晉書

巻一百二十四 載記第二十四

巻一百二十四 載記第二十四

晉書

原文晉書

巻一百二十四 載記第二十四

原文卷一百二十四 載記第二十四 ► 卷一百二十五

慕容宝

原文慕容寶

慕容宝は、字あざなを道祐といい、慕容垂ぼようすいの第四子である。幼い頃から軽率で果断であり、志操がなく、他人が自分をへつらうのを好んだ。苻堅ふけんの時代に太子洗馬・万年令となった。苻堅の淮肥の戦いの際、宝は陵江将軍に任じられた。太子となってからは、自らを磨き、儒学を尊崇し、議論を巧みにし、文章をよくした。また、慕容垂の側近の小臣に取り入って、良い評判を求めた。慕容垂の朝廷の士人たちは一様に彼を称賛し、垂もまた家業を守り抜ける者とみなし、非常に賢いと評価した。

原文慕容寶,字道祐,垂之第四子也。少輕果無志操,好人佞己。苻堅時為太子洗馬、萬年令。堅淮肥之役,以寶為陵江將軍。及為太子,砥礪自修,敦崇儒學,工談論,善屬文,曲事垂左右小臣,以求美譽。垂之朝士翕然稱之,垂亦以為克保家業,甚賢之。

慕容垂が死ぬと、その年に宝は偽位を継ぎ、境内で大赦を行い、元号を永康と改めた。太尉たいいの庫辱官偉を太師・左光禄大夫に、段崇を太保に任じ、その他の者もそれぞれ差等をつけて官職を授けた。慕容垂の遺令に従い、戸口を調査し、諸軍営を廃止して郡県に分属させ、士族の旧籍を定め、その官儀を明らかにした。しかし、法は峻厳で政は厳しく、上下の心は離れ、民衆のうち乱を望む者は十軒に九軒にも及んだ。

原文垂死,其年寶嗣偽位,大赦境內,改元為永康。以其太尉庫辱官偉為太師、左光祿大夫,段崇為太保,其餘拜授各有差。遵垂遺令,校閱戶口,罷諸軍營分屬郡縣,定士族舊籍,明其官儀,而法峻政嚴,上下離德,百姓思亂者十室而九焉。

初め、慕容垂は宝の後継者が定まっていないことを常に憂えていた。宝の庶子である清河公慕容会は多才多芸で雄大な謀略を持ち、垂は深く彼を非凡な者とみなしていた。宝が北伐する際、会に宮中の事務を代行させ、総録・礼遇はすべて太子と同じとし、これによって後継者と定める意図を示した。垂が魏を討伐する際、龍城は旧都であり宗廟がある地であるため、再び会を幽州に鎮守させ、東北の重任を委ね、優秀な官僚を選んでその威望を高めた。臨終の遺命では、会を宝の後継者としたが、宝は末子の濮陽公慕容策を寵愛し、会を後継者とする考えはなかった。宝の庶長子である長楽公慕容盛は、自分が同母の兄であり年長であるのに、会が先になることを恥じ、盛んに策が皇太子にふさわしいと称え、会を非難して貶めた。宝は大いに喜び、趙王慕容麟と高陽王慕容隆に意見を求めたところ、麟らは皆、宝の意を迎えて賛成した。宝はついに麟らと謀を定め、策の母である段氏を皇后に、策を皇太子に立て、盛と会は王に爵位を進めた。策は字を道符といい、十一歳で容姿は美しかったが、愚かで弱く、聡明ではなかった。

原文初,垂以寶塚嗣未建,每憂之。寶庶子清河公會多材藝,有雄略,垂深奇之。及寶之北伐,使會代攝宮事,總錄、禮遇一同太子,所以見定旨也。垂之伐魏,以龍城舊都,宗廟所在,復使會鎮幽州,委以東北之重,高選僚屬以崇威望。臨死顧命,以會為寶嗣,而寶寵愛少子濮陽公策,意不在會。寶庶長子長樂公盛自以同生年長,恥會先之,乃盛稱策宜為儲貳,而非毀會焉。寶大悅,乃訪其趙王麟、高陽王隆,麟等咸希旨贊成之。寶遂與麟等定計,立策母段氏為皇后,策為皇太子,盛、會進爵為王。策字道符,年十一,美姿貌,而蠢弱不慧。

魏が并州を攻撃すると、驃騎将軍慕容農が迎撃したが敗北し、晋陽に戻ったが、司馬の慕輿嵩が城門を閉ざして彼を拒絶した。農は数千騎を率いて中山に逃げ帰ろうとしたが、潞川まで来たところで魏の追撃軍に追いつかれ、残りの騎兵は全滅し、単騎で逃げ帰った。宝は群臣を東堂に集めて対策を議論した。中山尹の苻謨は言った。「魏軍は強盛で、千里を転戦し、勝ちに乗じて攻めて来ており、勇気は倍増している。もし平原で騎兵を走らせれば、その勢いはますます盛んになり、おそらく敵対することは難しい。険しい地形を利用して防ぐべきである。」中書令の晆邃は言った。「魏軍は騎兵が多く、部隊の行動は迅速で鋭く、馬上で食糧を携行するので、十日を超えない。郡県に命じて千戸を一つの堡塁に集め、深い堀を掘り高い塁を築き、清野作戦で待ち受けるべきだ。掠奪するものがなくなり、食糧の供給が途絶えれば、六十日も経たないうちに、自然に困窮して退却するだろう。」尚書しょうしょの封懿は言った。「今、魏の軍勢は十万で、天下の強敵である。民衆が集まって守ろうとしても、自らを固めることはできず、それはかえって食糧を集め兵を集めて強敵に与えることになり、さらに民衆の心を動揺させ、弱みを見せることになる。要害を守って戦いを拒むのが、上策である。」慕容麟は言った。「魏は今、勝ちに乗じて気勢が鋭く、その鋒先は当たることができない。自らを守る設備を整え、彼らが疲弊するのを待って乗ずるべきである。」そこで城を修築し食糧を蓄え、持久戦の準備をした。

原文魏伐并州,驃騎農逆戰,敗績,還于晉陽,司馬慕輿嵩閉門距之。農率騎數千奔歸中山,行及潞川,為魏追軍所及,餘騎盡沒,單馬遁還。寶引群臣於東堂議之。中山尹苻謨曰:「魏軍強盛,千里轉鬥,乘勝而來,勇氣兼倍,若逸騎平原,形勢彌盛,殆難為敵,宜度險距之。」中書令晆邃曰:「魏軍多騎,師行剽銳,馬上齎糧,不過旬日。宜令郡縣聚千家為一堡,深溝高壘,清野待之。至無所掠,資食無出,不過六旬,自然窮退。」尚書封懿曰:「今魏師十萬,天下之勍敵也。百姓雖欲營聚,不足自固,是則聚糧集兵以資強寇,且動眾心,示之以弱,阻關距戰,計之上也。」慕容麟曰:「魏今乘勝氣銳,其鋒不可當,宜自完守設備,待其弊而乘之。」於是修城積粟,為持久之備。

魏は中山を攻撃したが陥落させることができず、進んで博陵魯口を占拠した。諸将は風の便りに従って敗走し、郡県はすべて魏に降伏した。宝は魏に内乱があると聞き、ついに全軍を率いて出撃し、歩兵十二万、騎兵三万七千で曲陽柏肆に駐屯した。魏軍は新梁まで進出した。宝は魏軍の鋭鋒を恐れ、征北将軍慕容隆に夜襲を命じて魏軍を攻撃させたが、敗北して帰還した。魏軍は戦車を並べて進軍し、陣営を対峙させて相持した。上下ともに凶暴で恐れ、三軍の士気は奪われた。農と麟は宝に中山に戻るよう勧め、ついに撤退した。魏軍は追撃し、宝と農らは大軍を捨て、騎兵二万を率いて逃げ帰った。時に大風雪が吹き、凍死者が道に折り重なった。宝は魏軍に追いつかれることを恐れ、鎧や武器を捨て去るよう命じ、わずかな刃物さえも持ち帰らせなかった。

原文魏攻中山不克,進據博陵魯口,諸將望風奔退,郡縣悉降于魏,寶聞魏有內難,乃盡眾出距,步卒十二萬,騎三萬七千,次於曲陽柏肆。魏軍進至新梁。寶憚魏師之銳,乃遣征北隆夜襲魏軍,敗績而還。魏軍方軌而至,對營相持,上下兇懼,三軍奪氣。農、麟勸寶還中山,乃引歸。魏軍追擊之,寶、農等棄大軍,率騎二萬奔還。時大風雪,凍死者相枕於道。寶恐為魏軍所及,命去袍杖戎器,寸刃無返。

魏軍は中山を攻撃し、芳林園に駐屯した。その夜、尚書の慕容皓が宝を殺害し慕容麟を立てようと謀った。皓の妻の兄である蘇泥がこれを告発したので、宝は慕容隆に命じて皓を逮捕させた。皓は同謀の数十人とともに城門を破って魏に逃亡した。麟は自らの身の危険を恐れ、兵を率いて左衛将軍・北地王慕容精を脅迫し、禁軍を率いて宝を弑逆しようと謀った。精は義をもってこれを拒絶したので、麟は怒って精を殺し、丁零に逃亡した。

原文魏軍進攻中山,屯于芳林園。其夜尚書慕容皓謀殺寶,立慕容麟。皓妻兄蘇泥告之,寶使慕容隆收皓,皓與同謀數十人斬關奔魏。麟懼不自安,以兵劫左衛將軍、北地王精,謀率禁旅弑寶。精以義距之,麟怒,殺精,出奔丁零。

