巻一百九 載記第九
慕容皝
慕容皝は、 字 を元真といい、慕容廆の第三子である。龍のような顔に板状の歯を持ち、身長は七尺八寸あった。雄大で剛毅、権謀術数に長け、経学を尊び、天文に通じていた。慕容廁が 遼東 公となった時、世子に立てられた。建武の初め、冠軍将軍・左賢王に任じられ、望平侯に封ぜられ、軍を率いて征討に当たり、功績を重ねた。太寧の末、平北将軍に任じられ、朝鮮公に進封された。慕容廆が没すると、その地位を嗣ぎ、平北将軍のまま平州 刺史 を代行し、部内を統轄した。まもなく宇文乞得龜がその別部の逸豆帰に追い払われ、外で死んだので、慕容皝は騎兵を率いて討伐に向かった。逸豆帰は恐れて和睦を請い、そこで榆陰・安晋の二城を築いて帰還した。
初め、慕容皝の庶兄で建威将軍の慕容翰は勇猛で武略に優れ、雄才を有していたが、平素から慕容皝に忌まれていた。同母弟の征虜将軍慕容仁と広武将軍慕容昭はともに慕容廆の寵愛を受けていたが、慕容皝も彼らを快く思っていなかった。慕容廆が没すると、彼らは皆、身の危険を感じた。この時、慕容翰は段遼の下へ出奔し、慕容仁は慕容昭をそそのかして兵を挙げ慕容皝を廃立させようとした。慕容皝は慕容昭を殺し、使者を派遣して慕容仁の実情を調査させたが、険瀆で慕容仁と遭遇した。慕容仁は事が露見したと知り、慕容皝の使者を殺し、東へ向かい平郭に帰った。慕容皝は弟の建武将軍慕容幼と司馬の佟寿らを派遣して討伐させた。慕容仁は全軍を挙げて防戦し、慕容幼らは大敗し、全員慕容仁の捕虜となった。襄平県令の王冰と将軍の孫機は遼東で慕容皝に背き、東夷 校尉 の封抽、護軍の乙逸、遼東相の韓矯、玄菟太守の高詡らは城を捨てて逃げ帰った。慕容仁はこうして遼左の地をことごとく手中に収め、自ら車騎将軍・平州 刺史 ・遼東公を称した。宇文帰、段遼および鮮卑諸部は皆、彼を支援した。
咸和九年、慕容皝はその司馬の封弈を派遣して白狼で鮮卑の木堤を攻撃し、揚威将軍の淑虞を派遣して平岡で烏丸の悉羅侯を攻撃し、いずれもこれを斬った。材官の劉佩が乙連を攻撃したが、陥落させられなかった。段遼は徒河を侵寇し、慕容皝の将軍張萌が迎撃してこれを破った。段遼の弟の段蘭と慕容翰が柳城を侵寇すると、都尉の石琮がこれを撃破した。十余日後、段蘭と慕容翰は再び柳城を包囲したので、慕容皝は寧遠将軍の慕容汗と封弈らを派遣して救援させた。慕容皝は慕容汗に戒めて言った。「賊軍の士気は鋭く、正面から戦うのは難しい。万全を期すべきであり、軽率に進軍してはならない。必ず兵が集まり陣が整ってから、攻撃せよ。」慕容汗は勇猛で気性が激しく、千余騎を前鋒として進軍させた。封弈が止めたが、慕容汗は聞き入れず、段蘭に敗れ、死者は大半に及んだ。段蘭は再び柳城を攻め、飛梯や地道を用い、二十日間包囲して守ったが、石琮自ら将士を率いて出撃し、これを破り、千五百級を斬首したので、段蘭はようやく逃げ帰った。
この年、成帝は謁者の徐孟、閭丘幸らを派遣し、節を持たせて慕容皝を鎮軍大将軍・平州 刺史 ・大単于・遼東公に任じ、節・ 都督 ・承制による封拜の権限を、慕容廆の先例の通りに与えた。
慕容皝は自ら遼東を征伐し、襄平を陥落させた。慕容仁が任命した居就県令の劉程が城を挙げて降伏し、新昌の張衡が県宰を捕らえて降伏した。そこで慕容皝は慕容仁が置いた守宰を斬り、遼東の大姓を棘城に分けて移住させ、和陽・武次・西楽の三県を設置して帰還した。
咸康の初め、封弈を派遣して宇文部の別部の涉奕于を襲撃させ、多くの捕虜と戦利品を得て帰還した。涉奕于は騎兵を率いて渾水で追撃戦を挑んだが、またも敗れた。慕容皝が海路で慕容仁を討とうとすると、臣下たちは皆、海路は危険で不確実であるから陸路を用いるべきだと諫めた。慕容皝は言った。「かつて海水は凍結しなかったが、慕容仁が反乱して以来、三度も凍結した。昔、漢の光武帝は滹沱河の氷を利用して大業を成し遂げた。天はあるいは我にこの機会を利用させようとしているのではないか! 我が決断は固まった。計画を阻む者は斬る!」そこで三軍を率いて昌黎から氷上を踏んで進軍した。慕容仁は慕容皝の到来を予期しておらず、軍が平郭から七里の地点に迫ってから斥候騎兵が報告したため、慕容仁は慌てふためいて出戦し、慕容皝に捕らえられ、慕容仁は殺されて慕容皝は帰還した。
朝陽門の東に藉田を設け、役所を置いてこれを管理させた。
