梁書
宗夬
宗夬は 字 を明揚といい、南陽郡涅陽県の人で、代々 江陵 に住んでいた。祖父の宗炳は、宋の時代に太子庶子に招聘されたが就任せず、高い名声があった。父の宗繁は、西中郎諮議 参軍 であった。
宗夬は若い頃から学問に励み、器量と才幹があった。弱冠にして 郢州 の秀才に推挙され、臨川王 常侍 、驃騎行参軍を歴任した。斉の 司徒 竟陵 王が西邸に学士を集め、その肖像画も描かせたが、宗夬もこれに加わった。永明年間中、北魏と和睦した際、 詔 により宗夬は 尚書 殿中郎の 任昉 とともに魏の使者を応接し、いずれも当時の選りすぐりであった。
武帝 の嫡孫である南郡王が西州にいた時、宗夬に書記の職務を管掌させた。宗夬は文筆の才で知られるとともに、貞正な人物として認められていたので、この任に当たらせたのである。まもなく文恵太子が 薨去 し、南郡王が皇太孫となると、宗夬は引き続き書記を管掌した。太孫が即位すると、多くの失徳行為があったため、宗夬は自ら距離を置き、 秣陵 県令となり、尚書都官郎に昇進した。隆昌末年、少帝が誅殺されると、寵臣や旧臣の多くがその禍いに巻き込まれたが、宗夬と傅昭だけは清廉で公正であったため免れた。
明帝が即位すると、宗夬を郢州治中としたが、名声があり職務に適任であった。父が年老いたため官を辞して郢里に帰った。南康王が 荊州 刺史 となると、彼を別駕に抜擢した。義軍が起こると、西中郎諮議参軍に転任し、別駕は元の通りとした。当時、西方地域で地位と声望があったのは、宗夬と同郡の楽藹、劉坦だけが州の人々から推挙され信頼されていたので、領軍将軍の 蕭胄 は深く彼らを信頼し、何事につけ相談した。高祖( 蕭 )の軍が 雍州 から出発すると、穎胄は宗夬を楊口から派遣し、直接作戦計画を稟議させるとともに軍需物資を護送させた。高祖は彼を非常に礼遇した。中興初年、御史中丞に昇進したが、父の喪のため職を離れた。喪が明けると冠軍将軍、衛軍 長史 に起用された。天監元年、征虜長史、東海 太守 に転任し、将軍の位は元の通り。二年、太子右衛率に召された。その冬、五兵尚書に昇進し、重要な人事選抜を参掌した。三年、死去した。享年四十九。子の宗曜卿が後を継いだ。
宗夬の 従弟 の宗岳は、名声と行いがあり、郢里で称賛され、宗夬よりも優れているとされた。仕官して尚書庫部郎、郢州治中、北中郎 録事 参軍事を歴任した。
劉坦
劉坦は字を徳度といい、南陽郡安衆県の人で、晋の鎮東将軍劉喬の七世の孫である。劉坦は若い頃、従兄の劉虯にその才能を見出された。斉の建元初年、南郡王国常侍となり、まもなく孱陵県令に補任され、南中郎録事参軍に昇進し、在任中は事務処理能力で称賛された。
南康王が荊州 刺史 となると、劉坦は西中郎 中兵 参軍となり、長流(刑罰担当)を兼務した。義軍が起こると、諮議参軍に転任した。当時、輔国将軍楊公則が 湘州 刺史 として、軍を率いて夏口に向かおうとしていた。西朝(江陵政権)で州の事務を代行する者を議論した際、劉坦は衆人に言った。「湘州の人心は、かき乱されやすく信用しがたい。もし武官だけを任用すれば、民衆は略奪を恐れる。もし文官を派遣すれば、威厳と謀略が振るわない。必ずや一州の城を鎮静させ、軍民の食糧を充足させようとするなら、この老臣に及ぶ者はいない。かつての先零の役(漢の趙充国の故事)のように、私はひそかに自分にその任を託したい。」そこで彼が選ばれた。そこで輔国長史、長沙太守に任じられ、湘州の事務を代行した。劉坦はかつて湘州に在任したことがあり、多くの旧恩があったので、道で出迎える者が非常に多かった。着任するとすぐに有能な役人を選抜し、十郡に分遣して、人夫を全て動員し、租税米三十万余斛を運搬して義軍に送り、物資と食糧の供給を充足させた。
