晉書

巻九十四 列伝第六十四 隠逸伝

巻九十四 列伝第六十四 隠逸伝

晉書

原文晉書

巻九十四 列伝第六十四 隠逸伝

原文卷九十四 列傳第六十四 隱逸傳 ► 卷九十五

孫登

原文孫登

孫登は、字あざなを公和といい、汲郡共の人である。家族はおらず、郡の北山に土窟を掘って住み、夏は草を編んで裳とし、冬は髪を振り乱して自らを覆った。『易経』を読むことを好み、一弦琴を弾き、彼を見る者は皆親しみ楽しんだ。性質として怒りを抱くことがなく、ある人が彼を水中に投げ込み、怒りを見ようとしたが、登は出てくると、大笑いした。時々人里を遊行し、経由する家で衣食を用意する者がいても、一切辞退せず、去るときには全て捨て去った。かつて宜陽山に住んでいたとき、炭焼きが彼を見て、普通の人ではないと知り、話しかけたが、登も応じなかった。文帝(司馬昭しばしょう)がこれを聞き、阮籍を行かせて様子を見させた。会って話しかけても、やはり応じなかった。嵇康もまた彼に従って三年間交遊し、何を図っているのかと尋ねたが、終いに答えず、康は毎回嘆息した。別れ際に、「先生はついに何もおっしゃらないのですか」と言うと、登はようやく言った。「あなたは火を知っているか。火は生まれながらにして光があるが、その光を用いない。その結果は光を用いることにある。人は生まれながらにして才があるが、その才を用いない。その結果は才を用いることにある。故に光を用いることは薪を得ることにあり、それによってその輝きを保つ。才を用いることは真実を見極めることにあり、それによってその天寿を全うする。今あなたは才は多いが識見が乏しい。今の世を免れ難いであろう。あなたは何も求めないのか」。康はこれを用いることができず、果たして非業の死を遂げた。そこで康は『幽憤詩』を作って言った。「昔は柳下恥じ、今は孫登に愧ず」。あるいは、登は魏と晋の去就によって嫌疑が生じやすいため、黙っていたのだとも言われる。ついにその行方は知れなかった。

原文孫登,字公和,汲郡共人也。無家屬,于郡北山為土窟居之,夏則編草為裳,冬則被髮自覆。好讀《易》,撫一弦琴,見者皆親樂之。性無恚怒,人或投諸水中,欲觀其怒,登既出,便大笑。時時遊人間,所經家或設衣食者,一無所辭,去皆捨棄。嘗住宜陽山,有作炭人見之,知非常人,與語,登亦不應。文帝聞之,使阮籍往觀,既見,與語,亦不應。嵇康又從之遊三年,問其所圖,終不答,康每歎息。將別,謂曰:「先生竟無言乎?」登乃曰:「子識火乎?火生而有光,而不用其光,果在於用光。人生而有才,而不用其才,而果在於用才。故用光在乎得薪,所以保其耀;用才在乎識真,所以全其年。今子才多識寡,難乎免於今之世矣!子無求乎?」康不能用,果遭非命,乃作《幽憤詩》曰:「昔慚柳下,今愧孫登。」或謂登以魏晉去就,易生嫌疑,故或嘿者也。竟不知所終。

董京

原文董京

董京は、字を威輦といい、どこの郡の人かはわからない。初め隴西の計吏と共に洛陽らくように至り、髪を振り乱して歩き、逍遥として詩を吟詠し、常に白社の中に宿った。時に市で物乞いをし、ぼろぼろの絹や綿くずを得ては、結んで自らを覆い、完全な絹布や上質の綿は受け取ろうとしなかった。あるいは押しのけられ罵られ辱められても、かつて怒りの色を見せなかった。孫楚が当時著作郎であったが、たびたび社中で彼と話し、ついに車に乗せて一緒に帰ろうとしたが、京は座ろうとしなかった。孫楚はそこで彼に手紙を送り、今は堯舜の世であるのに、どうして道を懐いて国を迷わせるのかと勧めた。董京は詩でこれに答えた。「周の道は廃れて頌声は絶え、夏の政は衰えて五常は乱れる。立派な君子は、顧みて去り、満ち溢れるものは目に満ちるが、作る者は七人。天地の化育を楽しまないことがあろうか。哀しいかな、時は共にすることができず、独りでそれに対す。私を楽しませて喜ばせようとせず、清らかな流れは飲むことができ、至高の道は食することができる。どうしてあくせくして、自らを疲れ果てさせるのか。魚が釣り上げられ獣が檻にかかるのは、卑しい者でも知っている。古いにしえの至人は、器を霊の中に蔵し、綿入れの袍でも暖かくはならず、高官の冠でも栄えることはない。動くことは川の流れの如く、静まることは川の水が止まる如し。鸚鵡は言葉を話し、泗水の畔の浮き石は、多くの人が弄ぶが、どうして物の情理に合うだろうか。玄鳥が幕に絡みついても害されないのか。鷹は遠くに巣を作り、皆欲望のために死ぬ。あの梁の魚を見よ、ためらって尾を倒し、沈吟して決断せず、たちまち水を失う。ああ、魚と鳥は互いに、万世たっても悟らない。私から見れば、その理由が明らかである。どうして達人がいないとわかろうか、深く静かなその度量で、また私を覗き見て、眉をひそめて去るであろう。万物は皆卑しく、ただ人だけが貴い。動けば九州をも狭しとし、静まれば環堵の内をも広大とする」。数年後、遁走し、どこへ行ったかわからず、彼が寝ていた場所にはただ一本の石の竹と詩二篇があった。その一つに言う。「乾の道は剛健で簡素、坤の体は敦厚で密、茫々たる太素、これに則りこれを述ぶ。末世は流れ奔り、文をもって質に代え、悠々たる世の目、誰かその実を知らん。去らんとす、この至虚を去りて、我が自然の室に帰らん」。また言う。「孔子は遇わず、時に彼は麟を感じた。麟よ麟よ、どうして世を遁れて真を存せざる」。

原文董京,字威輦,不知何郡人也。初與隴西計吏俱至洛陽,被髮而行,逍遙吟詠,常宿白社中。時乞於市,得殘碎繒絮,結以自覆,全帛佳綿則不肯受。或見推排罵辱,曾無怒色。孫楚時為著作郎,數就社中與語,遂載與俱歸,京不肯坐。楚乃貽之書,勸以今堯舜之世,胡為懷道迷邦。京答之以詩曰:「周道斁兮頌聲沒,夏政衰兮五常汨。便便君子,顧望而逝,洋洋乎滿目,而作者七。豈不樂天地之化也?哀哉乎時之不可與,對之以獨處。無娛我以為歡,清流可飲,至道可餐,何為棲棲,自使疲單?魚懸獸檻,鄙夫知之。夫古之至人,藏器於靈,縕袍不能令暖,軒冕不能令榮;動如川之流,靜如川之渟。鸚鵡能言,泗濱浮磬,眾人所玩,豈合物情!玄鳥紆幕,而不被害?𩿦隼遠巢,咸以欲死。眄彼梁魚,逡巡倒尾,沈吟不決,忽焉失水。嗟呼!魚鳥相與,萬世而不悟;以我觀之,乃明其故。焉知不有達人,深穆其度,亦將窺我,顰顣而去。萬物皆賤,惟人為貴,動以九州為狹,靜以環堵為大。」後數年,遁去,莫知所之,於其所寢處惟有一石竹子及詩二篇。其一曰:「乾道剛簡,坤體敦密,茫茫太素,是則是述。末世流奔,以文代質,悠悠世目,孰知其實!逝將去此至虛,歸我自然之室。」又曰:「孔子不遇,時彼感麟。麟乎麟!胡不遁世以存真?」

夏統

原文夏統

夏統は、字を仲御といい、会稽かいけい郡永興県の人である。幼くして孤貧であり、親を養うことに孝行で知られ、兄弟と仲睦まじく、常に梠の実を採って食を求め、星明かりの下で夜に帰り、あるいは海辺まで行き、貝類を採って生計の足しにした。大変議論を好んだ。宗族が彼に出仕を勧め、言った。「あなたは清く明るく質朴で正直だから、郡の綱紀(役人)となって、府や朝廷と接すれば、自然と顕職に至るでしょう。どうして山林で辛苦を甘んじ、海辺で一生を終えようとするのですか」。統は憤然として顔色を変えて言った。「諸君は私をここまで見下すのですか。もし私が太平の時に仕えていたなら、八元八凱と出処を評議し、濁った時代に遇えば、屈原と共に泥にまみれることを思い、治乱の間であれば、自ら長沮や桀溺と共に耕作するでしょう。どうして郡府の間で身を辱め意を曲げることがありましょうか。あなたの話を聞いて、思わず寒毛が全て逆立ち、白い汗が四方から流れ出し、顔は朱に塗ったようになり、心は炭のように熱く、舌は縮み口は開き、両耳は壁で塞がれたようです」。言った者は大いに恥じた。統はこれ以降、宗族と会わなくなった。

原文夏統,字仲御,會稽永興人也。幼孤貧,養親以孝聞,睦于兄弟,每采梠求食,星行夜歸,或至海邊,拘螊𧑅以資養。雅善談論。宗族勸之仕,謂之曰:「卿清亮質直,可作郡綱紀,與府朝接,自當顯至,如何甘辛苦于山林,畢性命于海濱也!」統悖然作色曰:「諸君待我乃至此乎!使統屬太平之時,當與元凱評議出處,遇濁代,念與屈生同汙共泥;若汙隆之間,自當耦耕沮溺,豈有辱身曲意於郡府之間乎!聞君之談,不覺寒毛盡戴,白汗四匝,顏如渥丹,心熱如炭,舌縮口張,兩耳壁塞也。」言者大慚。統自此遂不與宗族相見。

たまたま母が病気になったので、統が医薬の世話をしている間に、宗族の親戚はそれによって彼に会うことができた。彼の従父の敬寧が先祖を祀るとき、女巫の章丹と陳珠の二人を迎えた。二人はともに国色で、服装は大変美しく、歌や舞をよくし、また姿を隠す術もあった。夜の初めに、鐘を撞き鼓を打ち、間に糸竹の楽器を交え、丹と珠は刀を抜いて舌を切り、刀を飲み火を吐き、雲霧が深く立ち込め、流れる光や電光が発せられた。統の従兄弟たちはこれを見に行きたかったが、統が難色を示すので、そこで共に彼を騙して言った。「従父の病気が快方に向かったので、一族みなで喜び祝い、その祭祀に合わせて、一緒にお祝いに行きたいのです。あなたも一緒に行きませんか」。統はそれに従った。門に入ると、突然丹と珠が中庭にいて、軽やかな足取りで舞い回り、霊妙な話をし鬼のように笑い、飛び跳ねて盤を弄び、杯のやり取りがひらひらと舞った。統は驚愕して逃げ出し、門を通らず、垣根を破ってまっすぐに出て行った。帰ってきて人々を責めて言った。「昔、淫乱の風俗が起こったとき、衛の文公はそれを悲しみ嘆いた。虹の気が現れたとき、君子ですら指さすことを敢えなかった。季桓子が斉の女を受け入れたとき、孔子は車を走らせて退いた。子路が夏南を見て、憤慨し激昂した。私は常に叔向の頭を叩きつけ、華父の目をえぐり出せなかったことを恨んでいる。どうして諸君はこのような妖物を迎え、夜に戯れ、傲慢で放逸な感情を放ち、奢侈で淫らな行いをほしいままにし、男女の礼を乱し、貞潔で高潔な節操を破るのですか」。そこで床に隠れ、髪を振り乱して臥し、二度と口をきかなかった。親族一同は恐縮し、すぐに丹と珠を退去させ、それぞれ散り散りになった。

原文會母疾,統侍醫藥,宗親因得見之。其從父敬甯祠先人,迎女巫章丹、陳珠二人,並有國色,莊服甚麗,善歌儛,又能隱形匿影。甲夜之初,撞鐘擊鼓,間以絲竹,丹、珠乃拔刀破舌,吞刀吐火,雲霧杳冥,流光電發。統諸從兄弟欲往觀之,難統,於是共紿之曰:「從父間疾病得瘳,大小以為喜慶,欲因其祭祀,並往賀之,卿可俱行乎?」統從之。入門,忽見丹、珠在中庭,輕步佪舞,靈談鬼笑,飛觸挑柈,酬酢翩翻。統驚愕而走,不由門,破籓直出。歸責諸人曰:「昔淫亂之俗興,衛文公為之悲惋;蝀蝀之氣見,君子尚不敢指;季桓納齊女,仲尼載馳而退;子路見夏南,憤恚而忼愾。吾常恨不得頓叔向之頭,陷華父之眼。奈何諸君迎此妖物,夜與遊戲,放傲逸之情,縱奢淫之行,亂男女之禮,破貞高之節,何也?」遂隱床上,被髮而臥,不復言。眾親踧踖,即退遣丹、珠,各各分散。

その後、彼の母が重篤になると、洛陽へ薬を買いに行った。ちょうど三月の上巳の節句で、洛中の王侯公卿以下が皆浮橋に集まり、男女がひしめき合い、車馬と衣服が道を照らしていた。夏統はその時船の中で買った薬を干していたが、貴人たちの車が雲のようにやって来ても、夏統はまったく顧みなかった。太尉たいいの賈充が怪しんで尋ねると、夏統は最初答えず、重ねて問われて、ようやくゆっくりと答えて言った。「会稽の夏仲御です。」賈充が彼の土地の風俗を尋ねると、夏統は言った。「その人々は礼儀正しく、なお大禹の遺風、大伯の義譲、厳遵の高潔な志、黄公の高節が残っています。」また「あなたは海辺に住んでおられるが、水遊びをすることはできるか」と尋ねると、答えて言った。「できます。」夏統はかじを操り櫓を正し、流れの中で旋回し、初めは鯔鷠が跳ねるように、後には鯆䱐が引くように、鷁首を飛ばし、獣の尾を掴み、長い櫂を奪って船を真っ直ぐに走らせることを三度行った。そこで風波が激しく立ち、雲霧が深く暗くなり、やがて白魚が船に跳び込むものが八、九匹あった。見物人は皆恐れおののき、賈充は特に驚き、さらに船に近づいて話しかけると、その応答は響きのようで、仕官させようとすると、ただうつむいて答えなかった。賈充はまた言った。「昔、堯も歌い、舜も歌った。あなたが人と歌って良ければ、必ず返してから合わせる。これは先聖前哲が皆歌を尽くしたことを明らかにしている。あなたはあなたの土地の曲を少しは作れるか。」夏統は言った。「先公(禹)はただ稽山に寓居し、万国を朝会させ、鄙びた国に教化を授け、崩御して葬られた。恩沢は雲のように広がり、聖なる教化はなお残り、百姓は感じ詠んで、遂に『慕歌』を作りました。また孝女の曹娥は、年わずか十四歳で、貞順の徳は梁宋を越え、その父が江に落ちて屍を得ず、娥は天を仰いで哀号し、流れの中で悲嘆し、すぐに水に投じて死に、父子の屍は後に共に現れ、国の人はその孝義を哀れみ、『河女』の章の歌を作りました。伍子胥が呉王を諫め、言が用いられず、殺されて海に投じられ、国の人はその忠烈を痛み、『小海唱』を作りました。今、それを歌おうと思います。」皆が言った。「よろしい。」夏統はそこで足で船を叩き、声を引き出して喉を震わせ、清く激しく慷慨し、大風が応じて至り、水を含んで天に噴き上げ、雲雨が響き集まり、叱咤歓呼し、雷電が昼を暗くし、気を集めて長く嘯き、砂塵が煙のように立ち上がった。王侯公卿以下は皆恐れ、止めさせてようやく終わった。人々は互いに顧みて言った。「もし洛水に遊ばなければ、どうしてこの人を見ることができただろうか。『慕歌』の声を聞けば、あたかも大禹の姿を見るようだ。『河女』の音を聞けば、知らず知らずに涙が流れ、伯姫の高行が目の前にいるようだ。『小海』の唱えを聴けば、子胥や屈原が我々の左右に立っているようだ。」賈充は文武の鹵簿で彼を輝かせ、来て見ることを期待し、それによって謝ろうとし、そこで朱の旗を立て、幡校を挙げ、羽騎を分けて隊とし、軍伍を厳然とさせた。しばらくして鼓吹が乱れ作り、胡葭が長く鳴り、車馬が入り乱れ、縦横に馳道を走り、また妓女たちに袿襡を着せ、金翠を輝かせ、その船を三周させた。夏統は危坐したまま元の通りで、まるで何も聞こえないようだった。賈充らはそれぞれ散って言った。「この呉の児は木人石心だ。」夏統は会稽に帰り、ついにその行方が分からなかった。

原文後其母病篤,乃詣洛市藥。會三月上巳,洛中王公已下並至浮橋,士女駢填,車服燭路。統時在船中曝所市藥,諸貴人車乘來者如雲,統並不之顧。太尉賈充怪而問之,統初不應,重問,乃徐答曰:「會稽夏仲御也。」充使問其土地風俗,統曰:「其人循循,猶有大禹之遺風,大伯之義讓,嚴遵之抗志,黃公之高節。」又問「卿居海濱,頗能隨水戲乎?」答曰:「可。」統乃操柂正櫓,折旋中流,初作鯔鷠躍,後作鯆䱐引,飛鷁首,掇獸尾,奪長梢而船直逝者三焉。於是風波振駭,雲霧杳冥,俄而白魚跳入船者有八九。觀者皆悚遽,充心尤異之,乃更就船與語,其應如響,欲使之仕,即俯而不答。充又謂曰:「昔堯亦歌,舜亦歌,子與人歌而善,必反而後和之,明先聖前哲無不盡歌。卿頗能作卿土地間曲乎?」統曰:「先公惟寓稽山,朝會萬國,授化鄙邦,崩殂而葬。恩澤雲布,聖化猶存,百姓感詠,遂作《慕歌》。又孝女曹娥,年甫十四,貞順之德過越梁宋,其父墮江不得戶,娥仰天哀號,中流悲歎,便投水而死,父子喪屍,後乃俱出,國人哀其孝義,為歌《河女》之章。伍子胥諫吳王,言不納用,見戮投海,國人痛其忠烈,為作《小海唱》。今欲歌之。」眾人僉曰:「善。」統於是以足叩船,引聲喉囀,清激慷慨,大風應至,含水𠻳天,雲雨響集,叱吒歡呼,雷電晝冥,集氣長嘯,沙塵煙起。王公已下皆恐,止之乃已。諸人顧相謂曰:「若不游洛水,安見是人!聽《慕歌》之聲,便仿佛見大禹之容。聞《河女》之音,不覺涕淚交流,即謂伯姬高行在目前也。聆《小海》之唱,謂子胥、屈平立吾左右矣。」充欲耀以文武鹵簿,覬其來觀,因而謝之,遂命建硃旗,舉幡校,分羽騎為隊,軍伍肅然。須臾,鼓吹亂作,胡葭長鳴,車乘紛錯,縱橫馳道,又使妓女之徒服袿襡,炫金翠,繞其船三匝。統危坐如故,若無所聞。充等各散曰:「此吳兒是木人石心也。」統歸會稽,竟不知所終。

