しん

卷六十三 列傳第三十三

邵續

邵續は、 字 を嗣祖といい、魏郡安陽の人である。父の乗は、散騎侍郎であった。邵續は質朴で志操と気概があり、経書や史書を広く読み、道理や義について語るのが巧みで、天文をよく理解した。初めは成都王司馬穎の参軍となり、司馬穎が長沙王司馬乂を討伐しようとしたとき、邵續は諫めて言った。「私は兄弟は左右の手のようなものだと聞いております。今、明公は天下の敵に当たろうとしておられるのに、片手を除こうとなさるのですか。私はひそかに疑問に思います。」司馬穎は聞き入れなかった。後に苟 晞 の参軍となり、沁水県令に任じられた。

天下が次第に乱れてくると、邵續は県を去って帰郷し、逃亡者を集めて糾合し、数百人を得た。王浚は邵續を綏集将軍・楽陵太守に仮授し、厭次に駐屯させ、邵續の子の乂を督護とした。邵續は離散した民を慰撫して集め、多くが彼に帰順した。 石勒 せきろく が王浚を破った後、乂を派遣して邵續を招かせた。邵續は孤立して危険で援けがなく、やむを得ず 石勒 せきろく に従属し、 石勒 せきろく もまた乂を督護とした。その後、段匹磾が薊にいて、書を送って邵続を誘い、ともに元帝に帰順しようとしたので、邵続はこれに従った。彼の部下が諫めて言った。「今、 石勒 せきろく を捨てて段匹磾に帰順すれば、人質として預けている息子が危険です。」邵続は涙を流して言った。「私は身を捧げて国のために尽くすのであって、どうして子を顧みて叛臣となれようか!」こうして 石勒 せきろく と絶交したので、 石勒 せきろく は乂を殺害した。邵続は 石勒 せきろく の攻撃を恐れ、先に段匹磾に救援を求めた。段匹磾は弟の文鴦を派遣して邵続を救援させた。文鴦が到着する前に、 石勒 せきろく はすでに八千騎を率いて邵続を包囲していた。 石勒 せきろく はもともと鮮卑を恐れており、また文鴦が来ると聞くと、攻撃用具を捨てて東へ逃走した。邵続と文鴦は 石勒 せきろく を安陵まで追撃したが、追いつけず、 石勒 せきろく が任命した官吏を捕虜とし、三千余家あまりを連行した。また騎兵を派遣して 石勒 せきろく の北辺を襲撃し、常山を略奪して、これも二千家あまりを連行して帰還した。

段匹磾が劉琨を殺害した後、漢人や しん 人は多く怨んで離反したため、段匹磾はその配下を率いて邵続を頼った。 石勒 せきろく の南和県令趙領らが広川・渤海の千余家あまりを率いて 石勒 せきろく に背き、邵続に帰順した。そこで帝(元帝)は邵続を平原・楽安二郡太守、右将軍、冀州 刺史 しし とし、平北将軍に進め、仮節を与え、祝阿子に封じた。邵続は兄の子で武邑内史の存と文鴦に、段匹磾の兵士を率いさせて平原で食糧を調達させたが、 石季龍 に撃破された。邵続は以前から曹嶷と互いに侵掠し合っており、曹嶷は存らが敗れたのを機に、邵続の屯田を破壊し、またその戸口を略奪した。邵続は前後を救わねばならず、救援に奔走して疲弊した。太興初年、邵続は存と文鴦を派遣して済南の黄巾固に駐屯させ、これによって曹嶷を脅迫した。曹嶷は恐れて和を求めた。まもなく段匹磾が兵を率いて段末杯を攻撃すると、 石勒 せきろく は邵続が孤立して危険なのを知り、石季龍を派遣して虚に乗じて邵続を包囲させた。石季龍の騎兵が城下に至り、その住民を略奪したので、邵続は兵を率いて出撃して救援した。石季龍は伏兵の騎兵でその退路を断ち、ついに邵続は石季龍に捕らえられ、自分の城を降伏させるよう命じられた。邵続は兄の子の竺らを呼んで言った。「私は国の難を雪ぎ、受けた恩に報いることを志していたが、不幸にもここに至った。お前たちは努力して自らを励まし、ただちに段匹磾を主君として奉じ、二心を抱いてはならない。」

