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巻44

巻44 太宗十一王

太宗十一王

原文太宗十一王

太宗王皇后は哀太子大器と南郡王大連を生み、陳淑容は尋陽王大心を生み、左夫人は南海王大臨と安陸王大春を生み、謝夫人は瀏陽公大雅を生み、張夫人は新興王大莊を生み、包昭華は西陽王大鈞を生み、范夫人は武寧王大威を生み、褚脩華は建平王大球を生み、陳夫人は義安王大昕を生み、朱夫人は綏建王大摯を生んだ。その他の諸子は、本書に記載されていない。

原文太宗王皇后生哀太子大器、南郡王大連,陳淑容生尋陽王大心,左夫人生南海王大臨、安陸王大春,謝夫人生瀏陽公大雅,張夫人生新興王大莊,包昭華生西陽王大鈞,范夫人生武寧王大威,褚脩華生建平王大球,陳夫人生義安王大昕,朱夫人生綏建王大摯。自餘諸子,本書不載。

尋陽王大心

原文尋陽王大心

尋陽王大心は字あざなを仁恕という。幼い頃から聡明で朗らかであり、文章をよく作った。中大通四年、皇孫として當陽公に封ぜられ、邑千五百戸を賜った。大同元年、使持節・都督郢南北司定新五州諸軍事・軽車将軍・郢州刺史として出向した。当時十三歳で、太宗は彼が幼く、まだ民情に通じていないのではないかと心配し、戒めて言った。「事の大小を問わず、全て行事に委ね、細かいことには一切心を配るな。」大心は自ら州の政務に携わらなかったが、発言は常に道理に合っており、人々は皆驚き感服した。七年、侍中・兼石頭戍軍事として召還された。太清元年、雲麾将軍・江州刺史として出向した。二年、侯景が京邑を侵犯した。大心は士卒を招集し、遠近からこれに帰順する者がおり、その数は数万に達し、上流の諸軍と共に宮闕の救援に向かった。三年、都城が陥落し、上甲侯蕭韶が南へ逃れて来て、密詔を伝え、散騎常侍を加えられ、平南将軍に進号した。大宝元年、尋陽王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。

原文尋陽王大心字仁恕。幼而聰朗,善屬文。中大通四年,以皇孫封當陽公,邑一千五百戶。大同元年,出爲使持節、都督郢南北司定新五州諸軍事、輕車將軍、郢州刺史。時年十三,太宗以其幼,恐未達民情,戒之曰:「事無大小,悉委行事,纖毫不須措懷。」大心雖不親州務,發言每合於理,衆皆驚服。七年,征爲侍中、兼石頭戍軍事。太清元年,出爲雲麾將軍、江州刺史。二年,侯景寇京邑。大心招集士卒,遠近歸之,衆至數萬,與上流諸軍赴援宮闕。三年,城陷,上甲侯蕭韶南奔,宣密詔,加散騎常侍,進號平南將軍。大寶元年,封尋陽王,邑二千戶。

初め、歴陽太守の莊鐵が城を挙げて侯景に降ったが、その後また母を奉じて来奔した。大心は莊鐵が旧将であることを重んじて厚く礼遇し、軍旅の事は全て彼に委ね、豫章内史に任じた。侯景はたびたび軍を西上させて略奪を行ったが、大心は常に莊鐵に命じてこれを撃破させたため、賊は進むことができなかった。時に鄱陽王蕭範が衆を率いて合肥を放棄し、柵口に駐屯し、援兵が総集するのを待って、共に進軍しようとしていた。大心はこれを聞き、人を遣わして蕭範を西上させ、湓城に彼を置き、糧秣の供給を非常に厚くし、力を合わせて禍難を除こうとした。ちょうど莊鐵が豫章を占拠して反乱を起こしたので、大心は中兵参軍の韋約らに将軍としてこれを討たせた。莊鐵は敗北し、また降伏を請うた。鄱陽王の世子蕭嗣は以前から莊鐵と交遊しており、その人の才略が縦横であると称し、かつ旧将であるから、大事を挙げるにはその力を頼るべきであり、もし江州に降れば必ずやその首を全うできないだろうと言い、蕭嗣は彼を救援するよう請うた。蕭範はこれに従い、将の侯瑱に精鋭五千を率いて莊鐵を救援させ、夜襲して韋約らの陣営を破った。大心はこれを聞いて大いに恐れ、ここに二藩の間に隙が生じ、人心が離反した。侯景の将任約が土地を攻略して湓城に至ると、大心は司馬の韋質を遣わして防戦させたが、敗北した。当時、帳下にはなお勇士千余人がいたが、皆が言った。「既に糧食の備蓄がなく、守りを固めるのは難しい。軽騎で建州へ赴き、後の挙兵を図るのが、上策です。」大心は決断できずにいたが、その母の陳淑容が言った。「今、聖上は御年を重ねられ、皇太子も万福である。汝は久しく御顔を拝しておらず、朝廷への拝謁を思わないのか。かつ私は既に老いており、危険な道を遠く渡ろうとしているが、糧食も十分でない。これが孝子と言えようか。私は決して行かない。」そして胸を撫でて慟哭したので、大心は行くのを止めた。遂に任約と和睦した。二年の秋、害され、時に二十九歳であった。

