梁書 巻35 蕭子恪

梁書

蕭 子恪

蕭子恪は、 字 を景沖といい、蘭陵の人で、斉の 章文獻王蕭嶷の第二子である。永明年間中、王子として南康県侯に封ぜられた。十二歳の時、従兄の 司徒 しと 竟陵 王の『高松賦』に和し、衛軍王儉はこれを見て奇異の感を抱いた。初め寧朔将軍・淮陵 太守 となり、建武年間中、輔国将軍・呉郡太守に転じた。大 司馬 王敬則が会稽で兵を挙げて反乱を起こし、子恪を奉じることを名目としたため、明帝は子恪の兄弟や親族従者七十余人をことごとく召し出して西省に入れ、夜になれば害そうとした。ちょうど子恪が郡を棄てて逃げ帰り、この日も到着したので、明帝はやめ、子恪を太子中庶子とした。東昏侯が即位すると、秘書監に転じ、右軍将軍を兼ね、まもなく 侍中 となった。中興二年、輔国諮議 参軍 に転じた。天監元年、爵位を降格して子爵となり、 散騎 常侍 を授けられ、歩兵 校尉 こうい を兼ねたが、病気のため拝命せず、 光禄大夫 に移り、まもなく 司徒 しと 左 長史 となった。

子恪は弟の子範らと、ある時用事があって入朝し謝恩した際、高祖が文徳殿で彼らを引見し、ゆったりと語った。

「私は卿たち兄弟に言っておきたいことがある。天下の宝は、本来公の器であって、力で得られるものではない。もし運命の時期がなければ、たとえ項籍ほどの力があっても、結局は敗れ滅びる。だから班彪の『王命論』に『求めるものは一金に過ぎないが、結局は溝壑に転がり死ぬ』とある。卿はこの書を読まなかったはずはあるまい。宋の孝 武帝 は猜疑心が強く、兄弟で少しでも名声のある者は、ことごとく何かの事を理由に毒殺され、残されたのは景和だけだった。朝臣の中でも、天命があると疑われて害された者、無実の罪で次々と殺された者がいた。しかし、天命があると疑われながらも害せられなかった者もいれば、天命があることを知らず、疑われもしなかった者もいた。当時、卿の祖父(蕭道成)も疑われたが、どうすることもできなかった。これが疑っても得られなかった例である。また疑われなかった者もいる。宋の明帝はもともと凡庸で免職されていたが、疑われて助かったわけではない。また、私も当時すでに二歳であったが、彼らが私に今日があると知っていただろうか。天命のある者は、人が害することはできず、害しても得られないものだと知るべきである。私が初めて 建康 城を平定した時、朝廷内外の人々は皆、『時代が変わり、人心も一つにまとめる必要がある。処分を実行すべきだ』と勧めた。私は当時これに従って行動したが、誰が不可と言えようか。私はあえて言うが、江左以来、王朝が交代するたびに必ず誅殺が行われ、これは和気を傷つけるので、国祚が例として長く続かない。いわゆる『殷の鑑遠からず、夏后の世に在り』である。これが一つの道理である。二つ目に、斉と梁は革代とはいうが、その意義は昔とは異なる。私と卿たち兄弟は、たとえ二世を経て服属関係が絶えても、宗族としての関係は遠くない。卿は兄弟が親しいと言うな。人の家の兄弟にも親密に交わる者もいれば、交わらない者もいる。まして五服の親族であろうか。斉の創業の初めも、苦楽を共にし、腹心は私にあった。卿たち兄弟は若かったから、当然詳しくは知らないだろう。私と卿たち兄弟は、情は一家と同じである。どうしてこのことをまったく顧みず、他人のように振る舞うことがあろうか。これが二つ目の道理である。私が今日あるのは、もともと望んでいたことではない。しかも建武帝(蕭鸞)は卿たちの一族を屠滅し、卿たち兄弟を塗炭の苦しみに陥れた。私が義兵を起こしたのは、ただ自らの家門の恥をそそぐためだけでなく、卿たち兄弟の仇を討つためでもある。卿がもし建武・永元の時代に、乱を治め正しきに返すことができたなら、私がたとえ樊・鄧で兵を起こしても、どうして戈を収めて推戴奉じないことがあろうか。たとえやめずとも、それも名分なき出兵である。私は今、卿のために仇を討っている。そして時代が変わり異なった今、卿たち兄弟には節を尽くして私に報いてほしいと望むのである。また、私は自ら喪乱に乗じて、明帝(蕭鸞)の家の天下を代わったのであって、卿の家の天下を取ったのではない。昔、劉子輿が成帝の子を自称した時、光武帝は『たとえ成帝が生き返ったとしても、天下は再び得られない。まして子輿ごときが得られようか』と言った。梁の初め、人々が私に誅滅を勧めた時、私はかつて孝武帝の時のことを引き合いに出して答えた。もし彼に天命があれば、私が殺すことはできない。もし運命の時期がなければ、どうして急いでそんなことをする必要があろうか。ただ度量のなさを示すだけである。曹志は魏武帝の孫、陳思王の子という身内でありながら、晋の武帝に仕えて晋室の忠臣となることができた。これが卿たちの先例である。卿は宗室であり、情義は他人とは異なる。これからは率直に互いを期待し合おう。卿はもう外者であるという気持ちを抱かないでほしい。しばらく待てば、私の心の内がおのずと分かるだろう。」

