しん

巻一百五 載記第五

石勒 せきろく

太興二年、 石勒 せきろく は偽って趙王を称し、殊死以下の罪を赦し、百姓の田租を半減させ、孝悌・力田・死義の孤児にそれぞれ差等をつけて帛を賜い、孤老・鰥寡には一人あたり穀物三石を与え、大酺を七日間行った。春秋時代の列国や漢初の侯王が代ごとに元号を称した故事に倣い、趙王元年と改称した。 社稷 しゃしょく を初めて建て、宗廟を立て、東西の宮殿を営んだ。従事中郎の裴憲・参軍の傅暢・杜嘏に経学祭酒を兼任させ、参軍の続咸・庾景を律学祭酒とし、任播・崔濬を史学祭酒とした。中壘の支雄・遊撃の王陽に門臣祭酒を兼任させ、もっぱら胡人の訴訟を明らかにさせ、張離・張良・劉群・劉謨らを門生主書とし、胡人の出入りを司り典拠とし、その禁令を重んじて、衣冠華族を侮辱軽視することを許さなかった。胡を国人と号した。使者を州郡に派遣して巡行させ、農桑を勧め課した。張賓を大執法に加え、もっぱら朝政を総括させ、その位は官僚の首位にあった。 石季龍 を単于元輔・ 都督 ととく 禁衛諸軍事とし、前将軍の李寒に司兵勳を兼任させ、国子に撃刺戦射の法を教えさせた。記室佐の明楷・程機に『上党国記』を撰述させ、中大夫の傅彪・賈蒲・江軌に『大将軍起居注』を撰述させ、参軍の石泰・石同・石謙・孔隆に『大単于志』を撰述させた。これより朝会では常に天子の礼楽を用いてその群下を饗応し、威儀冠冕は従容として見るに値するものであった。群臣が議論して功績を論ずることを請うたが、 石勒 せきろく は言った、「孤が軍を起こしてから、今に至るまで十六年になる。文武の将士で孤に従って征伐した者は、誰一人として矢石を蒙り、艱難辛苦をなめ尽くさなかった者はなく、その中でも葛陂の戦役では、その功績が特に顕著であったから、賞を与える優先順位とすべきである。もし本人が生存しているならば、爵位封禄の軽重は功績と地位に応じて差等をつけ、戦死した者の孤児には、賞を一等加える。これでようやく生きている者と死んだ者を慰め答え、孤の心を表明することができよう」。また、国人が兄嫁を娶ることや喪中に婚娶することを禁ずる 詔 書を下し、その焼葬の令は本来の習俗に従わせた。

孔萇が邵続の別営十一ヶ所を攻撃し、すべて陥落させた。邵続はまもなく石季龍に捕らえられ、襄国に送られた。 劉曜 りゅうよう の部将尹安・宋始が 洛陽 を占拠し、 石勒 せきろく に降伏した。

しん の徐州 刺史 しし 蔡豹が檀丘で徐龕を破った。徐龕は使者を 石勒 せきろく のもとに派遣し、蔡豹を討つ計略を述べた。 石勒 せきろく は部将の王歩都を徐龕の先鋒とし、張敬に騎兵を率いて続かせた。張敬が東平に到着すると、徐龕は張敬が自分を襲撃するのではないかと疑い、王歩都ら三百余人を斬り、再び しん に降伏した。 石勒 せきろく は大いに怒り、張敬に命じてその要衝を占拠させ守備させた。

大雨が長く降り続き、中山・常山が特にひどく、滹沲川が氾濫し、山谷を押し流して陥没させ、巨大な松の木が倒れ引き抜かれて滹沲川に浮かび、東は渤海に至るまで、平原や低湿地に山のように積み上げられた。

孔萇が文鴦の十余りの陣営を陥落させたが、孔萇は防備を整えていなかったため、文鴦が夜襲をかけ、孔萇は大敗して帰還した。

石勒 せきろく は初めて軒懸の楽と八佾の舞を制定し、金根大輅・黄屋左纛・天子の車旗を備え、礼楽が整った。

石季龍に歩兵騎兵四万を率いて徐龕を討伐させた。徐龕は長史の劉霄を 石勒 せきろく のもとに派遣して降伏を請い、妻子を人質として送ったので、 石勒 せきろく はこれを受け入れた。この時、蔡豹が譙城に駐屯していたので、石季龍は蔡豹を攻撃し、蔡豹は夜間に逃走した。石季龍は軍を率いて封丘に城を築き、引き返した。

朝臣・掾属以上の士族三百戸を襄国の崇仁里に移住させ、公族大夫を置いてこれを統率させた。 石勒 せきろく の宮殿と諸門が完成し始め、法令は非常に厳しく、特に「胡」という言葉を避けることが峻厳であった。酔った胡人が馬に乗って止車門に突入する事件があった。 石勒 せきろく は大いに怒り、宮門小執法の馮翥に言った、「人君が命令を出すのは、天下に威令が行き渡ることを望むからであり、まして宮闕の間においてはなおさらである。さきほど馬を走らせて門に入ったのは何者か。なぜ弾劾して報告しないのか」。馮翥は恐れおののいて禁忌を忘れ、答えて言った、「さきほど酔った胡人が馬に乗って駆け入りました。大いに叱って制止しましたが、話が通じませんでした」。 石勒 せきろく は笑って言った、「胡人はまさに話が通じにくいものだ」。許して罪に問わなかった。

石季龍に命じて岍北において托候部の掘咄哪を攻撃させ、大破し、牛馬二十余万頭を捕獲した。

石勒 せきろく は五品を清定し、張賓に選挙を担当させた。さらに九品を定め続けた。張班を左執法郎、孟卓を右執法郎とし、士族を定め、選挙の任を補佐させた。群僚および州郡に対し、毎年それぞれ秀才・至孝・廉清・賢良・直言・武勇の士を一人ずつ推薦することを命じた。都部従事を各部・各州に一人ずつ置き、秩禄は二千石とし、その職務は丞相司直に準じた。

石勒 せきろく は命令を下して言った、「去年、大水によって巨大な木材が流出し、至る所に山のように積み上げられた。これは皇天が孤に宮殿を修繕させようとしているのだろう。洛陽の太極殿にならって建徳殿を建てることにしよう」。従事中郎の任汪に工匠五千人を率いさせて木材を採取させ供給させた。黎陽の人陳武の妻が一度に三男一女を産んだ。陳武は妻子を連れて襄国に赴き、上書して自らそのことを報告した。 石勒 せきろく は 詔 書を下し、天地が調和し、和気がもたらしたものと考え、乳母の婢一人、穀物一百石、雑色の絹織物四十匹を賜った。

石季龍が厭次において段匹磾を攻撃した。孔萇が段匹磾の管轄内の諸城を討伐し、陥落させた。段匹磾は窮地に陥り、ついにその臣下を率いて棺を車に載せて出降した。石季龍は彼を襄国に送り、 石勒 せきろく は段匹磾を冠軍将軍とし、その弟の文鴦・亜将の衛麟を左右中郎将とし、いずれも金印紫綬を与えた。流民三万余戸を分散させて本来の生業に戻し、守宰を置いて彼らを慰撫した。これにより冀州・ へい 州・幽州・遼西巴西の諸屯結はすべて 石勒 せきろく の手に落ちた。

当時、晋の征北将軍 祖逖 が譙に拠り、中原を平定しようとしていた。祖逖は民衆を慰撫し受け入れることに長けており、黄河以南の多くが 石勒 せきろく に背いて彼に帰順した。 石勒 せきろく は彼を恐れ、侵寇することを敢えてせず、 詔 書を下して言った。「祖逖はたびたび辺境の患いとなっている。祖逖は北州の士大夫の声望がある者であり、もしかすると故郷を思う気持ちがあるかもしれない。そのために幽州に命じて、祖氏の墳墓を修復させ、守塚の家を二軒置くことにしよう。祖逖が趙佗のように恩に感じて、その侵寇暴行をやめることを望む」。祖逖はこれを聞いて大いに喜び、参軍の王愉を使者として 石勒 せきろく のもとに遣わし、土地の産物を贈って和好を結んだ。 石勒 せきろく はその使者を手厚くもてなし、左常侍の董樹を答礼の使者として派遣し、馬百匹、金五十斤をもって返礼した。これ以降、兗州・ 州は平穏となり、人々は休息を得た。