原文初,歷陽太守莊鐵以城降侯景,旣而又奉其母來奔,大心以鐵舊將,厚爲其禮,軍旅之事,悉以委之,仍以爲豫章內史。侯景數遣軍西上寇抄,大心輒令鐵擊破之,賊不能進。時鄱陽王範率衆棄合肥,屯于柵口,待援兵總集,欲俱進。大心聞之,遣要範西上,以湓城處之,廩饋甚厚,與戮力共除禍難。會莊鐵據豫章反,大心令中兵參軍韋約等將軍擊之,鐵敗績,又乞降。鄱陽世子嗣先與鐵遊處,因稱其人才略從橫,且舊將也,欲舉大事,當資其力,若降江州,必不全其首領,嗣請援之。範從之,乃遣將侯瑱率精甲五千往救鐵,夜襲破韋約等營。大心聞之大懼,於是二籓釁起,人心離貳。景將任約略地至于湓城,大心遣司馬韋質拒戰,敗績。時帳下猶有勇士千餘人,咸說曰:「旣無糧儲,難以守固。若輕騎往建州,以圖後舉,策之上者也。」大心未決,其母陳淑容曰:「卽日聖御年尊,儲宮萬福,汝久奉違顏色,不念拜謁闕庭,且吾已老,而欲遠涉險路,糧儲不給,豈謂孝子?吾終不行。」因撫胸慟哭,大心乃止。遂與約和。二年秋,遇害,時年二十九。

南海王大臨

原文南海王大臨

南海王大臨は、字を仁宣という。大同二年、寧国県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜った。幼い頃から聡明で慧く、十一歳の時、左夫人の喪に遭い、哭泣して身を痩せ衰えさせ、孝行で知られた。後に国学に入り、明経の射策で甲科に及第し、中書侍郎に任ぜられ、給事黄門侍郎に転じた。十一年、長兼侍中となった。軽車将軍、琅邪・彭城二郡太守として出向した。侯景の乱の時、使持節・宣恵将軍となり、新亭に駐屯した。間もなくまた召還され、端門に駐屯し、都督城南諸軍事となった。当時、議する者は皆、外の財物を収集して賞賜に充てるよう勧めたが、大臨だけは言った。「物は兵士を賞するが、牛は軍を犒うことができる。」命じて牛を取らせ、千余頭を得たので、城内はこれによって兵士に饗応することができた。大宝元年、南海郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。使持節・都督揚・南徐二州諸軍事・安南将軍・揚州刺史として出向した。また安東将軍・呉郡太守に任ぜられた。時に張彪が会稽で義兵を挙げると、呉人の陸令公、潁川の庾孟卿らが大臨に走って張彪に投ずるよう勧めた。大臨は言った。「張彪が成功すれば、私の力を頼りにはしない。もし失敗すれば、私を利用して言い逃れをするだろう。行くことはできない。」二年の秋、郡において害され、時に二十五歳であった。

