昔、周は二代を監察し、三聖が法を制定し、五等の爵位を立て、八百の国を封じ、同姓は五十余りあった。周公、康叔は魯、衛に建国し、各々数百里;太公は斉に、五侯九伯の地もあった。詩にその制度を載せて言う:「介人惟藩、大師惟垣。大邦惟屏、大宗惟翰。懷德惟寧、宗子惟城。母俾城壞、毋獨斯畏。」親親賢賢を以て、功徳を褒め表し、盛衰に関わり、深根固本とし、抜くべからざるものとした。故に盛んな時は周、邵がその治めを補い、刑罰を廃止させ;衰えた時は五伯がその弱さを支え、共に守った。幽、平の後、日々に衰え、河洛の間に至り、二周に分かれ、逃責の台、窃鈇の言があった。然し天下はこれを共主と呼び、強大な者も敢えて傾けなかった。八百余年を経て、数極まり徳尽き、王赧に至り、庶人に降格され、天年を全うした。号位は天下に絶えたが、尚も枝葉が支え合い、虚位に居る者なく、海内は三十余年主無しであった。
秦は地勢の勝地を占め、狙詐の兵を駆使し、山東を蚕食し、一切を勝利した。習熟を誇り、私知を任じ、三代を嘲笑し、古法を蕩滅し、窃みに皇帝と号し、子弟は匹夫とし、内に骨肉本根の補佐無く、外に尺土藩翼の防衛無し。陳、吳が白挺を奮い、劉、項が随いてこれを斃した。故に言う、周はその歴を過ぎ、秦は期に及ばず、国勢然りと。
漢興の初め、海内新たに定まり、同姓少なく、亡秦孤立の敗を戒め、疆土を剖裂し、二等の爵を立てた。功臣侯者は百余りの邑、王子弟を尊び、九国を大いに啓いた。雁門以東から遼陽まで、燕、代とした。常山以南、太行左転し、河、済を渡り、海に漸く、斉、趙とした。穀、泗以往、亀、蒙を奄有し、梁、楚とした。東は江、湖を帯び、会稽に薄く、荊呉とした。北は淮瀕を界とし、廬、衡を略し、淮南とした。漢の陽に波し、九嶷に亘り、長沙とした。諸侯は境を比べ、三垂を周帀し、外は胡越に接した。天子自ら三河、東郡、潁川、南陽を持ち、江陵以西から巴蜀まで、北は雲中から隴西まで、京師内史と合わせて十五郡、公主、列侯は頗る邑を其中に置いた。藩国大なる者は州を誇り郡を兼ね、城数十を連ね、宮室百官は京師と同じ制度で、撟抂過正と言えよう。然し、高祖創業、日暇無く、孝惠享国浅く、高后女主摂位で、海内晏如、狂狡の憂い無く、諸呂の難を折り、太宗の業を成したのも、諸侯に頼った。
然し諸侯は元来大きく、末流濫れて溢れ、小なる者は淫荒越法、大なる者は睽孤横逆、身を害し国を喪った。故に文帝は賈生の議を採り斉、趙を分け、景帝は鼂錯の計を用い呉、楚を削った。武帝は主父の冊を施し、推恩の令を下し、諸侯王に戸邑を分けて子弟を封じさせ、黜陟を行わず、藩国自ら析けた。此れ以来、斉は七に分かれ、趙は六に分かれ、梁は五に分かれ、淮南は三に分かれた。皇子始めて立つ者は、大国も十余城を超えず。長城、燕、代は旧名有れども、皆南北辺を失った。景は七国の難に遭い、諸侯を抑損し、その官を減黜した。武は衡山、淮南の謀有り、左官の律を作り、附益の法を設け、諸侯は惟だ衣食税租を得、政事に関与せず。
哀、平の際に至り、皆継体苗裔、親属疎遠、帷牆の中に生まれ、士民に尊ばれず、勢は富室と異ならず。本朝短世、国統三絶、故に王莽は漢中外殫微、本末俱弱を知り、忌憚無く、姦心を生じ;母后の権を因み、伊周の称を仮り、顓に威福を廟堂の上に作り、階序を降りずして天下を運んだ。詐謀既に成り、遂に南面の尊を据え、五威の吏を分遣し、馳伝天下、符命を行った。漢諸侯王は厥角𩠜首、璽韍を奉上し、後れるを恐れ、或いは美を称え徳を頌し、容媚を求めた、哀れならずや!是を以て其の終始強弱の変を究め、監戒を明らかにす。
| 號謚 | 屬 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 | 六世 | 七世[51] |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 楚元王交 | 高帝弟。[52] | 六年正月丙午立,二十三年薨。 | 孝文二年,夷王郢客嗣,四年薨。 | 六年,王戊嗣,二十一年,孝景三年,反,誅。 | ||||