当時、帝はすでに邵続が敗没したと聞き、 詔 を下して言った。「邵続は公務に忠烈であり、義誠は慷慨たるものがあり、荒廃した地の残民を慰撫して集め、国を憂いて身を亡ぼした。功勲はまだ成し遂げられぬうちに、不幸にも陥落し捕らえられた。朕はこれを悼み、心に恨みを抱く。その統率する任は重く、時宜に応じて代わるべきである。その部曲の文武は、すでに共にその息子の緝を推して営の主としている。邵続の忠誠は、公私において顕著である。今その子を立てれば、十分に衆を安んじることができる。ひとえに邵続の本来の位をそのまま緝に授け、総率させてその統べる所を率いさせ、国の難に節義を尽くさせ、その家の仇を雪がせよ。」

石季龍は使者を派遣して邵続を 石勒 せきろく のもとに送った。 石勒 せきろく は使者の徐光を使わせて譴責して言った。「国家は符瑞に応じて乱を治め、八方の民は心を寄せている。殘された しん はわが威を恐れ、遠く揚越に逃げ隠れている。それなのに、邵続は蟻塚のような海辺の地にいて、王命に従わず、夷狄は君主たるに足りないと思うのか? なんと無礼なことこの上ない! 国には常の刑罰があるが、その分際で甘んじるつもりか?」邵続は答えて言った。「 しん の末に飢饉と乱があり、逃げて頼るところがなく、郷里と宗族を守り合わせ、どうにか老幼を全うしようとしました。大王が龍のように飛翔され始められた時、命を委ね人質を差し出し、精誠を尽くしましたが、感じ入られることもなく、慈しみと寛恕を蒙りませんでした。 しん に帰ることを申し出て、それでもなお寵愛と官職を授かり、忠節を尽くすことを誓い、実に二心はありませんでした。かつて彼らから厚い栄誉を受けながら、またその志を変えるようなことは、おそらく明るい朝廷においても許されないでしょう。周の文王は東夷に生まれ、大禹は西 きょう から出ました。帝王の興起は、およそ天命の属する所、徳の招く所によるのであって、どうして常に一定の地にあることがありましょうか! 伏して思うに、大王は聖武天より授かり、道は虞や夏よりも盛んです。命あるものすべて、誰が首を長くして神のごとき教化を待ち望まず、皇風から隔てられることを恥じないでしょうか。ましてや囚人である私などはなおさらです。この囚人が真を去って偽に就き、早く天門を叩くことができないのは、大王が囚人に背いたのであって、囚人が大王に背いたのではありません。戦鼓の血を塗る刑罰は、囚人の当然の分け前です。ただ恨むらくは、天が実にこのようにされたことで、これをどうしようというのでしょうか!」 石勒 せきろく は言った。「その言葉は慨然として至極である。孤は彼を大いに恥じる。その君主に忠実である者は、まさに我が求める者である。」張宝に命じて館に招き入れ、手厚く慰撫し、まもなく従事中郎に任じた。今後、敵を打ち破り俊才を捕らえた者は、すべて送り届け、みだりに害してはならず、邵続のような人物を得ることを期待した。

初め、石季龍が邵続を攻撃したとき、朝廷には王敦の逼迫があり、救援や救恤に手が回らなかった。邵続は 石勒 せきろく に捕らえられた後、自ら園を灌漑し野菜を売って、衣食を賄った。 石勒 せきろく はたびたび人を遣って様子を探らせ、嘆息して言った。「これは真の高士である。このようでなければ、どうして貴ぶに足りようか!」その清貧と苦労を賞賛し、たびたび穀物や絹帛を賜った。朝廷に臨むたびに嘆息し、群官を励ました。

邵続が捕らえられた後、存と竺、緝らは段匹磾とともに城に拠って敵を防ぎ、帝はまた存を揚武将軍・武邑太守に仮授した。 石勒 せきろく はたびたび石季龍を派遣して攻撃させ、戦いと守備に疲弊苦しみ、自立することができなかった。長い間が過ぎ、段匹磾とその弟の文鴦、竺、緝らはすべて捕らえられ、ただ存だけが包囲を突破して南へ逃走したが、途中で賊に殺された。邵続もついに害に遇った。

