漢書

卷十 成帝紀

成帝

原文成帝

孝成皇帝は、元帝の太子である。母は王皇后という。元帝が太子宮におられたとき、甲観こうかんの画堂で生まれ、世の嫡皇孫となった。宣帝は彼を愛し、字を太孫とし、常に側に置いた。三歳のときに宣帝が崩御し、元帝が即位すると、帝は太子となった。成ちょうして経書を好み、寛大で博識、慎み深かった。初め桂宮に住んでいたとき、上(元帝)が急に召されたことがあり、太子は龍楼門を出たが、馳道を横切ることを敢えてせず、西へ直城門まで行き、横切ることができるところを得てから渡り、作室門に戻って入った。上は彼の到着が遅れたので、その理由を尋ね、状況を答えた。上は大いにび、そこで令を定めて、太子が馳道を横切ることを許すこととした。その後、酒を好み、宴楽を楽しむようになったので、上は有能とは思わなかった。一方、定陶恭王ていとうきょうおうは才能と技芸があり、母の昭儀しょうぎふしょうぎも寵愛されていたので、上はそれゆえ常に恭王を後継者にしたい意向を持っていた。侍中じちゅう史丹したんが太子の家を護り、補佐に尽力したおかげであり、上もまた先帝(宣帝)が特に太子を愛していたことを重んじたので、廃されることはなかった。

原文孝成皇帝,元帝太子也。母曰王皇后,元帝在太子宮生甲觀畫堂,爲世嫡皇孫。宣帝愛之,字曰太孫,常置左右。年三歳而宣帝崩,元帝即位,帝爲太子。壯好經書,寬博謹慎。初居桂宮,上嘗急召,太子出龍樓門,不敢絶馳道,西至直城門,得絶乃度,還入作室門。上遲之,問其故,以狀對。上大説,乃著令,令太子得絶馳道云。其後幸酒,樂燕樂,上不以爲能。而定陶恭王有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以恭王爲嗣。賴侍中史丹護太子家,輔助有力,上亦以先帝尤愛太子,故得無廢。

竟寧元年五月、元帝が崩御した。六月己未、太子が皇帝の位に即き、高廟に謁した。皇太后を尊んで太皇太后とし、皇后を皇太后とした。元舅(母方の伯父)侍中衞尉陽平侯ようへいこう王鳳おうほうを大司馬大将軍とし、尚書事を領せしめた。

原文竟寧元年五月,元帝崩。六月己未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中衞尉陽平侯王鳳爲大司馬大將軍,領尚書事。

乙未の日、有司が言上した。「天子の車、牛馬、禽獣はすべて礼に適わないものであり、葬儀に用いるべきではない。」上奏は許可された。

原文乙未,有司言:「乘輿車、牛馬、禽獸皆非禮,不宜以葬。」奏可。

七月、天下に大赦を行った。

原文七月,大赦天下。

建始元年の春正月乙丑の日、皇曾祖悼考の廟に災害があった。

原文建始元年春正月乙丑,皇曾祖悼考廟災。

故河間王の弟で上郡の庫令であった良を王に立てた。

原文立故河間王弟上郡庫令良爲王。

星が営室(星宿)に孛(彗星)した。

原文有星孛于營室。

りん詔獄を廃止した。

原文罷上林詔獄。

二月、右将軍長史の姚尹よういんらが匈奴に使いして帰還する途中、塞から百余里のところで、暴風が起こり火災が発生し、姚尹ら七人が焼死した。

原文二月,右將軍長史姚尹等使匈奴還,去塞百餘里,暴風火發,燒殺尹等七人。

諸侯王・丞相じょうしょう・将軍・列侯・王太后・公主・王主・二千石の官吏に黄金を、宗室の諸官吏で千石以下二百石までおよび宗室の子で属籍を持つ者・三老・孝弟力田・鰥寡孤独に銭帛を賜い、それぞれ差等があった。また、吏民五十戸ごとに牛と酒を賜った。

原文賜諸侯王、丞相、將軍、列侯、王太后、公主、王主、吏二千石黃金,宗室諸官吏千石以下至二百石及宗室子有屬籍者、三老、孝弟力田、鰥寡孤獨錢帛,各有差,吏民五十戸牛酒。

詔して言う。「先ごろ火災が祖廟に降り、星の孛(ほうき星)が東方に現れた。政を正し始めたのに(天変が起こり)損なわれた。とがとしてこれより大きいものがあろうか。『書経』に『ただ先ず王にりてその事を正す』とある。群公は孜孜ししとして、率先して百官を率い、朕の及ばないところを補佐せよ。寛大を尊び、和睦を重んじ、何事も己をゆるし、苛酷な行いをしてはならない。天下に大赦を行い、自新の機会を与える。」

原文詔曰:「乃者火災降於祖廟,有星孛于東方,始正而虧,咎孰大焉!《書》云:『惟先假王正厥事。』群公孜孜,帥先百寮,輔朕不逮。崇寬大,長和睦,凡事恕己,毋行苛刻。其大赦天下,使得自新。」

母方の叔父で諸吏・光禄大夫・関内侯の王崇おうすうを安成侯に封じた。母方の叔父の王譚おうたん王商おうしょう王立おうりつ王根おうこん王逢時おうほうじに関内侯の爵位を賜った。

原文封舅諸吏光祿大夫關內侯王崇爲安成侯。賜舅王譚、商、立、根、逢時爵關內侯。

夏四月、黄色い霧が四方に満ち、公卿大夫に広く問うたが、忌憚なく言う者はなかった。六月、青い蝿が数え切れないほど未央宮の殿中に集まり、朝臣の座席に止まった。

原文夏四月,黃霧四塞,博問公卿大夫,無有所諱。六月,有青蠅無萬數集未央宮殿中朝者坐。

秋、上林苑の宮館で皇帝の行幸が稀な二十五か所を廃止した。

原文秋,罷上林宮館希御幸者二十五所。

八月、二つの月が重なって見え、明け方に東方に現れた。

原文八月,有兩月相承,晨見東方。

九月戊子の日、流れ星が光り地面を照らし、長さは四五丈あり、曲がりくねった蛇の形をして、紫宮を貫いた。

原文九月戊子,流星光燭地,長四五丈,委曲蛇形,貫紫宮。

十二月、長安の南北郊の祭祀の場を造営し、甘泉かんせん宮と汾陰の祠を廃止した。この日大風が吹き、甘泉の祠域の中の大木で十韋(一韋は両手で囲む太さ)以上のものを抜いた。郡国で災害を受けたところが十分の四以上に及んだため、田租を徴収しないこととした。

