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巻45

巻45 王僧辯

王僧辯

原文王僧辯

王僧辯は字あざなを君才といい、右衛将軍の王神念の子である。天監年間に父に従って南朝梁に来た。初め湘東王国の左常侍に任じられた。湘東王が丹陽尹となると、府行参軍に転じた。王が会稽太守として出向すると、兼中兵参軍事を務めた。王が荊州刺史となると、引き続き中兵参軍事に任じられ、その職務範囲内にあった。当時、武寧郡が反乱を起こしたので、王は僧辯に命じてこれを討伐平定させた。貞威将軍・武寧太守に昇進した。まもなく振遠将軍・広平太守に転じた。任期が満了すると、王府の中録事に戻り、参軍の職は従前通りであった。王が護軍将軍に召されると、僧辯は兼府司馬を務めた。王が江州刺史となると、引き続き雲騎将軍司馬に任じられ、湓城を守備した。ほどなく安陸郡を監督したが、間もなく帰還した。まもなく新蔡太守となり、司馬の職を兼ねたまま、将軍号も従前通りであった。王が荊州刺史となると、貞毅将軍府の諮議参軍事に任じられ、千人分の食邑を賜り、柳仲礼に代わって竟陵太守となり、将軍号を雄信将軍に改めた。侯景の反乱が起こると、王は僧辯に仮節を与え、水軍一万を総督させ、食糧を兼ねて救援に向かわせた。ちょうど都に着いたとき、宮城は陥落し、天子は難を蒙っていた。僧辯は柳仲礼兄弟や趙伯超らと共に、まず侯景に屈膝し、その後で朝廷に入った。侯景は彼らの軍需物資をすべて没収したが、手厚く慰撫した。間もなく、僧辯を竟陵に帰還させたので、僧辯は道を倍加して急行し、西の世祖(後の元帝蕭繹)のもとに身を寄せた。世祖は皇帝の権限を代行し、僧辯を領軍将軍に任じた。

原文王僧辯字君才,右衛將軍神念之子也。以天監中隨父來奔。起家爲湘東王國左常侍。王爲丹陽尹,轉府行參軍。王出守會稽,兼中兵參軍事。王爲荊州,仍除中兵,在限內。時武寧郡反,王命僧辯討平之。遷貞威將軍、武寧太守。尋遷振遠將軍、廣平太守。秩滿,還爲王府中錄事,參軍如故。王被徵爲護軍,僧辯兼府司馬。王爲江州,仍除雲騎將軍司馬,守湓城。俄監安陸郡,無幾而還。尋爲新蔡太守,猶帶司馬,將軍如故。王除荊州,爲貞毅將軍府諮議參軍事,賜食千人,代柳仲禮爲竟陵太守,改號雄信將軍。屬侯景反,王命僧辯假節,總督舟師一萬,兼糧饋赴援。才至京都,宮城陷沒,天子蒙塵。僧辯與柳仲禮兄弟及趙伯超等,先屈膝于景,然後入朝。景悉收其軍實,而厚加綏撫。未幾,遣僧辯歸于竟陵,於是倍道兼行,西就世祖。世祖承制,以僧辯爲領軍將軍。

荊州と湘州が離反を疑われ、軍師が敗北したとき、世祖は再び僧辯と鮑泉に命じて軍を統率してこれを討伐させ、兵糧を分け与え、期日を決めて出発させた。当時、僧辯は竟陵の部下がまだすべて到着しておらず、集結を待ってから進軍したいと考えていた。鮑泉に言った。「私とあなたはともに南討の命を受けているが、軍容がこのような状態では、どうしたものだろうか。」泉は言った。「すでに朝廷の計略を拝受し、勇猛な兵を率いているのだから、事は雪を沃ぐがごとく容易であり、何を多く憂慮することがあろうか。」僧辯は言った。「そうではない。あなたの言うことは確かに文士の常談ではある。しかし、河東王(蕭譽)は少しばかり武勇の才があり、兵力も強く、新たに軍師を破り、鋭気を養って敵を待っている。精兵一万でなければ、これを制することはできない。私の竟陵の甲士は、幾度も戦陣を経験しており、すでに召喚を出しているので、まもなく到着するはずだ。期日は限られているが、まだ再考の余地はある。あなたと共に入って(世祖に)申し上げたい。助力を願いたい。」泉は言った。「成敗はこの一行にかかっている。遅速の判断は、結局は上(世祖)の仰せに従うほかない。」世祖は性格が厳格で猜疑心が強く、彼らの話をかすかに聞き、出発を遅らせて行こうとしないと思い、次第に怒りを抱いた。僧辯が入ろうとするとき、泉に言った。「私が先に発言するから、あなたはそれに従ってくれ。」泉もまた承諾した。世祖に謁見すると、世祖は迎えて問うた。「卿は準備はできているのか?いつ出発するのか?」僧辯は先ほどと同じ内容を詳細に答えた。世祖は激怒し、剣に手をかけ声を荒げて言った。「卿は行くのを恐れているのか!」そして立ち上がって奥に入った。泉は震え上がって顔色を失い、ついに一言も発することができなかった。しばらくして、世祖は側近数十人を遣わして僧辯を捕らえさせた。連行されると、世祖は言った。「卿は命令に逆らい行かない。これは賊と同調しようというのか。今はただ死があるのみだ。」僧辯は答えて言った。「僧辯は深く禄を食み、憂いと責務は実に重い。今日、刑に処せられても、どうして恨みを抱こうか。ただ老母に会えないことを恨むのみです。」世祖はそこで彼を斬りつけ、左腿に当たり、血が地面に流れた。僧辯は気絶し、しばらくしてようやく蘇生した。すぐに廷尉に送られ、その子や甥も捕らえられ、皆拘禁された。ちょうど岳陽王(蕭詧)の軍が江陵を襲撃し、人心が動揺し、防備がどうなっているかわからなかった。世祖は側近を獄に遣わし、僧辯に策を問うた。僧辯は方策を詳細に述べたので、すぐに赦免して城内都督に任じた。まもなく岳陽王は敗走し退いたが、鮑泉は長沙を攻略する力がなく、世祖は僧辯に代わらせることを命じた。鮑泉の十の罪状を数え上げ、舎人の羅重歓に斎仗(儀仗兵)三百人を率いさせ、僧辯と共に出発させた。到着すると、鮑泉に伝えさせた。「羅舎人は命令を受け、王竟陵(僧辯)をお送りして参りました。」泉は非常に驚き、側近を見て言った。「王竟陵が私の作戦を助けてくれるなら、賊を平定するのに不足はない。」間もなく重歓が命令書を持って先に入り、僧辯が斎仗を従えて続いて進んだ。泉がちょうど席を払い、座って待っているところだった。僧辯が入ると、泉に背を向けて座り、言った。「鮑郎、卿には罪がある。命令により卿を鎖で繋ぐことになった。以前のよしみで接しないでくれ。」そして重歓に命じて命令を出させると、泉はすぐに地面に降り、寝台の傍らで鎖につながれた。僧辯は引き続き将帥を配置し、力を合わせて包囲攻撃し、ついに湘州の地を平定した。

原文及荊、湘疑貳,軍師失律,世祖又命僧辯及鮑泉統軍討之,分給兵糧,剋日就道。時僧辨以竟陵部下猶未盡來,意欲待集,然後上頓。謂鮑泉曰:「我與君俱受命南討,而軍容若此,計將安之?」泉曰:「旣稟廟算,驅率驍勇,事等沃雪,何所多慮。」僧辯曰:「不然。君之所言故是,文士之常談耳。河東少有武幹,兵刃又強,新破軍師,養銳待敵,自非精兵一萬,不足以制之。我竟陵甲士,數經行陣,已遣召之,不久當及。雖期日有限,猶可重申,欲與卿共入言之,望相佐也。」泉曰:「成敗之舉,繫此一行,遲速之宜,終當仰聽。」世祖性嚴忌,微聞其言,以爲遷延不肯去,稍已含怒。及僧辯將入,謂泉曰:「我先發言,君可見係。」泉又許之。及見世祖,世祖迎問曰:「卿已辦乎?何日當發?」僧辯具對,如向所言。世祖大怒,按劍厲聲曰:「卿憚行邪!」因起入內。泉震怖失色,竟不敢言。須臾,遣左右數十人收僧辯。旣至,謂曰:「卿拒命不行,是欲同賊,今唯有死耳。」僧辯對曰:「僧辯食祿旣深,憂責實重,今日就戮,豈敢懷恨。但恨不見老母。」世祖因斫之,中其左髀,流血至地。僧辯悶絕,久之方蘇。卽送付廷尉,並收其子侄,並皆繫之。會岳陽王軍襲江陵,人情搔擾,未知其備。世祖遣左右往獄,問計於僧辯,僧辯具陳方略,登卽赦爲城內都督。俄而岳陽奔退,而鮑泉力不能剋長沙,世祖乃命僧辯代之。數泉以十罪,遣舍人羅重歡領齋仗三百人,與僧辯俱發。旣至,遣通泉云:「羅舍人被令,送王竟陵來。」泉甚愕然,顧左右曰:「得王竟陵助我經略,賊不足平。」俄而重歡齎令書先入,僧辯從齋仗繼進,泉方拂席,坐而待之。僧辯旣入,背泉而坐,曰:「鮑郎,卿有罪,令旨使我鏁卿,勿以故意見待。」因語重歡出令,泉卽下地,鏁于床側。僧辯仍部分將帥,幷力攻圍,遂平湘土。

