漢書 - 卷十七 景武昭宣元成功臣表 第五

昔『書経』に「蛮夷が服従する」と称し、『詩経』に「徐方が既に来る」と云い、春秋では潞子の爵位を列記し、その諸夏を慕うことを許した。漢が興り孝文の時に至って、弓高、襄城の封があり、外から来たものではあるが、元は功臣の後裔である。故に孝景の時に初めて降伏者を侯に封じようとし、丞相周亞夫が約束を守って争った。帝はその議を退け、初めて封賞の科を開き、また呉楚の事があった。武帝は胡越の征伐を興し、将帥が爵位を受け、元の約束に応じた。後世は太平を承け、多くの功労の臣があり、これを集めて順序を付け、元の功績の次第を継ぐ。

孝景功臣表

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号謚姓名 功状戸数 始封 曾孫 玄孫
俞侯欒布〈師古曰:「俞音輸。」〉 将軍として呉楚の反乱を斉に撃退し、侯となる。 六年四月丁卯に封じられ、六年で薨去。 中六年、侯賁が嗣ぎ、二十二年、元狩六年、太常雍の犠牲が令に従わなかった罪で免職。〈師古曰:「雍は右扶風県で、五畤祠がある。」〉      
建陵哀侯衞綰 将軍として呉楚を撃退し、中尉として侯となる。 四月丁卯に封じられ、二十一年で薨去。 元光五年、侯信が嗣ぎ、十八年、元鼎五年、酎金の罪で免職。      
建平敬侯程嘉 将軍として呉楚を撃退し、江都相として侯となる。 四月丁卯に封じられ、十八年で薨去。 元光二年、節侯横が嗣ぎ、一年で薨去。 三年、侯回が嗣ぎ、四年で薨去、後継者なく断絶。    
平曲侯公孫渾邪〈師古曰:「渾の音は胡溫の反切。字は昆とも混とも書き、音は同じ。」〉 将軍として呉楚を討ち、隴西太守の功績で侯に封じられる。 四月己巳に封じられ、五年後、中四年に罪あり、免官。 南奅元朔五年四月丁卯、侯賀が将軍として匈奴を討ち王を捕らえ、侯に封じられる。十二年後、元鼎五年、酎金の罪で免官。〈師古曰:「奅の音は普孝の反切。」〉      
      葛繹太初二年、侯賀が再び丞相として封じられる。三年後、延和二年、子の敬聲の罪に連座し、獄死。〈師古曰:「延は征の字と同じ。」〉      
江陽康侯蘇息 将軍として呉楚を討ち、趙相の功績で侯に封じられる。 中二年、懿侯盧が嗣ぎ、八年で薨去。 建元二年、侯朋が嗣ぎ、十六年で薨去。 元朔六年、侯雕が嗣ぎ、十一年後、元鼎五年、酎金の罪で免官。    
遽侯橫〈師古曰:「史書に姓を失う。他の例も同様。」〉 父の建德が趙相として王遂の反乱に従わず、殉職し、子が侯に封じられる、千一百七十戸。 中二年四月乙巳に封じられ、六年後、後二年に罪あり、棄市。        
新市侯王棄之 父の悍が趙内史として、王遂の反乱に従わず、殉職し、子が侯に封じられる。 四月乙巳に封じられ、八年で薨去。 煬侯始昌が嗣ぎ、元光四年に賊に殺害される。      
商陵侯趙周 父の夷吾は楚の太傅として、王戊の反乱に従わず、殉職したため、子が侯となった。 四月乙巳に封じられ、三十六年後、元鼎五年に丞相として列侯の酎金が軽いことを知りながら放置した罪で、獄に下され自殺した。        
山陽侯張當居 父の尚は楚の相として、王戊の反乱に従わず、殉職したため、子が侯となった。 四月乙巳に封じられ、二十四年後、元朔五年に太常として博士弟子を選ぶ際に事実に基づかず、城旦(刑罰)に処された。        
安陵侯于軍 匈奴王として降伏し侯となり、千五百五十戸を領した。 中三年十一月庚子に封じられ、十三年後、建元六年に死去し、後継者がいなかった。        
桓侯賜 匈奴王として降伏し侯となった。 十二月丁丑に封じられた。        
逎侯陸彊〈師古曰:「逎は古い遒の字で、音は子脩反。涿郡の県である。」〉 匈奴王として降伏し侯となり、千五百七十戸を領した。 十二月丁丑に封じられた。 侯の則が継ぎ、孝武後元年に皇帝を呪詛した罪で、腰斬に処された。      
容城攜侯徐盧 匈奴王として降伏し侯となり、七百戸を領した。 十二月丁丑に封じられ、七年後に死去した。 建元二年に康侯纏が継ぎ、十四年後に死去した。 元朔三年、侯光が継承、四十年、後元二年、皇帝を呪詛した罪で、腰斬に処される。    
易侯僕䵣〈鄭氏曰:「䵣の音は怛。」〉 匈奴王として降伏し侯に封ぜられる、千百十戸。 十二月丁丑に封ぜられ、六年、後三年に死去、後継者なし。        
范陽靖侯范代 匈奴王として降伏し侯に封ぜられる、六千二百戸。 十二月丁丑に封ぜられ、十四年で死去。 元光二年、懐侯德が継承、四年で死去、後継者なし。     涿郡元始二年、玄孫政が詔により関内侯の爵位を賜る。
翕侯邯鄲 匈奴王として降伏し侯に封ぜられる。 十二月丁丑に封ぜられ、六年、元光四年、長信宮への出入りを許可なく行った罪で、免官。〈如淳曰:「長信宮は太后の居所。」師古曰:「請は謁見の意。」〉       内黄
亜谷簡侯盧它之 匈奴東胡王として降伏し侯に封ぜられる、千戸。元は燕王綰の子。 中五年四月丁巳に封ぜられ、二年で死去。 後元年、侯種が継承、七年で死去。 建元五年、康侯漏が継承、七年で死去。 元光六年、侯賀が継承、三十九年、延和二年、衛太子の節を受けた罪で、拷問死。〈師古曰:「衛太子が兵を勝手に動かし、賀がその節を受けたため、反逆の疑いで拷問され死亡。」〉  
塞侯直不疑 御史大夫として侯に封じられ、以前に呉楚を討伐した功績がある。 後元年八月に封じられ、六年で死去。 建元四年、康侯相如が継承し、十二年で死去。 元朔四年、侯堅が継承し、十三年後、元鼎五年、酎金の罪で免官。  