原文南海王大臨,字仁宣。大同二年,封寧國縣公,邑一千五百戶。少而敏慧。年十一,遭左夫人憂,哭泣毀瘠,以孝聞。後入國學,明經射策甲科,拜中書侍郎,遷給事黃門侍郎。十一年,爲長兼侍中。出爲輕車將軍,琅邪、彭城二郡太守。侯景亂,爲使持節、宣惠將軍,屯新亭。俄又徵還,屯端門,都督城南諸軍事。時議者皆勸收外財物,擬供賞賜,大臨獨曰:「物乃賞士,而牛可犒軍。」命取牛,得千餘頭,城內賴以饗士。大寶元年,封南海郡王,邑二千戶。出爲使持節、都督揚、南徐二州諸軍事、安南將軍、揚州刺史。又除安東將軍、吳郡太守。時張彪起義於會稽,吳人陸令公、潁川庾孟卿等勸大臨走投彪。大臨曰:「彪若成功,不資我力;如其撓敗,以我說焉。不可往也。」二年秋,遇害于郡,時年二十五。

南郡王大連

原文南郡王大連

南郡王大連は、字を仁靖という。若い頃から俊爽で、文章をよくし、挙措は風流であり、優れた巧思を持ち、音楽に妙達し、また絵画を得意とした。大同二年、臨城県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜った。七年、南海王と共に国学に入り、射策で甲科に及第し、中書侍郎に任ぜられた。十年、高祖が朱方に行幸した時、大連は兄の大臨と共に従った。高祖が問うて言った。「汝らは騎乗を習っているか。」答えて言った。「臣らは詔を奉じておらず、勝手に習うことはできません。」詔を下してそれぞれ馬を与えて試させたところ、大連兄弟は鞍に据わって往復し、それぞれ疾駆の要領を得ていたので、高祖は大いに喜び、即座に乗っていた馬を賜った。そして上啓して謝した時、その文辞もまた甚だ美しかった。高祖は他日、太宗に言った。「昨日、大臨と大連を見たが、風韻が愛らしく、我が年老いた心を慰めるに足る。」給事黄門侍郎に転じ、侍中に転じ、間もなく兼石頭戍軍事となった。太清元年、使持節・軽車将軍・東揚州刺史として出向した。侯景が京師に侵入した時、大連は衆四万を率いて救援に来た。そして臺城が陥落すると、援軍は散り、また揚州に戻った。三年、会稽の山賊田領群が党を集めて数万で攻めて来たので、大連は中兵参軍の張彪に命じてこれを撃ち斬らせた。大宝元年、南郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。侯景はなおその将の趙伯超、劉神茂を遣わして討伐させたので、大連は設備を整えてこれを待った。ちょうど将の留異が城を挙げて賊に応じたので、大連は城を棄てて逃走し、信安に至り、賊に捕らえられた。侯景は彼を軽車将軍・行揚州事とし、平南将軍・江州刺史に転じた。大連は既に賊の手に迫られていたが、常に逃亡を考えており、賊と約束して言った。「軍民の事には、私は関与しない。私の存亡は、ただ鐘の響きを聞けばよい。」賊と面会する機会を選び、それによって逃亡しようとしたので、賊もまたこれを信じた。事は未だ成就しなかった。二年の秋、害され、時に二十五歳であった。

原文南郡王大連,字仁靖。少俊爽,能屬文,舉止風流,雅有巧思,妙達音樂,兼善丹青。大同二年,封臨城縣公,邑一千五百戶。七年,與南海王俱入國學,射策甲科,拜中書侍郎。十年,高祖幸朱方,大連與兄大臨並從。高祖問曰:「汝等習騎不?」對曰:「臣等未奉詔,不敢輒習。」敕各給馬試之,大連兄弟據鞍往還,各得馳驟之節,高祖大悅,卽賜所乘馬。及爲啓謝,詞又甚美。高祖佗日謂太宗曰:「昨見大臨、大連,風韻可愛,足以慰吾年老。」遷給事黃門侍郎,轉侍中,尋兼石頭戍軍事。太清元年,出爲使持節、輕車將軍、東揚州刺史。侯景入寇京師,大連率衆四萬來赴。及臺城沒,援軍散,復還揚州。三年,會稽山賊田領群聚黨數萬來攻,大連命中兵參軍張彪擊斬之。大寶元年,封爲南郡王,邑二千戶。景仍遣其將趙伯超、劉神茂來討,大連設備以待之。會將留異以城應賊,大連棄城走,至信安,爲賊所獲。侯景以爲輕車將軍、行揚州事,遷平南將軍、江州刺史。大連旣迫寇手,恒思逃竄,乃與賊約曰:「軍民之事,吾不預焉。候我存亡,但聽鐘響。」欲簡與相見,因得亡逸,賊亦信之。事未果。二年秋,遇害,時年二十五。

