梁書
臨川靖惠王
臨川靖惠王蕭宏は、 字 を宣達といい、太祖(梁の 武帝 蕭 )の第六子である。身長は八尺あり、鬚と眉が美しく、容姿や立ち居振る舞いが見事であった。斉の永明十年、衛軍廬陵王の法曹行 参軍 となり、太子舎人に転じた。当時、長沙王 蕭懿 が梁州を鎮守していたが、魏に包囲され、翌年、蕭宏に精兵一千人を与えて救援に向かわせたが、到着する前に魏軍は撤退した。驃騎晋安王の主簿に転じ、まもなく北中郎桂陽王の功曹史となった。衡陽王蕭暢は美名があり、始安王 蕭光 に礼遇されていた。蕭遙光が乱を起こすと、蕭暢を東府に引き入れるよう強要し、蕭暢は禍を恐れて、先に朝廷(台城)に赴いた。高祖(蕭衍)が 雍州 にいた時、常に諸弟が禍に巻き込まれることを恐れ、南平王 蕭偉 に言った。「六弟(蕭宏)は事理に明るいから、必ず先に朝廷に戻るだろう。」使いが届くと、果たして高祖の予想通りであった。
高祖(蕭衍)の義軍が南下すると、蕭宏は新林に出迎え、輔国将軍に任じられた。 建康 が平定されると、西中郎将・中護軍に転じ、 石頭 戍の軍事を管轄した。天監元年、臨川郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。まもなく使持節・ 散騎 常侍 ・ 都督 揚南徐州諸軍事・後将軍・揚州 刺史 となり、さらに 鼓吹 一部を与えられた。三年、 侍中 を加えられ、中軍将軍に進号した。
四年、高祖は北伐を 詔 し、蕭宏を 都督 南北兗北徐青冀 豫 司霍八州北討諸軍事とした。蕭宏は皇帝の実弟として、率いる軍はすべて武器や装備が精鋭で新しく、軍容は非常に盛大であり、北方の人々は百数十年間なかったことだと思った。軍は洛口に駐屯し、蕭宏の前軍が梁城を攻略し、魏の将軍鼂清を斬った。征役が長引いたため、 詔 により軍を返した。六年夏、驃騎将軍・開府儀同三司に転じ、侍中はもとのままとした。その年、 司徒 に転じ、 太子太傅 を兼ねた。八年夏、使持節・ 都督 揚南徐二州諸軍事・ 司空 ・揚州 刺史 となり、侍中はもとのままとした。その年冬、公事の過失により左遷され、驃騎大将軍・開府同三司之儀となり、侍中はもとのままとした。拝命しないうちに、使持節・ 都督 揚徐二州諸軍事・揚州 刺史 に転じ、侍中・将軍はもとのままとした。十二年、 司空 に転じ、使持節・侍中・ 都督 ・ 刺史 ・将軍はすべてもとのままとした。
十五年春、実母の陳太妃が病に臥せると、蕭宏は同母弟の南平王蕭偉と共に看病に当たり、ともに衣を解かず帯を緩めず、二宮(皇帝と皇太子)からの見舞いの使者があるたびに、使者に対し涙を流して答えた。太妃が 薨去 すると、五日間水も飲まず、高祖はたびたび臨幸して慰労した。蕭宏は幼い頃から孝行で慎み深く、斉の末年、難を避けて潜伏していた時、太妃と別居していたが、常に使者を遣わして安否を尋ねさせた。ある者が蕭宏に言った。「難を逃れるには秘密を守るべきで、行き来すべきではない。」蕭宏は涙を浮かべて答えた。「私がいなくてもよいが、このこと(母への孝養)だけは一時も怠ることはできない。」まもなく起用されて 中書監 となり、驃騎大将軍・使持節・ 都督 はもとのままとしたが、固辞したが許されなかった。
十七年夏、公事の過失により左遷され、侍中・中軍将軍・行 司徒 となった。その年冬、侍中・ 中書監 ・ 司徒 に転じた。普通元年、使持節・ 都督 揚南徐州諸軍事・ 太尉 ・揚州 刺史 に転じ、侍中はもとのままとした。二年、南郊と北郊の祭壇を改めて造営し、本官のまま起部 尚書 を兼ね、工事が完了すると免じられた。七年三月、病気によりたびたび上表して職務を辞したいと申し出、 詔 により揚州 刺史 を解くことを許され、その他の官職はもとのままとした。四月、 薨去 した。五十四歳であった。病気になってから 薨去 するまで、皇帝の車駕が七度見舞いに訪れた。葬儀に際し、 詔 が下された。「侍中・ 太尉 臨川王蕭宏は、器量は深遠で尊く、度量は広く通じていた。若年の頃より、行いは清らかで、職務に当たっては、善き謀略を多く立てた。皇業が始まって以来、地は実弟として、長く京畿を治め、朝廷の高位を歴任し、政道を論じて朝に登り、人々に異議はなかった。朕は兄弟愛の極みとして、家と国の情を兼ね、まさに協賛を広め、諸侯の模範としようとしていた。天はこの人を遺さず、突然に永らえることがなかった。哀痛は心を引き裂き、心震えるほどである。礼の秩を増して峻厳にし、盛大な典をもって顕彰すべきである。侍中・大将軍・揚州牧・仮 黄鉞 を追贈し、王位はもとのままとする。さらに羽葆鼓吹一部を与え、班剣を六十人に増やす。温明秘器を与え、袞服で納棺する。諡を靖惠という。」蕭宏の性格は寛和で篤厚であり、州を治めて二十余年、一度も吏事を理由に郡県を糾問したことがなく、当時の人々は彼を長者と称えた。