領軍将軍の職務に復帰した。侯景が長江を西に渡って侵攻し、軍は夏首に駐屯した。僧辯は大都督となり、巴州刺史の淳于量、定州刺史の杜龕、宜州刺史の王琳、郴州刺史の裴之横らを率いて、ともに西陽に向かった。軍が巴陵に駐屯したとき、郢州がすでに陥落したと聞き、僧辯は巴陵城を占拠して守った。世祖は羅州刺史の徐嗣徽、武州刺史の杜崱に命じて、ともに巴陵で僧辯と合流させた。侯景は郢城を陥落させると、兵力はさらに増大し、配下は非常に鋭く、進んで荊州を侵そうとした。そこで偽の儀同の丁和に兵五千を率いさせて江夏を守備させ、大将の宋子仙に先鋒一万を率いさせて巴陵を攻めさせ、侯景は凶徒の水陸軍をすべて率いて続いて進軍した。こうして長江沿いの守備兵や巡邏兵は、風の便りを聞いて降伏を請い、賊の斥候は隠磯にまで及んだ。僧辯は長江の洲にある米糧をすべて運び上げ、公私の船を水に沈めた。賊の前鋒が江口に駐屯すると、僧辯は諸軍に命じて分かれ、城に乗り上げて堅固に守り、旗を伏せ鼓を臥せ、人がいないかのように平然としていた。翌日、賊軍は長江を渡り、軽騎が城下に至り、問うた。「城内は誰か?」答えて言う。「王領軍である。」賊は言った。「王領軍に伝えよ。情勢がこのようである以上、どうして早く降伏しないのか。」僧辯は人を遣わして答えさせた。「大軍はただ荊州に向かうがよい。この城は自然と障害とはならない。僧辯の一族百人の命はあなた方の手中にある。どうしてすぐに降伏できようか。」賊の騎兵が去ると、間もなくまた来て言った。「我が王(侯景)がすでに到着した。王領軍はなぜ出てきて王と会わないのか。」僧辯は答えなかった。しばらくして、また王珣らを捕らえて城下に連行し、珣は城内を誘い説く手紙を書いた。侯景は船艦を率いて北寺に集結し、また分かれて港に入り、岸に上って道を整え、氈屋を広く設け、軍勢を城東の丘の上で輝かせ、雑草を刈り払い、八つの道を城に向けて開き、五千の兵に「兎頭」の陣形で肉薄して激しく攻撃させた。城内では同時に鬨の声を上げ、矢や石が雨のように降り注ぎ、賊を多く殺したので、賊は引き退いた。世祖はまた平北将軍の胡僧祐に命じて兵を率いて下り、僧辯を救援させた。この日、賊は再び巴陵を攻撃し、水陸十か所で、鼓を鳴らし唇笛を吹き、肉薄して斬り込んできた。城上からは木材を投げ落とし、火やかまど石を投げつけ、多くの死傷者を出した。午後になって賊は退き、さらに長い柵を立てて城を囲み、多くの船艦を並べ、楼船で水城の西南角を攻撃した。また人を洲の岸に渡らせ、䍧柯(鎖)を引いて蝦蟇車で堀を埋めさせ、障車を城に近づけ、二日間続けてやめた。賊はまた艦上に木の桔槔を立て、茅を積んで火を置き、水柵を焼こうとしたが、風向きが不利で、自ら燃え上がって退却した。すでに頻繁に戦って敗北し、賊将の任約がまた陸法和に捕らえられたので、侯景は陣営を焼いて夜遁し、軍を夏首に引き返した。世祖は功績を評価して賞を与え、僧辯を征東将軍・開府儀同三司・江州刺史とし、長寧県公に封じた。

原文還復領軍將軍。侯景浮江西寇,軍次夏首。僧辯爲大都督,率巴州刺史淳于量、定州刺史杜龕、宜州刺史王琳、郴州刺史裴之橫等,俱赴西陽。軍次巴陵,聞郢州已沒,僧辯因據巴陵城。世祖乃命羅州刺史徐嗣徽、武州刺史杜崱並會僧辯于巴陵。景旣陷郢城,兵衆益廣,徒黨甚銳,將進寇荊州。乃使偽儀同丁和統兵五千守江夏,大將宋子仙前驅一萬造巴陵,景悉凶徒水步繼進。於是緣江戍邏,望風請服,賊拓邏至于隱磯。僧辯悉上江渚米糧,並沉公私船於水。及賊前鋒次江口,僧辯乃分命衆軍,乘城固守,偃旗臥鼓,安若無人。翌日,賊衆濟江,輕騎至城下,問:「城內是誰?」答曰:「是王領軍。」賊曰:「語王領軍,事勢如此,何不早降?」僧辯使人答曰:「大軍但向荊州,此城自當非礙。僧辯百口在人掌握,豈得便降。」賊騎旣去,俄爾又來,曰:「我王已至,王領軍何爲不出與王相見邪?」僧辯不答。頃之,又執王珣等至於城下,珣爲書誘說城內。景帥船艦並集北寺,又分入港中,登岸治道,廣設氈屋,耀軍城東隴上,芟除草芿,開八道向城,遣五千兔頭肉薄苦攻。城內同時鼓噪,矢石雨下,殺賊旣多,賊乃引退。世祖又命平北將軍胡僧祐率兵下援僧辯。是日,賊復攻巴陵,水步十處,鳴鼓吹脣,肉薄斫上。城上放木擲火爨昚石,殺傷甚多。午後賊退,乃更起長柵繞城,大列舸艦,以樓船攻水城西南角;又遣人渡洲岸,引䍧柯推蝦蟆車填壍,引障車臨城,二日方止。賊又於艦上豎木桔禋,聚茅置火,以燒水柵,風勢不利,自焚而退。旣頻戰挫衂,賊帥任約又爲陸法和所擒,景乃燒營夜遁,旋軍夏首。世祖策勳行賞,以僧辯爲征東將軍、開府儀同三司、江州刺史,封長寧縣公。

そこで世祖(元帝)は王僧弁に命じ、直ちに巴陵の諸軍を率いて、川沿いに侯景を討伐させた。軍は郢城に駐屯し、歩兵で魯山を攻撃した。魯山城主の支化仁は、侯景の騎兵将軍であったが、その配下を率いて力戦したが、諸軍はこれを大いに破り、化仁は降伏した。僧弁は引き続き諸軍を督いて長江を渡り郢を攻撃し、すぐに羅城に入った。宋子仙は蟻のように金城に集まって守りを固め、攻撃しても陥落しなかった。子仙はその配下の時霊護に三千の兵を率いさせ、城門を開いて出撃させたが、僧弁はまた大いにこれを破り、霊護を生け捕りにし、千の首級を斬った。子仙の軍勢は退いて倉門を占拠し、長江を背に険阻な地形を頼りにした。諸軍がこれを攻めたが、何度も戦っても陥落しなかった。侯景は魯山がすでに陥落し、郢鎮の羅城も失ったと聞くと、残りの軍勢を率いて倍の速さで建業に帰還した。子仙らは窮地に陥り、どうする手立てもなく、郢城を明け渡すことを条件に、自身は侯景のもとに戻ることを願い出た。僧弁は偽ってこれを承諾し、百艘の船を与えるよう命じて、彼らの気を緩ませようとした。子仙は真に受けて信じ、船を浮かべて出発しようとした時、僧弁は杜龕に命じて精鋭の勇士千人を率いさせ、城壁をよじ登らせ、同時に鬨の声を上げて、倉門に突入させた。水軍主の宋遥は楼船を率い、暗い江面を四方から雲のように包囲した。子仙は戦いながら逃げ、白楊浦に至ったところで、大いに破られ、生け捕りにされて江陵に送られた。僧弁は直ちに諸軍を率いて九水へ進軍した。賊の偽儀同の范希栄と盧暉略はまだ湓城を占拠していたが、僧弁の軍が到着すると、希栄らは江州刺史の臨城公を脅して城を捨てて逃走した。世祖は僧弁に侍中・尚書令・征東大将軍を加え、鼓吹一部を与えた。そして僧弁にしばらく江州に駐屯し、諸軍が揃うのを待って、時機を見てさらに進軍するよう命じた。

