晉書

卷七十九 列傳第四十九

卷七十九 列傳第四十九

晉書

原文晉書

卷七十九 列傳第四十九

原文卷七十九 列傳第四十九 ► 卷八十 列傳第五十

謝尚

原文謝尚

謝尚は、字あざなを仁祖といい、豫章太守の謝鯤の子である。幼い頃から天性の誠実さを持っていた。七歳で兄を亡くし、悲しみ慟哭する様子が礼の度を超えており、親戚たちは驚いた。八歳で神がかった悟りが早くから備わっていた。謝鯤が彼を連れて客を見送った時、ある人が言った。「この子は一座の顔回だ。」謝尚は即座に答えて言った。「座に尼父(孔子)がいなければ、どうして顔回と区別できましょうか!」座の賓客は皆、感嘆して驚いた。十余歳の時、父の喪に遭い、丹陽尹の温嶠が弔問に来た。謝尚は大声をあげて激しく悲しんだ。やがて涙を拭い、事情を語る様子は、普通の子供とは異なっており、温嶠は大いに不思議に思った。成長すると、開放的で率直、聡明で優れ、弁舌と理解力が並外れ、細かい行いにはこだわらず、世俗的な事はしなかった。刺繍入りの袴を好んで着たが、叔父たちに責められ、それによって自ら改め、やがて名を知られるようになった。音楽を得意とし、多くの芸能を広く習得した。司徒しとの王導おうどうは彼を深く評価し、王戎に例えて、常に「小安豊」と呼び、掾に辟召した。父の爵位である咸亭侯を襲封した。初めて役所に挨拶に行った時、王導は彼が勝れた集まりの場にいるとして、言った。「あなたが九官鳥の舞ができると聞いたが、一座の者が皆見たいと思っている。本当にできるのか?」謝尚は言った。「結構です。」すぐに衣と幘をつけて舞い、王導は座っている者たちに手を叩いて拍子を取らせた。謝尚は舞いの中で身を屈めたり伸ばしたりし、傍若無人であり、その率直さはこのようなものであった。

原文謝尚,字仁祖,豫章太守鯤之子也。幼有至性。七歲喪兄,哀慟過禮,親戚異之。八歲神悟夙成。鯤嘗攜之送客,或曰:「此兒一坐之顏回也。」尚應聲答曰:「坐無尼父,焉別顏回!」席賓莫不歎異。十餘歲,遭父憂,丹陽尹溫嶠吊之,尚號咷極哀。既而收涕告訴,舉止有異常童,嶠甚奇之。及長,開率穎秀,辨悟絕倫,脫略細行,不為流俗之事。好衣刺文袴,諸父責之,而因自改,遂知名。善音樂,博綜眾藝。司徒王導深器之,比之王戎,常呼為「小安豐」,辟為掾。襲父爵咸亭侯。始到府通謁,導以其有勝會,謂曰:「聞君能作鴝鵒舞,一坐傾想,寧有此理不?」尚曰:「佳。」便著衣幘而舞,導令坐者撫掌擊節,尚俯仰在中,傍若無人,其率詣如此。

西曹属に転じた。当時、戦乱で父母と離散した者がおり、議論する者の中には、官職に就けて王事を治めさせ、婚姻させて百世を継がせるのは、道理に反しないとする者もいた。謝尚は議論して言った。「礼典制度が興るのは、皆、情理に従い、広く通じさせて大きく勝れたものにするためである。もし運命に艱難や変動があれば、大義によって断じなければならない。後継ぎがいない罪は、三千の刑罰でも許されない。今、婚姻によって百世を継ぎ、宗族の系譜を尊ぶことは、確かに塞ぐことはできない。しかし、肉親が生き別れになる悲しみ、父子が離れ絶える痛みについては、痛みの深いものは、これより深いものはない。一体の小さな患いでさえ、まだ思慮を忘れ、聞き分けや観察を損なうことがあるのに、ましてや心に傷を負う大きな痛みを抱え、深く悲しむ最も親しい者を思って、心がすでに乱れている者が、どうして時務を総合的に処理できようか!心ある者は、決して栄誉を冒して軽率に進もうとはしない。栄誉を冒して軽率に進むような連中は、必ずや求めるべき本旨ではなく、ただ軽薄な門戸を開き、弊害の流れる道を長くするだけである。あるいは志を丘園に執り、心を守って改めない者であっても、なおその操行と業績を尊んで風尚を広めるべきであり、ましてや艱難を抱え悲しみを踏む者に、栄華と富貴をもって励まそうというのか?」

原文轉西曹屬,時有遭亂與父母乖離,議者或以進仕理王事,婚姻繼百世,於理非嫌。尚議曰:「典禮之興,皆因循情理,開通弘勝。如運有屯夷,要當斷之以大義。夫無後之罪,三千所不過,今婚姻將以繼百世,崇宗緒,此固不可塞也。然至於天屬生離之哀,父子乖絕之痛,痛之深者,莫深於茲。夫以一體之小患,猶或忘思慮,損聽察,況於抱傷心之巨痛,懷忉恆之至戚,方寸既亂,豈能綜理時務哉!有心之人,決不冒榮苟進。冒榮苟進之疇,必非所求之旨,徒開偷薄之門而長流弊之路。或有執志丘園、守心不革者,猶當崇其操業以弘風尚,而況含艱履戚之人,勉之以榮貴邪?」

會稽王友に遷り、入朝して給事黃門侍郎を補任し、出向して建武將軍・曆陽太守となり、さらに督江夏義陽隨三郡軍事・江夏相に転じ、將軍は元のままとした。当時、安西將軍の庾翼ゆよくが武昌に鎮していたが、謝尚はたびたび庾翼のもとを訪れて軍事について諮問した。かつて庾翼とともに弓を射た時、庾翼が言った。「卿が的を射抜いたら、鼓吹を褒美にやろう。」謝尚は即座に応じて的を射当てたので、庾翼はすぐに自分の副次的な鼓吹を彼に与えた。謝尚は政治を清廉簡素に行い、官に着任した初め、郡府が布四十匹で謝尚のために烏布の帳を造った。謝尚はそれを壊し、兵士の綿入れの上衣や袴にした。建元二年、詔みことのりが下った。「謝尚は以前、軍務の要事があったため、黄門侍郎の職を止めて軍旅に授けた。その任地は険要であり、その威望を高めるべきである。今、南中郎将とする。その他の官職は元のままとする。」ちょうど庾冰ゆひょうが亡くなったので、再び本来の官号で豫州四郡を都督し、江州刺史ししを兼任した。まもなくまた西中郎将・督揚州之六郡諸軍事・豫州刺史・仮節に転じ、曆陽に鎮した。

原文遷會稽王友,入補給事黃門侍郎,出為建武將軍、曆陽太守,轉督江夏義陽隨三郡軍事、江夏相,將軍如故。時安西將軍庾翼鎮武昌,尚數詣翼咨謀軍事。嘗與翼共射,翼曰:「卿若破的,當以鼓吹相賞。」尚應聲中之,翼即以其副鼓吹給之。尚為政清簡,始到官,郡府以布四十匹為尚造烏布帳。尚壞之,以為軍士褚襦袴。建元二年,詔曰:「尚往以戎戍事要,故輟黃散,以授軍旅。所處險要,宜崇其威望。今以為南中郎將,餘官如故。」會庾冰薨,復以本號督豫州四郡,領江州刺史。俄而復轉西中郎將、督揚州之六郡諸軍事、豫州刺史、假節,鎮曆陽。

大司馬の桓溫が中原に出兵しようとし、謝尚に兵を率いて壽春に向かわせ、安西將軍に進号した。初め、苻健ふけんの部将の張遇が謝尚に降ったが、謝尚は彼を慰撫懐柔できなかった。張遇は怒り、許昌きょしょうを拠点として反乱した。謝尚がこれを討伐したが、張遇に敗れ、捕らえられ廷尉に送られた。当時、康獻皇后が臨朝しており、彼女は謝尚の姪であったため、特に建威將軍に降号することを命じた。初め、謝尚が出征する時、建武將軍・濮陽太守の戴施に枋頭ほうとうを占拠させていた。ちょうど冉閔ぜんびんの子の冉智とその大将の蔣幹が帰順して来たので、再び使者の劉猗を謝尚のもとに遣わして救援を請わせた。戴施は劉猗を引き止め、伝国璽でんこくのじを求め、劉猗は帰って蔣幹に告げた。蔣幹は謝尚がすでに敗れたと思い、自分を救えないのではないかと心配し、躊躇して承諾しなかった。戴施は参軍の何融に壮士百人を率いさせて鄴に入り、三台に登って守備を助け、欺いて言った。「今すぐ璽を私に渡すがよい。凶悪な敵寇が外におり、道路が遮断されているので、まだ璽を送り出す勇気もない。ただ単騎の使者を走らせて報告させよう。天子が璽がすでに我々の手にあると聞けば、卿らの誠意のほどを知り、必ず重い軍勢を派遣して救援し、また厚く褒美を与えるだろう。」蔣幹はそこで璽を取り出して何融に渡し、何融は璽を持って馳せ戻り枋頭に帰った。謝尚は振武將軍の胡彬に騎兵三百を率いさせて璽を迎えさせ、それを京師に届けさせた。当時、苻健の部将の楊平が許昌を守備していたが、謝尚は兵を派遣してこれを襲撃し破った。給事中に征召され、軺車と鼓吹を賜り、石頭を守備した。

原文大司馬桓溫欲有事中原,使尚率眾向壽春,進號安西將軍。初,苻健將張遇降尚,尚不能綏懷之。遇怒,據許昌叛。尚討之,為遇所敗,收付廷尉。時康獻皇后臨朝,即尚之甥也,特令降號為建威將軍。初,尚之行也,使建武將軍、濮陽太守戴施據枋頭。會冉閔之子智與其大將蔣幹來附,復遣行人劉猗詣尚請救。施止猗,求傳國璽,猗歸,以告幹。幹謂尚已敗,慮不能救己,猶豫不許。施遣參軍何融率壯士百入鄴,登三台助戍,譎之曰:「今且可出璽付我。凶寇在外,道路梗澀,亦未敢送璽,當遣單使馳白。天子聞璽已在吾許,知卿等至誠,必遣重軍相救,並厚相餉。」幹乃出璽付融,融齎璽馳還枋頭。尚遣振武將軍胡彬率騎三百迎璽致諸京師。時苻健將楊平戍許昌,尚遣兵襲破之,征授給事中,賜軺車、鼓吹,戍石頭。

永和年間、尚書しょうしょ僕射ぼくやに任じられ、出向して都督江西淮南諸軍事・前將軍・豫州刺史となり、給事中・僕射は元のままとして、曆陽に鎮し、都督豫州揚州之五郡軍事を加えられた。在任中に政績があった。上表して入朝を求め、そのまま京師に留まり、僕射の事務を代理した。まもなく鎮西將軍に進号し、壽陽に鎮した。謝尚はそこで楽人を採り集め、石磬を制作して、太楽を整えた。江南に鐘や石磬による音楽があるのは、謝尚から始まったのである。

原文永和中,拜尚書僕射,出為都督江西淮南諸軍事、前將軍、豫州刺史,給事中、僕射如故,鎮曆陽,加都督豫州揚州之五郡軍事,在任有政績。上表求入朝,因留京師,署僕射事。尋進號鎮西將軍,鎮壽陽。尚於是采拾樂人,並制石磬,以備太樂。江表有鐘石之樂,自尚始也。

桓溫が北方で洛陽らくようを平定し、上疏して謝尚を都督司州諸軍事とするよう請うた。洛陽に鎮しようとしたが、病気のため行けなかった。升平初年、また都督豫・冀・幽・并四州に進んだ。病が重くなり、衛將軍に徴召され、散騎常侍を加えられたが、着任しないうちに曆陽で死去した。時に五十歳。詔により散騎常侍・衛將軍・開府儀同三司を追贈され、諡を簡といった。

原文桓溫北平洛陽,上疏請尚為都督司州諸軍事。將鎮洛陽,以疾病不行。升平初,又進都督豫、冀、幽、并四州。病篤,徵拜衛將軍,加散騎常侍,未至,卒于曆陽,時年五十。詔贈散騎常侍、衛將軍、開府儀同三司,諡曰簡。

子がなく、従弟の謝奕が子の謝康を立てて爵位を継がせたが、早世した。謝康の弟の謝静がまた子の謝肅を後継ぎとしたが、また子がなかった。謝静の子の謝虔が子の謝霊佑を立てて謝鯤の後を継がせた。

