梁書
范岫
范岫は 字 を懋賓といい、済陽郡考城県の人である。高祖父の范宣は、晋の徴士であった。父の范羲は、宋の兗州別駕を務めた。
范岫は幼くして父を亡くし、母に仕えて孝行で知られ、呉興の 沈約 とともに蔡興宗に礼遇された。泰始年間(465-471年)に、奉朝請として官途についた。蔡興宗が安西将軍となると、彼を主簿に抜擢した。累進して臨海・長城の二県の県令、驃騎 参軍 、 尚書 刪定郎、護軍 司馬 、斉の 司徒 竟陵 王 蕭 子良の記室参軍を歴任した。
累進して太子家令となった。文恵太子が東宮にいた時、沈約らは文才によって引き立てられたが、范岫もその中に加わった。范岫の文章は沈約には及ばなかったが、名声と品行は同輩から認められ、広く学問に通じ、特に魏晋以来の吉凶に関する故事に詳しかった。沈約は常に「范公は好事で該博であり、胡広でもこれ以上にはできない」と称賛した。南郷の 范雲 は人に言った。「諸君が進退や威儀について知りたいなら、范長頭(范岫)に問うべきだ」。これは范岫が前代の旧事に詳しかったからである。
国子博士に転任した。永明年間(483-493年)、北魏の使者が来朝した際、 詔 により朝廷の士で弁舌に優れた者を選び、国境で使者を迎えることとなり、范岫が淮陰 長史 を兼ねてこれを迎えた。帰還後、尚書左丞に転任したが、母の喪で官を去り、まもなく職務を代行するよう命じられた。寧朔将軍・南蛮長史・南義陽 太守 として出向したが、赴任前に右軍諮議参軍に転任し、太守の職はそのまま兼ねた。撫軍司馬に任じられた。建威将軍・安成内史として出向した。都に入り給事黄門侍郎となり、御史中丞・領前軍将軍・南北兗二州大中正に転任した。永元末年(501年)、輔国将軍・冠軍晋安王長史として出向し、南徐州の事務を代行した。義師( 蕭 の軍)が 京邑 を平定すると、承制により尚書吏部郎に徴用され、大選(高官の選任)に参与した。梁の台府が建てられると、度支尚書となった。天監5年(506年)、 散騎 常侍 ・ 光禄大夫 に転任し、皇太子に侍従し、扶持(杖や付き人)を与えられた。6年、太子左衛率を兼任した。7年、通直 散騎常侍 ・右衛将軍に転任し、大中正の職はそのままだった。その年、致仕を願い出たが、 詔 により許されなかった。8年、晋陵太守として出向し、秩禄は中二千石であった。9年、都に入り祠部尚書となり、右 驍 騎将軍を兼任し、その年に金紫光禄大夫に転任し、親信(護衛)二十人を加えられた。13年(514年)、在官のまま死去した。享年七十五。賻賵として銭五万、布百匹が贈られた。
范岫の身長は七尺八寸あり、恭しく厳格で、進退は礼に従った。親の喪に服した後は、終生、粗食と布衣を通した。任官するたびに、常に廉潔で知られた。長城県令の時、梓材で作った巾箱(小箱)があり、数十年経っても、貴くなっても改めなかった。晋陵にいた時は、象牙の筆管を一対作っただけで、それでも贅沢だと思った。著した文集、『礼論』、『雑儀』、『字訓』が世に行われた。二人の子、范褒と范偉がいる。
傅昭
傅昭は字を茂遠といい、北地郡霊州の人で、晋の司隸 校尉 傅咸の七世の孫である。祖父の傅和之、父の傅淡は『三礼』に通じ、宋の時代に名を知られた。傅淡は宋の竟陵王劉誕に仕えたが、劉誕が反乱を起こし、傅淡は連座して誅殺された。傅昭は六歳で孤児となったが、悲しみ衰える様子は成人のようで、一族や郷党は皆これを異とした。十一歳の時、外祖父について朱雀航で暦を売った。 雍州 刺史 袁顗の客となり、袁顗がかつて傅昭の所に来た時、傅昭は平然と読書を続け、神色を変えなかった。袁顗は感嘆して言った。「この子は神情が凡庸でない。必ず立派な人物になるだろう」。 司徒 建安王劉休仁がこれを聞いて喜び、傅昭を招こうとしたが、傅昭は宋の朝廷に変事が多いことを理由に、遂に行かなかった。