原文於是世祖命僧辯卽率巴陵諸軍,沿流討景。師次郢城,步攻魯山。魯山城主支化仁,景之騎將也,率其黨力戰,衆軍大破之,化仁乃降。僧辯仍督諸軍渡江攻郢,卽入羅城。宋子仙蟻聚金城拒守,攻之未剋。子仙使其黨時靈護率衆三千,開門出戰,僧辯又大破之,生擒靈護,斬首千級。子仙衆退據倉門,帶江阻險,衆軍攻之,頻戰不剋。景旣聞魯山已沒,郢鎮復失羅城,乃率餘衆倍道歸建業。子仙等困蹙,計無所之,乞輸郢城,身還就景。僧辯偽許之,命給船百艘,以老其意。子仙謂爲信然,浮舟將發,僧辯命杜龕率精勇千人,攀堞而上,同時鼓噪,掩至倉門。水軍主宋遙率樓船,暗江四面雲合;子仙行戰行走,至于白楊浦,乃大破之,生擒子仙送江陵。卽率諸軍進師九水。賊偽儀同范希榮、盧暉略尚據湓城,及僧辯軍至,希榮等因挾江州刺史臨城公棄城奔走。世祖加僧辯侍中、尚書令、征東大將軍,給鼓吹一部。仍令僧辯且頓江州,須衆軍齊集,得時更進。

しばらくして、世祖は江州の諸軍をすべて大挙に参加させるよう命じた。そこで僧弁は皇帝(簡文帝)の凶報を上表して江陵に報告した。そして大将百余人を率いて連名で世祖の即位を勧めた。進軍しようとする際、また重ねて上表した。従われなかったが、いずれも丁重な返答を受けた。事柄は本紀に見える。

原文頃之,世祖命江州衆軍悉同大舉,僧辯乃表皇帝凶問,告于江陵。仍率大將百餘人,連名勸世祖卽位;將欲進軍,又重奉表。雖未見從,並蒙優答。事見本紀。

僧弁はそこで江州を出発し、まっすぐ建業を目指した。まず南兗州刺史の侯瑱に鋭卒と軽舟を率いさせ、南陵・鵲頭などの戍を襲撃させ、到着するとすぐにこれを陥落させた。これより先、陳霸先が五万の兵を率いて南江から出発し、前軍五千が湓口に到着していた。霸先は豪放で謀略に富み、名声は僧弁を上回り、僧弁は彼を恐れていた。湓口に到着すると、僧弁は白茅洲で会い、壇に登って盟誓を結んだ。霸先がその文を作り、次のように言った。『賊臣侯景は、凶暴な羯の小胡であり、天に逆らい形なく、奸悪を企てる。我が恩義に背き、我が国家を破壊略奪し、我が生民を毒害し、我が社廟を毀損した。我が高祖武皇帝は霊聖で聡明、天下を治め、億兆の民を労苦し、万民を養育され、我が父母のごとく、五十年に及んだ。哀れんで侯景が窮して帰順するのを受け入れ、侯景を殺すべき首を全うさせ、要害の地に置き、侯景に次第を超えた栄誉を与えた。我が高祖は侯景に何が薄かったか。我が百姓は侯景に何の怨みがあったか。それなのに侯景は長戟強弩をもって朝廷を陵辱し、郊外で牙を鋸のごとくにし、生あるものを食い荒らした。肝を刳り足を斬っても、その快さを飽き足りず、骨を曝し屍を焼いても、残酷とは言わなかった。高祖は粗食で質素な宮殿、九十歳の高齢で、志を屈し威を凝らし、賊の手にかかって憤死された。大行皇帝(簡文帝)は温かく厳かで恭しく静かであり、大いなる名を守られたが、侯景は何の恨みがあって、また忍び難い毒を加えたのか。皇族の繦抱(赤子)以上、緦功(遠い親族)までの者を、極限の刀俎にかけ、屠りかつ細かく切った。どうして王土の民たる者が、王の臣と称え、人の禾を食み、人の水を飲みながら、この痛みを聞いて忍び、心を悼まないことがあろうか。まして臣僧弁・臣霸先らは、国を支える藩屏たる湘東王臣繹の、血を泣き哀しみを噛む託しと、頂から足まで至る恩、先朝の徳を代々受け、将帥の任に身を当てながら、胆を絞り腸を引き出して共に奸逆を誅し、天地の痛みを雪ぎ、君父の仇を報いることができなければ、霊魂と知覚を授かり、天を戴き地を踏む者とは言えない。今日、相国(元帝)は至孝で玄妙な感応があり、霊武がここに発し、すでに賊徒を破り、その元帥を捕らえ、残るは侯景自身のみ、なお京邑にいる。臣僧弁と臣霸先は将帥を協和させ、心を同じくし誓いを共にし、必ず凶悪な奴を誅し、相国を尊奉し、大業を継いで受け、郊祭を主宰する者とせん。前途において一つの功績を立て、一つの賞を得るに当たり、臣僧弁らが己を推して他に譲らず、先頭に立って衆を率いなければ、天地宗廟百神の霊が共に誅し責め給え。臣僧弁・臣霸先は心を同じくして事に当たり、互いに欺き負かすことがなければ、もしこれに背くことがあれば、明らかな神がこれを誅し給え。』そこで壇に登って血を啜り、共に盟文を読み、皆涙を流して襟を濡らし、言葉と表情は慷慨であった。

原文僧辯於是發自江州,直指建業,乃先命南兗州刺史侯瑱率銳卒輕舸,襲南陵、鵲頭等戍,至卽剋之。先是,陳霸先率衆五萬,出自南江,前軍五千,行至湓口。霸先倜儻多謀策,名蓋僧辯,僧辯畏之。旣至湓口,與僧辯會于白茅洲,登壇盟誓。霸先爲其文曰:「賊臣侯景,凶羯小胡,逆天無狀,構造姦惡;違背我恩義,破掠我國家,毒害我生民,移毀我社廟。我高祖武皇帝靈聖聰明,光宅天下,劬勞兆庶,亭育萬民,如我考妣,五十所載。哀景以窮見歸,全景將戮之首,置景要害之地,崇景非次之榮。我高祖於景何薄?我百姓於景何怨?而景長戟強弩,陵蹙朝廷,鋸牙郊甸,殘食含靈。刳肝斫趾,不曈其快;曝骨焚尸,不謂爲酷。高祖菲食卑宮,春秋九十,屈志凝威,憤終賊手。大行皇帝溫嚴恭默,丕守鴻名,於景何有,復加忍毒。皇枝繦抱已上,緦功以還,窮刀極俎,旣屠且鱠。豈有率土之濱,謂爲王臣,食人之禾,飲人之水,忍聞此痛,而不悼心?況臣僧辯、臣霸先等,荷稱國籓湘東王臣繹泣血銜哀之寄,摩頂至足之恩,世受先朝之德,身當將帥之任;而不能瀝膽抽腸,共誅姦逆,雪天地之痛,報君父之仇,則不可以稟靈含識,戴天履地!今日相國至孝玄感,靈武斯發,已破賊徒,獲其元帥,止餘景身,尚在京邑。臣僧辯與臣霸先協和將帥,同心共契,必誅凶豎,尊奉相國,嗣膺鴻業,以主郊祭。前途若有一功,獲一賞,臣僧辯等不推己讓物,先身帥衆,則天地宗廟百神之靈,共誅共責。臣僧辯、臣霸先同心共事,不相欺負,若有違戾,明神殛之。」於是升壇歃血,共讀盟文,皆淚下沾襟,辭色慷慨。

