晉書

卷八十 列傳第五十

卷八十 列傳第五十

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原文晉書

卷八十 列傳第五十

原文卷八十 列傳第五十 ► 卷八十一 列傳第五十一

王羲之おうぎし

原文王羲之

王羲之は、字あざなを逸少といい、司徒しとの王導おうどうの甥である。祖父の王正は尚書しょうしょ郎であった。父の王曠は淮南太守であった。元帝が長江を渡って南下する際、王曠がその議を最初に唱えた。王羲之は幼い頃、言葉が訥弁で、人々は彼を特に優れた者とは思わなかった。十三歳の時、周顗に謁見したことがあり、周顗は彼を観察して非凡な者と認めた。当時、牛の心臓の炙り肉が珍重されており、座の客がまだ食べていないのに、周顗は先に切り取って王羲之に食べさせた。これによって彼は初めて有名になった。成長すると、弁舌に富み、骨っぽい正直さで知られ、特に隷書に優れ、古今の第一人者とされた。評論家はその筆勢を評し、飄々として浮雲のようであり、矯健として驚く龍のようであると言った。伯父の王敦や王導から特に重んじられた。当時、陳留の阮裕は高い名声があり、王敦の主簿しゅぼを務めていた。王敦はかつて王羲之に言った。「お前は我が家の優れた子弟で、阮主簿に劣ることはあるまい。」阮裕もまた、王羲之と王承、王悦を王氏の三若者と見なした。当時、太尉たいいの郗鑒が門生を王導のもとに遣わして婿を探させた。王導は東の部屋で子弟たちを隅々まで見るようにと言った。門生が帰って郗鑒に言うには、「王氏の若者たちは皆優れていますが、使者が来たと聞くと、皆、緊張して堅くなっています。ただ一人、東の寝台で腹を出して平然と食事をしており、まるで聞こえないかのようでした。」郗鑒は言った。「まさにこれが良き婿だ!」訪ねてみると、それは王羲之であった。そこで娘を妻として与えた。

原文王羲之,字逸少,司徒導之從子也。祖正,尚書郎。父曠,淮南太守。元帝之過江也,曠首創其議。羲之幼訥於言,人未之奇。年十三,嘗謁周顗,顗察而異之。時重牛心炙,坐客未啖,顗先割啖羲之,於是始知名。及長,辯贍,以骨鯁稱,尤善隸書,為古今之冠,論者稱其筆勢,以為飄若浮雲,矯若驚龍。深為從伯敦、導所器重。時陳留阮裕有重名,為敦主簿。敦嘗謂羲之曰:「汝是吾家佳子弟,當不減阮主簿。」裕亦目羲之與王承、王悅為王氏三少。時太尉郗鑒使門生求女婿于導,導令就東廂遍觀子弟。門生歸,謂鑒曰:「王氏諸少並佳,然聞信至,咸自矜持。惟一人在東床坦腹食,獨若不聞。」鑒曰:「正此佳婿邪!」訪之,乃羲之也,遂以女妻之。

最初に秘書郎として出仕し、征西将軍の庾亮ゆりょうが参軍に請うた。累進して長史となった。庾亮が臨終の際、上疏して王羲之は清らかで貴く、識見と判断力があると称えた。甯遠将軍、江州刺史ししに転じた。王羲之は若い頃から美しい評判があり、朝廷の公卿は皆その才能と器量を愛し、しばしば侍中や吏部尚めあわ書に召し出されたが、いずれも就任しなかった。さらに護軍将軍を授けられたが、またも辞退して拝命しなかった。揚州刺史の殷浩いんこうは平素から彼を高雅で重んじており、命令に応じるよう勧め、王羲之に手紙を送って言った。「世間の人々は、あなたの出処進退によって政治の盛衰を見ることができると考えており、我々もまたその通りだと思っています。あなたの出処進退は、まさに盛衰と相対するものであり、どうして一世の存亡を、必ずあなたのゆったりとした好みに従わせることができましょうか。どうかゆっくりと衆人の心を求めてください。あなたが時機を逃して起ち上がらなければ、また美政を求めることができるでしょうか。もし心を開いて受け入れれば、万物の実情が分かるでしょう。」王羲之はそこで返書をしたためた。「私は元より朝廷で仕える志はありません。かつて王丞相(王導)の時、確かに私を朝廷に入れようとしましたが、私は誓って許さず、その手紙は今も残っており、以前からのことです。あなたが政事に参与しているからといって、今になって進退を考えるわけではありません。息子が娶り、娘が嫁いで以来、私は尚子平の志を懐き、何度も親しい知己に話しており、一日のことではありません。もし私を使い立てるなら、関隴や巴蜀であっても辞しません。私は専対の才能はありませんが、ただ謹んで時の命令を守り、国家の威徳を宣揚するだけです。それは確かに普通の使者とは違い、必ず遠近に朝廷が内外を隔てずに心を留めていることを知らしめるでしょう。これは護軍の職に留まるのとは全く異なる利益があります。漢末に太傅の馬日磾を関東慰撫の使者としたことがあります。もし私を軽微な者と見做さず、疑うところがなければ、初冬のうちに出発するのがよいでしょう。私はただ恭しく命令を待ちます。」

原文起家秘書郎,征西將軍庾亮請為參軍,累遷長史。亮臨薨,上疏稱羲之清貴有鑒裁。遷甯遠將軍、江州刺史。羲之既少有美譽,朝廷公卿皆愛其才器,頻召為侍中、吏部尚書,皆不就。復授護軍將軍,又推遷不拜。揚州刺史殷浩素雅重之,勸使應命,乃遺羲之書曰:「悠悠者以足下出處足觀政之隆替,如吾等亦謂為然。至如足下出處,正與隆替對,豈可以一世之存亡,必從足下從容之適?幸徐求眾心。卿不時起,復可以求美政不?若豁然開懷,當知萬物之情也。」羲之遂報書曰:「吾素自無廊廟志,直王丞相時果欲內吾,誓不許之,手跡猶存,由來尚矣,不於足下參政而方進退。自兒娶女嫁,便懷尚子平之志,數與親知言之,非一日也。若蒙驅使,關隴、巴蜀皆所不辭。吾雖無專對之能,直謹守時命,宣國家威德,固當不同於凡使,必令遠近咸知朝廷留心於無外,此所益殊不同居護軍也。漢末使太傅馬日磾慰撫關東,若不以吾輕微,無所為疑,宜及初冬以行,吾惟恭以待命。」

王羲之は護軍に就任した後、また宣城郡太守を強く希望したが、許されず、右軍将軍、会稽かいけい内史に任じられた。当時、殷浩と桓温かんおんは仲が悪かった。王羲之は国家の安泰は内外の和合にあると考え、殷浩に手紙を送って戒めたが、殷浩は従わなかった。殷浩が北伐をしようとした時、王羲之は必ず敗れると考え、手紙を送って止めようとし、言葉は非常に切実であった。殷浩は結局出撃し、果たして姚襄ようじょうに敗れた。殷浩が再び挙兵を図ると、王羲之はまた手紙を送った。

原文羲之既拜護軍,又苦求宣城郡,不許,乃以為右軍將軍、會稽內史。時殷浩與桓溫不協,羲之以國家之安在於內外和,因以與浩書以戒之,浩不從。及浩將北伐,羲之以為必敗,以書止之,言甚切至。浩遂行果為姚襄所敗。復圖再舉,又遺浩書曰:

安西将軍(殷浩)が敗北し損害を被ったことを知り、公私ともに嘆き悲しみ、しばらくの間も心から離れません。わずかな江南の地で、このように事を営み統括しているのに、天下の人はすでに久しく心を寒くしています。それに敗北と損害が加わったのですから、これは熟慮すべきことです。過ぎ去った事はもう取り戻せませんが、将来を大きく広げ、天下の命運が託されるべき場所を設け、自ら中興の業を盛んにすることを考えてください。政治は道徳による勝利と寛容・平和を根本とし、武力による功績を争うことは、なすべきことではありません。自らの長所に従って、大業を固めるべきです。その由来を理解しておられると思います。

