卷九十二 列傳第六十二 文苑傳
序
文によって教化を成すことは、聖人の崇高な道理である。行なわれても遠くまで及ばないのは、前代の史書の格言である。それゆえ、温洛に祥瑞の図が現れ、緑 字 がその偉大な事業の根源となり、苑山に霊妙な篆文があり、金簡がその帝王の事績を成した。やがて文字による記録の道が盛んになり、鐘鼎や石碑の文がますます広まり、風俗を王の教化に移し、人倫において孝と敬を尊び、天地を経緯し、内外を統合した。それゆえ、文の時宜に適った意義は、実に大きく遠大であることが分かる。
周の時代が末に近づくと、歌頌の文がますます繁栄し、荀卿や宋玉の流れは、源流が遠くから導かれ、金の手綱を総べて一斉に駆け、玉の車輪を揚げて並んで馳せ、言葉の泉は九流に集まり、交響の律は六変に至った。この時以降、軌跡は同じ方向に向かい、西都の賈誼と司馬相如は、掌握の中に霊蛇を輝かせ、東漢の班固と張衡は、綈槧(書物)に雕龍(美文)を発揮し、ともに称首と標され、みな雄伯と推された。魏の時代が天命を受けるに及んで、文の宗匠が鬱然と起こり、三祖(曹操・曹丕・曹叡)はその高邁な韻を継ぎ、七子(建安七子)はその麗しい規範を分かち、『翰林』はその精華を総括し、『典論』はその洗練された美しさを詳述し、文質彬蔚の美は、当年に競って爽やかであった。ただあの陳王(曹植)のみは、思索の風が勁く挙がり、典雅深奥を備え、日月のように高く懸かっている。
そして晋(金行)が帝位を継ぐに及んで、文雅がこれ盛んとなり、張載は銘山の美を擅にし、 陸機 は硯を焚くほどの奇才を挺で示し、潘岳と夏侯湛は連れ輝き、名だたる先輩と頡頏し、ともに繁縟な文采を総合し、清英を機杼で織り、広内(書庫)の青編(書籍)を極め、平臺の麗曲を編集し、嘉声と茂った事跡は、それぞれ別伝に陳べられている。吉甫(応貞)と太沖(左思)は、江右の才傑であり、曹毗と庾闡は、中興の時の俊秀である。まことに金の相、玉の潤いのようで、林の茂り、川の流れのようであり、前の優れた者たちと美を等しくし、後の世に裕福を垂れる。今、その鴻筆の彦を撰び、『文苑』に著す。
応貞
応貞、字は吉甫、汝南郡南頓県の人、魏の侍中応璩の子である。漢から魏に至るまで、代々文章で顕れ、高官の位が相襲い、郡の盛んな族となった。応貞は談論を善くし、才学をもって称された。夏侯玄は盛名があったが、応貞が夏侯玄を訪ねると、夏侯玄は彼を非常に重んじた。高第に挙げられ、頻りに顕位を歴任した。武帝が撫軍大将軍であった時、参軍に任じた。帝位に即くと、給事中に遷った。帝が華林園で宴射を行った時、応貞の賦した詩が最も美しかった。その文辞は以下の通りである。
悠遠なる太上、人のその初め。皇極肇めて建ち、彝倫敷かる所。五徳運を更え、録に応じて符を受く。陶唐既に謝り、天曆は虞に在り。時に上帝、乃ち顧みて惟れ眷る。我が 晉 の祚を光し、期に応じて禅を受け納る。位は龍飛をもってし、文は豹変をもってす。玄澤滂沱と流れ、仁風潜かに扇ぐ。区内は心を宅し、方隅は面を回す。天は其の象を垂れ、地は其の文を耀く。鳳は朝陽に鳴き、龍は景雲に翔る。嘉禾は重ねて穎き、蓂莢は載せて芬し。率土咸く寧く、人胥く欣び欣ぶ。
広大なる皇度、厳粛なる聖容。言は其の允を思い、貌は其の恭を思う。視るに斯に明らかに、聴くに斯に聡く。庸に登るは徳をもってし、試みを明らかにするは功をもってす。其の恭とは何ぞや?昧旦(夜明け前)に丕顕(大いに顕わす)。義なきは経せず、理なきは践まず。行いは其の華を捨て、言は其の弁を去る。心を遊ばすは至虚に至り、規を同じくするは易簡に同じ。六府は孔(甚だ)修まり、九有来たり践む。沢は被らざるなく、化は加えざる莫し。声教は南に暨き、西は流沙に漸く。幽人は険を肆にし、遠国は遐を忘る。越常は重訳し、充牣として皇家に満つ。高々たる列辟、赫々たる武臣。内には五品和し、外には四賓威す。時に順い職を貢ぎ、入りて天人を覲る。備わって言う錫命、羽蓋朱輪。
宴を遺して好会す、常ならざる厥の数。神心の授くる所、言わずして諭す。時に肆射し、弓矢斯に具わる。彼の互的を発し、酒有り斯に飫す。文武の道、厥の猷未だ墜ちず。昔に在る先王、射御茲の器。武を示して荒ぶるを懼れ、過てば則ち失有り。凡そ厥の群后、位に懈ること無かれ。
初めて太子中庶子の官を置いた時、応貞は護軍長史の孔恂とともにこれに任じられた。後に 散騎常侍 に遷り、儒学をもって 太尉 荀顗とともに新礼を撰定したが、施行されなかった。泰始五年に卒去し、文集が世に行われた。
弟に応純がいる。応純の子応紹は、永嘉年間に黄門郎に至り、東海王 司馬越 によって害された。応純の弟応秀、応秀の子応詹は、それぞれ伝がある。
成公綏
成公綏、字は子安、東郡白馬県の人である。幼い頃から聡明で敏速、広く経書や伝記に渉猟した。性質は寡欲で、資産を営まず、家は貧しく年は飢饉であったが、常に晏如としていた。若くして俊才があり、詞賦は甚だ麗しく、閑静で沈黙を守り、名声や出世を求めなかった。当時、孝烏(反哺する烏)がおり、毎度その廬舎に集まった。成公綏は反哺の徳があるとして、祥瑞の禽鳥と考え、これについて賦を作って褒め称えたが、文は多く載せない。また、「賦というものは、物理を分賦し、敷演して方無く、天地の盛大なものを、思うに致すことができるのが貴い。歴史上の古人を見渡しても、未だこれに賦した者はない。ただ最も麗しくても文が無いから、言葉で賛えるのが難しいだけなのか?そうでなければ、どうして欠けているのだろうか?」と考え、遂に『天地賦』を作った。
天地自然の初めの時代においては、道は虚無であり玄妙で清らかであり、太素は乱れ混ざり合い、始めて物が生じて渾然一体となった。何と元一は茫漠として、開闢が広がり形が現れたことか。そこで清濁が分かれ、玄黄が判別され離れた。太極が既に異なり、ここに両儀が生じ、星辰は輝き並び、日月は重なって円を描き、天は動いて尊く、地は静かで卑しく、明暗が代わる代わる照らし、満ちたり欠けたりし、陰陽の気が調和して代謝し、寒暑が時とともに推移した。三才(天地人)は性質を異にし、五行は位置を異にし、千変万化し、多くの種類を繁殖させ、形を与え、気を授けた。色は文采を表し、声には音律があり、覆い載せることに方角はなく、流動し形を成して万物を生んだ。雷霆で鼓舞し、慶雲で潤し、八風が翱翔し、六気が氤氳とした。這いずる虫や蠕動するもの、方や集まり類や分かれ、鱗を持つものは族を異にし、羽毛を持つものは群を異にし、それぞれ精気を含んで熔冶し、皆陶鈞(造化の働き)の範を受けた。何と滋養育成が極まりないことか、造化の至神たる偉大さよ!