また、文獻王(蕭嶷)の時代、内斎の直帳の宦官趙叔祖がいたが、天監初年に台斎帥として入り、寿光省にいた。高祖は叔祖を呼んで言った。「私はもともと北第であなたを知っていた。あなたが旧人であるので、いつも使役している。あなたは近ごろ北第の諸郎(蕭嶷の子たち)に会ったか。」叔祖は答えて言った。「近ごろは当直が多く、外出は非常に少ないです。仮に一時的に出たとしても、行くことはできません。」高祖は言った。「もし北第の諸郎に会ったら、私のこの気持ちを伝えてほしい。私は今日、革代ではあるが、情は一家と同じである。ただ今は磐石(国家の基盤)がまだ固まっていないので、諸郎を用いられないのは、私がまだ適切でないからだけでなく、諸郎を安らかにさせたいからでもある。ただ門を閉じて高枕でいれば、後になっておのずと私の心が分かるだろう。」叔祖はすぐに外に出て、この勅語をことごとく宣べ伝えた。

子恪はまもなく永嘉太守として出向した。帰朝して光禄卿・秘書監を授かった。明威将軍・零陵太守として出向した。十七年、入朝して 散騎常侍 さんきじょうじ ・輔国将軍となった。普通元年、宗正卿に転じた。三年、都官 尚書 に転じた。四年、吏部に転じた。六年、太子詹事に転じた。大通二年、寧遠将軍・呉郡太守として出向した。三年、郡舎で死去した。時に五十二歳。 詔 により侍中・中書令を追贈された。諡は恭といった。

子恪の兄弟は十六人で、皆梁に仕えた。文学の才がある者は、子恪、子質、子顕、子雲、子暉の五人である。子恪はかつて親しい者に言った。「文史のことは、諸弟が備えている。私がまた引っ張り出す必要はない。ただ公務から退いて食事をし、過ちがなければそれで十分だ。」子恪も若い頃学問に広く通じ、文章をよくしたが、その草稿をすぐに棄てたので、文集は伝わらない。

子瑳も知名で、太清年間中、吏部郎にまで至ったが、乱を避けて東陽に逃れ、後に盗賊に害された。

蕭子範

子範は字を景則といい、子恪の六番目の弟である。斉の永明十年、祁陽県侯に封ぜられ、太子洗馬に任ぜられた。天監初年、爵位を降格して子爵となり、後軍記室参軍を授けられ、再び太子洗馬となり、まもなく 司徒 しと 主簿に転じたが、実母の喪に服して職を去った。子範は孝行の性があり、喪に服して衰弱したことで知られた。喪が明けると、また 司徒 しと 主簿となり、累進して丹陽尹丞、太子中舎人となった。建安太守として出向し、帰朝して大司馬南平王の戸曹属、従事中郎を授かった。王は文学の士を愛し、子範は特に恩遇を受け、王は「これは宗室の奇才である」と言った。『千字文』を作らせると、その文辞は非常に優れており、王は記室の蔡薳に注釈させた。これ以降、府中の文筆はすべて彼に起草させた。王が 薨去 こうきょ すると、子範は宣恵諮議参軍、護軍臨賀王蕭正徳の長史に転じた。正徳が丹陽尹となると、また正徳の信威長史となり、尹丞を兼ねた。十余年にわたって藩府の外に出ず、常に慨嘆していたが、諸弟は皆顕職に登り、心に不平を抱き、この時、到着した府への上奏文に「上藩の首席補佐に、ここに再び辱くも任じられ、河南で雌伏していたものが、ここから再び昇進する。老いと若さは時を異にし、盛衰は日を異にする。恩寵を佩びながらも、なお年齢と鬢の白さを恥じる」と書いた。子範は若い頃、弟の子顕、子雲と才名がほぼ互角であったが、風采や容姿立ち居振る舞いが及ばず、官途に優劣があった。『漢書』を読むたびに、杜緩兄弟「五人とも大官に至ったが、ただ中弟の杜欽だけが官に至らず、最も知名であった」という部分を、常に吟誦しては、自分の境遇に例えた。