原文十二月,作長安南北郊,罷甘泉、汾陰祠。是日大風,拔甘泉畤中大木十韋以上。郡國被災什四以上,毋收田租。

二年春正月、よう五畤ごしを廃止した。辛巳の日、皇帝は初めて長安の南郊で郊祀を行った。詔して言う、「かつて泰畤たいし后土こうどを南郊と北郊に移したが、朕は自ら身を整え、上帝を郊祀した。皇天が報応し、神光が並び現れた。三輔の長は、共張と徭役の労苦を永久に免れる。奉郊県である長安・長陵および中都官の耐罪を赦免する。天下の賦銭を減じ、算を四十とする。」

原文二年春正月,罷雍五畤。辛巳,上始郊祀長安南郊。詔曰:「乃者徙泰畤、后土于南郊、北郊,朕親飭躬,郊祀上帝。皇天報應,神光並見。三輔長無共張繇役之勞,赦奉郊縣長安、長陵及中都官耐罪徒。減天下賦錢,算四十。」

閏月、渭城いじょうの延陵亭部を初陵とした。

原文閏月,以渭城延陵亭部爲初陵。

二月、詔して三輔と内郡に賢良方正を各一人挙げさせた。

原文二月,詔三輔內郡舉賢良方正各一人。

三月、北宮の井戸の水が溢れ出た。

原文三月,北宮井水溢出。

辛丑の日、皇帝は初めて北郊で后土を祠った。

原文辛丑,上始祠后土于北郊。

丙午の日、皇后許氏を立てた。

原文丙午,立皇后許氏。

六廄と技巧官を廃止した。

原文罷六廄、技巧官。

夏、大旱魃があった。

原文夏,大旱。

東平王劉宇りゅうう(とうへいおう りゅうう)に罪があり、樊県と亢父県を削減した。

原文東平王宇有罪,削樊、亢父縣。

秋、太子の博望苑を廃止し、宗室で朝請する者に賜った。乗輿廄の馬を減らした。

原文秋,罷太子博望苑,以賜宗室朝請者。減乘輿廄馬。

三年の春三月、天下の徒刑者を赦免した。孝悌力田に爵位二級を賜った。諸々の未納租賦で振貸したものは収めさせない。

原文三年春三月,赦天下徒。賜孝弟力田爵二級。諸逋租賦所振貸勿收。

秋、関内で大水があった。七月、虒上しじょう小女陳持弓ちんじきゅうが大水が来たと聞き、横城門に走り入り、無断で尚方掖門に入り、未央宮の鉤盾中に至った。官吏と民衆は驚いて城に上った。九月、詔して言った。「かつて郡国が水害を受け、人民が流死し、千数にまで及んだ。京師では理由もなく大水が来たとの噂が立ち、官吏と民衆が驚き恐れ、走って城に登った。これはおそらく苛暴で深刻な官吏が止まず、民衆が冤罪を被り職を失う者が多いためであろう。諫大夫かんたいふの林らを派遣して天下を巡行させる。」

原文秋,關內大水。七月,虒上小女陳持弓聞大水至,走入橫城門,闌入尚方掖門,至未央宮鉤盾中。吏民驚上城。九月,詔曰:「乃者郡國被水災,流殺人民,多至千數。京師無故訛言大水至,吏民驚恐,奔走乘城。殆苛暴深刻之吏未息,元元冤失職者眾。遣諫大夫林等循行天下。」

冬十二月戊申のついたち、日食があった。夜、地震が未央宮殿中で起こった。詔して言った。「聞くところによれば、天が衆民を生み、互いに治めることができないので、そのために君を立てて統治させる。君の道が得られれば、草木昆虫も皆その所を得る。人君が徳を欠けば、天と地に譴責が現れ、災異がたびたび発生し、治まらないことを告げる。朕は道に歩む日が少なく、挙措が当たらず、戊申の日食と地震が起こった。朕は甚だ懼れる。公卿はそれぞれ朕の過失を思い、明白に陳べよ。『汝、面従するなかれ、退いて後言有ることなかれ。』丞相・御史ぎょしと将軍・列侯・中二千石ちゅうにせんせきおよび内郡国は、賢良方正で直言極諫できる士を挙げ、公車に詣らせよ。朕はこれを見よう。」

原文冬十二月戊申朔,日有蝕之。夜,地震未央宮殿中。詔曰:「蓋聞天生眾民,不能相治,爲之立君以統理之。君道得,則草木昆蟲咸得其所;人君不德,謫見天地,災異婁發,以告不治。朕涉道日寡,舉錯不中,乃戊申日蝕地震,朕甚懼焉。公卿其各思朕過失,明白陳之。『女無面從,退有後言。』丞相、御史與將軍、列侯、中二千石及內郡國舉賢良方正能直言極諫之士,詣公車,朕將覽焉。」

越嶲えつすいで山が崩れた。

原文越嶲山崩。

四年の春、中書宦官を廃止し、初めて尚書員五人を置いた。

原文四年春,罷中書宦官,初置尚書員五人。

夏の四月、雪が降った。

原文夏四月,雨雪。

五月、中謁者丞の陳臨が殿中で司隸校尉の轅豊を殺した。

原文五月,中謁者丞陳臨殺司隸校尉轅豐於殿中。

秋、桃と李が実った。大水が出て、黄河が東郡とうぐんの金隄を決壊した。冬十月、御史大夫の尹忠は黄河の決壊について職務を憂慮しなかったことを理由に自殺した。

原文秋,桃李實。大水,河決東郡金隄。冬十月,御史大夫尹忠以河決不憂職,自殺。

河平元年の春三月、詔を下して言った。「黄河が東郡で決壊し、二州を流れ漂わせたが、校尉の王延世が堤防を塞いで即座に治めた。そこで元号を河平と改める。天下の官吏と民に爵位を賜い、それぞれ等級がある。」