原文無子,從弟奕以子康襲爵,早卒。康弟靜復以子肅嗣,又無子。靜子虔以子靈佑繼鯤後。

謝安しゃあん

原文謝安

謝安は、字を安石といい、謝尚の従弟である。父は謝裒で、太常卿であった。謝安が四歳の時、譙郡の桓彝が彼を見て感嘆して言った。「この子は風采と精神が秀麗で透徹しており、後年は王東海(王承)に劣らないだろう。」子供の髪型を結う年頃になると、精神と識見は沈着で鋭敏、風貌は筋が通ってのびやかで、行書を得意とした。弱冠の年、王蒙を訪ね、清談を長く交わした。去った後、王蒙の子の王修が言った。「さっきの客は父上と比べてどうでしたか。」王蒙は言った。「この客は勤勉で、やって来ては人を圧倒する。」王導もまた彼を深く評価した。これによって若くして重い名声があった。

原文謝安,字安石,尚從弟也。父裒,太常卿。安年四歲時,譙郡桓彝見而歎曰:「此兒風神秀徹,後當不減王東海。」及總角,神識沈敏,風宇條暢,善行書。弱冠,詣王蒙,清言良久,既去,蒙子修曰:「向客何如大人?」蒙曰:「此客亹亹,為來逼人。」王導亦深器之。由是少有重名。

初めに司徒府に辟召され、佐著作郎に任じられたが、いずれも病気を理由に辞退した。会稽かいけいに寓居し、王羲之おうぎしや高陽の許詢、沙門の支遁と交遊し、外に出れば山水で漁や狩りを楽しみ、内に入れば詩文を詠じ著述にふけり、世に出ようとする意志はなかった。揚州刺史の庾冰は謝安に重い名声があるのを聞き、どうしても招こうとし、たびたび郡県に命じて強く催促させたため、やむを得ず召しに応じたが、一か月余りで帰郷を願い出た。再び尚書郎・琅邪王友に任じられたが、いずれも就任しなかった。吏部尚書の范汪が謝安を吏部郎に推挙したが、謝安は手紙で断った。役所が謝安が召しに応じず、長年にわたって赴任しないことを上奏し、終身の禁錮に処せられたため、東の地に隠棲した。かつて臨安の山中に行き、石室に座り、深い谷を臨んで、悠然と嘆じて言った。「ここは伯夷からどれほど遠いことか!」かつて孫綽らと海に船を浮かべたとき、風が起こり波が荒れたが、一同はみな恐れたが、謝安は吟詠し嘯き、平然としていた。船頭は謝安が楽しんでいると思い、なおも進み続けた。風がますます激しくなると、謝安はゆっくりと言った。「このままではどうやって帰ろうか?」船頭はその言葉を受けてすぐに引き返した。一同はみなその雅量に感服した。謝安は丘壑に心を遊ばせていたが、遊覧するときは必ず妓女を従えた。たびたび辟召されても就任しなかったので、簡文帝が宰相であったとき、「安石(謝安)は人とともに楽しむ者だから、必ずや人とともに憂いを分かち合わざるを得ない。召せば必ず来るだろう」と言った。当時、謝安の弟の謝万が西中郎将として、藩鎮の重任を統べていた。謝安は隠棲の身であったが、その名声はなお謝万を上回り、自然と公輔(三公や宰相)となることが期待され、家庭では常に儀礼と模範をもって子弟を訓育した。謝安の妻は劉惔の妹であったが、家門が富貴であるのを見て、謝安だけが静かに退いているのを言った。「夫たる者はこのようではないのでは?」謝安は鼻を押さえて言った。「どうやら免れられそうにないな」。そして謝万が罷免されると、謝安は初めて仕官を志すようになり、そのときすでに四十歳を過ぎていた。

原文初辟司徒府,除佐著作郎,並以疾辭。寓居會稽,與王羲之及高陽許詢、桑門支遁遊處,出則漁弋山水,入則言詠屬文,無處世意。揚州刺史庾冰就以安有重名,必欲致之,累下郡縣敦逼,不得已赴召,月餘告歸。復除尚書郎、琅邪王友,並不起。吏部尚書范汪舉安為吏部郎,安以書距絕之。有司奏安被召,歷年不至,禁錮終身,遂棲遲東土。嘗往臨安山中,坐石室,臨浚谷,悠然歎曰:「此去伯夷何遠!」嘗與孫綽等泛海,風起浪湧,諸人並懼,安吟嘯自若。舟人以安為悅,猶去不止。風轉急,安徐曰:「如此將何歸邪?」舟人承言即回。眾咸服其雅量。安雖放情丘壑,然每遊賞,必以妓女從。既累辟不就,簡文帝時為相,曰:「安石既與人同樂,必不得不與人同憂,召之必至。」時安弟萬為西中郎將,總籓任之重。安雖處衡門,其名猶出萬之右,自然有公輔之望,處家常以儀範訓子弟。安妻,劉惔妹也,既見家門富貴,而安獨靜退,乃謂曰:「丈夫不如此也?」安掩鼻曰:「恐不免耳。」及萬黜廢,安始有仕進志,時年已四十餘矣。

征西大将軍の桓温かんおんが司馬に請じた。新亭を出発するとき、朝士たちがみな見送りに来たが、中丞の高崧が戯れて言った。「卿はたびたび朝廷の旨に背き、東山に高く臥していた。人々はいつも互いに言っていた。安石が出てこないなら、天下の民をどうするつもりか、と。天下の民も今、卿をどうしようかと思っているだろう!」謝安は非常に恥じ入った。到着すると、桓温は大いに喜び、生い立ちを語り合い、一日中笑い楽しんだ。退出した後、桓温は左右の者に尋ねた。「かつて私にこのような客がいたのを見たことがあるか?」後に桓温が謝安を訪ねたとき、ちょうど謝安が髪を梳いているところだった。謝安の性質はゆっくりとしており、長い時間をかけてようやく終え、幘を取らせた。桓温はそれを見て、留めて言った。「司馬に帽子を着けて進ませよ」。そのように重んじられた。桓温が北征しようとしたとき、ちょうど謝万が病死したので、謝安は手紙を出して帰郷を求めた。まもなく呉興太守に任じられた。在官中には当時の称賛はなかったが、去った後に人々に懐かしがられた。ほどなくして侍中に召され、吏部尚書・中護軍に転じた。

原文征西大將軍桓溫請為司馬,將發新亭,朝士咸送,中丞高崧戲之曰:「卿累違朝旨,高臥東山,諸人每相與言,安石不肯出,將如蒼生何!蒼生今亦將如卿何!」安甚有愧色。既到,溫甚喜,言生平,歡笑竟日。既出,溫問左右:「頗嘗見我有如此客不?」溫後詣安,值其理髮。安性遲緩,久而方罷,使取幘。溫見,留之曰:「令司馬著帽進。」其見重如此。溫當北征,會萬病卒,安投箋求歸。尋除吳興太守。在官無當時譽,去後為人所思。頃之徵拜侍中,遷吏部尚書、中護軍。

簡文帝が病篤くなると、桓温は上疏して謝安が顧命を受けるべきであると推薦した。帝が崩御すると、桓温は山陵に赴くために入朝し、新亭に留まり、大いに兵衛を並べ、晋王室を転覆させようと企み、謝安と王坦之を呼び出し、座席で害そうとした。王坦之は非常に恐れ、謝安に計略を尋ねた。謝安は神色を変えず、言った。「晋の国運の存亡は、この一行にかかっている」。桓温に会うと、王坦之は汗が衣に滲み、手版を逆さに持った。謝安は悠然と席に着き、坐り定まると、桓温に言った。「安は聞くところによれば、諸侯に道があれば、四方の隣国を守るという。明公はどうして壁の後ろに人を置く必要があるのですか?」桓温は笑って言った。「ただそうせざるを得ないだけだ」。そして笑い語り合って日が暮れた。王坦之と謝安は初めは名声を並べていたが、この時になって初めて王坦之の劣っていることを知った。桓温はかつて謝安が作った簡文帝の諡議を座の賓客に示して言った。「これは謝安石の碎金(優れた断片)である」。

原文簡文帝疾篤,溫上疏薦安宜受顧命。及帝崩,溫入赴山陵,止新亭,大陳兵衛,將移晉室,呼安及王坦之,欲於坐害之。坦之甚懼,問計于安。安神色不變,曰:「晉祚存亡,在此一行。」既見溫,坦之流汗沾衣,倒執手版。安從容就席,坐定,謂溫曰:「安聞諸侯有道,守在四鄰,明公何須壁後置人邪?」溫笑曰:「正自不能不爾耳。」遂笑語移日。坦之與安初齊名,至是方知坦之之劣。溫嘗以安所作簡文帝諡議以示坐賓,曰:「此謝安石碎金也。」

当時、孝武帝は若年で、政治を自ら行わず、桓温の威勢は内外に震い、人々の噂はさまざまに飛び交い、互いに異なる意見が生じていた。謝安と王坦之は忠誠を尽くして補佐し、ついに和睦を実現させた。桓温が病篤くなると、朝廷に九錫きゅうしゃくを加えるようほのめかし、袁宏に草案を作らせた。謝安はそれを見ると、すぐに改めさせたため、十日経っても完成しなかった。ちょうど桓温が薨去したので、九錫の命は取りやめとなった。

原文時孝武帝富於春秋,政不自己,溫威振內外,人情噂𠴲,互生同異。安與坦之盡忠匡翼,終能輯穆。及溫病篤,諷朝廷加九錫,使袁宏具草。安見,輒改之,由是曆旬不就。會溫薨,錫命遂寢。

まもなく尚書僕射となり、吏部を管轄し、後将軍を加えられた。中書令の王坦之が徐州刺史として出向すると、詔により謝安が中書の事務を総括することになった。謝安は補導の意義を重んじ、会稽王の司馬道子でさえもその補佐調和の益を頼りにした。当時、強敵が国境を侵し、辺境からの急報が続々と届き、梁州・益州は守られず、樊城・鄧県は陥落したが、謝安は常に和やかで静かな態度で鎮め、長期的な計略で防禦した。徳政が行き渡ると、文武の官は命令に従い、細かい点にこだわらず、大綱を広く取り、威徳は外にも表れ、人々はみな王導に比べ、文雅の点では王導を上回ると言った。かつて王羲之と冶城に登り、悠然と遠くを想い、世俗を超えた志を抱いた。王羲之が言った。「夏の禹王は王事に勤勉で、手足には胼胝ができた。文王は遅くまで食事もとれず、日々忙しかった。今、四方に多くの軍営が築かれている。自ら尽くすことを考えるべきである。虚談が実務を廃し、浮華な文が要務を妨げるのは、おそらく当今の時宜に適わないだろう」。謝安は言った。「秦が商鞅を任用して、二世で滅んだ。それは清談が禍をもたらしたのだろうか?」

原文尋為尚書僕射,領吏部,加後將軍。及中書令王坦之出為徐州刺史,詔安總關中書事。安義存輔導,雖會稽王道子亦賴弼諧之益。時強敵寇境,邊書續至,梁益不守,樊鄧陷沒,安每鎮以和靖,禦以長算。德政既行,文武用命,不存小察,弘以大綱,威懷外著,人皆比之王導,謂文雅過之。嘗與王羲之登冶城,悠然遐想,有高世之志。羲之謂曰:「夏禹勤王,手足胼胝;文王旰食,日不暇給。今四郊多壘,宜思自效,而虛談廢務,浮文妨要,恐非當今所宜。」安曰:「秦任商鞅,二世而亡,豈清言致患邪?」

当時、宮殿が損壊していたので、謝安は修繕しようとした。尚書令の王彪之らが外敵の存在を諫めたが、謝安は聞き入れず、ついに独断で決行した。宮殿が完成すると、いずれも天象を模倣し、北極星に合致させており、労役に苦労や怨みはなかった。また揚州刺史を兼任し、詔により甲冑を持った兵士百人が殿中に入ることを許された。当時、帝が初めて万機を親政し始め、謝安を中書監・驃騎将軍・録尚書事に進めたが、謝安は軍号を固辞した。当時、天象が乱れ、長年にわたって大旱魃が続いたので、謝安は上奏して滅びた家を興し、絶えた家系を継がせ、晋初の佐命功臣の子孫を求め封じた。ほどなくして司徒を加えられ、後軍の文武官はすべて大府に配属されたが、また辞退して拝受しなかった。さらに侍中・都督揚豫徐兗青五州幽州之燕国諸軍事・仮節を加えられた。

