漢書
巻二十三 刑法志 第三
そもそも人は天地の容貌を有し、仁・義・礼・智・信の五常の本性を抱き、聡明で精妙純粋であり、生き物の中で最も霊妙な存在である。爪や牙は嗜好や欲望を満たすのに足らず、走ることは利害を避けるのに足らず、毛や羽は寒暑を防ぐのにないので、必ずや物を役立てて養いとし、知恵を用いて力に頼らない。これが人が貴い所以である。ゆえに仁愛がなければ群れをなすことができず、群れをなさなければ万物に勝つことができず、万物に勝たなければ養いが不足する。群れていても養いが不足すれば、争いの心が起こるであろう。すぐれた聖人がひときわ優れて、先んじて敬譲と博愛の徳を行えば、民衆の心は喜んでこれに従う。これに従って群れをなす、これが君である。帰依して赴く、これが王である。洪範に「天子は民の父母となり、天下の王となる」とある。聖人は類を取って正しい名分を定め、君を父母と呼ぶのである。仁愛と徳譲とが王道の根本であることを明らかにするためである。愛は敬によって保たれて衰えず、徳は威厳によって長く立つ。ゆえに礼を制定して敬を尊び、刑を作って威厳を明らかにするのである。聖人はすでに明哲の本性を自ら備えているので、必ず天地の心に通じ、礼を制定し教化を行い、法を立て刑を設けるにあたっては、民情に沿って行動し、天象と地勢を則る。ゆえに先王が礼を立てるのは、「天の明るさを則り、地の本性に因る」と言われるのである。刑罰と威獄とは、天の雷光と殺伐とに類しており、温慈と恵和とは、天の生殖と長育とに倣うのである。書経に「天は礼に秩序あり」、「天は罪を討つ」とある。ゆえに聖人は天の秩序に因って五礼を制定し、天の討伐に因って五刑を作るのである。大刑には甲兵を用い、次には斧鉞を用いる。中刑には刀鋸を用い、次には鑽鑿を用いる。薄刑には鞭扑を用いる。大きいものは原野に並べ、小さいものは市や朝廷に至らしめる。その由来は古いのである。
黄帝の時には涿鹿の戦いがあって火災を平定し、顓頊の時には共工の陣があって水害を平定した。唐堯・虞舜の時代は、至治の極みであったが、それでもなお共工を流し、讙兜を放逐し、三苗を追放し、鯀を誅殺して、その後で天下は服したのである。夏には甘扈の誓いがあり、殷・周は兵をもって天下を平定した。天下が定まると、干戈をしまい隠し、文徳をもって教化したが、それでもなお司馬の官を立て、六軍の衆を設け、井田に因って軍賦を制定した。土地一里四方を井とし、井十を通とし、通十を成とし、成は十里四方である。成十を終とし、終十を同とし、同は百里四方である。同十を封とし、封十を畿とし、畿は千里四方である。税と租とがある。税は食を足すため、賦は兵を足すためである。ゆえに四井を邑とし、四邑を丘とする。丘は十六井であり、戎馬一匹、牛三頭を有する。四丘を甸とする。甸は六十四井であり、戎馬四匹、兵車一乗、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有し、干戈を備え具える。これを乗馬の法という。一同は百里で、提封は一万井であり、山川や沼沢地、城池や邑居、園囿や道路を除く三千六百井を差し引いて、賦を出すのは六千四百井と定め、戎馬四百匹、兵車百乗とする。これは卿大夫の采地の大きいものであり、これを百乗の家という。一封は三百一十六里で、提封は十万井であり、賦を出すのは六万四千井と定め、戎馬四千匹、兵車千乗とする。これは諸侯の大きいものであり、これを千乗の国という。天子の畿内は千里四方で、提封は百万井であり、賦を出すのは六十四万井と定め、戎馬四万匹、兵車万乗とする。ゆえに万乗の主と称するのである。戎馬・車・徒・干戈は平素から備え、春には振旅を行って搜とし、夏には拔舍を行って苗とし、秋には治兵を行って獮とし、冬には大閱を行って狩とする。いずれも農閑期を利用して軍事を講習するのである。五国を属とし、属には長を置く。十国を連とし、連には帥を置く。三十国を卒とし、卒には正を置く。二百十国を州とし、州には牧を置く。連帥は毎年車を点検し、卒正は三年ごとに徒を点検し、群牧は五年ごとに大規模に車徒を点検する。これが先王が国のために武を立て兵を足す大略である。
周の道は衰え、法度は廃れた。 斉 の桓公が管仲を任用するに至り、国は富み民は安んじた。桓公が覇道を行い軍を用いる方法を問うと、管仲は言った。「公が卒伍を定め、甲兵を整えようとしても、大国もまたこれを整えるでしょう。そして小国が防備を固めれば、速やかに志を得ることは難しいでしょう。」そこで内政を作ってその中に軍令を寓した。ゆえに卒伍は里において定まり、軍政は郊において成るのである。什伍を連ね、居処を同じくして楽しみ、死生を同じくして憂い、禍福を共にする。ゆえに夜戦ではその声が互いに聞こえ、昼戦ではその目が互いに見え、緩急の際には互いに死を尽くすのに足る。その教えがすでに成ると、外には夷狄を攘い、内には天子を尊び、諸夏を安んじた。斉の桓公が没すると、晋の文公がこれを受け継ぎ、やはりまずその民を安定させ、被廬の法を作り、諸侯を総帥して、代わる代わる盟主となった。しかしその礼はすでにかなり僭越で差違があり、また時勢に合わせて苟且の合意を求め、速やかな功を求めたので、王制を充実させることはできなかった。二伯(斉桓・晋文)の後は、次第に衰微し、魯の成公が丘甲を作り、哀公が田賦を用いるに至り、搜・狩・治兵・大閱といった事柄はすべてその正しさを失った。春秋はこれを記して譏り、王道を存続させようとした。このようにして師旅はたびたび動員され、百姓は疲弊し、節を守って死難に赴く道義がなくなった。孔子はこれを悲しんで言われた。「教えられていない民を戦わせるのは、これを棄てるというのである。」
