漢書

巻二十三 刑法志 第三

そもそも人は天地の容貌を有し、仁・義・礼・智・信の五常の本性を抱き、聡明で精妙純粋であり、生き物の中で最も霊妙な存在である。爪や牙は嗜好や欲望を満たすのに足らず、走ることは利害を避けるのに足らず、毛や羽は寒暑を防ぐのにないので、必ずや物を役立てて養いとし、知恵を用いて力に頼らない。これが人が貴い所以である。ゆえに仁愛がなければ群れをなすことができず、群れをなさなければ万物に勝つことができず、万物に勝たなければ養いが不足する。群れていても養いが不足すれば、争いの心が起こるであろう。すぐれた聖人がひときわ優れて、先んじて敬譲と博愛の徳を行えば、民衆の心は喜んでこれに従う。これに従って群れをなす、これが君である。帰依して赴く、これが王である。洪範に「天子は民の父母となり、天下の王となる」とある。聖人は類を取って正しい名分を定め、君を父母と呼ぶのである。仁愛と徳譲とが王道の根本であることを明らかにするためである。愛は敬によって保たれて衰えず、徳は威厳によって長く立つ。ゆえに礼を制定して敬を尊び、刑を作って威厳を明らかにするのである。聖人はすでに明哲の本性を自ら備えているので、必ず天地の心に通じ、礼を制定し教化を行い、法を立て刑を設けるにあたっては、民情に沿って行動し、天象と地勢を則る。ゆえに先王が礼を立てるのは、「天の明るさを則り、地の本性に因る」と言われるのである。刑罰と威獄とは、天の雷光と殺伐とに類しており、温慈と恵和とは、天の生殖と長育とに倣うのである。書経に「天は礼に秩序あり」、「天は罪を討つ」とある。ゆえに聖人は天の秩序に因って五礼を制定し、天の討伐に因って五刑を作るのである。大刑には甲兵を用い、次には斧鉞を用いる。中刑には刀鋸を用い、次には鑽鑿を用いる。薄刑には鞭扑を用いる。大きいものは原野に並べ、小さいものは市や朝廷に至らしめる。その由来は古いのである。

原文夫人宵天地之䫉,懷五常之性,聰明精粹,有生之最靈者也。爪牙不足以供耆欲,趨走不足以避利害,無毛羽以禦寒暑,必將役物以為養,任智而不恃力,此其所以為貴也。故不仁愛則不能群,不能群則不勝物,不勝物則養不足。群而不足,爭心將作,上聖卓然先行敬讓博愛之德者,眾心說而從之。從之成群,是為君矣;歸而往之,是為王矣。洪範曰:「天子作民父母,為天下王。」聖人取類以正名,而謂君為父母,明仁愛德讓,王道之本也。愛待敬而不敗,德須威而久立,故制禮以崇敬,作刑以明威也。聖人既躬明悊之性,必通天地之心,制禮作教,立法設刑,動緣民情,而則天象地。故曰先王立禮,「則天之明,因地之性」也。刑罰威獄,以類天之震曜殺戮也;溫慈惠和,以效天之生殖長育也。《書》云「天秩有禮」,「天討有罪」。故聖人因天秩而制五禮,因天討而作五刑。大刑用甲兵,其次用斧鉞;中刑用刀鋸,其次用鑽鑿;薄刑用鞭扑。大者陳諸原野,小者致之市朝,其所繇來者上矣。

黄帝の時には涿鹿の戦いがあって火災を平定し、顓頊の時には共工の陣があって水害を平定した。唐堯・虞舜の時代は、至治の極みであったが、それでもなお共工を流し、讙兜を放逐し、三苗を追放し、鯀を誅殺して、その後で天下は服したのである。夏には甘扈の誓いがあり、殷・周は兵をもって天下を平定した。天下が定まると、干戈をしまい隠し、文徳をもって教化したが、それでもなお司馬の官を立て、六軍の衆を設け、井田に因って軍賦を制定した。土地一里四方を井とし、井十を通とし、通十を成とし、成は十里四方である。成十を終とし、終十を同とし、同は百里四方である。同十を封とし、封十を畿とし、畿は千里四方である。税と租とがある。税は食を足すため、賦は兵を足すためである。ゆえに四井を邑とし、四邑を丘とする。丘は十六井であり、戎馬一匹、牛三頭を有する。四丘を甸とする。甸は六十四井であり、戎馬四匹、兵車一乗、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有し、干戈を備え具える。これを乗馬の法という。一同は百里で、提封は一万井であり、山川や沼沢地、城池や邑居、園囿や道路を除く三千六百井を差し引いて、賦を出すのは六千四百井と定め、戎馬四百匹、兵車百乗とする。これは卿大夫の采地の大きいものであり、これを百乗の家という。一封は三百一十六里で、提封は十万井であり、賦を出すのは六万四千井と定め、戎馬四千匹、兵車千乗とする。これは諸侯の大きいものであり、これを千乗の国という。天子の畿内は千里四方で、提封は百万井であり、賦を出すのは六十四万井と定め、戎馬四万匹、兵車万乗とする。ゆえに万乗の主と称するのである。戎馬・車・徒・干戈は平素から備え、春には振旅を行って搜とし、夏には拔舍を行って苗とし、秋には治兵を行って獮とし、冬には大閱を行って狩とする。いずれも農閑期を利用して軍事を講習するのである。五国を属とし、属には長を置く。十国を連とし、連には帥を置く。三十国を卒とし、卒には正を置く。二百十国を州とし、州には牧を置く。連帥は毎年車を点検し、卒正は三年ごとに徒を点検し、群牧は五年ごとに大規模に車徒を点検する。これが先王が国のために武を立て兵を足す大略である。

原文自黃帝有涿鹿之戰以定火災,顓頊有共工之陳以定水害。唐虞之際,至治之極,猶流共工,放讙兜,竄三苗,殛鯀,然後天下服。夏有甘扈之誓,殷、周以兵定天下矣。天下既定,戢臧干戈,教以文德,而猶立司馬之官,設六軍之眾,因井田而制軍賦。地方一里為井,井十為通,通十為成,成方十里;成十為終,終十為同,同方百里;同十為封,封十為畿,畿方千里。有稅有租。稅以足食,賦以足兵。故四井為邑,四邑為丘。丘,十六井也,有戎馬一匹,牛三頭。四丘為甸。甸,六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人,干戈備具,是謂乘馬之法。一同百里,提封萬井,除山川沈斥,城池邑居,園囿術路,三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫采地之大者也,是謂百乘之家。一封三百一十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此諸侯之大者也,是謂千乘之國。天子畿方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,故稱萬乘之主。戎馬車徒干戈素具,春振旅以搜,夏拔舍以苗,秋治兵以獮,冬大閱以狩,皆於農隙以講事焉。五國為屬,屬有長;十國為連,連有帥;三十國為卒,卒有正;二百一十國為州,州有牧。連帥比年簡車,卒正三年簡徒,群牧五載大簡車徒,此先王為國立武足兵之大略也。

周の道は衰え、法度は廃れた。斉の桓公が管仲を任用するに至り、国は富み民は安んじた。桓公が覇道を行い軍を用いる方法を問うと、管仲は言った。「公が卒伍を定め、甲兵を整えようとしても、大国もまたこれを整えるでしょう。そして小国が防備を固めれば、速やかに志を得ることは難しいでしょう。」そこで内政を作ってその中に軍令を寓した。ゆえに卒伍は里において定まり、軍政は郊において成るのである。什伍を連ね、居処を同じくして楽しみ、死生を同じくして憂い、禍福を共にする。ゆえに夜戦ではその声が互いに聞こえ、昼戦ではその目が互いに見え、緩急の際には互いに死を尽くすのに足る。その教えがすでに成ると、外には夷狄を攘い、内には天子を尊び、諸夏を安んじた。斉の桓公が没すると、晋の文公がこれを受け継ぎ、やはりまずその民を安定させ、被廬の法を作り、諸侯を総帥して、代わる代わる盟主となった。しかしその礼はすでにかなり僭越で差違があり、また時勢に合わせて苟且の合意を求め、速やかな功を求めたので、王制を充実させることはできなかった。二伯(斉桓・晋文)の後は、次第に衰微し、魯の成公が丘甲を作り、哀公が田賦を用いるに至り、搜・狩・治兵・大閱といった事柄はすべてその正しさを失った。春秋はこれを記して譏り、王道を存続させようとした。このようにして師旅はたびたび動員され、百姓は疲弊し、節を守って死難に赴く道義がなくなった。孔子はこれを悲しんで言われた。「教えられていない民を戦わせるのは、これを棄てるというのである。」

