しん

巻一百三 載記第三 劉曜 りゅうよう

劉曜 りゅうよう

劉曜 りゅうよう は、 字 を永明といい、劉元海の同族の子である。幼くして孤児となり、元海に養育された。幼い頃から聡明で、非凡な器量を持っていた。八歳の時、元海に従って西山で狩りをしていたところ、雨に遭い、木の下で雨宿りをしていると、激しい雷が木を震わせ、周りの者は皆倒れ伏したが、曜の神色は平然としていた。元海はこれを異として言った。「これは我が家の千里駒だ。従兄( 劉曜 りゅうよう の父)は亡くならないだろう。」身長は九尺三寸、手を垂らすと膝を越え、生まれつき眉は白く、目には赤い光があり、ひげは百本余りしかないが、いずれも長さ五尺あった。性格は豪放で高潔、衆に群れず、読書は広く見聞することを志し、章句の細かい解釈にはこだわらず、文章を綴るのが巧みで、草書・隷書に優れていた。雄武は人に勝り、鉄の厚さ一寸を射て貫通させ、当時は神射と称された。特に兵書を好み、おおよそ暗誦していた。常に呉漢・鄧禹を軽んじ侮り、自らを楽毅・蕭何・曹参に比べたが、当時の人々はこれを認めず、ただ 劉聡 りゅうそう だけが常に「永明は世祖(光武帝)や魏武帝(曹操)の流れであって、どうして数公(呉漢ら)など問題になろうか」と言った。

二十歳の頃、 洛陽 に遊学し、事件に連座して誅殺されるところであったが、逃亡して朝鮮に潜伏し、赦免に遇って帰還した。自ら容貌が衆と異なるため、世に容れられないことを恐れ、管涔山に隠棲し、琴と書を友とした。かつて夜、一人で居ると、二人の童子が入ってきて 跪 き、「管涔王が小臣を使わして趙皇帝に謁見を奉り、剣一口を献上するよう申し付けました」と言い、前に置いて再拝して去った。燭火で見ると、剣の長さは二尺、光沢は並々ならず、赤玉の鞘で、背に銘があり「神剣は禦し、衆毒を除く」とあった。曜はこれを佩用した。剣は四季に従って五色に変化した。

劉元海の代にたびたび顕職を歴任し、後に相国に任じられ、中外諸軍事を 都督 ととく し、 長安 を鎮守した。靳准の難が起こると、長安から救援に向かった。赤壁に至った時、太保の呼延晏らが平陽から逃れて来て、太傅の朱紀、 太尉 たいい の范隆らと共に帝位に即くよう勧めた。曜は太興元年に皇帝を僭称し、境内で大赦を行ったが、靳准一族のみは赦免の対象外とし、元号を光初と改めた。朱紀を 司徒 しと に、呼延晏を 司空 しくう に任じ、范隆以下は皆もとの官位に復させた。征北将軍の劉雅、鎮北将軍の劉策を汾陰に駐屯させ、 石勒 せきろく と犄角の勢いをなした。

靳准は侍中の卜泰を遣わして 石勒 せきろく に降伏を申し出た。 石勒 せきろく は卜泰を拘束し、 劉曜 りゅうよう のもとに送った。曜は卜泰に言った。「先帝( 劉聡 りゅうそう )の末年は、まさに人倫が乱れ、宦官たちが政事を撹乱し、忠良の臣を誅滅した。誠に義士が匡正討伐すべき時であった。 司空 しくう (靳准)は忠烈の心を持ち、伊尹・ 霍光 かくこう のような権力を行使し、塗炭の苦しみを救い、朕をこの地位に至らせた。その功績は古人に勝り、徳は天地に及ぶ。朕は今、大きな艱難を鎮め救おうとしている。決して不当な処遇で君子や賢人に及ぶことはない。 司空 しくう が忠誠を貫き、早く朕の車駕を迎えるならば、政権は靳氏に委ね、祭祀は朕が執り行おう。朕のこの意を 司空 しくう に伝え、朝廷の士に宣べよ。」卜泰は平陽に戻り、 劉曜 りゅうよう の意向を詳しく伝えた。靳准は自ら 劉曜 りゅうよう の母と兄を殺したため、躊躇して従わなかった。まもなく喬泰、王騰、靳康、馬忠らが靳准を殺し、 尚書 令の靳明を盟主に推戴し、卜泰を使者として伝国の六璽を奉じて 劉曜 りゅうよう に降伏した。 劉曜 りゅうよう は大いに喜び、卜泰に言った。「朕がこの神璽を得て帝王となることができたのは、卿のおかげだ。」 石勒 せきろく はこれを聞いて大いに怒り、増兵して攻撃した。靳明は戦いに連敗し、使者を遣わして 劉曜 りゅうよう に救援を求めた。 劉曜 りゅうよう は劉雅、劉策らを派遣してこれを迎えさせた。靳明は平陽の士女一万五千人を率いて 劉曜 りゅうよう に帰順した。 劉曜 りゅうよう は靳明を誅殺するよう命じ、靳氏の男女は老若を問わず皆殺しにした。劉雅を派遣して母の胡氏の遺体を平陽から迎えさせ、粟邑に戻って葬り、墓号を陽陵とし、偽って宣明皇太后と諡した。高祖父の劉亮を景皇帝、曾祖父の劉広を献皇帝、祖父の劉防を懿皇帝、父を宣成皇帝と僭称して尊んだ。都を長安に移し、前に光世殿、後に紫光殿を造営した。妻の羊氏を皇后に立て、子の劉熙を皇太子とし、子の劉襲を長楽王、劉闡を太原王、劉沖を淮南王、劉敞を齊王、劉高を魯王、劉徽を楚王に封じ、諸宗室を徴して皆郡王に進封した。宗廟、 社稷 しゃしょく 、南北郊を整備した。水徳をもって しん の金徳に承け、国号を趙とした。犠牲の雄牛は黒を尊び、旗幟は玄色を尊び、冒頓単于を天に配祀し、劉元海を上帝に配祀し、境内で死刑以下の罪を大赦した。

黄石の屠各(匈奴の一部族)の路松多が新平・扶風で兵を起こし、数千の衆を集めて南陽王司馬保に帰附した。司馬保はその将の楊曼を雍州 刺史 しし に、王連を扶風太守に任じ、陳倉を占拠させた。張顗を新平太守に、周庸を安定太守に任じ、陰密を占拠させた。路松多は草壁を陥落させ、秦・隴の てい きょう の多くがこれに帰した。 劉曜 りゅうよう はその軍騎将軍の劉雅、平西将軍の劉厚を派遣して陳倉の楊曼を攻撃させたが、二十日経っても陥落しなかった。 劉曜 りゅうよう は中外の精鋭を率いて救援に向かい、雍城に到着した時、太史令の弁広明が 劉曜 りゅうよう に言った。「昨夜、妖星が月を犯しました。軍を進めるのは良くありません。」そこで 劉曜 りゅうよう は進軍を止めた。劉雅らに命じて包囲を維持し、陣営を固守させて、大軍を待たせた。

地震が発生し、長安は特にひどかった。当時、 劉曜 りゅうよう の妻の羊氏は特別な寵愛を受け、かなり政事に関与しており、これは陰(后宮)に余分な力がある兆候であった。

光初三年、 劉曜 りゅうよう は雍から出陣し、陳倉を攻撃した。楊曼と王連は謀って言った。「間者が戻って来たばかりで、五牛旗が立てられており、多くは胡の主( 劉曜 りゅうよう )が自ら来たと言っている。その鋒鋭は恐らく当たるべくもない。我々の食糧は既に少なく、長く支えることはできない。もし敵軍を城下に駐屯させ、百日も包囲されたら、兵刃を交えずとも我々は自滅してしまう。今いる兵を率いて一戦を交える方がよい。もし勝てば、関中は檄文を待たずして我々の下に来るだろう。もし敗れても、死は同じこと、早いか遅いかの違いはない。」そこで全軍を挙げて城を背にして陣を敷いたが、 劉曜 りゅうよう に敗れ、王連は戦死し、楊曼は南 てい に逃れた。 劉曜 りゅうよう は草壁に進攻し、またも陥落させた。路松多は隴城に逃れ、 劉曜 りゅうよう は安定を陥落させた。司馬保は恐れて桑城に遷った。 てい きょう は皆これに従った。 劉曜 りゅうよう は軍を整えて長安に帰還し、劉雅を大 司徒 しと に任命した。