従事中郎の劉奧が、建徳殿の井戸の木材が斜めに縮んでいたことを監督した罪で、殿中で斬られた。 石勒 せきろく は後悔し、太常の官位を追贈した。

建徳 校尉 こうい の王和が円い石を掘り出し、銘文に「律権石、重さ四鈞、律度量衡と同じく、新氏が造る」とあった。議論する者たちは詳しくわからず、ある者は瑞祥だと考えた。参軍の続咸が言った。「王莽の時代の物です」。当時は兵乱の後で、法典や制度が埋もれ滅んでいたため、礼官に命じて基準となる規格を定めさせた。また一つの鼎を得た。容量は四升で、中に大銭三十文があり、「百は千に当たり、千は万に当たる」とあった。鼎の銘文は十三 字 で、篆書で解読できず、永豊倉に蔵めた。これにより公私で銭貨の使用を命じたが、人々の気持ちは乗らず、公の絹で銭を買い上げ、中級の絹一匹を千二百銭、下級の絹を八百銭と定めた。しかし百姓は私的に中級の絹を四千銭、下級の絹を二千銭で売買し、巧みに利益を得る者が私銭を安く買い、官に高く売ったため、これで死罪になった者が十数人いたが、結局銭貨は流通しなかった。 石勒 せきろく は洛陽の銅馬と翁仲の二つを襄国に移し、永豊門に並べた。

祖逖の牙門将童建が新蔡内史の周密を殺害し、使者を遣わして 石勒 せきろく に降伏した。 石勒 せきろく は彼を斬り、その首を祖逖に送り、「天下の悪は一つである。叛臣や逃亡した官吏は、わが深き仇敵であり、将軍の憎むところも、わが憎むところと同じである」と言った。祖逖は使者を遣わして謝礼を伝えた。これ以降、兗州・ 州の間の塁壁で叛く者があっても、祖逖は受け入れず、二州の人々は多くが両方に属するようになった。

石勒 せきろく は武郷の古老を襄国に招いた。到着すると、 石勒 せきろく は自ら郷里の長老たちと年齢順に座り、歓談して酒を飲み、平生のことを語った。かつて、 石勒 せきろく は李陽と隣り合わせに住んでおり、毎年麻池を争って、互いに追い打ち合った。この時、父老たちに言った。「李陽は壮士である。どうして来ないのか。麻を水に浸すことは、布衣の頃の恨みである。孤は今、天下に信義を重んじている。どうして一介の匹夫を仇としようか」。そこで李陽を召し出させた。到着すると、 石勒 せきろく は酒を酌み交わして冗談を言い、李陽の腕を取って笑いながら言った。「孤はかつて卿の老拳に飽き飽きしたが、卿も孤の毒手に飽き飽きしただろう」。そこで甲第一区を賜り、参軍都尉に任じた。命令を下して言った。「武郷はわが豊沛である。万歳の後、魂霊は必ずここに帰ろう。その地の租税を三代にわたって免除せよ」。 石勒 せきろく は百姓がようやく生業に復したばかりで、資財の蓄えが豊かでないのを見て、酒造りを厳しく禁止し、郊祀や宗廟の祭祀にはすべて醴酒を用いた。これを数年行うと、再び酒を造る者はなくなった。

まもなく 石虎 を車騎将軍に任じ、騎兵三万を率いて離石で鮮卑の郁粥を討たせ、捕虜および牛馬十余万を獲得し、郁粥は烏桓に逃げ、その配下の城はすべて降伏した。

先に、 石勒 せきろく の世子の石興が死んでいたが、この時、子の石弘を立てて世子とし、中領軍を兼任させた。

石虎に中外の精鋭兵士四万を統率させて徐龕を討たせた。徐龕は堅守して戦わず、そこで兵士に家屋を建てさせて耕作に戻らせ、長い包囲陣を敷いて守らせた。晋の鎮北将軍劉隗が 石勒 せきろく に降伏し、鎮南将軍に任じられ、列侯に封じられた。石虎が徐龕を攻め落とし、襄国に送ると、 石勒 せきろく は彼を袋に入れて百尺楼から上から突き落として殺し、歩都らの妻子にその肉を切り取って食べさせ、徐龕の降伏兵三千人を生き埋めにした。晋の兗州 刺史 しし 劉遐は恐れ、鄒山から下邳に退いて駐屯した。琅邪内史の孫默が琅邪を挙げて叛き、 石勒 せきろく に降伏した。徐州・兗州の間の塁壁の多くが人質を送って降伏を請い、すべてその場で守宰に任じられた。

清河の張披が程遐の長史となった。程遐は彼を非常に親しく重用したが、張賓が彼を別駕に推挙し、政事に参与させた。程遐は張披が自分から離れることを憎み、また張賓の権勢が盛んなことを憎んだ。 石勒 せきろく の世子石弘は、程遐の甥であった。程遐は自分に後ろ盾があると考え、朝廷で威権を握ろうとし、石弘の母にそそのかさせて言わせた。「張披と張賓は遊侠をしており、門客は日に百余台の車に及び、人望はすべて彼らに集まっています。これは国家の利益ではありません。張披を除いて国家のためになさるべきです」。 石勒 せきろく はこれを認めた。この時、張披が緊急の召喚にすぐに応じなかったため、これを理由に殺した。張賓は程遐が自分を疎んじていることを知り、敢えて取り成しを請わなかった。間もなく、程遐を右長史とし、朝廷の政務を総括させた。これ以降、朝臣はみな震え上がり、程氏のもとに走った。

この時、祖逖が死去したため、 石勒 せきろく は辺境の守備を侵し始めた。 石勒 せきろく の征虜将軍石他が酇西で晋の軍を破り、将軍の衛栄を捕らえて帰還した。征北将軍の祖約は恐れ、 寿春 に退いた。 石勒 せきろく の境内で大疫病が発生し、死者は十のうち二、三に及び、徽文殿の造営を中止した。配下の将軍王陽を 州に駐屯させ、窺う意志を示した。そこで戦乱が日々続き、梁・鄭の間は騒然となった。

また石虎に中外の歩兵騎兵四万を統率させて曹嶷を討たせた。先に、曹嶷は海中に移り、根余山を守ろうと議論していたが、疫病がはなはだしく流行し、計画はまだ実行に移されていなかった。石虎が進軍して広固を包囲すると、東萊太守の劉巴、長広太守の呂披がともに郡を挙げて降伏した。石他を征東将軍とし、河西で きょう 胡を攻撃させた。左軍の石挺が広固に援軍を渡らせると、曹嶷は降伏し、襄国に送られた。 石勒 せきろく は彼を殺害し、その配下三万を生き埋めにした。石虎は曹嶷の配下をすべて殺そうとしたが、その青州 刺史 しし 劉征が言った。「今、私を留めて人を治めさせようとしているのに、治める人がいなければ、私は帰ってしまいます」。石虎は男女七百口を劉征に配属させ、広固を鎮守させた。青州の諸郡県の塁壁はすべて陥落した。