原文周道衰,法度颦,至齊桓公任用管仲,而國富民安。公問行伯用師之道,管仲曰:「公欲定卒伍,修甲兵,大國亦將修之,而小國設備,則難以速得志矣。」於是乃作內政而寓軍令焉,故卒伍定虖里,而軍政成虖郊。連其什伍,居處同樂,死生同憂,禍福共之,故夜戰則其聲相聞,晝戰則其目相見,緩急足以相死。其教已成,外攘夷狄,內尊天子,以安諸夏。齊威既沒,晉文接之,亦先定其民,作被廬之法,總帥諸侯,迭為盟主。然其禮已頗僭差,又隨時苟合以求欲速之功,故不能充王制。二伯之後,寖以陵夷,至魯成公作丘甲,哀公用田賦,搜狩治兵大閱之事皆失其正。春秋書而譏之,以存王道。於是師旅亟動,百姓罷敝,無伏節死難之誼。孔子傷焉,曰:「以不教民戰,是謂棄之。」

ゆえに孔子は子路を評して言われた。「由(子路)よ、千乗の国であれば、その賦を治めさせることができるだろう。」そして子路もまた言った。「千乗の国が、大国の間に挟まれており、その上に師旅が加わり、さらに飢饉が続いたとしても、私がこれを治めれば、三年ほどで、民に勇気を持たせ、しかも道理を知らせることができるでしょう。」その賦を治め、兵に礼誼を教えるということを言うのである。

原文故稱子路曰:「由也,千乘之國,可使治其賦也。」而子路亦曰:「千乘之國,攝虖大國之間,加之以師旅,因之以饑饉,由也為之,比及三年,可使有勇,且知方也。」治其賦兵教以禮誼之謂也。

春秋の後、弱い国を滅ぼし小国を併呑し、戦国となり、次第に武を講ずる礼を増やし、これを戯れ楽しみとし、互いに誇示し合った。そして秦は名を角抵と改め、先王の礼は淫楽の中に没した。雄傑の士は時勢に乗じて時を助け、権謀術数をなして互いに傾覆し、呉には孫武、斉には孫臏、魏には呉起、秦には商鞅がおり、皆敵を捕らえ勝利を立て、その篇籍を後世に著した。この時、合従連衡し、転じて互いに攻伐し、代わる代わる雌雄を争った。斉の愍王は技撃をもって強く、魏の恵王は武卒をもって奮い立ち、秦の昭王は鋭士をもって勝った。世は功利を争い、説を馳せる者は孫・呉を宗とした。時にただ孫卿のみが王道に明るく、これを非難して言った。「あの孫・呉は、上に勢利を尚び変詐を貴ぶ。暴乱昏嫚の国に施し、君臣に間隙があり、上下心を離し、政謀良からざるがゆえに、変じて詐ることができるのである。仁人が上にあり、下に仰がれる者は、あたかも子弟が父兄を衛り、手足が頭目を守るがごとく、どうして当たりえようか。隣国が我を見れば、親戚のように喜び、椒蘭のように芳しく、その上を顧みれば、あたかも仇讎を焼くがごとくである。人情としてどうしてその悪むところを為し、その好むところを攻めようとするだろうか。故に桀をもって桀を攻むるは、なお巧拙があるが、桀をもって堯を詐るは、卵を石に投ずるがごとく、どうして幸いがあろうか。《詩経》に『武王は旆を載せ、虔かに鉞を秉り、火の烈烈たるがごとく、すなわち我を敢えて遏ぐものなし』とある。仁誼をもって民を綏撫する者は、天下に敵なしと言うのである。斉の技撃のごときは、一首級を得れば賜金を受ける。事小さく敵脆きには、苟も用いることができるが、事大きく敵堅きには、たちまち離散してしまう。これは亡国の兵である。魏氏の武卒は、三属の甲を衣、十二石の弩を操り、矢五十を負い、戈をその上に置き、冑を冠り剣を帯び、三日の糧を携え、日中に百里を趨る。試験に中ればその戸を復し、その田宅を利する。このようであれば、その地は広くとも、その税は必ず少なく、その気力は数年で衰える。これは危国の兵である。秦人は、その生民を狭く苦しめ、その民を使うに酷烈である。勢をもってこれを脅し、窮乏をもってこれを隠し、賞慶をもってこれに慣れさせ、刑罰をもってこれを導き、その民が上に利を求めるには、戦う以外に道がないようにする。功と賞は相長し、五つの甲首を得れば五家を隷属させる。これは最も数あるところであり、故に四世にわたり天下に勝つことができた。しかし皆賞を求め利に赴く兵であり、凡庸な徒輩が売り買いする道に過ぎず、安んじて制に従い節を重んずる理はない。故に地広く兵強くとも、常に鰓鰓として天下が一つに合して共に己を軋することを恐れている。斉の桓公・晋の文公の兵に至っては、その域に入り節制あると言えようが、なお仁義の統を本としていない。故に斉の技撃は魏の武卒に遇うべからず、魏の武卒は秦の鋭士に当たるべからず、秦の鋭士は桓・文の節制に当たるべからず、桓・文の節制は湯・武の仁義に敵すべからず。」

原文春秋之後,滅弱吞小,並為戰國,稍增講武之禮,以為戲樂,用相夸視。而秦更名角抵,先王之禮沒於淫樂中矣。雄桀之士因勢輔時,作為權詐以相傾覆,吳有孫武,齊有孫臏,魏有吳起,秦有商鞅,皆禽敵立勝,垂著篇籍。當此之時,合從連衡,轉相攻伐,代為雌雄。齊愍以技擊彊,魏惠以武卒奮,秦昭以銳士勝。世方爭於功利,而馳說者以孫、吳為宗。時唯孫卿明於王道,而非之曰:「彼孫、吳者,上勢利而貴變詐;施於暴亂昏嫚之國,君臣有間,上下離心,政謀不良,故可變而詐也。夫仁人在上,為下所卬,猶子弟之衛父兄,若手足之扞頭目,何可當也?鄰國望我,歡若親戚,芬若椒蘭,顧視其上,猶焚灼仇讎。人情豈肯為其所惡而攻其所好哉?故以桀攻桀,猶有巧拙;以桀詐堯,若卵投石,夫何幸之有!《詩》曰:『武王載旆,有虔秉鉞,如火烈烈,則莫我敢遏。』言以仁誼綏民者,無敵於天下也。若齊之技擊,得一首則受賜金。事小敵鲧,則媮可用也;事鉅敵堅,則渙然離矣。是亡國之兵也。魏氏武卒,衣三屬之甲,操十二石之弩,負矢五十丢,置戈其上,冠冑帶劍,贏三日之糧,日中而趨百里,中試則復其戶,利其田宅。如此,則其地雖廣,其稅必寡,其氣力數年而衰。是危國之兵也。秦人,其生民也骥阨,其使民也酷烈。劫之以勢,隱之以阨,狃之以賞慶,道之以刑罰,使其民所以要利於上者,非戰無由也。功賞相長,五甲首而隸五家,是最為有數,故能四世有勝於天下。然皆干賞蹈利之兵,庸徒鬻賣之道耳,未有安制矜節之理也。故雖地廣兵彊,鰓鰓常恐天下之一合而共軋己也。至乎齊桓、晉文之兵,可謂入其域而有節制矣,然猶未本仁義之統也。故齊之技擊不可以遇魏之武卒,魏之武卒不可以直秦之銳士,秦之銳士不可以當桓、文之節制,桓、文之節制不可以敵湯、武之仁義。」

