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卷九十一 列傳第六十一 儒林傳

昔周の徳が衰え、諸侯が武力で争い、礼経は廃れ欠け、雅頌の楽は衰微した。夫子(孔子)は聖人に近く多能であり、もとより天がその才能を授けたが、鳳鳥の来ないことを歎き、麒麟が出たのが時ならぬことを悲しみ、そこで『詩』『書』を削り、礼楽を定め、『易』の道を賛し、『春秋』を修めた。散逸した典籍は再び保存され、風雅の道は変じて正に戻った。その後、卜商(子夏)、衛賜(子貢)、田子方、呉起、孫卿(荀子)、孟子らの輩は、ある者は直接に微言を授かり、ある者は大義を伝聞したが、それでもなお強き晋を助け魯を存続させ、魏を守り秦を退けることができ、邦君と対等の礼をとる一方、その名声は海内に馳せた。秦の嬴氏が残酷で、徳を捨て刑罰を任せると、書籍を塵埃のなかで焼き、儒者たちを穴埋めの刑に処し、古を尊ぶ法を厳しくし、書物を所持する罪を罰したため、先王の輝かしい業績は、わずかにも残らなかった。漢の高祖が勃興し、焼け落ちるのを救い溺れるのを助け、礼律を大まかに修めたが、まだ俎豆(祭祀)にまで手が回らなかった。孝武帝の代に至り、文儒を崇尚した。そして後漢(東京)に及んでも、この風は衰えなかった。そこで古い簡冊を探し求め、散逸した書物を広く訪ね、甲乙の科(試験科目)を創設し、賢良の挙を設け、それにより青や紫の綬を帯び、冕を戴き軒車に乗る者、あるいは徒歩の身から公卿に取り立てられ、あるいは数十日で台閣の高位に就く者が現れた。それゆえ縉紳の士は、こぞってこの風に傾き、その芳しい遺烈は、輝かしく記録されるに足るものである。魏(当塗)が草創期には、兵権に深く務めたが、主君は文を好み、朝廷には君子が多く、鴻儒碩学がその時に乏しくなかった。

武帝( 司馬炎 )が 禅譲 を受けると、軍国を憂い労し、時に庸・蜀を併せたばかりで、江湖(呉)のことを行おうとし、兵卒を訓練し武器を研ぎ、農業に務め穀物を蓄積したが、なお学校を修立し、辟雍に臨幸した。そして荀顗は制度をもって維新を補佐し、鄭沖は儒宗として太保・太傅に登り、 張華 (茂先)は博識をもって朝政に参与し、劉寔(子真)は礼を好むことで礼官の長となった。明らかに挙げられたとは言い難いが、遠く棄てられたわけでもなかった。やがて荊州・揚州が平定され、天下が安寧になると、群公は封禅の儀礼を起草し、天子は謙虚な 詔 を発した。三代の聖王に比べるには足りないが、確かに一時の美を独占した。恵帝が継ぐと、朝政は弛緩し、宮中に争いが起こり、諸侯が禍を成した。懐帝から湣帝に至るまで、喪乱は多く、衣冠の礼楽は、地を掃うようにことごとく尽きた。元帝は百六の厄運に遭いながら、中興を開き、賀循・荀崧・刁協・杜夷ら諸賢はみな古を考究し文に博く、礼度を整えた。儒学を尊び学を勧める 詔 はたびたび下されたが、大学(東序西膠)では弦歌誦読の声は聞こえなかった。明帝(明皇)は聡明で、諸子百家の書を愛し、簡文帝は沈黙を好み、経書を尊び悦び、学徒を招集して学風を奨励したが、ともに時勢が艱難で国運が短く、十分に整えることはできなかった。晋は中朝(西晋)に始まり江左(東晋)に至るまで、みな華美と競争を重んじ、虚玄を祖述し、孔子(闕里)の経典を斥け、正始の清談の余論を習い、礼法を流俗と指し、放縦を清高と見做した。それゆえに憲章は弛み廃れ、名教は崩壊し、五胡が隙に乗じて競い逐い、二京( 洛陽 ・ 長安 )が続いて陥落した。運が尽き道が消えるとは、まさに長く嘆息すべきことである。鄭沖らは名位がすでに高いので、それぞれ列伝がある。その他を左に編んで、前史の『儒林伝』に続けることとする。

范平

范平、 字 は子安、呉郡銭塘の人である。その先祖の銍侯范馥は、王莽の乱を避けて呉に赴き、そこで家を定めた。范平は古典を研究し博覧し、諸子百家に通暁し、姚信、賀邵らがみな彼に師事して学業を受けた。呉の時に茂才に挙げられ、累進して臨海太守となり、政治に異能があった。孫皓の初め、病気を理由に辞任して帰郷し、儒学を尊び悦んだ。呉が平定された後、太康年間にたびたび招聘されたが応じず、六十九歳で死去した。 詔 により文貞先生の諡号が追贈され、賀循が碑を建ててその德行を記した。

三人の息子、范奭、范咸、范泉は、いずれも儒学によって高官に至った。范泉の子の范蔚は、関内侯となった。家代々好学で、七千巻余りの書物を所蔵していた。遠近から読書に来る者は常に百余人おり、范蔚は彼らの衣食を整えた。范蔚の子の文才も、幼い頃から有名であった。

文立

文立、字は広休、巴郡臨江の人である。蜀の時に太学に遊学し、『毛詩』と『三礼』を専攻し、譙周に師事した。門人たちは文立を顔回に、陳寿と李虔を子游・子夏に、羅憲を子貢にたとえた。仕えて 尚書 に至った。蜀が平定されると、秀才に挙げられ、郎中に任じられた。泰始初年、済陰太守に任命され、のちに召されて太子中庶子となった。上表して、 諸葛亮 、蔣琬、費禕らの子孫で流刑や移住させられて中原にいる者を、叙用すべきであると請い、一つには巴蜀の人心を慰め、次いで呉の人々の望みを集めるためだと述べた。この建議はすべて施行された。 詔 して言う、「太子中庶子文立は忠貞で清廉実直、思慮分別と器量才幹がある。以前済陰に在任した時は、政事がよく治まっていた。後に東宮に仕えては、輔導の節を尽くした。昔、光武帝が隴・蜀を平定した時、みなその賢才を収用して叙用したのは、埋もれた人材を抜擢し遠方の地を救うためである。文立を 散騎常侍 さんきじょうじ とせよ。」蜀の元尚書、犍為の程瓊は、もともと徳行と業績があり、文立と深く交際していた。武帝はその名を聞き、文立に尋ねた。文立は答えて言った、「臣はその人を知っていますが、年齢は八十に近く、生来謙虚で控えめであり、もはや当世での望みはなく、上聞に達しませんでした。」程瓊はこれを聞いて言った、「広休は私に偏らないと言える。だから私はあの方を善しとするのだ。」時、西域が馬を献上した。帝が文立に「馬はどうか」と尋ねると、答えて言った、「太僕にお尋ねください。」帝はこれを良しとした。衛尉に転じた。咸寧末年、死去した。著した章奏詩賦数十篇が世に行われた。