安陸王大春

原文安陸王大春

安陸王大春は、字を仁経という。若い頃から広く書物に通じていた。天性孝順で謹厳であり、体貌は雄大で、腰帯は十囲あった。大同六年、西豊県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜った。中書侍郎に任ぜられた。後に寧遠将軍となり、石頭戍軍事を管掌した。侯景が内寇すると、大春は京口に奔り、邵陵王に従って救援に入り、鐘山で戦ったが、賊に捕らえられた。京城が陥落した後、大宝元年、安陸郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。使持節・雲麾将軍・東揚州刺史として出向した。二年の秋、害され、時に二十二歳であった。

原文安陸王大春,字仁經。少博涉書記。天性孝謹,體貌環偉,腰帶十圍。大同六年,封西豊縣公,邑一千五百戶。拜中書侍郎。後爲寧遠將軍,知石頭戍軍事。侯景內寇,大春奔京口,隨邵陵王入援,戰于鐘山,爲賊所獲。京城旣陷,大寶元年,封安陸郡王,邑二千戶。出爲使持節、雲麾將軍、東揚州刺史。二年秋,遇害,時年二十二。

瀏陽公大雅

原文瀏陽公大雅

瀏陽公大雅は字を仁風という。大同九年、瀏陽県公に封ぜられ、邑千五百戸を賜った。幼い頃から聡明で機敏、姿形が美しく、特に高祖に愛された。太清三年、京城が陥落し、賊が既に城壁に登った時も、大雅はなお左右に命じて戦わせ、賊が次第に多くなると、自ら縋り下りた。そこで憤りを発して病気を患い、薨去こうきょした。時に十七歳であった。

原文瀏陽公大雅字仁風。大同九年,封瀏陽縣公,邑一千五百戶。少聰警,美姿儀,特爲高祖所愛。太清三年,京城陷,賊已乘城,大雅猶命左右格戰,賊至漸衆,乃自縋而下。因發憤感疾,薨,時年十七。

新興王大莊

原文新興王大莊

新興王蕭大荘、字は仁禮。大同九年(543年)、高唐県公に封ぜられ、封邑は一千五百戸。大寶元年(550年)、新興郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。使持節・都督南徐州諸軍事・宣毅将軍・南徐州刺史として出向した。二年(551年)の秋、殺害され、時に十八歳であった。

原文新興王大莊,字仁禮。大同九年,封高唐縣公,邑一千五百戶。大寶元年,封新興郡王,邑二千戶。出爲使持節、都督南徐州諸軍事、宣毅將軍、南徐州刺史。二年秋,遇害,時年十八。

西陽王蕭大鈞

原文西陽王大鈞

西陽王蕭大鈞、字は仁輔。性格は重厚で、軽々しく戯れることはなかった。七歳の時、高祖(武帝)がかつて何の書を読んでいるかと尋ねると、『『詩経』を学んでおります』と答えた。そこで誦詠を命じたところ、音韻が清らかで雅やかであったので、高祖は王羲之の書一卷を賜った。大寶元年(550年)、西陽郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。宣恵将軍・丹陽尹として出向した。二年(551年)、揚州を監し、将軍はもとのまま。秋に至って殺害され、時に十三歳であった。

原文西陽王大鈞字仁輔。性厚重,不妄戲弄。年七歲,高祖嘗問讀何書,對曰「學《詩》」。因命諷誦,音韻清雅,高祖因賜王羲之書一卷。大寶元年,封西陽郡王,邑二千戶。出爲宣惠將軍、丹陽尹。二年,監揚州,將軍如故。至秋遇害,時年十三。