天に象が懸かって文を成し、列宿には章があり、三辰(日月星)が燭のごとく輝き、五緯(五星)が重ねて光り、河漢(天の川)が委蛇として天を帯び、虹蜺が昊蒼(大空)に偃蹇(高くそびえ)し、望舒(月の御者)が九道で弥節(速度を緩め)、義和(太陽の御者)が中黄(天の中央)で正しく轡を執り、衆星は回って極星を囲み、招搖(北斗七星の柄)が運んで方角を指し、白獸(白虎)が参伐(参宿と伐星)に峙え据わり、青龍が心房(心宿)に尾を垂れ、玄龜が女虚(女宿と虚宿)に首を匿し、硃鳥(朱雀)が注張(張宿と注星?)に翼を奮い、帝皇が紫宮に正坐し、輔臣が文昌に列位し、垣屏(星垣)が駱驛として珠のようにつらなり、三台が差池して雁が飛ぶようであり、軒轅星が華やかに布き曲線に列なり、摂提星が鼎の足のように峙え合って相望む。もし瑞兆が祥を表し、災変が異を呈し、交会や薄蝕があり、暈や珥を抱き帯び、流逆が暦を犯し、譴責が象に事を悟らせ、蓬容(妖星)が現れて妖害が生じ、老人星が人の形をして主が喜びを受け、天矢星が黄くなって国が吉祥となり、彗星や孛星が現れて世が忌むところとなる。
そこで四方の極みを傍観し、地理を俯察すると、川や溝は浩汗として分流し、山嶽は磊落として羅列して峙え、滄海は沆漭として四方を囲み、懸圃は隆崇として特に聳え立ち、昆吾は南極に嘉かれ、燭龍は北の地に輝き、扶桑は万仞の高さがあり、尋木は千里の長さがあり、昆侖は陰の隅を鎮め、赤縣(中国)は辰巳(東南)に据わる。ここに八十一の域があり、区分けされ方角別れ、風俗が異なり、険阻が断絶し、万国が羅布し、九州が並列する。青州・冀州は白い土壌、荊州・衡州は塗泥、海岱は赤い粘土、華梁は青黎(黒い土)、兗州は河洛を帯び、揚州は江淮を持つ。方角を弁じ土地を正し、経略して邦を建て、王畿と九服があり、列国は同じく、城を連ね邑を並べ、深い池と高い城壁があり、康衢に道が交わり、四方に達し五方に通じる。東は陽穀に至り、西は泰濛を極め、南は丹砲に及び、北は空同に尽きる。遠方の外区、絶域の殊なる隣国には、人の頭に蛇の体、鳥の翼に龍の身、毛皮や羽を衣とし、甲羅や鱗を持ち、林に棲み水に浮き、獣のようであり人のようであり、大荒の外に住み、巨海の浜に処する。
ここに六合が混一して同じく住み、宇宙が結体して囊に括られ、渾元が流れて運び窮まりなく、陰陽が度を循って常に率いられ、回動が糾紛して健やかに、天道は止むことなく自ら強くある。群生を統べて載せ育み、人は命をその繫がる所に托し、上皇において太一を尊び、五帝において万神を奉る。故に万物の宗とする所は、必ず天を敬い地に事えることである。
もし共工が赫怒し、天柱が摧折し、東南が俄かに既に傾き、西北が豁として中裂し、鰲の足を断って続きを毀ち、玉石を煉って欠けを補ったというならば、まさかこの事に証拠があろうか、それとも言う者の虚設であろうか?何と陰陽の測り難きことか、偉大なる二儀の広大さよ!
坤は厚い徳をもって物を載せ、乾は始めを資して至大となり、下を見れば有形のものを尽く鑑とし、上を見れば覆う所のものを蔽って視、万物を遊び極めて思う。故に一言、天外について述べる。
綏(成公綏)は雅に音律を好み、かつて暑さに当たって風を受けながら嘯(口笛のような声)をし、泠然として曲となり、そこで『嘯賦』を作った。その文は以下の通り。
逸群の公子は、体は奇を好み異を好み、世を敖び栄を忘れ、人事を絶棄し、高きを希い古を慕い、長く想い遠く思う。箕山に登って節を抗し、滄海に浮かんで志を遊ばせんとする。ここに友生を延べ、同好を集め、性命の至機を精しくし、道德の玄奥を研ぎ、流俗の未だ悟らざるを湣れみ、独り超然として先覚し、世路の厄僻なるを狭しとし、天衢を仰ぎて高く蹈み、俗を跨いで遠く身を遺し、乃ち慷慨として長嘯する。時に曜霊(太陽)は俄かに影を傾け、流光は濛汜(日没の地)にあり、逍遙として手を携え、躊躇として歩みを進め、妙声を丹唇より発し、哀音を皓歯より激し、響きは抑揚して潜かに転じ、気は沖鬱して熛り起つ。黄宮を清角に協わせ、商羽を流征に雑え、浮雲を泰清に飄わし、長風を万里に集む。曲既に終わりて響絶え、余り遺玩して未だ已まず。まことに自然の至音にして、絲竹の擬する所に非ざるなり。是の故に声は器を仮らず、用は物を借りず、近くは諸身を取り、心を役し気を御す。唇を動かせば曲あり、口を発すれば音を成し、類に触れ物に感ずれば、歌に因り吟に随う。大いとして洿れず、細くして沈まず、清く激しくして竽笙に切なく、優しく潤んで瑟琴に和し、玄妙は以て神を通じ霊を悟らすに足り、精微は以て幽を窮め深を測るに足り、激楚の哀荒を収め、北里の奢淫を節し、炎旱における洪災を済し、重陰における亢陽を反す。唱いを引いて万変し、曲用いて方無く、和楽は怡懌し、悲傷は摧蔵す。時に幽かに散じて将に絶えんとし、中に矯厲して慷慨し、徐かに婉約にして優遊し、紛わしく繁騖して激揚す。情既に思いて能く反し、心哀れども傷つかず。八音の至和を総べ、固より極楽にして荒むこと無し。
もし高台に登って遠くに臨み、文軒を披いて望みを騁せば、喟然として仰ぎ抃じて首を抗し、嘈然として長く引き憀亮である。或いは舒肆して自ら反し、或いは徘徊して復た放ち、或いは冉弱として柔撓し、或いは澎濞として奔壮である。横鬱嗚して滔涸し、洌繚眺して清昶である。逸気は奮湧し、繽紛として交錯し、烈烈として飆揚し、啾啾として響き作る。胡馬の長思を奏で、寒風を北朔に回らすが如く、又た鴻雁の雛を将うるが如く、群れ鳴き号して沙漠に在るが如し。故に能く形に因りて声を創り、事に随いて曲を造り、物に応じて窮まり無く、機発すれば響速く、怫鬱として沖流し、参譚として雲の属するが如く、離れるが若く合うが若く、将に絶えんとして復た続く。飛廉が幽隧に鼓し、猛獣が中穀に応ずるが如く、南箕が穹蒼に動き、清飆が喬木に振るうが如く、滞積を散じて播揚し、埃靄の溷濁を蕩し、陰陽を至和に変じ、淫風の穢俗を移す。
もし崇岡を遊び、景山に陵し、岩側に臨み、流川を望み、磐石に坐り、清泉に漱ぎ、皋蘭の猗靡を藉り、修竹の蟬蜎に廕り、乃ち吟詠して歎を発すれば、声は驛驛として響き連なり、蓄えし思の悱憤を舒べ、久しく結びし纏綿を奮い、心は滌蕩して累無く、志は俗を離れて飄然たり。
もし金革(鐘鼓など金属・皮革の楽器)を仮像し、陶匏(土・ひょうたんの楽器)を擬則し、衆声繁く奏で、笳の若く簫の若く、磞硠震隠し、訇礚𥕡嘈である。徴を発すれば則ち隆冬熙烝し、羽を騁せば則ち厳霜夏凋し、商を動かせば則ち秋霖春降し、角を奏すれば則ち穀風鳴条す。音均は恒ならず、曲は定制無く、行けども流れず、止まっても滞らず、口吻に随って発揚し、芳気を仮って遠く逝く。音は要妙として流響し、声は激嚁として清厲である。信に自然の極麗にして、 羌 として殊尤にして世を絶ち、『韶』『夏』と『咸池』を越え、何ぞ徒に異を取ることを『鄭』『衛』にのみせん!
