梁書 巻34 張緬

梁書

張緬

張緬は 字 を元長といい、車騎将軍 張弘策 の子である。数歳の時、外祖父の中山の劉仲德が彼を異才と認め、「この子は尋常の器ではなく、張氏の宝となるだろう」と言った。斉の永元の末、義軍が起こると、弘策は高祖に従って討伐に赴き、緬を 襄陽 に残した。その時十歳で、軍の勝敗を聞くたびに、憂いと喜びが顔色に表れた。天監元年、弘策が衛尉卿に任じられ、妖賊に殺害されると、緬は父の惨死を痛み、喪に服する礼を過度に行ったため、高祖は戒めて諭す 使者 を遣わした。喪が明けると、洮陽県侯を襲封し、召されて国子生に補された。

秘書郎として出仕し、淮南 太守 として出向した。その時十八歳であった。高祖は彼が年少で吏事に慣れていないのではと疑い、主書を遣わして郡の曹の文案を取り寄せたところ、その裁断が妥当で満足すべきものであったので、大いに賞賛した。都に戻って太子舎人、雲麾外兵 参軍 に任じられた。緬は若い頃から学問に励み、自ら課して書を読み、手から書物を離さず、特に後漢と晋代の諸家の学に明るかった。客が書物を持って質問すると、問いに応じて即座に答え、ほとんど遺漏がなかった。殿中郎に欠員が生じた時、高祖は 徐勉 に「この職は従来文学の才を用い、かつ鵷行の首位にあるので、人選を詳しくすべきだ」と言い、勉は緬を推挙して選に充てた。ほどなく、武陵太守として出向し、帰還して太子洗馬、中舎人に任じられた。緬の母の劉氏は、父が亡くなり家が貧しかったため葬儀が不十分であったことを理由に、生涯正室に住まず、子について官府に入ることもなかった。緬は郡で得た俸禄を敢えて用いず、妻子さえ衣服を替えさせず、都に戻ると、すべて母に供え、親族を救済した。長年蓄えても、一朝にして使い果たし、緬の私室は常に閑寂で貧しい者のようであった。累進して北中郎諮議参軍、寧遠 長史 となった。 章内史として出向した。緬は政を行うに恩恵を施し、厳しい取り調べを行わなかったので、役人や民はその徳に感化され、欺くこともなく、古老は皆「数十年間こんなことはなかった」と言った。

大通元年、 司徒 しと 左長史に召されたが、病気のため拝命せず、太子中庶子に改められ、羽林監を兼任した。まもなく御史中丞に転じたが、人を捕らえた者が外国の使者と争った事件に連座して、黄門郎に左遷され、先の職務を兼ねたが、まもなく元の官に復した。緬が憲司(御史台)に在った時、法を適用するのに遠慮がなく、勁直と称された。高祖は画工を遣わしてその姿を台省に描かせ、在官者を励ました。

中大通三年、 侍中 に転じたが、拝命しないうちに死去した。四十二歳であった。 詔 により侍中を追贈され、貞威将軍を加えられ、侯の爵はもとのままとした。葬礼のための銭五万、布五十匹を賜った。高祖は哀悼の意を表した。昭明太子も臨んで哭し、緬の弟の張纘に手紙を送って言った。「賢兄は学業に通暁し、事に臨んで明敏であった。倚相が墳典を読み、郤縠が『詩』『書』を重んじたとしても、今を以て古を望んでも、これを超えるものはない。宮朝に列して以来、二十年近くになり、義においては僚属、情においては実に親友であった。文の筵や講席、朝の遊びや夕の宴、いつもこの佳き賞玩を共にし、この言葉を寄せ合ったものではなかったか。どうして永く別れ、突然に追い及ばないのか。しかも年は強仕に達したばかりで、これから才力を発揮しようという時に、苗が折れ穂が落ちるとは、まことに傷み惜しむべきことだ。天倫の情がもとより睦まじかったのに、一朝にして失うとは、何と言えばよいのか。言うにつれて哽咽が増し、筆を執っても順序が乱れる。」

緬は性来、古書を愛し、書物を集めて一万余巻に及んだ。『後漢書』『晋書』を抄出し、諸家の異同をまとめて『後漢紀』四十巻、『晋抄』三十巻を撰した。また『江左集』を抄出したが、完成しなかった。文集五巻。子の張傅が後を嗣いだ。