当時、東昏侯が派遣した安成太守劉希祖が、平都で西臺(江陵政権)が選んだ太守范僧簡を破った。劉希祖が湘州地域に檄文を飛ばすと、これに応じて始興内史王僧粲が呼応した。邵陵の人々はその内史の褚洊を追放し、永陽の人周暉が兵を起こして始安郡を攻め、ともに王僧粲に呼応した。桂陽の人邵曇弄、鄧道介は私怨を晴らそうと、徒党を組んでこれに同調した。王僧粲は自ら平西将軍、湘州 刺史 を名乗り、永陽の人周舒を謀主とし、建寧に軍を駐屯させた。これ以降、湘州の諸郡はすべて蜂起した。ただ臨湘、湘陰、瀏陽、羅の四県だけがまだ保全されていた。州の人々は皆、船で逃げ去ろうとしたが、劉坦は船を全て集めて焼き払い、配下の将軍尹法略を派遣して王僧粲を防がせたが、勝負はつかなかった。前湘州鎮軍の鐘玄紹がひそかに王僧粲に呼応する計画を企て、数百人の士人や庶民を結集し、皆連名で計画を定め、期日を決めて州城で反乱を起こそうとした。劉坦はその計画を聞いたが、知らないふりをし、訴訟を処理するふりをして夜まで働き、城門を閉めなかった。これで彼らを疑わせようとしたのである。鐘玄紹はまだ挙兵できずにいた。翌朝、劉坦のところに行ってその理由を尋ねた。劉坦は彼を長く引き留めて話し、密かに親兵を派遣して彼の家の文書を押収させた。鐘玄紹が座に着いたまま立ち上がらないうちに、押収した兵士が戻り、文書の内容をことごとく入手したと報告した。鐘玄紹はすぐに自白し、その場で斬られた。劉坦はその文書を焼き、残りの一味は一切尋問しなかった。人々は恥じ入り、心服し、州内はようやく安定した。尹法略と王僧粲は数か月にわたって対峙したが、 建康 城が平定され、楊公則が州に戻ると、賊徒の群れはようやく散り散りになった。
天監初年、功績により荔浦県子に封じられ、邑三百戸を与えられた。平西 司馬 、新興太守に転任した。天監三年、西中郎長史に昇進し、そこで死去した。享年六十二。子の劉泉が後を継いだ。
楽藹
楽藹は字を蔚遠といい、南陽郡淯陽県の人で、晋の 尚書令 楽広の六世の孫であり、代々江陵に住んでいた。彼の母方の叔父である雍州 刺史 の宗愨が、かつて器物を並べて、甥や姪たちを試したことがあった。楽藹は当時まだ幼かったが、取ったものは書物だけだった。宗愨はこれによって彼を非凡だと思った。また史伝の書物を各一卷ずつ楽藹らに与え、読み終えたら、その内容を話させることにした。楽藹はざっと読んですべてを挙げて説明したので、宗愨はますます彼を高く評価した。
宋の建平王劉景素が荊州 刺史 となった時、楽藹を主簿に任命した。劉景素が南徐州 刺史 に転任すると、また征北刑獄参軍に任じられ、龍陽相に昇進した。父の喪のため職を離れたが、官吏や民衆が州に赴いて彼の復帰を請願し、葬儀が終わると再び起用された。当時、斉の 豫 章王蕭嶷が武陵太守であったが、楽藹の政治を非常に気に入っていた。蕭嶷が荊州 刺史 となると、楽藹を驃騎行参軍、兼務で州主簿とし、州の政事に参与させた。蕭嶷がかつて楽藹に風土や旧習、城郭や寺院の基址、山川の険易について尋ねたところ、楽藹は問われるままに即座に答え、まるで地図や文書を見ているかのようであったので、蕭嶷はますます彼を重んじた。州の者が彼を妬み、楽藹の役所の門前が市のようだと讒言したことがあった。蕭嶷が偵察させると、ちょうど楽藹が部屋に閉じこもって読書しているところだった。蕭嶷が都に戻ると、楽藹を 太尉 刑獄参軍とし、書記を担当させ、枝江県令に昇進させた。後に大司馬中兵参軍に任じられ、記室に転任した。
永明八年、荊州 刺史 の巴東王子響が兵を挙げて反乱を起こし、敗北した後、府舎を焼き払い、官庁の文書は一時に消滅した。武帝は藹を引見し、西方の情勢について問うと、藹は詳細かつ機敏に答えたので、帝は喜んだ。彼を荊州治中に任用し、府州の修復事業を委ねた。藹は州に戻り、数百棟の官舎を修繕し、短期間で全てを完了させたが、その労役は民衆に及ばなかった。荊州部内では、晋の王悦が鎮守を移して以来、府舎がこれほど整ったことはないと評された。