右は孝景の十八人。平陸、休、沈猷、紅、宛朐、棘樂、乗氏、桓邑の八人は王子にあり、魏其、蓋の二人は外戚にあり、隆慮の一人は父に随い、合わせて二十九人である。

師古曰:「『楚元王伝』によれば『休侯富は免侯後に改めて紅侯に封ぜられた』とあるが、『王子侯表』には休侯富のみを記載し、重ねて封ぜられたことを述べているが、紅邑の記載はなく、その数は七人に止まる。しかしこの表では休と紅を二つの数として列挙し、また八人を王子侯と称している。これはこの表の誤りである。」

孝武功臣表

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号謚姓名 功績と戸数 初封 曾孫 玄孫
翕侯趙信 匈奴の相国として降伏し侯に封じられ、元朔二年の匈奴討伐で功績を増し、千六百八十戸。 元光四年十月壬午に封じられ、六年後、元朔六年、右将軍として匈奴を討伐し、敗北して匈奴に降伏。       内黄
持轅侯楽 匈奴の都尉として降伏し侯に封じられ、六百五十戸。 元朔元年後九月丙寅に封じられ、十三年後、元鼎元年で死去、後継者なし。       南陽
親陽侯月氏〈師古曰:「氏の音は支。」〉 匈奴の相として降伏し侯に封ぜられる。六百八十戸。 元朔二年十月癸巳に封ぜられ、五年、謀反を企て匈奴に亡命した罪で腰斬に処せられる。       舞陽
若陽侯猛 匈奴の相として降伏し侯に封ぜられる。五百三十戸。 十月癸巳に封ぜられ、五年、謀反を企て匈奴に亡命した罪で腰斬に処せられる。       平氏
平陵侯蘇建 都尉として車騎将軍に従い匈奴を討伐した功績で侯に封ぜられる。元朔五年、遊撃将軍として大将軍に従い、加増され、総計一千戸。 三月丙辰に封ぜられ、六年、前将軍として翕侯信とともに敗北し、単身で帰還した罪で斬刑に相当するが、贖罪により免官。       武当
岸頭侯張次公 都尉として車騎将軍に従い匈奴を討伐した功績で侯に封ぜられ、大将軍に従い、加増され、総計二千戸。 五月己巳に封ぜられ、五年、元狩元年、淮南王の娘陵と姦通し、財物を受け取った罪で免官。〈師古曰:「陵は淮南王安の娘の名である。」〉       皮氏
涉安侯於単 匈奴単于の太子として降伏し侯に封ぜられる。 三年四月丙子に封ぜられ、五月に薨去、後継者なし。        
昌武侯趙安稽 匈奴王として降伏し侯に封ぜられ、昌武侯として驃騎将軍に従い左王を討伐し、加増される。 四年七月庚申に封じられ、二十一年に薨去。 太初元年、侯充国が継承し、四年で薨去、後継者なし。     舞陽
襄城侯桀龍〈師古曰:「この龍は匈奴の名であろう、龍桀と解釈するのは誤り。」〉 匈奴の相国として降伏し侯に封じられる、四百戸。 七月庚申に封じられ、三十二年、浞野侯と共に戦死。 太初三年、侯病已が継承し、十五年、後二年、上を呪詛した罪で下獄し獄死。     襄垣
安楽侯李蔡 将軍として匈奴を再び撃ち王を得て侯に封じられる、二千戸。 四月乙巳に封じられ、六年、元狩五年、丞相として園陵の道壖地を侵売した罪で自殺。      
合騎侯公孫敖 護軍都尉として三度大将軍に従い匈奴を撃ち、右王庭に至り王を得て侯に封じられる、元朔六年、大将軍に従い、益封され九千五百戸。 五年四月丁未に封じられ、元狩二年、将兵として匈奴を撃つ際に票騎将軍との期日に遅れ、畏懦の罪で斬刑に当たり贖罪。〈師古曰:「懦音は乃喚反、また而掾反とも。」〉       高城
軹侯李朔〈師古曰:「軹音は只。」〉 校尉として三度大将軍に従い匈奴を撃ち、右王庭に至り虜閼氏の功で侯に封じられる。 四月乙卯に封じられ、六年、罪あり、免官に当たる。       西安
従平侯公孫戎奴 校尉として三度大将軍に従い匈奴を撃ち、右王庭に至り雁行上石山に先登し、侯に封ぜられ、一千一百戸。 四月乙卯に封ぜられ、三年後、元狩二年、上党太守として兵を発し匈奴を撃つにあたり上聞せず、免官。       楽昌
随城侯趙不虞 校尉として三度大将軍に従い匈奴を撃ち、辰吾を攻め石亹に先登し、侯に封ぜられ、七百戸。 四月乙卯に封ぜられ、三年後、元狩二年、定襄都尉として、匈奴敗退の際、太守の上聞が事実に非ず、欺瞞により免官。       千乗
