卷八十七 列傳第五十七
涼武昭王
武昭王の 諱 は暠、 字 は玄盛、幼名は長生、隴西成紀の人、姓は李氏、漢の前将軍李広の十六世の孫である。李広の曾祖父の仲翔は、漢の初めに将軍となり、素昌で叛 羌 を討ったが、素昌はすなわち狄道である。衆寡敵せず、戦死した。仲翔の子の伯考が葬儀に駆けつけ、そのまま狄道の東川に葬り、そこで家を構えた。代々西州の右姓となった。高祖父の雍、曾祖父の柔は、ともに晋に仕えて郡守の位を歴任した。祖父の弇は、張軌に仕えて武衛将軍・安世亭侯となった。父の昶は幼い頃から良い評判があったが、早くに亡くなり、遺腹で玄盛が生まれた。若くして学問を好み、性格は沈着で聡明、寛大で温和、器量が優れ、経書や史書に広く通じ、特に文章の意味に詳しかった。成長すると、武芸をよく習い、孫子や呉子の兵法を誦した。かつて呂光の太史令である郭黁とその同母弟の宋繇と共に宿泊したことがあり、郭黁が立ち上がって宋繇に言った。「あなたは人臣の極位に至るでしょう。李君には国土を分有する運命があります。家に栗毛の牝馬が白い額の子馬を産む時が、まさに今です。」
呂光の末年、京兆の段業が自ら涼州牧を称し、敦煌太守の趙郡の孟敏を沙州 刺史 とし、玄盛を效穀県令に任命した。孟敏はまもなく亡くなり、敦煌護軍の馮翊の郭謙、沙州治中の敦煌の索仙らは、玄盛が温和で剛毅であり、善政を施しているとして、彼を推して寧朔将軍・敦煌太守とした。玄盛は最初は難色を示したが、ちょうど宋繇が段業に仕えており、敦煌に帰省し、玄盛に言った。「兄上は郭黁の言葉を忘れたのですか。白額の駒は今やもう生まれています。」玄盛はこれに従った。まもなく冠軍将軍の号を加えられ、段業に対して藩属を称した。段業は玄盛を安西将軍・敦煌太守とし、護西胡 校尉 を兼任させた。
段業が涼王を僭称すると、その右衛将軍の索嗣が段業に対して玄盛を讒言し、段業は索嗣を敦煌太守とし、騎兵五百を率いて西進させた。二十里手前まで来た時、索嗣は玄盛に使者を送り、自分を出迎えさせようとした。玄盛は驚き疑い、出迎えようとしたが、效穀県令の経邈と宋繇がこれを止めて言った。「呂氏の政治は衰え、段業は暗愚で弱い。まさに英雄豪傑が事を為すべき時です。将軍は一国の基盤を有しているのに、どうして人の前に手を縛られようとするのですか。索嗣は自らがこの地の出身であるから、人心が自分に付くと信じており、将軍が突然自分を拒絶するとは思っていません。一戦で捕らえることができます。」宋繇もまた言った。「大丈夫が世に推挙された以上、今日ただちに索嗣に首を差し出すなど、天下の笑い者になるだけではありませんか。長兄は英姿が傑出し、雄大な覇者の風格があります。張王(張軌)の事業を継ぐのに不足はありません。」玄盛は言った。「私は若い頃から風雲の志はなく、官職の縁でここまで来ただけで、この郡の士人たちが突然私を推挙するとは思ってもみなかった。先ほど出迎えようと言ったのは、士大夫たちの真意が分からなかったからだ。」そこで宋繇を遣わして索嗣の様子を探らせた。宋繇が索嗣に会い、甘言で籠絡し、戻って玄盛に言った。「索嗣は驕り高ぶり、兵は弱く、捕らえやすいです。」そこで二人の子の士業と譲に、経邈、宋繇、そして司馬の尹建興らと共に迎撃させ、これを破った。索嗣は張掖に逃げ帰った。玄盛はもともと索嗣と親しく、刎頸の交わりを結んでいたが、逆に讒言されたので、深く恨み、段業に対して索嗣の罪状を訴えた。段業の部将の且渠男成も索嗣を憎んでおり、この時、ついでに除くよう勧めた。段業は索嗣を殺し、使者を遣わして玄盛に謝罪し、敦煌の涼興・烏沢・晋昌の宜禾の三県を分けて涼興郡とし、玄盛を持節・ 都督 涼興以西諸軍事・鎮西将軍に進め、護西夷 校尉 を兼任させた。この時、赤い気が玄盛の後園から立ち上り、小さな城に龍の跡が見えた。
