古来より天命を受け中興を成した君主は、必ず滅びた国を興し絶えた家系を継ぎ、廃れた礼を修め隠れた賢人を挙用し、その後天下が仁に帰し四方の政が行われる。伝えによれば武王が殷を滅ぼした時、賢聖を追慕して存続させ、車を降りる暇もなかったという。世代は異なるが道理は同じである。高祖は乱を治め暴を誅し、諸事草創で日も暇なく、それでも六国の祭祀を修め四皓を招聘し、魏を通れば無忌の墓を寵し、趙に至れば楽毅の後裔を封じた。賞を行い位を授ける時は、爵は功績の前後により、官は能力の順序による。後継者は自らを慎み業を遵奉し、旧臣は続いて位に居た。孝武帝の時には、元勲宿将はほぼ尽きた。時に帝も文学を興し、幽隠を進抜し、公孫弘が海辺から宰相に登り、列侯の爵で寵遇された。また前代を諮り耆老に問い、初めて周の後裔を得て爵邑を加えた。これ以降、宰相は皆侯となった。元帝・成帝の間、遅れて殷の世系を得て賓位を備えた。
漢が興ると、外戚が天下平定に与り、侯となった者は二人。故に誓って「劉氏でなければ王とせず、もし功なく上に置かれずして侯となる者は、天下共にこれを誅す」と言った。これにより高后が諸呂を王としようとすると、王陵が朝廷で争い、孝景帝が王氏を侯としようとすると、脩侯が顔色を犯した。結局廃黜された。その後薄昭・竇嬰・上官・衛・霍の侯は、功により爵を受けた。その他の后父は春秋の襃紀の義に拠り、帝舅は大雅の申伯の意に縁り、次第に広博となった。よって別にこれを叙する。
| 號諡姓名 | 侯狀戸數 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 臨泗侯呂公 | 漢王の后の父として號を賜る。 | 元年に封じられ、四年に薨じ、髙后元年に追尊して呂宣王と曰う。 | ||||
| 周呂令武侯澤 | 客として漢に入り、三秦を定め、兵を将いて碭を下し、漢王が彭城に敗れた時、これに従い、天下平定を補佐す。 | 六年正月丙戌に封じられ、三年に薨ず。 | 侯台が嗣ぎ、髙祖九年に更めて鄜侯に封ぜられ、四年、髙后元年に呂王となり、二年に薨じ、諡して肅と曰い、令武を追尊して悼武王とす。 | 腄三年、王嘉が嗣ぎ、驕りにより廃される。侯通、嘉の弟、六年四月丁酉に封じられ、八年に燕王となり、九月に反し、誅せらる。 | ||
| 東平侯庀、通の弟、八年五月丙辰に封じられ、九月に反し、誅せらる。〈師古曰:「腄は之瑞反に音す。庀は匹履反に音す。」〉 | ||||||
| 汶侯産、台の弟、髙后元年四月辛卯に封じられ、六年に呂王となり、七年に梁王となり、八年に反し、誅せらる。〈師古曰:「汶は問に音す。」〉 | ||||||
| 建成康侯釋之 | 客として秦を撃つに従う。漢王が漢に入り、釋之をして豊に帰り太上皇を衛わしむ。 | 六年四月丙戌に封じられ、九年に薨ず。 | 孝惠二年、侯則が嗣ぎ、七年に罪有り、免ぜらる。則の弟種、髙后元年四月乙酉に封じられ、呂宣王国を奉じ、七年に更めて不其侯となり、八年に反し、誅せらる。 | |||
| 漢陽侯祿、種の弟、髙后元年九月丙寅に封じられ、八年に趙王となり、康侯を追尊して趙昭王と曰い、九月に反し、誅せらる。 |
右髙祖三人。
| 號諡姓名 | 侯狀戸數 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 扶柳侯呂平 | 皇太后の姉長姁の子として侯に封じられる。〈師古曰:「平は呂氏の生んだ子であるから、呂姓を名乗るべきではないが、史家が母方の一族だけを記録したためであろう。姁は況于反と読む。また況羽反とも読む。」〉 | 元年四月丙寅に封じられ、八年後に反乱を起こし、誅殺された。 | ||||
| 襄城侯義 | 孝恵帝の子として侯に封じられる。 | 四月辛卯に封じられ、三年後に常山王となった。 | ||||
| 軹侯朝 | 孝恵帝の子として侯に封じられる。 | 四月辛卯に封じられ、四年後に常山王となった。 | ||||
| 壺関侯武 | 孝恵帝の子として侯に封じられる。 | 四月辛卯に封じられ、六年後に淮陽王となった。 | ||||
| 昌平侯大 | 孝恵帝の子として侯に封じられる。 | 二月癸未に封じられ、七年後に呂王となった。 | ||||
| 贅其侯呂勝 | 皇太后の昆弟子で淮陽丞相として侯に封じられる。 | 四月丙申に封じられ、八年後に反乱を起こし、誅殺された。 | ||||
| 滕侯呂更始 | 舍人郎中を十二年務め、都尉として霸上に駐屯し、楚丞相として侯に封じられる。 | 四月丙申に封じられ、八年後に反乱を起こし、誅殺された。 | ||||
| 呂成侯呂忿 | 皇太后の昆弟子として侯に封じられる。 | 四月丙申に封じられ、八年後に反乱を起こし、誅殺された。 | ||||