石勒 せきろく の司州 刺史 しし 石生が陽翟で晋の揚武将軍郭誦を攻撃したが、陥落させず、襄城に進撃して寇掠し、千余人を捕虜として帰還した。

石勒 せきろく は参軍の樊坦が清貧であるのを見て、章武内史に抜擢して任じた。やがて入朝して辞去する際、 石勒 せきろく は樊坦の衣服や冠が破れているのを見て大いに驚き、「樊参軍はどうしてこれほど貧しいのか」と言った。樊坦は誠実で質朴な性格で、率直に答えて言った。「かつて羯賊の無道に遭い、資財をすべて失いました」。 石勒 せきろく は笑って言った。「羯賊がそんなに暴掠したのか。今、償いをしよう」。樊坦は大いに恐れ、頭を地に叩きつけて泣きながら謝った。 石勒 せきろく は言った。「孤の法令は俗吏を防ぐためのもので、卿のような老書生には関係ない」。車馬・衣服・装具の費用として三百万銭を賜り、貪欲な風俗を戒めた。

石勒 せきろく の将兵都尉石瞻が下邳を侵寇し、晋の将軍劉長を破り、さらに蘭陵を侵寇し、また彭城内史劉続を破った。東莞太守の竺珍、東海太守の蕭誕が郡を挙げて叛き、 石勒 せきろく に降伏した。

石勒 せきろく は自ら大学・小学に臨み、諸学生の経書の義理を試験し、特に優れた者には絹帛を差等をつけて賞与した。 石勒 せきろく は文学を大いに好み、軍旅にあっても常に儒生に史書を読ませて聞き、しばしば自分の考えで古代帝王の善悪を論じ、朝廷の賢臣や儒士で聞く者はみなその美点を称賛した。かつて人に『漢書』を読ませ、酈食其が六国の子孫を立てるよう勧めたのを聞いて、大いに驚いて言った。「この方法では失敗するはずだ。どうして天下を成し遂げることができたのか」。留侯(張良)が諫めたところで、ようやく「これがあったからだ」と言った。その天資の英明さはこのようなものであった。

石勒 せきろく は徐州・揚州の兵を徴発し、石瞻と下邳で合流させた。劉遐は恐れ、また下邳から泗水のほとりへ逃亡した。

石生が新安において 劉曜 りゅうよう 配下の 河内 太守尹平を攻撃し、これを斬り、十余りの砦を陥落させ、五千余戸を降伏・略奪して帰還した。これ以降、 劉曜 りゅうよう 石勒 せきろく の間には禍いが結びつき、戦乱が日々交わされ、河東・弘農の間の民衆は頼るもののない状態となった。

右常侍の霍皓を勧課大夫とし、典農使者の朱表、典勧都尉の陸充らとともに州郡を巡行させ、戸籍を査定し、農桑(農業と養蚕)を奨励させた。農桑が最もよく行われている者には五大夫の爵位を賜った。

石生をして延寿関から出撃させ 許昌 ・潁川を侵攻させ、一万余りを捕虜とし、二万が降伏した。石生はついに康城を攻め落とした。晋の将軍郭誦が石生を追撃し、石生は大敗し、千余人が戦死した。石生は散り散りになった兵士を収容し、康城に駐屯した。 石勒 せきろく 配下の汲郡内史石聰は石生の敗北を聞き、急行して救援し、郭默を攻撃して男女二千余人を捕虜とした。石聰は晋の将軍李矩、郭默らを攻撃して破った。

石勒 せきろく が近郊で狩猟を行おうとしたとき、 主簿 の程琅が諫めて言った。「 劉曜 りゅうよう や司馬氏の刺客が、離れた場所に林立しており、突然の変事が起これば、帝王といえども一人の敵に過ぎません。孫策の禍いを考慮すべきではありませんか。また、枯れた木や朽ちた株さえも害をなすことができ、馳騁(狩猟)の弊害は、古今を通じて戒められています。」 石勒 せきろく は激怒して言った。「わが体力は十分であり、自ら判断できる。卿は文書の仕事だけを知っていればよく、このような輩の意見を述べる必要はない。」その日、獣を追って馬が木に衝突して死に、 石勒 せきろく 自身も危うく死にかけた。そこで言った。「忠臣の言葉を用いなかったのは、わが過ちである。」そして程琅に朝服と錦絹を賜り、関内侯の爵位を与えた。これにより朝臣たちが謁見し、忠言が盛んに進言されるようになった。

晋の都尉魯潜が反乱し、許昌を挙げて 石勒 せきろく に降伏した。石瞻が鄒山において晋の兗州 刺史 しし 檀斌を攻め落とし、檀斌は戦死した。 石勒 せきろく 配下の西夷中郎将王勝が襲撃して へい 刺史 しし 崔琨と上党内史王昚を殺害し、 へい 州を挙げて 石勒 せきろく に叛いた。以前、石季龍が石梁において 劉曜 りゅうよう の将軍劉岳を攻撃していたが、この時、石梁が陥落し、劉岳を捕らえて襄国に送った。石季龍はまた へい 州で王勝を攻撃し、これを殺害した。李矩は劉岳の敗北を聞き、恐れて 滎陽 けいよう から逃亡して帰還した。李矩の長史崔宣が李矩の兵二千を率いて 石勒 せきろく に降伏した。こうして司州の地をすべて手中に収め、徐州・ 州の淮水沿いの諸郡県はすべて降伏した。

石勒 せきろく は命令して、洛陽の日時計の影を測る石(晷影)を襄国に移し、単于の庭に並べた。佐命の功臣三十九人の名を石の函に刻み、建德前殿に置いた。襄国に桑梓苑を建立した。

石勒 せきろく はかつて夜に微行し、営衛(警備)を巡察し、絹織物や金銀を持って門番を買収して外出しようとした。永昌門の門候王假が彼を逮捕しようとしたが、従者が到着したためやめた。翌朝、王假を召し出して振忠都尉とし、関内侯の爵位を与えた。 石勒 せきろく が苑郷に行ったとき、記室参軍の徐光を召し出したが、徐光は酔って来なかった。 石勒 せきろく は、徐光が人々の支持を集めていることから、常に不満を抱いており、このことで怒りを発し、徐光を牙門に降格させた。 石勒 せきろく が苑郷から鄴に行ったとき、徐光が侍直していたが、憤然として袖をまくり乱れを整え、上を見て顧みなかった。 石勒 せきろく はこれによって徐光を憎み、責めて言った。「何が卿に不足して、敢えて不満そうにしているのか。」そこで徐光とその妻子を獄に幽閉した。

石勒 せきろく はすでに鄴の宮殿を営もうとしており、またその世子の石弘を鎮守としたいと考え、密かに程遐と謀った。石季龍は自ら功績が重いことを恃み、鄴を本拠地としており、まったく去る気はなかった。三台(楼閣)を修築し、その家族が移転させられると、石季龍は程遐を深く恨み、左右の者数十人を遣わして夜に程遐の宅に入り、その妻女を犯し、衣服物品を掠奪して去った。 石勒 せきろく は石弘を鄴に鎮守させ、禁兵一万人を配属し、車騎将軍が統率する五十四営すべてを配属させ、 ぎょう 騎将軍で門臣祭酒の王陽に六夷(諸異民族)を専管させて補佐させた。

石聰が寿春を攻撃したが、陥落させられず、ついで逡遒・阜陵を侵攻し、五千余人を殺害・略奪したため、京師( 建康 )は大いに震駭した。

済岷太守の劉闓、将軍の張闔らが反乱し、下邳内史の夏侯嘉を殺害し、下邳を挙げて石生に降伏した。

石瞻が邾において河南太守の王羨を攻撃し、これを陥落させた。

龍驤将軍の王国が反乱し、南郡を挙げて 石勒 せきろく に降伏した。晋の彭城内史の劉續が再び蘭陵・石城を占拠したが、石瞻がこれを攻め落とした。

石勒 せきろく は州郡に命じ、墳墓が発掘されて覆われていない者があれば推問・弾劾させ、骸骨が暴露されている場合は県が棺と衾(覆い布)を準備するようにさせた。牙門将の王波を記室参軍とし、九流(諸学派)の典籍を定め、秀才・孝廉の経書試験の制度を初めて制定した。