原文河平元年春三月,詔曰:「河決東郡,流漂二州,校尉王延世隄塞輒平,其改元爲河平。賜天下吏民爵,各有差。」

夏四月己亥の晦、日食があり、皆既となった。詔を下して言った。「朕は宗廟を保つことを得て、戦戦慄慄としており、まだ(天の意に)奉じて称えることができていない。伝に言う:『男子の教化が修まらず、陽の事が得られないと、日がこれによって蝕む。』天はその異変を顕著に示し、その罪は朕の身にある。公卿大夫は互いに努めて心を尽くし、及ばぬところを補佐せよ。百官はそれぞれその職務を修め、仁人を厚く任用し、残虐な賊を退けて遠ざけよ。朕の過失を陳べ、隠すところがあってはならない。」天下に大赦を行った。

原文夏四月己亥晦,日有蝕之,既。詔曰:「朕獲保宗廟,戰戰栗栗,未能奉稱。傳曰:『男教不修,陽事不得,則日爲之蝕。』天著厥異,辜在朕躬。公卿大夫其勉悉心,以輔不逮。百寮各修其職,惇任仁人,退遠殘賊。陳朕過失,無有所諱。」大赦天下。

六月、典属国を廃止し、大鴻臚に併合した。

原文六月,罷典屬國并大鴻臚。

秋九月、太上皇の寝廟園を復した。

原文秋九月,復太上皇寢廟園。

二年春正月、沛郡の鉄官が鉄を溶かす際に鉄が飛散した。詳細は五行志に記されている。

原文二年春正月,沛郡鐵官冶鐵飛。語在五行志。

夏六月、母方の叔父の王譚、王商、王立、王根、王逢時を皆、列侯に封じた。

原文夏六月,封舅譚、商、立、根、逢時皆爲列侯。

三年春二月丙戌、犍為郡で地震が起こり山が崩れ、江水を塞き止めたため、水が逆流した。

原文三年春二月丙戌,犍爲地震山崩,雍江水,水逆流。

秋八月乙卯の晦、日蝕があった。

原文秋八月乙卯晦,日有蝕之。

光禄大夫の劉向が中秘書を校訂した。謁者の陳農を使者として、天下に遺書を求めさせた。

原文光祿大夫劉向校中祕書。謁者陳農使,使求遺書於天下。

四年の春正月、匈奴の単于が来朝した。

原文四年春正月,匈奴單于來朝。

天下の徒刑者を赦し、孝弟力田に爵位二級を賜い、諸々の逋租賦と振貸したものは収めないこととした。

原文赦天下徒,賜孝弟力田爵二級,諸逋租賦所振貸勿收。

二月、単于は帰国した。

原文二月,單于罷歸國。

三月癸丑の朔、日食があった。

原文三月癸丑朔,日有蝕之。

光禄大夫の博士はかせはかせから十一人を派遣し、黄河に近い郡で水害により損壊し困窮して自活できない者を巡行して推挙させ、財物を貸し与えて救済した。水に流され圧死して、自ら埋葬できない者には、郡国に槥櫝(ひつどく、粗末な棺)を与えて葬埋させた。すでに埋葬した者には銭を与え、一人あたり二千銭とした。水害を避けて他の郡国にいる者には、滞在する地で食糧を支給し、礼儀をもって丁重に遇し、職を失わせないようにした。篤厚で行いがあり、直言できる士を推挙させた。

原文遣光祿大夫博士嘉等十一人行舉瀕河之郡水所毀傷困乏不能自存者,財振貸。其爲水所流壓死,不能自葬,令郡國給槥櫝葬埋。已葬者與錢,人二千。避水它郡國,在所冗食之,謹遇以文理,無令失職。舉惇厚有行能直言之士。

壬申の日、長陵の臨涇りんけいの岸が崩れ、涇水を塞き止めた。

原文壬申,長陵臨涇岸崩,雍涇水。

夏六月庚戌の日、楚王囂そうおうごう薨去こうきょした。

原文夏六月庚戌,楚王囂薨。

山陽さんようで石の中から火が生じたため、元号を陽朔と改めた。

原文山陽火生石中,改元爲陽朔。

陽朔元年。

原文陽朔元年。

春二月丁未の晦、日蝕があった。

原文春二月丁未晦,日有蝕之。

三月、天下の徒刑者を赦免した。

原文三月,赦天下徒。

冬、京兆尹けいちょういんの王章が罪を得て、獄に下され死んだ。

原文冬,京兆尹王章有罪,下獄死。

二年春、寒さが厳しかった。詔して言うには、「昔、帝堯が羲氏・和氏の官を立て、四時の事柄を命じて、その秩序を失わないようにさせた。故に『書経』に『民はこれにより繁栄し、時に和らぐ』とあるのは、陰陽を根本とすることを明らかにしたものである。今、公卿大夫の中には陰陽を信じず、軽んじて小さいものとする者がおり、上奏・請願する事柄の多くが時政に違反している。伝えて知らしめず、天下を巡行して、陰陽の調和を望もうとするのは、まさに誤りではないか!務めて四時の月令に従え。」

原文二年春,寒。詔曰:「昔在帝堯立羲、和之官,命以四時之事,令不失其序。故《書》云『黎民於蕃時雍』,明以陰陽爲本也。今公卿大夫或不信陰陽,薄而小之,所奏請多違時政。傳以不知,周行天下,而欲望陰陽和調,豈不謬哉!其務順四時月令。」