隆安四年、晋昌太守の唐瑤が六郡に檄を飛ばし、玄盛を大 都督 ・大将軍・涼公・秦涼二州牧・護 羌 校尉 に推戴した。玄盛は境内で大赦を行い、年号を庚子と建て、祖父の弇を涼景公、父の昶を涼簡公と追尊した。唐瑤を征東将軍、郭謙を軍諮祭酒、索仙を左長史、張邈を右長史、尹建興を左司馬、張体順を右司馬、張条を牧府左長史、令狐溢を右長史、張林を太府 主簿 、宋繇と張謖を従事中郎とし、宋繇には折衝将軍を加え、張謖には揚武将軍を加えた。索承明を牧府右司馬、令狐遷を武衛将軍・晋興太守、氾徳瑜を寧遠将軍・西郡太守、張靖を折衝将軍・河湟太守、索訓を威遠将軍・西平太守、趙開を騂馬護軍・大夏太守、索慈を広武太守、陰亮を西安太守、令狐赫を武威太守、索術を武興太守とし、東方の諸夏を招き懐柔しようとした。また宋繇を派遣して東征して涼興を討ち、玉門以西の諸城を攻撃し、すべて陥落させた。そこで玉門・陽関に駐屯し、田畑を広げ穀物を蓄積し、東征の資材とした。
初め、呂光が王を称した時、于闐に使者を遣わして六璽の玉を買わせたが、この時、玉が敦煌に届き、郡府に納められた。そこで南門外の水辺に堂を建て、靖恭の堂と名付け、朝廷の政務を議論し、軍事を検閲した。古来の聖帝明王、忠臣孝子、烈士貞女の絵と讃を描き、玄盛自ら序と頌を作り、鑑戒の意義を明らかにした。当時の文武の群僚も皆その絵を描かせた。白い雀が靖恭堂に飛来し、玄盛はこれを見て大いに喜んだ。また学校を設立し、高門の学生を五百人増員した。後園に嘉納堂を建て、志を記した絵と讃を掲げた。
義熙元年、玄盛は元号を建初と改め、舎人の黄始と梁興を密かに派遣して上表文を朝廷に奉った。その文は以下の通りである。
昔、漢の運命が終わろうとする時、三国が鼎立し、天命の暦数は皇晋に集まりました。高祖が宏大な基盤を開き、景帝・文帝が帝業を広め、武帝がその統治を受け継ぎ、辺境の地はことごとく服従し、天下は同じ風俗となり、宇宙は一貫しました。しかし恵帝が統御を失い、権臣が法紀を乱し、懐帝・愍帝は艱難に遭い、外で蒙塵され、天象は上で分かれ、九服は下で裂け、顧みれば、天下の人が共に遺憾に思いました。伏して考えるに、中宗元皇帝は天の命を継ぎ、江表に遷幸され、荊州・揚州は広大な覆いのご慈悲を蒙り、五都は荒れ果てた藪となりました。故 太尉 ・西平武公の張軌は、元康の初め、擾乱の時に当たり、方域を治める命を受け、この州を出撫され、威略が振るい、その名声は海内を覆いました。明帝(張寔)が統治を継ぎ、前の志を損なわず、長い旌旗の指す所、なお三秦を開拓し、正義を立て兵を強くし、境土を万里に広げました。文公(張茂)・桓公( 張駿 )が位を嗣ぎ、代々その徳を積み、関西を包み込み、教化は崑崙の辺境にまで及び、遠近の地は誠意をもって藩属し、代々職貢を修めました。晋の徳が遠くまで揚がるのは、この州の力に依る所が大きいのです。大 都督 ・大将軍の張天錫は英挺な姿をもって、七代の業を継ぎ、時難を救い、先人の勲功を大きく継ごうとしましたが、中年に災いが降り、兵寇が国境を侵し、皇威は遠く、共に助けることが及ばず、一方の軍勢をもって七州の大軍に抗し、兵は孤立し力は尽き、 社稷 を失いました。
臣は聞く、暦数が互いに推し移り、余分は終わりに帰し、帝王の興起には必ず閏位があると。これにより共工は黄帝と神農の間に乱象を起こし、秦と項羽は周と漢の間に 簒奪 を働き、いずれも機会は踵を返さず、束ねて凶事となる。戎狄が華夏を侵して以来、すでに百年を経て、五胡が僭称して襲い、期運はまさに尽きようとしている。四海は仰ぎ望み、心を象魏に懸けている。故に軍が東関に駐屯すると、趙や魏はみな踵を上げて待ち望み、淮南での大勝には三方が喜んで首を伸ばした。伏して考えるに、陛下の道は少康に協い、徳は光武帝に等しく、天の統を継いで位に即き、函夏を清めようと志しておられる。この州に至っては、代々忠義に厚く、臣の群僚は臣の高祖である東莞太守の雍、曾祖である北地太守の柔が前朝の寵愛を受け、時務に参画したこと、伯祖の龍驤将軍・広晋太守・長寧侯の卓、亡き祖父の武衛将軍・天水太守・安世亭侯の弇が涼州を輔佐し、秦隴に功績を著し、殊寵の隆盛が天府に刻まれていることを根拠に、無能な臣に、竇融の故事に倣い、義をもって臣を迫り、臣に大 都督 ・大将軍・涼公・秦涼二州牧兼務・護 羌 校尉 を上奏した。臣は考えた。荊楚が貢ぎを怠れば、斉の桓公は召陵の軍を起こし、諸侯が恭しくなければ、晋の文公は城濮の戦いを起こした。それによって功績は践土で輝き、業績は天下を匡正することに隆盛となり、九域はその大計に頼り、『春秋』はその専命を許した。