茌平県令の師歡が黒い兎を捕獲し、 石勒 せきろく に献上した。程遐らは、これは 石勒 せきろく が「龍飛して革命を行う祥瑞であり、晋は五行で金徳であるのに対して水徳を承け、兎は陰の精の獣で、玄(黒)は水の色である。これは殿下が速やかに天と人の望みに応えるべきことを示している」と論じた。そこで大赦を行い、咸和三年を太和と改元した。

石堪が寿春において しん 刺史 しし 祖約を攻撃し、淮水のほとりに軍を駐屯させた。 しん の龍驤将軍王國が南郡で反乱を起こし、石堪に降伏した。南陽都尉董幼が反乱し、 襄陽 の兵を率いてまた石堪に降った。祖約配下の諸将や幕僚たちは皆ひそかに使者を遣わして 石勒 せきろく に帰順した。石聰と石堪は淮水を渡り、寿春を陥落させた。祖約は歴陽へ逃れ、寿春の民衆で石聰に捕らえられた者は二万余戸に及んだ。

劉曜 りゅうよう が高候において石季龍を破り、ついに洛陽を包囲した。 石勒 せきろく 配下の 滎陽 けいよう 太守尹矩、野王太守張進らは皆これに降伏し、襄国は大いに震動した。 石勒 せきろく はみずから洛陽救援に向かおうとしたが、左右の長史、司馬である郭敖、程遐らが強く諫めて言った。「 劉曜 りゅうよう は勝ちに乗じて勢い盛んであり、争って鋒を交えるのは難しい。金墉城は食糧が豊富で、攻めてもすぐには落とせないでしょう。 劉曜 りゅうよう の軍は千里を隔てて孤立しており、その勢いは長くは続きません。ご親征なさるべきではありません。動けば万全を期せず、大事業が失われてしまいます。」 石勒 せきろく は大いに怒り、剣に手をかけながら程遐らを叱りつけて退出させた。そこで徐光を赦免し、召し出して言った。「 劉曜 りゅうよう は高候での勝利に乗じて、洛陽を包囲している。凡庸な者の考えでは、その鋒先は当たるべからざるものと思っている。しかし 劉曜 りゅうよう は十万の兵を擁しながら、一つの城を攻めて百日経っても陥落させず、軍は疲れ兵は衰えている。わが方の初めの鋭気をもってこれを撃てば、一戦にして捕らえることができる。もし洛陽が守れなければ、 劉曜 りゅうよう は必ず冀州に攻め寄せてくるだろう。黄河以北から、南へと席巻してくれば、わが方の大事は去ってしまう。程遐らはわしが親征するのを望まないが、卿はどう思うか。」徐光は答えて言った。「 劉曜 りゅうよう は高候での勢いに乗じながら、襄国に迫って進軍することもできず、さらに金墉城を守っている。これは彼に為す能がないからです。三季もの間、孤立した軍を置きながら、攻撃の利を得られていない。もし陛下がみずから鸞旗を掲げてお出ましになれば、必ずや旗を見て敗走するでしょう。天下を定める大計は、今この一举にあります。今この機会は、いわゆる天が授けたものであり、授けられて応じなければ、禍が集まることになります。」 石勒 せきろく は笑って言った。「光の言う通りだ。」仏図澄もまた 石勒 せきろく に言った。「大軍が出れば、必ず 劉曜 りゅうよう を捕らえるでしょう。」 石勒 せきろく はとりわけ喜び、内外に戒厳令を敷き、諫める者は斬ると命じた。石堪、石聰および 刺史 しし 桃豹らに命じ、それぞれ配下の現有兵力を率いて 滎陽 けいよう で合流させ、石季龍に石門を占拠させた。左衛石邃に中軍事を 都督 ととく させ、 石勒 せきろく は歩兵騎兵四万を率いて金墉へ向かい、大堨から渡河した。以前は、流氷が激しく風も強かったが、軍が到着すると、氷は解けて清らかで穏やかになり、渡河が終わると、流氷が大いに押し寄せた。 石勒 せきろく はこれを神霊の助けと思い、その渡し場を霊昌津と名付けた。 石勒 せきろく は顧みて徐光に言った。「 劉曜 りゅうよう が大軍を成皋関に配置するのは、上策である。洛水を防ぐのは、中策である。洛陽に坐して守るのは、捕らえられるだけだ。」諸軍は成皋に集結し、歩兵六万、騎兵二万七千となった。 石勒 せきろく 劉曜 りゅうよう が守備軍を置いていないのを見て大いに喜び、天を指さし、また自分の額を指して言った。「天の助けだ!」そこで甲冑を巻き、枚を銜えて、隠れた道を倍の速度で進み、鞏と訾の間から出た。 劉曜 りゅうよう が十余万の軍を城西に布陣していると知ると、ますます喜び、左右の者に言った。「わしを祝うがよい!」 石勒 せきろく は歩兵騎兵四万を率いて宣陽門から入り、かつての太極前殿に登った。石季龍の歩兵三万は、城北から西へ向かい、 劉曜 りゅうよう の中軍を攻撃した。石堪、石聰らはそれぞれ精鋭の騎兵八千を率い、城西から北へ向かい、 劉曜 りゅうよう 軍の前鋒を撃ち、西陽門で大戦となった。 石勒 せきろく みずから甲冑を身にまとい、閶闔門から出て、挟撃した。 劉曜 りゅうよう 軍は大いに潰走し、石堪が 劉曜 りゅうよう を捕らえ、軍中に引き回して見せしめにした。斬首五万余級、屍体は金穀に枕を並べた。 石勒 せきろく は命令を下して言った。「捕らえたい者は一人だけだった。今すでに捕らえた。将士たちには刃を抑え鋭気を止め、彼らに帰順する道を開いてやれ。」そこで軍を返した。征東将軍石邃らに騎兵を率いさせ、 劉曜 りゅうよう を護衛して北へ向かわせた。

この時、祖約が挙兵して敗れ、 石勒 せきろく に降伏した。 石勒 せきろく は王波を使者として遣わし、彼を責めて言った。「卿は逆賊として勢い尽き、ようやく帰順してきたが、わが朝廷が逃亡者の巣窟であるとでもいうのか。それなのに卿は恥知らずにも顔を上げている。」以前に送った檄文を見せた後、ようやく彼を赦した。

劉曜 りゅうよう の子の劉熙らは 長安 を去り、上邽へ逃れた。石季龍を派遣してこれを討伐させた。

石勒 せきろく は州内の諸郡を巡行し、高齢者、孝悌、力田、文学の士を引見し、穀物や絹帛を等級に応じて賜った。遠近の牧守に命じて管轄する城に布告させ、言いたいことがあれば隠さず述べさせ、わが朝廷が真心をもって直言を渇望していることを知らしめた。

石季龍が上邽を攻略し、主簿の趙封を派遣して伝国の玉璽、金璽、太子の玉璽をそれぞれ一つずつ 石勒 せきろく のもとに送った。石季龍は河西において集木且 きょう を攻撃し、これを攻略し、数万を捕虜とし、秦、隴の地はすべて平定された。涼州牧の 張駿 は大いに恐れ、使者を派遣して藩属を称し、地方の産物を 石勒 せきろく に貢ぎ、 てい 族と きょう 族十五万落を司州、冀州に移住させた。

