晉書

卷九十六 列傳第六十六 列女傳

卷九十六 列傳第六十六 列女傳

晉書

原文晉書

卷九十六 列傳第六十六 列女傳

原文卷九十六 列傳第六十六 列女傳 ► 卷九十七

序

原文序

天地人三才の位が分かれ、夫婦の道は盛んになる。二つの氏族が結ばれ、貞節で烈女の風はここに顕著となる。高い志を奮い起こしてひときわ優れ、魯の史冊はここに華を飛ばす。峻厳な節操を立てて孤高に秀で、周の篇章はここに茂りを騰せる。美しい功績と烈女の行いを兼ね備え、柔和で順従で過ちがなく、時代を隔てて互いに望み合うが、確かに一様ではない。しかしながら、虞は媯汭で興り、夏は塗山で盛んとなり、有娀・有㜪は殷の事業を広く隆盛させ、大任・大姒は周の教化を広げた。馬皇后・鄧皇后は恭倹で、漢朝はその徳を推し、宣昭皇后は淑やかで美しく、魏の代にその香りを揚げた。これらは皆、内室の礼の極みであり、月室の義とは異なるものである。恭薑が節を誓い、孟母が仁を求めたこと、華が傅に率いられて齊を経営し、樊が規を授けて楚を覇者にしたこと、文伯を奉剣のことで譏り、子發を分菽のことで譲ったこと、少君が約礼に従い、孟光が隠れた志に符合したことは、既に婦人の規範を明らかにし、かつ母の手本を擅んじた。子政(劉向)が前に編纂し、元凱(杜預とよ)が後に編んだのは、閨範をことごとく宣べ、内訓に裨益するためである。それ故に上は泰始(武帝の年号)から、下は恭安(?)に至るまで、一つの操行が称えられるべきもの、一つの技芸が記録されるべきものは、すべて撰録して、その伝とした。ある者は后妃の極位にあり、ある者は夫の事績によるもので、それぞれ本伝に従い、今ここには記録しない。諸偽国のものは、一時的に王道に阻まれたが、天下の善は、十分に懲め勧めるに足るので、同様に捜索して次第に記し、篇末に附する。

原文夫三才分位,室家之道克隆;二族交歎,貞烈之風斯著。振高情而獨秀,魯冊於是飛華;挺峻節而孤標,周篇於焉騰茂。徽烈兼劭,柔順無愆,隔代相望,諒非一緒。然則虞興媯汭,夏盛塗山,有娀、有㜪廣隆殷之業,大任、大姒衍昌姬之化,馬鄧恭儉,漢朝推德,宣昭懿淑,魏代揚芬,斯皆禮極中闈,義殊月室者矣。至若恭薑誓節,孟母求仁,華率傅而經齊,樊授規而霸楚,譏文伯于奉劍,讓子發於分菽,少君之從約禮,孟光之符隱志,既昭婦則,且擅母儀。子政緝之於前,元凱編之於後,具宣閨範,有裨陰訓。故上從泰始,下迄恭安,一操可稱,一藝可紀,咸皆撰錄,為之傳云。或位極后妃,或事因夫子,各隨本傳,今所不錄。在諸偽國,暫阻王猷,天下之善,足以懲勸,亦同搜次,附於篇末。

羊耽の妻 辛憲英

原文羊耽妻辛憲英

羊耽の妻の辛氏、字あざなは憲英、隴西の人で、魏の侍中辛毗の娘である。聡明で朗らかで、才知と鑑識眼があった。初め、魏の文帝(曹丕)が太子に立てられた時、辛毗の首を抱えて言った。「辛君は私が喜んでいるのを知っているか?」辛毗が憲英に告げると、憲英は嘆いて言った。「太子とは、君主に代わって宗廟社稷を守る者です。君主に代わる者は憂えずにはいられず、国を主とする者は恐れずにはいられません。憂えるべき時に喜んでいるようでは、どうして長く続けられましょうか!魏は栄えないのではないでしょうか。」

原文羊耽妻辛氏,字憲英,隴西人,魏侍中毗之女也。聰朗有才鑒。初,魏文帝得立為太子,抱毗項謂之曰:「辛君知我喜不?」毗以告憲英,憲英歎曰:「太子,代君主宗廟社稷者也。代君不可以不戚,主國不可以不懼,宜戚而喜,何以能久!魏其不昌乎?」

弟の辛敞が大将軍曹爽そうそうの参軍であった時、宣帝(司馬懿しばい)が曹爽を誅殺しようとし、曹爽が魏帝に従って外出した隙に城門を閉ざした。曹爽の司馬魯芝が府兵を率いて関門を斬って曹爽のもとへ赴き、辛敞にも一緒に行くよう呼びかけた。辛敞は恐れて、憲英に尋ねた。「天子が外におり、太傅(司馬懿)が城門を閉ざしています。人々は国家に不利なことをしようとしていると言いますが、事態はそうなり得るのでしょうか。」憲英は言った。「事はどうなるか分かりませんが、私が推し量るに、太傅はやむを得ずそうしているのでしょう。明皇帝(曹叡)が臨終の際、太傅の腕を握り、後事を託された。この言葉はまだ朝廷の士の耳に残っています。しかも曹爽と太傅はともに託された重任を受けながら、曹爽が独り権勢を専らにし、王室に対して忠でなく、人の道に対して正しくありません。この挙動は曹爽を誅殺するためだけのものです。」辛敞が言った。「では、私は出て行かない方がよいのでしょうか。」憲英は言った。「どうして出て行かずにいられようか!職務を守ることは、人の大義です。普通の人でも難に遭えば、あるいは憐れむものです。人のために鞭を執る役目でありながらその職務を捨てるのは、不吉です。しかも人に任せられ、人のために死ぬのは、親しい者の役目です。あなたは大勢に従えばよいのです。」辛敞は遂に出て行った。宣帝は果たして曹爽を誅殺した。事が定まった後、辛敞は嘆いて言った。「私は姉に相談しなかったら、ほとんど義を失うところだった。」

原文弟敞為大將軍曹爽參軍,宣帝將誅爽,因其從魏帝出而閉城門,爽司馬魯芝率府兵斬關赴爽,呼敞同去。敞懼,問憲英曰:「天子在外,太傅閉城門,人云將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰:「事有不可知,然以吾度之,太傅殆不得不爾。明皇帝臨崩,把太傅臂,屬以後事,此言猶在朝士之耳。且曹爽與太傅俱受寄託之任,而獨專權勢,於王室不忠,於人道不直,此舉不過以誅爽耳。」敞曰:「然則敞無出乎?」憲英曰:「安可以不出!職守,人之大義也。凡人在難,猶或恤之;為人執鞭而棄其事,不祥也。且為人任,為人死,親昵之職也,汝從眾而已。」敞遂出。宣帝果誅爽。事定後,敞歎曰:「吾不謀于姊,幾不獲於義!」

その後、鐘会が鎮西将軍となった時、憲英は羊耽の従子(甥)の羊祜ようこに言った。「鐘士季(鐘会)はなぜ西に出るのか。」羊祜が「蜀を滅ぼすためです」と言うと、憲英は言った。「鐘会は事に当たって勝手気ままであり、長く人下にいる道理ではない。私は彼に他の野心があるのを恐れる。」鐘会が出発する時、その子の鐘琇を参軍に請うた。憲英は憂えて言った。「かつては国のことを憂えたが、今日は難が我が家に至った。」鐘琇が文帝(司馬昭しばしょう)に固く請うたが、帝は聞き入れなかった。憲英は鐘琇に言った。「行きなさい、戒めなさい。古の君子は家にあっては親に孝を尽くし、外に出ては国に節を尽くす。職にあってはその司ることを思い、義にあってはその立つところを思い、父母に憂患を残さないだけである。軍旅の間で役に立つものは、仁と恕だけではないか。」鐘会は蜀に至って果たして反逆し、鐘琇は結局無事に帰還した。羊祜が錦の布団を贈ったことがあったが、憲英はその華美さを嫌い、裏返してかぶせた。そのように明らかな鑑識眼と倹約ぶりであった。泰始五年に死去、七十九歳。

原文其後鐘會為鎮西將軍,憲英謂耽從子祜曰:「鐘士季何故西出?」祐曰:「將為滅蜀也。」憲英曰:「會在事縱恣,非持久處下之道,吾畏其有他志也。」及會將行,請其子琇為參軍,憲英憂曰:「他日吾為國憂,今日難至吾家矣。」琇固請于文帝,帝不聽。憲英謂琇曰:「行矣,戒之!古之君子入則致孝於親,出則致節于國;在職思其所司,在義思其所立,不遺父母憂患而已。軍旅之間可以濟者,其惟仁恕乎!」會至蜀果反,琇竟以全歸。祜嘗送錦被,憲英嫌其華,反而覆之,其明鑒儉約如此。泰始五年卒,年七十九。

杜有道の妻 厳憲

原文杜有道妻嚴憲

杜有道の妻の厳氏、字は憲、京兆の人である。貞淑で識見と度量があった。十三歳で杜氏に嫁ぎ、十八歳で未亡人となった。子の杜植と娘の杜韡はともに幼くして孤児となった。憲は若かったが、節を変えないと誓い、二人の子を養育し、礼儀と法度を教えた。杜植は遂に当時に名を顕し、杜韡も淑やかな徳があった。傅玄が後妻に求めると、憲はすぐに許した。当時、傅玄は何晏かあん・鄧揚と仲が悪く、何晏らはしばしば傅玄を害そうとしたので、当時の人は誰も傅玄と婚姻しようとしなかった。憲が傅玄を許すと、内外の者は憂え恐れた。ある人が言った。「何晏・鄧揚が権力を握っており、必ず傅玄を害するでしょう。それはまた山を押しのけて卵を潰し、湯をかけて雪を溶かすようなものです。どうして彼と親戚になろうとするのですか。」憲は言った。「あなたは一を知って、他を知らない。何晏らは驕り高ぶっており、必ず自ら敗れるでしょう。司馬太傅(司馬懿)は獣が眠っているだけです。私は卵が割れ雪が消える前に、行うべきことがあると恐れます。」遂に傅玄と婚姻した。何晏らはまもなく宣帝に誅殺された。杜植は後に南安太守となった。