張纘

纘は字を伯緒といい、張緬の三番目の弟である。従伯父の張弘籍の後を嗣いだ。弘籍は高祖の母方の叔父で、梁の初めに廷尉卿を追贈された。纘は十一歳の時、高祖の第四皇女の富陽公主に娶り、駙馬都尉に任じられ、利亭侯に封じられ、召されて国子生に補された。

秘書郎として出仕した。その時十七歳であった。身長は七尺四寸、眉目ははっきりとして、神采がさわやかに発していた。高祖は彼を異才と認め、「張壮武(張華)が『八代後に我に及ぶ者あらん』と言ったが、この子のことか」と言った。纘は好学で、兄の緬が一万余巻の書を持っていたので、昼夜を分かたず読み耽り、ほとんど手を休めなかった。秘書郎は四員あり、宋・斉以来、甲族の起家の官として、順番待ちして補任され、その在職期間は例えて数十日から百日で転任した。纘は固く転任を求めず、閣内の図籍を全て閲覧しようとした。かつて四部の書目を手に取り、「これを読み終えてこそ、優れた官人と言えるだろう」と言った。このように数年を経て、ようやく太子舎人に転じ、洗馬、中舎人に転じ、いずれも記録を管掌した。

纘は琅邪の王錫と並び称された。普通の初め、魏が彭城の劉善明を遣わして京師に来て和を請い、纘に面会を求めた。纘は当時二十三歳で、善明は彼を見て感服した。累進して 太尉 たいい 諮議参軍、 尚書 吏部郎となり、まもなく長史兼侍中となった。当時の人は早く出世したと思った。河東の裴子野は「張吏部が喉舌(枢要)の任に就いたのは、すでに遅すぎると恨むべきだ」と言った。子野は性来、曠達で、「三十歳を過ぎたら、人を訪ねることはしない」と自ら言っていた。初め纘と会ったこともないのに、虚しく推重し、これによって忘年の交わりを結んだ。

大通元年、寧遠華容公( 蕭 機)の長史として出向し、琅邪・彭城二郡国の事務を代行した。二年、引き続き華容公の北中郎長史、南蘭陵太守に転じ、貞威将軍を加えられ、府州の事務を代行した。三年、都に入って度支尚書となったが、母の喪で職を去った。喪が明けると、呉興太守として出向した。纘が郡を治めるにあたり、煩わしい法令を省き、清静を務めたので、民や吏は便利に感じた。大同二年、吏部尚書に召された。纘が選挙を担当すると、寒門の素朴な者でも、一人でもいれば引き抜き、貴人や権要に気兼ねして意向を曲げることがなく、人士は一致して彼を称賛した。

五年、高祖は手 詔 を下して言った。「纘は外戚の英華であり、朝中の領袖である。 司空 しくう (張華)以来、名は范陽で冠たるものがある。尚書 僕射 ぼくや とせよ。」初め、纘は参掌の 何敬容 と意気が合わず、敬容が権力の中枢に居た時、賓客が車の輻のように集まったが、纘を訪ねて来た者がいると、敢えて前に進まず、「私は何敬容の残された客に対面できない」と言った。この度の昇進に際し、上表して言った。「股肱の地を守ることを出で、衡尺(人事考課)を司ることを入りて尸(主管)して以来、ようやく首を仰ぎ眉を伸ばし、是非を論じ列ねることができるようになった。しかし、わずかな襟懐に滞るところがあり、耳目を近く蔽い、深浅清濁を、どうして予め知ることができようか。加えて心を矯め貌を飾ることは、全く慣れないことであり、俗人を喜ばず、彼らと共に事を為すことはしない。」この言葉は敬容を指したものである。纘は在職中、南郊の祭祀で皇帝が素輦に乗ることを議し、古今の折衷に適うとした。また、印綬を備えた官は朝服を着る時、必ず綬も着けるべきだと議し、当時ともに施行された。

九年、宣恵将軍、丹陽尹に転じたが、拝命しないうちに、使持節・ 都督 ととく 湘桂東寧三州諸軍事・ 湘州 刺史 しし に改められた。任地に赴く途上、『南征賦』を作った。その詞は以下の通りである。