| 祝茲侯呂瑩〈師古曰:「瑩は滎と読む。また烏瞑反とも読む。」〉 | 皇太后の昆弟子として侯に封じられる。 | 八年四月丁酉に封じられ、九月後に反乱を起こし、誅殺された。 | ||||
| 建陵侯張釋寺人 | 大謁者として諸呂侯を勧めた功績により封じられる。 | 4月丁酉に封じられ、9月に免官。 |
右は高后十人。五人父に随い、合わせて十五人。
| 号・諡・姓名 | 侯の状況・戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 軹侯薄昭 | 高祖7年に郎となり、17年間従軍し、中大夫として代から帝を迎え、車騎将軍として皇太后を迎えた功績により、1万戸の侯に封じられる。 | 元年正月乙巳に封じられ、10年目に使者を殺害した罪で自殺。帝が臨席し、後継者を定めた。 | 11年目に易侯戎奴が継承し、30年で死去。 | 建元2年に侯梁が継承。 | ||
| 鄔侯駟鈞〈師古曰:「鄔は一戸反と読み、また於度反とも読む。」〉 | 斉王の舅として侯に封じられる。 | 4月辛未に封じられ、6年目に済北王興居の挙兵反乱を救援しなかった罪で免官。 | ||||
| 周陽侯趙兼 | 淮南王の舅として侯に封じられる。 | 4月辛未に封じられ、6年目に罪により免官。 |
右孝文三人。
| 号・諡・姓名 | 侯の状況・戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 章武景侯竇広国 | 皇太后の弟として侯に封じられ、1万1千戸。 | 孝文後7年6月乙卯に封じられ、7年で死去。 | 孝景帝七年、共侯定が継承し、十八年で死去。 | 元光三年、侯常生が継承し、十年後、元狩元年、人殺しを謀ったが未遂で、免官。 | ||
| 南皮侯竇彭祖 | 皇太后の兄の子として侯に封じられる。 | 六月乙卯に封じられ、二十一年で死去。 | 建元六年、夷侯良が継承し、五年で死去。 | 元光五年、侯桑林が継承し、十八年後、元鼎五年、酎金の罪で免官。 | ||
| 魏其侯竇嬰 | 将軍として滎陽に駐屯し、呉楚七国の乱を防いだ功で侯に封じられる。皇太后の従兄弟の子。 | 三年六月乙巳に封じられ、二十三年後、元光四年、罪により棄市(公開処刑)。 | ||||
| 蓋靖侯王信 | 皇后の兄として侯に封じられる。 | 中五年五月甲戌に封じられ、二十五年で死去。 | 元光三年、頃侯充が継承。 | 侯受が継承し、元鼎五年、酎金の罪で免官。 |
右孝景四人。
| 号諡姓名 | 侯の状況と戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 武安侯田蚡 | 皇太后の同母弟として侯に封じられる。 | 孝景帝後三年三月に封じられ、十年で死去。 | 元光四年、侯恬が継承し、五年後、元朔三年、襜褕(簡易な衣)を着て宮中に入り、不敬の罪で免官。 | |||
| 周陽懿侯田勝 | 皇太后の同母弟として侯に封じられる。 | 三月に封じられ、十二年で死去。 | 元光六年、侯祖が継承し、八年後、元狩三年、軹侯の邸宅を返還せず、免官。 | |||
| 長平烈侯衛青 | 将軍として匈奴を撃ち朔方を取って侯となり、後に右賢王を破り、封邑を増やし、さらに三人の子を封じた。皇后の弟。 | 元朔二年二月丙辰に封じられ、二十三年で薨去。 | 宜春侯伉、五年四月丁未に衛青の功績により封じられ、元鼎元年に詔書を偽造したが害はなく免職、太初元年に侯を継ぎ、五年に宮中に無断で入り、城旦(土木労働刑)に処せられた。 | |||
| 陰安侯不疑、四月丁未に衛青の功績により封じられ、十二年、元鼎五年、酎金(祭祀用の金)の罪で免職。 | ||||||
| 発干侯登、四月丁未に衛青の功績により封じられ、酎金の罪で免職。 | 元康四年、詔書により衛青の孫に銭五十万を賜い、家を復興させた。 | 永始元年、衛青の曾孫玄が長安公乗として侍郎となった。 | 元始四年、衛青の玄孫賞に関内侯の爵位を賜った。 | |||
| 平津献侯公孫弘 | 丞相として詔書により褒賞され侯となり、三百七十三戸。 | 元朔三年十一月乙丑に封じられ、六年で薨去。 | 元狩三年、侯度が継ぎ、十三年、元封四年、山陽太守として詔書で鉅野令史成を召喚せず、城旦に処せられた。 | 高城 | ||
| 冠軍景桓侯霍去病 | 校尉として匈奴を撃って侯となり、後に将軍として祈連を破り昆邪王を迎え、封邑を増やした。皇后の姉の子。 | 六年四月壬申に封じられ、七年で薨去。 | 南陽 元鼎元年、哀侯嬗が継ぎ、七年で薨去、後継ぎなし。〈師古曰:「嬗音上戦反。」〉 | 楽平侯山、地節二年四月癸巳に従祖祖父の大将軍霍光の功績により封じられ、三千戸、四年、謀反の罪で誅殺された。 | 東郡 | |