段遼は将軍の李詠を派遣して夜襲で武興を襲ったが、雨に遭い、引き揚げようとしたところを、都尉の張萌が追撃して李詠を生け捕りにした。段蘭は数万の兵を擁して曲水亭に駐屯し、柳城を攻めようとし、宇文帰は安晋を侵寇して、段蘭の援護とした。慕容皝は歩騎五万でこれを撃ち、軍を柳城に駐留させると、段蘭と宇文帰はともに逃げ去った。封弈に軽騎を率いて追撃させ、これを破り、その軍需物資を接収し、二十日間現地で食糧を調達して帰還した。慕容皝は諸将に言った。「二つの敵は功績なくして帰還することを恥じ、必ず再び大軍で来襲するだろう。柳城の付近に伏兵を設けて待ち受けるべきである。」封弈に騎兵を率いさせて馬児山の各道に潜ませた。間もなく段遼の騎兵が果たして到来し、封弈が挟撃して大破し、その将軍の栄保を斬った。兼長史の劉斌と郎中令の陽景を派遣して徐孟らを京師に送還させた。その世子の慕容俊に段遼の諸城を攻撃させ、封弈に宇文部の別部を攻撃させ、いずれも大勝して帰還した。
諫言を受け入れるための木(謗木)を立てて、直言の道を開いた。
後に昌黎郡に移り、乙連の東に好城を築き、将軍の蘭勃に守備させて、乙連を威圧した。また曲水に城を築き、蘭勃の援護とした。乙連はひどく飢えていたが、段遼が食糧を送ろうとしたのを、蘭勃が要撃して奪い取った。段遼は将軍の屈雲を派遣して興国を攻撃させたが、慕容皝の将軍の慕容遵と五官水上で大戦し、屈雲は敗れて斬られ、その兵士はすべて捕虜となった。
封弈らは、慕容皝の責任が重く地位が軽いとして、燕王を称すべきだと進言した。慕容皝はそこで咸康三年に王位を僭称し、境内で大赦を行った。封弈を国相とし、韓寿を司馬とし、裴開、陽騖、王寓、李洪、杜群、宋該、劉瞻、石琮、皇甫真、陽協、宋晃、平熙、張泓らを並べて列卿や将帥とした。文昌殿を建て、金根車に乗り、六頭立ての馬車を用い、出入りの際には警蹕を称した。その妻の段氏を王后とし、世子の慕容俊を太子とし、いずれも魏の武帝(曹操)や晋の文帝( 司馬昭 )が輔政した故事に倣った。
慕容皝は段遼がたびたび辺境の脅威となるため、将軍の宋回を派遣して 石季龍 ( 石虎 )に臣従を称させ、段遼討伐の援軍を請うた。石季龍はそこで大軍を率いて到来した。慕容皝は諸軍を率いて段遼の令支以北の諸城を攻撃し、段遼はその将軍の段蘭を派遣して防がせたが、大戦してこれを破り、数千級を斬首し、五千余戸を略奪して帰還した。石季龍が徐無に到着すると、段遼は密雲山に逃げ込んだ。石季龍は令支に入り、慕容皝が合流しなかったことに怒り、進軍して慕容皝を攻撃し、棘城にまで至った。兵士数十万で四方から進攻し、郡県諸部で石季龍に呼応して叛いたのは三十六城に及んだ。十日余り対峙した後、側近たちは慕容皝に降伏を勧めた。慕容皝は言った。「孤は天下を取ろうとしているのに、どうして人に降ることがあろうか!」子の 慕容恪 らに二千騎を率いさせて、早朝に出撃させた。石季龍の諸軍は驚き慌て、鎧を脱ぎ捨てて逃げた。慕容恪は勝ちに乗じて追撃し、三万余級を斬り捕り、凡城に守備の砦を築いて帰還した。段遼は使者を派遣して石季龍に偽って降伏し、兵を派遣して迎えを請うた。石季龍はその将軍の麻秋に軍勢を率いさせて段遼を迎えさせたが、慕容恪は精騎七千を密雲山に伏せておき、これを大破し、その司馬の陽裕と将軍の鮮于亮を捕らえ、段遼とその部衆を擁して帰還した。
帝はまた使者を派遣して慕容皝を征北大将軍・幽州牧に進め、平州 刺史 を兼任させ、 散騎常侍 を加え、封邑一万戸を増やし、持節・ 都督 ・単于・公の地位は従前の通りとした。
慕容皝の前軍の将帥である慕容評が遼西において季龍の将石成らを破り、その将である呼延晃と張支を斬り、千戸余りを略奪して帰還した。段遼が謀反を企てたので、慕容皝は彼を誅殺した。
季龍はまた石成を派遣して凡城を攻撃させたが、陥落させることができず、進んで広城を陥落させた。慕容皝は燕王と称していたが、朝廷からの正式な任命がなかったため、長史の劉祥を派遣して京師に戦勝の報告を献上し、同時に仮の称号を用いている意図を説明し、さらに大規模な討伐を行って中原を平定することを請願した。また 庾亮 が死去し、その弟の 庾冰 と 庾翼 が将相を継いだと聞き、上表して言った。
