巻一百 列伝第七十
王彌
王彌は東萊の人である。家は代々二千石の家柄であった。祖父の頎は、魏の玄菟太守であり、武帝の時代に汝南太守に至った。王彌は才幹があり、広く書物や記録に通じていた。若い頃に京都で任侠の徒と交わり、隠者の董仲道が彼を見て言った。「あなたは豺の声、豹の目をしており、乱を好み禍を楽しむ。もし天下が騒擾すれば、士大夫にはならないだろう。」恵帝の末、妖賊の劉柏根が東萊の惤県で蜂起すると、王彌は家の奴僕を率いてこれに従い、劉柏根は彼を長史とした。劉柏根が死ぬと、海の渚に徒党を集めたが、苟純に敗れ、長広山に逃れて群賊となった。王彌は権謀術数に長け、掠奪する際には必ず事前に成敗を図り、計画に漏れがなく、弓馬に優れ迅速で、膂力は人並み外れており、青州の地では「飛豹」と号された。後に兵を率いて青州・徐州に侵入し、兗州 刺史 の苟 晞 が迎撃して大破した。王彌は敗残兵を集めて退き、勢力は再び大いに盛り返し、 苟晞 と連戦したが、 苟晞 はこれを制することができなかった。王彌は進軍して泰山、魯国、譙、梁、陳、汝南、潁川、襄城の諸郡を侵し、 許昌 に入り、府庫を開いて武器を取り、各地で陥落させ、多くの太守や県令を殺害し、数万の兵を擁するに至り、朝廷はこれを制御できなかった。
ちょうど天下が大乱に陥ると、 洛陽 に進軍して迫り、京師は大いに震え、宮城の門は昼間も閉ざされた。 司徒 の王衍らが百官を率いて防戦し、王彌は七里澗に駐屯したが、官軍が進撃して大破した。王彌はその党与の劉霊に言った。「 晉 の兵はまだ強く、帰る場所がない。劉元海は昔、人質であったが、私は都で彼と交際し、深い縁があった。今、漢王を称している。彼に帰順しようと思うが、どうか。」劉霊はそれに同意した。そこで黄河を渡って劉元海に帰順した。劉元海はこれを聞いて大いに喜び、侍中兼御史大夫を遣わして郊外で出迎えさせ、王彌に書を送って言った。「将軍には世に並ぶものなき功績、時代を超えた徳があるゆえ、このように迎えるのである。将軍の到着を遅ればせながら待ち望み、孤は今、将軍の館に自ら赴き、席を払い杯を洗い、謹んで将軍をお待ちする。」王彌が劉元海に会うと、尊号を称するよう勧めた。劉元海は王彌に言った。「孤はもともと将軍を竇周公のようだと思っていたが、今やまさに我が孔明、仲華である。烈祖(劉備)が言ったように、『我が将軍を持つことは、魚が水を持つようなものだ』。」そこで王彌を司隸 校尉 に任じ、侍中、特進を加えたが、王彌は固辞した。 劉曜 に従って 河内 を侵させ、また 石勒 とともに臨漳を攻撃させた。
永嘉の初め、上党を侵し、壺関を包囲した。東海王 司馬越 は淮南内史の王曠、安豊太守の衛乾らを派遣して討伐させ、王彌と高都・長平の間で戦い、大敗させ、死者は十のうち六、七に及んだ。劉元海は王彌を征東大将軍に進め、東萊公に封じた。 劉曜 、 石勒 らとともに魏郡、汲郡、頓丘を攻撃し、五十余りの堡塁を陥落させ、その兵士をすべて徴発して軍士とした。また 石勒 とともに鄴を攻撃し、安北将軍の 和郁 は城を捨てて逃げた。懐帝は北中郎将の裴憲を白馬に駐屯させて王彌を討伐させ、車騎将軍の王堪を東燕に駐屯させて 石勒 を討伐させ、平北将軍の曹武を大陽に駐屯させて劉元海を討伐させた。曹武の部将の彭默が 劉聡 に敗れて殺害されると、諸軍はみな退却した。 劉聡 が黄河を渡ると、帝は司隸 校尉 の劉暾、将軍の宋抽らを派遣して防がせたが、いずれも抗することができなかった。王彌、 劉聡 は一万騎で京城に至り、二学(太学と国子学)を焼いた。東海王 司馬越 が西明門で防戦し、王彌らは敗走した。王彌は再び二千騎で襄城の諸県を侵し、河東、平陽、弘農、上党の諸郡から潁川、襄城、汝南、南陽、河南に流れてきた数万家の流民は、旧来の住民から礼遇されなかったため、みな城邑を焼き払い、二千石の長吏を殺して王彌に呼応した。王彌はまた二万人を率いて 石勒 と合流し陳郡、潁川を侵し、陽曜に駐屯し、弟の王璋を 石勒 とともに派遣して徐州・兗州を侵させ、これによって 司馬越 の軍を破った。
その後、王彌は 劉曜 とともに襄城を侵し、ついに京師に迫った。当時、京師は大飢饉に見舞われ、人肉食いが起こり、百姓は流亡し、公卿は河陰に奔った。 劉曜 、王彌らはついに宮城を陥落させ、太極前殿に至り、兵を放って大掠奪を行った。帝を端門に幽閉し、羊皇后を辱め、皇太子の 司馬詮 を殺害し、陵墓を発掘し、宮廟を焼き払い、城や官庁はことごとく破壊され尽くし、百官や男女で殺害された者は三万余人に上り、ついに帝を平陽に移した。
王彌が掠奪を行うと、 劉曜 はこれを禁じたが、王彌は従わなかった。 劉曜 はその牙門将の王延を斬って見せしめにした。王彌は怒り、 劉曜 と兵を対峙させて攻撃し合い、死者は千余人に及んだ。王彌の長史の張嵩が諫めて言った。「明公は国家とともに大事を興し、事業は始まったばかりです。今すぐに攻め討ち合うなど、どのような顔をして主上にお会いできましょうか!洛陽平定の功績は確かに将軍にありますが、 劉曜 は皇族ですから、少しは彼に譲るべきです。 晉 の二王(司馬伷、 王濬 )が呉を平定した時の教訓は、遠くない先例です。どうか明将軍にはこれをご考慮ください。たとえ将軍が兵を擁して戻らなくとも、子弟や宗族はどうなさるおつもりですか。」王彌は言った。「よかろう。そなたがいなければ、私はこの過ちに気づかなかった。」そこで 劉曜 のもとに行って謝罪し、以前のように分を結んだ。王彌は言った。「下官が過ちを聞き入れたのは、張長史の功績である。」 劉曜 は張嵩に言った。「君は硃建のようだ。ましてや範生(范増)に及ばないわけがない。」それぞれ張嵩に金百斤を賜った。王彌は 劉曜 に言った。「洛陽は天下の中心で、山河に囲まれた四つの要害が固く、城池や宮室は改めて造営する必要もありません。平陽に都を移すべきです。」 劉曜 は従わず、焼き払って去った。王彌は怒って言った。「屠各の奴め、帝王の志などあるものか!天下をどうするつもりだ!」そこで兵を率いて東へ向かい、項関に駐屯した。
初め、 劉曜 は王彌が自分を待たずに先に洛陽に入ったことを怨んでおり、この時、両者の間にわだかまりが生じた。劉暾が王彌に青州を占拠して戻るよう説くと、王彌はそれに同意し、左長史の曹嶷を鎮東将軍とし、兵五千を与え、多くの宝物を持たせて故郷に帰らせ、亡命者を招き誘い、また自分の家族を迎えさせた。王彌の将の徐邈、高梁はすぐに配下の兵士数千人を率いて曹嶷について行き、王彌の勢力はますます衰弱した。
初め、 石勒 は王彌の 驍 勇を憎み、常に密かに彼への備えをしていた。王彌が洛陽を破った時、 石勒 に多くの美女や宝物を贈って結びつけようとした。当時、 石勒 は 苟晞 を捕らえ、左司馬としていた。王彌は 石勒 に言った。「公は 苟晞 を捕らえて用いるとは、なんと神妙なことか! 苟晞 を公の左とし、私を公の右とすれば、天下を平定するのはたやすいことです。」 石勒 はますます王彌を忌み嫌い、密かに彼を除こうと図った。劉暾はまた王彌に曹嶷を征伐し、その兵を借りて 石勒 を誅殺するよう勧めた。そこで王彌は劉暾を使者として青州に遣わし、曹嶷に兵を率いて自分と合流するよう命じ、一方で偽って 石勒 を誘い、ともに青州に向かおうとした。劉暾が東阿に至った時、 石勒 の遊撃騎兵に捕らえられた。 石勒 は王彌が曹嶷に送った書状を見て激怒し、劉暾を殺した。王彌はこのことを知らず、 石勒 は伏兵を置いて王彌を襲撃し、彼を殺害し、その配下の兵を併せた。
張昌
張昌は、もともと義陽の蛮族である。若い頃は平氏県の役人で、武力は人並み外れており、自ら占卜を行い、自分は富貴に値すると言った。攻戦の議論を好み、同輩たちはみな彼を笑った。李流が蜀を侵した時、張昌は半年間潜伏し、数千人の徒党を集め、幢麾(軍旗)を盗み、偽って朝廷が自分に人を募って李流を討伐させると言い触らした。ちょうど『壬午 詔 書』が出て武勇の士を益州に派遣することになり、これを「壬午兵」と号した。天下が多難になって以来、数術を操る者が江東に帝王が興ると言っていたため、この徴発に際し、人々はみな西征を喜ばず、張昌の党与はこれにつけ込んで人々を惑わし、百姓はそれぞれ行くことを肯じなかった。しかし 詔 書は厳しく迅速な派遣を催促し、通過する地域で五日間停留した者は、二千石の官は免職とされた。このため郡県の長官はみな自ら出て追い立て、遠くまで行かずに転々とし、屯聚して掠奪を行うようになった。この年、江夏は大豊作で、流民で食を求めて来る者が数千人に及んだ。