原文知安西敗喪,公私惋怛,不能須臾去懷,以區區江左,所營綜如此,天下寒心,固以久矣,而加之敗喪,此可熟念。往事豈復可追,顧思弘將來,令天下寄命有所,自隆中興之業。政以道勝寬和為本,力爭武功,作非所當,因循所長,以固大業,想識其由來也。

賊の乱以来、内外の任に就いた者は、深い謀りごとや遠大な考え、袋を括るような最高の計略を持たず、根本を疲弊させ尽くし、各自が自分の考えに従った結果、論ずべき功績一つ、記録すべき事績一つとしてありません。忠言や優れた謀略は捨て去られ用いられず、ついに天下に土崩の勢いが生じようとしています。どうして痛心し悲しみ慨嘆しないでいられましょうか。その任に当たる者は、どうして天下の責めを免れることができましょうか! 過ぎ去った事を追って咎めても、どうして及ぶことがありましょう。むしろ、さらに虚心に賢者を求め、識者と共に事に当たり、忠実で誠実な言葉が常に権力者に屈するようなことがあってはなりません。今、軍は外で破れ、資源は内で尽き、淮河を守る志はもはや及ぶところではありません。長江を戻って守るに過ぎず、都督や将軍はそれぞれ旧来の鎮守地に戻り、長江より外は、つなぎ止めておくだけにすべきです。国家の重任を担う者は、自らに咎を引き受け、深く自らを貶めて降格し、百姓に謝罪すべきです。さらに朝廷の賢者と共に公平な政治を敷くことを考え、煩わしく苛酷なものを除き、賦役を減らし、百姓と共に新たに始めるのです。そうすれば、おそらくは衆人の望みを満たし、逆さに吊るされたような危急を救うことができるでしょう。

原文自寇亂以來,處內外之任者,未有深謀遠慮,括囊至計,而疲竭根本,各從所志,竟無一功可論,一事可記,忠言嘉謀棄而莫用,遂令天下將有土崩之勢,何能不痛心悲慨也。任其事者,豈得辭四海之責!追咎往事,亦何所復及,宜更虛己求賢,當與有識共之,不可復令忠允之言常屈於當權。今軍破於外,資竭於內,保淮之志非復所及,莫過還保長江,都督將各復舊鎮,自長江以外,羈縻而已。任國鈞者,引咎責躬,深自貶降以謝百姓。更與朝賢思布平政,除其煩苛,省其賦役,與百姓更始。庶可以允塞群望,救倒懸之急。

あなたは布衣から起ち上がり、天下の重責を担いましたが、徳を尊ぶ行いとして、万事にわたって適切とは言えませんでした。統率監督の任に当たりながら、このように敗北し損害を被ったのですから、朝廷中の賢人たちで、あなたと共に非難を分かち合おうとする者は恐らくいないでしょう。今、急いで徳を修め欠点を補い、広く多くの賢者を招き、彼らと責任を分かち合っても、まだ期待した救済が得られるかどうか分かりません。もし以前の事がまだうまくいっていないと考え、それゆえに本分を超えて求めようとするなら、宇宙は広いとはいえ、自分が身を置く場所はどこにあるというのでしょう! 私の言葉が用いられないかもしれず、あるいは政権を執る者から恨みを買うかもしれませんが、情熱と慨嘆の存するところでは、どうしても思いの限りを尽くして言わずにはいられません。もしあなたが自ら征伐に出るなら、この趣旨には達していません。もし本当に行うなら、愚者にも智者にも理解できないことです。どうか再び衆人と共に事を議してください。

原文使君起于布衣,任天下之重,尚德之舉,未能事事允稱。當董統之任而敗喪至此,恐闔朝群賢未有與人分其謗者。今亟修德補闕,廣延群賢,與之分任,尚未知獲濟所期。若猶以前事為未工,故復求之於分外,宇宙雖廣,自容何所!知言不必用,或取怨執政,然當情慨所在,正自不能不盡懷極言。若必親征,未達此旨,果行者,愚智所不解也。願復與眾共之。

また州の命令を受け、千石の増運を命じられ、徴役も同時に至り、すべてが軍の期限に合わせられています。これに対し意気消沈し、どう処置すべきか分かりません。近年、残された民衆を収奪し、刑徒が道に満ちている様は、ほとんど秦の政治と同じで、ただ三族皆殺しの刑を加えていないだけです。陳勝・呉広のような憂いが、もう遠くない日にあるのではないかと恐れます。

原文復被州符,增運千石,征役兼至,皆以軍期,對之喪氣,罔知所厝。自頃年割剝遺黎,刑徒竟路,殆同秦政,惟未加參夷之刑耳,恐勝廣之憂,無復日矣。

また会稽王に上書して、殷浩が北伐すべきでないことを述べ、時事について論じた。

原文又與會稽王箋陳浩不宜北伐,並論時事曰:

古人は自分の君主が堯や舜にならないことを恥じ、臣下として仕える道として、どうして自分が仕える者を尊び、霊妙な古代に比べて行こうと願わないことがありましょうか。ましてや千年に一度の機運に遇っているのです。ただ、知力が当時に屈しているので、どうして軽重を量って処することができずにいられましょうか。今、喜ばしい機会はありますが、自分自身に求めると、憂うべきことは喜ぶべきことよりも重いのです。『春秋左氏伝』に言います。「聖人でない限り、外が寧かならば必ず内に憂いがある。」今、外は寧かでなく、内憂はすでに深い。昔、大業を広げた者は、あるいは衆人と謀らず、国を傾けて一時の功績を成し遂げた者も、しばしばいました。確かに、独自に運営する明察が衆人を超え、一時の労苦の弊害が最終的に永遠の安楽を得るのであればよいのです。今の世に求めてみて、それに比べることができるでしょうか!

原文古人恥其君不為堯舜,北面之道,豈不願尊其所事,比靈斯往代,況遇千載一時之運?顧智力屈于當年,何得不權輕重而處之也。今雖有可欣之會,內求諸己,而所憂乃重於所欣。《傳》云:「自非聖人,外甯必有內憂。」今外不寧,內憂已深。古之弘大業者,或不謀於眾,傾國以濟一時功者,亦往往而有之。誠獨運之明足以邁眾,暫勞之弊終獲永逸者可也。求之於今,可得擬議乎!

朝廷の謀略で勝利を決するには、必ず彼我を審らかに量り、万全を期してから動くべきです。功績が成った日には、すぐにその衆に因り、その実を定めるべきです。今、功績は期待できず、残された民衆は殲滅され尽くし、一万に一つも残りません。しかも千里の糧秣輸送は、昔から難しいことでした。ましてや今、輸送して供給を継ぎ、西は許昌きょしょう・洛陽らくようへ、北は黄河へと送り込んでいます。秦の政治の弊害でさえ、ここまでには至らず、十軒に一軒の憂いが、すぐに次々と至るのです。今、輸送に戻る期日はなく、徴求は日増しに重く、わずかな呉越の地で天下の十分の九を経営しているのです。滅びないでどうしていられましょう! それなのに、自分の徳と力を量らず、弊害が出るまでやめない。これは国内の者が痛心し嘆き悲しみながら、敢えて誠意を吐露しないことです。

原文夫廟算決勝,必宜審量彼我,萬全而後動。功就之日,便當因其眾而即其實。今功未可期,而遺黎殲盡,萬不餘一。且千里饋糧,自古為難,況今轉運供繼,西輸許洛,北入黃河。雖秦政之弊,未至於此,而十室之憂,便以交至。今運無還期,徵求日重,以區區吳越經緯天下十分之九,不亡何待!而不度德量力,不弊不已,此封內所痛心歎悼而莫敢吐誠。

