晉書

卷八十三 列傳第五十三

卷八十三 列傳第五十三

晉書

原文晉書

卷八十三 列傳第五十三

原文卷八十三 列傳第五十三 ► 卷八十四

顧和

原文顧和

顧和は、字あざなを君孝といい、侍中顧衆の族子(同族の子)である。曾祖父の顧容は、呉の荊州刺史ししであった。祖父の顧相は、臨海太守であった。顧和は二歳で父を亡くし、幼少の頃から清廉な節操があり、族叔の顧栄は彼を特に重んじて、「これは我が家の麒麟である。我が宗族を興す者は、必ずこの子だ」と言った。当時、同族の顧球も良い評判があり、州の別駕を務めていたが、顧栄は彼に言った。「君は速やかに歩め、君孝が君を追い越すだろう」。

原文顧和,字君孝,侍中衆之族子也。曾祖容,吳荊州刺史。祖相,臨海太守。和二歲喪父,總角便有清操,族叔榮雅重之,曰:「此吾家麒麟,興吾宗者,必此子也。」時宗人球亦有令聞,為州別駕,榮謂之曰:「卿速步,君孝超卿矣!」

王導おうどうが揚州を治めていた時、顧和を従事に召し出した。月旦(月初めの朝会)の日に出仕しようとしたが、まだ入らず、車を門外に停めていた。周顗が通りかかり、顧和が虱を取っているのを見たが、顧和は平然として動じなかった。周顗が通り過ぎた後、振り返って顧和の胸を指さして言った。「ここには何があるのか?」顧和はゆっくりと答えた。「ここは最も測りがたい場所です」。周顗が入って王導に言った。「君の州の官吏の中に、令や僕射ぼくやとなる才能を持つ者が一人いる」。王導もその通りだと思った。顧和がかつて王導を訪ねた時、王導は少し体調が悪く、彼に対面しながら疲れて眠ってしまった。顧和は彼を起こそうとしたが、同席者に向かって言った。「昔、しばしば族叔の顧栄(元公)が中宗(元帝)を補佐し、江表を保全したと聞きました。体が少し不調なだけで、人に息苦しさを感じさせます」。王導は目を覚まし、顧和に言った。「君は珪璋のように優れた才能を持ち、機知に富み鋭敏で、単に東南の美材というだけでなく、まさに天下の俊才である」。これによって顧和は有名になった。その後、王導が八部の従事をそれぞれの管轄地に派遣した時、顧和は下伝(下級の伝令役)として戻り、他の従事たちと同時に謁見した。諸従事がそれぞれ二千石の官長の得失を述べる中、顧和だけは何も言わなかった。王導が顧和に尋ねた。「君は何か聞いたことがあるか?」顧和は答えた。「明公が補佐の任にあたられ、どうして網の目を粗くして舟を飲み込むような大罪人をも逃がすような政治をなさるのでしょうか。どうして風聞を採り上げて聞き入れ、細かいことまで詮索するような政治を行われる必要がありましょうか」。王導は感心して称賛した。

原文王導為揚州,辟從事。月旦當朝,未入,停車門外。周顗遇之,和方擇虱,夷然不動。顗既過,顧指和心曰:「此中何所有?」和徐應曰:「此中最是難測地。」顗入,謂導曰:「卿州吏中有一令僕才。」導亦以為然。和嘗詣導,導小極,對之疲睡。和欲叩會之,因謂同坐曰:「昔每聞族叔元公道葉贊中宗,保全江表。體小不安,令人喘息。」導覺之,謂和曰:「卿珪璋特達,機警有鋒,不徒東南之美,實為海內之俊。」由是遂知名。既而導遣八部從事之部,和為下傳還,同時俱見,諸從事各言二千石官長得失,和獨無言。導問和:「卿何所聞?」答曰:「明公作輔,寧使網漏吞舟,何緣采聽風聞,以察察為政。」導咨嗟稱善。

累進して司徒しと左曹掾となった。当時、東海王司馬沖が長水校尉となり、優秀な僚属を選んで、沛国の劉耽を司馬に、顧和を主簿しゅぼに任命した。永昌初年、司徒掾に任じられた。太寧初年、王敦が主簿に請い、太子舎人、車騎参軍、護軍長史に転じた。王導が揚州を治めた時、別駕に請い、歴任した官職でいずれも名声を上げた。散騎侍郎、尚書しょうしょ吏部に転じた。司空しくうの郗鑒が長史に請い、晉陵太守を兼ねた。咸康初年、御史中丞に任じられ、尚書左丞の戴抗が百万もの汚職を行ったことを弾劾して奏上し、法に照らして罪を議するよう求め、同時に尚書の傅玩と郎の劉傭の官職を免じたため、百官は彼を恐れた。侍中に転じた。初め、東晋が中興して東遷した時、旧来の制度の多くが欠けており、冕旒(冠の前後の玉の飾り)を翡翠や珊瑚、雑多な真珠などで飾っていた。顧和が上奏した。「旧制では冕は十二の旒があり、すべて玉の珠を用いていました。今、雑多な真珠などを用いるのは礼に適いません。もし玉が用いられないなら、白旋珠を用いるべきです」。成帝はそこで初めて太常に命じて改めさせた。これ以前に、帝は保母の周氏に養育の労があったとして、彼女に名号を与えようとし、朝廷内外は皆詔みことのりに従おうとした。顧和だけが上疏して、「周氏は聖体を保佑し、その功績を見逃すべきではありませんが、邸宅や供給を外戚の類に準じるのは、恩沢が加えられすぎています。もし名号を与えるなら、記録に明確な先例が見当たりません。ただ漢の霊帝が乳母の趙嬈を平氏君とした例がありますが、これは末世の私的な恩恵であり、先代の立派な典範ではありません。かつて君主の行動は必ず記録され、物事の規範を示し後世に法則を垂れるものです。記録すべきことが法に適わなければ、後世の者は何を手本とすればよいでしょうか」と主張した。帝はこれに従った。吏部尚書に転じ、頻繁に転任して領軍将軍、太常卿、国子祭酒を兼ねた。

原文累遷司徒左曹掾。時東海王沖為長水校尉,妙選僚屬,以沛國劉耽為司馬,和為主簿。永昌初,除司徒掾。太甯初,王敦請為主簿,遷太子舍人、車騎參軍、護軍長史。王導為揚州,請為別駕,所歷皆著稱。遷散騎侍郎、尚書吏部。司空郗鑒請為長史,領晉陵太守。咸康初,拜御史中丞,劾奏尚書左丞戴抗髒汙百萬,付法議罪,並免尚書傅玩、郎劉傭官,百僚憚之。遷侍中。初,中興東遷,舊章多闕,而冕旒飾以翡翠珊瑚及雜珠等。和奏:「舊冕十有二旒,皆用玉珠,今用雜珠等,非禮。若不能用玉,可用白旋珠。」成帝於是始下太常改之。先是,帝以保母周氏有阿保之勞,欲假其名號,內外皆奉詔。和獨上疏以為「周保佑聖躬,不遺其勳,第舍供給擬于戚屬,恩澤所加已為過隆。若假名號,記籍未見明比,惟漢靈帝以乳母趙嬈為平氏君,此末代之私恩,非先代之令典。且君舉必書,將軌物垂則。書而不法,後嗣何觀!」帝從之。轉吏部尚書,頻徙領軍將軍、太常卿、國子祭酒。

康帝が即位し、南北郊で祭祀を行おうとした時、顧和は議して、車駕(天子の乗り物)は自ら行うべきだと主張した。帝はこれに従い、いずれも自ら礼を行った。尚書僕射に昇進したが、母が年老いていることを理由に固辞した。詔書で諭され、夕方に出て朝に戻ることを許されるなど、その優遇ぶりはこのようなものであった。まもなく朝廷の議論で、尚書僕射という要職の副たる者が外にいるのは適当でないとして、さらに銀青光禄大夫に任じられ、国子祭酒を兼ねた。ほどなく、母の喪に服すため職を辞し、喪に服して孝行で知られた。練祭(喪中に行う祭祀)の後、衛将軍の褚裒が上疏して顧和を推薦し、尚書令として起用され、散騎郎が詔の趣旨を伝えに来た。顧和は毎回促されるたびに、声をあげて慟哭し、親しい者に言った。「古人には、憂いの喪服を脱いで王命に応じた者もいますが、それは才能が時勢に役立つからこそ、国に尽くし義に殉じざるを得なかったのです。私は平常時でもまだ人に及びません。ましてや今、心が乱れ荒んでおり、どうして万分の一でも補うことができましょうか。ただ孝道を軽んじ忘れたことを示し、素冠(喪服)の道理に恥をかかせるだけです」。帝はまた詔を下して言った。「百官の政務は多忙であり、尚書令という要職は総括する役目である。しかるに職が空位のまま長く経過しているのは、まことに心苦しい。昔、先朝では政治の道が善く行われ、中華は隆盛し、山濤や賈充ら諸公は皆喪服を脱いで時勢に従い、その心情と礼に従うことを得ませんでした。ましてや今日は、百王の弊に至るほどの艱難の時です。尚書令の礼はすでに祥練(喪の期間)を過ぎています。どうして急を要する事態に赴かず、果てしない悲しみの感情に従うことを許せましょうか」。顧和は表疏を十数回上奏し、ついに起き上がらず、喪が明けてから初めて職務に就いた。