しん の将軍李矩が金墉城を襲撃し、これを陥落させた。 劉曜 りゅうよう の左中郎将の宋始、振威将軍の宋恕が 石勒 せきろく に降伏した。 劉曜 りゅうよう はその大将軍・広平王の劉嶽を征東大将軍に任じ、洛陽を鎮守させた。ちょうど三軍に疫病が大流行したため、劉嶽は澠池に駐屯した。 石勒 せきろく は石生を急派して宋始らに応援させ、軍勢は非常に盛んだった。 劉曜 りゅうよう の将軍の尹安、趙慎らが洛陽を守って石生に降伏したため、劉嶽は軍を返し、陝城に駐屯した。

西明門内の大樹が風で折れ、一晩経つと、倒れた木が人の形に変じた。髪の長さは一尺、ひげと眉の長さは三寸で、いずれも黄白色であり、手を合わせたような形もあり、また両脚にスカートを着けたような形もあったが、ただ目と鼻がなかった。毎夜、音がし、十日で枝が生え、遂に大樹となり、枝葉は非常に茂った。

長水 校尉 こうい の尹車が謀反を企て、ひそかに巴の酋長の徐庫彭と結託した。 劉曜 りゅうよう は尹車を誅殺し、庫彭ら五十余人を阿房に囚禁して殺そうとした。光禄大夫の遊子遠が強く諫めたが、 劉曜 りゅうよう は聞き入れなかった。子遠が頭を地面に打ちつけて血を流すと、 劉曜 りゅうよう は大いに怒り、子遠を幽閉し、庫彭らをことごとく殺した。その死体を街路や路地に十日間さらした後、水に投げ捨てた。これにより巴と てい はことごとく反旗を翻し、巴の帰善王である句渠知を主に推戴した。四方の山の きょう てい ・巴・羯でこれに呼応する者は三十余万に及び、関中は大混乱に陥り、城門は昼間でも閉ざされた。子遠はさらに獄中から上表して諫めた。 劉曜 りゅうよう は激怒し、その上表文を破り捨てて言った。「大荔の奴隷め、命が今にも尽きようとしているのに憂えもせず、なおもこのようにするとは、死ぬのが遅いとでも思っているのか。」左右の者に命じて速やかに殺せと叱った。劉雅・朱紀・呼延晏らが諫めて言った。「子遠は幽閉されていながらなお諫めるのは、いわゆる 社稷 しゃしょく に忠を尽くし、死が迫っていることを知らないからです。陛下はたとえお用いになられなくとも、どうして殺されるのですか。もし子遠が朝に誅殺されるならば、臣らも暮れには死に、陛下の過ちの咎を明らかにしましょう。天下の人々は皆、陛下のもとを去って西海に身を投げて死ぬだけです。陛下はその後、誰とお過ごしになるというのですか。」 劉曜 りゅうよう の怒りが解け、子遠を赦免した。そこで内外に戒厳令を発し、自ら渠知を討伐しようとした。子遠が進言して言った。「陛下がもし愚臣の計略をお取り入れくださるならば、ご親征の労をかけずとも、一月のうちに平定することができます。」 劉曜 りゅうよう が「卿、試みに言ってみよ」と言うと、子遠は言った。「彼らは大志があるわけではなく、非分の望みを抱いているわけでもありません。ただ陛下の峻厳な法網に追い詰められただけです。今、死んだ者は追うことができません。逆賊の家族で老幼が奚官に没収された者たちを赦免し、互いに養育させ、元の生業に戻ることを許し、大赦を行って新たな出発をさせるのがよろしいでしょう。彼らに生きる道が開かれれば、降伏しないはずがありません。もし渠知が自ら罪が重いとしてすぐに降伏しないならば、臣に弱兵五千をお貸しください。陛下のために彼を梟首してみせます。陛下の将帥を煩わせることはありません。そうでなければ、今、賊の徒党はすでに多く、川を埋め谷を覆っています。たとえ陛下の天威をもって臨んだとしても、一年や二年では除くことはできないでしょう。」 劉曜 りゅうよう は大いに喜び、子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・ 都督 ととく 雍秦征討諸軍事に任じた。境内に大赦を行った。子遠は雍城に駐屯し、降伏する者は十余万に及び、進軍して安定に至ると、 てい きょう はことごとく降伏した。ただ句氏の宗族と党与五千余家だけが陰密に拠って保っていたが、これを攻撃して平定した。そこで軍を整えて隴右を巡行すると、陳安が郊外に出迎えた。

以前から、上郡の てい きょう 十余万落が要害の地に拠って降伏せず、酋長の虚除権渠が自ら秦王と号していた。子遠が軍を進めてその砦の下に至ると、権渠は兵を率いて迎え撃ち、五度戦って敗れた。権渠は恐れて降伏しようとしたが、その子の伊余が大言壮語して衆に言った。「以前、 劉曜 りゅうよう が自ら来た時でさえ、我々をどうすることもできなかった。ましてやこの偏師ごときで降伏させようとは。」精鋭の兵五万を率い、朝早くに陣営の門を圧迫した。左右の者が戦いを勧めたが、子遠は言った。「私は聞く、伊余の勇は当今無敵であり、兵馬の強さもまた彼に匹敵するものはない。さらにその父が新たに敗れ、怒気が非常に盛んである。かつ西戎は剽悍で強勁であり、その鋒鋭はとても比べられるものではない。急がずに、彼らの気勢が尽きるのを待って撃つのがよい。」そこで堅く陣を守って戦わなかった。伊余には驕りの色があった。子遠は彼の無防備なのを見計らい、夜、兵士に誓いを立てて早朝に食事をさせ、朝には大風と霧が起こった。子遠は言った。「天が我を助けている。」自ら士卒の先頭に立ち、陣営を掃討するように出撃し、夜明け頃には敵を覆滅し、伊余を生け捕りにし、その兵をことごとく捕虜にした。権渠は大いに恐れ、髪を振り乱し顔を傷つけて降伏した。子遠は 劉曜 りゅうよう に上奏し、権渠を征西将軍・西戎公とし、伊余の兄弟とその部落二十余万口を長安に分けて移住させた。西戎の中で権渠の部族が最も強く、皆その命令を受けて寇暴を働いていたが、権渠が降伏したので、帰順しない者はなかった。