ゆえに孔子は子路を評して言われた。「由(子路)よ、千乗の国であれば、その賦を治めさせることができるだろう。」そして子路もまた言った。「千乗の国が、大国の間に挟まれており、その上に師旅が加わり、さらに飢饉が続いたとしても、私がこれを治めれば、三年ほどで、民に勇気を持たせ、しかも道理を知らせることができるでしょう。」その賦を治め、兵に礼誼を教えるということを言うのである。
春秋の後、弱い国を滅ぼし小国を併呑し、戦国となり、次第に武を講ずる礼を増やし、これを戯れ楽しみとし、互いに誇示し合った。そして 秦 は名を角抵と改め、先王の礼は淫楽の中に没した。雄傑の士は時勢に乗じて時を助け、権謀術数をなして互いに傾覆し、呉には孫武、斉には孫臏、 魏 には呉起、秦には商鞅がおり、皆敵を捕らえ勝利を立て、その篇籍を後世に著した。この時、合従連衡し、転じて互いに攻伐し、代わる代わる雌雄を争った。斉の愍王は技撃をもって強く、魏の恵王は武卒をもって奮い立ち、秦の昭王は鋭士をもって勝った。世は功利を争い、説を馳せる者は孫・呉を宗とした。時にただ孫卿のみが王道に明るく、これを非難して言った。「あの孫・呉は、上に勢利を尚び変詐を貴ぶ。暴乱昏嫚の国に施し、君臣に間隙があり、上下心を離し、政謀良からざるがゆえに、変じて詐ることができるのである。仁人が上にあり、下に仰がれる者は、あたかも子弟が父兄を衛り、手足が頭目を守るがごとく、どうして当たりえようか。隣国が我を見れば、親戚のように喜び、椒蘭のように芳しく、その上を顧みれば、あたかも仇讎を焼くがごとくである。人情としてどうしてその悪むところを為し、その好むところを攻めようとするだろうか。故に桀をもって桀を攻むるは、なお巧拙があるが、桀をもって堯を詐るは、卵を石に投ずるがごとく、どうして幸いがあろうか。《詩経》に『武王は旆を載せ、虔かに鉞を秉り、火の烈烈たるがごとく、すなわち我を敢えて遏ぐものなし』とある。仁誼をもって民を綏撫する者は、天下に敵なしと言うのである。斉の技撃のごときは、一首級を得れば賜金を受ける。事小さく敵脆きには、苟も用いることができるが、事大きく敵堅きには、たちまち離散してしまう。これは亡国の兵である。魏氏の武卒は、三属の甲を衣、十二石の弩を操り、矢五十を負い、戈をその上に置き、冑を冠り剣を帯び、三日の糧を携え、日中に百里を趨る。試験に中ればその戸を復し、その田宅を利する。このようであれば、その地は広くとも、その税は必ず少なく、その気力は数年で衰える。これは危国の兵である。秦人は、その生民を狭く苦しめ、その民を使うに酷烈である。勢をもってこれを脅し、窮乏をもってこれを隠し、賞慶をもってこれに慣れさせ、刑罰をもってこれを導き、その民が上に利を求めるには、戦う以外に道がないようにする。功と賞は相長し、五つの甲首を得れば五家を隷属させる。これは最も数あるところであり、故に四世にわたり天下に勝つことができた。しかし皆賞を求め利に赴く兵であり、凡庸な徒輩が売り買いする道に過ぎず、安んじて制に従い節を重んずる理はない。故に地広く兵強くとも、常に鰓鰓として天下が一つに合して共に己を軋することを恐れている。斉の桓公・晋の文公の兵に至っては、その域に入り節制あると言えようが、なお仁義の統を本としていない。故に斉の技撃は魏の武卒に遇うべからず、魏の武卒は秦の鋭士に当たるべからず、秦の鋭士は桓・文の節制に当たるべからず、桓・文の節制は湯・武の仁義に敵すべからず。」
故に言う。「善く師する者は陣せず、善く陣する者は戦わず、善く戦う者は敗れず、善く敗れる者は亡びず。」舜が百僚を修め、咎繇を士とし、「蛮夷は夏を猾え、寇賊姦軌あり」と命じて、刑を用いることなく、いわゆる善く師して陣せざる者である。湯・武が征伐し、師を陳べて衆に誓い、桀・紂を放ち捕らえたのは、いわゆる善く陣して戦わざる者である。斉の桓公が南に強 楚 を服させ、周室に貢をさせ、北に山戎を伐ち、 燕 のために道を開き、亡びた国を存え絶えた国を継ぎ、功は伯の首となったのは、いわゆる善く戦って敗れざる者である。楚の昭王が闔廬の禍いに遭い、国滅びて出亡し、父老が送った。王が「父老は帰れ。何ぞ君なきことを患えん」と言うと、父老は「君このように賢し」と言い、互いに従った。