博望侯張騫 校尉として数度大将軍に従い匈奴を撃ち、道水を知り、かつ前使として絶国大夏に至り、侯に封ぜられる。 六年三月甲辰に封ぜられ、元狩二年、将軍として匈奴を撃つにあたり畏懦し、斬刑に当たり、贖罪により免官。        
衆利侯郝賢 上谷太守として四度大将軍に従い匈奴を撃ち、首虜千級以上を挙げ、侯に封ぜられ、千一百戸。 五月壬辰に封ぜられ、二年後、元狩二年、上谷太守として戍卒の財物を侵し、上計に欺瞞あり、免官。       姑莫
潦悼侯王援訾 匈奴の趙王として降伏し、侯に封ぜられ、五百六十戸。 元狩元年七月壬午に封ぜられ、二年後に薨去、後嗣無し。       舞陽
従票侯趙破奴 司馬が再び票騎将軍に従って匈奴を撃ち、二人の王子と騎将を捕らえて侯に封ぜられ、二千戸を賜る。 二年五月丙戌に封ぜられ、九年後、元鼎五年、酎金の罪で免官。元封三年、匈河将軍として楼蘭を撃ち、浞野侯に封ぜられる。五年後、太初二年、浚稽将軍として匈奴を撃つが、虜に捕らえられ、軍は全滅。        
宜冠侯高不識 校尉として票騎将軍に従い再び匈奴を撃つ。侯に封ぜられ、一千一百戸。もと匈奴の帰義者。 五月庚戌に封ぜられ、四年後、匈奴を撃った際の首級数を虚偽報告した罪で斬刑に当たるが、贖罪して免官。〈師古曰:「捕獲した首級の数を水増ししたこと。」〉      
煇渠忠侯僕朋〈師古曰:「煇の音は許圍反。」〉 校尉として票騎将軍に従い再び匈奴を出撃し、王を捕らえて侯に封ぜられる。票騎将軍に従って五王を虜にし、加封される。もと匈奴の帰義者。 二年二月乙丑に封ぜられ、八年後に薨去。 元鼎四年、侯雷電が嗣ぎ、二十二年後、延和三年、五原属国都尉として貳師将軍と共に匈奴を撃つが、戦死。     魯陽
下摩侯謼毒尼〈師古曰:「謼の字は呼と同じ。」〉 匈奴王として降伏し封ぜられる、七百戸。 六月乙亥に封ぜられ、九年後に薨去。 元鼎五年、煬侯伊即軒が嗣ぐ。〈師古曰:「軒の音は居言反。」〉 侯冠支が嗣ぎ、神爵三年、詔により弋居山に居住するが、家族を連れて悪師の居所に無断で入った罪で免官。〈師古曰:「悪師は地名で、官が設置した居室がある。」〉   猗氏
濕陰定侯昆邪〈師古曰:「濕の音は吐合反。昆の音は胡門反。」〉 匈奴の昆邪王として十万の衆を率いて降伏し侯に封ぜられる、一万戸。 三年七月壬午に封ぜられ、四ヶ月後に薨去。 元鼎元年、魏侯蘇が継承、十年後、元封五年に死去、後継者なし。     平原
煇渠慎侯応疕〈師古曰:「疕の音は疋履反。」〉 匈奴王の降伏により侯に封じられる。 七月壬午に封じられ、五年後、元鼎三年に死去、後継者なし。       魯陽
河綦康侯烏黎 匈奴右王として渾邪と共に降伏し侯に封じられる、六百戸。 七月壬午に封じられ、六年後に死去。 元鼎三年、侯餘利鞮が継承、四十二年間、本始二年に死去、後継者なし。〈師古曰:「鞮の音は丁奚反。」〉     済南
常楽侯稠雕 匈奴大当戸として渾邪と共に降伏し侯に封じられる、五百七十戸。〈師古曰:「当戸は匈奴の官名。」〉 七月壬午に封じられ、十八年後に死去。 太初三年、侯広漢が継承、六年後、太始元年に死去、後継者なし。     済南
邳離侯路博徳 右北平太守として票騎将軍に従い左王を攻撃、輜重を獲得、期日に合致、敵首一万二千七百人を捕らえ、侯に封じられる、千六百戸。〈師古曰:「得重は輜重を得ること。会期は期日に合うこと。」〉 四年六月丁卯に封じられ、十五年間、太初元年、子の反逆不道罪を知りながら見逃した罪で免職。       朱虚
義陽侯衞山 北地都尉として票騎将軍に従い匈奴を撃ち、王を得て侯となり、千一百戸を賜る。 六月丁卯に封じられ、二十六年後、太始四年、衆利侯當時を誑告するよう人を教唆した罪で棄市刑に処せられ、獄中で未決のまま病死。       平氏
杜侯復陸支 匈奴の帰義因孰王として票騎将軍に従い左王を撃ち、少をもって多を破り、捕虜三千一百を得て侯となり、千三百戸を賜る。 六月丁卯に封じられ、五年で薨去。 元鼎三年、侯偃が嗣ぐ。 侯屠耆が嗣ぐ。 侯宣平が嗣ぐ。 重平侯福が嗣ぐ、河平四年、実子でないことを理由に免職。