過ぎ去った事は諫められませんが、来るべき事はまだ追い求めることができます。殿下にはどうかさらに三思され、解いて改め、殷浩と荀羨じゅんせんを合肥と広陵に戻って守らせ、許昌・譙郡・梁・彭城の諸軍をすべて淮河を守るために戻らせ、負けることのできない基礎とし、根が立ち勢いが挙がるのを待って、謀るのが遅くはありません。これは実に当今の最上の策です。もしこれを行わなければ、国家の憂いは日数を数えて待つばかりです。安危の機は、手のひらを返すよりも容易で、虚実を考察すれば、目前に明らかです。どうか独自の決断の明をもって、一朝のうちに定めてください。

原文往者不可諫,來者猶可追,願殿下更垂三思,解而更張,令殷浩、荀羨還據合肥、廣陵,許昌、譙郡、梁、彭城諸軍皆還保淮,為不可勝之基,鬚根立勢舉,謀之未晚,此實當今策之上者。若不行此,社稷之憂可計日而待。安危之機,易於反掌,考之虛實,著於目前,願運獨斷之明,定之於一朝也。

地位が低くて深遠なことを言うのは、容易でないことを知らないわけではない。しかし古人が里巷や戦陣の間にあって、なお時勢に干渉し国を謀り、批評する者がそれを非難しなかった。ましてや大臣の末席に連なっている者が、黙して言わないでいられようか。存亡がかかっていることは、実行するかどうかに決まるのであり、再び疑って機会を後回しにすることはできない。ここで決断せず、後で後悔しても、もはや及ばない。

原文地淺而言深,豈不知其未易。然古人處閭閻行陣之間,尚或幹時謀國,評裁者不以為譏,況廁大臣末行,豈可默而不言哉!存亡所系,決在行之,不可復持疑後機,不定之於此,後欲悔之,亦無及也。

殿下の徳は天下に冠たるものであり、公室として朝廷を補佐する立場にある。最も正しい道をまっすぐに行い、当代を隆盛に導くべきであるのに、まだ人々の期待に応えていない。特別な恩遇を受けている者が寝ても覚めても長嘆するのは、実は殿下のためを惜しむからである。国家の憂いは深く、常に伍子胥の憂いが昔だけのことではなく、麋鹿が遊ぶ場所が林や藪に留まらないのではないかと恐れている。願わくば殿下には、しばらく高遠で空虚な思いを捨てて、危急の事態を救ってほしい。亡びを存続に、禍を福に転じるといえ、そうすれば宗廟の慶びとなり、四海が頼りとする所となるであろう。

原文殿下德冠宇內,以公室輔朝,最可直道行之,致隆當年,而未允物望,受殊遇者所以寤寐長歎,實為殿下惜之。國家之慮深矣,常恐伍員之憂不獨在昔,麋鹿之游將不止林藪而已。願殿下暫廢虛遠之懷,以救倒懸之急,可謂以亡為存,轉禍為福,則宗廟之慶,四海有賴矣。

当時、東部地方が飢饉に見舞われたので、羲之はすぐに倉を開いて救済のための貸し付けを行った。しかし朝廷の賦役は煩雑で重く、呉郡・会稽郡は特に憂慮が深かった。羲之はたびたび上疏してこれに異議を唱え、多くの事柄が聞き入れられた。また、尚書僕射ぼくやの謝安しゃあんに手紙を送って言った。

原文時東土饑荒,羲之輒開倉振貸。然朝廷賦役繁重,吳會憂甚,羲之每上疏爭之,事多見從。又遺尚書僕射謝安書曰:

近ごろ申し上げた論議は、いつもご容赦と採択をいただき、そのおかげで少しは息をつくことができ、それぞれがその生業に安んじています。もしそうでなければ、この一郡はとっくに東海に身を投げていたでしょう。

原文頃所陳論,每蒙允納,所以令下小得蘇息,各安其業。若不耳,此一郡久以蹈東海矣。

今、重要な事柄でまだ実施されていないのは、漕運です。私は朝廷が明確に期限を定めて下し、担当官庁に委ね、再び催促しないで、ただ年末にその成績の優劣を考課することを望みます。長官が特に劣等の場合には、檻車に乗せて朝廷に送り届けさせます。三県が挙げられなければ、二千石の太守は必ず免職とし、あるいは左遷して、辺境の極めて困難な地に赴任させます。

原文今事之大者未布,漕運是也。吾意望朝廷可申下定期,委之所司,勿復催下,但當歲終考其殿最。長吏尤殿,命檻車送詣天臺。三縣不舉,二千石必免,或可左降,令在疆塞極難之地。

また、私がここに着任して以来、従事は常に四、五人おり、それに加えて台司や都水御史行台からの文書が雨のように降り注ぎ、前後が逆になり矛盾していて、もはやどうなっているか分かりません。私はまた目を閉じて常例に従い、前例を推し進め、重要な事柄や綱紀に関わるものは取り上げ、軽微なものは五曹に任せています。担当者が事務に就いても、十日も満たないうちに、役人や民衆が奔走し、費用は万単位に上ります。貴方は今重責を担っているので、ゆっくりと私の言うことを探求してみてください。江左が平穏だった頃は、揚州に一人の良刺史がいれば十分に統治できたのに、多くの才能ある者がいてなお治まらないのは、まさに法が統一されておらず、牽制する者が多いからです。簡素で従いやすいことを考えれば、それで十分に既成の業績を守ることができます。

原文又自吾到此,從事常有四五,兼以台司及都水御史行台文符如雨,倒錯違背,不復可知。吾又瞑目循常推前,取重者及綱紀,輕者在五曹。主者蒞事,未嘗得十日,吏民趨走,功費萬計。卿方任其重,可徐尋所言。江左平日,揚州一良刺史便足統之,況以群才而更不理,正由為法不一,牽制者眾,思簡而易從,便足以保守成業

倉督監が官米を横領し盗むのは、動けば万単位に及びます。私は一人を誅殺すればその後は断たれると思いましたが、時の意見は異なっていました。近ごろ諸県を検査してみると、どこもそうでないところはありません。余姚では十万斛近くに及び、重税を課して奸吏を利し、国家の財用を空乏させているのは、まことに嘆かわしいことです。

原文倉督監耗盜官米,動以萬計,吾謂誅翦一人,其後便斷,而時意不同。近檢校諸縣,無不皆爾。余姚近十萬斛,重斂以資奸吏,令國用空乏,良可歎也。

軍事行動が始まって以来、徴発や兵役、輸送任務に就いて死亡したり、離散・反乱して戻らない者が多く、ここまで空しく消耗しているのに、補充や交代は従来通りで、各地は疲弊困窮し、どうしたらよいか分かりません。上からの命令で差し出された者は、出発の途上で多くが逃亡し、役人や逃亡者と一緒に全てを持ち去ってしまいます。また常法として、すぐにその家族や同伍に捕縛を課します。捕縛できなければ、家族や同伍もすぐに逃亡・反乱します。百姓が流亡し、戸口が日々減る原因はここにあります。また、百工や医師・寺(役所)などで、死亡したり絶えてしまい、家戸が空っぽになり、交代する者がいないのに、上からの命令は絶えず、事が起こってから十年、十五年経っても、弾劾して罪を得る者は絶え間なくても実質的な利益はなく、どうして耐えられましょうか。今後は、死刑罪で軽減された者や五年刑の者をこれに充てることができ、死刑を減じられた者は長期間兵役に充て、五年刑の者は雑役や医師・寺に充て、皆その家族を移住させて都邑を充実させるべきです。都邑が充実すれば、それは政治の根本であり、また逃亡・反乱を絶つこともできます。家族を移住させなければ、逃亡の患いは再び以前のようになるでしょう。今、罪を免除して雑役に充て、その家族を全て移住させるのは、小人物の愚かで迷った考えでは、殺戮よりも重いと考えるかもしれませんが、奸悪を絶つことができます。刑罰の名目は軽くても、懲戒と粛清の実質は重く、まさに時宜に適った措置ではないでしょうか。

原文自軍興以來,征役及充運死亡叛散不反者眾,虛耗至此,而補代循常,所在凋困,莫知所出。上命所差,上道多叛,則吏及叛者席捲同去。又有常制,輒令其家及同伍課捕。課捕不擒,家及同伍尋復亡叛。百姓流亡,戶口日減,其源在此。又有百工醫寺,死亡絕沒,家戶空盡,差代無所,上命不絕,事起成十年、十五年,彈舉獲罪無懈息而無益實事,何以堪之!謂自今諸死罪原輕者及五歲刑,可以充此,其減死者,可長充兵役,五歲者,可充雜工醫寺,皆令移其家以實都邑。都邑既實,是政之本,又可絕其亡叛。不移其家,逃亡之患復如初耳。今除罪而充雜役,盡移其家,小人愚迷,或以為重於殺戮,可以絕奸。刑名雖輕,懲肅實重,豈非適時之宜邪!