ある者は秦に奔走し赴き、号哭して救いを請うと、秦人はこれを憐れんで出兵した。二国並び力め、遂に呉の師を走らせ、昭王は国に返った。いわゆる善く敗れて亡びざる者である。秦が四世の勝に乗じ、河山の険阻に拠り、白起・王翦の豺狼の徒を用い、その爪牙を奮い、六国を禽獣のように狩り、天下を併呑した。武を窮め詐を極め、士民は附かず、卒隷の徒はかえって敵讎となり、風のように起こり雲のように合し、果たして共にこれを軋した。これは下である。およそ兵は、存亡継絶し、乱を救い害を除くためのものである。故に伊尹・呂尚の将は、子孫に国あり、商・周と並ぶ。末世に至り、苟も詐力を任じ、貪残を快くするため、城を争えば人を殺して城に満ち、地を争えば人を殺して野に満つ。孫・呉・商・白の徒は、皆身は前に誅戮され、功は後に滅亡した。報応の勢いは、各々その類に従って至る。その道はそういうものである。
漢が興り、 高祖 は自ら神武の材を行い、寛仁の厚きを行い、英雄を総攬し、秦・項を誅した。 蕭何 ・ 曹参 の文を任じ、 張良 ・陳平の謀を用い、 陸賈 ・ 酈食其 の弁を騁け、 叔孫通 の儀を明らかにし、文武相配し、大略挙げられた。天下既定まり、秦に踵いて材官を郡国に置き、京師には南北軍の屯があった。武帝に至り百粤を平らげ、内には七校を増し、外には楼船があり、皆歳時に講肄し、武備を修めたという。元帝の時、貢禹の議により、初めて角抵を罷めたが、治兵振旅の事を正しくはしなかった。
古人に言う。「天は五材を生じ、民は並び用いる。一つを廃するも不可。誰か兵を去ることができようか。」鞭扑は家に弛むべからず、刑罰は国に廃すべからず、征伐は天下に偃ぐべからず。用いるに本末あり、行うに逆順あるのみ。孔子は言う。「工、その事を善くせんと欲すれば、必ず先ずその器を利くす。」文徳は帝王の利器、威武は文徳の輔助である。文の加うるところ深ければ、則ち武の服するところ大なり。徳の施すところ博ければ、則ち威の制するところ広し。三代の盛んなりし時、刑措け兵寝るに至ったのは、その本末序あり、帝王の極功である。
昔、周の法は、三典を建てて邦国を刑し、四方を詰う。一に曰く、新邦を刑するには軽典を用い、二に曰く、平邦を刑するには中典を用い、三に曰く、乱邦を刑するには重典を用いる。五刑は、墨罪五百、劓罪五百、宮罪五百、刖罪五百、殺罪五百。いわゆる平邦を刑するに中典を用いる者である。凡そ人を殺す者は市に踣し、墨者は門を守らせ、劓者は関を守らせ、宮者は内を守らせ、刖者は囿を守らせ、完者は積を守らせる。その奴は、男子は罪隷に入れ、女子は舂槁に入れる。凡そ爵ある者と、七十の者と、未だ齔ならざる者は、皆奴とせず。
周の道既に衰え、穆王は眊荒し、甫侯に命じて時を度り刑を作り、四方を詰わしめた。墨罰の属千、劓罰の属千、髕罰の属五百、宮罰の属三百、大辟の罰その属二百。五刑の属三千。 蓋し 平邦の中典五百章より多く、いわゆる乱邦を刑するに重典を用いる者である。
春秋の時代、王道は次第に崩れ、教化は行われず、子産が鄭の宰相となって刑書を鋳造した。晋の叔嚮はこれを非難して言った。「昔、先王は事を議して制を定め、刑辟(刑法)を設けなかった。民に争いの心が生じることを恐れたからである。それでもなお禁じ止めることができなかったので、義をもって防ぎ、政をもって正し、礼をもって行わせ、信をもって守らせ、仁をもって奉じさせた。禄位を定めて従うことを勧め、刑罰を厳しく断って淫らな行いを威圧した。それでもまだ不十分であることを恐れ、忠をもって教え諭し、行いをもって優しく導き、務めをもって教え、和をもって使役し、敬をもって臨み、強さをもって統治し、剛毅をもって断じた。それでもなお聖哲の君主、明察の官吏、忠信の長上、慈恵の師を求めた。民はこうしてこそ任用し使役することができ、禍乱を生じないのである。民が刑法があることを知れば、上を畏れなくなり、ともに争いの心を抱き、書物を証拠として争い、僥倖によって事を成そうとするようになり、どうすることもできなくなる。夏に乱政があって禹刑が作られ、商に乱政があって湯刑が作られ、周に乱政があって九刑が作られた。三つの刑法の興起は、いずれも末世のことである。今、あなたが鄭国の宰相となり、三辟(三種の刑法)を定め、刑書を鋳造して、民を安定させようとしているが、それは難しいことではないか!『詩経』に『文王の徳を儀式とし、日に四方を靖む』とあり、また『文王を儀刑すれば、万邦孚を作す』とある。このようにするならば、何の刑法が必要だろうか?民が争いの端緒を知れば、礼を捨てて書物を証拠とするようになる。錐や刀の先ほどの些細なことでも、ことごとく争うようになり、乱れた獄訟はますます増え、賄賂が並行して行われるようになる。あなたの世が終わるまでに、鄭は敗れるであろう!」子産は答えて言った。「あなたのおっしゃる通りです。僑(子産の名)は才能がなく、子孫まで及ぶことはできません。私は世を救うためです。」軽薄な政治は、ここからますます盛んになった。孔子はこれを悲しんで言った。「徳をもって導き、礼をもって整えれば、恥を知り、かつ正しい行いをする。政をもって導き、刑をもって整えれば、民は罰を免れようとするだけで恥を知らない。」「礼楽が興らなければ、刑罰は当を得ない。刑罰が当を得なければ、民は手足を置くところを知らない。」孟氏が陽膚を士師に任じようとしたとき、曾子に問うたが、曾子もまた言った。「上に道を失えば、民は離散して久しい。もしその真情を得たならば、哀れみ憐れんで、喜んではならない。」