故に言う。「善く師する者は陣せず、善く陣する者は戦わず、善く戦う者は敗れず、善く敗れる者は亡びず。」舜が百僚を修め、咎繇を士とし、「蛮夷は夏を猾え、寇賊姦軌あり」と命じて、刑を用いることなく、いわゆる善く師して陣せざる者である。湯・武が征伐し、師を陳べて衆に誓い、桀・紂を放ち捕らえたのは、いわゆる善く陣して戦わざる者である。斉の桓公が南に強楚を服させ、周室に貢をさせ、北に山戎を伐ち、燕のために道を開き、亡びた国を存え絶えた国を継ぎ、功は伯の首となったのは、いわゆる善く戦って敗れざる者である。楚の昭王が闔廬の禍いに遭い、国滅びて出亡し、父老が送った。王が「父老は帰れ。何ぞ君なきことを患えん」と言うと、父老は「君このように賢し」と言い、互いに従った。ある者は秦に奔走し赴き、号哭して救いを請うと、秦人はこれを憐れんで出兵した。二国並び力め、遂に呉の師を走らせ、昭王は国に返った。いわゆる善く敗れて亡びざる者である。秦が四世の勝に乗じ、河山の険阻に拠り、白起・王翦の豺狼の徒を用い、その爪牙を奮い、六国を禽獣のように狩り、天下を併呑した。武を窮め詐を極め、士民は附かず、卒隷の徒はかえって敵讎となり、風のように起こり雲のように合し、果たして共にこれを軋した。これは下である。およそ兵は、存亡継絶し、乱を救い害を除くためのものである。故に伊尹・呂尚の将は、子孫に国あり、商・周と並ぶ。末世に至り、苟も詐力を任じ、貪残を快くするため、城を争えば人を殺して城に満ち、地を争えば人を殺して野に満つ。孫・呉・商・白の徒は、皆身は前に誅戮され、功は後に滅亡した。報応の勢いは、各々その類に従って至る。その道はそういうものである。

原文故曰:「善師者不陳,善陳者不戰,善戰者不敗,善敗者不亡。」若夫舜修百僚,咎繇作士,命以「蠻夷猾夏,寇賊姦軌」,而刑無所用,所謂善師不陳者也。湯、武征伐,陳師誓眾,而放禽桀、紂,所謂善陳不戰者也。齊桓南服彊楚,使貢周室,北伐山戎,為燕開路,存亡繼絕,功為伯首,所謂善戰不敗者也。楚昭王遭闔廬之禍,國滅出亡,父老送之。王曰:「父老反矣!何患無君?」父老曰:「有君如是其賢也!」相與從之。或奔走赴秦,號哭請救,秦人憐之謂之出兵。二國并力,遂走吳師,昭王返國,所謂善敗不亡者也。若秦因四世之勝,據河山之阻,任用白起、王翦豺狼之徒,奮其爪牙,禽獵六國,以并天下。窮武極詐,士民不附,卒隸之徒,還為敵讎,猋起雲合,果共軋之。斯為下矣。凡兵,所以存亡繼絕,救亂除害也。故伊、呂之將,子孫有國,與商周並。至於末世,苟任詐力,以快貪殘,爭城殺人盈城,爭地殺人滿野。孫、吳、商、白之徒,皆身誅戮於前,而功滅亡於後。報應之勢,各以類至,其道然矣。

漢が興り、高祖は自ら神武の材を行い、寛仁の厚きを行い、英雄を総攬し、秦・項を誅した。蕭何・曹参の文を任じ、張良・陳平の謀を用い、陸賈・酈食其の弁を騁け、叔孫通の儀を明らかにし、文武相配し、大略挙げられた。天下既定まり、秦に踵いて材官を郡国に置き、京師には南北軍の屯があった。武帝に至り百粤を平らげ、内には七校を増し、外には楼船があり、皆歳時に講肄し、武備を修めたという。元帝の時、貢禹の議により、初めて角抵を罷めたが、治兵振旅の事を正しくはしなかった。

原文漢興,高祖躬神武之材,行寬仁之厚,總攬英雄,以誅秦、項。任蕭、曹之文,用良、平之謀,騁陸、酈之辯,明叔孫通之儀,文武相配,大略舉焉。天下既定,踵秦而置材官於郡國,京師有南北軍之屯。至武帝平百粵,內增七校,外有樓船,皆歲時講肄,修武備云。至元帝時,以貢禹議,始罷角抵,而未正治兵振旅之事也。

古人に言う。「天は五材を生じ、民は並び用いる。一つを廃するも不可。誰か兵を去ることができようか。」鞭扑は家に弛むべからず、刑罰は国に廃すべからず、征伐は天下に偃ぐべからず。用いるに本末あり、行うに逆順あるのみ。孔子は言う。「工、その事を善くせんと欲すれば、必ず先ずその器を利くす。」文徳は帝王の利器、威武は文徳の輔助である。文の加うるところ深ければ、則ち武の服するところ大なり。徳の施すところ博ければ、則ち威の制するところ広し。三代の盛んなりし時、刑措け兵寝るに至ったのは、その本末序あり、帝王の極功である。

原文古人有言:「天生五材,民並用之,廢一不可,誰能去兵?」鞭扑不可弛於家,刑罰不可廢於國,征伐不可偃於天下;用之有本末,行之有逆順耳。孔子曰:「工欲善其事,必先利其器。」文德者,帝王之利器;威武者,文德之輔助也。夫文之所加者深,則武之所服者大;德之所施者博,則威之所制者廣。三代之盛,至於刑錯兵寢者,其本末有序,帝王之極功也。

昔、周の法は、三典を建てて邦国を刑し、四方を詰う。一に曰く、新邦を刑するには軽典を用い、二に曰く、平邦を刑するには中典を用い、三に曰く、乱邦を刑するには重典を用いる。五刑は、墨罪五百、劓罪五百、宮罪五百、刖罪五百、殺罪五百。いわゆる平邦を刑するに中典を用いる者である。凡そ人を殺す者は市に踣し、墨者は門を守らせ、劓者は関を守らせ、宮者は内を守らせ、刖者は囿を守らせ、完者は積を守らせる。その奴は、男子は罪隷に入れ、女子は舂槁に入れる。凡そ爵ある者と、七十の者と、未だ齔ならざる者は、皆奴とせず。

原文昔周之法,建三典以刑邦國,詰四方:一曰,刑新邦用輕典;二曰,刑平邦用中典;三曰,刑亂邦用重典。五刑,墨罪五百,劓罪五百,宮罪五百,刖罪五百,殺罪五百,所謂刑平邦用中典者也。凡殺人者踣諸市,墨者使守門,劓者使守關,宮者使守內,刖者使守囿,完者使守積。其奴,男子入于罪隸,女子入舂槁。凡有爵者,與七十者,與未齔者,皆不為奴。

周の道既に衰え、穆王は眊荒し、甫侯に命じて時を度り刑を作り、四方を詰わしめた。墨罰の属千、劓罰の属千、髕罰の属五百、宮罰の属三百、大辟の罰その属二百。五刑の属三千。蓋し平邦の中典五百章より多く、いわゆる乱邦を刑するに重典を用いる者である。

原文周道既衰,穆王眊荒,命甫侯度時作刑,以詰四方。墨罰之屬千,劓罰之屬千,髕罰之屬五百,宮罰之屬三百,大辟之罰其屬二百。五刑之屬三千,蓋多於平邦中典五百章,所謂刑亂邦用重典者也。

春秋の時代、王道は次第に崩れ、教化は行われず、子産が鄭の宰相となって刑書を鋳造した。晋の叔嚮はこれを非難して言った。「昔、先王は事を議して制を定め、刑辟(刑法)を設けなかった。民に争いの心が生じることを恐れたからである。それでもなお禁じ止めることができなかったので、義をもって防ぎ、政をもって正し、礼をもって行わせ、信をもって守らせ、仁をもって奉じさせた。禄位を定めて従うことを勧め、刑罰を厳しく断って淫らな行いを威圧した。それでもまだ不十分であることを恐れ、忠をもって教え諭し、行いをもって優しく導き、務めをもって教え、和をもって使役し、敬をもって臨み、強さをもって統治し、剛毅をもって断じた。それでもなお聖哲の君主、明察の官吏、忠信の長上、慈恵の師を求めた。民はこうしてこそ任用し使役することができ、禍乱を生じないのである。民が刑法があることを知れば、上を畏れなくなり、ともに争いの心を抱き、書物を証拠として争い、僥倖によって事を成そうとするようになり、どうすることもできなくなる。夏に乱政があって禹刑が作られ、商に乱政があって湯刑が作られ、周に乱政があって九刑が作られた。三つの刑法の興起は、いずれも末世のことである。今、あなたが鄭国の宰相となり、三辟(三種の刑法)を定め、刑書を鋳造して、民を安定させようとしているが、それは難しいことではないか!『詩経』に『文王の徳を儀式とし、日に四方を靖む』とあり、また『文王を儀刑すれば、万邦孚を作す』とある。このようにするならば、何の刑法が必要だろうか?民が争いの端緒を知れば、礼を捨てて書物を証拠とするようになる。錐や刀の先ほどの些細なことでも、ことごとく争うようになり、乱れた獄訟はますます増え、賄賂が並行して行われるようになる。あなたの世が終わるまでに、鄭は敗れるであろう!」子産は答えて言った。「あなたのおっしゃる通りです。僑(子産の名)は才能がなく、子孫まで及ぶことはできません。私は世を救うためです。」軽薄な政治は、ここからますます盛んになった。孔子はこれを悲しんで言った。「徳をもって導き、礼をもって整えれば、恥を知り、かつ正しい行いをする。政をもって導き、刑をもって整えれば、民は罰を免れようとするだけで恥を知らない。」「礼楽が興らなければ、刑罰は当を得ない。刑罰が当を得なければ、民は手足を置くところを知らない。」孟氏が陽膚を士師に任じようとしたとき、曾子に問うたが、曾子もまた言った。「上に道を失えば、民は離散して久しい。もしその真情を得たならば、哀れみ憐れんで、喜んではならない。」