石勒 せきろく の群臣は、 石勒 せきろく の功業がすでに盛んであり、吉祥の兆しも並び集まっているので、時に応じて称号を改めて天地の期待に応えるべきだと議した。そこで石季龍らが皇帝の 璽綬 じじゅ を奉り、 石勒 せきろく に尊号を上奏したが、 石勒 せきろく は許さなかった。群臣が固く請うたので、 石勒 せきろく は咸和五年に趙天王を僭称し、皇帝の事を行った。その祖父の石邪を宣王と追尊し、父の石周を元王と追尊した。その妻の劉氏を王后とし、世子の石弘を太子とした。その子の石宏を持節、 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 中外諸軍事、驃騎大将軍、大単于に任じ、秦王に封じた。左衛将軍の石斌を太原王とした。末子の石恢を輔国将軍、南陽王とした。中山公の石季龍を 太尉 たいい 、守 尚書 令、中山王とした。石生を河東王とした。石堪を彭城王とした。石季龍の子の石邃を冀州 刺史 しし とし、斉王に封じ、 散騎常侍 さんきじょうじ 、武衛将軍を加えた。石宣を左将軍とした。石挺を侍中、梁王とした。左長史の郭敖を尚書左 僕射 ぼくや に任じ、右長史の程遐を右 僕射 ぼくや 、吏部尚書を兼務させた。左司馬の夔安、右司馬の郭殷、従事中郎の李鳳、前郎中令の裴憲を尚書とした。参軍事の徐光を中書令、秘書監を兼務させた。功績を論じて爵位を授け、開国郡公を文武二十一人に、侯を二十四人に、県公を二十六人に、侯を二十二人に与え、その他の文武官にもそれぞれ等級に応じて与えた。侍中の任播らが参議し、趙は金を承継して水徳とし、旗幟は玄色を尊び、犠牲の雄牛は白色を尊び、子の日に社祭を行い丑の日に臘祭を行うこととした。 石勒 せきろく はこれに従った。 石勒 せきろく は 詔 書を下して言った。「今より疑わしく難しい大事があるときは、八座および委任された丞郎が東堂に赴き、詳しく審議して公平に決断せよ。軍国の要務で上奏すべきことがあれば、令、僕、尚書が随時入朝して陳述せよ。寒暑や昼夜を避けてはならない。」

石勒 せきろく は祖約が本朝( しん )に忠誠を尽くさなかったとして、彼とその諸子および近親者百余人を誅殺した。

群臣が固く請うて、 石勒 せきろく が皇帝の尊号に即くべきだと主張したので、 石勒 せきろく はついに皇帝の位を僭称し、境内で大赦を行い、元号を建平と改め、襄国から臨漳に都を移した。その高祖父を順皇と追尊し、曾祖父を威皇と追尊し、祖父を宣皇と追尊し、父を世宗元皇帝と追尊し、母を元昭皇太后と追尊した。文武の官の封爵進級はそれぞれ等級に応じて行われた。その妻の劉氏を皇后とし、また昭儀、夫人の位を上公に準じ、貴嬪、貴人を列侯に準じ、それぞれ員数一人と定めた。三英、九華を伯に準じ、淑媛、淑儀を子に準じ、容華、美人を男に準じ、賢淑な者を簡抜することに務め、員数は限定しなかった。

石勒 せきろく 配下の荊州監軍郭敬と南蛮 校尉 こうい 董幼が襄陽を侵犯した。 石勒 せきろく は駅伝で 詔 を下し、郭敬に樊城に退いて駐屯するよう命じ、旗幟を隠し、人がいないかのように静かにするよう戒めた。もし敵が偵察に来たら、「しっかり守っていよ、七、八日後には大軍の騎兵が到着するから、それまでに策を講じてももう逃げられなくなるぞ」と告げるようにと言った。郭敬は渡し場で馬を洗わせ、繰り返し昼夜絶え間なく続けさせた。偵察者が戻って南中郎将の周撫に報告すると、周撫は 石勒 せきろく の大軍が来たと思い、恐れて武昌へ逃げた。郭敬は襄陽に入城し、軍は私的な略奪を行わず、民衆は安堵した。 しん の平北将軍魏該の弟の魏遐らが魏該の配下の兵を率いて石城から郭敬に降伏した。郭敬は襄陽を破壊し、その民衆を沔水の北に移し、樊城を築いて守備した。

秦州の休屠王の きょう が勒に対して反乱を起こし、 刺史 しし の臨深は司馬の管光に州軍を率いて討伐させたが、 きょう に敗れ、隴右は大いに乱れ、 てい きょう はすべて反旗を翻した。勒は石生を派遣して隴城を占拠させた。王 きょう の兄の子の擢は きょう と仇敵関係にあったので、生は擢を買収し、挟撃した。 きょう は敗れて涼州へ逃れた。秦州の夷族の豪族五千余戸を雍州に移住させた。

勒は 詔 書を下して言った。「今後、すべての処罰は、科令に従うこと。朕が怒りに任せて殺戮し、感情的に発した命令で処罰した者で、もし徳望や地位が高い者で訓戒や罰が適さない者、あるいは忠勤を尽くして殉職した者の遺児で、偶然にも罪に問われた者については、門下省はそれぞれ列挙して上奏せよ。朕は考えて選択して実行する。」堂陽の人陳豬の妻が一度に三人の男児を産んだので、衣服と絹、食糧を賜り、乳母一人を与え、三年間の賦役を免除した。この時、高句麗と肅慎が楛矢を献上し、宇文屋孤も名馬を勒に献上した。涼州牧の張駿は長史の馬詵を派遣し、地図を奉じて高昌、于闐、鄯善、大宛の使者を送り、その土地の産物を献上させた。 しん の荊州牧の 陶侃 とうかん は兼長史の王敷を勒のもとに派遣し、江南の珍宝と珍獣を贈った。秦州から白い虎と白い鹿が、荊州から白い雉と白い兎が献上され、済陰では木が連理となり、苑郷に甘露が降った。勒は吉祥の兆しが一斉に現れ、遠方の地が慕義してきたとして、三年以下の刑を赦免し、百姓の去年の未納の租税を免除した。特に涼州の死刑囚を赦免し、涼州の計吏はすべて郎中に任じ、絹十匹、綿十斤を賜った。勒が南郊で祭祀を行うと、白い気が祭壇から天へとつながり、勒は大いに喜び、宮殿に戻って四年刑を赦免した。使者を派遣して張駿を武威郡公に封じ、涼州の諸郡を食邑とした。勒は藉田を親耕し、宮殿に戻って五年刑を赦免し、公卿以下に金帛を差等を付けて賜った。勒は日蝕があったため、正殿を三日間避け、群公卿士にそれぞれ封事を上奏させた。州郡の祠堂で正典にないものはすべて廃止するよう命じ、雲を起こし雨を降らせて百姓に有益なものについては、郡県が改めて祠堂を建て、嘉樹を植え、五嶽四瀆以下を基準に等級を定めた。

勒が鄴の宮殿を造営しようとすると、廷尉の續咸が上書して強く諫めた。勒は激怒して言った。「この老臣を斬らなければ、朕の宮殿は完成しない!」御史に命じて彼を逮捕させた。中書令の徐光が進み出て言った。「陛下は天資が聡明で、堯舜を超えているのに、さらに忠臣の言葉を聞こうとされないとは、夏の桀や殷の紂のような君主でしょうか。その言葉が採用できるなら採用し、採用できないなら寛容に扱うべきです。どうして突然、直言した列卿を斬ろうとなさるのですか!」勒は嘆息して言った。「君主たる者はこのように自分勝手であってはならない!朕がこの言葉の忠義を理解していないと思っているのか?さっきは冗談だったのだ。家に百匹の資産がある者でも、別宅を買おうとする。まして天下の富と万乗の尊さを持つ朕がどうしてそうしないことがあろうか!結局は修繕するつもりだ。しかし、いったん工事を中止し、朕の直臣の気概を成就させよう。」そこで續咸に絹百匹、米百斛を賜った。また 詔 書を下し、公卿百官に毎年、賢良、方正、直言、秀異、至孝、廉清をそれぞれ一人ずつ推薦させ、策問の回答が上第の者は議郎に、中第は中郎に、下第は郎中に任じた。推薦された者は互いに推薦し合い、賢人を招く道を広げた。襄国城の西に明堂、辟雍、霊台を建設した。この時、大雨が降り続き、中山の西北で洪水が発生し、百数十万本の巨木が流され、堂陽に集まった。勒は大いに喜び、公卿に言った。「諸卿は知っているか?これは災害ではない。天が朕に鄴の都を造営させようとしているのだ。」そこで少府の任汪と都水使者の張漸らに鄴宮の造営を監督させ、勒自らが設計を指示した。