功績は当時に冠絶し、美名は千年の祀りに伝わる。まして今、帝の居所は未だ回復せず、諸夏は混乱に沈み、大禹が経巡った地はたちまち戎の廃墟となり、五嶽の神山は狄に汚されること三、九州の名都は夷に穢されること七、辛有の言葉がここに現実となった。微臣が心を打ち気を絶やし、寝食を忘れ、肝を砕き焦慮し、安息する暇もない所以である。江と涼は遠く離れているが、義と誠は密接であり、風雲もし通じれば、まさに唇と歯の如し。臣の名は未だ天臺に結ばれず、器量は未だ海内に著しくないが、累代の祖の寵光と残された功業に頼り、義をもって細事を辞さず、大事務を遅らせることなく、ただちに群議に従い、身を亡きものとして事に当たる。力弱く任重く、威命を辱めることを恐れる。昔、春秋の時代、諸侯は周を宗主とし、国は皆元号を称えて時令を布いた。今、天臺は遠く、正朔は加えられず、号令を発しても、数を記すことができない。ただちに年号を建初と冠し、国憲を尊ぶ。寵霊を杖とし、一方を全制し、義誠を天に著わし、玄風を九壤に扇ぎ、命を殉じ身を灰にし、慷慨のうちに倒れんことを冀う。
玄盛は群僚に言った。「昔、河西が分崩離析し、群雄が競い起きた時、私は寡徳をもって多くの賢者に推戴され、何嘗て寝食を忘れず、黎民を救済しようと思わなかったことがあろうか。故に以前、母方の弟の繇に雲騎を統率させ、東の不庭を殄滅させたところ、軍の至る所、賓服しないところはなかった。今、ただ蒙遜が一城に梟のように構えているだけである。張掖以東では、晋の遺民は戎虜に制せられているとはいえ、義を向け風を思うことは、殷の民が西伯を望んだ以上である。大業は定めねばならず、安眠しているわけにはいかない。私は酒泉に遷都し、次第に賊の巣窟に迫ろうと思うが、諸君はどう思うか?」張邈がその議に賛成したので、玄盛は大いに喜んで言った。「二人心を同じくすれば、その利は金をも断つ。張長史は孤と同じ考えだ。何を疑おうか!」そこで張体順を寧遠将軍・ 建康 太守とし、楽涫を鎮守させ、宋繇を右将軍に征し、敦煌護軍を兼務させ、その子の敦煌太守の譲とともに敦煌を鎮守させた。そして酒泉に遷居した。手令で諸子を戒めて言った。
私は身を立てて以来、世の利益を営まず、累朝を経て、通塞は時に任せ、初めから智を働かせて何かを求めることはなかった。今日の挙は、本来の願いではない。しかし事態が相い駆り立て、遂に州土を担うこととなり、憂いと責務は軽からず、門戸の事は重い。人事には詳しいが、天心は知らず、車に登り手綱を取れば、百の思いが胸に満ちる。後のことは汝らに託す。朝晩の近事を数条、大まかに挙げる。思い至ったままに言うので、順序よく並べることはできない。漸を杜ぎ萌を防ぎ、情勢の変化を深く見極めることは、汝らの見識の深浅に任せるべきことで、私の戒めが益するところではない。汝らは年齢はまだ大きくないが、もし己を克し修め継ぐことができれば、古人に比べても、事業を成し得るであろう。もしそうでなければ、白髪になるまで至っても、また何を成し遂げられようか!汝らはこれを戒め慎むがよい。
酒を節し言葉を慎み、喜怒には必ず考え、愛する者であってもその悪を知り、憎む者であってもその善を知り、思いを動かす時は寛恕をもってし、審らかにして後に挙行せよ。衆人が嫌うことを、軽々しく信じて引き受けるな。人を詳しく審らかにし、真偽を核とし、佞諛を遠ざけ、忠正に近づけ。刑獄を免じ、煩擾を忍び、高齢者を大切にし、喪病を恤れみ、案を勤めて省み、訴訟を聴け。刑法を適用すべき時は、和やかな顔で道理に任せ、決して感情で軽々しく声色を加えるな。賞は疎遠な者に漏らすな。罰は親しい者を容赦するな。世間の耳目となり、外の患苦を知れ。左右を禁禦し、威福を振るうな。善を誇り労を施すな。逆詐や憶測をして、自分の明察を示すな。広く諮詢を加え、自分勝手に専用するな。善に従うことは流れに順うが如く、悪を去ることは熱湯を探るが如くせよ。富貴でありながら驕らないことは至難である。このことを心に貫き、一瞬たりとも忘れるな。僚佐や邑の長老には、礼を尽くして敬い承け、宴饗や饌食には、事ごとに心を留めよ。古今の成敗は、知らねばならない。退朝の暇には、典籍を観ることを念え。壁に向かって立つだけでは、人とは成れない。