李矩

李矩は、字を世回といい、平陽の人である。幼少の頃、子供たちと群れ遊ぶとき、すでにその統率者となり、計画を立て指示を与え、大人の器量があった。成長して吏となり、前任の県令を 長安 まで送ったとき、征西将軍の梁王司馬肜は彼を牙門将とした。 てい 族の齊萬年を討伐して特別な功績があり、東明亭侯に封じられた。帰還して本郡の督護となった。太守の宋胄は自分の親しい者である吳畿を代わりに任じようとしたので、李矩は病気を理由に辞去した。吳畿は李矩がまた戻ってくるのを恐れ、ひそかに人を遣って李矩を刺させたが、たまたま誰かが救ったので、難を免れた。劉元海が平陽を攻撃したとき、百姓は逃げ走った。李矩はもともと郷里の人々に愛されていたので、推されて塢の主となり、東に進んで 滎陽 けいよう に駐屯し、後に新鄭に移った。

李矩は勇猛果断で権謀術数に富み、功を立てることを志していた。東海王 司馬越 しばえつ は彼を汝陰太守とした。永嘉初年、李矩と汝南太守の袁孚に命じて兵を率いさせ、 洛陽 の千金堨を修築させ、水運を便利にした。洛陽が守られなくなると、 太尉 たいい 荀籓 じゅんはん は陽城に、衛将軍の華薈は成皋に奔った。当時は大飢饉で、賊の頭目である侯都らはしばしば人を捕らえて食べたので、 荀籓 じゅんはん や華薈の部曲は多くが食われた。李矩は侯都らを討伐して滅ぼし、そこで 荀籓 じゅんはん と華薈を保護して営を設け、それぞれのために屋舎を建て、穀物を運んで供給した。 荀籓 じゅんはん が制を承って行臺を建てると、李矩を 滎陽 けいよう 太守に仮授した。李矩は離散した者を招き慰撫し、遠近の者が多く彼に帰附した。

石勒 せきろく が自ら大軍を率いて李矩を襲撃した。李矩は老弱者を山に入らせ、各地に牛馬を放し、そこで伏兵を設けて待ち受けた。賊は牛馬を奪い取ろうと争った。伏兵が発動し、一斉に叫び声を上げると、その声は山谷を震わせ、ついに大いにこれを破り、斬り取ったり捕虜にした者は非常に多く、 石勒 せきろく は退却した。 荀籓 じゅんはん は元帝に上表し、李矩に冠軍将軍を加え、軺車と幢蓋を与え、陽武県侯に進封し、河東・平陽二郡太守を兼任させた。当時は飢饉が続き、また疫病が多く流行したが、李矩は心を尽くして撫恤し、百姓はこれに頼った。たまたま長安の群盗が東下し、行く先々で多く略奪を行ったので、李矩は部将を派遣してこれを撃破し、賊が略奪した婦女子千余人をことごとく取り戻した。諸将はこれが李矩の管轄でないことを理由に、そのまま留め置こうとした。李矩は言った。「皆、国家の臣妾である。どうしてここに彼我の区別があろうか!」そこでただちに全員を帰した。

当時、劉琨が任命した 河内 太守の郭默は劉元海に追い詰められ、矩に帰順を求めてきた。矩は甥の郭誦を派遣して迎えさせようとしたが、郭誦は進もうとしなかった。ちょうど劉琨が参軍の張肇を派遣し、鮮卑の範勝ら五百余騎を率いて長安へ向かわせていたが、郭默が包囲され道が通じないため、邵続を頼って戻ろうとしていたところ、矩の陣営に到着した。矩は張肇に言った。「郭默は劉公(劉琨)が任命した者であり、公の家の事柄については、知っている限り何でもするつもりだ」。屠各族は以前から鮮卑を恐れていたので、矩は張肇に声援を求めて誘い、張肇はそれを承諾した。賊軍は鮮卑兵を見ると、戦わずして逃走した。郭誦は密かに軽舟を黄河に浮かべて渡河させ、勇士を夜襲で懐城に送り込み、賊の残留部隊を急襲して、また大いにこれを打ち破った。郭默はついに配下を率いて矩に帰順した。後に 劉聡 りゅうそう は従弟の劉暢に歩兵と騎兵合わせて三万を与えて矩を討伐させ、韓王の旧塁に駐屯させ、矩の陣から七里離れたところで使者を送り矩を招いた。当時、劉暢の軍が突然到着したため、矩は準備する暇がなく、使者を送って牛と酒を献上し劉暢に偽って降伏したふりをし、精鋭の兵士を隠し、老弱者だけを見せた。劉暢は警戒せず、将帥たちを盛大にもてなし、皆が酔い飽きた。矩は夜襲を計画したが、兵士たちは賊軍の多さを恐れ、皆が怖がる様子を見せた。矩は郭誦に命じて鄭子産の祠で祈らせた。「かつて君は鄭を補佐し、悪鳥も鳴かなかった。凶悪な胡族、臭い羯族め、どうしてこの庭を通り過ぎることができようか!」。巫女に言わせて、「東裏(子産の居住地)からお告げがあり、神兵が助けに来るという」と宣伝させた。将士たちはこれを聞き、皆が勇躍して進もうと争った。そこで郭誦と督護の楊璋らに命じて勇敢な者千人を選び、夜に劉暢の陣営を急襲し、鎧や馬を多く奪い、数千の首級を斬り、劉暢はかろうじて一人で逃げ延びた。