まもなく再び宣恵武陵王司馬に任じられたが、就任せず、そのまま中散大夫に任ぜられ、光禄卿・廷尉卿に昇進した。外任として戎昭将軍・始興内史となった。帰朝して太中大夫に任ぜられ、秘書監に昇進した。 太宗 が即位すると、光禄大夫に召されたが、金章紫綬を加えられたものの、賊軍に迫られていたため拝命しなかった。その年、簡皇后の葬儀が行われ、張纘とともに哀策文を作るよう命じられ、太宗がそれを閲覧して言った。「今、葬儀の礼は欠けているが、この文章はかつてのものに劣らない」。まもなく病気にかかり死去した。享年六十四。賊が平定された後、 世祖 が金紫光禄大夫を追贈した。諡は文。前後の文集三十巻。

二人の子、滂と確は、ともに幼い頃から文章の才能があった。太宗が東宮にいた時、しばしば邵陵王とともに蕭氏の文人たちを数え上げたが、滂と確もその中に加えられていた。滂は官は尚書殿中郎、中軍宣城王記室まで至り、子範より先に死去した。確は、太清年間に宣城王友、 司徒 しと 右長史を歴任した。賊が平定された後、 江陵 に赴いたが、関西で没した。

蕭子顯

子顯は字を景陽といい、子恪の八番目の弟である。幼い頃から聡明で、文獻王は彼を異才と認め、他のどの子よりも愛した。七歳で寧都県侯に封ぜられた。永元の末、王子の例により給事中に任ぜられた。天監初年、爵位を子に降格された。累進して安西外兵参軍、仁威記室参軍、 司徒 しと 主簿、 太尉 たいい 録事 となった。

子顯は容貌が立派で、身長八尺あった。学問を好み、文章を作ることに巧みであった。かつて『鴻序賦』を著し、 尚書令 しょうしょれい の 沈約 はこれを見て称賛して言った。「明道の高致を得たと言えよう。おそらく『幽通賦』の流れをくむものだ」。また、諸家の『後漢書』を採録し、その異同を考証して、一家の書とした。また、『斉史』の編 纂 を上奏して許可され、書が完成すると上表して献上し、 詔 によって秘閣に収められた。累進して太子中舎人、建康令、邵陵王友、丹陽尹丞、中書郎、守宗正卿となった。外任として臨川内史となり、帰朝して黄門郎に任ぜられた。中大通二年、長兼侍中に昇進した。高祖は子顯の才能を大いに愛し、またその容姿や物腰、話しぶりを嘉したため、宴席で侍座させるたびに、特に彼に目をかけ尋ねた。かつてゆったりと子顯に言った。「私は『通史』を編纂している。この書が完成すれば、他の多くの史書は廃れるだろう」。子顯は答えて言った。「仲尼(孔子)は『易』の道を称え、『八索』を退け、職方のことを述べて『九丘』を除きました。聖人のお考えは符節を合わせるように一致し、それが今また現れようとしています」。当時、名答とされた。三年、本官のまま国子博士を兼任した。高祖が制定された経義は、まだ学官に列せられていなかったが、子顯は在職中、助教一人と学生十人を置くよう上表した。また、高祖の文集の編纂と『普通北伐記』の撰述を上奏した。その年、国子 祭酒 に昇進し、さらに侍中を加えられ、学問の場で順次、高祖の『五経義』を講述した。五年、吏部尚書に昇進し、侍中はもとのままだった。