蕭宏には七人の子がいた。正仁、正義、正徳、正則、正立、正表、正信である。世子の正仁は呉興 太守 となり、治績の才能があった。天監十年、死去し、諡を哀世子といった。子がなかったため、高祖は 詔 を下して羅平侯正立を世子とし、これは蕭宏の意向によるものであった。蕭宏が 薨去 すると、正立は上表して正義を後継ぎに譲ろうとした。高祖はこれを嘉んで許し、正立を建安侯に改封し、邑千戸を与えた。正立が死去すると、子の蕭賁が後を嗣いだ。正義は先に平楽侯に、正徳は西豊侯に、正則は楽山侯に、正立は羅平侯に、正表は封山侯に、正信は武化侯に封ぜられていた。正徳については別に伝がある。
安成康王
安成康王蕭秀は、字を彦達といい、太祖の第七子である。十二歳の時、実母の呉太妃が亡くなり、蕭秀の同母弟の始興王 蕭 は当時九歳で、ともに孝行で知られ、喪に服して数日間も飲み物を口にせず、太祖は自ら粥を取って与えた。二人が幼くして孤児となったのを哀れみ、側室の陳氏に命じて二人の母となった。陳氏も子がなく、母としての徳があり、二人の子を実の子のように見た。蕭秀が成長すると、風采は美しく、性格は方正で静かであり、左右の近侍であっても、衣冠を正していない者には会わなかった。このため、親友や家族も皆彼を敬った。斉の時代、弱冠で著作佐郎となり、累進して後軍法曹行参軍、太子舎人となった。
永元年間、長沙宣武王蕭懿が入朝して崔慧景を平定し、 尚書令 となり、朝廷の首班に立った。弟の衡陽王蕭暢は衛尉となり、宮門の鍵を管掌した。東昏侯は日夜遊びふけり、出入りに節度がなかった。多くの者が蕭懿に、東昏侯が外出した隙に門を閉じて兵を挙げ廃立するよう勧めたが、蕭懿は聞き入れなかった。皇帝の側近たちは蕭懿の功績が高いことを憎み、また廃立を恐れ、蕭懿を離間させた。蕭懿も危険を感じ、これ以降、諸王侯は皆備えをした。難が起こると、臨川王蕭宏以下の諸弟や甥たちはそれぞれ逃げ隠れた。彼らが逃亡した時、皆都を出ることはなかったが、発覚することは稀で、ただ桂陽王蕭融だけが禍に遭った。
高祖の義軍が新林に到着すると、蕭秀は諸王侯と共に自ら抜け出して軍に赴き、高祖は蕭秀を輔国将軍とした。この時、東昏侯の弟の晋熙王蕭宝嵩が冠軍将軍・南徐州 刺史 として京口を鎮守し、 長史 の范岫が府州の事務を代行し、使者を遣わして降伏を申し出、さらに高祖に援軍を請うた。高祖は蕭秀を冠軍長史・南東海太守とし、京口を鎮守させた。建康が平定されると、引き続き使持節・ 都督 南徐兗二州諸軍事・南徐州 刺史 となり、輔国将軍はもとのままとした。天監元年、征虜将軍に進号し、安成郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜った。京口は崔慧景の乱以来、たびたび戦乱に遭い、民戸は離散していたが、蕭秀は招き寄せて慰撫し、恵みと慈愛を広く行き渡らせた。さらに凶作の年であったが、私財で百姓を養い、救われた者は非常に多かった。二年、本官のまま石頭戍の軍事を管轄するよう召され、 散騎常侍 を加えられた。三年、右将軍に進号した。五年、領軍・中書令を加えられ、鼓吹一部を与えられた。
(天監)六年、外任として使持節・ 都督 江州諸軍事・平南將軍・江州 刺史 となった。出発する際、担当者が堅牢な船を求めて斎舫(儀式用の船)にしようとした。蕭秀は言った。「私はどうして財を愛して士を愛さないことがあろうか」。そこで担当者に命じ、堅牢な船を参佐(幕僚)に与え、粗末な船に斎物を載せた。その後、風に遭い、斎舫はついに破損した。州に到着すると、前任の 刺史 が隠士陶潜の曾孫を里司(村役人)に取ったと聞いた。蕭秀は嘆息して言った。「陶潜の徳が、どうして後世に及ばないことがあろうか」。即日に彼を西曹に辟召した。時は盛夏で水が氾濫し、渡し場や橋が途絶え、外部の役人が旧例に従って渡し船を雇い、その料金を徴収するよう請うた。蕭秀は教令を下して言った。「 刺史 の不徳により、水害が患いとなっている。これを利とすることができようか。船を与えるだけでよい」。七年、慈母である陳太妃の喪に遭い、 詔 によって職務に復帰した。まもなく 都督 荊湘雍益寧南北梁南北秦州九州諸軍事・平西將軍・ 荊州 刺史 に遷った。その年、安西將軍に号を改めた。学校を立て、隠逸の士を招いた。教令を下して言った。「鶉火の禽(鳳凰)は丹山に影を匿わず、昭華の宝(玉)は藍田に突然采を耀かす。それゆえ江漢には濯纓の歌があり、空谷には来思の詠がある。風を弘め道を闡くことは、これによらないものはない。処士の河東の韓懷明、南平の韓望、南郡の庾承先、河東の郭麻は、ともに風塵を脱し、高くその事を踏み行う。両韓の孝友は純粋で深く、庾・郭の形骸は枯槁し、あるいは橡の飯と菁の羹で、ただ日が足りないとし、あるいは葭の壁と艾の席で、楽しみをその中に置く。昔、伯武(周党)は貞堅で河内に仕えに出、史雲(范丹)は孤高で陳留に志を屈した。どうして場の苗(人材登用)と言おうか、実に玉を攻むる(人材を磨く)のである。引辟を加え、ともに意を諭して遣わすべきである。すでに魏侯(魏の文侯)が礼を致した請いと同じであり、おそらくは辟昞(後漢の賢人)が三緘(口を閉ざす)を強いた嘆きはないであろう」。