三月、天下に大赦を行った。

原文三月,大赦天下。

夏五月、吏の八百石・五百石の秩禄を除いた。

原文夏五月,除吏八百石、五百石秩。

秋、関東に大水があり、流民で函谷・天井・壺口・五阮の各関かんに入ろうとする者は、厳しく留め置いてはならない。諫大夫と博士を派遣し、分かれて巡視させた。

原文秋,關東大水,流民欲入函谷、天井、壺口、五阮關者,勿苛留。遣諫大夫博士分行視。

八月甲申、定陶王ていとうおう劉康りゅうこうが薨去した。

原文八月甲申,定陶王康薨。

九月、使命を奉じた者がその任にふさわしくなかった。詔して言うには、「昔、太学たいがくを立てたのは、先王の業を伝え、教化を天下に広めるためであった。儒林じゅりんの官は、天下の学問の源であり、みな古今に通じ、古きを温めて新しきを知り、国家の大本に通達しているべきである。だから博士というのである。そうでなければ、学者は学ぶべきものなく、下々に軽んじられ、道徳を尊ぶことにはならない。『たくみはその事を善くせんと欲すれば、必ずまずその器を利くす。』丞相・御史は、中二千石・二千石とともに、博士の位に充てるに足る者を広く推挙し、卓越して見るべき者を選ぶようにせよ。」

原文九月,奉使者不稱。詔曰:「古之立太學,將以傳先王之業,流化於天下也。儒林之官,四海淵原,宜皆明於古今,溫故知新,通達國體,故謂之博士。否則學者無述焉,爲下所輕,非所以尊道德也。『工欲善其事,必先利其器。』丞相、御史其與中二千石、二千石雜舉可充博士位者,使卓然可觀。」

この年、御史大夫の張忠が死去した。

原文是歳,御史大夫張忠卒。

三年の春三月壬戌、東郡に隕石が落ちた、八個。

原文三年春三月壬戌,隕石東郡,八。

夏六月、潁川の鉄官の囚人申屠聖ら百八十人が長吏を殺し、武器庫の兵器を奪い、自ら将軍と称し、九郡を転戦した。丞相長史と御史中丞を派遣して追捕させ、軍興の法に従って処置し、皆が罪に伏した。

原文夏六月,潁川鐵官徒申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡。遣丞相長史、御史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。

秋八月丁巳、大司馬大將軍の王鳳が薨去した。

原文秋八月丁巳,大司馬大將軍王鳳薨。

四年の春正月、詔を下して言った。「『洪範』の八政は、食を第一とする。これはまさに家々が豊かで刑罰が不用になる根本である。先帝は農業を奨励し、その租税を軽減し、勤労に励む者を優遇し、孝悌と同じ科に列した。近ごろ、民はますます怠惰になり、農業(本業)に従う者は少なく、商工(末業)に走る者が多い。どうしてこれを矯正できようか。今、春の耕作の時期である。二千石(郡太守ら)に命じて農桑を奨励させ、田畑の道に出向き、労苦して民を招き励ますようにせよ。書経に言わないか。『田畑を耕し労苦して耕作すれば、秋の収穫もある』と。よく励むようにせよ。」

原文四年春正月,詔曰:「夫洪範八政,以食爲首,斯誠家給刑錯之本也。先帝劭農,薄其租稅,寵其彊力,令與孝弟同科。間者,民彌惰怠,鄉本者少,趨末者眾,將何以矯之?方東作時,其令二千石勉勸農桑,出入阡陌,致勞來之。書不云乎?『服田力嗇,乃亦有秋。』其勗之哉!」

二月、天下に赦令を下す。

原文二月,赦天下。

秋九月壬申、東平王の劉宇が薨去する。

原文秋九月壬申,東平王宇薨。

閏月壬戌、御史大夫の于永うえいが死去する。

原文閏月壬戌,御史大夫于永卒。

鴻嘉元年春二月、詔を下して言う。「朕は天地を承け、宗廟を保つことを得たが、明らかさに蔽われるところがあり、徳をもって安んずることができず、刑罰は中正を欠き、多くの者が冤罪を蒙り職を失い、宮闕に駆けつけて訴える者が絶えない。このため陰陽が錯謬し、寒暑の順序が乱れ、日月の光が明るくなく、百姓が罪を蒙り、朕は甚だこれを憂えている。書経に言わないか?『我が御事に即いて、よく長寿を保つことができず、咎はそのにある』と。今まさに春の生長の時である。臨んで諫大夫の理らを派遣し、三輔・三河・弘農の冤罪を審理させる。公卿大夫・部刺史は守相に明らかに申し諭し、朕の意に叶うようにせよ。天下の民に爵一級を賜い、女子のいる百戸には牛と酒を賜う。さらに鰥寡孤独の高齢者には帛を加賜する。未納の逋貸ふたいは徴収しない。」

原文鴻嘉元年春二月,詔曰:「朕承天地,獲保宗廟,明有所蔽,德不能綏,刑罰不中,眾冤失職,趨闕告訴者不絶。是以陰陽錯謬,寒暑失序,日月不光,百姓蒙辜,朕甚閔焉。書不云乎?『即我御事,罔克耆壽,咎在厥躬。』方春生長時,臨遣諫大夫理等舉三輔、三河、弘農冤獄。公卿大夫、部刺史明申敕守相,稱朕意焉。其賜天下民爵一級,女子百戸牛酒,加賜鰥寡孤獨高年帛。逋貸未入者勿收。」

壬午、初陵に行幸し、作徒さくとを赦免する。新豊の戲鄉ぎきょうを昌陵県とし、初陵に奉じ、百戸に牛と酒を賜う。

原文壬午,行幸初陵,赦作徒。以新豐戲鄉爲昌陵縣,奉初陵,賜百戸牛酒。

皇帝は初めて微行(身分を隠した外出)に出た。

原文上始爲微行出。

冬、黄龍が真定しんていに現れた。

原文冬,黃龍見真定。

二年の春、皇帝は雲陽に行幸した。

原文二年春,行幸雲陽。

三月、博士が飲酒の礼を行ったところ、雉が飛んできて庭に集まり、階段を上って堂に入り鳴き、その後、諸々の役所に集まり、また承明殿にも集まった。

原文三月,博士行飲酒禮,有雉蜚集于庭,歷階升堂而雊,後集諸府,又集承明殿。

詔を下して言った。「昔、賢者を選ぶ時は、言葉を伝えて採用し、功績によって明らかに試した。それゆえ、官には廃れた仕事がなく、民には怠惰な者がおらず、教化は広まり、風雨は時を得て調和し、百穀は実り、民衆は楽しんで仕事に励み、皆が安寧であった。朕が大業を継いで十余年、幾度も水害・旱害・疫病の災いに遭い、民は飢えと寒さにしばしば苦しんでいる。それで礼義が盛んになることを望むのは、難しいことではないか。朕は既に導く道がなく、帝王の道は日に日に衰えている。思うに、賢者を招き士を選ぶ道がふさがって通じていないのか、それとも推挙する者が適切な人を得ていないのか。敦厚で行い正しく、直言できる者を推挙せよ。切実な言葉と優れた謀略を聞き、朕の及ばないところを正すことを望む。」