纘は州に着くと、十郡への慰労使の派遣を停止し、老病の吏役を解放し、関市の戍邏で以前から防備に当たっていた者を、すべて省併した。州内の零陵・衡陽などの郡には、莫徭蛮と呼ばれる者がおり、険しい山に依って居住し、歴代の政権に服従しなかったが、これによって教化に帰した。益陽県の人が田二頃を作ったところ、すべて異なる畝ながら同じ穂をつけた。纘が政を執ること四年、流民が自ら帰還し、戸口は十余万増加し、州内は大いに安寧となった。

太清二年、召されて領軍となり、まもなく使持節・ 都督 ととく 雍梁北秦東益 郢州 之 竟陵 司州之隨郡諸軍事・平北将軍・寧蛮 校尉 こうい に改めて任命された。張纘は当初、邵陵王蕭綸が自分に代わって湘州 刺史 しし となるという話を聞いていたが、その後、実際には河東王蕭譽が任用されることになった。張纘はもともと若い王を軽んじており、州府での出迎えや待遇が非常に粗略であったため、蕭譽は深く恨みに思った。蕭譽が州に到着すると、病気と称して張纘に会おうとせず、州府の諸事務を検査・整理し、張纘を留め置いて帰らせなかった。ちょうど 侯景 が京師を侵攻していると聞き、蕭譽は装備を整えて救援に向かおうとした。その時、 荊州 刺史 しし の湘東王( 蕭 )も救援に赴き、軍は郢州の武城に駐屯していた。張纘は急使を走らせて報告した。「河東王はすでに帆を上げて上流に向かい、荊州を襲おうとしています。」王はこれを信じ、すぐに軍を返して荊州を鎮守した。これにより荊州と湘州の間に不和が生じた。まもなく張纘は配下の部隊を捨て、単身の船で 江陵 に赴いた。王(蕭繹)はすぐに使者を遣わして蕭譽を責め、張纘の部下の返還を求めた。張纘が到着すると、すぐに張纘を襄陽に向かわせた。前任の 刺史 しし である岳陽王 蕭詧 は交代を拒んでまだ任地を去っておらず、ただ城西の白馬寺に張纘を住まわせた。ちょうど賊が京師を陥落させたと聞き、蕭詧はこれを受けて交代を受け入れなかった。州の助防である杜岸が張纘を欺いて言った。「岳陽王殿下は必ずや 使者 を容れないでしょう。使者はもともと人心を得ています。もし西山に逃げ込み、義兵を招き集めれば、遠近の人々が必ず投じて集まるでしょう。さらに配下の者たちも続いて到着するでしょう。この義挙をもってすれば、向かうところ敵なしです。」張纘はこれを信じ、彼と盟約を結び、夜陰に乗じて山中に逃げ込んだ。杜岸は逆にこれを蕭詧に告げ、蕭詧は杜岸に軍を率いて張纘を追わせた。張纘の兵士たちは杜岸の軍を見て大喜びし、約束の援軍が来たと思った。到着するやいなや、杜岸は張纘とその配下を捕らえ、すべて捕虜として送還した。張纘は最初は囚われの身となったが、まもなくまた剃髪して道人(僧侶)になることを強要された。その年、蕭詧は挙兵して江陵を襲撃し、常に張纘を車に載せて後ろに従わせた。軍が退却して敗走し、湕水の南に至った時、張纘を監視していた者は追手が来ることを恐れ、遂に張纘を殺害し、死体を捨てて去った。時に五十一歳であった。 元帝 (蕭繹)が制を承けると、張纘に侍中・中衛将軍・開府儀同三司を追贈した。諡は簡憲公。

張纘は識見と鑑識眼があり、元帝(蕭繹)に会って以来、誠意を推して心を寄せた。元帝が即位すると、彼を追憶し、かつて詩を作り、その『序』にこう記した。「簡憲(張纘)という人は、王侯に仕えることをせず、才を負い気任せであったが、私に会うと夜を徹して語り、やめることができなかった。あの人の徳を懐かしみ、一日として忘れたことはない。」張纘は『鴻宝』一百巻、文集二十巻を著した。