次第に衰えて戦国時代に至ると、 韓 は申子を任用し、秦は商鞅を用い、連座の法を連ね、三族誅殺の刑罰を作った。肉刑や大辟(死刑)を増やし、鑿顛(頭蓋骨を穿つ)、抽脅(肋骨を抜く)、鑿亨(大釜で煮る)といった刑罰があった。
秦始皇に至ると、戦国を併呑し、ついに先王の法を破壊し、礼義の官を滅ぼし、ひたすら刑罰を任用し、自ら文墨を操り、昼は獄訟を裁断し、夜は文書を処理し、自ら仕事の量を定めて事を決裁し、一日に一石の文書を懸けた。しかし奸邪がともに生じ、赭衣(赤い囚人服)が道を塞ぎ、牢獄が市場のようになり、天下は愁怨し、崩れて秦に叛いた。
漢が興ると、高祖が初めて関中に入ったとき、法三章を約して言った。「人を殺した者は死に、人を傷つけたり盗みを働いた者はその罪に応じて罰する。」煩雑で苛酷な法を削除し、万民は大いに喜んだ。その後、四方の夷がまだ帰服せず、戦争が止まず、三章の法だけでは奸悪を防ぐのに十分でなかった。そこで相国の蕭何が秦の法を拾い集め、その時代に適したものを取り出して、律九章を作った。
孝惠帝と高后の時代、百姓はようやく毒害から免れ、人々は長幼を養い老人を敬おうとした。蕭何と曹参が相国となり、無為をもって国を治め、民の欲求に従って、乱すことがなかった。このため衣食は増え殖え、刑罰は用いることが稀になった。
孝文帝が即位すると、自ら玄黙(静かで慎み深いこと)を修め、農桑を勧め励まし、租税を減らした。将相はみな昔の功臣で、文飾が少なく質実が多く、悪政で滅んだ秦の政治を戒め、議論は寛厚を旨とし、人の過失を言うことを恥じた。教化は天下に行き渡り、密告の風俗は改まった。官吏はその官職に安んじ、民はその生業を楽しみ、蓄積は年々増え、戸口は次第に増加した。風俗は篤厚で、法網は疏闊であった。張釈之を選んで廷尉とし、罪に疑いのある者は民に与えた。このため刑罰は大いに減り、獄訟を裁断すること四百件に至り、刑罰が用いられない風があった。
即位して十三年、斉の太倉令の淳于公が罪を得て刑に当たることとなり、 詔 獄によって 長安 に逮捕・拘束された。淳于公には男子がなく、五人の娘がいた。逮捕される時が来て、娘たちを罵って言った。「子を生んでも男子を生まないのは、緊急の際に何の役にも立たない!」末娘の緹縈は自ら悲しみ泣き、ついに父について長安に行き、上書して言った。「私の父は官吏で、斉中では皆その廉潔公平を称えていましたが、今、法に坐して刑に当たることになりました。私は、死んだ者は再び生き返ることができず、刑を受けた者は再び元に戻ることができないことを悲しみます。たとえ後に過ちを改めて自新しようとしても、その道がないのです。私は官婢に没収されることを願い、父の刑罪を贖い、自新の機会を与えていただきたいと思います。」上書が天子に奏上されると、天子はその心意を憐れみ悲しみ、ついに命令を下して言った。「 詔 して御史に制す。聞くところによれば、有虞氏の時代には、衣冠に絵を描き、章服を異ならせて刑戮とし、民は犯さなかったという。なんと治世の極致であろうか!今、法には肉刑が三つあるが、奸悪が止まない。その過ちはどこにあるのか?それは朕の徳が薄く、教化が明らかでないからではないか!朕は甚だ自ら愧じる。そもそも訓導が純粋でないために愚かな民が陥るのである。『詩経』に『愷悌君子は、民の父母なり』とある。今、人が過ちを犯しても、教えが施されないうちに刑が既に加えられ、あるいは行いを改めて善にしようとしても、その道がない。朕は甚だこれを憐れむ。刑罰が手足を断ち切り、肌膚を刻み、終身止むことがないとは、なんと刑罰の痛ましくて徳のないことか!民の父母と称する意にかなうであろうか?肉刑を廃止し、それに代わるものがあるようにせよ。また罪人にそれぞれ軽重に応じて、逃亡せず、年数を経て赦免されるようにせよ。詳細を令とせよ。」