ある人が廷尉虞愿に傅昭を称賛したので、虞愿は車を遣わして傅昭を迎えさせた。その時、虞愿の同族の虞通之が同席しており、共に当世の名流であったが、虞通之は傅昭に詩を贈って言った。「英妙は山東に擅り、才子は洛陽を傾く。清塵誰か能く嗣がん、爾及びて遺芳に遘わん」。太原の王延秀が丹陽尹 袁粲 に傅昭を推薦し、深く礼遇され、郡主簿に辟召され、 袁粲 は諸子を傅昭について学ばせた。明帝が崩御すると、 袁粲 が哀策文を作ることになり、傅昭を引き入れてその文章を定めさせた。 袁粲 は傅昭の家の前を通るたびに感嘆して言った。「その戸を経れば寂として人無きが若く、その帷を披けばその人斯に在り。これ名賢に非ずや!」。まもなく総明学士・奉朝請となった。斉の永明年間(483-493年)に、累進して 員外 郎、 司徒 竟陵王蕭子良参軍、尚書儀曹郎となった。
以前、御史中丞劉休が 武帝 (蕭賾)に傅昭を推薦しており、永明初年、傅昭を南郡王侍読とした。南郡王が帝位を継ぐと、かつての臣下たちは争って権勢と寵愛を求めたが、ただ傅昭と南陽の宗夬だけが、身を保ち正道を守り、何ら関与せず、ついにその禍いに遭わなかった。明帝(蕭鸞)が即位すると、傅昭を中書通事舎人に抜擢した。当時この職にあった者は皆、天下に勢威を傾けたが、傅昭だけは廉潔で静かであり、何事にも干渉しなかった。器物や衣服は質素で、身は粗末な衣食に安んじていた。常に板床に燭を挿していたので、明帝はこれを聞き、漆塗りの燭台などを賜り、勅して言った。「卿には古人之風がある。故に古人の物を卿に賜る」。累進して車騎臨海王記室参軍、長水 校尉 、太子家令、驃騎晋安王諮議参軍となった。まもなく尚書左丞・本州大中正に任じられた。
高祖(蕭衍)はもとより傅昭の才能を知っており、 建康 城が平定されると、驃騎 録事 参軍に抜擢した。梁の台府が建てられると、給事黄門侍郎に転任し、著作郎を兼任した。間もなく、御史中丞を兼任し、黄門侍郎・著作郎・大中正の職はそのままだった。天監3年(504年)、五兵尚書を兼任し、選事(官吏選任)に参与した。4年、正式に五兵尚書となった。6年、左民尚書に転任したが、拝命前に建威将軍・平南安成王長史・ 尋陽 太守として出向した。7年、都に入り振遠将軍・中権長史となった。8年、通直 散騎常侍 に転任し、歩兵 校尉 を兼任し、再び本州大中正を兼任した。10年、再び左民尚書となった。
11年(512年)、信武将軍・安成内史として出向した。安成は宋以来、兵乱が多く、郡の役所は凶宅と呼ばれていた。傅昭が郡守となると、郡内の者が夜、非常に盛んな兵馬や鎧甲の夢を見、また「善人を避けるべきだ」と言う声を聞いた。軍衆は互いに虚空を飛んで去っていった。夢を見た者は驚いて起きた。たちまち疾風暴雨が突然到来し、数間の家屋がことごとく倒壊したが、それはまさに夢に見た軍馬が踏みつけた場所であった。その後、郡の役所は平穏になり、皆、傅昭の正直さによるものだと言った。郡の渓流には魚がいなかったが、ある暑い月に傅昭に魚を献上する者がいた。傅昭は受け取らず、また拒むこともしたくなかったので、門の傍らで魚に餌を与えた(放した)。
12年(513年)、都に入り秘書監となり、後軍将軍を兼任した。14年、太常卿に転任した。17年、智武将軍・臨海太守として出向した。郡には蜜巌(蜂蜜の採れる岩場)があり、前後の太守は皆これを封鎖して独占し、その利益を専有していた。傅昭は、周文王の園囿が百姓と共にした故事を引き、大きな道理は小さなことにも通じるとして、封鎖しないよう教え諭した。県令が常に栗を贈ってきたが、薄い敷物の下に絹を置いていた。傅昭は笑ってこれを返した。普通2年(521年)、都に入り通直 散騎常侍 ・光禄大夫となり、本州大中正を兼任し、まもなく秘書監を兼任した。5年(524年)、 散騎常侍 ・金紫光禄大夫に転任し、大中正の職はそのままだった。