陳邵

陳邵、字は節良、東海郡襄賁の人である。郡から孝廉に推挙されたが、就任しなかった。儒学をもって召されて陳留内史となり、累進して燕王(司馬機)の師となった。『周礼評』を撰し、非常に条理が通っており、世に行われた。泰始年間、 詔 して言う、「燕王師陳邵は清貞潔静で、その行いは郷族に顕著であり、志を篤くして古を好み、六経に広く通じ、典籍を深く愛好し、老いても倦むことがない。左右に置いて儒教を篤くすべきである。給事中とせよ。」官の任上で死去した。

虞喜

虞喜、字は仲寧、 会稽 郡余姚の人で、光禄大夫虞潭の一族である。父の虞察は、呉の征虜将軍であった。虞喜は若くして操行を立て、博学で古を好んだ。 諸葛恢 が郡の長官として赴任した時、彼を功曹に迎えようとした。孝廉に推挙され、州から秀才に挙げられ、 司徒 しと から招聘されたが、いずれも就任しなかった。元帝が初めて江左を鎮守した時、上疏して虞喜を推薦した。懐帝が即位すると、公車で博士に任命されたが、就任しなかった。虞喜の同郷人である賀循が 司空 しくう となり、先達として貴顕であったが、虞喜を訪ねるたびに二晩も泊まって帰るのを忘れ、自ら「測り知ることができない」と言った。

太寧年間、臨海の任旭とともに博士として招聘されたが、応じなかった。再び 詔 が下され、「教化を興し政治を成すには、道を尊び教えを崇め、退いて質素を明らかにすることに勝るものはない。喪乱以来、儒雅の風は衰え、『子衿』の詩を読むたびに慨嘆せずにはいられない。臨海の任旭、会稽の虞喜はともに操行を清く潔くし、歳寒にも動かず、典籍を研究し、今に居ながら古を実践し、志操は俗を励ますに足り、博学は道を明らかにするに足る。以前は応じなかったが、改めて博士として招聘せよ」とされた。虞喜は病気を理由に辞退して赴かなかった。咸和の末、公卿に賢良方正直言の士を推挙するよう 詔 があり、太常の華恆が虞喜を賢良として推挙したが、国に軍事があったため行われなかった。咸康初め、内史の何充が上疏して言った、「臣は聞く、舜の八元八愷が挙用されて四門が和らぎ、周の十乱が用いられて天下が安らかになったと。徽猷がよく闡明されたのは、由来がある。今、聖徳は欽明で、遠大な功業を広げようとされ、旌旗を整え車駕を備え、賢者を待って動こうとしておられる。伏して見るに、前賢良の虞喜は天与の貞素を挺出し、高尚で世を超え、自ら修めて徳を立て、白髪になっても倦まず、さらに広く深く綜べ、博聞強記し、堅きを鑽り微を研ぐに及ばざる勤めがあり、静かに処して道を味わうに風塵の志がなく、柴門に高枕し、怡然として自足しておられる。蒲輪を以て衡を紆らせ、殊なる操行を表彰すべきである。一つには大化を翼賛し、二には薄俗を敦励するためである」。上疏が奏上されると、 詔 して言った、「尋陽の翟湯、会稽の虞喜はともに道を守り清貞で、世務に営まず、学に耽り高尚で、操行は古人に擬する。以前は招聘しても降伏せず、まさに素糸は染め難く、礼を以て招くのが簡略だったからか。政道は賢者を必要とする。廊廟に納めるべきである。ともに 散騎常侍 さんきじょうじ として招聘せよ」。また応じなかった。

永和初め、有司が奏上して、十月の殷祭には京兆府君を祧室に遷すべきであり、征西、 章、潁川の三府君は初めて毀主すべきだとし、内外で広く議論したが決められなかった。当時、虞喜は会稽におり、朝廷は彼のもとに使者を遣わして諮問した。このように重んじられたのである。

虞喜は経伝に専心し、讖緯をも兼ねて覧め、『安天論』を著して渾天説・蓋天説を難じ、また『毛詩略』を解釈し、『孝経』に注を付け、『志林』三十篇を撰した。注釈著述は凡そ数十万言に及び、世に行われた。七十六歳で卒した。子はない。弟の虞 は別に伝がある。

劉兆

劉兆、字は延世、済南東平の人で、漢の広川恵王の後裔である。劉兆は博学で見聞が広く、温厚篤実で善く誘導し、従って学業を受ける者は数千人に及んだ。武帝の時、五度公府に辟召され、三度博士に徴されたが、いずれも応じなかった。貧しさに安んじて道を楽しみ、著述に潜心し、数十年門戸を出なかった。『春秋』一経に対して三家の説が異なり、諸儒の是非の議論が紛然として互いに仇敵のようであったため、三家の異同を考え合わせて通じさせようとした。『周礼』に調人の官があるので、『春秋調人』七万余言を作り、いずれもその首尾を論じて大義が乖離しないようにし、時に合わないものについては、その長短を挙げて通じさせた。また『春秋左氏』の解釈を作り、名付けて『全綜』とし、『公羊』『穀梁』の解詁は経伝の中に納め、朱書で区別した。また『周易訓注』を撰し、正動二体が互いにその文を通じさせるようにした。凡そ賛述したものは百余万言に及んだ。

かつてある者が靴を履いて驢馬に乗り、劉兆の門外に来て、「劉延世に会いたい」と言った。劉兆は儒徳道素があり、青州でその字を称する者はいなかったので、門人は怒った。劉兆は「通せ」と言った。進むと、床に踞って劉兆に問うて言った、「君が大学であると聞くが、近ごろ何を作ったか」。劉兆は上記の通りに答え、最後に「多く疑うところがある」と言った。客がそれを尋ねた。劉兆が疑いを説き終えると、客は「これは容易に解ける」と言い、そこで疑いについて是非を弁釈した。劉兆が別に新たに意を立てると、客が一つの難問を出し、劉兆は答えられなかった。客が去り、既に門を出た時、劉兆は留めようとし、人を遣わして重ねて呼び戻した。客は「親族がここで葬儀を営んでいるので、赴くべきであり、後でまた来よう」と言った。去った後、劉兆は人に葬家を見させたが、この客は見えず、ついに姓名を知らなかった。劉兆は六十六歳で卒した。五人の子がいた:卓、炤、耀、育、臍。