| 冠陽侯雲、山の弟、三年四月戊申に大将軍霍光の功績により封じられ、千八百戸、四年、謀反の罪で誅殺された。 | 南陽 | |||||
| 周子南君姬嘉 | 周の後裔として詔書により褒賞され侯となり、三千戸。 | 元鼎四年十一月丁卯に封じられ、六年で薨去。 | 元封四年、君置が継ぎ、二十四年で薨去。 | 始元四年、君當が継ぎ、十六年、地節三年、奴に家丞を殺させた罪で棄市(公開処刑)に処せられた。 | 長社 | |
| 元康元年三月丙戌、君延年が當の弟として封じられ、初元五年正月癸巳、周承休侯に改封され、諸侯王の次位、二十九年で薨去、諡は考。 | 建昭三年、質侯安が継ぎ、四年で薨去。 | 陽朔二年、釐侯世が継承、八年で死去。 | ||||
| 六世永始二年、侯當が継承、七年後、綏和元年に公に昇爵、領地百里に満ち、元始四年に鄭公となり、王莽が帝位を簒奪すると章牟公となる。 | 七世天鳳元年、公常が継承、建武二年五月戊辰に周承休侯に改称。 | 八世五年、侯武が継承、十三年後に衞公に改称。 | 観 | |||
| 楽通侯欒大 | 方術により詔で褒賞され侯に封じられる、三千戸。 | 四年四月乙巳に封じられ、五年後、上を欺く罪で腰斬に処される。 | 髙平 | |||
| 牧丘恬侯石慶 | 丞相および父の万石積行により侯に封じられる。 | 五年九月丁丑に封じられ、十年で死去。 | 太初三年、侯德が継承、二年後、天漢元年、太常として法を失い上を欺き、祭祀が命令通りでない罪で城旦(刑罰)に処される。 | 平原 | ||
| 富民定侯車千秋 | 丞相として侯に封じられ、八百戸、遺詔により加封され、合計千六百戸。 | 征和四年六月丁巳に封じられ、十二年で死去。 | 元鳳四年、侯順が継承、六年後、本始三年、虎牙将軍として匈奴を撃つ際に捕虜・戦利品を詐称増加させた罪で自殺。 | 蘄 |
右は孝武帝九人。三人父に随い、合わせて十二人。
| 号諡姓名 | 侯の状況・戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 博陸宣成侯霍光 | 奉車都尉として反乱者莽何羅を捕らえ侯に封じられ、二千三百五十戸、後に大将軍として加封され、一万七千二百戸。 | 始元二年正月壬寅に封じられ、十七年で死去。 | 地節二年四月癸卯、侯禹が継承、四年後、謀反の罪で腰斬に処される。 | 元始2年4月乙酉日、侯陽は光の従父昆弟の曾孫である龍勒士伍紹を封じ、三千戸を領した。王莽が帝位を簒奪したため、絶えた。 | 北海 河間 東郡〈師古曰:「光は初め北海・河間を封地とし、後に増封されて東郡も領した。」〉 | |
| 安陽侯上官桀 | 騎都尉として反乱者莽何羅侯を捕らえた功により封じられ、二千三百戸を領した。孫娘が皇后となった。 | 正月壬寅日に封じられ、5年後の元鳳元年に反乱を起こし誅殺された。 | 桑楽侯安は始元5年6月辛丑日に皇后の父として車騎將軍に封じられ、千五百戸を領した。2年後に反乱を起こし誅殺された。 | 蕩陰〈師古曰:「桀の封地である。」〉 千乗〈師古曰:「安の封地である。」〉 | ||
| 宜春敬侯王訢 | 丞相として封じられ、子の譚が大將軍光と策を定め、増封された。法に坐して五百戸を削られ、六百八戸に定まった。 | 元鳳4年2月乙丑日に封じられ、2年後に薨去した。 | 元鳳6年、康侯譚が嗣ぎ、45年後に薨去した。 | 建始3年、孝侯咸が嗣ぎ、18年後に薨去した。 | 元延元年、釐侯章が嗣ぎ、8年後に薨去した。 | 汝南建平3年、侯強が嗣ぎ、26年後の更始元年に兵に殺された。 |
| 安平敬侯楊敞 | 丞相として封じられ、七百戸を領した。大司馬大將軍光と策を定め、子の忠に増封され、合計五千五百四十七戸となった。 | 6年2月乙丑日に封じられ、1年後に薨去した。 | 元平元年、頃侯忠が嗣ぎ、11年後に薨去した。 | 元康3年、侯譚が嗣ぎ、9年後の五鳳4年、典属国の季父惲の罪に連座し、譚が誹謗を言ったとして免官された。 | 汝南 | |
| 富平敬侯張安世 | 右將軍光祿勳として政を輔佐し勤労した功により封じられた。車騎將軍として大將軍光と策を定め、増封され、合計一万三千六百四十戸となった。 | 11月乙丑日に封じられ、13年後に薨去した。 | 陽都元康4年、愛侯延壽が嗣ぎ、11年後に薨去した。元康3年3月乙未日、侯彭祖は世父である故掖庭令賀の旧恩により封じられ、千六百戸を領した。4年後の神爵3年、小妻に殺された。 | 甘露3年、繆侯敞が嗣ぎ、4年後に薨去した。〈師古曰:「敞以下から純まで全て延壽の嗣である。」〉 | 初元2年、共侯臨が嗣ぎ、15年後に薨去した。 | 平原思侯放が嗣ぎ、36年後に薨去した。 |
