晉書

卷六十四 列傳第三十四

卷六十四 列傳第三十四

晉書

原文晉書

卷六十四 列傳第三十四

原文卷六十四 列傳第三十四 ► 卷六十五

武十三王

原文武十三王

武帝には二十六人の男子がいた。楊元后は毗陵悼王司馬軌、恵帝、秦獻王司馬柬を生んだ。審美人は城陽懷王司馬景、楚隱王司馬瑋、長沙厲王司馬乂を生んだ。徐才人は城陽殤王司馬憲を生んだ。匱才人は東海沖王司馬祗を生んだ。趙才人は始平哀王司馬裕を生んだ。趙美人は代哀王司馬演を生んだ。李夫人は淮南忠壯王司馬允、吳孝王司馬晏を生んだ。嚴保林は新都懷王司馬該を生んだ。陳美人は清河康王司馬遐を生んだ。諸姬は汝陰哀王司馬謨を生んだ。程才人は成都王司馬穎を生んだ。王才人は孝懷帝を生んだ。楊悼后は渤海殤王司馬恢を生んだ。残りの八人は母親が明らかでなく、いずれも早世し、また封国や追諡もないので、ここではすべて省略する。司馬瑋、司馬乂、司馬穎はそれぞれ独立した伝がある。

原文武帝二十六男:楊元后生毗陵悼王軌、惠帝、秦獻王柬。審美人生城陽懷王景、楚隱王瑋、長沙厲王乂。徐才人生城陽殤王憲。匱才人生東海沖王祗。趙才人生始平哀王裕。趙美人生代哀王演。李夫人生淮南忠壯王允、吳孝王晏。嚴保林生新都懷王該。陳美人生清河康王遐。諸姬生汝陰哀王謨。程才人生成都王穎。王才人生孝懷帝。楊悼后生渤海殤王恢。餘八子不顯母氏,並早夭,又無封國及追諡,今並略之。其瑋、乂、穎自有傳。

毗陵悼王司馬軌

原文毗陵悼王軌

毗陵悼王司馬軌は、字あざなを正則といい、初め騎都尉に任ぜられたが、二歳で夭折した。太康十年、追って封と諡が加えられ、楚王司馬瑋の子の司馬義が後を嗣いだ。

原文毗陵悼王軌,字正則,初拜騎都尉,年二歲而夭。太康十年,追加封諡,以楚王瑋子義嗣。

秦獻王司馬柬

原文秦獻王柬

秦獻王司馬柬は、字を弘度といい、沈着で聡明、識見と度量があった。泰始六年、汝南王に封ぜられた。咸寧の初め、南陽王に転封され、左将軍・右軍将軍領・散騎常侍に任ぜられた。武帝がかつて宣武場に行幸した際、三十六軍の兵籍簿を調べさせたところ、司馬柬は一見して誤りを指摘したので、帝は彼を異才と認め、諸子の中でも特に寵愛した。左将軍として斉献王司馬攸の旧邸に住み、非常に貴重で寵愛され、天下の注目を集めた。性質は仁厚で口数が少なく、機知に富んだ弁舌の評判はなかった。太康十年、秦に転封され、封邑は八万戸であった。当時、中原に封ぜられた諸王は皆五万戸であったが、司馬柬は太子と同母兄弟であったため、特に加増されたのである。鎮西将軍・西戎校尉・仮節に転じ、楚王、淮南王とともに封国へ赴いた。

原文秦獻王柬,字弘度,沈敏有識量。泰始六年,封汝南王。咸甯初,徙封南陽王,拜左將軍、領右軍將軍、散騎常侍。武帝嘗幸宣武場,以三十六軍兵簿令不料校之,柬一省便擿脫謬,帝異之,于諸子中尤見寵愛。以左將軍居齊獻王故府,甚貴寵,為天下所屬目。性仁訥,無機辯之譽。太康十年,徙封于秦,邑八萬戶。于時諸王封中土者皆五萬戶,以柬與太子同產,故特加之。轉鎮西將軍、西戎校尉、假節,與楚、淮南王俱之國。

恵帝が即位すると、朝見に来て、驃騎将軍・開府儀同三司に任ぜられ、侍中・録尚書しょうしょ事を加えられ、さらに大将軍に進んだ。当時、楊駿が誅殺された後、司馬柬は母方の一族が滅んだことを痛み、非常に憂慮し、たびたび武帝の遺志を述べて封国への帰還を請願したが、汝南王司馬亮が司馬柬を留めて政務を補佐させた。司馬亮と楚王司馬瑋が誅殺された時、人々は司馬柬に先見の明があったと言った。

原文及惠帝即位,來朝,拜驃騎將軍、開府儀同三司,加侍中、錄尚書事,進位大將軍。時楊駿伏誅,柬既痛舅氏覆滅,甚有憂危之慮,屢述武帝旨,請還籓,而汝南王亮留柬輔政。及亮與楚王瑋被誅,時人謂柬有先識。

元康元年に死去した。時に三十歳。朝廷と民間は彼を痛惜した。葬儀は斉献文王司馬攸の先例に従い、廟には軒懸の楽が設けられた。子がなく、淮南王司馬允の子の司馬鬱が後を嗣いだが、司馬允とともに害された。永寧二年、諡を悼と追贈された。また、呉王司馬晏の子の司馬鄴しばぎょうが後を嗣いだ。懐帝が崩御すると、司馬鄴が帝位を継承したため、王国は絶えた。

原文元康元年薨,時年三十,朝野痛惜之。葬禮如齊獻文王攸故事,廟設軒懸之樂。無子,以淮南王允子鬱為嗣,與允俱被害。永寧二年,追諡曰悼。又以吳王晏子鄴嗣。懷帝崩,鄴入纂帝位,國絕。

三王

原文三王

城陽懷王司馬景は、字を景度といい、叔父の城陽哀王司馬兆の後を嗣いだ。泰始五年に封を受け、六年に死去した。

原文城陽懷王景,字景度,出繼叔父城陽哀王兆後。泰始五年受封,六年薨。

東海沖王司馬祗は、字を敬度といい、泰始九年五月に封を受けた。殤王が死去すると、再び司馬祗が司馬兆の後を嗣いだが、その年に死去した。時に三歳。

原文東海沖王祗,字敬度,泰始九年五月受封。殤王薨,復以祗繼兆,其年薨,時年三歲。

始平哀王司馬裕は、字を濬度といい、咸寧三年に封を受け、その年に死去した。七歳。子がなく、淮南王司馬允の子の司馬迪が後を嗣いだ。太康十年、漢王に改封されたが、趙王司馬倫に害された。

原文始平哀王裕,字濬度,咸寧三年受封,其年薨,年七歲。無子,以淮南王允子迪為嗣。太康十年,改封漢王,為趙王倫所害。

淮南忠壯王司馬允

原文淮南忠壯王允

淮南忠壮王司馬允は、字を欽度といい、咸寧三年(277年)に濮陽王に封ぜられ、越騎校尉に任じられた。太康十年(289年)、淮南王に転封され、そのまま封国に赴き、揚州・江州の諸軍事を都督し、鎮東大将軍・仮節の任にあった。元康九年(299年)に入朝した。

原文淮南忠壯王允,字欽度,咸寧三年,封濮陽王,拜越騎校尉。太康十年,徙封淮南,仍之國,都督揚江二州諸軍事、鎮東大將軍、假節。元康九年入朝。

初め、愍懐太子(司馬遹)が廃された時、議論する者は司馬允を皇太弟に立てようとした。ちょうど趙王司馬倫が賈后を廃した際、詔みことのりによって司馬允を驃騎将軍・開府儀同三司・侍中とし、都督の職は従前のままとし、中護軍を兼任させた。司馬允の性格は沈着で剛毅であり、宿衛の将兵は皆彼を敬服していた。

原文初,湣懷之廢,議者將立允為太弟。會趙王倫廢賈后,詔遂以允為驃騎將軍、開府儀同三司、侍中,都督如故,領中護軍。允性沈毅,宿衛將士皆敬服之。

司馬倫はすでに簒奪の意志を持っており、司馬允はそれを密かに知り、病気と称して朝参せず、ひそかに死士を養い、密かに司馬倫を誅殺する計画を立てた。司馬倫は彼を非常に恐れ、太尉たいいに転任させ、外見上は優遇・尊崇しているように見せかけ、実質的にその兵権を奪った。司馬允は病気と称してその職を受けなかった。司馬倫は御史を派遣して司馬允を脅迫し、その官属以下を逮捕し、大逆の罪で弾劾した。司馬允は憤慨し、詔書を見ると、それは孫秀の自筆であった。大いに怒り、すぐに御史を捕らえて斬ろうとしたが、御史は逃げて難を免れ、その令史二人を斬った。厳しい表情で左右の者に言った。「趙王は我が家を滅ぼそうとしている!」そこで国兵と麾下の七百人を率いてまっすぐに出撃し、大声で叫んだ。「趙王は謀反した。私はこれを討つ。淮南王に味方する者は左の袖をまくれ。」これにより彼に帰順する者は非常に多かった。司馬允は宮中へ向かおうとしたが、尚書左丞王輿が東掖門を閉ざしたため、司馬允は中に入れず、そこで相府を包囲した。司馬允が率いる兵は、皆淮南の奇才・剣客であった。彼らと戦い、しばしば司馬倫軍を破り、司馬倫の兵士で死者は千余人に及んだ。太子左率陳徽が東宮の兵を率いて宮中で鬨の声を上げて呼応すると、司馬允は承華門前に陣を構え、弓弩を一斉に放ち、司馬倫を射た。飛び交う矢は雨のようであった。主書司馬畦秘が身を挺して司馬倫をかばい、矢が背中に当たって死んだ。司馬倫の官属は皆木陰に隠れて立っていたが、木ごとに数百本の矢が当たり、辰の刻から未の刻まで続いた。陳徽の兄の陳淮は当時中書令であり、麾下に騶虞の旗を掲げさせて戦闘を止めさせようとした。司馬倫の子の司馬虔は侍中で門下省におり、密かに壮士を集め、富貴を約束した。そこで司馬督護伏胤に騎兵四百を率いて宮中から出撃させ、空の詔版を掲げ、詔があって淮南王司馬允を助けると偽って言わせた。司馬允はそれに気づかず、陣を開いて彼らを受け入れ、車から降りて詔を受けようとしたところ、伏胤に殺害された。時に二十九歳であった。初め、司馬倫の兵が敗れた時、皆が「すでに司馬倫を捕らえた」と伝え合い、民衆は大いに喜んだ。やがて司馬允の死を聞くと、誰もが嘆息しなかった者はなかった。司馬允の三人の子は皆殺害され、司馬允に連座して誅滅された者は数千人に及んだ。

原文倫既有篡逆志,允陰知之,稱疾不朝,密養死士,潛謀誅倫。倫甚憚之,轉為太尉,外示優祟,實奪其兵也。允稱疾不拜。倫遣御史逼允,收官屬以下,劾乙太逆。允恚,視詔,乃孫秀手書也。大怒,便收御史,將斬之,御史走而獲免,斬其令史二人。厲色謂左右曰:「趙王欲破我家!」遂率國兵及帳下七百人直出,大呼曰:「趙王反,我將攻之,佐淮南王者左袒。」於是歸之者甚眾。允將赴宮,尚書左丞輿閉東掖門,允不得入,遂圍相府。允所將兵,皆淮南奇才劍客也。與戰,頻敗之,倫兵死者千餘人。太子左率陳徽勒東宮兵鼓噪于內以應,允結陳于承華門前,弓弩齊發,射倫,飛矢雨下。主書司馬畦秘以身蔽倫,箭中其背而死。倫官屬皆隱樹而立,每樹輒中數百箭,自辰至未。徽兄淮時為中書令,遣麾騶虞以解鬥。倫子虔為侍中,在門下省,密要壯士,約以富貴。於是遣司馬督護伏胤領騎四百從宮中出,舉空版,詐言有詔助淮南王允。允不之覺,開陳納之,下車受詔,為胤所害,時年二十九。初,倫兵敗,皆相傳:「已擒倫矣。」百姓大悅。既而聞允死,莫不歎息。允三子皆被害,坐允夷滅者數千人。