氾毓

氾毓、字は稚春、済北盧の人である。代々儒素の家で、九族を敦睦し、客居して青州に至り、氾毓で七世となり、当時の人はその家を「児に常の父なく、衣に常の主なし」と号した。氾毓は幼少より高潔な操行を履み、貧しさに安んじて志業を持った。父が亡くなると、墓所に三十余年間住み、晦朔には自ら墳壟を掃き、封樹を巡行し、家に戻ると門戸を出なかった。ある者が武帝に推薦し、南陽王文学、秘書郎、太傅参軍に補するよう召されたが、いずれも応じなかった。当時、青州の隠逸の士である劉兆、徐苗らは皆教授に務めたが、氾毓だけは門人を蓄えず、清静に自らを守った。時に好古慕徳の者が諮詢すると、これにも心を傾けて開き誘い、一隅を示した。『三伝』を合わせて解注し、『春秋釈疑』『肉刑論』を撰し、凡そ述造したものは七万余言である。七十一歳で卒した。

徐苗

徐苗、字は叔胄、高密淳于の人である。累世相承、皆博士として郡守となった。曾祖父の徐華は至行があった。かつて亭舎に宿った時、夜に神人が告げて「亭が崩れようとしている」と言い、急いで出て免れた。祖父の徐邵は魏の尚書郎となり、廉直をもって称された。徐苗は幼少より家が貧しく、昼は鋤耒を執り、夜は吟誦した。弱冠で、弟の徐賈とともに博士の済南宋鈞に就いて学業を受け、遂に儒宗となった。『五経同異評』を作り、また道家に依って『玄微論』を著し、前後して造ったもの数万言、いずれも義味があった。性は抗烈で、財を軽んじ義を貴び、兼ねて人を知る鑑識があった。弟が口癰を患い、膿が潰れると、徐苗はこれを吮った。兄弟は皆早く亡くなり、孤遺を撫養し、慈愛は州里に聞こえ、田宅奴婢を全て彼らに推譲した。郷鄰に死者があると、耕作を止めて棺槨を営むのを助け、門生が家で亡くなると、講堂で殯を行った。己を行う純至さは、皆このようなものであった。遠近皆その義に帰し、その行いを師とした。郡は孝廉に察し、州は従事、治中、別駕に辟し、異行を挙げ、公府は五度博士に辟し、二度徴したが、いずれも応じなかった。武恵の時、計吏が台に至ると、帝は常にその安否を訪ねた。永寧二年に卒し、遺命で巾を濯ぎ衣を浣い、榆の棺に雑磚を交え、露車に屍を載せ、葦席と瓦器だけとした。

崔遊

崔遊、字は子相、上党の人である。少なくして好学し、儒術を甄明し、恬靖謙退で、少から長ずるまで、口に財利について語ったことがなかった。魏の末、孝廉に察され、相府舎人に除され、出て てい 池長となり、甚だ恵政があった。病気で免官され、遂に廃疾となった。泰始初め、武帝が文帝の故府僚属に禄を叙するに当たり、家に就いて郎中を拝した。七十余歳になっても、なお学を敦めて倦まず、『喪服図』を撰し、世に行われた。劉元海が僭位すると、御史大夫に命じられたが、固辞して応じなかった。家で卒し、時に九十三歳であった。

范隆

范隆、字は玄嵩、雁門の人である。父の范方は、魏の雁門太守であった。隆は母の胎内に十五ヶ月いて、生まれた時に父が亡くなった。四歳の時、また母を失い、哀哭の声は、通りすがりの人をも感動させ悲しませた。孤児で縁の薄い親族もおらず、遠縁の范広が哀れんで養い、迎え入れて書物を教え、祠堂を建ててやった。隆は学問を好み品行を慎み、范広を父のように敬った。経書や典籍に広く通じ、読まないものはなく、『春秋三伝』を著し、『三礼吉凶宗紀』を撰して、非常に条理と意義があった。恵帝の時、天下が乱れようとしていたので、隆は身を隠して州郡の召しに応じず、昼は耕作に励み、夜は書物を読んだ。秘められた暦や陰陽の学問をよく習得し、 へい 州に災いの兆しがあることを知ったので、ますます出仕しなかった。上党の朱紀と親しくし、かつて共に山に遊んだ時、貧しい谷川のほとりで一人の老人に出会った。老人は言った。「二公はどうしてここにいるのか。」隆らが拝礼すると、仰ぎ見ると老人の姿は見えなかった。後に朱紀と共に劉元海に身を寄せ、元海は隆を大鴻臚とし、朱紀を太常とし、ともに公に封じた。隆は劉聰の世に死去し、聰は太師を追贈した。