劉曜 りゅうよう は大いに喜び、東堂で群臣を宴し、平生のことを語り合い、涙を流してすすり泣いた。そこで 詔 書を下して言った。「徳を褒め旧功を念うことは、聖王がまず行うところである。恩恵を思い孤を記録することは、明王の常たる典である。ゆえに世祖(光武帝)は河北で創業し、厳尤の孫に封を与えた。魏武(曹操)は梁宋で兵を整え、橋公の墓で追悼の意を表した。先に新たに贈られた大 司徒 しと ・烈湣公の崔岳、中書令の曹恂、晋陽太守の王忠、太子洗馬の劉綏らは、ある者は朕を幼少の頃から知り、ある者は朕が極めて困窮した時に救ってくれた。君子たちのことを思うと、実に我が心を傷つける。『詩経』に言うではないか、『心の中にしまっておく、いつか忘れる日があろうか』と。崔岳については、漢昌の初めに褒賞と贈官があったが、否運の時期に当たり、礼の規定が整っていなかった。今、崔岳に使持節・侍中・大 司徒 しと ・ 遼東 公を、曹恂に大 司空 しくう ・南郡公を、劉綏に左光禄大夫・平昌公を、王忠に鎮軍将軍・安平侯を追贈し、いずれも 散騎常侍 さんきじょうじ を加える。しかし皆、墓が荒れ果ててしまい、哀悼の意を表すすべがない。役人は速やかに崔岳らの子孫を尋ね訪れ、封土を授けて、朕の意にかなうようにせよ。」初め、 劉曜 りゅうよう が逃亡した時、曹恂と共に劉綏のもとに奔った。劉綏は彼らを古い櫃に隠し、王忠のもとに送り届けた。王忠は彼らを朝鮮に送った。一年余り後、飢えと困窮に陥り、姓名を変えて県の役人として客居した。崔岳が朝鮮令であった時、彼を見て異才と感じ、その由縁を問いただした。 劉曜 りゅうよう は頭を地面に打ちつけて自首し、涙を流して哀れみを請うた。崔岳は言った。「卿は崔元嵩(崔岳)が孫賓碩に及ばないと思うのか。どうしてそんなに恐れるのか。今、卿を捕らえる 詔 は非常に厳しく、民間では保つことはできない。この県は辺鄙で、情勢的に助け合うことができる。たとえ大きな急変があっても、せいぜい印綬を解いて卿と共に去るだけだ。私はすでに家門が衰え、兄弟の煩わしさもなく、身もまた薄福で、まだ息子もいない。卿は私の子弟のようなものだ。過度に心配するな。大丈夫が身を処し世に立つには、鳥獣でさえ人に寄ってくるなら救おうとする。ましてや君子をどうして救わないことがあろうか。」衣服を与え、書物を供給した。 劉曜 りゅうよう は崔岳に従い、学問の疑問点を質し、恩顧は非常に厚かった。崔岳は落ち着いて 劉曜 りゅうよう に言った。「劉生( 劉曜 りゅうよう )の風采と器量は神がかり的で、世に名を成す才能の持ち主だ。四海に微風が揺らぐようなことがあれば、英雄の魁は、卿こそその人である。」曹恂は困窮の中にあっても、 劉曜 りゅうよう に君臣の礼をもって仕えた。故に 劉曜 りゅうよう は皆に恩義を感じていた。

劉曜 りゅうよう は長楽宮の東に太学を、未央宮の西に小学を設立し、百姓の中から年齢二十五歳以下十三歳以上で、知恵があり教育できる者千五百人を選抜し、朝廷の賢人で老練な儒者で経書に明るく学問に篤実な者を選んで彼らを教えさせた。 中書監 ちゅうしょかん の劉均に国子祭酒を兼任させた。崇文祭酒を設置し、その位次は国子祭酒に次いだ。散騎侍郎の董景道は明経によって抜擢され崇文祭酒となった。遊子遠を大 司徒 しと に任じた。

曜は酆明観を建て、西宮を立て、滈池に陵霄台を築き、さらに霸陵の西南に寿陵を営もうとした。侍中の喬 と和苞が上疏して諫めて言った。「臣は聞きます。君主が事業を起こすときは、必ず天象を仰ぎ見て基準とし、下って人の時宜に順うものである。それゆえ衛文公は乱亡の後にあって、宗廟 社稷 しゃしょく が流れ漂って定まるところがなかったが、それでも上って営室の星を観測して楚の宮殿を構えた。彼はそのような急迫した状況でもなおこのようにしたので、康叔や武公の業績を興し、九百年の慶びを延ばすことができたのです。 詔 書を拝し、酆明観を営もうとされていますが、市井の者や草刈りの者までが皆、これを非難して言っています。『一つの観の工事で涼州を平定できるほどの費用だ』と。また勅旨を拝し、阿房宮にならって西宮を建て、瓊台を模して陵霄台を築こうとされています。これは酆明観の一万倍の費用、前の工事の一億倍の労力となります。この工事の費用をもってすれば、呉や蜀を併呑し、斉や魏を討ち滅ぼすこともできます。陛下はなぜ中興の日にあって、亡国の行いをなさるのですか。古来の聖王で、過ちのない者など誰がいるでしょうか。陛下のこの工事は、まさに過ちです。過ちは改めることに価値があり、最後まで貫くことは実に難しい。また伏して聞きます。勅旨により寿陵を営もうとされ、周囲四里、深さ二十五丈、銅で棺郭を作り、黄金で飾ると。恐らくこの工事の費用は国内で調達できるものではないでしょう。かつ臣は聞きます。堯は谷林に葬られ、市は店を変えず、顓頊は広陽に葬られ、地下は泉に及ばなかったと。聖王の終わりに対する態度はこのようなものです。秦の始皇帝は地下を三泉まで固め、周囲七里の陵墓を築きましたが、身が亡びた後、崩壊するのに時間はかかりませんでした。暗愚な君主の終わりに対する態度はこのようなものです。向魋が石の外棺を作ったとき、孔子は速やかに朽ちる方がましだと考えました。王孫が裸で葬られたとき、識者はその世を正す行いを称賛しました。古来、滅びない国はなく、掘られない墓はありません。だから聖王は厚葬が害を招くことを知って、それをしなかったのです。臣下が君父に対して、陵墓を山岳のように高く広くしたいと思わないはずがありません。ただ、始めから終わりまでを全うし、万世に安泰で固くあることを優先するだけです。興亡と奢侈・倹約の例が、明らかに目の前にあります。どうか陛下はこれをお考えください。」曜は大いに喜び、 詔 書を下して言った。「二人の侍中は懇ろで古人の風格と功業がある。まさに 社稷 しゃしょく の臣と言えよう。二君がいなければ、朕はどうしてこの言葉を聞くことができただろうか。孝明皇帝が太平の世で、四海に憂いのない時にあってさえ、なお鐘離意の一言を容れて北宮の工事をやめた。まして朕のような暗愚な者が、今この極めて疲弊した時にあって、どうして明らかな教えを敬って従わないことがあろうか。今、勅して寿陵の制度をすべて停止し、すべて霸陵の法に従うこととする。『詩経』に言わないか。『答えない言葉はなく、報いない徳はない』と。喬 を安昌子に、和苞を平輿子に封じ、ともに諫議大夫を兼任させる。天下に広く告げ知らせ、この小さな朝廷が過ちを聞くことを願っていることを知らしめよ。今後、政治や法令で時勢に不便で、 社稷 しゃしょく に不利なものがあれば、宮門に至って思いのままに言上し、遠慮することはない。」酆水の苑を廃して貧しい家に与えた。

終南山が崩壊し、長安の人劉終が崩れたところで一尺四方の白玉を得た。文字があり、「皇亡、皇亡、敗趙昌。井水竭、構五梁、咢酉小衰困囂喪。嗚呼!嗚呼!赤牛奮靷其盡乎!」と書かれていた。当時、群臣は皆祝賀し、 石勒 せきろく が滅びる兆しだと考えた。曜は大いに喜び、七日間の斎戒の後、太廟でこれを受け、境内で大赦を行い、劉終を奉瑞大夫とした。 中書監 ちゅうしょかん の劉均が進言して言った。「臣は聞きます。国は山川を主とし、だから山が崩れ川が枯れると、君主は慎んで行動を控えるものです。終南山は京師の鎮めであり、国が仰ぎ見る山です。理由もなく崩れたのですから、その凶事は極言すべきです。昔、三代の末世にも、その災いはこのようでした。今、朝臣は皆、祥瑞だと言いますが、臣だけが違うと言います。確かに上は聖旨に逆らい、下は衆議に背きます。しかし臣は大理に通じず、ひそかに同意できません。なぜならば、玉は山石に対して、君主が臣下に対しての関係と同じです。山が崩れ石が壊れるのは、国が傾き人が乱れる象徴です。『皇亡、皇亡、敗趙昌』というのは、皇室が趙に敗れ、趙がそれによって昌盛するということです。今、大趙は秦や雍の地に都していますが、 石勒 せきろく は趙の地全体を跨いでいます。趙昌の応は 石勒 せきろく にあるのであって、我が国にはありません。『井水竭、構五梁』というのは、井は東井を指し、秦の分野です。『五は五車』を指し、梁は大梁を指します。五車と大梁は趙の分野です。これは秦が枯れ滅びて、趙を構成するという意味です。『咢』とは、歳の次名で作咢(作噩)のことです。歳星が作咢(酉の年)を馭する年に、敗軍殺将の事があると言っています。『困』とは困敦を指し、歳が子の年の名称です。玄囂もまた天の次にあります。歳星が子を馭する年に、国は喪亡すべきだと言っています。『赤牛奮靷』とは赤奮若を指し、丑の歳の名称です。『牛』は牽牛を指し、東北維の宿で、丑の分野です。歳が丑にある時に滅亡し、尽きて再び遺るものはないと言っています。これは戒めと悟りが盛んに現れ、陛下に徳化を勤めて修め、これによって災いを払うことを望んでいるのです。たとえ嘉祥であったとしても、なお陛下には朝夕慎んでこれに応えることを願います。『書経』に言います。『たとえ善くても休むなかれ』と。どうか陛下には周公旦が盟津で示した美事を追い求め、虢公が夢で廟の凶事を語ったような卑しい行いを捨て、謹んで身を清めて妖言を誅するのを待たれるようお願いします。」曜は茫然として表情を変えた。御史が劉均を弾劾し、狂言や盲人の説で祥瑞を誣いるものだとして、大不敬の罪に論ずるよう請うた。曜は言った。「この災いと瑞祥は、確かに知り得ないことだ。朕の不徳を深く戒めるものであり、朕はその忠義と恩恵を多く受け取っている。何の罪があろうか。」