子顯の性格は沈着で簡素であり、かなり自分の才気を恃んでいた。選挙を担当するようになると、 九流 の賓客に会っても、言葉を交わさず、ただ扇を挙げて一揖するだけであったため、士大夫たちはひそかに恨んだ。しかし太宗は平素からその人柄を重んじており、東宮にいた時、しばしば招いて近くで宴を催した。子顯が一度席を立って用を足しに行った時、太宗は座っている客に言った。「かつて異人が世に出ると聞いていたが、今日初めてそれが蕭尚書であると知った」。そのように重んじられていたのである。大同三年、外任として仁威将軍・呉興太守となり、郡に着任して間もなく死去した。享年四十九。 詔 が下った。「仁威将軍・呉興太守の子顯は、神韻が高く、宗族の中の優れた器であった。任地に赴いて間もないのに、突然逝去したのは、心に悲しみを覚える。侍中・中書令を追贈せよ。今すぐに哀悼の礼を行え」。葬儀の際に諡を請うと、手 詔 で「才を恃んで人を傲る。驕と諡すべし」とされた。

子顯はかつて『自序』を著し、その概略に次のように記している。「私は邵陵王友として、恥ずかしながら京師に戻り、遠く昔の例を思うと、それは楚の唐勒・宋玉、梁の厳忌・鄒陽のようなものだ。平生を振り返ると、かなり辞藻を好み、名声の上では成就しなかったが、心の求めるところはすでに足りている。高い所に登って自ら極みを望み、水辺に臨んで人を見送り、春の朝に風が動き、秋の夜に月が明るく、早雁が初めて鳴き、花が咲き葉が落ちる、そうしたものに触れるたびに応じ、いつもやめることができなかった。前世の賈誼・傅毅・崔駰・馬融・邯鄲淳・繆襲・路粹の徒は、みな文章で顕れたので、私はたびたび歌頌の文を献上し、古人に自らを比べた。天監十六年、初めて重陽節の朝宴に参列し、多くの人がいる広い座席で、ただ一人、ご下命を賜った。『今、雲や物の様子がとても美しい。卿は文采を振るって詩を賦さないか』。詩が完成すると、さらに皇帝のご下命があった。『才子と言えよう』。私は退いて人に言った。『一顧の恩寵は、望まぬところから至った。さて賈誼と比べてどうだろうか?容易には及ばないだろう』。作品を作るたびに、特に思索の労は少なく、それが自然に湧いてくるのを待ち、力を尽くして構想することはなかった。若い頃に作った詩賦では、『鴻序』一篇が、様々な文体を兼ね備え、文章の技法も多方面にわたり、好事家に伝えられたため、虚名が容易に遠くまで広まった」。

子顯の著作は、『後漢書』一百巻、『斉書』六十巻、『普通北伐記』五巻、『貴儉伝』三十巻、文集二十巻。

二人の子、序と愷は、ともに若くして名を知られた。序は、太清年間に太子家令、中庶子を歴任し、ともに記録を管掌した。乱が起こると、城内で死去した。愷は、初め国子生となり、策試で高い成績を収め、州でも秀才に推挙された。初官は秘書郎で、太子中舎人、王府主簿、太子洗馬に昇進し、父の喪で職を去った。喪が明けると、再び太子洗馬に任ぜられ、中舎人に昇進し、ともに記録を管掌した。累進して宣城王文学、中書郎、太子家令となり、また記録を管掌した。愷の才学と声望は、当時の論評ではその父に比べられ、太宗が東宮にいた時、早くから引き立て接遇した。時に中庶子の謝嘏が建安太守として出向する際、宣猷堂で送別の宴が開かれ、当代の才人たちが召されて詩を賦し、全員で十五劇の韻を用いた。愷の詩が先に出来上がり、その文辞も優れていた。太宗は湘東王に令を下して言った。「王筠はもともと古手だが、後進では蕭愷が称えられる。まことに才子である」。以前、太学博士の顧野王が命を受けて『玉篇』を撰していたが、太宗はその書の詳略が適当でないと感じ、愷が博学で、特に文字に精通していることから、学士たちとともに改めて削除・修正させることにした。中庶子に昇進したが、拝命せず、吏部郎に転じた。太清二年、御史中丞に昇進した。まもなく、 侯景 の乱が起こり、愷は城内で侍中に昇進したが、間もなく在官のまま死去した。享年四十四。文集はすべて散逸した。