原文是時宮室毀壞,安欲繕之。尚書令王彪之等以外寇為諫,安不從,竟獨決之。宮室用成,皆仰模玄象,合體辰極,而役無勞怨。又領揚州刺史,詔以甲仗百人入殿。時帝始親萬機,進安中書監、驃騎將軍、錄尚書事,固讓軍號。于時懸象失度,亢旱彌年,安奏興滅繼絕,求晉初佐命功臣後而封之。頃之,加司徒,後軍文武盡配大府,又讓不拜。復加侍中、都督揚豫徐兗青五州幽州之燕國諸軍事、假節。

当時、苻堅ふけんが強盛で、国境には多くの憂いがあり、諸将の敗退が相次いだ。謝安は弟の謝石や兄の子の謝玄らを派遣して機に応じて征討させ、行く先々で勝利を収めた。衛将軍・開府儀同三司に任じられ、建昌県公に封じられた。後に苻堅が大軍、号百万を率いて淮水・淝水のほとりに駐屯すると、京師は震え恐れた。謝安に征討大都督が加えられた。謝玄が入って計略を尋ねると、謝安は平然として恐れる色もなく、答えて言った。「すでに別に命令がある」。その後は静まり返っていた。謝玄はさらに尋ねることもできず、張玄に重ねて請わせた。謝安はそこで車を出させて山荘に向かい、親戚友人をすべて集め、ちょうど謝玄と囲碁を打って別荘を賭けていた。謝安は普段、謝玄より碁が劣っていたが、この日は謝玄が恐れていると、互角の相手となったがそれでも勝てなかった。謝安は甥の羊曇を顧みて言った。「この別荘を汝にやろう」。謝安はそこで遊歩し、夜になってようやく帰り、将帥に指示を授け、それぞれに任に当たらせた。謝玄らが苻堅を破ると、駅伝の文書が届いたが、謝安はちょうど客と囲碁を打っており、文書を見終わると、すぐに取り上げて床の上に置き、まったく喜びの色もなく、碁を打ち続けた。客が尋ねると、ゆっくりと答えて言った。「子供たちがついに賊を破ったようだ」。碁が終わると、奥に入り、敷居を跨ぐとき、内心非常に喜び、履の歯が折れたのに気づかなかった。そのように感情を偽って物事を鎮めることができたのである。統率の功績により、太保に進んだ。

原文時苻堅強盛,疆場多虞,諸將敗退相繼。安遣弟石及兄子玄等應機征討,所在克捷。拜衛將軍、開府儀同三司,封建昌縣公。堅後率眾,號百萬,次於淮肥,京師震恐。加安征討大都督。玄入問計,安夷然無懼色,答曰:「已別有旨。」既而寂然。玄不敢復言,乃令張玄重請。安遂命駕出山墅,親朋畢集,方與玄圍棋賭別墅。安常棋劣于于玄,是日懼,便為敵手而又不勝。安顧謂其甥羊曇曰:「以墅乞汝。」安遂遊涉,至夜乃還,指授將帥,各當其任。玄等既破堅,有驛書至,安方對客圍棋,看書既竟,便攝放床上,了無喜色,棋如故。客問之,徐答云:「小兒輩遂已破賊。」既罷,還內,過戶限,心喜甚,不覺屐齒之折,其矯情鎮物如此。以總統功,進拜太保。

謝安はちょうど天下の車軌と文字を統一しようとし、上疏して自ら北征することを求め、そこで都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・寧・益・雍・梁十五州諸軍事に進み、黄鉞を加えられ、本来の官職はそのままとし、従事中郎二人を置いた。謝安は上疏して太保と爵位を辞退したが、許されなかった。当時、桓沖がすでに死去し、荊州・江州の二州がともに空位となったため、世論は謝玄の功績と声望から、これらを授けるべきであるとした。謝安は父子ともに大功を立てているため、朝廷に疑われることを恐れ、また桓氏が職を失うことを恐れた。桓石虔がまた沔陽の功績があり、その驍猛さを慮り、要害の地にいて、ついには制御し難くなるかもしれないと考え、そこで桓石民を荊州とし、桓伊を中流(江州か)に改め、桓石虔を豫州とした。こうして三桓が三州を占めると、互いに恐れることもなく、それぞれがその任にふさわしかった。その遠大な計画で争わないことは、すべてこのようなものであった。

原文安方欲混一文軌,上疏求自北征,乃進都督揚、江、荊、司、豫、徐、兗、青、冀、幽、并、寧、益、雍、梁十五州軍事,加黃鉞,其本官如故,置從事中郎二人。安上疏讓太保及爵,不許。是時桓沖既卒,荊、江二州並缺,物論以玄勳望,宜以授之。安以父子皆著大勳,恐為朝廷所疑,又懼桓氏失職,桓石虔復有沔陽之功,慮其驍猛,在形勝之地,終或難制,乃以桓石民為荊州,改桓伊于中流,石虔為豫州。既以三桓據三州,彼此無恐,各得所任。其經遠無競,類皆如此。

彼は音楽を好んだが、弟の謝萬が亡くなってから十年間は音楽を聴かなかった。しかし宰相の地位に就くと、期服の喪中でも音楽を廃止しなかった。王坦之が手紙を送って諭したが従わず、士大夫たちがこれを真似たため、やがて風習となった。また、土山に別荘を営み、楼閣や館、林や竹が非常に盛んであった。いつも一族の子弟たちを連れて行き来し遊び集まり、料理にもしばしば百金を費やしたので、世間はこれを大いに非難したが、謝安はまったく気にかけなかった。彼は常に、劉牢之は単独で任せられないと考え、また王味之が一城を専任するのに適さないとも知っていた。劉牢之は反乱で最期を迎え、王味之もまた貪欲で失敗したので、これによって有識者は彼の人を見る眼に感服した。

原文性好音樂,自弟萬喪,十年不聽音樂。及登臺輔,期喪不廢樂。王坦之書喻之,不從,衣冠效之,遂以成俗。又于土山營墅,樓館林竹甚盛,每攜中外子侄往來游集,肴饌亦屢費百金,世頗以此譏焉,而安殊不以屑意。常疑劉牢之既不可獨任,又知王味之不宜專城。牢之既以亂終,而味之亦以貪敗,由是識者服其知人。

当時、会稽王司馬道子が権力を専断し、奸佞で諂う者たちが盛んに扇動し中傷していた。謝安はこれを避けるため、広陵の歩丘に出鎮し、新城と名付けた砦を築いた。皇帝は西池まで出て餞別し、杯を捧げ詩を賦した。謝安は朝廷からの重任を受けていたが、東山に隠棲したいという志は最初から最後まで変わらず、常に言葉や表情に表れていた。新城に駐屯する際には、家族全員を連れて行き、海を渡る準備を整え、経営がおおよそ定まったら、長江の水路を通って東の地に戻ろうと考えていた。この高雅な志がまだ成就しないうちに、重病にかかった。上疏して状況に応じて軍旗を返すことを請い、併せて子の征虜将軍謝琰に鎧を解き兵を休ませるよう命じ、龍驤将軍の朱序に洛陽を占拠するよう進めさせ、前鋒都督の謝玄に彭城・沛で威勢を張らせ、監督を委ねた。もし二賊(後秦の姚萇、後燕の慕容垂ぼようすいか)が延命するようなら、来年水が増す時期に、東西から同時に挙兵しようとした。詔が侍中を派遣して慰労し、やがて都に戻った。輿に乗って西州門に入ると聞いた時、本来の志が遂げられなかったことを深く慨嘆し、ため息をついて親しい者に言った。「昔、桓溫が生きていた時、私は常に全うできないのではないかと恐れていた。ある時、突然夢を見て、桓溫の輿に乗って十六里行き、一羽の白い鶏を見て止まった。桓溫の輿に乗るというのは、彼の地位を代わるということだ。十六里というのは、今から十六年を経たということだ。白い鶏は酉を主る。今、太歳が酉にある。私の病はおそらく癒えまい」。そこで上疏して位を辞したが、詔が侍中と尚書を派遣して趣旨を諭した。これより先、謝安が石頭城から出発する時、金鼓が突然壊れ、また彼の言葉には誤りがなかったのに、突然一つ間違えたので、人々も怪しんだ。まもなく薨去した。六十六歳であった。皇帝は三日間朝堂で臨喪し、東園の秘器、朝服一具、衣一襲、銭百万、布千匹、蠟五百斤を賜り、太傅を追贈され、諡は文靖といった。邸宅がなかったため、詔によって府中に葬儀の設備を整えさせた。葬儀の際には、特別な礼を加え、大司馬桓温の先例に倣った。また、苻堅を平定した功績により、廬陵郡公に改封された。

原文時會稽王道子專權,而奸諂頗相扇構,安出鎮廣陵之步丘,築壘曰新城以避之。帝出祖于西池,獻觴賦詩焉。安雖受朝寄,然東山之志始末不渝,每形於言色。及鎮新城,盡室而行,造泛海之裝,欲須經略粗定,自江道還東。雅志未就,遂遇疾篤。上疏請量宜旋旆,並召子征虜將軍琰解甲息徒,命龍驤將軍硃序進據洛陽,前鋒都督玄抗威彭沛,委以董督。若二賊假延,來年水生,東西齊舉。詔遣侍中慰勞,遂還都。聞當輿入西州門,自以本志不遂,深自慨失,因悵然謂所親曰:「昔桓溫在時,吾常懼不全。忽夢乘溫輿行十六里,見一白雞而止。乘溫輿者,代其位也。十六里,止今十六年矣。白雞主酉,今太歲在酉,吾病殆不起乎!」乃上疏遜位,詔遣侍中、尚書喻旨。先是,安發石頭,金鼓忽破,又語未嘗謬,而忽一誤,眾亦怪異之。尋薨,時年六十六。帝三日臨於朝堂,賜東園秘器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、蠟五百斤,贈太傅,諡曰文靖。以無下舍,詔府中備凶儀。及葬,加殊禮,依大司馬桓溫故事。又以平苻堅勳,更封廬陵郡公。

謝安は若い頃から名声が高く、当時の人々に多く慕われた。同郷の人で中宿県の官を罷免された者が、帰郷の途中で謝安を訪ねた。謝安が帰りの資金を尋ねると、答えて言った。「蒲葵の扇が五万本あります」。謝安はその中から一本を取り上げて手に持った。都の人士や庶民が競って買い求めたので、価格は数倍に上がった。謝安はもともと洛下の書生詠ができたが、鼻の病気があったため、声が濁っていた。名士たちはその詠を愛好したが及ばず、ある者は手で鼻を押さえて真似た。新城に至った時、城の北に堤防を築いた。後世の人はこれを追慕し、召伯埭と名付けた。

原文安少有盛名,時多愛慕。鄉人有罷中宿縣者,還詣安。安問其歸資,答曰:「有蒲葵扇五萬。」安乃取其中者捉之,京師士庶競市,價增數倍。安本能為洛下書生詠,有鼻疾,故其音濁,名流愛其詠而弗能及,或手掩鼻以斅之。及至新城,築埭於城北,後人追思之,名為召伯埭。

付記 羊曇

原文附 羊曇

羊曇は太山の人で、知名の士であり、謝安に愛され重んじられた。謝安が亡くなった後、一年間音楽をやめ、西州路を通らなかった。かつて石頭城で大いに酔い、道を支えられながら歌を歌い、気がつくと州の門前に来ていた。側近が言った。「ここは西州門です」。羊曇は悲しみの思いが止まず、馬の鞭で扉を叩き、曹子建(曹植)の詩を誦した。「生存華屋処、零落帰山丘(生きては華やかな屋敷に住み、零落して山丘に帰る)」。慟哭して去った。謝安には二人の子がいた。謝瑤と謝琰である。

原文羊曇者,太山人,知名士也,為安所愛重。安薨後,輟樂彌年,行不由西州路。嘗因石頭大醉,扶路唱樂,不覺至州門。左右白曰:「此西州門。」曇悲感不已,以馬策扣扉,誦曹子建詩曰:「生存華屋處,零落歸山丘。」慟哭而去。安有二子:瑤、琰。