臣が詳しく前代の暗愚と明君の主を観察しますに、もし親族と賢臣をともに登用できれば、功績は太平をもたらします。もし親族や后族に偏れば、必ずや傾覆と屈辱の禍いがあります。このため周の申伯は賢い舅と称えられましたが、それは彼自身が外に藩屏としており、朝廷の権力を握らなかったからです。下って秦の昭王に至れば、立派な君主と言えるものでしたが、二人の舅を信頼して任せたため、ほとんど国を乱すところでした。漢の武帝に至っては、田蚡を推重し、万機の要務はすべて彼が決断しました。そして田蚡が死んだ後、歯ぎしりして悔やみました。成帝は暗愚で弱く、自立できず、内では艶妻に惑わされ、外では五人の舅に勝手気ままにさせ、ついに王莽に帝位を坐して取らせてしまいました。このような事柄を読むたびに、誰が痛惜しないでしょうか。仮に舅氏が穣侯や王鳳のように賢明であれば、ただ二人の臣下がいるとは聞きますが、二人の君主がいるとは聞きません。もし才能がなければ、竇憲や梁冀のような禍いがあります。凡そこれらの成功と失敗は、すでに明らかです。もし軌道を改めることができれば、覆滅を免れることができます。
陛下は世に優れた天賦の才をお持ちで、晋の道を隆盛にすべきですが、国難が多く遭い、深い憂いに満ち、過去のことを振り返れば、今なお心が焦がれる思いです。その原因を辿れば、実は故 司空 の庾亮が元舅としての尊い地位と強大な権勢を持ち、政務を裁断して臣下を軽んじ、辺境の将を侮辱したため、蘇峻と祖約に我慢ならない憤りを抱かせ、ついに国を敗亡させたことにあります。今に至っても太后は憤慨し、一朝にして崩御されました。もし 社稷 の神霊がなく、人も神も助けなければ、豺狼のような心は極まることでしょう。前事を忘れず、後事の戒めとすべきです。ところが 中書監 ・左将軍の庾冰らは内では枢機を執り、外では上将軍を擁し、兄弟が並んで列し、人臣として比類する者はいません。陛下は深く渭陽の情を厚くされていますが、庾冰らは自ら進んで身を引くべきです。臣は常々、世の主がもし舅氏を崇め顕彰したいのであれば、どうして藩国に封じ、その禄と賜物を豊かにし、その権勢と利益を制限して、上に偏った優遇がなく、下に私的な議論がないようにしないのでしょうか。このようにすれば、栄辱はどこから生じましょうか。噂や誹謗は何を理由に起こりましょうか。以前は庾亮一人だけで、以前から名声がありましたが、それでも世の変乱を招きました。まして今その地位にある者は、もともと聞こえがないのです。しかも人情は惑わされやすく、戸ごとに告げて理解させるのは難しい。たとえ陛下が彼らに対して私心がなくても、天下の人々で誰が私心がないと言うでしょうか。
臣と庾冰らとは官位が異なり、出処も懸け離れており、また国の親戚でもありますから、道理として喜んで従い、時勢に合わせるべきです。臣がひとりこのような逆らいの言葉を申し上げるのは、上は陛下のため、退いては庾冰らのためであり、苟も迎合する臣を憎み、坐して得失を見ているだけではいけないと思うからです。倒れているのに扶けなければ、どうしてあの補佐役が必要でしょうか。昔、徐福が霍氏に対する戒めを述べましたが、宣帝は従わず、ついに忠臣が逆賊の一族に変わってしまいました。まことに、審らかに考察せず、漸進的に防がなかったからです。臣が今申し上げることは、漸進を防ぐと言えるでしょう。ただ恐れるのは、陛下が臣の忠誠を理解されず、臣の計略を用いられず、事が過ぎ去った後、焦土と化した後に処することになることです。昔、王章と劉向が封事を上奏するたびに、王氏を指弾しなかったことはなく、そのため二人は死罪か刑罰に処されました。谷永と張禹は曖昧な態度で答えず、そのため身を保って苟も免れ、世から嘲笑されました。臣は異なる風俗の地にあり、上将軍の位にありますが、日夜ただ憂い、どのように報いるべきか分からず、ただ外では敵を殲滅し、内では忠言を尽くし、力を尽くして誠意を輸し、国の恩に報いることだけを考えています。臣が言わなければ、誰が言うべきでしょうか。
また庾冰に手紙を送って言った。
あなたは后族の親戚として、舅氏の近親として、枢機を総括し、王命を出し入れし、さらに列将や州司の地位を擁し、兄弟が網の目のように広がり、畿甸に顕著に分布しています。秦・漢以来、これほど隆盛で赫奕たることはあったでしょうか。私の見るところでは、もし功績を成し事を挙げれば、必ずや申伯のような名声を享受するでしょう。もし成し遂げられなければ、梁竇のような末路を免れないでしょう。