この年、魏の 懸瓠 城の民が反乱し、 豫 州 刺史 の 司馬 悦を殺し、司州 刺史 の 馬仙琕 を引き入れ、馬仙琕は荊州に連絡して応援を求めてきた。衆人はみな朝廷からの返答を待つべきだと言ったが、蕭秀は言った。「彼らは我々を待って援軍としている。援軍は速やかに行うべきである。 詔 勅を待つのは旧例ではあるが、急事に対応するものではない」。即座に兵を派遣して赴かせた。これより先、 巴陵 の馬営蛮が長江沿いで寇害を行い、後軍司馬の高江産が 郢州 軍を率いてこれを討伐したが、勝てず、高江産は戦死し、蛮はついに勢いを盛んにした。蕭秀は防閤の文熾に衆を率いて討伐させ、その林木を焼き、その蹊逕(小道)を絶ち、蛮はその険しさを失い、一年で江路は清まり、これにより州境内の盗賊はついに絶えた。沮水が暴漲した時、民田をかなり損なったので、蕭秀は穀物二万斛でこれを救済した。長史の 蕭琛 に命じて府州の貧しい老人や単丁(一人だけの男手)の吏を選び出し、一日で五百余人を解散・帰郷させ、百姓は大いに喜んだ。
(天監)十一年、侍中・中衛將軍に召され、宗正卿・石頭戍事を兼ねた。十三年、再び外任として使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 郢司霍三州諸軍事・安西將軍・郢州 刺史 となった。郢州の当塗は煩劇な地で、百姓は貧しく、ついに婦人を使役に供するほどであり、その弊害はこのようであった。蕭秀が鎮守に着くと、務めて民を安んじた。担当者が時折、吏を召し集めることを求めた。蕭秀は言った。「弊害を救う術を知らない。この州は凋残している。擾乱してはならない」。そこで務めて自らを倹約し、遊興の費用を省き、百姓は安堵し、境内は平穏であった。これより先、夏口は常に兵の要衝であり、黄鶴楼の下には露わな骸骨が積み重なっていた。蕭秀はこれを祭って埋葬した。一夜、数百人が礼拝して謝し去る夢を見た。毎年冬になると、常に襦袢や袴を作って凍える者に賜った。時、司州の叛蛮の田魯生と、その弟の田魯賢・田超秀が、蒙籠を拠点として降伏してきた。高祖(武帝)は田魯生を北司州 刺史 、田魯賢を北 豫 州 刺史 、田超秀を定州 刺史 とし、北境の防壁とした。しかし田魯生と田超秀は互いに讒言して誹謗し、去就の心があり、蕭秀は慰撫し懐柔して受け入れ、それぞれに役割を与え、当時はこれに頼った。
(天監)十六年、使持節・ 都督 雍梁南北秦四州郢州之 竟陵 司州之隨郡諸軍事・鎮北將軍・寧蠻 校尉 ・雍州 刺史 に遷り、そのままの道で鎮守地へ赴いた。十七年春、竟陵の石梵まで行き、 薨去 した。時に四十四歳。高祖はこれを聞き、非常に痛み悼んだ。皇子の南康王蕭績に命じて道沿いで迎えさせた。
初め、蕭秀が西へ向かう時、郢州の民は境を越えて見送り、その病気を聞くと、百姓や商人たちは皆、命乞いをした。 薨去 すると、四州の民は衣を裂いて白帽を作り、哀哭して迎え送った。雍州の蛮も蕭秀を迎えようとしたが、 薨去 を聞くと、祭って哭し去った。喪が京師に至ると、高祖は使者を遣わして冊贈し、侍中・ 司空 を贈り、諡して康といった。
蕭秀は容貌が美しく、毎朝、百官が注目した。性格は仁恕で、喜怒を顔色に表さなかった。側近が石を投げて飼っていた鵠(白鳥)を殺したことがあり、斎帥がその罪を治めるよう請うた。蕭秀は言った。「私はどうして鳥のために人を傷つけようか」。京師では、朝に公事に臨み、厨人が食事を進めたが、誤ってこぼしてしまった。蕭秀は去って車に登り、朝中ずっと食事をせず、またそれを咎めることもなかった。術学に精魂を込め、経書や記録を収集し、学士の平原の劉孝標を招き、『類苑』を撰述させた。書は完成しないうちに、すでに世に行われた。蕭秀は高祖とは布衣の兄弟(庶民時代からの兄弟)であり、君臣となってからは、小心に畏敬し、疎遠な賤しい者以上であり、高祖はますますこれをもって彼を賢しとした。幼少時に片親を亡くし、始興王蕭憺には特に篤かった。梁が興ると、蕭憺は長く荊州 刺史 を務め、天監初年から、常に得た俸禄の中分を蕭秀に与え、蕭秀は心からこれを受け、多くても辞退しなかった。兄弟の睦まじさは、当時の議論で称賛された。故吏の夏侯稟らが墓碑建立を上表し、 詔 はこれを許した。当世の高才で王の門に遊んだ者、東海の王僧孺・呉郡の 陸倕 ・彭城の劉孝綽・河東の裴子野が、それぞれその文を制作した。これは古来なかったことである。世子の蕭機が後を嗣いだ。
