梁書 巻25 周捨

梁書

周捨

周捨は 字 を昇逸といい、汝南郡安城県の人で、晋の左 光禄大夫 周顗の八世孫である。父の周顒は、斉の中書侍郎を務め、当時名を知られていた。周捨は幼い頃から聡明で、周顒は彼を異才と見なしていた。臨終の際に周捨に言った。「お前は富貴になれないことを心配するな。ただ道徳をもって身を保て。」成長すると、博学で多くのことに通じ、特に義理に精通し、書物を暗誦するのが巧みで、文章をそらんじて論じ、音韻が清らかで弁舌が立った。

斉の太学博士として出仕し、後軍行 参軍 に転じた。建武年間(494-498年)、魏の人間である呉包が南方に帰順した。彼は儒学を修めており、 尚書 僕射 ぼくや の江 祏 が呉包を招いて講義させた。周捨がその席に赴き、繰り返し呉包を論破した。その論理は力強く優雅で、これによって弁舌に優れると評判になった。王亮が丹陽尹となった時、この話を聞いて気に入り、周捨を主簿に任命し、政事の多くを委ねた。太常丞に転じた。

梁の朝廷が建てられると、奉常丞となった。高祖( 武帝 )が即位すると、異能の士を広く求めた。吏部尚書の 范雲 は周顒と昔から親しく、周捨の才能と器量を重んじ、高祖に推薦した。召し出されて尚書祠部郎に任じられた。当時は天下が創始されたばかりで、礼儀の増減は多くが周捨によって決められた。まもなく後軍記室参軍、 秣陵 県令となった。中央に入って中書通事舎人となり、累進して太子洗馬、 散騎 常侍 、中書侍郎、鴻臚卿となった。当時、王亮が罪を得て家に帰っていたが、旧知の者で訪ねる者は誰もいなかった。周捨だけが旧恩を厚くし、王亮が亡くなると、自ら葬儀を営んだ。当時の人々はこれを称賛した。尚書吏部郎、太子右衛率、右衛将軍に転じた。職務はたびたび変わったが、常に官省(宮中)に留まり、めったに休暇を取らなかった。国史の 詔 誥、儀礼と法律、軍旅の謀議をすべて兼ねて掌った。日夜、上(皇帝)に侍り、機密に参与し、二十余年、左右を離れなかった。周捨はもともと弁舌に長け、人と広く論じ談笑し、一日中口を絶やさなかったが、ついに一言も機密を漏らすことはなく、人々は特に感服した。性質は倹素で、衣服や器物、住居の床や敷物は、布衣の貧者のようであった。官庁に入るたびに、広壮な建物や華麗な堂、奥深い部屋であっても、周捨が住むと塵埃が積もった。荻で仕切りを作り、壊れても修理しなかった。右衛将軍の時、母の喪で職を離れたが、起用されて明威将軍、右 ぎょう 騎将軍となった。喪が明けると、 侍中 に任じられ、歩兵 校尉 こうい を兼ねたが、拝命せず、そのまま 員外 散騎常侍 さんきじょうじ 、太子左衛率に転じた。ほどなく、 散騎常侍 さんきじょうじ 、本州( 州)大中正を加えられ、太子詹事に転じた。