羲之は服食(薬物摂取)や養生を好み、都にいるのを楽しまず、初めて浙江を渡った時から、すでにそこで終の住処とする志を持っていた。会稽には美しい山水があり、名士たちが多く住んでいた。謝安がまだ仕官していない時もここに住んでいた。孫綽、李充、許詢、支遁などは皆、文才と道理に優れて当世に冠たる存在であり、ともに東部の地に居を構え、羲之と趣味を同じくした。かつて志を同じくする者たちと会稽郡山陰県の蘭亭で宴を開き、羲之は自ら序文を書いてその志を述べた。

原文羲之雅好服食養性,不樂在京師,初渡浙江,便有終焉之志。會稽有佳山水,名士多居之,謝安未仕時亦居焉。孫綽、李充、許詢、支遁等皆以文義冠世,並築室東土,與羲之同好。嘗與同志宴集于會稽山陰之蘭亭,羲之自為之序以申其志,曰:

永和九年、癸丑の年、春の末の初めに、会稽郡山陰県の蘭亭に会い、禊の行事を行った。多くの賢人がことごとく集まり、年少者も年長者も皆一堂に会した。この地には高い山や険しい峰があり、茂った林や長い竹があり、また清らかな流れや激しい急流があり、左右に映え帯のようにめぐり、それを使って流觴の曲水とし、そのほとりに並んで座った。弦楽器や管楽器の盛大な演奏はなかったが、一杯飲んでは一首詠むことで、十分に深い心情をのびのびと語り合うことができた。

原文永和九年,歲在癸丑,暮春之初,會於會稽山陰之蘭亭,修禊事也。群賢畢至,少長咸集。此地有崇山峻嶺,茂林修竹,又有清流激湍,映帶左右,引以為流觴曲水,列坐其次。雖無絲竹管弦之盛,一觴一詠,亦足以暢敘幽情。

この日は、天は晴れ渡り気は澄み、穏やかな風が和らかに吹き、上を見れば宇宙の広大さを観察し、下を見れば万物の繁栄を観察する。これによって目を遊ばせ思いを巡らせ、視覚と聴覚の楽しみを極めるに足り、まことに楽しいものであった。

原文是日也,天朗氣清,惠風和暢,仰觀宇宙之大,俯察品類之盛,所以遊目騁懷,足以極視聽之娛,信可樂也。

人が互いに交わるのは、一瞬のうちに一生を過ごすものであり、あるいは胸中にあるものを取り出し、一室の中で悟りを語り合ったり、あるいは託す所に寄せて、形骸の外に放縦に振る舞ったりする。趣向や選択は千差万別で、静と動は異なるが、自分が遭遇したことに喜びを感じ、一時的に自分自身を得て、快然と自足し、老いが近づいているのを知らない。そして、その追求することに飽きてしまい、感情が事態の変化に伴って移り変わり、感慨がそれに付随するのである。以前に喜んでいたことは、一瞬のうちに、すでに過去の跡となってしまい、それでもなおそれによって感慨を催さずにはいられない。ましてや寿命の長短は自然の成り行きに任され、最終的には尽きる時が来る。古人が言うように、死生もまた大きな問題である。なんと痛ましいことではないか。

原文夫人之相與,俯仰一世,或取諸懷抱,悟言一室之內,或因寄所托,放浪形骸之外。雖趣舍萬殊,靜躁不同,當其欣於所遇,暫得於己,快然自足,不知老之將至。及其所之既倦,情隨事遷,感慨系之矣。向之所欣,俯仰之間,已為陳跡,猶不能不以之興懷。況修短隨化,終期於盡。古人云,死生亦大矣,豈不痛哉!

昔の人が感慨を催す原因を見るたびに、まるで一つの割り符が合うようにぴったりと一致し、文章に臨んで嘆き悲しまずにはいられず、胸の中で理解することができない。確かに死生を同一視するのは虚偽であり、彭祖と夭折を同等に扱うのは妄りな作り事であると知る。後世の人が今を見るのも、今の人が昔を見るのと同じであろう。悲しいことだ。だから、当時の人々を列記し、彼らの述べたことを記録する。たとえ時代が異なり事柄が違っても、感慨を催す原因は、その趣きは同じである。後世の読者も、この文章に感じるところがあるであろう。

原文每覽昔人興感之由,若合一契,未嘗不臨文嗟悼,不能喻之於懷。固知一死生為虛誕,齊彭殤為妄作,後之視今,亦猶今之視昔,悲夫!故列敘時人,錄其所述,雖世殊事異,所以興懷,其致一也。後之覽者,亦將有感於斯文。

ある人が潘岳の『金谷詩序』とその文章を比較し、羲之を石崇に比べたが、それを聞いて非常に喜んだ。

原文或以潘岳《金谷詩序》方其文,羲之比于石崇,聞而甚喜。

性質として鵞鳥を愛し、会稽に一人で住む老女が一羽の鵞鳥を飼っていて、よく鳴いたので、買い求めようとしたができず、ついに親友を連れて車を走らせ見に行った。老女は羲之が来ると聞き、煮て待っていたので、羲之は一日中嘆き惜しんだ。また山陰に一人の道士がいて、良い鵞鳥を飼っていた。羲之がそれを見に行くと、非常に気に入り、どうしても買い求めたいと頼んだ。道士は言った。「『道徳経』を書いてくれたら、群れごと贈りましょう。」羲之は喜んで書き終え、鵞鳥を籠に入れて帰り、非常に楽しんだ。そのような率直な振る舞いであった。かつて門生の家を訪れ、棐の机が滑らかで清潔なのを見て、それに書をしたためた。楷書と草書が半々であった。後でその父が誤って削り取ってしまい、門生は何日も驚き悔しがった。またかつて蕺山で一人の老女が六角の竹扇を売っているのを見た。羲之はその扇に書をし、それぞれ五字ずつ書いた。老女は初め不機嫌な顔をした。そこで老女に言った。「ただ王右軍の書だと言って、百銭で売ればいい。」老女がその通りにすると、人々は競って買った。ある日、老女がまた扇を持って来たが、羲之は笑って答えなかった。その書は世に重んじられ、皆このような類いであった。常に自ら「私の書は鐘繇と比べれば、対等に並ぶことができる。張芝の草書と比べれば、やはり雁行すべきである」と言った。かつて人に手紙を書いて言った。「張芝は池のほとりで書を学び、池の水が真っ黒になった。人がこれほど夢中になるなら、必ずしも後れを取ることはないだろう。」羲之の書は初めは庾翼ゆよくや郗愔に勝てなかったが、その晩年になってようやく妙味を帯びた。かつて章草で庾亮に返事を書いたが、翼は深く感服し、そこで羲之に手紙を書いて言った。「私はかつて伯英(張芝)の章草十枚を持っていたが、長江を渡る時に慌てふためいて、ついに失ってしまい、常に妙なる筆跡が永遠に絶えたと嘆いていた。突然、貴方が家兄への返信を見て、神々しいほど鮮やかで、たちまち昔の観を回復した。」