謝安の子 謝瑤

原文安子 瑤

謝瑤は爵位を継ぎ、琅邪王友の官に至ったが、早世した。子の謝該が後を継ぎ、東陽太守で終わった。子がなかったので、弟の光禄勲謝模が子の謝承伯を後継ぎとしたが、罪を得て封国は除かれた。

原文瑤襲爵,官至琅邪王友,早卒。子該嗣,終東陽太守。無子,弟光祿勳模以子承伯嗣,有罪,國除。

劉裕は謝安の功績と徳が世を救ったことを考慮し、特に謝該の弟の謝澹を柴桑侯に改封し、邑千戸を与え、謝安の祭祀を奉じさせた。謝澹は若くして顕職を歴任し、桓玄が帝位を簒奪した時、謝澹を兼ねて太尉たいいとし、王謐とともに冊書を携えて姑孰に行った。元熙年間、光禄大夫となり、再び太保を兼ね、節を持ち冊書を奉じて宋に禅譲ぜんじょうした。

原文劉裕以安勳德濟世,特更封該弟澹為柴桑侯,邑千戶,奉安祀。澹少曆顯位,桓玄篡位,以澹兼太尉,與王謐俱齎冊到姑孰。元熙中,為光祿大夫,復兼太保,持節奉冊禪宋。

謝安の子 謝琰

原文安子 琰

謝琰は字を瑗度という。弱冠で貞幹と称され、風采が優れていた。従兄の護軍謝淡とは隣り合わせに住んでいたが、行き来せず、一族の子弟の中でも才能ある者数人とだけ交際した。著作郎に任じられ、秘書丞に転じ、累進して散騎常侍・侍中となった。苻堅の役(淝水の戦い)の時、謝安は謝琰に軍国に関する才能があると考え、輔国将軍として出し、精兵八千を与え、従兄の謝玄とともに陣を突き破って苻堅を撃破した。功績により望蔡公に封じられ、まもなく父の喪に服して官を去った。喪が明けると、征虜将軍・会稽内史に任じられた。しばらくして、尚書右僕射に召され、太子詹事を領し、散騎常侍を加えられ、将軍はもとのままとした。また母の喪に遭い、朝廷はその葬礼について疑義を抱いた。当時の議論では、「潘岳が賈充の妻のために『宜城宣君誄』を作り、『昔在武侯、喪礼殊倫。伉儷一体、朝儀則均(昔、武侯(賈充)の時、喪礼は特別な扱いであった。夫婦は一体であり、朝廷の儀礼は均しい)』と言っている。資給して葬るべきで、すべて太傅(謝安)の先例に依るべきである」と言われた。これより先、王珣が謝萬の娘を娶り、王珣の弟の王瑉が謝安の娘を娶ったが、いずれも終わりまで続かず、これによって謝氏と不和になった。王珣は当時僕射であったが、以前の遺恨から事を遅らせた。謝琰はこれを聞いて恥じ、自ら轀輬車を作って葬ったので、議論する者はこれを非難した。

原文琰字瑗度。弱冠以貞幹稱,美風姿。與從兄護軍淡雖比居,不往來,宗中子弟惟與才令者數人相接。拜著作郎,轉秘書丞,累遷散騎常侍、侍中。苻堅之役,安以琰有軍國才用,出為輔國將軍,以精卒八千,與從兄玄俱陷陣破堅,以勳封望蔡公,尋遭父憂去官,服闋,除征虜將軍、會稽內史。頃之。徵為尚書右僕射,領太子詹事,加散騎常侍,將軍如故。又遭母憂,朝廷疑其葬禮。時議者云:「潘岳為賈充婦《宜城宣君誄》云:'昔在武侯,喪禮殊倫。伉儷一體,朝儀則均。'謂宜資給葬,悉依太傅故事。」先是,王珣娶萬女,珣弟瑉娶安女,並不終,由是與謝氏有隙。珣時為僕射,猶以前憾緩其事。琰聞恥之,遂自造轀輬車以葬,議者譏之。

太元末年、護軍将軍となり、右将軍を加えられた。会稽王司馬道子が司馬とし、右将軍はもとのままとした。王恭が兵を挙げると、謝琰に節を与え、前鋒軍事を都督させた。王恭が平定されると、衛将軍・徐州刺史・仮節に昇進した。孫恩が乱を起こすと、呉興・義興二郡の軍事を督することを加えられ、孫恩を討伐した。義興に至り、賊の許允之を斬り、太守の魏鄢を迎えて郡に戻した。進んで呉興の賊丘尪を討ち、これを破った。また詔により謝琰は輔国将軍劉牢之とともに孫恩を討伐した。孫恩は海島に逃げた。朝廷はこれを憂い、謝琰を会稽内史・五郡軍事都督とし、本来の官職はもとのままとした。謝琰はすでに資望をもって越の地を鎮めたので、議論する者はもはや東顧の憂いがないと考えた。しかし郡に着くと、綏撫の能力がなく、武備を整えなかった。将帥は皆諫めて言った。「強賊は海におり、人の隙をうかがっています。仁風を振るい揚げ、自新の道を開くべきです」。謝琰は言った。「苻堅の百万の軍勢でさえ、淮南に送死した。ましてや孫恩が敗走して海に帰った以上、どうして再び出て来られようか。もし再び来るならば、それは天が国賊を養わず、速やかに誅戮に就かせるということだ」。ついにその意見に従わなかった。孫恩は果たして再び浹口を寇し、余姚に入り、上虞を破り、進んで邢浦に至り、山陰の北三十五里の所に来た。謝琰は参軍劉宣之を派遣して孫恩を防ぎ破った。その後、上党太守張虔碩が戦いに敗れ、賊軍が鋭く進撃し、人心が震駭した。皆、慎重に厳重に備え、かつ南湖に水軍を並べ、兵を分けて伏兵を設けて待つべきだと考えた。謝琰は聞き入れなかった。賊が到着した時、まだ食事をしていなかったが、謝琰は言った。「まずこの賊を滅ぼしてから食事をしよう」。馬に跨って出撃した。広武将軍桓宝が前鋒となり、鋒を摧き陣を陷れ、多くの賊を殺した。しかし塘路が狭く、謝琰の軍は縦列で前進し、賊は艦中から傍らから射かけ、前後が分断された。謝琰は千秋亭に至り、大敗した。謝琰の帳下都督張猛が後ろから謝琰の馬を斬り、謝琰は地面に落ち、二人の子の謝肇・謝峻とともに殺害され、桓宝も戦死した。後、劉裕が左裏で勝利し、張猛を生け捕りにし、謝琰の末子の謝混に送った。謝混はその肝を抉り出して生で食べた。詔により、謝琰父子が君主と親のために命を落としたこと、忠孝が一門に集まったことを以て、謝琰に侍中・司空しくうを追贈し、諡を忠肅といった。

原文太元末,為護軍將軍,加右將軍。會稽王道子以為司馬,右將軍如故。王恭舉兵,假琰節,都督前鋒軍事。恭平,遷衛將軍、徐州刺史、假節。孫恩作亂,加督吳興、義興二郡軍事,討恩。至義興,斬賊許允之,迎太守魏鄢還郡。進討吳興賊丘尪,破之。又詔琰與輔國將軍劉牢之俱討孫恩。恩逃於海島,朝廷憂之,以琰為會稽內史、都督五郡軍事,本官並如故。琰既以資望鎮越土,議者謂無復東顧之虞。及至郡,無綏撫之能,而不為武備。將帥皆諫曰:「強賊在海,伺人形便,宜振揚仁風,開其自新之路。」琰曰:「苻堅百萬,尚送死淮南,況孫恩奔衄歸海,何能復出!若其復至,正是天不養國賊,令速就戮耳。」遂不從其言。恩後果復寇浹口,入余姚,破上虞,進及邢浦,去山陰北三十五里。琰遣參軍劉宣之距破恩。既而上党太守張虔碩戰敗,群賊銳進,人情震駭,咸以宜持重嚴備,且列水軍于南湖,分兵設伏以待之。琰不聽。賊既至,尚未食,琰曰:「要當先滅此寇而後食也。」跨馬而出。廣武將軍桓寶為前鋒,摧鋒陷陣,殺賊甚多,而塘路迮狹,琰軍魚貫而前,賊於艦中傍射之,前後斷絕。琰至千秋亭,敗績。琰帳下都督張猛于後斫琰馬,琰墮地,與二子肇、峻俱被害,寶亦死之。後劉裕左裏之捷,生擒猛,送琰小子混,混刳肝生食之。詔以琰父子隕于君親,忠孝萃於一門,贈琰侍中、司空,諡曰忠肅。

三人の子:謝肇、謝峻、謝混。謝肇は驃騎参軍を歴任し、謝峻は謝琰の功績により建昌侯に封じられた。賊のために没すると、詔により謝肇に散騎常侍を、謝峻に散騎侍郎を追贈した。

原文三子:肇、峻、混。肇曆驃騎參軍,峻以琰勳封建昌侯。及沒於賊,詔贈肇散騎常侍,峻散騎侍郎。

謝琰の子 謝混

原文琰子 混

混は字を叔源という。若い頃から美しい評判があり、文章をよく綴った。初め、孝武帝が晉陵公主のために婿を求め、王珣に言った。「主君の婿は劉真長や王子敬のような者で十分だ。王處仲や桓元子のような者も確かに良いが、少し富貴を得るとすぐに他家のことに干渉する。」珣は答えて言った。「謝混は真長には及ばないが、子敬には劣りません。」帝は言った。「それで十分だ。」間もなく、帝が崩御し、袁山松が娘を彼に嫁がせようとした。珣は言った。「卿、禁臠に近づくな。」初め、元帝が建業を鎮守し始めた時、公私ともに困窮し、豚を一頭得るごとに珍しい料理とし、首の上の一きれが特に美味で、いつも帝に献上し、臣下たちは敢えて食べなかった。当時、これを「禁臠」と呼んだので、珣はそれをもじって戯れたのである。混はついに公主を娶り、父の爵位を継いだ。桓玄がかつて謝安の邸宅を兵営にしようとしたことがあった。混は言った。「召伯の仁であっても、なお甘棠に恵みが及んだ。文靖(謝安)の徳は、五畝の邸宅さえ保てないのか?」玄はこれを聞き、恥じてやめた。中書令、中領軍、尚書左僕射、選挙を領すを歴任した。劉毅の党与として誅殺され、封国は除かれた。宋が禅譲を受けた時、謝晦が劉裕に言った。「陛下は天に応じて天命を受けられましたが、壇に登られた日に謝益寿が璽綬を奉じられなかったのが残念です。」裕もまた嘆いて言った。「私は非常にそれを残念に思う。後世の者が彼の風流を見られないとは!」益寿は、混の幼名である。

原文混字叔源。少有美譽,善屬文。初,孝武帝為晉陵公主求婿,謂王珣曰:「主婿但如劉真長、王子敬便足。如王處仲、桓元子誠可,才小富貴,便豫人家事。」珣對曰:「謝混雖不及真長,不減子敬。」帝曰:「如此便足。」未幾,帝崩,袁山松欲以女妻之,珣曰:「卿莫近禁臠。」初,元帝始鎮建業,公私窘罄,每得一㹠,以為珍膳,項上一臠尤美,輒以薦帝,群下未嘗敢食,于時呼為「禁臠」,故珣因以為戲。混竟尚主,襲父爵。桓玄嘗欲以安宅為營,混曰:「召伯之仁,猶惠及甘棠;文靖之德,更不保五畝之宅邪?」玄聞,慚而止。歷中書令、中領軍、尚書左僕射、領選。以党劉毅誅,國除。及宋受禪,謝晦謂劉裕曰:「陛下應天受命,登壇日恨不得謝益壽奉璽紱。」裕亦歎曰:「吾甚恨之,使後生不得見其風流!」益壽,混小字也。