蕭子雲

子雲は字を景喬といい、子恪の九番目の弟である。十二歳の時、斉の建武四年、新浦県侯に封ぜられ、自ら拝命の上奏文を作ったが、すでに文采があった。天監初年、爵位を子に降格された。成長してからは学問に勤しみ、晋代には完全な歴史書がないことを知り、弱冠の頃から編纂に心を留め、二十六歳の時に書が完成し、上表して献上すると、 詔 によって秘閣に収められた。

子雲の性格は沈着で静かであり、官途に進むことを好まなかった。三十歳になって初めて秘書郎として起家した。太子舎人に昇進し、『東宮新記』を撰して奏上すると、勅命により束帛を賜った。累進して北中郎外兵参軍、晋安王文学、 司徒 しと 主簿、丹陽尹丞となった。時に湘東王が京尹(丹陽尹)であったが、深く賞賛し好意を寄せ、布衣の交わりのように親しくした。北中郎廬陵王諮議参軍に昇進し、尚書左丞を兼任した。大通元年、黄門郎に任ぜられ、まもなく軽車将軍に昇進し、 司徒 しと 左長史を兼任した。二年、内任として吏部に入った。三年、長兼侍中に昇進した。中大通元年、太府卿に転じた。三年、外任として貞威将軍・臨川内史となった。郡では温和な統治で称えられ、民も官吏も喜んだ。帰朝して 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、まもなく再び侍中となった。大同二年、 員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・国子祭酒に昇進し、南徐州大中正を兼任した。まもなく、再び侍中となり、祭酒・中正はもとのままだった。

梁の初め、郊廟の犠牲(牛・羊・豚)がまだ廃止されていなかった頃、楽の歌詞はすべて沈約が撰んでいたが、この時までそれを承けて用いていた。子雲が初めて改めるべきであると建言した。上啓して言うには、「伏して考えるに、聖なる敬いをもって古に従い、郊廟を尊厳し、西隣(周)の心を得て、周公・孔子の跡を知り、犠牲の供え物を改め、徳は神明に通じ、黍稷や蘋藻(粗末な供物)をもって誠を尽くして厳かに配祀し、国を治める制度は、まさに日月のように高く掲げられ、百王に訓戒を垂れるもの、ここにあります。臣が兼職する斎官において、伶人(楽人)たちが歌うのを見ますに、まだ犠牲が廃止される前の曲を用いています。圜丘で燎祭を見る時、なお『式備牲牷(犠牲が整っている)』と言い、北郊の《諴雅》でも、『牲雲孔備(犠牲の雲がよく整っている)』と奏し、清廟で登歌する時は、『我牲以潔(我が犠牲は清らかである)』と称し、三朝の食挙の楽では、なお『朱尾碧鱗(赤い尾、青い鱗)』を詠じています。その声は鼓鐘に響きますが、盛んな制度に合致しておりません。臣は儒教の訓えを職掌としており、疑問に思い、楽辞を改定すべきかどうか、ご審議を仰ぎたいと存じます」と。 詔 勅が答えて言うには、「これは主管者が守株(古いしきたりに固執)しているのだ。急いで改めるべきである」と。そこで子雲に撰定させた。勅命は言う、「郊廟の歌辞は、典誥(経典や誥命)の大語を用いるべきで、子書や史書の文章のような浅い言葉を混ぜてはならない。また沈約の撰したものも、多く誤りがある」と。子雲が勅命に答えて言うには、「殷の時代の薦(祭り)や朝饗(朝の饗宴)では、楽は雅と名付けられ、理の上では正しく《五経》を採るべきであり、聖人の成した教えです。しかし漢以来のこの制度は、完全に経典を用いておらず、沈約の撰したものは、いっそう浅く雑です。臣が以前に沈約の十曲を改めた時は、ただ犠牲がすでに廃止されたのだから歌辞を改めるべきだと考え、それでもなお先例に従い、流俗に背き体裁を損なうことを嫌いませんでした。今、令旨を奉じて初めて蒙が開けました。臣はもともと凡庸で停滞しておりましたが、昭然と忽然と明るくなりました。謹んで成されたご旨意に依り、沈約の制をすべて改めます。ただ《五経》を根本とし、次に《爾雅》、《周易》、《尚書》、《大戴禮》を用います。これらは経誥の流れであり、愚意では兼用するのもよいと考えます。臣はまた、唐・虞の諸書や、殷の《頌》、周の《雅》を尋ねますに、称える美点は同じでありながら、それぞれの時代の事柄を述べています。大梁は服制を改め、武を 偃 めて文を修め、礼楽を制定し、その意義は三正(夏・殷・周の正朔)よりも高い。しかし沈約が撰した歌辞は、ただ聖徳の美を称えるだけで、皇朝の制作の事柄をまったく述べていません。《雅》《頌》の前例に照らし、体裁に違背します。伏して考えるに、聖旨の定められた《楽論》は、鐘律の緯緒(体系)が文思深微で、命世一出(一世に一度の出現)であり、日月のように高く掲げられ、不刊の典(改めることのできない典籍)であり、礼楽の教えは、治世を成し遂げるものです。謹んで一二、採り綴り、それぞれ事に随って義を顕わし、制作の美を明らかにします。深く考えをめぐらすこと数日、今ようやく完成しました。謹んで上呈いたします」と。勅命によりすべて施行された。