九年、 豫 章王蕭嶷が 薨去 すると、藹は官職を解いて喪に赴き、荊州・湘州の旧臣を率いて墓所に碑を建立した。累進して車騎平西録事参軍・歩兵 校尉 となり、西帰して辺境守備を求めた。
南康王が西中郎将となると、藹を諮議参軍に任じた。義軍が起こると、蕭穎胄は藹と宗夬・劉坦を招き、経略を任せた。梁の台府が建てられると、鎮軍司馬・中書侍郎・尚書左丞に転じた。当時、兵器甲冑の製造、舟艦と軍糧の調達、朝廷の儀礼法規など、全て藹に依拠した。まもなく給事黄門侍郎に昇進し、左丞は従前の通りであった。和帝が東下する際、道中で衛尉卿を兼任した。
天監初年、 驍 騎将軍・少府卿を兼任に昇進し、ほどなく御史中丞に転じ、本州の大中正を兼任した。初め、藹が江陵を発つ時、船の中に理由なく八本の車輻を得たが、それは中丞の護衛が道を避ける際に用いるもののようであった。果たしてこの時に転任となったのである。藹は公正で強情な性格で、憲台の職に就いて非常に適任であった。当時、長沙宣武王の葬儀が行われようとしていたが、車府の倉庫で突然、火油絡(車の装飾)が失われ、担当者の責任を問おうとした。藹は言った。「昔、晋の武庫が火事になった時、張華は積もった油が万石あれば必ず燃えると言った。今、倉庫に灰があれば、役人の罪ではない。」後で調べてみると、確かに積もった灰があった。当時、彼の博識と寛大さを称賛した。
二年、持節・広州・交州・越州の諸軍事を監督する冠軍将軍・平越中郎将・広州 刺史 として出向した。前任の 刺史 徐元瑜が罷免されて帰還する途中、始興の人士が反乱を起こし、内史の崔睦舒を追放し、その際に元瑜の財産を略奪した。元瑜は広州に逃げ帰り、藹に兵を借り、賊を討伐すると偽って、実は藹を襲撃しようと謀った。藹はこれを察知し、元瑜を誅殺した。まもなく征虜将軍の号を加えられ、任地で死去した。
藹の姉は隠逸の士である同郡の劉虯に嫁ぎ、明識があり礼儀に通じていた。藹が州の長官となると、姉を官舎に迎え入れ、自分の俸禄の三分の一を分け与えた。西方の地ではこれを称賛した。
楽法才
子の法才、字は元備。幼い頃から弟の法蔵と共に美名があった。若くして京師に遊学し、 沈約 を訪ねると、約は彼を見て称賛した。斉の和帝が相国となると、府参軍に召され、鎮軍の蕭穎胄は主簿に辟召した。梁の台府が建てられると、起部郎に任じられた。天監二年、父の藹が嶺南に出鎮すると、法才は 京邑 に留任し、金部郎に転じたが、父の喪で官を辞した。喪が明けると、中書通事舎人に任じられ、本州の別駕として出向した。入朝して通直 散騎 侍郎となり、再び通事を掌り、尚書右丞に転じた。晋安王が荊州に赴任すると、再び別駕従事史に任じられた。また尚書右丞に召され、招遠将軍・建康令として出向した。俸禄を受け取らず、任期を終える頃には百金に近い金額が残り、県の役所が台庫に納入するよう上奏した。高祖はその清廉な節操を嘉し、「職務をこのように務める者は、百城の模範とすることができる」と言い、即日に太府卿に昇進させた。まもなく南康内史に任じられたが、俸禄を辞退して名声を得ることを恥じ、辞退して受けなかった。ほどなく雲騎将軍・少府卿に転じた。信武長史・江夏太守として出向した。後任に代わられる際、帰郷の便道を通ることを上表した。家に着くと、邸宅の一部を寺に寄進し、世俗を超えた境地に心を寄せた。皇太子は法才が旧臣であることから、度々優遇の命令を下し、東下するよう召し出したが、出発前に死去した。時に六十三歳。
【史論】
陳の吏部尚書姚察が言う。蕭穎胄は大州の民衆を挙げて義挙に合流したが、当時、人々の心はまだ悟ることができなかった。この三人(宗夬・劉坦・楽藹)は、楚の鎮めである。事業を計画し構築するのに、おそらく力を尽くした。方面での功績は、劉坦が最も多い。官職に就き任務を担うことは、楽藹が兼ね備えていた。皆、寵愛と高い地位に登ったのは、当然である。
注