史伝を読むたびに、母族を寵愛して勝手気ままにさせ、権力を握らせて朝廷を乱させ、最初は世に並ぶもののない栄誉があっても、やがては身分不相応な負担を背負うことになり、いわゆる愛することがかえって害となることを見てきました。私は常々、歴代の君主が、萌芽のうちに防ぎ終わりまで寵愛を制する術を尽くさないことを憤ってきました。どうして一つの土地の封を与え、藩国として代々相続させ、周の斉や陳のようにしないのでしょうか。このようにすれば、永遠に南面の尊さを保ち、またどうして罷免や屈辱の憂いがあるでしょうか。竇武と何進は善を好み虚心でした。賢士は心を寄せ、宦官に危険にさらされましたが、天下は嘆き痛みました。それでもなお驕らずに行動し、国のために身を亡ぼすことを図ったからです。
今、四海には逆さに吊るされたような危急があり、中夏には逃亡した僭逆の賊がおり、家には血を流す怨みがあり、人には復讐の恨みがあります。どうして安らかに枕を高くして逍遥し、風雅な談義で一年を終えることができましょうか。私は徳が少ないながらも、過分にも先帝より列将の任を授かり、数郡の民衆をもって、なお強敵を併呑しようとしています。このため、最近から今に至るまで、交戦し刃を接し、一時は農業に務め、三時は武力を用いていますが、それでもなお軍勢は疲弊せず、倉には余剰の穀物があり、敵は日々恐れ、我が境は日々広がっています。ましてや王者の威光、堂々たる勢いにおいて、どうして同じ年に論じることができましょうか。
庾冰は上表文と手紙を見て非常に恐れ、慕容皝が遠く離れており制御できないと考え、何充らとともに慕容皝が燕王を称することを聞き入れるよう上奏した。
その年、慕容皝は高句麗を討伐し、王の釗が盟を乞うたので帰還した。翌年、釗はその世子を慕容皝のもとに朝貢させた。
初め、段遼が敗れた時、建威将軍の慕容翰は宇文帰のもとに奔った。自ら威名が以前から響いていたため、結局は身の安全が保てないと考え、狂人のふりをして酒に溺れ、髪を振り乱して歌い叫んだ。宇文帰は信じて禁じなかったため、慕容翰は自由に周遊することができ、山川の地形や要害、攻戦の要路に至るまで、熟知しないものはなかった。慕容皝は商人の王車を派遣して密かに慕容翰を観察させた。慕容翰は王車を見ても何も言わず、ただ胸を撫でるだけだった。王車が戻って報告すると、慕容皝は「慕容翰は来たいのだ」と言い、王車を派遣して慕容翰に弓矢を贈った。慕容翰はそこで密かに駿馬を盗み、二人の子を連れて帰還した。
慕容皝は石氏を討伐しようと図り、ゆったりと諸将に言った。「石季龍は自ら安楽などの城の守備が厳重だと考え、城の南北には必ずや防備を設けていないだろう。今もし奇襲路から不意を突けば、冀州の北部はことごとく攻略できるだろう。」そこで騎兵二万を率いて蠮螉塞から出撃し、長駆して薊城に至り、進んで武遂津を渡り、高陽に入った。通過した地域で蓄積物を焼き払い、幽州・冀州の三万余戸を略奪して移住させた。
陽裕と唐柱らに龍城を築かせ、宮廟を構え、柳城を龍城県と改めた。そこで成帝は兼大鴻臚の郭希に節を持たせて派遣し、慕容皝を侍中・大 都督 河北諸軍事・大将軍・燕王に拝することを命じ、その他の官職は従前の通りとした。功臣百余人を封じた。
咸康七年、慕容皝は都を龍城に遷した。精鋭の兵士四万を率いて南陝から進入し、宇文部と高句麗を討伐し、また慕容翰と子の 慕容垂 を前鋒とし、長史の王寓らに一万五千の兵を率いさせ、北置から進軍させた。高句麗王の釗は、慕容皝の軍が北路から来ると考え、弟の武に精鋭五万を率いさせて北置を防がせ、自らは弱兵を率いて南陝を守備した。慕容翰は木底で釗と戦い、これを大破し、勝ちに乗じて丸都に入城した。釗は単騎で逃げた。慕容皝は釗の父の利の墓を掘り、その遺体と母・妻・珍宝を運び出し、男女五万余りを捕虜とし、その宮殿を焼き、丸都を破壊して帰還した。翌年、釗は使者を遣わして慕容皝に臣従を称し、その土地の産物を貢いだので、慕容皝はその父の遺体を返還した。
宇文帰はその国相の莫浅渾を遣わして慕容皝を討伐させた。諸将は出戦を請うたが、慕容皝は許さなかった。渾は慕容皝が自分を恐れていると思い、酒に溺れ狩猟にふけり、もはや守備を整えなかった。慕容皝は言った。「渾の奢りと油断は甚だしい。今こそ一戦できる時だ。」慕容翰に騎兵を率いてこれを撃たせた。渾は大敗し、ただ身一つで逃れるのみで、その兵士はすべて捕虜となった。