衆利侯伊即軒〈師古曰:「軒は居言反と音す。」〉 匈奴の帰義樓剸王として票騎将軍に従い左王を撃ち、手に剣を執って合戦し、侯となり、千一百戸を賜る。〈師古曰:「手に剣を用いて合戦す。剸は専と音し、また之兖反とも音す。」〉 六月丁卯に封じられ、十四年で薨去。 元封六年、侯當時が嗣ぐ。 侯輔宗が嗣ぐ、始元五年に薨去、後継なく、諸県となる。    
湘成侯敞屠洛 匈奴の符離王として降伏し侯となり、千八百戸を賜る。 六月丙子に封じられ、七年後、元鼎五年、酎金の罪で免職。       陽成
散侯董舍吾 匈奴の都尉として降伏し侯に封じられ、千一百戸。 六月丙子に封じられ、十七年で死去。 太初三年、侯安漢が継承。 侯賢が継承、征和三年、皇帝を呪詛した罪で投獄され病死。   陽成
臧馬康侯雕延年 匈奴王として降伏し侯に封じられ、八百七十戸。 六月丙子に封じられ、五年で死去、後継者なし。       朱虛
膫侯次公〈師古曰:「膫は音遼。」〉 匈奴の帰義王として降伏し侯に封じられ、七百九十戸。 元鼎四年六月丙午に封じられ、五年、酎金の罪で免官。       舞陽
術陽侯建德 南越王の兄越高昌侯として侯に封じられ、三千戸。 五年三月千午に封じられ、四年、南海で謀反を起こした罪で誅殺。       下邳
龍侯摎広徳〈師古曰:「摎は音居虯反。」〉 父の楽が校尉として南越を討伐し戦死、子が侯に封じられ、六百七十戸。 三月壬午に封じられ、六年、酎金の罪で免官。        
成安侯韓延年 父の千秋が校尉として南越を討ち戦死した功績により、子が侯に封じられ、千三百八十戸。 三月壬午に封じられ、七年、元封六年、太常として大行令の職務を代行中、外国の文書を一ヶ月滞留させ、兵員・物資の徴発に遅滞した罪で、穀物を納めて贖罪し、城旦(労役刑)に処された。〈師古曰:「兵員・物資の徴発が必要な時に、遅滞したため不足が生じた。」〉       郟〈師古曰:「音は夾。」〉
昆侯渠復絫〈師古曰:「絫の音は力追反。」〉 属国の大首渠として匈奴を討った功績で侯に封じられる。 五月戊戌に封じられる。 侯の乃始が継承し、地節四年に死去、後継者なし。     鉅鹿
騏侯駒幾〈師古曰:「騏の音は其。」〉 属国の騎兵として匈奴を討ち、単于の兄を捕らえた功績で侯に封じられ、五百二十戸。 五月壬子に封じられる。 侯の督が継承。 釐侯の崇が継承し、陽朔二年に死去、後継者なし。   北屈
        元延元年六月己未、侯の詩が崇の弟として継承し、五百五十戸。    
梁期侯任破胡 属国都尉として間道から出撃し、匈奴の将軍絫絺縵らを討った功績で侯に封じられる。〈師古曰:「絫の音は力追反。縵の音は莫漢反。」〉 五月辛巳に封じられる。 侯当千が継承し、太始四年、馬一匹を売って十五万銭を得たが、公定価格を超過し、贓物五百以上に当たり、免官された。      
膫侯畢取 南越の将軍として降伏し侯となり、五百十戸を賜る。 六年三月乙酉に封じられる。 侯奉義が継承し、後二年、皇帝を呪詛した罪で腰斬に処せられた。     南陽
将梁侯楊僕 楼船将軍として南越を攻撃し、先鋒を破り敵を退けた功で侯となる。 三月乙酉に封じられ、四年後、元封四年、将軍として朝鮮を攻撃する際に臆病な振る舞いをした罪で、竹二万本を納め、城旦の刑を贖い完遂した。        
安道侯揭陽定 南越の揭陽令として漢軍の到来を聞き自ら降伏し、侯となり、六百戸を賜る。 三月乙酉に封じられる。 侯當時が継承し、延和四年、人を殺害した罪で棄市に処せられた。     南陽
随桃頃侯趙光 南越の蒼梧王として漢軍の到来を聞き降伏し、侯となり、三千戸を賜る。 四月癸亥に封じられ、薨去。 侯昌樂が継承し、本始元年に薨去。継承する子に罪があり、代わることができなかった。     元始五年、放が趙光の玄孫として封を継ぎ、千戸を賜る。
湘成侯監居翁 南越の桂林監が漢軍が番禺を破ったと聞き、甌駱の民40余万を降伏させた功績により、侯に封じられ、830戸を領した。 5月壬申の日に封じられた。 侯益昌が継承したが、五鳳4年、九真太守として犀や奴婢を買い出す者を盗み使った罪で、贓物が百万以上に及び、不道の罪により誅殺された。     堵陽
海常厳侯蘇弘 伏波司馬として南越王建徳を捕らえた功績により侯に封じられた。 7月乙酉の日に封じられ、7年後、太初元年に死去し、後継者がいなかった。        