曜は自ら てい きょう を征伐し、仇池の楊難敵が軍勢を率いて防戦に来たが、前鋒がこれを撃破した。難敵は退いて仇池を守り、仇池の諸 てい きょう の多くが曜に降った。曜は後に再び西進して南安の楊韜を討った。韜は恐れ、隴西太守の梁勳らとともに曜に降り、皆列侯に封じられた。侍中の喬 に甲士五千を率いさせ、韜らと隴右の一万余戸を長安に移住させた。曜はさらに仇池に進攻した。当時、曜は病に臥せり、さらに疫病が甚だしく、撤退を議論したが、難敵が背後を襲うことを恐れ、その尚書郎の王獷を光国中郎将として仇池に派遣し、難敵を説得させた。難敵はそこで使者を派遣して藩属を称した。曜は大いに喜び、難敵を使持節・侍中・仮黄鉞・ 都督 ととく 益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大将軍・益寧南秦三州牧・領護南 てい 校尉 こうい ・寧 きょう 中郎将・武都王に任命し、子弟で公侯や列将、二千石となる者十五人を任じた。

陳安が朝見を請うたが、 劉曜 りゅうよう は病が重いことを理由に許さなかった。陳安は怒り、また 劉曜 りゅうよう が死んだと思い込んで、大いに略奪して帰還した。 劉曜 りゅうよう の病は非常に重く、馬車に乗って帰還し、配下の将軍呼延実に輜重の監視を後方で命じた。陳安は精鋭の騎兵を率いて途中でこれを襲撃した。呼延実は逃走して戦う余地もなく、長史の魯憑とともに陳安に捕らえられた。陳安は呼延実を拘束して言った。「 劉曜 りゅうよう はすでに死んだ。お前は誰を補佐するというのか?この私がそなたと共に最後まで大業を成し遂げよう。」呼延実は陳安を叱りつけて言った。「犬め!お前は人の栄寵を受け、疑われることのない地位にありながら、以前には司馬保に背き、今またこのようなことをする。お前は自分を主上と比べてどう思う?心配するのは、お前が間もなく上邽の大通りで梟首されることであって、何が大業だ!早く私を殺し、私の首を上邽の東門に懸けて、大軍が城に入るのを見届けさせよ。」陳安は怒り、遂に彼を殺した。魯憑を参軍に任じ、また弟の陳集と将軍の張明らに騎兵二万を率いて 劉曜 りゅうよう を追撃させた。 劉曜 りゅうよう の衛軍である呼延瑜が迎撃し、彼らを撃破して斬り、その兵をすべて捕虜とした。陳安は恐れ、上邽へと急いで帰還した。 劉曜 りゅうよう は南安から帰還した。陳安は配下の将軍劉烈、趙罕に汧城を襲撃させ、これを陥落させた。西州の てい 族や きょう 族はすべて陳安に従った。陳安の兵馬は強大で、その数は十余万に及び、自ら使持節・大 都督 ととく ・仮黄鉞・大将軍・雍涼秦梁四州牧・涼王を称し、趙募を相国とし、左長史を兼任させた。魯憑は陳安に向かって大声で泣きながら言った。「私は陳安の死を見るに忍びない。」陳安は怒り、彼を斬るよう命じた。魯憑は言った。「死は私の本分である。私の首を秦州の大通りに懸けて、趙( 劉曜 りゅうよう )が陳安を斬るのを見届けさせよ。」こうして彼を殺した。 劉曜 りゅうよう は魯憑の死を聞き、悲しみ慟哭して言った。「賢人は、天下の望みである。賢人を害することは、天下の心情を塞ぐことだ。太平の世の君主でさえ臣下や妾の心を損なうことを敢えてしないのに、ましてや天下を治めるにあたってどうだろうか!陳安は今、賢人を招き哲人を採るべき時に、君子を害して当世の望みを絶った。私は彼が何も成し得ないと知っている。」

休屠王の石武が桑城を挙げて降伏した。 劉曜 りゅうよう は大いに喜び、石武を使持節・ 都督 ととく 秦州隴上雑夷諸軍事・平西大将軍・秦州 刺史 しし に任命し、酒泉王に封じた。

劉曜 りゅうよう の皇后羊氏が死去し、偽の諡号を献文皇后とした。羊氏は内では特別な寵愛を受け、外では朝政に参与し、 劉曜 りゅうよう に三人の子、熙、襲、闡を産んだ。

劉曜 りゅうよう は初めて、官職のない者は馬に乗ることを許さず、禄八百石以上の婦女のみが錦繡の衣を着ることを許し、秋の農作業が終わってからでなければ酒を飲むことを許さず、宗廟や 社稷 しゃしょく の祭祀以外では牛を殺すことを許さず、違反者はすべて死刑とする禁令を出した。 劉曜 りゅうよう は太学に臨み、上第の学生を引見して試験し、郎中に任命した。

武功の男子蘇撫と陝の男子伍長平がともに女子に変化した。陝で石がものを言い、「東に行くな」と言うようなことを言った。

劉曜 りゅうよう が父と妻を葬ろうとし、粟邑に親しく赴いてその規模を測った。土を盛って墳墓とし、その下の周囲は二里に及び、作業に従事する者は続けて脂燭を使い、怨嗟の声が道路に満ちた。遊子遠が諫めて言った。「臣は聞きます。聖主明王、忠臣孝子が葬りを終えるにあたっては、棺は身体を覆うのに足り、槨は棺を覆うのに足り、墓室は槨を覆うのに足りるだけで、封土を築かず樹木を植えず、永遠の計とします。伏して思いますに、陛下は聖なる慈愛を幽遠に及ぼし、神の鑑識は遠くまで通じておられ、常に清廉倹約をもって下を思いやることを先とし、 社稷 しゃしょく の資財の蓄えを根本とされています。今、二陵の費用は億単位に達し、六万人の労働者が百日作業する計算で、用いる労力は六百万功です。二陵は皆、下は三泉まで固め、上は百尺の高さを築き、石を積んで山とし、土を増やして丘とし、古墳を千百の数で発掘し、役夫の叫び嘆く声は天地を塞ぎ、骸骨が原野に晒され、哭き声が街路に満ちております。臣はひそかに、先帝・先后に益するところはなく、ただ国が蓄えた力を喪失するだけであると考えます。陛下がもし堯舜の軌跡を仰ぎ尋ねられるならば、功は百万を超えず、費用も千単位を超えず、下には怨む骨もなく、上には怨む人もなく、先帝・先后は泰山のような安らぎを得られ、陛下は舜、禹、周公の美を享受されるでしょう。どうか陛下にお察しください。」 劉曜 りゅうよう は聞き入れず、配下の将軍劉岳らに騎兵一万を率いさせ、父と弟の劉暉の遺骸を太原から迎えさせた。疫病が大流行し、死者は十のうち三、四に及んだ。上洛の男子張盧が死んで二十七日目に、彼の墓を盗掘する者がいて、張盧は蘇生した。 劉曜 りゅうよう は父を葬り、その墓を永垣陵と号した。妻の羊氏を葬り、その墓を顯平陵と号した。境内で殊死以下の罪を大赦し、人々に爵位を二級賜り、孤老や貧病で自活できない者には帛をそれぞれ差等を設けて与えた。