朱沖

原文朱沖

朱沖、字は巨容、南安の人である。若い時から至高の行いがあり、静かで寡欲、学問を好んだが貧しく、常に耕作を仕事としていた。隣人が子牛を失い、朱沖の子牛だと認めて連れ帰ったが、後で林の中で子牛を見つけ、大いに恥じ、子牛を朱沖に返したが、朱沖はついに受け取らなかった。牛が彼の禾稼を犯すと、朱沖はたびたび飼い葉を持って牛に送り、恨む色がなかった。主人はそれを恥じ、それ以後暴れなくなった。咸寧四年、詔みことのりで博士に補するよう命じられたが、朱沖は病気と称して応じなかった。まもなくまた詔があり、「東宮の官属もまた至高の行いを実践し典籍を尊ぶ者を得るべきである。朱沖を太子右庶子とする。」と言った。朱沖は徴召の書が来るたびに、すぐに深山に逃げ込み、当時の人は梁鴻や管寧の流れと見なした。朱沖は夷狄の風俗に近く住み、羌戎は彼を君主のように奉じ、朱沖もまた礼譲をもって教え、邑里はそれに感化され、道に落ちたものを拾わず、村に凶悪な者はいなくなり、毒虫猛獣も害をなさなかった。ついに長寿を全うして亡くなった。

原文朱沖,字巨容,南安人也。少有至行,閑靜寡欲,好學而貧,常以耕藝爲事。鄰人失犢,認沖犢以歸,後得犢於林下,大慚,以犢還沖,沖竟不受。有牛犯其禾稼,沖屢持芻送牛而無恨色。主愧之,乃不復爲暴。咸寧四年,詔補博士,沖稱疾不應。尋又詔曰:「東宮官屬亦宜得履蹈至行敦悅典籍者,其以沖爲太子右庶子。」沖每聞徵書至,輒逃入深山,時人以爲梁管之流。沖居近夷俗,羌戎奉之若君,沖亦以禮讓爲訓,邑里化之,路不拾遺,邨無凶人,毒蟲猛獸皆不爲害。卒以壽終。

范粲

原文范粲

范粲、字は承明、陳留外黄の人、漢の萊蕪長范丹の孫である。范粲は高潔で貞正、范丹の風格があり、広く学問に渉り記憶力が強く、学ぶべき所が多く、遠近から教えを請う者が非常に多かったが、性格は威張らず、会う者は皆厳粛になった。魏の時、州府が交えて召し出したが、いずれも就かなかった。長い間して、ようやく命に応じて治中となり、別駕に転じ、太尉掾・尚書しょうしょ郎に召され、出て征西司馬となり、歴任した職務には皆名声があった。宣帝が政を補佐すると、武威太守に遷った。郡に着くと、良吏を選び、学校を立て、農桑を勧めた。この時、戎夷がしばしば国境を侵したが、范粲は防備を明らかに設け、敵は敢えて侵犯せず、西域は流通し、烽火の警報はなかった。また郡の土地は豊かで、珍玩が充満していたが、范粲はそれを制限し、華美奢侈を止めさせた。母が老いたので官を辞した。郡は寇戎に近く、范粲はまた重鎮を去職したので、朝廷はそれを責め、楽涫令に左遷した。

原文范粲,字承明,陳留外黃人,漢萊蕪長丹之孫也。粲高亮貞正,有丹風,而博涉強記,學皆可師,遠近請益者甚眾,性不矜莊,而見之皆肅如也。魏時州府交辟,皆無所就。久之,乃應命為治中,轉別駕,辟太尉掾、尚書郎,出為征西司馬,所曆職皆有聲稱。及宣帝輔政,遷武威太守。到郡,選良吏,立學校,勸農桑。是時戎夷頗侵疆場,粲明設防備,敵不敢犯,西域流通,無烽燧之警。又郡壤富實,珍玩充積,粲檢制之,息其華侈。以母老罷官。郡既接近寇戎,粲又重鎮輒去職,朝廷尤之,左遷樂涫令。

しばらくして、太宰従事中郎に転じた。母の喪に遭い、至孝で称された。喪が明けると、また太宰中郎となった。斉王芳が廃され、金墉城に移された時、范粲は喪服で拝送し、左右を哀慟させた。その時景帝が政を補佐し、群官を召して会議したが、范粲はまた出席せず、朝廷はその時の声望を重んじて寛容に扱った。范粲はまた病気と称し、門を閉めて出なかった。そこで特に詔して侍中とし、節を持って雍州に使者として行かせた。范粲はそこで狂ったふりをして言葉を発せず、乗っていた車に寝たきりで、足を地に着けなかった。子孫は常に左右に侍り、婚宦の大事があるたびに、密かに相談した。合えば顔色を変えず、合わなければ眠らずに不安がり、妻子はこれによって彼の意向を知った。

原文頃之,轉太宰從事中郎。遭母憂,以至孝稱。服闕,復為太宰中郎。齊王芳被廢,遷于金墉城,粲素服拜送,哀慟左右。時景帝輔政,召群官會議,粲又不到,朝廷以其時望,優容之。粲又稱疾,闔門不出。於是特詔為侍中,持節使於雍州。粲因陽狂不言,寢所乘車,足不履地。子孫恆侍左右,至有婚宦大事,輒密諮焉。合者則色無變,不合則眠寢不安,妻子以此知其旨。

武帝が即位し、泰始年間、范粲の同郡の孫和がその時太子中庶子で、上表して范粲を推薦し、その操行が高潔で、長く病気に苦しんでいるので、郡県に命じて車で京師に送り届けさせ、聖恩を加えて医薬を与え、もし治癒すれば、必ず政治に益があると称した。そこで詔して郡県に医薬を与えさせ、また二千石の禄で病気を養わせ、毎年これを常とし、帛百匹を加えて賜った。子の范喬は父の病気が重いので、辞して敢えて受けず、詔は許さなかった。太康六年に亡くなり、その時八十四歳、三十六年間言葉を発せず、寝ていた車の中で終わった。長子は范喬。

原文武帝踐阼,泰始中,粲同郡孫和時為太子中庶子,表薦粲,稱其操行高潔,久嬰疾病,可使郡縣輿致京師,加以聖恩,賜其醫藥,若遂瘳除,必有益於政。乃詔郡縣給醫藥,又以二千石祿養病,歲以為常,加賜帛百匹。子喬以父疾篤,辭不敢受,詔不許。乙太康六年卒,時年八十四,不言三十六載,終於所寢之車。長子喬。

范喬、字は伯孫。二歳の時、祖父の范馨が臨終に際し、范喬の頭を撫でて言った。「お前が成人するのを見られないのが残念だ!」そこで自分が使っていた硯を与えた。五歳の時、祖母が范喬に告げると、范喬はすぐに硯を執って涙を流した。九歳で学問を請い、同輩の中で、軽薄な言葉を言わなかった。弱冠で、楽安の蔣国明に師事した。済陰の劉公栄は人を見抜く鑑識があり、范喬を見て、深く器重した。友人劉彦秋は早くから名声があり、かつて人に言った。「范伯孫は体が純和に応じ、理思が周密で、私はいつも彼の一事を間違えようとしてついにできなかった。」光禄大夫の李銓がかつて揚雄の才学は劉向に優ると論じたが、范喬は劉向が一代の書を定め、群籍の篇を正し、揚雄に当たらせたなら、故にその長所ではないと考え、『劉楊優劣論』を著したが、文章は多く載せない。

原文喬字伯孫。年二歲時,祖馨臨終,撫喬首曰:「恨不見汝成人!」因以所用硯與之。至五歲,祖母以告喬,喬便執硯涕泣。九歲請學,在同輩之中,言無媟辭。弱冠,受業于樂安蔣國明。濟陰劉公榮有知人之鑒,見喬,深相器重。友人劉彥秋夙有聲譽,嘗謂人曰:「范伯孫體應純和,理思周密,吾每欲錯其一事而終不能。」光祿大夫李銓嘗論楊雄才學優於劉向,喬以為向定一代之書,正群籍之篇,使雄當之,故非所長,遂著《劉楊優劣論》,文多不載。

喬は学問を好み倦むことがなかった。父の粲は狂気を装って口を利かず、喬は二人の弟と共に学業を捨て、世間との交わりを絶ち、家庭で看病に当たり、粲が亡くなるまで、郷里の外へは一歩も出なかった。司隸校尉の劉毅がかつて朝廷で堂々と論じて言った。「范武威(范粲)の病がもし重くなければ、これは伯夷・叔齊が今に復活したようなものだ。もし本当に重いのなら、ますます聖主が哀れみ憐れむべきである。その子(范喬)は長く父の病に仕え、名声と徳行が顕著で優れているのに、叙用されないのは、朝廷が賢者を見逃すという非難を招くことを深く惜しむ。」元康年間、廉潔で譲り合い、謙虚で退き、道を覆い隠すような貧しい素朴な者を詔で求め、資歴を問わず、選考に参画して叙用することとした。尚書郎の王琨はそこで喬を推薦して言った。「喬は徳を真っ直ぐに受け継ぎ、操りを高潔に立て、儒学に精通し、文采を内に秘め、貧しさに安んじて道を楽しみ、志を貧しい巷に宿し、粗末な食事で学問を詠じ、年を重ねるごとにますます堅固で、誠に当今の寒素(清貧な士人)であり、風俗を励ます清らかな俊才である。」当時、張華ちょうかが司徒しとを兼任し、天下から推挙された者は合わせて十七人いたが、喬については特に優れた評価を述べた。また、吏部郎の郗隆もまた海内の隠遁した士人を求めようと考え、喬が貧しい家で父母を養い、白髪になるまで至ったことを聞き、そこで楽安県令に任命した。喬は病気を理由に辞退して就任しなかった。喬は孝廉に一度推挙され、公府に八度推薦され、清白異行に二度推挙され、さらに寒素に推挙されたが、一度も就任しなかった。

原文喬好學不倦。父粲陽狂不言,喬與二弟並棄學業,絕人事,侍疾家庭,至粲沒,足不出邑里。司隸校尉劉毅嘗抗論於朝廷曰:「使范武威疾若不篤,是為伯夷、叔齊復存於今。如其信篤,益是聖主所宜哀矜。其子久侍父疾,名德著茂,不加敘用,深為朝廷惜遺賢之譏也。」元康中,詔求廉讓沖退覆道寒素者,不計資,以參選敘。尚書郎王琨乃薦喬曰:「喬稟德真粹,立操高潔,儒學精深,含章內奧,安貧樂道,棲志窮巷,簞瓢詠業,長而彌堅,誠當今之寒素,著厲俗之清彥。」時張華領司徒,天下所舉凡十七人,于喬特發優論。又吏部郎郗隆亦思求海內幽遁之士,喬供養衡門,至於白首,於是除樂安令。辭疾不拜。喬凡一舉孝廉,八薦公府,再舉清白異行,又舉寒素,一無所就。

初めに、喬の同郷人が臘祭の夜に彼の木を盗んで切り倒したことがあり、告げ口する者がいたが、喬は聞こえないふりをした。同郷人は恥じて木を返しに来た。喬は出向いて諭して言った。「あなたは祝日の日に薪を取って、父母と共に楽しみたいだけでしょう。どうして恥じる必要がありますか!」彼の物事に通じ善く導くことは、皆このようなものであった。外黄県令の高頵は感嘆して言った。「諸士大夫で私利に及ばない者はないが、范伯孫(范喬)は恭しく道に従い、その名が官庁に掛けられたことは一度もない。士の貴く異なることを、今ここに見る。大道が廃れて仁義が生じるとは、まことにその通りだ!」彼が身を穢さず行うことは、人々からこのように嘆服されたのである。元康八年に死去した。七十八歳であった。

原文初,喬邑人臘夕盜斫其樹,人有告者,喬陽不聞,邑人愧而歸之。喬往喻曰:「卿節日取柴,欲與父母相歡娛耳,何以愧為!」其通物善導,皆此類也。外黃令高頵歎曰:「諸士大夫未有不及私者,而范伯孫恂恂率道,名諱未嘗經于官曹,士之貴異,於今而見。大道廢而有仁義,信矣!」其行身不穢,為物所嘆服如此。以元康八年卒,年七十八。

魯勝

原文魯勝

魯勝、字は叔時、代郡の人である。若い頃から才能と操行があり、佐著作郎となった。元康初年、建康けんこう県令に転任した。任地に着くと、『正天論』を著して言った。「冬至の後に日時計を立てて影を測り、日月星を基準として測る。臣が考えるに、日月の直径は百里であり、千里ではない。星は十里であり、百里ではない。」そこで上表して、諸公卿士に下して考証議論を求めた。「もし臣の言葉が理に適っているなら、先代の過ちを改め、天地の秩序を正すべきである。もし根拠や証拠がなければ、甘んじて刑罰を受け、虚妄の罪を明らかにします。」事は遂に返答がなかった。かつて年の初めに雲気を望み、将来に多くの変事があることを知ると、すぐに病気と称して官を辞した。中書令の張華は息子を遣わして再び仕官するよう勧め、再び博士に徴召され、中書郎に推挙されたが、いずれも就任しなかった。

原文魯勝,字叔時,代郡人也。少有才操,為佐著作郎。元康初,遷建康令。到官,著《正天論》云:「以冬至之後立晷測影,准度日月星。臣案日月裁徑百里,無千里;星十里,不百里。」遂表上求下群公卿士考論。「若臣言合理,當得改先代之失,而正天地之紀。如無據驗,甘即刑戮,以彰虛妄之罪。」事遂不報。嘗歲日望氣,知將來多故,便稱疾去官。中書令張華遣子勸其更仕,再徵博士,舉中書郎,皆不就。

その著述は世に称えられたが、乱に遭って散逸し、ただ『墨辯』に注を施したものだけが残り、その序文が保存されている。その文は以下の通りである。

原文其著述為世所稱,遭亂遺失,惟注《墨辯》,存其敘曰:

名とは、同異を区別し、是非を明らかにするものであり、道義の門戸であり、政治教化の基準である。孔子は言われた。「必ずや名を正さなければならない。名が正しくなければ事は成就しない。」墨子は書を著し、『辯經』を作って名の根本を立てた。恵施や公孫龍はその学問を祖述し、別名を正すことで世に顕れた。孟子は墨子を非難したが、その弁論と言葉を正す点では墨子と同じである。荀卿や莊周などは皆、名家を非難し誹謗したが、その論を変えることはできなかった。

原文名者所以別同異,明是非,道義之門,政化之準繩也。孔子曰:「必也正名,名不正則事不成。」墨子著書,作《辯經》以立名本,惠施、公孫龍祖述其學,以正別名顯於世。孟子非墨子,其辯言正辭則與墨同。荀卿、莊周等皆非毀名家,而不能易其論也。

名には必ず形がある。形を観察するには色を区別するに如くはない。故に堅白の論争がある。名には必ず区別と明らかさがある。区別と明らかさは有無にあるに如くはない。故に有無の順序についての論争がある。是であるものの中に是でないものがあり、可であるものの中に不可なものがある。これを名の両可という。同じでありながら異なり、異なっていながら同じである。これを同異を弁ずるという。至極の同には異ならないものはなく、至極の異には同じでないものはない。これを同を弁じ異を弁ずるという。同異から是非が生じ、是非から吉凶が生じる。一つの事物について弁証を取って天下の盛衰の根源を極める。これが名の極致である。

原文名必有形,察形莫如別色,故有堅白之辯。名必有分明,分明莫如有無,故有無序之辯。是有不是,可有不可,是名兩可。同而有異,異而有同,是之謂辯同異。至同無不同,至異無不異,是謂辯同辯異。同異生是非,是非生吉凶,取辯於一物而原極天下之汙隆,名之至也。

鄧析から秦の時代までの名家の人々は、代々に篇籍があったが、おおむね理解し難く、後世の学者はもはや伝習せず、今から五百余年を経て、遂に絶えて亡びた。『墨辯』には上下の『経』があり、『経』にはそれぞれ『説』がある。合わせて四篇で、その書の他の多くの篇と連なっているので、ただこれだけが残った。今、説を引いて経に就け、各々その章に附し、疑わしいものは欠く。また、諸々の雑多な集まりから採って『刑』『名』の二篇とし、おおよそその主旨を解き明かして、君子を待つ。もし微かなものを興し絶えたものを継ぐ者がいれば、これをもって楽しむこともあろう。

原文自鄧析至秦時名家者,世有篇籍,率頗難知,後學莫復傳習,於今五百餘歲,遂亡絕,《墨辯》有上下《經》,《經》各有《說》,凡四篇,與其書眾篇連第,故獨存。今引說就經,各附其章,疑者闕之。又采諸眾雜集為《刑》《名》二篇,略解指歸,以俟君子。其或興微繼絕者,亦有樂乎此也!