丞相の張蒼と御史大夫の馮敬が上奏して言った。「肉刑は奸悪を禁じるためのもので、その由来は久しいものです。陛下が明 詔 を下され、過ちを犯して刑を受け、終身止むことのない万民を憐れみ、また罪人が行いを改めて善にしようとしてもその道がないことをお思いになるのは、盛徳であり、臣らが及ぶところではありません。臣は謹んで議して律を定めることを請います。諸々の完(髪を切る刑)に当たる者は、完として城旦・舂とせよ。 黥 (入れ墨)に当たる者は、髡鉗(こんけん、髪を切り鉄輪をはめる)として城旦・舂とせよ。劓に当たる者は、笞(ち、むち打ち)三百とせよ。左足を斬る刑に当たる者は、笞五百とせよ。右足を斬る刑、および人を殺して自首した者、および官吏が賄賂を受け取って法を曲げた罪に坐する者、県官の財物を守っていて即座にこれを盗んだ者、既に判決が下されてさらに笞罪のある者は、皆、棄市(死刑)とせよ。罪人が獄で既に判決を受け、完として城旦・舂となった者は、満三年で鬼薪・白粲とする。鬼薪・白粲一年で、隷臣妾とする。隷臣妾一年で、庶人に免ずる。隷臣妾が満二年で、司寇とする。司寇一年、および作如司寇二年で、皆、庶人に免ずる。逃亡した者および耐(たい、髪を切る刑)以上の罪のある者は、この令を用いない。以前の令で城旦・舂の年刑でありながら禁錮されていない者は、完として城旦・舂の年数に従って赦免する。臣、昧死して請う。」 詔 して言った。「よろしい。」この後、外見は軽刑の名がありながら、内実は人を殺すものであった。右足を斬る刑はまた死罪に当たった。左足を斬る刑は笞五百、劓刑は笞三百とされたが、多くは死んだ。
景帝元年、 詔 を下して言った。「笞を加えることは重罪と異ならない。幸いに死ななくても、人間として生きられなくなる。律を定めよ。笞五百を三百とし、笞三百を二百とする。」それでもまだ完全ではなかった。中六年に至り、また 詔 を下して言った。「笞を加える場合、ある者は死に至っても笞がまだ終わらないことがある。朕は甚だこれを憐れむ。笞三百を二百に減じ、笞二百を一百に減ぜよ。」また言った。「笞は、人を教えるためのものである。箠令(ちれい、答打ちの規定)を定めよ。」丞相の劉舍と御史大夫の衛綰が請うて言った。「笞を行う場合、箠は長さ五尺、根本の太さ一寸、竹製で、先端は薄く半寸、すべて節を平らにする。笞を受ける者は臀部を打つ。途中で人を替えてはならず、一つの罪が終わってから人を替える。」これ以後、笞を受ける者は全うすることができたが、しかし酷吏はなおもこれを威嚇に用いた。死刑は既に重く、生刑(死刑以外の刑)はまた軽いので、民は容易に罪を犯した。
孝武帝が即位すると、外では四方の異民族を討つ功績を立て、内では耳目の楽しみを盛んにし、徴発は頻繁で、民衆は貧窮し疲弊し、困窮した民は法を犯し、酷吏は厳しく裁断し、悪事は抑えきれなかった。そこで張湯・ 趙 禹らを招き入れ、法令を条文化して定め、見知りながら故意に放置した罪(見知故縦)や監督責任者を罰する法(監臨部主の法)を作り、故意に深刻な罪にした者(深故)の罪を緩め、罪人を不当に釈放した者(縦出)の誅罰を厳しくした。その後、悪賢い者が法を巧みに利用し、互いに事例を引き合いにして比況し、法網は次第に緻密になった。律令は合わせて三百五十九章、大辟(死刑)に関する条項は四百九条、千八百八十二の事例があり、死罪に関する判例集(決事比)は一万三千四百七十二の事例に及んだ。文書は机や書庫に溢れ、法典を扱う者でも全てに目を通すことはできなかった。このため、郡や国で用いる際に解釈が食い違い、同じ罪でも論じ方が異なることがあった。悪辣な官吏はこれに乗じて私利を図り、生かしたい者には生き延びる解釈を付け加え、陥れたい者には死罪の判例を当てはめ、議論する者は皆、冤罪を悲しみ傷んだ。
宣帝は民間にいた時からこのような状況を知っており、帝位に即くと、廷史の路温舒が上疏し、秦に十の過失があり、その一つが今も残っている、それは獄を治める官吏であると述べた。その言葉は温舒伝にある。皇帝は深く哀れみ、 詔 を下して言った。「近頃、官吏が法を用いるのに、巧みな文飾が次第に深刻になっている。これは朕の不徳である。裁判が不当で、有罪の者が悪事を働き、無辜の者が殺戮に遭い、父子が悲しみ恨むのは、朕は甚だ傷むところである。今、廷史を郡に派遣して獄事を審理させるが、任務は軽く俸禄は薄い。廷平を置くこととし、秩禄は六百石、定員は四人とする。公平に務め、朕の意にかなうようにせよ。」そこで于定国を選んで廷尉とし、明察で寛恕な黄 霸 らを求めて廷平とし、季秋(陰暦九月)の後に疑獄の上奏審議(讞)を行わせた。この時、皇帝は常に宣室に行幸し、斎戒して居住しつつ政事を裁断したので、刑獄は公平であると称された。時に涿郡太守の鄭昌が上疏して言った。「聖王が諫争の臣を置くのは、徳を崇めるためではなく、安逸と放縦が生じるのを防ぐためである。法を立て刑を明らかにするのは、治めようとするためではなく、衰乱が起こるのを救うためである。今、明主が自ら聡明な聴訟に臨まれるので、たとえ廷平を置かなくても、獄事は自ずから正されるでしょう。もし後世のために開くならば、律令を削除・制定するに如くはありません。律令が一旦定まれば、愚かな民も避けるべきところを知り、悪辣な官吏も弄ぶことができなくなります。今、その根本を正さずに、廷平を置いてその末を治めようとするのは、政治が衰え聴訟が怠れば、廷平が権力を招き寄せて乱の首魁となるでしょう。」宣帝はこれを修正するに至らなかった。