普通五年(524年)、南津で武陵 太守 の白渦の手紙が押収され、周捨に顔料代として百万銭を贈ることを約束していた。津司がこれを上奏した。手紙が外部から来たものではあったが、やはり役人によって弾劾され、周捨は連座して免官された。右 ぎょう 騎将軍に転じ、太子詹事を管掌した。その年に死去した。享年五十六歳。皇帝(武帝)は臨んで哭礼を行い、左右の者を哀慟させた。 詔 が下された。「太子詹事、 州大中正の周捨が、突然逝去した。心に悲しみを覚える。その学問と思慮は堅固明瞭であり、志操と行いは開放的で聡明であった。機密の要務に労苦を重ね、多くの年月を経てきた。才能をまだ十分に発揮し尽くさぬうちに、まことに嘆き悲しむべきことである。遠くを追慕することを盛大に行い、善人を顕彰すべきである。侍中、護軍将軍を追贈し、 鼓吹 一部、東園の秘器、朝服一具、衣一襲を与え、喪事は必要に応じて資材を給付せよ。諡は簡子という。」翌年、また 詔 が下された。「故侍中、護軍将軍簡子の周捨は、道理に通じ玄学と儒学を兼ね備え、広く文史に通じ窮め、親に仕えてよく孝行し、君に事えて忠を尽くし、機密を歴任して掌り、清廉で貞潔な節操を保った。食事は二品を重ねず、身には二重の衣をまとわなかった。亡くなった時、内には妻妾もなく、外には田畑や宅地もなく、二人の息子は貧しく、古代の烈しい士に勝るとも劣らぬ。かつて、南司(御史台)による白渦の弾劾があった時、外の議論が朕に私心があると言うのを恐れ、この罷免に至ったが、この人物のわずか一つの善行を追想して悔いる。外に対しては、適宜に褒賞を加え、善人を顕彰すべきである。」二人の子、周弘義と周弘信がいた。

徐勉

徐勉は字を脩仁といい、東海郡郯県の人である。祖父の徐長宗は、宋の高祖(劉裕)の霸府行参軍を務めた。父の徐融は、南昌相を務めた。

徐勉は幼くして孤児となり貧しかったが、早くから清廉な節操を励んだ。六歳の時、長雨が続いていたので、家族が晴れを祈った。徐勉が即興で文章を作ると、古老たちに称賛された。成長すると、志を固めて学問を好んだ。国子生として出仕した。 太尉 たいい 文憲公の王儉が当時 祭酒 を務めており、しばしば徐勉に宰相の器量があると称賛した。射策(試験)で高第に挙げられ、西陽王国侍郎に補された。まもなく太学博士、鎮軍参軍、尚書殿中郎に転じたが、公事のことで免官された。また 中兵 郎、領軍 長史 に任じられた。琅邪王の王元長( 王融 )は才名が非常に高く、かつて徐勉と知り合いたいと思い、たびたび人に頼んで招かせた。徐勉は人に言った。「王郎は名声が高いが、その望みは短い。軽々しく衣の裾を交わすことは難しい。」間もなく王元長は禍に遭って殺された。当時の人々は、徐勉の機微を見抜く鑑識眼に敬服した。

初めに長沙宣武王( 蕭懿 )と交遊し、高祖(武帝)は深くその器量を賞賛した。義兵が 京邑 に至ると、徐勉は新林で謁見し、高祖は大いに恩礼を加え、書記を管掌させた。高祖が即位すると、中書侍郎に任じられ、建威将軍、後軍諮議参軍、本邑中正、尚書左丞に転じた。枢機と法令を掌るようになってから、多くを糾弾・摘発し、当時の論評は彼を称職と見なした。

天監二年(503年)、給事黄門侍郎、尚書吏部郎に任じられ、大選(高官の選任)を参与して掌った。侍中に転じた。当時、王師(梁軍)が北伐し、駅伝の報告が山積みになった。徐勉は軍書を参与して掌り、日夜労苦し、しばしば数十日経ってようやく一度家に帰った。帰るたびに、家の犬たちが驚いて吠えた。徐勉は嘆いて言った。「私は国を憂い家を忘れ、ついにこのような状態になった。私が死んだ後、これもまた伝記の中の一つの話題になるだろう。」六年(507年)、給事中、五兵尚書に任じられ、吏部尚書に転じた。徐勉が選官の職にあった時、人倫の秩序は整然とし、文書の扱いに熟達し、また辞令に優れていた。文書が山積みになり、座には客が満ちていても、応対は流れるように滑らかで、手は筆を止めなかった。また 百家 の学問を総合的に理解し、すべてについて避 諱 を心得ていた。ある時、門人たちと夜に集まった。客の虞 皓 が詹事五官の官を求めた。徐勉は厳しい表情で答えた。「今晩はただ風月を語るべきであり、公事に及ぶべきではない。」それゆえ、当時の人々は皆、彼の私心のなさに敬服した。