| 孝景四年,文王禮以元王子平陸侯紹封,三年薨。 | 七年,安王道嗣,二十二年薨。 | 元朔元年,襄王注嗣,十二年薨。 | 元鼎元年,節王純嗣,十六年薨。 | 天漢元年,王延壽嗣,三十二年,地節元年,謀反,誅。 | ||||
| 代王喜 | 高帝兄。 | 正月壬子立,七年,為匈奴所攻,棄國自歸,廢為郃陽侯,孝惠二年薨。 | 吳高祖十二年十月辛丑,王濞以故代王子沛侯立,四十二年,孝景三年,反,誅。 | |||||
| 齊悼惠王肥 | 高帝子 | 正月壬子立,十三年薨。 | 孝惠七年,哀王襄嗣,十二年薨。 | 孝文2年、文王則が継承、14年で死去、後継者なし。 | ||||
| 孝文16年、孝王將閭が悼恵王の子楊虚侯として封じられ、11年で死去。 | 孝景4年、懿王壽が継承、23年で死去。 | 元光4年、厲王次昌が継承、5年で死去、後継者なし。 | ||||||
| 城陽孝文2年2月乙卯、景王章が悼恵王の子朱虚侯として立つ、2年で死去。 | 4年、共王喜が継承、8年で淮南に移封、4年で復帰、合計33年で死去。 | 孝景後元年、頃王延が継承、26年で死去。 | 元狩6年、敬王義が継承、9年で死去。 | 元封3年、惠王武が継承、11年で死去。 | 天漢4年、荒王順が継承、46年で死去。 | |||
| 8世甘露3年、戴王恢が継承、8年で死去。 | 9世永光元年、孝王景が継承、24年で死去。 | 10世鴻嘉2年、哀王雲が継承、1年で死去、後継者なし。永始元年、王俚が雲の弟として封じられ、25年で王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 | ||||||
| 済北2月乙卯、王興居が悼恵王の子東牟侯として立つ、2年で謀反、誅殺。 | ||||||||
| 菑川16年4月丙寅、懿王志が悼恵王の子安都侯として済北王に立つ、11年で孝景4年、菑川に移封、35年で死去。 | 元光6年、靖王建が継承、20年で死去。 | 元封2年、頃王遺が継承、35年で死去。 | 元平元年、思王終古が継承、28年で死去。 | 初元3年、考王尚が継承、6年で死去。 | 永光4年、孝王橫が継承、31年で死去。 | |||
| 8世元延4年、懷王友が継承、6年で死去。 | 9世建平4年、王永が継承、12年で王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 | |||||||
| 済北4月丙寅、王辟光が悼恵王の子扐侯として立つ、11年で反乱、誅殺。 | ||||||||
| 菑川4月丙寅、王賢が悼恵王の子武城侯として立つ、11年で反乱、誅殺。 | ||||||||
| 膠西4月丙寅、王卬が悼恵王の子平昌侯として立つ、11年で反乱、誅殺。 | ||||||||
| 膠東4月丙寅、王熊渠が悼恵王の子白石侯として立つ、11年で反乱、誅殺。 | ||||||||
| 荊王賈 | 高帝の従父弟。 | 6年正月丙午に立つ、6年12月、英布に攻められ、後継者なし。 | ||||||
| 淮南厲王長 | 高帝の子。 | 十一年十月庚午に立つ。二十三年、孝文六年、謀反を企て、廃されて蜀に移され、雍で死去。 | 十六年四月丙寅、王安が厲王の子の阜陵侯として紹封される。四十三年、元狩元年、謀反を企て、自殺。 | |||||
| 衡山四月丙寅、王賜が厲王の子の陽周侯として廬江王に立つ。十二年、衡山に移される。四十三年、謀反を企て、自殺。 | ||||||||
| 濟北四月丙寅、王勃が厲王の子の安陽侯として衡山王に立つ。十二年、濟北に移される。一年で薨去、謚は貞王。 | 孝景六年、成王胡が嗣ぐ。五十四年で薨去。 | 天漢四年、王寬が嗣ぐ。十一年、後二年、謀反を企て、自殺。 | ||||||
| 趙隠王如意 | 高帝の子。 | 九年四月に立つ。十二年、呂太后に殺害され、後継者なし。 | ||||||
