というのは、一万一千五百二十の物が四季を経る象である。こうして一年の働きが成就し、五権の制度は厳密に整うのである。
権(分銅)と物が釣り合って衡(天秤)が生じ、衡が回転して規(コンパス)が生じ、規が円を描いて矩(曲尺)が生じ、矩が方形を描いて縄(墨縄)が生じ、縄が直線を引いて準(水準器)が生じ、準が正しければ平衡となり、権が釣り合う。これが五則である。規とは、器械を円形に整え、その類いを得させるものである。矩とは、器械を方形に整え、その形を失わせないものである。規と矩は互いに補い合い、陰陽の位置と順序によって、円と方形が成り立つ。準とは、水平を測り正しさを得るものである。縄とは、上下が端直で、経緯が四方に通じるものである。準と縄は一体となり、衡と権はその徳を合わせ、百工(多くの職人)はこれに従って法式を定め、輔弼(補佐)の臣は玉(圭)を執って天子を助ける。《詩経》に「尹氏の大師は、国の権衡を執り、四方を維持し、天子を助け、民を迷わさない」とある。いずれも五つの象があり、その意義は一つである。陰陽の面から言えば、大陰は北方である。北は伏すことであり、陽気が下に伏し、時としては冬である。冬は終わりであり、物が終わり蔵められて、初めて称えられる。水は下を潤す。知者は謀り、謀る者は重んじるので、権となるのである。大陽は南方である。南は任うことであり、陽気が物を養うことを任じ、時としては夏である。夏は仮いであり、物が大きく広がって、初めて平らかに宣べられる。火は上に燃え上がる。礼は整えることであり、整える者は平らかであるので、衡となるのである。少陰は西方である。西は遷ること、陰気が物を落ち遷らせ、時としては秋である。秋は胆ること、物が縮斂して、初めて成熟する。金は革まるに従う、改めて更めることである。義は成すことであり、成す者は方形であるので、矩となるのである。少陽は東方である。東は動くことであり、陽気が物を動かし、時としては春である。春は蠢くこと、物が蠢き生じて、初めて動き運ぶ。木は曲直する。仁は生むことであり、生む者は円形であるので、規となるのである。中央は、陰陽の内、四方の中であり、経緯が通達して、初めて端直となることができ、時としては四季である。土は作物を育て繁殖させる。信は誠実であり、誠実な者は直であるので、縄となるのである。五則は物を測り、軽重・円方・平直・陰陽の意義、四方四時の形体、五常五行の象がある。その法には品等があり、それぞれその方角に順応し、その行いに応じる。職務は大行にあり、鴻臚がこれを掌る。
《書経》に「私は六律・五声・八音・七始の詠を聞き、それによって五言(五常の言葉)を出し入れしたい、汝は聴け」とある。「予」とは帝舜である。律呂で五声を調和させ、八音に施し、合わせて楽を成すことを言う。七とは、天地・四時・人の始まりである。これに順じて五常の言葉を歌詠し、それを聴けば天地に順い、四時に序い、人倫に応じ、陰陽を本とし、情性を原ね、徳をもって風化し、楽をもって感化すれば、すべて一つに同じくする。ただ聖人だけが天下の意を同じくすることができるので、帝舜はこれを聞きたいと思ったのである。今、広く群儒を招き、博く謀り道を講じ、旧典を修明し、律を同じくし、度を審らかにし、嘉量を定め、平衡を保ち、鈞権を調え、準を正し、縄を直くし、五則を立て、数を備え声を和らげ、もって億兆の民を利し、天下を一に正し、海内の帰する所を同じくする。凡そ律・度・量・衡に銅を用いるのは、名が自ら名であるからであり、天下を同じくし、風俗を整えるためである。銅は物の中でも最も精妙であり、燥湿寒暑によってその節度を変えず、風雨暴露によってその形を改めず、確固として常があり、士君子の行いに似ているので、銅を用いるのである。竹を用いて引(長さの単位)とするのは、事柄に適しているからである。
暦法の起源は古い。伝承によれば、顓頊が南正の重に天の運行を司らせ、火正の黎に地の事柄を司らせたが、その後三苗が徳を乱し、両官とも廃され、閏月の調整が狂って順序が乱れ、正月の位置が失われ、摂提星の方角も定まらなくなった。堯は重と黎の子孫を再び登用し、その事業を継承させた。ゆえに『書経』に「そこで羲と和に命じ、天を敬い従い、日月星辰の運行を観測し、民に時節を敬って授けた」とある。「一年は三百六十六日であり、閏月を置いて四季を定め年を成し、百官を正しく治め、多くの功績を皆美しくする。」その後、舜にこれを授ける時に言った。「おお、そなた舜よ、天の暦数はそなたの身にある。」「舜もまた禹に同じく命じた。」周の武王が箕子を訪ねると、箕子は大法九章を述べ、その中の五紀によって暦法を明らかにした。ゆえに殷・周以来、皆創業して制度を改め、暦の紀元を正し、服色をそれに従わせ、その時の気候に順応させて、天道に応じた。夏・殷・周の三代が滅び、五覇の末期には史官が記録を失い、暦算の専門家である疇人の子弟は散り散りになり、ある者は夷狄の地にいたので、彼らが記録したものに、黄帝暦・顓頊暦・夏暦・殷暦・周暦および魯暦があった。戦国時代は擾乱し、秦が天下を兼ねたが、まだ暦法に余裕がなく、また五行相勝説を推し進め、自ら水徳を得たと考え、十月を正月とし、色を黒を上とした。
漢が興ると、ようやく国家の大綱を整え始めたが、諸事は草創期で、秦の正朔(正月と朔日)をそのまま襲用した。北平侯の張蒼の進言により、顓頊暦を用いた。六暦(黄帝・顓頊・夏・殷・周・魯の六種の古暦)と比べると、粗雑ではあるが中では最も精密に近かった。しかし、正朔や服色の真の姿は見えず、また朔や晦に月が見えたり、弦や望の満ち欠けが、多くは合っていなかった。
武帝の元封七年に至り、漢が興って百二年となった。大中大夫の公孫卿・壺遂・太史令の司馬遷らが「暦の紀元が壊れ廃れているので、正朔(正月と朔日)を改めるべきである」と上言した。この時、御史大夫の兒寬は経術に明るかったので、上(武帝)は兒寬に詔して言った。「博士と共に議し、今何を以て正朔とすべきか。服色は何を上(尊)ぶべきか」。兒寬は博士の賜らと議し、皆が言うには、「帝王は必ず正朔を改め、服色を変える。それは天より受命したことを明らかにするためである。創業して変改し、制度は前代を繰り返さない。伝承の順序と文を推すと、今は夏の時(暦)である。臣らは学問が狭く浅陋で、明らかにすることができない。陛下は自ら聖徳を発憤し、天地に昭かに配する。臣の愚見では、三統の制度は、後の聖人が前の聖人を復するもので、夏・殷の二代が前にある。今、二代の統は絶えて序がない。唯、陛下が聖徳を発し、天地四時の極みを考査して宣べ、陰陽に順って大明の制度を定め、万世の規範とされることを願う」。そこで詔して御史に言った。「先に有司が暦が未だ定まらないと言い、広く延べ問い宣べて、星度を考へんとしたが、未だ一致させることができなかった。聞くところによれば、古の黄帝は(暦を)合わせて(歳月が)尽きず、名を察して発斂を定め、清濁を定め、五部を起こし、気物の分数を建てたという。それならば上(優れ)ている。書は欠け、楽は弛み、朕は甚だこれを難じている。依違して思いを巡らすも、修明することができなかった。七年を元年とせよ」。そこで卿・遂・遷と侍郎の尊・大典星の射姓らに詔して、漢の暦を造ることを議させた。そこで東西を定め、晷儀(日時計)を立て、漏刻(水時計)を下ろし、二十八宿が四方に距(隔た)るのを追い求め、終わりを挙げて朔晦と分至(春分・秋分・夏至・冬至)を定め、躔離(天体の運行と離隔)と弦望(上弦・下弦・満月)を定めた。そこで前の暦の上元泰初四千六百一十七年を以て、元封七年に至り、再び閼逢摂提格(甲寅)の歳を得た。中冬十一月甲子の朔旦(ついたちの朝)冬至で、日月は建星に在り、太歳は子に在り、既に太初の本星度と新しい正月を得た。姓らは奏上して算術ができないと言い、暦を治める者を募り、更に密度を造り、各自が増減して、漢の太初暦を造りたいと願った。そこで暦を治める鄧平及び長楽司馬の可・酒泉候の宜君・侍郎の尊及び民間で暦を治める者、凡そ二十余人を選び、方士の唐都・巴郡の落下閎もこれに加わった。都は天部を分け、閎は運算して暦を転じた。その法は律を以て暦を起こし、言うには、「律の容積は一龠で、積み重ねると八十一寸、これが一日の分である。長さと終わりを共にする。律の長さは九寸で、百七十一分で終わりに復する。三度復して甲子を得る。律は陰陽の九六であり、爻象の出づる所である。故に黄鐘は元気を紀する、これを律と言う。律は法であり、これに取法しないものはない」。鄧平の治めたものと同じであった。そこで皆が新星度と日月の運行を観察し、更に算術で推し、閎と平の法の如くにした。法は、一月の日数は二十九日と八十一分日の四十三である。先に半日を借りる、これを陽暦と名付ける。借りないのを陰暦と名付ける。所謂陽暦とは、朔より先に月が生ずる。陰暦とは、朔の後に月が生ずる。平は言う、「陽暦では朔は皆、旦(朝)より先に月が生ずるので、諸侯王群臣を朝するのに便である」。そこで司馬遷に詔して鄧平の造った八十一分律暦を用いさせ、特に疏遠な十七家を罷め廃し、更に暦律の昏明(日没と日の出)を校べさせた。宦者の淳于陵渠が再び太初暦の晦朔弦望を覆(検)べたところ、皆最も密で、日月は合璧の如く、五星は連珠の如かった。陵渠がその状を奏上したので、遂に鄧平の暦を用い、平を太史丞とした。