昭が官に就いたときは、常に清静を以て政治を行い、厳格さを尊ばなかった。朝廷にあっては、私的な請託や謁見をせず、私的な門下生を養わず、私利を交わさなかった。終日端座して、書記を楽しみとし、年老いても衰えなかった。古今に広く通じ、特に人物に詳しく、魏晋以来の官宦の家系、婚姻による内外のつながりを挙げて論じ、遺漏するところがなかった。性格は特に誠実で慎重であった。子の嫁が家から送られてきた牛肉を得て差し出したとき、昭はその子を呼んで言った。「食べれば法を犯すことになるし、告げるわけにもいかない。取って埋めてしまえ。」彼が身を処し己を行う様は、暗室に恥じるところがなく、このような類いであった。都の後進たちは、彼の学問を宗とし、その道を重んじ、誰もが及ばないと思った。大通二年九月、死去。時に七十五歳。 詔 により三万銭と布五十匹を賜り、その日に哀悼の礼が行われ、諡を貞子といった。長子の諝は、尚書郎、臨安令となった。次子は肱。
弟の映。
映は字を徽遠といい、昭の弟である。三歳で孤児となった。兄弟は仲睦まじく、身を修め行いを励まし、礼に合わないことは行わなかった。かつて昭が臨海郡を守ることになったとき、 陸倕 が餞別をし、賓主ともに楽しんで日が暮れても帰らなかった。映は昭が高齢であるため、夜通し楽しむことはできないと考え、自ら出迎えに行き、同じ車に乗って帰った。兄弟ともにすでに白髪が混じっており、当時の人々はこれを称賛して敬服した。昭が亡くなると、映は父に対するように喪に服し、七十歳を過ぎても哀しみは礼を超え、喪服の期間は終わったが、話すたびに感きわまって慟哭した。
映は広く記録や伝記に通じ、文才があったが、詩文を以て自らを任じることはなかった。若い頃、劉繪や 蕭琛 と親しく交わり、劉繪が南康国の相となったとき、映は府の丞であり、文書や教化の多くを彼に起草させた。褚彦回はこれを聞いて喜び、わざわざ自分の子の賁らと交遊させた。弱冠に達しない年齢で、彦回は仕官させようとしたが、映は昭がまだ官に就いていないことを理由に固辞し、昭が仕官してから自分も官に就いた。
永元元年、鎮軍江夏王の軍事に参じ、武康令として出向した。高祖の軍が建康に駐屯したとき、呉興太守の袁昂は自らを忠貞の家柄と称し、節義を固く守ろうとして、映に訪ねて言った。「卿は時勢をどう考えるか。」映は答えて言った。「元嘉の末、開闢以来の事態であり、故に 太尉 (袁淑)は身を殺して節を明らかにし、 司徒 (袁顗)は託された重責に当たり、道理として苟も全うすることはなく、夷険を顧みず名義に殉じたのです。今、嗣主は昏虐で、小人たちに親しみ、賢人を親しみながら誅戮し、君子の道は消え、外難がたびたび起こっても、少しも悔い改めようとしません。今、 荊州 と雍州が協力して挙兵し、上流を押さえ、暗きに背き明きに向かうのですから、勢いとして成らぬことはありません。百姓は治世を思い、天と人の意思は知ることができます。明らかで且つ哲であれば、忠孝の道に誤りはありません。願わくは明府にはさらに深くお考えいただき、後悔のないように。」まもなく公事のことで免官となった。天監初年、征虜鄱陽王参軍に任じられ、建安王中権録事参軍、領軍長史、烏程令となった。受け取った俸禄はすべて兄に帰した。再び臨川王録事参軍、南台治書、安成王録事、太子翊軍 校尉 となり、累進して中散大夫、光禄卿、太中大夫となった。大同五年、死去。八十三歳。子に弘。
蕭琛。
蕭琛は字を彦瑜といい、蘭陵の人である。祖父の僧珍は、宋の廷尉卿。父の惠訓は、太中大夫。琛が数歳のとき、伯父の惠開がその背を撫でて言った。「必ずや我が宗族を興すだろう。」