外石侯呉陽 元の東越衍侯として繇王を助けた功績により侯に封じられ、千戸を領した。 元封元年正月壬午の日に封じられ、9年後に死去した。 太初4年、侯首が継承したが、14年後、後2年、皇帝を呪詛した罪で腰斬に処された。     済陽
下鄜侯左将黄同〈師古曰:「鄜は孚と読む。」〉 元の甌駱左将として西于王を斬った功績により侯に封じられ、700戸を領した。 4月丁酉の日に封じられた。 侯奉漢が継承したが、後2年、皇帝を呪詛した罪で腰斬に処された。     南陽
繚嫈侯劉福〈師古曰:「繚は聊と読む。嫈は於耕反と読む。」〉 校尉として横海将軍に従い南越を撃った功績により侯に封じられた。 正月乙卯の日に封じられ、2年後、罪を犯して免官された。        
蓹児厳侯轅終古〈師古曰:「蓹は御と読む。〉」 軍卒として東越の徇北将軍を斬り、侯となる。 閏月癸卯に封じられ、六年後、太初元年に死去、後継者なし。        
開陵侯建成 元東粤の建成侯として繇王と共に餘善を斬り、侯となる。二千戸。 閏月癸卯に封じられる。 侯祿が継承し、征和三年、衛太子の寵愛した女子を匿い、皇帝を呪詛した罪で腰斬。〈師古曰:「舍は居止の意。」〉     臨淮
臨蔡侯孫都 南粤の郎として、漢軍が番禺を破り、伏波将軍が南粤の相呂嘉を捕らえ、侯となる。千戸。 閏月癸卯に封じられる。 侯襄が継承し、太初元年、番禺で人を奪い略奪した罪で処刑。     河内
東城侯居股 元東粤の繇王として東粤王餘善を斬り、侯となる。万戸。 閏月癸卯に封じられ、二十年後、延和三年、衛太子の挙兵謀反に連座し腰斬。       九江
無錫侯多軍 東粤の将軍として、漢軍が到着すると軍を捨て降伏し、侯となる。千戸。 元年に封じられる。 侯卯が後を継ぎ、延和四年、帰義趙文王と共に兵を率いて反乱者を追撃したが、弘農まで来て勝手に兵を捨てて戻った罪で、贖罪し、免職された。     会稽
涉都侯喜 父が元南海太守であったため、漢軍が到着すると、越の邑を挙げて降伏し、子が侯に封じられ、二千四十戸を与えられた。 元年に封じられ、八年後、太初二年に死去し、後継者がいなかった。       南陽
平州侯王唊〈如淳が注:「唊は頰と発音する。」〉 朝鮮の将として、漢軍が到着すると降伏し、侯に封じられ、千四百八十戸を与えられた。 三年四月丁卯に封じられ、四年後に死去し、後継者がいなかった。       梁父
荻苴侯韓陶〈師古が注:「荻は狄と発音する。苴は七余反と発音する。」〉 朝鮮の相として兵を率い、漢軍に包囲され降伏し、侯に封じられ、五百四十戸を与えられた。〈師古が注:「相として朝鮮兵を率いた。」〉 四月丁卯に封じられ、十九年後、延和二年に死去し、封は終身で、後継が認められなかった。       勃海
澅清侯参〈師古が注:「澅は獲と発音する、また胡卦反とも発音する。」〉 朝鮮の尼谿相として、使者を送ってその王右渠を殺害し、降伏し、侯に封じられ、千戸を与えられた。 六月丙辰に封じられ、十一年後、天漢二年、朝鮮の逃亡者を匿った罪で、獄に下され病死した。      
騠茲侯稽谷姑〈師古が注:「騠は大奚反と発音する。」〉 小月氏の右苴王として衆を率いて降伏し、侯に封じられ、千九百戸を与えられた。〈師古が注:「苴は子余反と発音する。」〉 四年十一月丁未に封じられ、三年後、太初元年に薨去し、後継者がいなかった。       琅邪
浩侯王恢 元中郎将として兵を率いて車師王を捕らえた功績により、侯に封じられた。 正月甲申に封じられ、一月後、酒泉で詔書を偽造して害をなした罪で、死刑相当となったが、贖罪により免官された。〈如淳の注:律によれば、詔書を偽造して大害をなす者は腰斬。詔書を偽造して害をなす場合と、害をなさない場合がある。〉        
瓡讘侯杆者〈師古の注:瓡は狐と同じ読み、讘は之涉反と読む。〉 小月氏王として将軍の千騎を率いて降伏し、侯に封じられ、七百六十戸を領した。 正月乙酉に封じられ、二年後に薨去した。 六月、侯勝が後を継ぎ、五年後、天漢二年に薨去した。制により幸い封じられたが、後継は認められなかった。     河東
