漢書
孝成皇帝は、元帝の太子である。母は王皇后と言い、元帝が太子宮の甲観畫堂で生まれ、世嫡皇孫となった。宣帝はこれを愛し、字を太孫とし、常に左右に置いた。三歳の時に宣帝が崩御し、元帝が即位し、帝は太子となった。成長して経書を好み、寛博で謹慎であった。初め桂宮に居た時、上(皇帝)が急に召したことがあり、太子は龍樓門を出たが、馳道を横切ることを敢えず、西へ直城門まで行き、横切ることができるところを得てから渡り、作室門に戻って入った。上は遅れたことを問い、その故を尋ねた。状況を答えると、上は大いに喜び、令を著して、太子が馳道を横切ることを得るとした。その後、酒を好み、 燕 楽を楽しんだが、上はこれを能しとしなかった。而定陶恭王は材藝があり、母の傅昭儀も愛幸されたので、上は故に常に恭王を嗣がせようとする意図があった。侍中史丹が太子の家を護り、輔助有力であったことにより、上もまた先帝が特に太子を愛したことを以て、故に廃されることがなかった。
竟寧元年五月、元帝が崩御した。六月己未、太子が皇帝の位に即き、高廟に謁した。皇太后を尊んで太皇太后と曰い、皇后を皇太后と曰う。元舅で侍中 衞 尉陽平侯の王鳳を大司馬大將軍と為し、尚書事を領せしむ。
乙未、有司言う。「乗輿車、牛馬、禽獸は皆礼に非ず、以て葬るに宜しからず。」奏可せらる。
建始元年春正月乙丑、皇曾祖悼考廟災有り。
故河間王の弟で上郡庫令の良を王に立てる。
二月、右将軍長史姚尹らが 匈奴 に使いして還り、塞を去ること百余里、暴風火発し、尹ら七人を焼殺す。
諸侯王、丞相、将軍、列侯、王太后、公主、王主、吏二千石に黄金を賜い、宗室諸官吏千石以下より二百石および宗室の子で属籍有る者、三老、孝弟力田、 鰥寡孤獨 に銭帛を賜い、各差有り、吏民五十戸に牛酒を賜う。
詔 して言った。「乃者火災祖廟に降り、東方に星の孛有り。始めて正しくして虧く。咎孰れか大なる!『書』に云わく、『惟だ先ず王に假して厥の事を正す』と。群公孜孜として、百寮に帥先し、朕の不逮を輔けよ。寛大を崇び、和睦を長じ、凡ての事己を恕し、苛酷を行わむ無からしめよ。其れ天下を大赦し、自新することを得しめよ。」
舅で諸吏光禄大夫関内侯の王崇を安成侯に封ず。舅の王譚、商、立、根、逢時に爵関内侯を賜う。
夏四月、黄霧四塞す。公卿大夫に博く問う。諱む所無からしむ。六月、青蠅無万数未央宮殿中の朝者の坐に集す。
秋、上林宮館で希に御幸する者二十五所を罷む。
八月、両月相承け、晨東方に見る。
九月戊子、流星光地を燭し、長さ四五丈、委曲蛇形し、紫宮を貫く。
十二月、 長安 南北郊を作り、甘泉、汾陰の祠を罷む。是の日大風、甘泉 畤 中の大木十韋以上を抜く。郡国災に被ること什四以上の者は、田租を収めず。
二年春正月、雍五畤を罷む。辛巳、上始めて長安南郊を郊祀す。 詔 して言った。「乃者泰畤、后土を南郊、北郊に徙す。朕は躬を親ら飭え、上帝を郊祀す。皇天報応し、神光並び見る。三輔長く共張繇役の労無し。奉郊県長安、長陵および中都官の耐罪徒を赦す。天下の賦銭を減じ、算四十。」
閏月、渭城延陵亭部を以て初陵と為す。
二月、 詔 して三輔内郡に賢良方正を各一人挙げしむ。
辛丑、上始めて北郊に后土を祠る。