原文春秋之時,王道寖壞,教化不行,子產相鄭而鑄刑書。晉叔嚮非之曰:「昔先王議事以制,不為刑辟。懼民之有爭心也,猶不可禁禦,是故閑之以誼,糾之以政,行之以禮,守之以信,奉之以仁;制為祿位以勸其從,嚴斷刑罰以威其淫。懼其未也,故誨之以忠,霭之以行,教之以務,使之以和,臨之以敬,蒞之以彊,斷之以剛。猶求聖哲之上,明察之官,忠信之長,慈惠之師。民於是乎可任使也,而不生禍亂。民知有辟,則不忌於上,並有爭心,以徵於書,而徼幸以成之,弗可為矣。夏有亂政而作禹刑,商有亂政而作湯刑,周有亂政而作九刑。三辟之興,皆叔世也。今吾子相鄭國,制參辟,鑄刑書,將以靖民,不亦難乎!《詩》曰:『儀式刑文王之德,日靖四方。』又曰:『儀刑文王,萬邦作孚。』如是,何辟之有?民知爭端矣,將棄禮而徵於書。錐刀之末,將盡爭之,亂獄滋豐,貨賂並行。終子之世,鄭其敗虖!」子產報曰:「若吾子之言,僑不材,不能及子孫,吾以救世也。」媮薄之政,自是滋矣。孔子傷之,曰:「導之以德,齊之以禮,有恥且格;導之以政,齊之以刑,民免而無恥。」「禮樂不興,則刑罰不中;刑罰不中,則民無所錯手足。」孟氏使陽膚為士師,問於曾子,亦曰:「上失其道,民散久矣。如得其情,則哀矜而勿喜。」

次第に衰えて戦国時代に至ると、韓は申子を任用し、秦は商鞅を用い、連座の法を連ね、三族誅殺の刑罰を作った。肉刑や大辟(死刑)を増やし、鑿顛(頭蓋骨を穿つ)、抽脅(肋骨を抜く)、鑿亨(大釜で煮る)といった刑罰があった。

原文陵夷至於戰國,韓任申子,秦用商鞅,連相坐之法,造參夷之誅;增加肉刑、大辟,有鑿顛、抽脅、鑊亨之刑。

秦始皇に至ると、戦国を併呑し、ついに先王の法を破壊し、礼義の官を滅ぼし、ひたすら刑罰を任用し、自ら文墨を操り、昼は獄訟を裁断し、夜は文書を処理し、自ら仕事の量を定めて事を決裁し、一日に一石の文書を懸けた。しかし奸邪がともに生じ、赭衣(赤い囚人服)が道を塞ぎ、牢獄が市場のようになり、天下は愁怨し、崩れて秦に叛いた。

原文至於秦始皇,兼吞戰國,遂毀先王之法,滅禮誼之官,專任刑罰,躬操文墨,晝斷獄,夜理書,自程決事,日縣石之一。而姦邪並生,赭衣塞路,囹圄成市,天下愁怨,潰而叛之。

漢が興ると、高祖が初めて関中に入ったとき、法三章を約して言った。「人を殺した者は死に、人を傷つけたり盗みを働いた者はその罪に応じて罰する。」煩雑で苛酷な法を削除し、万民は大いに喜んだ。その後、四方の夷がまだ帰服せず、戦争が止まず、三章の法だけでは奸悪を防ぐのに十分でなかった。そこで相国の蕭何が秦の法を拾い集め、その時代に適したものを取り出して、律九章を作った。

原文漢興,高祖初入關,約法三章曰:「殺人者死,傷人及盜抵罪。」蠲削煩苛,兆民大說。其後四夷未附,兵革未息,三章之法不足以禦姦,於是相國蕭何雳摭秦法,取其宜於時者,作律九章。

孝惠帝と高后の時代、百姓はようやく毒害から免れ、人々は長幼を養い老人を敬おうとした。蕭何と曹参が相国となり、無為をもって国を治め、民の欲求に従って、乱すことがなかった。このため衣食は増え殖え、刑罰は用いることが稀になった。

原文當孝惠、高后時,百姓新免毒酿,人欲長幼養老。蕭、曹為相,填以無為,從民之欲,而不擾亂,是以衣食滋殖,刑罰用稀。

孝文帝が即位すると、自ら玄黙(静かで慎み深いこと)を修め、農桑を勧め励まし、租税を減らした。将相はみな昔の功臣で、文飾が少なく質実が多く、悪政で滅んだ秦の政治を戒め、議論は寛厚を旨とし、人の過失を言うことを恥じた。教化は天下に行き渡り、密告の風俗は改まった。官吏はその官職に安んじ、民はその生業を楽しみ、蓄積は年々増え、戸口は次第に増加した。風俗は篤厚で、法網は疏闊であった。張釈之を選んで廷尉とし、罪に疑いのある者は民に与えた。このため刑罰は大いに減り、獄訟を裁断すること四百件に至り、刑罰が用いられない風があった。

原文及孝文即位,躬脩玄默,勸趣農桑,減省租賦。而將相皆舊功臣,少文多質,懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失。化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歲增,戶口寖息。風流篤厚,禁罔疏闊。選張釋之為廷尉,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風。

即位して十三年、斉の太倉令の淳于公が罪を得て刑に当たることとなり、詔獄によって長安に逮捕・拘束された。淳于公には男子がなく、五人の娘がいた。逮捕される時が来て、娘たちを罵って言った。「子を生んでも男子を生まないのは、緊急の際に何の役にも立たない!」末娘の緹縈は自ら悲しみ泣き、ついに父について長安に行き、上書して言った。「私の父は官吏で、斉中では皆その廉潔公平を称えていましたが、今、法に坐して刑に当たることになりました。私は、死んだ者は再び生き返ることができず、刑を受けた者は再び元に戻ることができないことを悲しみます。たとえ後に過ちを改めて自新しようとしても、その道がないのです。私は官婢に没収されることを願い、父の刑罪を贖い、自新の機会を与えていただきたいと思います。」上書が天子に奏上されると、天子はその心意を憐れみ悲しみ、ついに命令を下して言った。「詔して御史に制す。聞くところによれば、有虞氏の時代には、衣冠に絵を描き、章服を異ならせて刑戮とし、民は犯さなかったという。なんと治世の極致であろうか!今、法には肉刑が三つあるが、奸悪が止まない。その過ちはどこにあるのか?それは朕の徳が薄く、教化が明らかでないからではないか!朕は甚だ自ら愧じる。そもそも訓導が純粋でないために愚かな民が陥るのである。『詩経』に『愷悌君子は、民の父母なり』とある。今、人が過ちを犯しても、教えが施されないうちに刑が既に加えられ、あるいは行いを改めて善にしようとしても、その道がない。朕は甚だこれを憐れむ。刑罰が手足を断ち切り、肌膚を刻み、終身止むことがないとは、なんと刑罰の痛ましくて徳のないことか!民の父母と称する意にかなうであろうか?肉刑を廃止し、それに代わるものがあるようにせよ。また罪人にそれぞれ軽重に応じて、逃亡せず、年数を経て赦免されるようにせよ。詳細を令とせよ。」

原文即位十三年,齊太倉令淳于公有罪當刑,詔獄逮繫長安。淳于公無男,有五女,當行會逮,罵其女曰:「生子不生男,緩急非有益也!」其少女緹縈,自傷悲泣,乃隨其父至長安,上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平,今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道亡繇也。妾願沒入為官婢,以贖父刑罪,使得自新。」書奏天子,天子憐悲其意,遂下令曰:「制詔御史:蓋聞有虞氏之時,畫衣冠異章服以為戮,而民弗犯,何治之至也!今法有肉刑三,而姦不止,其咎安在?非乃朕德之薄,而教不明與!吾甚自愧。故夫訓道不純而愚民陷焉。《詩》曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行為善,而道亡繇至,朕甚憐之。夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈稱為民父母之意哉?其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不亡逃,有年而免。具為令。」