董養

原文董養

董養、字は仲道、陳留郡浚儀県の人である。泰始初年、洛陽に来たが、禄を求め栄誉を追わなかった。楊皇后が廃されると、養は太学に遊び、堂に登って嘆いて言った。「この堂を建てたのは、いったい何のためか。国の赦書を見るたびに、謀反や大逆の罪は皆赦されるが、祖父母や父母を殺す者は赦されない。それは王法が許さないからだ。どうして公卿たちが議論をし、礼典を飾り立てて、ここまでなるのか。天と人の理が既に滅びれば、大乱が起こる。」そこで『無化論』を著してこれを非難した。永嘉年間、洛城の東北、歩広里の中の地面が陥没し、二羽の鵝が現れた。その蒼い方は飛び去り、白い方は飛べなかった。養は聞いて嘆いて言った。「昔、周の時代に狄泉で会盟したのが、まさにこの地だ。今、二羽の鵝がいる。蒼い方は胡(異民族)の象徴、白い方は国家の象徴だ。全てを言い尽くすことはできまい。」謝鯤と阮孚に向かって言った。「『易』は機を知ることは神の如しと称える。君たちは深く隠れるがよい。」そこで妻と共に荷を担いで蜀に入り、行方知れずとなった。

原文董養,字仲道,陳留浚儀人也。泰始初,到洛下,不幹祿求榮。及楊後廢,養因遊太學,升堂歎曰:「建斯堂也,將何為乎?每覽國家赦書,謀反大逆皆赦,至於殺祖父母、父母不赦者,以為王法所不容也。奈何公卿處議,文飾禮典,以至此乎!天人之理既滅,大亂作矣。」因著《無化論》以非之。永嘉中,洛城東北步廣里中地陷,有二鵝出焉,其蒼者飛去,白者不能飛。養聞歎曰:「昔周時所盟會狄泉,即此地也。今有二鵝,蒼者胡象,白者國家之象,其可盡言乎!顧謂謝鯤、阮孚曰:「《易》稱知機其神乎,君等可深藏矣。」乃與妻荷擔入蜀,莫知所終。

霍原

原文霍原

霍原、字は休明、燕国広陽県の人である。若い頃から志と力量があり、叔父が法に坐して死刑に当たることになった時、原は獄に入ってその罪を争い、激しい拷問を加えられたが、終いに叔父を免罪させた。十八歳の時、太学で礼が行われるのを見学し、そこで留まって習った。貴族の子弟たちはこれを聞いて重んじ、会いたいと思ったが、彼の名声が微かであるため、昼間に訪れることを望まず、夜に共に訪れた。父の友人で同郡の劉岱が彼を推挙しようとしたが、果たさないうちに病が重くなり、臨終に際し、息子の沈に命じて言った。「霍原は道を慕い清虚であり、まさに非凡な器となろうとしている。お前は後で必ず彼を推薦せよ。」後に故郷に帰った。高陽の許猛は平素からその名声に敬服しており、たまたま幽州刺史ししとなった時、彼を訪ねようとした。主簿しゅぼが車の前で諫めて、管轄外に出るべきではないと言ったので、猛は嘆き悔やんで止めた。原は山中に住み積もる年、門徒は数百人に及び、燕王は月ごとに羊と酒を贈った。劉沈が国大中正となると、元康年間、原を二品に進めようとしたが、司徒が認めなかった。沈はそこで上表してその理を説いた。詔が下って司徒に参議させたところ、中書監の張華が陳准に命じて上品とするよう上奏させ、詔はこれを許可した。元康の末、原は王褒らと共に賢良として徴召され、州郡に累次下命され、礼を尽くして発遣されたが、皆赴かなかった。後に王浚が帝を称して僭位を謀り、人を遣わして意見を問うたが、原は答えなかった。浚は心に恨みを抱いた。また、遼東りょうとうの囚徒三百余人が山に依って賊となり、原を主として事を起こそうと意図したが、まだ実行しなかった。当時、謡が流れた。「天子はどこにおわすか?近く豆の田の中に。」浚は豆を霍(霍原)と解釈し、原を捕らえて斬り、その首を晒した。諸生は悲しみ泣き、夜に密かに屍体を盗み出して共に埋葬した。遠近の人々は驚き愕き、冤罪を痛まない者はなかった。

原文霍原,字休明,燕國廣陽人也。少有志力,叔父坐法當死,原入獄訟之,楚毒備加,終免叔父。年十八,觀太學行禮,因留習之。貴游子弟聞而重之,欲與相見,以其名微,不欲晝往,乃夜共造焉。父友同郡劉岱將舉之,未果而病篤,臨終,敕其子沈曰:「霍原慕道清虛,方成奇器,汝後必薦之。」後歸鄉里。高陽許猛素服其名,會為幽州刺史,將詣之,主簿當車諫不可出界,猛歎恨而止。原山居積年,門徒百數,燕王月致羊酒。及劉沈為國大中正,元康中,進原為二品,司徒不過,沈乃上表理之。詔下司徒參論,中書監張華令陳准奏為上品,詔可。元康末,原與王褒等俱以賢良徵,累下州郡,以禮發遣,皆不到。後王浚稱制謀僭,使人問之,原不答,浚心銜之。又有遼東囚徒三百餘人,依山為賊,意欲劫原為主事,亦未行。時有謠曰:「天子在何許?近在豆田中。」浚以豆為霍,收原斬之,懸其首。諸生悲哭,夜竊屍共埋殯之。遠近駭愕,莫不冤痛之。

郭琦

原文郭琦

郭琦、字は公偉、太原郡晉陽県の人である。若い頃から方正で直く、雅量があり、博学で、五行に詳しく、『天文志』、『五行伝』を著し、『穀梁伝』、『京氏易』に注を施して百巻とした。同郷の王遊らは皆、琦に就いて学んだ。武帝は琦を佐著作郎にしようと考え、琦の同族の尚書郭彰に尋ねた。彰は平素から琦を憎んでおり、答えて「知りません」と言った。帝は言った。「もし卿の言う通りなら、烏丸(異民族)の家の子が卿に仕えることができ、郎官に堪えられるということか。」遂に決意して彼を用いた。趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、また琦を用いようとしたが、琦は言った。「私は既に武帝の官吏であった。今世の官吏となることは許されない。」終生、家に処した。

原文郭琦,字公偉,太原晉陽人也。少方直,有雅量,博學,善五行,作《天文志》、《五行傳》,注《穀梁》、《京氏易》百卷。鄉人王遊等皆就琦學。武帝欲以琦為佐著作郎,問琦族人尚書郭彰。彰素疾琦,答云:「不識」。帝曰:「若如卿言,烏丸家兒能事卿,即堪為郎矣。」遂決意用之。及趙王倫篡位,又欲用琦,琦曰:「我已為武帝吏,不容復為今世吏。」終身處於家。

伍朝

原文伍朝

伍朝は、字を世明といい、武陵郡漢壽県の人である。若い頃から高雅な節操を持ち、世俗の雑事に煩わされずに隠居して道を楽しみ、世間の事柄には関わらなかった。生来学問を好み、博士として招聘されたが、応じなかった。刺史の劉弘が伍朝を零陵太守に推薦したが、担当官は選任の規定に合わないとして認めなかった。尚書郎の胡済が上奏して言った。「臣は思いますに、当今は喪乱の余波を受けた時運にあり、歴代の君主が残した弊害を承け継いでいます。出世を急ぐ者は国の変故に乗じて僥倖を求め、道を守る者は才能を胸に秘めて一生を終えるため、篤実な褒賞の教化は損なわれ、退譲の風潮は薄れています。調べてみますと、伍朝は世俗を超越した境地に心を遊ばせ、時務にこだわらず、静かに門を閉ざして守り、道を志して日々向上し、耳順の年を過ぎても志すところは衰えていません。まことに江南の奇才、田園に隠れた高潔な老人です。官位を授けて推挙しなければ、どうして善行を勧めることができましょうか。かつて白衣の身分で郡守となった例は、前漢時代にありました。その栄誉を顕彰することを認め、風俗習慣を奨励すべきです。」上奏は認められたが、伍朝は就任せず、家で亡くなった。

原文伍朝,字世明,武陵漢壽人也。少有雅操,閒居樂道,不修世事。性好學,以博士徵,不就。刺史劉弘薦朝為零陵太守,主者以非選例,不聽。尚書郎胡濟奏曰:「臣以為當今資喪亂之餘運,承百王之遺弊,進趨者乘國故以僥倖,守道者懷蘊櫝以終身,故令敦褒之化虧,退讓之風薄。案朝遊心物外,不屑時務,守靜衡門,志道日新,年過耳順而所尚無虧,誠江南之奇才,丘園之逸老也。不加飾進,何以勸善!且白衣為郡,前漢有舊,宜聽光顯,以獎風尚。」奏可,而朝不就,終於家。

魯褒

原文魯褒

魯褒は、字を元道といい、南陽郡の人である。学問を好み見聞が広く、貧しいながらも清貧を貫いて自立した。元康年間(291-299年)以後、朝廷の綱紀は大きく乱れ、魯褒は当時の貪欲で卑しい風潮を憂い、姓名を隠して『銭神論』を著し、それを風刺した。その概略は次のとおりである。

原文魯褒,字元道,南陽人也。好學多聞,以貧素自立。元康之後,綱紀大壞,褒傷時之貪鄙,乃隱姓名,而著《錢神論》以刺之。其略曰:

銭というものの形体は、天地の象を有している。内側は方形で、外側は円形である。その蓄積は山のようであり、その流通は川のようである。動きと静けさには時があり、使用と貯蔵には節度がある。市場で取引するのに便利で、減耗や損傷を心配する必要がない。折れにくいことは寿命を象徴し、尽きないことは道を象徴する。それゆえ長久であり、世の神宝となる。これを兄のように親しみ、孔方という字を付ける。これを失えば貧弱となり、得れば富貴で栄える。翼がなくても飛び、足がなくても走る。厳しい顔を和らげ、開きにくい口を開かせる。銭が多い者は前に立ち、銭が少ない者は後ろにいる。前に立つ者は君主や長となり、後ろにいる者は臣下や僕となる。君主や長は豊かで余裕があり、臣下や僕は困窮して不足している。『詩経』に言う。「裕福な人は喜ばしいことだ、この孤独な人を哀れむ」。

原文錢之為體,有乾坤之象,內則其方,外則其圓。其積如山,其流如川。動靜有時,行藏有節,市井便易,不患耗折。難折象壽,不匱象道,故能長久,為世神寶。親之如兄,字曰孔方,失之則貧弱,得之則富昌。無翼而飛,無足而走,解嚴毅之顏,開難發之口。錢多者處前,錢少者居後。處前者為君長,在後者為臣僕。君長者豐衍而有餘,臣僕者窮竭而不足。《詩》云:「哿矣富人,哀此煢獨。」

銭という言葉は泉(水源)である。遠くへ行かないところはなく、奥深くへ至らないところはない。都の高官たちは、講義や学習に疲れ、清談に飽きて、それに聞きながら居眠りしていても、我が家の兄(銭)を見れば、皆驚いて目を見張る。銭が加護すれば、吉事ばかりで不利はない。どうして必ず書を読んでからでなければ富貴になれようか。昔、呂公は空名の名刺(金品の添えられていない)を喜び、漢の高祖はわずか二銭多く渡されて信頼を得た。卓文君は布の衣裳を脱いで錦繡をまとうことができ、司馬相如は高い車蓋の車に乗り、牛鼻つなぎの仕事着を脱ぐことができた。官位は尊く名声は顕著となるが、すべて銭によってもたらされたのである。空名の名刺は極めて空虚なものだが、まして実体のあるものはなおさらである。二銭多くというのは少ないが、それによって親密さを招いた。このことから論じれば、これを神物という。徳がなくても尊ばれ、権勢がなくてももてはやされ、金門を押しのけて紫闥(宮中)に入る。危険を安泰にし、死を生にし、貴きを賤しくし、生を殺すことができる。それゆえ、憤り争うことは銭がなければ勝てず、不遇で沈滞している者は銭がなければ抜け出せず、怨み仇は銭がなければ解けず、良い評判は銭がなければ広まらない。

原文錢之為言泉也,無遠不往,無幽不至。京邑衣冠,疲勞講肄,厭聞清談,對之睡寐,見我家兄,莫不驚視。錢之所祐,吉無不利,何必讀書,然後富貴!昔呂公欣悅於空版,漢祖克之於贏二,文君解布裳而被錦繡,相如乘高蓋而解犢鼻,官尊名顯,皆錢所致。空版至虛,而況有實;贏二雖少,以致親密。由此論之,謂為神物。無德而尊,無勢而熱,排金門而入紫闥。危可使安,死可使活,貴可使賤,生可使殺。是故忿爭非錢不勝,幽滯非錢不拔,怨仇非錢不解,令問非錢不發。

洛中の高官、権勢の座にある者たちは、我が家の兄を愛し、皆すでに我がものとしている。私の手を握り、私を抱いて終始離さず、優劣を考えず、年齢を論じず、賓客は車の輻が轂に集まるように集まり、門は常に市のようである。諺に言う。「銭には耳がないが、鬼を使うことができる」。およそ今の人々は、ただ銭だけである。それゆえ、軍に財がなければ兵士は来ず、軍に賞がなければ兵士は行かない。官途に仲介する者がいなければ、田舎に帰るほうがましである。たとえ仲介する者がいても、家の兄がいなければ、翼がないのに飛ぼうとし、足がないのに歩こうとするのと変わらない。

原文洛中硃衣,當途之士,愛我家兄,皆我已已。執我之手,抱我終始,不計優劣,不論年紀,賓客輻輳,門常如市。諺曰:「錢無耳,可使鬼。」凡今之人,惟錢而已。故曰軍無財,士不來;軍無賞,士不往。仕無中人,不如歸田。雖有中人,而無家兄,不異無翼而欲飛,無足而欲行。

当時を憂える者たちがその文章を広く伝えた。魯褒は仕官せず、その最期はわからない。

原文蓋疾時者共傳其文。褒不仕,莫知其所終。

氾騰

原文氾騰

氾騰は、字を無忌といい、敦煌郡の人である。孝廉に推挙され、郎中に任じられた。天下が兵乱に巻き込まれたため、官を辞して家に帰った。太守の張閟が彼を訪ねたが、門を閉ざして会わず、贈り物も一切受け取らなかった。嘆いて言った。「乱世に生まれて、貴い身分でありながら貧しさを貫くことができてこそ、災いを免れることができる。」家財五十万を散財して宗族に施し、柴の門を構え園に水をやり、琴と書物で自ら楽しんだ。張軌が彼を府司馬に招聘したが、氾騰は言った。「一度閉ざした門を、再び開くことができようか!」と固辞した。病気になって二か月余りで亡くなった。

原文氾騰,字無忌,敦煌人也。舉孝廉,除郎中。屬天下兵亂,去官還家。太守張閟造之,閉門不見,禮遺一無所受。歎曰:「生於亂世,貴而能貧,乃可以免。」散家財五十萬,以施宗族,柴門灌園,琴書自適。張軌徵之為府司馬,騰曰:「門一杜,其可開乎!」固辭。病兩月餘而卒。

任旭

原文任旭

任旭は、字を次龍といい、臨海郡章安県の人である。父の任訪は、呉の南海太守であった。任旭は幼くして孤児となり貧弱だったが、子供の頃から学問に勤しんだ。成長すると、清く高潔な操守を立て、世俗の流れに染まらず、郷里の人々は推挙して彼を愛した。郡の将軍である蔣秀はその名声を賞賛し、功曹に請いた。蔣秀は官職にある間に貪欲で汚らわしく、しばしば法を守らず、任旭は厳しい顔色で苦言を諫めた。蔣秀が聞き入れないので、任旭は辞去し、門を閉ざして講習し、志を養うだけだった。しばらくして、蔣秀は事件に連座して捕らえられ、任旭は慌てふためいて見送りの世話をした。蔣秀は慨嘆して言った。「任功曹は真の人物だ。私は彼の正しい言葉に背いたために、このようなことになった。また何を言おうか。」まもなく孝廉に察挙され、郎中に任じられた。州郡は引き続き彼を郡中正に推挙したが、固辞して家に帰った。永康元年(300年)初め、恵帝は清い節操と優れた才能を持つ士を広く求め、太守の仇馥は任旭が清廉で貞潔、質素で、学識が広く通じていると推薦した。詔が下り州郡が礼を尽くして送り出そうとしたが、任旭は朝廷に変事が多いことを理由に、隠遁を志し、病気を理由に辞退して行かなかった。まもなく天下は大乱し、陳敏が叛逆を起こすと、江東の名士や豪族は皆拘束されたが、任旭と賀循だけは死を守って屈しなかった。陳敏はついに彼らを屈服させることができなかった。

原文任旭,字次龍,臨海章安人也。父訪,吳南海太守。旭幼孤弱,兒童時勤於學。及長,立操清修,不染流俗,鄉曲推而愛之。郡將蔣秀嘉其名,請為功曹。秀居官貪穢,每不奉法,旭正色苦諫。秀既不納,旭謝去,閉門講習,養志而已。久之,秀坐事被收,旭狼狽營送,秀慨然歎曰:「任功曹真人也。吾違其讜言,以至於此,復何言哉!」尋察孝廉,除郎中,州郡仍舉為郡中正,固辭歸家。永康初,惠帝博求清節俊異之士,太守仇馥薦旭清貞潔素,學識通博,詔下州郡以禮發遣。旭以朝廷多故,志尚隱遁,辭疾不行。尋天下大亂,陳敏作逆,江東名豪並見羈縶,惟旭與賀循守死不回。敏卒不能屈。

元帝が初めて江東を鎮守した時、その名声を聞き、参軍に召し出した。手紙を任旭に送り、必ず来るようにさせようとしたが、任旭は病気を理由に固辞した。後に元帝が鎮東大將軍に進位すると、再び召し出した。左丞相となった時、祭酒に辟召したが、いずれも就任しなかった。中興が成り(東晋成立)、公車で招聘されたが、丁度母の喪に服すことになった。その時、司空しくうの王導おうどうが学校設立を提言し、天下の経学に明るい士を選んだ。任旭は会稽の虞喜とともに隠遁して学問する者として招聘された。事が実行されないうちに、王敦の乱が起こり、まもなく元帝が崩御したため、事は中止された。明帝が即位すると、再び給事中に任命して招聘したが、任旭は病気が重いと称し、一年経っても到着せず、尚書省は遅滞を理由に除名しようとしたが、僕射ぼくやの荀崧はそれはできないと議した。太寧末年(325年)、明帝は再び詔を下し礼を尽くして任旭を招聘したが、詔が下った直後に明帝が崩御した。咸和2年(327年)に任旭は亡くなった。太守の馮懷が上疏し、九卿に相当する位を追贈すべきだと述べたが、丁度蘇峻の乱が起こり、事は結局行われなかった。

原文元帝初鎮江東,聞其名,召為參軍,手書與旭,欲使必到,旭固辭以疾。後帝進位鎮東大將軍,復召之;及為左丞相,辟為祭酒,並不就。中興建,公車徵,會遭母憂。于時司空王導啟立學校,選天下明經之士,旭與會稽虞喜俱以隱學被召。事未行,會有王敦之難,尋而帝崩,事遂寢。明帝即位,又徵拜給事中,旭稱疾篤,經年不到,尚書以稽留除名,僕射荀崧議以為不可。太寧末,明帝復下詔備禮徵旭,始下而帝崩。咸和二年卒,太守馮懷上疏謂宜贈九列值蘇峻作亂,事竟不行。