東平王宇に罪有り、樊、亢父県を削る。
秋、太子博望苑を罷め、以て宗室朝請する者に賜う。乗輿廄馬を減ず。
三年春三月、天下の徒を赦す。孝弟力田に爵二級を賜う。諸の逋租賦振貸する所は収めず。
秋、関内大水。七月、虒上の小女陳持弓が大水至ると聞き、走りて横城門に入り、闌入して尚方掖門に至り、未央宮鉤盾中に至る。吏民驚きて城に上る。九月、 詔 して言った。「乃者郡国水災に被り、人民を流殺し、多く千数に至る。京師故無く訛言大水至ると言い、吏民驚恐し、奔走して城に乗る。殆うく苛暴深刻の吏未だ息まず、元元冤失職する者衆し。諫大夫林らを遣わして天下を循行せしむ。」
冬十二月戊申の朔、日に蝕有り。夜、地震未央宮殿中有り。 詔 して言った。「 蓋し 聞く、天衆民を生じて、相治むる能わず、之が為に君を立てて以て統理せしむ。君道得れば、則ち草木昆蟲咸その所を得る。人君徳ならざれば、謫天地に見え、災異婁発し、以て不治を告ぐ。朕は道に渉ること日寡なく、挙錯中らず。乃ち戊申日蝕地震、朕は甚だ之を懼る。公卿其れ各朕の過失を思い、明白に之を陳せよ。『女面従する無く、退きて後言有れ』と。丞相、御史と将軍、列侯、中二千石および内郡国は賢良方正能く直言極諫の士を挙げ、公車に詣らしめよ。朕将に覧せん。」
四年春、中書宦官を罷め、初めて尚書員五人を置く。
五月、中謁者丞陳臨が司隷 校尉 轅豊を殿中に殺す。
秋、桃李実る。大水、河東郡金隄を決す。冬十月、御史大夫尹忠は河決を憂えず職を以てし、自殺す。
河平元年春三月、 詔 して言った。「河東郡を決し、二州を流漂す。 校尉 王延世隄塞し輒ち平らぐ。其れ元を改めて河平と為す。天下の吏民に爵を賜い、各差有り。」
夏四月己亥の晦、日に蝕し、既す。 詔 して言った。「朕は宗廟を保し、戦戦栗栗として、奉称する能わず。伝に曰わく、『男教修めず、陽事得ず、則ち日之が為に蝕す』と。天厥の異を著し、辜朕躬に在り。公卿大夫其れ勉めて悉し心を以て、不逮を輔けよ。百寮各その職を修め、仁人を惇任し、残賊を退遠せよ。朕の過失を陳せよ。諱む所無からしめよ。」天下を大赦す。
六月、典属国を罷め大鴻 臚 に 并 す。
二年春正月、 沛 郡鉄官冶鉄飛ぶ。語は五行志に在り。
夏六月、舅の譚、商、立、根、逢時を皆列侯に封ず。
三年春二月丙戌、犍為地震山崩れ、江水を雍し、水逆流す。
光禄大夫劉向中祕書を校す。謁者陳農を使し、使して天下に遺書を求めしむ。
四年春正月、匈奴 単于 来朝す。
天下の徒を赦し、孝弟力田に爵二級を賜う。諸の逋租賦振貸する所は収めず。
光禄大夫博士嘉ら十一人を遣わして瀕河の郡で水に毀傷され困乏して自存する能わざる者を挙げしめ、財を振貸す。その水に流圧され死し、自葬する能わざるは、郡国に令して槥櫝を給し葬埋せしむ。已に葬る者には銭を与え、人二千。水を避けて他郡国に在る者は、在所に冗食し、謹みて文理を以て遇し、失職せしむる無からしむ。惇厚有行能く直言の士を挙げしむ。
壬申、長陵臨涇岸崩れ、涇水を雍す。
夏六月庚戌、 楚 王囂薨す。
山陽火石中生じ、元を改めて陽朔と為す。
冬、 京兆尹 王章に罪有り、獄に下りて死す。