太安二年、張昌は安陸県の石岩山に屯集し、郡から八十里離れたところにいた。多くの流民や兵役を避ける者が彼に従った。張昌は姓名を李辰と改めた。太守の弓欽が軍を派遣して討伐しようとしたが、かえって撃破された。張昌の徒党は日増しに増え、ついに郡を攻撃してきた。弓欽は出戦して大敗し、家族を連れて南の沔口へ逃れた。鎮南大将軍・新野王の司馬歆は騎督の靳満を派遣し、随郡の西で張昌を討伐させたが、大戦の末、靳満は敗走し、張昌はその武器を手に入れ、江夏を占拠してその府庫を奪った。妖言を流して「聖人が現れるであろう」と言った。山都県の役人丘沈が江夏で出会うと、張昌は彼を聖人と名付け、盛大な車馬と衣服で出迎え、天子に立て、百官を置いた。丘沈は姓名を劉尼と改め、漢の後裔を称し、張昌を相国とし、張昌の兄の張味を車騎将軍、弟の張放を広武将軍とし、それぞれ兵を率いさせた。石岩の中に宮殿を作り、また岩の上に竹で鳥の形を編み、五色の衣を着せ、その傍らに肉を集めると、多くの鳥が群がり集まったので、詐って鳳凰が降臨したと言い、また珠袍・玉璽・鉄券・金鼓が自然に到来したと言った。そして赦書を下し、元号を神鳳と建て、郊祀や服色は漢の故事に従った。その募集に応じない者は、一族を誅殺するとした。また流言を広めて「江淮以南は反逆を図るべきであり、官軍が大挙して、すべて誅討するであろう」と言った。群小が互いに扇動し、人心は恐れおののき、江沔の間で一時的に蜂起し、牙旗を立て、鼓角を鳴らして張昌に応じ、十日から一ヶ月の間に、その数は三万に達し、皆、赤い頭巾をかぶり、毛で飾り立てた。江夏・義陽の士人や庶民はこれに従わない者はなく、ただ江夏の旧姓で江安県令の王傴と秀才の呂蕤だけが従わなかった。張昌は三公の地位で彼らを招聘したが、王傴と呂蕤は密かに宗族を率いて汝南に逃れ、 豫 州 刺史 の劉喬に身を寄せた。郷人の期思県令李権、常安県令呉鳳、孝廉の呉暢は善士を糾合し、五百余家を得て、王傴らを追いかけ、妖賊の反乱には加わらなかった。
新野王の司馬歆は上奏して言った。「妖賊の張昌・劉尼は妄りに神聖を称し、犬羊のごとき数万の者が、赤頭に毛面で、刀を振り戟を走らせ、その鋒先は当たるべからざるものがあります。どうか朝廷に諸軍を命じ、三方向から救助させてください。」そこで劉喬が諸軍を率いて汝南を占拠し賊を防ぎ、前将軍の趙驤が精兵八千を率いて宛に駐屯し、平南将軍の羊伊を助けて守備に当たらせた。張昌はその将軍の黄林を大 都督 とし、二万人を率いて 豫 州に向かわせ、先鋒の李宮に汝水の住民を略奪させようとした。劉喬は将軍の李楊を派遣して迎撃し、これを大破した。黄林らは東進して弋陽を攻撃し、太守の梁桓は城に籠って固守した。またその将の馬武を派遣して武昌を陥落させ、太守を殺害し、張昌は自らその軍勢を率いた。西進して宛を攻め、趙驤を破り、羊伊を殺害した。 襄陽 を攻撃し、新野王の司馬歆を殺害した。張昌は別働隊の石冰を東進させて江州・揚州の二州を陥落させ、偽りの太守・県令を置いた。当時、五州の境域は皆、脅迫されて賊に従うことを恐れた。またその将の陳貞・陳蘭・張甫らを派遣して長沙・湘東・零陵の諸郡を攻撃させた。張昌は五州にまたがり支配し、州牧や太守を立てたが、皆、凶暴な盗賊の小人であり、禁令や統制がなく、ただ略奪を務めとするのみで、人心は次第に離反していった。
この年、 詔 により甯朔将軍・南蛮 校尉 を兼ねる劉弘を宛に鎮守させた。劉弘は司馬の 陶侃 、参軍の蒯桓、皮初らに命じて軍勢を率いさせ、竟陵で張昌を討伐させ、劉喬もまた将軍の李楊、督護の尹奉に命じて総軍を率いて江夏に向かわせた。 陶侃 らは張昌と連日苦戦し、これを大破し、降伏を受け入れた者は万を数え、張昌は下俊山に潜伏して逃げ隠れた。翌年の秋、ついに彼を捕らえ、その首を都に伝送し、同党は皆、三族にわたって誅殺された。
陳敏
陳敏は、 字 を令通といい、廬江の人である。若い頃から才能があり、郡の廉吏として 尚書 倉部令史に補任された。趙王( 司馬倫 )が帝位を 簒奪 し、三王が義兵を起こした時、長く駐屯して解散せず、都の倉庫が空になった。陳敏は建議して言った。「南方の米穀は皆、数十年分が蓄積されており、今にも腐敗しようとしています。これを漕運して中州を救済しなければ、災難を救い急を周る方策とはなりません。」朝廷はこれに従い、陳敏を合肥の度支とし、後に広陵の度支に転任させた。
張昌の乱の時、その将の石冰らが 寿春 に向かった。 都督 の劉准は憂慮し、どうすべきか方策がなかった。当時、陳敏は大軍を率いて寿春におり、劉准に言った。「彼らはもともと遠方の戍守を好まず、逼迫されて賊となったのです。烏合の衆で、その勢いは離散しやすい。私が運兵を合わせて率いることを請い、公が衆力を分配されれば、必ずやこれを撃破できます。」劉准はそこで陳敏に兵を増やして攻撃させ、呉弘・石冰らを破った。陳敏は勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、数十回戦った。当時、石冰の軍勢は十倍であったが、陳敏は寡兵で大軍を撃ち、毎戦勝利し、ついに揚州に至った。引き返して徐州の賊の封雲を討伐すると、封雲の将の張統が封雲を斬って降伏した。陳敏は功績により広陵の相となった。当時、恵帝は 長安 にあり、四方で争いが起こり、陳敏はついに江東を割拠する志を抱いた。その父がこれを聞き、怒って言った。「我が一族を滅ぼす者は、必ずやこの子だ!」父が亡くなると、官職を去った。東海王の 司馬越 が西から天子を迎えようとした時、 詔 命を受けて陳敏を右将軍・仮節・前鋒 都督 に起用し、陳敏に書簡を送って言った。
将軍が国を富ます謀略を立てれば、大規模な漕運の功績があった。また、石冰・張昌の乱に遭えば、真っ先に義兵を率い、寡兵で大軍に敵した。外には強力な援軍がなく、内には作戦を練る仲間もいない中、隻身で立ち、雄大な計略を縦横に巡らせ、馬首の間に奇謀を選び出し、危急に臨んで霊妙な計略を奪い取り、その名声は江の外に響き渡り、その精鋭の光は揚楚の地に輝いた。堅固な陣を攻め、険しい地を陥落させ、三十余戦し、兵士に損害はなく、強敵は自滅した。五州は再び完全となり、貢物が朝廷に入った。これらは将軍の功績と力によるものではないか!
今、羯賊(匈奴など異民族の賊)が屯集し、その亡魂は河済に遊び、鼠のように伏せ雉のように逃げ、陳留に隠れ潜み、初めは奸盗を企み、終には不軌を図っている。将軍の孫呉の兵法は既に明らかであり、試された功績は先に顕著である。私と将軍との情誼は特に厚く、草土の哀しみを断ち切り、耐え難き思いを抑え、喪服を脱ぎ武器を執り、国の難を救うために来てほしい。天子は遠く巡幸され、御輿は未だ帰還せず、東を慕い見つめる思いは、山陵(先帝の陵墓)を懐かしむものがある。将軍の尽力に頼り、天子の車駕が帰還することを願う。将軍は率いる所領の兵を率い、この書簡を受け取り風のように発ち、米や布などの軍需物資は、将軍が運ぶところに任せる。
当時、 司馬越 は 豫 州 刺史 の劉喬を討伐しており、陳敏は兵を率いてこれに合流したが、蕭で 司馬越 とともに敗北した。陳敏は中原の大乱に乗じて、東帰を請い、兵を収めて歴陽を占拠した。ちょうど呉王(司馬晏)の常侍の甘卓が洛陽から到着したので、甘卓に教えて 皇太弟 ( 司馬熾 、後の懐帝)の命令と偽称させ、陳敏を揚州 刺史 に任命し、併せて江東の名門の顧栄ら四十余人を将軍・郡守に任命させた。顧栄らは皆、偽ってこれに従った。陳敏は息子に甘卓の娘を娶わせ、互いに表裏を成した。揚州 刺史 の劉機、丹陽太守の王広らは皆、官を棄てて逃走した。陳敏の弟の陳昶は顧栄らに裏切りの心があると知り、陳敏に彼らを殺すよう勧めたが、陳敏は従わなかった。陳昶は精兵数万を率いて烏江を占拠し、弟の陳恢は銭端らを率いて南進して江州を侵し、 刺史 の応邈は逃走し、弟の陳斌は東進して諸郡を攻略し、ついに呉越の地を占拠した。陳敏は幕僚に命じて自分を 都督 江東諸軍事・大司馬・楚公とし、十郡を封じられ、 九錫 を加えられ、尚書に上表し、自ら江から河に入り、天子の車駕を奉迎すると称した。
東海王の軍諮祭酒である華譚は、陳敏が自ら官職を任命し、顧栄ら江東の名門が皆、陳敏の官爵を受けたと聞き、顧栄らに書簡を送って言った。
石冰の乱の際、朝廷は陳敏のわずかな功績を記録し、越階の礼遇を加えて上将の任を授け、韓盧の一噛みのような効果を期待した。しかし彼の本性は凶悪で狡猾であり、もともと識見もなく、栄誉を貪り運命を干渉し、天に逆らって行動し、兵を擁して威を振るい、呉会を盗み占拠し、内では凶暴な弟を用い、外では軍吏に任せ、上は朝廷の寵愛と授与の栄誉に背き、下は宰相の過分な礼遇の恩恵を裏切った。天道は悪を伐ち、人神もこれを祐さない。長江を頼みにしても、命は朝露のように危うい。忠節を守り良策を図ることは君子の高潔な行いであり、節を曲げて逆賊に附くことは義士の恥とする所である。王蠋は一介の匹夫ながら志を屈せず、樊於期は義を慕って燕の朝廷で首を落とした。ましてや呉会の仁人たちは皆、国の寵愛を受け、ある者は名郡の太守に封ぜられ、ある者は近臣として列せられているのに、どうして奸人の朝廷に身を辱め、逆叛の徒に節を下げ、額を地につけて膝を屈し、恥ずかしくないのか。昔、龔勝は食事を絶って莽の朝廷の食を受けず、魯仲連は海に赴いて秦の臣となることを恥じた。君子の義の行いは千年を経ても同じであり、遠く雅量を推し量れば、どうしてこれだけが安泰であろうか。