太寧元年、陳安が南安で 劉曜 りゅうよう の征西将軍劉貢を攻撃した。休屠王の石武が桑城から上邽を攻撃しようとし、南安の包囲を解こうとした。陳安はこれを聞いて恐れ、上邽へ急いで帰還し、瓜田で遭遇した。石武は衆寡敵せずとみて、張春の旧塁に逃れて守りを固めた。陳安は軍を率いて石武を追い、「叛逆の胡奴め!必ずやこの奴を生け捕りにし、それから劉貢を斬るのだ」と言った。石武は塁を閉ざして防いだ。劉貢は陳安の後軍を破り、一万余りを捕虜にし斬った。陳安は急いで救援に赴いたが、劉貢は迎撃してこれを破った。間もなく石武の騎兵が大挙して到着し、陳安の軍は大敗し、騎兵八千を収容して隴城に逃れた。劉貢は石武に後続の兵を監督させ、自ら士卒の先頭に立ち、戦うたびに陳安を破り、遂に陳安を隴城に包囲した。

大雨が長く降り、 劉曜 りゅうよう の父の墓の門屋を雷が震わせ、大風が彼の父の寝堂を垣の外五十余歩のところに吹き飛ばした。 劉曜 りゅうよう は正殿を避け、素服で東堂で五日間哭き、鎮軍将軍の劉襲、太常の梁胥らに修復させた。松柏などの多くの木々が植えられて林となっていたが、この時までにすべて枯れてしまった。大司馬の劉雅を太宰に任命し、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許し、入朝の際に小走りせず、拝礼の際に名を唱えられず、千人の兵と百騎の騎兵を与え、甲冑と武器を持った百人が殿中に入ることを許し、班剣を六十人増やし、前後に鼓吹を各二部ずつ与えた。

劉曜 りゅうよう は自ら陳安を征伐し、陳安を隴城に包囲した。陳安は頻繁に出撃して挑戦したが、繰り返し撃破され、八千余りの首級を斬られ捕虜にされた。右軍の劉幹が平襄を攻撃し、これを陥落させた。隴上の諸県はすべて降伏した。隴右の殊死以下の罪を部分的に赦したが、陳安と趙募だけはその赦免の対象外とした。陳安は楊伯支、姜沖児らに隴城を守らせ、騎兵数百を率いて包囲を突破し出撃し、上邽と平襄の兵を引き連れて戻り、隴城の包囲を解こうとした。陳安が出撃した後、上邽が包囲され、平襄が敗れたことを知り、南の陝中へ逃走した。 劉曜 りゅうよう は将軍の平先、丘中伯に精鋭の騎兵を率いて陳安を追撃させ、頻繁に戦って彼を破り、四百余りの首級を捕らえ斬った。陳安は壮士十余騎とともに陝中で格闘戦を繰り広げた。陳安は左手に七尺の大刀を振るい、右手に丈八の蛇矛を執り、近くで交戦すれば刀と矛をともに発して、一度に五、六人を害し、遠くでは両方の弓袋を帯びて、左右に騎射しながら走った。平先もまた壮健で人並み外れ、勇猛敏捷で飛ぶようであり、陳安と組み打ちして戦い、三度交戦し、その蛇矛を奪って退いた。日が暮れ、雨がひどくなったため、陳安は馬を捨て、左右の者五、六人とともに山嶺を歩いて越え、溪澗に隠れた。翌日、彼を探したが、遂に所在がわからなくなった。連日の雨がようやく晴れた時、輔威将軍の呼延清がその足跡をたどり、澗の曲がりくねったところで陳安を斬った。 劉曜 りゅうよう は大いに喜んだ。

陳安は人々を慰撫し接遇するのが巧みで、吉凶や険難を部下と共にし、彼が死ぬと、隴上の人々は彼を歌った。「隴上の壮士に陳安あり、躯幹は小さいが腹中は広く、将士を愛養して心肝を同じくす。䯀驄の父馬に鉄の瑕の鞍、七尺の大刀を奮いて湍の如く、丈八の蛇矛を左右に盤らす。十度突撃し十度決戦し前に立つ者なし。戦い始めて三度交わり蛇矛を失い、我が䯀驄を棄てて厳しい幽谷に逃れ、我が外援として首を懸けらる。西流の水よ東流の河よ、一度去って還らず、なんとせんや子を!」 劉曜 りゅうよう はこれを聞いて賞賛し哀悼し、楽府に命じてこの歌を歌わせた。

楊伯支が姜沖児を斬り、隴城を挙げて降伏した。宋亭が趙募を斬り、上邽を挙げて降伏した。秦州の大姓である楊氏、姜氏らの一族二千余戸を長安に移住させた。 てい 族や きょう 族はすべて降伏し、人質を送ってきた。

当時、劉岳は涼州 刺史 しし の張茂と河上で対峙していたが、 劉曜 りゅうよう は隴から長駆して西河に至り、兵士二十八万五千を率い、河に臨んで陣営を連ね、百余里にわたり、鐘鼓の音が河を沸き立たせ地を震わせ、古来より軍勢の盛んなことこれに比するものはなかった。張茂が河に臨んで配置していた諸々の守備隊は皆、風の便りを聞いて敗走した。 劉曜 りゅうよう は声を張り上げて百道ともに渡河し、 姑臧 まで一気に進むと宣伝し、涼州は大いに恐れ、人々に固守する意志はなかった。諸将は皆、速やかに渡河することを望んだが、 劉曜 りゅうよう は言った。「我が軍勢は盛んではあるが、魏武帝(曹操)の東征を超えるものではない。威を畏れて来た者のうち、三分の二はそうである。中軍の宿衛はすでに皆、疲れ老いて、用いることができない。張氏は我が新たに陳安を平定し、軍勢が充実しているのを見て、形勢と声勢から言えば、彼らの五郡の兵衆では抗し得ないと考え、必ず恐れて帰順し、制を受けて藩国を称するであろう。我はさらに何を求めようか!卿らは試みよ、中旬を出ずして、張茂の上表が届かなければ、我は卿らに負い目を負うことになろう。」張茂は恐れ、果たして使者を遣わして藩国を称し、馬一千五百匹、牛三千頭、羊十万頭、黄金三百八十斤、銀七百斤、女妓二十人、および諸々の珍宝珠玉、方域の美貨を献上した。数えきれないほどであった。 劉曜 りゅうよう は大いに喜び、その大鴻臚の田崧に命じて張茂を使持節・仮黄鉞・侍中・ 都督 ととく 涼南北秦梁益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師・領大司馬・涼州牧・領西域大都護・護 てい きょう 校尉 こうい ・涼王に任命させた。 劉曜 りゅうよう は河西から帰還し、胡元を遣わしてその父と妻の墓を高さ九十尺に増築させた。

楊難敵は陳安が既に平定されたことを受け、内心危惧を抱き、漢中に奔った。鎮西の劉厚がこれを追撃し、その輜重千余両、男女六千余人を捕獲し、仇池に帰還した。 劉曜 りゅうよう は大鴻臚の田崧を鎮南大将軍・益州 刺史 しし とし、仇池を鎮守させ、劉嶽を侍中・ 都督 ととく 中外諸軍事とし、進めて中山王に封じた。