杜夷

杜夷、字は行齊、廬江郡灊県の人である。代々儒学で知られ、郡の名門であった。夷は幼い頃から淡泊で、節操は清く質素であり、住まいは非常に貧しく、産業を営まず、経書や諸子百家の書を広く読み、暦算や図緯の学に至るまでことごとく究めた。汝潁の地に寓居し、十年間門を出なかった。四十歳を過ぎて、ようやく故郷に戻り、門を閉じて教授し、門弟は千人に及んだ。恵帝の時、三度孝廉に推挙され、州から別駕に任命され、永嘉の初め、公車で博士に召されたが、太傅・東海王 司馬越 しばえつ が招聘しても、いずれも就任しなかった。懐帝が王公に賢良方正を推挙するよう 詔 を下すと、 刺史 しし の王敦は賀循を賢良、杜夷を方正として上疏した。「臣は聞く、有唐の世には人材を求め、八元八凱が登用され、漢の武帝は賢者を敬い、俊彦が応えた。それゆえに時世は和やかになり、盛んな教化が広まったのである。伏して見ますに、太孫舎人会稽の賀循、処士盧江の杜夷は、道を実践してますます高潔であり、清い節操は俗を超え、学問と思慮は融通し、才能は王事を経営するに足ります。賀循は二県を治め、いずれも名声と実績があり、東宮の官僚を務め、忠実で誠実であることが明らかです。杜夷は清虚で淡泊、世俗とは異なる道を歩み、空谷に隠遁し、世を避けて跡を隠しております。これらは国を治める良き宝であり、招聘任命が急がれるべき方々です。もし公車で待 詔 し、 詔 問に対応させれば、必ず忠直で優れた謀略を献じ、政治の道を広く益するでしょう。」王敦はそこで杜夷を強いて洛陽へ赴かせようとした。夷は寿陽に逃れた。鎮東将軍の周馥は心から礼遇し、参軍に引き立てようとしたが、夷は病気を理由に辞退した。周馥は屈しないと知ると、自ら杜夷のもとを訪れ、家屋を建て、医薬を供給した。周馥が敗れると、夷は旧居に帰ったが、道中で兵賊に遭った。 刺史 しし の劉陶は盧江郡に告げた。「昔、魏の文侯が段幹木の里で軾を撫で、斉の相曹参が蓋公を尊崇したのは、いずれも賢者を優遇し徳を顕彰し、末俗を励ますためであった。徴士杜君は徳が盛んで行いが清く、志を高く保っている。近頃流離して道中におり、その困窮を聞くにつけ、 刺史 しし として任に忝くし、有道を尊び飾ることができず、高潔な士にこのような艱難を味わわせている。今、役人を派遣して慰め、郡は一吏、県は五吏を派遣し、常に世話をし、常に市租をもって家族の食糧を供給し、欠乏させないようにせよ。」まもなく胡の賊のため、また長江を渡って移り、 王導 が役人を遣わして援助した。元帝が丞相の時、教令を下した。「今、大義は廃れ、礼典の宗とすべきものがなく、朝廷で滞っている議論を正す者がいない。特に儒林祭酒の官を立て、その事を広めるべきである。処士杜夷は情趣を隠遁に寄せ世俗を遠ざけ、確固として俗を絶ち、才学は精博、道行は優れて備わっている。杜夷を祭酒とする。」夷は病気を理由に辞退し、朝会には一度も出席しなかった。帝は常に夷を訪ねようとしたが、夷は万乗の君主が庶人の家に行くべきではないと述べた。帝は夷に書を送った。「朕と足下は、言葉を忘れるほどの情があるが、虚心に長年待っていた。正に足下が病弱であるゆえに、お見舞いしたいのであり、常の儀礼を論じるのではない。」また国子祭酒に任じた。建武年間、令を下した。「国子祭酒杜夷は貧しさに安んじて道を楽しみ、志を静かにして衡門にあり、日々の生計にも事欠くが、原憲でもこれ以上ではあるまい。穀物二百斛を賜う。」皇太子は三度夷の邸を訪れ、経書を手にし義を問うた。夷は時勢の命に迫られても、朝謁することはなく、国に大事がある時は、常に夷を訪れて諮問した。明帝が即位すると、夷は自ら上表して退任を請うた。 詔 は言った。「先王の道が地に墜ちようとしている。君は帷を下ろして研究思索し、今の劉向・楊雄である。官僚たちは君の軌範と教えを仰ぎ慕っている。どうして高く退くことができようか。朕は則るところを失ってしまう。」太寧元年、六十六歳で死去した。大鴻臚を追贈し、諡を貞子といった。夷は臨終に、子の杜晏に遺言した。「私は若くして官に出ず、近年は召しに応じたが、冠や履の飾りを身に着けたことはない。角巾と素衣で、その時の服で納め、殯葬のことは簡素・倹約を旨とし、またわざとらしく異なることをする必要もない。」夷の著した『幽求子』二十篇が世に行われた。

杜晏は蒼梧太守まで昇進した。夷には兄弟三人がいた。兄の杜崧、字は行高、これも志操があった。恵帝の時、世俗は虚偽が多いので、『任子春秋』を著してこれを風刺した。弟の杜援は高平国の相となった。杜援の子の杜潛は右衛将軍となった。

董景道

董景道、字は文博、弘農の人である。若くして学問を好み、千里を遠しとせず師を追い、所在では昼夜を分かたず読誦し、ほとんど人と交際しなかった。『春秋三伝』、『京氏易』、『馬氏尚書』、『韓詩』に通暁し、いずれも大義を精しく究めた。『三礼』の義については、専ら鄭玄の説に従い、『礼通論』を著して諸儒を非難駁論し、鄭玄の旨を敷衍拡大した。永平年間、天下が乱れることを知り、商洛山に隠れ、木の葉を衣とし、木の実を食い、琴を弾じ歌い笑って自ら楽しんだ。毒虫や猛獣も皆その傍らを巡ったので、劉元海や劉聰がたびたび招聘したが、皆妨げられて到達できなかった。 劉曜 りゅうよう の時に至って山を出、渭水のほとりに庵を結んだ。 劉曜 りゅうよう が太子少傅・ 散騎常侍 さんきじょうじ に招聘したが、固く辞退し、ついに天寿を全うした。

續咸

續咸、字は孝宗、上党の人である。性質は孝行で謹厳、道を踏み行い清く質素であった。学問を好み、京兆の 杜預 に師事し、専ら『春秋』、『鄭氏易』を研究し、常に数十人の生徒を教授した。群書を広く読み、高い才能を持ち文章や議論をよくした。また陳羣・杜預の律を修め、刑書に明達した。永嘉年間、廷尉平・東安太守を歴任した。劉琨が へい 州で承制を行うと、彼を従事中郎とした。後に 石勒 せきろく に捕らえられ、勒は彼を理曹参軍とした。法を公平に詳しく扱い、当時はその清廉で豊かな徳を称え、于定国に比された。『遠遊志』、『異物志』、『汲塚古文釈』をそれぞれ十巻著し、世に行われた。九十七歳で 石季龍 の世に死去し、季龍は儀同三司を追贈した。

徐邈

徐邈は、東莞郡姑幕県の人である。祖父の澄之は州の治中であったが、永嘉の乱に遭遇し、郷里の臧琨らと共に子弟や里の士庶千余家を率いて長江を南渡し、京口に住んだ。父の藻は都水使者であった。徐邈は姿形が端正で優雅であり、勤勉に励み学問に努め、広く諸書に通じ見聞が広く、慎み深く振る舞った。若い頃は同郷の臧寿と並び称され、帷を下ろして読書に専念し、町に出歩くことはなかった。孝武帝が初めて典籍を閲覧し、儒学の士を招いた時、徐邈は東州の儒者として、太傅の 謝安 に推挙されて選に応じた。四十四歳の時、初めて中書舎人に補任され、西省で帝に仕えた。口で章句を伝えることはなかったが、文義を解き明かし、趣旨を明らかにし、五経の音訓を正しく撰述したので、学者たちは彼を師と仰いだ。 散騎常侍 さんきじょうじ に転じたが、依然として西省に留まり、前後十年にわたり、顧問を受けるたびに進言と廃止を述べ、多くを正し補い、非常に寵遇された。帝は宴席で酒に酔い楽しんだ後、手 詔 や詩章を作って侍臣に賜ることが好きで、時に文詞が軽率であったり、内容が卑猥で雑多であったりしたが、徐邈はその都度、時宜に合わせて収集し、省に戻って削除修正し、すべてを立派なものにし、帝が再び閲覧した後で、ようやく外に出した。当時、 詔 を受けた侍臣の中には、それを宣揚する者もいたので、世間の議論はこのことで徐邈を多く称えた。謝安が没した時、論者の中には賛否があったが、徐邈は強く中書令の 王献之 に勧めて、特別な礼遇を上奏するよう促し、さらに謝石を 尚書令 しょうしょれい に、謝玄を徐州に推挙することを尊んだ。徐邈は祠部郎に転じ、南北郊の宗廟の迭毀の礼について上奏し、いずれも確かな根拠があった。