時に綿駒は結舌して精を喪い、王豹は杜口して色を失い、虞公は声を輟めて歌を止め、寧子は手を斂めて歎息し、鐘期は琴を棄てて改めて聴き、尼父は味を忘れて食わず、百獣は率いて儛い足を拤え、鳳皇は来儀して翼を拊つ。乃ち長嘯の奇妙なるを知る。この音声の至極なることを。
張華 は張綏を雅に重んじ、その文章を見るたびに感嘆し、これに及ぶ者はいないと認め、太常に推薦し、博士として召し出された。秘書郎を歴任し、丞に転じ、中書郎に昇進した。しばしば張華とともに 詔 を受けて詩賦を作り、また賈充らとともに法律の制定に参与した。泰始九年に死去した。四十三歳であった。著した詩賦雑筆十余巻が世に行われた。
左思
左思は、字を太沖といい、齊國臨淄の人である。その祖先は齊の公族に左右公子がおり、それによって氏とした。家は代々儒学を業としていた。父の雍は、小吏から出発し、才能によって抜擢され殿中侍御史に任命された。左思は幼少時に鐘繇や胡昭の書法や琴を学んだが、いずれも成就しなかった。父の雍は友人に言った。「左思の理解していることは、私の若い頃に及ばない。」左思はこれに感激して勤勉に学び、陰陽の術にも通じた。容貌は醜く、口数は少なかったが、文章は壮麗であった。交遊を好まず、ただ閑居することを務めとした。『齊都賦』を作り、一年かけて完成させた。さらに三都(魏・呉・蜀)を賦にしようとしていたところ、妹の芬が宮中に入ったため、一家を京師に移し、著作郎の張載を訪ねて岷山・邛崍の地の事情を尋ねた。そこで十年をかけて構想を練り、門庭から藩籬や厠に至るまで、すべてに筆と紙を置き、一句思いつくたびにすぐに書き留めた。自ら見聞が広くないと思い、秘書郎になることを求めた。賦が完成したとき、当時の人々はこれを重んじなかった。左思は自らの作品が班固や張衡に劣らないと考え、人のために言葉が軽んじられることを恐れ、安定の皇甫謐が高い名声を持っていたので、彼を訪れて作品を示した。皇甫謐は善しと称賛し、その賦に序文を書いた。張載は『魏都』に注を付け、劉逵は『呉』『蜀』に注を付け、序文を書いて言った。「中古以来、賦を作る者は多い。司馬相如の『子虚賦』が前に名声を独占し、班固の『両都賦』は理がその文辞に勝り、張衡の『二京賦』は文がその意に過ぎる。この賦に至っては、数家を模範とし、言葉を伝え意義を合わせ、精緻なところが多い。研究検討する者でなければその主旨を練ることができず、博識な者でなければその異なる点を統括できない。世の中は皆、遠いものを貴び近いものを軽んじ、物事を明らかにすることに心を用いようとしない。この文章には私も異なる点があると思うので、ついでに残った考えでその注釈を引き出した。これはちょうど胡広が『官箴』に対して、蔡邕が『典引』に対して行ったようなものである。」陳留の衛権はまた左思の賦のために『略解』を作り、序文で言った。「私は『三都』の賦を見るに、言葉はみだりに華美ではなく、必ず経典の要諦に基づき、品物は種類が異なり、図書典籍に拠っている。文辞と意義は瑰麗で、まことに貴ぶべきである。 晉 の征士で故太子中庶子の安定皇甫謐は、西州の隠逸の士で、典籍に耽溺し道を楽しみ、その事を高尚とし、この文章を見て慷慨し、その都の序文を書いた。中書著作郎の安平張載、中書郎の済南劉逵は、ともに経学に広く通じ、才能と文章が美しく豊かで、皆これを喜び玩味し、その訓詁を施した。その山川や土地の区域、草木鳥獣、奇怪な珍異なものについては、すべてその由来を研究し、その意義を解き明かした。私はその文章を賞賛し、黙っていることができず、ついでに二人の遺漏した点を補い、また『略解』を作った。ただ煩雑を増すだけで、見る者は省いてもよい。」これ以降、世間で大いに重んじられるようになったが、文章が多いのでここには載せない。 司空 の張華はこれを見て感嘆して言った。「班固や張衡の流れだ。読む者を飽きさせず、余韻があり、長く読んでも新しさがある。」そこで豪族貴族の家は競って書き写し、 洛陽 では紙の値段が高騰した。初め、陸機が洛陽に入り、この賦を作ろうとしたが、左思が作っていると聞き、手を打って笑い、弟の 陸雲 に手紙を書いて言った。「ここに田舎者がいて、『三都賦』を作ろうとしている。完成したら、酒甕の蓋に使うだけだろう。」左思の賦が出ると、陸機は非常に感嘆し、これ以上はできないと認め、筆を置いた。
秘書監の賈謐が『漢書』の講義を依頼したが、賈謐が誅殺されると、宜春里に退居し、ひたすら典籍に専念した。齊王の冏が記室督に任命しようとしたが、病気を理由に辞退し、就任しなかった。張方が都で暴虐をほしいままにすると、一家を挙げて冀州に移った。数年後、病気で死去した。
趙至
趙至は、字を景真といい、代郡の人である。洛陽に寄寓していた。緱氏県令が初めて着任したとき、趙至は十三歳で、母とともに見物に行った。母が言った。「あなたの先祖はもともと卑賤ではなかったが、世が乱れて離散し、兵士の列に加わったのだ。あなたはその後、このようになれるだろうか。」趙至は母の言葉に感じ入り、師のもとで学業を受けた。父が耕作して牛を叱る声を聞くと、書物を投げ出して泣いた。師が怪しんで尋ねると、趙至は言った。「私は幼くてまだ栄誉をもって養うことができず、年老いた父に勤労苦労を免れさせられないのです。」師は非常に驚いた。十四歳のとき、洛陽に行き、太学で学んだ。太学で石経を写している嵇康に出会い、彼の周りを歩き回って見つめ、去ることができず、姓名を尋ねた。嵇康は言った。「若いのにどうして尋ねるのか。」趙至は言った。「あなたの風采と器量が並外れているので、尋ねたのです。」嵇康は驚いて告げた。後に山陽に逃げて行き、嵇康を求めたが見つからず帰った。また遠くに学びに行こうとしたが、母が禁じたので、趙至は狂ったふりをし、三、五里走っては追いつかれた。十六歳のとき、鄴に遊学し、再び嵇康と出会い、嵇康について山陽に戻り、名を浚、字を允元と改めた。嵇康はしばしば言った。「あなたは頭が小さく鋭く、瞳の白黒がはっきりしていて、白起の風格がある。」嵇康が死去すると、趙至は魏興に行って太守の張嗣宗に会い、非常に厚遇された。張嗣宗が江夏の相に転任すると、溳川まで随行し、呉に入ろうとしたが、張嗣宗が死去したため、遼西に向かって戸籍を定めた。
初め、趙至は嵇康の兄の子の嵇蕃と親しくしていた。遠くに行くことになったとき、嵇蕃に手紙を送って別れを述べ、自分の志を陳べた。