この郡は代々忠厚に篤く、人物は雅やかで、天下が全盛の時でさえ、海内に称えられた。まして今日では、まさに名邦であり、ちょうど五百年の間、郷党や婚戚が繋がっているので、公理に関しては、時に小さな偏りがあるが、適宜斟酌すべきである。私は臨任して五年、兵難が騒動し、衆を休め役を息ませ、士庶を恵み康らかにすることができなかった。瑕を掩い疾を蔵め、疵や垢を洗い除き、朝には寇仇であった者を、夕には心膂として委ねることについては、古人に準えることは足りないが、大まかには新旧の者に負うところはない。事任は公平で、坦然として差別がなく、初めから私心を抱き、損益を加えることはなかった。近いことを計れば少し足りないが、遠いことを経れば余裕があるように思う。また前志に対しても恥じるところはない。
初め、玄盛が西に行った時、娘の敬愛を外祖父の尹文に養わせた。尹文が東遷した後、玄盛の従姑である梁褒の母が養った。その後、禿髮傉檀が北山を仮道した。鮮卑は梁褒を遣わして敬愛を酒泉に送り、和好を通じさせた。玄盛は使者を派遣して報聘し、方物を贈った。玄盛は自ら騎兵二万を率い、建東まで略地し、鄯善前部王が使者を遣わして方物を貢ぎ、且渠蒙遜が侵攻してきて建康に至り、三千余戸を掠奪して帰った。玄盛は大いに怒り、騎兵を率いて追撃し、弥安で追いつき、大いにこれを破り、掠奪した戸を全て取り戻した。
初め、 苻堅 の建元の末、江漢の人万余戸を郭煌に移し、中州の人で田畑を開かない者も七千余戸を移した。郭黁が武威を寇した時、武威・張掖以東の人で西に奔って敦煌・晋昌に来た者は数千戸であった。玄盛が東遷した時、これらを皆酒泉に移し、南人五千戸を分けて 会稽 郡を置き、中州人五千戸を分けて広夏郡を置き、残り一万三千戸を分けて武威・武興・張掖の三郡を置いた。敦煌の南の子亭に城を築き、南虜を威圧した。また、以前上表したが返答がなかったので、再び沙門の法泉を遣わし、間道を行かせて奉表させた。曰く、
江山は悠かに隔たり、朝宗する階もなく、雲の極みに首を延ばし、遐方を翹ぎ企てる。伏して考えるに、陛下は期に応じて位に践み、景福は天より来たり、臣は 乙巳 の年に群議に従い、方城を仮統し、時に舎人の黄始を遣わして表を奉り誠を通じさせたが、遥かな途は険しく広く、届いたかどうか分からない。呉と涼は懸け隔たり、蜂や蠍が道に充ち、方物を貢ぐ使者も、展禦する由もない。謹んで前の章を副写し、あるいは簡達を希う。
私はその年に酒泉へ進軍し、広平で軍備を整え、茨や穢を払おうとしたが、狡猾な敵は勝手気ままに振る舞い、威厳と教化に従わず、巣窟に拠って私の進路を阻んだ。私は諸事が草創期で、倉庫や国庫がまだ満たされていないため、兵を休め甲冑を押さえ、農業に努めて兵士を養っていた。時は移り節は過ぎ、三年の歳月が流れ、剣を撫でて嘆き憤り、一日が一年のように感じられた。今や物資の蓄えはすでに十分で、武器や装備も充実しており、西では城郭の兵を招き、北では丁零の民衆を引き入れ、国の威光を頼りに河隴を席巻し、秦川に旗を翻し、 詔 の趣旨を承けて、節を尽くし誠を尽くし、命を落としても効果を挙げようとしている。
また、私の州の境界は遠く離れており、強力な敵寇がまだ除かれていないため、鎮守の副官として行軍と留守の部署を分けるべきであり、私は勝手に私の世子である士業に前鋒諸軍事・撫軍将軍・護 羌 校尉 を仮授し、前軍を監督統率させ、私の先駆けとさせた。また、敦煌郡は民衆が多く豊かで、西域を制御し、万里を管轄し、軍国にとっての根本であるため、勝手に次子の譲を寧朔将軍・西夷 校尉 ・敦煌太守とし、子孫を統率させ、異域を安寧にさせた。その他の息子たちは皆、軍中におり、兵士たちの先頭に立ち、私は大綱を総督し、全ては力を尽くすことにあり、臨機応変に命令を下し、動静は続けて報告される。