安の兄、奕

原文安兄 奕

奕は字を無奕という。若い頃から名声があった。初め剡県令となり、老人が法を犯した。奕は濃い酒を飲ませ、酔ってもまだやめなかった。安は当時七、八歳で、奕の膝のそばにいて、それを止めるよう諫めた。奕は顔色を改め、彼を帰した。桓溫と親しくした。溫は彼を安西司馬に辟召したが、依然として布衣の時のよしみを推し進めた。溫の座にいる時、幘を額に上げて笑い詠じ、平常と変わらなかった。桓溫は言った。「彼は我が方外の司馬だ。」奕はしばしば酒の勢いで、朝廷の礼を顧みなくなり、かつて溫に酒を強いて飲ませようとし、溫は南康公主の門に逃げ込んで避けた。公主は言った。「あなたに狂った司馬がいなかったら、私はどうしてあなたにお会いできたでしょうか!」奕はそこで酒を持って政庁に行き、溫の配下の兵士の一人の隊長を引き連れて共に飲み、言った。「老兵を一人失い、老兵を一人得た。何の不思議もない。」溫は彼を責めなかった。従兄の尚は善政を行い、没した後、西方の国境の人々に慕われた。朝廷の議論では、奕は平素から行いを確立しており、必ずや尚の事跡を継ぐことができるだろうとして、都督豫司冀並四州軍事、安西将軍、豫州刺史、仮節に遷した。間もなく、官のまま没し、鎮西将軍を追贈された。

原文奕字無奕,少有名譽。初為剡令,有老人犯法,奕以醇酒飲之,醉猶未已。安時年七八歲,在奕膝邊,諫止之。奕為改容,遣之。與桓溫善。溫辟為安西司馬,猶推布衣好。在溫坐,岸幘笑詠,無異常日。桓溫曰:「我方外司馬。」奕每因酒,無復朝廷禮,嘗逼溫飲,溫走入南康主門避之。主曰:「君若無狂司馬,我何由得相見!」奕遂攜酒就聽事,引溫一兵帥共飲,曰:「失一老兵,得一老兵,亦何所怪。」溫不之責。從兄尚有德政,既卒,為西蕃所思,朝議以奕立行有素,必能嗣尚事,乃遷都督豫司冀並四州軍事、安西將軍、豫州刺史、假節。未幾。卒官,贈鎮西將軍。

三人の子:泉、靖、玄。泉は早くから名声があり、義興太守を歴任した。靖は太常まで官位が至った。

原文三子:泉、靖、玄。泉早有名譽,曆義興太守。靖官至太常。

奕の子、玄

原文奕子 玄

玄は字を幼度という。幼少の頃から聡明で悟りが早く、従兄の朗と共に叔父の安に重んじられた。安はかつて子や甥たちを戒め諭し、ついでに言った。「子弟たちはどうして人のことに干渉する必要があろうか、ただ彼らを立派にしたいだけなのだが?」誰も答える者がいなかった。玄は答えて言った。「ちょうど芝蘭や玉樹を、庭の階段のそばに生えさせたいと思うようなものです。」安は喜んだ。玄は若い頃、紫羅の香袋を帯びるのを好んだ。安はそれを心配したが、彼の気持ちを傷つけたくなく、戯れて賭けで取り上げると、すぐに焼いてしまい、これでやめた。

原文玄字幼度。少穎悟,與從兄朗俱為叔父安所器重。安嘗戒約子侄,因曰:「子弟亦何豫人事,而正欲使其佳?」諸人莫有言者。玄答曰:「譬如芝蘭玉樹,欲使其生於庭階耳。」安悅。玄少好佩紫羅香囊,安患之,而不欲傷其意,因戲賭取,即焚之,於此遂止。

成長すると、国を治める才略があり、たびたび辟召されたが応じなかった。後に王珣と共に桓溫に掾属として辟召され、共に礼遇されて重んじられた。征西将軍桓豁の司馬に転じ、南郡相を領し、北征諸軍事を監した。当時、苻堅が強盛で、辺境はたびたび侵寇され、朝廷は北方を鎮め守ることができる文武の良将を求めていた。安はそこで玄を推挙した。中書郎の郗超は平素から玄と仲が良くなかったが、これを聞いて嘆き、言った。「安が衆に背いて親族を推挙するのは、明らかである。玄は必ず推挙に背かないだろう、才能があるからだ。」当時、皆がそうは思わなかった。超は言った。「私はかつて玄と共に桓公(桓溫)の府にいて、彼が才能を使うのを見た。履物の間のことでも適任を得ている。だからこそ知っているのだ。」そこで召還され、建武将軍、兗州刺史、広陵相を領し、江北諸軍事を監することを拝命した。

原文及長,有經國才略,屢辟不起。後與王珣俱被桓溫辟為掾,並禮重之。轉征西將軍桓豁司馬、領南郡相、監北征諸軍事。于時苻堅強盛,邊境數被侵寇,朝廷求文武良將可以鎮禦北方者,安乃以玄應舉。中書郎郗超雖素與玄不善,聞而歎之,曰:「安違眾舉親,明也。玄必不負舉,才也。」時咸以為不然。超曰:「吾嘗與玄共在桓公府,見其使才,雖履屐間亦得其任,所以知之。」於是征還,拜建武將軍、兗州刺史、領廣陵相、監江北諸軍事。

当時、苻堅が軍を派遣して襄陽じょうようを包囲し、車騎将軍桓沖がこれを防いでいた。詔により玄は三州の人丁を動員し、彭城内史何謙に遊軍を率いさせて淮泗に進出させ、形勢上の援護とした。襄陽が陥落した後、堅の将軍彭超が彭城で龍驤将軍戴逯を攻撃した。玄は東莞太守高衡、後軍将軍何謙を率いて泗口に駐屯し、密使を派遣して逯に知らせ、救援が来たことを知らせようとしたが、その道がなかった。小将の田泓が行くことを請うた。そこで水に潜って密かに進み、城に向かおうとしたが、賊に捕らえられた。賊は泓に多額の賄賂を与え、「南軍はすでに敗れた」と言わせようとした。泓は偽って承諾した。やがて城中に告げて言った。「南軍がまさに到着しようとしている。私は単身で報告に来たが、賊に捕らえられた。頑張れ!」そして殺害された。当時、彭超は輜重を留城に置いていた。玄はそこで声を張り上げて謙らを留城に向かわせると言い触らした。超はこれを聞き、輜重を守るために引き返した。謙は急進し、彭城の包囲を解いた。超は再び軍を進めて南侵し、堅の将軍句難、毛当が襄陽から来て合流した。超は三阿で幽州刺史田洛を包囲し、六万の兵を有した。詔により征虜将軍謝石が水軍を率いて塗中に駐屯し、右衛将軍毛安之、遊撃将軍河間王曇之、淮南太守楊広、宣城内史丘准が堂邑に駐屯した。やがて盱眙城が陥落し、高密内史毛藻が戦死し、安之らの軍は互いに驚き、それぞれ散り散りに退却し、朝廷は震動した。玄はそこで広陵から西進して難らを討った。何謙が田洛の包囲を解き、白馬を占拠して進み、賊と大戦し、これを破り、その偽将の都顔を斬った。さらに進撃し、またこれを破り、その偽将の邵保を斬った。超、難は退却した。玄は何謙、戴逯、田洛を率いて追撃し、君川で戦い、再び大破した。玄の参軍劉牢之が浮橋と白船を攻め破り、督護の諸葛侃、単父県令李都がまたその輸送艦を破った。難らは相次いで北に逃げ、かろうじて身一つで免れた。ここにおいて彭城、下邳の二つの守備を廃止した。詔により殿中将军が慰労に遣わされ、称号を冠軍将軍に進め、徐州刺史を加領され、広陵に戻り、功績により東興県侯に封ぜられた。

原文時苻堅遣軍圍襄陽,車騎將軍桓沖禦之。詔玄發三州人丁,遣彭城內史何謙遊軍淮泗,以為形援。襄陽既沒,堅將彭超攻龍驤將軍戴逯于彭城。玄率東莞太守高衡、後軍將軍何謙次於泗口,欲遣間使報逯,令知救至,其道無由。小將田泓請行,乃沒水潛行,將趣城,為賊所獲。賊厚賂泓,使云「南軍已敗」。泓偽許之。既而告城中曰:「南軍垂至,我單行來報,為賊所得,勉之!」遂遇害。時彭超置輜重於留城,玄乃揚聲遣謙等向留城。超聞之,還保輜重。謙馳進,解彭城圍。超復進軍南侵,堅將句難、毛當自襄陽來會。超圍幽州刺史田洛于三阿,有眾六萬。詔征虜將軍謝石率水軍次塗中,右衛將軍毛安之、遊擊將軍河間王曇之、淮南太守楊廣、宣城內史丘准次堂邑。既而盱眙城陷,高密內史毛藻沒,安之等軍人相驚,遂各散退,朝廷震動。玄於是自廣陵西討難等。何謙解田洛圍,進據白馬,與賊大戰,破之,斬其偽將都顏。因復進擊,又破之。斬其偽將邵保。超、難引退。玄率何謙、戴逯、田洛追之,戰於君川,復大破之。玄參軍劉牢之攻破浮航及白船,督護諸葛侃、單父令李都又破其運艦。難等相率北走,僅以身免。於是罷彭城、下邳二戍。詔遣殿中將軍慰勞,進號冠軍,加領徐州刺史,還于廣陵,以功封東興縣侯。

苻堅が自ら兵を率いて項城に駐屯し、その軍勢は百万と号したが、涼州の軍はようやく咸陽に到着し、蜀漢の軍は長江を下り、幽州・并州の軍も続々と到着した。先に苻融、慕容暐、張蠔、苻方らを潁口に派遣し、梁成、王顕らを洛澗に駐屯させた。詔により謝玄を前鋒都督、徐・兗・青三州および揚州の晉陵、幽州の燕国の諸軍事を都督するものとし、叔父の征虜将軍謝石、従弟の輔国将軍謝琰、西中郎将桓伊、龍驤将軍檀玄、建威将軍戴熙、揚武将軍陶隠らとともにこれを防ぎ、軍勢は合わせて八万であった。謝玄はまず広陵相劉牢之に五千人を率いさせて洛澗を直撃させ、ただちに梁成とその弟の梁雲を斬り、歩兵・騎兵は崩壊し、争って淮水に逃げ込んだ。劉牢之は兵を放って追撃し、苻堅の偽将である梁他、王顕、梁悌、慕容屈氏らを生け捕りにし、その軍需物資を接収した。苻堅は進軍して寿陽に駐屯し、肥水に臨んで陣を布いたため、謝玄の軍は渡河できなかった。謝玄は使者を遣わして苻融に言った。「貴公は遠く我が境に踏み込み、水辺に陣を布いている。これは速戦を望まないからだ。諸君が少し退き、将兵に戦闘の余地を与えてくれれば、私も諸君とともに手綱を緩めてこれを見物しようではないか。楽しからずや!」苻堅の軍勢は皆言った。「肥水を防ぎ、上流に上がらせてはなりません。我々は多く、彼らは少ない。情勢は必ず万全です。」苻堅は言った。「ただ軍を退かせ、渡河させてやれ。そして我が数十万の鉄騎を水辺に向かわせ、追い詰めて殲滅するのだ。」苻融ももっともだと思い、そこで旗を振って陣を退かせた。兵士たちは混乱して止めることができなかった。そこで謝玄は謝琰、桓伊らとともに精鋭八千を率いて肥水を渡った。謝石の軍は張蠔と対峙し、少し後退した。謝玄と謝琰はなおも前進し、肥水の南で決戦した。苻堅は流れ矢に当たり、苻融は陣前で斬られた。苻堅の軍勢は敗走し、互いに踏みつけ合い、水に飛び込んで死ぬ者は数えきれず、肥水はそれで流れが止まったほどであった。残った兵士は鎧を捨てて夜逃げし、風の音や鶴の鳴き声を聞くたびに、みな朝廷の軍がもう来たと思い、草むらをかき分け野宿し、さらに飢えと寒さが重なり、死者は十のうち七、八に及んだ。苻堅の乗輿である雲母車、儀礼用の服飾、器械、軍需物資、珍宝が山と積まれ、牛・馬・驢・騾・駱駝は十万余りに上った。詔により殿中将军が慰労に遣わされた。前将軍の号を加えられ、仮節を与えられたが、固辞して受けなかった。銭百万、彩絹千匹を賜った。