| 代王 | 高帝の子。 | 十一年正月丙子に立つ。十七年、高后八年、皇帝となる。 | ||||||
| 趙共王恢[54] | 高帝の子。 | 十一年三月丙午、梁王となる。十六年、高后七年、趙に移される。同年自殺、後継者なし。 | ||||||
| 趙幽王友 | 高帝の子。 | 十一年三月丙寅、淮陽王に立つ。二年、趙に移される。十四年、高后七年、自殺。 | 孝文元年、王遂が幽王の子として紹封される。二十六年、孝景三年、反乱を起こし、誅殺される。 | |||||
| 河間孝文二年三月乙卯、文王辟彊が幽王の子として立つ。十三年で薨去。 | 十五年、哀王福が嗣ぐ。一年で薨去、後継者なし。 | |||||||
| 燕霊王建 | 高帝の子。 | 十二年二月甲午に立つ。十五年、高后七年、薨去。呂太后がその子を殺害。 | ||||||
| 燕敬王澤 | 高帝の従祖昆弟。 | 高後七年、営陵侯として琅邪王に立つ。二年、孝文元年、燕に移される。二年で薨去。 | 三年、康王嘉が嗣ぐ。二十六年で薨去。 | 孝景六年、王定国が嗣ぐ。二十四年、禽獣の行いの罪で、自殺。 |
右高祖十一人。呉は父に随い、合計十二人。
| 号謥 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 | 六世 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 梁懐王揖 | 二年二月乙卯に立つ、十年で薨去、後継者なし。 | |||||
| 梁孝王武 | 二月乙卯、代王に立つ、三年、淮陽王に移る、十年、梁に移る、三十五年で薨去。 | 孝景後元年、恭王買が継ぐ、七年で薨去。 | 建元五年、平王襄が継ぐ、四十年で薨去。 | 太始元年、貞王毋傷が継ぐ、十一年で薨去。 | 始元二年、敬王定国が継ぐ、四十年で薨去。 | 初元四年、夷王遂が継ぐ、六年で薨去。 |
| 七世 永光五年、荒王嘉が継ぐ、十五年で薨去。 | 八世 陽朔元年、王立が継ぐ、二十七年、元始三年、罪あり、廃され、漢中に移る、自殺。元始五年二月丁酉、王音が孝王玄孫の曾孫として紹封、五年、王莽が位を簒奪し、公に貶される、翌年廃される。 | |||||
| 済川孝景中六年五月丙戌、王明が孝王子桓邑侯として立つ、七年、建元三年、中傅を殺した罪で、廃され房陵に移る。 | ||||||
| 済東五月丙戌、王彭離が孝王子として立つ、二十九年、人を殺した罪で、廃され上庸に移る。 | ||||||
| 山陽五月丙戌、哀王定が孝王子として立つ、九年で薨去、後継者なし。 | ||||||
| 済陰五月丙戌、哀王不識が孝王子として立つ、二年で薨去、後継者なし。 | ||||||
| 代孝王参 | 二月乙卯、太原王に立つ、三年、代王に改まる、七年で薨去。 | 孝文後三年、恭王登が継ぐ、二十九年で薨去。 | 清河元光三年、剛王義が継ぐ、十九年、元鼎三年、清河に移る、三十八年で薨去。 | 太始三年、頃王陽が継ぐ、二十五年で薨去。 | 地節元年、王年が継ぐ、四年、同産妹と姦通した罪で、廃され房陵に移る、邑百家とともに。 | 広宗元始二年四月丁酉、王如意が孝王玄孫の子として紹封、七年、王莽が位を簒奪し、公に貶される、翌年廃される。 |
右孝文三人。斉、城陽、両済北、済南、菑川、膠西、膠東、趙、河間、淮南、衡山十二人は父に随い、合計十五人。
| 号謥 | 初代封王 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 | 六世 | 七世 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 河間獻王劉德 | 二年三月甲寅に封じられ、二十六年で薨去。 | 元光六年、共王劉不周が継承、四年で薨去。 | 元朔四年、剛王劉基が継承、十二年で薨去。 | 元鼎四年、頃王劉緩が継承、十七年で薨去。 | 天漢四年、孝王劉慶が継承、四十三年で薨去。 | 五鳳四年、王劉元が継承、十七年、建昭元年、人を殺害した罪で、房陵に追放され廃位。 | |