司馬倫が誅殺された後、斉王司馬冏が上表して司馬允の冤罪を晴らした。「故淮南王司馬允は忠孝篤実で誠実であり、国を憂い身を忘れ、乱を討伐しようと奮発し、ほとんど勝利に近づいていた。天の凶運に遭い、突然に命を落とし、逆党が悪を進めて三人の子をも害した。その冤魂の酷い毒々しさは、誰もが悲しみ心を痛めない者はいない。義兵が起こって以来、淮南国の人々は自ら率先して集まり、その数は一万人を超え、人々は慷慨の情を抱き、国の統治が絶えるのを哀れんで、口を開けば涙を流す。臣は勝手に息子の司馬超を司馬允の後継ぎとし、存亡の者を慰めたい。」詔があり、改葬し、殊礼を賜り、司徒しとを追贈された。司馬冏が敗れると、司馬超は金墉城に幽閉された。後にさらに呉王司馬晏の子の司馬祥を後継ぎとし、散騎常侍に任じた。洛陽らくようが陥落すると、劉聡りゅうそうに殺害された。

原文及倫誅,齊王冏上表理允曰:「故淮南王允忠孝篤誠,憂國忘身,討亂奮發,幾於克捷。遭天凶運,奄至隕沒,逆黨進惡,並害三子,冤魂酷毒,莫不悲酸。洎興義兵,淮南國人自相率領,眾過萬人,人懷慷愾,湣國統滅絕,發言流涕。臣輒以息超繼允後,以尉存亡。」有詔改葬,賜以殊禮,追贈司徒。冏敗,超被幽金墉城。後更以吳王晏子祥為嗣,拜散騎常侍。洛京傾覆,為劉聰所害。

二王

原文二王

代哀王司馬演は、字を宏度といい、太康十年(289年)に封を受けた。幼少時から廃疾があり、封国には赴かず、司馬演は常に宮中に留まっていた。薨去し、子がなかったため、成都王司馬穎の子の司馬廓を後継ぎとし、中都王に改封したが、後に司馬穎と共に死んだ。

原文代哀王演,字宏度,太康十年受封。少有廢疾,不之國,演常止于宮中。薨,無子,以成都王穎子廓為嗣,改封中都王,後與穎俱死。

新都王司馬該は、字を玄度といい、咸寧三年(277年)に封を受け、太康四年(283年)に薨去した。時に十二歳。子がなく、封国は除かれた。

原文新都王該,字玄度,咸寧三年受封,太康四年薨,時年十二。無子,國除。

清河康王司馬遐

原文清河康王遐

清河康王司馬遐は、字を深度といい、容貌が美しく、精彩があり、武帝に愛された。封を受けた後、叔父の城陽哀王司馬兆の後を継いだ。太康十年(289年)、渤海郡に封ぜられ、右将軍・散騎常侍・前将軍を歴任した。元康初年、撫軍将軍に進み、侍中を加えられた。司馬遐は成長すると懦弱で、是非をわきまえることがなかった。性格は女好きで、士大夫と交際することができなかった。楚王司馬瑋が挙兵した時、司馬遐に衛瓘を逮捕させたが、衛瓘の旧吏の栄晦が衛瓘の子孫をことごとく殺害し、司馬遐はそれを制止できず、世間から非難された。永康元年(300年)に薨去した。時に二十八歳。四人の子、司馬覃、司馬籥、司馬銓、司馬端がいた。司馬覃が後を継いだ。

原文清河康王遐,字深度,美容儀,有精彩,武帝愛之。既受封,出繼叔父城陽哀王兆。太康十年,封渤海郡,曆右將軍、散騎常侍、前將軍。元康初,進撫軍將軍,加侍中,遐長而懦弱,無所是非。性好內,不能接士大夫。及楚王瑋之舉兵也,使遐收衛瓘,而瓘故吏榮晦遂盡殺瓘子孫,遐不能禁,為世所尤。永康元年薨,時年二十八。四子:覃、籥、銓、端。覃嗣立。

沖太孫(司馬遹の子司馬臧)が薨去すると、斉王司馬冏が上表した。「東宮が空位のままであり、嫡嗣が継ぐ者がいない。天下の大業、帝王の神器には、必ず皇太子を立てて、洪大な基盤を固めなければならない。今、後宮にはまだ懐妊した者もおらず、将来を庶子に期待して天の系譜を空しくすることはできません。これは祖宗の遺志ではなく、社稷の長久の計でもありません。礼によれば、兄弟の子は我が子と同じです。故に漢の成帝に後嗣がなく、定陶王(の子)が継いだ。孝和帝が絶えた時、安帝が紹興した。これは先王の立派な典範であり、過去の時代の確立された方式です。清河王司馬覃は神がかった姿で聡明であり、知恵が早くから備わっています。康王の正妃周氏が生んだ子で、先帝の多くの孫の中では、今では嫡流にあたります。昔、薄姫が賢明であったので、文帝が位を継ぎました。司馬覃の外祖父の周恢は代々名望と徳を重ねてきました。司馬覃は宗廟の重責を奉じ、尽きることのない皇統を継ぎ、四海の仰ぎ望む期待を安んずるにふさわしい。司馬覃の兄弟たちは皆他家を継いで出ていますが、善良な者を選んで国(清河王家)の後継ぎに戻すことができ、その家系は絶えません。勝手に大将軍司馬穎及び諸公卿士に諮問しましたが、皆同じ大願を抱いております。礼儀を整え、日を選んで迎え立てることを請います。」そこで司馬覃を皇太子に立てた。その後、河間王司馬顒が帝の行幸に協力して遷都を進め、成都王司馬穎を皇太弟とするよう上表し、司馬覃を廃して再び清河王とした。初め、司馬覃が清河王世子であった時、佩いていた金の鈴に突然麻や粟のような小さな突起が生じた。祖母の陳太妃はこれを不祥として、壊して売り払った。占い師は金は晋の五行(金徳)が大いに興る兆しであり、司馬覃が皇胤であることはその瑞祥であると言った。壊して売ったことは、司馬覃が廃され最後まで続かないことの証拠である。永嘉初年、前北軍中候の任城の呂雍、度支校尉の陳顔らが司馬覃を太子に立てようと謀ったが、事が発覚し、金墉城に幽閉された。間もなく殺害された。時に十四歳。庶人の礼で葬られた。

原文及沖太孫薨,齊王冏表曰:「東宮曠然,塚嗣莫繼。天下大業,帝王神器,必建儲副,以固洪基。今者後宮未有孕育,不可庶幸將來而虛天緒,非祖宗之遺志,社稷之長計也。禮,兄弟之子猶子,故漢成無嗣,繼由定陶;孝和之絕,安以紹興。此先王之令典,往代之成式也。清河王覃神姿岐嶷,慧智早成,康王正妃周氏所生,先帝眾孫之中,於今為嫡。昔薄姬賢明,文則承位。覃外祖恢世載名德,覃宜奉宗廟之重,統無窮之祚,以甯四海顒顒之望。覃兄弟雖並出紹,可簡令淑還為國胤,不替其嗣。輒諮大將軍穎及群公卿士,咸同大願。請具禮儀,擇日迎拜。」遂立覃為皇太子。既而河間王顒協遷大駕,表成都王穎為皇太弟,廢覃復為清河王。初,覃為清河世子,所佩金鈴欻生隱起如麻粟,祖母陳太妃以為不祥,毀而賣之。占者以金是晉行大興之祥,覃為皇胤,是其瑞也。毀而賣之,象覃見廢不終之驗也。永嘉初,前北軍中候任城呂雍、度支校尉陳顏等謀立覃為太子,事覺,幽于金墉城。未幾,被害,時年十四,葬以庶人禮。

司馬籥は初め新蔡王に封ぜられ、司馬覃が薨去すると、清河王に戻して封ぜられた。

原文籥初封新蔡王,覃薨,還封清河王。

司馬銓は初め上庸王に封ぜられ、懐帝が即位すると、豫章王に改封された。二年(308年)、皇太子に立てられた。洛陽が陥落すると、劉聡のもとで没した。

原文銓初封上庸王,懷帝即位,更封豫章王。二年,立為皇太子。洛京傾覆,沒于劉聰。

司馬端は初め広川王に封ぜられ、司馬銓が皇太子となった時、豫章王に転封され、礼遇と秩禄は皇子と同じとし、散騎常侍・平南将軍・都督江州諸軍事・仮節に任じられた。封国に赴こうとした時、洛陽が陥落したため、司馬端は東へ逃れて蒙の地の苟晞きのもとに身を寄せた。苟晞が彼を皇太子に立てたが、七十日後、石勒せきろくに捕らえられて没した。

原文端初封廣川王,銓之為皇太子也,轉封豫章,禮秩如皇子,拜散騎常侍、平南將軍、都督江州諸軍事、假節。當之國,會洛陽陷沒,端東奔苟晞于蒙。晞立為皇太子,七十日,為石勒所沒。

汝陰哀王司馬謨

原文汝陰哀王謨

汝陰哀王司馬謨は、字を令度といい、太康七年(286年)に薨去した。時に十一歳。後嗣がなく、封国は除かれた。

原文汝陰哀王謨,字令度,太康七年薨,時年十一。無後,國除。

吳孝王司馬晏

原文吳孝王晏

吳敬王司馬晏,字平度,太康十年に封を受け、丹陽・呉興および呉の三郡を食邑とし、射声校尉・後軍将軍を歴任した。兄の淮南王司馬允と共に趙王司馬倫を攻撃したが、司馬允が敗れると、司馬晏は捕らえられ廷尉に引き渡され、殺されようとした。傅祗が朝廷で厳しい顔色で諫争し、これにより百官も一斉に諫めたので、司馬倫は彼を賓徒県王に貶めた。後に代王に転封された。司馬倫が誅殺されると、詔により司馬晏は本来の封に復し、上軍大将軍・開府を拝命し、侍中を加えられた。長沙王司馬乂と成都王司馬穎が互いに攻撃し合った時、司馬乂は司馬晏を前鋒都督とし、数度にわたり交戦した。永嘉年間、太尉・大将軍となった。

原文吳敬王晏,字平度,太康十年受封,食丹陽、吳興並吳三郡,曆射聲校尉、後軍將軍。與兄淮南王允共攻趙王倫,允敗,收晏付廷尉,欲殺之。傅祗於朝堂正色而爭,於是群官並諫,倫乃貶為賓徒縣王。後徙封代王。倫誅,詔復晏本封,拜上軍大將軍、開府,加侍中。長沙王乂、成都王穎之相攻也,乂以晏為前鋒都督,數交戰。永嘉中,為太尉、太將軍。

司馬晏は人となり恭順で素直であったが、才能は普通の人に及ばず、武帝の諸子の中で最も劣っていた。また若い頃から風疾(中風)を患い、視線や物の見方が定まらず、後に次第に悪化し、朝覲に耐えられなくなった。洛陽が陥落すると、司馬晏もまた害に遭い、時に三十一歳であった。湣帝が即位すると、太保を追贈された。五人の子があり、長子は名が明らかでなく、司馬晏と共に没した。残る四子は、司馬祥・司馬鄴・司馬固・司馬衍しばえんである。司馬祥は淮南王司馬允の後を嗣いだ。司馬鄴がすなわち湣帝である。司馬固は初め漢王に封ぜられ、後に済南王に改封された。司馬衍は初め新都王に封ぜられ、後に済陰王に改封され、散騎常侍となった。皆、賊(漢趙)によって殺害された。

原文晏為人恭願,才不及中人,于武帝諸子中最劣。又少有風疾,視瞻不端,後轉增劇,不堪朝覲。及洛京傾覆,晏亦遇害,時年三十一。湣帝即位,追贈太保。五子,長子不顯名,與晏同沒。餘四子:祥、鄴、固、衍。祥嗣淮南王允。鄴即湣帝。固初封漢王,改封濟南。衍初封新都王,改封濟陰,為散騎常侍。皆沒於賊。

渤海殤王司馬恢

原文渤海殤王恢

渤海殤王司馬恢、字は思度、太康五年に二歳で薨去し、追って封と諡が加えられた。

原文渤海殤王恢,字思度,太康五年薨,時年二歲,追加封諡。

元帝の四王

原文元四王

元帝に六男あり:宮人荀氏が明帝および琅邪孝王司馬裒を生んだ。石婕妤が東海哀王司馬沖を生んだ。王才人が武陵威王司馬晞を生んだ。鄭夫人が琅邪悼王司馬煥および簡文帝を生んだ。