| 六世建平元年、侯純が嗣ぎ、王莽建國4年に張鄕侯に改められ、建武年間に武始侯となった。 | ||||||
| 陽平節侯蔡義 | 丞相として封じられ、以前に御史大夫として大將軍光と策を定め、増封され、合計七百戸となった。 | 元平元年九月戊戌に封じられ、三年後、本始四年に死去し、後継者がいなかった。 |
右は孝昭帝六人。一人桑楽侯父に随い、合わせて七人。
| 号・諡・姓名 | 侯の状況と戸数 | 初封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 営平壮侯趙充国 | 後将軍として大将軍霍光と策を定めた功績により侯に封じられ、千二百七十九戸。 | 本始元年八月辛未に封じられ、二十二年後に死去。 | 甘露三年、質侯弘が継承し、二十二年後に死去。 | 建始四年、考侯欽が継承し、七年後に死去。 | 陽朔三年、侯岑が継承し、十二年後、元延三年、父欽が長安の女子王君侠の子を嗣子と偽った罪により免官。戸二千九百四十四。 | 済南 |
| 平丘侯王遷 | 光禄大夫として大将軍霍光と策を定めた功績により侯に封じられ、千二百五十三戸。 | 八月辛未に封じられ、五年後、地節二年、尚書の請託を聴き受けて賄賂六百万を受けた罪により自殺。 | 肥城 | |||
| 昌水侯田広明 | 鴻臚として武都の反乱した氐を討ち関内侯の爵位を賜り、左馮翊として大将軍霍光と策を定めた功績により侯に封じられ、二千七百戸。 | 八月辛未に封じられ、三年後、祁連将軍として匈奴を討つ際に期日に至らなかった罪により自殺。 | 於陵 | |||
| 陽城侯田延年 | 大司農として大将軍霍光と策を定めた功績により侯に封じられ、二千四百五十三戸。 | 八月辛未に封じられ、二年後、大司農として都内の銭三千万を盗んだ罪により自殺。 | 済陽 | |||
| 爰氏粛侯便楽成 | 少府として大将軍霍光と策を定めた功績により侯に封じられ、二千三百二十七戸。 | 八月辛未に封じられ、一年後に死去。 | 本始二年、康侯輔が嗣ぎ、三年で薨去。 | 地節元年、哀侯臨が嗣ぎ、二年で薨去、子がなく、絶える。 | 元始五年閏月丁酉、侯鳳が楽成の曾孫として紹封され、千戸、王莽が敗れ、絶える。 | 単父 |
| 扶陽節侯韋賢 | 丞相として侯となり、七百十一戸。 | 三年六月甲辰に封じられ、十年で薨去。 | 神爵元年、共侯玄成が嗣ぎ、九年、罪あり、一級削られ関内侯となる、永光二年二月丁酉に再び丞相として侯となり、六年で薨去。 | 建昭三年、頃侯寛が嗣ぐ。 | 元延元年、釐侯育が嗣ぐ。 | 蕭侯湛が嗣ぎ、元始中に戸千四百二十、王莽が敗れ、絶える。 |
| 平恩戴侯許広漢 | 皇太子の外祖父昌成君として侯となり、五千六百戸。 | 地節三年四月戊申に封じられ、七年で薨去、後継者なし。 | 初元元年、共侯嘉が広漢の弟子中常侍として紹侯となり、二十二年で薨去。 | 河平一年、厳侯況が嗣ぐ。 | 鴻嘉二年、質侯旦が嗣ぎ、二十九年で薨去。 | 建国四年、侯敬が嗣ぎ、王莽が敗れ、絶える。 |
| 高平憲侯魏相 | 丞相として侯となり、八百十三戸。 | 地節三年六月壬戌に封じられ、八年で薨去。 | 神爵三年、侯弘が嗣ぎ、六年、甘露元年、酎宗廟騎が司馬門に至り、不敬の罪で、爵位一級削られ関内侯となる。 | 柘 | ||
| 平昌節侯王無故 | 帝の舅関内侯として侯となり、六百戸。 | 四年二月甲寅に封じられ、九年で薨去。 | 五鳳元年、考侯接が嗣ぎ、十六年で薨去。 | 永光三年、釐侯臨が嗣ぎ、二十一年で薨去。 | 鴻嘉元年、侯獲が嗣ぎ、三十八年、建武五年、詔書で獲を復す。(師古曰:「その爵を失ったのを復すなり。復は音方目反。」) | |
| 楽昌共侯王武 | 帝の舅として関内侯から侯に封じられ、六百戸。 | 二月甲寅に封じられ、十四年で死去。 | 甘露二年、戾侯商が継承し、二十七年で死去。 | 河平四年、侯安が継承し、二十七年後、元始三年に王莽に殺害される。 | 汝南 | |
| 陽城繆侯劉德 | 宗正関内侯として謹厳重厚で宗室の模範となり、侯に封じられる。子の安民が戸五百で弟の更生の罪を贖い、一等減じられ、定戸六百四十戸。 | 四年三月甲寅に封じられ、十年で死去。 | 五鳳二年、節侯安民が継承し、八年で死去。 | 初元元年、釐侯慶忌が継承し、二十一年で死去。 | 居摂元年、侯颯が継承し、王莽の敗北で断絶。〈師古曰:「颯の音は立。」〉 | 汝南 |