蕭機は字を智通といい、天監二年、安成国の世子に任じられた。六年、寧遠將軍・会稽太守となった。帰朝して給事中となった。普通元年、安成郡王の封を襲い、その年、太子洗馬に任じられ、中書侍郎に遷った。二年、明威將軍・丹陽尹に遷った。三年、持節・督湘衡桂三州諸軍事・寧遠將軍・ 湘州 刺史 に遷った。大通二年、州で 薨去 した。時に三十歳。蕭機は姿容が美しく、吐納(談吐)に優れていた。家には多くの書があり、博学で記憶力が強かった。しかし、遊びを好み、力を尚び、士子を遠ざけ、小人に近づいた。州では専ら収奪に意を注ぎ、治績はなく、頻繁に弾劾された。葬送の際、有司が諡を請うと、高祖は 詔 して言った。「王は内寵を好み政事を怠った。諡して煬とすべし」。著した詩賦は数千言に及び、 世祖 ( 元帝 )がこれを集めて序を付けた。子の蕭操が後を嗣いだ。
南浦侯蕭推は、字を智進といい、蕭機の次弟である。若い頃から清く聡明で、文章を好み、深く 太宗 ( 簡文帝 )に賞賛された。普通六年、王子の例によって封じられた。寧遠將軍・淮南太守を歴任した。軽車將軍・ 晉 陵太守、給事中、太子洗馬、秘書丞に遷った。外任として戎昭將軍・吳郡太守となった。赴任する地は必ず赤地となり大旱魃が起こり、呉人は「 旱母 」と号した。 侯景 の乱の時、東府城を守り、賊が楼車を設け、全力を尽くして攻撃したが、蕭推は状況に応じて抵抗し、頻繁に撃退して挫折させた。夕方になると、東北楼の主将の許鬱華が関門を開いて賊を引き入れ、城はついに陥落し、蕭推は節を握って死んだ。
南平元襄王(蕭偉の伝記はここで途切れ、次の人物の冒頭を示す見出し行である)。
南平元襄王蕭偉は字を文達といい、太祖(蕭順之)の第八子である。幼い頃から聡明で学問を好んだ。斉の時代に、晋安鎮北法曹行参軍府に初めて仕官し、驃騎に昇進し、外兵に転任した。高祖(蕭衍)が雍州 刺史 であった時、天下が乱れようとしていることを憂慮し、蕭偉と始興王蕭憺を 襄陽 に迎えようと求めた。まもなく彼らが沔水に入ったと聞き、高祖は喜んで側近の官吏に言った。「私はもう心配することはない」。義軍が起こると、南康王が制を承けて、板授により冠軍将軍とし、雍州開府事を代行させて留め置いた。義軍が出発した後、州内の備蓄と人員は皆空になった。魏興太守の裴師仁と斉興太守の顔僧都はともに郡を拠点として命令を受けず、兵を挙げて雍州を襲おうとした。蕭偉は始興王蕭憺とともに始平郡に兵を派遣して裴師仁らを待ち伏せ、迎え撃って大破し、州内は安定した。
高祖が郢州と魯山を平定し、 尋陽 を落とし、建業を包囲すると、巴東太守蕭慧訓の子の蕭璝と巴西太守の魯休烈が兵を起こして荊州を脅かし、上明に駐屯し、連続して荊州軍を破った。鎮軍将軍の蕭 穎 冑は将軍の劉孝慶らを派遣してこれを防がせたが、逆に蕭璝に敗れ、蕭穎冑は憂憤して急病で死去し、西朝( 江陵 朝廷)は恐怖に陥った。尚書 僕射 の夏侯詳は雍州に援軍を求めることを議し、蕭偉は州府の将吏を割いて、始興王蕭憺に付けて救援に向かわせた。蕭憺が到着すると、蕭璝らは皆降伏した。和帝は 詔 を下し、蕭偉を使持節、 都督 雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事、寧蛮 校尉 、雍州 刺史 とし、将軍の位は元のままとした。まもなく侍中を加えられ、鎮北将軍に進号した。天監元年、 散騎常侍 を加えられ、荊州と寧州の二州を監督する権限が加わり、その他の官職は元のままとした。建安郡王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられ、鼓吹一部を賜った。四年、 都督 南徐州諸軍事、南徐州 刺史 に転任し、使持節、常侍、将軍の位は元のままとした。五年、都に至り、撫軍将軍、丹陽尹に改められ、常侍は元のままとした。六年、使持節、 都督 揚南徐二州諸軍事、右軍将軍、揚州 刺史 に昇進した。拝命しないうちに、中権将軍に進号した。七年、病気を理由に上表して州の職務を解任され、侍中、中撫軍に改められ、 司徒 の事務を代行した。九年、護軍将軍、石頭戍軍事に転任し、侍中、将軍、鼓吹は元のままとした。その年、使持節、 散騎常侍 、 都督 江州諸軍事、鎮南将軍、江州 刺史 として出向し、鼓吹は元のままとした。十一年、本官のまま開府儀同三司を加えられた。その年、再び病気を理由に辞任を願い出た。十二年、撫軍将軍に召されたが、儀同、常侍は元のまま、病気のため拝命しなかった。十三年、左 光禄大夫 に改められた。親信四十人を加えられ、毎年米一万斛、布絹五千匹、薬代二百四十万銭、厨房供給月二十万銭、さらに二衛と両営の雑役二百人を、以前の倍の数で与えられた。防閤、白直、左右職局合わせて百人を設置した。蕭偉は晩年病気が次第に重くなり、再び藩国に出向かなかったため、俸禄が加増されたのである。