それから二十七年後、元鳳三年(紀元前78年)、太史令の張寿王が上書して言った。「暦は天地の大いなる綱紀であり、上帝(天帝)がなされるものである。伝えられるところでは、黄帝が律暦を調和させ、漢の元年(紀元前206年)以来それを用いている。今、陰陽が調和しないのは、暦を改めるべき過ちによるものである。」詔が下り、主暦使者の鮮于妄人が詰問したが、寿王は服従しなかった。妄人は、治暦の大司農中丞の麻光ら二十余人と共に、日月の晦朔弦望(月の満ち欠け)、八節二十四気を雑候(さまざまな観測)し、諸々の暦の使用状況を比較検討することを請うた。奏上は許可された。詔により、丞相、御史、大將軍、右将軍の史官各一人と共に上林苑の清台で雑候し、諸暦の粗密を試験した。全部で十一家あった。元鳳三年十一月朔旦冬至(紀元前78年12月)から五年十二月(紀元前76年1月)までを尽くし、それぞれ順位がつけられた。寿王の試験結果は粗遠であった。案ずるに、漢の元年は黄帝の調暦を用いていない。寿王が漢の暦を非難し、天道に逆らい、言うべきでないことを言ったのは、大不敬である。詔があり、弾劾しないこととなった。再び観測を続け、六年(紀元前75年)まで尽くした。太初暦が第一となり、即墨の徐万且と長安の徐禹が治めた太初暦もまた第一であった。寿王および待詔の李信が治めた黄帝調暦は、試験結果がいずれも粗闊であり、また黄帝から元鳳三年まで六千余年と主張した。丞相属の宝、長安の単安国、安陵の桮育が治めた終始説では、黄帝以来三千六百二十九年と言い、寿王の説と合わなかった。寿王はさらに帝王録を改竄し、舜や禹の年数が人の寿命に合わないとした。寿王は、化益が天子となって禹に代わり、驪山女もまた天子となって殷周の間にいたと言い、いずれも経術に合わなかった。寿王の暦は実は太史官の殷暦であった。寿王はみだりに「どうして五家の暦があるのか」と言い、また妄りに太初暦は四分の三日を欠き、小余七百五分を去っているので、陰陽が調和せず、これを乱世と呼ぶのだと言った。寿王は吏八百石、古の大夫に相当する身分であり、儒衣を着て不詳の辞を誦し、妖言を作って制度を乱そうとし、不道であると弾劾された。奏上は許可された。寿王は観測試験に従事し、三年が経過して下された判決に対し、ついに服従しなかった。再び死罪に値すると弾劾されたが、赦免により弾劾は取りやめとなり、遂に改めて言うことはなく、誹謗はますます甚だしくなり、ついに下吏(官吏としての地位を剥奪)に処せられた。ゆえに暦の根本の験証は天にある。漢の暦が初めて起こってから、元鳳六年(紀元前75年)まで、三十六年間で、是非は堅く定まったのである。
孝成帝の世に至り、劉向が六つの暦を総括し、是非を列挙して、『五紀論』を作った。劉向の子の劉歆はその微妙なところを究明し、『三統暦』および『譜』を作って『春秋』を説き、推法は密要であった。ゆえにここに述べるのである。
そもそも『春秋』に暦を配することは、天時によるのである。人事を列挙し、天時をもって目印とするのである。『伝』に言う。「民は天地の中和を受けて生まれる。これが所謂、命である。それゆえ礼儀動作威儀の法則があって、それによって命が定まるのである。能ある者はこれを養って福とし、能なき者はこれを敗って禍を取る。」ゆえに十二公二百四十二年間の事を列挙し、陰陽の中和をもってその礼を制したのである。ゆえに春は陽の中であり、万物はこれによって生じる。秋は陰の中であり、万物はこれによって成る。それゆえ事はその中を挙げ、礼はその和を取る。暦数は閏月をもって天地の中を正し、事を作し生を厚くする。これらは皆、命を定めるためのものである。『易』の金火相革の卦(革卦)に「湯武革命は、天に順い人に応ず」と言い、また「暦を治めて時を明らかにす」と言うのは、人道を和するためのものである。
周の道がすでに衰え、幽王がすでに亡くなると、天子は朔を諸侯に頒布することができず、魯の暦は正しくなく、閏余を一とする年を蔀首(暦の区分の始まり)とした。そこで春秋は「十一月乙亥の朔、日食あり」と批判した。このとき辰(十二支)は申にあったが、暦を司る者は戌にあると思い、史書は亥にあると記した。哀公十二年にも、建申(申の月)の流火(大火星が流れる月)の月を建亥(亥の月)とし、虫が冬ごもりしないのを怪しんだ。文公が閏月に告朔(ついたちの儀式)を行わなかった時から、ここに至るまで百有余年、暦数を正しくすることができなかった。そこで子貢はその餼羊(生きた供え羊)を取り去ろうとし、孔子はその礼を愛し、その法を春秋に著した。経に「冬十月の朔、日食あり」とある。伝に「日を書かないのは、官が誤ったからである。天子には日官がおり、諸侯には日御がいる。日官は卿の位にいて日を定める、これが礼である。日御は日を誤らず、朝廷で百官に授ける」とある。告朔のことを言っている。元典暦は始めを元という。伝に「元は善の長である」とある。三徳を共に養うことが善である。また「元は体の長である」ともいう。三体を合わせてその原とするので、元という。春の三月において、毎月「王」と書くのは、元の三統である。三統は一元に合するので、元の一に因り、九を三倍して法とし、十一を三倍して実とする。実を法で割って一を得る。黄鐘の初九は、律の首であり、陽の変である。これに因って六倍し、九を法として、林鐘の初六を得る。これは呂の首であり、陰の変である。皆、参天両地の法である。上生は六を倍し、下生は六を減じ、皆九を法とする。九と六は、陰陽の夫婦子母の道である。律が妻を娶り、呂が子を生むのは、天地の情である。六律六呂によって十二辰が立ち、五声の清濁によって十日が行われる。伝に「天六地五」とあるのは、数の常である。天には六気があり、降って五味を生ずる。五と六は、天地の中合であり、民がこれを受けて生まれる所以である。故に日には六甲があり、辰には五子があり、十一で天地の道が尽き、終わってまた始まるという。太極中央の元気、故に黄鐘となり、その実は一龠である。その長さを自乗するので、八十一を日法とし、これから権衡度量が生まれ、礼楽の出づる所となる。経の元一は始めを統べるもので、易の太極の首である。春秋の二は歳を目指すもので、易の両儀の中である。春に毎月「王」と書くのは、易の三極の統である。四時に事がなくても必ず時月を書くのは、易の四象の節である。時月によって建分至啓閉の分を定めるのは、易の八卦の位である。事の成敗を象るのは、易の吉凶の効である。朝聘会盟は、易の大業の本である。故に易と春秋は、天人の道である。伝に「亀は象、筮は数である。物が生じて後に象があり、象があって後に滋え、滋えて後に数がある」とある。