蜀の梓潼、建平、漢固の三郡の蠻巴が勒に降伏した。

勒は成周が天下の中心であり、漢や しん の旧都であることから、再び遷都を考え、洛陽を南都とし、行台治書侍御史を洛陽に置いた。

勒は高句麗と宇文屋孤の使者をもてなす宴を開き、酒が酣になった時、徐光に言った。「朕は古来の創業の君主の中で、どのような主に相当するか?」徐光は答えて言った。「陛下の神武と謀略は漢の高祖を超え、雄大な才芸と卓越さは魏の太祖を超えており、三王以来比べる者もなく、黄帝に次ぐお方でしょう!」勒は笑って言った。「人は自らを知らないものではない。卿の言葉はあまりにも過ぎている。朕がもし高祖(劉邦)に会えば、北面して仕え、韓信や彭越と鞭を競って先を争うだろう。もし光武帝(劉秀)に会えば、中原で並び駆け、鹿(天下)が誰の手に落ちるか分からない。大丈夫の行いは、磊磊落落として日月のように明らかであるべきで、決して曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るようなことはできない。朕は二劉(劉邦と劉秀)の間に位置するだろう。黄帝など比べられるものではない!」群臣はみな頓首して万歳を称えた。

しん の将軍趙胤が馬頭を攻略した。石堪は将軍韓雍を派遣して救援させたが、到着した時にはすでに手遅れで、南沙と海虞を侵攻し、五千余人を捕虜とした。初め、郭敬が樊城に退いて守っていた時、 しん 軍は再び襄陽を守備した。この時、敬は再び襄陽を陥落させ、守備兵を残して帰還した。

暴風雨と雷雨が建徳殿の端門と襄国市の西門を襲い、五人を殺した。雹が西河の介山から発生し、鶏卵ほどの大きさで、平地に三尺、窪地には一丈余も積もり、行き交う人や禽獣の死者は数万に及び、太原、楽平、武郷、趙郡、広平、巨鹿の千余里にわたって、樹木は折れ、作物は跡形もなくなった。勒は正装して東堂に座り、徐光に問うた。「歴代にこのような災害はどれくらいあったか?」光は答えて言った。「周、漢、魏、 しん にもありました。天地の常事ではありますが、明主は必ず変事として受け止め、天の怒りを畏れ敬うものです。去年、寒食を禁じましたが、介子推は陛下の故郷の神であり、歴代尊ばれてきた者です。ある者はこれを廃すのは適切でないと考えています。一人が嘆けば王道さえも損なわれるというのに、ましてや多くの神々が怨み憾んで、上帝を怒らせないことがありましょうか!天下を同じにさせることができなくても、介山の周辺は しん の文公が封じた地ですから、百姓に奉祀させるべきです。」勒は 詔 書を下して言った。「寒食は へい 州の古い風習であり、朕はその風俗の中で生まれたので、異なることはできない。以前、外部の議論では子推は諸侯の臣下であり、王者が禁忌とすべきでないと言ったので、その意見に従った。もしかすると、これが原因でこの災害が起こったのかもしれない!子推は朕の故郷の神ではあるが、法で定められた祭祀でない者が乱すことは許されない。尚書は早急に旧典を調査し、議論を定めて報告せよ。」有司が上奏して、子推は歴代尊ばれてきたので、寒食を普遍的に復活させ、さらに嘉樹を植え、祠堂を建て、戸を与えて祭祀を行うよう請うた。勒の黄門郎韋謏が反論して言った。「『春秋』によれば、氷を蔵する道を失うと、陰気が発散して雹となる。子推以前にも雹はあったが、それは何によって起こったのか?これは陰陽が乖錯したためです。しかも子推は賢者である。どうしてこのような暴害をもたらすことがあろうか?冥界の道理を考えれば、決してそうではない。今、氷室はあるが、蔵している氷が固い陰気と凍てつく寒さの地ではなく、多くは山川の側にあり、気が漏れて雹となっているのでしょう。子推の忠賢を考えれば、綿や介の間で奉祀するのが妥当であり、天下に通じるものではありません。」勒はこれに従った。そこで氷室を重陰で凝寒の地に移し、 へい 州では寒食が以前のように復活した。

勒はその太子に尚書の上奏文を審査裁可させ、中常侍の厳震に可否を参議させ、征伐や刑罰の大事だけを自分に報告させた。これ以降、厳震の威勢と権力は君主や宰相を超えるほどになった。季龍(石虎)の門前には雀羅さえ張れるほどで、季龍はますます不満を募らせた。

郭敬が南の江西を略奪した。 しん の南中郎将桓宣はその虚を突いて樊城を攻撃し、城中の兵士を連れ去った。敬は軍を返して樊城を救援し、涅水で追撃戦を展開した。敬の前軍は大敗し、宣も死傷者が大半を占め、略奪したものすべてを奪い返して止んだ。宣はその後、南の襄陽を奪取し、軍を残して守備させた。

石勒 せきろく が鄴に赴き、石季龍の邸宅を訪れ、彼に言った。「工事は同時に進めることはできない。宮殿が完成した後、王のために邸宅を建てよう。粗末で小さいからといって不満に思うな。」季龍は冠を脱いで拝礼して謝した。勒は言った。「王と共に天下を有しているのに、何を謝る必要があるのか!」流星が象ほどの大きさで、尾と足が蛇の形をしており、北極から西南へ五十余丈流れ、光が地面を照らし、河に墜落し、その音は九百余里まで聞こえた。黒龍が鄴の井戸の中に現れ、勒は龍を見て喜びの色を浮かべた。鄴で群臣を朝見させた。

郡国に学官を設置するよう命じ、各郡に博士祭酒二人、弟子百五十人を置き、三度の試験を経て学業を修めた者は、顕著に昇進して台府に入るようにした。そこで太学生五人を抜擢して佐著作郎とし、時事を記録させた。その時大旱魃が起こり、勒は自ら廷尉に行って囚人を記録し、五年以下の刑罰の者は軽く判決して釈放し、重罪の者には酒食を与え、沐浴を許し、秋の判決を待つようにした。宮殿に戻る途中で、大雨が降った。

勒は灃水宮に行ったが、病が重くなったので帰還した。石季龍と太子の石弘、中常侍の厳震らを召し出し、宮中で看病させた。季龍は 詔 命を偽って弘、震および内外の群臣や親戚との接触を断ち、勒の病状の増減を知る者は誰もいなかった。石宏と石堪を詐って襄国に戻らせた。勒の病が少し良くなり、宏を見て驚いて言った。「秦王はなぜ来たのか?王を藩鎮に置いたのは、まさに今日の事態に備えるためだ。呼んだ者がいるのか?自ら来たのか?呼んだ者がいれば誅せよ!」季龍は大いに恐れて言った。「秦王が慕って暫く帰ってきただけです。今すぐ謹んで帰らせます。」数日後また尋ねると、季龍は言った。「 詔 を奉じてすぐに帰らせましたが、今はもう途中です。」さらに宏が外にいることを告げ、ついに帰らせなかった。

広阿で蝗害が発生した。季龍は密かに子の石邃に命じ、騎兵三千を率いて蝗害の地を遊弋させた。火星が昴宿に入った。流星が鄴の東北六十里に落下し、初めは赤黒黄色の雲が幕のようで、長さ数十匹、交錯し、音は雷鳴のようで、墜落した地面は火のように熱く、塵が立ち上って天に連なった。その時、耕作に行った者が見に行くと、土はまだ沸き立つように燃えており、一尺四方ほどの石があり、青色で軽く、叩くと磬のような音がした。