十五年、生母の陳太妃が病に臥せると、蕭偉と臨川王蕭宏は看病に当たり、ともに衣も解かずに付き添った。太妃が 薨去 すると、礼を超えて憔悴し、数日にわたって水も飲まなかった。高祖はたびたび見舞いに訪れて慰め諭した。蕭偉は 詔 には従ったが、衰弱してほとんど喪に耐えられないほどであった。
十七年、高祖は建安の土地が瘠せているとして、南平郡王に改封し、邑戸は元のままとした。侍中、左光禄大夫、開府儀同三司に昇進した。普通四年、食邑一千戸を加増された。五年、鎮衛大将軍に進号した。中大通元年、本官のまま太子太傅を兼任した。四年、中書令、大司馬に転任した。五年、 薨去 した。享年五十八歳。 詔 により袞冕で収められ、東園の秘器が与えられた。また 詔 して言った。「徳を顕彰し功を記すのは、前代の王者の善き制度である。終わりを慎み遠きを追うのは、歴代の通規である。故侍中、中書令、大司馬南平王蕭偉は、器量は宏大で、識見は広く簡明であった。弱冠の頃より、清らかな風格が備わり、創業を補佐し、樊城・沔水の地で勲功は高く、艱難を共にし、任された職務に勤労した。政務を補佐し道を論じ、三公の職責を広く行った。突然に 薨去 したので、朕は心を震わせ悲しんでいる。寵遇ある命令を盛大に行い、立派な典範を明らかにすべきである。侍中、太宰を追贈し、王位は元のままとする。羽葆鼓吹一部、および班剣四十人を与える。諡は元襄という。」
蕭偉は若い頃から学問を好み、誠実で寛大であり、賢者を尊び士を重んじ、常に及ばないことを恐れた。このため四方の遊士、当世の知名の士は、ことごとく集まってきた。斉の時代、青溪宮が芳林苑と改められ、天監初年に蕭偉に邸宅として賜られた。蕭偉はさらに穿鑿築造を加え、美しい樹木や珍しい果樹を植え、彫琢と華麗さを極めた。しばしば賓客とともにその中を遊歩し、従事中郎の蕭子範に記録を作らせた。梁の世における藩王の邸宅の豪華さで、これを超えるものはなかった。しかし性格は恩恵に厚く、特に貧困な者を哀れんだ。常に腹心の側近を遣わして、里巷の人士を訪ね歩き、貧困で吉凶の行事ができない者がいれば、すぐに援助と救済を与えた。太原の王曼穎が死去した時、家が貧しく葬儀の費用がなかった。友人の江革が弔問に行くと、その妻子が江革に向かって泣きながら訴えた。江革は言った。「建安王がご存知になれば、必ず取り計らってくださるだろう」。言葉が終わらないうちに蕭偉の使者が到着し、その喪事の費用を給して、事が済んだのである。厳寒で雪が積もるたびに、人を遣わして薪と米を積んだ車を用意し、困窮している者を見つけ次第に与えた。晩年は仏教の教理を崇信し、特に玄学に精通し、『二旨義』を著して独自の新解釈を示した。また『性情』『幾神』などの論を制作してその義を述べた。僧寵や 周捨 、殷鈞、陸倕はいずれも精妙な解釈で名高いが、彼を屈服させることはできなかった。
蕭偉には四人の子がいた。蕭恪、蕭恭、蕭虔、蕭祗である。世子の蕭恪が後を継いだ。
蕭恭は字を敬範という。天監八年、衡山県侯に封ぜられ、元襄王(蕭偉)の功績により、食邑は千戸まで加増された。かつて、楽山侯の蕭正則が罪を犯した時、諸王を責める 詔 勅が出されたが、元襄王に対してだけは「お前の息子はただ過ちがないだけでなく、きちんとした道義をわきまえている」と言った。
蕭恭は給事中として初めて仕官し、太子洗馬に昇進した。督斉安等十一郡事、寧遠将軍、西陽・武昌二郡太守として出向した。秘書丞に召され、中書郎に昇進し、丹陽尹を監督し、徐南徐州の事務を代行し、衡州 刺史 に転任したが、母の喪で職を離れた。まもなく雲麾将軍、湘州 刺史 として再起した。
蕭恭は吏事をよく理解し、任地で称賛された。しかし性格は華美と奢侈を好み、広大な邸宅を営み、重ねた部屋や回廊は宮殿を模倣していた。特に賓客・友人を好み、一日中酒宴を開き、座席は賓客で満ち、談論に倦むことがなかった。当時、世祖(元帝 蕭 )は藩王としており、名声に努め、心を尽くして著述に励み、酒を妄りに進めることはなかった。蕭恭はしばしば人にゆったりと言った。「下官が歴代の人々を見渡すと、楽しみを好まない者が多く、仰向けに寝転がって屋根裏を見つめながら書を著す。千秋万歳の後、誰がこれを伝えるというのか。精神を労し苦心して思索しても、結局名声は成らず、清らかな風に臨み、明るい月に向かい、山に登り水に浮かび、思いのままに酒を楽しみ歌うのに及ぶまい」。まもなく雍州の蛮族の文道拘が魏の軍を引き入れたため、 詔 により蕭恭は救援に赴き、そのまま持節、仁威将軍、寧蛮 校尉 、雍州 刺史 に任じられ、そのまま任地に向かった。太宗(簡文帝 蕭綱 )は若い頃蕭恭と交遊し、特に親しく遇されていた。この時、手令を下して言った。「あの地の士人は剛直で、関中・三輔の遺風があり、庶民は頑固で、ただ剣を重んじ死を軽んじることを知っているのみだ。降伏した胡族は貪欲を尊び、辺境の蛮族は敬譲を知らず、その心は白黒つけがたく、法律を施すところがない。どうか辺境の守備を充実させ、たびたびの移動は避け、斥候は遠くに放ち、倉庫はひたすら蓄積し、長所で短所を制し、静寂をもって躁動を制してほしい。早くから愛顧を受けてきたので、敢えて腹心を述べる」。蕭恭が州に着任すると、統治は実に名声と実績があり、百姓が上奏して、城南に碑を立ててその徳を称えたいと請願した。 詔 はこれを許した。