原文及苻堅自率兵次於項城,眾號百萬,而涼州之師始達咸陽,蜀漢順流,幽并系至。先遣苻融、慕容暐、張蠔、苻方等至潁口,梁成、王顯等屯洛澗。詔以玄為前鋒、都督徐兗青三州揚州之晉陵幽州之燕國諸軍事,與叔父征虜將軍石、從弟輔國將軍琰、西中郎將桓伊、龍驤將軍檀玄、建威將軍戴熙、揚武將軍陶隱等距之,眾凡八萬。玄先遣廣陵相劉牢之五千人直指洛澗,即斬梁成及成弟雲,步騎崩潰,爭赴淮水。牢之縱兵追之,生擒堅偽將梁他、王顯、梁悌、慕容屈氏等,收其軍實。堅進屯壽陽,列陣臨肥水,玄軍不得渡。玄使謂苻融曰:「君遠涉吾境,而臨水為陣,是不欲速戰。諸君稍卻,令將士得周旋,僕與諸君緩轡而觀之,不亦樂乎!」堅眾皆曰:「宜阻肥水,莫令得上。我眾彼寡,勢必萬全。」堅曰:「但卻軍,令得過,而我以鐵騎數十萬向水,逼而殺之。」融亦以為然,遂麾使卻陣,眾因亂不能止。於是玄與琰、伊等以精銳八千涉渡肥水。石軍距張蠔,小退。玄、琰仍進,決戰肥水南。堅中流矢,臨陣斬融。堅眾奔潰,自相蹈藉投水死者不可勝計,肥水為之不流。餘眾棄甲宵遁,聞風聲鶴唳,皆以為王師已至,草行露宿,重以饑凍,死者十七八。獲堅乘輿雲母車,儀服、器械、軍資、珍寶山積,牛馬驢騾駱駝十萬餘。詔遣殿中將軍慰勞。進號前將軍、假節,固讓不受。賜錢百萬,彩千匹。

その後、謝安が苻堅が敗北喪失したことを上奏し、その隙に乗じるべきであるとし、謝玄を前鋒都督とし、冠軍将軍桓石虔を率いて渦水・潁水を経て旧都を攻略させようとした。謝玄はまた軍勢を率いて彭城に駐屯し、参軍劉襲を遣わして鄄城で苻堅の兗州刺史張崇を攻撃し、これを敗走させ、劉牢之に鄄城を守らせた。兗州が平定されると、謝玄は水路が険しく、糧食の輸送が困難なことを憂い、督護聞人奭の献策を用いて呂梁の水を堰き止め、柵を立て、七つの堤(埭)を築いて分流させ、両岸の流れをせき止めて水運を便利にし、これ以降、公私ともに利便を得た。また青州を攻伐したので、これを青州派と呼んだ。淮陵太守高素に三千人を率いさせて広固に向かわせ、苻堅の青州刺史苻朗を降伏させた。さらに冀州を攻伐し、龍驤将軍劉牢之、済北太守丁匡に碻磝を占拠させ、済陽太守郭満に滑台を占拠させ、奮武将軍顔雄に黄河を渡って営を築かせた。苻堅の子苻丕は将軍桑拠を遣わして黎陽に駐屯させた。謝玄は劉襲に命じて夜襲をかけ、これを敗走させた。苻丕は慌てふためいて降伏しようとしたので、謝玄はこれを許した。苻丕が飢えを訴えたので、謝玄は苻丕に米二千斛を送った。また晉陵太守滕恬之を遣わして黄河を渡り黎陽を守らせ、三魏(魏郡・陽平・広平)は皆降伏した。兗州、青州、司州、豫州が平定されたことを以て、謝玄に徐・兗・青・司・冀・幽・并の七州軍事の都督を加えた。謝玄は上疏して、河北を平定したばかりであり、幽州・冀州は総督を必要とし、司州は遠く離れているので、豫州を統轄すべきであると述べた。功績により康楽県公に封じられた。謝玄は、先に封じられた東興侯の爵位を兄の子謝玩に賜るよう請い、詔はこれを聞き入れ、謝玩を豫甯伯に改封した。また甯遠将軍{夭曰}演を遣わして魏郡の申凱を討伐し、これを破った。謝玄は豫州刺史硃序に梁国を鎮守させ、自分は彭城に駐在し、北は黄河を固め、西は洛陽を援け、内では朝廷を守ろうと考えた。朝廷の議論では、征戦が既に長く続いているので、守備兵を置いて帰還し、謝玄を淮陰に還鎮させ、硃序を寿陽に鎮守させるべきであるとした。ちょうど翟遼が黎陽を占拠して反乱を起こし、滕恬之を捕らえ、また泰山太守張願が郡を挙げて反逆したため、河北は騒然となった。謝玄は自ら処置を誤ったと考え、上疏して節を返上し、すべての職務の解任を求めた。詔は慰労し、しばらく淮陰に還鎮するよう命じ、硃序に代わって彭城を鎮守させた。

原文既而安奏苻堅喪敗,宜乘其釁會,以玄為前鋒都督,率冠軍將軍桓石虔徑造渦潁,經略舊都。玄復率眾次於彭城,遣參軍劉襲攻堅兗州刺史張崇于鄄城,走之,使劉牢之守鄄城。兗州既平,玄患水道險澀,糧運艱難,用督護聞人奭謀,堰呂梁水,樹柵,立七埭為派,擁二岸之流,以利運漕,自此公私利便。又進伐青州,故謂之青州派。遣淮陵太守高素以三千人向廣固,降堅青州刺史苻朗。又進伐冀州,遣龍驤將軍劉牢之、濟北太守丁匡據碻磝,濟陽太守郭滿據滑台,奮武將軍顏雄渡河立營。堅子丕遣將桑據屯黎陽。玄命劉襲夜襲據,走之。丕惶遽欲降,玄許之。丕告饑,玄饋丕米二千斛。又遣晉陵太守滕恬之渡河守黎陽,三魏皆降。以兗、青、司、豫平,加玄都督徐、兗、青、司、冀、幽、并七州軍事。玄上疏以方平河北,幽冀宜須總督,司州縣遠,應統豫州。以勳封康樂縣公。玄請以先封東興侯賜兄子玩,詔聽之,更封玩豫甯伯。復遣甯遠將軍{夭曰}演伐申凱于魏郡,破之。玄欲令豫州刺史硃序鎮梁國,玄住彭城,北固河上,西援洛陽,內籓朝廷。朝議以征役既久,宜置戍而還,使玄還鎮淮陰,序鎮壽陽。會翟遼據黎陽反,執滕恬之,又泰山太守張願舉郡叛,河北騷動,玄自以處分失所,上疏送節,盡求解所職。詔慰勞,令且還鎮淮陰,以硃序代鎮彭城。

謝玄は帰還した後、病気にかかり、上疏して職務を解くよう請うたが、詔書は許さなかった。謝玄はまた自ら陳述し、既に職務を執ることができず、職務の怠慢を懸念すると述べた。詔はまた東陽城に移鎮するよう命じた。謝玄は出発し、道中で病状が重篤になったため、上疏して言った。

原文玄既還,遇疾,上疏解職,詔書不許。玄又自陳,既不堪攝職,慮有曠廢,詔又使移鎮東陽城。玄即路,於道疾篤,上疏曰:

臣は凡人であり、世を補佐する才能もなく、突然に格別の恩遇を蒙り、自らの力量を考えず、軍政に従事しました。十年間駆け回り、鳴鏑の危険を辞さず、征戦があるたびに、常に軍の先鋒を請い、恩寵の厚さに身を忘れ、死をも甘んじて生きているかのようにしてきました。ほんのわずかでも、栄誉と寵愛に報いたいと願っておりました。天が大晉を助け、王の威光がたびたび輝いたのは、実に陛下の神武英断によるもので、服さないものはありませんでした。亡き叔父の謝安が太平を助け、天の業を成し遂げました。しかし、なおも霧が立ち込め、天下はまだ明るくならず、残された民衆は塗炭の苦しみにあり、賊の巣窟は除くべきであり、再び臣に戈を担って先駆けさせ、軍の統率を司らせました。皇威を仰ぎ頼み、天下が平穏に一つになること、陛下が太平の教化を実現されること、そして微臣が塵露のようなわずかな力で恩に報い、その後、亡き叔父謝安の後を追って東山に身を引き、道を養い天寿を全うすることを、心から願っておりました。この誠意は文書の趣旨に表れ、陛下の聴聞に達したはずです。臣がひたすら国家を思うのは、実にここにありました。臣の罪過が積もり積もって、中年に至ってその報いを受け、亡き叔父謝安、亡き兄謝靖にまで災いが及び、数ヶ月の間に相次いで逝去し、幼い子に至っては、まもなく夭折しました。哀しみと苦しみが絡み合い、痛みは普通の心情の百倍です。臣は耐え難い災禍が激しく襲うのに耐えかね、慟哭するたびに倒れそうになります。それでも哀しみを忍び、悲しみを抱えて、なお生き延びようと期するのは、たとえ賢明な補佐が倒れても、聖明な治世が今まさに盛んになり、伊尹・周公のような臣が続いて現れ、人々が自ら奮い立とうとしているからです。それでもなお臣の本来の志を貫き、国を興し家を保ちたいと願うので、感情のわだかまりを捨て、無心の境地と同じにすることができるのです。

原文臣以常人,才不佐世,忽蒙殊遇,不復自量,遂從戎政。驅馳十載,不辭鳴鏑之險,每有征事,輒請為軍鋒,由恩厚忘軀,甘死若生也。冀有毫釐,上報榮寵。天祚大晉,王威屢舉,實由陛下神武英斷,無思不服。亡叔臣安協贊雍熙,以成天工。而雰霧尚翳,六合未朗,遺黎塗炭,巢窟宜除,復命臣荷戈前驅,董司戎首。冀仰憑皇威,宇宙甯一,陛下致太平之化,庸臣以塵露報恩,然後從亡叔臣安退身東山,以道養壽。此誠以形于文旨,達於聖聽矣。臣所以區區家國,實在於此,不謂臣愆咎夙積,罪鐘中年,上延亡叔臣安、亡兄臣靖,數月之間,相系殂背,下逮稚子,尋復夭昏。哀毒兼纏,痛百常情。臣不勝禍酷暴集,每一慟殆弊。所以含哀忍悲,期之必存者,雖哲輔傾落,聖明方融,伊周嗣作,人懷自厲,猶欲申臣本志,隆國保家,故能豁其情滯,同之無心耳。

去る冬、司徒の司馬道子が遠大な計画を包み隠さず告げ、臣の進退の是非について尋ねられました。臣は進んで事の機微を理解せず、国境が狭まることを恥とし、退くことも自ら量らず、ただ以前からの思いに従おうとしたのです。まさか計画が振るわず、自らこの罪を招くとは思いませんでした。そこで章と節を奉送し、役所に罪を待ち、常の儀礼に従いましたが、実に心に愧じるところがありました。しかし聖恩は過ちを赦し、法を軽んじて寛大に許し、罪を抱えた臣が再び役所で名を改めることを許されました。木石でさえも感じるのに、まして臣においておやです!顧みれば、身が良からず、動くたびに災いと出会い、謙譲の徳が顕著でなく、驕りによる害を負い、以前からの病気が再発し、たちまち重篤に至りました。陛下は臣の病が重いことをお察しになり、淮水のほとりの藩鎮に還るよう命じられました。ようやく兵を休め民衆を静め、懐柔して善く撫で、また自ら治療に努め、日月が経つにつれて次第に快方に向かい、甲冑を整えて時機を待ち、再び奮起しようと考えておりました。しかし患っている病は沈滞し、減るどころか増すばかりです。今は弱々しく、命は朝夕の間にあります。臣が平素、常の規範に従い、なおかつ怠らず努めても、なお政治の道理を広く宣揚することができなかったのに、まして今は内外が天のように隔たり、永遠に再び接することもないのに、どうして重任に臥したままでいられ、患いと憂慮を招くことができましょうか。

原文去冬奉司徒道子告括囊遠圖,逮問臣進止之宜。臣進不達事機,以蹙境為恥,退不自揆,故欲順其宿心。豈謂經略不振,自貽斯戾。是以奉送章節,待罪有司,執徇常儀,實有愧心。而聖恩赦過,黷法垂宥,使抱罪之臣復得更名于所司。木石猶感,而況臣乎!顧將身不良,動與釁會,謙德不著,害盈是荷,先疾既動,便至委篤,陛下體臣疢重,使還籓淮側。甫欲休兵靜眾,綏懷善撫,兼苦自療,冀日月漸瘳,繕甲俟會,思更奮迅。而所患沈頓,有增無損。今者惙惙,救命朝夕。臣之平日,率其常矩,加以匪懈,猶不能令政理弘宣,況今內外天隔,永不復接,寧可臥居重任,以招患慮。