慕容皝は自ら郡県を巡視し、農桑を勧め励まし、龍城に宮殿を建てた。
まもなくまた騎兵二万を率いて自ら宇文帰を討伐し、慕容翰と慕容垂を前鋒とした。帰はその騎兵将の涉奕於に全軍を率いさせて慕容翰を防がせた。慕容皝は急使を走らせて慕容翰に言った。「奕於は雄悍である。少し避けるべきだ。敵の勢いが驕るのを待って、その後で討ち取れ。」慕容翰は言った。「帰の精鋭はすべてここにいる。今もしこれを打ち破れば、帰は兵を労せずして滅ぼすことができる。奕于は虚名を持つだけで、実は容易に対処できる相手です。敵を逃がして我が軍の士気を挫くべきではありません。」そこで進んで戦い、奕於を斬り、その兵士をすべて捕虜とした。帰は遠く漠北に逃れた。慕容皝は千里余りの土地を開拓し、その部族民五万余りの集落を昌黎に移住させ、涉奕於の城を威徳城と改称した。飲至の礼を行い、功績に応じて賞を賜うた。
牧牛を貧しい家に与え、苑中の土地を耕させ、収穫の八割を公が取り、二割を私有とした。牛はあるが土地のない者も、苑中の土地を耕させ、収穫の七割を公が取り、三割を私有とした。慕容皝の記室参軍の封裕が諫言した。
臣は聞く。聖王が国を治めるには、税を薄くして百姓に蓄えさせ、土地を三等に分け、十分の一を税とする。寒い者には衣服を与え、飢えた者には食物を与え、家々に十分なものがあり人々が満ち足りるようにする。水害や旱害があっても災害とならないのは、なぜか。農官を厳選し、勧農に努め、人が周制の田百畝を治め、牛の力も借りない。力農する者は表彰される賞を受け、怠惰な農民は軽蔑される罰を受ける。また、事柄に応じて官を置き、官に応じて人を置き、官が必ず必要に応じ、人が虚位に就かないようにし、歳入の多少を量って俸禄を定める。百官への供給のほかは、太倉に蓄え、三年の耕作で一年分の粟の余剰を生む。このように蓄積すれば、公の用途が不足することなどあろうか。水害や旱害が百姓に何の影響があろうか。農務を励ます命令がたびたび発せられても、二千石の令長たちには公務に志を励まし勤め、土地の利益を尽くそうとする者はなかった。故に漢の高祖はこの状況を知り、墾田が実態に伴わないことを理由に、二千石を十数人も征伐して誅殺した。それゆえ明帝・章帝の時代には、次なる昇平と称されたのである。
永嘉の喪乱以来、百姓は流亡し、中原は荒廃し、千里に炊煙なく、飢え寒さに倒れ、溝壑に相次いだ。先王は神武聖略をもって一方を保全し、威をもって奸を滅ぼし、徳をもって遠方を懐柔された。それゆえ九州の人々、塞外の異なる種族も、子を背負って万里を来たり、赤子が慈父に帰するがごとくであった。流入した民は旧土の十倍以上に及び、人口は多いが土地は狭く、故に田地を持たない者が十の四ほどいる。殿下は英聖の資質をもって、先人の業績を広げられ、南では強趙を打ち破り、東では句麗を滅ぼし、境を三千里開き、戸数を十万増やし、武王の功業を継ぎ広げられ、西伯(文王)よりも高い。諸苑を廃止して、流入した民に生業を与えるべきである。人が来て資産のない者には、牧牛を賜うべきだ。人はすでに殿下の民であり、牛を失うことなどあろうか。善く蓄える者は百姓に蓄えさせる、それだけのことである。近頃、楽土への期待に深く応えれば、中国の人々は皆、飲食物を捧げて迎え、石季龍(石虎)とともに住む者などいなくなるでしょう。かつて魏・晋は道が衰えた世であっても、百姓から取り立てるのはせいぜい七割・八割までで、官牛で官田を耕す者は官が六分、百姓が四分を得、私牛で官田を耕す者は官と折半した。百姓はこれに安んじ、人々は皆喜んだ。臣はそれでもなお明王の道ではないと言うのに、まして増税など論外である。また水害や旱害の厄は、堯や湯ですら免れなかった。王者は溝渠を浚渫整備し、鄭国・白公・西門豹・史起の灌漑の法に従い、旱魃の時は溝を決して雨とし、洪水の時は水を溝瀆に入れ、上には『雲漢』の詩のような憂いがなく、下には水没の災いがないようにすべきである。
句麗・百済および宇文部・段部の人々は、皆、兵勢によって移住させられたのであって、中国の民が慕義して来たのとは違い、皆、帰郷を思う心がある。今、戸数は十万に近づき、都城に密集している。恐らく将来、国家にとって大きな害となるであろう。その兄弟や宗族を分け、西境の諸城に移住させ、恩をもって撫で、法をもって取り締まり、住民の中に散らばって住むことを許さず、国の虚実を知らせないようにすべきである。