それゆえ、元始には象が一つあり、春秋が二つ、三統が三つ、四時が四つあり、合わせて十となり、五体を成す。五に十を乗じたものが大衍の数であり、そのうち道が一を占拠し、残りの四十九が用いられるべきものである。だから蓍草を以て数とする。二つずつに分けて両儀を象り、また三つずつに分けて三才を象り、また四つずつに分けて四時を象り、さらに余りを閏を象る十九と占拠された一を加え、それによって再び扐(余り)を取り二倍すると、これが月法の実(分子)となる。これを日法で割ると、一ヶ月の日数が得られ、三辰(日月星)の会合が交わる。それゆえに吉凶を生じることができる。故に『易経』に言う、「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十。天の数は五、地の数は五、五つの位が相得てそれぞれに合する。天の数は二十五、地の数は三十、天地の数を合わせると五十五、これが変化を成し鬼神を行らしめる所以である」と。終わりの数(十)を合わせると十九となり、易は窮まれば則ち変ずるので、閏法となる。天の数を三倍して九、地の数を二倍して十、これが会数となる。天の数二十五を三倍し、地の数三十を二倍すると、これが朔望の会となる。会数を乗じると、朔旦冬至に一周し、これが会月となる。九会して元に戻る、これが黄鐘の初九の数である。四時を経るにあたり、何事もなくても必ず時と月を記す。時は啓(立春・立夏)と閉(立秋・立冬)を記すためであり、月は分(春分・秋分)と至(夏至・冬至)を記すためである。啓閉とは節気であり、分至とは中気である。節気は必ずしもその月にあるとは限らないが、中気は必ず正数の月にある。故に『伝』に言う、「先王が時を正すには、端を始めに履み、正を中に挙げ、余りを終わりに帰す。端を始めに履めば、順序は過ちなく、正を中に挙げれば、民は惑わず、余りを終わりに帰せば、事は乱れない」と。これが聖王が閏を重んじる所以である。五位に会数を乗じ、朔旦冬至とすると、これが章月となる。月法を四分し、その一つを章月に乗じると、これが中法となる。閏法を三倍して周至とし、月法に乗じ、中法から減じて約分すると、六扐の数が一ヶ月の閏法となり、その余りは七分である。これが中気と朔を相求める術である。朔が中気を得られないとき、これを閏月と言い、陰陽は交わっても中気を得なければ生じないという意味である。故に日法に閏法を乗じると、これが統歳となる。三統で元歳となる。元歳の閏は、陰陽の災いであり、三統の閏法である。易の九厄に言う、初めに元に入り、百六年で陽九、次に三百七十四年で陰九、次に四百八十年で陽九、次に七百二十年で陰七、次に七百二十年で陽七、次に六百年で陰五、次に六百年で陽五、次に四百八十年で陰三、次に四百八十年で陽三。合わせて四千六百十七歳で一元が終わる。経歳は四千五百六十年、災歳は五十七年である。それゆえ『春秋』に「正を中に挙ぐ」と言い、また「閏月に朔を告げざるは、礼にあらず。閏は以て時を正し、時は以て事を作し、事は以て生を厚くす。生民の道はここに在り。閏朔を告げざるは、時正を棄つるなり、何を以て民と為さんや」と言う。故に僖公五年の「春、王正月辛亥朔、日南至。公既に朔を視し、遂に観台に登りて望み、而して書す。礼なり」を善しとする。およそ分・至・啓・閉には必ず雲物を記し、備えのためである。昭公二十年二月己丑に至り、日南至したが、閏を失い、至がその月にない。梓慎が気を望んで正さず、端を始めに履まなかったのである。故に『伝』は冬至と言わず、日南至と言う。牽牛の初めに極まり、日中の時に影が最も長いことによって、その南至を知るのである。
斗綱の端は営室に連なり貫き、織女の紀は牽牛の初めを指し、これをもって日月を紀す。ゆえに星紀という。五星はその初めに起こり、日月はその中に起こる。合わせて十二次である。太陽がその初めに至るのを節とし、その中に至るのを斗建の下で十二辰とする。その建てられたところを見てその次を知る。ゆえに「礼を制して上物とす、十二を過ぎず、これ天の大数なり」という。経に「春王正月」といい、伝に「周の正月『火出づ、夏においては三月、商においては四月、周においては五月。夏の数は天を得る』」という。四時の正を得たのである。三代はそれぞれ一統を拠りどころとし、三統が常に合して互いに首位を代わることを明らかにし、三統の首位を昇降させ、五行の道を周回させるのである。ゆえに三五は互いに包含して生じる。天統の正は、子の半ばに始めて施され、日は萌え出でて色は赤い。地統はこれを丑の初めに受け、日は肇めて化して黄となり、丑の半ばに至って、日は牙ばえて化して白となる。人統はこれを寅の初めに受け、日は孽び成って黒となり、寅の半ばに至って、日は生じて成り青となる。天の施しは子に復し、地の化は丑より始まり辰に終わり、人の生は寅より始まり申に成る。ゆえに暦数三統は、天は甲子をもってし、地は甲辰をもってし、人は甲申をもってする。孟・仲・季が代わる代わる用事して統の首となる。三微の統が既に顕著になると、五行は青より始まり、その順序もまたこれと同じである。五行と三統は互いに交錯する。伝に「天に三辰あり、地に五行あり」という。そうすれば三統と五星は知ることができる。《易》にいう、「参伍して以て変じ、その数を錯綜す。その変を通じ、遂に天下の文を成す。その数を極め、遂に天下の象を定む」と。太極は上において三辰五星を運らし、元気は下において三統五行を転ず。それが人においては、皇極が三徳五事を統べる。ゆえに三辰が三統に合するのは、日は天統に合し、月は地統に合し、斗は人統に合する。五星が五行に合するのは、水は辰星に合し、火は熒惑に合し、金は太白に合し、木は歳星に合し、土は填星に合する。三辰と五星は互いに経緯をなす。天は一をもって水を生じ、地は二をもって火を生じ、天は三をもって木を生じ、地は四をもって金を生じ、天は五をもって土を生じる。五勝が相乘じて小周を生じ、乾坤の策を乗じて大周を成す。陰陽は比類し、交錯して相成り、ゆえに九六の変は六体に登降する。三微にして著しくなり、三著にして象となり、二象十八変にして卦となり、四営にして易となり、七十二となる。これは三統と両四時を参じて乗じた数である。これを参ずれば則ち乾の策を得、これを両ずれば則ち坤の策を得る。陽を九九して六百四十八とし、陰を六六して四百三十二とし、合わせて千八十、これは陰陽各一卦の微算策である。これを八倍して八千六百四十とし、ここに八卦小成する。これを引き伸ばし、また八倍して六万九千百二十とし、天地が再びこれを倍して十三万八千二百四十とし、ここに大成する。五星が会して終わり、触類してこれを長じ、章歳を乗じて二百六十二万六千五百六十とし、ここに日月と会する。三会して七百八十七万九千六百八十とし、ここに三統と会する。三統二千三百六十三万九千四十にして、太極上元に復する。九章歳を六倍して法とし、太極上元を実とし、実を法の如くして一を得、陰一陽各々一万一千五百二十、万物気体の数に当たり、天下の能事畢わる。
《律暦志下》
統母の日法は八十一。元始の黄鐘初九を自乗し、一龠の数として、日法を得る。
閏法は十九、これによって章歳とする。天地の終数を合わせて、閏法を得る。
統法は千五百三十九。閏法に日法を乗じて、統法を得る。
元法は四千六百一十七である。参統法を以ってこれを求めると、元法を得る。
会数は四十七である。天の九を参じ、地の十を両じると、会数を得る。
章月は二百三十五である。五位に会数を乗ずると、章月を得る。
月法は二千三百九十二である。大衍の象を推して、月法を得る。
通法は五百九十八である。月法を四分すると、通法を得る。
中法は十四万五百三十。章月に通法を乗じて、中法を得る。
周天は五十六万二千百二十。章月に月法を乗じて、周天を得る。
歳中は十二。三統に四時を乗じて、歳中を得る。
月周は二百五十四。章月に閏法を加えて、月周を得る。
朔望の会は百三十五。天の数二十五を参じ、地の数三十を両じて、朔望の会を得る。
会月は六千三百四十五となる。会数で朔望の会を乗じると、会月を得る。
統月は一万九千三十五となる。会月を三倍すると、統月を得る。
元月は五万七千百五となる。統月を三倍すると、元月を得る。
章中は二百二十八となる。閏法で歳中を乗じると、章中を得る。
統中は一万八千四百六十八となる。日法で章中を乗じると、統中を得る。
元中は五万五千四百四である。参統中に乗じると、元中を得る。
策余は八千八十である。什乗元中を以て周天から減じると、策余を得る。
周至は五十七である。閏法に乗じると、周至を得る。
統母。
木と金を乗じて十二と為す、これが歳星の小周である。小周に巛策を乗じて千七百二十八と為す、これが歳星の歳数である。
見中分は二万七百三十六。
積中は十三、中余は百五十七。
見中法は千五百八十三。
見閏分は一万二千九十六。
積月は十三、月余は一万五千七十九。
月の出現に関する法は三万七十七である。
日中出現に関する法は七百三十万八千七百十一である。
月日出現に関する法は二百四十三万六千二百三十七である。
金星と火星の数を掛け合わせて八とし、さらに火星の数を掛けて十六とし、これを小復とする。小復に乾策を掛けると三千四百五十六となり、これが太白(金星)の歳数である。
出現中分は四万一千四百七十二である。
積中は十九、中餘は四百一十三。
見中法は二千百六十一。
見閏分は二万四千百九十二。
積月は十九、月餘は三万二千三十九。
見月法は四万一千五十九。
晨中分は二万三千三百二十八。
積中は十、中余は千七百一十八。「十」は一作に「七」とある。
夕中分は一万八千百四十四。
積中は八、中余は八百五十六。