原文詔曰:「古之選賢,傅納以言,明試以功,故官無廢事,下無逸民,教化流行,風雨和時,百穀用成,眾庶樂業,咸以康寧。朕承鴻業十有餘年,數遭水旱疾疫之災,黎民婁困於飢寒,而望禮義之興,豈不難哉!朕既無以率道,帝王之道日以陵夷,意乃招賢選士之路鬱滯而不通與,將舉者未得其人也?其舉敦厚有行義能直言者,冀聞切言嘉謀,匡朕之不逮。」

夏、郡国の豪傑で財産五百万以上ある者五千戸を昌陵に移した。丞相、御史、將軍、列侯、公主、中二千石に冢地と邸宅を賜った。

原文夏,徙郡國豪傑貲五百萬以上五千戸于昌陵。賜丞相、御史、將軍、列侯、公主、中二千石冢地、第宅。

六月、中山憲王の孫の雲客を立てて廣德王とした。

原文六月,立中山憲王孫雲客爲廣德王。

三年の夏四月、天下に赦令を下した。吏民に爵を買うことを許し、一級の価は千銭とした。

原文三年夏四月,赦天下。令吏民得買爵,賈級千錢。

大旱が起こった。

原文大旱。

秋八月乙卯、孝景廟の闕が災害に遭った。

原文秋八月乙卯,孝景廟闕災。

冬十一月甲寅の日、皇后の許氏が廃された。

原文冬十一月甲寅,皇后許氏廢。

広漢郡の男子である鄭躬ていきゅうら六十余人が官寺を攻撃し、囚人を奪い取り、武器庫の兵器を盗み、自らを山君と称した。

原文廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,篡囚徒,盜庫兵,自稱山君。

四年の春正月、詔を下して言った。「たびたび役人に命じて、寛大な政治を行うよう努め、苛酷で暴虐なことを禁じたが、今になっても改まらない。一人が罪を犯すと、一族全体が拘束され、農民は生業を失い、恨み嘆く者が多い。これが天地の和気を損ない、水害や旱害が災いとなっている。関東では流民や浮浪者が多く、青州・幽州・冀州の地域は特にひどい。朕はこれを非常に痛ましく思う。在官の者でこれを憂い悲しむ者があると聞かない。誰が朕の憂いを助けてくれるのか。すでに使者を派遣して郡国を巡行させた。被害が十分の四以上に及び、民の資産が三万に満たない所は、租税や賦役を免除する。未納の賦税や貸し付けは、すべて徴収しない。流民が関に入ろうとする者は、そのまま戸籍に編入せよ。流民が向かう郡国は、道理に従って丁重に扱い、必ず彼らを全うさせ生き長らえさせるようにせよ。朕の意にかなうように考えよ。」

原文四年春正月,詔曰:「數敕有司,務行寬大,而禁苛暴,訖今不改。一人有辜,舉宗拘繫,農民失業,怨恨者眾,傷害和氣,水旱爲災,關東流冗者眾,青、幽、冀部尤劇,朕甚痛焉。未聞在位有惻然者,孰當助朕憂之!已遣使者循行郡國。被災害什四以上,民貲不滿三萬,勿出租賦。逋貸未入,皆勿收。流民欲入關,輒籍內。所之郡國,謹遇以理,務有以全活之,思稱朕意。」

秋、勃海郡と清河郡で黄河が氾濫し、被災者に対して救済のための貸し付けを行った。

原文秋,勃海、清河河溢,被災者振貸之。

冬、広漢郡の鄭躬らの徒党が次第に広がり、四県にわたって侵攻し、その数は一万人に及んだ。河東かとう都尉の趙護ちょうごを広漢太守に任命し、広漢郡内および蜀郡の兵を合わせて三万人を動員してこれを討伐した。賊徒が互いに捕らえ合い、あるいは斬り合って投降した者は罪を免除した。一ヶ月ほどで平定し、趙護を執金吾に昇進させ、黄金百斤を賜った。

原文冬,廣漢鄭躬等黨與寖廣,犯歷四縣,眾且萬人。拜河東都尉趙護爲廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人擊之。或相捕斬,除罪。旬月平,遷護爲執金吾,賜黃金百斤。

永始元年の春正月癸丑の日、太官の凌室が火災に遭った。戊午の日、戾后の園闕が火災に遭った。

原文永始元年春正月癸丑,太官凌室火。戊午,戾后園闕火。

夏四月、婕妤趙氏ちょうしの父の趙臨ちょうりんを成陽侯に封じた。五月、母方の叔父の王曼おうまんの子で侍中・騎都尉・光祿大夫の王莽おうもうを新都侯に封じた。六月丙寅の日、趙氏を皇后に立てた。天下に大赦を行った。

原文夏四月,封婕妤趙氏父臨爲成陽侯。五月,封舅曼子侍中騎都尉光祿大夫王莽爲新都侯。六月丙寅,立皇后趙氏。大赦天下。

秋七月、詔を下して言った。「朕は徳を執ることが固くなく、謀りごとを臣下に尽くして諮らず、誤って将作大匠の解萬年かいまんねんの言葉を聞き入れ、昌陵は三年で完成できると言った。工事を始めて五年になるが、中陵や司馬殿の門内はまだ工事を加えていない。天下は財を空しく消耗し、百姓は疲れ労している。客土は粗悪で、結局完成することはできない。朕はその困難を思い、痛ましく心を傷める。『過ちを改めない、これを過ちという』とある。昌陵の工事を中止せよ。また、故陵に官吏や民を移住させることもやめ、天下に動揺する心を持たせないようにせよ。」城陽孝王の子の劉俚りゅうりを王に立てた。