幾侯張䧄〈師古の注:䧄は格または各と読む。〉 朝鮮王子として漢軍が朝鮮を包囲した際に降伏し、侯に封じられた。 三年癸未に封じられ、六年後、朝鮮に使いし、謀反を企て、格闘の末に死亡した。       河東
涅陽康侯最 父が朝鮮の相路人で、漢軍が到着した際に最初に降伏し、途中で死亡したため、子が侯を継いだ。 三月壬寅に封じられ、五年後、太初元年に薨去し、後継者がいなかった。      
海西侯李廣利 貳師将軍として大宛を攻撃し王を斬った功績により、侯に封じられ、八千戸を領した。 太初四年四月丁巳に封じられ、十一年後、延和三年に匈奴を撃つが兵敗し、降伏した。        
新畤侯趙弟 貳師将軍の騎士として郁成王の首を斬り、侯となる。〈師古曰:「郁成は西域の国名である。」〉 四月丁巳に封じられ、七年後、太始三年に太常として獄を鞠(きく)むに実を欠き、銭百万を入れて死を贖い、城旦として完(まる)くする。〈如淳曰:「鞠とはその辞をもって罪を決することである。」晋灼曰:「律説は罪を出(だ)すを故縦とし、罪を入れるを故不直という。」〉      
承父侯続相如 西域に使いして外王の子弟を発し、扶楽王の首を誅斬し、二千五百人を虜にし、侯となり、千百五十戸を賜る。 太始三年五月に封じられ、五年後、延和四年四月癸亥に軍吏を賊殺し、蛮夷に入るを謀り、上を祝詛するに坐し、腰斬される。       東萊
開陵侯成娩〈師古曰:「娩は音は晚、また免とも読む。」〉 かつて匈奴の介和王として兵を将いて車師を撃つが、封じられた年は不明。   侯順が嗣ぐ。 質侯襃が嗣ぎ、薨じ、後なし。    
        元延元年六月乙未に、釐侯級が襃の弟として紹封され、千二十戸を賜る。 侯参が嗣ぎ、王莽が敗れ、絶える。  
秺侯商丘成〈如淳曰:「秺は音は腐蠹の反。」〉 大鴻臚として衛太子を撃ち、力戦し、他意なく、侯となり、二千一百二十戸を賜る。 延和二年七月癸巳に封じられ、四年後、後二年に詹事として孝文廟に侍祠し、酔って堂下で歌い「出居、安んぞ鬱鬱たる能わん」と言い、大不敬に坐し、自殺する。       濟陰
重合侯莽通 侍郎として反乱者如侯を討伐し、侯に封ぜられ、四千八百七十戸を賜る。 七月癸巳に封ぜられ、四年後、後二年、衛尉潰らと謀反を企てた罪で腰斬に処せられる。       勃海
德侯景建 長安大夫として莽通と共に如侯を討ち、少傅石德を捕らえ、侯に封ぜられ、三千七百三十五戸を賜る。 七月癸巳に封ぜられ、四年後、後二年、莽通と共に謀反を企てた罪で腰斬に処せられる。       濟南
題侯張富昌 山陽の兵卒として李壽と共に衛太子を捕らえ、侯に封ぜられ、八百五十八戸を賜る。 九月に封ぜられ、四年後、後二年四月甲戌、賊に殺害される。       鉅鹿
邗侯李壽〈師古曰:「邗は于と読む。」〉 新安令史として衛太子を捕らえ、侯に封ぜられ、一百五十戸を賜る。 九月に封ぜられ、三年後、衛尉として留守を預かりながら長安の境界を勝手に出て海西侯を高橋まで送り、さらに役人に命じて方士を謀殺しようとした不道の罪で誅殺される。       河內
轑陽侯江喜〈師古曰:「轑は聊と読む。」〉 圉嗇夫として反乱者である元城父令公孫勇を捕らえ、侯に封ぜられ、千一百二十戸を賜る。〈師古曰:「圉は淮陽県である。」〉 二年十一月に封ぜられる。 六年後、侯仁が継ぎ、永光四年、家丞に命じて上書し印符を返還させ、方士に従った罪で免官される。     清河
當塗康侯魏不害 圉守尉として反乱者淮陽胡倩を捕らえ侯に封じられ、侯聖と策を定め封邑を増やされ、合わせて二千二百戸。 十一月に封じられ、死去。 愛侯聖が継承。 剌侯楊が継承。 戴侯向が継承。 九江侯堅居が継承、居摂二年に翼漢侯に改称、王莽が帝位を簒奪すると翼新侯となり、王莽が敗れると断絶。
蒲侯蘇昌 圉小史として反乱者故越王子鄒起を捕らえ侯に封じられ、千二十六戸。 十一月に封じられる。 侯夷吾が継承、鴻嘉三年、婢が自ら贖って民となった後、略取して婢とした罪で免官。     琅邪
丞父侯孫王 反乱者太原白義らを告発し侯に封じられ、千一百五十戸。 四年三月乙酉に封じられ、三年後、始元元年、人を殺害した罪で赦令に会い免官。       東萊