琛は若くして明るく悟りが早く、縦横の才弁があった。出仕して斉の太学博士となった。当時、王儉が朝廷で権勢を振るっていたが、琛は若く、まだ王儉に知られておらず、その才気を頼みとして王儉に会おうとした。王儉が楽游苑で宴会を開いていたとき、琛は虎皮の靴を履き、桃の枝の杖をつき、まっすぐに王儉の座まで行った。王儉が話をすると、大いに喜んだ。王儉が丹陽尹となると、主簿に辟召し、南徐州の秀才に推挙され、累進して 司徒 記室となった。
永明九年、北魏が初めて通好を求めてきたので、琛は再び使命を帯びて桑乾に行き、帰還して通直散騎侍郎となった。当時、北魏が李道固を使者として派遣してきたので、斉の皇帝が宴会を開いた。琛は御前の宴席で酒を挙げて道固に勧めたが、道固は受け取らず、言った。「公の場には私的な礼はなく、勧めを受けることはできません。」琛はゆっくりと答えて言った。「『詩経』に『雨は我が公田に降り、遂に我が私田に及ぶ』とあります。」座っていた者たちは皆敬服し、道固はようやく琛の酒を受けた。 司徒 右長史に転じた。晋熙王長史、行南徐州事として出向した。帰還して少府卿、尚書左丞を兼ねた。
東昏侯が初めて即位したとき、廟見の儀礼がないことについて議論があった。琛は『周頌』の「烈文」と「閔予」がいずれも即位して宗廟を朝見する儀礼であることを根拠に議を立て、これに従うことになった。高祖が京邑を平定すると、驃騎諮議に引き立てられ、録事を領し、給事黄門侍郎に転じた。梁の朝廷が建てられると、御史中丞となった。天監元年、庶子に転じ、宣城太守として出向した。衛尉卿に召され、まもなく員外 散騎常侍 に転じた。三年、太子中庶子、 散騎常侍 に任じられた。九年、寧遠将軍、平西長史、江夏太守として出向した。
かつて琛が宣城にいたとき、北方の僧が南に渡って来たが、ただ一つの瓢箪を持っているだけで、中には『漢書』の序伝があった。僧は言った。「三輔の古老の間で伝えられるところでは、班固の真本だという。」琛は固く請い求めてこれを得た。その書には現在のものと異なる点が多く、紙と墨も古く、文字の多くは龍が飛び上がるような例であり、隷書でも篆書でもなかった。琛はこれを非常に秘蔵した。そしてこのたびの出向に際し、その書を鄱陽王蕭範に贈ると、範は東宮に献上した。
琛はまもなく安西長史、南郡太守に転じたが、母の喪で官を去り、さらに父の喪に遭った。信武将軍、護軍長史として起用され、まもなく貞毅将軍、 太尉 長史となった。信威将軍、東陽太守として出向し、呉興太守に転じた。郡には項羽の廟があり、土地の民は憤王と呼んで、非常に霊験があった。そこで郡の庁事に床と幕を設けて神座とし、公私の祈願が行われ、前後の太守(二千石)は皆、庁で拝礼したが、他の部屋に避けて住んだ。琛が着任すると、神を廟に戻し、そこに居座ることをためらわなかった。また、牛を殺して祭祀を行うことを禁じ、干し肉で肉の代わりとした。
琛はたびたび大きな郡を治めたが、産業を営まず、不足があれば取るだけで、それを恥じることはなかった。普通元年、宗正卿に召され、左民尚書に転じ、南徐州大中正、太子右衛率を領した。度支尚書、左 驍 騎将軍、領軍将軍に転じ、秘書監、後軍将軍を経て、 侍中 に転じた。
高祖が西邸にいた頃、早くから琛と親しく交わり、朝宴のたびに昔の恩義をもって接し、宗老と呼んだ。琛もまた昔の恩義を述べて、「早く中陽(太子の宮)に仕え、夙に同閈(同じ里)の恥を受けたが、興運には迷いながらも、なお洪大な慈愛を蒙っています。」と奉った。上(高祖)は答えて言った。「早くから契りを結んだとはいえ、もとより同志ではない。興運の初めのことは語るな、ただ狂奴の異を説け。」
琛は常々言っていた。「若い頃の三つの好みは、音律と書と酒であった。年を取ってからは、二つはすっかり廃れたが、書籍だけは衰えない。」そして琛の性格は通脱で、常に自ら竈の火を消し、食事が終わって残り物を食べるときは、必ず陶然として酔いに至った。