章太守の范甯は、十五人の議曹を派遣して下属の城に赴かせ、風俗と政治を採り上げて報告させ、また吏に休暇を与えて帰らせ、官長の得失を尋ねさせようとした。徐邈は范甯に手紙を送って言った。

あなたが十五人の議曹をそれぞれ一県に派遣し、また吏に休暇を与えて帰らせ、見聞したことを報告させようとしていることを承知した。確かにこれはあなたが百姓に心を留め、その視聴を広げようとするものである。私は、勧導は実をもって行い文飾をもって行うべきではないと思う。十五人の議曹は何を宣べ伝えようというのか。諸々の事柄や訴訟は、あなたが公正に聴き裁けば、道理は十分である。上に政務を治めようとする心があれば、下から道理を求める者が来る。日が傾くまで省みて覧れば、諸事が滞ることはなく、吏はその責任を慎み、民の訴えは惑わされない。どうして邑から里に至るまで出向き、遊説の声を飾る必要があろうか。益をもたらすどころか、かえって蚕食や収奪の手段となるだけであり、また小吏を耳目として放任すべきではない。善人君子が自分の職務でないことに干渉し、多くを告白するようなことがあろうか。君子の心は、誰を毀り誰を誉めるのか。もし誉めることがあれば、必ず試練を経た者による。もし毀ることがあれば、必ず明らかな理由による。社に託る鼠は、政治に害をなす。古来より、左右の耳目となろうとする者は、例外なく小人であり、皆まず小さな忠誠によって大きな不忠を成し、小さな信頼によって大きな不信を成し、遂には君子の道を消し、善人が屍を車に載せることになる。前史に記されたことは、深く鑑とすべきである。

あなたが綱紀を選ぶには必ず国士を得て、諸曹を統率させるに足る者とすべきである。諸曹が皆良吏であれば、文案を掌るに足る。また公正な人物を選んで監司とすれば、清濁や能力の有無は、事に応じて明らかになる。あなたはただ公平な心で中心に居れば、耳目に頼る必要があろうか。昔、明徳馬后は左右と語り合うことを顧みなかったが、これは遠識と言える。まして大丈夫がこのことを免れられないことがあろうか。

中書侍郎に転じ、 詔 勅の起草を専管し、帝は非常に親しくした。

初め、范寧と徐邈は共に帝に任用され、朝廷の欠陥を補った。范寧は元来才能が高く、心を正しく置いたため、王国宝の讒言によって遠郡の太守に出された。徐邈は孤立した官職で危険に陥りやすかったが、強力な一族に逆らう勇気がなく、自らを安泰にする計略を立てた。ちょうど帝が会稽王の司馬道子を疎んじ始めた時、徐邈は両者の和協を図り、穏やかに帝に言った。「昔、淮南王や斉王のことは、漢や晋の戒めとなっています。会稽王には酒色にふける欠点はありますが、上に奉る心は純一です。寛大な処置を加え、紛糾する議論を収め、外には国家のため、内には太后の心を慰めるべきです。」帝はこれを受け入れた。徐邈がかつて東府を訪れた時、多くの賓客が酒に酔い、杯を干しては騒いでいた。道子が「あなたは時に暢快を感じることがありますか」と尋ねると、徐邈は答えて言った。「私は陋巷の書生に過ぎず、ただ倹約と清らかな修養をもって暢快とするだけです。」道子は徐邈の志操が道義を尊ぶことを知り、笑って咎めなかった。道子は彼を吏部郎に任用しようとしたが、徐邈は競争が習俗となっている現状を、自分が制御できるものではないと考え、苦渋の辞退をしてやめさせた。

当時、皇太子はまだ幼く、帝は非常に愛情を注ぎ、文武の選任はすべて当代の俊秀であった。徐邈を前衛率とし、本郡の大中正を兼ねさせ、太子に経書を授けた。帝は徐邈に言った。「まだ師礼をもって遇するとは命じていないが、博士として遇するわけではない。」古代の帝王は経を受ける時必ず敬虔であったが、魏晋以来、多くは微賤の者を教授に使い、博士と号して、もはや師として尊ばなくなったので、帝はこのように言ったのである。徐邈は東宮にいながらも、朝夕宮中に入って謁見し、朝政に参与し、 詔 勅を整え、遺漏を拾い欠陥を補い、左右で労苦をいとわなかった。帝はその謹厳さを賞賛し、金日磾や 霍光 かくこう に比べて、重任を託す意向を持ち、顕位に進めようとしたが、実行に移さないうちに帝は急逝した。安帝が即位すると、 ぎょう 騎将軍に任じられた。隆安元年、父の喪に遭った。徐邈は以前から病気を患っており、哀痛によって病状が悪化し、一年も経たないうちに死去した。五十四歳。州里の人々は傷み悼み、識者は悲しんだ。

徐邈は官に就くと簡素で慈恵に努め、政務に通達し、議論は精密で、当時の人々は多く彼に諮問した。触類して弁明し、問えば必ず答えた。旧来の疑義で、歳辰が卯にある時、この家の左はあの家の右であるのに、どうして東を皆忌むのかというものがあった。徐邈は、太歳の類は本来遊神であり、例えば日の出の時、東に向かうことは皆逆行するのであって、体が地中に隠れているからではないと考えた。注釈した『穀梁伝』は、当時重んじられた。

徐邈の長子の豁は父の風格を持ち、孝行で知られ、太常博士・秘書郎となった。豁の弟の浩は散騎侍郎となった。鎮南将軍の何無忌が功曹に請い、西陽太守に補任されたが、何無忌と共に盧循に殺害された。徐邈の弟の広は別に伝がある。

孔衍

孔衍は、字を舒元といい、魯国の人で、孔子の二十二世の孫である。祖父の文は魏の大鴻臚であった。父の毓は征南軍司であった。孔衍は幼い頃から学問を好み、十二歳で『詩経』『書経』に通じた。弱冠で公府に召されたが、本州から異行直言に挙げられたが、いずれも就かなかった。江東に避難し、元帝に召されて安東参軍となり、記室を専管した。文書命令が積もる中で、孔衍は常に職務に適っていると認められた。中興の初め、庚亮と共に中書郎に補任された。明帝が東宮にいた時、太子中庶子を領した。当時は諸事が創始期にあり、孔衍は経学に深く博く通じ、また旧典に熟達していたので、朝儀や制度は多く彼に正された。これにより元帝・明帝の二帝は共に彼を親愛した。王敦が権力を専断すると、孔衍は密かに太子に言った。「殿下は広く朝の俊才を招き、才能ある者を探し揚げ、時政について諮問謀議し、聖聡を広げるべきです。」王敦はこれを聞いて憎み、孔衍を広陵郡に出させるよう上奏した。当時の人々は彼の身を案じたが、孔衍は顔色に表さなかった。郡は西の賊と隣接していたが、依然として後進を教え導き、軍務のために学業を廃することはなかった。 石勒 せきろく がかつて山陽まで騎馬で来た時、配下に命じて孔衍が儒雅の士であるから、妄りに郡境に入ることを禁じた。職務について一ヶ月、太興三年に官で死去した。五十三歳。