今、中原はまだ平定されておらず、資財と蓄えは広く豊かであるべきである。役所は雑多に多く、遊食する者も少なくない。一人の男が耕さなければ、一年分の飢えを被る。必ず耕す者から取って食うのであり、一人が一人分の力を食う。遊食する者が数万いれば、損害もそれに等しい。どうして家々に十分なものがあり人々が満ち足り、治世が昇平に至ることができようか。殿下は古今の事柄を多くご覧になってきた。政治の大きな禍患はこれに過ぎるものはない。経世の才を持ち、時世の要求に応える者は、必要に応じて列位に置けばよい。それ以外の者は、耕して食い、蚕を飼って衣とし、これも天の道理である。
殿下の聖性は寛大で明らかであり、忠言を渇望しておられる。それゆえ人々は皆、粗末な意見でも尽くし、犯顔して隠さない。以前、参軍の王憲と大夫の劉明はともに忠を尽くし誠意を献げ、至言を貢いだ。少々逆鱗に触れるところはあったが、その意は責められないところにある。主事の者が妖言犯上の罪で上奏し、法に照らして処断しようとしたが、殿下は慈愛弘く包容し、大辟の罪を許された。しかしなお官位を削り禁錮に処し、朝廷において軽蔑された。その言が正しければ、殿下は当然それを採用すべきである。もし正しくなければ、その狂狷さを理解すべきである。諫臣を罪して直言を求めるのは、北へ行って越を目指すようなもので、どうして得られようか。右長史の宋該らはへつらい苟も容れ、軽々しく諫士を弾劾し、自分には骨鯁の気骨がなく、他人がそれを持つことを嫉み、耳目を掩い隠す。これほど不忠なことはない。
四業(士農工商)は国家が頼るものであり、教学は国家の盛事である。戦いに習い農に務めることは、特にその根本である。百工と商賈は、その末である。軍国に必要な分を量り、その員数を定め、それ以外は農に帰すべきである。戦法を教え、学ぶ者が三年で成果がなければ、これも農に帰すべきであり、ただ大員を充填して、聡明俊才の道を塞ぐべきではない。
臣の言うことが正しければ、時を移さず速やかに施行されることを願う。正しくなければ、ただちに罪を加えて誅戮し、天下に朝廷が善に従うこと流れのごとく、悪を罰することを遅らせないことを知らしめるべきである。王憲と劉明は忠臣である。逆鱗に触れた過ちを許し、その薬石の効果を収められることを願う。
皝は布令を発して言った。「封記室の諫言を拝見し、孤はまことに恐れ入った。君主は民衆を以て国とし、民衆は穀物を以て命とする。それゆえ農耕は国の根本である。ところが二千石の令長らが孟春の政令に従わず、怠惰な農民を督励しない。特に農政を整えていない者は刑法で処罰し、管轄する城邑を厳しく戒めよ。主管官は詳細に調査し、状況を具申せ。苑囿はすべて廃止し、田地を持たぬ百姓に与えよ。貧しくて全く資産がなく、自活できない者には、それぞれ牧牛一頭を賜う。もし私的に余力があり、官牛を喜んで受け取り官田を開墾したい者は、魏・晋の旧法に従わせよ。溝渠による灌漑は官私ともに有益であるから、主管官は適宜造成し、水陸の地勢を十分に活用せよ。中原は未だ平定せず、戦乱は止まない。勲功を立てた者は多く、官僚を減らすことはできない。凶悪な敵を平定してから、徐々に議論しよう。百工・商賈の人員数は、四佐と列将が速やかに大員を定め、余った者は農業に戻せ。学生で教訓に堪えない者は、員数から除いて記録せよ。人臣が主君に直言することは、至難である。妖妄で道理に合わぬ事柄はすべて一掃して問わず、善いものを選んで従うべきだ。王憲・劉明はその罪により禁錮・罷免されるべきであったが、それもまた孤に大度量がなかったからだ。元の官職にすべて復帰させ、諫言の職に留め置け。封生(封裕)は忠直で、王臣の本分を深く心得ている。『詩経』に言わないか、『言葉には必ず応えがある』と。彼に銭五万を賜い、内外に明らかに布告せよ。孤の過ちを陳述したい者は、貴賤を問わず、遠慮なく申し出よ。」
その時、黒龍と白龍が一匹ずつ龍山に現れた。皝は自ら群臣を率いて観覧し、龍から二百歩余り離れた所で太牢の礼で祭祀を行った。二頭の龍は首を交えて戯れ飛び回り、角を解いて去った。皝は大いに喜び、宮殿に戻ると境内を赦免し、新宮を和龍と名付け、山上に龍翔仏寺を建立した。