王師が南洲に駐屯すると、賊帥の侯子鑒らが歩騎一万余りを率いて岸で挑戦し、また鵃䑠千艘に兵士を乗せ、両側に八十本の櫂を備え、櫂手は皆越人で、行き来して急襲し、その速さは風電を超えていた。僧弁は細い船に旗を振って皆に退却させ、すべて大艦を両岸に挟んで停泊させた。賊は水軍が退こうとしていると思い、争って出て追いかけた。そこで諸軍は大艦を漕ぎ出し、その帰路を遮り、鬨の声を上げて大声で叫び、長江の中流で合戦し、賊は皆水に飛び込んだ。僧弁は直ちに諸軍を督いて川沿いに下り、石頭の斗城に進軍し、連なる陣営を作って賊を威圧した。賊は横嶺の上に五つの城を築いて守りを固め、侯景自ら出陣し、王師と石頭城の北で大戦した。霸先は僧弁に言った。『醜い虜の遊魂は、悪事が満ち満ちており、誅罰を逃れて死を送り、一か八かの勝負をしようとしている。我が軍は多く賊は少ない。その勢いを分けよう。』直ちに強弩二千張を派遣し、賊の西側の二城を攻撃させ、引き続き陣を組ませて賊に当たらせた。僧弁は後方で軍を指揮して進み、また大いにこれを破った。盧暉略は侯景が敗戦したと聞き、石頭城を降伏させた。僧弁は軍を率いて入城し、これを占拠した。侯景が退却する際、北の朱方へ逃げた。そこで侯景の散兵が走って僧弁に報告した。僧弁は諸将に命じて台城を占拠させた。その夜、兵士が梠を採って火事を起こし、太極殿や東西堂などを焼いた。当時、兵士たちが京邑を略奪し、士庶を剥ぎ取り、民が捕らえられ縛られると、肌着一枚も残らなかった。すべての住民を駆り立てて身代金を求めさせ、石頭から東城に至るまで、淮水沿いの号叫の声は京邑に響き渡り、そこで百姓は失望した。

原文及王師次於南洲,賊帥侯子鑒等率步騎萬餘人於岸挑戰,又以鵃䑠千艘並載士,兩邊悉八十棹,棹手皆越人,去來趣襲,捷過風電。僧辯乃麾細船,皆令退縮,悉使大艦夾泊兩岸。賊謂水軍欲退,爭出趨之,衆軍乃棹大艦,截其歸路,鼓噪大呼,合戰中江,賊悉赴水。僧辯卽督諸軍沿流而下,進軍于石頭之斗城,作連營以逼賊。賊乃橫嶺上築五城拒守,侯景自出,與王師大戰於石頭城北。霸先謂僧辯曰:「醜虜遊魂,貫盈已稔,逋誅送死,欲爲一決。我衆賊寡,且分其勢。」卽遣強弩二千張,攻賊西面兩城,仍使結陣以當賊。僧辯在後麾軍而進,復大破之。盧暉略聞景戰敗,以石頭城降,僧辯引軍入據之。景之退也,北走朱方,於是景散兵走告僧辯,僧辯令衆將入據臺城。其夜,軍人采梠失火,燒太極殿及東西堂等。時軍人鹵掠京邑,剝剔士庶,民爲其執縛者,衵衣不免。盡驅逼居民以求購贖,自石頭至于東城,緣淮號叫之聲,震響京邑,於是百姓失望。

僧弁は侯瑱と裴之横に精鋭の甲冑兵五千を率いさせ、東へ向かって侯景を討伐させた。僧弁は賊の一味である王偉ら二十余人を捕らえ、江陵に送った。偽行台の趙伯超が呉松江から侯瑱に降伏し、瑱はその時僧弁のもとに送った。僧弁は伯超に言った。『趙公、あなたは国の重恩を受けながら、また逆賊に同調した。今日の事態、どうするつもりか。』そして江陵に送るよう命じた。伯超が出て行くと、僧弁は座る客を見回して言った。『朝廷は昔、ただ趙伯超を知っていただけで、どうして王僧弁を識っていただろうか。社稷が傾いたが、私によって回復された。人の興廃もまた、どうして常ならんや。』賓客は皆前に進み出て、その功徳を称え賞賛した。僧弁ははっと驚き、誤って答えて言った。『これは聖上の威徳と、諸将帥が命令に従ったおかげである。老夫はたまたま軍の長に居座っているだけで、何の力があろうか。』こうして逆賊はすべて平定され、京都は克服され安定した。

原文僧辯命侯瑱、裴之橫率精甲五千,東入討景。僧辯收賊黨王偉等二十餘人,送于江陵。偽行臺趙伯超自吳松江降於侯瑱,瑱時送至僧辯。僧辯謂伯超曰:「趙公,卿荷國重恩,遂復同逆。今日之事,將欲何如?」因命送江陵。伯超旣出,僧辯顧坐客曰:「朝廷昔唯知有趙伯超耳,豈識王僧辯?社稷旣傾,爲我所復;人之興廢,亦復何常。」賓客皆前稱歎功德。僧辯瞿然,乃謬答曰:「此乃聖上之威德,羣帥之用命。老夫雖濫居戎首,何力之有焉?」於是逆寇悉平,京都剋定。

世祖が帝位に即くと、僧弁の功績により、鎮衛将軍・司徒に進められ、班剣二十人を加えられ、永寧郡公に改封され、食邑五千戸を与えられ、侍中・尚書令・鼓吹はすべて以前の通りとした。

原文世祖卽帝位,以僧辯功,進授鎮衛將軍、司徒,加班劍二十人,改封永寧郡公,食邑五千戶,侍中、尚書令、鼓吹並如故。

その後、湘州の賊徒陸納らが淥口で衡州刺史丁道貴を攻め破り、その軍需物資をことごとく奪い取った。李洪雅もまた零陵から軍勢を率いて空霊灘に出て、納を討伐するのを助けると称した。朝廷は彼らの本心を把握できず、深く憂慮したため、中書舎人羅重歓を派遣して僧弁を召し、驃騎将軍宜豊侯蕭循の南征に加わるよう命じた。僧弁は杜崱らの諸軍を督し、建業を出発し、軍を巴陵に駐屯させた。詔により僧弁は都督東上諸軍事とされ、霸先は都督西上諸軍事とされた。以前、霸先が都督の地位を僧弁に譲ったが、僧弁は受けなかったため、世祖(元帝)が東西の都督に分け、ともに南征させたのである。当時、陸納らは車輪に拠点を構え、両岸に城を築き、前方の水勢を断ち、兵士は勇猛で、いずれも百戦を経た精鋭であった。僧弁はこれを恐れ、軽率に進軍せず、そこで徐々に連城を築いて賊を圧迫した。賊はこれを見て交戦しようとせず、皆油断していた。僧弁はその無防備につけ込み、諸軍に水陸両面から攻撃を命じ、自ら旗鼓を執って進退を指揮した。そこで諸軍が競い出て、車輪で大戦し、驃騎将軍蕭循と力を合わせて苦戦して攻め、二つの城を陥落させた。賊は大敗し、徒歩で敗走して長沙に籠城し、住民を駆り立てて城内に追い込み、防戦した。僧弁は追撃し、塁を築いて包囲するよう命じ、諸軍に広く囲いの柵を建てさせ、僧弁は塚の上に出て座り、自ら視察した。賊は遠望して僧弁と見分け、防備がないと知ると、賊の一味の呉蔵・李賢明らは鋭卒千人を率いて、城門を開いて不意に打って出て、楯をかぶって一直線に進み、まっすぐ僧弁を目指した。当時、杜崱・杜龕がともに左右に侍っており、鎧を着た護衛はわずか百余人であったため、下って人を遣わし賊と交戦させた。李賢明は鎧馬に乗り、従者十騎を従えて大声で叫びながら突撃したが、僧弁はなお胡床に座ったままで動じなかった。そこで勇敢に指揮し、ついに賢明を捕らえ、その場で斬った。賊は城内に退却した。初め、陸納が兵を擁して内乱を起こした時、王琳を口実にし、「朝廷が王琳を釈放すれば、納らは自ら降伏する」と言っていた。当時、諸軍が一斉に進軍していたため、それは許されなかった。しかし武陵王(蕭紀)が上流に軍勢を擁し、内外が驚き恐れたため、世祖は王琳を派遣して和解させた。この時、湘州は平定された。僧弁は江陵に帰還し、詔を受けて諸軍を集め西征することとなり、水軍二万を督し、輿駕が天居寺から出て餞別した。まもなく武陵王が敗北し、僧弁は枝江から江陵に軍を返し、やがて建業に戻って鎮守した。