二年春、寒し。 詔 して言った。「昔帝堯に在りて羲和の官を立て、四時の事を命じ、令してその序を失わしめず。故に『書』に云わく『黎民蕃時に於いて雍す』と、陰陽を以て本と為すことを明らかにす。今公卿大夫或いは陰陽を信ぜず、薄くして小さくし、奏請する所多く時政に違う。伝に以て知らず、周行天下して、而して陰陽和調せんことを欲望す。豈に謬らざらんや!其れ務めて四時月令に順え。」
夏五月、吏八百石、五百石の秩を除く。
秋、関東大水、流民函谷、天井、壺口、五阮関に入らんと欲する者は、苛留せず。諫大夫博士を遣わして分行して視しむ。
九月、奉使する者称せず。 詔 して言った。「古の太学を立つるは、将に以て先王の業を伝え、化を天下に流さんと為すなり。儒林の官、四海の淵原、宜しく皆古今に明らかにし、故きを温めて新しきを知り、国体に通達す。故に之を博士と謂う。然らずんば学者述ぶる所無く、下に軽んぜられ、道徳を尊ぶ所以に非ず。『工その事を善くせんと欲すれば、必ず先ずその器を利く』と。丞相、御史其れ中二千石、二千石と雑えて博士位に充つる可き者を挙げ、卓然として観る可からしめよ。」
三年春三月壬戌、隕石東郡に有り、八。
夏六月、潁川鉄官徒申屠聖ら百八十人が長吏を殺し、庫兵を盗み、自ら将軍と称し、九郡を経歴す。丞相長史、御史中丞を遣わして逐捕し、軍興を以て事に従い、皆辜を伏す。
秋八月丁巳、大司馬大將軍王鳳薨す。
四年春正月、 詔 して言った。「夫れ洪範八政、食を以て首と為す。斯れ誠に家給刑錯の本なり。先帝は農を劭し、その租税を薄くし、その彊力を寵し、令して孝弟と同科ならしむ。間者、民弥惰怠し、本に郷かう者少なく、末に趨く者衆し。将に何を以て之を矯めん。方に東作の時、其れ二千石に令して農桑を勉勧し、阡陌に出没し、労来を致さしめよ。書に云わざるか、『田に服し力を嗇し、乃ち亦秋有り』と。其れ之を勗めよ!」
鴻嘉元年春二月、 詔 して言った。「朕は天地を承け、宗廟を獲保するも、明らかに蔽わるる所有り、徳能く綏んぜず、刑罰中らず、衆冤失職し、趨闕告訴する者絶えず。是を以て陰陽錯謬し、寒暑序を失い、日月光無く、百姓辜を蒙る。朕は甚だ之を閔す。書に云わざるか、『即ち我が御事に、罔く耆寿を克たず、咎厥躬に在り』と。方に春生長の時、臨みて諫大夫理らを遣わして三輔、三河、弘農の冤獄を挙げしむ。公卿大夫、部 刺史 は明らかに申敕して守相にし、朕の意に称せしめよ。其れ天下の民に爵一級を賜い、女子百戸に牛酒を賜い、加えて 鰥寡孤獨 高年に帛を賜う。逋貸未入の者は収めず。」
壬午、初陵に行幸し、作徒を赦す。新豊戲郷を以て昌陵県と為し、初陵を奉り、百戸に牛酒を賜う。
三月、博士行酒礼を行い、雉蜚びて庭に集し、階を歴て堂に升りて雊き、後諸府に集し、又承明殿に集す。
詔 して言った。「古の賢を選ぶは、言を傅納し、功を以て明試す。故に官廃事無く、下逸民無く、教化流行し、風雨和時ならず、百穀用て成り、衆庶業を楽しみ、咸以て康寧す。朕は鴻業を承けること十余年、数々水旱疾疫の災に遭い、黎民婁々饑寒に困し、而して礼義の興るを望む。豈に難からざらんや!朕は既に道を率いる無く、帝王の道日に陵夷す。意うに乃ち賢を招き士を選ぶの路鬱滞して通ぜざるか、将た挙ぐる者未だその人を得ざるか。其れ敦厚有行義能く直言する者を挙げ、切言嘉謀を聞かんことを冀ね、朕の不逮を匡せよ。」