| 楽陵安侯史高 | 悼皇考の舅の子として侍中関内侯となり、霍氏の奸計を暴いた功績で侯に封じられ、二千三百戸。〈師古曰:「与は豫と読む。」〉 | 八月乙丑に封じられ、二十四年で死去。 | 永光二年、厳侯術が継承し、十一年で死去。 | 建始二年、康侯崇が継承し、四年で死去、後継者なし。元延二年六月癸巳、侯淑が崇の弟として継承し、後継者なし。 | 元始四年、侯岑が高の曾孫として継承し、王莽の敗北で断絶。 | |
| 武陽頃侯丹 | 鴻嘉元年四月庚辰、帝が太子の時の輔導の旧恩により侯に封じられ、千三百戸、七年で死去。 | 永始四年、煬侯邯が継承し、十一年で死去。 | 元寿二年、侯獲が継承し、更始元年に兵に殺害される。 | 郯 | ||
| 邛成共侯王奉光 | 皇后の父として関内侯から侯に封じられ、二千七百五十戸。 | 元康二年三月癸未に封じられ、十八年で死去。 | 初元二年、侯敞が継承し、二十八年で死去。 | 鴻嘉二年、侯勲が継承し、十四年後、建平二年、選挙で虚偽を働き、廷史を罵った大不敬の罪で免職。 | 元始元年、侯堅固が奉光の曾孫として継承し、王莽の敗北で断絶。 | 済陰 |
| 安平夷侯舜 | 初元元年癸卯、皇太后の兄である侍中中郎将として封じられ、千四百戸、十三年で薨去。 | 建昭四年、剛侯章が継承、十四年で薨去。 | 陽朔四年、釐侯淵が継承、二十五年で薨去。 | 元始五年、懷侯買が継承、王莽の敗北により断絶。 | ||
| 將陵哀侯史曾 | 悼皇考の舅の子である侍中中郎将関内侯として旧恩により侯に封じられ、二千二百戸。 | 三月乙未に封じられ、五年後、神爵四年に薨去、後継者なし。 | ||||
| 平臺康侯史玄 | 悼皇考の舅の子である侍中中郎将関内侯として旧恩により侯に封じられ、千九百戸。 | 三月乙未に封じられ、二十五年で薨去。 | 建昭元年、戴侯恁が継承、十九年で薨去。〈師古曰:「恁の音は女林反。」〉 | 鴻嘉二年、侯習が継承。 | 常山 | |
| 博望頃侯許舜 | 皇太子の外祖父の同産弟である長楽衛尉として旧恩により侯に封じられ、千五百戸。 | 三月乙未に封じられ、四年で薨去。 | 神爵三年、康侯敞が継承、八年で薨去。 | 甘露三年、戾侯黨が継承、二十六年で薨去。 | 河平四年、釐侯並が継承、薨去、後継者なし。 | |
| 元延二年六月癸巳、侯報子が並の弟として継承、千戸、王莽の敗北により断絶。 | ||||||
| 樂成敬侯許延壽 | 皇太子の外祖父の同産弟である侍中関内侯として旧恩により侯に封じられ、千五百戸。 | 三月乙未に封じられ、十年で薨去。 | 甘露元年、思侯湯が継承、六年で薨去。 | 初元二年、哀侯常が継承、九年で薨去。 | 平氏 | |
| 元延二年、節侯恭が常の弟として継承、千戸。 | 建昭元年、康侯去疾が継承、二十一年後、鴻嘉三年に薨去、後継者なし、侯修が継承、王莽の敗北により断絶。 | |||||
| 博陽定侯丙吉 | 御史大夫・関内侯として旧恩と功績が顕著であったため侯に封じられ、千三百三十戸を領した。 | 元康三年(前63年)二月乙未に封じられ、八年で死去した。 | 五鳳三年(前55年)、侯顕が継承したが、二年後の甘露元年(前53年)、宗廟の酎祭で司馬門まで騎乗した不敬の罪により爵位一級を剥奪され関内侯となった。 | 鴻嘉元年(前20年)六月己巳、康侯昌が吉の孫として再封された。 | 元始二年(2年)、釐侯並が継承した。 | 南頓侯勝客が継承したが、王莽が敗れた後、断絶した。 |
| 建成定侯黄霸 | 丞相として侯に封じられ、六百戸を領した。侯賞は定陶太后の称号が不適切であると主張した功績により加封され、二千二百戸となった。 | 五鳳三年(前55年)二月壬申に封じられ、四年で死去した。 | 甘露三年(前51年)、思侯賞が継承し、三十年で死去した。 | 陽朔三年(前22年)、忠侯輔が継承し、二十七年で死去した。 | 居摂二年(7年)、侯輔が継承したが、王莽が敗れた後、断絶した。 | 沛 |
| 西平安侯于定国 | 丞相として侯に封じられ、六百六十戸を領した。 | 甘露三年(前51年)五月甲子に封じられ、十一年で死去した。 | 永光四年(前40年)、頃侯永が継承し、二十四年で死去した。 | 鴻嘉元年(前20年)、侯恬が継承し、四十三年後の更始元年(23年)に断絶した。 | 臨淮 |
右は孝宣帝二十人。一人陽都侯父に随い、合わせて二十一人。
| 号諡姓名 | 侯の状況と戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 陽平頃侯王禁 | 皇后の父として侯に封じられ、二千六百戸を領した。子の鳳は大将軍として加封され五千四百戸を得て、合計八千戸となった。 | 初元元年(前48年)三月癸卯に封じられ、六年で死去した。 | 永光二年(前42年)、敬成侯鳳が継承し、二十年で死去した。 | 陽朔三年、釐侯襄が継承し、十九年で死去。 | 建平四年、康侯岑が継承し、十三年で死去。 | 東郡建国三年、侯莫が継承し、十二年、更始元年、兵に殺害される。 |