先に、郭默は矩が攻撃されていると聞き、弟の郭芝に兵を率いて救援させた。その後、劉暢が破られたと聞くと、郭芝は再び急いで矩のもとへ駆けつけた。矩は郭芝に馬五百匹を与え、軍を三隊に分け、夜に賊を追撃し、再び大いに戦利品を得て帰還した。

先に、 劉聡 りゅうそう は配下の趙固を洛陽に鎮守させていたが、長史の周振は趙固と仲が悪く、密かに趙固の罪状を上奏していた。矩が劉暢を破った時、陣中で 劉聡 りゅうそう の書簡を入手した。そこには、劉暢に矩を平定させた後、洛陽に立ち寄り、趙固を捕らえて斬り、すぐに周振を趙固の後任とするよう命じていた。矩はこの書簡を趙固に見せて送ると、趙固はすぐに周振父子を斬り、騎兵一千を率いて降伏してきたので、矩は彼を洛陽守備に戻らせた。数か月後、 劉聡 りゅうそう は太子の劉粲に劉雅生ら歩騎十万を率いさせて孟津の北岸に駐屯させ、劉雅生を分遣して洛陽の趙固を攻撃させた。趙固は陽城山に逃れ、弟を派遣して救援を求めた。矩は郭誦を洛口に駐屯させて救援させた。郭誦は配下の張皮に精兵千人を率いさせて夜に黄河を渡らせた。劉粲の斥候が兵が来たと報告したが、劉粲は自軍の多勢を頼みに警戒しなかった。やがて郭誦らが突然襲来し、十方向から一斉に攻撃したため、劉粲の軍は驚き混乱し、一時的に潰走し、死傷者は大半に及び、郭誦らはその陣営を占拠し、武器や軍需物資を数え切れないほど奪った。夜が明けると、劉粲は張皮らの兵が少ないのを見て、劉雅生とともに残りの全軍で攻撃したが、二十日余り苦戦しても陥落させられなかった。矩は救援に進み、壮士三千人に船で張皮を迎えさせた。賊軍は黄河沿いに陣を並べ、長い鉤を作って船を引っ掛けようとし、数日間連戦しても渡河できなかった。矩は夜に部将の格増に命じて密かに渡河させて張皮の陣営に入り、張皮とともに精騎千余りを選び、捕獲した牛馬を殺し、武器を焼き払い、夜に包囲陣を突破して武牢へ奔った。 劉聡 りゅうそう は追撃したが及ばず撤退した。 劉聡 りゅうそう はこのことで憤慨し、発病して死んだ。帝( 司馬鄴 しばぎょう )はその功績を称え、矩を 都督 ととく 河南三郡軍事・安西将軍・ 滎陽 けいよう 太守に任じ、修武県侯に封じた。