初め、宝は魏が攻めて来ると聞き、慕容会に幽州・并州の兵を率いて中山に赴かせた。麟が反逆した後、宝は会が軍を奪い取るのではないかと恐れ、兵を派遣して迎えようとした。麟の侍郎であった段平子が丁零から逃げ帰り、麟が丁零を招集して軍勢が非常に盛んになり、会の軍を襲撃して東の龍城を占拠しようと謀っていると報告した。宝は皇太子慕容策および農・隆ら一万余騎を率いて薊で会を迎え、開封公慕容詳に中山を守らせた。会は身を尽くして人材を誘い入れ、甲冑を整え武器を磨き、歩騎二万を整然と進軍させ、薊の南で宝を迎えた。宝はその兵を農と隆に分け与え、西河公庫辱官驥に三千の兵を率いさせて中山の守備を助けさせた。会は策が皇太子となったことに恨みの色を示した。宝はこのことを農と隆に告げると、二人はともに言った。「会はまだ若く、一方の任を専断しているため、驕りが生じたのであって、他意はありません。臣らが礼をもって彼を責めましょう。」幽州・平州の士人たちは皆、会の威徳を慕い、彼の下を去りたがらず、一様に請願して言った。「清河王は天賦の神武と権謀術数に優れ、臣らは彼と生死を共にすることを誓い、王の恩沢に感じ入り、勇気が自ずと倍増しています。願わくは陛下と皇太子・諸王は薊の宮殿に留まり、王に臣らを統率させて京師の包囲を解かせ、その後で車駕をお迎えください。」宝の側近たちは皆、会の勇略を妬み、讒言して許さなかったので、兵士たちは皆、怨みの言葉を口にした。側近たちは宝に会を殺すよう勧めた。侍御史の仇尼帰はこれを聞き、会に告げて言った。「側近たちが密かにこのような謀略を立てており、主上もそれに従おうとしています。大王が頼りにしているのは父母だけですが、父はすでに異心を抱いています。杖としているのは兵ですが、兵はすでに手から離れています。進退の道は窮まり、自らを全うする道理はないでしょう。どうして二王(農・隆)を誅殺し、太子を廃して、大王ご自身が東宮にお立ちになり、将相を兼ねて社稷を正されないのですか。」会は従わなかった。宝は農と隆に言った。「会が変事を起こすのは、事の必然である。早く殺すべきだ。そうしなければ、大きな禍いとなる恐れがある。」農は言った。「賊が内から侮り、中原は混乱しています。会は旧都を鎮撫し、民衆を安んじ国境を寧静にし、京師に難があると聞けば万里を星のごとく駆けつけました。その威名の重さは、戎狄を震服させることができます。また、反逆の形跡はまだ明らかではありません。しばらくは我慢すべきです。今、社稷の危険は垂れ飾りの玉のように危ういのに、さらに内輪で誅殺し合えば、威望を損なうことになります。」宝は言った。「会の反逆の心はすでに固まっている。しかし、王たちは仁慈で、彼を除こうとしない。恐らく一朝事が起これば、まず諸父(叔父たち)を害し、その後で朕に及ぶだろう。事が失敗した後で、朕の言葉を思い出すがよい。」農らが強く諫めたので、やむなく取りやめた。会はこれを聞いてますます恐れ、広都の黄榆谷に逃亡した。会は仇尼帰らに二千余人の壮士を率いさせ、農と隆をそれぞれ襲撃させた。隆はその夜殺害され、農は重傷を負った。その後、会は宝のもとに帰った。宝は会を誅殺する意思があり、誘い出して安心させ、密かに左衛将軍慕輿騰に会を斬らせたが、傷つけることができなかった。会は再び自分の軍勢のもとに逃げ帰り、そこで兵を率いて宝を攻撃した。宝は数百騎を率いて龍城に急行した。会は軍勢を率いてこれを追い、使者を遣わして側近の佞臣を誅殺することと、皇太子(の地位)を求めることを請願したが、宝は許さなかった。会は龍城を包囲した。侍御郎の高雲が夜に敢死の士百余りを率いて会を襲撃し、これを破った。会の兵士はすべて逃げ散り、単騎で中山に逃げ帰ったが、包囲を突破して城内に入り、慕容詳に殺害された。

原文初,寶聞魏之來伐也,使慕容會率幽、并之眾赴中山,麟既叛,寶恐其逆奪會軍,將遣兵迎之。麟侍郎段平子自丁零奔還,說麟招集丁零,軍眾甚盛,謀襲會軍,東據龍城。寶與其太子策及農、隆等萬餘騎迎會於薊,以開封公慕容詳守中山。會傾身誘納,繕甲厲兵,步騎二萬,列陣而進,迎寶薊南。寶分其兵給農,隆,遣西河公庫辱官驥率眾三千助守中山。會以策為太子,有恨色。寶以告農、隆,俱曰:「會一年少,專任方事,習驕所致,豈有他也。臣當以禮責之。」幽平之士皆懷會威德,不樂去之,咸請曰:「清河王天資神武,權略過人,臣等與之誓同生死,感王恩澤,皆勇氣自倍。願陛下與皇太子、諸王止駕薊宮,使王統臣等進解京師之圍,然後奉迎車駕。」寶左右皆害其勇略,譖而不許,眾咸有怨言。左右勸寶殺會,侍御史仇尼歸聞而告會曰:「左右密謀如是,主上將從之。大王所恃唯父母也,父已異圖;所杖者兵也,兵已去手,進退路窮,恐無自全之理。盍誅二王,廢太子,大王自處東宮,兼領將相,以匡社稷。」會不從。寶謂農、隆曰:「觀會為變,事當必然,宜早殺之。不爾,恐成大禍。」農曰:「寇賊內侮,中州紛亂,會鎮撫舊都,安眾寧境,及京師有難,萬里星赴,威名之重,可以振服戎狄。又逆跡未彰,宜且隱忍。今社稷之危若綴旒然,復內相誅戮,有損威望。」寶曰:「會逆心已成,而王等仁慈,不欲去之,恐一旦釁發,必先害諸父,然後及吾。事敗之後,當思朕言。」農等固諫,乃止。會聞之彌懼,奔于廣都黃榆穀。會遣仇尼歸等率壯士二千餘人分襲農、隆,隆是夜見殺,農中重創。既而會歸於寶,寶意在誅會,誘而安之,潛使左衛慕輿騰斬會,不能傷。會復奔其眾,於是勒兵攻寶。寶率數百騎馳如龍城,會率眾追之,遣使請誅左右佞臣,並求太子,寶弗許。會圍龍城,侍御郎高雲夜率敢死士百餘人襲會,敗之,眾悉逃散,單馬奔還中山,乃逾圍而入,為慕容詳所殺。

詳は僭称して尊号を称し、百官を置き、年号を改めた。酒に溺れて奢侈淫乱にふけり、殺戮は度を超え、その王公以下五百余人を誅殺したため、内外は震え上がり、敢えて逆らって見る者はいなかった。城中は大飢饉となり、公卿で餓死した者は数十人に及んだ。麟は丁零の兵を率いて中山に入り、詳とその親族・党与三百余人を斬り、再び僭称して尊号を称した。中山は飢饉が甚だしく、麟は出て新市を占拠し、魏軍と義台で戦ったが、麟の軍は大敗した。魏軍はついに中山に入城し、麟は鄴に奔った。

原文詳僭稱尊號,置百官,改年號。荒酒奢淫,殺戮無度,誅其王公以下五百餘人,內外震局,莫敢忤視。城中大饑,公卿餓死者數十人。麟率丁零之眾入中山,斬詳及其親党三百餘人,復僭稱尊號。中山饑甚,麟出據新市,與魏師戰於義台,麟軍敗績。魏師遂人中山,麟乃奔鄴。

慕容徳は侍郎の李延を遣わして宝に南伐を勧め、宝は大いに喜んだ。慕容盛は強く諫めて、兵は疲弊し軍は老い、魏は新たに中原を平定したばかりであるから、兵を養い隙をうかがい、さらに他の年を待つべきだと述べた。宝はこれに従おうとした。撫軍の慕輿騰が進み出て言った。「今、軍勢はすでに集結しています。新たに平定した機に乗じて進取の功を成すべきです。人はそれに従わせることはできても、物事の始めを共に図るのは難しい。ただ聖慮のみで決断し、広く異なる意見を採り入れて軍議を混乱させ沮害するには足りません。」宝は言った。「わが決断は固まった。敢えて諫める者は斬る!」宝は龍城を出発し、慕輿騰を前軍大司馬とし、慕容農を中軍とし、宝は後軍となり、歩兵騎兵合わせて三万で乙連に駐屯した。長上の段速骨と宋赤眉は、諸軍が役務を恐れているのにつけこみ、司空しくう・楽浪王の宙を殺し、高陽王の崇を立てて脅迫した。宝は単騎で農のもとに奔り、軍を率いて速骨を討とうとした。兵士たちは皆、出征を恐れて幸いを求めて乱に走り、杖を投げ出してこれに奔った。騰の軍もまた潰走し、宝と農は急いで龍城に戻った。蘭汗は密かに速骨と通謀し、速骨は進軍して城を攻めた。農は蘭汗に欺かれ、密かに出て賊軍に赴き、速骨に殺された。兵士たちは皆、散り散りに逃げ、宝は慕容盛、慕輿騰らと南へ奔った。蘭汗は太子の策を奉じて制を承け、使者を遣わして宝を迎え、薊城で追いついた。宝は北に戻ろうとしたが、盛らは皆、汗の忠誠の真偽が明らかでないこと、今、単騎で戻れば、汗に二心があれば後悔しても及ばないと述べた。宝はこれに従い、薊から南へ向かった。黎陽に至り、慕容徳が制を称したと聞き、恐れて退いた。慕輿騰を鉅鹿に遣わして散兵を招集させ、慕容盛は冀州で豪傑を結集させ、段儀と段温は内黄で部曲を収集し、兵士たちは皆、呼応して集まり、期日を定めて集結しようとした。ちょうどその時、蘭汗が左将軍の蘇超を遣わして宝を迎えに来た。宝は、汗が垂の末の舅であり、盛もまた汗の婿であることから、必ずや忠誠に二心はないと考え、ついに龍城に戻った。汗は宝を外邸に導き入れ、これを弑した。時に宝は四十四歳、在位三年、すなわち隆安三年であった。汗はまたその太子の策と王公卿士百余人を殺した。汗は自ら大都督・大将軍・大単于・昌黎王を称した。盛が僭位すると、偽って宝を恵湣皇帝と諡し、廟号を烈宗とした。