原文康帝即位,將祀南北郊,和議以為車駕宜親行。帝從之,皆躬親行禮。遷尚書僕射,以母老固辭,詔書敕喻,物聽暮出朝還,其見優遇如此。尋朝議以端右之副不宜處外,更拜銀青光祿大夫,領國子祭酒。頃之,母憂去職,居喪以孝聞。既練,衛將軍褚裒上疏薦和,起為尚書令,遣散騎郎喻旨。和每見逼促,輒號咷慟絕,謂所親曰:「古人或有釋其憂服以祗王命,蓋以才足干時,故不得不體國徇義。吾在常日猶不如人,況今中心荒亂,將何以補於萬分,只足以示輕忘孝道,貽素冠之義耳。」帝又下詔曰:「百揆務殷,端右總要,而曠職經久,甚以悒然。昔先朝政道休明,中夏隆盛,山賈諸公皆釋服從時,不獲遂其情禮。況今日艱難百王之弊,尚書令禮已過祥練,豈得聽不赴急疾而遂罔極之情乎!」和表疏十餘上,遂不起,服闋,然後視職。

当時、南中郎将の謝尚が宣城内史を兼ねており、涇県令の陳幹を捕らえて殺した。有司は謝尚が法に違反したとして糾弾し罷免しようとしたが、詔によって赦された。顧和は重ねて上奏した。「謝尚は先に陳幹の奸悪と汚職の罪を弾劾し、その罪は甲戌の赦令に入り、自首して死刑を減じられることになっていました。ところが謝尚の近い上表によれば、陳幹が奸猾を包み隠しているとして、すぐに捕らえて刑を執行したと言います。陳幹の事案は郡から上がってきたものであり、軍務に関する罪ではなく、都督の管轄でもありません。考えますに、謝尚は親族で賢才として推挙され、文武の任を担っていますが、国の体面を惜しみ、公平な心で裁断することができず、内心の小さな遺恨を抱き、その威勢と暴虐をほしいままにしています。遠近の人々は怪しみ驚き、誰もが離反しています。謝尚は外戚の恥辱を受ける身であり、赦すには典拠がありますが、下吏(陳幹)に対しては、正しく刑罰を適用すべきです」。謝尚は皇太后の舅であったため、この上奏は取り上げられなかった。当時、汝南王の司馬統と江夏公の衛崇がともに庶母のために三年の喪服を着ていた。顧和はそこで上奏した。「礼とは物事を規範とし教化を成すものです。故に国家を持つ者は、正しいことを尊び根本を明らかにして、その統治を一つにし、これが人倫の規律であり、揺るぎない道です。後継ぎとなった者は、自分の生みの親に対する礼を降格させ、天与の親子の情を抑えて、至上の公の義を明らかにします。礼を降格・削減する規定は、周の典籍に明記されています。考えますに、汝南王司馬統は庶母のために廬(喪屋)に住み重い喪服を着ており、江夏公衛崇は本来疎遠な家柄から出て、開国の功績がある家柄ですが、近く実母を喪い、さらに重い喪制を行い、礼の度合いに違反し冒涜し、私情をほしいままにしています。巷間では彼らの行いを厚すぎると認め、議論する者は誰も非としませんが、それでは政治の道が衰えるのは礼が廃れるからであり、憲章が崩れるのは違反を許容することから始まるのです。もしこれを是正しなければ、物事を統一することはできません。皆、太常に下して喪服を脱がせるべきです。もし王命に従わないなら、貶黜(降格・罷免)を加えるべきです」。詔はこれに従った。顧和は職に在って多くの意見を献言し、権臣に対しても苟も迎合したり曲げたりしなかった。

原文時南中郎將謝尚領宣城內史,收涇令陳幹殺之,有司以尚違法糾黜,詔原之。和重奏曰:「尚先劾奸髒罪,入甲戍赦,聽自首減死。而尚近表雲幹包藏奸猾,輒收行刑。幹事狀自郡,非犯軍戎,不由都督。案尚蒙親賢之舉,荷文武之任,不能為國惜體,平心聽斷,內挾小憾,肆其威虐,遠近怪愕,莫不解體。尚忝外屬,宥之有典,至於下吏,宜正刑辟。」尚,皇太后舅,故寢其奏。時汝南王統、江夏公衛崇並為庶母制服三年,和乃奏曰:「禮所以軌物成教,故有國家者莫不崇正明本,以一其統,斯人倫之紀,不二之道也。為人後者,降其所出,奪天屬之性,顯至公之義,降殺節文,著于周典。案汝南王統為庶母居廬服重,江夏公衛崇本由疏屬,開國之緒,近喪所生,復行重制,違冒禮度,肆其私情。閭閻許其過厚,談者莫以為非,則政道陵遲由乎禮廢,憲章頹替始于容違。若弗糾正,無以齊物。皆可下太常奪服。若不祗王命,應加貶黜。」詔從之。和居任多所獻納,雖權臣不苟阿撓。

永和七年、病が重いことを理由に辞任を願い出て、左光禄大夫、儀同三司に任じられ、散騎常侍を加えられ、尚書令は元のままとした。その年に死去した。六十四歳であった。侍中、司空を追贈され、諡は穆といった。

原文永和七年,以疾篤辭位,拜左光祿大夫、儀同三司,加散騎常侍,尚書令如故。其年卒,年六十四。追贈侍中、司空,諡曰穆。

子の顧淳は、尚書吏部郎、給事黄門侍郎、左衛将軍を歴任した。

原文子淳,歷尚書吏部郎、給事黃門侍郎、左衛將軍。

袁瑰

原文袁瑰

袁瑰は、字を山甫といい、陳郡陽夏の人で、魏の郎中令袁渙の曾孫である。祖父と父はともに早くに亡くなった。袁瑰は弟の袁猷とともに母を奉じて乱を避けようとし、江淮の間の県の官を求めて呂県令に任じられ、江都に転じ、そのまま南に渡った。元帝は彼を丹陽令とした。東晋が中興して建てられると、奉朝請に任じられ、治書御史に転じた。当時、東海王司馬越の遺体がすでに石勒せきろくによって焼かれた後、妃の裴氏が司馬越の招魂葬を求め、朝廷はこれを疑った。袁瑰は博士の傅純と議論し、招魂葬は神を埋めるようなものだとして従うべきではないと考えた。帝はこれをよしとし、裴氏に司馬越の招魂葬を許す一方で、すぐに詔を下してこれを禁じた。まもなく廬江太守に任じられた。大将軍王敦が彼を諮議参軍に引き入れた。ほどなく臨川太守となった。王敦の乱が平定されると、鎮南将軍卡敦(卞敦か)の軍司となった。まもなく自ら職を解いて都に戻り、会稽かいけいに遊んだ。蘇峻の乱の時、王舒とともに義軍を起こし、功績によって長合郷侯に封じられ、散騎常侍に徴されて補され、大司農に転じ、まもなく国子祭酒に任じられた。ほどなく、散騎常侍を加えられた。

原文袁瑰,字山甫,陳郡陽夏人,魏郎中令渙之曾孫也。祖、父並早卒。瑰與弟猷欲奉母避亂,求為江淮間縣,拜呂令,轉江都,因南渡。元帝以為丹陽令。中興建,拜奉朝請,遷治書御史。時東海王越屍既為石勒所焚,妃裴氏求招魂葬越,朝廷疑之。瑰與博士傅純議,以為招魂葬是謂埋神,不可從也。帝然之,雖許裴氏招魂葬越,遂下詔禁之。尋除廬江太守。大將軍王敦引為諮議參軍。俄為臨川太守。敦平,為鎮南將軍卡敦軍司。尋自解還都,游於會稽。蘇峻之難,與王舒共起義軍,以功封長合鄉侯,征補散騎常侍,徙大司農尋除國子祭酒。頃之,加散騎常侍。

当時は喪乱の後で、礼教が廃れていた。袁瑰は上疏して言った。

原文于時喪亂之後,禮教陵遲,瑰上疏曰:

臣は聞く、先王の教えは、典訓を崇めて遠代を弘め、礼楽を明らかにして後生に流布させ、万物の本性を導き、善を行う道を暢達させるものであると。宗周が興って以来、文と史は輝きを増し、礼服は南蛮にまで垂れ、頌声は四海に溢れた。それゆえ延州が魯に聘した時は『雅』を聞いて嘆息し、韓起が魯に赴いた時は『易』を観て賞賛した。なぜか。人を立てる道は、ここにその首があるからである。孔子は洙泗で謹んで教え、孟軻がこれを継ぎ、倦まずに諭し導いた。それゆえ仁義の声は今なお存し、礼譲の節度も時折見られる。

原文臣聞先王之教也,崇典訓以弘遠代,明禮樂以流後生,所以導萬物之性,暢為善之道也。宗周既興,文史載煥,端委垂于南蠻,頌聲溢于四海,故延州聘魯,聞《雅》而歎;韓起適魯,觀《易》而美。何者?立人之道,於斯為首。孔子恂恂以教洙泗,孟軻系之,誨誘無倦,是以仁義之聲於今猶存,禮讓之節時或有之。