過去のことを思い返せば、寒心に堪えません。臣の微々たる身は、また何を惜しむことがありましょうか。しかし、わずかながらの血の通った誠意は、国を憂う実に深いものがあります。謹んで兼長史の劉済を遣わし、重ねて節・蓋・章・伝を奉送いたします。伏して願わくは、陛下が天地の仁を垂れ、絶えんとする気を救い、時折軍司を遣わして荒れた雑多の地を鎮め慰め、臣の乞うところを聞き入れ、医薬と静養の機会を十分に与え、誠意を道門に帰し、神祇の加護を願います。もしこれでも良くならないならば、寿命が短いのです。臣が息のあるうちに、先祖の墓と柏の木を拝見することができれば、このようにして尽きるとしても、公私ともに真に恨みはありません。枕に伏して悲しみ感慨にふけり、知らずに涙を流します。

原文追尋前事,可為寒心。臣之微身,復何足惜,區區血誠,憂國實深。謹遣兼長史劉濟重奉送節蓋章傳。伏願陛下垂天地之仁,拯將絕之氣,時遣軍司鎮慰荒雜,聽臣所乞,盡醫藥消息,歸誠道門,冀神祇之佑。若此而不差,修短命也。使臣得及視息,瞻睹墳柏,以此之盡,公私真無恨矣,伏枕悲慨,不覺流涕。

詔により名医一人を遣わし、自ら静養するよう命じ、また京口に戻って病気を療養するよう命じた。

原文詔遣高手醫一人,令自消息,又使還京口療疾。

謝玄は詔を奉じてすぐに帰還したが、病が長く癒えず、また上疏して言った。「臣は同母兄弟七人でしたが、次々と亡くなり、ただ臣一人だけが、孤独に生き残っています。生きている間の苦しみは、臣ほどひどい者はおりません。それでも哀しみをこらえ痛みを耐え、わずかな命の延長を願っているのは、陛下の恩徳に報いたい思いが、実に限りなく大きいからで、もし病が癒えるならば、この志を果たしたいと願うためです。また、臣の周りには孤児や遺族が満ちており、それを見るにつけ心が痛みます。彼らのために生きようとする心を極めたいと思い、まだ土に帰るわけにはいかないのです。この切実な心情は、哀れみ憐れむに値します。伏して願います。陛下には臣の訴えをお憐みになり、広くお許しを垂れ、微臣が黄泉で恨みを抱くことのないようお願い申し上げます。」上表は放置され返答がなかった。前後十数回上疏したが、長い時が経ってから、ようやく散騎常侍・左将軍・会稽内史に転任させられた。当時、呉興太守の晋寧侯張玄之も才学で名声があり、吏部尚書から謝玄と同じ年に郡守に赴任したが、玄之の名声は謝玄に次ぐもので、当時の人々は「南北の二玄」と呼び、論者はこれを称賛した。

原文玄奉詔便還,病久不差,又上疏曰:「臣同生七人,凋落相繼,惟臣一己,孑然獨存。在生荼酷,無如臣比。所以含哀忍痛,希延視息者,欲報之德,實懷罔極,庶蒙一瘳,申其此志。且臣孤遺滿目,顧之惻然,為欲極其求生之心,未能自分於灰士。慺慺之情,可哀可湣。伏願陛下矜其所訴,霈然垂恕,不令微臣銜恨泉壤。」表寢不報。前後表疏十餘上,久之。乃轉授散騎常侍、左將軍、會稽內史。時吳興太守晉甯侯張玄之亦以才學顯,自吏部尚書與玄同年之郡,而玄之名亞于玄,時人稱為「南北二玄」,論者美之。

謝玄は病躯を車に乗せて任地に赴き、太元十三年、官職のまま死去した。享年四十六歳。車騎将軍・開府儀同三司を追贈され、諡は献武といった。

原文玄既輿疾之郡,十三年,卒于官,時年四十六。追贈車騎將軍、開府儀同三司,諡曰獻武。

子の謝瑍が後を継いだ。秘書郎となったが早世した。その子の謝霊運が後を継いだ。謝瑍は幼少時から聡明ではなく、謝霊運は文才が華やかで優れていたため、謝玄はかつて「私でさえまだ謝瑍を生んだのに、謝瑍がどうして謝霊運を生めようか!」と称した。永熙年間、劉裕の世子の左衛率となった。

原文子瑍嗣,秘書郎,早卒。子靈運嗣。瑍少不惠,而靈運文藻豔逸,玄嘗稱曰:「我尚生瑍,瑍那得生靈運!」永熙中,為劉裕世子左衛率。

付録 何謙 戴逯

原文附 何謙 戴逯

最初に謝玄に従って征伐した者に、何謙(字は恭子、東海の人)、戴逯(字は安丘、隠士戴逵の弟)がおり、ともに勇猛果敢で策略に富んでいた。戴逵は東山で節操を磨いたが、戴逯は武勇で名を顕した。謝安はかつて戴逯に言った。「卿の兄弟は志や業績がどう違うのか。」戴逯は答えた。「下官はその憂い(出仕の苦労)に耐えられませんが、家兄はその楽しみ(隠遁の楽しみ)を変えません。」戴逯は軍功により広信侯に封ぜられ、大司農の位に至った。

原文始從玄征伐者,何謙字恭子,東海人,戴逯字安丘,處士逵之弟,並驍果多權略。逵厲操東山,而逯以武勇顯。謝安嘗謂逯曰:「卿兄弟志業何殊?」逯曰:「下官不堪其憂,家兄不改其樂。」逯以軍功封廣信侯,位至大司農。

謝安の弟 謝萬

原文安弟 萬

謝萬(字は萬石)は、才能と器量が優れており、器量は謝安に及ばないものの、自らをよく誇示したため、早くから時の名声があった。議論を巧みにし、文章をよくした。漁父・屈原・季主・賈誼・楚老・龔勝・孫登・嵇康という四組の隠者と顕者を題材に『八賢論』を著し、その主旨は隠遁する者を優れ、出仕する者を劣るとし、孫綽に見せた。孫綽はこれに反論し、公の心を持ち識見が遠大な者は、出仕と隠遁は同じ帰結にあるとした。かつて蔡系と共に征虜亭で客を見送った時、蔡系と言い争いになった。蔡系が謝萬を床から突き落とし、冠が傾いて脱げた。謝萬はゆっくりと衣を払って席に戻り、神色自若として座り直すと、蔡系に言った。「卿は私の顔を危うくするところだった。」蔡系は「最初から卿の顔のことなど考えていなかった。」と言った。しかし二人とも気に留めず、当時の人々もこのことで彼らを称賛した。

原文萬字萬石,才器雋秀,雖器量不及安,而善自炫曜,故早有時譽。工言論,善屬文,敘漁父、屈原、季主、賈誼、楚老、龔勝、孫登、嵇康四隱四顯為《八賢論》,其旨以處者為優,出者為劣,以示孫綽。綽與往反,以體公識遠者則出處同歸。嘗與蔡系送客於征虜亭,與系爭言。系推萬落床,冠帽傾脫。萬徐拂衣就席,神意自若,坐定,謂系曰:「卿幾壞我面。」系曰:「本不為卿面計。」然俱不以介意,時亦以此稱之。

弱冠の頃、司徒掾に招聘されたが、右西属に転任となり、就任しなかった。簡文帝が丞相となった時、その名声を聞き、撫軍從事中郎に召し出された。謝萬は白綸巾をかぶり、鶴氅裘を着て、履版(木靴)を履いて前に進んだ。謁見すると、帝と共に長時間語り合った。太原の王述は、謝萬の妻の父で、揚州刺史であった。謝萬はかつて白綸巾をかぶり、平肩輿に乗って、まっすぐに役所の正堂の前に至り、王述に言った。「人は君侯は愚かだと言いますが、君侯は確かにご自身が愚かです。」王述は「そのような議論がないわけではないが、ただ遅くに合点がいっただけだ。」と言った。謝萬はさらに豫州刺史・淮南太守を兼任・司豫冀并四州軍事を監督・仮節に昇進した。王羲之が桓温に手紙を送り、「謝萬は才気が通じ、朝廷にあって諫言や議論に参与するなら、まさに後世の器です。しかし今、その邁進する気概を抑えて、荒廃した地域に従わせるのは、ほぼ才能に背き任務を変えるようなものです。」と言ったが、桓温は従わなかった。

原文弱冠,辟司徒掾,遷右西屬,不就。簡文帝作相,聞其名,召為撫軍從事中郎。萬著白綸巾,鶴氅裘,履版而前。既見,與帝共談移日。太原王述,萬之妻父也,為揚州刺史。萬嘗衣白綸巾,乘平肩輿,徑至聽事前,謂述曰:「人言君侯癡,君侯信自癡。」述曰:「非無此論,但晚合耳。」萬再遷豫州刺史、領淮南太守、監司豫冀並四州軍事、假節。王羲之與桓溫箋曰:「謝萬才流經通,處廊廟,參諷議,故是後來一器。而今屈其邁往之氣,以俯順荒餘,近是違才易務矣。」溫不從。

謝萬は北征の任を受けると、豪傑ぶって人を見下し、嘯吟(口笛のような声)や詩吟をして自らを高く評価し、兵士を慰労することは一度もなかった。兄の謝安はこれを深く憂い、隊主や将帥以下、謝安が慰め励まさない者はなかった。謝安は謝萬に言った。「お前は元帥だ。諸将とは頻繁に接見し、その心を喜ばせるべきだ。どうしてこのように傲慢ででたらめな態度で、事を成し遂げられようか!」謝萬はそこで諸将を召集したが、何も言うことがなく、ただ如意で四方の座を指して言った。「諸将は皆、精強な兵卒だ。」諸将はますます恨んだ。その後、まず征虜将軍劉建を派遣して馬頭の城壁を修築させ、自らは軍勢を率いて渦水・潁水に入り、洛陽を救援しようとした。北中郎将郗曇ちどんが病気で彭城に退却すると、謝萬は賊軍が盛んになったために退却したと思い、すぐに軍を引き返したため、兵士たちは潰走し、狼狽して単身で帰還し、庶人に落とされた。後に再び散騎常侍に任じられたが、そのまま死去した。享年四十二歳。この官職を追贈された。

原文萬既受任北征,矜豪傲物,嘗以嘯詠自高,未嘗撫眾。兄安深憂之,自隊主將帥已下,安無不慰勉。謂萬曰:「汝為元帥,諸將宜數接對,以悅其心,豈有傲誕若斯而能濟事也!」萬乃召集諸將,都無所說,直以如意指四坐云:「諸將皆勁卒。」諸將益恨之。既而先遣征虜將軍劉建修治馬頭城池,自率眾入渦潁,以援洛陽。北中郎將郗曇以疾病退還彭城,萬以為賊盛致退,便引軍還,眾遂潰散,狼狽單歸,廢為庶人。後復以為散騎常侍,會卒,時年四十二,因以為贈。

謝萬の子 謝韶

原文萬子 韶

子の謝韶(字は穆度)は、幼少時から有名であった。当時、謝氏一族で優れた才能を持つ者を、封・胡・羯・末と称した。封は謝韶、胡は謝朗、羯は謝玄、末は謝川を指し、いずれも彼らの幼名である。謝韶・謝朗・謝川はいずれも早世し、ただ謝玄だけが功名を全うした。謝韶は車騎司馬に至った。謝韶の子の謝恩(字は景伯)は、度量が広く遠大な計略を持ち、謝韶は黄門郎・武昌太守となった。謝恩には三人の子、謝曜・謝弘微がおり、いずれも顕職を歴任した。

原文子韶,字穆度,少有名。時謝氏憂彥秀者,稱封、胡、羯、末。封謂韶,胡謂主朗,羯謂玄,末謂川,皆其小字也。韶、朗、川並早卒,惟玄以功名終,韶至車騎司馬。韶子恩,字景伯,宏達有遠略,韶為黃門郎、武昌太守。恩三子、曜、弘微,皆曆顯位。

謝安の兄謝據の子 謝朗

原文安兄據子 朗

謝朗(字は長度)。父の謝據は早世した。謝朗は玄理を語るのが巧みで、文章の意味が華やかに発揮され、名声は謝玄に次いだ。幼少時、病気が癒えたばかりで体が非常に弱く、労役に耐えられなかったが、叔父の謝安の前で沙門の支遁と議論を戦わせ、ついに互いに苦しめるほどになった。その母の王氏は何度も使いをやって帰らせようとしたが、謝安は引き留めて議論を終わらせようとした。王氏はそこで出てきて言った。「新婦(私)は若くして苦難に遭い、一生の寄る辺はこの子だけです。」そして涙を流して謝朗を連れて去った。謝安は座っていた客に言った。「家の嫁(兄嫁)の言葉は情熱的で、朝廷の士たちに見せられなかったのが残念だ。」謝朗は東陽太守で終わった。