散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、遊撃将軍を兼ねたが、拝命せず、改めて太子右衛率を兼ねた。左衛将軍に転じ、太子中庶子を兼ね、東宮に侍した。昭明太子はまだ幼く、徐勉に宮中の事を管掌するよう命じられた。太子は彼を非常に重んじ、何事にも相談した。かつて殿内で『孝経』を講義した時、臨川靖恵王(蕭宏)と 尚書令 しょうしょれい の 沈約 が二人の傅(師傅)を務め、徐勉と国子祭酒の張充が執経を務め、王瑩、張稷、柳憕、王暕が侍講を務めた。当時の人選は極めて親族や賢者を尽くし、当代の誉れを極めたものであった。徐勉は再三再四辞退した。また沈約に手紙を送り、侍講を代わってほしいと求めたが、 詔 は許さず、それから就任した。太子詹事に転じ、雲騎将軍を兼ね、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、尚書右 僕射 ぼくや に転じたが、詹事は元のままとした。また侍中に改めて任じられたが、たびたび上表して宮中の職務を解くよう請うたが、優 詔 で許されなかった。

当時、世間の喪事は多く礼に従わず、朝に亡くなって夕に殯(ひんぎ:棺に納めること)を行い、速さを競う風潮があった。徐勉は上疏して言った。「『礼記問喪』に言う。『三日後に納棺するのは、その生を待つためである。三日経っても生き返らなければ、もう生き返らない。』近頃以来、この制度に従わない。送終の礼として、殯を期日(一日)で行い、富み栄えた豪家では、あるいは半日で済ませ、衣衾や棺椁を、速いことを栄誉とする。親戚や使用人は、それぞれ早く帰ることを考える。それゆえ、属纊(死の確認)が終わるとすぐに、灰釘(棺の密封)の準備が整い、狐や鼠が顧みて歩くことを忘れ、燕や雀が飛び回ることを恥じる。情を傷つけ理を滅ぼすことは、これ以上に大きなものはない。かつ、人の子が 衾 を承ける時、志は悶え心は絶え、喪事に必要なものはすべて他人の手に委ねられる。愛憎の深浅は、事実として推し量り難い。もし見定めを誤り、存命と死亡を取り違えるようなことが万に一つでもあれば、怨みと残酷はすでに多い。どうか、告殯(納棺の知らせ)の朝を緩め、生き返りを望む希望を伸ばすようにしてはどうか。請う、今より士庶はすべて古制に従い、三日後に大殯を行うべきである。もし従わない者がいれば、糾弾し制裁を加えるべきである。」 詔 はこの上奏を許可した。

まもなく宣恵将軍を授けられ、佐史を置き、侍中・ 僕射 ぼくや はもとの通りとした。また尚書 僕射 ぼくや ・中衛将軍に任じられた。徐勉は旧恩により、重い地位に抜擢され、心を尽くして主上に仕え、知る限りのことは何でも行った。小選からこの職に至るまで、常に人事の要職を参掌し、士人の心を大いに得た。禁中の事柄は、漏洩させたことはなかった。上表や奏上があるたびに、草稿を焼いた。経史に広く通じ、前代の事績を多く知っていた。朝廷の儀礼や国家の典礼、婚礼・冠礼・吉凶の事について、徐勉は皆その計画や議論に加わった。普通六年、五礼を修訂する上表文を奉った。その文は以下の通りである。