晨閏分は一万三千六百八。
積月は十一、月餘は五千百九十一。
夕閏分は一万五百八十四。
積月は八、月餘は二万六千八百四十八。
見中日法は九百九十七万七千三百三十七。
見月日法は三百三十二万五千七百七十九。
土木の二つの数が互いに乗じられて経緯と合わさり三十となり、これが鎮星の小周である。小周に巛策を乗じると四千三百二十となり、これが鎮星の歳数である。
見中分は五万一千八百四十。
積中は十二、中余は千七百四十。
見中法は四千百七十五。
見閏分は三万二百四十。
積月は十二、月餘は六万三千三百。
見月法は七万九千三百二十五。
見中日法は千九百二十七万五千九百七十五。
見月日法は六百四十二万五千三百二十五。
火星は運行が特別に定まっているので、二歳で初度を過ぎ、三十二回初度を過ぎると六十四歳で小周となる。小周に乾策を乗じると、太陽の大周となり、一万三千八百二十四歳となる。これが熒惑(火星)の歳数である。
見中分は十六万五千八百八十八。
積中は二十五、中余は四千百六十三。
見中法は六千四百六十九。
見閏分は九万六千七百六十八。
積月は二十六、月余は五万二千九百五十四。
月の見える期間の法は十二万二千九百十一である。「二千」は一説に「一千」とする。
見える期間の中気の法は二千九百八十六万七千三百七十三である。
見える期間の月日法は九百九十五万五千七百九十一である。
水星は特別に運行が完成するので、一年で初めの位置に戻り、六十四回で初めに戻って小さい周期を繰り返す。小さい周期に巛策を乗じると、太陰の大周期となり、九千二百十六年となる。これが辰星の歳数である。
見える期間の中気の分は十一万五百九十二である。
積中は三、中餘は三万二千四百六十九。
見中法は二万九千四十一。
見閏分は六万四千五百十二。
積月は三、月餘は五十一万四百二十三。
見月法は五十五万一千七百七十九。
朝の部の分は六万二千二百八。
積は二、中余は四千百二十六。
夕の部の分は四万八千三百八十四。
積は一、中余は一万九千三百四十三。
朝の閏分は三万六千二百八十八。
積月は二、月餘は十一万四千六百八十二。
夕閏分は二万八千二百二十四。
積月は一、月餘は三十九万五千七百四十一。
見中日法は一億三千四百八万二千二百九十七。
見月日法は四千四百六十九万四千九十九。
太陰と太陽の歳数を合わせて半分に分けると、それぞれ一万一千五百二十となる。陽はその気を施し、陰はその物を成す。
星の運行率で歳数を減じると、余りが出現回数となる。
東九西七に歳数を乗じ、九と七を合わせて法とし、一を得る。これが金星と水星の晨夕の歳数である。
歳中に歳数を乗じると、これが星の出現の中分となる。
星の出現回数は、これが出現の中法となる。
閏年数を年数に乗じると、これが星の出現する閏分となる。
章歳に出現回数を乗じると、これが出現月法となる。
元法に出現回数を乗じると、これが出現中日法となる。
統法に出現回数を乗じると、これが出現月日法となる。
五歩(木星)は、明け方に初めて現れ、太陽から半次(約15度)離れている。順行し、日に11分の2度(約0.1818度)進み、121日間。初めて留まり、25日間で方向を変える。逆行し、日に7分の1度(約0.1429度)進み、84日間。再び留まり、24と3分の1日で方向を変える。再び順行し、日に11分の2度進み、111日と182万8362分の間で隠伏する。出現期間は合計365日と182万8365分で、逆行分を除くと、確定した運行度数は30度と166万1286分である。出現期間は1年で、1次(約30度)を運行した後に隠伏する。日々の運行は11分の1度(約0.0909度)に満たない。隠伏期間は33日と333万4737分で、運行度数は3度と167万3451分(一説に3分)である。一つの出現周期は398日と516万3102分で、運行度数は33度と333万4737分である。その率を通算すると、故に日々の運行は1728分の145度(約0.0839度)と言う。
金星が、明け方に初めて現れるとき、太陽から半次(約15度)離れている。逆行し、一日に二分の一度ずつ進み、六日間続く。初めて留まり、八日後に方向を転じる。初めて順行し、一日に四十六分の三十三度ずつ進み、四十六日間続く。順行し、速度が速くなり、一日に一度と九十二分の十五度ずつ進み、百八十四日後に伏す。現れている期間は合わせて二百四十四日で、逆行分を除き、確定した運行度数は二百四十四度である。伏している間は、一日に一度と九十二分の三十三度あまりずつ進む。伏している期間は八十三日で、運行度数は百十三度四百三十六万五千二百二十分である。明け方に現れてから伏するまでの期間は合わせて三百二十七日で、運行度数は三百五十七度四百三十六万五千二百二十分である。夕方に初めて現れるとき、太陽から半次離れている。順行し、一日に一度と九十二分の十五度ずつ進み、百八十一日と百七分の四十五日間続く。順行し、速度が遅くなり、一日に四十六分の三十三度(一説に四十三度)ずつ進み、四十六日間続く。初めて留まり、七日と百七分の六十二日後に方向を転じる。逆行し、一日に三分の一度(一説に二分の一度)ずつ進み、六日後に伏す。現れている期間は合わせて二百四十一日で、逆行分を除き、確定した運行度数は二百四十一度である。伏している間は逆行し、一日に八分の七度あまりずつ進む。伏している期間は十六日(一説に六十日)と百二十九万五千三百五十二分で、運行度数は十四度三百六万九千八百六十八分である。夕方に現れてから伏するまでの期間は、合わせて二百五十七日と百二十九万五千三百五十二分(一説に一分)で、運行度数は二百二十六度六百九十万七千四百六十九分である。一復(会合周期)は五百八十四日と百二十九万五千三百五十二分である。運行度数もこれと同じなので、一日に一度進むと言うのである。
土星が、明け方に初めて現れるとき、太陽から半次離れている。順行し、一日に十五分の一度ずつ進み、八十七日間続く。初めて留まり、三十四日後に方向を転じる。逆行し、一日に八十一分の五度ずつ進み、百一日間続く。再び留まり、三十三日と八十六万二千四百五十五分後に方向を転じる。再び順行し、一日に十五分の一度ずつ進み、八十五日後に伏す。現れている期間は合わせて三百四十日と八十六万二千四百五十五分で、逆行分を除き、確定した運行度数は五度四百四十七万三千九百三十分である。伏している間は、一日に十五分の三度に満たない速度で進む。百三十七日と千七百十七万百七十分の間で、運行度数は七度八百七十三万六千五百七十分である。現れてから伏するまでの期間は、合わせて三百七十七日と千八百三万二千六百二十五分で、運行度数は十二度千三百二十一万五百分である。この比率を通算すると、一日に四千三百二十分の百四十五度進むと言うのである。
火星が、明け方に初めて現れるとき、太陽から半次離れている。順行し、一日に九十二分の五十三度ずつ進み、二百七十六日間続く。初めて留まり、十日後に方向を転じる。逆行し、一日に六十二分の十七度ずつ進み、六十二日間続く。再び留まり、十日後に方向を転じる。再び順行し、一日に九十二分の五十三度ずつ進み、二百七十六日後に伏す。現れている期間は合わせて六百三十四日で、逆行分を除き、確定した運行度数は三百一度である。伏している間は、一日に九十二分の七十三度に満たない速度で進み、伏している期間は百四十六日と千五百六十八万九千七百分で、運行度数は百十四度八百二十一万八千五分である。現れてから伏するまでの期間は、合わせて七百八十日と千五百六十八万九千七百分で、運行度数は合わせて四百十五度八百二十一万八千五分である。この比率を通算すると、一日に一万三千八百二十四分の七千三百五十五度進むと言うのである。
水星は、明け方に初めて見え始め、太陽から半次(15度)離れている。逆行し、一日に2度進み、一日かかる。初めて留まり、二日後に方向を変える。順行し、一日に7分の6度進み、七日かかる。順行し、速くなり、一日に1と3分の1度進み、十八日かかって伏する。見える期間は合計二十八日で、逆行分を除くと、確定した運行度数は二十八度である。伏している間は、一日に1と9分の7度強進み、三十七日と一億二千二百二万九千六百五分の間に、六十八度と四千六百六十一万百二十八分を運行する。明け方に見え始めてから伏するまでの合計は、六十五日と一億二千二百二万九千六百五分で、九十六度と四千六百六十一万百二十八分を運行する。夕方に初めて見え始め、太陽から半次離れている。順行し、速く、一日に1と3分の1度進み、十六日半かかる。順行し、遅くなり、一日に7分の6度進み、七日かかる。留まり、一日半後に方向を変える。逆行し、一日に2度進み、一日かかって伏する。見える期間は合計二十六日で、逆行分を除くと、確定した運行度数は二十六度である。伏している間は、逆行し、一日に15分の4度強進み、二十四日で、六度と五千八百六十六万二千八百二十分を運行する。夕方に見え始めてから伏するまでの合計は、五十日で、十九度と七千五百四十一万九千四百七十七分を運行する。一復(一見え一伏の周期)は、百一十五日と一億二千二百二万九千六百五分である。運行度数もこれと同じなので、一日に一度進むと言うのである。