原文杜有道妻嚴氏,字憲,京兆人也。貞淑有識量。年十三,適於杜氏,十八而嫠居。子植、女韡並孤藐,憲雖少,誓不改節,撫育二子,教以禮度,植遂顯名于時,韡亦有淑德,傳玄求為繼室,憲便許之。時玄與何晏、鄧揚不穆,晏等每欲害之,時人莫肯共婚。及憲許玄,內外以為憂懼。或曰:「何、鄧執權,必為玄害,亦由排山壓卵,以湯沃雪耳,奈何與之為親?」憲曰:「爾知其一,不知其他。晏等驕移,必當自敗,司馬太傅獸睡耳,吾恐卵破雪銷,行自有在。」遂與玄為婚。晏等尋亦為宣帝所誅。植後為南安太守。

杜植の従兄の杜預が秦州刺史ししであった時、誣告されて召還された。憲は杜預に手紙を送って戒めて言った。「諺に『辱めを忍べば三公に至る』と言う。あなたは今まさに辱めと言える。これを忍ぶことができれば、公の位はあなたの座である。」杜預は後に果たして儀同三司となった。傅玄の前妻の子の傅咸は六歳の時、継母に従って憲を訪ねた。憲は傅咸に言った。「あなたは千里の駒だ。必ず遠くまで至るだろう。」自分の妹の娘を傅咸の妻とした。傅咸も後に海内に名を知られるようになった。そのように人を見抜く鑑識眼があった。六十六歳で死去。

原文植從兄預為秦州刺史,被誣,徵還,憲與預書戒之曰:「諺云忍辱至三公。卿今可謂辱矣,能忍之,公是卿坐。」預後果為儀同三司。玄前妻子咸年六歲,嘗隨其繼母省憲,謂咸曰:「汝千里駒也,必當遠至。」以其妹之女妻之。咸後亦有名於海內。其知人之鑒如此。年六十六卒。

王渾の妻 鍾琰

原文王渾妻鍾琰

王渾の妻の鍾氏、字は琰、潁川の人で、魏の太傅鍾繇の曾孫である。父は鍾徽、黄門郎。琰は数歳で文章を作ることができ、成長すると、聡明で慧く、弘雅で、広く書物を読み記した。容貌や立ち居振る舞いが美しく、嘯(口笛のような詠唱)を詠むのが巧みで、礼儀や法度は親族の模範となった。王渾に嫁ぎ、王済を生んだ。王渾がかつて琰と共に座っていると、王済が庭を小走りに通り過ぎた。王渾は喜んで言った。「このような子が生まれたのは、人心を慰めるに足る。」琰は笑って言った。「もし私が参軍と結婚していたら、生まれる子はこれに劣らないでしょうに。」参軍とは、王渾の次弟の王淪のことである。琰の娘も才知と淑やかさがあり、良い夫を求めていた。当時、兵士の家の子で非常に優れた者がいた。王済が彼を娘の婿にしたいと言い、琰に告げると、琰は言った。「私に会わせてほしい。」王済はその兵士を多くの小者たちと雑居させた。琰は帷の中から観察し、やがて王済に言った。「緋衣の者はあなたが抜擢した者ではないか。」王済が「そうです」と言うと、琰は言った。「この人は才能は抜きん出ているが、地(家柄)が寒く寿命が短い。その器用さを十分に発展させることはできず、婚姻させることはできない。」遂にやめた。その人は数年後に果たして亡くなった。琰の明らかな鑑識眼と遠い見識は、皆この類いであった。

原文王渾妻鍾氏,字琰,潁川人,魏太傅繇曾孫也。父徽,黃門郎。琰數歲能屬文,及長,聰慧弘雅,博覽記籍。美容止,善嘯詠,禮儀法度為中表所則。既適渾,生濟。渾嘗共琰坐,濟趨庭而過,渾欣然曰:「生子如此,足慰人心。」琰笑曰:「若使新婦得配參軍,生子故不翅如此。」參軍,謂渾中弟淪也。琰女亦有才淑,為求賢夫。時有兵家子甚俊,濟欲妻之,白琰,琰曰:「要令我見之。」濟令此兵與群小雜處,琰自幃中察之,既而謂濟曰:「緋衣者非汝所拔乎?」濟曰:「是。」琰曰:「此人才足拔萃,然地寒壽促,不足展其器用,不可與婚。」遂止。其人數年果亡。琰明鑒遠識,皆此類也。

王渾の弟の王湛の妻の郝氏も徳行があった。琰は貴い家柄であったが、郝氏と互いに親しく尊重し合った。郝氏は身分が低いからといって琰を見下さず、琰は貴いからといって郝氏を陵がなかった。当時の人は「鍾夫人の礼、郝夫人の法」と称した。

原文渾弟湛妻郝氏亦有德行,琰雖貴門,與郝雅相親重,郝不以賤下琰,琰不以貴陵郝,時人稱「鐘夫人之禮,郝夫人之法」云。

鄭袤の妻 曹氏

原文鄭袤妻曹氏

鄭袤の妻曹氏は、魯国薛の人である。鄭袤は先に孫氏を娶っていたが早くに亡くなり、彼女を後妻として迎えた。舅姑に仕えること非常に孝行で、自ら紡績の労をとって奉養に充て、叔妹や群娣の間においても礼節を尽くし、皆から喜ばれた。鄭袤が司空しくうとなり、その子の鄭默らが朝廷で顕職につくと、当時の人々はその栄華を称えた。曹氏は繁栄の極みを深く恐れ、鄭默らが昇進するたびに、その心配を声や表情に表した。しかし食事は二品以上並べず、洗いざらしの衣服を着て、鄭袤らが得た俸禄は必ず親族や姻戚に分け与え、行き渡らせるように務めたため、家に余財はなかった。

原文鄭袤妻曹氏。魯國薛人也。袤先娶孫氏,早亡,娉之為繼室。事舅姑甚孝,躬紡織之勤,以充奉養,至於叔妹群娣之間,盡其禮節,咸得歡心。及袤為司空,其子默等又顯朝列,時人稱其榮貴。曹氏深懼盛滿,每默等升進,輒憂之形於聲色。然食無重味,服浣濯之衣,袤等所獲祿秩,曹氏必班散親姻,務令周給,家無餘貲。

初め、孫氏は黎陽に葬られていたが、鄭袤が亡くなると、議論する者たちは長い期間を経て葬儀を挙げるのが難しいとして、合葬すべきでないと言った。曹氏は言った。「孫氏は正妃である。道理として従葬すべきであり、孤魂を寄る辺なくしてはならない。」そこで吉凶の導従の儀礼を整えて孫氏を迎え、衣衾や几筵を備え、自ら雁行の礼を執り行った。聞いた者は誰もが嘆息し、趙姫が叔隗を下したことさえも、これには及ばないと称えた。太康元年に死去、八十三歳であった。

原文初,孫氏瘞于黎陽,及袤薨,議者以久喪難舉,欲不合葬。曹氏曰:「孫氏元妃,理當從葬,不可使孤魂無所依邪。」於是備吉凶導從之儀以迎之,具衣衾几筵,親執雁行之禮,聞者莫不歎息,以為趙姬之下叔隗,不足稱也。太康元年卒,年八十三。

湣懐太子の妃、王恵風

原文湣懷太子妃王惠風

湣懐太子の妃王氏は、太尉たいい王衍の娘で、字は恵風である。貞節で婉然とし、志操があった。太子が廃されて金墉城に幽閉されると、王衍は婚姻関係を絶つよう請願した。恵風は号泣して実家に帰り、道行く人もそのために涙を流した。劉曜りゅうようが洛陽らくようを陥落させた時、恵風はその将軍の喬属に下賜され、喬属は彼女を妻にしようとした。恵風は剣を抜いて喬属を拒み、言った。「私は太尉公の娘、皇太子の妃である。道理として逆賊の胡族に辱められることはない。」喬属はついに彼女を殺害した。

原文湣懷太子妃王氏,太尉衍女也,字惠風。貞婉有志節。太子既廢居於金墉,衍請絕婚,惠風號哭而歸,行路為之流涕。及劉曜陷洛陽,以惠風賜其將喬屬,屬將妻之。惠風拔劍距屬曰:「吾太尉公女,皇太子妃,義不為逆胡所辱。」屬遂害之。

鄭休の妻石氏

原文鄭休妻石氏

鄭休の妻石氏は、どこの出身かわからない。幼い頃から徳操があり、十余歳の時、郷里で称賛された。鄭氏に嫁いでからは、九族から重んじられた。鄭休の前妻の娘は幼く、また鄭休の父の鄭布が臨終の際、庶子の沈が生まれたので、棄てるよう命じた。石氏は言った。「どうして舅の胤を存続させないことがあろうか!」そこで沈と前妻の娘を養育した。力を兼ねて挙げることができず、九年の間に、三度子を挙げることがなかった。

原文鄭休妻石氏,不知何許人也。少有德操,年十餘歲,鄉邑稱之。既歸鄭氏,為九族所重。休前妻女既幼,又休父布臨終,有庶子沈生,命棄之,石氏曰:「奈何使舅之胤不存乎!」遂養沈及前妻女。力不兼舉,九年之中,三不舉子。

陶侃とうかんの母湛氏

原文陶侃母湛氏

陶侃の母湛氏は、豫章郡新淦県の人である。初め、陶侃の父の陶丹が妾として娶り、陶侃を生んだ。陶氏は貧賤であったが、湛氏は常に紡績をして資金を供給し、陶侃が自分より優れた者と交際するようにした。陶侃が若くして尋陽県の役人となった時、魚梁を監督していたことがあり、一坩の鮓を母に送った。湛氏はその鮓と手紙を封じ、陶侃を責めて言った。「お前は役人として、公の物を私に送る。私のためにならないばかりか、かえって私の心配を増やすだけだ。」鄱陽の孝廉である範逵が陶侃の家に宿泊した時、大雪が降っていた。湛氏は自分が寝ていた藁の敷物を引きはがして馬の飼料とし、また密かに自分の髪を切って隣人に売り、酒食を供した。範逵はこれを聞き、嘆息して言った。「この母あってこそ、この子が生まれたのだ!」陶侃はついに功名を顕わした。