原文慕容德遣侍郎李延勸寶南伐,寶大悅,慕容盛切諫,以為兵疲師老,魏新平中原,宜養兵觀釁,更俟他年。寶將從之。撫軍慕輿騰進曰:「今眾旅已集,宜乘新定之機以成進取之功。人可使由之,而難與圖始,惟當獨決聖慮,不足廣采異同,以沮亂軍議也。」寶曰:「吾計決矣,敢諫者斬!」寶發龍城,以慕輿騰為前軍大司馬,慕容農為中軍,寶為後軍,步騎三萬,次於乙連。長上段速骨、宋赤眉因眾軍之憚役也,殺司空、樂浪王宙,逼立高陽王崇。寶單騎奔農,仍引軍討速骨。眾咸憚征幸亂,投杖奔之。騰眾亦潰,寶、農馳還龍城。蘭汗潛與速骨通謀,速骨進師攻城,農為蘭汗所譎,潛出赴賊,為速骨所殺。眾皆奔散,寶與慕容盛、慕輿騰等南奔。蘭汗奉太子策承制,遣使迎寶,及於薊城。寶欲還北,盛等咸以汗之忠款虛實未明,今單馬而還,汗有貳志者,悔之無及。寶從之,乃自薊而南。至黎陽,聞慕容德稱制,懼而退。遣慕輿騰招集散兵于钜鹿,慕容盛結豪桀于冀州,段儀、段溫收部曲于內黃,眾皆響會,克期將集。會蘭汗遣左將軍蘇超迎寶,寶以汗垂之季舅,盛又汗之壻也,必謂忠款無貳,乃還至龍城。汗引寶入于外邸,弑之,時年四十四,在位三年,即隆安三年也。汗又殺其太子策及王公卿士百餘人。汗自稱大都督、大將軍、大單于、昌黎王。盛僭位,偽諡寶惠湣皇帝,廟號烈宗。

皝が龍城に遷った時、松を植えて社の主とした。秦が燕を滅ぼすと、大風が吹いてこれを抜いた。数年後、社があった場所に突然、桑の木が二本生えた。これ以前、遼川には桑がなく、廆が晋と通じて江南から種を求め、平州の桑はすべて呉から来たものであった。廆が没し、垂が呉王として中興し、宝が敗れようとする時、大風がまたその一本を抜いた。

原文皝之遷于龍城也,植松為社主。及秦滅燕,大風吹拔之。後數年,社處忽有桑二根生焉。先是,遼川無桑,及廆通于晉,求種江南,平州桑悉由吳來。廆終而垂以吳王中興,寶之將敗,大風又拔其一。

慕容盛

原文慕容盛

盛は字を道運といい、宝の庶長子である。幼い頃から沈着で聡明、謀略に富んでいた。苻堅が慕容氏を誅殺した時、盛は密かに慕容沖のもとに奔った。沖が尊号を称すると、自らを得たような態度で、賞罰は公平でなく、政令は明らかでなかった。盛は十二歳の時、叔父の柔に言った。「今、中山王(慕容沖)は智が衆に先んじず、才が下に出ず、恩を人に施さず、先ず自ら驕り大いに奢る。盛の見るところでは、滅びないことは稀であろう。」間もなく沖は段木延に殺され、盛は慕容永に従って東の長子へ向かった。柔に言った。「今、鋒刃の間を危険な道を行き、疑忌の際にいる。愚かであれば人に猜疑され、智があれば巣の幕よりも危うい。鴻鵠のように高く飛び、一挙に万里を行くべきであり、網を待ち坐すべきではない。」そこで柔と弟の会と共に密かに東へ向かい慕容垂に帰順した。陝中で盗賊に遭い、盛は言った。「我が六尺の躯は、水に入っても溺れず、火の中にあっても焦げない。お前らが我が鋒に当たろうというのか!試しにお前たちの手にある矢を百歩先に立ててみよ。我がこれに当てれば、お前たちの命を大切にせよ。もし当たらなければ、身を縛って差し出そう。」盗賊は矢を立て、盛は一発でこれを射当てた。盗賊は言った。「郎は貴人の子であるから、試してみただけだ。」資金を与えて送り出した。一年余り後、永が慕容俊と垂の子孫を誅殺し、男女を残さず殺した。盛が到着すると、垂は西の事情を尋ね、盛は地面に図を描いた。垂は笑って言った。「昔、魏武(曹操)が明帝(曹叡)の頭を撫で、ついに侯に封じた。祖父が孫を愛するのは、昔からあったことだ。」そこで長楽公に封じた。驍勇で剛毅、伯父の慕容全の風格と気概があった。

原文盛字道運,寶之庶長子也。少沈敏,多謀略。苻堅誅慕容氏,盛潛奔於沖。及沖稱尊號,有自得之志,賞罰不均,政令不明。盛年十二,謂叔父柔曰:「今中山王智不先眾,才不出下,恩未施人,先自驕大,以盛觀之,鮮不覆敗。」俄而沖為段木延所殺,盛隨慕容永東如長子,謂柔曰:「今崎嶇於鋒刃之間,在疑忌之際,愚則為人所猜,智則危甚巢幕,當如鴻鵠高飛,一舉萬里,不可坐待罟網也。」於是與柔及弟會間行東歸於慕容垂。遇盜陝中,盛曰:「我六尺之軀,入水不溺,在火不焦,汝欲當吾鋒乎!試豎爾手中箭百步,我若中之,宜慎爾命,如其不中,當束身相授。」盜用豎箭,盛一發中之。盜曰:「郎貴人之子,故相試耳。」資而遣之。歲餘,永誅俊、垂之子孫,男女無遺。盛既至,垂問以西事,畫地成圖。垂笑曰:「昔魏武撫明帝之首,遂乃侯之,祖之愛孫,有自來矣。」於是封長樂公。驍勇剛毅,有伯父全之風烈。

宝が偽位に即くと、爵位を進めて王となった。宝が龍城から南伐する時、盛は留まって後事を統括し、段速骨が乱を起こすと、急いで出迎えて護衛した。宝は危うく速骨に捕らえられるところを、盛のおかげで免れた。盛は宝にたびたび奇策を進言したが、宝は従わず、それゆえにたびたび敗れた。宝が龍城に戻ると、盛は後方に留まった。宝が蘭汗に殺されると、盛は急いで進んで喪に赴こうとした。将軍の張真が固く諫めて不可としたが、盛は言った。「我は今、命を投げ出して、哀窮を告げに行く。汗の性質は愚かで近視眼的であり、必ず婚姻関係を顧みて、我を害するに忍びないであろう。十日一ヶ月の間に、我が志を十分に展開できる。」ついに喪に赴いた。汗の妻の乙氏は泣いて盛を請い、汗もまた哀れに思い、その子の穆を遣わして盛を迎えさせ、宮内に住まわせ、以前のように親しく敬った。汗の兄の提と弟の難は汗に盛を殺すよう勧めたが、汗は従わなかった。慕容奇は汗の外孫であったが、汗もまたこれを許した。奇が入って盛に会い、ついに共に謀った。盛は奇を外に遣わして兵を起こさせ、兵は数千に達した。汗は蘭提を遣わして奇を討たせた。提は驕慢で残忍、淫乱で放縦、汗に仕えて礼を欠いていた。盛は汗に間を入れて言った。「奇は小児であり、これほどのことを為し得ません。必ず内に応じる者がいるはずです。提は元来驕慢であり、大軍を委ねるべきではありません。」汗は怒りを発し、提を捕らえて誅殺し、その撫軍の仇尼慕に兵を率いさせて奇を討たせた。汗の兄弟たちは提が誅殺されたのを見て、皆、危惧し、兵を擁して汗に背き、慕の軍を襲撃して敗った。汗は大いに恐れ、その子の穆に兵を率いさせてこれを討たせた。穆は汗に言った。「慕容盛は我が仇敵です。奇が今、逆を起こせば、盛は必ずこれに応じます。兼ねて内に蕭牆の難(内輪もめ)があるのですから、心腹の疾を養うべきではありません。」汗は盛を誅殺しようとし、引見して様子を探った。盛の妻がこれを告げたので、盛は偽って病が重篤であると称し、もはや出入りしなくなり、汗はやめた。李旱、衛双、劉志、張豪、張真という者たちがおり、皆、盛の旧知の親しい者で、蘭穆は彼らを腹心として引き入れた。旱らはたびたび入って盛に会い、密かに大計を結んだ。ちょうど穆が蘭難らを討って斬り、将士に大いに饗応し、汗と穆は皆、酔っていた。盛は夜、便所に行くふりをして、裸になって塀を越え、東宮に入り、李旱らと共に穆を誅殺した。兵士たちは皆、躍り上がって叫び、進んで汗を攻め、これを斬った。汗の二人の子、魯公の和と陳公の楊はそれぞれ令支と白狼に分屯していたが、李旱と張真を遣わして襲撃し誅殺した。こうして内外は平穏となり、士女は皆、喜んだ。盛は謙虚に拝揖して自らを卑下し、尊号を称さなかった。その年、長楽王として制を称し、境内を赦免し、元号を建平と改めた。諸王は爵を降格して公とし、文武の官はそれぞれ旧位に復した。