大臣の子弟で官学生となった者に高門生の称号を与え、旧宮に東庠(学校)を設立して郷射の礼を行わせ、毎月自ら臨席して試験を行い優劣を定めた。皝は文籍を大いに好み、講義に勤しみ、学徒は非常に多く千余人に達した。自ら『太上章』を撰して『急就篇』に代え、また『典誡』十五篇を著して貴族の子弟を教えた。
慕容恪が高句麗の南蘇を攻撃し、これを陥落させて守備兵を置き帰還した。三年(347年)、世子の慕容俊と慕容恪に騎兵一万七千を率いさせて東進し夫余を襲撃させ、これを攻略し、その王と部衆五万余りを捕虜として連れ帰った。
皝は自ら東庠に臨んで学生を試験し、経書に通じ優れた者を近侍に抜擢した。長い旱魃のため、百姓の田租を免除した。成周・冀陽・営丘などの郡を廃止した。勃海の人々を興集県に、河間の人々を寧集県に、広平・魏郡の人々を興平県に、東萊・北海の人々を育黎県に、呉の人々を呉県に編入し、すべて燕国に隷属させた。
皝がかつて西の辺境で狩猟をしていた時、河を渡ろうとすると、一人の老人が朱衣を着て白馬に乗り、手を挙げて皝を招きながら言った。「ここは狩りの場所ではない。王はお帰りなさい。」皝はこのことを秘密にして言わず、河を渡り、連日大いに獲物を得た。後に白兎を見て、馬を走らせて射ようとしたところ、馬が倒れて負傷した。そこで見たことを話した。輿に乗って宮殿に戻り、慕容俊を呼んで後事を託した。永和四年(348年)に死去した。在位十五年、享年五十二歳。慕容俊が帝号を僭称した後、文明皇帝と追諡した。
慕容翰
慕容翰は、字を元邕といい、慕容廆の庶長子である。性格は雄大豪放で、権謀術数に長け、猿のように長い腕で弓射に巧み、膂力は人並み外れていた。廆は彼を非常に珍重し、折衝(外交・防衛)の任を委ねた。軍を率いて征伐に出れば、その都度功績を挙げ、威名は大いに振るい、遠近に恐れられた。遼東を鎮守すると、高句麗は寇掠を敢えてしなかった。人々を手厚くもてなし接遇し、儒学を愛好し、士大夫から兵卒に至るまで、喜んで彼に従った。
段遼の下に奔った後、段遼から深く敬愛された。柳城での敗戦後、段蘭が勝ちに乗じて深く侵入しようとした時、慕容翰は自国の害になると憂慮し、段蘭を巧みに説得したので、段蘭は進軍しなかった。後に石季龍(石虎)が段遼を征討した時、慕容皝が自ら三軍を率いて令支以北を攻略した。段遼は追撃を議論したが、慕容翰は皝が自ら軍を統率していることを知り、戦えば必ず勝利すると考え、段遼に言った。「今、石氏の軍が迫ってきており、まさに大敵に対処すべき時です。些細なことに手を出すべきではありません。燕王が自ら来ており、兵馬は精鋭です。兵は凶器であり、戦いには危険が伴います。もし敗北したら、どうして南を防衛できましょうか。」段蘭は怒って言った。「私は以前、あなたの欺瞞的な言葉を聞き入れ、今の禍いを招いた。もうあなたの計略には乗らない。」そして軍勢を率いて慕容皝を追撃し、段蘭は果たして大敗した。慕容翰は仇敵の国に身を置きながらも、事に応じて忠誠を立てたのは、皆このようなことであった。
段遼が敗走した後、慕容翰はさらに北の宇文帰に身を寄せた。やがて逃亡すると、宇文帰は精鋭の騎兵百余りを派遣して追わせた。慕容翰は遠くから追手に言った。「私は故郷を思い帰ってきたのだから、道理として再び背くことはない。私の弓矢の腕前は、お前たちもよく知っているだろう。無理に迫って自ら死を招くことはない。私はお前たちの国に長くいたが、お前たちを殺せなかったことを恨んでいた。お前たちは百歩の距離に刀を立てよ。私が射当てたら、お前たちは引き返すがよい。当たらなければ、前に進んで来い。」宇文帰の騎兵は刀を解いて立てた。慕容翰は一発で刀の鐶(環)に命中させたので、追撃の騎兵は散り散りになった。
帰還すると、慕容皝は大いに恩礼を加えた。建元二年(344年)、慕容皝に従って宇文帰を討伐した時、戦陣で流れ矢に当たり、長く病床に伏した。後に病気が次第に快方に向かったが、自宅で馬に乗って試したところ、ある者が慕容翰が密かに乗馬の練習をしていると告げ、不穏な動きを疑った。慕容皝はもともと彼を忌み嫌っていたので、ついに死を賜った。慕容翰は死に臨んで使者に言った。「翰は疑いを抱いて国外に奔ったのだから、罪は誅殺に値する。骸骨を賊の朝廷に委ねることはできず、故に有司の罪に帰したのだ。天子の慈愛が曲げて哀れみ、市朝で処刑しなかった。今日の死は、翰にとって生きることである。ただ逆胡が神州を跨いで占拠し、中原は未だ平定されていない。翰は常に心に誓い、醜い虜を滅ぼし、上は先王の遺志を成就し、下は山海の責め(国境防衛の責務)に報いようとしていた。この志が遂げられず、死してなお恨みが残るとは、これも運命である。どうしようもない。」仰いで毒を飲んで死んだ。