劉粲が後を継ぐと、その愚かで残酷な行為は日増しにひどくなり、配下の靳準が兵を起こして劉粲を殺し、その宗族も皆殺しにし、 劉聡 りゅうそう の墓を暴いてその屍を斬り、使者を矩のもとに送って帰順を申し出た。「劉元海( 劉淵 )という屠各族の小僧が、大 しん に事故があった際に乗じて幽州・ へい 州で乱を起こし、天命を偽称し、ついに二帝(懐帝・愍帝)を虜の庭に幽閉してしまった。私はただちに兵を率いて梓宮(皇帝の棺)を守り奉り、ついでに上聞に請う次第である」。矩は急ぎ上表して帝( 司馬鄴 しばぎょう )に報告した。帝は太常の韓胤らを派遣して梓宮を迎えさせたが、到着する前に靳準はすでに 石勒 せきろく 劉曜 りゅうよう に滅ぼされていた。矩は兵が少なくて功を立てるには不足だと考え、いつも慷慨して憤慨し嘆いた。帝( 司馬睿 しばえい )が即位すると、矩を 都督 ととく 司州諸軍事・司州 刺史 しし に任じ、平陽県侯に改封し、将軍の位は元のままとした。当時、弘農太守の尹安、振威将軍の宋始ら四軍がともに洛陽に駐屯していたが、互いに疑心暗鬼で、固守する意志がなかった。矩と郭默はそれぞれ騎兵千騎を洛陽に派遣して鎮撫させた。尹安らは共謀して 石勒 せきろく に内通し、 石勒 せきろく は石生に騎兵五千を率いさせて洛陽に派遣したため、矩と郭默の軍はともに撤退した。まもなく四将(尹安ら)は再び 石勒 せきろく に背き、使者を送って迎えを請うたので、郭默はまた歩兵五百人を洛陽に入城させた。石生は四将が内通していると知り、身の安全を図るため、宋始の一軍を捕虜として黄河を渡って南へ向かった。百姓は相次いで矩のもとに帰順し、こうして洛中は空になった。矩は上表して郭誦を揚武将軍・陽翟令に任じ、水を防ぎ塁を築き、耕しながら守り、賊を滅ぼす計画を立てた。ちょうど趙固が死に、石生が騎兵を派遣して郭誦を襲撃したが、郭誦は計略に富み、賊が来るたびに伏兵を設けて打ち破り、賊は何も掠奪できなかった。石生は怒り、自ら四千余騎を率いて諸県を荒らし回り、郭誦の陣営を攻撃したが、戦闘はわずかな時間で、軍を退いて堮阪に駐屯した。郭誦は精鋭の勇士五百を率いて磐脂の故亭で石生に追いつき、また大いにこれを打ち破った。矩は郭誦の功績が多いとして、上表して赤い幢と曲蓋(将軍の標識)を加えることを請い、吉陽亭侯に封じた。

郭默が祖約を侵攻しようとしたが、矩はそれを禁じたが聞き入れられず、結局祖約に敗北した。 石勒 せきろく は養子の石匆に郭默を襲撃させた。郭默は後患が絶えないことを恐れ、 劉曜 りゅうよう に降伏しようと考え、参軍の鄭雄を矩のもとに派遣して相談したが、矩は拒絶して許さなかった。後に 石勒 せきろく は配下の石良に精兵五千を率いさせて矩を襲撃させ、矩は迎撃したが敗北した。郭誦の弟の郭元が賊に捕らえられ、賊は郭元を使者として書簡を持たせ、矩を説得させた。「去年、東では曹嶷を平定し、西では猗盧を賓客として遇した。矩は牛の角のような存在だ、どうして帰順しないのか?」。矩はこれを郭誦に見せると、郭誦は言った。「昔、王陵の母が賊に捕らわれても、王陵は志を変えなかった。弟のことなど問題にならない!」。 石勒 せきろく はまた郭誦に麈尾と馬鞭を贈り、好意を示したが、郭誦は答えなかった。 石勒 せきろく の将軍石生が洛陽に駐屯し、河南を大いに略奪したため、矩と郭默は大いに飢え、郭默はまた矩を説得して 劉曜 りゅうよう に降伏させようとした。矩はすでに石良に敗北していたため、郭默の計略に従い、使者を 劉曜 りゅうよう のもとに送った。 劉曜 りゅうよう は従弟の劉嶽を河陰に駐屯させ、矩とともに石生を攻撃する計画を立てようとした。 石勒 せきろく は将軍を派遣して劉嶽を包囲し、劉嶽は門を閉じて出撃しようとしなかった。郭默は後に石匆に敗北し、密県から南へ逃れて 建康 へ奔った。矩はこれを聞いて大いに怒り、配下の郭誦らに書簡を持たせて郭默のもとに送り、また郭誦に命じて言った。「『唇亡びて歯寒し』という故事を知っているか?郭默を迎え入れたのは全て卿のせいだ。難に臨んで逃走するなら、必ず引き留めよ」。郭誦は襄城で追いついたが、郭默は矩に負い目があることを自覚し、妻子を捨てて逃げた。郭誦はその残りの兵を擁して帰還し、矩は以前と同様に郭默の妻子を遇した。劉嶽は外からの援軍が来ないため、石季龍( 石虎 )に降伏した。