原文寶即偽位,進爵為王。寶自龍城南伐,盛留統後事,及段速骨作亂,馳出迎衛。寶幾為速骨所獲,賴盛以免。盛屢進奇策於寶,寶不能從,是以屢敗。寶既如龍城,盛留在後。寶為蘭汗所殺,盛馳進赴哀,將軍張真固諫以為不可,盛曰:「我今投命,告以哀窮。汗性愚近,必顧念婚姻,不忍害我。旬月之間,足展吾志。」遂人赴喪。汗妻乙氏泣涕請盛,汗亦哀之,遣其子穆迎盛,舍之宮內,親敬如舊。汗兄提、弟難勸汗殺盛,汗不從。慕容奇,汗之外孫也,汗亦宥之。奇入見盛,遂相與謀。盛遣奇起兵於外,眾至數千。汗遣蘭提討奇。提驕很淫荒,事汗無禮,盛因間之於汗曰:「奇,小兒也,未能辦此,必內有應之者。提素驕,不可委以大眾。」汗因發怒,收提誅之,遣其撫軍仇尼慕率眾討奇。汗兄弟見提之誅,莫不危懼,皆阻兵背汗,襲敗慕軍。汗大懼,遣其子穆率眾討之。穆謂汗曰:「慕容盛,我之仇也。奇今起逆,盛必應之。兼內有蕭牆之難,不宜養心腹之疾。」汗將誅盛,引見察之。盛妻以告,於是偽稱疾篤,不復出入,汗乃止。有李旱、衛雙、劉志、張豪、張真者,皆盛之舊昵,蘭穆引為腹心。旱等屢入見盛,潛結大謀。會穆討蘭難等斬之,大饗將士,汗、穆皆醉。盛夜因如廁,袒而逾牆,入於東宮,與李旱等誅穆,眾皆踴呼,進攻汗,斬之。汗二子魯公和、陳公楊分屯令支、白狼,遣李旱、張真襲誅之。於是內外怗然,士女咸悅,盛謙揖自卑,不稱尊號。其年,以長樂王稱制,赦其境內,改元曰建平。諸王降爵為公,文武各復舊位。

初めに、慕容奇が建安で兵を集め、蘭汗を討伐しようとしたところ、民衆は一斉にこれに従った。汗は兄の子の全を派遣して奇を討たせたが、奇はこれを撃破して滅ぼし、進軍して乙連に駐屯した。盛が汗を誅殺した後、奇に兵を収めるよう命じたが、奇は丁零の厳生、烏丸の王龍とともに兵を擁して盛に叛き、軍を率いて横溝に至り、龍城から十里のところに迫った。盛は兵を出してこれを撃破し、奇を捕らえて帰還し、王龍、厳生ら百余人を斬った。盛はここに至って帝位を僭称し、死刑以下の罪人を大赦し、伯父の献荘太子全を追尊して献荘皇帝とし、宝の后である段氏を皇太后と尊び、全の妃丁氏を献荘皇后とし、太子策に献哀太子と諡した。盛の幽州刺史しし慕容豪、尚書左僕射ぼくや張通、昌黎尹張順が謀叛を企てたが、盛は皆これを誅殺した。年号を長楽と改めた。罪を犯した者がいれば、十日ごとに自ら裁決し、鞭打ちの刑罰はなかったが、獄中の事情は多く実情を反映していた。

原文初,慕容奇聚眾于建安,將討蘭汗,百姓翕然從之。汗遣兄子全討奇,奇擊滅之,進屯乙連。盛既誅汗,命奇罷兵,奇遂與丁零嚴生、烏丸王龍之阻兵叛盛,引軍至橫溝,去龍城十里。盛出兵擊敗之,執奇而還,斬龍、生等百餘人。盛於是僭即尊位,大赦殊死已下,追尊伯考獻莊太子全為獻莊皇帝,尊寶後段氏為皇太后,全妃丁氏為獻莊皇后,諡太子策為獻哀太子。盛幽州刺史慕容豪、尚書左僕射張通、昌黎尹張順謀叛,盛皆誅之。改年為長樂。有犯罪者,十日一自決之,無撾捶之罰,而獄情多實。

高句麗王安が使者を派遣して地方の産物を貢いだ。ある雀が白い体に緑の頭で、端門に集まり、東園に棲みついて飛び回り、二十日後に去った。そこで東園を白雀園と改称した。

原文高句驪王安遣使貢方物,有雀素身綠首,集於端門,棲翔東園,二旬而去,改東園為白雀園。

盛は詩歌と周公の事績を聞き、群臣に向かって言った。「周公が成王を補佐したとき、至誠をもって上下を感化することができず、兄弟を誅殺して流言を断とうとしたが、それでも経伝に美名を残し、管弦の楽にその徳を歌われている。わが太宰桓王(慕容恪ぼようかく)に至っては、百王の末世を承け、主君が奪われかねない年頃にあり、二つの敵国が隙を窺い、難局は往時に勝るとも劣らぬ中で、朝政を補佐し、群臣の心を和らげ、外に向けて経略を敷き、国境を千里に広げ、礼譲をもって宗族をまとめ、徳と刑をもって諸侯を制し、和睦して太平を築き、当時異論はなかった。その功績と道義の盛んなことは、周公と同日に論じられるだろうか。それなのに燕の詩歌には論じられず、盛徳は覆い隠されて述べられないのは、道理に合わない。」そこで中書に命じて改めて『燕頌』を作らせ、恪の功績を述べさせた。また中書令常忠、尚書陽璆、秘書監郎敷を東堂に招き、問うた。「昔からの君子は皆、周公を忠聖であると言うが、それは誤りではないか。」璆が答えた。「周公は摂政の重責にありながら、群臣の名声を明らかにし、流言の誹謗にあっても、烈風を起こして主君を悟らせ、神霊と道を合わせ、その義は万代に輝く。故に代々その高潔を称え、後世の王もその美を奪うことができない。」盛は言った。「常令はどう思うか。」忠が答えた。「昔、武王が重病になったとき、周公には命を請う誠意があり、流言が広まったときには、その義が天地を感動させ、伯禽を鞭打って成王の徳を成し遂げさせた。周公の臣としての忠、聖人としての美は、『詩』『書』以来、これほどではなかった。」盛は言った。「二君の言葉は妙だ。朕は周公の偽りを見るが、その忠聖は見えない。昔、武王が九齢の夢を見て文王に告げると、文王は言った。『私は百歳、お前は九十歳、私が三歳を譲ろう。』文王が亡くなったとき、武王の寿命はすでに証明されていた。武王の寿命が尽きていないのに、代わりに死のうと求めたのは、偽りではないか。もし天命に惑ったのなら、それは聖ではない。摂政の地位に就きながら真心を示さず、兄弟の間に戦いを起こさせた。文王の教化は身近な者から遠くへ及んだので、『寡妻に刑(手本)を示し、兄弟に及ぼす』と言う。周公は聖なる父の教えに親しく背き、疑わしい行いを踏み、同族を殺罰して私憤を晴らした。何の忠があろうか。ただ当時に直筆の史官がおらず、後世の儒者がその誤った説を承けただけだ。」忠は言った。「金縢の櫃を開けて風が返ったことは、彼に偽りがないことを十分に証明している。二叔(管叔・蔡叔)の流言の変事に遭いながら、大義のために親族を滅ぼし、ついに宗国を安泰にし、王位を子(成王)に返し、明らかな君主として補佐して大業を成し遂げ、太平をもたらし、礼楽を制定し、その慶福を無限に流した。これも至徳でないとは言えない。」盛は言った。「卿は既成の文章に依拠するだけで、根本の道理を究めていない。朕が今、論じてやろう。昔、周は後稷から徳と仁を積み重ね、文王・武王に至った。文王・武王は大聖として時運に応じ、ついに天下を得た。生民はその徳を仰ぎ、四海はその仁に帰した。成王は幼くして大業を継いだが、卜占では世継ぎが長く、さらに呂尚、召公、毛公、畢公が師傅となった。周公が摂政とならなくても、王道は成し遂げられたはずだ。周公は理由もなく安危を己の任とし、朝政の権力を独占し、臣下としての礼を欠いた。管叔・蔡叔は王室への忠誠を抱き、周公が主君に代わるのは人臣の道ではないと考えたので、周公が幼君に害をなすだろうと言ったのだ。周公は大順の節義を明らかにし、誠と義を述べて群疑を解くべきだったのに、かえって都邑で兵を阻み、勝手に誅戮を行った。臣下に非ざる罪は海内に明らかになり、王に『鴟鴞』の詩を贈り、過失を主君に帰した。これは何と言うことか。また周公は事を起こすとき、二公(太公・召公)に告げたが、二公は周公に罪がないことを知りながら成王の疑いを座視した。これは二公の心にも周公への猜疑があったからだ。ただ、疎遠な者が親密な者の間に入るべきでないので、管叔・蔡叔に言葉を託したに過ぎない。忠誠が当時に認められず、仁愛が兄弟に及ばなかったと言えよう。群衆の望みが帰する所を知り、天命が己にないことを悟ってから、政権を成王に返し、忠誠と見せかけたのだ。大風が木を抜くという徴は、皇天が周の道を祐け存続させ、文王・武王の徳を忘れなかったからであり、周公の当初の過ちを赦し、周室の大いなる美を成し遂げようとしたのである。周公の心を考察し、その行いを推し量れば、天下の罪人であって、どうして至徳と言えようか。周公が政権を返したとき、二公が口を閉ざしてその本心を言わなかったのは、管叔・蔡叔の忠誠を明らかにするためだ。」