昔、呉の武烈帝(孫堅)は一代の美称を博したが、宛や葉で奇策を奮ったものの、襄陽で敗北を喫した。討逆将軍(孫策)は雄大な気概を持ち、中原を志し、長江に臨んで怒りを発したが、命は丹徒で尽きた。先主(孫権)が運命を受け継ぎ、雄大な謀略を天が授け、内には慈母の仁明な教えに頼り、外には張子布(張昭)の朝廷での諫争の忠誠に依拠し、さらに諸葛・顧・歩・張・朱・陸・全の一族がいたので、百越を鞭撻し、南方で帝号を称することができた。しかし兵家の興隆は三代を超えず、運は百年に満たず、孫皓は臣下として降伏した。今、陳敏は倉部の令史に過ぎず、七番目の家柄で頑迷な凡庸、六品の下級の才能で、桓王(孫策)の高い足跡を踏み、大皇帝(孫権)の絶えた軌跡を辿ろうとしているが、遠く諸賢を推し量れば、まだ認められないだろう。諸君はうつむいて、翟義の謀略を立てることができず、顧生(顧栄)は眉を伏せて、すでに羈絆の辱めを受けている。皇帝の車駕は東の宮殿にあり、まさに紫館に向かおうとしており、百官は冠の纓を垂れ、鳳闕に雲が翔るが如く、廟堂での勝算の謀略は帷幄の中で密かに運営されている。その後、荊州の武勇の軍旅を発し、流れに順って東下し、徐州の鋭鋒は南に堂邑を占拠し、征東の精鋭の兵卒は歴陽に威を輝かせ、飛橋で横江の渡しを越え、舟を浮かべて瓜歩の洲に渡り、威は丹陽に震い、賊を建鄴で捕らえるであろう。そうなれば諸賢は何の顔をもって中州の士に会うことができようか。
小さな賊が川を隔てており、音信の道は遠く、首を伸ばして南を望み、旧交の情を懐かしんでいる。忠義の人は、どの時代にいないだろうか。危険にあっても安泰にできず、滅亡しても存続させられないなら、何が貴ばれようか。永長(賀循)は宿徳があり、情誼はもとより重んじられており、彦先(顧栄)は幼少の頃からの交わりで、分け前は金石のように固く、公冑(周玘)とは早くからの交際で、恩誼は特に厚く、令伯(甘卓)の義の名声は、親密な結びつきがある。上は諸賢と共に紫宸に力を尽くし、帝籍に功を立てたいと願っている。もしそれができないなら、河や渭水に舟を浮かべ、楫を打って清らかに歌うこともできる。どうして身を小さな賊の手に辱め、逆乱の禍いに陥ろうとするのか。昔は同志であったが、今は別の地域にいる。かつては一体であったが、今は別の身である。長江を眺めて長嘆するが、あなたを思わずに誰を思おうか。良策を図り、良い謀略を残すことを願う。
陳敏は凡才で遠大な謀略がなく、一旦江東を占拠すると、刑罰と政令に規律がなく、英俊の士に服せられず、また子弟が凶暴で、所在で害をなした。周玘や顧栄らは常に禍敗を恐れ、さらに華譚の手紙を得て、皆恥じ入った。周玘と顧栄は使者を密かに派遣して征東大将軍劉準に兵を長江に臨ませ、自分たちが内応すると報告した。劉準は揚州 刺史 劉機と寧遠将軍衡彦らを歴陽に出撃させた。陳敏は弟の陳昶と将軍銭広を烏江に駐屯させて防がせ、また弟の陳閎を歴陽太守として牛渚を守備させた。銭広の家は長城にあり、周玘の同郷であったので、周玘は密かに彼に陳昶を討つよう謀らせた。銭広は配下の何康と銭象を派遣して志願兵を装い、白事(報告書)を陳昶に届けさせた。陳昶がうつむいて文書を見ていると、何康が刀を振るって彼を斬り、州の軍がすでに陳敏を殺したと称し、敢えて動く者は三族を誅すると言い、角笛を吹いて内応の合図とした。銭広は先に兵を朱雀橋に配置し、水の南に陣を布いた。周玘と顧栄はまた甘卓を説得し、甘卓はついに陳敏に背いた。陳敏は一万余人を率いて甘卓と戦おうとしたが、渡河できずにいるうちに、顧栄が白羽扇で指揮をすると、陳敏の軍衆は潰走した。陳敏は単騎で東に奔り江乗に至り、義兵に斬られた。母と妻子も皆誅殺され、こうして 会稽 諸郡は陳敏の諸弟を皆殺しにした。
王如
王如は京兆新豊の人である。初め州の武吏であったが、乱に遭って流亡し宛に移った。当時、諸々の流民には 詔 によって皆郷里に帰還させるとあったが、王如は関中が荒廃しているのを理由に帰りたがらなかった。征南将軍山簡と南中郎将杜蕤がそれぞれ兵を送って帰還させようとしたが、期日を急がせて出発を命じた。王如はそこで密かに諸々の無頼の少年を結集し、夜襲して両軍を破った。杜蕤が全軍を挙げて王如を攻撃し、涅陽で戦ったが、杜蕤の軍は大敗した。山簡は防ぐことができず、夏口に移って駐屯し、王如はまた襄城を破った。こうして南安の龐実、馮翊の厳嶷、長安の侯脱らがそれぞれその徒党を率いて諸々の城鎮を攻撃し、多くは県令や県長を殺してこれに応じた。間もなく、兵衆は四五万に達し、自ら大将軍と号し、司州と雍州の牧を兼ねた。
王如は 石勒 が自分を攻撃するのを恐れ、 石勒 に厚く賄賂を贈って兄弟の契りを結び、 石勒 も彼の強さを利用してこれを受け入れた。当時、侯脱が宛を占拠しており、王如と不仲であったので、王如は 石勒 に言った。「侯脱は名目上は漢の臣ですが、実は漢の賊です。私は常に彼が襲って来るのを恐れています。兄上は備えるべきです。」 石勒 はもともと侯脱が自分に二心を抱いていることを怒っており、王如との唇歯の関係を憚っていたので、彼を攻撃しなかった。王如の言葉を聞くと、大いに喜び、夜に三軍に早朝の食事をとらせて待機を命じ、鶏が鳴くと出発し、遅れる者は斬るとし、朝に宛の城門を圧迫して攻撃し、十二日でこれを陥落させ、 石勒 は侯脱を斬った。王如はそこで沔水と漢水一帯を大いに略奪し、襄陽に迫った。征南将軍山簡は将軍趙同に軍を率いてこれを撃たせたが、一年経っても陥落できず、知力も兵力も尽き、ついに城に籠って自守した。王澄が軍を率いて京都に向かうと、王如は邀撃してこれを破った。
王如は連年穀物を植えたが皆雑草に変わり、軍中は大飢饉となり、その徒党は互いに攻撃し略奪し合い、官軍が進軍討伐すると、それぞれ相次いで降伏して来た。王如はどうすることもできず、王敦のもとに帰順した。王敦の従弟の王棱は王如の 驍 勇を気に入り、王敦に自分の麾下に配属するよう請うた。王敦は言った。「この連中は猛々しく危険で飼いならし難く、お前の性格は猜疑心が強くせっかちで、養い容れることができず、かえって禍の元になる。」王棱が固く請うたので、彼に与えた。王棱は彼を側近に置き、非常に寵遇した。王如はしばしば王敦の諸将と弓射を競い、たびたび争って過失を犯し、王棱は果たして容れずに杖罰を加えた。王如はこれを非常に恥じた。初め、王敦には臣下としての道を外れた兆候があり、王棱はたびたびこれを諫めたので、王敦は常に彼が自分と異なることを怒っていた。王敦が王如が王棱に辱められたと聞くと、密かに人をやって彼を怒らせ、王棱を殺すよう勧めた。王如は王棱のもとに行き、宴会の機会に、剣舞をして楽しみたいと請うた。王棱が従うと、王如はそこで刀を舞って戯れ、次第に前に進んだ。王棱は嫌がって叱っても止めず、左右の者に命じて引き離させようとしたが、王如はまっすぐ前に進んで王棱を害した。王敦は聞いて偽って驚き、王如も捕らえて誅殺した。
杜曾
杜曾は新野の人で、南中郎将の杜蕤の従祖弟である。若い頃から並外れた勇猛さで、鎧を着たまま水中を泳ぐことができた。初めは新野王司馬歆の鎮南参軍となり、華容県令を経て、南蛮司馬に至った。戦闘では常に三軍で最も勇猛であった。永嘉の乱の際、荊州は荒廃し混乱していたので、かつての牙門将の胡亢が竟陵で徒党を集め、自ら楚公を称し、杜曾を仮の竟陵太守に任命した。胡亢は後に配下と互いに疑心暗鬼となり、勇将数十人を誅殺したので、杜曾は内心不安を抱き、ひそかに胡亢を討とうと謀り、身を低くして節を曲げて胡亢に仕えた。胡亢はそれに気づかず、非常に信頼した。ちょうど荊州の賊徒王沖が自ら荊州 刺史 を称し、部衆もまた盛んで、たびたび兵を派遣して胡亢の支配地域を略奪したので、胡亢はこれを憂い、杜曾に策を尋ねた。杜曾は王沖を討つよう勧め、胡亢はそれに同意した。杜曾は胡亢に、配下の刀戟を職人に研がせるよう申し出、その隙にひそかに王沖の兵を引き入れた。胡亢が精鋭の騎兵を派遣して王沖を迎え撃つと、城中は手薄になったので、杜曾は胡亢を斬ってその配下を併せ、自ら南中郎将・竟陵太守を称した。杜曾は南郡太守劉務の娘を求められなかったので、その一家を皆殺しにした。ちょうど愍帝が第五猗を安南将軍・荊州 刺史 として派遣したので、杜曾は襄陽で第五猗を迎え、兄の子に第五猗の娘を娶らせ、こうして沔水と漢水の地域を分割占拠した。
当時、 陶侃 は杜弢を破ったばかりで、勝ちに乗じて杜曾を攻撃し、杜曾を軽んじる様子があった。 陶侃 の司馬魯恬が 陶侃 に言った。「古人は戦う前にまずその将を判断しました。今、使君( 陶侃 )の諸将で杜曾に及ぶ者はいません。容易に攻め寄せるべきではありません。」 陶侃 は聞き入れず、進軍して石城で杜曾を包囲した。当時、杜曾軍には騎兵が多かったが、 陶侃 軍には馬がいなかった。杜曾はひそかに城門を開き、 陶侃 の陣に突撃し、その背後に出て、背中から反撃したので、 陶侃 軍は敗北し、水に投げ出されて死んだ者は数百人に及んだ。杜曾は順陽に向かおうとして、馬から降りて 陶侃 に拝礼し、別れを告げて去った。その後、平南将軍荀崧に書簡を送り、丹水の賊を討って忠誠を示したいと申し出た。荀崧はこれを受け入れた。 陶侃 は荀崧に手紙を送って言った。「杜曾は凶悪で狡猾であり、率いる兵卒は皆豺狼のような者どもで、まさに母を食う梟と言える。この者が死ななければ、州の地は安らかにならない。足下は私の言葉を心に留めておくべきだ。」荀崧は宛の兵力が少ないため、杜曾を外援として頼りにし、 陶侃 の言葉に従わなかった。杜曾は再び流民二千余人を率いて襄陽を包囲したが、数日間攻め落とせずに引き返した。