原文陶侃母湛氏,豫章新淦人也。初,侃父丹娉為妾,生侃,而陶氏貧賤,湛氏每紡績資給之,使交結勝己。侃少為尋陽縣吏,嘗監魚梁,以一坩鮓遺母。湛氏封鮓及書,責侃曰:「爾為吏,以官物遺我,非惟不能益吾,乃以增吾憂矣。」鄱陽孝廉範逵寓宿于侃,時大雪,湛氏乃徹所臥親薦,自銼給其馬,又密截發賣與鄰人,供肴饌。逵聞之,歎息曰:「非此母不生此子!」侃竟以功名顯。

賈渾の妻宗氏

原文賈渾妻宗氏

賈渾の妻宗氏は、どこの出身かわからない。賈渾が介休県令であった時、劉元海の将軍喬晞きに攻め落とされ、殺害された。宗氏は美しい容姿を持っており、喬晞は彼女を娶ろうとした。宗氏は罵って言った。「屠各の奴め!人の夫を殺害しておきながら、無礼を加えようとするとは、お前にとって心安らかであろうか?どうして早く私を殺さないのか!」そして天を仰いで大声で泣いた。喬晞はついに彼女を殺害した。この時二十余歳であった。

原文賈渾妻宗氏,不知何許人也。渾為介休令,被劉元海將喬晞攻破,死之。宗氏有姿色,晞欲納之。宗氏罵曰:「屠各奴!豈有害人之夫而欲加無禮,于爾安乎?何不促殺我!」因仰天大哭。晞遂害之,時年二十餘。

梁緯の妻辛氏

原文梁緯妻辛氏

梁緯の妻辛氏は、隴西郡狄道県の人である。梁緯が散騎常侍であった時、西都が陥落し、劉曜に殺害された。辛氏は特に美しい容色を持っており、劉曜は彼女を妻にしようとした。辛氏は地に伏して大声で泣き、天を仰いで劉曜に言った。「妾は聞きます。男は義烈をもってし、女は再醮しないと。妾の夫は既に死んでおり、道理として一人で生き永らえるべきではありません。しかも婦人が二度辱めを受けるなど、明公にとっても何の役に立ちましょうか!どうかただちに死なせてください。あの世で舅姑に仕えます。」そして号泣してやまなかった。劉曜は言った。「貞婦である。そのままにせよ。」辛氏は自縊して死んだ。劉曜は礼をもって彼女を葬った。

原文梁緯妻辛氏,隴西狄道人也。緯為散騎常侍,西都陷沒,為劉曜所害。辛氏有殊色,曜將妻之。辛氏據地大哭,仰謂曜曰:「妾聞男以義烈,女不再醮。妾夫已死,理無獨全。且婦人再辱,明公亦安用哉!乞即就死。下事舅姑。」逐號哭不止。曜曰:「貞婦也,任之。」自縊而死。曜以禮葬之。

許延の妻杜氏

原文許延妻杜氏

許延の妻杜氏は、どこの出身かわからない。許延が益州別駕であった時、李驤に殺害された。李驤は杜氏を妻にしようとした。杜氏は号泣して夫の亡骸を守り、李驤を罵って言った。「お前たち逆賊は道理をわきまえず、死には順序があるが、どうして長く生き永らえられようか!私は杜家の娘、賊の妻になることなどありえない!」李驤は怒り、ついに彼女を殺害した。

原文許延妻杜氏,不知何許人也。延為益州別駕,為李驤所害。驤欲納杜氏為妻,杜氏號哭守夫屍,罵驤曰:「汝輩逆賊無道,死有先後,寧當久活!我杜家女,豈為賊妻也!」驤怒,遂害之。

虞潭の母孫氏

原文虞潭母孫氏

虞潭の母孫氏は、呉郡富春の人で、孫権の族孫女である。初め虞潭の父である忠に嫁ぎ、恭順で貞和であり、婦徳に大いに優れていた。忠が亡くなると、残された孤児は幼く、孫氏は若かったが、節を変えぬことを誓い、自ら養育し、労苦を惜しまなかった。性質は聡明で、識見は人に勝っていた。虞潭が幼少の頃から、忠義を教え込んだので、声望がよく調和し、朝廷に称賛された。永嘉の末、虞潭が南康太守となった時、杜弢が反乱を起こし、軍を率いてこれを討った。孫氏は必死の義をもって虞潭を励まし、家財をすべて戦士に与え、虞潭はついに勝利した。蘇峻が乱を起こすと、虞潭は当時呉興を守っており、また仮節を与えられて蘇峻を征討した。孫氏は戒めて言った、「忠臣は孝子の家から出るという。お前は命を捨てて義を取るべきで、私の老いを気にかけてはならない」と。そして家の奴僕をすべて動員し、虞潭に従わせて戦いを助けさせ、自身が身につけていた装飾品を売って軍資金とした。当時、会稽かいけい内史の王舒が子の允之を督護として派遣した。孫氏はまた虞潭に言った、「王府君は息子を征討に遣わしているのに、なぜお前だけがそうしないのか」と。虞潭はすぐに子の楚を督護とし、王舒の允之と連合した。その憂国の誠はこのようなものであった。武昌侯太夫人に任じられ、金章紫綬を加えられた。虞潭は家に養堂を建て、王導おうどう以下がみな拝謁に訪れた。咸和の末に死去、九十五歳であった。成帝は使者を遣わして弔祭し、諡を定夫人とした。

原文虞潭母孫氏,吳郡富春人,孫權族孫女也。初適潭父忠,恭順貞和,甚有婦德。及忠亡,遺孤藐爾,孫氏雖少,誓不改節,躬自撫養,劬勞備至。性聰敏,識鑒過人。潭始自幼童,便訓以忠義,故得聲望允洽,為朝廷所稱。永嘉末,潭為南康太守,值杜弢構逆,率眾討之。孫氏勉潭以必死之義,俱傾其資產以饋戰士,潭遂克捷。及蘇峻作亂,潭時守吳興,又假節征峻。孫氏戒之曰:「吾聞忠臣出孝子之門,汝當捨生取義,勿以吾老為累也。」仍盡發其家僮,令隨潭助戰,貿其所服環珮以為軍資。于時會稽內史王舒遣子允之為督護,孫氏又謂潭曰:「王府君遣兒征,汝何為獨不?」潭即以子楚為督護,與舒允之合勢。其憂國之誠如此。拜武昌侯太夫人,加金章紫綬。潭立養堂于家,王導以下皆就拜謁。咸和末卒,年九十五。成帝遣使弔祭,諡曰定夫人。

周顗の母李氏

原文周顗母李氏

周顗の母李氏、字は絡秀、汝南の人である。若い頃実家にいた時、周顗の父である浚が安東将軍であったが、ある時狩りに出て雨に遭い、絡秀の家に立ち寄って休んだ。ちょうど父や兄が不在で、絡秀は浚が来たと聞くと、一人の婢と内で豚や羊を料理し、数十人分の食事を用意したが、非常に手際が良く人声が聞こえなかった。浚は怪しんで様子を見させると、ただ一人の非常に美しい女性が見えた。浚はそこで妾に迎えたいと願い出た。父や兄は許さなかったが、絡秀は言った、「家門が衰えているのに、一人の娘を惜しんでどうするのですか。もし貴族と縁組すれば、将来きっと大きな利益があるでしょう」と。父兄はこれを許した。こうして周顗と嵩、謨を生んだ。周顗らが成長すると、絡秀は彼らに言った、「私は節を屈してあなた方の家の妾となったのは、家門のためです。あなた方が私の実家を親族として遇さないなら、私は残りの年を惜しみません」と。周顗らは従い、これによって李氏は立派な家柄として認められるようになった。

原文周顗母李氏,字絡秀,汝南人也。少時在室,顗父浚為安東將軍,時嘗出獵,遇雨,過止絡秀之家。會其家父兄不在,絡秀聞浚至,與一婢於內宰豬羊,具數十人之饌,甚精辦而不聞人聲。浚怪使覘之,獨見一女子甚美,浚因求為妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戶殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大益矣。」父兄許之。遂生顗及嵩、謨。而顗等既長,絡秀謂之曰:「我屈節為汝家作妾,門戶計耳。汝不與我家為親親者,吾亦何惜餘年!」顗等從命,由此李氏遂得為方雅之族。

東晋の中興の時、周顗らは皆顕位に並んだ。ある時冬至に酒宴を設け、絡秀は杯を挙げて三人の息子に与えて言った、「私はもともと長江を渡ってきた時、身を寄せる所もなく、あなた方が皆貴くなり、私の前に並ぶとは思わなかった。私はもう何の憂いもない」と。嵩は言った、「おそらく母上の思うようにはならないでしょう。伯仁(周顗)は志は大きいが才が足りず、名声は高いが識見が暗く、人の弱点につけ込むのを好み、これは自らを全うする道ではありません。嵩は性質が剛直で、世に容れられません。ただ阿奴だけが平凡で、母上のそばにいることでしょう」と。阿奴は謨の幼名である。後は果たしてその言う通りになった。

原文中興時,顗等並列顯位。嘗冬至置酒,絡秀舉觴賜三子曰:「吾本渡江,托足無所,不謂爾等並貴,列吾目前,吾復何憂!」高起曰:「恐不如尊旨。伯仁志大而才短,名重而識暗,好乘人之弊,此非自全之道。嵩性抗直,亦不容於世。唯阿奴碌碌,當在阿母目下耳。」阿奴,謨小字也。後果如其言。

張茂の妻陸氏

原文張茂妻陸氏

張茂の妻陸氏は、呉郡の人である。張茂が呉郡太守の時、沈充に殺害された。陸氏は家財を傾け、張茂の配下の兵を率いて先鋒となり、沈充を討った。沈充が敗れると、陸氏は朝廷に上書し、張茂が賊を討ち果たせなかった責めを謝した。詔みことのりが下り、「張茂夫妻は忠誠を尽くし、一家挙げて義烈である。張茂を追贈して太僕とするのが妥当である」と。