かつて皇運が衰え、喪乱が頻発した時、儒林の教えは次第に廃れ、学校の礼は欠け、国学は寂しく、典籍は開かれず、志ある者は抱負を果たす術がなかった。昔、魏武帝は自ら甲冑を身につけ、武功に務めたが、それでも鞍を離れて書を読み、戈を投げて詩を吟じた。ましてや今、陛下が聖明をもって朝に臨み、百官が恭しく職務に当たり、朝野に憂いがなく、江外が静謐であるのに、どうして広大な風が漠然として聞こえず、盛んな美が聖世に墜ちることがあろうか。古人に言う、『詩・書は義の府であり、礼楽は徳の則である』と。実に経籍に心を留め、学義を闡明し、諷誦の音を京師に満たし、道を味わう賢者がこれを則り詠うようにすべきである。それは盛大なことではないか。もし宅地を与え、学徒を備え、博士の僚属がおおよそ官を有するならば、それが臣の願いである。

原文疇昔皇運陵替,喪亂屢臻,儒林之教漸頹,庠序之禮有闕,國學索然,墳籍莫啟,有心之徒抱志無由。昔魏武帝身親介胄,務在武功,猶尚廢鞍覽卷,投戈吟詠,況今陛下以聖明臨朝,百官以虔恭蒞事,朝野無虞,江外謐靜,如之何泱泱之風漠然無聞,洋洋之美墜於聖世乎!古人有言:「《詩》《書》義之府,禮樂德之則。」實宜留心經籍,闡明學義,使諷誦之音盈於京室,味道之賢是則是詠,豈不盛哉!若得給其宅地,備其學徒,博士僚屬粗有其官,則臣之願也。

上疏が奏上されると、成帝はこれに従った。国学の興隆は、袁瓌から始まったのである。齢が致仕の年(懸車)に達したため、上疏して老齢を理由に退任を願い出た。まもなく死去し、光禄大夫を追贈され、諡は恭といった。子の袁喬が後を嗣いだ。

原文疏奏,成帝從之。國學之興,自瑰始也。以年在懸車,上疏告老,尋卒,追贈光祿大夫,諡曰恭。子喬嗣。

子の袁喬

原文子喬

袁喬は字を彦叔という。初め佐著作郎に任ぜられた。輔国将軍桓温かんおんが司馬に請うたが、司徒左西属に除され、就任せず、尚書郎に任ぜられた。桓温が京口を鎮守すると、再び司馬に引き立てられ、広陵相を兼ねた。初め、袁喬は褚裒と親しくしていたが、康献皇后が臨朝すると、袁喬は褚裒に手紙を送って言った。「皇太后が正位に践祚し、皇朝を統御される。将軍にとって国においては、外姓の太上皇にあたります。皇子や近親に対してさえ、揖譲の礼があるのに、ましてや名を策名した人臣が、他人の父と軽々しく交わることは、天性の尊厳からしても、また国を体して重んずべきです。故友のよしみは、ここでお別れいたします。染め糸の変化に墨翟が思いを致し、岐路の感に楊朱が嘆いたように、ましてや将軍とは幼少の頃から交遊し、世間の評判に前後はあれど志を同じくしてきました。平素の交わりは、礼の度合いによって下がり、足を投げ出して座るような嘆息も、時勢によって廃れるものです。たとえ濠水のほとりで虚しく詠い、儀礼制度を脱しようとも、果たしてできるでしょうか。来るものは留まらず、変化は代わり、わずかな時間だけでなく、事柄にも同様のことがあります。器物を制するのは精神であり、衆を制するには簡約をもってします。願わくば将軍は無事に情を留め、理をもって勝つことを任とし、賢達を親しく杖とし、善を採り入れることを大とされますように。筆を執って惆悵たる思い、自ら尽くすことができません。」論者はこれを礼を得ているとした。

原文喬字彥叔。初拜佐著作郎。輔國將軍桓溫請為司馬,除司徒左西屬,不就,拜尚書郎。桓溫鎮京口,復引為司馬,領廣陵相。初,喬與褚裒友善,及康獻皇后臨朝,喬與裒書曰:「皇太后踐登正阼,臨御皇朝,將軍之于國,外姓之太上皇也。至於皇子近屬,咸有揖讓之禮,而況策名人臣,而交媟人父,天性攸尊,亦宜體國而重矣。故友之好,請於此辭。染絲之變,墨翟致懷,岐路之感,楊硃興歎,況于將軍游處少長,雖世譽先後而臭味同歸也。平昔之交,與禮數而降,箕踞之歎,隨時事而替,雖欲虛詠濠肆,脫落儀制,其能得乎!來物無停,變化遷代,豈惟寸晷,事亦有之。夫禦器者神,制衆以約,願將軍貽情無事,以理勝為任,親杖賢達,以納善為大。執筆惆悵,不能自盡。」論者以為得禮。

安西諮議参軍、長沙相に遷ったが、就任しなかった。まもなく沔中の諸戍、江夏、随、義陽の三郡軍事を督し、建武将軍、江夏相となった。当時、桓温が蜀征伐を謀ると、衆人は不可としたが、袁喬は桓温を勧めて言った。「大事を経略するのは、もとより常情では計り知れず、智者が胸中に明らかにしてこそ、挙げて遺算がありません。今、天下の難は、二寇(蜀と胡)だけです。蜀は険固ではありますが、胡に比べれば弱く、除こうとするなら、易しい方から始めるべきです。今、流れを遡って万里を行き、天険を経るのですから、相手に備えがあれば、必ずしも攻略できるとは限りません。しかし蜀人は自ら一方を隔絶して戦い、その完固さを頼みにし、攻戦の具を整えていません。もし精兵一万を率い、軽軍で速やかに進めば、彼らが聞く前に、我々はすでにその険要に入っています。李勢りせいの君臣は自力で一戦するほかなく、必ずや生け捕りにできます。論者は、大軍が西に向かえば、胡が必ず窺うだろうと恐れますが、これもまた似て非なるものです。なぜか。胡は万里を隔てて征伐があると聞けば、内に重い備えがあると思い、必ず動こうとはしません。たとえ江渚を越えて出てきても、諸軍は国境を守るに足ります。これに憂いはありません。蜀の地は富み実り、天府と称され、昔、諸葛武侯はこれをもって中国に対抗しようとしました。今は確かに害をなすことはできませんが、上流を押さえる勢いで、寇盗となるには容易です。もし襲ってこれを取れば、その人衆を得ることになり、これは国の大きな利益です。」桓温はこれに従い、袁喬に江夏相として二千人を率いさせて軍の先鋒とした。軍は彭模に駐屯し、賊に近づいた。議者は両道を並行して進軍し、賊の勢力を分けようとした。袁喬は言った。「今、万里の深くに入り、死地に置かれているのです。兵士に後顧の憂いはなく、いわゆる人自ら戦う状態です。今、二軍に分ければ、軍力が一つにならず、万一一方が敗れれば、大事は去ります。全軍で進み、釜や甑を捨て、三日分の糧食を持って行く方が、勝利は必至です。」桓温はこれをよしとし、ただちに一斉に進んだ。成都から十里のところで賊と大戦し、前鋒が不利となると、袁喬の軍も退き、矢が馬の首に届き、左右の者は色を失った。袁喬はそこで麾を振って進み、声と気勢はますます激しく、ついに大破し、長駆して成都に至った。李勢が降伏した後、その将の鄧定、隗文が配下を率いて反乱を起こし、衆はそれぞれ万余りであった。桓温は自ら鄧定を撃ち、袁喬は隗文を撃って破った。龍驤将軍に進号し、湘西伯に封ぜられた。まもなく死去、三十六歳。桓温は大いに悼み惜しんだ。益州刺史を追贈され、諡は簡といった。

原文遷安西諮議參軍、長沙相,不拜。尋督沔中諸戍江夏隨義陽三郡軍事、建武將軍、江夏相。時桓溫謀伐蜀,衆以為不可,喬勸溫曰:「夫經略大事,故非常情所具,智者了于胸心,然後舉無遺算耳。今天下之難,二寇而已。蜀雖險固,方胡為弱,將欲除之,先從易者。今溯流萬里,經歷天險,彼或有備,不必可克。然蜀人自以鬥絕一方,恃其完固,不修攻戰之具,若以精卒一萬,輕軍速進,比彼聞之,我已入其險要,李勢君臣不過自力一戰,擒之必矣。論者恐大軍既西,胡必窺覦,此又似是而非。何者?胡聞萬里片征伐,以為內有重備,必不敢動。縱復越逸江渚,諸軍足以守境,此無憂矣。蜀土富實,號稱天府,昔諸葛武侯欲以抗衡中國。今誠不能為害,然勢據上流,易為寇盜。若襲而取之者,有其人衆,此國之大利也。」溫從之,使喬以江夏相領二千人為軍鋒。師次彭模,去賊已近,議者欲兩道並進,以分賊勢。喬曰:「今深入萬里,置之死地,士無反顧之心,所謂人自為戰者也。今分為兩軍,軍力不一,萬一偏敗,則大事去矣。不如全軍而進,棄去釜甑,齎三日糧,勝可必矣。」溫以為然,即一時俱進。去成都十里,與賊大戰,前鋒失利,喬軍亦退,矢及馬首,左右失色。喬因麾而進,聲氣愈厲,遂大破之,長驅至成都。李勢既降,勢將鄧定、隗文以其屬反,衆各萬餘。溫自擊定,喬擊文,破之。進號龍驤將軍,封湘西伯。尋卒,年三十六,溫甚悼惜之。追贈益州刺史,諡曰簡。