夏、郡国の豪傑で資五百万以上の五千戸を昌陵に徙す。丞相、御史、将軍、列侯、公主、中二千石に冢地、第宅を賜う。
六月、中山憲王の孫雲客を広徳王に立てる。
三年夏四月、天下を赦す。吏民に爵を買うことを得しめ、賈級千銭。
冬十一月甲寅、皇后許氏廃さる。
広漢男子鄭躬ら六十余人が官寺を攻め、囚徒を篡し、庫兵を盗み、自ら山君と称す。
四年春正月、 詔 して言った。「数々有司を敕し、務めて寛大を行い、而して苛暴を禁ず。訖り今改めず。一人辜有れば、挙宗拘繫し、農民失業し、怨恨する者衆く、和気を傷害し、水旱災と為り、関東流冗する者衆く、青、幽、冀部尤も劇なり。朕は甚だ之を痛む。未だ位に在りて惻然とする者有るを聞かず。孰れか当に朕を助けて之を憂えん!已に使者を遣わして郡国を循行せしむ。災害に被ること什四以上、民の資三万に満たざるは、租賦を出さしめず。逋貸未入は、皆収めず。流民関に入らんと欲するは、輒ち籍内す。ゆく所の郡国は、謹みて理を以て遇し、務めて以て全活する有らしめ、朕の意に称せしめよ。」
秋、勃海、清河河溢れ、災に被る者を振貸す。
冬、広漢鄭躬らの党与寖いに広く、四県を犯歴し、衆且つ万人。河東都尉 趙 護を広漢太守に拝し、郡中および 蜀 郡を発して三万人を合して之を撃たしむ。或いは相捕斬し、罪を除く。旬月平らぎ、護を執金吾に遷し、黄金百斤を賜う。
永始元年春正月癸丑、太官凌室火。戊午、戾后園闕火。
夏四月、婕妤趙氏の父臨を成陽侯に封ず。五月、舅曼子で侍中騎都尉光禄大夫の 王莽 を新都侯に封ず。六月丙寅、皇后趙氏を立てる。天下を大赦す。
秋七月、 詔 して言った。「朕は徳を執ること固からず、謀下に尽くさず、過って将作大匠万年の言を聴きて昌陵三年に成る可しとす。作治五年、中陵、司馬殿門内未だ功を加えず。天下虚耗し、百姓罷労し、客土疏悪にして、終に成る可からず。朕は惟うにその難、怛然として心を傷む。夫れ『過ちて改めざる、是れを過ちと謂う』。其れ昌陵を罷め、及び故陵に吏民を徙さず、天下をして動揺の心有らしめず。」城陽孝王の子俚を王に立てる。
二年春正月己丑、大司馬車騎将軍王音薨す。
二月癸未の夜、星隕して雨の如し。乙酉の晦、日に蝕有り。 詔 して言った。「乃者、龍東萊に見え、日に蝕有り。天変異を著し、以て朕の郵を顯す。朕は甚だ之を懼る。公卿は百寮を申敕し、天誡を深く思い、省減便安百姓する可き有れば、条奏せよ。振貸する貧民は収めず。」又言った。「関東比歳登せず、吏民義を以て貧民を収食し、穀物を入れて県官を助け振贍する者は、已に直を賜う。其れ百万以上は、加えて爵右更を賜い、吏と為らんと欲するは三百石を補し、その吏も遷二等。三十万以上は、爵五大夫を賜い、吏も遷二等、民は郎を補す。十万以上は、家に租賦を出さしめず三歳。万銭以上は、一年。」
冬十一月、雍に行幸し、五畤を祠る。