武寧王蕭大威

原文武寧王大威

武寧王蕭大威、字は仁容。風采は美しく、眉目は絵のようであった。大寶元年(550年)、武寧郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。二年(551年)、信威将軍・丹陽尹として出向した。その年の秋、殺害され、時に十三歳であった。

原文武寧王大威字仁容。美風儀,眉目如畫。大寶元年,封武寧郡王,邑二千戶。二年,出爲信威將軍、丹陽尹。其年秋,遇害,時年十三。

建平王蕭大球

原文建平王大球

建平王蕭大球、字は仁珽。大寶元年(550年)、建平郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。性質は明敏で早くから成熟していた。かつて侯景が京城を包囲した時、高祖(武帝)はもとより仏教に帰依し、願を発するたびに常々、「もし衆生に受くべき諸々の苦しみがあるならば、ことごとく我が身に代わって受けよう」と述べていた。当時、大球はわずか七歳であったが、これを聞いて驚き、母に言った。「天子でさえそうなさっているのに、子供である私がどうして辞退できましょうか」。そこで六時に礼拝し、また、「凡そ衆生で苦報を受けるべき者は、ことごとく大球が代わって受けます」と言った。その早熟ぶりはこのようなものであった。二年(551年)、軽車将軍・兼石頭戍軍事として出向した。その年の秋、殺害され、時に十一歳であった。

原文建平王大球字仁珽。大寶元年,封建平郡王,邑二千戶。性明慧夙成。初,侯景圍京城,高祖素歸心釋教,每發誓願,恒云:「若有衆生應受諸苦,悉衍身代當。」時大球年甫七歲,聞而驚謂母曰:「官家尚爾,兒安敢辭?」乃六時禮佛,亦云:「凡有衆生應獲苦報,悉大球代受。」其早慧如此。二年,出爲輕車將軍、兼石頭戍軍事。其年秋,遇害,時年十一。

義安王蕭大昕

原文義安王大昕

義安王蕭大昕、字は仁朗。四歳の時、母の陳夫人が亡くなると、悲しみ慕って憔悴し、まるで大人のようであった。高祖(武帝)が崩ほう御すると、大昕は太宗(簡文帝)を慰め奉ったが、嗚咽して自らを抑えることができなかった。左右の者はこれを見て、涙をぬぐわない者はなかった。大寶元年(550年)、義安郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。二年(551年)、寧遠将軍・琅邪・彭城二郡太守として出向したが、任地に赴く前に殺害され、時に十一歳であった。

原文義安王大昕,字仁朗。年四歲,母陳夫人卒,便哀慕毀悴,有若成人。及高祖崩,大昕奉慰太宗,嗚咽不能自勝。左右見之,莫不掩泣。大寶元年,封義安郡王,邑二千戶。二年,出爲寧遠將軍、琅邪、彭城二郡太守,未之鎮,遇害,時年十一。

綏建王蕭大摯

原文綏建王大摯

綏建王蕭大摯、字は仁瑛。幼い頃から雄壮で胆気があり、京城が陥落すると、嘆いて言った。「大丈夫たるもの、いずれ虜(敵)の類を滅ぼすべきである」。乳母は驚き、その口を押さえて言った。「むやみに言ってはいけない、禍が及ぶぞ!」。大摯は笑って言った。「禍が来るのはこの言葉によるものではない」。大寶元年(550年)、綏建郡王に封ぜられ、封邑は二千戸。二年(551年)、寧遠将軍となり、殺害され、時に十歳であった。

原文綏建王大摯,字仁瑛。幼雄壯有膽氣,及京城陷,乃歎曰:「大丈夫會當滅虜屬。」奶媼驚,掩其口曰:「勿妄言,禍將及!」大摯笑曰:「禍至非由此言。」大寶元年,封綏建郡王,邑二千戶。二年,爲寧遠將軍,遇害,時年十歲。