袁喬は博学で文才があり、『論語』と『詩』に注を施し、また諸々の文章はすべて世に行われた。

原文喬博學有文才,注《論語》及《詩》,並諸文筆皆行於世。

子の袁方平が後を嗣ぎ、やはり軌範と質素をもって自らを立て、大司馬掾に召され、義興太守、琅邪太守を歴任した。死去し、子の袁山松が後を嗣いだ。

原文子方平嗣,亦以軌素自立,辟大司馬掾,歷義興、琅邪太守。卒,子山松嗣。

袁喬の孫、袁山松

原文喬孫山松

袁山松は若くして才名があり、博学で文章をよくし、『後漢書』百篇を著した。心情は秀でて遠く、音楽をよくした。旧来の歌に『行路難』の曲があったが、歌詞はやや粗野で質朴であった。袁山松はこれを好み、その文句を飾り、節制を婉曲にし、しばしば酣酔に乗じてこれを歌った。聴く者は涙を流さない者はなかった。初め羊曇が楽を歌うのが上手く、桓伊が挽歌を歌うことができ、袁山松の『行路難』がこれに続き、当時の人はこれを「三絶」と呼んだ。当時、張湛は斎の前に松柏を植えるのを好み、袁山松は出遊するたびに左右の者に挽歌を歌わせるのを好んだので、人は「張湛は屋根の下に屍を並べ、袁山松は道の上で殯を行う」と言った。

原文山松少有才名,博學有文章,著《後漢書》百篇。衿情秀遠,善音樂。舊歌有《行路難》曲,辭頗疏質,山松好之,乃文其辭句,婉其節制,每因酣醉縱歌之。聽者莫不流涕。初羊曇善唱樂,桓伊能輓歌,及山松《行路難》繼之,時人謂之「三絕」。時張湛好於齋前種松柏,而山松每出遊,好令左右作輓歌,人謂「湛屋下陳屍,山松道上行殯。」

袁山松は顕位を歴任し、呉郡太守となった。孫恩が乱を起こすと、袁山松は滬瀆を守ったが、城は陥落し、殺害された。

原文山松歷顯位,為吳郡太守。孫恩作亂,山松守滬瀆,城陷被害。

袁瓌の弟、袁猷

原文瑰弟猷

袁猷は字を申甫といい、若い頃から袁瓌と並び称された。袁瓌に代わって呂県令となり、また相次いで江都県令となり、これによってともに江を渡った。袁瓌が丹陽県令、袁猷が武康県令となり、兄弟が名邑の長官に並んだので、論者はこれを称賛した。侍中、衛尉卿の位を歴任した。袁猷の孫の袁宏は、『文苑伝』に見える。

原文猷字申甫,少與瑰齊名。代瑰為呂令,復相繼為江都,由是俱渡江。瑰為丹陽,猷為武康,兄弟列宰名邑,論者美之。歷位侍中、衛尉卿。猷孫宏,見《文苑傳》。

従祖の袁準

原文從祖準

袁準は字を孝尼といい、儒学で知られ、『喪服経』に注を施した。官は給事中に至った。袁準の子の袁沖は字を景玄といい、光禄勲となった。袁沖の子の袁耽。

原文準字孝尼,以儒學知名,注《喪服經》。官至給事中。準子沖,字景玄,光祿勳。沖子耽。

準の孫の耽

原文準孫耽

耽は字を彥道といい、若い頃から才気があり、豪放で束縛されず、士人の間で称賛された。桓溫が若い頃に賭博に興じ、財産をすべて使い果たし、さらに借金を抱え、自らを立て直す方法を考えたが、どうすればよいかわからず、耽に助けを求めようとしたが、耽は喪中であった。試しに話してみると、耽は少しも難色を示さず、すぐに服を変え、布帽を懐に入れ、溫とともに債権者と賭け事をした。耽はもともと賭技の名人として知られていたが、債権者は彼のことを聞いていても顔を知らず、彼に言った。「あなたは袁彥道にはなれまい。」そこで勝負を始め、十万を一投し、すぐに百万に達した。耽は馬(賭具)を投げて大声を上げ、布帽を取り出して地面に投げつけ、「ついに袁彥道をわかったか?」と言った。そのように物事にこだわらない性格であった。蘇峻の乱の時、王導が彼を参軍に引き立て、導に従って石頭城にいた。初め、路永、匡術、寧らは皆、蘇峻の腹心であったが、祖約が敗走したと聞き、事が成り立たないことを恐れ、次々に峻に大臣を誅殺するよう進言した。峻が聞き入れなかったので、永らは必ず敗れると考え、ひそかに導と結んだ。導は耽に命じてひそかに路永を説得し、帰順させた。峻が平定されると、秭帰男に封ぜられ、建威将軍、歴陽太守に任じられた。咸康初年、石季龍せききりゅうの遊騎十余騎が歴陽に来たが、耽は上奏文に騎兵が少ないことを記さなかった。当時、胡の賊寇が強盛で、朝廷内外が危惧していたため、王導は宰相の重責を以て自ら討伐することを請うた。その後、賊騎は多くなく、すでに退散していたので、導は出陣を止めた。朝廷は耽が軽率で妄りな上奏をしたとして、彼を罷免した。まもなく再び導の従事中郎となり、大任を加えられようとしたが、死去した。時に二十五歳。子に質がいる。

原文耽字彥道,少有才氣,倜儻不羈,為士類所稱。桓溫少時游於博徒,資產俱盡,尚有負進,思自振之方,莫知所出,欲求濟於耽,而耽在艱,試以告焉。耽略無難色,遂變服懷布帽,隨溫與債主戲。耽素有藝名,債者聞之而不相識,謂之曰:「卿當不辦作袁彥道也。」遂就局十萬一擲,直上百萬。耽投馬絕叫,探布帽擲地,曰:「竟識袁彥道不?」其通脫若此。蘇峻之役,王導引為參軍,隨導在石頭。初,路永、匡術、寧等皆峻心腹,聞祖約奔敗,懼事不立,迭說峻誅大臣。峻既不納,永等慮必敗,陰結於導。導使耽潛說路永,使歸順。峻平,封秭歸男,拜建威將軍、曆陽太守。咸康初,石季龍游騎十餘匹至曆陽,耽上列不言騎少。時胡寇強盛,朝野危懼,王導以宰輔之重請自討之。既而賊騎不多,又已退散,導止不行。朝廷以耽失於輕妄,黜之。尋復為導從事中郎,方加大任,會卒,時年二十五。子質。

耽の子の質

原文耽子質

質は字を道和という。渙から質までの五代は、みな道義と質素をもって家業を継いだが、ただ父の耽だけは雄豪として知られた。そして質もまた孝行で称えられた。官は琅邪内史、東陽太守を歴任した。質の子に湛がいる。

原文質字道和。自渙至質五世,並以道素繼業,惟其父耽以雄豪著。及質又以孝行稱。官歷琅邪內史、東陽太守。質子湛。

質の子の湛

原文質子湛

湛は字を士深という。若い頃から節操があり、純粋で穏やかな性格を自ら保ち、文才はなかったので、世俗からは重んじられなかった。当時、謝混が僕射であったが、范泰が湛と混に贈った詩に、「後世に出た俊才もあり、群れを離れて高く飛翔している」とあった。湛は恨んで答えなかった。中書令から僕射、左光禄大夫、晋寧男となり、官のまま死去した。湛の弟に豹がいる。

原文湛字士深。少有操植,以沖粹自立,而無文華,故不為流俗所重。時謝混為僕射,范泰贈湛及混詩云:「亦有後出雋,離群頗騫翥。」湛恨而不答。自中書令為僕射、左光祿大夫、晉甯男,卒於官。湛弟豹。

湛の弟の豹

原文湛弟豹

豹は字を士蔚といい、博学で文章に優れ、国を治める才能があり、劉裕に認められた。後に太尉たいい長史、丹陽尹となり、死去した。

原文豹字士蔚,博學善文辭,有經國材,為劉裕所知。後為太尉長史、丹陽尹,卒。

江逌

原文江逌

江逌は、字を道載といい、陳留郡圉県の人である。曾祖父の蕤は、譙郡太守であった。祖父の允は、蕪湖県令であった。父の済は、安東参軍であった。逌は幼くして孤児となり、従弟の灌と共に住み、非常に仲が良く、これによって当時の称賛を得た。蘇峻の乱を避け、臨海に隠居し、世間との交わりを絶ち、茅を刈って家を建て、書物に没頭し、そこで一生を終えようという志を持った。本州から従事に招聘され、佐著作郎に任じられたが、いずれも就任しなかった。征北将軍蔡謨が参軍に任命し、何充もまた驃騎功曹に引き立てた。家が貧しかったため、試守を求め、太末県令となった。県域の深山中に、逃亡者が数百家族おり、険しい地形を頼みに抵抗し、前後の県令・長官は平定できなかった。逌が着任すると、その首領を呼び寄せ、手厚くもてなし、禍福を説き、一ヶ月のうちに、子供を背負ってやって来たので、朝廷はこれを賞賛した。州から治中に任命され、別駕に転じ、呉県令に昇進した。

原文江逌,字道載,陳留圉人也。曾祖蕤,譙郡太守。祖允,蕪湖令。父濟,安東參軍。逌少孤,與從弟灌共居,甚相友悌,由是獲當時之譽。避蘇峻之亂,屏居臨海,絕棄人事,翦茅結宇,耽玩載籍,有終焉之志。本州辟從事,除佐著作郎,並不就。征北將軍蔡謨命為參軍,何充復引為驃騎功曹。以家貧,求試守,為太末令。縣界深山中,有亡命數百家,恃險為阻,前後守宰莫能平。逌到官,召其魁帥,厚加撫接,諭以禍福,旬月之間,繈負而至,朝廷嘉之。州檄為治中,轉別駕,遷吳令。