原文秋七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言昌陵三年可成。作治五年,中陵、司馬殿門內尚未加功。天下虛耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成。朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣。』其罷昌陵,及故陵勿徙吏民,令天下毋有動搖之心。」立城陽孝王子俚爲王。

八月丁丑の日、太皇太后の王氏が崩御した。

原文八月丁丑,太皇太后王氏崩。

二年の春正月己丑の日、大司馬・車騎將軍の王音おうおんが薨去した。

原文二年春正月己丑,大司馬車騎將軍王音薨。

二月癸未の夜、星が雨のように降った。乙酉の晦、日食があった。詔して言う、「かつて、龍が東萊に現れ、日食があった。天は変異を顕わして、朕の過ちを示している。朕は甚だ恐れる。公卿は百官に申し戒め、天の誡めを深く考え、省減して百姓を安んずることができることを条奏せよ。貧民に振貸したものは、収めさせないでよい」また言う、「関東は近年収穫がなく、吏民が義をもって貧民を収容し食わせ、穀物を納めて県官を助け振贍した者には、すでに価値を賜ったが、百万以上の人には、さらに爵位右更を賜い、吏になりたい者には三百石に補し、吏である者は二等を遷す。三十万以上の者には、爵位五大夫を賜い、吏も二等を遷し、民は郎に補する。十万以上の者には、家の租賦を三年間免除する。一万銭以上の者には、一年間免除する」。

原文二月癸未夜,星隕如雨。乙酉晦,日有蝕之。詔曰:「乃者,龍見于東萊,日有蝕之。天著變異,以顯朕郵,朕甚懼焉。公卿申敕百寮,深思天誡,有可省減便安百姓者,條奏。所振貸貧民,勿收。」又曰:「關東比歳不登,吏民以義收食貧民、入穀物助縣官振贍者,已賜直,其百萬以上,加賜爵右更,欲爲吏補三百石,其吏也遷二等。三十萬以上,賜爵五大夫,吏亦遷二等,民補郎。十萬以上,家無出租賦三歳。萬錢以上,一年。」

冬十一月、雍に行幸し、五畤を祠った。

原文冬十一月,行幸雍,祠五畤。

十二月、詔して言う、「前将作大匠の万年まんねんは昌陵が低く、万歳の居とすべきでないと知りながら、奏請して営作し、郭邑を建置し、妄りに巧詐をなし、土を積んで高くし、多く賦斂徭役を課し、卒徒を急に動員する工事を起こした。卒徒は罪を蒙り、死者が連なり、百姓は疲弊しきり、天下は窮乏した。常侍のこうは以前大司農中丞として、たびたび昌陵は完成できないと奏上した。侍中衞尉の長はたびたび早く止めて、家を故地に戻すべきだと申し上げた。朕は長の言を閎の上奏文に下し、公卿の議する者は皆長の計に合った。最初に至策を建てたのは閎であり、大費を省くことを主管し、民はこれによって康寧を得た。閎には以前に関内侯の爵と黄金百斤を賜った。長に関内侯の爵を賜い、食邑千戸とし、閎には五百戸を賜う。万年は佞邪で不忠であり、毒は衆庶に流れ、海内は怨望し、今も止まない。赦令を蒙ったとはいえ、京師に居すべきではない。万年を敦煌郡に徙す」。

原文十二月,詔曰:「前將作大匠萬年知昌陵卑下,不可爲萬歳居,奏請營作,建置郭邑,妄爲巧詐,積土增高,多賦斂繇役,興卒暴之作。卒徒蒙辜,死者連屬,百姓罷極,天下匱竭。常侍閎前爲大司農中丞,數奏昌陵不可成。侍中衞尉長數白宜早止,徙家反故處。朕以長言下閎章,公卿議者皆合長計。首建至策,閎典主省大費,民以康寧。閎前賜爵關內侯,黃金百斤。其賜長爵關內侯,食邑千戸,閎五百戸。萬年佞邪不忠,毒流眾庶,海內怨望,至今不息,雖蒙赦令,不宜居京師。其徙萬年敦煌郡。」

この年、御史大夫の王駿おうしゅんが卒した。

原文是歳,御史大夫王駿卒。

三年春正月己卯の晦、日食があった。詔して言う、「天災が重なって起こる。朕は甚だ恐れる。民が職を失っていることを思う。大中大夫の嘉らを臨んで派遣し、天下を巡行させ、耆老を存問し、民の疾苦を尋ねさせる。部刺史とともに、惇朴で遜譲があり行義のある者を各一人挙げよ」。

原文三年春正月己卯晦,日有蝕之。詔曰:「天災仍重,朕甚懼焉。惟民之失職,臨遣大中大夫嘉等循行天下,存問耆老,民所疾苦。其與部刺史舉惇樸遜讓有行義者各一人。」

冬十月庚辰の日、皇太后は有司に詔して、甘泉の泰畤、汾陰の后土、雍の五畤、陳倉ちんそう陳寶祠ちんぽうしを復興させた。詳細は郊祀志に記されている。

原文冬十月庚辰,皇太后詔有司復甘泉泰畤、汾陰后土、雍五畤、陳倉陳寶祠。語在郊祀志。

十一月、尉氏いし男子樊並はんへいら十三人が謀反を企て、陳留ちんりゅう太守を殺害し、官吏や民衆を略奪し、自ら将軍と称した。徒の李譚りたんら五人が共に奮戦して樊並らを討ち取ったため、皆が列侯に封ぜられた。