原文張茂妻陸氏,吳郡人也。茂為吳郡太守,被沈充所害,陸氏傾家產,率茂部曲為先登以討充。充敗,陸詣闕上書,為茂謝不克之責。詔曰:「茂夫妻忠誠,舉門義烈,宜追贈茂太僕。」

尹虞の二人の娘

原文尹虞二女

尹虞の二人の娘は、長沙の人である。尹虞はかつて始興太守として、兵を起こして杜弢を討ったが、戦いに敗れ、二人の娘は杜弢に捕らえられた。二人とも国色の持ち主で、杜弢は妻にしようとした。娘たちは言った、「我が父は二千石の官にある者です。どうして賊の妻になることができましょう。死ぬだけです」と。杜弢は二人とも殺害した。

原文尹虞二女,長沙人也。虞前任始興太守,起兵討杜弢,戰敗,二女為弢所獲,並有國色,弢將妻之。女曰:「我父二千石,終不能為賊婦,有死而已!」弢並害之。

荀崧の末娘の灌

原文荀崧小女灌

荀崧の末娘の灌は、幼い頃から並外れた節操があった。荀崧が襄城太守の時、杜曾に包囲され、兵力が弱く食糧も尽き、旧吏の平南将軍石覧に救援を求めようとしたが、どうやって連絡を取るか方法がなかった。灌は当時十三歳であったが、勇士数千人を率い、城を越えて包囲を突破し夜に出た。賊の追撃は非常に激しかったが、灌は将士を督励し、戦いながら前進し、魯陽山に入って難を免れた。自ら石覧のもとに赴いて援軍を請い、また荀崧の手紙を南中郎将周訪に持参して救援を要請し、さらに兄弟の契りを結んだ。周訪はすぐに子の撫に三千の兵を率いさせ、石覧と合流して荀崧を救援させた。賊は援軍が来たと聞いて散り散りに逃げたが、これは灌の力によるものであった。

原文荀崧小女灌,幼有奇節。崧為襄城太守,為杜曾所圍,力弱食盡,欲求救于故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數千人,逾城突圍夜出。賊追甚急,灌督厲將士,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又為崧書與南中郎將周訪請援,仍結為兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽俱救崧。賊聞兵至,散走,灌之力也。

王凝之の妻謝道韞

原文王凝之妻謝道韞

王凝之の妻謝氏、字は道韞、安西将軍謝奕の娘である。聡明で識見があり、才弁に富んでいた。叔父の謝安しゃあんがかつて尋ねた、「『毛詩』の中でどの句が最も優れているか」と。道韞は称えて言った、「吉甫が頌を作り、穆として清風の如し。仲山甫は永く思い、以て其の心を慰む」と。謝安は雅人の深い趣きがあると評した。またかつて家族の集まりの時、突然雪が激しく降り出した。謝安が「何に似ているか」と問うと、謝安の兄の子である朗が言った、「空中に塩を撒くのに少し似ているでしょうか」と。道韞は言った、「柳絮が風に乗って舞うようには及びません」と。謝安は大いに喜んだ。

原文王凝之妻謝氏,字道韞,安西將軍奕之女也。聰識有才辯。叔父安嘗問:「《毛詩》何句最佳?」道韞稱:「吉甫作頌,穆如清風。仲山甫永懷,以慰其心。」安謂有雅人深致。又嘗內集,俄而雪驟下,安曰:「何所似也?」安兄子朗曰:「散鹽空中差可擬。」道韞曰:「未若柳絮因風起。」安大悅。

初めて王凝之に嫁いだ時、里帰りして、非常に不機嫌であった。謝安が「王郎(王凝之)は逸少(王羲之おうぎし)の子で、悪くはない。何を恨むことがあるのか」と言うと、答えて言った、「一族の叔父には阿大、中郎がおり、従兄弟たちには封、胡、羯、末がいるのに、天地の間に王郎のような人がいるとは思いませんでした」と。封は謝韶を指し、胡は謝朗を指し、羯は謝玄を指し、末は謝川を指す。いずれも彼らの幼名である。またかつて謝玄が学問が進歩しないのをあざ笑い、「俗事に心を奪われているのか、それとも天分に限りがあるのか」と言った。王凝之の弟の献之がかつて賓客と談議し、議論で追い詰められそうになった時、道韞は婢を遣わして献之に「小郎君の囲みを解こうと思います」と伝えさせた。そして青綾の衝立を立てて自分を隠し、献之の前の議論を展開した。賓客は論破できなかった。

原文初適凝之,還,甚不樂。安曰:「王郎,逸少子,不惡,汝何恨也?」答曰:「一門叔父則有阿大、中郎,群從兄弟復有封、胡、羯、末,不意天壤之中乃有王郎!」封謂謝韶,胡謂謝朗,羯謂謝玄,末謂謝川,皆其小字也。又嘗譏玄學植不進,曰:「為塵務經心,為天分有限邪?」凝之弟獻之嘗與賓客談議,詞理將屈,道韞遣婢白獻之曰:「欲為小郎解圍。」乃施青綾步鄣自蔽,申獻之前議,客不能屈。

孫恩の乱に遭った時、挙措は自若としており、夫と息子たちが既に賊に殺害されたと聞くと、初めて婢に輿を担がせ、刀を抜いて門を出た。乱兵が次第に迫ってきたが、手ずから数人を殺し、その後捕虜となった。その外孫の劉濤は当時数歳で、賊はまた彼を害そうとした。道韞は言った、「事は王の家門にあります。他の一族に何の関係がありましょうか。もしそうするなら、私が先に殺されてください」と。孫恩は残忍ではあったが、その言葉に顔色を変え、劉濤を害さなかった。その後、会稽で寡婦として暮らし、家中は厳粛でなかった者はなかった。太守の劉柳はその名声を聞き、談議を請うた。道韞はもともと劉柳の名を知っており、自らを遠慮することもなく、髪に簪を挿し、素の褥に座り帳中にいた。劉柳は礼を整え帯を締めて別の榻に座った。道韞は風韻が高邁で、話しぶりは清雅であり、まず家事について語り、慷慨して涙を流し、ゆっくりと問いの趣旨に応え、言葉と道理に滞りがなかった。劉柳は退いて嘆じて言った、「実にこれまで見たことのない人物である。言葉と気配りを観察すると、心も形もともに敬服させられる」と。道韞もまた言った、「身内が次々と亡くなり、初めてこのような人物に会った。その問いを聞くと、人の胸襟が大いに開かれる」と。

原文及遭孫恩之難,舉厝自若,既聞夫及諸子已為賊所害,方命婢肩輿抽刃出門。亂兵稍至,手殺數人,乃被虜。其外孫劉濤時年數歲,賊又欲害之,道韞曰:「事在王門,何關他族!必其如此,寧先見殺。」恩雖毒虐,為之改容,乃不害濤。自爾嫠居會稽,家中莫不嚴肅。太守劉柳聞其名,請與談議。道韞素知柳名,亦不自阻,乃簪髻素褥坐於帳中,柳束脩整帶造於別榻。道韞風韻高邁,敘致清雅,先及家事,慷慨流漣,徐酬問旨,詞理無滯。柳退而歎曰:「實頃所未見,瞻察言氣,使人心形俱服。」道韞亦云:「親從凋亡,始遇此士,聽其所問,殊開人胸府。」

初め、同郡の張玄の妹も才質があり、顧氏に嫁いだ。張玄はしばしば彼女を称え、道韞と対抗させた。済尼という尼がいて、両家を訪れていた。ある人が尋ねると、済尼は答えて言った、「王夫人は神情が散朗で、林下の風気がある。顧家の嫁は清らかな心が玉のように輝き、まさに閨房の秀才である」と。道韞の著した詩賦誄頌はともに世に伝わった。

原文初,同郡張玄妹亦有才質,適於顧氏,玄每稱之,以敵道韞。有濟尼者,游於二家,或問之,濟尼答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」道韞所著詩賦誄頌並傳於世。

劉臻の妻陳氏

原文劉臻妻陳氏

劉臻の妻陳氏もまた聡明で弁が立ち、文章を書くことができた。かつて正月元旦に『椒花頌』を献上し、その詞はこうであった。「天はめぐり、三朝(正月元旦)が始まる。春の陽光が輝きを散らし、澄んだ光景は輝きに満ちる。美しい霊妙な花を摘み、これを采りこれを献ずる。聖なる御顔がこれを映し、永遠の寿を万代に。」また、元旦および冬至の進見の儀礼を撰述し、世に行われた。

原文劉臻妻陳氏者,亦聰辯能屬文。嘗正旦獻《椒花頌》,其詞曰:「旋穹周回,三朝肇建。青陽散輝,澄景載煥。標美靈葩,爰采爰獻。聖容映之,永壽于萬。」又撰元日及冬至進見之儀,行於世。

皮京の妻龍憐

原文皮京妻龍憐

皮京の妻の龍氏は、字を憐といい、西道県の人である。十三歳で京に嫁いだが、一年も経たないうちに京が亡くなり、京の二人の弟も相次いで亡くなった。子孫もおらず、また期功の親族もいなかった。憐は自分の嫁入り道具を売り、自ら紡績・機織りに従事し、数年の間に三つの喪をすべて執り行い、葬儀と納棺が終わると、毎回の時祭の供え物を欠かさなかった。郷里は彼女の賢さを聞き、たびたび求婚する者があったが、憐は再婚しないと誓い、節操を守って貧しく暮らすこと五十余年で亡くなった。

原文皮京妻龍氏,字憐,西道縣人也。年十三適京,未逾年而京卒,京二弟亦相次而隕,既無胤嗣,又無期功之親。憐貨其嫁時資裝,躬自紡織,數年間三喪俱舉,葬斂既畢,每時享祭無闕。州裏聞其賢,屢有娉者,憐誓不改醮,守節窮居五十餘載而卒。