先の高祖(蕭衍)は雍州を辺境の要鎮とし、数州の穀物を運んで倉庫を満たしたが、蕭恭は後に官米を多く取り、私邸の供給に充てたため、荊州 刺史 の廬陵王(蕭続)に上奏され、これにより官職を免ぜられ爵位を削られ、数年経ってもついに任用されなかった。侯景の乱の時、城中で死去した。享年五十二歳。 詔 により特に本来の封爵を回復した。世祖(蕭繹)は侍中・左衛将軍を追贈した。諡は僖といった。
世子の蕭静は、字を安仁といい、美しい名声があり、宗室の後進と称された。文才があり、志を固くして学問を好み、すでに財産が内に足りていたので、経書や史書を多く集め、散らかった書物が席を埋め、自ら校訂した。 何敬容 が娘を娶らせようとしたが、蕭静はその勢力があまりに盛んなのを忌み、拒絶して受け入れず、当時の論評は彼を敬服した。官を歴任して太子舎人・東宮領直となった。丹陽尹丞に転じ、給事黄門侍郎となり、深く太宗(蕭綱)に愛賞された。太清三年、死去し、侍中を追贈された。
鄱陽忠烈王
鄱陽忠烈王 蕭恢 は、字を弘達といい、太祖(蕭順之)の第九子である。幼少より聡明で、七歳の時、『孝経』『論語』の意味を通じ、探り出して遺すところがなかった。成長すると、風采が美しく、史籍に広く通じた。斉の隆昌年間、明帝(蕭鸞)が宰相となった時、内外に憂い事が多く、明帝は長沙宣武王蕭懿のもとに行き、腹心に委ねられる弟たちを求めたところ、宣武王は蕭恢を挙げた。明帝は蕭恢を寧遠将軍とし、武装兵百人で東府を守衛させ、また驃騎法曹行参軍に引き立てた。明帝が即位し、東宮が建てられると、太子舎人となり、累進して北中郎外兵参軍、前軍主簿となった。宣武王の難(蕭懿の殺害)の時、都に逃れた。
高祖(蕭衍)の義兵が到着すると、蕭恢は新林で出迎え、輔国将軍に任じられた。当時、三呉は乱が多く、高祖は命じて破崗に駐屯させた。建康が平定されると、戻って冠軍将軍・右衛将軍となった。天監元年、侍中・前将軍となり、石頭戍軍事を管轄し、鄱陽郡王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。二年、使持節・ 都督 南徐州諸軍事・征虜将軍・南徐州 刺史 として出向した。四年、 都督 郢司二州諸軍事・後将軍・郢州 刺史 に改めて任じられ、持節はもとの通りとした。義兵の初期、郢城では疫病による死者が非常に多く、埋葬が間に合わなかったが、蕭恢が着任すると、急いで埋葬を命じた。また四人の使者を州内に巡行させ、管内は大いに治まった。七年、雲麾将軍に進号し、霍州の 都督 を加えた。八年、さらに平西将軍に進号した。十年、召還されて侍中・護軍将軍・石頭戍軍事となり、宗正卿を管轄した。十一年、使持節・ 都督 荊湘雍益寧南北梁南北秦九州諸軍事・平西将軍・荊州 刺史 として出向し、鼓吹一部を与えられた。十三年、 散騎常侍 ・ 都督 益寧南北秦沙七州諸軍事・鎮西将軍・益州 刺史 に転じ、使持節はもとの通りとし、そのまま任地へ赴いた。成都から新城までは五百里あり、陸路の往来はすべて私馬を徴発していたため、百姓はこれを苦しみ、歴代の政権でも改めることができなかった。蕭恢はそこで馬千匹を買い、徴発された家々に与え、乗馬の資とし、必要があれば順次徴発して百姓に頼らせた。十七年、召還されて侍中・安前将軍・領軍将軍となった。十八年、使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府儀同三司・荊州 刺史 として出向した。普通五年、驃騎大将軍に進号した。七年九月、任地で死去した。享年五十一歳。 詔 が下された。「故使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・荊州 刺史 鄱陽王蕭恢は、風度が開け朗らかで、器量と心情が凝り固まった質であった。弱冠の頃から、美しい評判をよく宣べ、政務に従事してからは、善き謀略を次々とまとめた。まさに朝廷に入り正道を論じ、宰相の職を広く調和させようとする時、突然に逝去した。朕はここに心を痛め悲しむ。寵愛ある命令を盛大に行い、朝廷の典範を明らかにすべきである。侍中・ 司徒 を追贈せよ。王位はもとの通りとする。また班剣二十人を与える。諡は忠烈という。」中書舎人劉顕を派遣して喪事を監督させた。