原文元帝六男:宮人荀氏生明帝及琅邪孝王裒。石婕妤生東海哀王沖。王才人生武陵威王晞。鄭夫人生琅邪悼王煥及簡文帝。

琅邪孝王司馬裒

原文琅邪孝王裒

琅邪孝王司馬裒、字は道成、母は荀氏で、身分が低く賤しい者として宮中に入り、元帝は虞妃に彼を養育させた。司馬裒は初め叔父の長楽亭侯司馬渾の後を嗣ぎ、後に宣城郡公に転封され、後将軍を拝命した。元帝が晋王となった時、役人が太子を立てるよう上奏したが、元帝は司馬裒に成人の器量があり、明帝を超えていると考え、ゆったりと王導おうどうに言った。「子を立てるのは徳によるのであって、年齢によるのではない。」王導は言った。「世子(後の明帝)も宣城公(司馬裒)もともに聡明で優れた評判がありますが、やはり年齢を以てすべきです。」そこで太子の地位は定まった。司馬裒を琅邪王に改封し、恭王(司馬覲)の後を嗣がせ、会稽かいけい・宣城の五万二千戸を食邑とし、散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎将軍を拝命し、都に召還された。建武元年に十八歳で薨去し、車騎大将軍を追贈され、侍中を加えられた。妃の山氏が薨じた時、合葬され、穆帝はさらに司馬裒に太保を追贈した。子の哀王司馬安国が立ったが、一年も経たずに薨去した。

原文琅邪孝王裒,字道成,母荀氏,以微賤入宮,元帝命虞妃養之。裒初繼叔父長樂亭侯渾,後徙封宣城郡公,拜後將軍。及帝為晉王,有司奏立太子,帝以裒有成人之量,過於明帝,從容謂王導曰:「立子以德不以年。」導曰:「世子、宣城俱有朗雋之目,固當以年。」於是太子位遂定。更封裒琅邪,嗣恭王后,改食會稽、宣城邑五萬二千戶,拜散騎常侍、使持節、都督青徐兗三州諸軍事、車騎將軍,徵還京師。建武元年薨,年十八,贈車騎大將軍,加侍中。及妃山氏薨,祔葬,穆帝更贈裒太保。子哀王安國立,未逾年薨。

東海哀王司馬沖

原文東海哀王沖

東海哀王司馬沖、字は道讓。元帝は、東海王司馬越の世子司馬毗が石勒に捕らえられて生死不明であったため、司馬沖を司馬毗の後継ぎとし、東海世子と称させ、毗陵郡を加えて本封の邑一万戸とし、さらに下邳・蘭陵を食邑と改め、司馬越の妃裴氏を太妃とし、長水校尉を拝命させた。優秀な官僚を選んで配属し、沛国の劉耽を司馬とし、潁川の庾懌を功曹とし、呉郡の顧和を主簿しゅぼとした。永昌初年、中軍将軍に昇進し、散騎常侍を加えられた。東海太妃が薨じた時、司馬毗の喪を発した。司馬沖が王位に即き、滎陽けいようを東海国に加増され、車騎将軍に転じ、さらに驃騎将軍に転任した。咸康七年に三十一歳で薨去し、侍中・驃騎大将軍・儀同三司を追贈された。子がなかった。

原文東海哀王沖,字道讓。元帝以東海王越世子毗沒于石勒,不知存亡,乃以沖繼毗後,稱東海世子,以毗陵郡增本封邑萬戶,又改食下邳、蘭陵,以越妃裴氏為太妃,拜長水校尉。高選僚佐,以沛國劉耽為司馬,潁川庾懌為功曹,吳郡顧和為主簿。永昌初,遷中軍將軍,加散騎常侍。及東海太妃薨,因發毗喪。沖即王位,以滎陽益東海國,轉車騎將軍,徙驃騎將軍。咸康七年薨,年三十一,贈侍中、驃騎大將軍、儀同三司,無子。

成帝は臨終に際し、詔して言った。「哀王に嗣子がなく、国の統緒が絶えようとしているのは、朕が哀しみ痛むところである。末子の司馬奕しばえきを哀王の後継ぎとして東海王とするように。」道が遠いため滎陽を廃し、代わりに臨川郡を東海国に加増した。哀帝が琅邪王として帝位に即くと、司馬奕を琅邪王に転封し、東海国は空位となり、嗣子がなくなった。司馬奕は後に帝位を継承したが、桓温かんおんに廃され、再び東海王となり、その後海西公に貶められたので、東海国は再び嗣子がなくなった。隆安三年、安帝は詔を下し、会稽忠王の次子司馬彦璋を東海王とし、哀王の曾孫として後を嗣がせ、食邑を呉興郡に改めた。桓玄によって害され、国は除かれた。

原文成帝臨崩,詔曰:「哀王無嗣,國統將絕,朕所哀怛。其以小晚生奕繼哀王為東海王。」以道遠,罷滎陽,更以臨川郡益東海。及哀帝以琅邪王即尊位,徙奕為琅邪王,東海國闕,無嗣。奕後入纂大業,桓溫廢之,復為東海王,既而貶為海西公,東海國又闕嗣。隆安三年,安帝詔以會稽忠王次子彥璋為東海王,繼哀王為曾孫,改食吳興郡。為桓玄所害,國除。

武陵威王司馬晞

原文武陵威王晞

武陵威王司馬晞、字は道叔、武陵王司馬喆の後を嗣いで出て、太興元年に封を受けた。咸和初年、散騎常侍を拝命した。後に湘東を武陵国に加増し、左将軍に任じられ、鎮軍将軍に昇進し、散騎常侍を加えられた。康帝が即位すると、侍中・特進を加えられた。建元初年、秘書監を兼任した。穆帝が即位すると、鎮軍大将軍に転じ、太宰に昇進した。太和初年、羽葆鼓吹を加えられ、朝廷では小走りせず、拝礼時に名を唱えられず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許された。固辞した。

原文武陵威王晞,字道叔,出繼武陵王喆後,太興元年受封。咸和初,拜散騎常侍。後以湘東增武陵國,除左將軍,遷鎮軍將軍,加散騎常侍。康帝即位,加侍中、特進。建元初,領秘書監。穆帝即位,轉鎮軍大將軍,遷太宰。太和初,加羽葆鼓吹,入朝不趨,贊拜不名,劍履上殿。固讓。

司馬晞は学問はなかったが武勇の才幹があり、桓温に忌まれた。簡文帝が即位すると、桓温は上表して司馬晞を弾劾した。「司馬晞は皇族の身であり、故に世に寵愛と栄光を受けていますが、王の法度に従い、己を修め行いを慎むことができず、軽薄で剽悍な者を集め、逃亡者を匿っています。また、息子の司馬綜は傲慢で残忍であり、人に虐げを加えます。袁真の叛逆には、事柄が連座しています。近頃は猜疑と恐れを抱き、乱のきっかけとなろうとしています。司馬晞の官を免じ、王として封国に帰らせ、その世子司馬綜の官を免じ、子の司馬㻱の散騎常侍を解任することを請います。」司馬㻱は梁王として司馬晞に従ったが、司馬晞が罷免されると、馬八十五匹と三百人分の杖を桓温に送り返した。桓温はさらに新蔡王司馬晃を脅迫し、司馬晞・司馬綜および著作郎殷涓・太宰長史庾倩・掾曹秀・舎人劉彊らと謀反を企てたと自白させ、彼らを捕らえて廷尉に引き渡し、誅殺を請うた。簡文帝は許さず、桓温はそこで司馬晞を新安郡に流すよう上奏し、家族も皆これに従わせ、殷涓らを族誅し、司馬晃を廃して衡陽郡に流した。

原文晞無學術而有武幹,為桓溫所忌。及簡文帝即位,溫乃表晞曰:「晞體自皇極,故寵靈光世,不能率由王度,修己慎行,而聚納輕剽,苞藏亡命。又息綜矜忍,虐加於人。袁真叛逆,事相連染。頃自猜懼,將成亂階。請免晞官,以王歸籓,免其世子綜官,解子㻱散騎常侍。」㻱以梁王隨晞,晞既見黜,送馬八十五匹、三百人杖以歸溫。溫又逼新蔡王晃使自誣與晞、綜及著作郎殷涓、太宰長史庾倩、掾曹秀、舍人劉彊等謀逆,遂收付廷尉,請誅之。簡文帝不許,溫於是奏徙新安郡,家屬悉從之,而族誅殷涓等,廢晃徙沖陽郡。

太元六年(381年)、司馬晞が新安で死去した。享年六十六歳。孝武帝は三日間にわたり西堂で哀悼し、詔を下して言った。「悲しみに打ちひしがれている。すぐに霊柩を迎え入れ、妃の応氏および故世子の梁王らの喪を改めて移し、家族は皆帰還させよ」。さらに詔を下して言った。「故前武陵王は皇極の身でありながら、自らを律し過ちを悔いていた。先朝の寛大なご意志を仰ぎ見れば、どうして情と礼を置き去りにできようか。彼を新寧郡王に追封し、邑千戸を与えよ」。司馬晞には三人の子がいた。司馬綜、司馬㻱、司馬遵である。司馬遵が後を継いだ。司馬綜は給事中を、司馬㻱は散騎郎を追贈された。十二年(387年)、司馬晞の武陵国を復活させ、司馬綜と司馬㻱はそれぞれ以前の官職を回復し、司馬㻱は梁国を継ぐことになった。

原文太元六年,晞卒于新安,時年六十六。孝武帝三日臨於西堂,詔曰:「感惟摧慟,便奉迎靈柩,並改移妃應氏及故世子梁王諸喪,家屬悉還。」復下詔曰:「故前武陵王體自皇極,克己思愆。仰惟先朝仁宥之旨,豈可情禮靡寄!其追封新甯郡王,邑千戶。」晞三子:綜、㻱、遵。以遵嗣。追贈綜給事中,㻱散騎郎。十二年,追復晞武陵國,綜、㻱各復先官,㻱還繼梁國。

梁王司馬㻱は、字を賢明といい、梁王司馬翹の後を継いだ。官は永安太僕に至り、父の司馬晞とともに廃された。死去し、子の司馬和が後を継いだ。太元年中に国が復活した。死去し、子の司馬珍之が後を継いだ。桓玄が帝位を簒奪すると、国人の孔樸が司馬珍之を奉じて寿陽に逃れた。桓玄が敗れると、司馬珍之は朝廷に帰順した。大将軍武陵王(司馬遵)が令を下して言った。「梁王司馬珍之は道理を悟り貞節を立て、危険を冒して難を避け、義を撫で順を懐き、朝廷に駆けつけた。寿陽が混乱する中にあって、危機にありながらよく固守した。よって通直散騎郎に任じることを認める」。累進して遊撃将軍、左衛、太常となった。劉裕が姚泓を討伐する際、諮議参軍を請うた。劉裕が王室を弱体化させようとすると、罪をでっち上げて彼を殺害した。

原文梁王㻱,字賢明,出繼梁王翹,官至永安太僕,與父晞俱廢。薨,子和嗣。太元中復國。薨,子珍之嗣。桓玄篡位,國人孔樸奉珍之奔于壽陽。桓玄敗,珍之歸朝廷。太將軍武陵王令曰:「梁王珍之理悟貞立,蒙險違難,撫義懷順,載奔闕庭。值壽陽擾亂,在危克固,且可通直散騎郎。」累遷遊擊將軍、左衛、太常。劉裕伐姚泓,請為諮議參軍。裕將弱王室,誣其罪害之。

忠敬王司馬遵は、字を茂遠といった。初め新寧王を襲封した時、十二歳で、拝命の際に涙を流し、その哀しみは左右の者を感動させた。右将軍桓伊がかつて司馬遵を訪ねたことがあった。司馬遵は「門はなぜ桓氏を通したのか」と言った。左右の者が「桓伊は桓溫とは遠縁の同族で、会っても差し支えありません」と言うと、司馬遵は「私は木偏の姓の者と聞けば、殺したいと思うのに、ましてや桓氏の者たちをどうして許せようか」と言った。これにより幼くして聡明さを称えられた。司馬晞が武陵王に追復されると、司馬遵が後を継ぎ、散騎常侍、秘書監、太常、中領軍を歴任した。桓玄が権力を握ると、金紫光禄大夫に任じられた。桓玄が簒奪すると、彭沢侯に降格され、封国へ赴くよう命じられた。石頭に到着した時、夜に波が淮水に入り込み、船が破損して出発できなかった。ちょうど義軍が興ると、再び都の邸宅に戻った。朝廷は密詔を受けたと称し、司馬遵に万機を総摂させ、侍中、大将軍を加え、東宮に移らせた。内外の者は皆敬った。百官の転任を発令し、それを制書と称した。また、教えを令書と称した。安帝が復位すると、太保に改めて任じられ、班剣二十人を加えられた。義熙四年(408年)に死去した。享年三十五歳。詔により東園の温明神器を賜り、朝服一具、衣一襲、銭百万、布千匹が与えられ、策書により太傅を追贈され、葬儀には特別な礼が加えられた。子の定王司馬季度が立ち、散騎侍郎に任じられた。死去し、子の司馬球之が立った。宋が興ると、封国は廃止された。