原文十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍。徒李譚等五人共格殺並等,皆封爲列侯。

十二月、山陽の鉄官の徒蘇令それいら二百二十八人が長吏を攻め殺し、武器庫の兵器を奪い、自ら将軍と称し、十九の郡国を経由し、東郡太守と汝南じょなん都尉を殺害した。丞相長史と御史中丞を派遣し、節を持たせて督促し追捕させた。汝南太守の厳訢げんきんが蘇令らを捕らえて斬った。厳訢を大司農に昇進させ、黄金百斤を賜った。

原文十二月,山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷郡國十九,殺東郡太守、汝南都尉。遣丞相長史、御史中丞持節督趣逐捕。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢爲大司農,賜黃金百斤。

四年の春正月、甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行うと、神光が紫殿に降り集まった。天下に大赦を行った。雲陽の官吏・民衆に爵位を賜い、女子百戸に牛と酒を、鰥寡孤独と高齢者に布帛を賜った。三月、河東に行幸し、后土を祀り、官吏・民衆への賜物は雲陽の例と同様とし、行幸の経由地では田租を免除した。

原文四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤,神光降集紫殿。大赦天下。賜雲陽吏民爵,女子百戸牛酒,鰥寡孤獨高年帛。三月,行幸河東,祠后土,賜吏民如雲陽,行所過無出田租。

夏四月癸未の日、長楽宮の臨華殿と未央宮の東司馬門がともに災害に見舞われた。

原文夏四月癸未,長樂臨華殿、未央宮東司馬門皆災。

六月甲午、霸陵の園門と闕に災いがあった。杜陵にあったまだ一度も用いられなかった者たちを出して家に帰らせた。詔して言うには、「先ごろ、京師で地震があり、火災がしばしば降りかかった。朕はこれを非常に恐れている。有司は心を尽くして明らかにその咎に対し答えよ。朕は自ら見るであろう」。

原文六月甲午,霸陵園門闕災。出杜陵諸未嘗御者歸家。詔曰:「乃者,地震京師,火災婁降,朕甚懼之。有司其悉心明對厥咎,朕將親覽焉。」

また言うには、「聖王は礼制を明らかにして尊卑の序を整え、車服を異ならせて有徳を顕彰する。たとえ財があってもその尊さがなければ、制を越えることはできない。それゆえ民は行いを起こし、上は義を重んじ下は利を軽んじる。今の世俗は奢侈と僭越が極まりなく、飽き足ることを知らない。公卿・列侯・親属・近臣は四方の模範となるべきであるのに、修身して礼に従い、心を一つにして国を憂える者があるとは聞かない。あるいは奢侈にふけり安逸を貪り、広大な邸宅を造営し、園池を整え、多くの奴婢を養い、綺穀の衣服をまとい、鐘鼓を設け、女楽を備え、車服・嫁娶・葬埋が制を過ぎている。吏民はこれを慕い倣い、次第に習俗となっている。それでいて百姓に倹約を望み、家に足り人に満ち足りることを望むのは、なんと難しいことではないか。詩に言わないか、『赫赫たる師尹、民具ことごとなんじる』と。有司に申し命じて、次第にこれを禁じさせよ。青緑は民が常に用いる服であるから、しばらく止めないでおけ。列侯・近臣は各自反省して改めよ。司隸校尉は改めない者を察せよ」。

原文又曰:「聖王明禮制以序尊卑,異車服以章有德,雖有其財,而無其尊,不得踰制,故民興行,上義而下利。方今世俗奢僭罔極,靡有厭足。公卿列侯親屬近臣,四方所則,未聞修身遵禮,同心憂國者也。或乃奢侈逸豫,務廣第宅,治園池,多畜奴婢,被服綺穀,設鐘鼓,備女樂,車服嫁娶葬埋過制。吏民慕效,娅以成俗,而欲望百姓儉節,家給人足,豈不難哉!詩不云乎?『赫赫師尹,民具爾瞻。』其申敕有司,以漸禁之。青綠民所常服,且勿止。列侯近臣,各自省改。司隸校尉察不變者。」

秋七月辛未の晦、日食があった。

原文秋七月辛未晦,日有蝕之。

元延元年春正月己亥の朔、日食があった。

原文元延元年春正月己亥朔,日有蝕之。

三月、雍に行幸し、五畤を祀った。

原文三月,行幸雍,祠五畤。

夏四月丁酉の日、雲はないのに雷鳴があり、音と光が輝き、四方から地面に降りてきて、暗くなって止んだ。天下に赦令を下した。

原文夏四月丁酉,無雲有雷,聲光耀耀,四面下至地,昏止。赦天下。

秋七月、星が東井とうせいに彗星のように現れた。詔を下して言った。「以前より、日食や流星が天に現れ、天の譴責が示され、大きな異変が重なっている。在位の者は黙っており、忠言を述べる者は稀である。今、彗星が東井に現れた。朕はこれを大いに恐れる。公卿・大夫・博士・議郎は、それぞれ心を尽くし、変革の意を考え、経書に基づいて明らかに答えよ。遠慮することはない。また、内郡国はそれぞれ一人、方正で直言極諫できる者を推挙せよ。北辺二十二郡はそれぞれ一人、勇猛で兵法を知る者を推挙せよ。」

原文秋七月,有星孛于東井。詔曰:「乃者,日蝕星隕,謫見于天,大異重仍。在位默然,罕有忠言。今孛星見于東井,朕甚懼焉。公卿大夫、博士、議郎其各悉心,惟思變意,明以經對,無有所諱;與內郡國舉方正能直言極諫者各一人,北邊二十二郡舉勇猛知兵法者各一人。」