元帝が初めて即位すると、 詔 を下して言った。「法令というものは、暴を抑え弱きを扶けるためのもので、犯し難く避け易いことを望むものである。今、律令は煩雑で多く、簡約ではなく、法典の条文を扱う者さえも分明にできず、しかも庶民が及ばないところを網にかけようとしている。これが果たして刑罰が適切であるという意味だろうか!律令で削除・軽減できるものを議論し、条書きで上奏せよ。ただ万民の便宜と安寧にあるのみである。」
成帝の河平年間に至り、再び 詔 を下して言った。「『甫刑』に『五刑に属するもの三千、大辟の罰に属するもの二百』とある。今、大辟の刑は千有余条、律令は煩雑で多く、百余万言に及び、特殊な申請(奇請)や他の判例による比況(它比)が日増しに増え、明習する者でさえその由来を知らず、これを以て衆庶に理解させようとするのは、難しいことではないか!これで庶民を網にかけ、無辜の者を夭折させ絶滅させるのは、哀れではないか!中二千石・二千石・博士及び律令に明習する者と共に、死刑を減じ、また削除・簡約できるものを議論し、明白に容易に知られるようにし、条書きで上奏せよ。書経に言わないか、『惟れ刑を恤れ(ただ刑罰を慎しめ)』と。よく審査・検討し、必ず古法に準拠せよ。朕は心を尽くして覧るであろう。」担当官庁には仲山父のような明察の才がなく、時に乗じて主上の恩恵を広く宣揚し、明らかな制度を立てて一代の法とすることができず、ただ些細な点を探し求め、毛のように細かい数事を挙げて、 詔 命を塞ぐだけだった。このため、大きな議論は立たず、遂に今日に至っている。議論する者の中には、法は頻繁に変えるべきでない、これは庸人が道理に通ぜず、治道を疑い塞ぐもので、聖智の者が常に憂えるところである、と言う者もいる。そこで、漢が興って以来、法令が次第に定まり、古に合致し今に便宜なものを略挙する。
漢が興った初め、たとえ「法三章」の約束があっても、網の目は舟を呑むほどの魚をも漏らすほど粗かったが、しかし大辟(死刑)には、なお三族を誅する法令があった。令に言う。「三族に相当する者は、皆まず黥を施し、劓を施し、左右の足を斬り、笞打ちで殺し、その首を梟し、骨肉を市で醢にする。誹謗や罵詈や詛咒をする者は、さらにまず舌を断つ。」故にこれを具五刑と言った。 彭越 ・ 韓信 の類は皆この誅罰を受けた。高后( 呂后 )元年に至り、ようやく三族の罪と妖言令を廃止した。孝文皇帝二年、また丞相・ 太尉 ・御史に 詔 して言った。「法は、治めの基準であり、暴を禁じ善人を守るためのものである。今、法を犯した者は既に論じられているのに、無罪の父母・妻子・兄弟を連座させて収監するのは、朕は甚だ取るところではない。議論せよ。」左右丞相の周勃・陳平が上奏して言った。「父母・妻子・兄弟を連座させ収監するのは、その心を苦しめ、法を犯すことを重んじさせるためです。収監の道は、由来久しいものです。臣の愚かな考えでは、従前のままが便宜かと存じます。」文帝は再び言った。「朕が聞くところでは、法が正しければ民は慎み深く、罪が相当であれば民は従う。また、民を治めて善に導くのは、官吏である。既に導くことができない上に、不正な法で民を罪するのは、これは法がかえって民を害し、暴をなす者である。朕はその便宜を見ない。よく計るべきである。」平と勃はそこで言った。「陛下が天下に大いなる恵みを加えられ、有罪の者を収監せず、無罪の者は連座させないのは、甚だ盛んな徳であり、臣ら及びばぬところです。臣ら謹んで 詔 を奉じ、収律・相坐法を全て廃止いたします。」その後、新垣平が謀反を企てたため、再び三族を誅する刑が行われた。このことから言えば、風俗が移り変わり、人性は近いが習いが遠くなるというのは、誠にその通りである。孝文皇帝のような仁、平や勃のような知恵を持ってさえ、このように甚だしい過酷な刑罰や誤った論議があったのである。ましてや、凡庸な才能の者が末流に溺れる場合はなおさらであろうか。
周官には五聴・八議・三刺・三宥・三赦の法がある。五聴:第一は辞聴(ことばを聴く)、第二は色聴(顔色を観る)、第三は気聴(息づかいを観る)、第四は耳聴(聞く態度を観る)、第五は目聴(目の動きを観る)。八議:第一は議親(親族を議する)、第二は議故(故旧を議する)、第三は議賢(賢者を議する)、第四は議能(能ある者を議する)、第五は議功(功労者を議する)、第六は議貴(貴人を議する)、第七は議勤(勤労者を議する)、第八は議賓(賓客を議する)。三刺:第一は群臣に訊く、第二は群吏に訊く、第三は万民に訊く。三宥:第一は知らなかったこと(弗識)、第二は過失、第三は忘れていたこと(遺忘)。三赦:第一は幼弱、第二は老眊(老いて目が朦朧)、第三は憃愚(愚か)。凡そ囚人について、「上罪は梏(手枷)と拲(両手を拘束する械)と桎(足枷)を付け、中罪は梏と桎を付け、下罪は梏のみを付ける。王の同族は拲のみ、爵位ある者は桎のみを付けて、判決が下るのを待つ。」高皇帝七年、御史に制 詔 した。