原文性愛鵝,會稽有孤居姥養一鵝,善鳴,求市未能得,遂攜親友命駕就觀。姥聞羲之將至,烹以待之,羲之嘆惜彌日。又山陰有一道士,養好鵝,羲之往觀焉,意甚悅,固求市之。道士云:「為寫《道德經》,當舉群相贈耳。」羲之欣然寫畢,籠鵝而歸,甚以為樂。其任率如此。嘗詣門生家,見棐幾滑淨,因書之,真草相半。後為其父誤刮去之,門生驚懊者累日。又嘗在蕺山見一老姥,持六角竹扇賣之。羲之書其扇,各為五字。姥初有慍色。因謂姥曰:「但言是王右軍書,以求百錢邪。」姥如其言,人競買之。他日,姥又持扇來,羲之笑而不答。其書為世所重,皆此類也。每自稱「我書比鐘繇,當抗行;比張芝草,猶當雁行也」。曾與人書云:「張芝臨池學書,池水盡黑,使人耽之若是,未必後之也。」羲之書初不勝庾翼、郗愔,及其暮年方妙。嘗以章草答庾亮,而翼深歎伏,因與羲之書云:「吾昔有伯英章草十紙,過江顛狽,遂乃亡失,常歎妙跡永絕。忽見足下答家兄書,煥若神明,頓還舊觀。」

当時、驃騎将軍の王述は若くして名声があり、王羲之と並び称されていたが、王羲之は彼を非常に軽んじていたため、二人の仲は良くなかった。王述は以前会稽にいた時、母の喪のため郡内に滞在しており、王羲之が王述の後任となったが、一度弔問しただけで、二度と訪れようとはしなかった。王述は角笛の音を聞くたびに、王羲之が自分を見舞いに来るのだと思い、いつも掃除をして待っていた。このようなことが何年も続いたが、王羲之は結局顧みず、王述はこれを深く恨んだ。後に王述が揚州刺史となった時、赴任する前に郡内を巡行したが、王羲之のところには立ち寄らず、出発する際に、ただ別れを告げて去った。以前、王羲之はよく賓客や友人に言っていた。「王述はせいぜい尚書になるくらいで、年老いてから僕射になるのが関の山だ。会稽を望むなど、はるかに及ばないことだ」と。しかし王述が顕職に就くと、王羲之は彼の下に立つことを恥じ、使者を朝廷に遣わし、会稽を分割して越州とするよう求めた。使者が言葉を誤り、当時の賢人たちに大いに笑われた。その後、内心で恥じ嘆き、息子たちに言った。「私は王述に劣らないのに、地位と待遇がこれほどかけ離れているのは、お前たちが王坦之に及ばないからだろうか!」後に王述が会稽郡を巡察し、刑政を精査した時、担当者は質問への対応に疲弊した。王羲之はこれを深く恥じ、病気を理由に郡を去り、父母の墓前で自ら誓った。「永和十一年三月癸卯朔、九日辛亥に、小子羲之、あえて二尊の霊に告ぐ。羲之は天の恵み薄く、早くに不幸に遭い、父の教えを受けることができなかった。母と兄に養育され、ようやく人並みになり、人の不足に乗じて、国の寵愛と栄誉を受けた。進んでは忠孝の節がなく、退いては賢人を推挙する義に背き、いつも老子や周任の戒めを仰ぎ詠じては、死の日が近いことを恐れ、憂いは宗廟の祭祀に及び、ただこの微かな身だけのことではない!それゆえ、日夜ため息をつき、深い谷に落ちるかのようだ。足るを知る分限は、今ここに定める。謹んで今月の吉辰に筵を敷き席を設け、額を地につけて誠を尽くし、先の霊に誓いを告げる。今より後、あえてこの心を変え、貪り冒して苟も進もうとするならば、それは尊ぶ心がなく子たる者ではないのだ。子でありながら子でなければ、天地も覆い載せず、名教も容れない。誠の誓いは、皎々たる太陽のごとし」。

原文時驃騎將軍王述少有名譽,與羲之齊名,而羲之甚輕之,由是情好不協。述先為會稽,以母喪居郡境,羲之代述,止一吊,遂不重詣。述每聞角聲,謂羲之當候己,輒灑掃而待之。如此者累年,而羲之竟不顧,述深以為恨。及述為揚州刺史,將就征,周行郡界,而不過羲之,臨發,一別而去。先是,羲之常謂賓友曰:「懷祖正當作尚書耳,投老可得僕射。更求會稽,便自邈然。」及述蒙顯授,羲之恥為之下,遣使詣朝廷,求分會稽為越州。行人失辭,大為時賢所笑。既而內懷愧歎,謂其諸子曰:「吾不減懷祖,而位遇懸邈,當由汝等不及坦之故邪!」述後檢察會稽郡,辯其刑政,主者疲于簡對。羲之深恥之,遂稱病去郡,于父母墓前自誓曰:「維永和十一年三月癸卯朔,九日辛亥,小子羲之敢告二尊之靈。羲之不天,夙遭閔凶,不蒙過庭之訓。母兄鞠育,得漸庶幾,遂因人乏,蒙國寵榮。進無忠孝之節,退違推賢之義,每仰詠老氏、周任之誡,常恐死亡無日,憂及宗祀,豈在微身而已!是用寤寐永歎,若墜深谷。止足之分,定之於今。謹以今月吉辰肆筵設席,稽顙歸誠,告誓先靈。自今之後,敢渝此心,貪冒苟進,是有無尊之心而不子也。子而不子,天地所不覆載,名教所不得容。信誓之誠,有如皦日!」

王羲之は官を去った後、東土の人々と山水を巡る遊びを尽くし、弓矢や釣りを楽しみとした。また道士の許邁と共に服食(仙薬)を修行し、薬石を採るため千里も遠しとせず、東中の諸郡を遍歴し、あらゆる名山を極め、滄海を渡り、嘆いて言った。「私はきっと楽しみの中で死ぬだろう」。謝安がかつて王羲之に言った。「中年以降は、哀楽に傷つき、親友と別れると、いつも数日間気分が優れない」。王羲之は言った。「年が桑や楡(夕日が当たる木、老年の喩え)に至れば、自然にこうなる。近ごろはちょうど弦楽器や管楽器に頼って心を和らげているが、いつも子供たちに気づかれて、この楽しみの趣きが損なわれるのを恐れている」。朝廷は彼の誓いが苦しいものであるとして、再び召し出そうとはしなかった。

原文羲之既去官,與東土人士盡山水之遊,弋釣為娛。又與道士許邁共修服食,采藥石不遠千里,遍游東中諸郡,窮諸名山,泛滄海,歎曰:「我卒當以樂死。」謝安嘗謂羲之曰:「中年以來,傷於哀樂,與親友別,輒作數日惡。」羲之曰:「年在桑榆,自然至此。頃正賴絲竹陶寫,恆恐兒輩覺,損其歡樂之趣。」朝廷以其誓苦,亦不復徵之。

当時、劉惔が丹陽尹であった。許詢がかつて劉惔の家に泊まった時、寝台の帷は新しく美しく、飲食は豊かで甘かった。許詢が言った。「このように保ち全うするのは、東山(隠棲の地)に勝る」。劉惔は言った。「あなたが吉凶は人によるものと知るなら、私がどうしてこれを保てようか」。王羲之が同席しており、言った。「もし巣父や許由が稷や契に出会ったなら、きっとこんなことは言わなかっただろう」。二人はともに恥じ入った。

原文時劉惔為丹陽尹,許詢嘗就惔宿,床帷新麗,飲食豐甘。詢曰:「若此保全,殊勝東山。」惔曰:「卿若知吉凶由人,吾安得保此。」羲之在坐,曰:「令巢許遇稷契,當無此言。」二人並有愧色。

初め、王羲之は悠々として事がなく、吏部郎の謝万に手紙を書いて言った。

原文初,羲之既優遊無事,與吏部郎謝萬書曰:

古の世を避ける者は、髪を振り乱して狂ったふりをしたり、身を汚し行跡を穢したりしたもので、苦難と言えた。今、私は座して安逸を得、宿願を遂げている。この慶び幸いは、天の賜りでないことがあろうか。天に背けば不吉である。

原文古之辭世者或被髮陽狂,或汙身穢跡,可謂艱矣。今僕坐而獲逸,遂其宿心,其為慶倖,豈非天賜!違天不祥。

近ごろ東に遊びから戻り、桑や果樹を植え育てたが、今は盛んに花が咲き実っている。子供たちを率い、幼い孫を抱き、その間を遊覧し、一つでも美味しいものがあれば、切り分けて、目前の楽しみとする。徳を植えても特に遠大なものはないが、それでも子孫を教え養い、篤実で譲る心を持つようにしたい。あるいは軽薄な者もいるが、せめて策を数え馬を数える(細心な)ようにして、万石君(石奮)の風範に近づけたい。あなたはこれをどう思うか?