子の任琚は、大宗正の官位に至り、家で亡くなった。

原文子琚,位至大宗正,終於家。

郭文

原文郭文

郭文は、字を文挙といい、河内かうち郡軹県の人である。若い頃から山水を愛し、立派な隠遁を尊んだ。三十歳になると、しばしば山林に遊び、十日も経つのを忘れて帰らなかった。父母が亡くなり、喪が明けると、娶らずに家を辞し、名山を遊歴し、華陰の崖を経て、石室の石函を見た。洛陽が陥落すると、歩いて荷を担ぎ、呉興郡余杭県の大辟山の奥深い谷の人のいない地に入った。木に木を寄りかからせ、その上に茅で覆いをして住んだが、壁も障いもなかった。当時猛獣が暴れ、家屋に入って人を害したが、郭文だけは十数年も一人で宿り、ついに災害に遭わなかった。常に鹿の皮衣と葛の頭巾を身に着け、酒を飲まず肉を食べず、区画を設けて豆や麦を栽培し、竹の葉や木の実を採り、塩と交換して自らを養った。人が安い値で買おうとしても、すぐにそれで与えた。後になって人々が郭文と知ると、もう安く買おうとはしなかった。食べるのに余った穀物があれば、すぐに貧困者を救済した。人が贈り物をすると、その粗末なものを取って、拒まないという意思を示すだけだった。猛獣が庵の傍で大きな雌鹿を殺したことがあり、郭文が人に話すと、人が取って売り、銭を分けて郭文に与えた。郭文は言った。「私がもしこれを必要とするなら、自分で売っただろう。話したのは、まさに必要としないからだ。」聞いた者は皆嘆息した。かつて猛獣が突然口を開けて郭文に向かったことがあった。郭文はその口の中に横たわる骨があるのを見て、手を差し入れてそれを取り除いた。すると猛獣は翌朝、一頭の鹿を彼の家の前に届けた。猟師が時折泊まりに来ると、郭文は夜中に水を担いで疲れた様子を見せなかった。余杭県令の顧颺が葛洪と共に彼を訪ね、連れ帰ろうとした。顧颺は郭文が山を歩くのに皮衣が必要かもしれないと思い、韋製の袴褶一具を贈ったが、郭文は受け取らず、辞して山中に帰った。顧颺が追って使者を遣わし、衣服を部屋の中に置いて去らせたが、郭文も何も言わず、韋の衣はついに戸口の中で腐るまでになり、結局用いなかった。

原文郭文,字文舉,河內軹人也。少愛山水,尚嘉遁。年三十,每游山林,彌旬忘反。父母終,服畢,不娶,辭家遊名山,歷華陰之崖,以觀石室之石函。洛陽陷,乃步擔入吳興余杭大辟山中窮谷無人之地,倚木於樹,苫覆其上而居焉,亦無壁障。時猛獸為暴,入屋害人,而文獨宿十餘年,卒無患害。恆著鹿裘葛巾,不飲酒食肉,區種菽麥,采竹葉木實,貿鹽以自供。人或酬下價者,亦即與之。後人識文,不復賤酬。食有餘穀,輒恤窮匱。人有臻遺,取其粗者,示不逆而已。有猛獸殺大麀鹿於庵側,文以語人,人取賣之,分錢與文。文曰:「我若須此,自當賣之。所以相語,正以不須故也。」聞者皆嗟歎之。嘗有猛獸忽張口向文,文視其口中有橫骨,乃以手探去之,猛獸明旦致一鹿於其室前。獵者時往寄宿,文夜為擔水而無倦色。余杭令顧颺與葛洪共造之,而攜與俱歸。颺以文山行或須皮衣,贈以韋袴褶一具,文不納,辭歸山中。颺追遣使者置衣室中而去,文亦無言,韋衣乃至爛於戶內,竟不服用。

王導はその名を聞き、人を遣わして迎えさせたが、郭文は船や車に乗ることを肯まず、荷を担いで徒歩で行った。到着すると、王導は彼を西園に住まわせた。園中には果樹が林を成し、また鳥獣や麋鹿がいたため、郭文はそこに住むことになった。そこで朝廷の士人たちは皆こぞって彼を見物したが、郭文はだらりと踞坐し、傍若無人の様子であった。温嶠がかつて郭文に問うて言った。「人は皆、六親(親族)と共に楽しむものですが、先生はそれを棄てて何を楽しまれるのですか」。郭文は言った。「もともと道を学んで修行していたが、世の乱れに遭い、帰る道がなく、こうして来たのです」。また問うて言った。「飢えれば食を思い、壮年になれば妻室を思うのは自然の性です。先生にはどうしてその情がおありにならないのですか」。郭文は言った。「情は思い(憶)から生じます。思わないから情がないのです」。また問うて言った。「先生が独り窮山に住まわれ、もし病気で命を落とせば、烏や鳥の餌食となります。それは酷いことではないですか」。郭文は言った。「土に埋められた者も蟻の餌食になるのです。何の違いがありましょうか」。また問うて言った。「猛獣は人を害し、人はそれを恐れます。先生だけは恐れないのですか」。郭文は言った。「人に獣を害する心がなければ、獣も人を害しません」。また問うて言った。「もし世が安寧でなければ、身も安らかにはなりません。今、先生を用いて時勢を救おうとするのは、いかがでしょうか」。郭文は言った。「山の草のような者が、どうして世を補佐できましょうか」。王導がかつて多くの客を集め、弦楽器や管楽器を並べて奏でた時、試しに郭文を呼ばせた。郭文は目を見開いて動かさず、華やかな堂を跨いで歩く様は林野を行くが如かった。その時、座っている者たちは皆、深遠な味わいのある言葉を交わしたが、郭文は常に自分には来たる言葉が理解できないと言った。その天与の資質は広大で、その門を窺う者は誰もいなかった。温嶠はかつて称えて言った。「郭文には賢人の性質はあるが、賢人の才はない。柳下恵や梁踦の次といったところか」。永昌年間(322-323年)、大疫が流行し、郭文も病んで危篤状態になった。王導が薬を贈ると、郭文は言った。「命は天にあり、薬にはありません。夭折か長寿か、その長短は時によるのです」。

原文王導聞其名,遣人迎之,文不肯就船車,荷擔徒行。既至,導置之西園,園中果木成林,又有鳥獸麋鹿,因以居文焉。於是朝士咸共觀之,文頹然踑踞,傍若無人。溫嶠嘗問文曰:「人皆有六親相娛,先生棄之何樂?」文曰:「本行學道,不謂遭世亂,欲歸無路,是以來也。」又問曰:「饑而思食,壯而思室,自然之性,先生安獨無情乎?」文曰:「情由憶生,不憶故無情。」又問曰:「先生獨處窮山,若疾病遭命,則為烏鳥所食,顧不酷乎?」文曰:「藏埋者亦為螻蟻所食,復何異乎!」又問曰:「猛獸害人,人之所畏,而先生獨不畏邪?」文曰:「人無害獸之心,則獸亦不害人。」又問曰:「苟世不寧,身不得安。今將用先生以濟時,若何?」文曰:「山草之人,安能佐世!」導嘗眾客共集,絲竹並奏,試使呼之。文瞪眸不轉,跨躡華堂如行林野。于時坐者咸有鉤深味遠之言,文常稱不達來語。天機鏗宏,莫有窺其門者。溫嶠嘗稱曰:「文有賢人之性,而無賢人之才,柳下、梁踦之亞乎!」永昌中,大疫,文病亦殆。王導遺藥,文曰:「命在天,不在藥也。夭壽長短,時也。」

王導の園に七年住んだが、一度も出入りしなかった。ある日突然、山に帰りたいと求めたが、王導は聞き入れなかった。後に逃げ出して臨安に帰り、山中に小屋を建てた。臨安県令の万寵が彼を迎えて県内に住まわせた。蘇峻が反乱を起こし、余杭を破った時、臨安だけは無事であったので、人々は皆これを怪しみ、郭文が機先を知っていたのだと思った。その後は言葉を発さず、ただ手を挙げて指図し、その意を伝えるだけとなった。病が重くなり、山に帰りたいと求め、石を枕にして屍を安置し、人に葬儀や埋葬をさせたくないと言ったが、万寵は聞き入れなかった。二十日余り食べなかったが、やせもしなかった。万寵が問うて言った。「先生はあと何日生きられますか」。郭文は三度手を挙げた。果たして十五日後に亡くなった。万寵は彼が住んでいた場所に葬り、祭って哭した。葛洪と庾闡はともに彼の伝記を書き、その美徳を讃え称えたという。

原文居導園七年,未嘗出入。一旦忽求還山,導不聽。後逃歸臨安,結廬舍於山中。臨安令萬寵迎置縣中。及蘇峻反,破余杭,而臨安獨全,人皆異之,以為知機。自後不復語,但舉手指麾,以宣其意。病甚,求還山,欲枕石安屍,不令人殯葬,寵不聽。不食二十餘日,亦不瘦。寵問曰:「先生復可得幾日?」文三舉手,果以十五日終。寵葬之于所居之處而祭哭之,葛洪、庾闡並為作傳,讚頌其美云。

龔壮

原文龔壯

龔壮、字は子瑋、巴西郡の人である。己を清く保ち自らを守り、同郷の譙秀と並び称された。父の龔叔が李特りとくに殺害され、龔壮は長年喪に服し、力を弱めて復讐できなかった。李寿が漢中を守備し、李期と不和になった時(李期は李特の孫である)、龔壮は李寿を利用して復讐しようと考え、李寿を説得して言った。「閣下がもし西方の地を併せ持ち、晋に藩属として称するなら、人々は必ず喜んで従うでしょう。しかも小を捨てて大に就き、危険を安泰に替えることは、これ以上の策はありません」。李寿はこれを認め、ついに兵を率いて李期を討ち、果たしてこれを打ち破った。李寿はなおも偽りの帝号を襲い、龔壮に官職を与えようとしたが、龔壮は誓って仕えず、贈り物も一切受け取らなかった。ちょうど長雨が続き、百姓が飢え苦しんだ時、龔壮は上書して李寿に帰順を説き、天の心に従い、人の望みに応え、永く国の藩屏となり、福を子孫に流すべきだと述べた。李寿は書状を読んで内心恥じ入ったが、秘して公表しなかった。胡(後趙)に使者を遣わそうとした時、龔壮はまた諫めたが、李寿はまたも聞き入れなかった。龔壮は、百行の根本は忠孝にまさるものはないと考え、李寿を利用して李期を殺し、私怨を晴らした上で、さらに彼を朝廷に帰順させ、臣下の節義を明らかにしようとしたのである。李寿が従わなかったので、龔壮は耳が聞こえないと称し、また手で物を作れないとも言い、一生成都には再び赴かず、ただ経典を研究考証し、文章について思索をめぐらし、李勢りせいの時代に至って死去した。

原文龔壯,字子瑋,巴西人也。潔己自守,與鄉人譙秀齊名。父叔為李特所害,壯積年不除喪,力弱不能復仇。及李壽戍漢中,與李期有嫌,期,特孫也,壯欲假壽以報,乃說壽曰:「節下若能並有西土,稱籓于晉,人必樂從。且舍小就大,以危易安,莫大之策也。」壽然之,遂率眾討期,果克之。壽猶襲偽號,欲官之,壯誓不仕,賂遺一無所取。會天久雨,百姓饑墊,壯上書說壽以歸順,允天心,應人望,永為國籓,福流子孫。壽省書內愧,秘而不宣。乃遣使入胡,壯又諫之,壽又不納。壯謂百行之本莫大忠孝,即假壽殺期,私仇以雪,又欲使其歸朝,以明臣節。壽既不從,壯遂稱聾,又云手不制物,終身不復至成都,惟研考經典,譚思文章,至李勢時卒。

初め、龔壮は常々、中原には経学が盛んなのに、巴蜀は鄙陋であり、加えて李氏の難に遭い、学問を志す者がいなくなったことを嘆き、『邁徳論』を著したが、その文章は多く記録されていない。

原文初,壯每歎中夏多經學,而巴蜀鄙陋,兼遭李氏之難,無復學徒,乃著《邁德論》,文多不載。

孟陋

原文孟陋

孟陋、字は少孤、武昌郡の人である。呉の司空・孟宗の曾孫である。兄の孟嘉は、桓温かんおんの征西長史であった。孟陋は幼少の頃から貞節で立ち、清廉な操行は並ぶ者なく、布衣に粗食で、書物を以て自らを楽しませた。世事には口を出さず、交遊もせず、時には弓矢で鳥を射たり釣りをしたりして、独りで興に任せて出かけ、家族でさえもその行く先を知らなかった。母を亡くし、憔悴してほとんど命を落とすほどで、酒を飲まず肉を食べないこと十余年であった。親族が繰り返し彼に言った。「少孤よ、誰に父母がいないというのか。誰が父母を持っているというのか。聖人が礼を定めたのは、賢い者がそれに従い、愚かな者がそれに及ぼうとするためだ。もし身を滅ぼして後継ぎがいなくなれば、それこそ不孝というものだ」。孟陋はこの言葉に感じ入り、その後、吉服に改めた。これによって名声は海内に知られた。簡文帝が政務を補佐していた時、参軍に任命したが、病気を理由に起き上がらなかった。桓温が自ら彼を訪ねた。ある者が桓温に言った。「孟陋は行いが高潔で、学問は儒者の宗と為すべきです。府に引き入れて、鼎の味を和らげるのに役立てるべきです」。桓温は嘆じて言った。「会稽王(簡文帝)でさえ屈することができないのだ。私がどうこう言えるものではない」。孟陋はこれを聞いて言った。「桓公はただ私が行かないからそう言われるだけです。億兆の民の中で、官職のない者は十中八九です。皆が高士なわけではないでしょう。私は病気で王の命に恭しく応じることができないだけで、高ぶっているわけではありません」。これによって名声はますます重くなった。博学で多くのことに通じ、特に『三礼』に長けていた。『論語』に注釈を施し、それは世に行われた。寿命を全うして死去した。

原文孟陋,字少孤,武昌人也。吳司空宗之曾孫也。兄嘉,桓溫征西長史。陋少而貞立,清操絕倫,布衣蔬食,以文籍自娛。口不及世事,未曾交遊,時或弋釣,孤興獨往,雖家人亦不知其所之也。喪母,毀瘠殆於滅性,不飲酒食肉十有餘年。親族迭謂之曰:「少孤!誰無父母?誰有父母!聖人制禮,令賢者俯就,不肖企及。若使毀性無嗣,更為不孝也。陋感此言,然後從吉。由是名著海內。簡文帝輔政,命為參軍,稱疾不起。桓溫躬往造焉。或謂溫曰:「孟陋高行,學為儒宗,宜引在府,以和鼎味。」溫歎曰:「會稽王尚不能屈,非敢擬議也。」陋聞之曰:「桓公正當以我不往故耳。億兆之人,無官者十居其九,豈皆高士哉!我疾病不堪恭相王之命,非敢為高也。」由是名稱益重。博學多通,長於《三禮》。注《論語》,行於世。卒以壽終。

韓績

原文韓績

韓績、字は興斉、広陵郡の人である。その祖先は乱を避け、呉の嘉興に居住した。父の韓建は、呉に仕えて大鴻臚に至った。韓績は若い頃から文学を好み、隠退を旨とする操行を持ち、布衣に粗食で、当時の権勢者と交わらず、これによって東土の人々は皆、彼を尊敬し慕った。司徒の王導はその名を聞き、掾に辟召したが、就任しなかった。咸康末年(342年頃)、会稽内史の孔愉が上疏して彼を推薦し、詔によって安車と束帛を以て招聘された。尚書令の諸葛恢しょかつかいは、韓績の名声はまだ軽く、礼を尽くすには及ばないと上奏したため、そこで博士として召し出して任命した。年老いて病気であると称して起き上がらず、家で死去した。

原文韓績,字興齊,廣陵人也。其先避亂,居於吳之嘉興。父建,仕吳至大鴻臚。績少好文學,以潛退為操,布衣蔬食,不交當世,由是東土並宗敬焉。司徒王導聞其名,辟以為掾,不就。咸康末,會稽內史孔愉上疏薦之,詔以安車束帛徵之。尚書令諸葛恢奏績名望猶輕,未宜備禮,於是召拜博士。稱老病不起,卒於家。

当時、高密の劉鮞(字は長魚)、城陽の邴郁(字は弘文)はともに高い名声があった。劉鮞は幼い頃から世俗を慕わず、成長して古を希い、学問に篤く行いを励み、その教化は郷里に及んだ。邴郁は、魏の徴士・邴原の曾孫で、幼少時から邴原の風範があり、身を慎み清潔に保ち、口に出まかせを言わず、耳にでまかせを聞かず、端座して恭順に、挙動には礼があった。咸康年間(335-342年)、成帝が異行の士を広く求めた時、劉鮞と邴郁はともに公卿に推薦され、そこで韓績や翟湯らの例に倣い、博士として招聘された。邴郁は病気を理由に辞退し、劉鮞は使者に従って京師に到着したが、自ら年老いていることを述べて拝命しなかった。それぞれ寿命を全うして死去した。

原文于時高密劉鮞字長魚、城陽邴郁字弘文,並有高名。鮞幼不慕俗,長而希古,篤學厲行,化流邦邑。郁,魏徵士原之曾孫,少有原風,敕身謹潔,口不妄說,耳不妄聽,端拱恂恂,舉動有禮。咸康中,成帝博求異行之士,鮞、鬱並被公卿薦舉,於是依績及翟湯等例,以博士徵之。鬱辭以疾,鮞隨使者到京師,自陳年老,不拜。各以壽終。

譙秀

原文譙秀

譙秀、字は元彦、巴西郡の人である。祖父の譙周は儒学で著名となり、蜀の朝廷で顕れた。譙秀は幼少から静かで沈黙し、世間と交わらず、天下が乱れることを知り、あらかじめ人との付き合いを絶ち、内外の宗族親戚であっても会おうとしなかった。郡が孝廉に察挙し、州が秀才に推挙したが、いずれも応じなかった。李雄りゆうが蜀を占拠し、巴西郡を攻略した時、李雄の叔父の李驤、李驤の子の李寿は皆、譙秀の名声を慕い、束帛と安車を整えて招聘したが、いずれも応じなかった。常に皮の冠をかぶり、ぼろの衣服を着て、自ら山野を耕した。龔壮は常々感服して嘆じた。桓温が蜀を滅ぼした時、上疏して譙秀を推薦した。朝廷は譙秀の年齢が高く、かつ道が遠いことを理由に招聘せず、使者を遣わしてその地の役所に四季の慰問を命じた。まもなく范賁と蕭敬が相次いで乱を起こしたため、譙秀は宕渠に避難し、郷里の宗族で彼を頼った者は数百人に及んだ。譙秀は八十歳を超えていたが、人々が代わって荷物を担ごうとすると、譙秀は言った。「それぞれに老幼があるのだから、まず彼らを守り助けるべきだ。私の気力はまだ自分で十分に堪えられる。どうして朽ち果てた年齢で諸君に迷惑をかけられようか」。九十余歳で死去した。

原文譙秀,字元彥,巴西人也。祖周,以儒學著稱,顯明蜀朝。秀少而靜默,不交於世,知天下將亂,預絕人事,雖內外宗親,不與相見。郡察孝廉,州舉秀才,皆不就。及李雄據蜀,略有巴西,雄叔父驤、驤子壽皆慕秀名,具束帛安車徵之,皆不應。常冠皮弁,弊衣,躬耕山藪。龔壯常嘆服焉。桓溫滅蜀,上疏薦之,朝廷以秀年在篤老,兼道遠,故不徵,遣使敕所在四時存問。尋而范賁、蕭敬相繼作亂,秀避難宕渠,鄉里宗族依憑之者以百數。秀年出八十,眾人欲代之負擔,秀曰:「各有老弱,當先營護。吾氣力猶足自堪,豈以垂朽之年累諸君也!」年九十餘卒。