初め、靳準の乱の時、 劉曜 りゅうよう の世子の劉胤は黒匿郁鞠の部に没していたが、この時、劉胤が自ら名乗り出たので、郁鞠は大いに驚き、衣服と馬を支給し、自分の子を遣わして送還した。 劉曜 りゅうよう は劉胤に対面して悲しみ慟哭し、郁鞠の忠誠を称え、彼を使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・忠義大将軍・左賢王に任命した。劉胤は字を義孫といい、姿形が美しく、機知に富んだ応対が巧みで、十歳の時、身長七尺五寸、眉や鬢が絵のようであった。 劉聡 りゅうそう はこれを奇異に思い、 劉曜 りゅうよう に言った。「この児の神気は、義真と同じであろうか!確かに卿の嫡子とすべきであり、卿は文王が伯邑考を廃して武王を立てた意を考えるべきである。」 劉曜 りゅうよう は言った。「臣の藩国は、祭祀を守るだけで十分であり、長幼の倫を乱すことはできません。」 劉聡 りゅうそう は言った。「卿の勲功は天地に届き、国は百城を兼ね、当代において太師の位を受け、専征の任に当たり、五侯九伯が専征するようなものである。卿の子孫を、どうして諸藩国と同じと言えようか!義真が遠く太伯の高く譲る風を追うことができないなら、我は卿のために一国を封じるに過ぎない。」義真は、 劉曜 りゅうよう の子の劉儉の字である。そこで劉儉を臨海王に封じ、劉胤を世子に立てた。劉胤は幼少より離散と苦難に遭い、異境を流浪したが、風骨は優れて盛んに茂り、爽やかで朗らかで卓抜していた。身長八尺三寸、髪は身長と同じ長さで、力強く弓射に優れ、勇猛で敏捷なことは風雲のようであった。 劉曜 りゅうよう はこれによって彼を重んじ、その朝臣もまた彼に期待を寄せた。 劉曜 りゅうよう はそこで群臣を見回して言った。「義孫は、歳寒でも凋まず、涅(黒い染料)でも染まらない者と言えよう。義光(劉熙)は先に既に立てられているが、まだ幼く儒弱で謹み深く、今の世の皇太子としては難しいのではないかと恐れる。これでは 社稷 しゃしょく を固め、下って義光を愛することにはならないであろう。義孫は年長で明徳があり、また先の世子でもある。朕は遠く周の文王を追い、近く光武帝の跡を踏み、宗廟を泰山のように安泰にし、義光に無疆の福を享受させたいと思う。卿らの意見はどうか。」その太傅の呼延晏らは皆言った。「陛下が遠く周漢に擬え、国家の無窮の計を立てられることは、臣らが頼むのみならず、実に宗廟四海の慶びであります。」左光禄の卜泰、太子太保の韓広らが進み出て言った。「陛下がもし廃立を正しいとお考えなら、日月の明を降ろして群臣にご下問されるべきではありません。もし疑いとお考えなら、臣らの異同の言葉をお聞きになりたいのでしょう。臣らはひそかに、誠に太子を廃することは正しくないと考えます。なぜなら、昔、周の文王は未だ立てる前に、聖なる表れを見て超えて立てたのであり、それはよろしいでしょう。光武帝は母の色(寵愛)によって廃立を行いましたが、どうして聖朝の模範足りえましょうか!光武帝がもし東海王(劉彊)を廃して統を継がせたなら、どうして明帝(劉荘)に及ばないことがあったでしょうか!皇子の劉胤は文武の才略があり、神度は広大で遠大、確かにただ一人で当世を絶し、周の武王(発)の跡を擬するに足ります。しかし、太子(劉熙)は孝友仁慈で、志は謙虚で雅やかであり、また聖なる基業を堂々と担い、太平の賢主となるに足ります。ましてや皇太子は、天地四方の人神が望みを寄せる存在であり、軽々しく廃易すべきではありません。陛下がもし本当にそうなさるなら、臣らは死ぬのみであり、 詔 を奉じることはできません。」 劉曜 りゅうよう は黙った。劉胤が前に進み出て泣きながら言った。「慈父が子に対しては、『屍鳩』の仁を存することを務めるべきであり、どうして劉熙を廃して臣を立てることができましょうか!陛下がこのように誤った恩寵を賜わるなら、臣はここで死んで、赤心を明らかにしたいと思います。また、陛下がもしその醜さを忘れて愛し、臣がわずかに指図を受けられるほどであるとお考えなら、臣もまた義光を輔導し、聖なる軌範を仰ぎ遵うことができるでしょう。」そして涙を流してすすり泣き、朝臣を悲しみ感動させた。 劉曜 りゅうよう もまた、太子が羊氏の生んだ子であり、羊氏が寵愛を受けていることから、哀れに思い廃するに忍びず、やめた。前妻の卜氏を追諡して元悼皇后とした。彼女は劉胤の母である。卜泰は劉胤の母方の叔父であり、 劉曜 りゅうよう は彼を称え、上光禄大夫・儀同三司・領太子太傅に任じた。劉胤を永安王に封じ、侍中・衛大将軍・ 都督 ととく 二宮禁衛諸軍事・開府儀同三司・録尚書事を兼任させ、領太子太傅とし、皇子と号した。劉熙に命じて劉胤に対して家族の礼を尽くさせた。

その時、鳳凰が五羽の雛を連れて故未央殿に五日間翔り、悲しげに鳴いて餌を食べず、皆死んだ。 劉曜 りゅうよう は皇后劉氏を立てた。

石勒 せきろく の部将の石他が雁門から上郡に出て、安国将軍・北 きょう 王の盆句除を襲撃し、三千余りの落(集落)を捕虜とし、牛馬羊百余万頭を獲て帰還した。 劉曜 りゅうよう は大いに怒り、袖を払って立ち上がった。この日、渭城に駐屯し、劉嶽を派遣して追撃させ、 劉曜 りゅうよう 自身は富平に駐屯し、劉嶽の声援とした。劉嶽は石他と河濱で戦い、これを破り、石他とその甲士一千五百級を斬り、河に投身して死んだ者は五千余人に上り、捕虜にした者を全て取り戻し、軍を整えて帰還した。

楊難敵は漢中から帰還して仇池を襲撃し、これを陥落させ、田崧を捕らえ、自分の前に立たせた。難敵の左右が田崧に拝礼するよう叱責すると、田崧は目を怒らせて彼らを叱りつけて言った。「 てい の犬め!どうして天子の牧伯(州牧)が賊に向かって拝礼することがあろうか!」難敵は言った。「子岱(田崧の字)、我は子と共に終に大事を定めよう。子は劉氏に尽忠すべきと言うが、我だけができないというのか!」田崧は厳しい表情で大声で言った。「お前のような賊たる てい の奴隷めが、どうして分を超えた望みを持とうなどと!我は寧ろ国家の鬼となろうとも、どうしてお前の臣下になれようか。どうして速やかに我を殺さないのか!」振り返って一人を押しのけ、その剣を奪い、前に進んで難敵を刺したが、当たらず、難敵に殺された。

劉曜 りゅうよう は劉岳を派遣して洛陽の石生を攻撃させ、近隣の郡の甲士五千人と宿衛の精鋭兵一万人を配属し、盟津から渡河させた。鎮東将軍の呼延謨は荊州・司州の兵を率いて崤山・澠池から東進した。劉岳は 石勒 せきろく 方の盟津・石梁の二つの守備拠点を攻撃し、これを陥落させ、五千余りの首級を斬り捕らえ、金墉で石生を包囲した。 石季龍 が歩兵・騎兵四万を率いて成皋関から進入してきたので、劉岳は兵を布陣してこれを待ち受けた。洛水の西で戦い、劉岳の軍は敗北し、劉岳は流れ矢に当たり、石梁に退却して守りを固めた。石季龍は塹壕を掘り柵を巡らして包囲陣を敷き、内外の連絡を遮断した。劉岳の兵士たちはひどく飢え、馬を殺して食べた。石季龍はさらに呼延謨を破り、これを斬った。 劉曜 りゅうよう は自ら軍を率いて劉岳を救援し、石季龍は騎兵三万を率いて迎え撃った。 劉曜 りゅうよう の前軍の劉黒が八特阪で石季龍の将軍石聡を大破した。 劉曜 りゅうよう は金穀に駐屯したが、夜、理由もなく大いに驚き、軍中が潰乱し、澠池へ退却した。夜中にまた驚き、兵士たちが逃げ散り、ついに長安に帰還した。石季龍は劉岳とその部将の王騰ら八十余人、および てい きょう 三千余人を捕らえ、襄国へ送り、兵士一万六千人を生き埋めにした。 劉曜 りゅうよう は澠池から帰還すると、喪服を着て郊外で慟哭し、七日後にようやく城に入った。