孟昶の妻周氏

原文孟昶妻周氏

孟昶の妻周氏は、昶の弟の顗の妻もまた彼女の従妹である。二家とも財産が豊かであった。初め、桓玄は昶を大いに重んじたが、劉邁が彼を誹謗した。昶はそれを知り、深く自らを嘆き失意した。劉裕が義兵を起こそうとした時、昶と謀議を定めた。昶は財物をすべて散じて軍糧に供給しようと考えた。その妻は普通の婦人ではなく、大事を語ることができると思い、そこで彼女に言った。「劉邁が桓公(桓玄)の前で私を誹謗したことは、すなわち一生の失墜であり、決然として賊(反乱軍)とならねばならない。卿は幸いにも早く離縁し、もし富貴を得ることができたら、迎えに行っても遅くはない。」周氏は言った。「あなたには父母が健在で、並々ならぬ謀議を立てようとしている。どうして婦人の私が諫められましょうか!事が成就しなければ、私は奚官(官奴婢の役所)の中で姑に仕え養い、義として帰る考えはありません。」昶は悲しそうにしばらくして立ち上がった。周氏は昶を追って座らせ、言った。「あなたの挙動を見ると、婦人と謀ったのではなく、ただ財物が欲しいだけでしょう。」その時、彼女の生んだ幼い娘を抱いていたが、押し出して見せて言った。「これ(娘)さえ売れるなら、惜しむことはしないでしょう。まして資財などどうでもありません!」そこで資産を傾けて昶に与え、他の用途に使うふりをした。挙兵の時が近づくと、周氏は顗の妻に言った。「昨夜、とても良くない夢を見ました。家の中は洗い清めて沐浴し、それを祓うべきです。それに赤色は良くありません。私はすべて取って七日間、蔵して(魔を)祓います。」顗の妻はそれを信じ、所有するすべての深紅色のものを集めて彼女に渡した。そこで帳の中に置き、密かに綿をほぐし、その深紅色の布を昶に与えた。こうして数十人分の衣服が鮮やかに整い、すべて周氏の出したものだったが、家族はそれを知らなかった。

原文孟昶妻周氏,昶弟顗妻又其從妹也。二家並豐財產。初,桓玄雅重昶而劉邁毀之,昶知,深自惋失。及劉裕將建義,與昶定謀,昶欲盡散財物以供軍糧,其妻非常婦人,可語以大事,乃謂之曰:「劉邁毀我於桓公,便是一生淪陷,決當作賊。卿幸可早爾離絕,脫得富貴,相迎不晚也。」周氏曰:「君父母在堂,欲建非常之謀,豈婦人所諫!事之不成,當于奚官中奉養大家,義無歸志也。」昶愴然久之而起。周氏追昶坐,云:「觀君舉厝,非謀及婦人者,不過欲得財物耳。」時其所生女在抱,推而示之曰:「此而可賣,亦當不惜,況資財乎!」遂傾資產以給之,而托以他用。及事之將舉,周氏謂顗妻云:「一昨夢殊不好,門內宜浣濯沐浴以除之,且不宜赤色,我當悉取作七日藏厭。」顗妻信之,所有絳色者悉斂以付焉。乃置帳中,潛自剔綿,以絳與昶,遂得數十人被服赫然,悉周氏所出,而家人不之知也。

何無忌の母劉氏

原文何無忌母劉氏

何無忌の母の劉氏は、征虜将軍劉建の娘である。幼い頃から志と節操があった。弟の劉牢之が桓玄に害されると、劉氏は常にそれを恨みに思い、報復を考えていた。無忌が劉裕と謀議を定めた時、劉氏はその挙動が普通でないことに気づき、喜んだが口には出さなかった。ある時、無忌が夜、屏風の中で檄文を作っていると、劉氏は密かに器で燭台を覆い、ゆっくりと机に登って屏風の上から覗き見た。事情を知ると、泣きながら彼を撫でて言った。「私は東海の呂母には及ばないことがはっきりしたわ!誠実な心を持ちながら孤児となって以来、常に寿命が短いことを恐れていた。お前がこのようにできるなら、私の仇と恥は晴らされる。」そこで共謀者を尋ね、事が劉裕にあると知ると、ますます喜び、桓玄が必ず敗れ、義軍が必ず成功する道理を説いて無忌を励ました。後日、果たしてその言葉どおりになった。

原文何無忌母劉氏,征虜將軍建之女也。少有志節。弟牢之為桓玄所害,劉氏每銜之,常思報復。及無忌與劉裕定謀,而劉氏察其舉厝有異,喜而不言。會無忌夜于屏風裹制檄文,劉氏潛以器覆燭,徐登橙于屏風上窺之,既知,泣而撫之曰:「我不如東海呂母明矣!既孤其誠,常恐壽促,汝能如此,吾仇恥雪矣。」因問其同謀,知事在裕,彌喜,乃說桓玄必敗、義師必成之理以勸勉之。後果如其言。

劉聡りゅうそうの妻劉娥

原文劉聰妻劉娥

劉聡の妻劉氏は、名を娥、字を麗華といい、偽(僭称)太保劉殷の娘である。幼い頃から聡明で慧く、昼は女紅に励み、夜は書籍を誦読した。傅母が常に止めても、娥はますます熱心に学習した。しばしば諸兄と経書の義理を論じると、その理趣は超然として遠大で、諸兄は深く感服した。性質は孝行で友愛に厚く、風采や立ち居振る舞いが優れていた。劉聡が帝位を僭称すると、右貴嬪に召され、非常に寵愛された。まもなく皇后に立てられ、彼女のために䳨儀殿を建てて住まわせようとした。廷尉の陳元達が強く諫めると、劉聡は大いに怒り、彼を斬ろうとした。娥は当時後堂におり、密かに左右に命じて刑の執行を止めさせ、自ら上疏を書いて申し上げた。「妾のために殿を営むと聞きましたが、今、昭徳殿に住むには十分です。䳨儀殿は急務ではありません。天下はまだ統一されておらず、禍難はなお頻繁です。動くには人力と資財が必要で、特に慎重であるべきです。廷尉の言葉は、国家の大政です。忠臣の諫言は、自分の身のためでしょうか?帝王がそれを拒むのも、また自分の身を顧みるためではありません。妾は思いますに、陛下には上には明君が諫言を受け入れて国が栄えた例を尋ね求め、下には暗主が諫言を拒んで禍を招いた例を憤られるべきです。廷尉を美しい爵位で賞し、列土をもって報いるべきです。どうして受け入れないだけでなく、反って誅殺しようとなさるのですか?陛下のこの怒りは妾によって起こり、廷尉の禍は妾によって招かれました。人々の怨みと国の疲弊、その咎は妾に帰し、諫言を拒み忠臣を害することも、また妾に起因します。昔から国を敗り家を喪うのは、婦人によらないことはありませんでした。妾は常に古事を読み、憤って食事を忘れるほどでした。どうして今日、妾自らがそれを行うことになるとは!後人が妾を見るのも、ちょうど妾が前人を見るのと同じです。またどんな面目があって巾櫛(身の回りの世話)を仰ぎ仕えられましょうか。この堂で死なせてください。陛下の誤りと惑いの過ちを塞ぐために。」劉聡はこれを見て顔色を変え、群臣に言った。「朕は近ごろ風疾(中風)にかかり、喜怒が常軌を逸している。元達は忠臣である。朕は非常に恥ずかしい。」娥の上疏を元達に見せて言った。「外には公のような補佐があり、内にはこの皇后のような補佐があれば、朕に憂いはない。」娥が死ぬと、偽の諡を武宣皇后とした。

原文劉聰妻劉氏,名娥,字麗華,偽太保殷女也。幼而聰慧,晝營女工,夜誦書籍,傅母恆止之,娥敦習彌厲。每與諸兄論經義,理趣超遠,諸兄深以歎伏。性孝友,善風儀進止。聰既僭位,召為右貴嬪,甚寵之。俄拜為后,將起䳨儀殿以居之,其廷尉陳元達切諫,聰大怒,將斬之。娥時在後堂,私敕左右停刑,手疏啟曰:「伏聞將為妾營殿,今昭德足居,䳨儀非急。四海未一,禍難猶繁,動須人力資財,尤宜慎之。廷尉之言,國家大政。夫忠臣之諫,豈為身哉?帝王距之,亦非顧身也。妾仰謂陛下上尋明君納諫之昌,下忿暗主距諫之禍,宜賞廷尉以美爵,酬廷尉以列土,如何不惟不納,而反欲誅之?陛下此怒由妾而起,廷尉之禍由妾而招,人怨國疲,咎歸於妾,距諫害忠,亦妾之由。自古敗國喪家,未始不由婦人者也。妾每覽古事,忿之忘食,何意今日妾自為之!後人之觀妾,亦猶妾之視前人也,復何面目仰侍巾櫛,請歸死此堂,以塞陛下誤惑之過。」聰覽之色變,謂其群下曰:「朕比得風疾,喜怒過常。元達,忠臣也,朕甚愧之。」以娥表示元達曰:「外輔如公,內輔如此后,朕無憂矣。」及娥死,偽諡武宣皇后。

その姉の劉英は、字を麗芳といい、これも聡明で学問に通じ、文詞と機知に富んだ弁舌、政事に明るく通達しており、娥を上回っていた。初め娥とともに召されて左貴嬪に任じられたが、まもなく亡くなり、偽の追諡を武徳皇后とした。

原文其姊英,字麗芳,亦聰敏涉學,而文詞機辯,曉達政事,過於娥。初與娥同召拜左貴嬪,尋卒,偽追諡武德皇后。

王広の娘

原文王廣女

王広の娘は、どこの誰とも知れない。容姿は非常に美しく、気概があり大丈夫の節操を持っていた。王広は劉聤に仕え、西揚州刺史となった。蛮族の首長梅芳が揚州を攻め落とし、王広は殺害された。王(娘)は当時十五歳で、梅芳は彼女を娶った。まもなく暗い部屋で梅芳を襲撃したが、命中しなかった。梅芳は驚いて起き上がり言った。「どうして反逆するのか?」王は罵った。「蛮族の畜生め!私は反逆賊を誅殺しようとしているのに、どうして反逆と言うのか?父の仇は天を同じくせず、母の仇は地を同じくせず、と聞いている。お前は反逆して道理をわきまえず、人の父母を害し、さらに無礼にも人を侮る。私が死なないでいるのは、お前を誅殺したいからだ!今、死ぬのは私の本分であり、お前が殺すのを待つまでもない。ただ、お前の首を大通りに晒すことができず、大いなる恥を晴らせないことが残念だ。」言葉の勢いは猛烈で厳しく、言い終わると自殺しようとした。梅芳が止めたが、できなかった。