「獄事で疑わしいものについては、官吏は敢えて決断せず、有罪の者は長く論ぜられず、無罪の者は長く拘束されたまま決断されない。今より以後、県や道の官の獄事で疑わしいものは、それぞれ所属する二千石官に讞(疑獄の上奏審議)し、二千石官はその罪名に相当する判決を報じよ。決することができないものは、全て廷尉に移し、廷尉もまた判決を報じよ。廷尉でも決することができないものは、謹んで詳細を奏上し、相当する律令の比況を付して聞かせよ。」上(皇帝)の恩恵はこのようであったが、官吏はなおも奉宣することができなかった。故に孝景皇帝中五年に再び 詔 を下して言った。「諸々の獄事で疑わしいものは、たとえ条文上は法に合致していても人心が服さないものは、直ちに讞せよ。」その後、獄吏はまた微細な条文を避け、自分たちの愚かな心のままに事を行った。後元年に至り、また 詔 を下して言った。「獄事は、重い事柄である。人には愚かさと賢さがあり、官には上と下がある。獄事で疑わしいものは讞すが、讞するよう命じられた者が既に讞を報じて後に不当であった場合でも、讞した者は過失とはしない。」この後より以後、獄事と刑罰は益々詳密になり、五聴・三宥の趣旨に近づいた。三年に再び 詔 を下して言った。「高年で老いた長者は、人が尊敬するものである。鰥寡(男やもめと女やもめ)で連座に及ばない者は、人が哀れみ憐れむものである。令に明記せよ。八十歳以上、八歳以下、及び孕みて未だ乳(出産)せざる者、師(楽師)・朱儒(侏儒)で鞠(審問)・繫(拘束)されるべき者は、頌繫(拘束するも械を付けない)とせよ。」孝宣皇帝の元康四年に至り、また 詔 を下して言った。
私は年老いた人々のことを思うに、彼らは髪や歯が抜け落ち、血気もすでに衰えており、暴虐で逆らう心もない。今、ある者は法令の網にかかり、牢獄に捕らえられ、天寿を全うすることができない。私はこれを大いに哀れむ。今後より、八十歳以上の者は、誣告や殺傷人を除き、その他の罪はすべて問わないこととする。」成帝の鴻嘉元年に至り、令を定めて「七歳に満たない者が、賊闘で人を殺し、あるいは殊死の罪を犯した場合は、廷尉に上請して奏聞し、死刑を減ずることができる」とした。これは三赦の幼弱・老眊の人々に関する規定に合致する。これらはすべて法令が次第に定まり、古代に近づいて民に便益をもたらすものである。
孔子は言われた。「もし王者が現れるならば、必ず三十年後に仁政が行き渡る。善人が国を治めて百年経てば、残虐を克服し殺伐を除去することができる。」これは、聖王が衰乱を承けて立ち上がり、民に徳教を施し、変革して教化すれば、必ず三十年後に仁道が成就するということである。善人に至っては、奥義にまでは至らないが、それでも百年経てば残虐を克服し殺伐を除去できる。これが国を治める者の規範である。今、漢の道は極めて盛んであり、歴世二百余年を経ている。昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の六世の間を考察すると、断獄による殊死の罪は、おおよそ年に千余人に一人の割合であり、耐罪以上から右趾の刑に至るまでは、その三倍以上である。古人の言葉に「満堂で酒を飲むとき、一人が隅に向かって悲しみ泣けば、一堂の者すべてがそれで楽しめなくなる」とある。王者が天下に対して抱く思いは、ちょうど一堂の上にいるようなものである。だから、一人でも公平を得られない者がいれば、心を悩まし悲しむのである。今、郡国で刑に処せられて死ぬ者は、年に数万の数に上り、天下の獄は二千余りある。その冤死者は互いに重なり合うほど多く、獄は一人も減らず、これが天地の和気がまだ行き渡らない所以である。
獄刑がこのように繁茂する原因を推究すれば、礼教が確立せず、刑法が明らかでなく、民は多く貧窮し、豪傑は私利を求め、奸悪をただちに捕らえることができず、獄訟が公平でないことによるのである。『書経』に「伯夷が法典を降し、民を導くのは刑による」とある。礼を制定して刑を止めるのは、ちょうど堤防が水の溢れるのを防ぐようなものだと言っている。今、堤防は崩れ、礼制は未だ確立していない。死刑は制度を超え、生刑は容易に犯される。飢えと寒さが共に至り、窮すれば濫れ溢れる。豪傑が私利を擅にし、その嚢橐となり、奸悪が隠れるところがあれば、慣れて次第に広がる。これが刑が繁茂する所以である。孔子は言われた。「古く法を知る者は刑を省くことができた。これが根本である。今、法を知る者は有罪を見逃さない。これは末節である。」また言われた。「今、獄を聴く者は、どうやって殺すかを求める。古く獄を聴く者は、どうやって生かすかを求めた。」罪のない者を殺すよりは、むしろ有罪者を見逃せ。今の獄吏は、上下が互いに駆り立て、厳格さを以て明察とし、深刻な者が功名を獲得し、公平な者は多く後患を抱える。諺に「棺を売る者は年の疫病を望む」とある。人を憎んで殺したいのではなく、人が死ぬことに利益があるからだ。今、獄を治める吏が人を陥れようとするのも、これと同じである。凡そこの五つの弊害が、獄刑が特に多い所以である。