翟湯

原文翟湯

翟湯は、字を道深といい、尋陽の人である。篤実な行いで純粋素朴であり、仁愛と譲り、廉潔で、世俗の事柄を顧みず、耕作してから食し、人から贈り物があっても、たとえ釜や穀物倉一つでも受け取らなかった。永嘉の末、賊の被害が相次いだが、翟湯の名声と徳を聞き、皆が侵犯しようとせず、郷人は彼に頼った。司徒の王導が召し出そうとしたが、応じず、県境の南山に隠棲した。始安太守の干寶は翟湯と親しい間柄であり、船を遣わして食糧を送り、役人に命じて言った。「翟公は廉潔で譲る人だから、あなたが手紙を届け終わったら、すぐに船を置いて帰ってきなさい。」翟湯には返礼を届ける者がいなかったので、代わりに絹織物を売り払い、それによって干寶に送り返した。干寶はもともと恩恵を与えたつもりだったが、かえって煩わせてしまい、ますます恥じ入り感嘆した。咸康年間、征西大将軍の庾亮ゆりょうが上疏して彼を推薦し、成帝が国子博士に召し出したが、翟湯は起ち上がらなかった。建元の初め、安西将軍の庾翼ゆよくが石季龍せききりゅうを北征する際、多くの僮客を徴発して軍役に充てたが、役所に命じて特に翟湯の調役を免除した。翟湯はすべての僕役を郷の役人に委ねたが、役人は詔旨を奉じて一切受け取らず、翟湯は定められた調役の限度に従い、その僕を解放し、編戸の百姓とした。康帝はまた散騎常侍として翟湯を召し出したが、老病を理由に固辞して、赴かなかった。七十三歳で、家で死去した。

原文翟湯,字道深,尋陽人。篤行純素,仁讓廉潔,不屑世事,耕而後食,人有饋贈,雖釜庾一無所受。永嘉末,寇害相繼,聞湯名德,皆不敢犯,鄉人賴之。司徒王導辟,不就,隱于縣界南山。始安太守干寶與湯通家,遣船餉之,敕吏云:「翟公廉讓,卿致書訖,便委船還。」湯無人反致,乃貨易絹物,因寄還寶。寶本以為惠,而更煩之,益愧歎焉。咸康中,征西大將軍庾亮上疏薦之,成帝徵為國子博士,湯不起。建元初,安西將軍庾翼北征石季龍,大發僮客以充戎役,敕有司特蠲湯所調。湯悉推僕使委之鄉吏,吏奉旨一無所受,湯依所調限,放免其僕,使令編戶為百姓。康帝復以散騎常侍徵湯,固辭老疾,不至。年七十三,卒於家。

子の翟莊は、字を祖休といった。若い頃から孝行と友愛で著名であり、翟湯の操行を守り、人々と交わらず、耕作してから食し、話は世俗に及ばず、ただ弓矢と釣りを事とした。成長すると、もはや狩りをしなくなった。ある人が尋ねた。「漁と狩りはともに生き物を害することですが、先生はその一つだけをやめられました。どうしてですか。」翟莊は言った。「狩りは自分から仕掛けるが、釣りは物が自らかかる。一挙にすべてをやめることはできないので、まずその甚だしいものを節制するのだ。しかも、餌に貪って鉤を飲み込むのは、私のせいだろうか。」当時の人はこれを名言と思った。晩年には釣りもしなくなり、粗末な門の中で端座し、豆をすすり水を飲んだ。州府の礼遇による任命や、公車による徴召にも、いずれも応じなかった。五十六歳で死去した。子の翟矯もまた高い操行を持ち、たびたび召命を辞退した。翟矯の子の翟法賜は、孝武帝が散騎郎として召し出したが、これも赴かなかった。代々に隠者の行いがあったという。

原文子莊,字祖休。少以孝友著名,遵湯之操,不交人物,耕而後食,語不及俗,惟以弋釣為事。及長,不復獵。或問:「漁獵同是害生之事,而先生止去其一,何哉?」莊曰:「獵自我,釣自物,未能頓盡,故先節其甚者。且夫貪餌吞鉤,豈我哉!」時人以為知言。晚節亦不復釣,端居篳門,歠菽飲水。州府禮命,及公車徵,並不就。年五十六,卒。子矯,亦有高操,屢辭辟命。矯子法賜,孝武帝以散騎郎徵,亦不至。世有隱行云。

郭翻

原文郭翻

郭翻は、字を長翔といい、武昌の人である。伯父の郭訥は広州刺史、父の郭察は安城太守であった。郭翻は若い頃から志操を持ち、州郡からの召し出しや賢良の推挙を辞退した。臨川に住み、世俗の事柄に関わらず、ただ漁労・釣り・狩猟を楽しみとした。貧しくて生業がなく、荒れた田を開墾しようとしたが、まず標識を立て、一年経っても所有者が現れないのを待って、それから耕作した。稲が熟しかけた時、それを自分のものだと主張する者が現れたので、すべて譲り与えた。県令がこれを聞いて問いただし、稲を郭翻に返したが、郭翻はついに受け取らなかった。かつて車で狩りに出かけ、家から百余里離れたところで、道中で病人に出会い、車で送り届け、徒歩で帰った。漁や狩りで得たものは、買おうとする者がいれば、与えて代金を取らず、また姓名も告げなかった。このため、士人も庶民も皆、彼を敬い貴んだ。翟湯とともに庾亮に推薦され、公車博士として召し出されたが、応じなかった。咸康の末、小船に乗って一時的に武昌に帰り墓参りした時、安西将軍の庾翼が皇帝の舅という重い身分で、自ら郭翻を訪ね、無理に起用しようとした。郭翻は言った。「人の性質にはそれぞれ短所があります。どうして強制できましょうか。」庾翼はまた彼の船が小さく狭いのを見て、大船に乗り移らせようとした。郭翻は言った。「使君が私の卑賤を厭わず辱くもお越しくださったのは、これこそが野人の舟だからです。」庾翼は身をかがめて彼の船に入り、一日中過ごして去った。かつて刀を水中に落としたことがあり、通りかかった人が拾ってくれたので、それを与えた。その人は受け取らず、固辞したので、郭翻は言った。「あなたがさっき拾わなければ、私が得られるはずがありません。」その人は言った。「私がこれを受け取れば、天地鬼神から責められるでしょう。」郭翻は彼が結局受け取らないと知り、再び刀を水中に沈めた。その人は残念がり、再び沈んで取り上げた。郭翻はそこで彼の意に逆らわず、刀の価格の十倍を与えた。彼の廉潔で恩恵を受けない様子は、皆このようなものであった。家で死去した。

原文郭翻,字長翔,武昌人也。伯父訥,廣州刺史。父察,安城太守。翻少有志操,辭州郡辟及賢良之舉。家於臨川,不交世事,惟以漁釣射獵為娛。居貧無業,欲墾荒田,先立表題,經年無主,然後乃作。稻將熟,有認之者,悉推與之。縣令聞而詰之,以稻還翻,翻遂不受。嘗以車獵,去家百餘里,道中逢病人,以車送之,徒步而歸。其漁獵所得,或從買者,便與之而不取直,亦不告姓名。由是士庶咸敬貴焉。與翟湯俱為庾亮所薦,公車博士徵,不就。咸康末,乘小船暫歸武昌省墳墓,安西將軍庾翼以帝舅之重,躬往造翻,欲強起之。翻曰:「人性各有所短,焉可強逼!」翼又以其船小狹,欲引就大船。翻曰:「使君不以鄙賤而辱臨之,此固野人之舟也。」翼俯屈入其船中,終日而去。嘗墜刀于水,路人有為取者,因與之。路人不取,固辭,翻曰:「爾向不取,我豈能得!」路人曰:「我若取此,將為天地鬼神所責矣。」翻知其終不受,復沈刀于水。路人悵焉,乃復沈沒取之。翻於是不逆其意,乃以十倍刀價與之。其廉不受惠,皆此類也。卒於家。

辛謐

原文辛謐

辛謐は、字を叔重といい、隴西狄道の人である。父の辛怡は幽州刺史で、代々名門と称された。辛謐は若い頃から志を持ち、博学で文章をよくし、草書・隷書に巧みで、当時の模範とされた。性格は穏やかで静かであり、むやみに交遊しなかった。太子舎人・諸王文学に任命され召し出されたが、たびたびの徴召にも起ち上がらなかった。永嘉の末、辛謐を散騎常侍を兼ねさせ、関中を慰撫させようとした。辛謐は洛陽が敗れると見たので、それに応じた。長安ちょうあんが劉聰に陥落すると、劉聰が太中大夫に任命したが、固辞して受けなかった。さらに石勒せきろく・石季龍の時代を経ても、いずれも召命に応じなかった。喪乱の世にあっても、超然として高邁であり、栄利を蔑ろにした。冉閔ぜんびんが帝号を僭称すると、再び礼を尽くして太常に徴召した。辛謐は冉閔に手紙を送って言った。「昔、許由は堯の譲位を辞し、天下を譲られたが、その清高の節を全うした。伯夷は国を去り、介子推は賞賜を逃れた。皆、史書に顕著に記され、永遠に伝えられる。これらは去って戻らない者たちである。しかし、賢人君子はたとえ廟堂の上にあっても、山林の中にあるのと異ならない。これは道理を窮め本性を尽くす妙諦であり、どうして理解する者がいようか。それゆえ、禍難にかかわらないのは、避けるためではなく、ただ心を冥かにして至高の趣きに至り、吉と会うだけである。辛謐は聞く、物事は極まれば変わる、冬と夏がそうである。高みに至れば危うい、積み重ねた碁石がそうである。君王の功績はすでに成し遂げられました。それを長く居座るのは、万全を顧み危亡の禍を遠ざける道ではありません。この大勝利に乗じて、身を本朝(東晋)に帰すべきです。必ずや許由・伯夷の廉潔を得て、赤松子・王子喬のような長寿を享け、永く世の輔けとなるでしょう。これほど美しいことはありません。」そして食事を取らずに死去した。

原文辛謐,字叔重,隴西狄道人也。父怡,幽州刺史,世稱冠族。謐少有志尚,博學善屬文,工草隸書,為時楷法。性恬靜,不妄交遊。召拜太子舍人、諸王文學,累徵不起。永嘉末,以謐兼散騎常侍,慰撫關中。謐以洛陽將敗,故應之。及長安陷沒于劉聰,聰拜太中大夫,固辭不受。又曆石勒、季龍之世,並不應辟命。雖處喪亂之中,頹然高邁,視榮利蔑如也。及冉閔僭號,復備禮徵為太常,謐遺閔書曰:「昔許由辭堯,以天下讓之,全其清高之節。伯夷去國,子推逃賞,皆顯史牒,傳之無窮。此往而不反者也。然賢人君子雖居廟堂之上,無異于山林之中,斯窮理盡性之妙,豈有識之者邪!是故不嬰於禍難者,非為避之,但冥心至趣而與吉會耳。謐聞物極則變,冬夏是也;致高則危,累棋是也。君王功以成矣,而久處之,非所以顧萬全遠危亡之禍也。宜因茲大捷,歸身本朝,必有許由、伯夷之廉,享松喬之壽,永為世輔,豈不美哉!」因不食而卒。

劉驎之

原文劉驎之

劉驎之は、字を子驥といい、南陽の人で、光禄大夫の劉耽の一族である。劉驎之は若い頃から質素を尊び、虚退して寡欲であり、儀礼や操行を飾らず、人々は彼を知らなかった。山水を遊覧することを好み、隠遁することに志を置いた。かつて薬草を採りに衡山に行き、深く入り込んで帰るのを忘れ、ある渓谷の水を見た。水の南に二つの石の倉(囷)があり、一つは閉じ、一つは開いていたが、水が深く広くて渡れなかった。帰ろうとして道に迷い、弓を作る人に出会い、道を尋ねて、かろうじて家に帰り着いた。ある説では、倉の中には皆、仙人の霊薬や様々な雑物があったという。劉驎之はもう一度探し求めようとしたが、ついに再びその場所を知ることはできなかった。車騎将軍の桓沖がその名を聞き、長史に請じたが、劉驎之は固辞して受けなかった。桓沖がかつて彼の家を訪れた時、劉驎之は木の枝で桑を取っていた。使者が用件を伝えると、劉驎之は言った。「使君がわざわざお越しくださったのであれば、まず家父にお会いになるべきです。」桓沖はこれを聞いて大いに恥じ入り、そこで彼の父を訪ねた。父が劉驎之に命じて、ようやく戻ってきて、粗末な短衣をはらって桓沖と話した。父は劉驎之に内から濁酒と野菜を持ってきて客に供させるよう命じた。桓沖が人に命じて劉驎之に代わって酌をさせようとすると、父は辞して言った。「もし従者にさせれば、野人の本意ではありません。」桓沖は感慨にふけり、日が暮れてからようやく引き上げた。劉驎之は名門の出身であったが、信義と礼儀は庶民の間にも知れ渡り、下働きの家の婚礼や葬送にも、必ず自ら赴いた。陽岐に住み、官道の傍らにあったため、人々が往来する時は、皆彼を頼った。劉驎之は自ら供給し、士君子たちはかえって気を遣い、ますます訪れるのを憚った。人から贈り物があっても、一切受け取らなかった。劉驎之の家から百余里離れたところに、一人の老いた寡婦がおり、病気で死にそうになり、嘆息して人に言った。「誰が私を埋めてくれるだろう。ただ劉長史だけだ。どうやって知らせればよいのか。」劉驎之は以前から彼女が患っていると聞いていたので、わざわざ見舞いに行き、ちょうど彼女が息を引き取るところに遭遇し、自ら棺を整え葬送した。その仁愛と隠れた哀れみはこのようなものであった。ついに天寿を全うして死去した。

原文劉驎之,字子驥,南陽人,光祿大夫耽之族也。驎之少尚質素,虛退寡欲,不修儀操,人莫之知。好遊山澤,志存遁逸。嘗采藥至衡山,深入忘反,見有一澗水,水南有二石囷,一囷閉,一囷開,水深廣不得過。欲還,失道,遇伐弓人,問徑,僅得還家。或說囷中皆仙靈方藥諸雜物,驎之欲更尋索,終不復知處也。車騎將軍桓沖聞其名,請為長史,驎之固辭不受。沖嘗到其家,驎之于樹條桑,使者致命,驎之曰:「使君既枉駕光臨,宜先詣家君。」沖聞大愧,於是乃造其父。父命驎之,然後方還,拂短褐與沖言話。父使驎之於內自持濁酒蔬菜供賓,沖敕人代驎之斟酌,父辭曰:「若使從者,非野人之意也。」沖慨然,至昏乃退。驎之雖冠冕之族,信儀著於群小,凡廝伍之家婚娶葬送,無不躬自造焉。居於陽岐,在官道之側,人物來往,莫不投之。驎之躬自供給,士君子頗以勞累,更憚過焉。凡人致贈,一無所受。去驎之家百餘里,有一孤姥,病將死,歎息謂人曰:「誰當埋我,惟有劉長史耳!何由令知。」驎之先聞其有患,故往侯之,值其命終,乃身為營棺殯送之。其仁愛隱惻若此。卒以壽終。

索襲

原文索襲

索襲は、字を偉祖といい、敦煌の人である。虚静で学問を好み、州郡の任命に応じず、孝廉や賢良方正に推挙されたが、いずれも病気を理由に辞退した。陰陽の術に思索を巡らし、天文地理について十余篇を著し、多く啓発するところがあった。当世の人々と交際せず、時に独り言を言い、独り笑い、あるいは長嘆して涙を流し、あるいは質問されても答えなかった。張茂の時代、敦煌太守の陰澹は彼を奇異に思い訪ねて行き、一日中いて帰るのを忘れ、出てきて嘆いて言った。「索先生は大徳の名儒であり、真に大義を諮問することができる。」陰澹は郷射の礼を行おうとし、索襲を三老に請おうとして言った。「今、四方は平和に治まり、郷射の礼を行おうとしている。先生は高齢で声望が高く、道は一時を冠たるものがあり、老人を敬養する意義は、実に儒者の賢者にかかっている。すでに梧桐でない木を植えて、鸞鳳が翼を降ろすことを望み、器量が曹公に及ばないのに、蓋公がわざわざ車を寄せることを期待するのは、誠に言うべきではない。しかし孔子のような至聖でも、召されれば赴いた。孟軻のような大徳でも、招聘されなければ行かなかったのは、大いなる道を弘め闡明し、道の教化を明らかにしようとしたからである。今、あなたを招聘するのは、道を遵奉し教えを尊ぶためであり、爵位があるわけではない。もしかしたら、よろしいのではないだろうか。」ちょうど病気で死去した。享年七十九歳。陰澹は喪服を着て葬儀に参列し、二万銭を贈った。陰澹は言った。「世の人が余分に持っているものは富貴である。目が好むものは五色である。耳が楽しむものは五音である。しかし先生は、多くの人が受け取るものを捨て、多くの人が捨てるものを受け取った。恍惚たる境涯において無味を味わい、衆妙の内に重玄を兼ね備えた。住居は一畝にも満たないのに志は九州を軽んじ、形は塵俗に住みながら心は天外に棲んでいる。黔婁の高遠さや、荘生の願わないことでも、これを超えるものはない。」そこで玄居先生と諡した。

原文索襲,字偉祖,敦煌人也。虛靖好學,不應州郡之命,舉孝廉、賢良方正,皆以疾辭。游思於陰陽之術,著天文地理十餘篇,多所啟發。不與當世交通,或獨語獨笑,或長歎涕泣,或請問不言。張茂時,敦煌太守陰澹奇而造焉,經日忘反,出而歎曰:「索先生碩德名儒,真可以諮大義。」澹欲行鄉射之禮,請襲為三老,曰:「今四表輯寧,將行鄉射之禮,先生年耆望重,道冠一時,養老之義,實系儒賢。既樹非梧桐,而希鸞鳳降翼;器謝曹公,而冀蓋公枉駕,誠非所謂也。然夫子至聖,有召赴焉;孟軻大德,無聘不至,蓋欲弘闡大猷,敷明道化故也。今之相屈,遵道崇教,非有爵位,意者或可然乎!」會病卒,時年七十九。澹素服會葬,贈賤二萬。澹曰:「世人之所有餘者,富貴也;目之所好者,五色也;耳之所玩者,五音也。而先生棄眾人之所收,收眾人之所棄,味無味於慌惚之際,兼重玄於眾妙之內。宅不彌畝而志忽九州,形居塵俗而棲心天外,雖黔婁之高遠,莊生之不願,蔑以過也。」乃諡曰玄居先生。