原文忠敬王遵,字茂遠。初襲封新甯,時年十二,受拜流涕,哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵,遵曰:「門何為通桓氏?」左右曰:「伊與桓溫疏宗,相見無嫌。」遵曰:「我聞人姓木邊,便欲殺之,況諸桓乎!」由是少稱聰慧。及晞追復封武陵王,以遵嗣,歷位散騎常侍、秘書監、太常、中領軍。桓玄用事,拜金紫光祿大夫。玄篡,貶為彭澤侯,遣之國。行次石頭,夜濤水入淮,船破,未得發。會義旗興,復還國第。朝廷稱受密詔,使遵總攝萬機,加侍中、大將軍,移入東宮,內外畢敬。遷轉百官,稱制書;又教稱令書。安帝反正,更拜太保,加班劍二十人。義熙四年薨,時年三十五,詔賜東園溫明神器,朝服一具,衣一襲,錢百萬,布千匹,策贈太傳,葬加殊禮。子定王季度立,拜散騎侍郎。薨,子球之立。宋興,國除。

琅邪悼王司馬煥

原文琅邪悼王煥

琅邪悼王司馬煥は、字を耀祖といった。母は寵愛を受け、元帝から特に鍾愛された。初め帝の弟の長楽亭侯司馬渾の後を継ぎ、後に顕義亭侯に封じられた。尚書令の刁協が上奏した。「昔、魏の臨淄侯(曹植)は邢顒を家丞とし、劉楨を庶子とした。今、侯は幼弱ですので、明徳を選ぶべきです」。帝は令を下して言った。「臨淄侯は万戸の封であり、また曹植は若くして美才があり、田蘇と遊ぶことができた。今、この子は晩年に生まれ蒙弱である。どうしてこれと比べられようか! 近頃この子を封じたのは、幼い子を寵愛するためではない。亡き弟が継嗣となるべきであったが、叶わなかっただけだ。家丞や庶子は、祠祭を取り仕切るのに足りるだけであって、どうして賢才を屈して無用の任に就かせることがあろうか」。司馬煥の病が重くなると、帝は食事を控え、ついに詔を下して琅邪王に封じ、恭王の後を継がせた。間もなく死去した。二歳であった。

原文琅邪悼王煥,字耀祖。母有寵,元帝特所鍾愛。初繼帝弟長樂亭侯渾,後封顯義亭侯。尚書令刁協奏:「昔魏臨淄侯以邢顒為家丞,劉楨為庶子。今侯幼弱,宜選明德。」帝令曰:「臨淄萬戶封,又植少有美才,能同游田蘇者。今晚生矇弱,何論於此!間封此兒,不以寵稚子也。亡弟當應繼嗣,不獲已耳。家丞、庶子,足以攝祠祭而已,豈宜屈賢才以受無用乎!」及煥疾篤,帝為之撤膳,乃下詔封為琅邪王,嗣恭王後,俄而薨,年二歲。

帝は限りなく悼み、葬送に際し、司馬煥がすでに諸侯国に封じられていることから、成人の礼を加え、詔を下して凶門柏歴を立て、吉凶の儀礼の服を備え、陵園を営造したが、労役は非常に多かった。琅邪国右常侍会稽の孫霄が上疏して諫めた。

原文帝悼念無已,將葬,以煥既封列國,加以成人之禮,詔立凶門柏曆,備吉凶儀服,營起陵園,功役甚眾。琅邪國右常侍會稽孫霄上疏諫曰:

臣は聞く。法度と典制は、先王が重んじられたものであり、吉凶の礼は、事が過ぎないことを貴ぶと。このため、世が豊かでも奢侈放縦に走らせず、凶作飢饉の時には必ず倹約と抑制を務めるのである。朝聘や嘉会は、学校の儀礼を示すのに足りる。殯葬と送終は、哀栄の情に相応しく務めるべきである。上に奢侈泰平の誤りがなく、下に窮乏困窮の苦しみがない。ゆえに華元が厚葬した時、君子は臣下の道に反すると言い、嬴博で極めて倹約な葬儀を行った時、仲尼(孔子)は礼に合っていると称えたのである。礼は、財を損ない時を害することを明らかにし、古人がこれを譏った。節倹と簡約は、聖賢がこれを嘉したのである。言葉に言う、上が下を化するのは、風が草をなびかせるようだと。京邑は威儀正しく、四方の模範となる。教化と法制を明らかにすることは、慎重でなければならない。陛下が即位され、微を興し弊を済まされ、聖なるお心は労苦と謙虚さをもって、簡素と倹約に従うことを務められ、旧制を手本とされながらも、なお倹約しようとされ、礼典にないものを、かえって飾り立てることは、臣の愚かな心情としてひそかに不安に思うところです。棺や槨、輿や服、旒の類いは、礼典の旧制であり、廃止したり欠いたりしてはならない。凶門柏歴は、礼典にないもので、天気が良ければ用いる必要がなく、雨に遭えば益がない。これは最も倹約すべきものです。もし琅邪一国が一時的に用いるだけなら、大きな費用とはなりませんが、臣は機密に近い立場にあり、言うべきではないことを申し上げます。今、朝廷が置かれている場所には、王公百官が都に集まっており、喪事があるたびに、皆、材木数百、竹の簾数千を供給し、凶門の両表に細竹や材木で衣を着せなければなりません。価格が既に高く、また凶事の哀しみを表すのに相応しくもありません。このように過度に飾るのは、粗末で簡素なものに従うべきです。

原文臣聞法度典制,先王所重,吉凶之禮,事貴不過。是以世豐不使奢放,凶荒必務約殺。朝聘嘉會,足以展庠序之儀;殯葬送終,務以稱哀榮之情。上無奢泰之謬,下無匱竭之困。故華元厚葬,君子謂之不臣;嬴博至儉,仲尼稱其合。禮明傷財害時,古人之所譏;節省簡約,聖賢之所嘉也。語曰,上之化下,如風靡草。京邑翼翼,四方所則,明教化法制,不可不慎也。陛下龍飛踐阼,興微濟弊,聖懷勞謙,務從簡儉,憲章舊制,猶欲節省,禮典所無,而反尚飾,此臣愚情竊所不安也。棺槨輿服旒之屬,禮典舊制,不可廢闕。凶門柏曆,禮典所無,天晴可不用,遇雨則無益,此至宜節省者也。若琅邪一國一時所用,不為大費,臣在機近,義所不言。今天台所居,王公百僚聚在都輦,凡有喪事,皆當供給材木百數、竹薄千計,凶門兩表,衣以細竹及材,價直既貴,又非表凶哀之宜,如此過飾,宜從粗簡。

また『礼記』を調べると、国君の葬儀では、棺と槨の間に柷(楽器)が入る余地があり、大夫では壺が入り、士では甒が入るとある。壺と甒を差とすれば、柷は壺より明らかに大きいことが分かる。槨は棺を囲むが、槨はそれほど大きくはない。言葉に言う、葬とは蔵かくすことである。蔵するには深くて堅固であることを望む。槨が大きければ堅固にすることが難しく、送終に益がなく、財力に損害がある。凶作飢饉の時には礼を抑制するのは、国を治める常典である。既に減殺しているのに、なお旧制を超えるのは、国が厚く惜しむところです。また礼によれば、葬送に際しては、柩を廟に移して祖道の儀を行い、墓に至ればすぐに窆ほうむり、葬ったその日に反哭して虞祭を行う。このようにすれば、柩は墓の上に宿ることはない。聖人は、親が土中にいることを哀しまないわけではなく、丘墓に対して無情なわけでもないが、墓は神霊を安んじる場所ではないため、殯宮で虞祭を行うのである。初めから山陵に草宮を営み、神柩を墓の側に遷すのは、また典拠に合わない。礼に合わないことをもって、万国を教え導くことはできません。

原文又案《禮記》,國君之葬,棺槨之間容柷,大夫容壼,士容甒。以壼甒為差,則柷財大於壼明矣,槨周於棺,槨不甚大也。語曰,葬者藏也,藏欲其深而固也。槨大則難為堅固,無益於送終,而有損於財力。凶荒殺禮,經國常典,既減殺而猶過舊,此為國之所厚惜也。又禮,將葬,遷柩于廟祖而行,及墓即窆,葬之日即反哭而虞。如此,則柩不宿於墓上也。聖人非不哀親之在土而無情於丘墓,蓋以墓非安神之所,故修虞于殯宮。始則營草宮于山陵,遷神柩於墓側,又非典也。非禮之事,不可以訓萬國。

臣は最も愚かで卑賤な身であり、突然に以前の過ちを改めようと求めるのは、狂瞽(狂った盲人)で忌憚を知らないと言えるでしょう。しかし今、天下は極めて疲弊しており、古来稀に見る状況です。宗廟社稷は、遠く江表の半州の地に託され、凋残は甚だしい。これに凶作と旱魃が加わり、百姓は困窮憔悴し、不足しているだけでなく、死亡を恐れている。これは陛下の至仁が哀れみ憐れむところであり、憂慮すべき最も重大なことです。まさに末俗を矯正し、改張易調(方針を改め調子を変える)すべき時にあって、なおや、既に疲弊した民を駆り立てて無益なことを営み、既に困窮した財を尽くして無用の費を修めることは、固より臣が安んじられないところです。今、琅邪国は天下の中で国が最も大きい。もし非礼の事を削減し、務めて古典に遵い、上には聖朝の簡易の至化を顕彰し、下には万世無窮の規則を示すならば、この刍蕘(草刈りや柴刈りの者、転じて卑賤な者の意見)の言葉が万一にも補い、塵露の微が山海を増すことでしょう。

原文臣至愚至賤,忽求革前之非,可謂狂瞽不知忌諱。然今天下至弊,自古所希,宗廟社稷,遠託江表半州之地,凋殘以甚。加之荒旱,百姓困瘁,非但不足,死亡是懼。此乃陛下至仁之所矜湣,可憂之至重也。正是匡矯末俗,改張易調之時,而猶當竭已罷之人,營無益之事,殫已困之財,修無用之費,此固臣之所不敢安也。今琅邪之于天下,國之最大,若割損非禮之事,務遵古典,上以彰聖朝簡易之至化,下以表萬世無窮之規則,此芻蕘之言有補萬一,塵露之微有增山海。

上表は取り上げられなかった。

原文表寢不報。

永昌元年(322年)、司馬煥の同母弟の司馬昱いくしばいくを琅邪王に立てた。これが簡文帝である。咸和二年(327年)、会稽に転封し、康帝を琅邪王とした。康帝が即位すると、哀帝が琅邪王となった。哀帝が即位すると、廃帝が琅邪王となった。廃帝が即位すると、また簡文帝に琅邪王国の祭祀を行わせた。簡文帝が即位すると、国はついに後継者がいなくなった。帝は臨終に際し、末子の司馬道子を琅邪王に封じた。太元十七年(392年)、司馬道子が会稽王となると、代わりに恭帝を琅邪王とした。恭帝が即位すると、ここに琅邪国は廃止された。

原文永昌元年,立煥母弟昱為琅邪王,即簡文帝也。咸和二年,徙封會稽,以康帝為琅邪王。康帝即位,哀帝為琅邪王。哀帝即位,廢帝為琅邪王。廢帝即位,又以簡文帝攝行琅邪王國祀。簡文登阼,國遂無嗣。帝臨崩,封少子道子為琅邪王。太元十七年,道子為會稽王,更以恭帝為琅邪王。恭帝即位,於是琅邪國除。

簡文帝の三人の子

原文簡文三子

簡文帝の七人の子:王皇后が会稽思世子の道生と皇子の俞生を生んだ。胡淑儀が臨川献王の郁と皇子の朱生を生んだ。王淑儀が皇子の天流を生んだ。李夫人が孝武帝と会稽文孝王の道子を生んだ。俞生、朱生、天流はいずれも早世したので、ここではすべて省略する。