| 安成共侯崇 | 建始元年二月壬子、皇太后の母弟散騎光禄大夫関内侯として侯に封じられ、一万戸、二年で死去。 | 建始三年、靖侯奉世が継承し、三十九年で死去。 | 建国二年、侯持弓が継承し、王莽が敗北し、断絶。 | 汝南 | ||
| 平阿安侯譚 | 河平二年六月乙亥、皇太后の弟関内侯として侯に封じられ、二千一百戸、十一年で死去。 | 永始元年、剌侯仁が継承し、十九年、王莽に殺害される。 | 元始四年、侯述が継承し、建武二年で死去、断絶。 | 沛 | ||
| 成都景成侯商 | 六月乙亥、皇太后の弟関内侯として侯に封じられ、二千戸、大司馬として二千戸を加増され、十六年で死去。 | 元延四年、侯況が継承し、四年、綏和二年、山陵未完成のまま酒宴歌舞を設けた罪で免職。 | 山陽 | |||
| 建平元年、侯邑が況の弟として継承し、王莽が帝位を簒奪し、隆信公となり、王莽と共に死去。 | ||||||
| 紅陽荒侯立 | 六月乙亥に封じられ、皇太后の弟関内侯として侯に封じられ、二千一百戸、三十年で死去。 | 元始四年、侯柱が継承し、王莽が敗北し、断絶。 | 曾孫武桓侯泓、建武元年に父丹が将軍として戦死し、以前から皇帝と旧知の間柄であったため、侯に封じられる。 | 南陽 | ||
| 曲陽煬侯根 | 六月乙亥、皇太后の弟関内侯として侯に封じられ、三千七百戸、再び大司馬として七千七百戸を加増され、哀帝がさらに二千戸を加増し、合計一万二千四百戸、二十一年で死去。 | 建平元年、侯渉が継承し、王莽が帝位を簒奪し、直道公となり、王莽に殺害される。 | 九江 | |||
| 髙平戴侯逢時 | 六月乙亥、皇太后の弟関内侯として侯に封じられ、三千戸、十八年で死去。 | 元延四年、侯置が継承し、王莽が敗北し、断絶。 | 臨淮 | |||
| 新都侯莽 | 永始元年五月乙未、帝の舅曼子侯として、千五百戸を賜る。後に帝位を簒奪し、誅殺される。 | 襃新侯安、元始四年四月甲子に莽の功績により侯となり、二千戸を賜る。莽が帝位を簒奪すると信遷公となり、病死。賞都侯臨、四月甲子に莽の功績により侯となり、二千戸を賜る。莽が帝位を簒奪して天子となると、侯は統義陽王となり、自殺。 | 南陽 | |||
| 楽安侯匡衡 | 丞相として侯となり、六百四十七戸を賜る。 | 建昭三年七月癸亥に封じられ、七年後、建始四年に専断して土地を盗んだ罪で免官。 | 僮 |
右は孝元帝二人。一人安平侯父に随い、合わせて三人。
| 号諡姓名 | 侯の状況と戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 安昌節侯張禹 | 丞相として侯となり、六百一十七戸を賜る。後に四百戸を加増。 | 河平四年六月丙午に封じられ、二十一年後に薨去。 | 建平二年、侯宏が継承し、二十八年後、更始元年に兵に殺害される。 | 汝南 | ||
| 高陽侯薛宣 | 丞相として侯となり、千九十戸を賜る。 | 鴻嘉元年四月庚辰に封じられ、五年後、永始二年に西州の盗賊集団の罪で免官。同年に再封され、十年後、綏和二年に不忠不孝、父子で近臣を傷つけた罪で免官。 | 東莞 | |||
| 安陽敬侯王音 | 皇太后の従弟として大司馬車騎将軍となり侯となり、千六百戸を賜る。子の舜が加増を受ける。 | 六月己巳に封じられ、五年後に薨去。 | 永始二年、侯舜が継承し、王莽が帝位を簒奪すると安新公となる。 | 建國三年、公摂が継承し、和新公と改称し、莽と共に死す。 | ||
| 成陽節侯趙臨 | 皇后の父として侯に封じられ、二千戸。 | 永始元年四月乙亥に封じられ、五年で死去。 | 元延二年、侯訢が継承、建平元年、弟の昭儀が継嗣を絶った罪により免官、遼西に流される。 | 新息 | ||
| 新成侯欽 | 綏和二年五月壬辰に皇太后の弟として封じられ、一年後、建平元年、弟の昭儀が継嗣を絶った罪により免官、遼西に流される。 | 穰 | ||||
| 髙陵共侯翟方進 | 丞相として侯に封じられ、千戸、哀帝即位時、子の宣に五百戸を加増。 | 永始二年十一月壬子に封じられ、八千戸、八年で死去。 | 綏和二年、侯宣が継承、十二年後、居摂元年、弟の東郡太守義が王莽討伐の兵を挙げ、王莽により一族滅ぼされる。 | 琅邪 | ||
| 定陵侯淳于長 | 侍中衞尉として昌陵の完成不可を進言し侯に封じられ、千戸。皇太后の姉の子。 | 元延三年二月丙午に封じられ、二年後、綏和元年、大逆の罪により投獄され死去。 | 汝南 | |||