楊軻

原文楊軻

楊軻は、天水の人である。若い頃から『易経』を好み、成人しても娶らず、学業は精微で、数百人の弟子を養い、常に粗食を食べ水を飲み、粗末な布の袍を着ていた。人はその憂いを耐えられなかったが、楊軻は悠然として自得し、疎遠な賓客や異なる客とは、音信や趣旨を交わすことがなかった。学業を受ける門徒であっても、入室弟子でなければ、親しく言葉を交わすことはできなかった。論じ授けようとするときは、傍らに雑人がいないことを必要とし、入室弟子に授けて、互いに伝えさせた。劉曜りゅうようが帝号を僭称したとき、太常に任命して招聘したが、楊軻は固辞して起き上がらず、劉曜も敬って強要せず、ついに隴山に隠棲した。劉曜が後に石勒に捕らえられた後、秦の民は東に移住したが、楊軻は長安に留まった。石季龍が偽位を継ぐと、玄纁と束帛を備え、安車で招聘した。楊軻は病気を理由に辞退した。迫られて、ようやく出発した。石季龍に会っても拝礼せず、話しかけられても言葉を発せず、命じて永昌の乙第に住まわせた。担当官は楊軻が傲慢であるとして、大不敬の罪に問うよう請うたが、石季龍は従わず、詔書を下して楊軻の好むままに任せた。楊軻が永昌にいる間、石季龍が贈り物をするたびに、口述で弟子に命じて謝恩の上表文を作らせたが、その文章は非常に優れており、閲覧する者は深い趣きがあると嘆賞した。石季龍は彼の真の趣向を見ようと、密かに美女を夜に遣わして動かそうとしたが、楊軻は蕭然として顧みなかった。また、彼の弟子をすべて連れ出させ、たくましい羯の兵士に鎧を着せ刀を持たせ、武器を向けて脅し、さらに賜った衣服を盗んで去らせたが、楊軻はそれを見ても信じず、少しも恐れる色を見せなかった。常に土の床に臥し、布の被り物で覆い、その中で裸で寝て、下に敷き布団もなかった。潁川の荀鋪は、好奇の士であり、訪れて経典について談じたが、楊軻は目を閉じて答えなかった。荀鋪が楊軻の布団をはがしてその体を露わにすると、大笑いした。楊軻の精神と体は衰えた様子で、驚き怒る様子はなかった。当時、皆が焦先の徒とみなしたが、その深浅を量れる者はいなかった。後に上疏して故郷を懐かしみ帰還を求め、石季龍は安車に蒲輪をつけて送り、十戸を免除して彼を供給させた。秦州に帰ってからも、教授を絶やさなかった。その後、秦の民が西の涼州に奔ると、楊軻の弟子が牛に乗せて運んだが、戍守の軍に追い詰められ捕らえられ、ともに害された。

原文楊軻,天水人也。少好《易》,長而不娶,學業精微,養徒數百,常食粗飲水,衣褐縕袍,人不堪其憂,而軻悠然自得,疏賓異客,音旨未曾交也。雖受業門徒,非入室弟子,莫得親言。欲所論授,須旁無雜人,授入室弟子,令遞相宣授。劉曜僭號,徵拜太常,軻固辭不起,曜亦敬而不逼,遂隱於隴山。曜後為石勒所擒,秦人東徙,軻留長安。及石季龍嗣偽位。備玄纁束帛安車徵之,軻以疾辭。迫之,乃發。既見季龍,不拜,與語,不言,命舍之於永昌乙第。其有司以軻倨傲,請從大不敬論,季龍不從,下書任軻所尚。軻在永昌,季龍每有饋餼,輒口授弟子,使為表謝,其文甚美,覽者歎有深致。季龍欲觀其真趣,乃密令美女夜以動之,軻蕭然不顧。又使人將其弟子盡行,遣魁壯羯士衣甲持刀,臨之以兵,並竊其所賜衣服而去,軻視而不信,了無懼色。常臥土床,覆以布被,倮寢其中,下無茵褥。潁川荀鋪,好奇之士也,造而談經,軻瞑目不答。鋪發軻被露其形,大笑之。軻神體頹然,無驚怒之狀。于時咸以為焦先之徒,未有能量其深淺也。後上疏陳鄉思,求還,季龍送以安車蒲輪,蠲十戶供之。自歸秦州,仍教授不絕。其後秦人西奔涼州,軻弟子以牛負之,為戍軍追擒,並為所害。

公孫鳳

原文公孫鳳

公孫鳳は、字を子鸞といい、上谷の人である。昌黎の九城山谷に隠れ、冬は単衣の布を着て、土の床に寝起きし、夏は食物を器に一緒に入れ、腐敗するまで置いてから食べた。琴を弾き詩を吟詠して、陶然として自得し、人々は皆これを異とし、測り知ることができなかった。慕容暐が安車で鄴に招聘した。慕容暐に会うと、言葉も発せず拝礼もせず、衣服や食事、挙動は九城にいた時と同じであった。賓客が訪ねてきても、ほとんど言葉を交わすことはなかった。数年後に病気で死去した。

原文公孫鳳,字子鸞,上谷人也。隱于昌黎之九城山谷,冬衣單布,寢處土床,夏則幷食於器,停令臭敗,然後食之。彈琴吟詠,陶然自得,人咸異之,莫能測也。慕容暐以安車徵至鄴,及見暐,不言不拜,衣食舉動如在九城。賓客造請,鮮得與言。數年病卒。

公孫永

原文公孫永

公孫永は、字を子陽といい、襄平の人である。若い頃から学問を好み恬虚で、平郭の南山に隠れ、妻妾を娶らず、自分で開墾栽培したものでなければ衣食せず、岩の間で詩を吟詠し、欣然として自得し、九十余歳になっても操り尚ぶところを損なわなかった。公孫鳳とともに慕容暐に招聘されて鄴に至った。慕容暐に会うと拝礼せず、王公以下が訪ねてきても、皆と言葉を交わさず、厳冬や酷暑の時でも、端然として自若としていた。一年余り後、狂気を装い、慕容暐は彼を平郭に送り返した。後に苻堅ふけんもまた礼を備えて招聘しようとしたが、その高齢と道のりの遠さを難しく思い、使者を遣わして慰問した。到着する前に公孫永は亡くなり、苻堅は深く悼み、崇虚先生と諡した。

原文公孫永,字子陽,襄平人也。少而好學恬虛,隱于平郭南山,不娶妻妾,非身所墾植,則不衣食之,吟詠岩間,欣然自得,年餘九十,操尚不虧。與公孫鳳俱被容暐徵至鄴,及見暐,不拜,王公以下造之,皆不與言,雖經隆冬盛暑,端然自若。一歲餘,詐狂,暐送之平郭。後苻堅又將備禮徵之,難其年耆路遠,乃遣使者致問。未至而永亡,堅深悼之,諡曰崇虛先生。

張忠

原文張忠

張忠は、字を巨和といい、中山の人である。永嘉の乱の時、泰山に隠れた。恬静で寡欲、清虚で服気し、霊芝を食べ石薬を服し、導引養生の法を修めた。冬は綿入れの袍、夏は縄の帯で、端座して屍のようであった。琴や書物による楽しみはなく、経典を修めず、教えを勧めるには至道の虚無を宗旨とした。その住居は高い岩の幽谷に依り、地を穿って窟室を作った。弟子もまた窟に住み、張忠から六十歩ほど離れ、五日に一度朝拝した。その教えは形によって行い言葉によらず、弟子が授業を受けるには、形を見て退いた。窟の上に道壇を立て、毎朝拝礼した。食器は瓦器を用い、石を穿って釜とした。近隣の住民が衣食を贈っても、一切受け取らなかった。好事の若者がしばしば水害や旱魃の兆しについて尋ねると、張忠は言った。「天は語らないが四季は運行し、万物は生ずる。陰陽の事は、山野の貧しい老人が知りうることではない。」彼が外物を退けるのは、皆この類いであった。百歳に近い年齢でも、視聴は衰えなかった。苻堅が使者を遣わして招聘した。使者が到着すると、張忠は沐浴して起き上がり、弟子に言った。「私の残りの年はわずかであり、時の君主の意に逆らうことはできない。」沐浴を終えて車に乗った。長安に到着すると、苻堅は冠と衣服を賜ったが、辞退して言った。「年老いて髪は抜け落ち、衣冠を着けるに堪えません。野服で拝謁することをお許しください。」従った。会見すると、苻堅は彼に言った。「先生は山林に隠棲し、道の本質を研鑽し、独り善がりの美徳は余りあるが、天下を兼ねて救う功績はまだない。そこで遠く先生を招聘し、斉の尚父の任に当たらせようと思う。」張忠は言った。「昔、喪乱に遭い、泰山に避難し、鳥獣を伴侶として、朝夕の命を全うしていました。堯舜の世に属し、一度聖顔を拝したいと願っていました。年老いて志は衰え、力を尽くすに堪えません。尚父の比喩は、敢えて窃かに擬するものではありません。山に棲む性分は、情は岩岫に存します。残りの命を乞い、岱宗に帰って死にたいと思います。」苻堅は安車で彼を送り返した。華山に到着すると、嘆いて言った。「私は東嶽の道士であり、西嶽で死ぬとは、運命である、どうしようもない。」五十里進み、関所に着くと死んだ。使者が駅伝で急報すると、苻堅は黄門郎の韋華を遣わし、節を持たせて策文で弔問し、太牢で祭祀し、命服を褒賞として賜り、安道先生と諡した。

原文張忠,字巨和,中山人也。永嘉之亂,隱于泰山。恬靜寡欲,清虛服氣,餐芝餌石,修導養之法。冬則縕袍,夏則帶索,端拱若尸。無琴書之適,不修經典,勸教但以至道虛無為宗。其居依崇岩幽谷,鑿地為窟室。弟子亦以窟居,去忠六十餘步,五日一朝。其教以形不以言,弟子受業,觀形而退。立道壇於窟上,每旦朝拜之。食用瓦器,鑿石為釜。左右居人饋之衣食,一無所受。好事少年頗或問以水旱之祥,忠曰:「天不言而四時行焉,萬物生焉,陰陽之事非窮山野叟所能知之。」其遣諸外物,皆此類也。年在期頤,而視聽無爽。苻堅遣使徵之。使者至,忠沐浴而起,謂弟子曰:「吾餘年無幾,不可以逆時主之意。」浴訖就車。及至長安,堅賜以冠衣,辭曰:「年朽髮落,不堪衣冠,請以野服入覲。」從之。及見,堅謂之曰:「先生考磐山林,研精道素,獨善之美有餘,兼濟之功未也。故遠屈先生,將任齊尚父。」忠曰:「昔因喪亂,避地泰山,與鳥獸為侶,以全朝夕之命。屬堯舜之世,思一奉聖顏。年衰志謝,不堪展效,尚父之況,非敢竊擬。山棲之性,情存岩岫,乞還餘齒,歸死岱宗。堅以安車送之。行達華山。歎曰:「我東嶽道士,沒于西嶽,命也,奈何!行五十里,及關而死。使者馳驛白之,堅遣黃門郎韋華持節策吊,祀以太牢,褒賜命服,諡曰安道先生。

石垣

原文石垣

石垣は、字を洪孫といい、自ら北海郡劇県の人と称した。住む所は定まらず、妻妾を娶らず、産業を営まず、食事は美味を求めず、衣服は必ず粗末なものを着た。もし衣服を贈る者がいれば、受け取って人に施した。人が葬儀があれば、杖をついて弔問した。道のりは遠近を問わず、時には寒暑があっても、必ずその場にいた。あるいは同じ日同じ時に、皆が彼を見かけた。また暗闇で物を取ることができ、昼間と変わらなかった。姚萇の乱の時、行方知れずとなった。

原文石垣,字洪孫,自云北海劇人。居無定所,不娶妻妾,不營產業,食不求美,衣必粗弊。或有遺其衣服,受而施人。人有喪葬,輒杖策吊之。路無遠近,時有寒暑,必在其中;或同日共時,咸皆見焉。又能暗中取物,如晝無差。姚萇之亂,莫知所終。

宋纖

原文宋纖

宋纖は、字を令艾といい、敦煌郡の効穀県の人である。若い頃から遠大な志操を持ち、沈着で静かであり、世俗との交わりを好まず、酒泉郡の南山に隠居した。経書と緯書を明らかに究め、弟子として学業を受ける者は三千余人に及んだ。州や郡からの招聘には応じず、ただ陰顒と斉好だけと親しく交わった。張祚の時代、太守の楊宣は彼の肖像を楼閣の上に描き、出入りの際にそれを見て、頌を作って言った。「枕とするは何の石か?瀬とするは何の流れか?その身は見ることができず、その名は求めることができない。」酒泉太守の馬岌は、高尚な士であり、威儀を整え、鐃鼓を鳴らして、彼を訪ねた。宋纖は高い楼閣の上にいて、面会を拒んで会おうとしなかった。馬岌は嘆いて言った。「名声は聞くことができるが、その身は見ることができない。徳は仰ぎ見ることができるが、その姿は見ることができない。私は今こそ、先生が人の中の龍であることを知った。」そして石壁に詩を刻んで言った。「丹崖は百丈、青壁は万尋。奇木は蓊鬱として、茂りは鄧林のようだ。その人は玉の如く、国の宝である。住まいは近いが人は遠く、実に我が心を悩ます。」

原文宋纖,字令艾,敦煌效穀人也。少有遠操,沈靖不與世交,隱居于酒泉南山。明究經緯,弟子受業三千餘人。不應州郡辟命,惟與陰顒、齊好友善。張祚時,太守楊宣畫其象於閣上;出入視之,作頌曰:「為枕何石?為瀨何流?身不可見,名不可求。」酒泉太守馬岌,高尚之士也,具威儀,鳴鐃鼓,造焉。纖高樓重閣,距而不見。岌歎曰:「名可聞而身不可見,德可仰而形不可睹,吾而今而後知先生人中之龍也。」銘詩於石壁曰:「丹崖百丈,青壁萬尋。奇木蓊鬱,蔚若鄧林。其人如玉,維國之琛。室邇人遐,實勞我心。」

宋纖は『論語』に注釈を施し、また詩頌を数万字にわたって作った。八十歳になっても、学問に励み倦むことがなかった。張祚は後に使者の張興を遣わし、礼を整えて太子友に招聘した。張興は非常に切迫した調子で説得したので、宋纖は慨然として嘆いて言った。「徳は莊生(荘子)には及ばず、才は干木(段干木)には及ばない。どうして明らかな命令を遅らせることができようか!」そして張興に従って姑臧こぞうへ行った。張祚はその太子の太和に、友人の礼をもって彼を訪ねさせたが、宋纖は病気と称して会わず、贈り物も一切受け取らなかった。まもなく太子太傅に転任させられた。しばらくして、上疏して言った。「臣は世俗の外に生を受け、太古の世を心に慕っております。生きることを喜ばず、死ぬことを悲しみません。平素から遺言があり、知人たちに託しておりました。山にあれば山に投じ、水辺にあれば水に投じ、沢にあれば姿を露わにし、人の世にあれば土に親しむ。消息や手紙は、私の家に知らせないでください。今、命が終わろうとしております。どうか平素の願いの通りにしてください。」そして食事を取らずに亡くなった。時に八十二歳。諡して玄虚先生といった。

原文纖注《論語》,及為詩頌數萬言。年八十,篤學不倦。張祚後遣使者張興備禮徵為太子友,興逼喻甚切,纖喟然歎曰:「德非莊生,才非干木,何取稽停明命!」遂隨興至姑臧。祚遣其太子太和以執友禮造之,纖稱疾不見,贈遺一皆不受。尋遷太子太傅。頃之,上疏曰:「臣受生方外,心慕太古。生不喜存,死不悲沒。素有遺屬,屬諸知識,在山投山,臨水投水,處澤露形,在人親土。聲聞書疏,勿告我家。今當命終,乞如素願。」遂不食而卒,時年八十二,諡曰玄虛先生。

郭荷

原文郭荷

郭荷は、字を承休といい、略陽郡の人である。六世の祖の郭整は、漢の安帝・順帝の時代、公府から八度招聘され、公車から五度徴召されたが、いずれも就任しなかった。郭整から郭荷に至るまで、代々経学によって官位を得た。郭荷は多くの典籍を明らかに究め、特に史書に詳しかった。州や郡からの招聘には応じなかった。張祚は使者を遣わし、安車と束帛を備えて博士祭酒に招聘した。使者が強いて連れて行った。到着すると、太子友に任命した。郭荷は上疏して帰還を乞うたので、張祚はそれを許し、安車と蒲輪で張掖郡の東山まで送り届けさせた。八十四歳で亡くなり、諡して玄徳先生といった。

原文郭荷,字承休,略陽人也。六世祖整,漢安順之世,公府八辟,公車五徵,皆不就。自整及荷,世以經學致位。荷明究群籍,特善史書。不應州郡之命。張祚遣使者以安車束帛徵為博士祭酒,使者迫而致之。及至,署太子友。荷上疏乞還,祚許之,遣以安車蒲輪送還張掖東山。年八十四卒,諡曰玄德先生。

郭瑀

原文郭瑀

郭瑀は、字を元瑜といい、敦煌郡の人である。若い頃から世俗を超えた志操を持ち、東へ張掖郡に遊学し、郭荷に師事して、その学問をすべて伝授された。経義に精通し、談論を雅やかに弁じ、多才多芸で、文章を作るのが上手かった。郭荷が亡くなると、郭瑀は、父が生み、師が成し、君が爵位を与えるものと考え、五服の制度では師のために重服を着ないのは、聖人の謙譲によるものだとして、遂に斬衰の喪服を着て、墓のそばに廬を建てて三年間過ごした。喪が明けると、臨松薤谷に隠れ、石窟を掘って住み、柏の実を食べて身を軽くし、『春秋墨説』、『孝経錯緯』を著し、弟子として名簿に登録された者は千余人に及んだ。

原文郭瑀,字元瑜,敦煌人也。少有超俗之操,東遊張掖,師事郭荷,盡傳其業。精通經義,雅辯談論,多才藝,善屬文。荷卒,瑀以為父生之,師成之,君爵之,而五服之制,師不服重,蓋聖人謙也,遂服斬衰,廬墓三年。禮畢,隱於臨松薤谷,鑿石窟而居,服柏實以輕身,作《春秋墨說》、《孝經錯緯》,弟子著錄千餘人。