孔衍は文才で著名ではなかったが、博覧は賀循を上回り、凡そ撰述したものは百余万言に及んだ。

子の啓は、盧陵太守となった。

同族の夷吾は美名があり、博学では孔衍に及ばないが、世間での名声は彼を上回った。元帝は 主簿 とし、転じて参軍、次第に侍中に昇進し、太子左衛率に転じ、死去すると太僕を追贈された。

范宣

范宣は、字を宣子といい、陳留の人である。十歳の時、『詩経』『書経』を暗誦することができた。かつて刃物で手を傷つけ、手を捧げて表情を改めた。人が痛いのかと尋ねると、答えて言った。「痛いというほどではないが、完全な体を受けておきながら損傷させてしまったことが、心苦しいだけである」と。家族は彼が幼いのに非凡であると感じた。若い頃から隠遁を尊び、さらに学問を好み、手から書物を離さず、夜を日に継いで学んだので、ついに多くの書物を広く総合し、特に『三礼』に精通した。家は極めて貧しく質素で、自ら耕作して家族を養った。親が亡くなると、土を背負って墳墓を築き、墓の傍らに庵を結んで住んだ。 太尉 たいい の郗鑒が彼を主簿に任命しようとし、 詔 によって太学博士や散騎郎に徴召されたが、いずれも就任しなかった。 章に住んでいた時、太守の殷羨は范宣の茅葺きの家が完全でないのを見て、家を改築しようとしたが、范宣は固辞した。庾爰之は范宣が平素から貧しい上に、凶作と疫病が加わったことを知り、厚く食糧を与えようとしたが、范宣はまたも受け取らなかった。爰之が范宣に尋ねた。「あなたは博学で諸学を総合しているのに、なぜ大儒なのか」と。范宣は言った。「漢が興ると、経術を貴んだが、石渠閣の議論に至っては、実に儒者が弊害となった。正始以来、世は老荘を尊んだ。晋の初めに至っては、裸になることを競って高尚とした。私は確かに大儒だが、『丘(孔子)も(彼らと)易えようとはしない』のである」と。范宣の言談は『老子』『荘子』に及ぶことはなかった。ある客が「人生は憂いと共にある」という言葉がどこから出たものか知らないと尋ねた。范宣は言った。「『荘子・至楽篇』に出ている」と。客が言った。「あなたは『老子』『荘子』を読まないと言っていたのに、どうしてこれを知っているのか」と。范宣は笑って言った。「幼い頃に一度ざっと目を通したことがある」と。当時の人々は彼を測り知ることができなかった。

范宣は閑居してしばしば困窮していたが、常に講義と誦読を業とし、譙国の戴逵らは皆その風評を聞いて宗仰し、遠方からやって来たので、諷誦の声はあたかも斉や魯のようであった。太元年間、順陽の范甯が 章太守となった。范甯もまた儒者で博学で諸学を総合し、郡内に郷校を設立し、常に数百人を教授した。これによって江州の人々は皆経学を好むようになり、二范(范宣と范甯)の風化によるものである。五十四歳で亡くなった。著した『礼』『易論難』は皆世に行われた。

子の范輯は、郡守、国子博士、大将軍従事中郎を歴任した。自ら免職して帰郷し、やはり講義教授を事とした。義熙年間、連続して徴召されたが応じなかった。

韋謏

韋謏は、字を憲道といい、京兆の人である。風雅で儒学を好み、著述を得意とし、諸子百家の言説や秘要の義理について、総覧しないものはなかった。 劉曜 りゅうよう に仕え、黄門郎となった。後にまた石季龍( 石虎 )に仕え、 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、七郡の太守を歴任し、皆清廉な教化で著名であった。また廷尉に徴され、識者は彼を于定国や張敞に擬した。前後四度九卿の列に登り、六度尚書の職にあり、二度侍中となり、再び太子太傅となり、京兆公に封じられた。直言諫諍を好み、軍国に関する適切な意見を陳べ、多くが容れられた。『伏林』三千余言を著し、さらにこれを敷衍して『典林』二十三篇とした。凡そ述作したもの及び世事を集記したもの数十万言は、皆深遠広博で才知と義理に富んでいた。

冉閔 の時、また光禄大夫に任じられた。当時、冉閔はその子の冉胤を大単于に任命し、降伏した胡人一千人をその麾下に置いた。韋謏は諫めて言った。「今、降伏した胡人数千を旧来のまま待遇することは、確かに招き誘う恩恵ではある。しかし胡や羯は元来仇敵であり、今の帰順は、ただ命を全うしようとするだけである。あるいは刺客がいて、変事が瞬時に起こり、失敗して後悔しても、どうしようもないでしょう!古人の言葉に、一人の男でも侮ってはならない、ましてや千人をどうして侮れようか、とあります。どうか降伏した胡人を誅殺し排除し、単于の称号を取り除き、聖人が『苞桑』(桑の根のように固く結ぶ)という戒めを深くお考えください」と。冉閔は綏撫(慰め鎮めること)を志し、澄定(平定)に鋭意していたので、この言葉を聞いて大いに怒り、ついに彼を誅殺し、その子の伯陽も共に殺した。

韋謏は性格が重々しくなく、自分の功績を誇示することを好んだので、論者もこの点で彼を軽んじた。かつて伯陽に言った。「我が高祖・曾祖は重光累徽(栄光と美徳を重ね)、我が祖父・父は父父子子(父は父、子は子としての道を尽くした)。汝は私に対し、まさに悪い突き方(悪抵)をしている」と。伯陽は言った。「伯陽の不肖は、誠にご教示の通りです。父上もまさに柔らかい突き方(軟抵)をしているだけです」と。韋謏は恥じて言葉がなかった。当時の人々はこれを伝え、嘲笑とした。

范弘之

范弘之は、字を長文といい、安北将軍范汪の孫である。武興侯の爵位を襲封した。風雅で正しく学問を好み、儒術に通暁して明らかであり、太学博士となった。当時、衛将軍謝石が 薨去 こうきょ し、諡号を請うたので、礼官に下して議論させた。范弘之の議は次の通りである。