中軍将軍殷浩いんこうが北伐を謀ろうとした時、諮議参軍を請うた。浩は彼を非常に重んじ、長史に昇進させた。浩が洛陽らくようの修復を始め、荒廃した地域の経営に当たると、逌は上席の補佐として、大いに補佐・輔弼の益があり、軍中の文書・檄文はすべて逌に委ねられた。当時、羌と丁零が反乱し、浩の軍は震え上がった。姚襄ようじょうが浩から十里の地点に陣営を構えて浩を脅かしたので、浩は逌にこれを討たせた。逌は兵を進めて襄の陣営に至り、将校に言った。「今、兵は精鋭でないわけではないが、数は羌より少ない。しかも彼らの塹壕と柵は非常に堅固で、力で対抗するのは難しい。計略をもってこれを破ろう。」そこで数百羽の鶏を取り、長い縄でつなぎ、足に火を付けた。群鶏は驚いて散り散りになり、飛んで襄の陣営に集まった。襄の陣営で火災が発生し、混乱したところを、これに乗じて攻撃し、襄は小敗を喫した。桓溫が浩の補佐官の罷免を上奏すると、ついに免職された。まもなく、中書郎に任じられた。升平年間、吏部郎に昇進し、長く侍中を兼務した。

原文中軍將軍殷浩將謀北伐,請為諮議參軍。浩甚重之,遷長史。浩方修復洛陽,經營荒梗,逌為上佐,甚有匡弼之益,軍中書檄皆以委逌。時羌及丁零叛,浩軍震懼。姚襄去浩十里結營以逼浩,浩令逌擊之。逌進兵至襄營,謂將校曰:「今兵非不精,而衆少於羌,且其塹柵甚固,難與校力,吾當以計破之。」乃取數百雞以長繩連之,繫火於足。群雞駭散,飛集襄營。襄營火發,其亂,隨而擊之,襄遂小敗。及桓溫奏廢浩佐吏,遂免。頃之,除中書郎。升平中,遷吏部郎,長兼侍中。

穆帝が後池を修築し、閣道を造ろうとした時、逌は上疏して言った。

原文穆帝將修後池,起閣道,逌上疏曰:

臣は聞く。王者は万乗の極みにあり、富貴の大いなるものを享受するならば、必ず制度を明らかにして崇高さを表し、文物を盛んにして貴賤を区別する。霊台を建て、辟雍を浚い、宮館を立て、苑囿を設けるのは、皇帝の尊厳を広め、下に臨む意義を明らかにするためである。前の聖人がその礼を創り、後の代がその規矩に従い、当代の君主も皆この事を営む。周の宣王は百堵の建築を興し、『鴻雁』の詩に安住の喜びを歌い;魯の僖公は泮水の営造を修め、『采芹』に楽しみを思う頌がある。およそ上に為すところは、私欲を満たすためではなく、下が上に奉ずるのは、労苦を勤めとするためではない。これは古来の善き法典であり、規範の大いなる形式である。

原文臣聞王者處萬乘之極,享富有之大,必顯明制度以表崇高,盛其文物以殊貴賤。建靈台,浚辟雍,立宮館,設苑囿,所以弘於皇之尊,彰臨下之義。前聖創其禮,後代遵其矩,當代之君咸營斯事。周宣興百堵之作,《鴻雁》歌安宅之歡;魯僖修泮水之營,采芹有思樂之頌。蓋上之有為非予欲是盈,下之奉上不以劬勞為勤,此自古之令典,軌儀之大式也。

道理には常に一定のものはなく、三正(夏・殷・周の暦法)も互いに異なる。統治のあり方は、世とともに移り変わる。飾りすぎれば素に戻るので、『賁』卦は『剝』卦に返る;大いなるものがあれば必ず満ちるので、『謙』卦を受ける。上を損ねて下を益することは、万民の喜びに順い;二つの簋で饗宴することは、最も倹約の義を用いることである。このため、唐・虞は茅葺きの屋根に教化を流布し、夏の禹は質素な住居に美徳を垂れた。過度な倹約の陋習は、中庸の制度ではないが、三聖(堯・舜・禹)はこれを行って至道に至った。漢の高祖は営造の始めに当たり、宮殿の壮麗さに怒り;孝文帝は既に豊かな世にあって、十家の財産を惜しんだ。これもまた、当時に恩恵を広め、後世に称えられることとなった。

原文夫理無常然,三正相詭,司牧之體,與世而移。致飾則素,故《賁》返於《剝》;有大必盈,則受之以《謙》。損上益下,順兆庶之悅;享以二簋,用至約之義。是以唐虞流化于茅茨,夏禹垂美於卑室。過儉之陋,非中庸之制,然三聖行之以致至道。漢高祖當營建之始,怒宮庫之壯;孝文處既富之世,愛十家之產,亦以播惠當時,著稱來葉。

今、二虜(敵国)は未だ滅びず、神州は荒廃し、江左の民衆を挙げて艱難を経略し、揚越の穀物を漕送して河洛に北送し、兵は収まらず、輸送と戍守は遠く、倉庫は内から空になり、百姓の力は尽きている。加えて春夏以来、水害と旱害があり、遠近の収穫は普段の年より減り、財は傷み人は困窮し、大きな労役は未だ止まず、軍国に用いるものが取って供給するものがない。過去の時代と比べると、豊かさと弊害は懸隔しており、損ねてまた損ねるのは、まさに今日である。伏して考えるに、陛下の聖質は天が与えられ、曠遠で清虚を凝らし、日々新たなる盛徳を開き、欽明の度量を豊かにし、無欲で自然を体し、沖虚で万国を治められる。『韶』の楽がすでに美を尽くしているならば、必ず善も尽くすべきである。玄虚をもって養い、無為をもって守り、台観に登って眺めず、苑沼で遊豫せず、仁義に安んじ、六芸に極めて馳騁し、巍巍たる隆盛を観、二代(夏・殷)の文を鑑み、仰いで羲農を味わい、俯して周孔を尋ねるべきである。その逍遥たるは、道徳の補佐を尊ぶに足り、搢紳の秀才に親しむに足る。時に応じて人材を訪ね、顧みて問うことを倦まず、献替・諷諫を、日々に聞くならば、すべての業績は凝り、天下はすべて栄え、中興の盛は殷の高宗を超え、善き慶事の流れは窮まりないであろう。昔、漢が徳陽殿を建てた時、鐘離意が直言し;魏が宮殿を営んだ時、陳群が正しい言葉を述べた。臣は才能はその人々には及ばないが、職として近侍の任にあり、言葉は採用に足りないが、その意義は聞き届けられることを願うものである。

原文今者二虜未殄,神州荒蕪,舉江左之衆,經略艱難,漕揚越之粟,北饋河洛,兵不獲戢,運戍悠遠,倉庫內罄,百姓力竭。加春夏以來,水旱為害,遠近之收普減常年,財傷人困,大役未已,軍國之用無所取給。方之往代,豐弊相懸,損之又損,實在今日。伏惟陛下聖質天縱,凝曠清虛,闡日新之盛,茂欽明之量,無欲體于自然,沖素刑乎萬國。《韶》既盡美,則必盡善。宜養以玄虛,守以無為,登覽不以臺觀。游豫不以苑沼,偃息畢于仁義,馳騁極於六藝,觀巍巍之隆,鑒二代之文,仰味羲農,俯尋周孔。其為逍遙,足以尊道德之輔,親搢紳之秀。疇咨以時,顧問不倦,獻替諷諫,日月而聞,則庶績惟凝,六合咸熙,中興之盛邁于殷宗,休嘉之慶流乎無窮。昔漢起德陽,鐘離抗言;魏營宮殿,陳群正辭。臣雖才非若人,然職忝近侍,言不足采,而義在以聞。

帝はその言葉を嘉して取りやめた。また本州の大中正を兼任した。升平の末、太常に昇進したが、江逌はたびたび辞退したが、許されなかった。

原文帝嘉其言而止。復領本州大中正。升平末,遷太常,逌累讓,不許。

穆帝が崩御し、山陵に宝器を用いようとしたとき、諫めて言った。「宣皇の顧命と終制によれば、山陵には明器を設けず、後世の規範とするとあります。景帝は遺制を奉じて遵守されました。文明皇后が崩御されたとき、武皇帝もまた前制を承け継がれ、何も設けず、脯Я(干し肉)の奠(供え物)と瓦器だけでした。昔、康皇帝の玄宮で初めて宝剣と金の履を用いましたが、これは太妃のやむにやまれぬ心情によるもので、実際には先帝のご意志と累世の法に背いています。今、外ではこれを故事としようとしていますが、臣は先帝のご意志を述べて、この二つの物をやめるよう請います。」上疏が奏上され、従われた。

原文穆帝崩,山陵將用寶器,諫曰:「以宣皇顧命終制,山陵不設明器,以貽後則。景帝奉遵遺制。逮文明皇后崩,武皇帝亦亦承前制,無所施設,惟脯Я之奠,瓦器而已。昔康皇帝玄宮始用寶劍金舄,此蓋太妃罔已之情,實違先旨累世之法。今外欲以為故事,臣請述先旨,停此二物。」書奏,從之。