丞相の張蒼と御史大夫の馮敬が上奏して言った。「肉刑は奸悪を禁じるためのもので、その由来は久しいものです。陛下が明詔を下され、過ちを犯して刑を受け、終身止むことのない万民を憐れみ、また罪人が行いを改めて善にしようとしてもその道がないことをお思いになるのは、盛徳であり、臣らが及ぶところではありません。臣は謹んで議して律を定めることを請います。諸々の完(髪を切る刑)に当たる者は、完として城旦・舂とせよ。黥(入れ墨)に当たる者は、髡鉗(こんけん、髪を切り鉄輪をはめる)として城旦・舂とせよ。劓に当たる者は、笞(ち、むち打ち)三百とせよ。左足を斬る刑に当たる者は、笞五百とせよ。右足を斬る刑、および人を殺して自首した者、および官吏が賄賂を受け取って法を曲げた罪に坐する者、県官の財物を守っていて即座にこれを盗んだ者、既に判決が下されてさらに笞罪のある者は、皆、棄市(死刑)とせよ。罪人が獄で既に判決を受け、完として城旦・舂となった者は、満三年で鬼薪・白粲とする。鬼薪・白粲一年で、隷臣妾とする。隷臣妾一年で、庶人に免ずる。隷臣妾が満二年で、司寇とする。司寇一年、および作如司寇二年で、皆、庶人に免ずる。逃亡した者および耐(たい、髪を切る刑)以上の罪のある者は、この令を用いない。以前の令で城旦・舂の年刑でありながら禁錮されていない者は、完として城旦・舂の年数に従って赦免する。臣、昧死して請う。」詔して言った。「よろしい。」この後、外見は軽刑の名がありながら、内実は人を殺すものであった。右足を斬る刑はまた死罪に当たった。左足を斬る刑は笞五百、劓刑は笞三百とされたが、多くは死んだ。

原文丞相張蒼、御史大夫馮敬奏言:「肉刑所以禁姦,所由來者久矣。陛下下明詔,憐萬民之一有過被刑者終身不息,及罪人欲改行為善而道亡繇至,於盛德,臣等所不及也。臣謹議請定律曰:諸當完者,完為城旦舂;當黥者,髡鉗為城旦舂;當劓者,笞三百;當斬左止者,笞五百;當斬右止,及殺人先自告,及吏坐受賕枉法,守縣官財物而即盜之,已論命復有笞罪者,皆棄市。罪人獄已決,完為城旦舂,滿三歲為鬼薪白粲。鬼薪白粲一歲,為隸臣妾。隸臣妾一歲,免為庶人。隸臣妾滿二歲,為司寇。司寇一歲,及作如司寇二歲,皆免為庶人。其亡逃及有罪耐以上,不用此令。前令之刑城旦舂歲而非禁錮者,如完為城旦舂歲數以免。臣昧死請。」制曰:「可。」是後,外有輕刑之名,內實殺人。斬右止者又當死。斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。

景帝元年、詔を下して言った。「笞を加えることは重罪と異ならない。幸いに死ななくても、人間として生きられなくなる。律を定めよ。笞五百を三百とし、笞三百を二百とする。」それでもまだ完全ではなかった。中六年に至り、また詔を下して言った。「笞を加える場合、ある者は死に至っても笞がまだ終わらないことがある。朕は甚だこれを憐れむ。笞三百を二百に減じ、笞二百を一百に減ぜよ。」また言った。「笞は、人を教えるためのものである。箠令(ちれい、答打ちの規定)を定めよ。」丞相の劉舍と御史大夫の衛綰が請うて言った。「笞を行う場合、箠は長さ五尺、根本の太さ一寸、竹製で、先端は薄く半寸、すべて節を平らにする。笞を受ける者は臀部を打つ。途中で人を替えてはならず、一つの罪が終わってから人を替える。」これ以後、笞を受ける者は全うすることができたが、しかし酷吏はなおもこれを威嚇に用いた。死刑は既に重く、生刑(死刑以外の刑)はまた軽いので、民は容易に罪を犯した。

原文景帝元年,下詔曰:「加笞與重罪無異,幸而不死,不可為人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」猶尚不全。至中六年,又下詔曰:「加笞者,或至死而笞未畢,朕甚憐之。其減笞三百曰二百,笞二百曰一百。」又曰:「笞者,所以教之也,其定箠令。」丞相劉舍、御史大夫衛綰請:「笞者,箠長五尺,其本大一寸,其竹也,末薄半寸,皆平其節。當笞者笞臀。毋得更人,畢一罪乃更人。」自是笞者得全,然酷吏猶以為威。死刑既重,而生刑又輕,民易犯之。

孝武帝が即位すると、外では四方の異民族を討つ功績を立て、内では耳目の楽しみを盛んにし、徴発は頻繁で、民衆は貧窮し疲弊し、困窮した民は法を犯し、酷吏は厳しく裁断し、悪事は抑えきれなかった。そこで張湯・趙禹らを招き入れ、法令を条文化して定め、見知りながら故意に放置した罪(見知故縦)や監督責任者を罰する法(監臨部主の法)を作り、故意に深刻な罪にした者(深故)の罪を緩め、罪人を不当に釈放した者(縦出)の誅罰を厳しくした。その後、悪賢い者が法を巧みに利用し、互いに事例を引き合いにして比況し、法網は次第に緻密になった。律令は合わせて三百五十九章、大辟(死刑)に関する条項は四百九条、千八百八十二の事例があり、死罪に関する判例集(決事比)は一万三千四百七十二の事例に及んだ。文書は机や書庫に溢れ、法典を扱う者でも全てに目を通すことはできなかった。このため、郡や国で用いる際に解釈が食い違い、同じ罪でも論じ方が異なることがあった。悪辣な官吏はこれに乗じて私利を図り、生かしたい者には生き延びる解釈を付け加え、陥れたい者には死罪の判例を当てはめ、議論する者は皆、冤罪を悲しみ傷んだ。

原文及至孝武即位,外事四夷之功,內盛耳目之好,徵發煩數,百姓貧耗,窮民犯法,酷吏擊斷,姦軌不勝。於是招進張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深故之罪,急縱出之誅。其後姦猾巧法,轉相比況,禁罔寖密。律令凡三百五十九章,大辟四百九條,千八百八十二事,死罪決事比萬三千四百七十二事。文書盈於几閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駮,或罪同而論異。姦吏因緣為市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。

宣帝は民間にいた時からこのような状況を知っており、帝位に即くと、廷史の路温舒が上疏し、秦に十の過失があり、その一つが今も残っている、それは獄を治める官吏であると述べた。その言葉は温舒伝にある。皇帝は深く哀れみ、詔を下して言った。「近頃、官吏が法を用いるのに、巧みな文飾が次第に深刻になっている。これは朕の不徳である。裁判が不当で、有罪の者が悪事を働き、無辜の者が殺戮に遭い、父子が悲しみ恨むのは、朕は甚だ傷むところである。今、廷史を郡に派遣して獄事を審理させるが、任務は軽く俸禄は薄い。廷平を置くこととし、秩禄は六百石、定員は四人とする。公平に務め、朕の意にかなうようにせよ。」そこで于定国を選んで廷尉とし、明察で寛恕な黄霸らを求めて廷平とし、季秋(陰暦九月)の後に疑獄の上奏審議(讞)を行わせた。この時、皇帝は常に宣室に行幸し、斎戒して居住しつつ政事を裁断したので、刑獄は公平であると称された。時に涿郡太守の鄭昌が上疏して言った。「聖王が諫争の臣を置くのは、徳を崇めるためではなく、安逸と放縦が生じるのを防ぐためである。法を立て刑を明らかにするのは、治めようとするためではなく、衰乱が起こるのを救うためである。今、明主が自ら聡明な聴訟に臨まれるので、たとえ廷平を置かなくても、獄事は自ずから正されるでしょう。もし後世のために開くならば、律令を削除・制定するに如くはありません。律令が一旦定まれば、愚かな民も避けるべきところを知り、悪辣な官吏も弄ぶことができなくなります。今、その根本を正さずに、廷平を置いてその末を治めようとするのは、政治が衰え聴訟が怠れば、廷平が権力を招き寄せて乱の首魁となるでしょう。」宣帝はこれを修正するに至らなかった。