原文盛聽詩歌及周公之事,顧謂群臣曰:「周公之輔成王,不能以至誠感上下,誅兄弟以杜流言,猶擅美于經傳,歌德於管弦。至如我之太宰桓王,承百王之季,主在可奪之年,二寇窺窬,難過往日,臨朝輔政,群情緝穆,經略外敷,辟境千里,以禮讓維宗親,德刑制群後,敦睦雍熙,時無二論。勳道之茂,豈可與周公同日而言乎!而燕詠闕而不論,盛德掩而不述,非所謂也。」乃命中書更為《燕頌》以述恪之功焉。又引中書令常忠、尚書陽璆、秘書監郎敷於東堂,問曰:「古來君子皆謂周公忠聖,豈不謬哉!」璆曰:「周公居攝政之重,而能達群臣之名,及流言之謗,致烈風以悟主,道契神靈,義光萬代,故累葉稱其高,後王無以奪其美。」盛曰:「常令以為何如?」忠曰:「昔武王疾篤,周公有請令之誠,流言之際,義感天地,楚撻伯禽以訓就王德。周公為臣之忠,聖達之美,《詩》《書》已來未之有也。」盛曰:「異哉二君之言!朕見周公之詐,未見其忠聖也。昔武王得九齡之夢,白文王,文王曰:「我百,爾九十,吾與爾三焉。」及文王之終,已驗武王之壽矣。武王之算未盡而求代其死,是非詐乎!若惑於天命,是不聖也。據攝天位而丹誠不見,致兄弟之間有干戈之事。夫文王之化,自近及遠,故曰刑于寡妻,至於兄弟。周公親違聖父之典而蹈嫌疑之蹤,戮罰同氣以逞私忿,何忠之有乎!但時無直筆之史,後儒承其謬談故也。」忠曰:「啟金縢而返風,亦足以明其不詐。遭二叔流言之變,而能大義滅親,終安宗國,復子明辟,輔成大業,以致太平,制禮作樂,流慶無窮,亦不可謂非至德也。」盛曰:「卿徒因成文而未原大理,朕今相為論之。昔周自後稷積德累仁,至於文、武。文、武以大聖應期,遂有天下。生靈仰其德,四海歸其仁。成王雖幼統洪業,而卜世修長,加呂、召、毛、畢為之師傅。若無周公攝政,王道足以成也。周公無故以安危為己任,專臨朝之權,闕北面之禮。管、蔡忠存王室,以為周公代主非人臣之道,故言公將不利於孺子。周公當明大順之節,陳誠義以曉群疑,而乃阻兵都邑,擅行誅戮。不臣之罪彰于海內,方貽王《鴟鴞》之詩,歸非於主,是何謂乎!又周公舉事,稱告二公,二公足明周公之無罪而坐觀成王之疑,此則二公之心亦有猜于周公也。但以疏不間親,故寄言于管、蔡,可謂忠不見於當時,仁不及于兄弟。知群望之有歸,天命之不在己,然後返政成王,以為忠耳。大風拔木之征,乃皇天祐存周道,不忘文、武之德,是以赦周公之始愆,欲成周室之大美。考周公之心,原周公之行,乃天下之罪人,何至德之謂也!周公復位,二公所以杜口不言其本心者,以明管、蔡之忠也。」

また常忠に言った。「伊尹と周公とではどちらが賢いか。」忠が答えた。「伊尹には周公のような親族関係はなかったが、一代の功績を成し遂げた。太甲が徳を乱したとき、桐宮に追放し、過ちを悔い改めさせてから、再び位に戻した。主君に怨言がなく、臣下に流言飛語もなく、道は社稷に存し、その美は今に至るまで称えられている。臣は伊尹の功績が周公旦より高いと思う。」盛は言った。「伊尹は旧臣としての重みを持ち、阿衡の重任を顕わにした。太甲が嗣位したとき、君主の道が行き届かず、忠を尽くして輔導することができなかった。それなのに桐宮に追放・廃位したことは、夷羿の事績と同じであり、どうして周公と比べられようか。」郎敷が言った。「伊尹は人臣の地位にありながら、その君主を匡正制御できず、成湯の道が墜ちて成就されないことを恐れた。そこで桐宮に住まわせ、小人と共に事に従事させ、農耕の艱難を知らせた後、天位に戻した。これが彼の忠である。」盛は言った。「伊尹は廃して立てることができたのに、どうして善に至るまで輔導できなかったのか。もし太甲の性質が桀紂と同じなら、三年の間にすぐに賢君になるはずがない。もしその性質がもともと優れて明らかで、義の心が発しやすいなら、匡正規諫の道理を尽くして君主の徳を補弼すべきであり、どうして人臣が主君を幽閉してその位を占めることがあろうか。かつ臣下が君主に仕えるには、力を尽くすのみである。どうして智恵を隠し仁を蔵して君主の悪を成し遂げようとするのか。太甲の事績は、朕はすでに鑑みている。太甲は至賢の君主である。伊尹が三朝に仕えながら、功績に特筆すべきものがなかったので、顕祖(成湯)が委ね授けた功績を失うことを恐れ、日月の明を隠し、伊尹の廃位を受け入れた。それによって忠貞の美を成し遂げたのである。非凡な人でなければ、非凡な事を成し遂げられない。それは凡人の見るところではない。太伯が三たび天下を譲ったように、人々はその徳を称える言葉を持たない。」敷が言った。「太伯が三たび天下を譲ったことは、仲尼に至って初めてその至徳が顕わになった。太甲は天下から誹謗を受けたが、陛下に遭ってその美が明らかになった。」こうして談笑し詩を賦し、金帛を賜うことそれぞれ差があった。

原文又謂常忠曰:「伊尹、周公孰賢?」忠曰:「伊尹非有周公之親而功濟一代,太甲亂德,放于桐宮,思愆改善,然後復之。使主無怨言,臣無流謗,道存社稷,美溢來今,臣謂伊尹之勳有高周旦。」盛曰:「伊尹以舊臣之重,顯阿衡之任,太甲嗣位,君道未洽,不能竭忠輔導。而放黜桐宮,事同夷羿,何周公之可擬乎!」郎敷曰:「伊尹處人臣之位,不能匡制其君,恐成、湯之道墜而莫就,是以居之桐宮,與小人從事,使知稼穡之艱難,然後返之天位,此其忠也。」盛曰:「伊尹能廢而立之,何不能輔之以至於善乎?若太甲性同桀紂,則三載之間未應便成賢後,如其性本休明,義心易發,當務盡匡規之理以弼成君德,安有人臣幽主而據其位哉!且臣之事君,惟力是視,奈何挾智藏仁以成君惡!夫太甲之事,朕已鑒之矣。太甲,至賢之主也,以伊尹曆奉三朝,績無異稱,將失顯祖委授之功,故匿其日月之明,受伊尹之黜,所以濟其忠貞之美。夫非常之人,然後能立非常之事,非常人之所見也,亦猶太伯之三讓,人無德而稱焉。」敷曰:「太伯三以天下讓,至仲尼而後顯其至德。太甲受謗於天下,遭陛下乃申其美。」因而談宴賦詩,賜金帛各有差。

遼西太守の李朗は郡に十年間在任し、威勢をもって管内を統制していたが、慕容盛は彼を疑い、たびたび召還しても応じなかった。李朗は母が龍城にいるため、公然と反逆することはできず、ひそかに魏軍を引き入れ、自らの安全を図ろうとした。そこで表文を奉って賊を防ぐための出兵を請うた。慕容盛は「これは必ず偽りである」と言い、使者を召して詰問すると、果たしてその通りであった。李朗の一族をことごとく滅ぼし、輔国将軍の李旱に騎兵を率いて討伐させた。軍が建安に駐屯したとき、慕容盛は李旱を召し返した。李朗は家族が誅殺されたと聞き、三千余戸を擁して自らを固守した。李旱が途中で引き返したと聞くと、内部に変事があったと思い、もはや備えをせず、子の李養に令支を守らせ、自らは北平で魏軍を迎えようとした。李旱はこの情報を察知し、令支を急襲して陥落させ、広威将軍の孟広平に騎兵を率いて李朗を追撃させ、無終で追いついて斬った。初め、慕容盛が李旱を追い返したとき、群臣はその理由を知らなかった。李旱が李朗を斬った後、慕容盛は群臣に言った。「先に李旱を追い返したのは、まさにこのためであった。李朗は新たに叛逆したばかりで、必ずや官軍の威勢を恐れ、一つには同類を糾合して善良な民を略奪し、二つには山沢に逃亡してすぐには平定できないだろう。そこで意に反して軍を返し、彼の油断を誘い、不意に襲いかかれば、必ず勝てる道理である。」群臣は皆、「陛下の思慮には及びません」と言った。

原文遼西太守李郎在郡十年,威制境內,盛疑之,累征不赴。以母在龍城,未敢顯叛,乃陰引魏軍,將為自安之計,因表請發兵以距寇。盛曰:「此必詐也。」召其使而詰之,果驗,盡滅其族,遣輔國將軍李旱率騎討之。師次建安,召旱旋師。朗聞其家被誅也,擁三千餘戶以自固。及聞旱中路而還,謂有內變,不復為備,留其子養守令支,躬迎魏師于北平。旱候知之,襲克令支,遣廣威孟廣平率騎追朗,及於無終,斬之。初,盛之追旱還也,群臣莫知其故。旱既斬朗,盛謂群臣曰:「前以追旱還者,正為此耳。朗新為叛逆,必忌官威,一則鳩合同類,劫掠良善,二則亡竄山澤,未可卒平,故非意而還,以盈怠其志,卒然掩之,必克之理也。」群臣皆曰:「非所及也。」