原文王廣女者,不知何許人也。容質甚美,慷慨有丈夫之節。廣仕劉聰,為西揚州刺史。蠻帥梅芳攻陷揚州,而廣被殺。王時年十五,芳納之。俄於暗室擊芳,不中,芳驚起曰:「何故反邪?」王罵曰:「蠻畜!我欲誅反賊,何謂反乎?吾聞父仇不同天,母仇不同地,汝反逆無狀,害人父母,而復以無禮陵人,吾所以不死者,欲誅汝耳!今死自吾分,不待汝殺,但恨不得梟汝首於通逵,以塞大恥。」辭氣猛厲,言終乃自殺,芳止之不可。

陝の婦人

原文陝婦人

陝の婦人は、姓も字も知られていない。十九歳であった。劉曜の時代に陝県で寡婦となり、叔姑(夫の叔母)に仕えて非常に謹んでいた。その家は彼女を再嫁させようとしたが、この婦人は顔を傷つけて自ら誓った。後に叔姑が病死した。その叔姑には夫の家にいる娘がおり、以前この婦人から借金を断られたことがあり、それゆえに母を殺したと誣告した。役人は詳しく調べずに彼女を誅殺した。その時、群れをなす鳥が屍の上で悲しげに鳴き、その声は非常に哀れであった。盛夏に十日間屍を晒したが、腐らず、また虫や獣に荒らされることもなかった。その地域は一年間雨が降らなかった。劉曜は呼延謨を太守として派遣し、その冤罪を知ると、この娘を斬り、少牢(羊と豚)を設けてその墓を祭り、諡して孝烈貞婦とした。その日、大雨が降った。

原文陝婦人,不知姓字,年十九。劉曜時嫠居陝縣,事叔姑甚謹,其家欲嫁之,此婦毀面自誓。後叔姑病死,其叔姑有女在夫家,先從此婦乞假不得,因而誣殺其母,有司不能察而誅之。時有群鳥悲鳴屍上,其聲甚哀,盛夏暴屍十日,不腐,亦不為蟲獸所敗,其境乃經歲不雨。曜遣呼延謨為太守,既知其冤,乃斬此女,設少牢以祭其墓,諡曰孝烈貞婦,其日大雨。

靳康の娘

原文靳康女

靳康の娘は、どこの出身かはわからない。容姿が美しく、志操があった。劉曜が靳氏を誅殺したとき、靳の娘を妾にしようとしたが、靳は言った。「陛下はすでに私の父母兄弟を滅ぼされたのに、どうして私を妾になどお召しになるのですか。私は聞きます、逆賊を誅するときは、宮殿を汚し木を伐るというのに、ましてその子女をどうするというのですか」と。そこで号泣して死を請うたので、曜は哀れに思い、康の子一人を免じた。

原文靳康女者,不知何許人也。美姿容,有志操。劉曜之誅靳氏,將納靳女為妾,靳曰:「陛下既滅其父母兄弟,復何用妾為!妾聞逆人之誅也,尚汙宮伐樹,而況其子女乎!」因號泣請死,曜哀之,免康一子。

韋逞の母宋氏

原文韋逞母宋氏

韋逞の母の宋氏は、どこの郡の出身かはわからないが、家柄は儒学で知られていた。宋氏は幼くして母を亡くし、父が自ら養育した。成長すると、父は彼女に『周官』の音義を授け、こう言った。「我が家は代々『周官』を学び、その業を伝えてきた。これはまた周が制定したもので、経綸や典誥、百官の品物がここに備わっている。私は今、伝えるべき男子がいない。お前がこれを受け継ぎ、世に絶やさぬようにせよ」と。天下が喪乱に属していたが、宋氏は誦読をやめなかった。その後、石季龍せききりゅうによって山東に移されたとき、宋氏は夫とともに移住の列に加わり、鹿車を押し、父から授かった書物を背負って冀州に至り、膠東の富人程安寿を頼った。安寿は彼女を養護した。逞は当時幼かったが、宋氏は昼は薪を採り、夜は逞を教え、しかも紡績を怠らなかった。安寿はしばしば嘆いて言った。「学問の家には士大夫が多いが、まさかこのようなことがあるとは」と。逞はついに学問を成し名を立て、苻堅ふけんに仕えて太常となった。堅がかつて太学に行幸したとき、博士に経典について問うたところ、礼楽の遺闕を憂いた。その時、博士の盧壺が答えて言った。「学問が廃れて久しく、書物の伝承は散逸しています。近年編纂を続け、正経はおおよそ集まりましたが、ただ『周官』の礼注については師となる者がおりません。太常韋逞の母宋氏は、代々学問を家業とする家の女性で、父の業を伝え、『周官』の音義を得ています。今年八十歳ですが、視聴に衰えはなく、この母でなければ後生に伝授することはできません」と。そこで宋氏の家に講堂を設け、生員百二十人を置き、緋の紗の幔を隔てて授業を受けさせ、宋氏を宣文君と号し、侍女十人を賜った。『周官』の学は再び世に行われるようになり、当時は韋氏の宋母と称された。

原文韋逞母宋氏,不知何郡人也,家世以儒學稱。宋氏幼喪母,其父躬自養之。及長,授以《周官》音義,謂之曰:「吾家世學《周官》,傳業相繼,此又周以所制,經紀典誥,百官品物,備於此矣。吾今無男可傳,汝可受之,勿令經世。」屬天下喪亂,宋氏諷誦不輟。其後為石季龍徙之于山東,宋氏與夫在徙中,推鹿車,背負父所授書,到冀州,依膠東富人程安壽,壽養護之。逞時年小,宋氏晝則樵采,夜則教逞,然紡績無廢。壽每歎曰:「學家多士大夫,得無是乎!」逞遂學成名立,仕苻堅為太常。堅嘗幸其太學,問博士經典,乃憫禮樂遺闕。時博士盧壼對曰:「廢學既久,書傳零落,此年綴撰,正經粗集,唯周官禮注未有其師。窺見太常韋逞母宋氏世學家女,傳其父業,得周官音義,今年八十,視聽無闕,自非此母無可以傳授後生。」於是就宋氏家立講堂,置生員百二十人,隔絳紗幔而受業,號宋氏為宣文君,賜侍婢十人。周官學復行于世,時稱韋氏宋母焉。

張天錫の妾の閻氏と薛氏

原文張天錫妾閻氏、薛氏

張天錫の妾の閻氏と薛氏は、ともにどこの出身かはわからず、ともに天錫の寵愛を受けた。天錫が病床に伏したとき、二人に言った。「お前たち二人はどうやって私に報いるつもりか。私が死んだ後、人の妻になるなどということがあってよいものか」と。二人はともに言った。「尊君がもしお隠れになれば、妾どもは死をもってお仕えし、地下で掃除などの務めを果たします。他の志は決して持ちません」と。天錫の病が重くなると、二人の側室はともに自刎した。天錫の病気が癒えると、二人を追悼し、夫人の礼をもって葬った。

原文張天錫妾閻氏、薛氏,並不知何許人也,咸有寵於天錫。天錫寢疾,謂之曰:「汝二人將何以報我?吾死後,豈可為人妻乎!」皆曰:「尊若不諱,妾請效死,供灑掃地下,誓無他志。」及其疾篤,二姬皆自刎。天錫疾瘳,追悼之,以夫人禮葬焉。

苻堅の妾の張氏

原文苻堅妾張氏

苻堅の妾の張氏は、どこの出身かはわからないが、明晰で弁が立ち、才識があった。堅が江左に侵攻しようとしたとき、群臣が強く諫めたが聞き入れなかった。張氏が進言して言った。「妾は聞きます、天地が万物を生み、聖王が天下を治めるには、その性質に順ってそれを暢びやかにするものであり、それゆえ黄帝は牛に服させ馬に乗せたのはその性質によったのであり、禹が龍門を穿ち黄河を決壊させたのは水の勢いによったのであり、后稷が百穀を播種したのは地の気によったのであり、湯や武王が夏や商を滅ぼしたのは人の欲求によったのです。それゆえ、因るものがあれば成功し、因るものがなければ失敗します。今、朝臣上下が皆不可と言っているのに、陛下は何に因ろうとなさるのですか。書経に『天の聡明は我が民の聡明による』とあります。天でさえこうなのですから、まして人主においてはどうでしょう。妾は聞きます、人君に他国を討伐する志がある者は、必ず上は天象を観察し、下は多くの祥瑞を採るものだと。天道は崇高で遠大であり、妾の知るところではありません。人事をもって言えば、その可なるを見ません。諺に言います、『鶏が夜鳴くのは出兵に不利、犬が群れをなして吠えるのは宮室が必ず空になる、兵が動き馬が驚けば、軍は敗れて帰らない』と。秋冬以来、毎夜多くの犬が大声で吠え、多くの鶏が夜鳴き、馬小屋の馬が驚いて逃げ出し、武庫の兵器が音を立てると聞いております。吉凶の道理は、誠に微かな妾が論じるところではありませんが、願わくば陛下は詳しくお考えください」と。堅は言った。「軍旅のことは婦人の関与するところではない」と。そこで兵を起こした。張氏は従軍を請うた。堅は寿春じゅしゅんで大敗し、張氏は自殺した。