蕭恢には孝行の性質があり、初めて蜀を鎮守した時、実母の費太妃はまだ都に留まっていた。後に都で体調を崩したが、蕭恢はそれを知らず、ある夜突然、夢の中で帰って看病している夢を見た。目が覚めると憂い慌て、寝食を忘れた。まもなく都からの知らせが届き、太妃はすでに快方に向かっていた。後にまた目に病気を患い、長く物を見ることができなくなった。北から渡来した僧侶の慧龍に眼病治療の術があったので、蕭恢は彼を招いた。慧龍が到着すると、空中に忽然と聖僧が見え、慧龍が針を下すと、視界が開け明るくなった。すべてが精誠の至りによるものだと皆が言った。
蕭恢の性格は寛大で、財を軽んじ施しを好み、四州を歴任する間、得た俸禄はその都度散財した。荊州にいた時、いつもゆったりと賓客や僚属に尋ねた。「中山王(劉勝)は酒を好み、趙王(彭祖)は吏事を好んだが、どちらが優れているか。」衆人はまだ答えなかった。長史の蕭琛を見て言った。「漢代の王侯は、屏藩であるだけで、政務を見て民に親しむのは、それぞれの職責があった。中山王が音楽を聴くのは、気ままにできることであり、彭祖が吏事を代行するのは、官職を侵すことに近い。今の王侯は、藩国を守るのではなく、天子を補佐して民に臨み、清廉潔白であることが優れているのではないか。」座る賓客は皆敬服した。世子の蕭範が後を継いだ。
蕭範は、字を世儀といい、温和で器量と識見があった。太子洗馬・秘書郎から出仕し、黄門郎を歴任し、衛尉卿に転じた。毎夜自ら巡邏警備し、高祖はその労苦を称えた。益州 刺史 として出向し、剣閣の道を開通させ、華陽を回復し、封邑を一千戸増やし、鼓吹を加えられた。召還されて領軍将軍・侍中となった。
蕭範は学問はなかったが、自ら計略の才があると任じていた。珍奇なものを愛し古物を賞玩し、文才を招集し、思いのままに文章を題し、時折奇抜な趣があった。再び使持節・ 都督 雍梁東益南北秦五州諸軍事・鎮北将軍・雍州 刺史 として出向した。蕭範は州牧として民に臨み、当時の名声を大いに得た。将兵を慰撫し、その歓心をことごとく得た。太清元年、大規模な北伐が行われ、蕭範は使持節・征北大将軍・総督漢北征討諸軍事に任じられ、穣城を攻撃した。まもなく安北将軍・南 豫 州 刺史 に転じた。侯景が 渦陽 で敗れ、寿陽に退いて守ると、蕭範を合州 刺史 に改め、合肥を鎮守させた。当時、侯景はすでに奸計を抱き、臣下にない態度が露わになろうとしていたが、蕭範はたびたび上奏して言上したが、朱异は毎回抑えて奏上しなかった。侯景が 京邑 を包囲すると、蕭範は世子の蕭嗣と裴之高等を派遣して救援に入らせ、開府儀同三司に転じ、征北将軍に進号した。京城が守れなくなると、蕭範は合肥を放棄し、東関を出て、魏に援軍を要請し、二人の子を人質として送った。魏人は合肥を占拠したが、ついに蕭範を助けるために出兵せず、蕭範は進退の計なく、川を遡って西上し、樅陽に軍を駐屯させ、使者を派遣して尋陽王(蕭大心)に告げた。尋陽王は 九江 に戻るよう要請し、共に兵を整えて西上しようとした。蕭範は手紙を得て大いに喜び、軍を率いて 湓城 に至り、晋熙を晋州とし、子の蕭嗣を 刺史 として派遣した。江州の郡県は、次々と改易され、尋陽王の政令が及ぶのは一郡のみとなり、当時の論評はこれをもって彼を軽んじた。すでに商人の往来も途絶え、使者も遮断され、蕭範の数万の兵は、みな再び食糧がなく、多くが餓死した。蕭範は憤慨し、背中にできものができて死去した。享年五十二歳。
世子の蕭嗣は、字を長胤といった。容貌は豊満で立派で、腰帯は十囲もあった。性質は勇猛果敢で胆略があり、洒落ていて細かい行いを気にしないが、身を低くして士を養い、皆がそのために死力を尽くした。蕭範が死去した時、蕭嗣はまだ晋熙を占拠していたが、城中の食糧は尽き、兵士は困窮した。侯景が任約を派遣して攻撃してくると、蕭嗣は自ら甲冑を身に着け、陣営を出て防戦した。当時、賊軍の勢いはちょうど盛んで、皆がひとまず止めるよう勧めた。蕭嗣は剣に手をかけ叱りつけた。「今の戦いに、どうして退くことがあろうか。これこそ蕭嗣が命を尽くし節に死ぬ時である。」ついに流れ矢に当たり、陣中で死去した。
始興忠武王
始興忠武王蕭憺は字を僧達といい、太祖(蕭衍)の第十一子である。数歳の時、生母の呉太妃が亡くなり、蕭憺の哀しみは傍らにいる人々をも感動させた。斉の時代、弱冠で西中郎法曹行参軍となり、外兵参軍に転じた。義師が起こると、南康王が制を承け、蕭憺を冠軍将軍・西中郎諮議参軍とし、相国従事中郎に転じ、南平王蕭偉とともに留守を任された。