昔、老子(李耳)が秦に入り、関所で嘆いた。梁鴻が越の地に行き、山に登って長く歌った。隠遁という善き行いでさえ、なお未練や恨みを抱くのだ。ましてややむを得ない事情の者はなおさらである。別れて以来、群れから離れて独り去り、栄華の宴を背にし、仲間との親交を辞し、遠い道を経て、沙漠に至る。鶏が鳴いて夜明けを告げると、飄然と朝の旅に出る。日が西山に傾くと、馬の首を向けるべき場所もない。曲がりくねった険しい道をたどれば、思いは沈み絡みつく。高みに登って遠くを眺めれば、山川が隔てている。あるときは旋風が激しく吹き荒れ、白昼の光が消え、立ち寄り交錯し、丘陵と低地が互いに見渡せる。九皋の内を徘徊し、重なる丘の頂で慷慨する。進むべき道はなく、退くべき拠り所もない。沢を渡って小道を求め、藪を分けて道を探す。溝渠で嘯詠しても、まことに渡ることはできない。これもまた旅路の艱難であるが、私の心の恐れるところではない。蘭や芷が倒れ、桂林が移植され、根がまだ張らずに芽が浅く弦が張り詰めているような状態では、いつも風波がひそかに起こり、危機が密かに発することを恐れる。これが長い道で警戒する理由である。また、北方の土地の性質は、根を下ろすのが難しく、夜光の珠を人に投げ与えても、剣に手をかけない者は稀である。今、玄朔(北方)に橘や柚を植え、長い陵に華やかな蓮の根を据え、裸の土地に龍の文様を表し、聾の俗世に『韶』や『武』の楽を奏でようとする。固より貴ばれることは難しい。物が私を貴ばなければ、誰も与えず、誰も与えなければ、害する者が来る。飄々と遠く遊ぶ士は、人のいない郷に身を寄せ、遠路に手綱を取れば、前に言ったような困難があり、粗末な家に鞍を懸ければ、後の憂慮の戒めがある。朝霞が輝きを開けば、身は疲れて早く出発し、太陽が光を収めれば、心は労苦して夕方も警戒する。平らな低地に目を向ければ、広々として見るものなく、長い原野に耳を澄ませば、静寂として聞くものがない。ああ、悲しいことだ。心は傷み疲れた。そして初めて、歩みを進める士が貴ぶに足らないことを知るのである。
中原を眺め、雲が湧き上がるのを憤り、物事を哀しみ世を悼み、激情が風のように激しい。龍が広野に咆哮し、獣が天下を睨み、猛志が乱れ、雄心が四方に据わる。雲梯を踏み、八方に奮い立ち、艱難を払い穢れを掃い、海を蕩かし山岳を平らげ、崑崙を蹴って西に倒し、泰山を踏んで東に覆し、九つの区域を平らげ清め、宇宙の秩序を回復する、これが私の浅はかな願いである。時は私を待たず、翼を垂れて遠く逝き、刃も距も加えられず、六枚の羽根が折れ屈する。天命を知る者でなければ、誰が憤り悩まずにいられようか。あなたは芳しい苑に根を張り、清流に秀でて洗われ、華やかな崖で葉を乾かし、雲の書斎で文藻を飛ばし、潜龍の渚に俯して拠り、遊鳳の林に仰いで陰り、栄光がその前で眩しく、艶やかな色がその後で餌となり、良田がその左に交わり、名声がその右に馳せ、人々の間を翱翔し、帷帳の内で姿を弄び、ゆったりと顧み眄り、余裕綽々とし、俯仰して吟じ嘯き、自ら志を得たと思っているが、どうして我々と同じ大丈夫の憂楽を共にできようか。
去れよ嵇生、遠く離れ隔たれよ。孤独に漂い寄る、沙漠に臨む。はるかなる三千里、道は渡り難し。手を携える期は、遥かで日なし。思いの心はますます結ばれ、誰が解くと言えようか。金玉のごときあなたの音信はなく、遠ざかる心がある。身は胡と越のように離れていても、心は断金の思いを保つ。それぞれお前の儀容を慎み、質朴沈潜を厚く実践せよ。繁華は流れ漂い、君子はこれを尊ばない。紙に臨んで思い結び、また何を言うべきか知る。
身長は七尺四寸に至り、議論は精緻で弁舌鋭く、縦横の才気があった。遼西から郡の計吏として推挙され、洛陽に到着し、父と出会った。当時母は既に亡くなっており、父は彼に官途で立身させようと、それを告げず、帰らないよう戒め、彼はついに遼西に戻った。幽州から三度部従事に辟召され、九つの獄事を裁断し、精審と称賛された。太康年間、良吏として洛陽に赴き、ようやく母の死を知った。初め、至は自ら士伍であることを恥じ、官学によって名声を立て、栄誉をもって親を養うことを期していた。その後その志が成就せず、号泣して慟哭し、血を吐いて卒した。時に三十七歳。
鄒湛
鄒湛、字は潤甫、南陽郡新野県の人である。父の鄒軌は、魏の左将軍であった。湛は若くして才学で知られ、魏に仕えて通事郎・太学博士を歴任した。泰始初年、 尚書 郎・廷尉平・征南従事中郎に転じ、 羊祜 に深く器重された。入朝して太子中庶子となった。太康年間、 散騎常侍 に任じられ、出向して渤海太守を補し、転じて太傅楊駿の長史となり、侍中に遷った。楊駿が誅殺されると、僚佐として連座し免官された。まもなく起用されて 散騎常侍 ・国子祭酒となり、少府に転じた。元康末年に卒した。著した詩および論事議二十五首は、当時重んじられた。
かつて、湛は一人の人物を見る夢を見た。自ら甄舒仲と名乗り、他には何も言わなかった。このようなことが一度ならずあった。長い時を経て、ようやく悟って言った。「私の家の西に積もった土と壊れた瓦がある。その中には必ず死人がいる。甄舒仲とは、私の家の西の土瓦の中の人だ。」調べてみると、確かにそうであり、手厚く葬儀を行って埋葬した。埋葬が終わると、その人が来て感謝する夢を見た。
子の鄒捷、字は太応、これまた文才があった。永康年間、散騎侍郎となった。趙王 司馬倫 が 簒 逆した時、捷は陸機らと共に 禅譲 文を作った。 司馬倫 が誅殺されると、連座して廷尉に下され、赦令に遇って免罪された。後に太傅参軍となった。永嘉末年に卒した。
棗據
棗據、字は道彥、潁川郡長社県の人である。本来の姓は棘であったが、先祖が仇を避けて改姓した。父の棗叔禕は、魏の鉅鹿太守であった。據は容貌が美しく、文辞に優れていた。弱冠で大将軍府に辟召され、出向して山陽県令となり、政績があった。尚書郎に遷り、右丞に転じた。賈充が呉を討伐する時、従事中郎を請うた。軍が帰還すると、黄門侍郎・冀州 刺史 ・太子中庶子に転任した。太康年間に卒し、時に五十余歳であった。著した詩賦論四十五首は、乱に遭って多くが散逸した。
子の棗腆、字は玄方、これまた文章で顕著であった。永嘉年間に襄城太守となった。弟の棗嵩、字は台産、才芸が特に優れ、太子中庶子・ 散騎常侍 となり、 石勒 に殺害された。
褚陶
褚陶、字は季雅、呉郡銭塘県の人である。幼い頃から遊びを好まず、年少にして聡明で慧く、清らかで淡泊、閑静で沈黙を好み、古典を以て自ら楽しんだ。十三歳の時、『鷗鳥賦』『水磑賦』の二つの賦を作り、見た者はこれを奇異とした。陶はかつて親しい者に言った。「聖賢は皆、書物の中に備わっている。これを捨てて他に何を求めることがあろうか。」州郡から辟召されたが、応じなかった。呉が平定されると、召し出されて尚書郎を補した。張華が彼に会い、陸機に言った。「あなた兄弟は龍が雲の渡し場に躍り出るようであり、顧彥先は鳳凰が朝陽に鳴くようだ。東南の宝は既に尽きたと思っていたが、思いがけずまた褚生を見た。」機は言った。「あなたはただ、鳴かず躍らない者を見ていないだけです。」華は言った。「それゆえ延州の徳は孤立せず、山川の宝は尽きないことを知った。」九真太守に遷り、中尉に転じた。五十五歳で卒した。
王沉
王沉、字は彥伯、高平郡の人である。若くして俊才があり、寒素の家柄であったが、俗に浮き沈みすることができず、時の豪族に抑圧された。郡の文学掾に仕えたが、鬱々として志を得ず、そこで『釈時論』を作った。その文は以下の通りである。
東野の丈人が時勢を観て住み、隠れて肥沃な土地を耕していた。氷氏の子という者が、厳寒の谷から出て来て、通りかかり道を尋ねた。丈人は言った。「あなたはどこから来たのか。」答えて言った。「凍てつく陰の郷からです。」「どこへ行くのか。」「煌々たる堂へ行きたいのです。」丈人は言った。「煌々たる堂に入る者は、必ず赫々たる光がある。今あなたは寒さに困っているのに熱を求めようとしている。熱を得る方法がない。」氷の子は驚いて言った。「なぜそうなのですか。」丈人は言った。「和やかな者は皆、熱に趨る士であり、炉冶の門を得る者は、炭を抱える者だけである。もしそのような人でなければ、やめておく方がよい。」氷の子は言った。「私は聞く、宗廟の器は華林の木を必要とせず、四門の賓客は必ずしも冠蓋の族である必要はないと。前賢には革の紐を解いて朱の蔽膝を佩き、徒歩で担ぐのを捨てて丹塗りの車に乗った者もいる。このことから言えば、何を憂えて禄がないことがあろうか。ただ先生が私に速やかな道を教えてください。」