張天錫は使者の孟公明に節を持たせ、蒲輪と玄纁を備えた礼をもって彼を招聘し、郭瑀に手紙を送って言った。「先生は九皋に光を潜め、真実を懐いて独り遠くにあり、心は至高の境地と暗黙のうちに符合し、志は四時の消長と共にあります。どうして蒼生が倒懸の苦しみにあり、四海が救いを待っていることをご存知ないのでしょうか!孤は時運を忝なく受け、大業を負い担い、賢明な方と共に帝道を補佐したいと願っております。昔、傅説は殷の朝に龍のように飛翔し、尚父(呂尚)は周室で鷹のように飛揚し、孔聖人(孔子)は車の軌を止めず、墨子は朝を待たずに車を走らせました。皆、庶民の禍いは救わねばならず、君主は独りで立つものではなく、道は人によって弘められるからです。まして今、九服は狄の場と化し、二都は尽く戎の巣窟となり、天子は江東の僻遠の地におられ、名教は左衽の地に沈んでいます。その創傷の甚だしさは、天地開闢以来聞いたことがありません。先生は世を救う才を懐きながら、座して観るだけで救わないのは、仁と智について、孤はひそかに疑問に思います。故に使者を遣わし、車の左の席を空けて綏(手すり)を授け、鶴のように首を長くして先生を待ち、どうか我が国を顧みてください。」公明が山に着くと、郭瑀は飛翔する鴻を指して示して言った。「この鳥を、どうして籠に入れることができようか!」そして深く逃げて跡を絶った。公明がその門人を拘束すると、郭瑀は嘆いて言った。「私は禄を逃れているのであって、罪を避けているのではない。どうして隠居して義を行いながら、門人に害が及ぶことがあろうか!」そして出て招聘に応じた。姑臧に到着すると、ちょうど張天錫の母が亡くなったので、郭瑀は髪を括って弔問し、三度跳躍して出て、南山に帰った。

原文張天賜遣使者孟公明持節,以浦輪玄纁備禮徵之,遺瑀書曰:「先生潛光九皋,懷真獨遠,心與至境冥符,志與四時消息,豈知蒼生倒懸,四海待拯者乎!孤忝承時運,負荷大業,思與賢明同贊帝道。昔傳說龍翔殷朝,尚父鷹揚周室,孔聖車不停軌,墨子駕不俟旦,皆以黔首之禍不可以不救,君不獨立,道由人弘故也。況今九服分為狄場,二都盡為戎穴,天子僻陋江東,名教淪于左衽,創毒之甚,開闢未聞。先生懷濟世之才,坐觀而不救,其于仁智,孤竊惑焉。故遣使者虛左授綏,鶴企先生,乃眷下國。」公明至山,瑀指翔鴻以示之曰:「此鳥也,安可籠哉!」遂深逃絕跡。公明拘其門人,瑀歎曰:「吾逃祿,非避罪也,豈得隱居行義,害及門人!」乃出而就徵。及至姑臧,值天賜母卒,瑀括髮入弔,三踊而出,還于南山。

張天錫が滅びると、苻堅もまた安車で郭瑀を招聘して礼儀を定めさせようとしたが、父の喪に遭ったので中止となった。太守の辛章は書生三百人を遣わして彼に就いて学業を受けさせた。苻氏の末期、略陽の王穆が酒泉で兵を起こし、張大豫に呼応しようとし、使者を遣わして郭瑀を招いた。郭瑀は嘆いて言った。「川のほとりで溺れる者を救うのに、命の短長を占わない。病気を診て三年も経てば、食事を断つことを予め決めない。魯仲連が趙にいた時、義のために黙っていなかった。まして人々が左衽になろうとしているのを救わないでいられようか!」そして敦煌の索嘏と共に兵五千を起こし、粟三万石を運んで、東へ王穆に呼応した。王穆は郭瑀を太府左長史、軍師将軍に任じた。郭瑀は元佐の地位にありながらも、口ずさむのは黄老のことであり、功が成り世が定まったら、伯成子高の跡を追おうと願った。

原文及天錫滅,苻堅又以安車徵瑀定禮儀,會父喪而止,太守辛章遣書生三百人就受業焉。及苻氏之末,略陽王穆起兵酒泉,以應張大豫,遣使招瑀。瑀歎曰:「臨河救溺,不卜命之短長;脈病三年,不豫絕其餐饋;魯連在趙,義不結舌,況人將左衽而不救之!」乃與敦煌索嘏起兵五千,運粟三萬石,東應王穆。穆以瑀為太府左長史、軍師將軍。雖居元佐,而口詠黃老,冀功成世定,追伯成之蹤。

王穆は讒言によって惑わされ、西へ索嘏を討伐しようとした。郭瑀は諫めて言った。「昔、漢は天下を定めてから、その後で功臣を誅しました。今、事業はまだ成っておらず、それを誅するならば、たちまちこの庭に麋鹿が遊ぶのを見ることになるでしょう。」王穆は従わなかった。郭瑀は城を出て大声で泣き、手を挙げて城に別れを告げて言った。「私はもうお前を見ることはない!」帰って布団を顔に被り、人と話さず、七日間食事を取らず、病気のまま帰り、朝夕死を祈った。夜、青龍に乗って天に昇る夢を見たが、屋根のところで止まった。目覚めて嘆いて言った。「龍が天に飛ぶというのに、今は屋根で止まった。屋という字は、尸の下に至ると書く。龍が飛んで尸に至る。私は死ぬのだろう。古の君子は内寝で死なない。ましてや私のような正しい士がどうしてそうできようか!」そして酒泉南山の赤崖閣に戻り、気を飲んで亡くなった。

原文穆惑於讒間,西伐索嘏,瑀諫曰:「昔漢定天下,然後誅功臣。今事業未建而誅之,立見麋鹿游於此庭矣。」穆不從。瑀出城大哭,舉手謝城曰:「吾不復見汝矣!」還而引被覆面,不與人言,不食七日,與疾而歸,旦夕祈死。夜夢乘青龍上天,至屋而止,寤而歎曰:「龍飛在天,今止於屋。屋之為字,尸下至也。龍飛至尸,吾其死也。古之君子不卒內寢,況吾正士乎!」遂還酒泉南山赤崖閣,飲氣而卒。

祈嘉

原文祈嘉

祈嘉は、字を孔賓といい、酒泉郡の人である。若い頃は清貧で、学問を好んだ。二十歳を過ぎた頃、夜、突然窓の中から声が呼ぶのを聞いた。「祈孔賓、祈孔賓!隠れよ、隠れよ!世俗を飾り立てるのは、甚だ苦しく調和できない。得るものは毛や銖ほどもなく、失うものは山や崖のようだ。」朝になって逃げ去り、西へ敦煌に行き、学官に寄って書を読み、貧しく衣食にも事欠き、書生たちの炊事係をして自活した。そして遂に経伝に広く通じ、その大義を精しく究めた。西へ海辺の地に遊学し、門生百余人を教授した。張重華ちょうじゅうかは彼を儒林祭酒に招聘した。性質は温和で寛大であり、教授に倦むことがなく、『孝経』に基づいて『二九神経』を著した。朝廷の卿士や郡県の守令である彭和正ら、学業を受けるために独り床下に拝した者は二千余人に及び、張天錫は先生と呼んで名で呼ばなかった。ついに天寿を全うして亡くなった。

原文祈嘉,字孔賓,酒泉人也。少清貧,好學。年二十餘,夜忽窗中有聲呼曰:「祈孔賓,祈孔賓!隱去來,隱去來!修飾人世,甚苦不可諧。所得未毛銖,所喪如山崖。」旦而逃去,西至敦煌,依學官誦書,貧無衣食,為書生都養以自給,遂博通經傳,精究大義。西游海渚,教授門生百餘人。張重華徵為儒林祭酒。性和裕,教授不倦,依《孝經》作《二九神經》。在朝卿士、郡縣守令彭和正等受業獨拜床下者二千餘人,天錫謂為先生而不名之。竟以壽終。

瞿硎先生

原文瞿硎先生

瞿硎先生という人は、姓名がわからず、どこの人かもわからない。太和の末年、常に宣城郡の境界にある文脊山の中に住んでいた。山に瞿硎という所があったので、それによって名乗ったのである。大司馬の桓温がかつて彼を訪ねた。到着すると、先生が鹿の皮衣を着て、石室の中に座っており、表情にはわずらわしさがなかった。桓温と僚佐数十人も皆、彼を測りかねたので、伏滔に命じて彼のために銘賛を作らせた。ついに山中で亡くなった。

原文瞿硎先生者,不得姓名,亦不知何許人也。太和末,常居宣城郡界文脊山中,山有瞿硎,因以為名焉。大司馬桓溫嘗往造之。既至,見先生被鹿裘,坐於石室,神無忤色,溫及僚佐數十人皆莫測之,乃命伏滔為之銘贊。竟卒於山中。

謝敷

原文謝敷

謝敷は、字を慶緒といい、会稽郡の人である。性質は澄み静かで寡欲であり、太平山に入って十余年過ごした。鎮軍将軍の郗愔が主簿に召し、朝廷が博士に徴召したが、いずれも就任しなかった。初め、月が少微星を犯した。少微星は別名を処士星といい、占う者はこれが隠士に当たるとした。譙国の戴逵は美才があり、ある人は彼を心配した。間もなく謝敷が死んだので、会稽の人士は呉の人々を嘲って言った。「呉中の高士とは、死にたくても死ねない者のことだ。」

原文謝敷,字慶緒,會稽人也。性澄靖寡欲,入太平山十餘年。鎮軍郗愔召為主簿,臺徵博士,皆不就。初,月犯少微,少微一名處士星,占者以陷士當之。譙國戴逵有美才,人或憂之。俄而敷死,故會稽人士以嘲吳人云:「吳中高士,便是求死不得死。」

戴逵

原文戴逵

戴逵は、字を安道といい、譙国の人である。幼い頃から博学で、議論を好み、文章を書くのが巧みで、琴を弾くことができ、書画に優れ、その他の巧みな技芸もすべて習得していた。幼い頃、鶏卵の汁で白い瓦の屑を練り固めて『鄭玄碑』を作り、さらに文章を書いて自ら刻んだが、文辞は麗しく器物は巧妙で、当時の人々は驚嘆しない者はいなかった。性格は世俗を楽しまず、常に琴と書物で自らを楽しませていた。豫章で術士の范宣に師事したが、范宣は彼を異才と認め、兄の娘を妻として与えた。太宰・武陵王の司馬晞きは彼が琴を巧みに弾くと聞き、人をやって召し出そうとした。戴逵は使者に対し琴を壊して言った。「戴安道は王侯の家の芸人にはならない!」司馬晞は怒り、代わりに彼の兄の戴述を招いた。戴述は命令を聞いて喜び、琴を抱えて出かけた。

原文戴逵,字安道,譙國人也。少博學,好談論,善屬文,能鼓琴,工書畫,其餘巧藝靡不畢綜。總角時,以雞卵汁溲白瓦屑作《鄭玄碑》,又為文而自鐫之,詞麗器妙,時人莫不驚歎。性不樂當世,常以琴書自娛。師事術士范宣于豫章,宣異之,以兄女妻焉。太宰、武陵王晞聞其善鼓琴,使人召之,逵對使者破琴曰:「戴安道不為王門伶人!」晞怒,乃更引其兄述。述聞命欣然,擁琴而往。

戴逵は後に会稽郡の剡県に移り住んだ。性格は高潔で、常に礼の規範をもって自らを律し、放達を深く非道であると考え、次のような論を著した。

原文逵後徙居會稽之剡縣。性高潔,常以禮度自處,深以放達為非道,乃著論曰:

親が亡くなっているのに薬を採りに行って戻らない者は、不仁の子である。君主が危険なのにたびたび近くの関所から出て行く者は、一時しのぎで難を免れようとする臣下である。しかし、古代の人々がそれによって名教の根本を害しなかったのはなぜか。その主旨を理解していたからである。主旨を理解していたから、その表面的な行動に惑わされなかったのである。元康年間(291-299年)の人々は、遁世の跡を好みながらその本質を求めなかったと言えよう。それゆえ、根本を捨てて末節に従う弊害、実質を捨てて名声を追う行為があり、それは西施の美しさを慕ってその眉をひそめる真似をし、有道の人を慕ってその巾の角を折るようなものである。慕う理由は、美しいとされる理由とは異なり、ただ外見が似ていることを貴ぶだけである。紫が朱を乱すのは、朱に似ているからである。だから郷原は中和に似ているがゆえに徳を乱し、放達者は達観に似ているがゆえに道を乱す。しかし竹林の放達は、病があって眉をひそめるようなものであり、元康の放達は徳がなくて巾の角を折るようなものである。これを見極めないでよいだろうか。

原文夫親沒而采藥不反者,不仁之子也;君危而屢出近關者,苟免之臣也。而古之人未始以彼害名教之體者何?達其旨故也。達其旨,故不惑其跡。若元康之人,可謂好遁跡而不求其本,故有捐本徇末之弊,舍實逐聲之行,是猶美西施而學其顰眉,慕有道而折其巾角,所以為慕者,非其所以為美,徒貴貌似而已矣。夫紫之亂硃,以其似硃也。故鄉原似中和,所以亂德;放者似達,所以亂道。然竹林之為放,有疾而為顰者也,元康之為放,無德而折巾者也,可無察乎!

さらに、儒家が名誉を重んじるのは、もともと賢人を興すためである。その根本を失えば、外見だけを取り繕う行為が生じる。真情を失い、真実を喪って、容貌で互いに欺くならば、その弊害は必ずや末節の偽りに至る。道家が名声を捨てるのは、篤実さを求めようとするためである。もしその根本を失えば、さらに規範を越えた行為が生じる。情も礼もともに欠け、仰ぎ詠じてすべてを忘れるならば、その弊害は必ずや根本の薄さに至る。偽りと薄情は、儒・道の二つの根本の失われたものではないが、弊害をなす者は必ずこの二つの根本に仮託して自らの行いを通そうとする。道には不変の規範があるが、弊害には決まった情状はない。それゆえ六経にも欠点があり、王政にも弊害がある。もしその根本から外れれば、聖賢といえどもどうすることもできないのである。

原文且儒家尚譽者,本以興賢也,既失其本,則有色取之行。懷情喪真,以容貌相欺,其弊必至於末偽。道家去名者,欲以篤實也,苟失其本,又有越檢之行。情禮俱虧,則仰詠兼忘,其弊必至於本薄。夫偽薄者,非二本之失,而為弊者必托二本以自通。夫道有常經而弊無常情,是以六經有失,王政有弊,苟乖其本,固聖賢所無奈何也。

ああ、道を行う者は、天性が十分に備わり、無意識に行って適切である者でなければ、どうして古代の烈しい行いに心を寄せ、前代の修養された人々の規範を模倣しないでいられようか。もし模倣することに迷い、それから行動し、議論してから言葉を発するならば、固より先にその取捨選択の極みを弁え、その心の用い方の根本を求め、尺を曲げて尋を伸ばす(小を犠牲にして大を得る)趣旨を理解し、粗衣をまとって玉を懐く(外見は粗末だが内に優れた徳を持つ)理由を採り入れるべきである。このようにすれば、道筋は異なっても、その帰する所を見ることができる。跡は乱れていても、その符合するところは乖離しない。そうでなければ、流れに従って逃れ、戻ることを忘れ、風波のような行いとなり、自ら物事に駆り立てられ、自ら偽りで欺き、外には喧噪と華やかさに眩惑され、内には道の実質を喪失し、誇り高ぶることでその真の主体を奪い、塵や垢でその天与の正しさを曇らせ、千年の後に笑いを残すことになる。慎まないでよいだろうか。

原文嗟夫!行道之人自非性足體備、暗蹈而當者,亦曷能不棲情古烈,擬規前修。苟迷擬之然後動,議之然後言,固當先辯其趣舍之極,求其用心之本,識其枉尺直尋之旨,采其被褐懷玉之由。若斯,途雖殊,而其歸可觀也;跡雖亂,而其契不乖也。不然,則流遁忘反,為風波之行,自驅以物,自誑以偽,外眩囂華,內喪道實,以矜尚奪其真主,以塵垢翳其天正,貽笑千載,可不慎歟!

孝武帝の時、散騎常侍・国子博士としてたびたび招聘されたが、父の病気を理由に辞退して就任しなかった。郡県がしきりに迫ってやまないので、呉に逃れた。呉国内史の王珣が武丘山に別荘を持っていたので、戴逵はひそかにそこを訪れ、王珣と交遊して十数日を過ごした。会稽内史の謝玄は戴逵が遠くに逃れて戻らないことを憂慮し、上疏して言った。「謹んで見ますに、譙国の戴逵は世俗を超越することを志し、世の務めに携わらず、質素な家に住み、琴と書物を友としています。詔命がたびたび下されても、隠者の操りは変わらず、超然として世間から絶ち、自らの志を求めています。しかも年は耳順(六十歳)に近づき、常に衰弱した病を抱え、時には体調を崩し、次第に重篤になっています。今、王命に応じず、風霜の患いに遭おうとしています。陛下は既に彼を愛し器とされているのですから、その身と名をともに存続させるべきです。どうか彼への召命を絶たれるようお願いします。」上疏が奏上されると、帝は許し、戴逵は再び剡に戻った。

原文孝武帝時,以散騎常侍、國子博士累徵,辭父疾不就。郡縣敦逼不已,乃逃于吳。吳國內史王珣有別館在武丘山,逵潛詣之,與珣遊處積旬。會稽內史謝玄慮逵遠遁不反,乃上疏曰:「伏見譙國戴逵希心俗表,不嬰世務,棲遲衡門,與琴書為友。雖策命屢加,幽操不回,超然絕跡,自求其志。且年垂耳順,常抱羸疾,時或失適,轉至委篤。今王命未回,將離風霜之患。陛下既已愛而器之,亦宜使其身名並存,請絕其召命。」疏奏,帝許之,逵復還剡。

後に王珣が尚書僕射となった時、上疏して再び国子祭酒として招聘し、散騎常侍を加えるよう請願した。招聘されたが、またも赴任しなかった。太元二十年(395年)、皇太子が初めて東宮を出た時、太子太傅の会稽王司馬道子・少傅の王雅・詹事の王珣がまた上疏して言った。「戴逵は操りを貞固で厳しく保ち、独自の味わいを湛えて遊び、年は老人に達し、清らかな風格はますます盛んです。東宮には徳を備えた人物がおらず、世俗を離れた人物を招くべきです。表彰して命を下し、官僚・侍従に加えるのが適当です。戴逵はすでに幽居の操りを重んじているので、必ずや進み難きを美とするでしょう。どうか所在の地に命じて礼を整え発遣させてください。」ちょうど病気で死去した。

原文後王珣為尚書僕射,上疏復請徵為國子祭酒,加散騎常侍,徵之,復不至。太元二十年,皇太子始出東宮,太子太傳會稽王道子、少傅王雅、詹事王珣又上疏曰:「逵執操貞厲,含味獨遊,年在耆老,清風彌劭。東宮虛德,式延事外,宜加旌命,以參僚侍。逵既重幽居之操,必以難進為美,宜下所在備禮發遣。」會病卒。