李旱が遼西から帰還し、慕容盛が自分の部将の衛双を殺したと聞くと、恐れて軍を捨てて逃走した。その後、罪を認めて帰参し、爵位を回復した。慕容盛は侍中の孫勍に言った。「李旱は三軍の任を総べ、征伐の重責を担いながら、節を杖って敗退を防ぎ死守せず、理由もなく逃亡した。軍法に照らせば、赦されざる罪である。しかし先帝が難を避けられたとき、人々の心は離反し、骨肉は親を忘れ、股肱の臣は忠節を失った。李旱は刑罰を受けた身でありながら、力を尽くして命を捧げ、忠誠の心は極めて厚く、その誠意は白日を貫くほどであった。朕は彼が身を忘れて尽くした功績を記録し、山のような罪を免じたのである。」

原文李旱自遼西還,聞盛殺其將衛雙,懼,棄軍奔走。既而歸罪,復其爵位。盛謂侍中孫勍曰:「旱總三軍之任,荷專征之重,不能杖節死綏,無故逃亡,考之軍正,不赦之罪也。然當先帝之避難,眾情離貳,骨肉忘其親,股肱失忠節,旱以刑餘之體,效力盡命,忠款之至,精貫白日。朕故錄其忘身之功,免其丘山之罪耳。」

慕容盛は皇帝の号を廃し、庶人大王と称した。

原文盛去皇帝之號,稱庶人大王。

魏が幽州を襲撃し、刺史の盧溥を捕らえて去った。孟広平を派遣して救援させたが、間に合わなかった。

原文魏襲幽州,執刺史盧溥而去。遣孟廣平援之,無及。

慕容盛は三万の兵を率いて高句麗を討伐し、その新城・南蘇を襲撃して、いずれも陥落させた。蓄積物資を散逸させ、五千余戸を遼西に移住させた。

原文盛率眾三萬伐高句驪,襲其新城、南蘇,皆克之,散其積聚,徙其五千餘戶於遼西。

慕容盛は百官を東堂に引見し、その才能や技芸を詳しく試験し、特に優れた者十二人を抜擢した。諸官庁に命じて、世を補佐する才能のある文武の士をそれぞれ一人ずつ推薦させた。子の遼西公慕容定を太子に立て、死刑以下の罪を大赦した。新昌殿で群臣を宴し、慕容盛は言った。「卿らはそれぞれ自分の志を述べよ。朕はそれを見よう。」七兵尚書の丁信は十五歳で、慕容盛の母方の従兄弟の子であった。進み出て言った。「上に立って驕らず、高くても危うからず、これが臣の願いです。」慕容盛は笑って言った。「丁尚書は若いのに、どうして年長者のような言葉を言うのか。」慕容盛は威厳をもって臣下を統御し、驕慢で暴虐、親しみに欠け、猜疑心が多かったので、丁信はそのことを言及したのである。

原文盛引見百遼於東堂,考詳器藝,超拔者十有二人。命百司舉文武之士才堪佐世者各一人。立其子遼西公定為太子,大赦殊死已下。宴其群臣於新昌殿,盛曰:「諸卿各言其志,朕將覽之。」七兵尚書丁信年十五,盛之舅子也,進曰:「在上不驕,高而不危,臣之願也。」盛笑曰:「丁尚書年少,安得長者之言乎!」盛以威嚴馭下,驕暴少親,多所猜忌,故信言及之。

慕容盛は庫莫奚を討伐し、多くの捕虜と戦利品を得て帰還した。左将軍の慕容国と殿中将军の秦輿・段賛らが、禁兵を率いて慕容盛を襲撃しようと謀ったが、事が発覚し誅殺され、死者は五百余人に及んだ。前将軍・思悔侯の段璣、秦輿の子の秦興、段賛の子の段泰らは、人々の動揺する心に乗じて、夜、宮中で騒ぎ立て大声をあげた。慕容盛は変事を聞き、側近を率いて出戦し、賊衆は皆敗走した。やがて一人の賊が暗闇から慕容盛を撃ち傷つけた。慕容盛は輦に乗って前殿に昇り、禁衛の規律を定め、叔父の河間公慕容熙を呼び寄せて後事を託そうとした。慕容熙が到着する前に慕容盛は死去した。享年二十九、在位三年であった。偽の諡号を昭武皇帝、墓号を興平陵、廟号を中宗とした。

原文盛討庫莫奚,大虜獲而還。左將軍慕容國與殿中將軍秦輿、段贊等謀率禁兵襲盛,事覺,誅之,死者五百餘人。前將軍、思悔侯段璣、輿子興、贊子泰等,因眾心動搖,夜於禁中鼓躁大呼。盛聞變,率左右出戰,眾皆披潰。俄而有一賊從暗中擊傷盛,遂輦升前殿,申約禁衛,召叔父河間公熙屬以後事。熙未至而盛死,時年二十九,在位三年。偽諡昭武皇帝,墓號興平陵,廟號中宗。

慕容盛は幼少時から流浪の苦しみを味わい、成長してからは家に多くの難事に遭い、平穏と危険、安泰と艱難をことごとく経験した。慕容宝の暗愚で決断力のなさを戒めとして、機微に厳しく威刑を加え、わずかな嫌疑でも、未然に裁断し、兆しのうちに防ごうとした。このため上下は萎縮し、人は自ら安んじることができず、忠誠ある親戚でさえも皆心を離し、旧臣はことごとく滅ぼされた。残忍で親しみを顧みなかったため、ついに免れることができなかったのである。この年は隆安五年であった。

原文盛幼而羈賤流漂,長則遭家多難,夷險安危,備嘗之矣。懲寶暗而不斷,遂峻機威刑,織芥之嫌,莫不裁之於未萌,防之於未兆。於是上下振局,人不自安,雖忠誠親戚亦皆離貳,舊臣靡不夷滅,安忍無親,所以卒於不免。是歲隆安五年也。

慕容熙

原文慕容熙

慕容熙は字を道文といい、慕容垂の末子である。初め河間王に封ぜられた。段速骨の乱では、諸王の多くがその害を受けたが、慕容熙は平素から高陽王慕容崇に親愛されていたため、難を免れた。蘭汗が簒奪したとき、慕容熙を遼東りょうとう公とし、宗廟の祭祀を守らせた。慕容盛が即位すると、爵位を公に降格し、都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射に任じ、中領軍を兼ねた。高句麗・契丹征伐に従軍し、いずれも諸将の中で最も勇猛であった。慕容盛は言った。「叔父は雄大果断で英壮、世祖(慕容垂)の風格があるが、ただ大略の点では及ばない。」

原文熙字道文,垂之少子也。初封河間王。段速骨之難,諸王多被其害,熙素為高陽王崇所親愛,故得免焉。蘭汗之篡也,以熙為遼東公,備宗祀之義。盛初即位,降爵為公,拜都督中外諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射,領中領軍。從征高句驪、契丹,皆勇冠諸將。盛曰:「叔父雄果英壯,有世祖之風,但弘略不如耳。」

慕容盛が死ぬと、その太后丁氏は国に多くの難事があるため、年長の君主を立てるべきだと考えた。衆望は平原公慕容元にあったが、丁氏の意は慕容熙にあり、ついに太子慕容定を廃し、慕容熙を迎えて宮中に入れた。群臣が即位を勧めたが、慕容熙は慕容元に譲ろうとした。慕容元は固く慕容熙に譲ったので、慕容熙はついに帝位を僭称した。大臣の段璣・秦興らを誅殺し、三族ことごとく滅ぼした。慕容元は嫌疑を受けて死を賜った。慕容元は字を道光といい、慕容宝の第四子である。死刑以下の罪を赦し、元号を光始と改めた。北燕台を大単于台と改称し、左右輔を置き、その位は尚書の次とした。

原文及盛死,其太后丁氏以國多難,宜立長君。群望皆在平原西元,而丁氏意在於熙,遂廢太子定,迎熙入宮。群臣勸進,熙以讓元,元固以讓熙,熙遂僭即尊位。誅其大臣段璣、秦興等,並夷三族。元以嫌疑賜死。元字道光,寶之第四子也。赦殊死已下,改元曰光始,改北燕台為大單于台,置左右輔,位次尚書。

初め、慕容熙は丁氏と密通していたため、彼女に擁立された。後に苻貴人を寵愛するようになると、丁氏は怨み憎んで呪詛し、兄の子である七兵尚書の丁信と謀って慕容熙を廃そうとした。慕容熙はこれを聞いて大いに怒り、丁氏に自殺を迫り、太后の礼をもって葬り、丁信を誅殺した。

原文初,熙烝于丁氏,故為所立。及寵倖苻貴人,丁氏怨恚呪詛,與兄子七兵尚書信謀廢熙。熙聞之,大怒,逼丁氏令自殺,葬以後禮,誅丁信。

慕容熙が北原で狩猟をしていると、石城令の高和が司隸校尉の張顕を殺し、城門を閉ざして慕容熙を防いだ。慕容熙は騎兵を率いて急ぎ戻り、高和の兵士は皆武器を捨てたので、慕容熙は入城して高和を誅殺した。そこで州郡の長官および単于八部の古老を東宮に引見し、民の苦しみについて尋ねた。

原文熙狩于北原,石城令高和殺司隸校尉張顯,閉門距熙。熙率騎馳返,和眾皆投杖,熙入誅之。於是引見州郡及單于八部耆舊於東宮,問以疾苦。

大規模に龍騰苑を築造し、広さは十余里に及び、労役に動員された者は二万人であった。苑内に景雲山を築き、基壇の広さは五百歩、峰の高さは十七丈あった。また逍遥宮・甘露殿を建て、数百の部屋が連なり、楼閣が交錯した。天河渠を開鑿して水を宮中に引き入れた。またその昭儀苻氏のために曲光海・清涼池を開鑿した。夏の盛りの酷暑にもかかわらず、兵士たちは休息できず、熱中症で死ぬ者が大半を占めた。慕容熙が城南を遊猟し、大柳の木の下で休んでいると、まるで人が呼ぶような声がした。「大王、しばらくお止まりください。」慕容熙はこれを嫌い、その木を伐ると、長さ一丈余りの蛇が木の中から出てきた。