| 殷紹嘉侯孔何齊 | 殷の後裔で孔子の子孫孔吉の嫡子として侯に封じられ、千六百七十戸、後に六月に公に進爵し、領地百里、建平二年に九百三十二戸を加増。 | 綏和元年二月甲子に封じられ、八年後、元始二年、宋公に改封。 | 沛 | |||
| 宜鄕侯馮参 | 中山王の舅として侯に封じられ、千戸。 | 綏和元年二月甲子に封じられ、建平元年、姉の中山太后が呪詛した罪により自殺。 | ||||
| 氾鄕侯何武 | 大司空として侯に封じられ、千戸、哀帝即位時に千戸を加増。 | 四月乙丑に封じられ、十年後、元始三年、王莽により殺害され、諡は剌と賜る。 | 元始四年、侯況が継承、建国四年に死去。 | 南陽 | ||
| 博山簡烈侯孔光 | 丞相として侯に封じられ、千戸を領し、元始元年に一万戸を加増された。 | 二年三月丙戌に封じられ、二年後、建平二年に職務怠慢により免職されたが、元寿元年五月乙卯に丞相として再び侯に封じられ、六年後に死去した。 | 元始五年、侯放が継承したが、王莽の敗北により断絶した。 | 順陽 |
右は孝成帝十人。安成・平阿・成都・紅陽・曲陽・高平・新都・武陽侯八人父に随い、合わせて十八人。
| 号諡姓名 | 侯の状況と戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 陽安侯丁明 | 皇帝の舅として侯に封じられ、五千戸を領した。 | 綏和二年四月壬寅に封じられ、七年後、元始元年に王莽によって殺害された。 | ||||
| 孔鄕侯傅晏 | 皇后の父として侯に封じられ、三千戸を領し、さらに二千戸を加増された。 | 四月壬寅に封じられ、六年后、元寿二年に妻妾の位を乱した罪で免職され、合浦に流された。 | 夏丘 | |||
| 平周侯丁満 | 皇帝の舅の子として侯に封じられ、千七百三十九戸を領した。 | 五月己丑に封じられ、元始三年に正統でないとして免職された。 | 湖陽 | |||
| 髙楽節侯師丹 | 大司馬関内侯として侯に封じられ、二千三十六戸を領した。 | 綏和二年七月庚午に封じられ、一年後、建平元年に機密漏洩で免職されたが、元始三年二月癸巳に義陽侯に改封され、二月に死去した。 | 侯業が継承したが、王莽の敗北により断絶した。 | 新野東海 | ||
| 髙武貞侯傅喜 | 皇帝の祖母皇太太后の従父弟で大司馬として侯に封じられ、二千三十戸を領した。 | 建平元年正月丁酉に封じられ、十五年后に死去した。 | 建国二年、侯勁が継承、王莽が敗北し、断絶。 | 杜衍 | ||
| 楊鄕侯朱博 | 丞相として侯に封じられ、二千五十戸、上書により故事は千戸を超えずとして、千五十戸を返還。 | 建平二年四月乙亥に封じられ、八月、誣罔の罪で自殺。 | 湖陵 | |||
| 新甫侯王嘉 | 丞相として侯に封じられ、千六十八戸。 | 三年四月丁酉に封じられ、三年後、元寿元年、上を欺き、獄死。 | 元始四年、侯崇が継承して封じられ、王莽が敗北し、断絶。 | 新野 | ||
| 汝昌侯傅商 | 皇太太后の従父弟として封じられ、千戸、後に奉先侯の祭祀により増封され、合計五千戸。 | 四年二月癸卯に封じられ、一年後、元寿元年、諸侯に外附した罪で免職。 | 元寿二年五月、侯昌が商の兄の子として祭祀を継承して封じられ、八月、非正の罪で免職。 | 陽穀 | ||
| 陽新侯鄭業 | 皇太太后の同母弟子として侯に封じられ、千戸。 | 八月辛卯に封じられ、二年後、元寿二年、非正の罪で免職。 | 新野 | |||
| 髙安侯董賢 | 侍中駙馬都尉として東平王雲の祝詛反逆を告発し侯に封じられ、千戸、後に増封され、二千戸。 | 建平四年八月辛卯に封じられ、二年後、元寿二年、大司馬として衆心に合わず免職、自殺。 | 朱扶 | |||
| 方陽侯孫寵 | 騎都尉として息夫躬と共に東平王の反謀を告発し侯に封じられ、千戸。 | 八月辛卯に封じられ、二年後、元寿二年、以前の姦讒の罪で免職、合浦に流刑。 | 龍亢 | |||
| 宜陵侯息夫躬 | 博士弟子として董賢を通じて東平王の反謀を告発し侯に封じられ、千戸。 | 八月辛卯に封じられ、二年後、元寿二年、呪詛の罪で下獄し死す。 | 杜衍 | |||
| 長平頃侯彭宣 | 大司空として侯に封じられ、二千七十四戸。 | 元寿二年五月甲子に封じられ、四年で薨去。 | 元始四年、節侯聖が継承し、十四年で薨去。 | 天鳳五年、侯業が継承し、王莽の敗北により断絶。 | 済南 |
右は孝哀帝十三人。新成・新都・平陽・営陵・徳五人父に随い、合わせて十八人。
| 号諡姓名 | 侯の状況と戸数 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 扶徳侯馬宮 | 大司徒として侯に封じられ、二千戸。 | 元始元年二月丙辰に封じられ、王莽が位を簒奪し、太子師となり、官で死去。 | 贛楡 | |||