詔 勅が下された。「経礼は大いに整い、政典は広く行われている。今、役人に命じて、これに基づいて事を行わせよ。」また 詔 勅が下された。「徐勉の上表はこの通りである。因革は適切であり、憲章は実に完備している。功は成り業は定まり、ここにある。八表に光を及ぼし、百代に施し、万世の下において、この文がここにあることを知らしめることができる。主管者はこれに従って執行せよ、失墜することのないように。」まもなく中書令を加えられ、親信二十人を与えられた。徐勉は病気を理由に自ら申し出て、内任の職務を解くことを求めた。 詔 勅は許さず、ただ下省に留まり、三日に一度朝参し、事があれば主書を遣わして論決させるように命じた。足の病気が次第に重くなり、長く朝覲を欠いたため、固く解任を求め、 詔 勅はようやく休暇を与え、病気が治ったら省に戻ることを条件とした。

徐勉は顕位にあっても、産業を営まず、家に蓄えがなく、俸禄は親族の中で貧乏な者に分け与えた。門人や旧友が折に触れて言葉をかけることがあった。徐勉は答えて言った。「人は子孫に財産を残すが、私は清白を残す。子孫に才能があれば、自ら車馬や財産を得るだろう。もし才能がなければ、結局は他人のものになる。」かつて手紙を書いて子の徐崧を戒めた。その文は以下の通りである。

徐勉の次男の徐悱が亡くなり、非常に痛み悼み、長く王の政務を廃することを望まず、『答客喩』を作った。その文は以下の通りである。

中大通三年、また病気を理由に自ら申し出て、特進・右光禄大夫・侍中・中衛将軍に移任され、佐史を置き、その他はもとの通りとした。親信を四十人増やされた。両宮からの見舞いの使者は絶えず、車馬が道に連なり、衣服・食事・医薬はすべて朝廷から支給された。皇帝がたびたび臨幸しようとされたが、徐勉は拝伏に支障があるとして、しばしば中止を願い出た。 詔 勅はこれを許し、ついに車駕の来訪は止んだ。大同元年、死去した。享年七十。高祖(武帝)は聞いて涙を流し、その日に車駕を発して殯宮に臨み、 詔 勅を下して特進・右光禄大夫・開府儀同三司を追贈し、その他の官職はもとの通りとした。東園の秘器、朝服一具、衣一襲を与えられた。銭二十万、布百匹を贈られた。皇太子もまた朝堂で哀悼の礼を挙げた。諡は簡粛公。

徐勉は文章をよくし、著述に勤め、機務の最中でも、筆を休めなかった。かつて起居注が煩雑であるとして、これを削除・撰述して『流別起居注』六百巻とした。『左丞弾事』五巻。選曹にいた時、『選品』五巻を撰した。斉の時代に、『太廟祝文』二巻を撰した。孔子の教えと釈迦の教えは道は異なるが帰する所は同じであるとして、『会林』五十巻を撰した。著したものは前後二集四十五巻、また『婦人集』十巻があり、すべて世に行われた。大同三年、かつての佐史であった尚書左丞劉覧らが宮門に赴き徐勉の行状を陳述し、石碑を刻んで徳を記すことを請うた。すぐに 詔 勅が下され、墓前に碑を立てることを許された。

徐悱は字を敬業といい、幼い頃から聡明で機敏であり、文章を書くことができた。著作佐郎として出仕し、太子舎人に転じ、書記の任を掌った。累進して洗馬・中舎人となり、やはり書記を管掌した。宮坊に出入りすること数年、足の病気により湘東王友として出向し、晋安内史に遷った。

【史論】

陳の吏部尚書姚察が言う。徐勉は若い頃から志を励まし食を忘れ、発憤して身を修め、言行を慎み、交遊を選んだ。さらに運が興王に属し、日月の光に依ったので、経術を明らかにして高官を結び、里門を出て卿相の位を得ることができた。重責に就いてからは、誠を尽くして主君に仕え、行動は古を師とし、先王の則に依り、権衡を正し軌道を端にし、人々に異議がなく、梁の宗臣として、盛んなものであった。