陽裕
陽裕は、字を士倫といい、右北平郡無終県の人である。幼くして孤児となり、兄弟も皆早く亡くなった。孤独で独り立ちし、宗族の中にも彼を理解できる者はおらず、ただ叔父の陽耽だけが幼少時から彼を非凡と認め、「この子はわが家門の秀才であるだけでなく、時勢を補佐する良材である」と言った。 刺史 の和演が彼を 主簿 に招聘した。王浚が州を統領すると、治中従事に転任したが、王浚は彼を忌み嫌って重任しなかった。
石勒 が薊城を攻略した後、棗嵩に尋ねた。「幽州の人士で、誰が最も優れているか。」嵩は答えた。「燕国の劉翰は、徳行の篤い長老です。北平の陽裕は、事を成す才能の持ち主です。」 石勒 が言った。「もし君の言う通りなら、王公(王浚)はなぜ任用しなかったのか。」嵩は答えた。「王公は任用できなかったからこそ、明公に捕らえられたのです。」 石勒 がちょうど彼を任用しようとした時、陽裕は変装して密かに逃亡した。
その時、鮮卑単于の段眷が晋の驃騎大将軍・遼西公となっており、人物を大いに好み、虚心に陽裕を招いた。陽裕は友人である成泮に言った。「孔子は仏肸の招聘を喜び、瓢箪に自らを喩えた。伊尹もまた、『何を以て君とせざる、何を以て民とせざる』と言った。聖賢でさえこのようなのだから、まして我々のような者であろうか。段眷が今私を招くのは、むだではないだろう。」成泮は言った。「今、華夏は分裂し、九州は分断され、政令の及ぶ範囲は易水までに過ぎない。高慢に隠遁して、天下が通ずるのを待つのは、黄河の清むのを待つようなものだ。人の寿命はどれほどあろうか。古人は白駒の隙間(時間の短さ)を嘆いた。少遊(伏波将軍馬援の従弟)が言ったように、郡の役人でも子孫を庇えるのだから、まして国相であろうか。あなたは伊尹・孔子を追い求めているが、それもまた機微を知る神妙なところだ。」陽裕はこれに応じた。郎中令・中軍将軍に任じられ、上卿の地位にあった。段氏の五人の君主に仕え、非常に尊重された。
段遼が慕容皝と互いに攻撃し合ったとき、裕は諫めて言った。「臣は聞きます。親しく仁を施し隣国と善くすることは、国の宝であります。慕容氏は我が国と代々婚姻を結び、しかも皝は徳のある君主です。兵を連ねて怨みを構え、民衆を疲弊させるべきではありません。臣は恐れますが、禍害の起こるのは、ここから始まるでしょう。どうか両者が以前の過ちを悔い改め、以前のように友好関係を通じさせ、国家に泰山のような安泰をもたらし、民衆に重荷を下ろす恵みを受けさせてください。」段遼は従わなかった。裕は外任として燕郡太守となった。石季龍が令支を攻略すると、裕は郡を挙げて降伏し、北平太守に任じられ、 尚書 左丞に召された。
段遼が石季龍を迎えようと請願したとき、裕は左丞として征東将軍麻秋の司馬を兼ねた。麻秋が敗れると、裕は兵士に捕らえられ、慕容皝のもとに連行されようとした。皝はかねてから裕の名声を聞いていたので、すぐに囚われを解くよう命じ、郎中令に任じ、大將軍左司馬に昇進させた。東では高句麗を破り、北では宇文帰を滅ぼしたが、いずれも裕がその謀略に関与し、皝は彼を非常に重んじた。都を和龍に遷す際には、裕は優れた創意工夫を持ち、皝が築いた城壁や宮殿の門は、すべて裕の設計によるものであった。裕は皝に仕えてからの日が浅かったが、寵愛と地位は古参の臣下よりも上であり、性格は謙虚で恭しく清廉倹約、剛直で簡素、慈愛に篤く、朝廷の高位に歴任しても、まるで布衣の士のようであった。流浪し困窮した士大夫たちは、裕が必ず手配して葬儀を行い、孤児や遺族を慰め救済したので、士人は賢愚を問わず皆身を尽くして彼をもてなした。そのため、裕のいる所では皆が推戴し敬仰した。
かつて、范陽の盧諶がしばしば彼を称えて言った。「私は晋の清平の世に至り、朝廷の士人を多く見てきたが、忠義清廉で簡潔剛毅、信義に篤く節烈な者で、陽士倫(陽裕)のような人物は、実はあまりいない。」裕が死ぬと、皝は深く悼み、その時裕は六十二歳であった。