統術によって日月の元統を推算するには、太極上元以来の年数を置き、外から求める年数を、元法で割って余りを出す。余りが統(一統の年数)を超えないならば、それは天統甲子以来の年数である。余りが統を超えたならば、統で割り、その余りは地統甲辰以来の年数である。さらに余りが統を超えたならば、統で割り、その余りは人統甲申以来の年数である。それぞれその統の首日を紀(計算の起点)とする。
天正(天統の正月)を推算するには、章月に人統の歳数を乗じ、章歳で割って得た整数を積月といい、割り切れない余りを閏餘という。閏餘が十二以上ならば、その年には閏月がある。地正(地統の正月)を求めるには、積月に一を加える。人正(人統の正月)を求めるには、二を加える。
正月の朔日を推算するには、月法に積月を乗じ、日法で割って得た整数を積日といい、割り切れない余りを小餘という。小餘が三十八以上ならば、その月は大の月である。積日が六十を超えたならば、六十で割り、割り切れない余りを大餘という。数を統首の日から数え始め、算外(数えた最後の日の次の日)とすれば、それが朔日である。次の月を求めるには、大餘に二十九を、小餘に四十三を加える。小餘が日法を超えたならば、一を大餘に加え、法に従って数を除く。弦(上弦・下弦)を求めるには、大餘に七を、小餘に三十一を加える。望(満月)を求めるには、弦の数を倍にする。
閏月がどの月にあるかを推算するには、十二に閏餘を乗じ、十を加えて一を得る。章中(一章の中気の数)を超えたならば、得られた数から、冬至を起点として数え、算外とすれば、中気の終わりに閏が入る。中気が朔日あるいは二日にあるならば、前の月が閏月である。
冬至を推算するには、算余に人統の歳数を乗じ、統法で割って得た整数を大余と名付け、割り切れない余りを小余と名付ける。除数を法で除し、求めようとする冬至の日となる。
八節を求めるには、大余に四十五を加え、小余に千一百を加える。二十四気を求めるには、小余を三倍し、大余に十五を加え、小余に千一十を加える。
中部の二十四気を推算するには、すべて元を法とする。
五行を推算する。その四行はそれぞれ七十三日で、統歳分の七十七に当たる。中央はそれぞれ十八日で、統法分の四百四に当たる。冬至の後、中央は二十七日六百六分である。
合晨(惑星と太陽の合)の所在する星度を推算するには、積日を置き、統法を乗じ、十九を小余に乗じて合わせる。周天を超えた分は除去し、超えない分は、統法で割って一度を得る。数を牽牛から数え、算外とし、合晨が入る星度となる。
その日の夜半に所在する星を推算するには、章歳に月小餘を乗じ、合晨度から減ずる。小餘が不足する場合は、全度を破る。
その月の夜半に所在する星を推算するには、月周に月小餘を乗じ、統法で割って一度を得、合晨度から減ずる。
諸加時を推算するには、十二に小餘を乗じて実とし、それぞれ分母で割って法とし、数は子から起算し、算外とすれば、加える辰となる。
月食を推算するには、会餘歳積月を置き、二十三を乗じ、百三十五で割る。割り切れない場合は、二十三を加えて一月とし、百三十五を超えた数は、その正から起算し、算外とすれば、食となる月である。加時は、望日の衝辰にある。
紀術で五星の見復を推算するには、太極上元以来から求めようとする年までを置き、大統見復数を乗じ、歳数で割って一を得れば、定見復数である。割り切れないものを見復餘という。見復餘がその見復数を超える場合、一以上は前年に見え、二倍以上はさらにその前年に見え、超えない場合は当年にある。
星の見える中気と次を推算するには、『在』の字が見える中気の回数に乗じて定見の回数を定め、盈見中法で割って一を得れば、それが積中法である。割り切れない余りを中余という。元中で積中を割り、余ればそれが中元余である。章中でそれを割り、余ればそれが入章中の数である。十二で割り、余ればそれが星の見える中気と次である。中気の数は冬至から起算し、次の数は星紀から起算し、算外とすれば、星の見える中気と次である。
星の見える月を推算するには、閏分に定見を乗じ、章歳に中余を乗じてそれに加え、盈見月法で割って一を得れば、積中と合わせて積月となる。割り切れない余りを月中余という。元月で積月の余りを割り、月元余という。章月で月元余を割れば、入章月の数となる。十二で割り、閏のある年には十三で割って章に入れる。三歳で一閏、六歳で二閏、九歳で三閏、十一歳で四閏、十四歳で五閏、十七歳で六閏、十九歳で七閏である。割り切れない数は天正から数え始め、算外とすれば、星の見える月である。
冬至の日を推算するには、中法に中元余を乗じ、元法で割って一を得れば、積日といい、割り切れない余りを小余という。小余が二千五百九十七以上であれば、中気が大となる。積日を法に従って数え除き、算外とすれば、冬至である。
朔日を推算するには、月法に月元余を乗じ、日法で割って一を得れば、積日といい、余りを小余という。小余が三十八以上であれば、月が大となる。積日を法に従って数え除き、算外とすれば、星の見える月の朔日である。
中気と次に入る度数を推算するには、中法に中余を乗じ、見中法にその小余を乗じて合わせ、盈見中日法で割って一を得れば、中気に入る日と次に入る度数である。中気と次から冬至までの日数、次はその初めの数から、算外とすれば、星の見える位置および太陽の所在する度数である。夕方を求めるには、太陽の後方十五度にある。
月に入る日数を推算するには、月法に月余を乗じ、見月法にその小余を乗じて合わせ、見月日法で割って一を得れば、それが月に入る日数である。合わせた大余を、法に従って数で除すれば、見日となる。
後の見中を推算するには、中元余に積中を加え、中余に後余を加え、その法で割って一を得れば、中元余に従い、法に従って数えれば、見となる。
後の見月を推算するには、月元余に積月を加え、月余に後月余を加え、その法で割って一を得れば、月元余に従い、法に従って数を除けば、後の見月となる。
至日および中次に入る度数を推算するには、上記の法の通りである。
朔日および月に入る数を推算するには、上記の法の通りである。
朝に見えた星の位置を夕方の位置に加え、夕方に見えた星の位置を朝の位置に加える。いずれも上記の方法に従う。
五歩を推し、星が初めて見えて以来の日数を置き、求める日まで、それぞれその運行度数を乗じる。その星または太陽に分数がある場合、分子に全体を乗じて実とし、分母を法とする。両方に分数がある場合、分母と度数を乗じて全体とし、分子をこれに加え、これらを乗じて実とし、分母同士を乗じて法とする。実を法で割って一つを得る。これを積度という。数を星が初めて見えた星宿の所在する宿度から起算し、算を除いた外側が、星の所在する宿度である。
歳術。歳星の所在を推すには、上元以来を置き、外に求める年を置き、歳数を超えた分は除去し、超えない分に百四十五を乗じ、百四十四を法として、法で割って一つを得る。これを積次といい、超えない分を次余という。積次が十二を超えたら除去し、超えない分を定次という。数を星紀から起算し、算を尽くした外側が、所在する次である。太歳を知りたい場合は、六十で余積次を割り、余りが超えない分を、数は丙子から起算し、算を尽くした外側が、太歳の日である。
盈縮。伝に言う。「歳星がその次を捨てて明年の次に旅し、鳥帑(朱鳥の尾)を害するので、周と楚はこれを憎む。」五星の盈縮もこれを超えることはない。次を過ぎる者は災いが大きく、舎を過ぎる者は災いが小さく、過ぎない者は咎がない。次度。六物とは、歳・時・数・日・月・星辰である。辰とは、日月の会合する所で、斗建の指す所である。
星紀は、初めは斗宿十二度、大雪。中は牽牛宿の初め、冬至。終わりは婺女宿七度。
玄枵は、初めは婺女の八度から始まり、小寒にあたる。中央は危の初度で、大寒にあたる。危の十五度で終わる。