十二月、 詔 して言った。「前将作大匠万年は昌陵卑下にして、万歳の居と為す可からざるを知り、奏請して営作し、郭邑を建置し、妄りに巧詐を為し、土を積みて高くし、多く賦斂繇役し、卒暴の作を興す。卒徒辜を蒙り、死する者連属し、百姓罷極し、天下匱竭す。常侍閎は前大司農中丞と為り、数々昌陵成る可からずと奏す。侍中 衞 尉長は数々宜しく早く止め、家を徙して故処に反すべしと白す。朕は長の言を以て閎の章を下し、公卿議する者皆長の計に合す。首に至策を建て、閎は省大費を典主し、民以て康寧す。閎は前に爵関内侯を賜い、黄金百斤を賜う。其れ長に爵関内侯を賜い、食邑千戸、閎に五百戸を賜う。万年は佞邪不忠、毒衆庶に流れ、海内怨望し、今に至りて息まず。雖も赦令を蒙るも、京師に居するに宜しからず。其れ万年を敦煌郡に徙せ。」
三年春正月己卯の晦、日に蝕有り。 詔 して言った。「天災仍重し、朕は甚だ之を懼る。惟うに民の失職、臨みて大中大夫嘉らを遣わして天下を循行せしめ、耆老を存問し、民の疾苦を問わしむ。其れ部 刺史 と惇樸遜譲有行義の者を各一人挙げしむ。」
冬十月庚辰、皇太后 詔 して有司に甘泉泰畤、汾陰后土、雍五畤、陳倉陳宝祠を復せしむ。語は郊祀志に在り。
十一月、尉氏男子樊並ら十三人謀反し、陳留太守を殺し、吏民を劫略し、自ら将軍と称す。徒李譚ら五人共に並らを格殺し、皆列侯に封さる。
十二月、山陽鉄官徒蘇令ら二百二十八人が長吏を攻殺し、庫兵を盗み、自ら将軍と称し、郡国十九を経歴し、東郡太守、汝南都尉を殺す。丞相長史、御史中丞を遣わして節を持して督趣し逐捕す。汝南太守厳訢が令らを捕斬す。訢を大司農に遷し、黄金百斤を賜う。
四年春正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊祀す。神光降集して紫殿に集す。天下を大赦す。雲陽の吏民に爵を賜い、女子百戸に牛酒を賜い、 鰥寡孤獨 高年に帛を賜う。三月、河東に行幸し、后土を祠る。吏民に賜うこと雲陽の如くし、行幸する所過は田租を出さしめず。
夏四月癸未、長楽臨華殿、未央宮東司馬門皆災有り。
六月甲午、 霸 陵園門闕災有り。杜陵の諸未嘗御の者を出して家に帰らしむ。 詔 して言った。「乃者、地震京師、火災婁降る。朕は甚だ之を懼る。有司其れ悉し心を以て厥咎を明対せよ。朕将に親ら覧せん。」
又言った。「聖王は礼制を明らかにして尊卑を序し、車服を異にして有徳を章らかにす。雖もその財有りと雖も、而もその尊無く、制を踰えることを得ず。故に民興行し、上は義にして下は利と為す。方今世俗奢僭罔極にして、厭足する有る靡し。公卿列侯親属近臣、四方の則る所、未だ修身遵礼し、同心憂国する者有るを聞かず。或いは乃ち奢侈逸 豫 し、務めて第宅を広くし、園池を治し、奴婢を多く畜い、綺穀を被服し、鐘鼓を設け、女楽を備え、車服嫁娶葬埋制を過ぐ。吏民慕效し、娅いで俗を成し、而して百姓の儉節を欲望し、家給人足せんとす。豈に難からざらんや!詩に云わざるか、『赫赫師尹、民具に爾を瞻る』と。其れ有司を申敕し、以て漸く之を禁せよ。青緑は民の常服する所、且く止めず。列侯近臣、各自ら省改せよ。司隷 校尉 は不変の者を察せよ。」
元延元年春正月己亥の朔、日に蝕有り。
三月、雍に行幸し、五畤を祠る。
夏四月丁酉、雲無くして雷有り、声光耀耀として、四面より地に下り、昏くして止む。天下を赦す。