謝石は門閥の蔭を頼りに、しばしば高位に登り、百官を総管し、三台(三公)を補佐し、諸事に熟練し、勤労して怠ることがなく、内外の衆議は皆、彼を有能と認めていた。淮肥の戦いの勝利においては、危機を救う勲功があり、皇帝の威光が遠くに震うとはいえ、狡猾な敵が天に滅ぼされたとはいえ、時勢に乗じて功を立てたことに、謝石もまた与かっていた。また学校を開設し、貴族の子弟を招いた。盛んな教化はまだ行き渡ってはいなかったが、礼を愛し羊を存する(形骸化しても名目を残す)ようなものであった。しかし、古代の賢明な補佐は、大なるものは道をもって君に仕え、侃侃として終日諫め、次なるものは身を励まして国に奉じ、朝から晩まで怠ることがなく、下なるものは人を愛し力を惜しんで、時務を救済した。この数々を為してこそ、初めて「惟塵」(車の塵のように君を曇らせる)という非議を免れ、素餐(禄を食んで事を為さない)という責めを塞ぐことができるのである。今、謝石は朝廷の端に位し、職責は論道(道を論じること)にあるのに、発言には国に忠なる謀がなく、職務を守るのは身を容れるだけであり、君に仕えたとは言えない。財貨で都を汚し、収奪して飽くことを知らず、身を励ましたとは言えない。大衆を擁して坐り、百姓を侵食し、『詩経・大東』の嘆きが遠近に流布し、怨嗟の毒が衆人の心に結ばれ、人を愛したとは言えない。工匠を土木で労苦させ、思慮を機巧に尽くし、絹織物を婢妾に使い尽くし、財用を琴瑟に浪費し、力を惜しんだとは言えない。これは人臣の大害であり、国があれば除くべきものである。

先王が風俗を正し、人倫を整えるために用いたものは、節倹に勝るものはなかった。故に管夷吾(管仲)は三帰(三つの帰る家)のことで謗られ、晏平仲(晏嬰)は己を約することで美名を流した。近年、風紀が衰え、奢侈と僭越に度がなく、廉恥が興らず、利を競って奔走している。深くその根源を防ぎ、その流れを絶たねばならない。漢の文帝が弋綈(粗末な服)を襲いながらも、諸侯はなお奢侈であり、武帝が雉頭の裘(キジの頭の毛皮の衣)を焼いても、華美は止まなかった。まことに節倹の徳は顕れていても、威厳と禁令が厳かでなく、道は自ら建てても、刑罰が物事に及ばないからである。もし存命中にはその違反を罰し、亡くなればその悪行を貶すならば、四維(礼・義・廉・恥)は必ず張られ、礼義が行われるであろう。

諡法を案ずるに、事に因って功有りを「襄」とし、貪り以て官を敗るを「墨」という。よって諡して襄墨公とすべきである。

また、 殷浩 は贈官と諡号を加えるべきであり、 桓温 が彼を貶めたことを理由に国典とすべきではないと論じ、引き続き桓温の 簒奪 さんだつ の跡を多く述べた。当時、謝氏一族はまさに顕赫であり、桓氏宗族はなお盛んであった。尚書 僕射 ぼくや の王珣は、桓温の旧吏であり、平素から桓温に寵愛されていたので、三つの怨み(謝氏、桓氏、王珣)が交差し、范弘之を余杭令に左遷した。出発に際し、会稽王司馬道子に書簡を送って言った。

下官は軽微な寒門の士であり、誤って朝廷の礼儀の席に列なることを得て、実に清流を辱め累を及ぼすことを懼れ、聖世に塵をまき散らすのみです。窃かに思うに、人君が廟堂の上に居り、智を四海の外に周らす者は、ただ聡明で内を照らすだけでなく、また群臣の言論の助けにも頼るのである。それ故に舜が堯を補佐するに、啓辟(開拓開創)を以て首とし、咎繇(皋陶)が禹に謀るに、侃侃(剛直な様)を以て先とした。故に下には隠れた真情を責める非難がなく、上は神明のような功績を収めるのである。敢えてこの義に縁り、志を尽くさんとしています。常に謝石の汚職累積は清澄されるべきであり、殷浩の忠貞は褒顕されるべきであると考え、それ故に身の軽弱を量らず、衆人に先立って言上したのでした。しかし、直を悪み正を醜とする輩は、実に数が多い。聖主の欽明(敬聡明)なる御度量を仰ぎ恃み、明公の物を愛する隆盛を俯して頼りとしながらも、交差して至る災いは、実に頼むところがないのです。下官は謝石と元来怨みも憎しみもなく、生前面識もなく、事柄も関係がありません。ただ国体を明らかにすべきであり、少しも勢力の強弱を考慮すべきではないと考えただけです。殷浩とは年代が遥かに隔絶し、世代的にも接点がなく、再び聞く縁もなく、古老がその遺事を語るのを聞いただけです。下官自身にとって何の痛痒があるというのでしょう。それなのに、どうして彼らのために時勢に逆らい主君を犯すようなことをするでしょうか!

史書を読むたびに、志士仁人には内心から発して直道を行く者もいれば、知恵を秘めて愚を装い、私情を抱いて曲がった道に従う者もいる。用いられる道は異なるが、ともに後世に伝えられている。だから比干は三仁の中にあり、箕子は名賢の筆頭となった。後世の人の採用・不採用はまちまちで、それぞれが信じる所見に従い、それに応じて行動し、ある者は栄名を顕赫にし、ある者は禍敗が踵を接する。これらは皆、時の趨勢を量らず、身をもって禍を味わったものであり、確固たる称賛はあっても、大雅の境地ではない。これもまた下官が為さないところである。世間の人は下官が正直で、艱難に立ち向かえると言うが、この話は実に過ぎている。下官は主上が聖明であり、明公が虚心に格言を求めていることを知っている。必ずや忠を尽くす臣を邪枉の門で屈させることはないだろう。そこで敢えて愚かな誠意を献じ、執事に述べるのであり、昔人とその軽重を比べようというのではない。臣が君に仕えるにあたり、ただ忠を尽くすことを思うのみで、利鈍を再び計るべきではなく、事が心に允わなければ直言して主を悟らせ、義が情に感じれば言葉を述べて悔いない。もし情を抱き意を隠し、秘めて言わなければ、これこそ古人が明君に罪を得、明君が群下に法を致す所以である。