原文大築龍騰苑,廣袤十餘里,役徒二萬人。起景雲山于苑內,基廣五百步,峰高十七丈。又起逍遙宮、甘露殿,連房數百,觀閣相交。鑿天河渠,引水入宮。又為其昭儀苻氏鑿曲光海、清涼池。季夏盛暑,士卒不得休息,暍死者太半。熙游于城南,止大柳樹下,若有人呼曰:「大王且止。」熙惡之,伐其樹,乃有蛇長丈餘,從樹中而出。

その貴嬪苻氏を皇后に立て、死刑以下の罪を赦した。

原文立其貴嬪苻氏為皇后,赦殊死已下。

慕容熙は北進して契丹を襲撃し、これを大いに破った。

原文熙北襲契丹,大破之。

昭儀の苻氏が死ぬと、偽りの諡を湣皇后とした。苻謨に太宰を追贈し、諡を文獻公とした。二苻(苻氏とその姉妹か)はともに美しく艶やかで、微行して遊宴することを好んだが、熙はこれを禁じなかった。彼女たちの請謁は必ず聞き入れられ、刑罰や賞賜の大政は彼女たちを通さないものはなかった。初め、昭儀が病気になったとき、龍城の人王温が治療できると称したが、まもなく昭儀は死去した。熙は彼がでたらめだとして怒り、公車門に立って王温を車裂きの刑に処し、焼き殺した。その後、熙は遊猟を好み、苻氏もそれに従った。北は白鹿山に登り、東は青嶺を越え、南は滄海に臨み、百姓はこれを苦しみ、兵士で豺狼に害された者や凍死した者は五千余人に及んだ。ちょうど高句麗が燕郡を侵寇し、百余人を殺害・略奪した。熙は高句麗を討伐し、苻氏を従軍させ、衝車や地下道を用いて遼東を攻撃した。熙は言った。「賊の城を平定し終えたら、朕は皇后とともに輿に乗って入城する。将兵に先に登城させることは許さない。」そこで城内は厳重に守備され、攻めても陥落させることができなかった。ちょうど大雨雪に見舞われ、兵士の多くが死んだため、ついに引き返した。

原文昭儀苻氏死,偽諡湣皇后。贈苻謨太宰,諡文獻公。二苻並美而豔,好微行遊宴,熙弗之禁也。請謁必從,刑賞大政無不由之。初,昭儀有疾,龍城人王溫稱能療之,未幾而卒,熙忿其妄也,立於公車門支解溫而焚之。其後好游田,熙從之,北登白鹿山,東過青嶺,南臨滄海,百姓苦之,士卒為豺狼所害及凍死者五千餘人矣。會高句驪寇燕郡,殺略百餘人。熙伐高句驪,以苻氏從,為沖車地道以攻遼東。熙曰:「待剗平寇城,朕當與後乘輦而入,不聽將士先登。」於是城內嚴備,攻之不能下。會大雨雪,士卒多死,乃引歸。

鄴の鳳陽門を模して弘光門を作り、三段の階段を積み上げた。

原文擬鄴之鳳陽門,作弘光門,累級三層。

慕容熙は苻氏とともに契丹を襲撃したが、その軍勢の盛んなのを恐れて帰還しようとした。しかし苻氏が聞き入れず、ついに輜重を捨て、軽装で高句麗を急襲し、三千余里を巡行した。兵士と馬は疲弊し凍え、死者が道に連なった。木底城を攻撃したが、陥落させられずに帰還した。

原文熙與苻氏襲契丹,憚其眾盛,將還,苻氏弗聽,遂棄輜重,輕襲高句驪,周行三千餘里,士馬疲凍,死者屬路。攻木底城,不克而還。

慕容宝の諸子をことごとく殺害した。肥如と宿軍の城を大規模に増築し、仇尼倪を鎮東大将軍・営州刺史に任じて宿軍を鎮守させ、上庸公の慕容懿を鎮西将軍・幽州刺史に任じて令支を鎮守させ、尚書の劉木を鎮南大将軍・冀州刺史に任じて肥如を鎮守させた。

原文盡殺寶諸子。大城肥如及宿軍,以仇尼倪為鎮東大將軍、營州刺史,鎮宿軍,上庸公懿為鎮西將軍、幽州刺史,鎮令支;尚書劉木為鎮南大將軍、冀州刺史,鎮肥如。

苻氏のために承華殿を建てた。高さは承光殿の一倍で、北門から土を運び込んだため、土と穀物が同じ価格になった。典軍の杜静が棺を車に載せて宮門に赴き、上書して極諫した。熙は大いに怒り、彼を斬った。苻氏がかつて夏の盛りに冷たい魚の膾を欲しがり、冬の真っ只中に生の地黄を求めたことがあった。いずれも役所に厳しく責め立て、手に入らなければ、大辟(死刑)に処した。その暴虐ぶりはこのようなものであった。苻氏が死ぬと、熙は悲しみ号泣し、地を踏み鳴らして飛び跳ね、父母を亡くしたかのようであった。その屍を抱きしめて撫でながら言った。「体はすでに冷たくなり、命はついに絶えてしまった!」そこで気絶して倒れ、久しくしてようやく蘇生した。納棺が終わると、再び棺を開けて苻氏と交接した。斬縗の喪服を着て、粥を食べた。百官に命じて宮中で哭臨(喪に服して哭くこと)させ、沙門に素服を着させた。役人に哭く者を検査させ、涙がある者は忠孝とし、涙のない者は罪に問うた。そこで群臣は震え上がり、誰もが苦しみをこらえて涙を流した。慕容隆の妻の張氏は、熙の兄嫁であり、容姿が美しく、巧みな思慮があった。熙は彼女を苻氏の殉死者にしようとし、罪を着せて殺そうと考えた。そこで彼女の喪服の靴を破ると、中に古びた毛氈があったので、これを理由に賜死を命じた。三人の娘が叩頭して哀願したが、熙は許さなかった。公卿以下から百姓に至るまで、戸ごとに墓の造営に従事させ、費用は府庫の蓄えを尽くした。地下深くまで密閉し、周囲数里にわたり、内部には尚書八坐(尚書台の高官)の像を描かせた。熙は言った。「うまく造れ。朕はその後、この陵に入るのだ。」識者はこれを不吉だと考えた。右僕射の韋璆らは皆、殉死させられることを恐れ、沐浴して死を待った。苻氏の墓を征平陵と号した。熙は髪を振り乱し、はだしで徒歩し、苻氏の喪に従った。霊柩車が高く大きかったため、北門を破壊して出た。長老たちはひそかに互いに言った。「慕容氏自らその門を破壊した。長くはあるまい。」

原文為苻氏起承華殿,高承光一倍,負土於北門,土與穀同價。典軍杜靜載棺詣闕,上書極諫。熙大怒,斬之。苻氏嘗季夏思凍魚膾,仲冬須生地黃,皆下有司切責,不得,加以大辟,其虐也如此。苻氏死,熙悲號躃踴,若喪考妣,擁其屍而撫之曰:「體已就冷,命遂斷矣!」於是僵僕氣絕,久而乃蘇。大斂既訖,復啟其棺而與交接。服斬縗,食粥。制百僚于宮內哭臨,令沙門素服。使有司案檢哭者,有淚以為忠孝,無則罪之,於是群臣震懼,莫不含辛以為淚焉。慕容隆妻張氏,熙之嫂也,美姿容,有巧思。熙將以為苻氏之殉,欲以罪殺之,乃毀其禭靴,中有弊氈,遂賜死。三女叩頭求哀,熙不許。制公卿已下至於百姓,率戶營墓,費殫府藏。下錮三泉,周輸數里,內則圖畫尚書八坐之象。熙曰:「善為之,朕將隨後入此陵。」識者以為不祥。其右僕射韋璆等並懼為殉,沐浴而待死焉。號苻氏墓曰征平陵。熙被髮徒跣,步從苻氏喪。轜車高大,毀北門而出。長老竊相謂曰:「慕容氏自毀其門,將不久也。」

中衛将軍の馮跋と左衛将軍の張興は、以前に罪に坐して逃亡していたが、熙の政治が虐政であるため、馮跋の従兄の万泥ら二十二人と盟約を結び、慕容雲を主に推戴し、尚方の囚人五千余人を動員して城門を閉ざして守備した。中黄門の趙洛生が逃げ出してこれを告げると、熙は言った。「これは鼠のような盗賊に過ぎない。朕が戻れば誅殺する。」そこで鎧を着け、急いで難に赴いた。夜に龍城に到着し、北門を攻撃したが陥落せず、ついに敗北し、龍騰苑に逃げ込み、微服で林中に隠れたが、人に捕らえられた。雲は彼を得て弑し、その諸子とともに城北に埋葬した。時に二十三歳、在位六年であった。雲は彼を苻氏の墓に葬り、偽りの諡を昭文皇帝とした。

原文中衛將軍馮跋、左衛將軍張興,先皆坐事亡奔,以熙政之虐也,與跋從兄萬泥等二十二人結盟,推慕容雲為主,發尚方徒五千餘人閉門距守。中黃門趙洛生奔告之,熙曰:「此鼠盜耳,朕還當誅之。」乃收發貫甲,馳還赴難。夜至龍城,攻北門不克,遂敗,走入龍騰宛,微服隱于林中,為人所執,雲得而弑之,及其諸子同殯城北。時年二十三,在位六年。雲葬之於苻氏墓,偽諡昭文皇帝。