矩が統率する将士の中に、密かに 石勒 せきろく に帰順しようとする者がいた。矩はこれを知っていたが討伐できず、ついに兵を率いて南へ逃走し、朝廷に帰順しようとした。兵士たちは道中で次々と逃げ去り、郭誦と参軍の郭方、功曹の張景、 主簿 の苟遠、将軍の騫韜・江霸・梁志・司馬尚・季弘・李瑰・段秀ら百余人だけが家を捨てて矩を見送った。魯陽県に至った時、矩は落馬して死去し、 襄陽 の峴山に葬られた。

段匹磾

段匹磾は、東部鮮卑の人である。その種族は強健で、代々大人(部族長)を務めた。父の務勿塵は、軍を派遣して東海王 司馬越 しばえつ の征討を助け功績があり、王浚が上表して親 しん 王とし、遼西公に封じ、娘を務勿塵に嫁がせて隣国との支援を結んだ。懐帝が即位すると、務勿塵を大単于とし、匹磾を左賢王とし、兵を率いて国を助けて征討に当たらせ、撫軍大将軍を仮授した。務勿塵が死ぬと、弟の涉復辰が務勿塵の子の疾陸眷に号を継がせた。

劉曜 りゅうよう が洛陽を脅かすと、王浚は督護の王昌らに疾陸眷とその弟の文鴦、従弟の末杯を率いて襄国で 石勒 せきろく を攻撃させた。 石勒 せきろく は敗れて陣営に戻り、末杯が陣営の門まで追撃してきたところを捕らえられた。 石勒 せきろく は末杯を人質とし、使者を派遣して疾陸眷に和睦を求めた。疾陸眷がこれを受け入れようとすると、文鴦が諫めて言った。「 石勒 せきろく 討伐の命令を受けたのに、末杯一人のために、わざわざ捕らえた敵の将を逃がすことができましょうか。王浚殿の意に背くだけでなく、後々の憂いもあります。決して許すべきではありません。」疾陸眷は聞き入れず、鎧と馬二百五十頭、金銀をそれぞれ一籠ずつ末杯に贈った。 石勒 せきろく は末杯を帰し、さらに金銀財宝や綾絹を厚く贈って疾陸眷に報いた。疾陸眷は文鴦に石季龍と同盟を結ばせ、兄弟の契りを交わした後、騎兵を率いて引き揚げた。王昌らは独力で守ることができず、やはり引き揚げた。

建武の初め、段匹磾は劉琨を大 都督 ととく に推戴し、同盟を結んで 石勒 せきろく を討伐し、さらに檄を飛ばして涉復辰、疾陸眷、末杯らに三方から襄国に集結するよう求めた。劉琨と段匹磾は固安に進軍して駐屯し、諸軍の到着を待った。 石勒 せきろく は恐れ、密使を派遣して末杯に多額の賄賂を贈った。末杯は以前の恩義に報いたいと思っていた上に、段匹磾が外に出ているのを好機と見て、その国を襲撃して奪おうと考え、涉復辰と疾陸眷の間で段匹磾を離間して言った。「父や兄が子弟に従うということがありましょうか。たとえ一時的に功績があっても、段匹磾が独り占めするだけです。」涉復辰らはその言う通りだと思い、軍を率いて引き揚げた。段匹磾も進軍を止めた。ちょうど疾陸眷が病死したので、段匹磾は薊から弔問に赴き、右北平まで来た。末杯は段匹磾が 簒奪 さんだつ しようとしていると宣言し、軍を出して彼を撃破した。末杯はついに涉復辰とその子弟、仲間二百余人を殺害し、自ら単于となった。