老人は言った。「ああ、お前はそのように道理を得たと聞いているが、時勢が彼方にあることを知らない。私はお前を解き放とう。道には安泰と危険があり、時には険難と平易があり、才能には応じるものがあり、行いには適するものがある。英傑奇才は縦横の世に奮い立ち、賢者智者は覇王の初めに顕れる。厄難に当たれば権謀譎略を駆使して良策を図り、制作の時には儒道を展開して暢やかに述べる。これが袞龍が縕褐から出て、卿相が匹夫から起こる所以であり、故に朝には賤しくして夕には貴く、先には巻き後には舒くことがあるのだ。その時には、どうして門地の高卑を計り、勢位の軽重を論じようか。今はそうではない。上は聖明、下は明らかで、時は隆盛し道は平穏である。諸侯は安逸で、安楽に平穏を守っている。百官君子は代々相生じ、公の門には公が、卿の門には卿がいる。禿げた骨を指さしても、愚か者を選り分けない。多くの士人は貴族に豊かで、爵位官職は閨庭の外に出ない。四門は穆穆として、綺襦が満ち、仍叔の子らは皆老成している。賤しい者は常に辱めを受け、貴い者は常に栄える。肉食者は華屋に踵を継ぎ、粗食者は耨耕の跡を襲う。名位を談ずる者は諂媚して勢いに附き、高い誉れを挙げる者は資産によって形に随う。甚だしきに至っては、空虚で騒がしい者は泓噌を雅量とし、瑣末な知恵者は浅い利を槍槍とし、脢胎者は無検束を弘曠とし、僂垢者は守意を堅貞とする。嘲哮する者は粗野な発言を高亮とし、韞蠢する者は色厚を篤誠とし、痷婪する者は博く受け入れるを通済とし、眂々とする者は入り難いことを凝清とし、拉答する者は沈重の誉れを持ち、嗛閃する者は清剿の名声を得る。嗆啍する者は謙譲を怯え畏れ、闒茸なる者は饕諍に勇敢である。これらは皆、寒素の死病であり、栄達の嘉名である。凡そこの流れを視れば、その心の用い方を観察し、その安んずる所を察すれば、人を責めることは必ず急で、己に対しては常に寛大である。徳は厚くないのに自ら貴び、位は高くないのに自ら尊び、眼は向かうこともなく遠くを見、鼻は𪖷𪖐として天を刺す。君子を忌み悪み、小人に悦び媚び、道素を敖蔑し、権門に懾籲する。心は利によって傾き、智は勢いによって惛む。姻党は相扇ぎ、毀誉は交えて紛れる。当局は受ける所に迷い、聴采は聞く所に惑う。京邑は翼翼として、群士は千億、勢門に奔り集い、官を求め職を買う。童僕はその車乗を窺い、閽寺はその服飾を見合わす。親客は靖室で陰に参じ、疏賓は門側に徙倚する。時に接見に因り、容色を歴めて誇り、心は内に荏く、外には剛直を詐る。道義を談ずる者は俗生と呼び、政刑を論ずる者は鄙極と為す。高会曲宴では、ただ転任・昇進の消息を言い、官の大小を問わず、誰の力かを問う。今、お前は孤寒であり、真を懐き素を抱き、志は雲霄を陵ぎ、景に偶って独歩する。ただ常道に順うが、関津は渡り難く、韓盧を駆けさせようとしても、時に狡兔はなく、多くの道は壊れ塞がり、足を投じるに何を誤ろうか。」
すると氷子は釈然として悟り、言った。「富貴は人の欲する所、貧賤は人の悪む所である。私は幼少より孔顔の門に長じ、久しく清寒の路に処してきたが、熱勢が自ら共に遮錮するとは思わなかった。謹んで明誨を受け、我が初めの素に服し、琴を弾じ典を詠じて、年祚を保とう。伯成・延陵は、高節慕うべし。丹轂は族を滅ぼし、呂霍は哀吟し、朝に栄えて夕に滅び、朝に飛んで暮に沈む。 聃 周は道の師、巣由は徳の林。豊屋蔀家は、『易』に明らかな箴を著す。人薄く位尊ければ、積罰は任じ難く、三郤は 晉 に屍し、宋華は咎深し。扃を投げ幅を正すは、実に我が心を得たり。」
この時、王政は陵遅し、官才は実を失い、君子多くは退いて窮処し、遂に里閭に終わる。
元康の初め、松滋令の吳郡の蔡洪、字は叔開、才名があり、『孤奮論』を作り、『釋時』と意を同じくし、これを読む者、嘆息しない者はなかった。
張翰
張翰、字は季鷹、吳郡吳の人である。父の儼は、呉の大鴻臚であった。翰は清才があり、文をよくしたが、縦任で拘わらず、当時の人は「江東の步兵」と号した。 会稽 の賀循が命に赴いて洛に入る時、呉の閶門を経て、船中で琴を弾いていた。翰は初め面識がなかったが、賀循に近づいて語り合い、大いに欽悦した。賀循に尋ね、その洛入りを知ると、翰は言った。「私も北京に用事がある。」便に同乗して即座に去り、家人には告げなかった。斉王冏が大司馬東曹掾に辟召した。冏が当時権力を執っていたが、翰は同郡の顧栄に言った。「天下は紛紛として、禍難は未だ已まない。四海の名を持つ者は、退くことは誠に難しい。私はもともと山林の間の人で、時世に望みはない。あなたはよく明をもって前を防ぎ、智をもって後を慮るがよい。」栄はその手を握り、愴然として言った。「私もあなたと共に南山の蕨を採り、三江の水を飲もう。」翰は秋風が起こるのを見て、呉中の菰菜、蓴羹、鱸魚膾を思い、言った。「人生は適志を得ることを貴ぶ。どうして数千里を羈宦して名爵を求めようか。」遂に車を命じて帰った。『首丘賦』を著したが、文は多く載せない。間もなく冏が敗れたので、人々はこれを機先を見たと言った。しかし府はその勝手な去り方を理由に吏名を除いた。翰は心のままに自適し、当世を求めなかった。ある者が彼に言った。「あなたは一時の縦適を良しとするが、ただ身後の名のためにはならないのか。」答えて言った。「私に身後の名があるなら、即時の一杯の酒には及ばない。」当時の人はその曠達を貴んだ。性は至孝で、母の憂いに遭い、哀毀が礼を過ぎた。五十七歳で卒した。その文筆数十篇が世に行われた。
庾闡
庾闡、字は仲初、潁川鄢陵の人である。祖父の輝は安北長史。父の東は勇力で知られた。武帝の時、西域の健胡で趫捷無敵の者がおり、 晉 人は敢えてこれと較べる者はいなかった。帝が勇士を募ると、ただ東が応選し、遂にこれを撲殺し、名は殊俗に震えた。闡は学を好み、九歳で文を属することができた。幼くして舅の孫氏に従って江を渡った。母は兄の肇に従って楽安長史となり、項城にいた。永嘉の末、 石勒 に陥落され、闡の母も没した。闡は櫛沐せず、婚宦せず、酒肉を絶ち、ほぼ二十年に及び、郷親はこれを称えた。州が秀才に挙げ、元帝が 晉 王となった時、辟召したが、皆行わなかった。後に太宰・西陽王羕の掾となり、累遷して尚書郎となった。蘇峻の難に、闡は出奔して郗鑒に奔り、 司空 参軍となった。峻が平定され、功により吉陽県男の爵を賜り、彭城内史に拝された。鑒が再び請いて従事中郎とした。間もなく召されて散騎侍郎となり、大著作を領した。ほどなく、出補して零陵太守となり、湘川に入り、賈誼を弔った。その辞は次の通りである。
中興二十三載、私は衡南を守るに忝くし、三江に鼓栧し、路は巴陵に次ぎ、君山を望んで洞庭を過ぎ、湘川に渉りて汨水を観、賈生が書を投じた川に臨み、慨然として永く懐うた。長沙に至り、その遺象を観て、喟然として感ずる所があり、乃ちこれを弔う。