秋七月、東井に星の孛有り。 詔 して言った。「乃者、日蝕星隕、謫天に見え、大異重仍す。位に在りて黙然として、罕に忠言有り。今孛星東井に見る。朕は甚だ之を懼る。公卿大夫、博士、議郎其れ各悉し心を以て、惟うに変意を思い、明らかに経を以て対せよ。諱む所無からしめよ。内郡国と方正能く直言極諫する者を各一人挙げ、北辺二十二郡は勇猛兵法を知る者を各一人挙げよ。」
冬十二月辛亥、大司馬大將軍王商薨す。
是歳、昭儀趙氏が後宮の皇子を害す。
二年春正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊祀す。
三月、河東に行幸し、后土を祠る。
夏四月、広陵孝王の子守を王に立てる。
冬、長楊宮に行幸し、胡客に従い大校獵す。萯陽宮に宿し、従官に賜う。
三年春正月丙寅、蜀郡岷山崩れ、江を雍すること三日、江水竭つ。
二月、侍中 衞 尉淳于長を定陵侯に封ず。
三月、雍に行幸し、五畤を祠る。
四年春正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊祀す。
三月、河東に行幸し、后土を祠る。
甘露京師に降り、長安の民に牛酒を賜う。
綏和元年春正月、天下を大赦す。
二月癸丑、 詔 して言った。「朕は太祖の鴻業を承け、宗廟を奉ること二十五年、徳能く綏理して宇内せず、百姓怨望する者衆し。天祐を蒙らず、今に至りて継嗣無く、天下係心する所無し。往古近事の戒めを観るに、禍乱の萌し、皆斯れに由る。定陶王欣は朕に於いて子と為り、慈仁孝順にして、天序を承け、祭祀を継ぐ可し。其れ欣を皇太子に立てよ。中山王の舅で諫大夫の馮参を宜郷侯に封し、中山国に三万户を益し、以てその意を慰めよ。諸侯王、列侯に金を賜い、天下で父の後と為る者に爵を賜い、三老、孝弟力田に帛を賜い、各差有り。」
又言った。「 蓋し 聞く、王者は必ず二王の後を存す。三統を通ずる所以なり。昔成湯命を受け、三代に列す。而して祭祀廃絶す。その後を考求するに、孔吉を正すに莫し。其れ吉を殷紹嘉侯に封せよ。」三月、爵を進めて公と為し、及び周承休侯を皆公と為し、地各百里。
夏四月、大司馬票騎大將軍根を大司馬と為し、将軍官を罷む。御史大夫を大 司空 と為し、列侯に封ず。大司馬、大 司空 の奉を丞相の如くに益す。
冬十一月、楚孝王の孫景を定陶王に立てる。
定陵侯淳于長は大逆不道し、獄に下りて死す。廷尉孔光を使して節を持し貴人許氏に薬を賜い、薬を飲みて死す。
十二月、部 刺史 を罷め、更めて州牧を置き、秩二千石。
二年春正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊祀す。
三月、河東に行幸し、后土を祠る。
丙戌、帝は未央宮に崩御す。皇太后 詔 して有司に長安南北郊を復せしむ。四月己卯、延陵に葬る。
賛して言う。臣の姑後宮に充て婕妤と為り、父子昆弟帷幄に侍し、数々臣に為りて言う、成帝は容儀を善く修め、車に升りて正立し、内顧せず、疾言せず、親指せず、朝に臨みて淵嘿し、尊厳神の若し。穆穆天子の容と謂う可き者なり!古今を博覧し、直辞を受け容る。公卿職に称し、奏議述ぶる可し。世に承平に遭い、上下和睦す。然れども酒色に湛じ、趙氏内を乱し、外家朝を擅す。言う可きは於邑の為なり。建始以来、王氏始めて国命を執り、哀、平短祚し、莽遂に位を篡す。 蓋し その威福の由り来る所漸くならん!