武功では豚が犬を産み、上邽では馬が牛を産み、その他さまざまな妖変が記録しきれないほど起こった。 劉曜 りゅうよう は公卿たちに命じ、それぞれ博識で直言する士を一人ずつ推薦させた。司馬の劉均が参軍の台産を推薦したので、 劉曜 りゅうよう は自ら東堂に臨み、中黄門を遣わして策問させた。台産はその原因を極めて率直に述べ、 劉曜 りゅうよう はそれを見て賞賛し、東堂に引見して政事について諮問した。台産は涙を流してすすり泣き、災変の禍と政治教化の欠陥を詳しく陳述し、言葉の趣旨は誠実で率直であった。 劉曜 りゅうよう は表情を改めて礼遇し、ただちに博士祭酒・諫議大夫に任じ、太史令を兼任させた。その後、台産の言ったことはすべて的中し、 劉曜 りゅうよう はますます彼を重用し、一年のうちに三度昇進させ、尚書・光禄大夫・太子少師を歴任させ、位は特進に至った。

劉曜 りゅうよう は劉胤を大司馬に任命し、南陽王に進封し、漢陽の諸郡十三郡をその封国とした。渭城に単于台を設置し、劉胤を大単于に任命し、左右賢王以下を置き、すべて胡・羯・鮮卑・ てい きょう の豪傑をこれに充てた。

劉曜 りゅうよう は長安に帰還して以来、憤りと恨みから病気を発し、この時になってようやく快癒したので、長安で殊死以下の罪を特別に赦免した。汝南王の劉咸を 太尉 たいい ・録尚書事に任命し、光禄大夫の劉綏を大 司徒 しと に、卜泰を大 司空 しくう に任命した。

劉曜 りゅうよう の妻の劉氏が重病となり、 劉曜 りゅうよう は自ら見舞いに行き、言いたいことを尋ねた。劉氏は泣いて言った。「妾の叔父の劉昶には子がおらず、妾は幼い頃から叔父に養育され、恩情と養育は非常に厚く、その恩徳に報いることができません。陛下には彼を貴び立てていただきたいと願います。また、妾の叔父の劉皚の娘の劉芳は徳と容色を備えておりますので、後宮に加えていただきたいと願います。」 劉曜 りゅうよう はこれを承諾した。劉氏は言い終わると亡くなり、偽諡を献烈皇后とした。劉昶を使持節・侍中・大 司徒 しと ・録尚書事に任命し、河南郡公に進封し、劉昶の妻の張氏を慈郷君に封じ、劉皚の娘の劉芳を皇后に立てたのは、劉氏の言葉を思い起こしたからである。まもなく驃騎将軍の劉述を大 司徒 しと に、劉昶を太保に任命した。公卿以下の子弟で勇猛で有能な者を召し出して親御郎とし、鎧を着て鎧馬に乗せ、行動に従わせて、折衝の任に充てた。尚書の郝述と都水使者の支当らが強く諫めたので、 劉曜 りゅうよう は大いに怒り、毒を飲ませて殺した。

咸和三年、夜に三人の金面で唇の赤い者が、東に向かって逡巡し、何も言わずに退いていく夢を見た。 劉曜 りゅうよう は拝礼し、その足跡を踏んだ。朝になって公卿以下を召し集めて議論すると、朝臣たちは皆、吉祥であると祝賀したが、ただ太史令の任義だけが進み出て言った。「三という数は、歴運が統べる極みです。東は震の方位で、王者の始まりの次第です。金は兌の方位で、物事が衰え落ちることを意味します。唇が赤くてものを言わないのは、事が終わることです。逡巡して揖譲するのは、退く道です。それに拝礼するのは、人に屈服することです。足跡を踏んで行くのは、慎重に境界を出ないことです。東井は秦の分野、五車は趙の分野です。秦の兵が必ず暴発し、君主を失い軍を喪い、敗れて趙の地に留まるでしょう。遠くて三年、近くて七百日のうちに、その応報は遠くありません。願わくば陛下はよく考えてこれを防がれますように。」 劉曜 りゅうよう は大いに恐れ、そこで自ら南北の郊祀を行い、神祠を飾り繕い、山川に望祭の礼を尽くし、行き届かないところはなかった。殊死以下の罪を大赦し、百姓の租税を半減した。長安では春から雨が降らず、五月に至った。

劉曜 りゅうよう はその武衛将軍の劉朗に騎兵三万を率いさせて仇池の楊難敵を襲撃させたが、陥落させることができず、三千余戸を略奪して帰還した。 張駿 は 劉曜 りゅうよう の軍が石氏に敗れたと聞き、 劉曜 りゅうよう の官号を廃し、再び晋の大将軍・涼州牧を称し、金城太守の張閬と 枹罕 護軍の辛晏、将軍の韓璞らに数万の兵を率いさせ、大夏から出撃して秦州の諸郡を攻撃略奪させた。 劉曜 りゅうよう は劉胤に歩兵・騎兵四万を率いさせてこれを迎撃させ、洮水を挟んで七十余日対峙した。冠軍将軍の呼延那雞が親御郎二千騎を率いて、その補給路を遮断した。劉胤が軍を渡河させて迫ると、韓璞の軍は大いに潰乱し、涼州へ逃げ帰った。劉胤はこれを追撃し、令居に至って二万の首級を斬った。張閬と辛晏は数万の兵を率いて 劉曜 りゅうよう に降伏し、いずれも将軍に任じられ、列侯に封じられた。

石勒 せきろく は石季龍に四万の兵を率いさせ、軹関から西に入り 劉曜 りゅうよう を討伐させた。河東でこれに呼応する者が五十余県に及び、蒲阪を攻撃した。 劉曜 りゅうよう は蒲阪を救援しようとしたが、張駿や楊難敵が隙をついて長安を襲うことを恐れ、その河間王の劉述に てい きょう の兵を発動させて秦州に駐屯させた。 劉曜 りゅうよう は内外の精鋭をすべて動員し、水陸から救援に向かい、衛関から北へ渡河した。石季龍は恐れて軍を引き退かせた。 劉曜 りゅうよう はこれを追撃し、高候で追いついて大戦し、これを破り、その将軍の石瞻を斬り、死体が二百余里にわたって枕のように連なり、その物資と兵器は億単位で鹵獲した。石季龍は朝歌へ敗走した。 劉曜 りゅうよう は大陽から渡河し、金墉の石生を攻撃し、千金堨を決壊させて水攻めにした。 劉曜 りゅうよう は兵士たちを慰撫せず、ひたすら寵臣と飲酒や博打にふけり、側近が諫めると、 劉曜 りゅうよう は怒って妖言であるとして斬った。大風が木を抜き、暗い霧が四方を覆った。石季龍が石門を占拠して進軍したと聞き、続いて 石勒 せきろく が自ら大軍を率いてすでに渡河したことを知り、ようやく 滎陽 けいよう の守備を増強し、黄馬関を封鎖することを議論し始めた。まもなく洛水の偵察兵が 石勒 せきろく の前鋒と交戦し、羯の兵を捕らえて送ってきた。 劉曜 りゅうよう が尋ねた。「大胡( 石勒 せきろく )が自ら来たのか?その軍勢の大小はどうだ?」羯の兵は答えた。「大胡が自ら来ました。軍勢は盛大でとても敵いません。」 劉曜 りゅうよう は顔色を変え、金墉の包囲を解かせ、洛水の西に陣を布き、南北十余里に及んだ。 劉曜 りゅうよう は若い頃から酒に溺れ、晩年は特にひどかった。 石勒 せきろく が到着し、 劉曜 りゅうよう は戦おうとしたが、数斗の酒を飲み、いつも乗っていた赤馬が理由もなく萎縮したので、小馬に乗り換えた。出陣する際、さらに一斗余りの酒を飲んだ。西陽門に至り、陣形を整えて平地に布こうとしたとき、 石勒 せきろく の将軍の石堪がこれに乗じて攻撃し、軍はついに大いに潰乱した。 劉曜 りゅうよう は昏酔して敗走し、馬が石渠に落ち、氷の上に墜落し、十余か所の傷を負い、そのうち三か所は体を貫通し、石堪に捕らえられ、 石勒 せきろく の陣営に送られた。 劉曜 りゅうよう は言った。「石王!重門の盟約を覚えているか?」 石勒 せきろく は徐光を使わして 劉曜 りゅうよう に言わせた。「今日のことは、天がこのようにさせたのであって、また何を言うことがあろうか!」 劉曜 りゅうよう を河南の丞の役所に幽閉し、金瘡医の李永に治療させ、襄国へ送還した。