偉大なるかな、蘭は生じて芳しく、玉は産して潔く、陽の葩は氷に熙ぎ、寒松は雪を負い、莫邪は鍔を挺で、天驥は汗血す。仮にその雋を云わば、誰か傑と比べようか。ここをもって高明で倬茂、独り奇秀を発し、道は天真に率い、世の疚を議せず、煥乎として望舒が景を耀かして群星を焯くが若く、矯乎として翔鸞が翼を拊して宇宙に逸するが如し。栄は洛汭に飛び、穎は山東に擢げ、質清く浮磬の如く、声は孤桐の若し、琅琅としてその璞、岩岩としてその峰、道を通じて正に居り、以て天下を公と為し、方駕して逸歩すれども、曲路を以て通ずるを期せず。ここをもって張高弘悲、声は柱を激して落ち、清唱未だ和せずして桑濮代わりに作る。仮に惠音あれども、『韶』『濩』に過ぎず。仮に騰鱗あれども、終に一壑に僕す。嗚呼、大庭既に邈く、玄風悠かに緬び、皇道は智を以て隆せず、上徳は仁を以て顕れず。三五の親誉は、その軌轍仰ぎて標すべく、霸功は逸れども、その塗は翼として闡くべし。悲しいかな先生、何ぞ命の蹇なること。宝を懐いて玉の如くして、生運の浅きこと。
昔、咎繇は虞舜に謀を献じ、呂尚は周の文王に帰順した。その徳が符瑞と合致し、帝王に応じたのである。管仲は桓公を補佐し、漢では蕭何・張良が登用された。草廬に三顧の礼、その芳しさは蘭の香りのようだ。ゆえに道が隠れれば尺取虫のように身を屈し、時運が感じられれば鳳凰のように姿を現す。もし棲む木を選ばず、九五の位でなく翔けようとするなら、たとえ玉が砕けると言えども、優れた才が何の足しになろうか。心が死灰でないなら、知恵は必ず形に宿り、形は精神の働きを託す。故によく生き延びることができる。どうして蘭の膏が、漢の朝廷に芳香を放ちながら、疾風に景気を摧かれ、ただその明るさを失うことがあろうか。悠久たる太素、存亡は一指の間にあり、道が来れば通じ、世が去れば崩れる。私はその生を哀しみ、その死を見ず。敢えて敬って弔い、清き水に託す。
後に病気のため、給事中に任命され、再び著作郎を兼任した。呉国内史の虞潭が太伯の碑を建立した際、庾闡がその碑文を作成した。また『揚都賦』を作り、世に重んじられた。五十四歳で死去し、諡は貞といった。著した詩・賦・銘・頌十巻が世に行われた。
子の肅之もまた文藻で知られ、給事中・相府記室・湘東太守を歴任した。太元年間に死去した。
曹毗
曹毗は、字を輔佐といい、譙国の人である。高祖父の曹休は、魏の大司馬であった。父の曹識は、右軍将軍であった。曹毗は若い頃から文籍を好み、詞賦を作るのが巧みであった。郡から孝廉に推挙され、郎中に任じられ、蔡謨が佐著作郎に推薦した。父の喪で職を去った。喪が明けると、句章県令に転じ、太学博士に任命された。当時、桂陽の張碩が神女の杜蘭香に降りられると、曹毗はこれに因んで二篇の詩を作って彼を嘲り、さらに蘭香の歌詩十篇を続けて作り、非常に文彩があった。また『揚都賦』を著し、庾闡に次ぐものとされた。累進して尚書郎・鎮軍大将軍従事中郎・下邳太守となった。名声と地位が至らぬことを憂い、『対儒』を著して自らを解き明かした。その文は次のようである。
ある者が曹子に問うた。「宝玉は珍しいものを含むことを貴ばれ、士は才能を蔵することを尊ばれる。麒麟は跡を絶つことで奇を標し、松は霜に耐えることで俊と称される。ゆえに蘭は幽澗に生え、玉は千仞の高さで輝く。故に子州は滄瀾を渡って龍のように蟠り、呉季は万乗の位を顧みずに印を解き、虞公は崇岩に潜んで精神を養い、梁生は南越に赴いて慎みを保った。かくして真を全うし和を養い、跡を平らかにし潤いに通じ、冬を凌いで芳香を放ち、雪を払って独り振るうことができたのである。
今、あなたは幽玄の風を仰ぎ、幼くして秀でた容姿を持ち、幼い年齢で奇をなし、幼い童の筆を振るう。言葉を吐けば藻飾は楊雄・班固に落ち、心を高く掲げれば志は高く飛ぶ鴻に擬し、道の味わいを求めれば道理は荘子・列子に貫通し、妙を究めれば穎鋭さは豪傑の鋒を奪う。広漠の地に騰り茂り、素朴な薄に並んで青々と茂るに足るのに、どうして刑礼を己が任とし、申不害・韓非を広く通じたものとせねばならないのか。すでに東観に登り、史筆に染まり、また太学に拠って儒教の功績を治めている。少しも玄妙な韻致や淡泊さ、超逸の気や虚ろな洞、幽暗に光彩を養い、明暗をぼんやりと覆うことを持たない。林に棲む者の跡を追わず、鱗を抱く龍を望まず、真を練る術を営まず、内なる聴きの聡明を慕わない。しかも平凡な地位にあって事物を検証し、塵俗の教えを扇いで自らを曇らせ、塩車を背負って才能を顕わし、己を飾って恭しさを求める。退いても漆園の場に居らず、出ても曾城の要衝を踏まず、遊んでも綽約たる室を踏まず、諮っても騄駬の跡を望まない。ただ取るに足らぬ懐で名目の典を整え、覆いかぶさる蕢の量で北川の洪水を塞ぎ、俄頃の間に名実を検証し、一管の筆鋒で得失を定めようとする。
あなたがもし私を本当にそうだと言うなら、それは必ずしも世俗に合致する必要はない。あなたがもし世俗が本当に間違っていると言うなら、世俗は苟も従うべきものではない。世俗と私が入り乱れて争い、利害が渾然としてますます重くなるのは、朽ちた手綱を執って逸る駿馬を御し、強い風を受けて秋の蓬を握り、恬淡な本性を労役に充てる役所に駆り立て、万物に対して怨みを二倍にすることと何が異なろうか。あなたは終軍の穎鋭さ、賈誼の才を聞かないのか。山東の地から奇才を抜擢し、玉のように漢の朝廷に映え、六合に響き渡り、声は幼子をも驚かせたというのに、絳侯・灌嬰の口によって毀られ、狼狽した災いに身を離された。これによって言えば、名声は実の賓客であり、福は禍の胎となる。朝には栄華を敷き、夕には塵埃に帰する。玄圃に虚心を澄まし、蓬萊に瑤林の陰を作り、世事を絶って黄石公・綺里季のような俊才となり、滄川に鼓して龍の鰓を波立たせる者には及ばない。私はひそかに惑っている。」
主人は耳をそばだてて笑い、欣として言った。「両儀が開かれ、陰陽が広大に分かれ、五才が代わる代わる用いられ、化生が紛糾して起こり、万物が雲のごとく群がり、誰がその兆しを測ることができようか。故に閬風に登らなければ、どうして特別な目の形を眺めることができよう。景星の宿に歩み寄らなければ、どうして広大な外観を見ることができようか。ゆえに粗雑に迷う者は一往の知恵に従い、偏狭な者は一方の矯りを守る。どうして火の林の炎える枝の茂り、氷の川の陽草の抜きん出ることを知ることができようか。故に大人は達観し、化に任せて昏きも明きも受け入れ、出ても極めて労せず、処しても巣ごもりの隠者にならず、儒にあれば儒となり、道にあれば道となる。運が屈すればその清らかな輝きを曲げ、時が伸びればその龍の藻飾を散らす。これは円満な動きの用捨であって、尋常の者が宝とするものではない。
今、三明が互いに照らし、二気が宣べられ、玄妙な教えは夕べに凝り、明るい風は朝に鮮やかである。道は才によって暢び、化は理に随って全うされる。故に五典は百官の務めにおいて明らかになり、虞舜の音は五弦に響き合い、安期生は秀林で褐を解き、漁父は長川で釣り針を振るう。このようであれば、化は融けざるなく、道は延びざるなく、風は俗において澄み、波は川において清らかである。まさに慶雲の中で黄虯を舞わせ、霊山に儀鳳を招き、華やかな門に玉の醴を流し、庭前に朱草を咲かせようとしている。どうして道理に背く患いや、真を累わす嫌疑があろうか。あなたはただその説を弁じることを知るだけで、その源を測っていない。朝に生える菌は晦朔を越えられず、蟪蛄は大年を見ることができない。これは固より筆管の述べるところではなく、聊か敬って答えて篇を終えよう。」
累進して光禄勲に至り、死去した。著した文章は合わせて十五巻あり、世に伝わった。
李充