原文簡文帝七子:王皇后生會稽思世子道生、皇子俞生。胡淑儀生臨川獻王郁、皇子朱生。王淑儀生皇子天流。李夫人生孝武帝、會稽文孝王道子。俞生、朱生、天流並早夭,今並略之。

会稽思世子道生

原文會稽思世子道生

会稽思世子道生、字は延長。帝が会稽王であった時、道生を世子に立て、散騎侍郎・給事中に任じた。性質は粗略で落ち着きがなく、行いを修めず、礼節を欠くことが多く、ついに幽閉されて廃嫡され、そのまま死去した。時に二十四歳、後継ぎがなかった。孝武帝が即位した後、ある昼間に道生と臨川献王の郁を見たことがあり、郁が言うには、「大郎(道生)は飢えと苦労に苛まれている」と言い終わると見えなくなった。帝は感傷にふけり、西陽王司馬羕の玄孫である珣之を後継ぎとした。珣之は呉興太守を歴任した。劉裕が関中を征伐した時、諮議参軍に任じた。当時、帝室の道は衰えつつあり、珣之は宗室の優れた人物として、梁王の珍之とともに害された。

原文會稽思世子道生,字延長。帝為會稽王,立道生為世子,拜散騎侍郎、給事中。性疏躁,不修行業,多失禮度,竟以幽廢而卒,時年二十四,無後。及孝武帝即位,嘗晝日見道生及臨川獻王郁,鬱曰:「大郎饑乏辛苦。」言竟不見。帝傷感,因以西陽王錄玄孫珣之為後。珣之曆吳興太守。劉裕之伐關中,以為諮議參軍。時帝道方謝,珣之為宗室之美,與梁王珍之俱被害。

臨川献王郁

原文臨川獻王鬱

臨川献王郁、字は深仁、幼い頃から聡明で賢かった。道生が当初、無礼な振る舞いで帝の意に背いた時、郁はたびたび敬虔で慎み深い道を勧めた。道生は受け入れず、郁はそのために涙を流し、簡文帝は彼を非常に高く評価し、異才と見なした。十七歳で薨去した。しばらくして、献世子と追諡された。寧康初年、左将軍を追贈され、散騎常侍を加えられ、郡王を追封され、武陵威王の曾孫である宝が後嗣とされた。その母の胡淑儀は臨川太妃と追尊された。

原文臨川獻王鬱,字深仁,幼而敏慧。道生初以無禮失旨,鬱數勸以敬慎之道。道生不納,鬱為之流涕,簡文帝深器異之。年十七而薨。久之,追諡獻世子。甯康初,贈左將軍,加散騎常侍,追封郡王,以武陵威王曾孫寶為嗣,追尊其母胡淑儀為臨川太妃。

宝は字を弘文といい、秘書監・太常・左将軍・散騎常侍・護軍将軍を歴任した。宋が興ると、金紫光禄大夫とされ、西豊侯に降格され、食邑千戸を与えられた。

原文寶字弘文,曆秘書監、太常、左將軍、散騎常侍、護軍將軍。宋興,以為金紫光祿大夫,降為西豐侯,食邑千戶。

会稽文孝王道子

原文會稽文孝王道子

会稽文孝王道子、字は道子。琅邪孝王の後を継いだ。幼少の頃、清らかで淡泊な性格を謝安しゃあんに称賛された。十歳の時、琅邪王に封じられ、食邑一万七千六百五十一戸を与えられ、会稽国の五万九千百四十戸を摂領した。太元初年、散騎常侍・中軍将軍に任じられ、驃騎将軍に進んだ。後に公卿が上奏した。「道子は親族の中で賢者に次ぐ者なく、司徒の位に正すべきです」。固辞して受けなかった。尚書六条事を管轄させ、まもなく開府を加えられ、司徒を領した。謝安が薨去すると、詔が下った。「新たに賢明な補佐役を失い、華夷が未だ一つになっていない。明らかな賢者で徳が盛んな者でなければ、内外を安んじ治めることはできない。司徒・琅邪王の道子は道を体して自然であり、識見は優れて遠大である。まさに周公旦や召公奭のような重責に当たり、二南(周南・召南、すなわち王政)の任を総べるにふさわしい。揚州刺史しし・録尚書・仮節・都督中外諸軍事を領することを許す。衛府の文武官は、すべて驃騎府に配属せよ」。辞退して受けなかった。数年後、徐州刺史・太子太傅を領した。公卿がまた上奏した。「丞相・揚州牧・仮黄鉞に進位し、羽葆鼓吹を与えるべきです」。すべて辞退して受けなかった。

原文會稽文孝王道子,字道子。出後琅邪孝王,少以清澹為謝安所稱。年十歲,封琅邪王,食邑一萬七千六百五十一戶,攝會稽國五萬九千一百四十戶。太元初,拜散騎常侍、中軍將軍,進驃騎將軍。後公卿奏:「道子親賢莫二,宜正位司徒。」固讓不拜。使隸尚書六條事,尋加開府,領司徒。及謝安薨,詔曰:「新喪哲輔,華戎未一,自非明賢懋德,莫能綏禦內外。司徒、琅邪王道子體道自然,神識穎遠,實當旦奭之重,宜總二南之任,可領揚州刺史、錄尚書、假節、都督中外諸軍事。衛府文武,一以配驃騎府。」讓不受。數年,領徐州刺史、太子太傅。公卿又奏:「宜進位丞相、揚州牧、假黃鉞,羽葆鼓吹。」並讓不受。

当時、孝武帝は万機を親裁せず、ただ道子と酒宴を開き歌うことに専念し、老女の乳母や尼僧と特に親密になり、彼らもこっそりと権力を弄んだ。寵愛して取り立てた者は、すべて小者(下級役人や側近)から出ていた。郡守や長吏の多くは、道子によって任命されていた。揚州の総録(録尚書事)となってからは、その勢いは天下を傾け、これにより朝廷内外の者が奔走して集まった。中書令の王國宝は性質が卑しくへつらう者で、特に道子に寵愛された。官職は賄賂によって昇進し、政令と刑罰は混乱した。また仏教を崇信し、費用は奢侈を極め、下民はその命令に耐えられなかった。太元以後は、長夜の宴を開き、髪はぼうぼうで目はぼんやりし、政事は多く欠けていた。桓玄がある時道子を訪ねたが、ちょうど彼が酔っている時にあたり、賓客が満座していた。道子は目を見開いて人に向かって言った。「桓溫は晩年に賊を起こそうとしたというが、どういうことか?」。玄は地に伏して汗を流し、起き上がることができなかった。長史の謝重が手板を挙げて答えた。「故宣武公(桓温)は昏君を退け聖主を立て、その功績は伊尹や霍光を超えております。さまざまな議論は、陛下のご聡明な判断にお任せすべきです」。道子はうなずいて言った。「わしは知っている、知っている」。そして酒を挙げて玄に勧めたので、玄はようやく起き上がることができた。これにより玄はますます不安を感じ、道子に対して歯ぎしりするほど恨んだ。

原文于時孝武帝不親萬機,但與道子酣歌為務,姏姆尼僧,尤為親暱,並竊弄其權。凡所幸接,皆出自小豎。郡守長吏,多為道子所樹立。既為揚州總錄,勢傾天下,由是朝野奔湊。中書令王國寶性卑佞,特為道子所寵昵。官以賄遷,政刑謬亂。又崇信浮屠之學,用度奢侈,下不堪命。太元以後,為長夜之宴,蓬首昏目,政事多闕。桓玄嘗候道子,正遇其醉,賓客滿坐,道子張目謂人曰:「桓溫晚途欲作賊,云何?」玄伏地流汗不得起。長史謝重舉板答曰:「故宣武公黜昏登聖,功超伊霍,紛紜之議,宜裁之聽覽。」道子頷曰:「儂知儂知。」因舉酒屬玄,玄乃得起。由是玄益不自安,切齒于道子。

当時、朝政はすでに乱れており、左衛領営将軍の会稽郡出身の許榮が上疏した。「現在、台府の局吏・直衛の武官、および僕や隷、婢の子で母の姓を名乗る者は、もともと奴隷の類であり、郷里の品第もない者たちが、みな命令や議論に参与でき、郡守や県令に任用され、しかも官職を帯びて朝廷内におり、事務を小吏の手に委ねている。僧尼や乳母は、競って親族や仲間を推挙し、また賄賂を受け取って、しばしば官職に臨み衆を統率している。衛青や霍去病の才能もないのに、古人に比肩しようとしている。これが第一の禍患です。臣は聞くに、仏とは清らかで遠大、玄妙で虚無の神であり、五戒を教えとし、酒を絶ち淫らな行いをしない。しかし現在これを奉ずる者は、尼僧を汚し侮り、酒色にふけっている。これが第二の違背です。人を死に至らしめるのは、必ずしも手ずから刃で害するとは限らない。もし政教が公平でなく、無罪の者を暴虐に扱えば、必ず天命を損なう。これが第三の違背です。盗みをする者は、必ずしも自ら人の財を窃取するとは限らない。江乙の母が布を失った罪は、令尹にあった。今、禁令が明らかでなく、公然と強盗が行われている。これが第四の違背です。上に立つ者が下を教化するには、必ず信義を根本とすべきである。かつて詔書を下し、臣下に規諫を尽くさせたが、多くの意見が集まったにもかかわらず、採用されなかった。これが第五の違背です。尼僧は群れをなして、法衣に依拠している。粗末な戒律でさえまだ遵守できないのに、まして精妙な教えなどなおさらである。それなのに、惑わされた者たちは競って彼らを敬い仕え、また百姓を侵害し漁り、財物を取って施しと称しているが、これも布施の道には合致していない」。また「太子は東宮に出て臨み、徳業を奨励すべきである」と陳べた。上疏が奏上されたが、いずれも省みられなかった。中書郎の范甯もまた得失を深く陳べた。帝はこれにより次第に道子に対して不満を抱くようになったが、表向きは常に彼を優遇し尊んだ。國宝は范甯の甥であったが、道子にへつらって仕えたため、范甯は彼を罷免するよう上奏した。國宝は恐れ、陳郡の袁悅之に尼僧の妙音を通じて太子の母である陳淑媛に手紙を届けさせ、國宝が忠実で謹直であるから親しく信頼すべきだと説かせた。帝は怒りを発し、悅之を斬った。國宝は非常に恐れ、また密かに帝に范甯を讒言した。帝はやむを得ず、涙を流して范甯を豫章太守として出向させた。道子はこれにより専横にふけるようになった。

原文于時朝政既紊,左衛領營將軍會稽許榮上疏曰:「今台府局吏、直衛武官及僕隸婢兒取母之姓者,本臧獲之徒,無鄉邑品第,皆得命議,用為郡守縣令,並帶職在內,委事於小吏手中;僧尼乳母,競進親黨,又受貨賂,輒臨官領眾。無衛霍之才,而比方古人,為患一也。臣聞佛者清遠玄虛之神,以五誡為教,絕酒不淫。而今之奉者,穢慢阿尼,酒色是耽,其違二矣。夫致人於死,未必手刃害之。若政教不均,暴濫無罪,必夭天命,其違三矣。盜者未必躬竊人財,江乙母失布,罪由令尹。今禁令不明,劫盜公行,其違四矣。在上化下,必信為本。昔年下書,敕使盡規,而眾議兼集,無所採用,其違五矣。尼僧成群,依傍法服。誡粗法,尚不能遵,況精妙乎!而流惑之徒,競加敬事,又侵漁百姓,取財為惠,亦未合佈施之道也。」又陳「太子宜出臨東宮,克獎德業」。疏奏,並不省。中書郎范甯亦深陳得失,帝由是漸不平于道子,然外每優崇之。國寶即寧之甥,以諂事道子,寧奏請黜之。國寶懼,使陳郡袁悅之因尼妙音致書與太子母陳淑媛,說國寶忠謹,宜見親信。帝因發怒,斬悅之。國寶甚懼,復潛甯於帝。帝不獲已,流涕出甯為豫章太守。道子由是專恣。