王暠が荊州 刺史 となると、杜曾はこれを阻んだ。王暠は将軍の朱軌と趙誘を派遣して杜曾を攻撃させたが、二人とも杜曾に殺された。王敦が周訪を派遣して杜曾を討伐させたが、何度も戦っても勝てなかった。周訪はひそかに人を遣わして山に沿って道を開かせ、杜曾の不意を突いて襲撃した。杜曾の軍勢は崩壊し、その部将の馬俊と蘇温らが杜曾を捕らえて周訪のもとに降伏した。周訪は杜曾を生きたまま武昌に送り届けようとしたが、朱軌の子の朱昌と趙誘の子の趙胤が、それぞれ父の仇を討つために杜曾を乞い求めた。そこで杜曾を斬り、朱昌と趙胤はその肉を切り刻んで食べた。
杜弢
杜弢は字を景文といい、蜀郡成都の人である。祖父の杜植は蜀の地で名を知られ、武帝( 司馬炎 )の時に符節令となった。父の杜眕は略陽護軍であった。杜弢は初め才学で知られ、州から秀才に推挙された。李庠の乱に遭い、南平に避難した。太守の応詹はその才能を愛し、礼遇した。後に醴陵県令となった。当時、巴蜀からの流民である汝班や蹇碩ら数万家が荊州と湘州の間に散在し、もとの住民から侵害や苦しめを受けて、皆怨恨を抱いていた。ちょうど賊徒の李驤が県令を殺し、楽郷に屯集し、数百人の徒党を集めたので、杜弢は応詹とともに李驤を撃ち破った。蜀人の杜疇や蹇撫らが再び湘州をかき乱した。参軍の馮素は汝班と不仲で、 刺史 の荀眺に「流民は皆反逆を企てています」と進言した。荀眺はその通りだと考え、流民を皆殺しにしようとした。汝班らは死を恐れ、徒党を集めて杜疇に呼応した。当時、杜弢は湘中におり、賊徒の集団は共に杜弢を主に推戴した。杜弢は自ら梁益二州牧・平難将軍・湘州 刺史 を称し、郡県を攻め落とし、荀眺は城を捨てて広州に逃げた。広州 刺史 の郭訥は始興太守の厳佐に命じて軍勢を率いさせ杜弢を攻撃させたが、杜弢は迎え撃ってこれを破った。荊州 刺史 の王澄もまた王機を派遣して杜弢を攻撃させたが、巴陵で敗れた。杜弢はそこで兵を放って暴虐をほしいままにし、山簡に偽って降伏し、山簡は彼を広漢太守に任命した。
荀眺が逃げた後、州人は安成太守の郭察を推して州の事務を執らせた。郭察は軍勢を率いて杜弢を討伐しようとしたが、逆に敗れて戦死した。杜弢はそこで南進して零陵を破り、東進して武昌を侵し、長沙太守の崔敷、宜都太守の杜鑒、邵陵太守の鄭融らを殺害した。元帝は征南将軍の王敦と荊州 刺史 の 陶侃 らに命じて杜弢を討伐させた。前後数十回の戦いで、杜弢の将兵は多くが死に絶え、そこで降伏を請うた。帝は許さなかった。杜弢はそこで応詹に手紙を送った。
天の歩みが困難になったのは、我が州から始まった。州の同郷たちが流浪し移住したのは、荊州の地においてである。彼らが遭遇した扱いは、塵芥のように見捨てられ、倒れ伏して死ぬ者はほぼ半数を超え、苦難を嘗め尽くしたことは、足下もご覧になっている通りである。客と主人の関係は長く続かず、疑念やわだかまりは生じやすい。楽郷で思いがけず変事が起こった時、私は足下と共に疑念を解きほぐし、その首謀者を捕らえようと考えたが、ただ謀略が遠大でなく、力が堅固な敵を打ち破れないことを憂えただけである。湘中にいた時、死を恐れて生き延びようとし、そこで互いに結束して徒党を組み、善を守って自衛し、天下が少し落ち着いてから、誠意を盟府(朝廷)に捧げようとした。まもなく山公(山簡)が夏口を鎮守することになり、すぐにそのことを詳しく申し上げた。この方は、開塞(機会)の時機を見極め、窮通の運命を察知し、多くの疑念の中にあって私を受け入れてくださった。高い見識と深い洞察がなければ、誰がこのようにできようか!西州の人士が清流に浴することができたのは、ただ瑕穢を洗い流すだけでなく、骨肉のごとき施しであった。この方が逝去され、この事業は中途で廃れてしまった。賢愚を問わず痛み悲しみ、私はひそかに心中悼んだ。滕永文と張休 豫 を大府(朝廷)に派遣し、事が起こって以来の経緯を詳しく列挙して申し上げようと思ったが、功名に貪り殉じる輩が聖主の耳に讒言して離間し、叛逆の罪を明らかにするために私の使者を市朝で誅殺することを恐れたので、まだ派遣する勇気がなかった。ところが王敦と 陶侃 の軍が突然到来し、水陸十万の軍勢で、旌旗は山沢に輝き、舟艦は三江に満ち、威勢は確かに威勢であるが、しかし我が配下はひそかにまだ恐れていない。晋の文公が原を討伐した時、信義を全うすることを根本としたので、諸侯を帰服させることができた。 陶侃 は赦書を宣布しながら、それに続けて進軍討伐するとは、どうして明 詔 を崇め奉り、四海に軌範を示すことになろうか!義に向かおうとする者を叛逆の虜とし、善を思う民衆を追い詰めて赦されない責めを負わせるのは、戦わずして人を屈服させる計略ではない。烏合の衆を駆り立て、必死の者と一戦を交えようとするのは、優劣を争う機微や権謀が見られない。私の真心は神明に通じている。西州の人士については、卿(応詹)はおおよそご存じであろう。どうして時流に冤罪を抱かせたまま、大府に証言しないでいられようか!
昔、虞卿は大国の宰相という栄誉を喜ばず、魏斉とその安危を共にした。司馬遷は李陵のために明言し、刑罰で身体を傷つけられても恨みはなかった。足下は千里の地に威を張り、名声は汶山と衡山にまで響き渡っている。進んでは国のために乱を静める方略を考え、退いては旧交と共に曲直を正す措置を講じるなら、ゆとりがあり余っているとは言えないだろうか!卿が私の書簡を取り次ぎ、時を移さず盟府に届け、大使を派遣して光臨してくださり、私に肝胆を披瀝する機会を与えてくださるなら、この身が滅びても何の恨みがあろうか!伏して考えるに、盟府は必ずや綱紀を結び固め、聖世を一匡され、私を義徒の列に加え、戈を負って前駆させ、皇輿を閶闔に迎え、長蛇(賊徒)を荒裔に掃討させてくださるでしょう。そうなれば、死ぬ日も生きている年と同じです。もしそうであれば、まず方夏(中原)を清め、その後で中原を平定し、私に一か所の糧食を得させ、西へ遡って帰還させ、 李雄 の逃亡賊を討ち平らげ、『禹貢』に記された旧来の貢ぎ物を整え、微力を尽くして過去の過ちを補い、州と邦を回復して隣国に謝罪するのも、私の志です。どうかご裁断ください。
私は遠方の州の貧しい士人であり、貴殿とは出身も立場も異なっており、誠に神交を感じさせてその傾危を救うには足りません。ただ私の忠誠を明らかにするならば、汶山や岳州は忠順の赦しを受け、衡州や湘州には反逆を討伐する憂いがなくなり、貴殿の広く受け入れるご声望を高め、我々の陥った苦境を救うことができます。どうしてその言葉を金玉のように大切にしないことがありましょうか。しかし、仰ぎ望む十数万の民もまた、警備に疲れ果て、南の田畑でのんびりと過ごしたいと願っているのです。衡山、長江、湘江は私の左右に並んでおり、もし私の言葉に二心があれば、血の通った誠意が明らかでなく、益州や梁州が災いを受けることになり、それは私の家門だけの問題ではなくなります。
王詹はこれを大いに哀れみ、杜弢の手紙を上奏して、次のように言上した。「杜弢は益州の秀才で、もともと清らかな声望があり、文才と道理に優れ、事を成す能力にも秀でています。以前、使者として流寓し、私の郡の境界に住んでいましたが、その貞節な心は堅く清らかであり、私が委ねて調べたところです。李驤が楽郷で変乱を起こし、善良な人々を略奪したとき、杜弢は私財を投じて忠勇の士を募集し、壇に登って血をすすり、義と誠意に満ち溢れていました。李驤が南平を攻め焼いたとき、杜弢は東へ巴漢に下り、湘中の郷人と出会い、その平素の声望を推されて、互いに頼り合って結びつきました。杜弢の本来の心情を論じれば、乱の端を開いた者ではありません。しかし湘川を破ったことは、確かに杜弢の罪ではありますが、それはまた兵がその間で交わったことにより、ついに蔓延させてしまったのです。杜弢の今の手紙を見るに、血の通った誠意もまた極まっています。昔、朱鮪は洛陽で自ら疑いを抱きましたが、光武帝は黄河の水を指して心を明らかにし、朱鮪は義に感じて誠意を帰し、ついに力を尽くして報い、侯に封じられる寵を受けました。これは過ちを許して功績を記録したからです。私はひそかに考えますに、今は国運が傾く時であり、遠大な謀略を広げることを考えるべきです。かつて斉は鉤を射た者を赦す刑罰を免除し、晋は袖を斬った者を許す殺戮を赦しました。それによって冀州を戴く高い功勲を成し遂げ、天下を匡す美しい名声を高めることができたのです。ましてや杜弢らはもともとそのような過ちがなく、額を地につけて命を投げ出しているのですから。大使を派遣して聖旨を宣揚し、上からは雲や恵みが潤い、下からは百姓がその恩恵に浴すれば、上下が交わり安泰となり、江左には戦乱の憂いがなくなるでしょう。」皇帝はそこで前南海太守の王運を派遣して杜弢の降伏を受けさせ、 詔 書を宣布して大赦を行い、すべての反逆者を一律に赦免し、杜弢に巴東監軍を加えました。
杜弢は命令を受けた後、功を競う諸将が攻撃をやめなかったため、杜弢は怒りに耐えられず、ついに王運を殺してその将の王真に精兵三千を率いさせて奇兵とし、江南から出て武陵に向かい、官軍の補給路を断ち切りました。 陶侃 は伏波将軍の鄭攀に迎え撃たせ、大いにこれを破り、王真は歩いて湘城に逃げました。そこで 陶侃 らの諸軍が一斉に進軍し、王真はついに 陶侃 に降伏し、徒党は散り散りになりました。杜弢はそこで逃げ去り、行方がわからなくなりました。