玄盛は酒泉に遷った後、農業を奨励した。郡の官僚たちは、穀物が頻繁に豊作で、百姓が楽しく生業に励んでいることを理由に、酒泉に銘を刻むことを請うた。玄盛はこれを許した。そこで儒林祭酒の劉彥明に文章を作らせ、石に刻んで徳を称えさせた。その後も蒙遜が毎年侵攻を止めなかったが、玄盛は徳をもって自らの境内を撫でることを志とし、ただ和を通じて盟約を結ぶだけで、それに抗わなかった。この時、白い狼、白い兎、白い雀、白い雉、白い鳩が皆、その園囿に棲みつき、その臣下たちは白い祥瑞は金の精気から生まれたもので、皆、時宜に応じて和やかに到来したと考え、また神光、甘露、連理、嘉禾などの多くの瑞祥があったため、史官にその事を記録するよう請うた。玄盛はこれに従った。まもなく蒙遜が盟約を破って侵攻してきたので、玄盛は世子の士業を派遣して要撃し、これを破り、その将である且渠百年を捕らえた。
玄盛は上巳の日に曲水で宴を開き、群臣に詩を賦するよう命じた。そして自らその序文を書いた。そこで 諸葛亮 の訓戒を書き写して、息子たちを励まして言った。「私は艱難を負い、寧済の功績はまだ建てられていない。外では優れた人材を総括し、股肱の力を頼りにしているが、軍務は非常に多く、座して夜明けを待っている。城を守るには、親族と賢者を兼ね備えるべきである。だから、あなたたちが師保の教訓を受ける前に、皆、若年で任を受けた。常に任務を果たせないことを恐れ、過ちと後悔を残すことを心配している。古今の事柄を知らないわけにはいかない。もし近くに手本となるべきものがあれば、遠くを求める必要はない。諸葛亮の訓励と応璩の奏諫を読み、その終始を尋ねれば、周公と孔子の教えがすべてそこにある。国を治めるには十分に安寧をもたらし、身を立てるには十分に名声を上げることができる。質朴で簡略であり、目を通せば理解できる。言葉は過去の人々から発せられたが、道はここで師とすべきである。また、経史や道徳は中原で豆を摘むようなもので、勤勉な者は功績が多い。あなたたちは努めないでいられようか!」玄盛は敦煌の旧塞の東西二つの囲いを修復し、北虜の患いに備え、敦煌の旧塞の西南二つの囲いを築き、南虜を威圧した。
玄盛は世を治める度量を持ち、呂氏の末期に当たり、群雄に推戴され、ついに覇業の図を開いた。兵に血を刃に染めることなく、座して千里を平定し、張氏の事業は期日を指して成り、河西十郡は年月を経て一つになると言った。その後、禿髮傉檀が 姑臧 を占拠し、且渠蒙遜の基盤が次第に広がると、慨然として『述志賦』を著した。その文は次の通りである。
至虚の境地に踏み入りて誕駕し、本無に有る輿に乗り、玄元を稟りて陶衍し、景霊の冥符を承く。朝雲の庵藹に廕り、朗日の照煦を仰ぐ。既に敷き既に載せ、以て育み以て成す。幼きは顔子の曲肱の栄を希い、心を上典に遊ばせ、礼を玩び経を敦む。玄冕を硃門に蔑み、漆園の傲生を羨む。滄浪に漁父を尚び、沮溺の耦耕を善しとし、鵄鳶の籠哧を穢し、太清の飛鳳を欽ぶ。世競を方寸に杜み、時誉の嘉声を絶つ。崇嶺に霄吟を超え、奇しき秀木の陵霜を吟じ、修幹の青葱を挺て、歳寒を経て弥芳しむ。情遙遙として遠くに寄せ、四老の暉光を想う。将に繁栄を常衢に戢め、雲轡を控えて高く驤らんとし、瓊枝を玄圃に攀じ、華泉の淥漿を漱がんとす。吟鳳の逸響に和し、鳴鸞に南岡に応ぜんとす。
時に青彡を得ず、心は往き形は留まる。陽林に眷駕し、宛首して一丘す。沖風に沐し雨に浴し、載沈み載浮す。利害繽紛として交錯し、歎感は迴圈して相求む。乾扉は奄寂として重ねて閉ざし、天地は津を絶ちて舟無し。貞信の道の薄きを悼み、慚徳を圜流に謝す。遂に乃ち玄覧を去り、世賓を慶し、弱巾を東宮に肇め、羽儀を英倫に並べ、宣徳の秘庭を践み、明後を紫宸に翼す。赫赫たる謙光、崇明奕奕たり。岌岌たる王居、詵詵たる百辟。君は虞夏を希い、臣庶は夔益たり。
張王は岩に頽れ、梁後は壑に墜つ。淳風は杪莽として永く喪せられ、搢紳は淪胥して覆溺す。呂は閨牆に釁を発し、厥の構は摧けて傾顛す。疾風は高木に飄き、回湯は重泉に沸く。飛塵は翕いて日を蔽い、大火は其の燎原を炎す。名都は幽然として影絶え、千邑は闃として煙無し。斯れ乃ち百六の恆数、起滅相因りて迭然たり。ここにおいて人は逐鹿の図を希い、家に雄霸の想い有り、暗き王命を尋ねず、無象に非分を邀う。故に覆車は路に接して軌を継ぎ、膏は生霊を土壤に生ず。余類の忪懞を哀しみ、邈として依る所靡く仰ぐ所靡し。専らに求めんと欲して失うこと逾遠く、玄珠を罔象に寄す。