哀帝は天文が度を失ったため、『尚書』の洪祀の制に倣い、太極前殿で自ら虔粛に執り行い、災いを免れようとし、太常に命じて博士を集めその制度を起草させた。江逌が上疏して諫めた。

原文哀帝以天文失度,欲依《尚書》洪祀之制,於太極前殿親執虔肅,冀以免咎,使太常集博士草其制。逌上疏諫曰:

臣が『史記』『漢書』の旧事を探ると、『芸文志』の劉向『五行伝』に、洪祀はその中に出てきます。しかし前代以来、用いた者はありません。またその文はただ祀りを行うことを説くだけで、儀注は載っていません。これは久しく行われていない事柄であり、常人には参酌校合できません。『漢儀』を調べると、天子が自ら行う祠は、宗廟だけです。天を雲陽で祭り、地を汾陰で祭るのは、別宮で遥拝し、壇所には赴きません。その他の群祀の場所は、必ず幽静なところにあり、それゆえ円丘や方沢は郊野に列しています。今もし承明の庭、正殿の前に群神の座を設け、躬親の礼を行うならば、旧典に照らせば、常式に背きます。

原文臣尋《史》《漢》舊事,《藝文志》劉向《五行傳》,洪祀出於其中。然自前代以來,莫有用者。又其文惟說為祀,而不載儀注。此蓋久遠不行之事,非常人所參校。案《漢儀》,天子所親之祠,惟宗廟而已。祭天于雲陽,祭地于汾陰,在於別宮遙拜,不詣壇所。其餘群祀之所,必在幽靜,是以圓丘方澤列於郊野。今若於承明之庭,正殿之前,設群神之坐,行躬親之禮,准之舊典,有乖常式。

臣は聞く、妖眚(災いの兆し)が起こるのは、時の主君を悟らせるためであると。それゆえに畏敬の念が上に通じれば、宋の災いは度を退き、徳礼を増し修めれば、殷の道は隆盛しました。これは過去の時代の確かな証拠であり、変わらない定理です。近ごろ星辰にかなりの変異があり、陛下の慎み戒める誠意は天と人に通じ、自らへの畏れは寝食を忘れ、仰いでは天象を虔しく見つめ、俯しては諸政を疑い、嘉祥の応はまさに今日にあるべきです。それでもなお日夜勤勉に戒め、この道を広めようとされるのは、誠に聖なるお心の至れり尽くせりの至りです。しかし洪祀には書はあっても儀がなく、世に行われず、時流の学に尋ね訪ねても、その礼を知る者はありません。かつその文に言う。「洪祀は大祀である。陽を神とし、陰を霊という。国を挙げて相率いて祀りを行い、四時の順序に従い、過差をさせない。」今、文に照らして言えば、皆漠然として適切でなく、詳しく知ることはできません。もし詳らかでないまま修めれば、その過ちは小さくありません。

原文臣聞妖眚之發,所以鑒悟時主,故夤畏上通,則宋災退度;德禮增修,則殷道以隆。此往代之成驗,不易之定理。頃者星辰頗有變異,陛下祗戒之誠達於天人,在予之懼,忘寢與食,仰虔玄象,俯疑庶政,嘉祥之應,實在今日。而猶乾乾夕惕,思廣茲道,誠實聖懷殷勤之至。然洪祀有書無儀,不行於世,詢訪時學,莫識其禮。且其文曰:「洪祀,大祀也。陽曰神,陰曰靈。舉國相率而行祀,順四時之序,無令過差。」今案文而言,皆漫而無適,不可得詳。若不詳而修,其失不小。

帝は受け入れず、江逌はまた上疏して言った。

原文帝不納,逌又上疏曰:

臣は謹んでさらに考えを巡らせ、時事に照らし合わせます。今、強力な戎が関雍を占拠し、凶暴な狄が河朔に横行し、封豕(大猪、凶暴な者)が四方に奔り、神州を侵し掠め、長い旌旗は巻かず、鉦鼓は日々戒め、兵は疲れ民は困窮し、年々休むことがありません。人事が下で弊害を生じれば、七曜(日月と五星)は上で錯乱し、災害の起こるのは、もとより当然です。また近ごろ以来、大いに異なることはないでしょうか。あの月の蝕は、その意味が詩人に見え、星辰の異変は同じではなく、『五行志』に載り、それゆえ『洪範』ではこれを災いとしません。

原文臣謹更思尋,參之時事。今強戎據于關雍,桀狄縱於河朔,封豕四逸,虔劉神州,長旌不卷,鉦鼓日戒,兵疲人困,歲無休已。人事弊於下,則七曜錯於上,災沴之作,固其宜然。又頃者以來,無乃大異。彼月之蝕,義見詩人,星辰莫同,載於《五行》,故《洪範》不以為沴。

陛下は今、日影の度の失いを六つの災いと同じとし、その軽い変異を重い災いになぞらえ、自らを責めることは禹や湯よりも篤く、憂い勤めることは日が西に傾く時を超え、大祀を修めようとして、神祇を礼しようとされています。伝に言う。「外では天地の時気に順ってその鬼神を祭る。」しかしながら神には必ず号があり、祀りには必ず意義があります。洪祀の文を調べると、ただ神霊の大略があるだけで祭る名がなく、国を挙げて祀りを行うと称しながら貴賤の隔てがなく、赤い黍の盛りはあっても犠牲や醴酒の奠がなく、儀法に用いるべきものが欠けているのは一つや二つではありません。もし文のままに行えば、挙げる意義はすべて妨げられ、何かを施し補えば、その源を統べません。漢の侍中盧植は、当時の博学の士でありましたが、法を愛しながら究められないなら、敢えて心を置かなかったのです。誠に五行は深遠であり、神道は幽昧で、奥深きを探る求は常の思慮では難しく、錯綜した理は一つの数では計れません。臣は至精でなければ、誰がこれに関与できましょうか。

原文陛下今以晷度之失同之六沴,引其輕變方之重眚,求己篤于禹湯,憂勤逾乎日昃,將修大祀,以禮神祇。傳曰:「外順天地時氣而祭其鬼神。」然則神必有號,祀必有義。案洪祀之文,惟神靈大略而無所祭之名,稱舉國行祀而無貴賤之阻,有赤黍之盛而無牲醴之奠,儀法所用,闕略非一。若率文而行,則舉義皆閡;有所施補,則不統其源。漢侍中盧植,時之達學,愛法不究,則不敢厝心。誠以五行深遠,神道幽昧,探賾之求難以常思,錯綜之理不可一數。臣非至精,孰能與此!

帝はなおも撰定を命じたが、江逌がまた古義を陳べたので、帝はやめた。江逌は職務上多くを匡正諫言した。『阮籍序贊』、『逸士箴』および詩賦奏議数十篇を著し、世に行われた。病で卒した。享年五十八。子の江蔚は、呉興太守となった。

原文帝猶敕撰定,逌又陳古義,帝乃止。逌在職多所匡諫。著《阮籍序贊》、《逸士箴》及詩賦奏議數十篇行於世。病卒,時年五十八。子蔚,吳興太守。

従弟の江灌

原文從弟灌

江灌は字を道群という。父の江瞢は、尚書郎であった。江灌は若くして名を知られ、才識は江逌に次いだ。州から主簿に辟召され、秀才に挙げられ、治中となり、別駕に転じ、司徒属、北中郎中長史を歴任し、晉陵太守を領した。簡文帝が撫軍從事中郎に引き立て、後に吏部郎に昇進した。当時謝奕が尚書であり、官吏の選考叙任が公正でなかったが、江灌は常に正論を執って従わず、謝奕は他の事を口実に彼を免職にしたが、江灌は罷免されても怨む色がなかった。まもなく、簡文帝がまた撫軍司馬に任じ、非常に賓礼をもって遇した。御史中丞に昇進し、呉興太守に転じた。江灌は性質が方正で、権貴を蔑ろにし、大司馬桓溫に憎まれた。桓溫は彼を中傷しようとし、侍中に徴召したが、郡守時代の公事に過失があったとして、追って免職にした。後に秘書監となったが、まもなくまた解職された。当時桓溫が権力を握っており、朝廷はその意向を伺ったため、江灌は長年昇進しなかった。桓溫の末年、諮議参軍に任じた。桓温が薨去すると、尚書、中護軍に昇進し、また出向して呉郡太守となり、中二千石の秩を加えられたが、拝命せずに卒した。子に江績がいる。

原文灌字道群。父瞢,尚書郎。灌少知名,才識亞於逌。州辟主簿,舉秀才,為治中,轉別駕,歷司徒屬、北中郎中長史,領晉陵太守。簡文帝引為撫軍從事中郎,後遷吏部郎。時謝奕為尚書,銓敘不允,灌每執正不從,奕托以他事免之,受黜無怨色。頃之,簡文帝又以為撫軍司馬,甚相賓禮。遷御史中丞,轉吳興太守。灌性方正,視權貴蔑如也,為大司馬桓溫所惡。溫欲中傷之,徵拜侍中,以在郡時公事有失,追免之。後為秘書監,尋復解職。時溫方執權,朝廷希旨,故灌積年不調。溫末年,以為諮議參軍。會溫薨,遷尚書、中護軍,復出為吳郡太守,加秩中二千石,未拜,卒。子績。