原文頃東游還,修植桑果,今盛敷榮,率諸子,抱弱孫,游觀其間,有一味之甘,割而分之,以娛目前。雖植德無殊邈,猶欲教養子孫以敦厚退讓。或以輕薄,庶令舉策數馬,仿佛萬石之風。君謂此何如?

近いうちに謝安と東の山海を遊覧し、田畑を巡って地の利を視察し、閑暇を養生したい。衣食に余裕ができたら、親しい知人と時々共に歓宴を開き、高らかに詩を詠じ、杯を満たして飲むことはできなくとも、田舎で行っていることを語り合い、手を打って笑う材料としたい。その得意たるや、言葉で言い尽くせようか!常に陸賈、班嗣、楊王孫の処世の仕方に倣い、この数人の風に少しでも近づきたい。老夫の志願はここに尽きる。

原文比當與安石東遊山海,並行田視地利,頤養閒暇。衣食之餘,欲與親知時共歡宴,雖不能興言高詠,銜杯引滿,語田里所行,故以為撫掌之資,其為得意,可勝言邪!常依陸賈、班嗣、楊王孫之處世,甚欲希風數子,老夫志願盡於此也。

謝万が後に豫州都督となった時、また手紙を送って戒めて言った。「あなたの邁進して顧みない風韻で、群臣と同じように俯くのは、確かに気が進まないことだろう。しかし、いわゆる通識とは、まさに事に応じて進退し、それでこそ遠大なのである。どうかあなたがいつも士の中で下位の者と同じように振る舞えば、それで完璧である。食事に二つの味を求めず、座るに重ねた敷物を用いない、これなど何でもないことだが、古人はこれを美談とした。事の成否は、実に小さなことを積み重ねて高大に至るかどうかによる。あなたはこれを心に留めておかれよ」。謝万はこれを用いず、果たして失敗した。

原文萬後為豫州都督,又遺萬書誡之曰:「以君邁往不屑之韻,而俯同群辟,誠難為意也。然所謂通識,正自當隨事行藏,乃為遠耳。願君每與士之下者同,則盡善矣。食不二味,居不重席,此復何有,而古人以為美談。濟否所由。實在積小以致高大,君其存之。」萬不能用,果敗。

五十九歳で亡くなり、金紫光禄大夫を追贈された。息子たちは父の生前の意向に従い、固辞して受けなかった。

原文年五十九卒,贈金紫光祿大夫。諸子遵父先旨,固讓不受。

王羲之の子、王凝之。

原文羲之子 凝之

七人の子がおり、知名な者は五人である。王玄之は早世した。次男の王凝之も草書・隷書に巧みで、官は江州刺史、左将軍、会稽内史を歴任した。王氏は代々張氏の五斗米道を信奉しており、王凝之は特に篤かった。孫恩が会稽を攻めた時、幕僚たちは防備を整えるよう請うた。王凝之は従わず、ただちに静室に入って祈禱し、出て来て将佐たちに言った。「私はすでに大道(太上老君)に請い、鬼兵が助けてくれることを許された。賊は自ずと敗れるだろう」。防備を整えなかったため、ついに孫恩に殺害された。

原文有七子,知名者五人。玄之早卒。次凝之,亦工草隸,仕歷江州刺史、左將軍、會稽內史。王氏世事張氏五斗米道,凝之彌篤。孫恩之攻會稽,僚佐請為之備。凝之不從,方入靖室請禱,出語諸將佐曰:「吾已請大道,許鬼兵相助,賊自破矣。」既不設備,遂為孫所害。

王羲之の子、王徽之。

原文羲之子 徽之

王徽之は字を子猷という。性格は卓越して束縛されず、大司馬桓温の参軍となったが、髪はぼさぼさで帯は緩め、府の事務をまとめようとしなかった。また車騎将軍桓沖の騎兵参軍となった時、桓沖が尋ねた。「あなたはどの部署を担当しているのか?」と。答えて言った。「馬曹のようです」。また尋ねた。「何頭の馬を管理しているのか?」と言うと、「馬を知らないのに、どうして数がわかりますか!」。また尋ねた。「馬は最近どれだけ死んだか?」と言うと、「生きているものを知らないのに、どうして死んだものがわかりますか!」。かつて桓沖に従って行軍した時、暴雨に遭い、王徽之は馬から降りて車中に押し入り、言った。「あなたが一人で一車を独占するわけにはいきません!」。桓沖がかつて王徽之に言った。「あなたは府に長くいるので、近いうちに事務を整理すべきだ」。王徽之は初め返答せず、ただ高い所を見つめ、手版で頬を支えて言った。「西山から朝、爽やかな気が届いているだけです」。

原文徽之字子猷。性卓犖不羈,為大司馬桓溫參軍,蓬首散帶,不綜府事。又為車騎桓沖騎兵參軍,沖問:「卿署何曹?」對曰:「似是馬曹。」又問:「管幾馬?」曰:「不知馬,何由知數!」又問:「馬比死多少?」曰:「未知生,焉知死!」嘗從沖行,值暴雨,徽之因下馬排入車中,謂曰:「公豈得獨擅一車!」沖嘗謂徽之曰:「卿在府日久,比當相料理。」徽之初不酬答,直高視,以手版柱頰云:「西山朝來致有爽氣耳。」

当時、呉中のある士大夫の家に立派な竹があり、それを見たいと思い、すぐに輿に乗って竹の下まで行き、長い間嘯吟した。主人が掃除をして座るよう請うたが、王徽之は顧みなかった。出ようとした時、主人が門を閉めたので、王徽之はこれを賞賛し、感嘆しながら去った。かつて空き家に寄寓した時、すぐに竹を植えさせた。ある人がその理由を尋ねると、王徽之はただ嘯吟し、竹を指して言った。「どうして一日もこの君(竹)なしでいられようか!」。かつて山陰に住んでいた時、夜雪が止んで晴れ、月の光が清らかに明るく、四方を見渡すと真っ白で、一人酒を酌み左思の『招隠詩』を詠じていたところ、突然戴逵のことを思い出した。戴逵は当時剡にいたので、夜に小船に乗って彼を訪ね、一晩かけてようやく着いたが、門まで行って中に入らずに帰った。人がその理由を尋ねると、王徽之は言った。「もともと興に乗って行き、興が尽きたから帰ったのだ。どうして戴逵に会わなければならないのか!」。風雅で放縦な性格で、音楽と女色を好んだ。かつて夜に弟の王献之おうけんしと共に『高士伝賛』を読み、王献之が井丹の高潔さを賞賛すると、王徽之は言った。「司馬相如の世を侮る態度には及ばない」。その傲慢で達観した様子はこのようであった。当時の人々は皆その才能を敬服したが、その行いを穢れたものとした。