王機
王機、字は令明、長沙の人である。父の王毅は広州 刺史 で、南越の情勢をよく把握していた。王機は姿形が美しく、風采が立ち、度量があった。陳恢の乱のとき、王機は十七歳で、兵を率いてこれを撃破した。かつて王澄の人物を慕い、王澄もまた彼を高く評価し、自分の次と見なして、ついに親しく交わり、内では心腹として、外では手足となった。まもなく成都内史に任用された。王機は終日酒に酔い、政事に心を留めなかったため、これによって百姓は彼を怨み、人心が動揺した。
ちょうど王澄が害されたとき、王機は禍が及ぶことを恐れ、また杜弢があちこちで墓を暴いているのに、王機の墓だけは守っていたので、王機はますます疑念を抱いた。王敦に広州を求めたが、王敦は許さなかった。ちょうど広州の人が 刺史 の郭訥に背き、王機を迎えて 刺史 としたので、王機はついに奴隷や門客、門生千余人を率いて広州に入り、州の部将の温邵が兵を率いて王機を迎えた。郭訥は参軍の葛幽を派遣して追わせたが、廬陵で追いつき、王機は葛幽を叱って言った。「どうして敢えて来たのか?死にたいのか?」葛幽は迫ることができずに帰った。郭訥は温邵が王機を受け入れたと聞くと、兵を派遣して温邵を撃ったが、かえって破られた。郭訥はまた王機の父や兄の時代の役人を派遣して防がせたが、皆が矛先を変えて王機を迎え、郭訥の兵は皆散り散りになり、ついに節を持って王機を避けた。王機はそこで城に入り、郭訥に節を求めた。郭訥は嘆いて言った。「昔、蘇武はその節を失わず、前史はこれを美談としている。この節は朝廷から借り受けたものであり、義理として与えることはできない。自ら兵を派遣して取りに来させよ。」王機は恥じてやめた。
王機は自ら州を奪ったことを以て、王敦に討たれることを恐れ、さらに交州に来た。その時、杜弢の残党の杜弘が臨賀に逃れ、金数千両を王機に送り、桂林の賊を討って自らの誠意を示すことを求めた。王機はこれを列挙して上奏し、朝廷はこれを許した。王敦は王機が制御しにくいと考え、また王機に梁碩を討たせようとしたので、杜弘を降伏させた功績を以て交州 刺史 に転任させた。梁碩はこれを聞くと、子を派遣して郁林で王機を迎えさせたが、王機はその出迎えが遅いことを怒り、「州に着いたら捕らえて拷問する」と責めた。梁碩の子は急使を走らせて梁碩に報告した。梁碩は言った。「王郎はすでに広州を壊したのに、どうしてまた交州を破りに来られようか!」そこで州の人々に王機を迎えることを禁じた。府司馬の杜賛は梁碩が王機を迎えないことを以て、兵を率いて梁碩を討ったが、梁碩に敗れた。梁碩は諸々の僑人が王機に与することを恐れ、そこでその善良な者を皆殺しにし、自ら交址太守を兼任した。王機はすでに梁碩に阻まれたので、ついに郁林に留まった。その時、杜弘が桂林の賊を大破して帰還し、途中で王機に出会った。王機は杜弘に交州を取るよう勧めた。杜弘はもともとその意思があったので、王機の節を執って言った。「互いに代わる代わる持つべきで、どうして一人で握っていられようか!」王機はついに節を彼に与えた。そこで王機は杜弘および温邵、劉沈らとともに反乱を起こした。
まもなく 陶侃 が広州に赴任することになり、始興に着いたとき、州の人々は皆、軽々しく進むべきでないと諫めたが、 陶侃 は聞き入れなかった。州に着くと、諸郡県はすでに皆、王機を迎えていた。 陶侃 はまず温邵、劉沈を討ち、皆殺しにした。王機は牙門の屈藍を州に戻し、食糧を増やすと偽って、密かに配下を招き誘い、 陶侃 を防ごうとした。 陶侃 はすぐに屈藍を捕らえて斬り、督護の許高を派遣して王機を討たせ、王機は逃げ去り、途中で病死した。許高はその屍を掘り出して首を斬り、二人の子も殺した。
王機の兄の王矩、字は令式。姿形が美しく、出遊するたびに、見物人が道を埋めた。初め南平太守となり、陳恢討伐に参画して功績があり、広州 刺史 に遷った。職に赴こうとしたとき、突然一人の人物が奏文を持って王矩に謁見し、自ら京兆の杜霊之と名乗った。王矩が尋ねると、答えて言った。「天上の京兆で、使いとして君を 主簿 に召している。」王矩はこれを非常に嫌った。州に着いて一月余りで死去した。
祖約
祖約、字は士少、 豫 州 刺史 の 祖逖 の弟である。初め孝廉として成皋令となり、祖逖と非常に仲が良かった。永嘉の末、祖逖に従って長江を渡った。元帝が称制すると、掾属に抜擢され、陳留の阮孚と並び称された。後に転じて從事中郎となり、選挙を担当した。
祖約の妻には男子がおらず、性格は嫉妬深く、祖約もまた敢えて逆らわなかった。かつて夜、外で寝ていたとき、突然人に傷つけられ、妻の仕業ではないかと疑い、祖約は職を辞することを求めたが、皇帝は聞き入れず、祖約は右司馬の営の東門から密かに出た。司直の劉隗はこれを弾劾して言った。「祖約は幸いにも特別な寵愛を受け、選曹の顕位にあり、人物を評価し、衆人の注目を集めています。内には敬虔さをもって直くし、外には義をもって方正であり、兆しを防ぎ、萌芽を杜絶し、寇害を押さえ込むべきです。しかしながら、変は蕭牆の内から起こり、患いは婢妾から生じ、身に刑傷を受け、その皮膚や髪を損ないました。群小が噂し合い、その騒がしい声は遠くまで届き、清らかな教化を汚し、明るい時代に累を及ぼしています。天恩は汚れを含みながらも、なお慰めの言葉をかけられましたが、祖約は命令に背いて軽々しく出奔し、すでに自らを保つ明智もなく、また恩を孤にして命を廃しています。貶黜を加えて、衆人の謗りを塞ぐべきです。」皇帝は彼を罪に問わなかった。劉隗は重ねて主張したが、ついに許さなかった。
祖逖が譙沛で功績を立てると、祖約は次第に任用され遇されるようになった。祖逖が没すると、侍中から祖逖に代わって平西将軍・ 豫 州 刺史 となり、祖逖の兵衆を率いた。祖約の異母兄の光禄大夫の祖納は密かに皇帝に言った。「祖約は内に上を陵ぐ心を抱いており、抑えて用いるべきです。今、左右に侍らせ、権勢を仮り与えるならば、乱の端となるでしょう。」皇帝は受け入れなかった。当時の人々もまた祖納と祖約が異母兄弟であるため、その寵貴を妬んでこのような言葉を言ったのだと考えた。しかし祖約はついに綏撫統御の才能がなく、士卒に慕われなかった。
王敦が挙兵すると、祖約は京都の守衛に戻り、軍勢を率いて寿陽に駐屯し、王敦が任命した淮南太守の任台を追い払い、功績により五等侯に封ぜられ、鎮西将軍の号を加えられ、寿陽に駐屯させられ、北方の境を守る藩屏となった。自らは名声や家柄において郗鑒や卞壷に劣らないと思っていたが、明帝の顧命に与ることができず、また開府を望んだが、上表した多くの要求が認められなかったため、次第に怨望を抱くようになった。石聰がかつて軍勢を率いて迫った時、祖約はたびたび救援を要請する上表をしたが、官軍は来なかった。石聰が退いた後、朝廷の議論ではまた塗塘を築いて胡族の侵入を防ごうとしたが、祖約は自分を見捨てたものだと考え、いっそう憤りを募らせた。これより先、太后が蔡謨を使者として慰労に遣わしたが、祖約は蔡謨と会うと、目を怒らせ袖をまくり上げ、朝廷の政治を誹謗した。蘇峻が挙兵すると、祖約を推戴して政権を執る者を罪するようになり、祖約はこれを聞いて大いに喜んだ。甥の祖智と祖衍はいずれも邪険で乱を好む者であり、またこのことを支持した。そこで祖逖の子で沛国内史の祖渙と、娘婿の淮南太守許柳に命じて軍勢を率いて蘇峻と合流させた。祖逖の妻は許柳の姉であったが、強く諫めたが聞き入れられなかった。蘇峻が京都を制圧すると、 詔 を偽って祖約を侍中・ 太尉 ・ 尚書令 に任じた。潁川の人陳光が配下を率いて祖約を攻撃した。祖約の側近の閻禿は容貌が祖約に似ていたため、陳光は祖約と思ってこれを捕らえたが、祖約は垣を越えて逃れ、難を免れた。陳光は 石勒 のもとに奔ったが、祖約の諸将もまた密かに 石勒 と結び、内応することを請うた。 石勒 は石聰を派遣して攻撃させた。祖約の軍勢は潰走し、歴陽に奔った。兄の子の祖渙を派遣して皖城の桓宣を攻撃させたが、ちょうど毛宝が桓宣を救援し、祖渙を撃って敗走させた。趙胤がまた将軍の甘苗を派遣して三焦から歴陽に迫ると、祖約は恐れて夜中に逃亡し、その将の牽騰が軍勢を率いて降伏した。
祖約は側近数百人を連れて 石勒 のもとに奔った。 石勒 は彼の人格を軽んじ、長い間面会しなかった。 石勒 の将の程遐が 石勒 を説得して言った。「天下がほぼ平定した今、逆順を明らかにすべきです。これこそが漢の高祖が丁公を斬った理由です。今、君主に忠実な者は皆顕著に抜擢され、背いて臣下の礼を取らない者は皆誅殺されています。これが天下が大王に帰服する理由です。祖約がまだ生きていることは、臣はひどく不審に思います。しかも祖約は大いに賓客を引き入れ、また郷里の先祖伝来の田地を奪い占領しているので、地主たちは多く怨んでいます。」そこで 石勒 は祖約を欺いて言った。「祖侯が遠くから来られたのに、まだ歓迎の宴を設けていません。子弟たちを集めて一堂に会しましょう。」当日、 石勒 は病気を理由に辞退し、程遐に命じて祖約とその一族を招かせた。祖約は災いが及ぶことを悟り、大いに酒を飲んで酔った。市中に連れて行かれると、自分の外孫を抱いて泣いた。そして彼を殺し、その親族や内外の者百余人を皆滅ぼし、女性や伎妾たちは諸胡に分け与えられた。