李充は、字を弘度といい、江夏の人である。父の李矩は、江州 刺史 であった。李充は幼くして孤児となり、父の墓中の柏樹が盗賊に伐り倒された時、李充は自ら手刃してこれを殺し、これによって名を知られた。楷書をよくし、鍾繇・索靖の書法に妙に通じ、世に重んじられた。丞相 王導 の掾に召され、記室参軍に転じた。幼い頃から刑名の学を好み、虚浮の士を深く抑え、かつて『学箴』を著して称えた。
『老子』に言う、「仁義を絶ち棄てれば、家に孝慈が復する」と。仁義の道が絶えて初めて孝慈が生じるというわけではない。仁義に情を寄せる者が少なく、仁義を利用する者が多いことを憂えているのである。道徳が失われて仁義が顕わになり、仁義が顕わになって名利が起こる。礼教の弊害は、まさにここにある。先王は道徳が行われないので、仁義をもって教化し、仁義の行いが篤実でないので、礼律をもって検束した。検束すればするほど偽りもますます広がり、老子と荘子は無為の益を明らかにし、争いと欲望の門を塞いだのである。極めて霊妙な知恵を総合し、会通の和をまとめるものは、聖人に及ぶものはない。一代の宏大な制度を革め、千年の遺風を垂れることは、聖人でなければ成し得ない。しかし、聖人が世にあるときは、言葉を吐けば訓戒の言葉となり、事に臨めば物事の規範となり、運が通じれば時とともに隆盛し、道理が失われれば世とともに弊害となる。そこで大きく論じてその主旨を標示するのである。物には必ず宗(根本)があり、事には必ず主(中心)がある。責任を聖人に託し、陳跡(過去の事績)に煩わしさを遺すのである。だから、絶聖棄智をもって教化し、名のない樸(ありのまま)をもって鎮める。聖人の教えはその末を救い、老子と荘子はその本を明らかにする。本と末の道は異なるが、教えとしての目的は一つである。人が迷うのは、その日が久しい。形を見る者は多く、道に及ぶ者は少ない。千仞の高き門を見ずに、ただ物事の跡に適い、跡を追うことますます篤く、本から離れることますます遠く、ついに華やかな端緒と薄俗とがともに興り、妙なる緒(はじめ)と淳風とがともに絶えてしまった。だから聖人は長く潜みながらも、その跡は決して滅びなかったのである。後進の者がこのように惑うことを恐れ、礼を越え学を棄てて無為の風を希求し、義教の衰えを見てその隆盛を見ないようになるのを慮り、おおよそ懐くところを述べて、その欠けたところを補おう。道家の宏大な主旨を引き、世の教えに適うところを合わせる。義が本に背き、言葉が放縦に流れないようにし、もって困蒙(道理に暗い者)の蔽いを除き、一往(一方的)な惑いを悟らせたいと思う。その文辞は次のようである。茫々たる太初、悠々たる鴻荒(広大な原始)、蚩蚩たる万類、道とともに忘れる。聖人の跡は未だ顕わならず、賢者の名は彰(あきらか)ならず、この鼓腹(腹を打って楽しむ)を怡(よろこ)び、我が倡狂(無心に振る舞う)に率(したが)う。生を資(と)ることは既に広く、群(多くの)途は通じようと思う。暗きは実に明らかなるを師とし、我に蒙(くらい)を求めず、己を遺(す)てて物を済(すく)い、天下を公となす。大庭氏が基を唱え、伏羲・神農が宏(ひろ)く賛(たす)け、六位(上下四方)時に成り、離(明るい)暉(ひかり)大観(広く見渡す)し、潤いは雨に洽(あまね)く、化は風に流れて散じ、家ごとに同じ塵(ちり)にありながら人は僭乱(みだれ)することがない。ここに中古に至り、哲王(賢明な王)相継ぎ、質と文が代わりに起こり、礼の統(おさめ)が次々に興る。事は用によって繁雑になり、化は阻(はば)まれて凝(こご)る。動は性を乱すものではなく、静は神が澄むというわけではない。名がこれによって彰(あきらか)になり、道がこれによって廃れる。隆(さか)んじるところを損ない、替(か)わるところを崇(たっと)ぶ。刑罰は徳の衰えによって起こり、三辟(各種の刑罰)は叔世(末世)に興る。既に敦(とん)んじ、既に誘(いざな)い、矯(ただ)し、励(はげ)ます。敦(とん)んずることも既に備わり、矯(ただ)すことも既に深く、彫琢して文(もよう)を生じ、抑揚して音を成す。群(多くの)能は技を騁(は)せ、衆巧は心を尽くす。野に陸馬(放し飼いの馬)なく、山に散林(散らばった林)なし。風は動かざるなく、化は移らざるなし。人の徳を失えば、正に反して奇(きみょう)を作(な)す。欲を放(ほしいまま)にして礼を越え、希(ねが)い競うことが病であることを知らず、あの平らな道を違(さ)り、この険しい径(みち)に従う。狡(する)い兎は岡を陵(のぼ)り、游魚は川を遁(のが)れる。至賾(きわめて深遠)で深妙、大象(宇宙の根本原理)は幽玄である。餌を棄て罠を収めて、蹄(わな)と筌(うけ)の功を責め、先の統(おさめ)は帰する所を喪(うしな)い、忘言(言葉を超えた境地)に旨(趣旨)を寄せる。政治は異なり言葉を徴(もと)め、本を抜き源を塞ぐ。跡を遁(のが)れて永日(長い日)を過ごし、響きを尋ねて窮年(一年中)を費やす。意を刻(きざ)んで性を離れ、その自然を失う。世に険と夷(たいら)があり、運に通じると塞(ふさ)がるとがある。損益は時に適い、昇降は理によるのみ。道は一日も廃することはできず、また一朝に擬(なぞら)えることもできない。礼は千年に制することはできず、また当年(その年)に止めることもできない。仁なくしては物を長(はぐく)むことができず、義なくしては恥を斉(ととの)えることができない。仁義は固より遠ざけることはできない。仁義を害するものを除くだけである。力を尽くして行っても及ばないことを恐れ、希求企(のぞ)んでも遠く及ばない。室に善言あれば、千里に応ずる。まして行いを止めて礼に復し、己に克つことにおいてはなおさらである。風人(詩人)が箴(いましめ)を司り、君子に敬(つつし)んで贈る。
征北将軍の褚裒がまた彼を参軍に引き立てたが、李充は家が貧しいことを理由に、苦しんで外任を求めた。褚裒が県令にしようとして試しに尋ねると、李充は言った。「窮した猿が林に投げ入られる時、どうして木を選ぶ暇があろうか!」そこで県令に任じられたが、母の喪に遭った。喪が明けて、大著作郎となった。
当時、典籍は混乱していたので、李充は煩雑で重複する部分を削除し、類によって従わせ、四部に分けた。非常に条理が通っており、秘閣はこれを永久的な制度とした。累進して中書侍郎となり、在官中に死去した。李充は『尚書』と『周易旨』六篇、『釈荘論』上下二篇、詩・賦・表・頌などの雑文二百四十首に注釈を施し、世に行われた。
子の李顒もまた文才があり、多くの著述を行い、郡から孝廉に推挙された。
李充の従兄の李式は、平穏で隠逸していることで知られ、楷書と隷書に優れていた。中興(東晋の建国)の初め、侍中まで官職に就いた。
袁宏