次男の張希、字は子顔、早くから名を知られ、 太宗 ( 簡文帝 蕭綱 )の第九女である海塩公主を娶った。承聖初年、官は黄門侍郎に至った。

張綰

張綰、字は孝卿、張纘の四番目の弟である。初め国子生となり、射策で高第を得た。長兼秘書郎として起家し、太子舎人、洗馬、中舎人に転じ、いずれも記録を管掌した。累進して中書郎、国子博士となった。出向して北中郎長史・蘭陵太守となり、帰朝して 員外 散騎 常侍 に任じられた。当時、丹陽尹の西昌侯蕭淵藻は長く病気で着任していなかったため、 詔 勅により張綰が尹の事務を代行し、中軍宣城王長史に転じ、まもなく御史中丞に移った。高祖( 武帝 )はその弟である中書舎人張絢に命じて旨を伝えさせた。「国の急務は、ただ法を執り行い、直く綱紀を正すことにある。人材任用は本来、昇進・降格に限らない。晋宋の時代、周閔や蔡廓はいずれも侍中からこの職に就いた。卿は左遷だと疑ってはならない。」当時、宣城王(蕭大器)の府は声望が高かったため、このような旨があったのである。大同四年の元日、旧制では 僕射 ぼくや と中丞の座席は東西に向かい合っていた。当時、張綰の兄の張纘が 僕射 ぼくや であったため、百官が列に就く時、兄弟が先導の騎兵を従え、それぞれ東西の階段を分かれて上った。前代に例がなく、当時の人々はこれを栄誉とした。一年余り後、出向して 章内史となった。張綰は郡において、『制旨礼記正言』の義を講義し、四姓の士族の子弟で聴講する者は常に数百人に及んだ。

八年、安成人の劉敬宮が妖術を信奉し、徒党を集めて郡を攻撃し、内史の蕭侻は城を捨てて逃げた。賊は転じて南康・廬陵を侵し、県邑を破壊し、数万人の勢力となり、進んで 章郡新淦県を侵攻した。南方では長く兵革に慣れておらず、官吏や民衆は恐れ慌てて逃げ散った。ある者が張綰にその鋒を避けるべきだと勧めたが、張綰は従わず、城壁と堀を修築し、戦闘の準備を整え、勇敢な者を募集して一万余人を得た。 刺史 しし の湘東王(蕭繹)は 司馬 の 王僧弁 に兵を率いて賊を討伐させ、張綰の指揮下に置いた。一ヶ月ほどの間に、賊党はすべて平定された。

十年、再び御史中丞となり、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。張綰が再び憲司(御史台)の長官となると、弾劾糾弾に遠慮がなく、豪族や権勢家は彼を恐れた。この時、城西に士林館を開いて学者を集め、張綰は右衛将軍朱异、太府卿賀琛とともに順番に『制旨礼記中庸』の義を講述した。

太清二年、左衛将軍に転じた。ちょうど侯景の侵攻があり、東掖門を守備した。三年、吏部尚書に転じた。宮城が陥落すると、張綰は逃亡し、外回りして江陵に至った。湘東王(蕭繹)が制を承けると、侍中・左衛将軍・相国長史を授けられ、侍中の職はそのままとした。出向して持節・雲麾将軍・湘東内史となった。承聖二年、召されて尚書右 僕射 ぼくや となり、まもなく侍中を加えられた。翌年、江陵が陥落し、朝廷の士人たちは皆捕虜として関中に連行されたが、張綰は病気のため免れ、後に江陵で死去した。時に六十三歳。

次男の張交、字は少遊、文学に広く通じ、太宗(簡文帝蕭綱)の第十一女である安陽公主を娶った。承聖二年、官は太子洗馬、秘書丞に至り、東宮の記録を管掌した。

【史評】

陳の吏部尚書姚察が言う。太清の乱で世が乱れ、親族が離反した。張纘は諸侯王たちを和合させ、温嶠や 陶侃 とうかん のような功績を成すことができず、ひたすら私怨を抱き、瀟湘(湘東王と河東王)の間に不和を生じさせ、遂に自ら禍を招いた。忠節によるものではない。続く江陵の陥落も、実はここに端を発している。張纘の風格をもってしても、結局は梁の乱の端緒となった。惜しいことである。