原文宣帝自在閭閻而知其若此,及即尊位,廷史路溫舒上疏,言秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。語在溫舒傳。上深愍焉,乃下詔曰:「間者吏用法,巧文寖深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之。今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其為置廷平,秩六百石,員四人。其務平之,以稱朕意。」於是選于定國為廷尉,求明察寬恕黃霸等以為廷平,季秋後請讞。時上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號為平矣。時涿郡太守鄭昌上疏言:「聖王置諫爭之臣者,非以崇德,防逸豫之生也;立法明刑者,非以為治,救衰亂之起也。今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,姦吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末也,政衰聽怠,則廷平將招權而為亂首矣。」宣帝未及修正。

元帝が初めて即位すると、詔を下して言った。「法令というものは、暴を抑え弱きを扶けるためのもので、犯し難く避け易いことを望むものである。今、律令は煩雑で多く、簡約ではなく、法典の条文を扱う者さえも分明にできず、しかも庶民が及ばないところを網にかけようとしている。これが果たして刑罰が適切であるという意味だろうか!律令で削除・軽減できるものを議論し、条書きで上奏せよ。ただ万民の便宜と安寧にあるのみである。」

原文至元帝初立,乃下詔曰:「夫法令者,所以抑暴扶弱,欲其難犯而易避也。今律令煩多而不約,自典文者不能分明,而欲羅元元之不逮,斯豈刑中之意哉!其議律令可蠲除輕減者,條奏,唯在便安萬姓而已。」

成帝の河平年間に至り、再び詔を下して言った。「『甫刑』に『五刑に属するもの三千、大辟の罰に属するもの二百』とある。今、大辟の刑は千有余条、律令は煩雑で多く、百余万言に及び、特殊な申請(奇請)や他の判例による比況(它比)が日増しに増え、明習する者でさえその由来を知らず、これを以て衆庶に理解させようとするのは、難しいことではないか!これで庶民を網にかけ、無辜の者を夭折させ絶滅させるのは、哀れではないか!中二千石・二千石・博士及び律令に明習する者と共に、死刑を減じ、また削除・簡約できるものを議論し、明白に容易に知られるようにし、条書きで上奏せよ。書経に言わないか、『惟れ刑を恤れ(ただ刑罰を慎しめ)』と。よく審査・検討し、必ず古法に準拠せよ。朕は心を尽くして覧るであろう。」担当官庁には仲山父のような明察の才がなく、時に乗じて主上の恩恵を広く宣揚し、明らかな制度を立てて一代の法とすることができず、ただ些細な点を探し求め、毛のように細かい数事を挙げて、詔命を塞ぐだけだった。このため、大きな議論は立たず、遂に今日に至っている。議論する者の中には、法は頻繁に変えるべきでない、これは庸人が道理に通ぜず、治道を疑い塞ぐもので、聖智の者が常に憂えるところである、と言う者もいる。そこで、漢が興って以来、法令が次第に定まり、古に合致し今に便宜なものを略挙する。

原文至成帝河平中,復下詔曰:「甫刑云『五刑之屬三千,大辟之罰其屬二百』,今大辟之刑千有餘條,律令煩多,百有餘萬言,奇請它比,日以益滋,自明習者不知所由,欲以曉喻眾庶,不亦難乎!於以羅元元之民,夭絕亡辜,豈不哀哉!其與中二千石、二千石、博士及明習律令者議減死刑及可蠲除約省者,令較然易知,條奏。書不云乎?『惟刑之恤哉!』其審核之,務準古法,朕將盡心覽焉。」有司無仲山父將明之材,不能因時廣宣主恩,建立明制,為一代之法,而徒鉤摭微細,毛舉數事,以塞詔而已。是以大議不立,遂以至今。議者或曰,法難數變,此庸人不達,疑塞治道,聖智之所常患者也。故略舉漢興以來,法令稍定而合古便今者。

漢が興った初め、たとえ「法三章」の約束があっても、網の目は舟を呑むほどの魚をも漏らすほど粗かったが、しかし大辟(死刑)には、なお三族を誅する法令があった。令に言う。「三族に相当する者は、皆まず黥を施し、劓を施し、左右の足を斬り、笞打ちで殺し、その首を梟し、骨肉を市で醢にする。誹謗や罵詈や詛咒をする者は、さらにまず舌を断つ。」故にこれを具五刑と言った。彭越・韓信の類は皆この誅罰を受けた。高后(呂后)元年に至り、ようやく三族の罪と妖言令を廃止した。孝文皇帝二年、また丞相・太尉・御史に詔して言った。「法は、治めの基準であり、暴を禁じ善人を守るためのものである。今、法を犯した者は既に論じられているのに、無罪の父母・妻子・兄弟を連座させて収監するのは、朕は甚だ取るところではない。議論せよ。」左右丞相の周勃・陳平が上奏して言った。「父母・妻子・兄弟を連座させ収監するのは、その心を苦しめ、法を犯すことを重んじさせるためです。収監の道は、由来久しいものです。臣の愚かな考えでは、従前のままが便宜かと存じます。」文帝は再び言った。「朕が聞くところでは、法が正しければ民は慎み深く、罪が相当であれば民は従う。また、民を治めて善に導くのは、官吏である。既に導くことができない上に、不正な法で民を罪するのは、これは法がかえって民を害し、暴をなす者である。朕はその便宜を見ない。よく計るべきである。」平と勃はそこで言った。「陛下が天下に大いなる恵みを加えられ、有罪の者を収監せず、無罪の者は連座させないのは、甚だ盛んな徳であり、臣ら及びばぬところです。臣ら謹んで詔を奉じ、収律・相坐法を全て廃止いたします。」その後、新垣平が謀反を企てたため、再び三族を誅する刑が行われた。このことから言えば、風俗が移り変わり、人性は近いが習いが遠くなるというのは、誠にその通りである。孝文皇帝のような仁、平や勃のような知恵を持ってさえ、このように甚だしい過酷な刑罰や誤った論議があったのである。ましてや、凡庸な才能の者が末流に溺れる場合はなおさらであろうか。

原文漢興之初,雖有約法三章,網漏吞舟之魚,然其大辟,尚有夷三族之令。令曰:「當三族者,皆先黥,劓,斬左右止,笞殺之,梟其首,菹其骨肉於市。其誹謗詈詛者,又先斷舌。」故謂之具五刑。彭越、韓信之屬皆受此誅。至高后元年,乃除三族罪、祅言令。孝文二年,又詔丞相、太尉、御史:「法者,治之正,所以禁暴而衛善人也。今犯法者已論,而使無罪之父母妻子同產坐之及收,朕甚弗取。其議。」左右丞相周勃、陳平奏言:「父母妻子同產相坐及收,所以累其心,使重犯法也。收之之道,所由來久矣。臣之愚計,以為如其故便。」文帝復曰:「朕聞之,法正則民愨,罪當則民從。且夫牧民而道之以善者,吏也;既不能道,又以不正之法罪之,是法反害於民,為暴者也。朕未見其便,宜孰計之。」平、勃乃曰:「陛下幸加大惠於天下,使有罪不收,無罪不相坐,甚盛德,臣等所不及也。臣等謹奉詔,盡除收律、相坐法。」其後,新垣平謀為逆,復行三族之誅。由是言之,風俗移易,人性相近而習相遠,信矣。夫以孝文之仁,平、勃之知,猶有過刑謬論如此甚也,而況庸材溺於末流者乎?