諏訾は、初めは危の十六度から始まり、立春にあたる。中央は営室の十四度で、驚蟄にあたる。奎の四度で終わる。
降婁は、初めは奎の五度から始まり、雨水にあたる。中央は婁の四度で、春分にあたる。胃の六度で終わる。
大梁は、初めは胃の七度から始まり、穀雨にあたる。中央は昴の八度で、清明にあたる。畢の十一度で終わる。
實沈は、初めは畢の十二度から始まり、立夏にあたる。中央は井の初度で、小満にあたる。井の十五度で終わる。
鶉首は、初め井宿十六度から始まり、芒種にあたる。中央は井宿三十一度で、夏至にあたる。柳宿八度で終わる。
鶉火は、初め柳宿九度から始まり、小暑にあたる。中央は張宿三度で、大暑にあたる。張宿十七度で終わる。
鶉尾は、初め張宿十八度から始まり、立秋にあたる。中央は翼宿十五度で、処暑にあたる。
軫宿十一度で終わる。
寿星は、初め軫宿十二度から始まり、白露にあたる。中央は角宿十度で、秋分にあたる。氐宿四度で終わる。
大火の次は初度が氐宿の五度で、寒露の節気にあたる。中は房宿の五度で、霜降の節気にあたる。終わりは尾宿の九度である。
析木の次は初度が尾宿の十度で、立冬の節気にあたる。中は箕宿の七度で、小雪の節気にあたる。終わりは斗宿の十一度である。
角宿十二度。亢宿九度。氐宿十五度。房宿五度。心宿五度。尾宿十八度。箕宿十一度。東方七十五度。斗宿二十六度。牛宿八度。女宿十二度。虚宿十度。危宿十七度。営室十六度。壁宿九度。北方九十八度。奎宿十六度。婁宿十二度。胃宿十四度。昴宿十一度。畢宿十六度。觜宿二度。参宿九度。西方八十度。井宿三十三度。鬼宿四度。柳宿十五度。星宿七度。張宿十八度。翼宿十八度。軫宿十七度。南方百十二度。
九章の歳は百七十一年で、九道が小終する。九終は千五百三十九年で大終する。三終して元終と一致する。進退は牽牛の前四度五分にある。九会する。陽は九で終わるので、日には九道がある。陰がこれを兼ねて成すので、月には十九道がある。陽は成功を名づけるので、九会して終わる。四営して易を成すので、四歳で中余が一となり、四章で朔余が一となり、篇首となり、八十一章で一統が終わる。
一は、甲子の元首。十は、辛酉。十九は、己未。二十八は、丁巳。三十七は、乙卯。四十六は、壬子。五十五は、庚戌。六十四は、戊申。七十三は、丙午、中。
甲辰は二統。辛丑。己亥。丁酉。乙未。壬辰。庚寅。戊子。丙戌、季。
甲申は三統。辛巳。己卯。丁丑。乙亥。壬申。庚午。戊辰。丙寅、孟。
二、癸卯。十一、辛丑。二十、己亥。二十九、丁酉。二十八、甲午。四十七、壬辰。五十六、庚寅。六十五、戊子。七十四、乙酉、中。
癸未。辛巳。己卯。丁丑。甲戌。壬申。庚午。戊辰。乙丑、季。
癸亥。辛酉。己未。丁巳。甲寅。壬子。庚戌。戊申乙巳、孟。
三番目の癸未。十二番目の辛巳。二十一の己卯。三十の丙子。三十九の甲戌。四十八の壬申。五十七の庚子。六十六の丁卯。七十五の乙丑、中。
癸亥。辛酉。己未。丙辰。甲寅。壬子。庚戌。丁未。乙巳、季。
癸卯。辛丑。己亥。丙申。甲午。壬辰。庚寅。丁亥。乙酉、孟。
四番目の癸亥。
十三番目の辛酉。二十二の戊午。三十一の丙辰。四十の甲寅。四十九の壬子。五十八の己酉。六十七の丁未。七十六の乙巳、中。
癸卯、辛丑、戊戌、丙申、甲午、壬辰、己丑、丁亥、乙酉、季。
癸未、辛巳、戊寅、丙子、甲戌、壬申、己巳、丁卯、乙丑、孟。
五、癸卯。
十四、庚子。二十三、戊戌。三十二、丙申。四十一、甲午。五十、辛卯。五十九、己丑。六十八、丁亥。七十七、乙酉、中。
癸未、庚辰、戊寅、丙子、甲戌、辛未、己巳、丁卯、乙丑、季。
癸亥、庚申、戊午、丙辰、甲寅、辛亥、己酉、丁未、乙巳、孟。
六、壬午。十五、庚辰。二十四、戊寅。三十三、丙子。四十二、癸酉。五十一、辛未。六十、己巳。六十九、丁卯。七十八、甲子、中。
壬戌、庚申、戊午、丙辰、癸丑、辛亥、己酉、丁未、甲辰、季。
壬寅、庚子、戊戌、丙申、癸巳、辛卯、己丑、丁亥、甲申、孟。
七、壬戌。
十六日、庚申。二十五日、戊午。三十四日、乙卯。四十三日、癸丑。五十二日、辛亥。六十一日、己酉。七十日、丙午。七十九日、甲辰、中。
壬寅。庚子。戊戌。乙未。癸巳。辛卯。己丑。丙戌。甲申、季。
壬午。庚辰。戊寅。乙亥。癸酉。辛未。己巳。丙寅。甲子、孟。
八日、壬寅。十七日、庚子。二十六日、丁酉。三十五日、乙未。四十四日、癸巳。五十三日、辛卯。六十二日、戊子。七十一日、丙戌。八十日、甲申、中。
壬午。庚辰。丁丑。乙亥。癸酉。辛未。戊辰。丙寅。甲子、季。
壬戌、庚申、丁巳、乙卯、癸丑、辛亥、戊申、丙午、甲辰、これらは孟(第一元)に属する。
九日は壬午、十八日は己卯、二十七日は丁丑、三十六日は乙亥、四十五日は癸酉、五十四日は庚午、六十三日は戊辰、七十二日は丙寅、八十一日は甲子、これらは中(第二元)に属する。
壬戌、己未、丁巳、乙卯、癸丑、庚戌、戊申、丙午、甲辰、これらは季(第三元)に属する。
壬寅、己亥、丁酉、乙未、癸巳、庚寅、戊子、丙戌、甲申、これらは孟(第四元)に属する。
章の初め(章首)の朔旦冬至の日を推算するには、大餘三十九、小餘六十一を置き、法に従って数を除き、それぞれその統首から起算する。その後の章を求めるには、大餘三十九、小餘六十一を加え、それぞれ八十一章まで尽くす。
推篇では、大餘も同様にし、小餘に一を加える。周至を求めるには、大餘に五十九を加え、小餘に二十一を加える。
世経『春秋』昭公十七年に「郯子来朝」とあり、伝に曰く、昭子が少昊氏が鳥の名を用いるのは何故かと問うと、答えて言うには、「それは私の先祖のことです、私はそれを知っています。昔、黄帝氏は雲をもって統治の象徴としたので、雲師と称し雲の名を用いた。炎帝氏は火をもって統治の象徴としたので、火師と称し火の名を用いた。共工氏は水をもって統治の象徴としたので、水師と称し水の名を用いた。太昊氏は龍をもって統治の象徴としたので、龍師と称し龍の名を用いた。私の高祖少昊縶が即位した時、鳳鳥がちょうど到来したので、鳥をもって統治の象徴とし、鳥師と称して鳥の名を用いた。」とある。これは郯子が、少昊は黄帝から、黄帝は炎帝から、炎帝は共工から、共工は太昊から(統治の正当性を)受け継いだと述べており、故に黄帝から言い始め、上って太昊に及んでいるのである。これを『易』によって考察すると、炮犧、神農、黄帝が相次いだ時代であることがわかる。
太昊帝について、『易』に曰く、「炮犧氏が天下を王たる」とある。これは炮犧が天意を継いで王となり、百王の先駆けとなり、その徳の始まりが木徳であったので、帝太昊と称されたことを言う。網罟を作って田猟漁労を行い、犠牲を取ったので、天下は彼を炮犧氏と号した。『祭典』に曰く、「共工氏は九域に覇を唱えた」とある。これは水徳を持ちながらも、火徳と木徳の間に位置し、正しい順序ではなかったことを言う。智謀と刑罰を任じて強権を振るったので、覇者たるも王者とはならなかった。秦は水徳であり、周(木徳)と漢(火徳)の木火の間に位置する。周人はその行う順序を軽んじたので、『易』には記載されていない。
炎帝について、『易』に曰く、「炮犧氏が没し、神農氏が起こる」とある。これは共工が覇者たるも王者ではなく、水徳を持ちながらも、その順序ではなかったことを言う。火をもって木を承けたので、炎帝と称された。民に農耕を教えたので、天下は彼を神農氏と号した。
黄帝について、『易』に曰く、「神農氏が没し、黄帝氏が起こる」とある。火は土を生むので、土徳となった。炎帝の後継者と阪泉で戦い、遂に天下を王となった。初めて衣裳を垂れ、軒冕の服を有したので、天下は彼を軒轅氏と号した。
少昊帝についての考証によれば、少昊は清と呼ばれた。清とは、黄帝の子である清陽のことであり、その子孫の名は摯で、即位した。土は金を生じるので、金徳に属し、天下では金天氏と号した。周はその音楽を継承したが、易経には記載されず、列伝に序されている。
春秋外伝によれば、少昊の衰えた時、九黎が徳を乱したので、顓頊がこれを受け継ぎ、重と黎に命じた。蒼林は昌意の子である。金は水を生じるので、水徳に属し、天下では高陽氏と号した。周はその音楽を継承したが、易経には記載されず、列伝に序されている。
春秋外伝によれば、顓頊が建てたものを、帝嚳が受け継いだ。清陽は玄囂の孫である。水は木を生じるので、木徳に属し、天下では高辛氏と号した。帝摯がその後を継いだが、その世代数はわからない。周はその音楽を継承したが、易経には記載されなかった。周の人は嚳を禘祭した。