寵愛する者である趙牙は優伶・倡優の出身であり、茹千秋はもともと銭塘の捕賊吏であったが、賄賂とへつらいによって取り立てられ、道子は趙牙を魏郡太守に、茹千秋を驃騎諮議参軍に任じた。趙牙は道子のために東の邸宅を造営し、山を築き池を穿ち、竹や木を植え並べ、費用は巨万にのぼった。道子は宮人に酒屋を営ませ、水辺で酒を売らせ、親しい者と船に乗ってそこに行き飲宴し、笑い楽しんだ。帝はかつてその邸宅に行幸し、道子に言った。「邸内に山があり、それによって遊覧できるのは、とても良いことだ。しかし、装飾が過ぎており、天下に倹約を示すものではない」。道子は返答できず、ただ「はい、はい」と言うだけで、左右の侍臣も敢えて言う者はなかった。帝が宮中に戻ると、道子は趙牙に言った。「上(帝)がもし山が板築(型枠で土を固めて築く工法)で作られたものだと知ったら、お前は必ず死罪になるだろう」。趙牙は言った。「公(道子)がおられれば、趙牙どうして死ぬことができましょうか!」。造営はますます甚だしくなった。茹千秋は官爵を売り、集めた財貨は億単位に累積した。

原文嬖人趙牙出自優倡,茹千秋本錢塘捕賊吏,因賂諂進,道子以牙為魏郡太守,千秋驃騎諮議參軍。牙為道子開東第,築山穿池,列樹竹木,功用钜萬。道子使宮人為酒肆,沽賣于水側,與親昵乘船就之飲宴,以為笑樂。帝嘗幸其宅,謂道子曰:「府內有山,因得遊矚,甚善也。然修飾太過,非示天下以儉。」道子無以對,唯唯而已,左右侍臣莫敢有言。帝還宮,道子謂牙曰:「上若知山是板築所作,爾必死矣。」牙曰:「公在,牙何敢死!」營造彌甚。千秋賣官販爵,聚資貨累億。

また、司馬道子は皇太妃(簡文帝の母)に寵愛され、家族同様の礼遇を受けていたため、その寵愛を恃んで酒に乗じ、しばしば礼儀を失っていた。皇帝(孝武帝)はますます不満を募らせたが、太妃の故を慮り、道子の礼遇と官位を高く保った。博平県令の呉興郡出身の聞人奭が上疏して言った。「驃騎諮議参軍の茹千秋は宰相(道子)を補佐し、微賤の身から出て、ひそかに権威を弄び、官職を売り捌いています。その子の寿齢は楽安県令となり、汚職がひどく、法を恐れて逃亡しましたが、結局罪に問われることもなく、傲然と県に戻りました。また、尼や老女の類が時勢を傾け乱しています。穀物は安く人々は飢え、流民と餓死者が絶えません。これは百姓が貧しく、租税や労役が苛烈なためです。また、振武将軍の庾恆が京師で角笛を鳴らし、主簿の戴良夫が苦言を諫めて囚われ、命を落とすところでした。しかし庾恆は酒に酔ったことで怒りを買っただけなのに、戴良夫は忠誠を貫いたことで職を追われました。また、権勢と寵愛を受ける臣下たちはそれぞれ小規模な府を開き、属官を置いていますが、官には益なく、国には損害です。」上疏が奏上されると、皇帝はますます不満を抱いたが、太妃に迫られて、誰も罷免・左遷できず、やむなく王恭を兗州刺史に、殷仲堪を荊州刺史に、王珣を尚書僕射ぼくやに、王雅を太子少傅に任じて外に出し、王室を強固にすると称しながら、密かに道子を牽制した。道子は再び王緒を重用したため、徒党が競って扇動し、兄弟の情愛は尽き果てた。太妃はたびたび和解させようとしたが、道子は改めようとしなかった。

原文又道子既為皇太妃所愛,親遇同家人之禮,遂恃寵乘酒,時失禮敬。帝益不能平,然乙太妃之故,加崇禮秩。博平令吳興聞人奭上疏曰:「驃騎諮議參軍茹千秋協輔宰相,起自微賤,竊弄威權,衒賣天官。其子壽齡為樂安令,贓私狼藉,畏法奔逃,竟無罪罰,傲然還縣。又尼姏屬類,傾動亂時。穀賤人饑,流殣不絕,由百姓單貧,役調深刻。又振武將軍庾恆鳴角京邑,主簿戴良夫苦諫被囚,殆至沒命。而恆以醉酒見怒,良夫以執忠廢棄。又權寵之臣,各開小府,施置吏佐,無益於官,有損于國。」疏奏,帝益不平,而逼於太妃,無所廢黜,乃出王恭為兗州,殷仲堪為荊州,王珣為僕射,王雅為太子少傳,以張王室,而潛制道子也。道子復委任王緒,由是朋黨競扇,友愛道盡。太妃每和解之,而道子不能改。

中書郎の徐邈は、国の最も近い親族は道子だけであるとして、仲睦まじくすべきだとし、穏やかに皇帝に言った。「昔、漢の文帝のような明主でも、淮南王(劉長)の件を後悔しました。世祖(光武帝)のような聡明な君主でも、斉王(劉縯)に対しては負い目を感じました。兄弟の間柄は、実に深く慎むべきです。」皇帝はこれを聞き入れ、以前のように道子を重用した。

原文中書郎徐邈以國之至親,唯道子而已,宜在敦穆,從容言於帝曰:「昔漢文明主,猶悔淮南;世祖聰達,負愧齊王。兄弟之際,實宜深慎。」帝納之,復委任道子如初。

当時、『雲中詩』という詩を作って朝廷を風刺する者がいた。その詩はこう言う。「相王(道子)は酔い痴れ、軽率に命令を出す。賊を捕らえる千秋(茹千秋)が、朝政に干渉する。王愷は常道を守り、王國寶は奔走して競う。荊州(王忱)は度量が大きく、放縦で名状しがたい。盛んな徳の流れは、法護(王珣)と王寧(王恭)。仲堪と仙民(徐邈)は、特に言葉と詩詠がある。東山の安道(戴逵)は、操りを高く保ち抗う。どうして彼を召し出さないのか、朝臣の棟梁とすべきなのに。」ここで「荊州」とは王忱を指す。「法護」は王珣のこと。「寧」は王恭のこと。「仙民」は徐邈の字。「安道」は戴逵の字である。

原文時有人為《雲中詩》以指斥朝廷曰:「相王沈醉,輕出教命。捕賊千秋,干豫朝政。王愷守常,國寶馳競。荊州大度,散誕難名;盛德之流,法護、王寧;仲堪、仙民,特有言詠,東山安道,執操高抗,何不徵之,以為朝匠?」荊州,謂王忱也;法護,即王殉;甯,即王恭;仙民,即徐邈字;安道,戴逵字也。

恭帝(司馬徳文しばとくぶん)が琅邪王となった時、司馬道子は会稽国に封ぜられ、宣城郡と合わせて五万九千戸を領した。安帝が即位すると、有司が上奏した。「道子は太傅・揚州牧・中書監に進位し、黄鉞を仮授され、特別な礼遇を備えるべきです。」道子は固辞して受けず、徐州刺史の任も解かれた。詔により、内外の諸事は、動静を問わず道子に諮問することとされた。皇帝が元服すると、道子は叩頭して政権を返上した。王國寶が初めて国政の実権を握り、その勢いは朝廷を圧した。王恭は兵を挙げてこれを討とうとした。道子は恐れ、國寶を捕らえて廷尉に引き渡し、その弟の子で琅邪内史の王緒もろとも斬首し、王恭に謝罪した。王恭は直ちに兵を引いた。道子は中外都督・録尚書事の職を解いて地方の長官に謝罪したいと願い出たが、詔は許さなかった。

原文及恭帝為琅邪王,道子受封會稽國,並宣城為五萬九千戶。安帝踐阼,有司奏:「道子宜進位太傅、揚州牧、中書監,假黃鉞,備殊禮。」固辭不拜,又解徐州。詔內外眾事,動靜諮之。帝既冠,道子稽首歸政,王國寶始總國權,勢傾朝廷。王恭乃舉兵討之。道子懼,收國實付廷尉,並其徒弟琅邪內史緒悉斬之,以謝於恭,恭即罷兵。道子乞解中外都督、錄尚書以謝方嶽,詔不許。

道子の世子の元顕は当時十六歳で侍中であったが、王恭を憎み、道子に王恭討伐を請うた。そこで元顕を征虜将軍に任じ、以前の衛府と徐州の文武官をすべてその配下につけた。ちょうど道子の妃が亡くなった時、皇帝は詔を下して言った。「会稽王妃は尊賢の心に二つなく、朕は親族同様の義を以てする。今、葬儀には特別な礼を加え、すべて琅邪穆太妃の先例に従う。元顕は早くから令名があり光り輝き、朕の心の寄せるところであり、誠実で孝行な心は厚く、深い悲しみは取り除きがたい。しかし、家事を理由に王事を辞さないのは、『春秋』の明らかな義である。私的な喪服期間で公の制度に違わないのは、中世の変礼である。故に閔子騫は喪服の帯を腰に巻き、山濤は王命に迫られて出仕した。まことに至親の情は内から発するが、外面に表れる作法は、礼はあっても時機を失うことがあり、賢哲はこれに順応する。妃の葬儀が終わり次第、元の通り職務に就くことを許す。」

原文道子世子元顯,時年十六,為侍中,心惡恭,請道子討之。乃拜元顯為征虜將軍,其先衛府及徐州文武悉配之。屬道子妃薨,帝下詔曰:「會稽王妃尊賢莫二,朕義同所親。今葬加殊禮,一依琅邪穆太妃故事。元顯夙令光懋,乃心所寄,誠孝性蒸蒸,至痛難奪。然不以家事辭王事,《陽秋》之明義;不以私限違公制,中代之變禮。故閔子腰絰,山王逼屈。良以至戚由中,軌容著外,有禮無時,賢哲斯順。須妃葬畢,可居職如故。」

当時、王恭の威勢は内外に響き渡り、道子は非常に恐れた。再び譙王の司馬尚之を引き入れて腹心とした。尚之は道子に説いて言った。「地方の長官が強盛で、宰相の権力が軽い。密かに勢力を築き、自らの守りとすべきです。」道子は大いにそうだと思い、その司馬の王愉を江州刺史として王恭に備えさせ、尚之らと日夜謀議を重ね、四方の隙をうかがった。王恭はこれを知り、再び兵を挙げ、尚之を討つことを名目とした。荊州刺史の殷仲堪、豫州刺史の庾楷、広州刺史の桓玄がこれに呼応した。道子は人を遣わして庾楷を説得して言った。「本来の情誼は厚く、断金の契りと言えた。往年、陣中の酒宴で交わした固い約束を、どうして忘れられようか!卿は今、旧交を捨てて新たな後ろ盾と結び、王恭がかつて君を侮辱した恥を忘れるのか。もし恭に身を委ねて臣従しようとするなら、恭が志を遂げた時、卿を裏切り者と見なして、必ず信頼せず、どうして富貴を保てようか。災いと敗北もまたすぐに及ぶであろう。」庾楷は怒って言った。「王恭がかつて先帝の山陵に赴いた時、相王(道子)は憂慮し恐れて策がなく、私は事態が急であると知り、すぐに兵を率いて駆けつけた。去年の件(王恭の挙兵)でも、命令を待って奮戦した。私が相王に仕えて、背いたことはない。王恭を防ぐことができないばかりか、かえって國寶を殺した。あの時以来、誰が再び君の事のために袖をまくり上げようか!庾楷は実に百人の家族を連れて他人の滅亡を助けることはできない。天下と共に挙兵し、奸臣を誅滅するのだ。どうして府が開かれず、爵位が与えられないことを憂えようか!」当時、庾楷はすでに王恭の檄に応じ、兵馬を召集していた。返書が届くと、朝廷は憂慮し恐れ、内外に戒厳令を敷いた。元顕は袖をまくり、慷慨として道子に言った。「去年、王恭を討たなかったために、今の事態を招きました。今また彼の意のままに従えば、太宰(道子)の禍が訪れます。」道子は毎日濃い酒を飲み、政務を元顕に委ねた。元顕は年少ながらも聡明で多くのことに通じ、志気は果断で鋭く、安危を己が任とした。尚之がその補佐となった。当時、付和雷同する者たちは皆、元顕には明帝(司馬紹しばしょう)の神武の風があると言った。そこで元顕を征討都督・仮節に任じ、前将軍の王珣、左将軍の謝琰、および将軍の桓之才、毛泰、高素などを統率させて王恭を討伐し、滅ぼした。