和帝が即位すると、蕭憺を給事黄門侍郎とした。当時、巴東太守蕭慧訓の子の蕭璝らおよび巴西太守魯休烈が兵を挙げて荊州を脅かし、上明に軍を駐屯させた。鎮軍将軍蕭穎冑が急病で亡くなると、西朝(江陵朝廷)は大いに恐れ、尚書 僕射 夏侯詳は雍州に兵を徴発することを議した。南平王蕭偉は蕭憺を派遣してこれに赴かせた。蕭憺は書簡で蕭璝らを諭し、十日もしないうちに皆が降伏を請うた。この冬、高祖(蕭衍)が建業を平定した。翌年の春、和帝が江陵を発とうとした時、 詔 により蕭憺を使持節・ 都督 荊湘益寧南北秦六州諸軍事・平西将軍・荊州 刺史 としたが、拝命しなかった。天監元年、安西将軍を加えられ、 都督 ・ 刺史 はもとの通りであった。始興郡王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。当時は戦乱の後で、公私ともに物資が乏しかったが、蕭憺は精神を奮い立たせて政治に励み、屯田を広く開き、労役を減らし、戦死者の家族を慰問してその困窮を救済したので、民衆は大いに安心した。蕭憺は自ら若年で重責に就いたことを考え、人々の心情を導き開こうと思った。そこで配下の官吏に言った。「政治が良くないのは、士君子たる者が共に惜しむべきことである。意見が採用できるなら、用いればよい。もし用いられなくても、私に何の損があろうか。私は心を開いている。どうか遠慮なく意見を述べてほしい。」これにより、小人は恩を知り、君子は誠意を尽くした。訴訟を起こす民は皆、前に立って指示を待ち、判決は瞬く間に下された。役所に滞留する事務はなく、下級では滞った訴訟もなく、民衆はますます喜んだ。三年、 詔 により鼓吹一部を加えられた。
六年、州内で大水が起こり、長江が溢れて堤防が決壊した。蕭憺は自ら府の将吏を率い、雨の中を冒して高さや長さを測り、堤防を修築した。雨が激しく水勢が増すと、皆が恐れ、ある者は蕭憺に避難を請うた。蕭憺は言った。「王尊でさえも自らの身で黄河の堤防を塞ごうとした。どうして私だけが免れようと心を動かすことができようか。」そこで白馬を犠牲にして江の神を祭った。間もなく水が引き堤防が築かれた。邴州は南岸にあり、数 百家 の住民が水位の上昇を見て驚いて逃げ、屋根に登り木にしがみついた。蕭憺は人を募って救助させ、一人救うごとに一万銭を賞として与えた。数十人の商人が応募して救助にあたり、州民は難を免れた。また、使者を諸郡に分遣し、水害で死亡した者には棺を、田畑を失った者には種籾を与えた。この年、州の境界に嘉禾(瑞穂)が生じ、官吏や民衆はその美徳を称えたが、蕭憺は謙遜して受けなかった。
七年、慈母である陳太妃が 薨去 し、蕭憺は六日間水も飲まず、喪に服する礼を過剰に守った。高祖は優しい 詔 を下して慰め、州の任務を代行させた。この冬、 詔 により本来の官号のまま朝廷に召還された。民衆は彼のために歌を作った。「始興王は民の父。人の急ぎに赴くこと、水火の如し。いつまた来て我らを養育してくれるのか。」八年、平北将軍・護軍将軍となり、石頭戍の軍事を管轄した。まもなく中軍将軍・中書令に転じ、間もなく衛尉卿を兼ねた。蕭憺は謙虚で労を惜しまぬ性格で、身分を低くして士人と接し、常に賓客と連ねた座席に座ったので、当時の論評はこれを称えた。この秋、使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 南北兗徐青冀五州諸軍事・鎮北将軍・南兗州 刺史 として出向した。九年春、 都督 益寧南梁南北秦沙六州諸軍事・鎮西将軍・益州 刺史 に転じた。学校を設立し、学業に励むよう勧め、子の蕭映に自ら経書を学ばせたので、正道を志す者が多くなった。当時、魏が巴南を襲撃し、西から南安を包囲した。南安太守垣季珪が堅固な城壁を守り固めると、蕭憺は軍を派遣して救援し、魏軍は退却し、収穫した武器は非常に多かった。十四年、 都督 荊湘雍寧南梁南北秦七州諸軍事・鎮右将軍・荊州 刺史 に転じた。同母兄の安成王蕭秀が雍州へ赴く途中で亡くなった。蕭憺は喪の知らせを聞くと、地面に身を投げ出し、藁の上に座って泣き叫び、数日間飲食をとらず、財産を傾けて葬儀の贈り物をし、部隊の大小にかかわらず皆が満足するようにした。天下の人々はその兄弟愛を称えた。十八年、侍中・中撫将軍・開府儀同三司・領軍将軍に召された。普通三年十一月、 薨去 した。時に四十五歳。侍中・ 司徒 ・驃騎将軍を追贈された。班剣三十人、羽葆鼓吹一部を与えられた。冊書には次のように記された。「故侍中・ 司徒 ・驃騎将軍始興王に告ぐ。忠は美徳とし、武は戈を止めることをいう。これを用いることは、前代の記録に載っている。王には天命を助けた元勲としての功績と、民を利する厚い徳があり、二十四年にわたり苦楽を共にし、終始変わることがなかった。そこで、かつての賢人と並び、古い教えを参考にし、偉大な名声と美しい意義を、まさにその極みに至らせた。今、兼大鴻臚程爽を派遣し、諡を忠武とする。魂あらば、この顕著な称号を喜び受けよ。ああ、哀しいかな。」
蕭憺は亡くなる前に、中山王に改封される夢を見て、策命が授けられる様子が以前と変わらなかったため、そのことを非常に嫌がり、数十日後に亡くなった。世子の蕭亮が後を継いだ。
(史評)