原文是後湘州賊陸納等攻破衡州刺史丁道貴於淥口,盡收其軍實;李洪雅又自零陵率衆出空靈灘,稱助討納。朝廷未達其心,深以爲慮,乃遣中書舍人羅重歡徵僧辯上就驃騎將軍宜豊侯循南征。僧辯因督杜崱等衆軍,發於建業,師次巴陵。詔僧辯爲都督東上諸軍事,霸先爲都督西上諸軍事。先時霸先讓都督于僧辯,僧辯不受,故世祖分爲東西都督,而俱南討焉。時納等下據車輪,夾岸爲城,前斷水勢,士卒驍猛,皆百戰之餘。僧辯憚之,不與輕進,於是稍作連城以逼賊。賊見不敢交鋒,並懷懈怠。僧辯因其無備,命諸軍水步攻之,親執旗鼓,以誡進止。於是諸軍競出,大戰於車輪,與驃騎循並力苦攻,陷其二城。賊大敗,步走歸保長沙,驅逼居民,入城拒守。僧辯追躡,乃命築壘圍之,悉令諸軍廣建圍柵,僧辯出坐壟上而自臨視。賊望,識僧辯,知不設備,賊黨吳藏、李賢明等乃率銳卒千人,開門掩出,蒙楯直進,徑趨僧辯。時杜崱、杜龕並侍左右,帶甲衛者止百餘人,因下遣人與賊交戰。李賢明乘鎧馬,從者十騎,大呼衝突,僧辯尚據胡床,不爲之動。於是指揮勇敢,遂獲賢明,因卽斬之。賊乃退歸城內。初,陸納阻兵內逆,以王琳爲辭,云「朝廷若放王琳,納等自當降伏」。于時衆軍並進,未之許也。而武陵王擁衆上流,內外駭懼,世祖乃遣琳和解之。至是,湘州平。僧辯旋于江陵,因被詔會衆軍西討,督舟師二萬,輿駕出天居寺餞行。俄而武陵敗績,僧辯自枝江班師于江陵,旋鎮建業。

その月、しばらくして、再び江陵に戻った。斉の主高洋が郭元建に軍勢二万を率いさせ、合肥に大規模に船艦を並べさせ、建業を襲撃しようと謀り、またその大将の邢景遠・歩六汗薩・東方老らに軍勢を率いさせて続かせた。当時、陳霸先が建康を鎮守しており、このことを聞くと、急報で江陵に知らせた。世祖はただちに僧弁に姑孰に駐屯するよう詔を下し、そのまま留まって鎮守させた。まず豫州刺史侯瑱に精鋭の甲士三千人を率いさせて東関に塁を築かせ、北の敵を防がせた。呉郡太守張彪・呉興太守裴之横を召し、関で侯瑱と合流させた。そこで北軍と戦い、これを大破した。僧弁は諸軍を率いて建業で軍容を整えた。承聖三年二月甲辰、詔が下った。「俊才を推挙し賢者を登用することは、秦の典籍に称えられ、上を安んじ下を治めることは、漢の制度に聞くところである。それゆえに天の星々に協力し、下って大計を補佐する。使持節・侍中・司徒・尚書令・都督揚・南徐・東揚三州諸軍事・鎮衛将軍・揚州刺史・永寧郡開国公の僧弁は、器量は深く重厚で、風格は細やかで遠大であり、行いは士人の模範となり、言葉は身を表す文となり、学問は九流に通じ、武略は七略を備えている。近年の征討において、西から東へと転戦し、軍は疲労せず、民は怨みの声を上げず、王業の艱難は、まさに平穏と危険の両方を兼ねていた。中台(宰相の職)を調和させ、この上将の任に当たらせるにふさわしい。国政を委ね、我が朝の道を正すべきである。太尉・車騎大将軍を加え、その他の官職はすべて元の通りとする。」

原文是月,居少時,復回江陵。齊主高洋遣郭元建率衆二萬,大列舟艦於合肥,將謀襲建業,又遣其大將邢景遠、步六汗薩、東方老等率衆繼之。時陳霸先鎮建康,旣聞此事,馳報江陵。世祖卽詔僧辯次于姑孰,卽留鎮焉。先命豫州刺史侯瑱率精甲三千人築壘於東關,以拒北寇;徵吳郡太守張彪、吳興太守裴之橫會瑱於關;因與北軍戰,大敗之,僧辯率衆軍振旅于建業。承聖三年二月甲辰,詔曰:「贊俊遂賢,稱于秦典;自上安下,聞之漢制。所以仰協台曜,俯佐弘圖。使持節、侍中、司徒、尚書令、都督揚、南徐、東揚三州諸軍事、鎮衛將軍、揚州刺史、永寧郡開國公僧辯,器宇凝深,風格詳遠,行爲士則,言表身文,學貫九流,武該七略。頃歲征討,自西徂東;師不疲勞,民無怨讟;王業艱難,實兼夷險。宜其燮此中台,膺茲上將;寄之經野,匡我朝猷。加太尉、車騎大將軍,餘悉如故。」

まもなく、母の太夫人が逝去し、世祖は侍中謁者を派遣して喪事を監督させ、諡おくりなを貞敬太夫人と定めた。夫人は魏氏を姓とした。神念(僧弁の父)が天監の初年に徒衆を率いて東関を占拠し、合肥の漅湖の西に退いて守った時、娶って妻とし、僧弁を生んだ。性格は非常に穏やかで、人を慰め接するのが上手く、家の内外を問わず、慕わない者はなかった。初め、僧弁が投獄された時、夫人は涙を流して徒歩で行き、謝罪しようとしたが、世祖は面会しなかった。当時、貞恵世子(蕭方諸)が世祖に寵愛され、軍国大事の多くに関与していた。夫人が宮門に赴き、自ら教訓が足りなかったと陳述し、涙を流して嗚咽したので、人々は皆哀れに思った。僧弁が赦免されて出獄すると、夫人は深く責めて励まし、言葉も顔色も厳しく、「人が君に仕えるには、ただ忠烈であるべきで、当代を保つだけでなく、子孫にまで慶事が及ぶのだ」と言った。僧弁が旧都を回復し、その功績が天下に並ぶほどになった時も、夫人は常に謙虚に振る舞い、富貴を以て人に驕ることがなかった。朝野ともにこれを称え、明哲な婦人であると言った。逝去すると、非常に哀悼された。また僧弁の勲功が重いため、喪礼は格別に厚くされた。霊柩が建康に帰る時、また謁者を舟渚に派遣して弔祭させた。尚書左僕射王裒に命じてその文を作らせた。「あなたの家系は武子(王渾)に始まり、一族は陽元(王祥)の盛んな徳を備え、金のように互いに輝き合い、玉の徳のように共に温かである。すでに女の規範と称され、兼ねて婦人の言葉に従った。書物を読み図を鏡とし、辞章を論じた。教えは祭祀の礼儀に及び、訓戒は平原(広い地域)にまで及んだ。楚の女性が将兵を発し、孟軻が徳を成したように。忠を尽くし敬を資とし、家から国を正した。その儀礼は明らかで信頼でき、民の規範である。軍旅に命を受けて、我が軍備を整え、この三公の職を補い、亀山・蒙山の地を領有した。母は子によって貴くなり、まことにこれが崇められる所以である。嘉命は確かに集まり、寵愛の印綬がこれほどまでに盛大である。高い地位にあって能く謙虚になり、貴い身分にあっては謙虚を思う。慶事は善い始まりに基づき、栄誉は立派な終わりを兼ねる。崦嵫に日が暮れ、葦は早くも秋となった。駆ける馬は戻り難く、逆巻く波はどうして留まろうか。龍門を背にして西を顧み、夏首を過ぎて東へ漂う。三宮の遠い山を越え、三江の分流を経る。鬱蒼と嶺を増し、浮雲が覆い隠す。滔滔たる江・漢よ、過ぎ去る者はこのようである。銘旌と古い旗、屋敷は壊れ碑は残る。虚ろな舟に設けた祭り、去りし魂に知覚あらんことを想う。嗚呼哀哉!」