慕容垂が孝武帝の太元八年に僭称して即位し、熙に至るまで四代、合わせて二十四年、安帝の義熙三年に滅亡した。初め、童謡にこうあった。「一束の槁、両端燃ゆ、禿頭の小児来たりて燕を滅ぼす。」槁の字は上に草冠、下に禾のぎへんがあり、両端が燃えると禾と草がともに尽きて高の字となる。雲の父の名は抜、小字は禿頭であり、三人の子のうち雲が末子である。熙はついに雲に滅ぼされ、謡言の通りとなった。

原文垂以孝武帝太元八年僭立,至熙四世,凡二十四年,以安帝義熙三年滅。初,童謠曰:「一束槁,兩頭然,禿頭小兒來滅燕。」槁字上有草,下有禾,兩頭然則禾草俱盡而成高字。雲父名拔,小字禿頭,三子,而雲季也。熙竟為雲所滅,如謠言焉。

慕容雲

原文慕容雲

慕容雲は、字を子雨といい、慕容宝の養子である。祖父の和は、高句麗の支族であったが、自ら高陽氏の末裔であると称したため、高を氏とした。雲は沈着深遠で度量があり、重厚で言葉少なく、当時の人は皆、愚かだと思ったが、馮跋だけはその志操と器量を非凡だとして友とした。宝が太子であったとき、雲は武芸をもって東宮に仕え、侍御郎に任じられ、慕容会の軍を襲撃して破った。宝は彼を子とし、慕容の姓を賜い、夕陽公に封じた。

原文慕容雲,字子雨,寶之養子也。祖父和,高句驪之支庶,自雲高陽氏之苗裔,故以高為氏焉。雲沈深有局量,厚重希言,時人咸以為愚,唯馮跋奇其志度而友之。寶之為太子,雲以武藝給事侍東宮,拜侍御郎,襲敗慕容會軍。寶子之,賜姓慕容氏,封夕陽公。

熙が苻氏を葬ったとき、馮跋が雲のもとを訪れ、計画を告げた。雲は恐れて言った。「私は長年病気を患っている。卿らも知っている通りだ。どうか他の者を図ってほしい。」馮跋が迫って言った。「慕容氏の世は衰え、河間王(慕容熙)は虐暴で、妖艶な女に惑わされて天の常道に逆らい、百姓はその害に耐えられず、乱を思う者は十軒に九軒です。これは天が彼を滅ぼす時です。公は高氏の名家のご出身です。どうして他人の養子などでいられましょうか!機運はなかなか訪れません。千年に一度の時です。公はどうして辞退なさるのですか!」そして彼を支えて外に出した。雲は言った。「私は長く病苦に悩まされ、世の務めを絶ってきました。卿が今、大事を興そうとし、誤って私を推戴し迫るのです。私が躊躇するのは、身のためではなく、実に私の徳の至らなさが万民を救うに足りないからです。」馮跋らが強く勧めたので、雲はついに天王の位に即き、姓を高に復し、境内で殊死以下の罪人を大赦し、元号を正始と改め、国号を大燕とした。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・録尚書事・武邑公に任命し、伯・子・男、郷侯・亭侯に封じられた者は五十余人、兵士には穀物や絹帛を差等をつけて賜った。熙の旧臣たちには、その爵位を回復させた。妻の李氏を天王后とし、子の彭を太子に立てた。越騎校尉の慕輿良が謀反を企てたが、雲はこれを誅殺した。

原文熙之葬苻氏也,馮跋詣雲,告之以謀。雲懼曰:「吾嬰疾歷年,卿等所知,願更圖之。」跋逼曰:「慕容氏世衰,河間虐暴,惑妖淫之女而逆亂天常,百姓不堪其害,思亂者十室九焉,此天亡之時也。公自高氏名家,何能為他養子!機運難邀,千歲一時,公焉得辭也!」扶之而出。雲曰:「吾疾苦日久,廢絕世務。卿今興建大事,謬見推逼。所以徘徊,非為身也,實惟否德不足以濟元元故耳。」跋等強之,雲遂即天王位,復姓高氏,大赦境內殊死以下,改元曰正始,國號大燕。署馮跋侍中、都督中外諸軍事、征北大將軍、開府儀同三司、錄尚書事、武邑公,封伯、子、男,鄉、亭侯者五十餘人,士卒賜穀帛有差。熙之群官,復其爵位。立妻李氏為天王後,子彭為太子。越騎校尉慕輿良謀叛,雲誅之。

雲が東堂に臨んでいるとき、寵臣の離班と桃仁が剣を懐に紙を持って入り、啓上することがあると称して、剣を抜いて雲を撃った。雲は机で離班を防いだが、桃仁が進み出て雲を弑した。馮跋は雲の遺体を東宮に移し、偽りの諡を恵懿皇帝とした。雲は自ら功徳がなく、豪傑たちに推戴されたことを常に内心恐れていたため、壮士を寵愛して養い、腹心としていた。離班と桃仁らはともに禁衛を専管し、爪牙の任を委ねられ、賞賜は月に数千万に及び、衣食や起居をともにしたが、ついにこれが原因で敗れたのである。

原文雲臨東堂,幸臣離班、桃仁懷劍執紙而入,稱有所啟,拔劍擊雲,雲以幾距班,桃仁進而弑之。馮跋遷雲屍於東宮,偽諡惠懿皇帝。雲自以無功德而為豪桀所推,常內懷懼,故寵養壯士以為腹心。離班、桃仁等並專典禁衛,委之以爪牙之任,賞賜月至數千萬,衣食臥起皆與之同,終以此致敗雲。

史評

原文史評

史臣が言う。四星が東に集まり、金陵の気はすでに分かれた。五馬が南に浮かび、玉塞の雄はまさに乱れた。市朝はたびたび改まり、艱難と憂いは絶えることがない。慕容垂は天賦の英傑であり、威は本朝を震わせたが、雄略をもって猜疑を受け、寛政のもとに身を庇った。永固(苻堅)は礼をもってこれを受け入れ、道明(慕容恪)は力を尽くしてこれに仕えた。しかし、隼のような性質は束縛し難く、狼のような心は自ら野に放たれた。淮南で軍律を失い、三甥(慕容暐、慕容泓、慕容沖)の謀略がすでに構えられた。河朔で軍を分け、五木の祥瑞が啓示した。飛龍を斬って遠くに挙兵し、石門を越えて長駆し、ついに翟氏を従えさせ、鄴の軍を夜逃げさせ、趙・魏を収め集め、英雄を駆り立てた。袋の中の残った奇策を叩き、河曲で五万の軍を打ち破った。船を浮かべる秘策をもって、黎陽で七郡を招いた。遼陰の旧領を回復し、中山に新たな社稷を創始し、天帝を祀り先祖を祭ることに類し、僭称して天子の礼を備えた。重耳が晋に帰国したのは五臣の功績に頼り、句践が呉を欺いたのは五千の兵卒を頼りとした。どうして、業績が二つの覇者と異なり、兵衆が一旅(五百人)にも満たない者が、引き抜いて山岳を傾け、咆哮して風雲を駆り立てることがあろうか。衛の人が滅亡を忘れて東国に再び伝えられたことや、任好(秦の穆公)の余裕が西隣に恥じ入らせたことと比べても、確かに苻氏の奸回(邪悪で曲がった行い)は、晋室を脅かす鯨鯢(巨大な悪魚、大悪人)ではなかった。

原文史臣曰:四星東聚,金陵之氣已分;五馬南浮,玉塞之雄方擾。市朝屢改,艱虞靡息。慕容垂天資英傑,威震本朝,以雄略見猜而庇身寬政,永固受之而以禮,道明事之而畢力。然而隼質難羈,狼心自野。淮南失律,三甥之謀已構;河朔分麾,五木之祥雲啟。斬飛龍而遐舉,逾石門而長邁,遂使翟氏景從,鄴師宵逸,收羅趙、魏,驅駕英雄。叩囊餘奇,摧五萬于河曲;浮船秘策,招七郡于黎陽。返遼陰之舊物,創中山之新社,類帝禋宗,僭擬斯備。夫以重耳歸晉,賴五臣之功;句踐紿吳,資五千之卒。惡有業殊二霸,眾微一旅,掎拔而傾山嶽,騰嘯而禦風雲!雖衛人忘亡復傳于東國,任好余裕伊愧於西鄰,信苻氏之奸回,非晉室之鯨鯢矣。

慕容宝は虚誉によって昇進し、峻烈な法令で世を治めようとしたが、内では蕭牆(朝廷内部)に憤りが生じ、外では強敵が侵攻した。毒は他者に及ばなかったが、悪は自らを滅ぼすのに十分であった。慕容盛は孝友の徳が暗黙のうちに符節に合い、文武の道を失わず、光を隠して仇敵を平定し、自らを責めて高位を退き、軽やかに濁世における優れた虜(異民族の君主)であった。慕容熙は地勢が主君にふさわしくなく、挙兵は淫徳によるものであった。驪戎の美女のような姿態で、寝台の上で悦びを取った。玄妻(黒髪の美女)のような容姿で、豊かな黒髪にその美しさを見せた。曲光の海に軽舟を漂わせ、景雲の山に朝の渡河を望み、驕った心で土木を飾り立て、小さな土地で怨嗟を極め、宗廟の祭祀は滅び、馮氏(北燕の馮跋)の駆逐する対象となった。

原文寶以浮譽獲升,峻文禦俗,蕭牆內憤,勍敵外陵,雖毒不被物而惡足自剿。盛則孝友冥符,文武不墜,韜光而夷仇賊,罪己而遜高危,翩翩然濁世之佳虜矣。熙乃地非奧主,舉因淫德。驪戎之態,取悅于匡床;玄妻之姿,見奇於鬒發。蕩輕舟于曲光之海,望朝涉于景雲之山,飾土木於驕心,窮怨嗟於蕞壤,宗祀夷滅,為馮氏之驅除焉。