建武・永平の時代以来、民もまた新たに兵革の禍を免れ、人々に楽しく生きようとする考えがあり、高祖・恵帝の時代と同じであった。そして政治は強きを抑え弱きを扶けることにあり、朝廷には威福を擅にする臣はおらず、邑には豪傑の侠客はいなかった。人口率で計算すると、断獄は成帝・哀帝の間よりも十の八だけ少なく、清いと言えよう。しかしながら、まだ意に称し古代と比べて隆盛とは言えないのは、その弊害が尽く除かれておらず、刑の根本が正しくないからである。
善いかな、荀卿(孫卿)の刑についての論は。彼は言う。「世俗の説をなす者は、治世の古代には肉刑がなく、象刑として墨や黥の類いがあり、草鞋や赭色の衣で縁取りのないものだったと考えているが、それは正しくない。もし治世の古代だとすれば、人は罪に触れることがないはずであり、どうして肉刑だけがないだけでなく、象刑すら必要としないはずだ。もし人が罪に触れるとすれば、ただその刑を軽くするのは、人を殺す者は死なず、人を傷つける者は刑に処せられないことになる。罪は極めて重いのに刑は極めて軽く、民は畏れるところがなく、これほど大きな乱はない。凡そ刑を制定する根本は、暴悪を禁じ、かつその末流を懲らしめるためである。
人を殺す者が死なず、人を傷つける者が刑に処せられないのは、暴を恵み悪を寛大にすることである。だから象刑は治世の古代に生まれたのではなく、まさに乱れた今の世に起こったのである。凡そ爵位や官職、賞慶や刑罰は、すべて類をもって相従うものである。一つの物事が相応しくなければ、乱の端緒である。徳が位に称せず、能が官に称せず、賞が功に当たらず、刑が罪に当たらないのは、これほど不祥なことはない。暴を征伐し悖逆を誅することは、政治の威厳である。人を殺す者は死に、人を傷つける者は刑に処せられる。これは百王に共通するところであり、その由来を知る者はない。だから治世であれば刑は重く、乱世であれば刑は軽い。治世に犯す罪は当然重く、乱世に犯す罪は当然軽いのである。『書経』に『刑罰は世によって重く、世によって軽い』とある。これがその謂いである。」いわゆる「象刑惟明」とは、天道に象って刑を作ったということであって、どうして草鞋や赭色の衣などがあるだろうか。
荀卿の言葉がこの通りであるなら、さらに俗説によって論じて言う。禹は堯舜の後に承け、自ら徳が衰えたとして肉刑を制定し、湯や武がそれに順って行ったのは、俗が唐虞の時代より薄くなったからである。今、漢は衰えた周と暴虐な秦の極めて弊害のある流れを承け、俗はすでに三代より薄くなっているのに、堯舜の刑を行おうとするのは、ちょうど手綱で悍馬を御しようとするようなもので、時を救うのに適した方策に背いている。かつ肉刑を除いたのは、本来民を全うさせようとしたのであるが、今、髡鉗の一等を除いて、転じて大辟に入れる。死をもって民を網にかけるのは、本来の恵みを失っている。だから死者は年に数万の数に上り、刑が重いことによるのである。穿窬の盗みに至り、忿怒して人を傷つけ、男女が淫佚し、吏が奸臧を行うなど、このような悪に対しては、髡鉗の罰ではまた懲らしめるのに十分ではない。だから刑に処せられる者は年に十万の数に上り、民はすでに畏れず、またかつて恥じることもない。これは刑が軽いことから生じるのである。だから俗に能吏と呼ばれる者は、公然と盗賊を殺すことを以て威とし、専殺する者が勝任し、法を奉ずる者は治まらず、名を乱し制を傷つけ、数え切れないほどである。このように網は密であるが奸は塞がれず、刑は繁茂するが民はますます怠慢になる。必ず三十年経っても仁に至らず、百年経っても残虐を克服できないのは、誠に礼楽が欠け刑が正しくないからである。どうしてただ清原正本の論を思うだけであろうか。律令を刪定し、二百章を撰び、大辟に応じるべきである。その他の罪の等級で、古くは生かすべきであったが、今は死に触れるものは、すべて肉刑を行うよう募ることができる。また人を傷つける者と盗人、吏が賄賂を受け法を枉げる者、男女の淫乱は、すべて古い刑に復し、三千章とする。誹謗や欺瞞、文致や微細な法は、すべて除去する。このようにすれば、刑は畏れられ禁は容易に避けられ、吏は専殺せず、法に二つの門はなく、軽重は罪に当たり、民命は全うされ、刑罰の中庸に合致し、天人の和を豊かにし、古制を考察して順い、時世の和やかな教化を成し遂げるであろう。成康の刑錯は、まだ至ることはできないかもしれないが、孝文の断獄にはほぼ及ぶであろう。『詩経』に「民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く」とある。『書経』に「功を立て事を立て、以て永年すべし」とある。政治を行って民に宜しい者は、功が成り事が立てば、天の禄を受け永年の命を保つと言っている。いわゆる「一人慶有れば、万民之に頼る」ということである。