大通二年、金紫光禄大夫となり、特進を加えられ、親信三十人を与えられた。中大通元年、雲麾将軍・晋陵太守となり、秩禄は中二千石であった。病気のため自ら職を解き、侍中・特進・金紫光禄大夫に改めて任じられた。死去した。享年五十二歳。遺言で諸子に命じ、妻と同墳異蔵とし、祭祀には野菜を用い、葬儀の日は車十乗に留め、質素なやり方を守るよう求めた。皇帝は臨哭して非常に悲しまれた。 詔 により本官を追贈され、雲麾将軍を加えられ、東園秘器、朝服一具、衣一襲、賻銭二十万、布百匹が与えられた。諡は平子。
陸杲
陸杲は字を明霞といい、呉郡呉県の人である。祖父の陸徽は、宋の輔国将軍・益州 刺史 であった。父の陸叡は、揚州治中であった。
陸杲は若い頃から学問を好み、書画に巧みであった。母方の叔父の張融は高い名声があり、陸杲の風韻と挙動は張融によく似ており、当時の人々は「日の下に対するものなく、ただ舅と甥のみ」と称えた。出仕して斉の中軍法曹行参軍、太子舎人、衛軍王儉の主簿となった。尚書殿中曹郎に昇進したが、拝命の日、八座の丞郎たちが皆上省に集まって礼を交わしたのに、陸杲は遅く到着し、時刻に間に合わず、そのために官を免ぜられた。しばらくして、 司徒 竟陵王の外兵参軍に任じられ、征虜宜都王功曹史、驃騎晋安王諮議参軍、 司徒 従事中郎へと昇進した。梁の朝廷が建てられると、驃騎記室参軍に任じられ、相国西曹 掾 に昇進した。天監元年、撫軍長史に任じられたが、母の喪に服すため職を去った。喪が明けると、建威将軍・中軍臨川王諮議参軍に任じられ、まもなく黄門侍郎、右軍安成王長史に昇進した。五年、御史中丞に昇進した。
陸杲の性格は剛直で、遠慮や顧慮することがなかった。山陰県令の虞肩が在任中に数百万もの汚職を働いたので、陸杲は上奏して収監・処罰を求めた。中書舎人の黄睦之が虞肩の件で陸杲に依頼したが、陸杲は応じなかった。高祖(武帝)はこのことを聞き、陸杲に問うた。陸杲は「確かにありました」と答えた。高祖は「卿は睦之を知っているか」と問うた。陸杲は「臣はその人物を知りません」と答えた。その時、黄睦之は帝の側近にいた。帝は黄睦之を指して陸杲に示し、「この人がそうだ」と言った。陸杲は黄睦之に向かって言った。「君は小人だ。どうして罪人を南司(御史台)に託すなどということができようか」。黄睦之は顔色を失った。領軍将軍の張稷は、陸杲の母方の叔父であった。陸杲はかつて公事で張稷を弾劾したことがあった。張稷は侍宴の席で高祖に訴えて言った。「陸杲は臣の親戚です。些細なことで臣を弾劾し、容赦しません」。高祖は言った。「陸杲はその職務を司っているのだ。卿はどうして恨みに思うことがあろうか」。陸杲は御史台にあって、強権を恐れないと称えられた。
六年、秘書監に昇進し、まもなく太子中庶子・光禄卿となった。八年、義興太守として出向し、郡では寛大で恵み深い政治を行い、民衆に称えられた。都に戻り、 司空 臨川王長史・揚州大中正を兼任した。十四年、通直散騎侍郎に昇進し、まもなく 散騎常侍 となり、大中正は変わらなかった。十五年、 司徒 左長史に昇進した。十六年、左民尚書として中央に入り、太常卿に昇進した。普通二年、仁威将軍・臨川内史として出向した。五年、金紫光禄大夫として中央に入り、また揚州大中正を兼任した。中大通元年、特進を加えられ、大中正は変わらなかった。四年、死去した。享年七十四歳。諡は質子。
陸杲は平素から仏法を信奉し、戒律を非常に厳格に守り、『沙門伝』三十巻を著した。
弟の陸煦は、学問に広く通じ、思慮分別があった。天監初年、中書侍郎、尚書左丞、太子家令を歴任し、死去した。『晋書』を撰述したが完成しなかった。また『陸史』十五巻、『陸氏驪泉志』一巻を著し、ともに世に行われた。
子の陸罩は、若い頃から学問に専心し、文才があり、官は太子中庶子・光禄卿に至った。
【史論】