原文朗字長度。父據,早卒。朗善言玄理,文義豔發,名亞于玄。總角時,病新起,體甚贏,未堪勞,于叔父安前與沙門支遁朗論,遂至相苦。其母王氏再遣信令還,安欲留,使竟論,王氏因出云:「新婦少遭艱難,一生所寄惟在此兒。」遂流涕攜朗去。安謂坐客曰:「家嫂辭情慷慨,恨不使朝士見之。」朗終於東陽太守。

謝朗の子 謝重

原文朗子 重

子の謝重(字は景重)は、聡明で優れた才能の名声があり、会稽王司馬道子の驃騎長史となった。かつて侍坐していた時、月夜が明るく澄み渡っており、道子はその美しさを賞賛した。謝重は軽率に言った。「私の考えでは、むしろ微雲がちりばめられている方が良いと思います。」道子はそこで謝重をからかって言った。「卿は心が清らかでないから、強いて清らかな天空を汚そうとするのか。」

原文子重,字景重,明秀有才名,為會稽王道子驃騎長史。嘗因侍坐,于時月夜明淨,道子歎以為佳。重率爾曰:「意謂乃不如微雲點綴。」道子因戲重曰:「卿居心不淨,乃復強欲滓穢太清邪!」

重子 絢

原文重子 絢

子の絢は、字を宣映といい、かつて公の座で戯れに調子を外し、その舅の袁湛に対して無礼な振る舞いをした。湛はこれを非常に我慢ならず、「お前の父はかつて舅を軽んじたが、お前は今また私にそれを加えるとは、まさに世に渭陽の情けなしと言えよう」と言った。絢の父の重は、すなわち王胡の外孫であり、舅とも不和の議論があったので、湛はこの言葉を及ぼしたのである。

原文子絢,字宣映,曾於公坐戲調,無禮于其舅袁湛。湛甚不堪之,謂曰:「汝父昔已輕舅,汝今復來加我,可謂世無渭陽情也。」絢父重,即王胡之外孫,與舅亦有不協之論,湛故有此及雲。

安の弟 石

原文安弟 石

石は字を石奴という。初め秘書郎に任ぜられ、累進して尚書僕射となった。句難を征討し、功績により興平県伯に封ぜられた。淮肥の戦いにおいて、詔により石は僕射を解かれ、将軍・仮節・征討大都督として、兄の子の玄・琰とともに苻堅を破った。これに先立ち、童謡に「誰がお前を堅い石と言おうか、打ち砕かれる」とあった。それゆえ桓豁は皆、子に「石」の字を用いて名付け、功績を求めたのである。堅の敗北は、功績の始まりは牢之にあったが、完成は玄と琰によるもので、しかし石は当時実際に都督であった。中軍将軍・尚書令に転じ、さらに南康郡公に封ぜられた。当時、学校は廃れていたので、石は上疏して国学を興復し、貴族の子弟を教育し、州郡に下して広く郷校を修復するよう請うた。上疏が奏上されると、孝武帝はこれを受け入れた。

原文石字石奴。初拜秘書郎,累遷尚書僕射。征句難,以勳封興平縣伯。淮肥之役,詔石解僕射,以將軍假節征討大都督,與兄子玄、琰破苻堅。先是,童謠云:「誰謂爾堅石打碎。」故桓豁皆以「石」名子,以邀功焉。堅之敗也,雖功始牢之,而成于玄、琰,然石時實為都督焉。遷中軍將軍、尚書令,更封南康郡公。于時學校陵遲,石上疏請興復國學,以訓胄子,班下州郡,普修鄉校。疏奏,孝武帝納焉。

兄の安が薨去すると、石は衛将軍に転じ、散騎常侍を加えられた。公事をめぐって吏部郎の王恭と互いに短所をあげつらい、恭は非常に憤慨し、自ら偏狭で度量がなく認められず、かつ病根が深く固いことを陳べて、私邸に戻ることを乞うた。石もまた上疏して退位を願い出た。有司が奏上したところ、石は職を離れたため、官を免ぜられた。詔は「石は病気を理由に退任を求めたのであって、常の制度に照らすべきではない。還任を命じるよう諭せ」と言った。一年余り起き上がらなかった。表を十数回上奏したが、帝は許さなかった。石は、故尚書令王彪之の例に倣い、府において事務を総覧することを乞い、詔はこれを聞き入れた。病が重くなり、開府儀同三司に進位し、鼓吹を加えられたが、拝命しないうちに卒去した。時に六十二歳であった。

原文兄安薨,石遷衛將軍,加散騎常侍。以公事與吏部郎王恭互相短長,恭甚忿恨,自陳褊厄不允,且疾源深固,乞還私門。石亦上疏遜位。有司奏,石輒去職,免官。詔曰:「石以疾求退,豈准之常制!其喻令還。」歲餘不起。表十餘上,帝不許。石乞依故尚書令王彪之例,於府綜攝,詔聽之。疾篤,進位開府儀同三司,加鼓吹,未拜,卒,時年六十二。

石は若い頃、顔面にできものができ、治療しても治らず、自ら隠していた。夜に何かが来てその瘡を舐め、舐めるたびに治り、舐められたところは非常に白くなったので、世間では「謝白面」と呼んだ。石は職務において文書の形式を重んじたが、他に才能や声望がなく、ただ宰相の弟であり、かつ大功があったため、清要な地位に就いたが、収奪に飽くことがなく、当世から嘲笑された。司空を追贈され、礼官が諡を議論した。博士の范弘之は諡を襄墨公と議した。その言葉は弘之の伝にある。朝議は従わず、単に襄と諡した。

原文石少患面創,療之莫愈,乃自匿。夜有物來舐其瘡,隨舐隨差,舐處甚白,故世呼為「謝白面」。石在職務存文刻,既無他才望,直以宰相弟兼有大才,遂居清顯,而聚斂無饜,取譏當世。追贈司空,禮官議諡,博士范弘之議諡曰襄墨公,語在弘之傳。朝議不從,單諡曰襄。

子の汪が後を嗣いだが、早逝した。汪の従兄の沖が子の明慧を後嗣としたが、孫恩に害された。明慧の従兄の喻がまた子の暠を後嗣とした。宋が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文子汪嗣,早卒。汪從兄沖以子明慧嗣,為孫恩所害。明慧從兄喻復以子暠嗣。宋受禪,國除。

従子 邈

原文從子 邈

邈は字を茂度という。父の鉄は、永嘉太守であった。邈の性格は剛直で、屈することなく、道理と見識に優れていた。累進して侍中となった。当時、孝武帝は酒宴の後にしばしば侍臣に文詔を賜ったが、文辞や意味に不適切なものがあると、邈はすぐに焼き捨てた。他の侍臣で詔を受けた者は、時にはそれを宣揚したので、論者はこのことで邈を称賛した。後に呉興太守となった。孫恩の乱の時、賊の胡桀・郜驃らに捕らえられ、害された。賊が北面するよう強要すると、邈は声を張り上げて「私は天子に罪を犯したことはない。どうして北面することがあろうか」と言い、遂に害された。邈の妻の郗氏は、非常に嫉妬深かった。邈が先に妾を娶ると、郗氏は怨み、邈に手紙を送って絶縁を告げた。邈はその手紙が婦人の言葉ではないと考え、門下生の仇玄達が作ったのではないかと疑い、玄達を追放した。玄達は怒り、孫恩に投じ、邈の兄弟を害し、ついに一家を滅ぼすに至った。

原文邈字茂度。父鐵,永嘉太守。邈性剛鯁,無所屈撓,頗有理識。累遷侍中。時孝武帝觴樂之後多賜侍臣文詔,辭義有不雅者,邈輒焚毀之,其他侍臣被詔者或宣揚之,故論者以此多邈。後為吳興太守。孫恩之亂,為賊胡桀、郜驃等所執,害之。賊逼令北面,邈厲聲曰:「我不得罪天子,何北面之有!」遂害之。邈妻郗氏,甚妒。邈先娶妾,郗氏怨懟,與邈書告絕。邈以其書非婦人詞,疑其門下生仇玄達為之作,遂斥玄達。玄達怒,遂投孫恩,並害邈兄弟,竟至滅門。

【史論】

原文【史論】

史臣が言う。建元の後、時政は多難であり、大悪人が跳梁し、権臣が横暴に振る舞った。中外において将相を兼ね、国家の存亡にかかわり、天子が端座するのを助け、井戸を掘って安寧を頼りとしたのは、まさに謝氏ではなかったか。簡侯(謝安)は朝廷の要職を総べ、外征において功績を顕わし、正しい議論を唱えて廃れていた喪礼を再興させ、失われた音律を補って欠けていた雅楽を整備した。君子とは、この人のことである。文靖(謝安)は初め世俗を離れ、人間界を超越し、山林で嘯詠し、江海に浮遊していた。この時、蕭然として雲霞を凌ぐような趣があった。そして、隠者の服を脱いで高官の礼服をまとい、隠棲の地を去って宮殿の階段を踏み、多くの政績によって国家を安泰にし、人倫の秩序を整えた。苻堅の百万の大軍がすでに呉の江を覗き、桓温が帝位を窺う心で晋の鼎を移そうとした時、士大夫は考えを変え、遠近の人々は心を乱した。その中で、安らかに奸計を防ぎ、宴楽の中で群賊を平定し、帝位を泰山のように固く守り、揚州を累卵の危険から遠ざけた。これは盛大なことであった。しかし、喪中の時期に盛大な集会を催し、百金の費用をかけて一つの歓楽を厚くし、軽薄な風俗の中で礼を廃し、耕戦の時代に奢侈を崇めた。哀楽を混同して一つにし、奢侈と倹約を一致させようとしたが、すでに頽廃した風潮が広まり、雅正な道が日々失われ、国家の規範がこのようになるとは、誰が予期したであろうか。琰は堅実な幹部と称され、ついに忠勇によって名を残した。混は風流と称され、ついに文詞によって誉れを得た。ともに時の宰相の地位に上り、家風を堕落させなかった。奕と万は放縦を高しとし、石奴は偏狭で濁った性格が災いした。小さな欠点とは言え、やはり名声と実態は一致していたと言える。康楽公(謝玄)は文武の才を兼ね、国家を救済する志を持っていた。淮肥の戦いでは、強敵が彼を見て土崩瓦解し、渦潁の戦いでは、中原が彼に応じて席捲された。西方の鞏洛を平定し、北方の幽燕を定めようとしたが、朝廷の計画に遺漏があり、良き謀略は成就せず、寿命はなぜか短く、功績は成りかけて敗れた。その遺文を撫でれば、経世済民の志は遠大であった。

原文史臣曰:建元之後,時政多虞,巨猾陸梁,權臣橫恣。其有兼將相於中外,系存亡於社稷,負扆資之以端拱,鑿井賴之以晏安者,其惟謝氏乎!簡侯任總中台,效彰分閫;正議雲唱,喪禮墮而復弘;遺音既補,雅樂缺而還備。君子哉,斯人也!文靖始居塵外,高謝人間,嘯詠山林,浮泛江海,當此之時,蕭然有陵霞之致。暨於褫薜蘿而襲硃組,去衡泌而踐丹墀,庶績於是用康,彝倫以之載穆。苻堅百萬之眾已瞰吳江,桓溫九五之心將移晉鼎,衣冠易慮,遠邇崩心。從容而杜奸謀,宴衎而清群寇,宸居獲太山之固,惟揚去累卵之危,斯為盛矣。然激繁會於期服之辰,敦一歡于百金之費,廢禮于偷薄之俗,崇侈于耕戰之秋,雖欲混哀樂而同歸,齊奢儉於一致,而不知頹風已扇,雅道日淪,國之儀刑,豈期若是!琰稱貞幹,卒以忠勇垂名;混曰風流,竟以文詞獲譽:並階時宰,無墮家風。奕萬以放肆為高,石奴以褊濁興累,雖曰微纇,猶稱名實。康樂才兼文武,志存匡濟,淮肥之役,勍寇望之而土崩;渦潁之師,中州應之而席捲。方欲西平鞏洛,北定幽燕,廟算有遺,良圖不果,降齡何促,功敗垂成,拊其遺文,經綸遠矣。