袁宏、字は彦伯、侍中袁猷の孫である。父の袁勖は臨汝県令であった。袁宏は抜きん出た才能を持ち、文章は非常に優れていた。かつて詠史詩を作ったが、これは彼の風情が寄せられたものである。幼くして孤貧であり、租税の運搬を生業としていた。謝尚が当時牛渚を鎮守していた時、秋の夜に月に乗じて、軽率に左右の者と微服で長江を船遊びした。たまたま袁宏が船中で詩を吟誦しており、声は清らかで調和がとれ、言葉も華麗で抜きん出ていたので、立ち止まって長く聞き、人を遣って尋ねさせた。答えて言うには、「袁臨汝(袁勖)の郎君が詩を誦んでいるのです」と。それはまさに彼の詠史の作であった。謝尚は率直で風流な趣きがあり、すぐに迎えて船に上げ、彼と談論し、夜明けまで眠らず、これ以降、名声は日増しに高まった。謝尚が安西将軍・ 豫 州 刺史 となった時、袁宏を引き立ててその軍事に参与させた。累進して大司馬 桓温 の府の記室となった。桓温は彼の文筆を重んじ、書記を専ら総括させた。後に『東征賦』を作ったが、賦の末尾に渡江した諸名士の徳を列挙して称える中で、ただ桓彝だけを載せなかった。当時、伏滔が先に桓温の府におり、また袁宏と親しかったので、苦しく諫めた。袁宏は笑って答えなかった。桓温はこのことを知って非常に憤ったが、袁宏が当代の文宗であることを憚り、人に公然と尋ねさせようとはしなかった。後に青山に遊んで飲んで帰る時、袁宏に同乗を命じた。周囲の者は彼のことを恐れた。数里行った後、袁宏に尋ねて言った。「あなたが『東征賦』を作り、多くの先賢を称えていると聞くが、どうして私の父君に及ばないのか?」袁宏は答えて言った。「尊公の称え方は下官が専断できるものではなく、また啓上する暇もなく、敢えて顕わにしなかっただけです。」桓温は本当でないと疑い、言った。「あなたはどのような言葉にしようとしたのか?」袁宏はすぐに答えて言った。「風鑒(人を見抜く眼力)は散朗(おおらかで明るく)、或いは探り或いは引き立て、身は亡びても、道は損なわれることはない。宣城(桓彝の爵位宣城内史)の節操は、信義をもって確かである。」桓温は涙を流してやめた。袁宏の賦はまた 陶侃 にも及ばなかった。 陶侃 の子の胡奴がかつて奥の部屋で刃を抜いて袁宏に問うた。「家君の勲功と事跡がこのようにあるのに、あなたの賦はどうして軽んじるのか?」袁宏は困り窮まって答えた。「私はすでに尊公を盛大に述べています。どうして無いと言うのですか?」そこで言った。「精金は百回淘汰され、切る時に能く断つ。功は時を済(すく)い、職は静乱を思う。長沙( 陶侃 の爵位長沙郡公)の勲功は、史によって称賛されている。」胡奴はやめた。
後に『三國名臣頌』を作り、次のように言った。
民衆は自らを治めることができないため、君主を立てて統治させる。明君も独力で治めることはできず、臣下を置いて補佐させる。それゆえ、三皇五帝が代々隆盛し、歴代の王朝が基盤を継承し、譲り合いと武力、文徳と武功は、いずれも宗匠が陶鈞(陶冶)して多くの人材が輝き、君主が経略し、股肱の臣が力を尽くすことによる。遭遇する状況は異なり、事跡に優劣はあっても、根本の分かれ目は固く、道の契りが失われず、美しい風俗が広がり、教訓が千年にわたって革新される点では、その道理は同じである。だから、八元八愷が登用されて唐の朝廷は盛んになり、伊尹と呂尚が用いられて湯王と武王の世は安寧し、管仲・鮑叔牙・隰朋の三賢が進んで小白(桓公)は興り、狐偃・趙衰・顛頡・魏犨・胥臣の五臣が顕れて重耳(文公)は覇を唱えた。中世になると衰微し、この道は廃れた。上に立つ者が至公をもって物事を治めないと、下の者は必ず私的な道で栄達を望み、多くの者を統率する者が信誠をもって衆を率いないと、一定の方針を執る者は必ず権謀をもって自らを顕示する。そこで君臣は離反し、名教は薄れ、世は多く乱れ、時は治まらない。だから、蘧伯玉はこれによって進退し、柳下恵はこれによって三度罷免され、接輿はこれによって歌い歩き、魯仲連はこれによって海に身を投じた。衰えた世の中にあって、名節を保ち、君臣が互いに体し合い、符契が合うように一致するのは、燕の昭王と楽毅のような古代の流れである。伯楽に遇わなければ、千年に一頭の駿馬も現れない。時に龍顔(劉邦)に値すれば、その年に三傑(張良・蕭何・韓信)を制御できた。漢が賢才を得たことは、この点で貴い。高祖(劉邦)は道をもって物事を治めたわけではないが、臣下は忠を尽くすことができた。蕭何と曹参は三代の聖王のように君主に仕えたわけではないが、民衆はその生業を失わなかった。乱を静め、人を庇う点では、やはり次善のものである。時がまさに困窮しているときは、顕れるより隠れる方がよく、万物が治世を思うときは、黙するより語る方がよい。だから、古代の君子は道を広める難しさを患えず、時に遇う難しさを患えた。時に遇うことは難しくなく、君主に遇うことが難しい。だから、道はあっても時がなければ、孟子がため息をつき、時はあっても君主がなければ、賈誼が涙を流したのである。一万年に一度の機会は、生きる者の共通の道であり、千年に一度の出会いは、賢者と知者の嘉会である。それに遇えば喜ばずにはいられず、失えば感慨を抱かずにはいられない。古人の言葉は、確かに真情がある。私は暇なときによく『三国志』を読み、その君臣を考察し、彼らの事跡を比較する。道の点では先代に及ばないが、異なる時代ながら一つの時代である。
文若(荀彧)は独自の見識を持ち、救世の心があった。時勢を論じれば人々は塗炭の苦しみにあり、才能を計れば魏武(曹操)を超える者はいなかった。だから、覇朝に身を委ね、事前に世事を謀った。人材を推挙するのに自分の鑑識を標榜せず、人が亡くなってからその価値が顕れた。計画を練るのに功績を求めず、事が起こってから決着がついた。身を滅ぼして順を明らかにしたが、その識見も高いものであった。
董卓の乱により、神器(帝位)は移り逼迫した。公達(荀攸)は慨然として、命を捧げることを志した。これによって言えば、大いに名節を保ったと言える。至ってみれば、身は漢の臣下でありながら、その跡は魏の幕下に入った。源流と進退は、やはり文若(荀彧)の言うところであろう。存亡の致し方が異なり、終始が同じでないのは、文若が明哲であり、名教の寄るべきところがあったからであろうか。仁義は明らかにせざるを得ず、時の宗匠がその極致を挙げる。生きる道理は全うせざるを得ず、達識者がその契機を捉える。共に道を広めることは、遠いことではない。
崔生(崔琰)は高潔で明らかであり、折れても撓まず、魏武(曹操)に策名し、笏を執って覇朝に仕えたのは、漢の主が陽(南面)に当たり、魏の後(曹操)が北面する者であったからであろう。もし一旦、璽を進めて君臣が易位すれば、崔生が与せず、魏氏が容れないところである。江湖は舟を渡すためでもあり、また舟を覆すためでもある。仁義は身を全うするためでもあり、また身を亡ぼすためでもある。しかし、先賢が前に玉のように砕け、来哲が後に袂を捲って立ち上がるのは、天の思いが内から発し、名教が物を束縛するからであろうか。
孔明( 諸葛亮 )はぐるぐると回りながら、時を待って動き、管仲と楽毅を遥かに思い、遠くその風流を明らかにした。礼をもって国を治め、人に怨みの声がなく、刑罰を濫用せず、死後にも余りの涙があり、古の遺愛といえども、これにどうして加えられようか。臨終に顧みて託し、遺命を受けて宰相となり、劉後主(劉禅)が疑心なくこれを授け、武侯(諸葛亮)が懼色なくこれを受け、継体の君が二心なくこれを納め、民衆が異議なくこれを信じた。君臣の間柄は、まことに詠ずべきものである。
公瑾(周瑜)は卓抜しており、優れた志は群を抜いていた。幼少期に主君を見通せば、伯符(孫策)と素より契り、晩年に奇を輝かせれば、赤壁で三分の勢いを成した。その寿命が短かったことを惜しむ。志は計り知れないものがあった。
子布(張昭)は孫策を補佐し、名声を広める美を致し、哭を止めて哀しみを鎮め、擁立の功績があった。その精神の及ぶところは、ただ直言するだけではなかった。しかし、門を閉じて用いられず、壇に登って譏りを受けた。一人の身に照らして異なることはないのに、用いられるか捨てられるかの間でたちまち違いが生じる。ましてや溝壑に沈み、遇うか遇わないかの者においてはなおさらである。