右は孝武帝の七十五人。武安、周陽、長平、冠軍、平津、周子南、楽通、牧丘、富民の九人は外戚恩沢にあり、南奅、龍額、宜春、陰安、発干の五人は父に随い、合わせて八十九人、王子はその中に含まれない。

孝昭功臣表

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號謚姓名 功狀戶數 始封 曾孫 玄孫
秺敬侯金日磾 駙馬都尉として侍中莽何羅の反乱を発覚させた功により侯に封じられ、二千二百一十八戸を領す。 始元二年に侯に封じられ、丙子の日に封じられ、一日で薨去。 始元二年、侯賞が継承し、四十二年で薨去、後継者なし。 元始四年、侯常が日磾の曾孫として侯を継承し、千戸を領すが、王莽の敗北により断絶。  
建平敬侯杜延年 諫大夫として左将軍らの反乱を告発した功により侯に封じられ、二千戸を領す。太僕として大将軍と共に先策を定めた功により加封され、二千三百六十戸となる。 元鳳元年七月甲子に封じられ、二十八年で薨去。 甘露二年、孝侯緩が継承し、十九年で薨去。 竟寧元年、荒侯業が継承し、三十四年で薨去。 元始二年、侯輔が継承。 済陽侯憲が継承し、建武年間に先に梁王に降伏したため、薨去しても代わることができず。〈師古曰:「梁王は劉永である。」〉
宜城戴侯燕倉 仮の稻田使者として左将軍桀らの反乱の謀を先に発覚させ、大司農敞に報告した功により侯に封じられる。侯安は六百戸を削減され、七百戸に定まる。 七月甲子に封じられ、六年で薨去。 元平元年、刺侯安が継承し、四十一年で薨去。 竟寧元年、釐侯尊が継承し、十年で薨去。 陽朔二年、煬侯武が継承。 濟陰侯級が継承。
      六世侯舊が継承し、王莽が敗れ、断絶。      
弋陽節侯任宮 元丞相の徵事として、反乱者の左将軍桀を手ずから捕らえ、侯に封じられ、九百十五戸。 七月甲子に封じられ、三十三年で薨去。 初元二年、剛侯千秋が継承し、三十二年で薨去。 河平三年、愿侯惲が継承し、二年で薨去。 陽朔元年、孝侯岑が継承し、二十四年で薨去。 元始元年、侯固が継承し、更始元年、兵に殺害される。
商利侯王山寿 丞相少史として、反乱者の車騎将軍安を丞相府に誘い込み、侯に封じられ、九百十五戸。 七月甲子に封じられ、十四年、元康元年、代郡太守として十人の罪を不当に弾劾した罪で免官。      
成安厳侯郭忠 張掖属国都尉として匈奴の侵入と戦い、黎汗王を斬り、侯に封じられ、七百二十四戸。 三年二月癸丑に封じられ、七年で薨去。 本始三年、愛侯遷が継承し、四年で薨去。 元康三年、刻侯賞が継承し、四十一年で薨去。 陽朔三年、𨜐侯の長が継承した。〈師古曰:「𨜐は枲と読む。」〉 潁川釐侯の萌が継承し、薨去し、後継者がいなかった。
      六世、居摂元年、侯の毎が忠の玄孫の子として紹封されたが、王莽が敗れ、断絶した。      
平陵侯范朋友 校尉として反乱した氐を討ち、後に将軍として烏桓を討ち、王を捕らえ、首級六千二百を虜にし、侯となり、大将軍光と策を定め、益封され、総計二千九百二十戸。 四年七月乙巳に封じられ、十一年、地節四年、謀反の罪で誅殺された。       武当
義陽侯傅介子 平楽廄監として使い、楼蘭王を誅殺し、首を斬り、侯となり、七百五十九戸。 七月乙巳に封じられ、十三年、元康元年に薨去した。嗣子に罪があり、継承できなかった。     元始四年、侯の長が介子の曾孫として紹封され、更始元年、兵に殺された。 平氏