原文于時王恭威振內外,道子甚懼,復引譙王尚之以為腹心。尚之說道子曰:「籓伯強盛,宰相權輕,宜密樹置,以自籓衛。」道子深以為然,乃以其司馬王愉為江州刺史以備恭,與尚之等日夜謀議,以伺四方之隙。王恭知之,復舉兵,以討尚之為名。荊州刺史殷仲堪、豫州刺史庾楷、廣州刺史桓玄並應之。道子使人說楷曰:「本情相與,可謂斷金。往年帳中之飲,結帶之言,寧可忘邪!卿今棄舊交,結新援,忘王恭疇昔陵侮之恥乎,若乃欲委體而臣之。若恭得志,以卿為反覆之人,必不相信,何富貴可保,禍敗亦旋及矣!」楷怒曰:「王恭昔赴山陵,相王憂懼無計,我知事急,即勒兵而至。去年之事,亦俟命而奮。我事相王,無相負者。既不能距恭,反殺國寶。自爾已來,誰復敢攘袂於君之事乎!庾楷實不能以百口助人屠滅,當與天下同舉,誅鉏奸臣,何憂府不開,爵不至乎!」時楷已應恭檄,正徵士馬。信反,朝廷憂懼,於是內外戒嚴。元顯攘袂慷慨謂道子曰:「去年不討王恭,致有今役。今若復從其欲,則太宰之禍至矣。」道子日飲醇酒,而委事於元顯。元顯雖年少,而聰明多涉,志氣果銳,以安危為己任。尚之為之羽翼。時相傅會者,皆謂元顯有明帝神武之風。於是以為征討都督、假節,統前將軍王珣、左將軍謝琰及將軍桓之才、毛泰、高素等伐恭,滅之。

やがて楊佺期、桓玄、殷仲堪らが再び石頭城に迫ると、元顕は竹裏から急いで京師に戻り、丹陽尹の王愷、鄱陽太守の桓放之、新蔡内史の何嗣、潁川太守の溫詳、新安太守の孫泰らに命じ、京師の士人と庶民数万人を動員して石頭城を占拠させ、敵を防がせた。道子は中堂に出て陣取ろうとしたが、突然驚いた馬が軍中を蹂躙し、それによって混乱が生じ、長江に落ちて死ぬ者が多かった。殷仲堪は王恭が敗死したと知ると、慌てふためいて西へ逃走し、桓玄と尋陽に駐屯した。朝廷は厳重に兵を配置して対峙し、内外は騒然とした。詔により元顕は武装兵百人を率いて殿中に入ることを許され、まもなく散騎常侍・中書令を加えられ、さらに中領軍を兼任し、持節・都督は従前の通りとした。

原文既而楊佺期、桓玄、殷仲堪等復至石頭,元顯於竹裏馳還京師,遣丹陽尹王愷、鄱陽太守桓放之、新蔡內史何嗣、潁川太守溫詳、新安太守孫泰等,發京邑士庶數萬人,據石頭以距之。道子將出頓中堂,忽有驚馬蹂藉軍中,因而擾亂,赴江而死者甚眾。仲堪既知王恭敗死,狼狽西走,與桓玄屯于尋陽。朝廷嚴兵相距,內外騷然。詔元顯甲杖百人入殿,尋加散騎常侍、中書令,又領中領軍,持節、都督如故。

ちょうど司馬道子が病気にかかり、さらに酔って意識が朦朧としていたので、司馬元顕は朝廷の人心が彼から離れていることを知り、その権力を奪おうと謀り、天子に勧めて司馬道子の揚州刺史・司徒の官職を解任させたが、司馬道子はそれに気づかなかった。司馬元顕は自分が若年でありながら突然重い権力を握ったことを自覚し、非難や議論があることを憂慮したので、琅邪王に司徒を兼任させ、自分は揚州刺史となった。やがて司馬道子が酔いから覚め、官職を解かれたことを知ると、大いに怒ったが、どうすることもできなかった。廬江太守の会稽郡出身の張法順は、文書処理の才能をもって司馬元顕の謀主となり、仲間を結び、援助を求め、多くの親族や党派を育て、桓謙以下、諸々の貴族や名士たちは皆、襟を正して交際を求めた。司馬元顕の性格は厳しく酷薄で、生殺与奪の権を自分で握り、張法順がたびたび諫めたが、聞き入れなかった。また、東部諸郡で奴隷身分から解放されて客(隷属的農民)となった者たちを徴発し、「楽属」と号して、京師に移住させ、兵役に充てたので、東部地域は騒然となり、人々はその命令に耐えられず、天下はその苦しみに喘いだ。やがて孫恩がこの隙に乗じて乱を起こすと、司馬道子に黄鉞を加え、司馬元顕を中軍としてこれを討伐させた。さらに司馬元顕に録尚書事を加えた。しかし司馬道子はさらに夜通しの酒宴にふけり、政事の大小を問わず、すべて司馬元顕に一任した。当時、人々は司馬道子を東録、司馬元顕を西録と呼んだ。西府(元顕の府)には車馬がひしめき、東第(道子の邸)の門前には雀羅(鳥を捕る網)を張れるほど閑散としていた。司馬元顕には良き師や友がおらず、正しい意見は耳に入らず、へつらいや称賛の声が日々届くばかりで、ある者は彼を一時の英傑とし、ある者は風流な名士であると言った。これによって司馬元顕は自ら天下に敵なしと思い、驕りと奢侈が日増しに増していった。皇帝もまた司馬元顕に輔佐擁立の功績があるとして、その生母の劉氏に会稽王夫人の位を加え、金章紫綬を授けた。ちょうど洛陽が陥落し、司馬道子は先帝の陵墓が辱めを受けたことを理由に、上疏して官印と綬を返上し、封国に帰ることを請うたが、許されなかった。太皇太后が崩御すると、詔によって司馬道子は乗輿で宮殿に入った。司馬元顕は礼官に勧めて議を下させ、自分は徳が高く声望が重いので、すでに百官を統率している以上、内外のすべての官僚は皆、敬意を尽くすべきであると称させた。そこで公卿たちは皆、拝礼した。当時、軍旅が相次いで起こり、国家の財用は空しく枯渇し、司徒以下は一日に七升の俸禄米を受けるのみであったが、司馬元顕は収奪をやめず、その富は皇室を超えていた。謝琰が孫恩に殺害されると、司馬元顕は徐州刺史を兼任することを求め、侍中・後将軍・開府儀同三司・都督十六州諸軍事を加えられ、その子の司馬彦璋を東海王に封じた。まもなく星変のため、司馬元顕は録尚書事を解かれたが、再び尚書令を加えられた。

原文會道子有疾,加以昏醉,元顯知朝望去之,謀奪其權,諷天子解道子揚州、司徒,而道子不之覺元顯自以少年頓居權重,慮有譏議,於是以琅邪王領司徒,元顯自為揚州刺史。既而道子酒醒,方知去職,於是大怒,而無如之何。廬江太守會稽張法順以刀筆之才,為元顯謀主,交結朋援,多樹親黨,自桓謙以下,諸貴遊皆斂衽請交。元顯性苛刻,生殺自己,法順屢諫,不納。又發東土諸郡免奴為客者,號曰「樂屬」,移置京師,以充兵役,東土囂然,人不堪命,天下苦之矣。既而孫恩乘釁作亂,加道子黃鉞,元顯為中軍以討之。又加元顯錄尚書事。然道子更為長夜之飲,政無大小,一委元顯。時謂道子為東錄,元顯為西錄。西府車騎填湊,東第門下可設雀羅矣。元顯無良師友,正言弗聞,諂譽日至,或以為一時英傑,或謂為風流名士,由是自謂無敵天下,故驕侈日增。帝又以元顯有翼亮之功,加其所生母劉氏為會稽王夫人,金章紫綬。會洛陽覆沒,道子以山陵幽辱,上疏送章綬,請歸籓,不許。及太皇太后崩,詔道子乘輿入殿。元顯因諷禮官下議,稱己德隆望重,既錄百揆,內外群僚皆應盡敬。於是公卿皆拜。于時軍旅薦興,國用虛竭,自司徒已下,日廩七升,而元顯聚斂不已,富過帝室。及謝琰為孫恩所害,元顯求領徐州刺史,加侍中、後將軍、開府儀同三司、都督十六州諸軍事,封其子彥璋為東海王。尋以星變,元顯解錄,復加尚書令。

ちょうど孫恩が京口に迫ると、司馬元顕は石頭に柵を設けて遮断し、兵を率いて防戦したが、たびたび不利であった。司馬道子には他に謀略がなく、ただ毎日蒋侯廟に祈って厭勝の術を行うのみであった。やがて孫恩が北海に逃れると、桓玄が再び上流を占拠し、司馬道子に書簡を送って言った。「賊が近郊に迫りましたが、風のために進めず、雨のために火攻めができず、食糧が尽きたので去っただけで、力尽きたわけではありません。昔、王国宝が死んだ後、王恭がこの威勢に乗じて朝廷の政務を統括しなかったのは、彼の心が明公(道子)を侮っていなかったことを十分に示しており、それなのに不忠であると言われました。今、貴重な腹心であり、時に清流の声望を持つ者は誰でしょうか。どうして優れた人物がいないなどと言えましょうか、ただ信用できないだけです。道理をわきまえた人でなければ、信義をもって期待をかけることはできません。利益を求める者たちに、何を惜しんでさらに信頼を委ねるというのでしょうか。ここに来て一朝一夕のうちに、今日の禍を成してしまいました。阿衡(宰相)の重責は、言葉で言うほど容易なものではなく、福を求めればすぐに得られますが、逆らえば禍を招くこともあります。朝廷の君子たちも、心中思うところがないわけではありませんが、ただ身に害が及ぶことを恐れているだけです。私は遠方に任じている身であり、このため事実を披瀝いたします。」司馬元顕はこれを見て大いに恐れた。張法順が彼に言った。「桓玄は家柄の資産を受け継ぎ、もともと豪放な気性を持っており、すでに殷仲堪・楊佺期を併せ、荊楚を独占しています。しかし桓氏は代々西方の藩鎮にいて、人々は彼のために働くこともありますが、閣下が支配できるのは三呉だけです。孫恩が乱を起こし、東部地域は荒廃し、戸籍に登録された民は飢饉に苦しみ、公私ともに豊かではありません。桓玄は必ずこの機に乗じて奸悪凶暴の限りを尽くすでしょう。ひそかに憂慮しています。」司馬元顕が「どうすればよいか」と問うと、張法順は言った。「桓玄が荊州を占拠したばかりで、人心はまだまとまっておらず、今まさに安定させ撫で慰めているところで、他の計略をめぐらす暇はありません。今のうちに兵を発して誅伐し、劉牢之を前鋒とし、閣下が大軍を率いて続いて進軍すれば、桓玄の首は必ず麾下に懸けられるでしょう。」司馬元顕はその通りだと思い、張法順を京口に遣わし、劉牢之と謀議させたが、劉牢之は疑わしい表情を浮かべた。張法順が戻り、司馬元顕に説いて言った。「劉牢之の顔色を見るに、必ずや我々に二心を抱いています。召し出して殺すに如くはありません。そうしなければ、大事を失敗させます。」司馬元顕は従わなかった。

原文會孫恩至京口,元顯柵斷石頭,率兵距戰,頻不利。道子無他謀略,唯日禱蔣侯廟為厭勝之術。既而孫恩遁于北海,桓玄復據上流,致箋于道子曰:「賊造近郊,以風不得進,以雨不致火,食盡故去耳,非力屈也。昔國寶卒後,王恭不乘此威入統朝政,足見其心非侮於明公也,而謂之非忠。今之貴要腹心,有時流清望者誰乎?豈可雲無佳勝,直是不能信之耳。用理之人,然後可以信義相期;求利之徒,豈有所惜而更委信邪?爾來一朝一夕,遂成今日之禍矣。阿衡之重,言何容易,求福則立至,幹忤或致禍。在朝君子,豈不有懷,但懼害及身耳。玄忝任在遠,是以披寫事實。」元顯覽而大懼。張法順謂之曰:「桓玄承籍門資,素有豪氣,既並殷、楊,專有荊楚。然桓氏世在西籓,人或為用,而第下之所控引,止三吳耳。孫恩為亂,東土塗地,編戶饑饉,公私不贍,玄必乘此縱其奸凶,竊用憂之。」元顯曰:「為之奈何?」法順曰:「玄始據荊州,人情未輯,方就綏撫,未遑他計。及其如此,發兵誅之,使劉牢之為前鋒,而第下以大軍繼進,桓玄之首必懸於麾下矣。」元顯以為然,遣法順至京口,謀於牢之,而牢之有疑色。法順還,說元顯曰:「觀牢之顏色,必貳於我,未若召入殺之。不爾,敗人大事。」元顯不從。