世祖(元帝)の二人の子

原文世祖二子

世祖(元帝)の男子たち:徐妃が忠壮世子蕭方等を生み、王夫人が貞恵世子蕭方諸を生み、その愍懐太子蕭方矩(本書には生母を記載せず、別に伝がある)は、夏賢妃が敬皇帝(敬帝蕭方智)を生んだ。その他の諸子は、いずれも本書に伝がない。

原文世祖諸男:徐妃生忠壯世子方等,王夫人生貞惠世子方諸,其愍懷太子方矩〈(本書不載所生,別有傳)〉,夏賢妃生敬皇帝。自餘諸子,並本書無傳。

忠壮世子蕭方等

原文忠壯世子方等

忠壮世子蕭方等は字を実相といい、世祖(元帝)の長子である。母は徐妃。幼少より聡明で俊才があり、騎射をよくし、特に巧みな思慮に長じていた。性質は山林や泉水を愛し、文章や義理を殊のほかに好んだ。世祖は彼を愛し、同母弟の方諸と特に親しく仲睦まじくさせた。大同年間に、寧遠県侯に封ぜられ、食邑千戸を賜った。

原文忠壯世子方等,字實相,世祖長子也。母曰徐妃。少聰敏,有俊才,善騎射,尤長巧思。性愛林泉,特好散逸。嘗著論曰:「人生處世,如白駒過隙耳。一壺之酒,足以養性;一簞之食,足以怡形。生在蓬蒿,死葬溝壑,瓦棺石槨,何以異茲?吾嘗夢爲魚,因化爲鳥。當其夢也,何樂如之;及其覺也,何憂斯類;良由吾之不及魚鳥者,遠矣。故魚鳥飛浮,任其志性;吾之進退,恒存掌握。舉手懼觸,搖足恐墮。若使吾終得與魚鳥同遊,則去人間如脫屣耳。」初,徐妃以嫉妒失寵,方等意不自安。世祖聞之,又惡方等,方等益懼,故述論以申其志焉。

ちょうど高祖(武帝)が諸王の長子に謁見することを望んだため、世祖(元帝)は方等を送って入侍させた。方等は屈辱を免れることを願い、喜んで船に乗った。繇水に至った時、侯景の乱に遭遇した。世祖が彼を呼び戻すと、方等は上表して「昔、申生は自らの死を惜しみませんでした。方等がどうして命を惜しみましょうか」と言った。世祖は手紙を見て嘆息し、生還する気がないことを知ると、歩兵・騎兵一万を配属して都の救援に向かわせた。賊が攻めてくるたびに、方等は必ず自ら矢石の前に立った。宮城が陥落すると、方等は荊州に戻り、兵馬を糾合してよく人望を集めたため、世祖は初めてその才能に感嘆した。方等はまた城柵を修築して不測の事態に備えるよう勧めた。完成すると楼観と城壁が連なり、周囲七十余里に及んだ。世祖はこれを見て大いに喜び、内宮に入って徐妃に「もしこのような子がもう一人いれば、我に何の憂いがあろうか」と言った。徐妃は答えず、涙を流して退出した。世祖はこれに怒り、徐妃の醜聞を書き連ねて大閣の壁に掲示した。方等は入ってこれを見て、ますます身の危険を感じた。当時、河東王(蕭誉)が湘州刺史でありながら都督府の命に従わなかったため、方等は彼を征討することを願い出た。世祖はこれを許し、都督に任じて精兵二万を率いて南征させた。方等は出発に臨み、親しい者に「私の今回の出征は、必ず死ぬほかない。死に場所を得られるのであれば、どうして生に執着しようか」と言った。麻溪に至ると、河東王が軍を率いて迎撃してきた。方等は戦ったが軍は敗れ、ついに溺死した。時に年二十二であった。世祖はこれを聞いても悲しまなかったが、後にその才能を追思し、侍中・中軍将軍・揚州刺史を追贈し、忠壮世子と諡おくりなし、魂を招いてこれを哀悼した。