帝系によれば、帝嚳の四妃のうち、陳豐が帝堯を生み、唐に封じられた。おそらく高辛氏が衰えた時、天下は彼に帰したのであろう。木は火を生じるので、火徳に属し、天下では陶唐氏と号した。天下を虞に譲り、子の朱を丹淵に住まわせて諸侯とした。即位して七十年。
帝系によれば、顓頊が窮蟬を生み、五世を経て瞽叟が生まれ、瞽叟が帝舜を生んだ。舜は虞の媯汭に住み、堯から天下を譲り受けた。火は土を生じるので、土徳に属し、天下では有虞氏と号した。天下を禹に譲り、子の商均を諸侯とした。即位して五十年。
伯禹の帝系によれば、顓頊から五世を経て鯀が生まれ、鯀が禹を生んだ。虞舜は天下を譲った。土は金を生むので、金徳となった。天下はこれを夏后氏と号した。世を継いだのは十七王、四百三十二年である。
成湯は『書経』の「湯誓」に、湯が夏の桀を討ったとある。金は水を生むので、水徳となった。天下はこれを商と号し、後に殷と言った。
三統によれば、上元から桀を討った年まで十四万一千四百八十年で、その年の歳星は大火の房宿五度にあった。故に伝に「大火は閼伯の星であり、実に商人の事績を記す」という。後、成湯となり、ちょうど世を去り崩御した時、天子として政事を行って十三年であった。商暦の十二月乙丑の朔旦冬至である。故に書序に「成湯が既に没し、太甲元年、伊尹に命じて『伊訓』を作らせた」という。『伊訓』篇に「惟れ太甲元年十有二月乙丑の朔、伊尹は先王を祀り、誕いに牧方明を資る」とある。成湯、太丁、外丙の喪服中であっても、冬至に越茀して先王を方明で祀り、上帝に配したことを言う。これが朔旦冬至の年である。その後九十五年、商暦十二月甲申の朔旦冬至で、余分がなく、これが孟統である。桀を討ってから武王が紂を討つまで六百二十九年である。故に伝に殷は「載祀六百」という。
殷暦によれば、成湯がちょうど世を去り政事を行って十三年の時、十一月甲子の朔旦冬至で、六府首が終わる。周公五年にあたるとすれば、桀を討ってから四百五十八年となり、六百二十九年より百七十一年少なく、満たない。また夏の時の乙丑を甲子としたため、その年数を計れば孟統の後五章、癸亥の朔旦冬至である。甲子府首としたのは、いずれも正しくない。殷の世で継嗣した王は凡そ三十一王、六百二十九年である。
四分によれば、上元から桀を討った年まで十三万二千百十三年で、その八十八紀は甲子府首であり、桀を討った後の百二十七年に入る。
春秋の暦によれば、周の文王四十二年十二月丁丑の朔旦(ついたちの朝)に冬至があり、これは孟統の二会首である。その後八年で武王が紂を討った。
武王は書経の牧誓に武王が商の紂を討ったとある。水は木を生ずるので、木徳となった。天下はこれを周室と号した。
三統によれば、上元から紂を討った年まで十四万二千百九年で、その年の歳星は鶉火(張宿十三度)にあった。文王が天命を受けてから九年で崩御し、喪が明けて(再期、大祥の後)紂に代わった。だから書序に「惟十有一年、武王、紂を伐つ、太誓」とある。八百諸侯が会した。帰還して二年、ついに紂を討ち殷を克ち、箕子を連れて帰ったのは十三年である。だから書序に「武王、殷を克ち、箕子を以て帰る、洪範を作る」とある。洪範篇に「惟十有三祀、王、箕子に訪う」とある。文王が天命を受けてからここまで十三年、その年の歳星もまた鶉火にあった。だから伝に「歳星が鶉火にあれば、則ち我が有周の分野なり」とある。軍が初めて出発したのは、殷暦の十一月戊子で、太陽は析木(箕宿七度)にあった。だから伝に「日は析木に在り」とある。その夜、月は房宿五度にあった。房は天駟である。だから伝に「月は天駟に在り」とある。後三日で周暦の正月辛卯の朔となり、合辰(日月の会合)は斗宿の前一度、すなわち斗柄にあった。だから伝に「辰は斗柄に在り」とある。翌日壬辰、晨星(水星)が初めて現れた。癸巳に武王が発ち、丙午に還師し、戊午に孟津を渡った。孟津は周から九百里で、軍は一日三十里を行くので、三十一日で渡った。翌日己未は冬至で、坻星(?)と婺女(おとめ座)が伏し、建星および牽牛を経て、婺女天黿(いんきょう座)の首に至った。だから伝に「星は天黿に在り」とある。周書武成篇に「惟一月壬辰、旁死霸、若し翌日癸巳、武王乃ち朝に周より歩み自り、于に征伐して紂す」とある。序に「一月戊午、師、孟津に度る」とある。庚申に至る、これは二月の朔日である。四日癸亥に牧野に至り、夜に陣をしき、甲子の昧爽に合戦した。だから外伝に「王、二月癸亥の夜に陣す」とある。武成篇に「粤に若し来る三月、既死霸、粤五日甲子、咸く商王紂を劉す」とある。この年は、閏数余十八で、正に大寒の中にあり、周暦の二月己丑の晦である。翌日閏月庚寅の朔。三月二日庚申は驚蟄。四月己丑の朔は死霸である。死霸は朔である。生霸は望である。この月甲辰は望で、乙巳はその旁である。だから武成篇に「惟四月既旁生霸、粤六日庚戌、武王、周廟に燎る。翌日辛亥、天位に祀る。粤五日乙卯、乃ち庶国を以て祀り馘を周廟にす」とある。文王は十五歳で武王を生み、天命を受けて九年で崩御し、崩御後四年で武王が殷を克った。殷を克った歳に武王は八十六歳で、その後七年で崩御した。だから礼記文王世子に「文王九十七にして終り、武王九十三にして終る」とある。凡そ武王が即位して十一年、周公が摂政して五年、正月丁巳の朔旦に冬至があり、殷暦ではこれを六年戊午とし、煬公から七十六年、孟統二十九章の首に入る。後二年、周公の七年「子(天子)に明辟(めいは、政権)を復す」の年を得る。この年二月乙亥の朔、庚寅の望、後六日で乙未を得る。だから召誥に「惟二月既望、粤六日乙未」とある。またその三月甲辰の朔、三日丙午。召誥に「惟三月丙午朏」とある。古文月采篇に「三日を朏と曰う」とある。この年十二月戊辰の晦、周公は政権を返上した。だから洛誥篇に「戊辰、王、新邑に在り、歳を烝祭し、策を作るを命ず、惟周公、文武の受命を誕保すること、惟七年」とある。
成王元年の正月己巳朔は、これが伯禽を命じて魯の侯たらしめた年である。その後三十年の四月庚戌朔、十五日甲子は哉生霸である。ゆえに顧命に「四月哉生霸に、王疾有りて豫ばず、甲子に、王乃ち洮沬水す」とあり、顧命を作る。翌日の乙丑に、成王崩ず。康王十二年六月戊辰朔、三日庚午である。ゆえに畢命の豊刑に曰わく、「惟れ十月二年六月庚午朏、王命を作策豊刑せしむ」と。
春秋と殷暦はともに殷を以っており、魯は周の昭王以下より年数を亡う。ゆえに周公・伯禽以下を根拠として紀と為す。魯公伯禽は、即位四十六年と推し、康王十六年に至って薨ず。ゆえに伝に曰わく、「燮父・禽父並びに康王に事う」と。これは晋侯燮と魯公伯禽がともに康王に仕えたことを言うのである。子の考公就が立つ。酋。考公は、世家によれば即位四年で、煬公熙が立つ。煬公二十四年正月丙申朔旦冬至は、殷暦では丁酉とし、微公より七十六歳を距てる。
世家によれば、煬公は即位六十年で、子の幽公宰が立つ。幽公は、世家によれば即位十四年で、微公茀が立つ。泺。微公二十六年正月乙亥朔旦冬至は、殷暦では丙子とし、献公より七十六歳を距てる。
世家によれば、微公は即位五十年で、子の厲公翟が立つ。擢。厲公は、世家によれば即位三十七年で、献公具が立つ。
献公十五年正月甲寅朔旦冬至は、殷暦では乙卯とし、懿公より七十六歳を距てる。
世家によれば、献公が即位して五十年、子の慎公埶が立った。慎公は、世家によれば即位して三十年、武公敖が立った。武公は、世家によれば即位して二年、子の懿公被が立った。懿公九年正月癸巳朔旦冬至、殷暦では甲午とし、恵公から七十六年を距てる。
世家によれば、懿公が即位して九年、兄の子柏御が立った。柏御は、世家によれば即位して十一年、叔父の孝公稱が立った。孝公は、世家によれば即位して二十七年、子の恵公皇が立った。恵公三十八年正月壬申朔旦冬至、殷暦では癸酉とし、釐公から七十六年を距てる。
世家によれば、恵公が即位して四十六年、子の隠公息が立った。
凡そ伯禽から春秋まで、三百八十六年。
春秋隠公は、春秋によれば即位して十一年、桓公軌が立った。この元年は上って紂を伐つことから四百年を距てる。
桓公は、春秋時代に即位して十八年で、子の荘公同が立った。
荘公は、春秋時代に即位して三十二年で、子の愍公啓方が立った。
愍公は、春秋時代に即位して二年で、釐公申が立った。釐公五年の正月辛亥の朔旦に冬至があり、殷暦では壬子の日とし、成公から七十六年を距てている。