周官には五聴・八議・三刺・三宥・三赦の法がある。五聴:第一は辞聴(ことばを聴く)、第二は色聴(顔色を観る)、第三は気聴(息づかいを観る)、第四は耳聴(聞く態度を観る)、第五は目聴(目の動きを観る)。八議:第一は議親(親族を議する)、第二は議故(故旧を議する)、第三は議賢(賢者を議する)、第四は議能(能ある者を議する)、第五は議功(功労者を議する)、第六は議貴(貴人を議する)、第七は議勤(勤労者を議する)、第八は議賓(賓客を議する)。三刺:第一は群臣に訊く、第二は群吏に訊く、第三は万民に訊く。三宥:第一は知らなかったこと(弗識)、第二は過失、第三は忘れていたこと(遺忘)。三赦:第一は幼弱、第二は老眊(老いて目が朦朧)、第三は憃愚(愚か)。凡そ囚人について、「上罪は梏(手枷)と拲(両手を拘束する械)と桎(足枷)を付け、中罪は梏と桎を付け、下罪は梏のみを付ける。王の同族は拲のみ、爵位ある者は桎のみを付けて、判決が下るのを待つ。」高皇帝七年、御史に制詔した。「獄事で疑わしいものについては、官吏は敢えて決断せず、有罪の者は長く論ぜられず、無罪の者は長く拘束されたまま決断されない。今より以後、県や道の官の獄事で疑わしいものは、それぞれ所属する二千石官に讞(疑獄の上奏審議)し、二千石官はその罪名に相当する判決を報じよ。決することができないものは、全て廷尉に移し、廷尉もまた判決を報じよ。廷尉でも決することができないものは、謹んで詳細を奏上し、相当する律令の比況を付して聞かせよ。」上(皇帝)の恩恵はこのようであったが、官吏はなおも奉宣することができなかった。故に孝景皇帝中五年に再び詔を下して言った。「諸々の獄事で疑わしいものは、たとえ条文上は法に合致していても人心が服さないものは、直ちに讞せよ。」その後、獄吏はまた微細な条文を避け、自分たちの愚かな心のままに事を行った。後元年に至り、また詔を下して言った。「獄事は、重い事柄である。人には愚かさと賢さがあり、官には上と下がある。獄事で疑わしいものは讞すが、讞するよう命じられた者が既に讞を報じて後に不当であった場合でも、讞した者は過失とはしない。」この後より以後、獄事と刑罰は益々詳密になり、五聴・三宥の趣旨に近づいた。三年に再び詔を下して言った。「高年で老いた長者は、人が尊敬するものである。鰥寡(男やもめと女やもめ)で連座に及ばない者は、人が哀れみ憐れむものである。令に明記せよ。八十歳以上、八歳以下、及び孕みて未だ乳(出産)せざる者、師(楽師)・朱儒(侏儒)で鞠(審問)・繫(拘束)されるべき者は、頌繫(拘束するも械を付けない)とせよ。」孝宣皇帝の元康四年に至り、また詔を下して言った。

原文周官有五聽、八議、三刺、三宥、三赦之法。五聽:一曰辭聽,二曰色聽,三曰氣聽,四曰耳聽,五曰目聽。八議:一曰議親,二曰議故,三曰議賢,四曰議能,五曰議功,六曰議貴,七曰議勤,八曰議賓。三刺:一曰訊群臣,二曰訊群吏,三曰訊萬民。三宥:一曰弗識,二曰過失,三曰遺忘。三赦:一曰幼弱,二曰老眊,三曰憃愚。凡囚,「上罪梏拲而桎,中罪梏桎,下罪梏;王之同族拲,有爵者桎,以待弊。」高皇帝七年,制詔御史:「獄之疑者,吏或不敢決,有罪者久而不論,無罪者久繫不決。自今以來,縣道官獄疑者,各讞所屬二千石官,二千石官以其罪名當報之。所不能決者,皆移廷尉,廷尉亦當報之。廷尉所不能決,謹具為奏,傅所當比律令以聞。」上恩如此,吏猶不能奉宣。故孝景中五年復下詔曰:「諸獄疑,雖文致於法而於人心不厭者,輒讞之。」其後獄吏復避微文,遂其愚心。至後元年,又下詔曰:「獄,重事也。人有愚智,官有上下。獄疑者讞,有令讞者已報讞而後不當,讞者不為失。」自此之後,獄刑益詳,近於五聽三宥之意。三年復下詔曰:「高年老長,人所尊敬也;鰥寡不屬逮者,人所哀憐也。其著令:年八十以上,八歲以下,及孕者未乳,師、朱儒當鞠繫者,頌繫之。」至孝宣元康四年,又下詔曰:「

私は年老いた人々のことを思うに、彼らは髪や歯が抜け落ち、血気もすでに衰えており、暴虐で逆らう心もない。今、ある者は法令の網にかかり、牢獄に捕らえられ、天寿を全うすることができない。私はこれを大いに哀れむ。今後より、八十歳以上の者は、誣告や殺傷人を除き、その他の罪はすべて問わないこととする。」成帝の鴻嘉元年に至り、令を定めて「七歳に満たない者が、賊闘で人を殺し、あるいは殊死の罪を犯した場合は、廷尉に上請して奏聞し、死刑を減ずることができる」とした。これは三赦の幼弱・老眊の人々に関する規定に合致する。これらはすべて法令が次第に定まり、古代に近づいて民に便益をもたらすものである。

原文朕念夫耆老之人,髮齒墮落,血氣既衰,亦無暴逆之心,今或羅于文法,執于囹圄,不得終其年命,朕甚憐之。自今以來,諸年八十非誣告殺傷人,它皆勿坐。」至成帝鴻嘉元年,定令:「年未滿七歲,賊鬥殺人及犯殊死者,上請廷尉以聞,得減死。」合於三赦幼弱老眊之人。此皆法令稍定,近古而便民者也。

孔子は言われた。「もし王者が現れるならば、必ず三十年後に仁政が行き渡る。善人が国を治めて百年経てば、残虐を克服し殺伐を除去することができる。」これは、聖王が衰乱を承けて立ち上がり、民に徳教を施し、変革して教化すれば、必ず三十年後に仁道が成就するということである。善人に至っては、奥義にまでは至らないが、それでも百年経てば残虐を克服し殺伐を除去できる。これが国を治める者の規範である。今、漢の道は極めて盛んであり、歴世二百余年を経ている。昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の六世の間を考察すると、断獄による殊死の罪は、おおよそ年に千余人に一人の割合であり、耐罪以上から右趾の刑に至るまでは、その三倍以上である。古人の言葉に「満堂で酒を飲むとき、一人が隅に向かって悲しみ泣けば、一堂の者すべてがそれで楽しめなくなる」とある。王者が天下に対して抱く思いは、ちょうど一堂の上にいるようなものである。だから、一人でも公平を得られない者がいれば、心を悩まし悲しむのである。今、郡国で刑に処せられて死ぬ者は、年に数万の数に上り、天下の獄は二千余りある。その冤死者は互いに重なり合うほど多く、獄は一人も減らず、これが天地の和気がまだ行き渡らない所以である。

原文孔子曰:「如有王者,必世而後仁;善人為國百年,可以勝殘去殺矣。」言聖王承衰撥亂而起,被民以德教,變而化之,必世然後仁道成焉;至於善人,不入於室,然猶百年勝殘去殺矣。此為國者之程式也。今漢道至盛,歷世二百餘載,考自昭、宣、元、成、哀、平六世之間,斷獄殊死,率歲千餘口而一人,耐罪上至右止,三倍有餘。古人有言:「滿堂而飲酒,有一人鄉隅而悲泣,則一堂皆為之不樂。」王者之於天下,譬猶一堂之上也,故一人不得其平,為之悽愴於心。今郡國被刑而死者歲以萬數,天下獄二千餘所,其冤死者多少相覆,獄不減一人,此和氣所以未洽者也。

獄刑がこのように繁茂する原因を推究すれば、礼教が確立せず、刑法が明らかでなく、民は多く貧窮し、豪傑は私利を求め、奸悪をただちに捕らえることができず、獄訟が公平でないことによるのである。『書経』に「伯夷が法典を降し、民を導くのは刑による」とある。礼を制定して刑を止めるのは、ちょうど堤防が水の溢れるのを防ぐようなものだと言っている。今、堤防は崩れ、礼制は未だ確立していない。死刑は制度を超え、生刑は容易に犯される。飢えと寒さが共に至り、窮すれば濫れ溢れる。豪傑が私利を擅にし、その嚢橐となり、奸悪が隠れるところがあれば、慣れて次第に広がる。これが刑が繁茂する所以である。孔子は言われた。「古く法を知る者は刑を省くことができた。これが根本である。今、法を知る者は有罪を見逃さない。これは末節である。」また言われた。「今、獄を聴く者は、どうやって殺すかを求める。古く獄を聴く者は、どうやって生かすかを求めた。」罪のない者を殺すよりは、むしろ有罪者を見逃せ。今の獄吏は、上下が互いに駆り立て、厳格さを以て明察とし、深刻な者が功名を獲得し、公平な者は多く後患を抱える。諺に「棺を売る者は年の疫病を望む」とある。人を憎んで殺したいのではなく、人が死ぬことに利益があるからだ。今、獄を治める吏が人を陥れようとするのも、これと同じである。凡そこの五つの弊害が、獄刑が特に多い所以である。

原文原獄刑所以蕃若此者,禮教不立,刑法不明,民多貧窮,豪桀務私,姦不輒得,獄豻不平之所致也。《書》云「伯夷降典,悊民惟刑」,言制禮以止刑,猶隄之防溢水也。今隄防凌遲,禮制未立;死刑過制,生刑易犯;饑寒並至,窮斯濫溢;豪桀擅私,為之囊橐,姦有所隱,則狃而寖廣:此刑之所以蕃也。孔子曰:「古之知法者能省刑,本也;今之知法者不失有罪,末矣。」又曰:「今之聽獄者,求所以殺之;古之聽獄者,求所以生之。」與其殺不辜,寧失有罪。今之獄吏,上下相驅,以刻為明,深者獲功名,平者多後患。諺曰:「鬻棺者欲歲之疫。」非憎人欲殺之,利在於人死也。今治獄吏欲陷害人,亦猶此矣。凡此五疾,獄刑所以尤多者也。