原文苻堅妾張氏,不知何許人,明辯有才識。堅將入寇江左,群臣切諫不從。張氏進曰:「妾聞天地之生萬物,聖王之馭天下,莫不順其性而暢之,故黃帝服牛乘馬,因其性也,禹鑿龍門,決洪河,因水之勢也;后稷之播殖百穀,因地之氣也;湯武之滅夏商,因人之欲也。是以有因成,無因敗。今朝臣上下皆言不可,陛下復何所因也?書曰:'天聰明自我民聰明。'天猶若此,況於人主乎!妾聞人君有伐國之志者,必上觀乾象,下采眾祥。天道崇遠,非妾所知。以人事言之,未見其可。諺言:「雞夜鳴者不利行師,犬群唕者宮室必空,兵動馬驚,軍敗不歸。」秋冬已來,每夜群犬大嗥,眾雞夜鳴,伏聞廄馬驚逸,武庫兵器有聲,吉凶之理,誠非微妾所論,願陛下詳而思之。」堅曰:「軍旅之事非婦人所豫也。」遂興兵。張氏請從。堅是大敗于壽春,張氏乃自殺。

竇滔の妻の蘇氏

原文竇滔妻蘇氏

竇滔の妻の蘇氏は、始平の人で、名は蕙、字は若蘭といい、文章をよくした。滔は苻堅の時に秦州刺史となったが、流沙に流された。蘇氏は彼を思い、錦を織って回文の旋図詩を作り滔に贈った。宛転と循環させて読むと、言葉は非常に哀れで悲しく、全部で八百四十字あったが、文が多いのでここには記さない。

原文竇滔妻蘇氏,始平人也,名蕙,字若蘭,善屬文。滔苻堅時為秦州刺史,被徙流沙,蘇氏思之,織錦為回文旋圖詩以贈滔。宛轉迴圈以讀之,詞甚淒惋,凡八百四十字,文多不錄。

苻登の妻の毛氏

原文苻登妻毛氏

苻登の妻の毛氏は、どこの出身かはわからないが、壮健で勇猛で、騎射に優れていた。登が姚萇に襲撃され、陣営が陥落したとき、毛氏はなおも弓を引き馬に跨り、壮士数百人を率いて萇と交戦し、多くの死傷者を出した。多勢に無勢で敵わず、萇に捕らえられた。萇は彼女を娶ろうとしたが、毛氏は罵って言った。「私は天子の后である。どうして賊羌に辱められようか。どうして早く私を殺さないのか」と。そこで天を仰いで大声で泣きながら言った。「姚萇は無道である。前に天子を害し、今は皇后を辱める。皇天后土よ、どうして照覧なさらないのか」と。萇は怒って彼女を殺した。

原文苻登妻毛氏,不知何許人,壯勇善騎射。登為姚萇所襲,營壘既陷,毛氏猶彎弓跨馬,率壯士數百人,與萇交戰,殺傷甚眾。眾寡不敵,為萇所執。萇欲納之,毛氏罵曰:「吾天子后,豈為賊羌所辱,何不速殺我!」因仰天大哭曰:「姚萇無道,前害天子,今辱皇后,皇天后土,寧不鑒照!」萇怒,殺之。

慕容垂ぼようすいの妻の段元妃

原文慕容垂妻段元妃

慕容垂の妻の段氏は、字を元妃といい、偽右光禄大夫の段儀の娘である。幼い頃から婉順で聡明で、志操があり、常に妹の季妃に言った。「私は決して凡人の妻にはならない」と。季妃もまた言った。「妹もまた凡庸な夫の妻にはなりません」と。近隣の人々はこれを聞いて笑った。垂が燕王を称したとき、元妃を後妻に迎え、特別な寵愛を受けた。偽范陽王の慕容徳も季妃を娶った。姉妹はともに垂と徳の妻となり、ついにその志を遂げた。垂が帝位を僭称すると、皇后に立てられた。

原文慕容垂妻段氏,字元妃,偽右光祿大夫儀之女也。少而婉慧,有志操,常謂妹季妃曰:「我終不作凡人妻。」季妃亦曰:「妹亦不為庸夫婦。」鄰人聞而笑之。垂之稱燕王,納元妃為繼室,遂有殊寵。偽范陽王德亦娉季妃焉。姊妹俱為垂、德之妻,卒如其志。垂既僭位,拜為皇后。

垂がその子の宝を太子に立てたとき、元妃は垂に言った。「太子は容姿や態度は優雅ですが、柔和で決断力に欠けます。太平の世では仁明な君主となれましょうが、困難な時には世を救う英雄とはなりえません。陛下が大業を託されるのは、妾には繁栄の美しさが見えません。遼西王と高陽王の二人は、陛下の子の中の賢者です。どちらか一人を選んで立てられるべきです。趙王の麟は奸詐で負けん気が強く、常に太子を軽んじる心があります。陛下が一旦お隠れになれば、必ず禍が起こります。これは陛下の家事です。深くお考えください」と。垂は聞き入れなかった。宝と麟はこれを聞き、深く恨んだ。その後、元妃がまた言うと、垂は言った。「お前は私を晋の献公にしようというのか」と。元妃は泣いて退き、季妃に告げて言った。「太子は良くない。臣下たちも知っていることだ。それなのに主上は私を驪戎の女に例えられた。なんと苦しいことか。主上が百年の後、太子は必ず社稷を滅ぼすだろう。范陽王には並外れた器量がある。もし燕の国運がまだ終わっていなければ、それは王にあるのではないか」と。

原文垂立其子寶為太子也,元妃謂垂曰:「太子姿質雍容,柔而不斷,承平則為仁明之主,處難則非濟世之雄,陛下托之以大業,妾未見克昌之美。遼西、高陽二王,陛下兒之賢者,宜擇一以樹之。趙王麟奸詐負氣,常有輕太子之心,陛下一旦不諱,必有難作。此陛下之家事,宜深圖之。」垂不納。寶及麟聞之,深以為恨。其后元妃又言之,垂曰:「汝欲使我為晉獻公乎?」元妃泣而退,告季妃曰:「太子不令,群下所知,而主上比吾為驪戎之女,何其苦哉!主上百年之後,太子必亡社稷。范陽王有非常器度,若燕祚未終,其在王乎!」

垂が死に、宝が偽位を継ぎ、麟を遣わして元妃を脅迫して言わせた。「后は常に主上は大統を継ぎ守ることができないとおっしゃっていましたが、今どうなさいますか。早く自ら裁断して、段氏の名を全うすべきです。」元妃は怒って言った。「お前たち兄弟は母を脅迫して殺すことさえするのに、どうして社稷を守ることができようか。私は死を惜しむものか、ただ国が滅びるのも間もないことを思うだけだ。」そして自殺した。宝は、元妃が嫡統を廃そうと謀り、母后としての道がなかったとして、喪に服すべきではないと議した。群臣も皆そう思った。偽の中書令眭邃が朝廷で大声で言った。「子が母を廃する道理はない。漢の安思閻后は順帝を廃したが、それでも安皇に配饗されている。先の后の言葉が虚実かまだ分からないのだから、閻后の故事に依るべきです。」宝はこれに従った。その後、麟は果たして乱を起こし、宝も殺され、徳が後に僭称して尊号を称したが、結局は元妃の言った通りになった。

原文垂死,寶嗣偽位,遣麟逼元妃曰:「后常謂主上不能嗣守大統,今竟何如?宜早自裁,以全段氏。」元妃怒曰:「汝兄弟尚逼殺母,安能保守社稷!吾豈惜死,念國滅不久耳。」遂自殺。寶議以元妃謀廢嫡統,無母后之道,不宜成喪,群下咸以為然。偽中書令眭邃大言於朝曰:「子無廢母之義,漢之安思閻后親廢順帝,猶配饗安皇,先后言虛實尚未可知,宜依閻后故事。」寶從之。其後麟果作亂,寶亦被殺,德后僭稱尊號,終如元妃之言。

段豊の妻慕容氏

原文段豐妻慕容氏

段豊の妻慕容氏は、徳の娘である。才知と聡明さがあり、書史に通じ、琴を弾くことができた。徳が僭位すると、平原公主に封じられた。十四歳の時、豊に嫁いだ。豊が讒言を受けて殺されると、慕容氏は寡婦となって戻り、偽の寿光公余熾に再嫁させられることになった。慕容氏は侍女に言った。「私は聞く、忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に従わぬと。段氏が無実の罪に遭い、私が共に死ねなかったとしても、どうして再び嫁ぐ気になれようか。今、主上は礼義を顧みず私を嫁がせようとしている。従わなければ、厳しい君命に背くことになる。」こうして期日を定めて婚礼の儀を行った。慕容氏は姿形が優美で麗しく、服飾も華やかだったので、熾はそれを見て大いに喜んだ。二晩が過ぎ、慕容氏は病気を偽って断り、熾も彼女を無理強いしなかった。三日目に実家に戻り、沐浴して酒を設け、言笑自若としていたが、夜になると、密かに裙帯に書き記した。「死んだら私を段氏の墓の傍らに埋めてほしい。もし魂魄に知覚があれば、あちらに帰ろう。」そして浴室で首を吊って死んだ。埋葬の時、男女の見物人は数万人に及び、誰もが嘆息して言った。「なんと貞節な公主よ。」道が余熾の邸宅の前を通りかかると、熾は挽歌の声を聞き、慟哭してしばらく気を失った。

原文段豐妻慕容氏,德之女也。有才慧,善書史,能鼓琴,德既僭位,署為平原公主。年十四,適於豐。豐為人所譖,被殺,慕容氏寡歸,將改適偽壽光公餘熾。慕容氏謂侍婢曰:「我聞忠臣不事二君,貞女不更二夫。段氏既遭無辜,己不能同死,豈復有心於重行哉!今主上不顧禮義嫁我,若不從,則違嚴君之命矣。」於是克日交禮。慕容氏姿容婉麗,服飾光華,熾睹之甚喜。經再宿,慕容氏偽辭以疾,熾亦不之逼。三日還第,沐浴置酒,言笑自若,至夕,密書其裙帶云:「死後當埋我于段氏墓側,若魂魄有知,當歸彼矣。」遂於浴室自縊而死。及葬,男女觀者數萬人,莫不歎息曰:「貞哉公主!」路經餘熾宅前,熾聞輓歌之聲,慟絕良久。