長男の戴勃は、父の風格を受け継いでいた。義熙初年(405年頃)、散騎侍郎として招聘されたが、応じず、まもなく死去した。

原文長子勃,有父風。義熙初,以散騎侍郎徵,不起,尋卒。

龔玄之

原文龔玄之

龔玄之は、字を道玄といい、武陵郡漢寿県の人である。父の龔登は、長沙王相・散騎常侍を歴任した。龔玄之は学問を好み沈黙を守り、陋巷に安んじていた。州から秀才に推挙され、公府からも招聘されたが、就任しなかった。孝武帝は詔を下して言った。「哲王が世を治めるには、必ず隠れた人材を探し求め揚げるものである。だから空谷には引き留める詠が流れ、丘園には束帛の礼が行われる。譙国の戴逵、武陵の龔玄之はともにその操りを高尚にし、仁に依り芸に遊び、己を清く潔く保ち、貞潔で鮮やかであり、学問は儒学の業を広めている。朕は虚心に待ち望んで久しい。二、三の君子よ、どうして賢才を胸中にしまい込んでおれようか。その雅やかな言葉を汲み取り、虚心誠意で諷諫議論したい。ともに散騎常侍とし、国子博士を領させること。所在の地に命じて礼を整え発遣させよ。常例に従ってはならず、朕が側席で待つ望みを遅らせてはならない。」郡県がしきりに迫ったが、病気が重いと苦しんで辞退し、行かなかった。まもなく死去した。享年五十八歳。

原文龔玄之,字道玄,武陵漢壽人也。父登,歷長沙相、散騎常侍。玄之好學潛默,安於陋巷。州舉秀才,公府辟,不就。孝武帝下詔曰:「夫哲王御世,必搜揚幽隱,故空谷流縶維之詠,丘園旅束帛之觀。譙國戴逵、武陵龔玄之並高尚其操,依仁遊藝,潔己貞鮮,學弘儒業,朕虛懷久矣。二三君子,豈其戢賢於懷抱哉!思挹雅言,虛誠諷議,可並以為散騎常侍,領國子博士,指下所在備禮發遣,不得循常,以稽側席之望。」郡縣敦逼,苦辭疾篤,不行。尋卒,時年五十八。

弟子の龔元寿もまた徳操があり、高尚で仕官せず、秀才に推挙され州から辟召されたが、ともに病気と称して就任しなかった。孝武帝は太学博士・散騎侍郎・給事中としてたびたび招聘したが、遂に応じなかった。家で死去した。

原文弟子元壽,亦有德操,高尚不仕,舉秀才及州辟召,並稱疾不就。孝武帝以太學博士、散騎侍郎、給事中累徵,遂不起。卒於家。

陶淡

原文陶淡

陶淡は、字を処静といい、太尉陶侃とうかんの孫である。父の陶夏は、品行が良くないとして官を免ぜられた。陶淡は幼くして孤児となり、導引養生の術を好み、仙道は祈りによって得られると考えた。十五、六歳の時、すでに服食して穀物を断ち、婚姻もしなかった。家には千金の財産があり、僮僕や客が百人ほどいたが、陶淡は終日端座して拱手するだけで、まったく経営や問い合わせをしなかった。『易経』を好んで読み、卜筮をよくした。長沙郡臨湘県の山中に庵を結んで住み、一頭の白鹿を飼って伴侶とした。親戚や旧知で訪ねてくる者がいると、すぐに澗水を渡って向こう側に移り、近づかせなかった。州から秀才に推挙されると聞き、すぐに羅県の埤山中に逃れ移り、生涯戻らず、その終わりを知る者はなかった。

原文陶淡,字處靜,太尉侃之孫也。父夏,以無行被廢。淡幼孤,好導養之術,謂仙道可祈。年十五六,便服食絕穀,不婚娶。家累千金,僮客百數,淡終日端拱,曾不營問。頗好讀《易》善卜筮。于長沙臨湘山中結廬居之,養一白鹿以自偶。親故有候之者,輒移渡澗水,莫得近之。州舉秀才,淡聞,遂轉逃羅縣埤山中,終身不返,莫知所終。

陶潛

原文陶潛

陶潜は、字を元亮といい、大司馬陶侃の曾孫である。祖父の陶茂は武昌太守であった。陶潜は若い頃から高尚な志を抱き、博学で文章を書くのが巧みで、才知が抜きん出て束縛されず、真実のままに振る舞い自ら楽しみを得て、郷里の人々から重んじられた。かつて『五柳先生伝』を著して自らに譬えて言った。「先生はどこの人か知らず、姓や字も詳らかでない。家のそばに五本の柳の木があるので、それをもって号とした。静かで言葉少なく、栄誉や利益を慕わない。読書を好むが、深く理解しようとは求めず、たびたび心に会得することがあれば、喜んで食事を忘れる。性来酒を好むが、家が貧しくて常に手に入れることができない。親戚や旧友は彼がこのようなことを知っており、時には酒を用意して招くと、赴いて飲む時は必ず飲み尽くし、必ず酔うことを期する。酔ってしまえば退き、少しも未練がましい様子を見せない。家の周りは壁ばかりで寂しく、風や日差しを防げず、短い粗末な衣服は穴が開き繕われ、食べ物や飲み物の器はしばしば空であるが、平然としている。常に文章を書いて自ら楽しみ、かなり自分の志を示し、得失を忘れ、これをもって生涯を終える。」彼の自叙はこのようであり、当時の人々はこれを実録であると言った。

原文陶潛,字元亮,大司馬侃之曾孫也。祖茂,武昌太守。潛少懷高尚,博學善屬文,穎脫不羈,任真自得,為鄉鄰之所貴。嘗著《五柳先生傳》以自況曰:「先生不知何許人,不詳姓字,宅邊有五柳樹,因以為號焉。閒靜少言,不慕榮利。好讀書,不求甚解,每有會意,欣然忘食。性嗜酒,而家貧不能恆得。親舊知其如此,或置酒招之,造飲必盡,期在必醉。既醉而退,曾不吝情。環堵蕭然,不蔽風日,短褐穿結,簞瓢屢空,晏如也。常著文章自娛,頗示己志,忘懷得失,以此自終。」其自序如此,時人謂之實錄。

親が老いて家が貧しいため、州の祭酒として仕官したが、役人の職務に耐えられず、数日で自ら辞任して帰った。州が主簿に召し出したが就かず、自ら耕作して生計を立て、やがて衰弱した病を抱えた。再び鎮軍参軍・建威参軍となったが、親しい友人に言った。「しばらく琴を弾き歌うことで、隠居のための資金としたいと思うが、どうだろうか?」担当者がこれを聞き、彭沢県令に任じた。県では、公田すべてに粘り気のある穀物(秫)を植えるよう命じ、「私を常に酒に酔わせておけばそれで十分だ」と言った。妻と子は固く粘りのない米(粳)を植えるよう請うた。そこで一頃五十畝に秫を、五十畝に粳を植えさせた。元来簡素で尊大を好み、上司に私的に取り入ることをしなかった。郡が督郵を県に派遣した時、役人が帯を締めて会うべきだと告げると、陶潜は嘆いて言った。「私は五斗の米のために腰を折って、真心を込めて田舎の小人物に仕えることなどできようか!」義熙二年(406年)、印綬を解いて県を去り、『帰去来の辞』を賦した。その文は次の通りである。

原文以親老家貧,起為州祭酒,不堪吏職,少日自解歸。州召主簿,不就,躬耕自資,遂抱羸疾。復為鎮軍、建威參軍,謂親朋曰:「聊欲弦歌,以為三徑之資可乎?」執事者聞之,以為彭澤令。在縣,公田悉令種秫穀,曰:「令吾常醉於酒足矣。」妻子固請種粳。乃使一頃五十畝種秫,五十畝種粳。素簡貴,不私事上官。郡遣督郵至縣,吏白應束帶見之,潛歎曰:「吾不能為五斗米折腰,拳拳事鄉里小人邪!」義熙二年,解印去縣,乃賦《歸去來》。其辭曰:

帰ろう、帰ろう。田園が荒れ果てようとしているのに、なぜ帰らないのか?すでに自らの心が形(肉体)の奴隷となっていると知りながら、どうして憂い悲しみ独り悲しむのか?過ぎ去ったことは諫められないと悟り、来るべきことは追い求めることができると知る。実に迷いの道はまだ遠くなく、今が正しく昨日が間違っていたと気づく。舟は遥かに軽やかに漂い、風は飄々と吹いて衣をなびかせる。旅人に前の道を尋ね、朝の光の微かなのを恨む。やがて粗末な家門を見つけ、喜び勇んで駆け寄る。下僕が出迎え、幼い子が門で待つ。庭の小道はすでに荒れ果てているが、松と菊はまだ残っている。幼子を連れて家に入ると、酒が杯に満ちている。壺や杯を取り上げ自ら酌み、庭の木々を眺めて顔を和らげ、南の窓にもたれて傲然たる思いを託し、ひざを容れるだけの狭い家が安らぎやすいと知る。庭園には日々足を運ぶことで趣が生まれ、門は設けてあっても常に閉ざされている。杖にすがって歩き憩い、時には首を上げて遠くを眺める。雲は心なく山の峰から湧き出で、鳥は飛ぶのに疲れて帰ることを知る。日差しは翳り暗くなり沈もうとし、孤高の松を撫でてさまよう。

原文歸去來兮,田園將蕪胡不歸?既自以心為形役,奚惆悵而獨悲?悟已往之不諫,知來者之可追。實迷途其未遠,覺今是而昨非。舟遙遙以輕颺,風飄飄而吹衣,問征夫以前路,恨晨光之希微。乃瞻衡宇,載欣載奔。僮僕來迎,稚子侯門。三徑就荒,松菊猶存。攜幼入室,有酒盈樽。引壺觚以自酌,眄庭柯以怡顏,倚南窗以寄傲,審容膝之易安。園日涉而成趣,門雖設而常關;策扶老而流憩,時翹首而遐觀。雲無心而出岫,鳥倦飛而知還;景翳翳其將入,撫孤松而盤桓。

帰ろう、帰ろう。交わりを絶ち遊びを断とう。世は私と互いに見捨て合い、再び車を走らせて何を求めようというのか!親戚の心温まる話を喜び、琴と書物を楽しんで憂いを消す。農夫が春の終わりを告げ、西の田んぼで仕事があるという。時には幌付きの車を用意し、時には独り舟を漕ぎ、深く静かな谷を探り、また険しい丘を越える。木々は生き生きと繁り、泉は細く流れ始める。万物が時を得るのを良しとし、我が生涯の終わりに近づくのを感じる。

原文歸去來兮,請息交以絕遊,世與我而相遺,復駕言兮焉求!悅親戚之情話,樂琴書以消憂。農人告余以春暮,將有事乎西疇。或命巾車,或棹孤舟,既窈窕以尋壑,亦崎嶇而經丘。木欣欣以向榮,泉涓涓而始流,善萬物之得時,感吾生之行休。

もう終わりだ!この世に形を仮に置くのもあと幾ばくか、どうして心のままに去り留まるに任せず、なぜあわただしく何処へ行こうとするのか?富貴は私の願いではなく、仙人の郷も期待できない。良き朝を思い一人で出かけ、ある時は杖を立てて田を耕し、東の高台に登って声を上げて歌い、清らかな流れに臨んで詩を賦す。ただ自然の流れに乗って尽きるに帰し、天命を楽しむことに何の疑いがあろうか!

原文已矣乎!寓形宇內復幾時,曷不委心任去留,胡為乎遑遑欲何之?富貴非吾願,帝鄉不可期。懷良晨以孤往,或植杖而芸秄,登東皋以舒嘯,臨清流而賦詩;聊乘化而歸盡,樂夫天命復奚疑!

まもなく、著作郎に召されたが就任しなかった。州や郡への謁見を絶った後、郷里の親しい張野や交際のある羊松齢・寵遵らが時には酒を用意して招き、あるいは酒席に共に行くよう誘ったが、主人を知らなくても、喜んで受け入れ、気に障ることもなく、酔いが回れば帰った。かつて人を訪ねることはなく、行く先は田舎の家や廬山へ遊覧に行くだけであった。

原文頃之,徵著作郎,不就。既絕州郡覲謁,其鄉親張野及周旋人羊松齡、寵遵等或有酒要之,或要之共至酒坐,雖不識主人,亦欣然無忤,酣醉便反。未嘗有所造詣,所之唯至田舍及廬山遊觀而已。

刺史の王弘は元熙年間(419-420年)に州に赴任し、彼を非常に敬慕し、後日自ら訪ねて行った。陶潜は病気と称して会わず、後に人に語って言った。「私は生来世間に馴染む性分ではなく、病気を理由に閑居を守っている。幸いにも志を清く保ち名声を慕っているわけではない。どうして王公がわざわざ車を回すことを光栄と思えようか!もし誤って不賢であると思われれば、これこそ劉楨(公幹)が君子から誹謗を招いた所以であり、その罪は小さくない。」王弘は常に人をやって彼の様子をうかがわせ、密かに廬山へ行く時を知ると、彼の旧友である龐通之らに酒を持たせ、先に途中で待ち伏せさせた。陶潜は酒に出会うと、すぐに野原の亭で酌を交わし、喜んで先へ進むのを忘れた。王弘はそこで出てきて会い、終日歓談して宴を楽しんだ。陶潜は履がなかったので、王弘は側近に命じて履を作らせた。側近が履の寸法を請うと、陶潜は座ったまま足を伸ばして測らせた。王弘は彼を州庁に連れ戻そうとし、何に乗って来たか尋ねると、答えて言った。「元来足の病気があり、これまで籠の輿に乗っており、それでも十分に帰れます。」そこで門生一人と二人の子供に輿を担がせて州庁まで行かせたが、談笑して楽しみ満足し、立派な車を羨む様子は全くなかった。王弘は後で会おうとする時は、いつも山林や沢で待ち伏せした。酒や米が尽きて困窮した時も、時々援助した。

原文刺史王弘以元熙中臨州,甚欽遲之,後自造焉。潛稱疾不見,既而語人云:「我性不狎世,因疾守閑,幸非潔志慕聲,豈敢以王公紆軫為榮邪!夫謬以不賢,此劉公幹所以招謗君子,其罪不細也。」弘每令人候之,密知當往廬山,乃遣其故人龐通之等齎酒,先於半道要之。潛既遇酒,便引酌野亭,欣然忘進。弘乃出與相見,遂歡宴窮日。潛無履,弘顧左右為之造履。左右請履度,潛便於坐申腳令度焉。弘要之還州,問其所乘,答云:「素有腳疾,向乘藍輿,亦足自反。」乃令一門生二兒共轝之至州,而言笑賞適,不覺其有羨于華軒也。弘後欲見,輒于林澤間候之。至於酒米乏絕,亦時相贍。

彼の親しい友人や好事家が、時には酒や肴を載せて訪ねて行くと、陶潜もまた断ることはなかった。一度酔うごとに、大いに満足して和らいだ様子となった。また生業を営まず、家のことはすべて子供や下僕に任せた。喜びや怒りの表情を見せたことはなく、ただ酒に出会えば飲み、時には酒がなくても、風雅な詩吟を絶やさなかった。かつて夏の月に暇を持て余し、北窓の下で高く寝そべっていると、清らかな風がさっと吹き至り、自らを伏羲以前の時代の人であると言った。音楽の道理は解さなかったが、飾りのない琴を一張り所有し、弦や徽(音階を示す印)は備わっていなかった。友人との酒宴の席では、それを撫でて調子を合わせ、「ただ琴の中の趣きを知ればよい。どうして弦の上の音を煩わす必要があろうか!」と言った。宋の元嘉年間(424-453年)に死去した。時に六十三歳。彼の文集はすべて世に行われた。

原文其親朋好事,或載酒肴而往,潛亦無所辭焉。每一醉,則大適融然。又不營生業,家務悉委之兒僕。未嘗有喜慍之色,惟遇酒則飲,時或無酒,亦雅詠不輟。嘗言夏月虛閑,高臥北窗之下,清風颯至,自謂羲皇上人。性不解音,而畜素琴一張,弦徽不具,每朋酒之會,則撫而和之,曰:「但識琴中趣,何勞弦上聲!」以宋元嘉中卒,時年六十三,所有文集並行於世。

史評

原文史評

史臣が言う。君子の行いは道が異なり、顕れるか隠れるかということを言うのである。出仕すればよく多くの政務を治め、道をもって時勢を救い、隠棲すれば騒がしい塵芥から抜け出し、謙虚に自らを修養する。その意義を詳しく求めれば、その由来は遠い。孫登(公和)が洞穴に住み、裳はただ草を編んだものであり、嵇康(叔夜)を戒めて精神を凝らし鑑とし、董京(威輦)が祠の茂みに居て、衣に一枚の布もなく、孫楚(子荊)に対して貞潔な規範を述べた。ともにその影を消して追わず、禽慶(子夏)や尚長(子平)の同類である。夏統は遠近に孝行と友愛で称えられ、宗族や同党はその誠実で正直なことを高く評価し、『小海』の曲を歌えば、伍子胥がまだ生きているようであり、堅固な貞石のような心を持てば、賈充(公閭)は特に恥じ入る。時に洛水のほとりで観覧したことは、まさにこの言葉を信じさせる。宋纖は幼い頃から遠大な操守を抱き、清らかな規範が際立っており、楊宣はその画像を褒め称え、馬岌はその人龍を嘆じた。「玄虚」の号は、実に美を期したものである。残りの数人は、ある者は病気を理由に官を去り、ある者は論を著して世俗を正し、ある者はあぐらをかいて当時の人々に対し、ある者は鳥を射たり釣りをして山水に棲み、和を内に含め玉を隠し、道に乗り輝きを匿し、その志を曲げず、後の世に清らかな風を激しく起こした者たちである。

原文史臣曰:君子之行殊途,顯晦之謂也。出則允釐庶政,以道濟時;處則振拔囂埃,以卑自牧。詳求厥義,其來夐矣。公和之居窟室,裳唯編草,誡叔夜而凝神鑒;威輦之處叢祠,衣無全帛,對子荊而陳貞則:並滅景而弗追,柳禽、尚平之流亞。夏統遠邇稱其孝友,宗党高其諒直,歌《小海》之曲。則伍胥猶存;固貞石之心,則公閭尤愧,時幸洛濱之觀,信乎茲言。宋纖幼懷遠操,清規映拔,楊宣頌其畫象,馬岌歎其人龍,玄虛之號,實期為美。餘之數子,或移病而去官,或著論而矯俗,或箕踞而對時人,或弋釣而棲衡泌,含和隱璞,乘道匿輝,不屈其志,激清風于來葉者矣。