建武・永平の時代以来、民もまた新たに兵革の禍を免れ、人々に楽しく生きようとする考えがあり、高祖・恵帝の時代と同じであった。そして政治は強きを抑え弱きを扶けることにあり、朝廷には威福を擅にする臣はおらず、邑には豪傑の侠客はいなかった。人口率で計算すると、断獄は成帝・哀帝の間よりも十の八だけ少なく、清いと言えよう。しかしながら、まだ意に称し古代と比べて隆盛とは言えないのは、その弊害が尽く除かれておらず、刑の根本が正しくないからである。

原文自建武、永平,民亦新免兵革之禍,人有樂生之慮,與高、惠之間同,而政在抑彊扶弱,朝無威福之臣,邑無豪桀之俠。以口率計,斷獄少於成、哀之間什八,可謂清矣。然而未能稱意比隆於古者,以其疾未盡除,而刑本不正。

善いかな、荀卿(孫卿)の刑についての論は。彼は言う。「世俗の説をなす者は、治世の古代には肉刑がなく、象刑として墨や黥の類いがあり、草鞋や赭色の衣で縁取りのないものだったと考えているが、それは正しくない。もし治世の古代だとすれば、人は罪に触れることがないはずであり、どうして肉刑だけがないだけでなく、象刑すら必要としないはずだ。もし人が罪に触れるとすれば、ただその刑を軽くするのは、人を殺す者は死なず、人を傷つける者は刑に処せられないことになる。罪は極めて重いのに刑は極めて軽く、民は畏れるところがなく、これほど大きな乱はない。凡そ刑を制定する根本は、暴悪を禁じ、かつその末流を懲らしめるためである。

原文善乎!孫卿之論刑也,曰:「世俗之為說者,以為治古者無肉刑,有象刑墨黥之屬,菲履赭衣而不純,是不然矣。以為治古,則人莫觸罪邪,豈獨無肉刑哉,亦不待象刑矣。以為人或觸罪矣,而直輕其刑,是殺人者不死,而傷人者不刑也。罪至重而刑至輕,民無所畏,亂莫大焉。凡制刑之本,將以禁暴惡,且懲其

人を殺す者が死なず、人を傷つける者が刑に処せられないのは、暴を恵み悪を寛大にすることである。だから象刑は治世の古代に生まれたのではなく、まさに乱れた今の世に起こったのである。凡そ爵位や官職、賞慶や刑罰は、すべて類をもって相従うものである。一つの物事が相応しくなければ、乱の端緒である。徳が位に称せず、能が官に称せず、賞が功に当たらず、刑が罪に当たらないのは、これほど不祥なことはない。暴を征伐し悖逆を誅することは、政治の威厳である。人を殺す者は死に、人を傷つける者は刑に処せられる。これは百王に共通するところであり、その由来を知る者はない。だから治世であれば刑は重く、乱世であれば刑は軽い。治世に犯す罪は当然重く、乱世に犯す罪は当然軽いのである。『書経』に『刑罰は世によって重く、世によって軽い』とある。これがその謂いである。」いわゆる「象刑惟明」とは、天道に象って刑を作ったということであって、どうして草鞋や赭色の衣などがあるだろうか。

原文末也。殺人者不死,傷人者不刑,是惠暴而寬惡也。故象刑非生治古,方起於亂今也。凡爵列官職,賞慶刑罰,皆以類相從者也。一物失稱,亂之端也。德不稱位,能不稱官,賞不當功,刑不當罪,不祥莫大矣焉。夫征暴誅悖,治之威也。殺人者死,傷人者刑,是百王之所同也,未有知其所由來者也。故治則刑重,亂則刑輕,犯治之罪固重,犯亂之罪固輕也。《書》云『刑罰世重世輕』,此之謂也。」所謂「象刑惟明」者,言象天道而作刑,安有菲屨赭衣者哉?

荀卿の言葉がこの通りであるなら、さらに俗説によって論じて言う。禹は堯舜の後に承け、自ら徳が衰えたとして肉刑を制定し、湯や武がそれに順って行ったのは、俗が唐虞の時代より薄くなったからである。今、漢は衰えた周と暴虐な秦の極めて弊害のある流れを承け、俗はすでに三代より薄くなっているのに、堯舜の刑を行おうとするのは、ちょうど手綱で悍馬を御しようとするようなもので、時を救うのに適した方策に背いている。かつ肉刑を除いたのは、本来民を全うさせようとしたのであるが、今、髡鉗の一等を除いて、転じて大辟に入れる。死をもって民を網にかけるのは、本来の恵みを失っている。だから死者は年に数万の数に上り、刑が重いことによるのである。穿窬の盗みに至り、忿怒して人を傷つけ、男女が淫佚し、吏が奸臧を行うなど、このような悪に対しては、髡鉗の罰ではまた懲らしめるのに十分ではない。だから刑に処せられる者は年に十万の数に上り、民はすでに畏れず、またかつて恥じることもない。これは刑が軽いことから生じるのである。だから俗に能吏と呼ばれる者は、公然と盗賊を殺すことを以て威とし、専殺する者が勝任し、法を奉ずる者は治まらず、名を乱し制を傷つけ、数え切れないほどである。このように網は密であるが奸は塞がれず、刑は繁茂するが民はますます怠慢になる。必ず三十年経っても仁に至らず、百年経っても残虐を克服できないのは、誠に礼楽が欠け刑が正しくないからである。どうしてただ清原正本の論を思うだけであろうか。律令を刪定し、二百章を撰び、大辟に応じるべきである。その他の罪の等級で、古くは生かすべきであったが、今は死に触れるものは、すべて肉刑を行うよう募ることができる。また人を傷つける者と盗人、吏が賄賂を受け法を枉げる者、男女の淫乱は、すべて古い刑に復し、三千章とする。誹謗や欺瞞、文致や微細な法は、すべて除去する。このようにすれば、刑は畏れられ禁は容易に避けられ、吏は専殺せず、法に二つの門はなく、軽重は罪に当たり、民命は全うされ、刑罰の中庸に合致し、天人の和を豊かにし、古制を考察して順い、時世の和やかな教化を成し遂げるであろう。成康の刑錯は、まだ至ることはできないかもしれないが、孝文の断獄にはほぼ及ぶであろう。『詩経』に「民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く」とある。『書経』に「功を立て事を立て、以て永年すべし」とある。政治を行って民に宜しい者は、功が成り事が立てば、天の禄を受け永年の命を保つと言っている。いわゆる「一人慶有れば、万民之に頼る」ということである。

原文孫卿之言既然,又因俗說而論之曰:禹承堯舜之後,自以德衰而制肉刑,湯武順而行之者,以俗薄於唐虞故也。今漢承衰周暴秦極敝之流,俗已薄於三代,而行堯舜之刑,是猶以鞿而御駻突,違救時之宜矣。且除肉刑者,本欲以全民也,今去髡鉗一等,轉而入於大辟。以死罔民,失本惠矣。故死者歲以萬數,刑重之所致也。至乎穿窬之盜,忿怒傷人,男女淫佚,吏為姦臧,若此之惡,髡鉗之罰又不足以懲也。故刑者歲十萬數,民既不畏,又曾不恥,刑輕之所生也。故俗之能吏,公以殺盜為威,專殺者勝任,奉法者不治,亂名傷制,不可勝條。是以罔密而姦不塞,刑蕃而民愈嫚。必世而未仁,百年而不勝殘,誠以禮樂闕而刑不正也。豈宜惟思所以清原正本之論,刪定律令,篹二百章,以應大辟。其餘罪次,於古當生,今觸死者,皆可募行肉刑。及傷人與盜,吏受賕枉法,男女淫亂,皆復古刑,為三千章。詆欺文致微細之法,悉蠲除。如此,則刑可畏而禁易避,吏不專殺,法無二門,輕重當罪,民命得全,合刑罰之中,殷天人之和,順稽古之制,成時雍之化。成康刑錯,雖未可致,孝文斷獄,庶幾可及。《詩》云「宜民宜人,受祿于天」。《書》曰「立功立事,可以永年」。言為政而宜於民者,功成事立,則受天祿而永年命,所謂「一人有慶,萬民賴之」者也。