初めに、祖逖に王安という胡人の奴隷がおり、彼は非常に厚く遇していた。雍丘にいた時、祖逖は彼に告げて言った。「 石勒 はお前の同族だ。私はお前一人を殺すつもりはない。」そして多額の資金を与えて送り出したので、王安は 石勒 の将となった。祖氏が誅殺された時、王安はしばしば従者を連れて市中の様子を見に行き、密かに祖逖の庶子の祖道重を連れ出し、僧侶として匿った。当時十歳であった。石氏が滅んだ後に帰ってきた。
蘇峻
蘇峻、字は子高、長広郡掖県の人である。父の蘇模は安楽国の相であった。蘇峻は若い頃書生で、才学があり、郡主簿に仕えた。十八歳の時、孝廉に推挙された。永嘉の乱の時、百姓は流亡し、各地で集団を形成して屯集した。蘇峻は数千家を糾合し、本県に塁を築いた。当時、各地の豪傑が屯集していたが、蘇峻が最も強かった。長史の徐瑋を派遣して諸屯に檄文を宣布し、王化を示し、また枯骨を収めて埋葬したので、遠近の人々はその恩義に感じ入り、蘇峻を主君に推戴した。そして海辺の青山で狩猟を行った。元帝はこれを聞き、蘇峻に安集将軍の官を仮授した。当時、曹嶷が青州 刺史 を領しており、蘇峻を掖県令に推挙したが、蘇峻は病気を理由に辞退して受けなかった。曹嶷は彼が民衆の支持を得るのを憎み、必ず禍いとなると恐れ、討伐しようとした。蘇峻は恐れ、配下の数百家を率いて海を渡って南に渡った。広陵に到着すると、朝廷はその遠路はるばるの到来を賞賛し、鷹揚将軍に転任させた。ちょうど周堅が彭城で反乱を起こしたので、蘇峻は討伐を助け、功績があり、淮陵内史に任ぜられ、蘭陵国の相に遷った。
王敦が叛逆を起こすと、 詔 により蘇峻は王敦討伐を命じられた。占うと不吉であり、ためらって進軍しなかった。官軍が敗北すると、蘇峻は盱眙に退いて守りを固めた。かつての淮陵の役人であった徐深と艾毅が重ねて蘇峻を内史とするよう請願し、 詔 はこれを聞き入れ、奮威将軍を加えた。太寧の初め、臨淮内史に改めて任ぜられた。王敦が再び叛逆を企てると、 尚書令 の郗鑒は蘇峻と劉遐を召し出して京都を救援することを議した。王敦は蘇峻の兄を派遣して蘇峻を説得させた。「富貴は座して得られるものだ。どうして自ら死にに行くのか。」蘇峻は従わず、軍勢を率いて京師に向かい、 司徒 の旧邸に駐屯した。道が遠く行軍が速かったため、兵士は疲労困憊した。沈充と銭鳳が謀って言った。「北軍は新たに到着したばかりで、まだ攻撃に耐えられない。攻撃すれば必ず勝てる。もしまた躊躇すれば、後で攻め難くなる。」賊軍はその夜、竹格渚を渡り、柵を抜いて戦おうとした。蘇峻はその将の韓晃を率いて南塘で横から遮断し、大いにこれを打ち破った。また 庾亮 に従って沈充を追撃して破った。使持節・冠軍将軍・歴陽内史に進められ、 散騎常侍 を加えられ、邵陵公に封ぜられ、食邑千八百戸を与えられた。
蘇峻はもともと一介の家柄から動乱の際に民衆を集め、帰順した後は功績を立てることを志し、すでに国家に功績があり、威望は次第に高まっていた。この時には精鋭の兵士一万人を擁し、兵器は非常に精良で、朝廷は長江の外を彼に委ねた。しかし蘇峻はかなり驕り高ぶりを抱き、自らの軍勢を恃み、密かに異心を抱き、逃亡者を受け入れ、罪を得て逃亡する者がいると、蘇峻はすぐに匿った。兵力は日増しに多くなり、皆朝廷の食糧に依存し、物資を運ぶ者が絶え間なく続いたが、少しでも意に沿わないことがあると、すぐに憤りの言葉を吐いた。
当時、明帝が崩御したばかりで、政務は宰相に委ねられていた。護軍の庾亮は彼を召し出そうとした。蘇峻は召喚されようとしていると聞き、司馬の何仍を庾亮のもとに遣わして言わせた。「賊を討つという外任であれば、遠近を問わず命令に従いますが、内政を補佐することは、私には到底務まりません。」聞き入れられず、優れた 詔 書が下され、蘇峻は大司農に任じられ、 散騎常侍 を加官され、位は特進となり、弟の蘇逸が彼の部曲を代わりに率いることになった。蘇峻はもともと皇帝が自分を害そうとしていると疑っており、上表して言った。「かつて明皇帝は自ら臣の手を取られ、臣に北の胡寇を討たせられました。今、中原はまだ平定されておらず、家にいるのは無益です。どうか青州の境界にある荒れた郡を補任していただき、鷹犬としての役目を果たしたいと思います。」またも許されなかった。蘇峻は厳重に身支度を整えて召喚に応じようとしたが、ためらって決断できずにいた。参軍の任讓が蘇峻に言った。「将軍が荒れた郡を求めても許されず、情勢がこのようでは、生き延びる道はない恐れがあります。兵を率いて自ら守る方が良いでしょう。」蘇峻はこれに従い、ついに命令に応じなかった。朝廷は使者を遣わして諭したが、蘇峻は言った。「朝廷が私が謀反を企てていると言うなら、どうして生きていられようか!私はむしろ山の頂から廷尉(刑罰)を望もうとも、廷尉から山の頂を望むことはできない。かつて国家の危機が累卵のごとくであった時、私がいなければ乗り切れなかった。狡兎が死ねば、猟犬は当然煮られるべき道理だが、ただ謀を立てた者に死をもって報いるだけだ。」こうして参軍の徐會を遣わして祖約と結び、乱を謀り、庾亮を討つことを名目とした。祖約は祖渙と許柳に兵を率いさせて蘇峻を助けさせた。蘇峻は将の韓晃と張健らを遣わして姑孰を襲撃させ、慈湖に進軍して迫り、于湖県令の陶馥と振威将軍の司馬流を殺害した。蘇峻は自ら祖渙と許柳の兵一万を率い、風に乗って横江から渡河し、陵口に駐屯し、朝廷軍と戦い、頻繁に勝利し、ついに蔣陵の覆舟山を占拠した。兵を率いて風に乗じて火を放ち、台省や諸営・寺・署は一瞬にして焼き尽くされた。ついに宮城を陥落させ、兵を放って略奪をほしいままにし、六宮に侵攻して迫り、極めて凶暴で残酷、道理をわきまえなかった。百官を駆り立てて使役し、光禄勲の王彬らは皆鞭打たれ、蔣山に荷物を担いで登ることを強制された。男女の衣服を剥ぎ取り、皆、壊れた筵やむしろで身を覆い、草のない者は地面に座って土で身を覆い、哀号の声は内外に響き渡った。当時、官には布二十万匹、金銀五千斤、銭億万、絹数万匹、その他の物資もこれに相当するものがあったが、蘇峻はこれをすべて使い果たした。 詔 書を偽って大赦を発布し、ただ庾亮兄弟だけは赦免の対象外とした。自ら驃騎将軍・領軍将軍・録尚書事を兼任し、許柳を丹陽尹とし、前将軍の馬雄に左衛将軍を加官し、祖渙を 驍 騎将軍とし、弋陽王司馬羕を西陽王・太宰・録尚書事に復帰させ、司馬羕の子息の司馬播も元の官職に復帰させた。こうして官職を改易し、自分の親族や仲間を配置し、朝廷の政事はすべて彼が決めるようになった。また韓晃を義興に、張健、管商、弘徽らを 晉 陵に入らせた。
当時、溫嶠と 陶侃 がすでに武昌で義兵を挙げていた。蘇峻は兵が立ち上がったと聞き、参軍の賈甯の計を用いて、石頭城に戻って拠点とし、さらに兵を分けて諸義軍を防がせ、通過する所はことごとく破壊し尽くした。溫嶠らが到着しようとしていたので、蘇峻は天子を石頭城に移し、住民を脅迫して皆を後苑に集めさせ、懐徳県令の匡術に苑城を守らせた。溫嶠らが到着すると、白石に堡塁を築いた。蘇峻は兵を率いてこれを攻撃し、陥落寸前まで追い込んだ。東西に略奪を行い、多くの捕虜を得て、兵威は日に日に盛んとなり、戦えば必ず勝利した。このため義兵は挫け、人々はそれぞれ別の考えを抱くようになった。義軍に奔った朝廷の士人たちは皆言った。「蘇峻は狡猾で知略があり、その徒党は勇猛で、向かうところ敵なしである。ただ天が罪ある者を討つということで、誅滅されるのも間もないだろう。もし人の力で言うなら、容易に除くことはできない。」溫嶠は怒って言った。「諸君は臆病で、かえって賊を褒め称えている。」その後、何度も戦って勝利できず、溫嶠も深く恐れるようになった。管商らは呉郡を攻撃し、呉県、海塩、嘉興を焼き払い、諸義軍を破った。韓晃はまた宣城を攻撃し、太守の桓彝を殺害した。管商らはまた余杭を焼き払ったが、武康で大敗し、義興に退却した。溫嶠は趙胤と共に歩兵一万を率い、白石から南へ進軍し、敵に迫ろうとした。蘇峻は匡孝と共に八千人を率いて迎え撃ち、蘇峻は子の蘇碩と匡孝に数十騎を率いさせて先に趙胤に迫らせ、これを破った。蘇峻は趙胤が逃げるのを見て言った。「匡孝は賊を破ることができる。私はさらに及ばないのか!」そこで兵を捨て、数騎で北へ下り敵陣に突撃したが、中に入ることができず、白木陂に向かって引き返そうとしたところ、牙門の彭世と李千らが矛を投げつけ、落馬し、首を斬り、肉を切り刻み、骨を焼いた。三軍は皆万歳を称えた。蘇峻の司馬の任讓らは共に蘇峻の弟の蘇逸を主君として立てた。蘇峻の遺体を求めたが見つからず、蘇碩は庾亮の父母の墓を暴き、棺を割り遺体を焼いた。蘇逸は城門を閉じて自ら守った。韓晃は蘇峻の死を聞き、兵を率いて石頭城へ向かった。管商と弘徽は庱亭の堡塁を攻撃したが、督護の李閎と軽車長史の滕含がこれを撃破し、千の首級を斬った。管商は兵を率いて延陵に逃げた。李閎と庱亭の諸軍はこれを追撃し、数千の首級を斬り捕虜を得た。管商は庾亮のもとに赴いて降伏した。匡術は苑城を挙げて降伏した。韓晃と蘇逸らは力を合わせて匡術を攻撃したが、陥落させることができなかった。溫嶠らは精鋭を選んで賊の陣営を攻撃しようとした。蘇碩は勇猛な兵数百を率いて淮水を渡って戦い、陣中で蘇碩を斬った。韓晃らは震え上がり、その兵を率いて曲阿の張健のもとに奔ったが、門が狭く出られず、互いに踏みつけ合い、死者は万を数えた。蘇逸は李湯に捕らえられ、車騎府で斬られた。