桓温の事跡は天朝に広まり、逆順の情は四海に露わになっている。君臣の義にある臣子として、その心情がどうして異なることがあろうか。凡そ 黔首 けんしゅ たる者、誰ひとり心なき者があろうか。朝廷全体が黙々としており、声を上げる者がいない。それゆえ筆を置き息を殺し、多くを語ることを敢えてしない。桓温と亡祖父との間には、その意図は測り難いが、事実を求めれば、免職・左遷に止まり、深い怨みはなかった。亡父はかつて桓温の吏であり、情と礼を推し量れば、義は他人以上である。それゆえ憤りを抱き、身首を痛める思いがするのは、明公には推し量っていただけるだろう。王珣は下官が殷浩の諡を議論するにあたり、桓温の悪を暴き立てるべきではないと言う。王珣は桓温の提拔の恩を感じ、幕下に迎えられた遇を懐き、暗愚を廃して聖明を立てることを託し、この事が忠貞の節を明らかにするに足ると自任している。明公、どうかもう一事をもってこれを見てほしい。昔、周公が摂政の地位にあって、道は昇平をもたらし、礼楽刑政はすべて自ら出した。徳から言えば周公は大聖であり、年齢から言えば成王は幼弱であったが、それでもなお急いで君位を避け、子(成王)に明らかな辞をもって返した。漢の 霍光 かくこう は大勲赫然としており、孝宣帝は年二十に満たなかったが、やはり万機を返した。それゆえ君臣ともに栄え、その道は千年を超えた。もし桓温が忠を 社稷 しゃしょく のためとし、誠を本朝に存するならば、まさに仰いで二公(周公・ 霍光 かくこう )に従い、この善き規範を手本とすべきであり、どうして万機を奉還し、藩屏を守って退かなかったのか。公王を率い、朝廷を匡正・総括しようとしているが、それは先帝が幼弱で親政できなかったからか?それとも桓温の徳が聴政できなかったからか?また袁宏を脅迫して 九錫 の文を作らせ、備物は光赫とし、その文書は現存している。朝廷は畏怖し、景従しない者はなかった。ただ謝安と王坦之が死を以て守ったので、留保できたのである。天が怒りを降らせ、奸悪自ら滅び、 社稷 しゃしょく は危うくして再び安らぎ、霊命は墜ちて再び構えられた。

しん は中興以来、号令威権は多く強臣から出て、中宗(元帝)・肅祖(明帝)は王敦に襟を正し、先皇(穆帝)は桓氏に屈した。今、主上は自ら万機を覧られ、明公は百揆を光り輝かせ補佐し、政は王室から出て、人に異望はない。今こそ国典を大いに明らかにし、百代の制を作らないなら、さらに誰を待とうというのか。先王が万物を統べるには、必ずその典誥を明らかにし、子孫のために謀りを遺す。それゆえ善き評判と美事は、千年にわたって風を受け継ぐのである。願わくは明公には遠く殷周を覧、近く漢魏を察し、その危うくなる所以を慮り、その安らかになる所以を求められたい。それだけである。

また王珣に書を送って言った。

貴殿が殷仲堪に答えた書簡を見て、深く義を発する思いを具えていることを知った。人の道で重んじるものは、君と親に過ぎず、君と親に関わるのは、忠と孝のみである。孝は親を顕揚することを主とし、忠は節義を先とする。殷侯(殷浩)は忠貞をもって正に居り、心は人神に貫き、さらに先帝と隆盛な布衣の交わりを加え、莫逆の契りを著わし、契闊艱難、平険をこれに以てし、奸雄に屈することはあっても、その志は千載に達した。これが忠貞の徒が義をもってその心を動かし、已むを得なかった所以である。これは当時の貞烈の徒が究めて見たところであり、また後生が備えて聞くところでもある。私はどうして狂狡を避け、聖明を欺くことを安んじえようか。貴殿は正に居る大筋を推し量らず、知己の小恵を懐き、幕府の小節をもって名教の重い義を奪おうとし、君臣の階梯において既に損なっている。尊大君(王珣の父、王洽か)は殷侯と忠規を協わせ契り、ともに王室を戴き、志は秋霜を励まし、誠は一時に貫いた。殷侯がその義声を宣べ得たのは、実に尊大君の協賛の力による。貴殿はこの尊大君の直なる志を光り大いにすることができず、かえって桓温の小さな顧みに感じ、その曲がった恩沢を懐いている。公(王珣)は聖世にありながら天下を欺き、丞相(王導)の徳を三葉(三代)に及ばせず、領軍(王洽か)の基を一構えて傾けさせた。これが忠臣が心を解き、孝子が気を喪う所以であり、父子の道は固よりこのようなものか。貴殿は臣について言えば忠ではなく、子について言えば孝ではない。この二つが既に失われて、私は誰を畏れようか。

私は幼少時に過庭の教えを受け、祖考の言葉を備えて聞いたが、そのたびに憤りで髪が逆立ち、情が言葉に現れた。あの時は、ただ覆亡を恐れるのみで、どうして国家を謀る暇があろうか。今日この事について筆を執ることを得ようとは思わなかった。それゆえ上は国朝に正義の臣がいないことを憤り、次に祖考に身を没する恨みがあることを思う。どうして貴殿と肝胆を同じくすることができようか。先君もかつてその吏であったが、当時は危惧し、常に自らを保てず、聖朝を仰ぎ見て、心口憤歎した。どうして再び昔日に名を策に計り、君臣の義に自らを同列に置くことができようか。昔、子政(劉向)は五世の純臣であり、子駿(劉歆)は以下王莽に委質した。先典は既にその逆順を正し、後人もまたその成敗を鑑としている。その事を読むたびに、文に臨んで痛歎せずにはおられず、憤りと慨きが胸に交わる。今をもって古に況らせば、その道理が同じであることを知る。

弘之(呉弘之か)の言葉は明らかで直ではあったが、結局は桓氏と謝氏のゆえに昇進せず、餘杭令の任で死去した。四十七歳。

王歡

王歡、字は君厚、楽陵の人である。貧しさに安んじて道を楽しみ、学問に専精し耽溺し、産業を営まず、常に乞食をしながら『詩経』を誦し、家に一斗の蓄えもなくとも、心は怡々としていた。その妻はこれを憂い、時にその書を焼き捨てて改嫁を求めたが、王歡は笑って彼女に言った。「あなたは朱買臣の妻の話を聞いたことがないのか?」当時、これを聞いた者は多く嘲笑した。王歡は志を守ることますます固く、遂に通儒となった。慕容暐が偽号を襲うに至り、国子博士に任じ、自ら経を受けた。祭酒に遷った。慕容暐が 苻堅 に滅ぼされると、王歡は長安で死んだ。

史評

史臣が言う。范平らは学府の儒宗であり、誉れ高く望み重く、あるいは質疑がこれに属し、あるいは師範がこれに帰した。古人には及ばないが、やはり一時の俊秀である。仲寧(劉兆)の清貞で道を守り、志を柴門に抗い、行斉(氾毓)の居室は屡空であり、心を陋巷に棲ませ、文博(徐苗)の流れに漱ぎ石に枕し、跡を鏟ぎ声を銷し、宣子(杜夷)の道を楽しみ貧に安んじ、風を弘め教を闡いた。これらは皆、通儒の中の高尚な者である。そして邈(徐邈)は主相に協和し、繁辞を刊削した。順ってその美を将め、その悪を匡救したと言えよう。舒元(范汪の子、范寧か)は機務に参与し、明主はその博聞を賞し、辺隅に出て臨むと、獰猛な狄もその明徳を欽んだ。弘之(呉弘之か)は抗言して論を立て、朝権を避けず、石(謝石か)を貶し温(桓温)を抵し、これは当を得ていた。それなのに三怨に厄せられ、ついに陵遲に至った。悲しいことだ。