江灌の子の江績

原文灌子績

江績は字を仲元といい、志気があり、秘書郎に任じられた。父が謝氏と不和であったため、謝安しゃあんの時代には辟召があっても従わず、論者はこれを称えた。謝安が薨去してから、初めて会稽王司馬道子の驃騎主簿となり、多くを規諫した。諮議参軍を歴任し、出向して南郡相となった。時に荊州刺史殷仲堪が王恭に応じて挙兵し、殷仲堪は江績と南蛮校尉殷顗に同行を求めたが、二人とも従わなかった。殷仲堪らがたびたび言ってきたが、江績は終始屈しなかった。殷顗は江績が禍に及ぶことを憂い、殷仲堪の座で和解させようとした。江績は言った。「大丈夫たるもの、どうして死をもって脅かされようか。江仲元は齢六十を重ねたが、ただ死に場所を得るかどうか分からないだけだ。」一座はこれを恐れた。殷仲堪はその堅正さを恐れ、楊佺期に代えさせた。朝廷はこれを聞いて江績を御史中丞に徴し、奏上弾劾するに屈挠することがなかった。会稽王の世子司馬元顯が政権を専断し、夜に六門を開いたとき、江績は密かに会稽王司馬道子に啓上し、奏上して聞かせようとしたが、道子は許さなかった。車胤もまた言った。「元顯は驕慢で放縦です。制限すべきです。」道子は黙っていた。元顯はこれを聞いて衆に言った。「江績と車胤が我が父子の間を裂こうとしている。」人を遣わして密かに責めさせた。まもなく江績は卒し、朝野はこれを悼んだ。

原文績字仲元,有志氣,除秘書郎。以父與謝氏不穆,故謝安之世辟召無所從,論者多之。安薨,始為會稽王道子驃騎主簿,多所規諫。歷諮議參軍,出為南郡相。會荊州刺史殷仲堪舉兵以應王恭,仲堪要績與南蠻校尉殷顗同行,並不從。仲堪等屢以為言,績終不為之屈。顗慮績及禍,乃于仲堪坐和解之。績曰:「大丈夫何至以死相脅!江仲元行年六十,但未知獲死所耳。」一坐為之懼。仲堪憚其堅正,以楊佺期代之。朝廷聞而征績為御史中丞,奏劾無所屈撓。會稽世子元顯專政,夜開六門,績密啟會稽王道子,欲以奏聞,道子不許。車胤亦曰:「元顯驕縱,宜禁制之。」道子默然。元顯聞而謂衆曰:「江績、車胤間我父子。」遣人密讓之。俄而績卒,朝野悼之。

車胤

原文車胤

車胤は、字を武子といい、南平の人である。曾祖父の車浚は、呉の会稽太守であった。父の車育は、郡主簿であった。太守の王胡之は人を見る目で知られ、幼少の車胤を見て、車胤の父に言った。「この子は必ずやあなたの家門を大いに興すでしょう。学問に専念させなさい。」車胤は恭しく勤勉で倦まず、博学で広く通じた。家が貧しく常に油が得られず、夏の月には練った袋に数十匹の蛍を入れて書を照らし、夜を日に継いで学んだ。成長すると、風姿は美しく立派で、機知に悟りが速く、非常に郷里の評判が高かった。桓温が荊州にいたとき、従事に辟召し、義理を弁え識る深さを重んじた。主簿に引き立て、次第に別駕、征西長史に昇進し、ついに朝廷で顕れた。当時は車胤と呉隠之だけが寒素(貧しい家柄)でありながら博学で世に知られた。また賞賛の会をよくし、当時盛大な座席があっても車胤がいないと、皆が「車公がいなければ楽しくない」と言った。謝安が遊びや集まりをする日には、いつも宴席を開いて彼を待った。

原文車胤,字武子,南平人也。曾祖浚,吳會稽太守。父育,郡主簿。太守王胡之名知人,見胤于童幼之中,謂胤父曰:「此兒當大興卿門,可使專學。」胤恭勤不倦,博學多通。家貧不常得油,夏月則練囊盛數十螢火以照書,以夜繼日焉。及長,風姿美劭,機悟敏速,甚有鄉曲之譽。桓溫在荊州,辟為從事,以辯識義理深重之。引為主簿,稍遷別駕、征西長史,遂顯於朝廷。時惟胤與吳隱之以寒素博學知名於世。又善於賞會,當時每有盛坐而胤不在,皆云:「無車公不樂。」謝安遊集之日,輒開筵待之。

甯康の初め、胤を中書侍郎・関内侯とした。孝武帝がかつて『孝経』を講じたとき、僕射の謝安が侍坐し、尚書の陸納が侍講し、侍中の卞眈が執読し、黄門侍郎の謝石と吏部郎の袁宏が執経し、胤と丹陽尹の王混が擿句を担当し、当時の論評はこれを栄誉とした。累進して侍中となった。太元年間、太学生を百人増員し、胤に国子博士を兼任させた。その後、郊廟明堂の事について議論があり、胤は「明堂の制度はすでに詳しく知るのが非常に難しく、かつ楽は和を主とし、礼は敬を主とするので、質と文は同じではなく、音と器も異なる。茅葺きの小屋も広大な楼閣もその規模が一様でないのに、どうしてその形式を守って根本を広げ時勢に順応しないことがあろうか!九服がすべて安寧し、四方の野に塵一つ立たなくなってから、明堂辟雍を光り輝かせて修築すべきである」と述べた。当時、この意見に従った。また驃騎長史・太常に転じ、臨湘侯に爵位を進められたが、病気のため職を去った。まもなく護軍将軍となった。当時、王国宝が会稽王の道子に諂い、八座に働きかけて道子を丞相とし、特別な礼遇を加えるよう上奏させようとした。胤は言った。「これは成王が周公を尊んだやり方だ。今、主上は陽の位にあり、成王の立場ではない。相王が在位しているが、どうして周公たりえようか!声望と実績の両面で適切ではなく、必ずや上意に大きく背くことになる」。そこで病気と称してその事に署名しなかった。上疏が奏上されると、帝は大いに怒ったが、胤を非常に称賛した。

原文甯康初,以胤為中書侍郎、關內侯。孝武帝嘗講《孝經》,僕射謝安侍坐,尚書陸納侍講,侍中卞眈執讀,黃門侍郎謝石、吏部郎袁宏執經,胤與丹陽尹王混擿句,時論榮之。累遷侍中。太元中,增置太學生百人,以胤領國子博士。其後年,議郊廟明堂之事,胤以「明堂之制既甚難詳,且樂主於和,禮主於敬,故質文不同,音器亦殊。既茅茨廣廈不一其度,何必守其形範而不弘本順時乎!九服咸寧,四野無塵,然後明堂辟雍可光而修之。」時從其議。又遷驃騎長史、太常,進爵臨湘侯,以疾去職。俄為護軍將軍。時王國寶諂于會稽王道子,諷八坐啟以道子為丞相,加殊禮。胤曰:「此乃成王所以尊周公也。今主上當陽,非成王之地,相王在位,豈得為周公乎!望實二三,並不宜爾,必大忤上意。」乃稱疾不署其事。疏奏,帝大怒,而甚嘉胤。

隆安の初め、呉興太守に任じられ、秩禄は中二千石であったが、病気を理由に辞退して拝命しなかった。輔国将軍・丹陽尹を加えられた。まもなく吏部尚書に転じた。元顕に過失があり、胤と江績が密かに道子に言上し、上奏しようとしたが、事が漏れ、元顕に迫られて自害させられた。まもなく胤は死去し、朝廷はこれを悼んだ。

原文隆安初,為吳興太守,秩中二千石,辭疾不拜。加輔國將軍、丹陽尹。頃之,遷吏部尚書。元顯有過,胤與江績密言于道子,將奏之,事泄,元顯逼令自裁。俄而胤卒,朝廷傷之。

殷顗

原文殷顗

殷顗は、字を伯通といい、陳郡の人である。祖父の融は太常卿。父の康は呉興太守であった。顗は性質が率直で通達しており、才気があり、若い頃から従弟の仲堪とともに有名であった。太元年間、中書郎から抜擢されて南蛮校尉となった。職務に就くと清廉で明察であり、政績は厳粛に挙がった。仲堪が王恭の手紙を得て、兵を起こして内討しようとしたとき、顗に告げてともに挙兵しようとした。顗はこれを良しとせず、言った。「人臣の義は、慎んで守るべきものを保つことにある。朝廷の是非は宰相の務めであって、どうして藩屏たる者が図るべきことだろうか。晋陽の事(王恭の挙兵)には、関与すべきではない」。仲堪がますます強く要請すると、顗は怒って言った。「私は進んで同調することはできず、退いて異を唱えることもできない」。仲堪はこれを恨んだ。顗はなおも密かに仲堪を諫め、言葉は非常に切実であった。仲堪は貴顕となってから、もとの心情も変わってしまい、欲望には飽くことがなく、顗の言葉を間違いだと考えた。顗は江績もまた正直のために仲堪に排斥されたのを見て、仲堪が異分子を追い出し、親しい者を配置するであろうことを悟り、散歩に出かけるふりをして、病気と称して戻らなかった。仲堪はその病気を聞き、見舞いに出向いて顗に言った。「兄上の病気はまことに心配だ」。顗は言った。「私の病気はせいぜい身が死ぬだけだが、お前の病気は一族滅亡にある。幸いにも熟慮し、私のことを気にかけないでくれ」。仲堪は従わず、ついに楊佺期・桓玄とともに出兵した。顗はついに憂いのうちに死去した。隆安年間、詔が下った。「故南蛮校尉殷顗は忠誠と功績がまだ十分に発揮されないうちに、突然に亡くなった。冠軍将軍を追贈せよ」。弟の仲文・叔献は別に伝がある。