王浚が敗れると、段匹磾は幽州 刺史 しし を兼任し、劉琨は へい 州から彼を頼り、再び段匹磾と同盟を結び、ともに 石勒 せきろく を討伐しようとした。段匹磾はまた末杯に敗れ、兵士たちは離散し、劉琨が自分を謀ろうとしているのではないかと恐れた段匹磾は、ついに劉琨を殺害した。これにより晋の人々は離散した。段匹磾は自らを守りきれず、北の邵続を頼ったが、末杯はまた攻撃して彼を破った。段匹磾は傷を負い、邵続に言った。「私は夷狄の身でありながら大義を慕い、家を滅ぼすに至りました。貴殿が旧交を忘れず、私とともに進軍して討伐してくださるなら、それは貴殿のご厚意です。」邵続は言った。「貴殿の威徳のおかげで、私は節義を尽くすことができました。今、貴殿が難に遭われているのに、どうしてともに戦わないことがありましょうか。」そこで力を合わせて末杯を追撃し、ほぼ全滅させた。また文鴦に命じて北の薊城で末杯の弟を討伐させた。帰還の途中、城から八十里のところで邵続がすでに敗死したと聞き、兵士たちは恐れて散り散りになり、再び石季龍に遮られた。文鴦は自らの親兵数百人で力戦してこれを破り、ようやく城に入ることができた。石季龍はまた城下を略奪した。文鴦が城壁に登って見下ろし、出撃しようとすると、段匹磾は許さなかった。文鴦は言った。「私は勇猛さで知られており、それゆえに民衆は私を頼りにしています。人々が略奪されるのを見て救わないのは、丈夫のすることではありません。これでは民衆を失望させ、誰が私のために死を賭して戦ってくれるでしょうか。」そこで壮士数十騎を率いて出戦し、多くの胡人を殺した。馬が疲れ果て、伏せたまま起き上がれなくなった。石季龍が呼びかけた。「兄貴と私はともに戎狄の出身で、ずっとともに行動することを望んでいた。天がその願いを拒まず、今日こうして相見えたのに、どうしてまた戦うのか。どうか武器を置いてくれ。」文鴦は罵った。「お前は賊として暴虐を働き、とっくに死ぬべきだった。私の兄が私の計略を用いなかったために、お前がここまで勢力を伸ばせたのだ。私は死んでも、お前の捕虜にはならない。」そう言って馬から降りて苦戦し、矛が折れると刀を執って力戦を続けた。石季龍の軍は四方から馬の防具を解いて盾とし、前に進んで文鴦を捕らえた。文鴦は辰の刻から申の刻まで戦い、力尽きて捕らえられた。城内は大いに恐れた。

段匹磾は単騎で朝廷に帰ろうとしたが、邵続の弟で楽安内史の邵洎が兵を動かして許さず、邵洎はさらに朝廷の使者である王英を捕らえて石季龍に送ろうとした。段匹磾は厳しい表情で彼を責めて言った。「貴殿は兄の志に従うことができず、私が朝廷に帰るのを阻むとは、あまりにもひどい。さらに天子の使者を捕らえようとするとは、私が胡人であるとはいえ、聞いたことがないことだ。」そして王英に向かって言った。「段匹磾は代々重恩を受けており、忠孝を忘れません。今日、事態が逼迫し、朝廷に帰って罪を請おうとしているのに、このように逼迫され、忠誠を尽くすことができません。もし仮に命が助かり、死なずにいられるなら、心に本源を忘れることはありません。」こうして黄河を渡って南へ向かった。段匹磾は朝服を着け、節を持ち、従者を連れて出て石季龍に会い、言った。「私は国の恩を受けており、お前を滅ぼすことを志している。不幸にも我が国が内乱を起こし、このような事態に至った。死ぬこともできず、またお前を敬うこともできない。」 石勒 せきろく と石季龍は以前から段匹磾と兄弟の契りを結んでいたので、石季龍は起立して拝礼した。段匹磾が襄国に到着しても、 石勒 せきろく に礼を尽くさず、常に朝服を着て晋の節を持っていた。一年後、国中で段匹磾を主君に推戴しようという謀議が起こったが、事が露見し、殺害された。文鴦もまた毒殺された。末波だけが生き残った。末波が死ぬと、弟の段牙が立った。段牙が死ぬと、その後、従祖父の就陸眷の孫である段遼が立った。