原文頃之,丁母太夫人憂,世祖遣侍中謁者監護喪事,策諡曰貞敬太夫人。夫人姓魏氏。神念以天監初董率徒衆據東關,退保合肥漅湖西,因娶以爲室,生僧辯。性甚安和,善於綏接,家門內外,莫不懷之。初,僧辯下獄,夫人流淚徒行,將入謝罪,世祖不與相見。時貞惠世子有寵於世祖,軍國大事多關領焉。夫人詣閤,自陳無訓,涕泗嗚咽,衆並憐之。及僧辯免出,夫人深相責勵,辭色俱嚴,云:「人之事君,惟須忠烈,非但保祐當世,亦乃慶流子孫。」及僧辯剋復舊京,功蓋天下,夫人恒自謙損,不以富貴驕物。朝野咸共稱之,謂爲明哲婦人也。及旣薨殞,甚見愍悼。且以僧辯勳業隆重,故喪禮加焉。靈柩將歸建康,又遣謁者至舟渚弔祭。命尚書左僕射王裒爲其文曰:「維爾世基武子,族懋陽元,金相比映,玉德齊溫。旣稱女則,兼循婦言。書圖鏡覽,辭章討論。教貽俎豆,訓及平原。楚發將兵,孟軻成德。盡忠資敬,自家刑國。顯允其儀,惟民之則。反命師旅,旣修我戎;補茲袞職,奄有龜、蒙。母由子貴,亶爾斯崇;嘉命允集,寵章所隆。居高能降,處貴思沖;慶資善始,榮兼令終。崦嵫旣夕,蒹葭早秋;奔駟難返,衝濤詎留。背龍門而西顧,過夏首而東浮;越三宮之遐岳,經三江之派流。鬱鬱增嶺,浮雲蔽虧;滔滔江、漢,逝者如斯。銘旌故旐,宇毀遺碑。卽虛舟而設奠,想徂魂之有知。嗚呼哀哉!」

その年十月、西魏の丞相宇文黒泰(宇文泰)が兵を派遣し、岳陽王(蕭詧)の軍勢と合わせて五万とし、江陵を襲撃しようとした。世祖は主書李膺を建業に派遣して僧弁を召し、大都督・荊州刺史とした。別に僧弁に命じて言った。「黒泰が盟約に背き、突然斧を挙げた。国家の猛将は、多くが下流にいる。荊陝の軍勢は、いずれも精強ではない。貴公は勇猛な軍勢を率い、星明かりの下に出発し、倍の速度で昼夜兼行し、逆さに吊るされた者を救うように急行せよ。」僧弁は豫州刺史侯瑱らを前軍とし、兗州刺史杜僧明らを後軍とするよう命じた。処置が終わると、李膺に言った。「宇文泰の兵は勇猛で、鋭気を争うのは難しい。諸軍が集結したなら、私はただちに漢江に向かい、その退路を断つ。千里の糧秣輸送でさえ飢えの色を見せるのに、まして賊が数千里を越えて来る場合などどうだろうか。これは孫臏が龐涓を打ち破った時のようなものだ。」まもなくして都城は陥落し、皇帝(元帝)は崩ほう御した。敬帝が初めて梁主の位に即くと、僧弁は擁立の功績により、承制により驃騎大将軍・中書監・都督中外諸軍事・録尚書に進められ、陳霸先とともに討伐の謀議に参与した。

原文其年十月,西魏相宇文黑泰遣兵及岳陽王衆合五萬,將襲江陵。世祖遣主書李膺徵僧辯於建業,爲大都督、荊州刺史。別敕僧辯云:「黑泰背盟,忽便舉斧。國家猛將,多在下流;荊陝之衆,悉非勁勇。公宜率貔虎,星言就路,倍道兼行,赴倒懸也。」僧辯因命豫州刺史侯瑱等爲前軍,兗州刺史杜僧明等爲後軍。處分旣畢,乃謂膺云:「泰兵驍猛,難與爭銳,衆軍若集,吾便直指漢江,截其後路。凡千里饋糧,尚有饑色,況賊越數千里者乎?此孫臏剋龐涓時也。」俄而京城陷沒,宮車晏駕。及敬帝初卽梁主位,僧辯預樹立之功,承制進驃騎大將軍、中書監、都督中外諸軍事、錄尚書,與陳霸先參謀討伐。

当時、斉の主君高洋はまた貞陽侯蕭淵明を梁の後継者として迎え入れようとし、王僧弁に書簡を送って言った。「梁国は不幸にも、禍難が相次ぎ、侯景が建業を傾け滅ぼし、武陵王(蕭紀)が巴・漢で弓を引きしぼった。卿の志は天に届き、精誠は白日を貫き、力を合わせ心を一つにして、逆賊を討ち滅ぼした。およそ情ある者は、誰もが賞賛し尊んでいない者はいない。ましてや我が隣国として、以前から協力して事を治めてきた。しかし西の敵寇(西魏)が隙に乗じて、再び襲撃を仕掛けてきた。梁主(元帝)は江陵を固守できず、宗廟の前で命を落とした。我が王師が到着する前に、すでに降伏敗北してしまった。士民の大小は皆、敵寇の虜となってしまった。私は南方を顧みて、憤りと嘆息で胸がいっぱいである。卿の臣下としての心情は、思うに胸が張り裂けんばかりであろう。聞くところによれば、仮に傍流の子を立て、江陰で号令しているが、年はわずか十余歳で、極めて幼く未熟である。梁の禍いはまだ終わらず、重責を担うのは難しいであろう。祭祀は衛君(名目上の君主)が行い、政務は寧氏(実権者)が行う。幹が弱く枝が強いことは、古来より忌み嫌われることである。朕は天下を家とし、大道をもって万物を救済する。梁国が滅亡したのを、旧い友好を思い、存亡を救い墜ちた者を助けるのは、今がその時であり、危険を救い後継の事業を助けるのは、長い徳によるものではない。あの貞陽侯は、梁の武帝の甥であり、長沙王(蕭懿)の子孫である。年齢と声望からして、金陵を保つに堪えうる。故に彼を梁主と定め、貴国に送り届けよう。直ちに上党王高渙に命じて諸将を総括統率させ、江表(江南)まで護送させる。雷の動き風の馳せるが如く、冤逆を掃討するのを助けよう。清河王高岳は、以前に荊城を救援し、軍を安陸まで進めたが、すでに間に合わず、憤りと無念さは非常に深い。西の敵寇が流れに乗じて、再び江左を踏みにじることを恐れる。今、漢口に転進し、陸居士(陸法和)と会合する。卿は我が良策に協力し、あの諸将帥を励まし、船艦を配置し、今の王(貞陽侯)を迎え入れ、精鋭の勇者を集め、心を一つに力を合わせるべきである。西羌(西魏)の烏合の衆は、本来強敵ではなく、ただ湘東王(元帝)が怯懦であったために、このような滅亡を招いたのだ。今の軍勢は、どこへ行っても打ち勝たないことはない。善く良策を立て、朕の期待に応えよ。」

原文時齊主高洋又欲納貞陽侯淵明以爲梁嗣,因與僧辯書曰:「梁國不造,禍難相仍,侯景傾蕩建業,武陵彎弓巴、漢。卿志格玄穹,精貫白日,戮力齊心,芟夷逆醜。凡在有情,莫不嗟尚;況我鄰國,緝事言前。而西寇承間,復相掩襲。梁主不能固守江陵,殞身宗祐。王師未及,便已降敗;士民小大,皆畢寇虜。乃眷南顧,憤歎盈懷。卿臣子之情,念當鯁裂。如聞權立枝子,號令江陰,年甫十餘,極爲沖藐;梁釁未已,負荷諒難。祭則衛君,政由甯氏;幹弱枝強,終古所忌。朕以天下爲家,大道濟物。以梁國淪滅,有懷舊好,存亡拯墜,義在今辰,扶危嗣事,非長伊德。彼貞陽侯,梁武猶子,長沙之胤,以年以望,堪保金陵,故置爲梁主,納于彼國。便詔上党王渙總攝羣將,扶送江表,雷動風馳,助掃冤逆。清河王岳,前救荊城,軍度安陸,旣不相及,憤惋良深。恐及西寇乘流,復躡江左。今轉次漢口,與陸居士相會。卿宜協我良規,厲彼羣帥,部分舟艫,迎接今王,鳩勒勁勇,幷心一力。西羌烏合,本非勍寇,直是湘東怯弱,致此淪胥。今者之師,何往不剋,善建良圖,副朕所望也。」