呂纂の妻楊氏

原文呂纂妻楊氏

呂纂の妻楊氏は、弘農の人である。美しく艶やかで、義烈な心を持っていた。纂が呂超に殺されると、楊氏は侍女十数人と共に城西で纂を葬った。宮殿を出ようとした時、超は珍宝が外に持ち出されるのを懸念し、人を遣って彼女らを捜索させた。楊氏は厳しい声で超を責めた。「お前たち兄弟は和睦できず、手ずから刃を交えて殺し合う。私はもうすぐ死ぬ身だ。金宝が何になろう。」超は恥じて退いた。また、楊氏に玉璽の所在を尋ねると、楊氏は怒って言った。「全て壊してしまった。」超は彼女を妻にしようとし、その父の桓に言った。「后がもし自殺すれば、そなたの一族に災いが及ぶ。」桓がこれを楊氏に告げると、楊氏は言った。「父上はもともと私を氏に売って富貴を図られたのです。一度で十分です。二度目がありましょうか。」そして自殺した。

原文呂纂妻楊氏,弘農人也。美豔有義烈。纂被呂超所殺,楊氏與侍婢十數人殯纂於城西。將出宮,超慮齎珍物出外,使人搜之。楊氏厲聲責超曰:「爾兄弟不能和睦,手刃相屠,我旦夕死人,何用金寶!」超慚而退。又問楊氏玉璽所在,楊氏怒曰:「盡毀之矣。」超將妻之,謂其父桓曰:「后若自殺,禍及卿宗。」桓以告楊氏,楊氏曰:「大人本賣女與氏以圖富貴,一之已甚,其可再乎!」乃自殺。

当時、呂紹の妻張氏もまた節操のある行いをしていた。十四歳で紹が死ぬと、すぐに尼になることを願い出た。呂隆は彼女を見て気に入り、その行いを穢そうとした。張氏は言った。「私は至高の道を敬い楽しみ、辱めを受けることを誓って拒みます。」そして楼に昇り地面に身を投げ、両脛を折り、口ずさみながら仏経を誦し、やがて死んだ。

原文時呂紹妻張氏亦有操行,年十四,紹死,便請為尼。呂隆見而悅之,欲穢其行,張氏曰:「欽樂至道,誓不受辱。」遂升樓自投於地,二脛俱折,口誦佛經,俄然而死。

涼の武昭王李玄盛の后尹氏

原文涼武昭王李玄盛后尹氏

涼の武昭王李玄盛の后尹氏は、天水郡冀県の人である。幼い頃から学問を好み、明晰な弁舌と志操を持っていた。初め扶風の馬元正に嫁いだが、元正が亡くなり、玄盛の後妻となった。再婚したことを理由に、三年間口をきかなかった。前妻の子を育てるのに、実の子以上に慈しんだ。玄盛が創業するにあたり、謀略や経営方針の多くを補佐したので、西州の諺に「李、尹は敦煌に王たる」と言われた。

原文涼武昭王李玄盛后尹氏,天水冀人也。幼好學,清辯有志節。初適扶風馬元正,元正卒,為玄盛繼室。以再醮之故,三年不言。撫前妻子逾于己生。玄盛之創業也,謨謀經略多所毗贊,故西州諺曰:「李、尹王敦煌。」

玄盛が薨去すると、子の士業が位を継ぎ、彼女を太后として尊んだ。士業が沮渠蒙遜を攻めようとした時、尹氏は士業に言った。「汝の国は新たに造られたばかりで、土地は狭く人口も少ない。静かに守っても失うことを恐れるのに、どうして軽々しく挙兵し、望みもないものを窺おうとするのか。蒙遜は勇猛で武に優れ、兵を用いるのが巧みだ。汝は彼の敵ではない。私はここ数年、彼に併呑の志があるのを見てきた。また天時と人事は彼に帰するかのようだ。今、国は小さいが、政を行うには十分である。足るを知れば辱められない、これは道家の明らかな戒めだ。かつて先王が臨終の際、遺令で切々と、汝らが兵戦を深く慎み、時を待って動くよう志したことを命じられた。その言葉がまだ耳に残っているのに、どうして忘れるのか。徳政を努めて修め、力を蓄えて様子を見る方がよい。彼がもし淫暴であれば、人々は汝に帰するだろう。汝がもし徳を建てなければ、事を成す日はない。汝のこの行いは、軍が敗れるだけでなく、国も滅びるだろう。」士業は従わず、果たして蒙遜に滅ぼされた。

原文及玄盛薨,子士業嗣位,尊為太后。士業將攻沮渠蒙遜,尹氏謂士業曰:「汝新造之國,地狹人稀,靖以守之猶懼其失,云何輕舉,窺冀非望!蒙遜驍武,善用兵,汝非其敵。吾觀其數年已來有並兼之志,且天時人事似欲歸之。今國雖小,足以為政。知足不辱,道家明誡也。且先王臨薨,遺令殷勤,志令汝曹深慎兵戰,俟時而動。言猶在耳,柰何忘之!不如勉修德政,蓄力以觀之。彼若淫暴,人將歸汝;汝苟德之不建,事之無日矣。汝此行也,非唯師敗,國亦將亡。」士業不從,果為蒙遜所滅。

尹氏が姑臧こぞうに至ると、蒙遜は引見して労った。尹氏は答えて言った。「李氏は胡に滅ぼされた。また何を言おうか。」ある人が諫めて言った。「母子の命は人の手に懸かっている。どうして傲慢な態度をとるのか。また国が敗れ子孫が屠滅されたのに、どうして悲しまないのか。」尹氏は言った。「興り滅び、死に生きるのは、道理の大きな分かれ目だ。どうして凡人のごときことをして、児女の悲しみを起こそうとするのか。私は一婦人に過ぎず、死ぬことができなかった。どうして斧鉞の禍を恐れ、臣妾となることを求めることがあろうか。私を殺す者がいれば、それは私の願いだ。」蒙遜は彼女を賞賛し、誅殺せず、自分の子の茂虔に彼女の娘を娶らせた。魏氏が武威公主を茂虔の妻とすると、尹氏と娘は酒泉に移り住んだ。やがて娘が亡くなると、彼女を撫でても泣かず、言った。「汝の死は遅すぎた。」沮渠無諱いみなが当時酒泉を鎮守していたが、たびたび尹氏に言った。「后の諸孫は伊吾におります。后は行かれますか。」尹氏はその言葉の真意を測りかね、答えて言った。「子孫は流浪し、醜い虜に身を寄せている。老年の残りの命は、ここで死ぬべきであり、氈裘の鬼とはなりません。」間もなく密かに伊吾に奔ろうとしたが、無諱が騎兵を遣わして追いかけて来た。尹氏は使者に言った。「沮渠酒泉(無諱)は私が北に帰ることを許した。どうして追って来るのか。私の首を斬って帰ればよい。決して戻らない。」使者はこれ以上迫ることを敢えずに帰った。七十五歳で、伊吾で亡くなった。

原文尹氏至姑臧,蒙遜引見勞之,對曰:「李氏為胡所滅,知復何言!」或諫之曰:「母子命懸人手,柰何倨傲!且國敗子孫屠滅,何獨無悲?」尹氏曰:「興滅死生,理之大分,何為同凡人之事,起兒女之悲!吾一婦人,不能死亡,豈憚斧鉞之禍,求為臣妾乎!若殺我者,吾之願矣。」蒙遜嘉之,不誅,為子茂虔娉其女為妻。及魏氏以武威公主妻茂虔,尹氏及女遷居酒泉。既而女卒,撫之不哭,曰:「汝死晚矣!」沮渠無諱時鎮酒泉,每謂尹氏曰:「后諸孫在伊吾,后能去不?」尹氏未測其言,答曰:「子孫流漂,托身醜虜,老年餘命,當死於此,不能作氈裘鬼也。」俄而潛奔伊吾,無諱遣騎追及之。尹氏謂使者曰:」沮渠酒泉許我歸北,何故來追?汝可斬吾首歸,終不回矣。」使者不敢逼而還。年七十五,卒于伊吾。

【史論】

原文【史論】

史臣が言う。繁霜が節を降らせると、後まで凋まぬ心の強さが顕れる。横流が辰にある時、上徳に貞節の期が表れる。それは伊尹や子だけではなく、婦人においてもそうである。晋の政治が衰微して以来、風紀を立てることは稀で、閑雅で爽やかな操りを損ない、互いに趨り合って俗となり、劉石によって薦められ、苻姚によって乱された。三月に胡の歌を歌い、ただ新しい飾りを争うのみ。一朝にして漢を辞しても、かつて旧きを恋い慕う情けは微かにもなかった。風埃の中を馳せ騒ぎ、名教から脱落し、頽廃して放縦に忘れ返り、ここに極まった。例えば、恵風が喬属を数えたこと、道韞が孫恩に対したこと、荀女が重囲の中で急を解いたこと、張妻が強寇に怨みを報いたこと、僭称して登った后が死に赴いて戻らなかったこと、偽りに纂した妃が命を棄てて惜しまなかったこと、宗辛が情に抗って夭折したこと、王靳が節を守って終わりを遂げたこと、これらは皆、暗黙のうちに義の途を践み、教えによって至ったのではない。清らかな漢の喬木の葉のように聳え立ち、豊かな美しい音色がある。幽谷の貞節な花を振るわせ、雅な導きに恥じない。懸梁して顧みず、剣を喰らって帰るが如きものと比べれば、異日に斉の風と並び、千年を激しく揚げることができるであろう。

原文史臣曰:夫繁霜降節,彰勁心於後凋;橫流在辰,表貞期於上德,匪伊尹子,抑亦婦人焉。自晉政陵夷,罕樹風檢,虧閑爽操,相趨成俗,薦之以劉石,汩之以苻姚。三月歌胡,唯見爭新之飾;一朝辭漢,曾微戀舊之情。馳騖風埃,脫落名教,頹縱忘反,於茲為極。至若惠風之數喬屬,道韞之對孫恩,荀女釋急於重圍,張妻報怨于強寇,僭登之后,蹈死不回,偽纂之妃,捐生匪吝,宗辛抗情而致夭,王靳守節而就終,斯皆冥踐義途,匪因教至。聳清漢之喬葉,有裕徽音;振幽谷之貞蕤,無慚雅引,比夫懸梁靡顧,齒劍如歸,異日齊風,可以激揚千載矣。