原文時吳中一士大夫家有好竹,欲觀之,便出坐輿造竹下,諷嘯良久。主人灑掃請坐,徽之不顧。將出,主人乃閉門,徽之便以此賞之,盡歎而去。嘗寄居空宅中,便令種竹。或問其故,徽之但嘯詠,指竹曰:「何可一日無此君邪!」嘗居山陰,夜雪初霽,月色清朗,四望皓然,獨酌酒詠左思《招隱詩》,忽憶戴逵。逵時在剡,便夜乘小船詣之,經宿方至,造門不前而反。人問其故,徽之曰:「本乘興而行,興盡而反,何必見安道邪!」雅性放誕,好聲色,嘗夜與弟獻之共讀《高士傳贊》,獻之賞井丹高潔,徽之曰:「未若長卿慢世也。」其傲達若此。時人皆欽其才而穢其行。

その後、黄門侍郎となったが、官を棄てて東に帰り、献之と共に病が重くなった。その時、術者が言うには、「人の命が終わろうとする時、生きている人が喜んで代わろうとすれば、死ぬはずの者を生かすことができる」と。徽之は言った。「私の才能や地位は弟には及ばない。残りの寿命で代わりたい。」術者は言った。「死ぬ者に代わるには、自分の寿命に余りがあり、亡くなる者の分を補える場合です。今、あなたと弟の寿命は共に尽きています。どうして代わることができましょうか!」間もなく、献之が亡くなると、徽之は葬儀に駆けつけたが泣かず、まっすぐに霊床に上って座り、献之の琴を取って弾いた。長く弾いても調子が合わず、嘆いて言った。「ああ、子敬よ、人も琴も共に失われてしまった!」そのため、気絶して倒れた。以前から背中に病気があり、それが潰れて裂け、一か月余りで彼も亡くなった。子に楨之がいる。

原文後為黃門侍郎,棄官東歸,與獻之俱病篤,時有術人云:「人命應終,而有生人樂代者,則死者可生。」徽之謂曰:「吾才位不如弟,請以餘年代之。」術者曰:「代死者,以己年有餘,得以足亡者耳。今君與弟算俱盡,何代也!」未幾,獻之卒,徽之奔喪不哭,直上靈床坐,取獻之琴彈之,久而不調,歎曰:「嗚呼子敬,人琴俱亡!」因頓絕。先有背疾,遂潰裂,月餘亦卒。子楨之。

徽之の子は楨之。

原文徽之子 楨之

楨之は字を公幹といい、侍中・大司馬長史を歴任した。桓玄が太尉となった時、朝臣が皆集まった中で、楨之に尋ねた。「私はあなたの亡くなった叔父様と比べてどうか?」座っていた者は皆、息を詰まらせた。楨之は言った。「亡き叔父は一代の模範でありましたが、貴公は千年に一人の英傑です。」一座の者は皆喜んだ。

原文楨之字公幹,歷位侍中、大司馬長史。桓玄為太尉,朝臣畢集,問楨之:「我何如君亡叔?」在坐咸為氣咽。楨之曰:「亡叔一時之標,公是千載之英。」一坐皆悅。

羲之の子に操之がいる。

原文羲之子 操之

操之は字を子重といい、侍中・尚書・豫章太守を歴任した。

原文操之字子重,歷侍中、尚書、豫章太守。

羲之の子に献之がいる。

原文羲之子 獻之

献之は字を子敬という。若い頃から名声が高く、高邁で束縛されず、暇な時は一日中家にいても、容貌や立ち居振る舞いを怠らず、その風流さは当時随一であった。数歳の時、門生たちが樗蒱をしているのを見て言った。「南風が弱いな。」門生が言った。「この郎君も管の中から豹を覗いて、時々斑が見えるだけです。」献之は怒って言った。「遠くは荀奉倩に、近くは劉真長に恥ずかしい。」そして袖を払って去った。かつて兄の徽之、操之と共に謝安を訪ねた時、二人の兄は世俗の話ばかりし、献之は挨拶程度の言葉だけだった。出てから後、客が謝安に王氏の兄弟の優劣を尋ねると、謝安は言った。「末の子が優れている。」客がその理由を尋ねると、謝安は言った。「善人の言葉は少ない。彼があまり話さないことから、分かったのだ。」かつて徽之と共に一室にいた時、突然火事が起こり、徽之は慌てて逃げ出し、履物を取る暇もなかった。献之は神色泰然として、ゆっくりと左右の者を呼んで支えられて出た。夜、書斎で寝ていると、泥棒が部屋に入り、物を全て盗んでいった。献之はゆっくりと言った。「泥棒よ、あの青い毛氈は我が家の古い物だ。特にそれを置いていけ。」泥棒たちは驚いて逃げた。

原文獻之字子敬。少有盛名,而高邁不羈,雖閒居終日,容止不怠,風流為一時之冠。年數歲,嘗觀門生樗蒱,曰:「南風不競。」門生曰:「此郎亦管中窺豹,時見一斑。」獻之怒曰:「遠慚荀奉倩,近愧劉真長。」遂拂衣而去。嘗與兄徽之、操之俱詣謝安,二兄多言俗事,獻之寒溫而已。既出,客問安王氏兄弟優劣,安曰:「小者佳。」客問其故,安曰:「吉人之辭寡,以其少言,故知之。」嘗與徽之共在一室,忽然火發,徽之遽走,不遑取履。獻之神色恬然,徐呼左右扶出。夜臥齋中而有偷人入其室,盜物都盡。獻之徐曰:「偷兒,氈青我家舊物,可特置之。」群偷驚走。

草書と隷書に巧みで、絵画にも優れていた。七、八歳の時に書を学んでいた時、羲之が密かに後ろから筆を引っ張ったが動かず、嘆いて言った。「この子は後にまた大きな名声を得るだろう。」かつて壁に一丈四方の大きな字を書いたことがあり、羲之は大いにその才能を認め、見物人は数百人に上った。桓温がかつて扇に字を書かせようとした時、筆が誤って落ちたので、それに因んで黒と白のまだらの牝牛の絵を描き、非常に巧みであった。

原文工草隸,善丹青。七八歲時學書,羲之密從後掣其筆不得,歎曰:「此兒後當復有大名。」嘗書壁為方丈大字,羲之甚以為能,觀者數百人。桓溫嘗使書扇,筆誤落,因畫作烏駁牸牛,甚妙。

州主簿・秘書郎として出仕し、丞に転じ、選ばれて新安公主に尚された。かつて呉郡を通りかかった時、顧辟彊に有名な庭園があると聞いた。以前から面識はなかったが、平肩輿に乗ってまっすぐに入った。その時、辟彊はちょうど賓客や友人を集めていたが、献之は庭園を見て回り終えると、傍若無人であった。辟彊は激怒して責めた。「主人を無視するのは礼に外れる。貴人として士を驕るのは道理に合わない。この二つを失えば、取るに足らない田舎者に過ぎない。」そして門の外に追い出した。献之は傲然としており、気にも留めなかった。

原文起家州主簿、秘書郎,轉丞,以選尚新安公主。嘗經吳郡,聞顧辟彊有名園。先不相識,乘平肩輿徑入。時辟彊方集賓友,而獻之遊歷既畢,傍若無人。辟彊勃然數之曰:「傲主人,非禮也。以貴驕士,非道也。失是二者,不足齒之傖耳。」便驅出門。獻之傲如也,不以屑意。

謝安は彼を非常に敬愛し、長史に請じた。謝安が衛将軍に進号すると、再び長史となった。太元年間、新たに太極殿が建てられた時、謝安は献之に扁額の字を書かせたいと思い、万代の宝としたいと考えたが、言い出しにくく、試しに言った。「魏の時代、陵雲殿の扁額がまだ書かれていないうちに、工匠が誤って釘で打ち付けてしまい、下ろせなくなった。そこで韋仲将に梯子を掛けさせて書かせた。書き終わる頃には、髪や鬚は真っ白になり、かろうじて息があるだけだった。帰って子弟に、この方法は絶つべきだと語った。」献之はその意図を察し、厳しい表情で言った。「仲将は魏の大臣です。どうしてそんなことがありましょうか!もしそうだったとしても、それによって魏の徳が長く続かないことが分かります。」謝安はそれ以上迫らなかった。謝安はまた尋ねた。「あなたの書は、ご尊父と比べてどうですか。」答えていうには、「もちろん違います。」謝安が「世間の評判はそうではない。」と言うと、答えていうには、「人がどうして知ることができましょうか!」間もなく建威将軍・呉興太守に任じられ、中書令に召し出されて拝命した。