貞陽侯は斉の派遣に従い、寿陽に到着しようとしていた。貞陽侯は前後して頻繁に王僧弁に書簡を送り、国に戻り正統を継ぐ意向を論じたが、王僧弁は受け入れなかった。貞陽侯と高渙が東関に到着すると、散騎常侍裴之横が軍勢を率いて防戦したが、大敗した。王僧弁はそこで貞陽侯を受け入れることを謀り、君臣の礼を定めることにした。上奏して言った。「秦(西魏)の兵が陝を侵して以来、臣はただちに救援に赴く準備をし、船に乗り込んだところで、荊城が陥落した。すぐに劉周を国(北斉)に入らせ、丹誠を尽くしたことを表で詳細に述べさせ、左右の功労ある豪傑たちも、初めは皆同じ考えであった。劉周が長い間戻らないので、人々の心に疑念と隔たりが生じた。最近、中使が冊封の詔を持って降り、また諸所に諮問を派遣したが、世論はまちまちで、十分に決定できなかった。侯瑱からの手紙を得て、西寇の権景宣の書簡を示され、その真筆を上呈するよう命じられた。将帥たちの様子を見ると、勝手に同泰(梁の元帝を指すか)に従おうとしている。もし一朝にして大国(北斉)に背くようなことがあれば、臣は粉骨砕身をも辞さないが、梁の国統が永遠に絶え、中興が絶たれることを悲しむ。伏して願わくは、陛下がただちに事を起こして江を渡り、皇斉の威光を仰ぎ、陛下の至聖のご方略を頼りに、君主を立てて長くし、雪辱を果たすことを期待し、社稷を再び輝かせてください。死をも惜しまない。別使の曹沖を派遣して斉の都に表を馳せさせ、続けて事の次第を上啓させます。伏して拝礼奉迎の日を急ぎ待ちます。」貞陽侯は答えて言った。「姜暠が到着し、貴公の忠義の志を詳しく示された。家国が喪乱に遭ってから、今や積年になる。三后(武帝、簡文帝、元帝)が塵を蒙り、四海が沸き立つ。天命を受けた元輔(王僧弁)が、本朝を匡救し、艱難を広く救い、武宗の廟を建てられた。丘園の板築の士(隠者)でさえ、まだ来儀を思い、公室の皇族の枝葉は、どうして空虚に待たせることができようか。孤が国に戻ると聞き、高い志を理解するが、近ごろ再び使者を命じたが、十分に伝えられなかったかもしれない。貴公がすでに卿士に諮問し、藩維(地方の重鎮)に訪ね、往来を繰り返し、理屈では一ヶ月も滞在し、使者が到着して、特に期待に応えてくれた。これは再び我が蕭宗を立て、我が梁国を再興することである。億兆の民衆は皆、この恩恵を蒙り、社稷宗廟も、かつて恥じることはない。近ごろ軍が東関に駐屯し、頻繁に裴之横のところに使者を送り、可否を示した。返答は傲慢で凶暴で、聞くも見るも非常に驚くべきものであった。上党王は兵を陳べて護衛し、安危を語ろうとしたが、無知の輩が突然逆襲して戦った。前軍の旗がまだ揚がらないうちに、自ら敗走し、驚き悲しむ心情は、ますます傷つき痛む。上党王は深く自ら哀れみ嘆き、首級を伝えることはせず、さらに封土と樹木を施し、棺を飾り手厚く葬り、優れた礼遇に務めた。斉朝の大いなる徳は、神と民に信頼と感動を与える。今、皇威を仰ぎ、元宰(王僧弁)を敬って頼りにし、咸陽で逆賊を討ち、雲夢で叛子を誅し、心を合わせ力を協せて、邦家を平定しよう。示された権景宣の書簡を見ると、上流の諸将は、本来忠誠と謀略を持っていたが、親を棄てて仇敵に向かうとは、おそらくそうではないだろう。奸を防ぎ乱を定めることは、結局は貴公にかかっている。今しばらく東関に駐屯し、さらに来る手紙を待つ。水陸どちらの場所で迎えられるか分からない。建国して君主を立てることは、方策に明記されており、盟約に入り人質を出すことは、古来からあることである。もし貴公の忠節が、天にまで届き、諸将帥が共に謀り、必ずや離反しないならば、斉軍は旗を返し、義をもって江を侵すことはない。もし約束に背くような言葉があれば、誓って成功しないであろう。旗を隠し席を脇に置き、使者の返事を待つ。曹沖が斉の都に表を奉じたのは、すぐに護送するためである。渭橋の下では、ただ言葉を交わすのを待ち、汜水の北では、予め号泣し恐れる。」王僧弁は再び上啓して言った。「員外常侍姜暠が戻り、ご命令を拝受し、ご動静を詳しく承りました。大斉の仁義の風は、隣国にまで行き渡り、災いを憂い難を救い、この大道を明らかにされました。皇家の枝戚は、誰もが栄誉と恩恵を蒙り、江東の冠冕(士大夫)は、皆頼りにしていることを知っています。今、盟約を忘れず、信義は真心から出ており、謹んで臣の第七子の王顕、王顕の生母の劉氏、および弟子の世珍を、そちらへ人質として送ります。また左民尚書周弘正を歴陽に派遣して奉迎させます。船艦は江に浮かび、一龍(貞陽侯)の渡江を待ち、清められた宮殿の丹陛(階段)は、六伝(天子の車)の入るのを待ちます。万国が心を傾け、晋の文公の帰還を共に栄誉とし、三善(父子の親、君臣の義、長幼の序)がよく宣揚され、宋昌の議論のように広く流布します。国統が隆盛となり、社稷に奉ずる者がいれば、群臣は節を尽くし、大斉への厚い施しに報い、力を合わせて愚誠を展開し、陛下への忠誠を効けます。今、吏部尚書王通を派遣して啓を奉じ、お聞かせします。」王僧弁はまた、敬帝を皇太子とすることを求めた。貞陽侯はまた答えて言った。「王尚書の王通が到着し、再びご教示を賜り、賢弟の世珍を誠意の証として送りたいとのお考えを知り、憂国の志を詳しく承知しました。また、庭中の玉樹(子息)、掌中の明珠(愛児)を、胸中に累とせず、志を匡救に置くとは、まさに我が社稷を労苦し、我が邦家を広く救済することではないか。慚愧と感嘆の思いで、起居を忘れるほどである。晋安王(敬帝)は、東京(建康)における遺すべき重責、西都(江陵)における後継者としての賢さを持ち、皇家を嗣ぎ守ることは、まさに民の望みであろう。しかし世道が喪乱しているので、長君を立てるべきであり、あの幼君では、業を継ぐのは難しい。成王・昭王の徳は、古来より稀であり、沖帝・質帝のような危険は、どの時代にもないわけではない。孤は否運に当たり、生きることを図る志はない。突然、並ぶものなき恩恵を荷い、さらに非常の挙に出る。自ら虚薄を思い、戦々恐々としている。もし承華(皇太子の宮)を建てるなら、本来皇族の子孫に帰すべきであり、心と口で誓うが、ただ晋安王を擬するだけである。もし虚言があれば、神明が罰するであろう。今示されたものを見ると、深く本来の志にかなった。慰めの心情は、言葉や形に託すことができない。しかし貴公の憂労の重さは、すでに斉の恩恵を受け、忠義の情は、さらに梁の副君(皇太子)に及んでいる。華夷の民衆は、どうして風化を懐かしまないだろうか。宗廟の明らかな霊は、どうして感じないだろうか。ただちに旗を返し、なお歴陽に向かう。期待する人質は、そちらから来るのを待つ。諸軍は渡江せず、すでに盟書に明記されている。これは大斉の聖主の恩規であり、上党英王の承諾であり、原(晋の文公の故事)を得て信を失うことは、終に行わない。ただ会うのを待つばかりで、使者が遠くないことを願う。故郷の国は遠くなく、目に触れるごとに号泣する。」王僧弁は使者を鄴に送り、人質を送った。貞陽侯は護衛の兵士三千人の渡江を求めたが、王僧弁は変事を起こすことを懸念し、散卒千人だけを受け入れ、龍舟と法駕を派遣して迎えに行かせた。貞陽侯が江を渡った日、王僧弁は中流で櫂を抱え、岸に近づこうとしなかった。後に江寧浦でようやく会同した。