| 建始元年正月丁亥、惠王劉良が孝王の子として再封、二十七年で薨去。 | 建平二年、王劉尚が継承、十四年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃位。 | ||||||
| 臨江哀王劉閼 | 三月甲寅に封じられ、三年で薨去、後継者なし。 | ||||||
| 魯共王劉餘 | 三月甲寅、淮陽王に封じられ、二年後、魯に移封、二十八年で薨去。 | 元朔元年、安王劉光が継承、四十年で薨去。 | 後元元年、孝王劉慶忌が継承、三十七年で薨去。 | 甘露三年、頃王劉封が継承、二十八年で薨去。 | 陽朔二年、文王劉睃が継承、十九年で薨去、後継者なし。 | ||
| 建平三年六月辛卯、王劉閔が頃王の子郚郷侯として再封、十三年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年、神書を献じて王莽の徳を称え、列侯に封じられ、王姓を賜る。 | |||||||
| 江都易王劉非 | 三月甲寅、汝南王に封じられ、二年後、江都に移封、二十八年で薨去。 | 元朔二年、王劉建が継承、六年、元狩二年、謀反を企て、自殺。 | 広世元始二年四月丁酉、王劉宮が易王の庶孫盱眙侯の子として再封、五年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃位。 | ||||
| 趙敬肅王劉彭祖 | 二月甲寅に、広川王に立てられ、四年後に趙に移封、六十三年で薨去。 | 征和元年に、頃王昌が継承、十九年で薨去。 | 本始元年に、懐王尊が継承、五年で薨去。 | ||||
| 地節四年二月甲子に、哀王高が頃王の子として紹封、四月で薨去。 | 元康元年に、共王充が継承、五十六年で薨去。 | 元延三年に、王隠が継承、十九年後、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年に廃止。 | |||||
| 平干征和二年に、頃王偃が敬粛王の末子として立てられ、十一年で薨去。 | 元鳳元年に、繆王元が継承、二十四年後、五鳳二年に、謁者を殺害した罪で、薨去時に後継者なし。 | ||||||
| 長沙定王発 | 三月甲寅に立てられ、二十八年で薨去。 | 元朔二年に、戴王庸が継承、二十七年で薨去。 | 天漢元年に、頃王附朐が継承、十七年で薨去。〈晋灼曰:「附は音符の如し。」師古曰:「附は本字の如く読む。朐は劬と音す。本伝は鮒鮈と作る、その音同じのみ。」〉 | 始元四年に、剌王建徳が継承、三十四年で薨去。 | 黄龍元年に、煬王旦が継承、二年で薨去、後継者なし。 | ||
| 初元四年に、孝王宗が剌王の子として紹封、三年で薨去。 | 永光二年に、繆王魯人が継承、四十八年で薨去。 | 居摂二年に、舜が継承、二年後、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年に廃止。 | |||||
| 膠西於王端 | 三年六月乙巳に立てられ、四十七年後、元封三年で薨去、後継者なし。 | ||||||
| 中山靖王勝 | 六月乙巳に立てられ、四十二年で薨去。 | 元鼎五年に、哀王昌が継承、二年で薨去。 | 元封元年に、穅王昆侈が継承、二十一年で薨去。〈師古曰:「穅は康と音同じ、穅は悪しき謚なり。好楽怠政を穅と曰う。他皆此に類す。」〉 | 征和四年に、頃王輔が継承、三年で薨去。 | 始元元年に、憲王福が継承、十七年で薨去。 | 地節元年に、懐王脩が継承、十五年で薨去、後継者なし。 | 広徳鴻嘉二年八月に、夷王雲客が懐王の従父弟子として紹封、一年で薨去、後継者なし。 |
| 広平建平三年正月壬寅に、王漢が夷王の弟として紹封、十三年後、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年に廃止。 | |||||||