| 扶平侯王崇 | 大司空として侯に封じられ、二千戸。 | 二月丙辰に封じられ、三年後、傅婢に毒殺され、薨去。 | 臨淮 | |||
| 広陽侯甄豊 | 左将軍光禄勲として策を定め宗廟を安んじた功で侯に封じられ、五千三百六十五戸。 | 二月癸巳に封じられ、王莽が位を簒奪し、広新公となり、後に王莽に殺される。 | 南陽 | |||
| 承陽侯甄邯〈師古曰:「承は烝と読む。」〉 | 侍中奉車都尉として策を定め宗廟を安んじた功で侯に封じられ、二千四百戸。 | 三月癸卯に封じられ、王莽が位を簒奪し、承新公となる。 | 汝南 | |||
| 襃魯節侯公子寬 | 周公の世継ぎである魯頃公の玄孫の玄孫として周の祭祀を奉じ、侯に封じられ、二千戸を領す。 | 六月丙午に封じられ、薨去。 | 十一月、侯相如が継承し、姓を公孫氏に改め、後に更に姬氏に改める。 | 南陽平 | ||
| 襃成侯孔均 | 孔子の世継ぎである襃成烈君霸の曾孫として孔子の祭祀を奉じ、侯に封じられ、二千戸を領す。 | 六月丙午に封じられる。 | 瑕丘 | |||
| 防鄕侯平晏 | 長楽少府として劉歆、孔永、孫遷の四人と共に明堂辟雍を治め、万国の歓心を得る功績により侯に封じられ、各千戸を領す。 | 五年閏月丁丑に封じられ、王莽が位を簒奪すると、就新公となる。 | ||||
| 紅休侯劉歆 | 侍中犧和として平晏と同功により侯に封じられる。 | 閏月丁酉に封じられ、王莽が位を簒奪すると、国師公となり、後に莽に誅殺される。 | ||||
| 寧鄕侯孔永 | 侍中五官中郎将として平晏と同功により侯に封じられる。 | 閏月丁酉に封じられ、王莽が位を簒奪すると、大司馬となる。 | ||||
| 定鄕侯孫遷 | 常侍謁者として平晏と同功により侯に封じられる。 | 閏月丁酉に封じられる。 | ||||
| 常鄕侯王惲〈師古曰:「惲音於粉反。」〉 | 太僕として閻遷、陳崇等八人と共に風俗を行い、万国を斉同する功績により侯に封じられ、各千戸を領す。 | 閏月丁酉に封じられる。 | ||||
| 望鄕侯閻遷 | 鴻臚として王惲と同功により侯に封じられる。 | 閏月丁酉に封じられる。 | ||||
| 南鄕侯陳崇 | 大司徒司直として王惲と同功により侯に封じられる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 邑郷侯 李翕 | 水衡都尉として王惲とともに功績を立てて侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 亭郷侯 郝党 | 中郎将として王惲とともに功績を立てて侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 章郷侯 謝殷 | 中郎将として王惲とともに功績を立てて侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 蒙郷侯 逯普〈師古曰:「逯は録と読み、字は逮とも書く。二姓とも存在する。」〉 | 騎都尉として王惲とともに功績を立てて侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。王莽が位を簒奪すると、大司馬となる。 | ||||
| 盧郷侯 陳鳳 | 中郎将として王惲とともに功績を立てて侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 成武侯 孫建 | 強奴将軍として敵を撃退する威勢により侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。王莽が位を簒奪すると、成新公となる。 | ||||
| 明統侯 侯輔 | 騎都尉として後継者を明確にする一統の義により侯となる。 | 閏月丁酉に封じる。 | ||||
| 破胡侯 陳馮 | 父の湯が以前に副校尉として郅支単于を討伐した功績により侯となる。千四百戸。 | 七月丙申に封じる。 | ||||
| 討狄侯 杜勳 | 以前に軍仮丞として郅支単于の首を手ずから斬った功績により侯となる。千戸。 | 七月丙申に封じる。 |
孝平帝二十二人、邛成・博陵・宣平・紅・舞陽・秺・楽陵・都成・新甫・爰氏・合陽・義陽・章郷・信成・随桃・襃新・賞都十七人父に随い世を継ぎ、合わせて三十九人。
〈師古曰:「《功臣表》及び《王子侯表》に拠れば、平帝の時には紅侯はなく、唯周勃の玄孫恭が元始二年に絳侯を紹封したのみ。紅の字は絳とすべきで、転写の誤りか。又《功臣表》は童郷侯とし、今ここでは章郷とし、二表異なり、これも誤りあらん。」〉