勒の病が非常に重くなり、遺言を残した。「三日で葬り、内外の百官は葬儀後に喪服を脱ぎ、婚姻、祭祀、飲酒、食肉を禁じない。征鎮牧守は勝手に任地を離れて喪に駆けつけてはならない。平常の服で納棺し、普通の車に載せ、金宝を蔵めず、器物や玩好品を副葬しない。大雅(石弘)は幼く、朕の志を継ぐことはできないだろう。中山王(石虎)以下はそれぞれ担当する職務を司り、朕の命令に背かないように。大雅と斌(石斌)はよく互いに支え合うように。司馬氏は汝らの戒めである。和睦に努めるように。中山王は深く三思し、周勃や 霍光 かくこう のようであれ。将来の口実とならないように。」咸和七年に死去した。六十歳。在位十五年。夜に山谷に埋葬され、その場所は誰も知らず、文物を備えて虚葬し、高平陵と号した。偽の諡号は明皇帝、廟号は高祖。

石弘

弘は字を大雅といい、勒の第二子である。幼い頃から孝行で、恭謙を以て自らを律し、杜嘏に経書を、続咸に法律を学んだ。勒は言った。「今の世は太平ではない。文業だけを教えることはできない。」そこで劉征と任播に兵書を、王陽に武術を教えさせた。世子に立てられ、中領軍を領し、まもなく衛将軍に任じられ、開府辟召を領させ、後に鄴を鎮守させた。

勒が帝位を僭称すると、太子に立てられた。弘は虚心に士を愛し、詩文を好み、親しくする者はみな儒者であった。勒は徐光に言った。「大雅はおとなしく、まったく将軍の子とは似ていない。」光は言った。「漢の高祖は馬上で天下を取ったが、孝文帝は静かな政治で守った。聖人の後には、必ず世を経て残虐を克服するものです。天の道理です。」勒は大いに喜んだ。光はさらに言った。「皇太子は仁孝で温恭ですが、中山王は雄暴で多詐です。陛下が万一崩御されれば、 社稷 しゃしょく が必ず危うくなると臣は恐れます。徐々に中山王の威権を奪い、太子に早く朝政に参与させるべきです。」勒はこれを受け入れた。程遐もまた勒に言った。「中山王は勇武で権謀に長け、群臣で及ぶ者はいません。その志を見ると、陛下以外は眼中にありません。長年征伐を専任し、内外に威を振るい、性格も不仁で、残忍無頼です。その諸子も皆成長し、兵権に関与しています。陛下がご存命の間は問題ないでしょうが、彼が不満を抱き、幼い主君を補佐できないことを恐れます。早く除くべきで、大計に便です。」勒は言った。「今、天下は未だ平らかでなく、兵乱は止まない。大雅は幼い。強力な補佐を任せるべきだ。中山王は佐命の功臣で、魯や衛のごとく親しい。まさに伊尹や 霍光 かくこう のような任を委ねようとしているのに、どうして卿の言うようになるのか。卿は幼い主君を補佐する日に、帝舅としての権力を独り占めできなくなることを恐れているのだろう。朕も卿を顧命に加えよう。過度に恐れるな。」遐は泣いて言った。「臣が言うことは至って公正です。陛下が私情で拒絶されるのは、明主が襟を開いて意見を受け入れ、忠臣が必ず尽くすべき義でしょうか!中山王は皇太后に養われたとはいえ、陛下の血縁ではなく、親族としての義を期待できません。陛下の神妙な計画により、わずかに鷹犬の功績を立てたに過ぎず、陛下はその父子に恩栄で報いれば十分です。魏が 司馬懿 父子を任用した結果、ついに帝位が移り変わりました。これを見れば、中山王が将来有益でしょうか!臣は幸運にも、東宮に縁故があり、臣が陛下に言葉を尽くさず、誰が言うでしょう!陛下が中山王を除かなければ、 社稷 しゃしょく が再び血食されないことを臣は見て取っています。」勒は聞き入れなかった。遐は退いて徐光に告げた。「主上は先ほどそのようにおっしゃった。太子は必ず危うい。どうすればよいか?」光は言った。「中山王は常に我々二人を恨んでいる。国が危ういだけでなく、家の禍にもなるだろう。国を安んじ家を寧ろかにする計略を立てるべきで、座して禍を受けるわけにはいかない。」光はまた機会を捉えて勒に言った。「陛下は八州を平定し、海内を帝有なさったのに、お顔に喜びの色がないのはなぜですか?」勒は言った。「呉と蜀が未だ平定されず、文字や車軌が統一されていない。司馬家がなお丹陽に絶えず、後世の者が朕が符録に応じていないと言うのではないかと恐れ、考えるたびに、つい表情に出てしまう。」光は言った。「臣は陛下が心腹の患いを憂えていると思っていましたが、どうして四肢のことを憂える暇があるでしょうか!なぜなら、魏は漢の運命を継ぎ、正統の帝王となりました。劉備は巴蜀で興隆しましたが、漢が滅びなかったとは言えません。呉は江東を跨いでいますが、魏の美を損なうでしょうか?陛下は既に二都を包摂し、中国の帝王となられました。あの司馬家の子は劉玄德と何が違い、李氏も孫権のようなものです。符籙が陛下にないなど、いったいどこにあるというのでしょうか?これは四肢の軽い患いに過ぎません。中山王は陛下の指示と神妙な計略を借りており、天下の者は皆、その英武は陛下に次ぐと言っています。加えてその残暴多奸、利を見て義を忘れ、伊尹や 霍光 かくこう のような忠誠はありません。父子の爵位は重く、その勢いは王室を傾けます。その不平そうな様子を見ると、常に不満の心があります。近ごろ東宮での私的な宴で、皇太子を軽んじる様子がありました。陛下が隠忍して容認されれば、陛下が崩御された後、宗廟に必ず荊棘が生じるでしょう。これは心腹の重い病です。どうか陛下ご考慮ください。」勒は黙り込んだが、結局従わなかった。

石勒 せきろく が死ぬと、季龍は石弘を捕らえて殿前に臨ませ、程遐と徐光を廷尉に下すよう命じ、その子の石邃に兵を率いて宮中の警備に入るよう召し出した。文武の官はみな逃げ散った。石弘は大いに恐れ、季龍に位を譲ろうとした。季龍は言った。「君主が亡くなって世子が立つのは当然であり、臣下である私がどうしてその秩序を乱すことができましょうか!」石弘は泣いて固く譲位を請うたが、季龍は怒って言った。「もしその器量が足りないなら、天下の人々が自ら議論するはずだ。どうして私があれこれ論じる必要があろうか!」こうして咸和七年に石弘を強いて即位させ、年号を延熙と改め、文武百官の位を一等進めた。程遐と徐光を誅殺した。石弘は 詔 を下して季龍を丞相・魏王・大単于に任じ、 九錫 を加え、魏郡など十三郡を封邑とし、すべての政務を統轄させた。季龍は偽って固く辞退したが、しばらくして受諾し、その支配地域内で死刑以下の罪を赦し、季龍の妻の鄭氏を魏王后に立て、子の石邃を魏の太子とし、使持節・侍中・大 都督 ととく 中外諸軍事・大將軍・録尚書事を加えた。石宣には使持節・ 車騎大將軍 しゃきだいしょうぐん ・冀州 刺史 しし を任じ、河間王に封じた。石韜は前鋒將軍・司隸 校尉 こうい とし、楽安王に封じた。石遵は斉王、石鑑は代王、石苞は楽平王とした。太原王の石斌を章武王に移封した。 石勒 せきろく の文武の旧臣はみな左右丞相の閑職に補任し、季龍の府の官僚や旧来の側近はみな台省の枢要な地位に任命した。太子の宮殿を崇訓宮と名付け、 石勒 せきろく の妻の劉氏以下をみなそこに住まわせた。美しい女性や 石勒 せきろく の車馬・珍宝・衣服・器物のうち上等なものを選び出し、すべて自分の役所に収めた。鎮軍の夔安を左 僕射 ぼくや とし、尚書の郭殷を右 僕射 ぼくや とした。