右は孝昭帝の八人。博陸、安陽、宜春、安平、富平、陽平の六人は恩沢外戚にあり、桑楽の一人は父に随い、合わせて十五人。

孝宣功臣表

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号謚姓名 功状戸数 始封 曾孫 玄孫
長羅壮侯常惠 校尉光禄大夫として節を持ち、烏孫兵を率いて匈奴を撃ち、名王を捕らえ、首級三万九千を挙げ、侯に封ぜられ、二千八百五十戸を賜る。 本始四年四月癸巳に封ぜられ、二十四年で薨去。 初元二年、厳侯成が嗣ぎ、十六年で薨去。 建始三年、愛侯邯が嗣ぎ、五年で薨去。 河平四年、侯翕が嗣ぎ、四十九年、建武四年に薨去、後継者なし。 陳留
爰戚靖侯趙長平 平陵大夫として楚王延寿の反乱を告発し、侯に封ぜられ、千五百三十戸を賜る。 地節二年四月癸卯に封ぜられ、十七年で薨去。 節侯訢が嗣ぐ。 永始四年、侯牧が嗣ぎ、四十年、建武四年、先に梁王に降ったため、免官。    
博成侯張章 長安の男子として先に大司馬霍禹らの謀反を発覚し、期門董忠に告げ、忠が上聞し、侯に封ぜられ、三千九百一十三戸を賜る。 四年八月乙丑に封ぜられ、九年で薨去。 五鳳元年、侯建が嗣ぎ、十二年、建始四年、陽邑公主と婢が主の傍で姦通し、数度酔って主を罵った罪で、免官。     淮陽
高昌壮侯董忠 期門として張章から霍禹の謀反を聞き、左曹楊惲に告げ、侯に封ぜられるが、再び法に坐し、千一百戸を削られ、七十九戸に定まる。 八月乙丑に封ぜられ、十九年で薨去。 初元二年、煬侯宏が嗣ぎ、四十一年、建平元年、佞邪の罪で免官、二年、故国に再封、三年で薨去。 元寿元年、侯武が継承、二年、父宏が以前に奸邪であったことで連座し、免官。 建武二年五月己巳、侯永が紹封。 千乗
平通侯楊惲 左曹中郎として董忠らの言により霍禹らの謀議を受け、侍中金安上に報告し、侯、二千五百戸。 八月乙丑に封じられ、十年、五鳳三年、光禄勲として政治を誹謗したことで連座し、免官。       博陽
都成敬侯金安上 侍中中郎将として楊惲の言により霍禹らの反逆の謀議を受け、伝言して霍氏の禁闥を止め、侯、千七百七十一戸。 八月乙丑に封じられ、十一年で薨去。 五鳳三年、夷侯常が継承、一年で薨去、後継者なし。 元始元年、侯欽が安上の孫として紹封、王莽に誅殺される。 元始元年、戴侯楊が継承、王莽の敗北で断絶。  
合陽愛侯梁喜 平陽大夫として霍徴史、徴史の子信、家監迴倫、故侍郎鄭尚時の謀反を報告し、侯、千五百戸。 元康四年二月壬午に封じられ、四十一年で薨去。 建始二年、侯放が継承。 元始五年、侯萌が喜の孫として紹封、千戸、王莽の敗北で断絶。   平原
安遠繆侯鄭吉 校尉光祿大年が兵を率いて日逐王の降伏を迎え、さらに車師を破った功績により侯に封じられたが、法に触れて三百戸を削られ、七百九十戸に定められた。 神爵三年四月壬戌に封じられ、十一年で死去した。 初元元年、侯光が継承し、八年後の永光三年に死去し、後継者がいなかった。 居摂元年、侯永が吉の曾孫として千戸で再封されたが、王莽が敗れて断絶した。  
帰徳靖侯先賢撣〈師古曰:「撣は纏と読む。」〉 匈奴単于の従兄である日逐王が率いる衆を降伏させた功績により侯に封じられ、二千二百五十戸を与えられた。 四月戊戌に封じられ、二十六年で死去した。 竟寧元年、煬侯富昌が継承し、二年で死去した。 建始二年、侯諷が継承し、五十六年で死去した。 建武二年、侯襄が継承した。 汝南侯霸が継承したが、永平十四年に罪を犯して免職された。
信成侯王定 匈奴烏桓屠驀単于の子である左大将軍が率いる衆を降伏させた功績により侯に封じられ、千六百戸を与えられたが、後に弟の謀反に連座して百五戸を削られた。〈師古曰:「驀は莫白反と読む。」〉 五鳳二年九月癸巳に封じられ、十二年で死去した。 初元五年、侯広漢が継承したが、三年後の永光三年に死去し、後継者がいなかった。 元始五年、侯楊が定の孫として千戸で再封された。   細陽
義陽侯厲温敦 匈奴謼連累単于が率いる衆を降伏させた功績により侯に封じられ、千五百戸を与えられた。〈師古曰:「謼は呼と同じ。累は力住反と読む。」〉 三年二月甲子に封じられ、四年、子の伊細王が謀反を企てた罪により、爵位を削られて関内侯となり、食邑千戸を与えられた。      

右は孝宣帝の十一人。陽都、営平、平丘、昌水、陽城、爰氏、扶陽、高平、陽城、博陽、邛成、将陵、建成、西平、平恩、平昌、楽陵、平臺、楽昌、博望、楽成の二十一人は恩沢外戚にあり、楽平、冠陽、酇、周子南君の四人は父に随い、合わせて三十六人。

孝元功臣表

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号謚姓名 功状戸数 始封 曾孫 玄孫
義成侯甘延寿 西域騎都尉として派遣され、郅支単于を討ち、王以下千五百級を斬り、侯に封じられ、四百戸を与えられた。孫の遷が益封され、合計二千戸となった。 竟寧元年四月戊辰に封じられ、九年で薨去した。 陽朔元年、煬侯建が嗣ぎ、十九年で薨去した。 建平元年、節侯遷が嗣ぎ、居摂二年に誅郅支侯と改称され、十四年で薨去した。 建国二年、侯相が嗣ぎ、建武四年、兵に殺害された。  
駟望忠侯冷広〈師古曰:「冷は音零。」〉 湿沃公士として、男子馬政の謀反を告発し、侯に封じられ、千八百戸を与えられた。〈師古曰:「湿は音它合反。」〉 鴻嘉元年正月辛丑に封じられ、薨去した。 侯何斉が嗣ぎ、王莽が敗れた後、絶えた。     琅邪
延郷節侯李譚 尉氏の男子が反乱者樊並を捕らえた功により侯に封じられ、千戸を領した。 永始四年七月己巳に封じられ、十三年で死去した。 元始元年、侯成が継承し、王莽が敗れたため断絶した。      
新山侯稱忠 反乱者樊並を捕らえた功により侯に封じられ、千戸を領した。 十一月己酉に封じられた。        
童鄉釐侯鍾祖 反乱者樊並を捕らえた功により侯に封じられ、千戸を領した。 七月己酉に封じられ、死去し、後継者がいなかった。 元始五年、侯匡が祖の子として継承し、王莽が敗れたため断絶した。      
樓虛侯訾順 反乱者樊並を捕らえた功により侯に封じられ、千戸を領した。 七月己酉に封じられた。      

右は孝元帝の一人。安平、平恩、扶陽の三人は父に随い、陽平、楽安の二人は恩沢外戚にあり、合わせて六人。孝成帝の五人。安昌、高陽、安陽、城陽、高陵、定陵、殷紹嘉、宜郷、氾郷、博山の十人は恩沢外戚にあり、武陽、博陽、賛、騏、龍頟、開陵、楽陵、博望、楽成、安平、平阿、成都、紅陽、曲陽、高平の十五人は父に随い、合わせて三十人。

師古曰:「頟の字は或いは額と作る。」

原本を確認する(ウィキソース):漢書 巻17