悠悠たる涼道。鞠として荒凶たり。杪杪たる余躬、迢迢たる西邦。相期する所の会に非ず、諒くは冥契して来り同ず。弱水を跨ぎて基を建て、昆墟を躡みて墉と為す。奔駟の駭轡を総べ、摧轅を峻峰に接ぐ。崇崖は崨嶪たり、重険は萬尋。玄邃窈窕、磐紆嶔岑。榛棘は交横し、河は広く水は深し。狐狸は路に夾まり、鴞鵄は群れ吟ず。挺て非我を以て用と為さず、至当の如き影響に任す。同心を執りて以て物を禦ぎ、自彼を懐いて握掌に於けり。矯情に非ずして荒に任ずるに匪ず、乃ち冥合して一往す。華徳是を用いて来庭し、野逸是に就いて鞅と為す。
休けり哉、時英。茂り哉、雋哲。庶くは網を罩めて以て遠く籠めん、豈に徒らに鉤を射ぎ袂を斬るのみならんや!或いは梏を脱して蕤に纓ぎ、或いは後至して先列す。岩陸に殊才を採り、無際に翹彥を抜く。留侯の神遇を思い、高浪を振るって以て穢を蕩せん。孔明を草廬に想い、玄籌の罔滯を運ばん。洪は盤に操りて慷慨し、三軍を起こして以て鋭を激せん。群豪の高軌を詠じ、関張の飄傑を嘉す。曹に報い劉に帰らんと誓う、何ぞ義勇の超出せるや!断橋に拠りて横に矛し、亦た雄姿の壮発たり。輝輝たる南珍、英英たる周魯。奇を荊呉に挺て、文烈武を昭らす。策を烏林に建て、龍驤す江浦。堂堂たる勁陣を摧き、鬱として風翔き雲挙ぐ。韓を攀る遠蹤を紹ぎ、徽猷を召武に侔えん。劉孫の鴻度に非ざれば、孰か能く茲の大祜に臻らんや!信に乾坤の相成すを、庶物は風に希い雨に潤う。
崏益の地が既に平定され、三江も清らかになった。威厳ある盛大な功績は、隆盛で平和な世を実現した。多くの英雄を統率して策を奮い、万年の長きにわたって栄光を飛翔させ、遠い時代の遺風を仰ぎ見て、高い山を目指しその道を歩む。朱旗を立てて道を開き、長い車を駆って迅速に遠征し、商風に逆らって旗を掲げ、招揺星の華やかな旗をなびかせ、皇極に神の兆しを授かり、五緯の運行に調和して安定させる。勇ましく国を守り、恭しく君主に仕え、奔り狂う鯨を討ち取り、あの醜悪な類を断ち切る。そして当陽に遊塵を洗い流し、衰えた徳を墜ちるところから救い上げる。昌寓の車に乗り、襄城に至って手綱を取る。害を取り除くことがここにあると知り、牧童の語ったことを体現し、機微に至るまで機動を察知し、食事を忘れて寝ずに思いをめぐらす。絹に韻を表し、白日に精誠を託す。
玄盛が病に伏せると、宋繇に遺言して言った。「私は幼少期に苦難に遭い、あらゆる艱難を経験した。喪乱の際に、この地方の人々に推戴され、才能は弱く智略は浅く、河西一帯を統一することはできなかった。今、気力は衰え、もう再び起き上がることはあるまい。死は人の理であり、私はそれを悲しまないが、志が達成されなかったことを恨む。元首の地位にある者は、危険の兆しを深く戒めるべきだ。私が死んだ後は、世子はあなたの子同然である。よく補佐し導き、私の平生を語り継ぎ、人々の上に立って専横に振る舞い独断で任せることのないようにせよ。軍国に関する事柄は、あなたに委ねる。謀略が道理に外れて、成敗の要を失うことのないように。」十三年、 薨去 した。享年六十七歳。国中の人々が諡を武昭王とし、墓を建世陵、廟号を太祖と上奏した。
以前、河西の地では楸・槐・柏・漆が育たなかった。張駿の時代に、秦隴の地から取って植えたが、結局すべて枯れてしまった。しかし酒泉宮の北西の隅に槐の木が生えていた。玄盛はまた『槐樹賦』を著して心情を託した。おそらく僻遠の地にあり、功を立てる場所ではないことを嘆いたのであろう。また主簿の梁中庸や劉彥明らにも作文を命じた。兵乱が頻繁に起こり、世の風俗が喧噪で競い合うのを感じて、『大酒容賦』を著して恬淡で豁達な心境を表した。辛景、辛恭靖とは志を同じくして親しく交わった。景らは晋に帰順したが、江南で害に遭った。玄盛はこれを聞いて哀悼した。玄盛の前妻は、同郡の辛納の娘で、貞淑で順従、婦人の礼儀を備えており、先に亡くなった。玄盛は自ら彼女のために誄を書いた。そのほか詩賦数十篇がある。世子の譚は早世し、第二子の士業が後を嗣いだ。
涼の後主
涼の後主の諱は歆、字は士業である。玄盛が 薨去 した時、府の官僚が大 都督 ・大將軍・涼公・涼州牧・護 羌 校尉 に奉じ、境内で大赦を行い、年号を嘉興と改めた。母の尹氏を太后として尊び、宋繇を武衛將軍・廣夏太守・軍諮祭酒・錄三府事とし、索仙を征虜將軍・張掖太守とした。