蕭何しょうか相国の後裔である喜を酇侯さんこうに封じた。

原文封蕭相國後喜爲酇侯。

冬十二月辛亥の日、大司馬大将軍の王商が薨去した。

原文冬十二月辛亥,大司馬大將軍王商薨。

この年、昭儀の趙氏が後宮の皇子を害した。

原文是歳,昭儀趙氏害後宮皇子。

二年の春正月、帝は甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。

原文二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。

三月、帝は河東に行幸し、后土を祠った。

原文三月,行幸河東,祠后土。

夏四月、広陵孝王の子の守を立てて王とした。

原文夏四月,立廣陵孝王子守爲王。

冬、帝は長楊宮に行幸し、胡の客を従えて大規模な校猟を行った。萯陽宮に宿泊し、従官に賜物を与えた。

原文冬,行幸長楊宮,從胡客大校獵。宿萯陽宮,賜從官。

三年の春正月丙寅、蜀郡の岷山が崩壊し、江水を三日間塞き止めたため、江水が枯渇した。

原文三年春正月丙寅,蜀郡岷山崩,雍江三日,江水竭。

二月、侍中で衛尉の淳于長じゅんうちょうを定陵侯に封じた。

原文二月,封侍中衞尉淳于長爲定陵侯。

三月、雍に行幸し、五畤を祀った。

原文三月,行幸雍,祠五畤。

四年の春正月、甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。

原文四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。

二月、司隸校尉の官を廃止した。

原文二月,罷司隸校尉官。

三月、河東に行幸し、后土を祀った。

原文三月,行幸河東,祠后土。

甘露が京師に降り、長安の民に牛と酒を賜う。

原文甘露降京師,賜長安民牛酒。

綏和元年春正月、天下に大赦を行う。

原文綏和元年春正月,大赦天下。

二月癸丑、詔して曰く、「朕は太祖の鴻業を承け、宗廟を奉じて二十五年、徳をもって宇内を綏理することができず、百姓の怨望する者多い。天の祐を蒙らず、今に至るまで継嗣がなく、天下の心を係ぐところがない。往古近事の戒めを観れば、禍乱の萌すは、皆これより起こる。定陶王欣は朕にとって子であり、慈仁孝順、天序を承け、祭祀を継ぐことができる。その欣を立てて皇太子とせよ。中山王の舅、諫大夫馮参ふうさんを宜郷侯に封じ、中山国に三万戸を加増し、その意を慰める。諸侯王・列侯に金を賜い、天下で父の後を継ぐ者に爵を、三老・孝弟力田に帛を賜い、それぞれ差がある。」

原文二月癸丑,詔曰:「朕承太祖鴻業,奉宗廟二十五年,德不能綏理宇內,百姓怨望者眾。不蒙天祐,至今未有繼嗣,天下無所係心。觀于往古近事之戒,禍亂之萌,皆由斯焉。定陶王欣於朕爲子,慈仁孝順,可以承天序,繼祭祀。其立欣爲皇太子。封中山王舅諫大夫馮參爲宜鄉侯,益中山國三萬戸,以慰其意。賜諸侯王、列侯金,天下當爲父後者爵,三老、孝弟力田帛,各有差。」

また曰く、「聞く、王者は必ず二王の後を存するは、三統を通ずる所以なりと。昔、成湯は命を受け、三代に列せられしも、祭祀は廃絶せり。その後を考求するに、孔吉こうきつに正しきは莫し。その吉を殷紹嘉侯に封ぜよ。」三月、爵を進めて公とし、及び周承休侯も皆公とし、地は各百里。

原文又曰:「蓋聞王者必存二王之後,所以通三統也。昔成湯受命,列爲三代,而祭祀廢絶。考求其後,莫正孔吉。其封吉爲殷紹嘉侯。」三月,進爵爲公,及周承休侯皆爲公,地各百里。

雍に行幸し、五畤を祠る。

原文行幸雍,祠五畤。

夏の四月、大司馬票騎大将軍の王根を大司馬とし、将軍の官を廃止した。御史大夫を大司空とし、列侯に封じた。大司馬・大司空の俸禄を丞相と同じに増やした。

原文夏四月,以大司馬票騎大將軍根爲大司馬,罷將軍官。御史大夫爲大司空,封爲列侯。益大司馬、大司空奉如丞相。

秋の八月庚戌の日、中山王の劉興が薨去した。

原文秋八月庚戌,中山王興薨。

冬の十一月、楚孝王の孫の劉景を立てて定陶王とした。

原文冬十一月,立楚孝王孫景爲定陶王。

定陵侯の淳于長が大逆不道の罪により、獄に下されて死んだ。廷尉の孔光が使節を持って貴人許氏に薬を賜り、彼女は薬を飲んで死んだ。

原文定陵侯淳于長大逆不道,下獄死。廷尉孔光使持節賜貴人許氏藥,飲藥死。

十二月、部刺史を廃止し、代わりに州牧を設置し、その秩禄を二千石とした。

原文十二月,罷部刺史,更置州牧,秩二千石。

二年の春正月、帝は甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。

原文二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。

二月壬子、丞相の翟方進さいほうしんが薨じた。

原文二月壬子,丞相翟方進薨。

三月、帝は河東に行幸し、后土を祀った。

原文三月,行幸河東,祠后土。

丙戌、帝は未央宮で崩御した。皇太后は有司に詔して長安の南北郊を復した。四月己卯、延陵に葬られた。

原文丙戌,帝崩于未央宮。皇太后詔有司復長安南北郊。四月己卯,葬延陵。

原文

賛に曰く、臣の姑は後宮に入り婕妤となり、父子兄弟は帷幄に侍した。数度臣に語りしは、成帝は容儀を修むることを善とし、車に登れば正しく立ち、内を顧みず、疾く言わず、親しく指さず、朝に臨めば淵く黙し、尊厳は神のごとく、穆穆たる天子の容ともいうべきであった。古今を博覧し、直辞を容れる。公卿は職に称し、奏議は述ぶるに足りた。世に承平に遭い、上下和睦す。然れども酒色に沈み、趙氏は内を乱し、外戚は朝を専り、之を言うに慨嘆を禁じ得ない。建始以降、王氏始めて国命を執り、哀帝・平帝は祚短く、王莽遂に位を簒り、蓋し其の威福の由来するに漸きあり。

原文贊曰:臣之姑充後宮爲婕妤,父子昆弟侍帷幄,數爲臣言成帝善修容儀,升車正立,不內顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆天子之容者矣!博覽古今,容受直辭。公卿稱職,奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛于酒色,趙氏亂內,外家擅朝,言之可爲於邑。建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂篡位,蓋其威福所由來者漸矣!