管商が降伏した時、残りの兵はすべて張健のもとに帰った。張健はまた弘徽らが自分と同心でないと疑い、皆殺しにし、さらに舟軍を率いて延陵から長塘に向かい、大小合わせて二万余口、金銀宝物は数え切れないほどであった。揚烈将軍の王允之は呉興の諸軍と共に張健を攻撃し、大破し、男女一万余口を捕虜とした。張健はまた馬雄、韓晃らと共に軽装の兵で共に逃走した。李閎は精鋭の兵を率いてこれを追撃し、岩山で追いつき、激しく攻撃した。張健らは山を下りようとせず、ただ韓晃だけが単身出てきて、二つの歩兵用の靫(矢筒)に矢を帯び、胡床に寄りかかり、弓を引いて射かけ、多くの死傷者を出した。矢が尽きると、遂に斬り殺された。張健らはついに降伏し、皆その首をさらし首にした。
孫恩
孫恩は、字を霊秀といい、琅邪の人で、孫秀の一族である。代々五斗米道を信奉していた。孫恩の叔父の孫泰は、字を敬遠といい、銭唐の杜子恭に師事した。杜子恭には秘術があり、かつて人から瓜を切る包丁を借りたことがあった。その持ち主が返却を求めたところ、杜子恭は言った。「すぐに返すでしょう。」しばらくして包丁の持ち主が嘉興に行くと、魚が船の中に跳び込んできた。魚を割ると中から瓜包丁が出てきた。その霊験はしばしばこのようなものであった。杜子恭が死ぬと、孫泰がその術を伝えた。しかし軽薄で狡猾で小才があり、百姓を欺き誘導し、愚かな者は神のように敬い、皆財産を尽くし、子女を差し出して、福と慶事を祈った。王珣が会稽王司馬道子に言上し、広州に流罪とした。広州 刺史 の王懷之は孫泰を行郁林太守とし、南越も彼に帰服した。太子少傅の王雅は以前から孫泰と親しく、孝武帝に言上し、孫泰が養生の方法を知っているとして、召し還された。司馬道子は彼を徐州主簿としたが、依然として道術で士人や庶民を惑わした。次第に輔国将軍、新安太守に昇進した。王恭の乱の時、孫泰はひそかに義兵を集め、数千人を得て、国のために王恭を討とうとした。黄門郎の孔道、鄱陽太守の桓放之、驃騎諮議の周勰らは皆彼を敬って仕え、会稽王世子の司馬元顕もたびたび孫泰のもとを訪れてその秘術を求めた。孫泰は天下に兵乱が起こるのを見て、晋の国運が終わろうとしていると考え、百姓を扇動し、ひそかに徒党を集め、三呉の士人や庶民の多くがこれに従った。当時、朝廷の士人たちは皆孫泰が乱を起こすことを恐れたが、彼が司馬元顕と親密な関係にあるため、誰も敢えて言う者がいなかった。会稽内史の謝輶が彼の陰謀を発覚させ、司馬道子が彼を誅殺した。孫恩は海に逃れた。人々は孫泰の死を聞き、惑わされて、皆蝉が抜け殻を脱いで仙人に登ったと言い、そこで海の中の孫恩のもとに物資を送った。孫恩は逃亡者を集めて百余人を得、復讐を志した。
元顕が呉会で暴虐をほしいままにし、民衆が不安に陥ると、孫恩はその騒動に乗じて、海から上虞を攻め、県令を殺し、さらに会稽を襲撃して内史の王凝之を殺害し、数万の兵を擁した。そこで会稽の謝鍼、呉郡の陸瑰、呉興の丘尪、義興の許允之、臨海の周胄、永嘉の張永、および東陽、新安など合わせて八郡が、一時に一斉に蜂起し、長史を殺して孫恩に呼応した。十日ほどの間に、その勢力は数十万に達した。このため、呉興太守の謝邈、永嘉太守の謝逸、嘉興公の顧胤、南康公の謝明慧、黄門郎の謝沖と張琨、中書郎の孔道、太子洗馬の孔福、烏程令の夏侯愔らが皆殺害された。呉国内史の桓謙、義興太守の魏傿、臨海太守で新蔡王の司馬崇らは皆逃亡した。こうして孫恩は会稽を占拠し、自ら征東将軍を称し、配下を「長生人」と呼び、異分子を誅殺せよと命じ、同意しない者は赤子に至るまで殺戮したため、死者は十のうち七、八に及んだ。畿内の諸県では至る所で蜂起が起こり、朝廷は震え上がり、内外に戒厳令を敷いた。衛将軍の謝琰と鎮北将軍の劉牢之を派遣して討伐させ、両者は転戦しながら前進した。呉会は平穏な日々が長く続いていたため、人々は戦いに慣れておらず、武器も不足していたので、各地で敗北を喫した。賊徒らは皆、倉庫を焼き、町屋を燃やし、木を切り倒し井戸を埋め、財貨を略奪し、相次いで会稽に集結した。女性で幼児を抱えて逃げられない者は、籠に赤ん坊を入れて水に投げ込み、「あなたが先に仙堂に登ることをお祝いします。私はすぐ後にあなたの後を追います」と言ったという。
当初、孫恩は八郡が呼応したと聞き、配下に告げて言った。「天下にこれ以上やることはない。諸君と共に朝服を着て 建康 に行こう。」劉牢之が長江に迫ったと聞くと、また言った。「私は浙江を境とし、句践になることを失わない。」やがて劉牢之がすでに長江を渡ったと知ると、今度は言った。「私は逃げることを恥じない。」そして男女二十余万口を捕虜とし、一斉に海へ逃げ込んだ。官軍に追撃されるのを恐れ、道中で多くの宝物や子女を捨てた。当時、東土は豊かで、目を見張るほど美しい物が溢れていたが、劉牢之らは収拾に手間取ったため、孫恩は再び海へ逃げることができた。朝廷は謝琰を会稽に派遣し、徐州の文武官を率いて海岸を守備させた。
隆安四年、孫恩は再び余姚に入り、上虞を破り、刑浦に進軍した。謝琰は参軍の劉宣之を派遣してこれを撃退し、孫恩は退却した。数日後、再び刑浦を襲撃し、謝琰を殺害した。朝廷は大いに震撼し、冠軍将軍の桓不才、輔国将軍の孫無終、寧朔将軍の高雅之を派遣して孫恩を攻撃させた。孫恩は再び海に戻った。そこで再び劉牢之を派遣して東の会稽に駐屯させ、呉国内史の袁山松は扈瀆に堡塁を築き、海岸沿いに孫恩に備えた。翌年、孫恩は再び浹口に入り、高雅之は敗北した。劉牢之が進撃すると、孫恩は再び海に戻った。転じて扈瀆を襲撃し、袁山松を殺害し、そのまま海を渡って京口に向かった。劉牢之が軍を率いて西から迎撃したが、到着する前に孫恩はすでに到着しており、劉裕が兵を総動員して海岸沿いにこれを防いだ。戦いが始まると、孫恩の軍は大敗し、慌てふためいて船に逃げ込んだ。まもなく再び兵を集め、京都に向かおうとしたので、朝廷は恐れおののき、軍勢を配置して待ち構えた。孫恩は新州に到着したが、進むことができずに退却し、北の広陵を攻撃してこれを陥落させ、海を渡って北へ向かった。劉裕と劉敬宣が軍を合わせて鬱洲で追撃し、幾度も戦って孫恩を再び大敗させた。これにより孫恩の勢力は次第に衰え、再び海岸沿いに南下した。劉裕もまた海路で要所を遮断し、扈瀆で孫恩を再び大破したため、孫恩は遠く海中に逃げ込んだ。
桓玄が権力を握ると、孫恩は再び臨海を襲撃したが、臨海太守の辛景に討ち破られた。孫恩は窮地に陥り、海に身を投げて自沈した。妖党や妓妾たちは彼を水仙と呼び、水に飛び込んで後を追って死んだ者は数百人に及んだ。残った勢力は再び孫恩の妹婿である盧循を主に推戴した。孫恩が最初に海に入った時、捕虜にした男女の数は、その後戦死したり自溺したり、離散して売り飛ばされたりして、孫恩が死んだ時にはわずか数千人しか残っていなかった。そして孫恩は謝琰と袁山松を攻め滅ぼし、広陵を陥落させ、前後数十回の戦いで、また数万人の百姓を殺害した。
盧循
盧循は、字を於先といい、幼名は元龍、 司空 従事中郎の盧諶の曾孫である。両眼は澄み切って輝き、瞳が四方に動き、草書・隷書・囲碁の技芸に優れていた。僧侶の慧遠は鑑識眼があり、彼を見て言った。「あなたは風雅な素養はあるが、心には正道を外れた志を抱いている。」盧循は孫恩の妹を娶った。孫恩が乱を起こすと、盧循は彼と共謀した。孫恩の性格は残酷で残忍であったが、盧循はたびたび諫めて止めさせたため、多くの人々が彼のおかげで救われた。孫恩が死ぬと、残党は盧循を主に推戴した。元興二年正月、東陽を襲撃し、八月には永嘉を攻めた。劉裕が盧循を討伐して晋安に至ると、盧循は窮地に陥り、海を渡って番禺に至り、広州を襲撃して 刺史 の呉隠之を追い出し、自ら州の政務を執り行い、平南将軍を称し、使者を派遣して貢物を献上した。当時、朝廷は桓氏を誅殺したばかりで、内外に憂いが多かったため、やむを得ず盧循に征虜将軍・広州 刺史 ・平越中郎将の官職を仮に与えた。
義熙年間、劉裕が慕容超を討伐した時、盧循が任命した始興太守の徐道覆(盧循の姉婿)は、人を遣わして盧循に虚を突いて出撃するよう勧めたが、盧循は従わなかった。徐道覆は自ら番禺に行き、盧循を説得して言った。「朝廷は常にあなたを心腹の患いと見なしている。劉公(劉裕)が帰還する日は未定であり、この機会に乗じて一日の安泰を保たなければ、もし斉を平定した後、劉公自ら軍を率いて 豫 章に至り、精鋭部隊を嶺南に越えさせれば、たとえあなたが神武であっても、必ず防ぎきれないでしょう。今日の機会は、決して逃すべきではありません。都を攻略すれば、劉裕が帰還しても、どうすることもできません。もしあなたが同意されないなら、私は始興の兵を率いて直ちに尋陽に向かいます。」盧循はこの行動を非常に好まなかったが、彼の計画を覆すことができず、やむなく従った。