且渠蒙遜がその張掖太守である且渠廣宗を遣わして降伏を偽り士業を誘い出した。士業は武衛の温宜らを派遣してこれに向かわせ、自ら大軍を率いてその後詰めとした。蒙遜は三万の兵を率いて蓼泉に伏兵を設けた。士業はこれを聞き、兵を引き返したが、蒙遜に追撃された。士業は自ら鎧を着て先頭に立ち、これを大いに破り、百余里にわたって追撃し、七千余級を捕斬した。翌年、蒙遜がまた士業を討伐した。士業は出撃してこれを防ごうとしたが、左長史の張体順が強く諫めたので、やめた。蒙遜は秋の穀物を大いに刈り取って帰還した。この年、朝廷は士業を持節・ 都督 七郡諸軍事・鎮西大將軍・護 羌 校尉 ・酒泉公に任じた。
士業は刑罰をかなり厳しく用い、また建築工事を止めなかった。從事中郎の張顯が上疏して諫めて言った。「今年に入って以来、陰陽の秩序が乱れ、賊風や暴雨が頻繁に起こり、和気を傷つけております。今、天下は三分され、その勢いは長く併存することはありません。併合の根本は、実に農耕と戦いにあり、遠方を懐柔する方略は、寛大で簡素な政治に帰着します。それなのにさらに刑罰を煩雑にし法を峻烈にし、宮室の造営に力を注ぎ、人力は疲弊し、百姓は愁い憔悴しております。災害を招く過ちは、実にこれに由来します。」主簿の氾稱もまた上疏して諫めて言った。
臣は聞きます。天が人君を愛されるのは、誠に懇切であります。ゆえに政治が修まらない時は、災害と譴責を下して戒められます。改める者はたとえ危険でも必ず栄え、宋の景公がそうです。改めない者は、たとえ安泰でも必ず滅び、虢公がそうです。元年三月癸卯、敦煌の謙德堂が陥没しました。八月、效谷で地割れが起こりました。二年の元日、暗い霧が四方を覆いました。四月、太陽が赤く光を失い、二十日たってようやく元に戻りました。十一月、狐が南門に上りました。今年の春夏には地が五度ほど震動しました。六月、建康に隕星が落ちました。臣は学問が古を究めるものではなく、董仲舒のように聡明ではありませんが、先師から道を聞き、また五十九歳まで生きてきました。殿下のために耳目で聞き見たことを略述し、遠く書伝の故事を論じることはもうできません。
かつて咸安の初め、西平で地割れが起こり、狐が謙光殿の前に入りました。間もなく秦の軍が急に到来し、都城は守れませんでした。梁熙が涼州を治めた時、秦氏の兵乱に乗じて、涼州全土を領有しようと図り、外では百姓を慰撫しましたが、内では多く聚斂し、建元十九年に姑臧の南門が崩壊し、閑 豫 堂に隕石が落ち、二十年後に呂光が東から帰還し、子は前で敗れ、身は後で殺されました。段業は群胡の乱に乗じて、この地方で帝号を称しましたが、三年の間に、地震が五十余カ所で起こり、やがて先王が瓜州で興起し、蒙遜が張掖で彼を殺しました。これらはすべて目前の既成事実であり、また殿下がご存知のことです。效谷は、先王が飛躍の始めをされた地であり、謙德堂は即位された宮室です。その基礎が陥没し地が裂けるのは、大凶の兆候です。太陽は太陽の精気であり、中国の象徴です。それが赤く光を失うのは、中国が胡夷によって陵辱され滅ぼされようとしていることです。諺に言います。『野獣が家に入れば、主人は去る』と。今、狐が南門に上るのも、大きな災いです。また狐は胡を意味します。天の意思は、胡人がこの城に住み、南面して君臨するであろうと言っているようです。昔、春秋の時代、星が宋に落ち、襄公は結局楚に捕らえられました。地は至陰であり、胡夷の象徴です。静かであるべきものが動くのは、天の常道に反して乱れていることであり、天の意思は、胡夷が中国を震動させ、中国がもし徳を修めなければ、宋襄公のような禍いがあるであろうと言っているようです。