原文會高祖欲見諸王長子,世祖遣方等入侍,方等欣然升舟,冀免憂辱。行至繇水,值侯景亂,世祖召之,方等啓曰:「昔申生不愛其死,方等豈顧其生?」世祖省書歎息,知無還意,乃配步騎一萬,使援京都。賊每來攻,方等必身當矢石。宮城陷,方等歸荊州,收集士馬,甚得衆和,世祖始歎其能。方等又勸修築城柵,以備不虞。旣成,樓雉相望,周回七十餘里。世祖觀之甚悅,入謂徐妃曰:「若更有一子如此,吾復何憂!」徐妃不答,垂泣而退。世祖忿之,因疏其穢行,榜於大閣。方等入見,益以自危。時河東王爲湘州刺史,不受督府之令,方等乃乞征之,世祖許焉。拜爲都督,令帥精卒二萬南討。方等臨行,謂所親曰:「吾此段出征,必死無二;死而獲所,吾豈愛生。」及至麻溪,河東王率軍逆戰,方等擊之,軍敗,遂溺死,時年二十二。世祖聞之,不以爲慼。後追思其才,贈侍中、中軍將軍、揚州刺史,諡曰忠壯世子,幷爲招魂以哀之。

方等は范曄の『後漢書』に注釈を施したが未完に終わった。その著した『三十国春秋』および『静住子』は世に行われた。

原文方等注范曄《後漢書》,未就;所撰《三十國春秋》及《靜住子》,行於世。

貞恵世子蕭方諸

原文貞惠世子方諸

貞恵世子蕭方諸は字を智相といい、世祖の第二子である。母は王夫人。幼少より聡明博学で、『老子』『易経』に通じ、玄談を善くし、風采は清らかで弁舌は泉のごとく湧き出で、世祖に深く愛され、母の王氏も寵愛を受けた。方等が敗死すると、世祖は彼に「廃れる者がなければ、どうして興ることができようか」と言い、中撫軍に任じて自らの副手とし、さらに郢州刺史として江夏を鎮守させ、鮑泉を行事として下流の防備に当たらせた。当時、世祖は徐文盛を派遣して諸軍を統督させ、侯景の将の任約と対峙して勝敗は決していなかった。方諸は文盛が近くにいるのを恃みにして軍政を顧みず、日々鮑泉と双六や酒宴に興じていた。侯景はこれを知り、将軍宋子仙に軽騎数百を率いさせ、間道を通って奇襲させた。折しも風雨で視界が遮られ、子仙が至ると民衆が走って注進したが、方諸と鮑泉はなお信じず、「徐文盛の大軍が下流にいるのに、賊がどうして来られようか」と言った。門を閉ざそうと命じた時には、賊の騎兵はすでに城内に突入しており、城はついに陥落し、子仙は方諸を捕らえて帰還した。王僧辯の軍が蔡洲に達すると、侯景はついに彼を殺害した。世祖は侍中・大将軍を追贈し、貞恵世子と諡した。

原文貞惠世子方諸,字智相,世祖第二子。母王夫人。幼聰警博學,明《老》《易》,善談玄,風采清越,辭辯鋒生,特爲世祖所愛,母王氏又有寵。及方等敗沒,世祖謂之曰:「不有所廢,其何以興。」因拜爲中撫軍以自副,又出爲郢州刺史,鎮江夏,以鮑泉爲行事,防遏下流。時世祖遣徐文盛督衆軍,與侯景將任約相持未決。方諸恃文盛在近,不恤軍政,日與鮑泉蒲酒爲樂。侯景知之,乃遣其將宋子仙率輕騎數百,從間道襲之。屬風雨晦冥,子仙至,百姓奔告,方諸與鮑泉猶不信,曰:「徐文盛大軍在下,虜安得來?」始命閉門,賊騎已入,城遂陷,子仙執方諸以歸。王僧辯軍至蔡洲,景遂害之。世祖追贈侍中、大將軍。諡曰貞惠世子。

【史評】

原文【史評】

史臣は言う。太宗(簡文帝)と世祖(元帝)の諸子は、領地を開き諸侯となりながらも、運命は戦乱の世に属し、賊徒に囚われ、多くは非命の死を遂げた。ああ、嘆かわしいことではないか。

原文史臣曰:太宗、世祖諸子,雖開土宇,運屬亂離;旣拘寇賊,多殞非命。籲!可嗟矣。