| 膠東王 | 四年四月乙巳に立てられ、四年後に皇太子となる。 | ||||||
| 臨江愍王栄 | 七年十一月己酉、故皇太子として立てられ、三年、宗廟の塀内の土地を侵して宮殿を建てた罪で、自殺した。 | ||||||
| 広川恵王越 | 中二年四月乙巳に立てられ、十二年で薨去した。 | 建元五年、繆王斉が継承し、四十五年で薨去した。 | 征和二年、王去が継承し、二十二年、本始四年、姫を煮殺す不道の罪で、廃位され上庸に移され、邑百戸を与えられた。 | ||||
| 地節四年五月庚午、戴王文が繆王の子として紹封され、二年で薨去した。 | 元康二年、王汝陽が継承し、十五年、甘露四年、人を殺し、廃位され房陵に移された。 | ||||||
| 広徳元始二年四月丁酉、静王楡が恵王の曾孫で戴王の子として紹封され、四年で薨去した。 | 居摂元年、王赤が継承し、三年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格され、翌年廃位された。 | ||||||
| 膠東康王寄 | 四月乙巳に立てられ、二十八年で薨去した。 | 元狩三年、哀王賢が継承し、十四年で薨去した。 | 元封五年、戴王通平が継承し、二十四年で薨去した。 | 始元五年、頃王音が継承し、五十四年で薨去した。 | 河平元年、恭王授が継承し、十四年で薨去した。 | 永始三年、王殷が継承し、二十三年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格され、翌年廃位された。 | |
| 六安元狩二年七月壬子、恭王慶が康王の少子として立てられ、三十八年で薨去した。 | 始元四年、夷王禄が継承し、十年で薨去した。 | 本始元年、繆王定が継承し、二十三年で薨去した。 | 甘露四年、頃王光が継承し、二十七年で薨去した。 | 陽朔二年、王育が継承し、三十三年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格され、翌年廃位された。 | |||
| 清河哀王乗 | 中三年三月丁酉に立てられ、十二年で薨去し、後継者がいなかった。 | ||||||
| 常山憲王舜 | 中五年三月丁巳に立てられ、三十二年で薨去した。 | 元鼎三年、王勃が継承し、憲王の喪服中に姦淫した罪で、廃位され房陵に移された。 | |||||
| 真定元鼎三年、頃王平が憲王の子として紹封され、二十五年で薨去した。 | 征和四年、烈王偃が継承し、十八年で薨去した。 | 本始三年、孝王申が継承し、三十三年で薨去した。 | 建昭元年、安王雍が継承、16年で死去。 | 陽朔三年、共王普が継承、15年で死去。 | 綏和二年、王楊が継承、16年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 | ||
| 泗水元鼎二年、思王商が憲王の末子として即位、15年で死去。 | 太初二年、哀王安世が継承、1年で死去、後継者なし。 | ||||||
| 三年、戴王賀が思王の子として再封、20年で死去。 | 元鳳元年三月丙子、勤王綜が継承、39年で死去。 | 永光三年、戾王駿が継承、31年で死去。 | 元廷三年、王靖が継承、19年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 |
右孝景十四人。楚、済川、済東、山陽、済陰五人は父に随い、合計十九人。
| 号謚 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 | 玄孫 |
|---|---|---|---|---|---|
| 齊懷王閎 | 元狩六年四月乙巳に即位、8年、元封元年に死去、後継者なし。 | ||||