劉氏が石堪に言った。「皇統が滅びるのもそう遠くはないでしょう。あなたはどうしようとお考えですか。」石堪は言った。「先帝の旧臣はみな遠ざけられており、軍勢ももはや思い通りには動かせません。宮殿の内ではどうすることもできません。私は出奔して兗州に赴き、 廩丘 りんきゅう を拠点とし、南陽王を擁して盟主とし、太后の 詔 を諸州の牧守や征鎮将軍に伝え、それぞれ義兵を率いてともに凶逆を討つよう命じれば、必ず成功するでしょう。」劉氏は言った。「事態は切迫しています。すぐに出発なさってください。遅れれば事態が変わってしまう恐れがあります。」石堪は承諾し、身分を隠して軽騎で兗州を襲ったが、期日に間に合わず成功せず、南の譙城へと逃れた。季龍は配下の将軍の郭太らを派遣して追撃させ、城父で石堪を捕らえ、襄国に送り、焼き殺した。石恢を征して襄国に戻らせた。劉氏の謀略が漏れ、季龍は彼女を殺した。石弘の母の程氏を皇太后として尊んだ。

当時、石生は関中を鎮守し、石朗は洛陽を鎮守していたが、ともに二つの鎮で兵を起こした。季龍は子の石邃を襄国に留めて守らせ、歩兵と騎兵七万を率いて金墉で石朗を攻撃した。金墉は陥落し、石朗を捕らえ、足を切断して斬った。軍を進めて長安を攻め、石挺を前鋒大 都督 ととく とした。石生は将軍の郭権に鮮卑の涉璝部の兵二万を率いさせて前鋒としてこれを防がせ、石生自身は大軍を率いて続いて出発し、蒲阪に駐屯した。前鋒が石挺と潼関で大戦し、敗北し、石挺と丞相左長史の劉隗はともに戦死し、季龍は澠池へ敗走し、死体が三百余里にわたって累々と横たわった。鮮卑は密かに季龍と通じ、石生に背いて攻撃した。石生は当時蒲阪に駐屯していたが、石挺の死を知らず、恐れて単騎で長安へ逃れた。郭権は再び三千の兵を集め、越騎 校尉 こうい の石広と渭水の合流点で対峙した。石生はついに長安を去り、鶏頭山に潜伏した。将軍の蔣英が長安を固守した。季龍は石生が逃げたと聞くと、軍を進めて関中に入り、長安を攻撃し、十余日で陥落させ、蔣英らを斬った。諸将を分遣して汧に駐屯させた。雍州・秦州の漢人や異民族十余万戸を関東に移住させた。石生の部下が鶏頭山で石生を斬った。季龍は襄国に戻り、大赦を行い、石弘に暗示して自分に魏の台(宮廷)を建てるよう命じさせ、かつて魏が漢を補佐した故事のとおりにした。

郭権は石生が敗れたため、上邽を拠点として帰順した。 詔 により郭権を鎮西将軍・秦州 刺史 しし とし、これにより京兆・新平・扶風・馮翊・北地の諸郡がみなこれに呼応した。弘の鎮西将軍の石広が郭権と戦い、敗北した。季龍は郭敖とその子の石斌らに歩兵と騎兵四万を率いて討伐させ、華陰に駐屯させた。上邽の豪族が郭権を害して降伏した。秦州の三万余戸を青州・ へい 州の諸郡に移住させた。南 てい の楊難敵らが人質を送って和を通じた。長安の陳良夫が黒 きょう のもとに逃れ、北 きょう の四角王の薄句大らを招き誘って北地・馮翊をかく乱させ、石斌と対峙した。石韜らが騎兵を率いて句大の背後を牽制し、石斌と挟撃してこれを破り、句大は馬蘭山へ逃れた。郭敖らは孤軍を懸けて敗走する敵を追撃したが、 きょう 族に敗れ、死者は十のうち七八に及んだ。石斌らは軍を収めて三城に戻った。季龍はこれを聞いて大いに怒り、使者を遣わして郭敖を殺させた。石宏が怒りの言葉を口にしたので、季龍は彼を幽閉した。

石弘は 璽綬 じじゅ を携えて自ら季龍のもとへ赴き、 禅譲 の意向を告げた。季龍は言った。「天下の人々が自ら議論するはずだ。どうして自らこのことを論じる必要があろうか!」石弘は宮殿に戻り、母に対して涙を流して言った。「先帝は本当に何も残してくださらなかったのですね!」間もなく季龍は丞相の郭殷に節を持たせて入らせ、石弘を廃して海陽王とした。石弘はゆっくりと歩いて車に乗り、表情は平静で、群臣に向かって言った。「大統を継承するに堪えず、諸侯の皆様に顔向けができません。これも天命が去ったのです。また何を言いましょうか!」百官は涙を流さぬ者はなく、宮人たちは慟哭した。咸康元年、石弘と程氏、そして石宏・石恢を崇訓宮に幽閉し、まもなく殺害した。在位二年、時に二十二歳であった。

張賓

張賓、字は孟孫、趙郡中丘の人である。父の張瑤は中山太守であった。張賓は若い頃から学問を好み、広く経書や史書に通じ、章句の解釈にこだわらず、度量が広く大節を持ち、常に兄弟に言った。「私は自ら、智謀や見識は張良に劣らないと思うが、ただ高祖(劉邦)のような君主に出会わないだけだ。」中丘王の帳下 都督 ととく となったが、好みではなく、病気を理由に辞任した。永嘉の大乱の時、 石勒 せきろく が劉元海の輔漢将軍となり、諸将とともに山東へ下った。張賓は親しい者に言った。「私は多くの将軍を見てきたが、ただ胡人の将軍( 石勒 せきろく )だけがともに大事を成し遂げることができる。」そこで剣を提げて軍門に赴き、大声で面会を請うたが、 石勒 せきろく も彼を特に奇異とは思わなかった。後に次第に献策を進めるにつれ、ようやく彼を異才と認め、謀主として登用した。機会を無駄にせず、策に漏れがなく、 石勒 せきろく の基業を成し遂げたのは、すべて張賓の功績である。右長史・大執法となり、濮陽侯に封じられ、任用と待遇は優遇され、寵愛は当時最も勝っていたが、謙虚で慎み深く、心を開いて士を敬い、士が賢者であろうと愚者であろうと、彼を訪れる者はみなその真情を尽くすことができた。百官を粛清し、私的な親しみを断ち切り、内にあっては正しい言葉を述べ、外にあっては(功績を主君に)帰した。 石勒 せきろく は彼を非常に重んじ、毎朝、常に彼のために容貌を整え、言葉遣いを簡潔にし、「右侯」と呼んで名で呼ばず、 石勒 せきろく の朝廷で彼に比肩する者はなかった。

張賓が死ぬと、 石勒 せきろく は自ら臨んで彼を哭し、悲しみ慟哭して側近たちを感動させた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・右光禄大夫・儀同三司を追贈し、諡を景といった。葬送の時、正陽門まで見送り、彼の姿を見て涙を流し、側近たちを見て言った。「天は私の事業を成し遂げさせたくないのか。どうして私の右侯をこんなに早く奪うのか。」程遐が代わって右長史となったが、 石勒 せきろく は程遐と議論するたびに意見が合わないと、嘆いて言った。「右侯が私を去ってしまい、私にこのような者たちとともに事をさせている。なんと残酷なことか!」そして一日中涙を流した。