この年は上元から十四万二千五百七十七年を距て、孟統の五十三章の首を得た。ゆえに伝に「五年の春、王の正月辛亥の朔、日南至す」とある。「八月甲午、晋侯上陽を囲む。」章謠に「丙子の辰、龍尾辰に伏し、袀服振振、虢の旂を取る。鶉の賁賁、天策焞焞、火中に軍を成し、虢公其れ奔る」とある。卜偃が言うには「それは九月十月の交わりであろうか。丙子の旦、日は尾に在り、月は策に在り、鶉火中に在り、必ずこの時なり」と。冬十二月丙子に虢を滅ぼす。暦を言う者は夏の時を用いるので、周の十二月は、夏の十月である。この年、歳星は大火に在った。ゆえに伝に晋侯が寺人披に蒲を伐たせ、重耳が狄に奔ったとある。董因が言うには「君の行くところ、歳は大火に在り」と。後十二年、釐公の十六年、歳星は寿星に在った。ゆえに伝に重耳が狄に十二年いて行き、衛の五鹿を過ぎ、野人に食を乞うと、野人が土塊を挙げてこれを与えた。子犯が言うには「天の賜うところなり、後十二年、必ずこの土を得ん。歳また寿星に復すれば、必ず諸侯を得ん」と。後八年、釐公の二十四年、歳星は実沈に在り、秦伯が彼を納れた。ゆえに伝に董因が言うには「君は辰を以て出で、参を以て入り、必ず諸侯を得ん」とある。
春秋時代、釐公は即位して三十三年で、子の文公興が立った。文公元年は、辛亥の朔旦冬至から二十九年を距てている。この年は閏余十三で、正しくは小雪の節気であり、閏は十一月の後に当たるべきところ、三月にあったので、伝に「礼に非ず」とある。後五年、閏余十で、この年は閏が無かったが、閏を置いた。閏は、正しく中朔を定めるためのものである。閏が無いのに閏を置き、また告朔を行わなかったので、経に「閏月告朔せず」とあり、この月が無いことを言っている。伝に「告朔せず、礼に非ず」とある。
春秋において、文公が即位して十八年、子の宣公倭が立った。
宣公は、春秋において即位して十八年、子の成公黒肱が立った。成公十二年正月庚寅の朔旦冬至は、殷暦では辛卯とし、定公七年から七十六年を距てている。
春秋において、成公が即位して十八年、子の襄公午が立った。襄公二十七年は、辛亥から百九年を距てている。九月乙亥の朔は、これ建申の月である。魯の史書は「十二月乙亥朔、日食あり」と記す。伝に曰く「冬十一月乙亥朔、日食あり、この時辰は申に在り、司暦の過ちなり、再び閏を失えり」と。時を実に十一月と為すも、その建を察せず、天に考へざるなり。二十八年は辛亥から百十年を距て、歳は星紀に在り、故に経に曰く「春、氷無し」と。伝に曰く「歳は星紀に在り、而して玄枵に淫す」と。三十年、歳は娵訾に在る。三十一年、歳は降婁に在る。この歳は辛亥から百十三年を距て、二月に癸未あり、上は文公十一年に承匡で会合した年の夏正月甲子朔から凡そ四百四十五甲子、奇二十日、日数にして二万六千六百六旬である。故に伝に曰く、絳県の老人が言う「臣が生まれた歳、正月甲子朔より、四百四十五甲子なり。その末は今に至り、三分の一なり」と。師曠が曰く「郤成子が承匡で会合した歳より、七十三年なり」と。史趙が曰く「亥は二首六身あり、下の二は身の如し、則ちその日数なり」と。士文伯が曰く「然らば則ち二万六千六百六旬なり」と。
春秋において、襄公が即位して三十一年、子の昭公稠が立った。昭公八年、歳は析木に在る。十年、歳は顓頊の虚に在り、玄枵なり。十八年は辛亥から百三十一年を距て、五月に丙子、戊寅、壬午あり、火(火星)始めて昏に見え、宋・衛・陳・鄭に火災あり。二十年春王正月は、辛亥から百三十三年を距て、これは辛亥後の八章の首なり。正月己丑の朔旦冬至、閏を失う。故に伝に曰く「二月己丑、日南至」と。三十二年、歳は星紀に在り、辛亥から百四十五年を距て、一次を盈たす。故に伝に曰く「越は歳を得、呉これ伐つ、必ずその咎を受くべし」と。
春秋において、昭公が即位して三十二年、及び定公宋が立った。定公七年、正月己巳の朔旦冬至は、殷暦では庚午とし、元公から七十六年を距てている。
『春秋』によれば、定公が即位して十五年、子の哀公が立とうとした。哀公十二年冬十二月に流火(大火星が西に流れる)があったが、これは建戌の月(九月)ではない。この月に蝗害があったので、伝(注釈)に「火(大火星)が伏して後に虫がみな隠れるのに、今なお火が西に流れているのは、暦官の過ちである」とある。『詩経』に「七月に流火」とある。『春秋』によれば、哀公は即位して二十七年である。『春秋』が哀公十四年で終わるまで、合わせて二百四十二年である。
六国の『春秋』によれば、哀公の後十三年に邾に逃れ、子の悼公曼が立ち、寧公と称した。悼公は、『世家』によれば即位して三十七年、子の元公嘉が立った。元公四年正月戊申の朔旦冬至(朔日で朝に冬至)は、殷暦では己酉とし、康公から七十六年後である。元公は、『世家』によれば即位して二十一年、子の穆公衍が立ち、顕公と称した。穆公は、『世家』によれば即位して三十三年、子の恭公奮が立った。恭公は、『世家』によれば即位して二十二年、子の康公毛が立った。康公四年正月丁亥の朔旦冬至は、殷暦では戊子とし、緡公から七十六年後である。康公は、『世家』によれば即位して九年、子の景公偃が立った。景公は、『世家』によれば即位して二十九年、子の平公旅が立った。平公は、『世家』によれば即位して二十年、子の緡公賈が立った。緡公二十二年正月丙寅の朔旦冬至は、殷暦では丁卯とし、楚元(王)から七十六年後である。緡公は、『世家』によれば即位して二十三年、子の頃公讎が立った。頃公の十八年(『表』による)は、秦の昭王の五十一年であり、秦が初めて周を滅ぼした。周は合わせて三十六王、八百六十七年である。
秦の伯(諸侯)昭公は、『本紀』に天子の五年がない。孝文王は、『本紀』によれば即位一年。元年は、楚の考烈王が魯の頃公を滅ぼして家人(庶人)とした年であり、周滅亡後六年である。莊襄王は、『本紀』によれば即位三年。始皇帝は、『本紀』によれば即位三十七年。二世皇帝は、『本紀』によれば即位三年。秦の伯は合わせて五世、四十九年である。
漢の高祖皇帝は、『著紀』によれば、秦を討ち周を継いだ。木が火を生ずるので、火徳となった。天下の号を漢という。上元(暦の起点)から十四万三千二十五年、歳星(木星)が大棣(星宿)の東井二十二度、鶉首の六度にある年である。ゆえに『漢書』天文志に「歳星が大棣にあり、その年は敦牂(午年)といい、太歳が午にある」とある。八年十一月乙巳の朔旦冬至は、楚元(王)の三年である。ゆえに殷暦では丙午とし、元朔(武帝の年号)から七十六年後である。『著紀』によれば、高帝は即位して十二年である。
恵帝は、『著紀』によれば即位して七年である。
高帝は、紀録に即位八年とある。
文帝は、前十六年、後七年、紀録に即位二十三年とある。
景帝は、前七年、中六年、後三年、紀録に即位十六年とある。
武帝の建元・元光・元朔はそれぞれ六年。元朔六年十一月甲申の朔旦冬至は、殷暦では乙酉とし、初元から七十六年目にあたる。元狩・元鼎・元封はそれぞれ六年。漢暦の太初元年は、上元から十四万三千百二十七年目にあたる。前年十一月甲子の朔旦冬至で、歳星は星紀の婺女六度にあった。ゆえに漢志に「歳名は困敦、正月に歳星は婺女に出づ」とある。太初・天漢・太始・征和はそれぞれ四年、後二年、紀録に即位五十四年とある。
昭帝の始元・元鳳はそれぞれ六年、元平は一年、紀録に即位十三年とある。
宣帝の本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露はそれぞれ四年、黄龍は一年で、記録に即位二十五年とある。元帝の初元二年十一月癸亥の朔旦冬至は、殷暦では甲子とし、これを紀の首とした。この年は十月に日食があり、合辰の会に当たらないので、紀の首とすることはできない。建武より七十六年を距る。初元・永光・建昭はそれぞれ五年、竟寧は一年で、記録に即位十六年とある。
成帝の建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延はそれぞれ四年、綏和は二年で、記録に即位二十六年とある。
哀帝の建平は四年、元壽は二年で、記録に即位六年とある。
平帝は、記録に即位元始五年とあり、宣帝の玄孫である嬰を後継ぎとし、これを孺子と呼んだ。孺子は、記録に新都侯王莽が摂政として三年間在位したとあり、王莽は摂政の地位にありながら帝位を盗み襲い、国号を新室と称した。始建国五年、天鳳六年、地皇三年で、記録に盗位十四年とある。更始帝は、記録に漢の宗室として王莽を滅ぼし、即位二年とある。赤眉の賊が宗室の劉盆子を立て、更始帝を滅ぼした。漢元年から更始二年まで、合わせて二百三十年である。
光武皇帝は、記録に景帝の後裔で高祖の九世孫として天命を受け、漢を中興し復興したとあり、元号を建武と改めた。その年は鶉尾の張度にあった。建武三十一年、中元二年で、即位三十三年である。