臣は先朝より布衣の身分でご恩顧を蒙り、あたかも子弟の親しみのように思っております。それゆえ、上意に逆らう誅罰を避けず、死を冒して愚直な意見を申し上げます。願わくは殿下には、仁に親しみ隣国と善隣し、威を養い隙をうかがい、宮室の工事をやめ、遊猟の娯楽を止めてください。後宮の嬪妃や諸夷の子女には、自ら分田を受け、自ら養蚕や機織りを勧め、清廉で倹約し質素な徳を以て栄誉とし、この奢侈浪費の費用をやめ、百姓の租税は専ら軍国に充ててください。虚心に士を敬い、広く英傑を招き、秦氏の治国の術を修めて、国を強くし風俗を豊かにしてください。国に数年の蓄積ができ、朝廷に文武の士が満ちてから、それから韓信・白起のような将を前駆とし、張良のような妙計を採り入れ、一鼓して姑臧を平定し、長駆して涇水・渭水で馬に水を飲ませ、長江を臨んで天下を争うならば、蒙遜ごときが憂うるに足りましょうか!そうでなければ、臣は宗廟の危険が十年以内に必ず訪れると恐れます。
士業はこれらをいずれも採用しなかった。
士業が即位して四年目に宋が 禅譲 を受けると、士業は東征を企てたが、張体順が強く諫めたので取りやめた。士業は蒙遜が南征して禿髪傉檀を討ったと聞き、内外に厳戒令を発し、張掖を攻撃しようとした。尹氏が固く諫めたが聞き入れず、宋繇もまた強く諫めたが、士業はともに従わなかった。宋繇は退いて嘆いて言った。「大事は去った。私は軍の出撃を見るが、軍の帰還を見ることはあるまい」。士業はついに歩兵・騎兵三万を率いて東征し、都瀆澗で鎧を着けた。蒙遜は浩亹から来て、懐城で対戦し、蒙遜に敗れた。側近たちが士業に酒泉へ戻るよう勧めたが、士業は言った。「私は太后の明らかな教えに背き、遠征して敗北と屈辱を招いた。この胡(蒙遜)を殺さずして、どうして母に顔向けできようか」。兵を率いて再び戦ったが、蓼泉で敗れ、蒙遜に殺害された。士業の弟たち、酒泉太守の翻、新城太守の預、領羽林右監の密、左将軍の眺、右将軍の亮らは西へ敦煌に逃れた。蒙遜はついに酒泉に入った。士業がまだ敗れる前、大蛇が南門から入り、恭徳殿の前に至った。一対の雉が宮中から飛び出し、大通りの大木の上で烏と鵲が巣を争い、鵲が烏に殺された。また敦煌の父老、令狐熾が夢に白髪の老人が衣冠を整えて現れ、熾に言うのを見た。「南風が吹き、長木を揺らす。胡桐の椎、轂には当たらず」。言い終わると忽然と消えた。士業の幼名は桐椎であり、この時に亡くなったのである。
翻と弟の敦煌太守恂、および諸子らは敦煌を捨てて北山に逃れた。蒙遜は索嗣の子、遠緒を行敦煌太守とした。元緒は粗暴で残忍で殺戮を好み、人心を大きく失った。郡の者、宋承と張弘は、恂が郡にいた時に善政を敷いていたことを思い、密かに手紙を送って恂を招いた。恂は数十騎を率いて敦煌に入城し、元緒は東の涼興に逃れた。宋承らは恂を推戴して冠軍将軍・涼州 刺史 とした。蒙遜は世子の徳政に兵を率いさせて恂を攻撃させた。恂は門を閉じて戦わず、蒙遜は自ら二万の兵を率いてこれを攻め、三方向に堤防を築き、水を引いて城を水攻めにした。恂は壮士一千人を遣わし、板をつないで橋とし、密かに堤防を決壊させようとした。蒙遜は兵を率いて迎え撃ち、その城を屠った。士業の子、重耳は身一つで江左に逃れ、宋に仕えた。後に魏に帰順し、恒農太守となった。蒙遜は翻の子、宝らを姑臧に移したが、一年余り後に北の伊吾に逃れ、後に魏に帰順した。ただ尹氏と諸女だけが伊吾で死んだ。
玄盛は安帝の隆安四年に即位し、宋の少帝の景平元年に滅亡するまで、河右の地を支配すること凡そ二十四年であった。
【史評】
史臣が言う。王者が天命を受けるのは、すべて代々の徳によるものである。それはあたかも混沌が大帝に先立つように、また一気が両儀を生むようなものである。それゆえ中陽が勃興したのは、豢龍(劉累)の功績の基盤によるものであり、景亳が統治を伝えたのは、もともと燕を呑んだ開基によるものである。涼の武昭王(李暠)は英姿傑出し、陰陽を運用して武を整え、変化に対応する術は神のようであった。日月を呑んで天を経営し、万物を成す功績は歳の如くであった。故に荒蕪を懐け暴虐を止め、国を開き家を教化し、五郡を治めて藩国と称し、三分の一に屈して順奉した。『詩経』が秦仲を褒めたのは、後嗣が平定の業を建てたからであり、『頌』が公劉を美としたのは、末孫が天に配する福を興したからである。ある者は汧・渭で発跡し、ある者は邠・岐で教化を布いた。簣を覆して天を覆う基を創り、涓を疏いて海を巡る宅を開いた。彼らに漸進があったように、これもまた同じ符節を示す。これによって天命の帰する所は、一朝一夕に至るものではなく、功を積み慶を重ねることは、その由来が遠いことを知るのである。