原文謝安甚欽愛之,請為長史。安進號衛將軍,復為長史。太元中,新起太極殿,安欲使獻之題榜,以為萬代寶,而難言之,試謂曰:「魏時陵雲殿榜未題,而匠者誤釘之,不可下,乃使韋仲將懸橙書之。比訖,須鬢盡白,裁餘氣息。還語子弟,宜絕此法。」獻之揣知其旨,正色曰:「仲將,魏之大臣,甯有此事!使其若此,有以知魏德之不長。」安遂不之逼。安又問曰:「君書何如君家尊?」答曰:「故當不同。」安曰:「外論不爾。」答曰:「人那得知!」尋除建威將軍、吳興太守,徵拜中書令。

謝安が亡くなると、贈る礼に異同の議論があったが、献之と徐邈だけが共に謝安の忠勲を明らかにした。献之は上疏して言った。「故太傅臣安は、若くして玄風を振るい、その道誉は広く溢れました。弱冠で遠くに隠棲し、箕子や四皓と志を同じくし、時運に応じて官に就き、王道は確かに行き渡りました。そして威霊を宣べ、強暴な者を消滅させました。功勲が既に成就すると、印綬を投げ出して高く譲りました。かつ先帝に仕え、布衣の身分でありながら厚い寵愛を受けました。陛下が即位された時、御年はまだお若く、心を尽くし智を竭くして聖明を輔けました。その潜龍から飛龍に至るまでの始終を考え、その事の経緯と深い思いを察するに、実に大晋の優れた補佐役であり、その忠義は昔の臣下よりも篤いものでした。伏して願いますに、陛下には宗臣に心を留め、省察に精神を澄まされますように。」孝武帝はついに謝安に特別な礼を加えた。

原文及安薨,贈禮有同異之議,惟獻之、徐邈共明安之忠勳。獻之乃上疏曰:「故太傅臣安少振玄風,道譽泮溢。弱冠遐棲,則契齊箕皓;應運釋褐,而王猷允塞。及至載宣威靈,強猾消殄。功勳既融,投韍高讓。且服事先帝,眷隆布衣。陛下踐阼,陽秋尚富,盡心竭智以輔聖明。考其潛躍始終,事情繾綣,實大晉之俊輔,義篤於曩臣矣。伏惟陛下留心宗臣,澄神於省察。」孝武帝遂加安殊禮。

間もなく、献之は病気にかかり、家族が上章(罪過を告白する文書)を作った。道家の法ではまず過ちを告白するべきで、何か得失があったかと尋ねた。答えていうには、「他のことは覚えていないが、ただ郗家と離婚したことだけを思い出す。」献之の前妻は、郗曇ちどんの娘であった。ほどなくして官職のまま亡くなった。安僖皇后が立てられると、皇后の父として侍中・特進・光禄大夫・太宰を追贈され、諡を憲といった。子がなく、兄の子の静之を後継ぎとした。静之は義興太守の位に至った。当時の論者は、羲之の草書・隷書は江左や中朝でも及ぶ者がなく、献之の骨力は父には遠く及ばないが、なかなか艶やかな趣があると考えた。桓玄は彼ら父子の書を特に愛し、それぞれ一帙ずつ作り、側に置いて賞玩した。最初に羲之と共に交遊した者は許邁である。

原文未幾,獻之遇疾,家人為上章,道家法應首過,問其有何得失。對曰:「不覺餘事,惟憶與郗家離婚。」獻之前妻,郗曇女也。俄而卒於官。安僖皇后立,以後父追贈侍中、特進、光祿大夫、太宰,諡曰憲。無子,以兄子靜之嗣,位至義興太守。時議者以為羲之草隸,江左中朝莫有及者,獻之骨力遠不及父,而頗有媚趣。桓玄雅愛其父子書,各為一帙,置左右以玩之。始羲之所與共游者許邁。

許邁

原文許邁

許邁は、字を叔玄といい、一名を映といい、丹陽郡句容県の人である。家は代々士族であったが、邁は若い頃から穏やかで静かであり、官職を慕わなかった。まだ弱冠前であったが、かつて郭璞を訪ね、璞が彼のために占ったところ、『泰』の卦が『大畜』の卦に変わり、その上六爻が動いた。璞は言った。「あなたは天から大いなる吉を受けています。昇仙の道を学ぶべきです。」その時、南海太守の鮑靚は隠れて遁世しており、人々は彼のことを知らなかった。邁は彼を訪ねて、その極意を探った。父母がまだ存命だったので、親に背くことを忍びなかった。余杭県の懸霤山が延陵の茅山に近く、これは洞庭湖の西門であり、五嶽に潜通し、陳安世や茅季偉が常に遊んだ場所であると言い、そこで懸霤に精舎を建て、茅嶺の洞室に往来し、世の務めを絶って仙館を求め、朔望や節句の時だけ家に帰って父母の安否を伺った。父母が亡くなると、妻の孫氏を実家に帰し、同志を連れて名山を遍歴した。

原文許邁,字叔玄,一名映,丹陽句容人也。家世士族,而邁少恬靜,不慕仕進。未弱冠,嘗造郭璞,璞為之筮,遇《泰》之《大畜》,其上六爻發。璞謂曰:「君元吉自天,宜學升遐之道。」時南海太守鮑靚隱跡潛遁,人莫之知。邁乃往候之,探其至要。父母尚存,未忍違親。謂余杭懸霤山近延陵之茅山,是洞庭西門,潛通五嶽,陳安世、茅季偉常所遊處,於是立精舍於懸霤,而往來茅嶺之洞室,放絕世務,以尋仙館,朔望時節還家定省而已。父母既終,乃遣婦孫氏還家,遂攜其同志遍游名山焉。

初めに桐廬県の桓山で薬草を採り、朮を服用すること三年に及び、その頃には穀物を断とうとした。この山は人里に近く、専心できないので、四方に柵を巡らし、道を好む者で会いたい者は、楼に登って話すことを楽しみとした。常に服気を行い、一息で千回以上呼吸を続けた。永和二年、臨安の西山に移り、岩に登り芝を食べ、ひっそりと自ら楽しみ、ここで終わるつもりでいた。そこで名を玄と改め、字を遠遊とした。妻に手紙で別れを告げ、また詩十二首を作り、神仙のことを論じた。羲之が彼を訪ねると、いつも一日中帰るのを忘れ、共に世外の交わりを結んだ。玄は羲之に手紙を送って言った。「山陰から南の臨安にかけては、金堂玉室が多く、仙人の芝草があり、左元放の仲間や、漢末に道を得た者たちが皆そこにいます。」羲之は自ら彼の伝記を書き、霊異の跡を多く述べたが、詳細に記すことはできない。玄はその後、その行方を知る者なく、道を好む者は皆、彼が羽化したと言った。

原文初采藥於桐廬縣之桓山,餌術涉三年,時欲斷穀。以此山近人,不得專一,四面籓之,好道之徒欲相見者,登樓與語,以此為樂。常服氣,一氣千餘息。永和二年,移入臨安西山,登岩茹芝,眇爾自得,有終焉之志。乃改名玄,字遠遊。與婦書告別,又著詩十二首,論神仙之事焉。羲之造之,未嘗不彌日忘歸,相與為世外之交。玄遺羲之書云:「自山陰南至臨安,多有金堂玉室,仙人芝草,左元放之徒,漢末諸得道者皆在焉。」羲之自為之傳,述靈異之跡甚多,不可詳記。玄自後莫測所終,好道者皆謂之羽化矣。

賛

原文贊