| 燕剌王旦 | 四月乙巳に即位、37年、元鳳元年、謀反の罪で自殺。 | 廣陽本始元年五月、頃王建が剌王の子として再封、29年で死去。 | 初元五年、穆王舜が継承、21年で死去。 | 陽朔二年、思王璜が継承、21年で死去。 | 建平四年、王嘉が継承、12年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 |
| 廣陵厲王胥 | 四月乙巳に即位、63年、五鳳四年、皇帝を呪詛した罪で自殺。 | 初元二年三月壬申、孝王霸が厲王の子として再封、13年で死去。 | 建昭五年、共王意が継承、13年で死去。 | 建始二年、哀王護が継承、15年で死去、後継者なし。 | |
| 元延二年、靖王守が孝王の子として再封、17年で死去。 | 居攝二年、王宏が継承、3年、王莽が帝位を簒奪し、公に降格、翌年廃止。 | ||||
| 高密本始元年十月、哀王弘が厲王の子として立つ。八年で薨去。 | 元康元年、頃王章が継ぐ。三十四年で薨去。 | 建始二年、懷王寬が継ぐ。十一年で薨去。 | 鴻嘉元年、王慎が継ぐ。二十九年、王莽が位を簒奪し、公に貶される。翌年廃される。 | ||
| 昌邑哀王髆 | 天漢四年六月乙丑に立つ。十一年で薨去。 | 始元元年、王賀が継ぐ。十二年、昭帝の後継として召される。二十七日間在位し、淫乱の行いにより廃され故国に帰る。邑三千戸を与えられる。 |
右孝武四人。六安、真定、泗水、平干の四人は父に従い、合わせて八人。
| 号謚 | 属 | 始封 | 子 | 孫 | 曾孫 |
|---|---|---|---|---|---|
| 淮陽憲王欽 | 宣帝の子。 | 元康三年四月丙子に立つ。三十六年で薨去。 | 河平二年、文王玄が継ぐ。二十六年で薨去。 | 元壽二年、王縯が継ぐ。十九年、王莽が位を簒奪し、公に貶される。翌年廃される。 | |
| 東平思王宇 | 宣帝の子。 | 甘露二年十月乙亥に立つ。三十二年で薨去。 | 鴻嘉元年、煬王雲が継ぐ。十六年。建平三年、上を呪詛した罪で自殺。 | 元始元年二月丙辰、王開明が継ぐ。五年間在位し薨去。後継者なし。 | |
| 中山元始元年二月丙辰、王成都が思王の孫桃郷頃侯宣の子として立つ。中山孝王の後を奉じる。八年。王莽が位を簒奪し、公に貶される。翌年、莽の徳を称える書を献上し、列侯に封ぜられ、王姓を賜る。 | 居攝元年、厳郷侯の子匡が東平王となる。 | ||||
| 楚孝王囂〈師古曰:「囂音敖。」〉 | 宣帝の子。 | 十月乙亥、定陶王に立つ。四年、楚に移る。二十八年で薨去。 | 陽朔元年、懷王芳が継ぐ。一年で薨去。後継者なし。 | ||
| 陽朔二年、思王衍が孝王の子として継ぎ封ぜられる。二十一年で薨去。 | 元寿元年、王紆が継承し、十年後、王莽が帝位を簒奪し、公に降格され、翌年に廃止された。 | ||||
| 信都綏和元年十一月壬子、王景が孝王の孫として定陶王に立てられ、恭王の後を奉じ、三年。建平二年、信都に移され、十三年後、王莽が帝位を簒奪し、公に降格され、翌年に廃止された。 | |||||
| 中山哀王竟 | 宣帝の子。 | 初元二年二月丁巳、清河王に立てられ、五年後、中山王に移され、十三年後に薨去し、後継者がいなかった。 |
右孝宣四人。燕王は継絶し、高密は父に従い、合わせて六人。
| 号謚 | 属 | 始封 | 子 |
|---|---|---|---|
| 定陶共王康 | 元帝の子。 | 永光三年三月、済陽王に立てられ、八年后、山陽に移され、八年。河平四年四月、定陶に移され、合計十九年で薨去した。 | 陽朔三年、王欣が継承し、十四年。綏和元年、皇太子となった。 |
| 中山孝王興 | 元帝の子 | 建昭二年六月乙亥、信都王に立てられ、十五年。陽朔二年、中山に移され、合計三十年で薨去した。 | 綏和二年、王箕子が継承し、六年。元寿二年、皇帝に立てられた。 |
右孝元二人。広陵は継絶し、合わせて三人。孝成の時、河間、広徳、定陶の三国、孝哀の時、広平一国、孝平の時、東平、中山、広徳、広世、広宗の五国、皆継絶。