原文殷顗,字伯通,陳郡人也。祖融,太常卿。父康,吳興太守。顗性通率,有才氣,少與從弟仲堪俱知名。太元中,以中書郎擢為南蠻校尉。蒞職清明,政績肅舉。及仲堪得王恭書,將興兵內伐,告顗,欲同舉。顗不平之,曰:「夫人臣之義,慎保所守。朝廷是非,宰輔之務,豈籓屏之所圖也。晉陽之事,宜所不豫。」仲堪要之轉切,顗怒曰:「吾進不敢同,退不敢異。」仲堪以為恨。猶密諫仲堪,辭甚切至。仲堪既貴,素情亦殊,而志望無厭,謂顗言為非。顗見江績亦以正直為仲堪所斥,知仲堪當逐異己,樹置所親,因出行散,托疾不還。仲堪聞其病,出省之,謂顗曰:「兄病殊為可憂。」顗曰:「我病不過身死,但汝病在滅門,幸熟為慮,勿以我為念也。」仲堪不從,卒與楊佺期、桓玄同下。顗遂以憂卒。隆安中,詔曰:「故南蠻校尉殷顗忠績未融,奄焉隕喪,可贈冠軍將軍。」弟仲文、叔獻別有傳。

王雅

原文王雅

王雅は、字を茂達といい、東海郡郯県の人で、魏の衛将軍・王粛の曾孫である。祖父の隆は後将軍。父の景は大鴻臚であった。雅は若くして有名となり、州から主簿に招聘され、秀才に挙げられ、郎中に任じられ、出向して永興県令を補い、事務処理能力で名声があった。累進して尚書左右丞となり、廷尉・侍中・左衛将軍・丹陽尹を歴任し、太子左衛率を兼任した。雅は人と接することを好み、敬虔で慎み深く公務に奉じたので、孝武帝は深く礼遇し、外職にありながらも頻繁に侍見し、朝廷の大事には多く参画して意見を述べた。帝は酒宴を開くたびに、雅が来るまで杯を挙げず、そのように重んじられた。しかし、その任遇は才能を超えており、当時の人々は彼を佞幸と見なした。帝が後宮に清暑殿を建て、北上閣を開き、華林園に出て美人の張氏とともに遊興したとき、雅だけがそれに加わった。

原文王雅,字茂達,東海郯人,魏衛將軍肅之曾孫也。祖隆,後將軍。父景,大鴻臚。雅少知名,州檄主簿,舉秀才,除郎中,出補永興令,以幹理著稱。累遷尚書左右丞,歷廷尉、侍中、左衛將軍、丹陽尹,領太子左衛率。雅性好接下,敬慎奉公,孝武帝深加禮遇,雖在外職,侍見甚數,朝廷大事多參謀議。帝每置酒宴集,雅未至,不先舉觴,其見重如此。然任遇有過其才,時人被以佞幸之目。帝起清暑殿于後宮,開北上閣,出華林園,與美人張氏同遊止,惟雅與焉。

会稽王の道子が太子太傅を兼任したとき、雅を太子少傅とした。当時、王珣の息子の婚礼があり、賓客の車騎が非常に多かったが、雅が少傅に任命されたと聞くと、雅のもとを訪れる者が半数を超えた。当時の風俗は頽廃し、廉恥心がなくなっていた。しかし少傅の任には、朝廷の声望は王珣に属しており、王珣もまたそれを幸運と思っていた。ところが宮中の詔によって雅が任用されると、人々はみな雅のもとに赴いた。拝命のとき、雨に遭い、傘を持って入ることを請うた。王珣はそれを許さず、雨の中を冒して拝命した。雅は貴顕で寵愛を受けると、威権は非常に振るい、門下の車騎は常に数百に及び、しかも応対が巧みで、心を傾けて礼遇した。

原文會稽王道子領太子太傅,以雅為太子少傅。時王珣兒婚,賓客車騎甚衆,會聞雅拜少傅,回詣雅者過半。時風俗頹弊,無復廉恥。然少傅之任,朝望屬珣,珣亦頗以自幸。及中詔用雅,衆遂赴雅焉。將拜,遇雨,請以傘入。王珣不許之,因冒雨而拜。雅既貴幸,威權甚震,門下車騎常數百,而善應接,傾心禮之。

帝は道子に国家を担う器量がないことを憂え、晏駕の後に皇室が危うくなることを慮り、当時の声望ある者を選んで藩屏としようとし、王恭・殷仲堪らを抜擢しようとして、まず雅に意見を求めた。雅は王恭らに当世の才がなく、大任に耐えられないと考え、ゆったりと答えて言った。「王恭は風采と精神が簡素で尊く、志気は方正で厳かである。すでに外戚としての重責にあり、親族で賢者としての任に当たっているが、その天性は峻厳で狭量であり、包容力がなく、自らの考えを固執する操行で、節義を守る志がない。仲堪は細かい行いには謹み、文義で著名ではあるが、度量が広くなく、しかも才幹と方略に長けていない。もし連率の重責を委ね、形勝の地に拠らせれば、今は四海に事がなく、職務を守ることはできるが、もし道が常に盛んではなくなれば、必ずや乱のきっかけとなるでしょう」。帝は王恭らを当時の優れた声望者と考え、雅が自分より優れた者を妬んでいると見なして、従わなかった。二人はともに昇進して任用されたが、その後ついに敗れ、識者は雅が人を見抜く力があると称えた。

原文帝以道子無社稷器幹,慮晏駕之後皇室傾危,乃選時望以為籓屏,將擢王恭、殷仲堪等,先以訪雅。雅以恭等無當世之才,不可大任,從從容曰:「王恭風神簡貴,志氣方嚴,既居外戚之重,當親賢之寄,然其稟性峻隘,無所苞容,執自是之操,無守節之志。仲堪雖謹於細行,以文義著稱,亦無弘量,且幹略不長。若委以連率之重,據形勝之地,今四海無事,足能守職,若道不常隆,必為亂階矣。」帝以恭等為當時秀望,謂雅疾其勝己,故不從。二人皆被升用,其後竟敗,有識之士稱其知人。

領軍・尚書・散騎常侍に転じ、まさに大いに重用されようとし、副相の重責に参画しようとしたが、帝が崩御し、慌ただしくして顧命を受けることができなかった。雅は平素から優遇されていたが、一度に権力を失い、また朝廷が混乱し、内外が離反している状況だったので、ただ慎重に沈黙しているだけで、何ら弁明や是正を行わなかった。孝武帝の世であっても、顔色を犯して朝廷で諫争することはできず、すべての謀議では唯々諾々とするばかりであった。まもなく左僕射に転じた。隆安四年に死去、享年六十七。光禄大夫・儀同三司を追贈された。

原文遷領軍、尚書、散騎常侍,方大崇進之,將參副相之重,而帝崩,倉卒不獲顧命。雅素被優遇,一旦失權,又以朝廷方亂,內外攜離,但慎默而已,無所辯正。雖在孝武世,亦不能犯顏廷爭,凡所謀謨,唯唯而已。尋遷左僕射。隆安四年卒,時年六十七。追贈光祿大夫、儀同三司。

長男の准之は散騎侍郎。次男の協之は黄門侍郎。三男の少卿は侍中。いずれも士としての操行があり、世に名を立てたという。

原文長子准之,散騎侍郎。次協之,黃門。次少卿,侍中。並有士操,立名於世云。

史評

原文史評

史臣が言う。中興の時代において、玄妙な風潮がますます煽られ、拱手黙座によって王綱は溺れ、清虚無為によって国歩は乱され、骨鯁で直言する風潮はほとんどなくなった。しかし、君孝(車胤か)は情と礼を固守して顕命に背き、山甫(王雅か)は誠実な直言を献じて頽廃した風潮を振るい起こし、彦叔(殷顗か)の兵謀、道載(王雅か)の正諫は、洋洋として耳に満ち、称賛に足るものがある。灌(不詳)は権臣に節を屈せず、績(江績)は賊将に危言を敢えてし、道子の異例の礼遇を、車胤は恐れる心なく阻止し、仲堪の常軌を逸した挙兵を、殷顗は正しい態度で諫めた。古の烈士に求めても、どうしてこれ以上あろうか!山松(袁山松)は軒冕の盛時に哀挽を楽しみ、彦道(袁耽)は喪服の日に博徒と歓び、天の心はすでに失われ、どうして救えようか!たちまち短命に及び、やがて非命に至るのは、当然である!

原文史臣曰:爰在中興,玄風滋扇,溺王綱於拱默,撓國步於清虛,骨鯁蹇諤之風蓋亦微矣。而君孝固情禮而違顯命,山甫獻誠讜而振頹風,彥叔之兵謀,道載之正諫,洋洋盈耳,有足可稱。灌不屈節於權臣,績敢危言於賊將,道子殊物之禮,車胤沮之無懼心,仲堪反常之舉,殷顗折之以正色,求諸古烈,何以加焉!山松悅哀挽於軒冕之辰,彥道歡博徒於衰絰之日,天心已喪,其能濟乎!旋及於促齡,俄致於非命,宜哉!