曜の傷はひどく、勒は馬車に乗せ、李永に同乗させた。北苑市の三老孫機が進み出て礼を述べ、曜に面会を求めたので、勒は許した。機は曜に酒を進めて言った。「僕谷王、関右では帝皇と称えられました。慎重を保ち、国土を守るべきでした。軽率に兵を用い、洛陽で敗れました。運命は尽き、天が滅ぼされたのです。大いなる別れを開き、一杯お飲みください。」曜は言った。「なんと元気なことか!翁のために飲もう。」これを聞いた勒は、悲しげに表情を変えて言った。「亡国の人とはいえ、老いた者にまで数えられるとは。」曜を襄国の永豊小城に住まわせ、妓妾を与え、厳重に兵を配置して守らせた。劉岳、劉震らを馬に乗せ、男女を従え、衣冠を整えて曜に会わせると、曜は言った。「長らく卿らは 灰燼 かいじん に帰したと思っていたが、石王は仁厚で、今まで命を全うさせてくれた。しかし私は石他を殺し、盟約を甚だしく裏切った。今日の禍いは、自らの分際によるものだ。」一日中宴を開いて去った。勒は曜にその太子熙への手紙を書かせ、速やかに降伏するよう命じさせたが、曜はただ熙に「諸大臣と共に 社稷 しゃしょく を支え、私のことを気にかけて方針を変えてはならない」と命じただけだった。勒はこれを見て不快に思い、後に勒によって殺された。

熙と劉胤、劉咸らは秦州に退いて守ることを議論したが、尚書胡勳が言った。「今は主君を失ったが、国はまだ完全で、将士の心は一つであり、離反する者はいない。力を合わせて険阻な地で防ぎ、敗走するのはまだ遅くはない。」胤は従わず、衆の士気を挫くとして怒り、彼を斬った。そして百官を率いて上邽に奔った。劉厚、劉策も皆、任地を捨ててこれに奔った。関中は混乱し、将軍蔣英、辛恕が数十万の兵を擁して長安を占拠し、使者を送って勒を招いた。勒は石生に洛陽の軍勢を率いさせてこれに赴かせた。胤と劉遵は数万の兵を率い、上邽から長安の石生を攻撃しようとした。隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平の諸郡の戎と夏人(漢人)は皆、兵を起こして胤に呼応した。胤は仲橋に駐屯し、石生は長安を固守した。勒は石季龍に騎兵二万を率いさせて胤を防がせ、義渠で戦い、季龍に敗れて五千余人が死んだ。胤は上邽に奔り、季龍は勝ちに乗じて追撃し、屍が千里にわたり、上邽は陥落した。季龍はその偽の太子熙、南陽王劉胤、ならびに将相諸王ら、および諸卿校公侯以下三千余人を捕らえ、皆殺した。その台省の文武官、関東からの流民、秦雍の大族九千余人を襄国に移し、またその王公らおよび五郡の屠各(匈奴の一部族)五千余人を洛陽で生き埋めにした。曜は在位十年で敗れた。初め、元海は懐帝の永嘉四年に僭位し、曜の三代に至るまで、合わせて二十七年、成帝の咸和四年に滅んだ。

【史評】

史臣が言う。あの戎狄は、人面獣心であり、利益を見れば君親を棄て、財に臨めば仁義を忘れる者である。遠方に投げやっても、なお外からの侵略を恐れるのに、封畿の地に置けば、我が国の内紛を窺う。昔、幽后が綱紀を失い、胡の塵が戲水を暗くし、襄王が統御を失い、戎馬が関洛に生じた。強弱を計算し、兵権を妙に操り、興衰を体し、利害を知ることは、我が中華にとっても測りがたい。ましてや元海は人傑であり、必ずや青雲の上に至り、その非凡な才を認めれば、凡庸な劣者の下には居られない。それゆえに馬に策を打ち、鴻のように舞い上がり、機に乗じて豹のように変わり、五部が高らかに嘯き、一朝にして雄と推され、皇族同士が害し合い、これと争う者はなかった。伊秩が興王の謀略を開き、骨都が平定の時を論じ、単于に北顧の憂いはなく、獫狁が南郊で祭祀を行う。大いなるかな天地よ、これは不仁というものだ!もし華風に習い、雅やかな度量を温め、その旧俗と兼ねるならば、その規模は稀であろう。たとえ 石勒 せきろく が藩臣を称し、王彌が誠意を示しても、結局は夷狄の国であり、君臣の位は弁えられていない。儒風に遠からず、虚心で正直であることについては、昔の賢人が「仁義を併せて盗む者」と言ったものである。

偽主はここに亡び、玄明( 劉聡 りゅうそう )が後を継いだ。戎旅に恩を施し、すでに威権を総べ、関河は昔日の疆域を開き、士馬は前人を倍する気勢を示した。しかし誠意が内から出ず、自ら宏大な遠謀に背き、外見を美しく装っても、事を処することは終わり難い。武力を極め兵を尽くし、忠義を傷つけ直言を害し、佞人が並び駆け、后が並んで車を走らせ、宦官は天を回す勢いで、刑罰は砲烙を超えた。豺狼のような将を遣わし、鷹犬のような軍を駆り、旗を渭水に臨ませ、麾を分けて洛陽を陥とし、鉄馬は山を陵ぎ、胡笳は渚に沿い、忠貞の士を戎の手で粉砕し、搢紳を京観に集めた。先王の井田の賦は、故郷を顧みるのみ。旧都の宮室は、皆茂る草となった。露が落ちて衣を濡らし、行く人は涙を流す。上古の敦厚な時代には、子を親しくせず、功成りて高く譲り、徳ある者に帰した。三伐(夏・殷・周の革命)に至って、干戈を用いるようになり、版蕩(乱世)を救い、恭しく天命を受けるためであった。ああ、かの武王は、殷の諸侯であったが、旗を掲げ時機に乗じ、兵を興して野で誓い、自焚して既に墜ちた者(紂王)については、これ以上言うことはない。しかし軽呂(剣名)を傍らに振るい、彤弓を三度放つなど、常道の門に清らかな蹕の響きを響かせ、山陽の館に金車を走らせるのとは比べられない。それゆえに 黔首 けんしゅ (民)が蘇り、今に居て古を愛することを知る。白旗が市に並ぶのは、古は今に及ばない。胡寇は仁なきこと、豺や豕と同じく、天子を役して酒宴を行わせ、乗輿を駆って蓋を持つことを執らせた。庾瑉の涙は既に尽き、辛賓はそれに血を加えた。生きていることの貴さについて、死に処することは難しく、三(父・師・君)に対する義を広め、七尺の体を重んじることを忘れ、主君の憂いを恨み、命を尽くして共に帰する。古来の 簒奪 さんだつ の中で、これほど甚だしいものはない。それゆえに災いの気が形を現し、賊臣が乱を包み、政は荒れ民は散り、危亡に至るべきであった。 劉聡 りゅうそう が竟に寿を全うしたのは、不幸ではない。

曜は天賦の猛勇を持ち、運は時に艱難に遭った。用兵は王翦の類であり、殺戮を好むことも董公(董卓)に次ぐ。しかし醜悪な類いの基盤を継いだが、ある点では称えるべきものがある。子遠(游子遠)が忠を納めると、高らかな旗は一時収まった。和苞が直言を献じると、酆明の観覧は罷められた。しかし軍の駐屯したところには茨が生じ、自ら強力な藩鎮を絶ち、禍いは強敵となった。天の厭うところ、人の事これによって、戦士を驚かせて夜逃げし、戎の杯を酌んでも醒めず、あたかも他人の手を借りたかのようで、芥を拾うのと同じであった。どうして石氏の興隆であろうか、何と支えきれないことか。