原文貞陽承齊遣送,將屆壽陽。貞陽前後頻與僧辯書,論還國繼統之意,僧辯不納。及貞陽、高渙至于於東關,散騎常侍裴之橫率衆拒戰,敗績,僧辯因遂謀納貞陽,仍定君臣之禮。啓曰:「自秦兵寇陝,臣便營赴援,才及下船,荊城陷沒,卽遣劉周入國,具表丹誠,左右勳豪,初並同契。周旣多時不還,人情疑阻;比冊降中使,復遣諸處詢謀,物論參差,未甚決定。始得侯瑱信,示西寇權景宣書,令以真跡上呈。觀視將帥,恣欲同泰,若一朝仰違大國,臣不辭灰粉,悲梁祚永絕中興。伏願陛下便事濟江,仰藉皇齊之威,憑陛下至聖之略,樹君以長,雪報可期,社稷再輝,死且非吝。請押別使曹沖馳表齊都,續啟事以聞,伏遲拜奉在促。」貞陽答曰:「姜暠至,枉示具公忠義之懷。家國喪亂,于今積年。三后蒙塵,四海騰沸。天命元輔,匡救本朝。弘濟艱難,建武宗祏。至於丘園板築,尚想來儀;公室皇枝,豈不虛遲。聞孤還國,理會高懷,但近再命行人,或不宣具。公旣詢謀卿士,訪逮籓維,沿溯往來,理淹旬月,使乎屆止,殊副所期。便是再立我蕭宗,重興我梁國。億兆黎庶,咸蒙此恩;社稷宗祧,曾不相愧。近軍次東關,頻遣信裴之橫處,示其可否。答對驕凶,殊駭聞矚。上黨王陳兵見衛,欲敘安危,無識之徒,忽然逆戰。前旌未舉,卽自披猖,驚悼之情,彌以傷惻。上黨王深自矜嗟,不傳首級,更蒙封樹,飾棺厚殯,務從優禮。齊朝大德,信感神民。方仰藉皇威,敬憑元宰,討逆賊於咸陽,誅叛子於雲夢,同心協力,克定邦家。覽所示權景宣書,上流諸將,本有忠略,棄親向讎,庶當不爾,防奸定亂,終在於公。今且頓東關,更待來信,未知水陸何處見迎。夫建國立君,布在方策,入盟出質,有自來矣。若公之忠節,上感蒼旻;羣帥同謀,必匪攜貳。則齊師反斾,義不陵江,如致爽言,誓以無克。韜旗側席,遲復行人。曹沖奉表齊都,卽押送也。渭橋之下,惟遲敘言;汜水之陽,預有號懼。」僧辯又重啟曰:「員外常侍姜暠還,奉敕伏具動止。大齊仁義之風,曲被鄰國,卹災救難,申此大猷。皇家枝戚,莫不榮荷;江東冠冕,俱知憑賴。今歃不忘信,信實由衷,謹遣臣第七息顯,顯所生劉並弟子世珍,往彼充質;仍遣左民尚書周弘正至歷陽奉迎。艫舳浮江,俟一龍之渡;清宮丹陛,候六傳之入。萬國傾心,同榮晉文之反;三善克宣,方流宋昌之議。國祚旣隆,社稷有奉。則羣臣竭節,報厚施于大齊;戮力展愚,效忠誠於陛下。今遣吏部尚書王通奉啓以聞。」僧辯因求以敬帝爲皇太子。貞陽又答曰:「王尚書通至,復枉示,知欲遣賢弟世珍以表誠質,具悉憂國之懷。復以庭中玉樹,掌內明珠,無累胸懷,志在匡救,豈非劬勞我社稷,弘濟我邦家?慚歎之懷,用忘興寢。晉安王東京貽厥之重,西都繼體之賢,嗣守皇家,寧非民望。但世道喪亂,宜立長君,以其蒙孽,難可承業。成、昭之德,自古希儔;沖、質之危,何代無此。孤身當否運,志不圖生。忽荷不世之恩,仍致非常之舉。自惟虛薄,兢懼已深。若建承華,本歸皇胄;心口相誓,惟擬晉安。如或虛言,神明所殛。覽今所示,深遂本懷。戢慰之情,無寄言象。但公憂勞之重,旣稟齊恩;忠義之情,復及梁貳。華夷兆庶,豈不懷風?宗廟明靈,豈不相感?正爾迴斾,仍向歷陽。所期質累,便望來彼。衆軍不渡,已著盟書。斯則大齊聖主之恩規,上黨英王之然諾,得原失信,終不爲也。惟遲相見,使在不賒。鄉國非遙,觸目號咽。」僧辯使送質于鄴。貞陽求渡衛士三千,僧辯慮其爲變,止受散卒千人而已,幷遣龍舟法駕往迎。貞陽濟江之日,僧辯擁檝中流,不敢就岸。後乃同會于江寧浦。

貞陽侯(蕭淵明)が偽りの帝位に就くと、僧弁に大司馬を授け、太子太傅・揚州牧を兼任させ、その他の官職は従前の通りとした。陳霸先は当時、司空・南徐州刺史であったが、彼の翻覆を憎み、諸将と協議して京口から十万の兵を挙げ、水陸両路で進軍し、建康を襲撃した。水軍が到着した時、僧弁は常に石頭城にいたが、その日は政務を執っている最中で、軍兵がすでに城の北側から侵入し、南門からも兵が来たと急報が届いた。僧弁は息子の蕭頠と急いで閣から逃げ出したが、側近の腹心はまだ数十人いた。衆軍がことごとく到着し、僧弁は策が尽き、南門の楼に拠って命乞いをし、拝礼して請願した。霸先は命じて火を放って楼を焼き、ようやく蕭頠と共に降りて捕らえられた。霸先は言った、「私は何の罪があるというのか、貴公は斉の軍と共に私を討とうとしたのか。」また言った、「どうして全く防備がなかったのか。」僧弁は言った、「北門を貴公に委ねていた、どうして無防備と言えようか。」その夜、彼を斬った。

原文貞陽旣踐偽位,仍授僧辯大司馬,領太子太傅、揚州牧,餘悉如故。陳霸先時爲司空、南徐州刺史,惡其飜覆,與諸將議,因自京口舉兵十萬,水陸俱至,襲于建康。於是水軍到,僧辯常處於石頭城,是日正視事,軍人已逾城北而入,南門又馳白有兵來。僧辯與其子頠遽走出閤,左右心腹尚數十人。衆軍悉至,僧辯計無所出,乃據南門樓乞命拜請。霸先因命縱火焚之,方共頠下就執。霸先曰:「我有何辜,公欲與齊師賜討?」又曰:「何意全無防備?」僧辯曰:「委公北門,何謂無備。」爾夜斬之。

長男の蕭髂は、承聖の初めに官を歴任して侍中に至った。初め、僧弁が建業を平定した時、霸先を京口の守備に派遣したが、まったく防備がなかった。蕭髂はたびたびこれを言上したが、僧弁は聞き入れず、ついに禍に及んだ。西魏が江陵を侵すと、世祖(元帝)は蕭髂に城内の諸軍事を監督させた。荊州の城が陥落すると、蕭髂は王琳に従って斉に入り、竟陵郡守となった。斉は王琳を寿春に鎮守させ、江左を図ろうとした。陳が淮南を平定し、王琳を捕らえて殺害すると、蕭髂は王琳の死を聞き、郡城の南に出て、高い塚の上に登り号泣し、一慟のうちに絶命した。

原文長子髂,承聖初歷官至侍中。初,僧辯平建業,遣霸先守京口,都無備防。髂屢以爲言,僧辯不聽,竟及於禍。西魏寇江陵,世祖遣髂督城內諸軍事。荊城陷,髂隨王琳入齊,爲竟陵郡守。齊遣琳鎮壽春,將圖江左。及陳平淮南,執琳殺之。髂聞琳死,乃出郡城南,登高冢上號哭,一慟而絕。

蕭髂の弟の蕭頒は、若い頃から志操があり、常に世祖に従っていた。荊州の城が陥落し、西魏に没した。

原文髂弟頒,少有志節,恒隨從世祖。及荊城陷覆,沒於西魏。

【史論】

原文【史論】

史臣は言う。侯景の反乱以来、世祖(元帝)は長江上流に拠り、全楚の軍勢を王僧辯に委ねて将帥の任に就かせた。反乱を平定するに及び、その功績は顕著であり、功を記録すれば最高位の恩賞に値するものであった。敬帝は高祖が遺した重き帝業と世祖の正統な継承により、江陵(渚宮)が陥落した後は当然帝位を継ぐべきであった。僧辯は将相の重位にあり、伊尹や霍光のごとき義を重んずべき身でありながら、北斉の軍威に脅かされて傍系の支庶(蕭淵明)を擁立した。かりにも忠義を行おうとしたのであれば、なんという忠義からの乖離であろうか。国家を打ち立てる道に違背し、保身の謀略も及ばず、自ら破滅を招いたことは、悲しいことである。

原文史臣曰:自侯景寇逆,世祖據有上游,以全楚之兵委僧辯將率之任。及克平禍亂,功亦著焉,在乎策勳,當上臺之賞。敬帝以高祖貽厥之重,世祖繼體之尊,洎渚宮淪覆,理膺寶祚。僧辯位當將相,義存伊、霍,乃受脅齊師,傍立支庶。苟欲行夫忠義,何忠義之遠矣?樹國之道旣虧,謀身之計不足,自致殲滅,悲矣!