当初、徐道覆は密かに船艦を建造しようと考え、南康山で船材を伐採させ、都に下って売りに出そうとしていると偽った。後になって力が足りず運べないと称し、郡内で安値で売りに出した。価格は数倍も下がり、住民はその安さに惹かれて衣服や物品を売って買い求めた。贛石の水流は急で、船を出すのは非常に難しかったため、皆それを貯蔵した。このようなことを数回繰り返したので、船板が大量に蓄積されたが、百姓は疑わなかった。徐道覆が挙兵すると、売買証文を調べてそれらを取り上げ、隠匿することは許さず、全力で船を建造し、十日ほどで完成させた。こうして軍勢を挙げて南康、廬陵、 豫 章の諸郡を襲撃すると、郡守や国相は皆任地を捨てて逃亡した。鎮南将軍の何無忌が軍を率いて防戦したが、敗北して殺害された。
盧循は道覆を派遣して江陵を攻撃させたが、到着する前に官軍に敗れ、急いで走って盧循に報告した。「どうか力を合わせて京都を攻めましょう。もしこれを落とせば、江陵は心配するに足りません。」そこで旗を連ねて下流へ進み、兵士十万、船艦千艘あまりで、桑落洲で衛将軍劉毅を破り、まっすぐに江寧に至った。道覆はもともと胆力と決断力があり、劉裕がすでに帰還したことを知ると、一か八かの決戦を望み、新亭から白石にかけて船を焼き、陸路で数方向から攻撃することを請うた。盧循は謀略に富むが決断力に乏しく、万全の策を望んだため、固く聞き入れなかった。道覆は盧循に決断力がないのを見て、嘆いて言った。「私はついに盧公に誤らされ、事は必ず成就しないだろう。もし私が英雄に駆け使われることができれば、天下を平定するのは難しくないのに!」劉裕は彼らの侵攻を恐れ、石頭に柵を築き、柤浦を遮断して防いだ。盧循が柵を攻撃したがうまくいかず、船艦が暴風で転覆し、死者が出た。南岸に陣を布いたが、戦いでまた敗北した。そこで京口を攻撃し、諸県を略奪したが、何も得られなかった。盧循は道覆に言った。「軍は疲れ果てた!再び勢いを盛り返すことはできない。尋陽を拠点とし、力を合わせて荊州を奪い、ゆっくりと都と対抗すれば、まだ成功できるかもしれない。」そこで蔡洲から南へ逃走し、再び尋陽を占拠した。劉裕は先に諸将を派遣して追討させ、自らは大軍を率いて続いて進軍し、雷池でまた盧循を破った。盧循は 豫 章に逃げ帰ろうとし、全力で左裏を遮断する柵を築いた。劉裕は兵に命じて柵を攻撃させた。盧循の兵は死に物狂いで戦ったが、やはり抗することができなかった。劉裕は勝ちに乗じて攻撃し、盧循は単艦で逃走し、散り散りになった兵士を集めて千余人を得て、広州を守った。劉裕は先に孫処を海路から派遣して番禺城を占拠させており、盧循が攻撃しても落とせなかった。道覆は始興を守り、険しい地形を頼りに自らを固めた。盧循は合浦を襲撃し、これを落とし、交州を攻撃した。龍編に至ると、 刺史 杜慧度が計略を用いてこれを破った。
盧循は勢いが尽き、免れられないと悟り、先に妻子十余人を毒殺し、また妓妾を呼んで問うた。「私は今自殺しようとするが、誰が一緒に死ねるか?」多くは言った。「雀や鼠でさえ命を惜しむもので、死に就くのは実に人情として難しいことです。」ある者は言った。「貴方様がなお死なれるなら、私どもが生きようと願うでしょうか!」そこで死を願う者たちをすべて毒殺し、自ら水に身を投げた。杜慧度はその死体を取り上げて斬首し、その父の盧嘏も同様にした。同党はことごとく捕らえられ、首は京都に送られた。
譙縦
譙縦は、巴西郡南充県の人である。祖父の譙献之は、西方の地で重い名声があった。縦は若い頃から謹慎で、蜀の人々に愛された。安西府の参軍となった。義熙元年、 刺史 は縦と侯暉らに諸県の 氐 族を率いて東へ進軍するよう命じた。侯暉には二心があり、梁州の人が東征を好まないことを利用して、益州 刺史 の毛璩を倒そうと図り、巴西の陽昧と五城の水口で謀議を結び、共に縦を主君に推し立てようとした。縦は恐れて承諾せず、水に飛び込もうとしたが、侯暉が引き出して請願し、再三に及んだため、ついに兵で縦を輿の上に押し立てた。涪城で毛璩の弟である西夷 校尉 の毛瑾を攻め、城は陥落し、毛瑾はそこで戦死した。縦は自ら梁州・秦州の二州 刺史 を称した。毛璩は縦の反乱を聞き、略城から徒歩で成都に戻り、参軍の王瓊に三千人を率いて縦を討伐させ、また弟の毛瑗に四千の兵を率いて王瓊の後続として進軍させた。縦は弟の明子と侯暉を派遣して広漢で王瓊を防がせた。王瓊は侯暉らを撃破し、綿竹まで追撃した。明子は二つの伏兵を設けて待ち受け、王瓊の軍を大破し、死者は十のうち八、九に及んだ。益州の営戸である李騰が城門を開いて縦を迎え入れた。
毛璩が死ぬと、縦は従弟の譙洪を益州 刺史 とし、明子を鎮東将軍・巴州 刺史 として、その兵五千人を率いて白帝に駐屯させ、自らは成都王を称した。翌年、姚興に使者を遣わして臣従を称し、流れに乗って東へ侵攻しようとし、車騎将軍劉裕を討つことを名目として、姚興に援軍を乞い、さらに桓謙の助力を請うた。姚興はこれを許した。
九年、劉裕は西陽太守の朱齢石を益州 刺史 とし、寧朔将軍の臧喜、下邳太守の劉鐘、蘭陵太守の蒯恩らに二万の兵を率いさせ、江陵から縦を討伐させた。初め主将を決める際、皆がその人選に難色を示した。朱齢石の資質と名声はもともと浅く、劉裕は衆議に反して彼を抜擢し、麾下の半分を授けた。臧喜は劉裕の妻の弟で、地位は朱齢石より上だったが、またその指揮下に入った。朱齢石は白帝に駐屯した。縦は譙道福に重兵を率いて涪を守らせた。朱齢石の軍は平模に駐屯し、成都から二百里の距離にあった。縦はその大将軍の侯暉と尚書 僕射 の譙詵を平模に駐屯させ、両岸に城を連ね、楼閣を重ね柵を設けたため、衆軍は攻め落とせなかった。朱齢石は劉鐘に言った。「ちょうど暑い季節で、賊は今険しい地に拠っている。攻めれば陥落は難しく、ただ我が軍を疲弊させるだけだ。私は鋭気を蓄え兵を休め、隙をうかがって進もうと思うが、卿はどう思うか?」劉鐘は言った。「そうではありません。以前、大将軍が内水から来ると言いふらしたので、道福は涪を離れられなかったのです。今、大軍で迫り、その不意を突けば、侯暉の徒はすでに肝を潰しているでしょう。まさにその恐怖に乗じて攻撃すべきで、勢いとして必ず陥落します。平模を落とした後は、自然と太鼓を鳴らして進軍でき、成都は必ず守れません。もし兵を緩めて対峙し、互いの虚実が明らかになれば、涪の軍がまた来て、敵対するのは難しくなります。進んで戦うこともできず、退くにも拠り所がなく、二万余人は蜀の子分の虜となるだけです。」朱齢石はこれに従った。翌日、攻撃をかけるとすべて陥落し、侯暉らを斬った。そこで進軍した。縦の城を守る者は次々と瓦解し、縦はついに逃亡した。その 尚書令 の馬耽は倉庫を封じて王師を待った。朱齢石が成都に入ると、縦と同祖の親族を誅殺し、その他は安堵させ、生業に戻らせた。
縦が逃走する際、まずその墓所に行った。縦の娘が縦に言った。「逃げても必ず免れられず、ただ辱めを受けるだけです。同じ死ぬなら、先祖の墓の前で死ぬのがよいでしょう。」縦は従わず、涪にいる道福のもとへ身を寄せた。道福は怒って縦に言った。「大丈夫がこのような功業を築きながら、どうして棄てられようか!今、降伏の虜となろうとしても、どうして叶うだろうか!人は誰しも死ぬもの、何をそれほど恐れるのか!」そこで縦に剣を投げつけ、その馬の鞍に当たった。縦はそこを去り、自ら首を吊った。道福はその配下に言った。「私がお前たちを養ってきたのは、まさに今日のためだ。蜀の存亡は、実は私にかかっており、譙王ではない。私がまだいる以上、まだ一戦はできる。」兵士たちは皆承諾した。そこで金帛をばらまいて配下に与えたが、兵士たちはそれを受け取ると逃げ去った。道福はただ一人広漢に逃げたが、広漢の人杜瑾が彼を捕らえた。朱齢石は馬耽を越巂に移し、追って殺害した。馬耽が移される時、その配下に言った。「朱侯が私を京師に送らないのは、衆人の口を封じるためだ。私は必ず免れられない。」そこで身を清めて臥し、縄を引いて死んだ。しばらくして朱齢石の軍が到着し、死体をさらし首にした。
史評
史臣が言う。恵帝が統御を失い、政は乱れ朝廷は危うくなり、禍いは宮廷内から起こり、毒は全中国に及び、九州は波のように動揺し、五嶽は塵のように飛び散り、干戈は日々繰り返され、兵車は競って駆け巡った。王彌は乱を好み禍を楽しみ、詐欺を抱き奸計を懐き、仲間を呼び集め、隙をうかがい機会を待ち、平陽で悖逆を助け、都邑で残忍をほしいままにし、ついに生民を塗炭の苦しみに陥れ、神器を流浪させ、邦国は『麦秀』の哀しみに心を痛め、宮廟は『黍離』の痛みを生じた。これは天の意思なのか?人の為すことなのか?なぜ醜い虜がこれほど猖獗し、乱離がこれほど甚だしいのか!張昌らは、ある者は淮浦で梟のように威張り、ある者は荊衡で蟻のように集まり、烏合の凶徒を招き、豺狼のような貪欲で暴虐をほしいままにし、険阻な地に依り、江湖で強情を張ったが、一年も経たないうちに、皆誅殺に至った。実に自ら招いたものであり、不幸とは言えない。蘇峻と祖約は悪党同士で助け合い、この乱の階梯を生み、孫恩と盧循は同類が求め合い、妖逆を継いで成した。ついには干戈が地を掃い、災害が天にまで及んだ。樊や謝の毒が生霊に及んだとしても、李や郭の禍が宮闕に延びたとしても、この凶暴さに比べれば、それ以上ではない。譙縦はこの隙に乗じ、その奸謀をほしいままにしたが、踵を返す間に滅亡した。論ずるに足りない。