子雲は草隷書に優れ、世の楷法(手本)となった。自ら言うには、鐘元常(鐘繇)・王逸少(王羲之)をよく模倣し、わずかに字体を変えたと。勅命に答えて言うには、「臣は昔、抜きん出たものを賞することができず、世間が貴ぶものに従い、子敬(王献之)を手本とし、多くの年月を経ました。二十六歳の時、《 しん 史》を著し、《二王列傳》に至り、草隷法について論じようとしましたが、言葉では意を尽くせず、遂に完成できず、ただ飛白の一つの筆勢について略しく指摘し論じただけでした。十年余り前から、初めて勅旨の《論書》一卷を見、筆勢を論じ、字体を洞徹(明らかに)し、また逸少が元常に及ばないのは、ちょうど子敬が逸少に及ばないのと同じであると知りました。これ以来、研究思索し、ようやく隷書の様式を悟り、子敬を変え始め、完全に元常を手本としました。それ以来、自ら功が進んだと感じます」と。その書跡は大いに高祖に重んじられ、かつて子雲の書について論じて言うには、「筆力は 勁 く 駿 く、心と手が相応じ、巧みさは杜度を超え、美しさは崔寔に勝り、元常と並び駆け先を争うべきである」と。そのように賞賛された。

七年、仁威将軍・東陽太守として出向した。中大同元年、帰朝して宗正卿に任じられた。太清元年、再び侍中・国子祭酒となり、南徐州大中正を兼ねた。二年、侯景が侵攻して逼迫すると、子雲は民間に逃れた。三年三月、宮城が陥落し、東へ晋陵に奔り、顕霊寺の僧房で餓死した。六十三歳。著書に《 しん 書》一百一十卷、《東宮新記》二十卷がある。

第二子の蕭特は、字を世達という。早くから名を知られ、また草隷書に優れた。高祖はかつて子雲に言った、「子敬の書は、逸少に及ばない。近ごろ蕭特の書跡を見たが、遂に卿に迫るものがある」と。歴任して著作佐郎、太子舎人、宣恵主簿、中軍記室となった。海塩令として出向したが、事に坐して免官された。二十五歳で、子雲に先立って死去した。

蕭子暉は字を景光といい、子雲の弟である。若い頃から書史に広く通じ、また文才があった。員外散騎侍郎として初任し、南中郎記室に転じた。臨安令として出向した。性格は恬静で、嗜好は少なかった。かつて重雲殿で制講(皇帝臨席の講義)の《三慧経》を聴講し、退いて《講賦》を作って奏上したところ、大いに称賛された。安西武陵王諮議に転じ、新繁令を兼ね、王府に従って儀同從事・驃騎長史に転じ、死去した。

【史論】

陳の吏部尚書姚察が言う。昔、魏は兵威を借りて漢の運命を革め、晋は宰輔(司馬氏)によって魏の暦を移した。これは古の 禅譲 授受、徳をもって相伝えるものとは異なり、故に前代の宗族の枝葉を抑え、民の望みを絶とうとした。しかし劉曄・曹志はなお朝廷に顕れた。宋に至っては遂に廃姓となった。そして斉の代には、宋の戚属(外戚・親族)はすべて殲滅された。その祚(帝位)が長くないのは、これによるものであろう。梁の革命は、前代の規矩を取らず、故に蕭子恪兄弟および一族の者たちを、みな才能に従って職に任じ、通じて貴きは朝廷に満ち、旧の状態を失わなかった。ただ魏が(曹氏を)幽し晋が(司馬氏を)顕にしただけではない。君子はこれをもって高祖の弘量が前代を越えていることを知るのである。