司馬道子はまもなく侍中・太傅に任じられ、左右の長史・司馬・従事中郎を四人置き、その礼遇の儀礼を高め、盛大な典礼をことごとく整えた。その驃騎将軍の官僚や文武の属官は、そのまま太傅府に配属された。司馬元顕には侍中・驃騎大将軍・開府・征討大都督・十八州諸軍事・儀同三司を加え、黄鉞を授け、班剣二十人を与えて桓玄を討伐させることとし、ついに劉牢之を前鋒とした。張法順はまた司馬元顕に言った。「大事を挙げて以来、威厳ある決断がありません。桓謙兄弟はいつも上流(桓玄)の耳目となっています。彼らを斬って、荊楚の期待を孤立させてください。また、事の成否は前軍にかかっていますが、劉牢之は反覆する人物です。万一変事があれば、禍敗はたちまち到来します。劉牢之に桓謙兄弟を殺させ、二心のないことを示させるべきです。もし命令を受け入れなければ、逆に彼を討つべきです。」司馬元顕は言った。「劉牢之でなければ桓玄に対抗できまい。しかも事を始めたばかりで大将を誅殺すれば、人心は必ず動揺する。二、三の理由でそれはできない。」当時、揚州の地は飢饉で空しく、物資の輸送が続かず、桓玄が長江の水路を遮断したので、商人や旅人の往来は絶えた。そこで公私ともに物資が欠乏し、兵士たちは稗の実や橡の実だけを与えられた。

原文道子尋拜侍中、太傅,置左右長史、司馬、從事中郎四人,崇異之儀,備盡盛典。其驃騎將軍僚佐文武,即配太傅府。加元顯侍中、驃騎大將軍、開府、征討大都督、十八州諸軍事、儀同三司,加黃鉞,班劍二十人,以伐桓玄,竟以牢之為前鋒。法順又言於元顯曰:「自舉大事,未有威斷,桓謙兄弟每為上流耳目,斬之,以孤荊楚之望。且事之濟不,繼在前軍,而牢之反覆,萬一有變,則禍敗立至。可令牢之殺謙兄弟,以示不貳。若不受命,當逆為其所。」元顯曰:「非牢之無以當桓玄。且始事而誅大將,人情必動,二三不可。」于時揚土饑虛,運漕不繼,玄斷江路,商旅遂絕。於是公私匱乏,士卒唯給粰橡。

大軍が出発しようとした時、桓玄の従兄である驃騎長史の桓石生が使者を走らせて桓玄に告げた。桓玄は進軍して尋陽に駐屯し、檄文を京師に伝えて司馬元顕の罪状を並べ立てた。まもなく桓玄は西陽に到着し、皇帝は軍服を着て西池で司馬元顕の出征を見送ったが、船に乗り始めたところで桓玄が新亭に到着した。司馬元顕は船を捨てて退き、国子学堂に駐屯した。翌日、宣陽門外に陣を布いたが、司馬元顕の属官や吏の多くは散り散りに逃げ去った。ある者が桓玄がすでに大桁(朱雀橋)に到着したと言うと、劉牢之はついに桓玄に降伏した。司馬元顕は引き返して宣陽門に入ったが、劉牢之の参軍である張暢之が兵を率いて追撃し、兵は潰走した。司馬元顕は丞相府に逃げ込み、ただ張法順だけが彼に従った。司馬道子に策を問うと、司馬道子は彼に向かって泣いた。桓玄は太傅従事中郎の毛泰を遣わして司馬元顕を捕らえ、新亭に送らせ、舫はしけの前で縛り上げてその罪を数え上げた。司馬元顕は答えて言った。「王誕と張法順に誤らされたのだ。」そこで廷尉に引き渡され、その六人の子も皆、殺害された。桓玄はまた上奏した。「司馬道子は酒に溺れて放縦であり、不孝である。棄市(公開処刑)にすべきである。」詔によって安成郡に流罪とし、御史の杜竹林に護衛させたが、ついに桓玄の意を受けて毒殺した。時に三十九歳であった。皇帝は三日間、西堂で哭礼を行った。

原文大軍將發,玄從兄驃騎長史石生馳使告玄。玄進次尋陽,傳檄京師,罪狀元顯。俄而玄至西陽,帝戎服餞元顯于西池,始登舟而玄至新亭。元顯棄船退屯國子學堂。明日,列陣于宣陽門外,元顯佐吏多散走。或言玄已至大桁,劉牢之遂降于玄。元顯回入宣陽門,牢之參軍張暢之率眾遂之,眾潰。元顯奔入相府,唯張法順隨之。問計于道子,道子對之泣。玄遣太傅從事中郎毛泰收元顯送於新亭,縛於舫前而數之。元顯答曰:「為王誕、張法順所誤。」於是送付廷尉,並其六子皆害之。玄又奏:「道子酣縱不孝,當棄市。」詔徒安成郡,使御史杜竹林防衛,竟承玄旨酖殺之,時年三十九。帝三日哭於西堂。

桓玄が敗れると、大将軍・武陵王司馬遵は詔を承けて命令を下した。「故太傅公は二代にわたり阿衡の任を担い、皇室と苦楽を共にし、親族であり賢臣としての重みは、比肩する者がない。驃騎大将軍は内にあって朝廷の綱紀を総べ、外にあって威略を宣べ、世の難を払い国祚を安んじる志を抱いていた。天がまだ乱を静めず、禍いは酷く次々と降りかかり、悲しみは天下を動かし、痛みは人鬼を貫く。永遠に去ったことを思うと、心情は崩れ落ちるようだ。今、皇統が反正し、幽顕の秩序が整った。国体を明らかに崇め、旧典に従って述べるべきである。ただちに太傅を丞相に追崇し、殊礼を加え、すべて安平献王(司馬孚)の故事に従うこと。驃騎を太尉に追贈し、羽葆鼓吹を加える。丞相(司馬道子)の墳墓は荒れ果て、漂泊の地にある。南の道が清く通じたならば、ただちに神柩を奉迎せよ。太尉(司馬元顕)の墓は改葬すべきである。太史に吉日を選ばせ、墓所を定めよ。」そこで通直常侍司馬珣之を遣わし、安成から司馬道子の柩を迎えさせた。当時は賊寇が平定されておらず、葬儀は時を経て行われた。義熙元年、王妃の陵に合葬した。司馬元顕に忠の諡を追贈した。臨川王司馬宝の子の司馬修之を司馬道子の後継ぎとし、妃王氏を太妃として尊んだ。義熙年間、司馬元顕の子の秀熙が蛮地に避難していたと称して現れた者がいた。太妃がこれを後継ぎに請うたため、司馬修之は別邸に帰った。劉裕はそれが偽りであると疑い取り調べたところ、果たして散騎郎滕羨の奴隷の勺薬であった。ついに市で処刑された。太妃は悟らず、ひどく慟哭した。司馬修之が再び後継ぎとなった。彼が亡くなると悼王と諡され、子がなく、封国は除かれた。

原文及玄敗,大將軍、武陵王遵承旨下令曰:「故太傅公阿衡二世,契闊皇家,親賢之重,地無與二。驃騎大將軍內總朝維,外宣威略,志蕩世難,以甯國祚。天未靜亂,禍酷備鐘,悲動區宇,痛貫人鬼,感惟永往,心情崩隕。今皇祚反正,幽顯式敘,宜崇明國體,以述舊典。便可追崇太傅為丞相,加殊禮,一依安平獻王故事。追贈驃騎為太尉,加羽葆鼓吹。丞相填塋翳然,飄薄非所,須南道清通,便奉迎神柩。太尉宜便遷改。可下太史祥吉日,定宅兆。」於是遣通直常侍司馬珣之迎道子柩于安成。時寇賊未平,喪不時達。義熙元年,合葬于王妃陵。追諡元顯曰忠。以臨川王寶子修之為道子嗣,尊妃王氏為太妃。義熙中,有稱元顯子秀熙避難蠻中而至者,太妃請以為嗣,於是修之歸於別第。劉裕意其詐而案驗之,果散騎郎滕羨奴勺藥也,竟坐棄市。太妃不悟,哭之甚慟。修之復為嗣。薨,諡悼王,無子,國除。

史臣が論ずる。

原文【史論】

史臣が言う。泰始(司馬炎しばえんの年号)が天命を受けた時、彼は往昔を手本とし、前代の王者を考察し、山河を広く誓い、大いに藩屏を開いた。文昭武穆(宗室の序列)は、魯・衛・応・韓(周の同姓諸侯)と並び立ち、磐石のごとく犬牙のように交わる封国は、呉・楚・斉・代と連衡した。しかし、乱れた世に法を作り、託すべき人物でない者に後事を託した。何曾は国を治めるのに謀略がないと嘆き、郭欽は危亡の兆しがあることを見抜いた。帝が崩御し、陵墓の土も乾かぬうちに、国難が重なり、朝廷の規律は弛み廃れた。さらに八王が乱を継ぎ、天下は沸騰し、戎や羯が交錯して馳せ、天子は幽閉され脅迫された。玉のような枝や萼(皇族)は、鋒鏑によって消え亡び、朱芾や緑車(高官の車)は、波塵と共に滅び果てた。こうして、茫々たる禹の足跡(天下)は、ことごとく豺狼の巣窟となり、おののく周の余民(人民)は、ついに塗炭の苦しみに沈淪した。ああ! 運が極まり数が尽きるとは、このようなものか! 詳しく史籍を観るに、前代未聞のことである。司馬道子は地位は親族の賢者であり、任は宰相であったが、酒色に耽り荒廃し、讒言や諂いに惑わされた。ついに尼や老女に朝権を盗ませ、奸邪の徒に国命を制させ、初めには人倫の常道が乱れ、終わりには宗廟社稷が滅亡した。司馬元顕は幼い年齢で、棟梁の任を受け、朝廷を専制し、君主や親族を蔑ろにし、凡庸な常材を奮い起こして、奸凶の臣下たる賊寇(桓玄)に抗したが、軍を喪い国を滅ぼした。当然ではないか! これは司馬元顕が安帝にとっての孫綝(呉の専横な権臣)であり、司馬道子こそが晋朝の宰嚭(呉を滅ぼした奸臣)であったということだ。歴代が城を築いて王室を藩屏したのに、晋が子弟を分封したことは、実に乱の階梯を築いたのである。『詩経』に言う。「徳を懐けば惟れ寧し、宗子は維れ城なり。城を壊すこと無からしめ、独り畏るる期すること無からしめよ」。城が既に壊れたなら、畏れるのも当然であろう! 典午(「司馬」の隠語、晋朝)の喪乱が甚だ多かったのは、実にこれが原因であった。

原文史臣曰:泰始之受終也,乃憲章往昔,稽古前王,廣誓山河,大開籓屏,文昭武穆,方駕于魯、衛、應、韓;磐石犬牙,連衡于吳、楚、齊、代。然而作法於亂,付託非才,何曾歎經國之無謀,郭欽識危亡之有兆。及宮車晏駕,填土未乾,國難薦臻,朝章馳廢。重以八王繼亂,九服沸騰,戎羯交馳,乘輿幽逼,瑤枝瓊萼,鋒鏑而消亡;朱芾綠車,與波塵而殄瘁。遂使茫茫禹跡,咸窟穴於豺狼;惵惵周餘,竟沈淪於塗炭。嗚呼!運極數窮,一至於此!詳觀載籍,未或前聞。道子地則親賢,任惟元輔,耽荒曲蘖,信惑讒諛。遂使尼媼竊朝權,奸邪制國命,始則彝倫攸斁,終則宗社淪亡。元顯以童丱之年,受棟樑之寄,專制朝廷,陵蔑君親,奮庸瑣之常材,抗奸凶之臣寇,喪師殄國。不亦宜乎!斯則元顯為安帝之孫強,道子實晉朝之宰嚭者也。列代之崇建維城,用籓王室;有晉之分封子弟,實樹亂階。《詩》云:「懷德惟甯,宗子維成。無俾城壞,無獨期畏。」城既壞矣,畏也宜哉!典午之喪亂弘多,實此之由矣。