務勿塵の後、晋の喪乱に乗じて、自ら位号を称し、遼西の地を占拠して、晋人を臣従させた。その地は西は幽州の果てから、東は遼水のほとりまでであった。しかし統治する胡人と晋人は合わせて三万余家、弓を引く兵は四五万騎ほどで、石季龍と互いに侵攻略奪を繰り返し、戦いが絶えず、ついに石季龍に破られ、その残った民数万家を司州や雍州の地に強制移住させられた。その子の段蘭は再び兵を集め、長く石季龍の悩みの種となった。石氏が滅亡すると、末波の子の段勤が胡羯を集めて一万余人を得、枉人山に拠り、自ら趙王を称し、慕容俊に帰属した。まもなく 冉閔 に敗れ、繹幕に移り、尊号を僭称した。慕容俊が 慕容恪 を派遣して攻撃すると、段勤は恐れて降伏した。

魏浚

魏浚は、東郡東阿県の人で、関中に寄寓していた。初めは雍州の下級官吏であったが、河間王 司馬顒 しばぎょう が敗れて混乱した際に、武威将軍に任じられた。後に度支 校尉 こうい となり、有能で実務に通じていた。永嘉の末、流浪の民数百家とともに東へ向かい、河陰県の硤石を守った。当時、都は荒廃して食糧が不足していたので、魏浚は略奪で得た穀物や麦を懐帝に献上した。帝は彼を揚威将軍、平陽太守に任じ、度支 校尉 こうい の職はそのままとした。混乱のため赴任しなかった。洛陽が陥落すると、洛陽北方の石梁塢に駐屯し、残った民衆を養い、次第に軍器を整えた。賊に従っていた者に対しては、まず説得して諭し、大晋の運命は長く、すでに(行政府が)建てられていることを説き、帰順する者が非常に多かった。遠方にいて命令に従わない者がいれば、将を派遣して討伐したが、服従させるだけで、侵攻や暴行は加えなかった。これにより遠近の人々は感銘して喜び、幼子を背負って来る者が次第に増えた。劉琨が皇帝の権限を代行して、魏浚に河南尹の官を仮授した。当時、 太尉 たいい 荀籓 じゅんはん が密県に行政府を建てていたので、魏浚は 荀籓 じゅんはん のもとを訪れて軍事について諮問した。 荀籓 じゅんはん は大いに喜び、李矩を招いてともに会合した。李矩が夜に赴こうとすると、李矩の官属たちは魏浚を信用できず、夜に赴くのは良くないと言った。李矩は言った。「忠臣は心を一つにするものだ。何を疑うことがあろうか。」会合が始まると、客も主もみな感嘆し、魏浚は李矩と結んで去った。 劉曜 りゅうよう は魏浚が民衆を得るのを警戒し、軍を率いて包囲した。劉演と郭默が軍を派遣して救援に来たが、 劉曜 りゅうよう は兵を分けて河北で迎え撃ち、さらに伏兵を深く隠れた場所に配置して劉演と郭默の軍を待ち伏せ、大破して劉演らの騎兵をことごとく捕虜とした。魏浚は夜に逃げ出したが、 劉曜 りゅうよう に捕らえられ、殺害された。平西将軍を追贈された。一族の子の魏該がその配下を率いた。

一族の子の魏該

魏該は一名を亥といい、もともと京兆郡の陰槃に寄寓していた。河間王 司馬顒 しばぎょう が趙王 司馬倫 しばりん を討伐したとき、魏該を将兵都尉に任じた。 劉曜 りゅうよう が洛陽を攻撃したとき、魏浚に従って国難に赴き、先に兵を率いて金墉城を守ったので、難を免れることができた。 劉曜 りゅうよう が引き揚げると、残った兵士たちは彼を頼った。

当時、 杜預 の子の杜尹が弘農太守として、宜陽県境の一泉塢に駐屯していたが、たびたび諸賊に略奪されていた。杜尹は魏該を招いてともに賊を防ごうとしたので、魏該は配下の将である馬瞻に三百人を率いて杜尹のもとへ赴かせた。馬瞻は杜尹に備えがないことを知り、夜襲をかけて杜尹を殺害し、魏該を迎えて塢を占拠させた。塢の人々は震え上がり、みな服従した。そこで李炬、郭默と結んで賊を防いだ。 荀籓 じゅんはん はただちに魏該を武威将軍とし、城西の雍州・涼州出身者を統率させ、 劉曜 りゅうよう を討伐させた。元帝が皇帝の権限を代行すると、冠軍将軍、河東太守を加官した。河東、河南、平陽の三郡を督護した。

曜がかつて李矩を攻撃したとき、郭該はこれを撃破した。李矩が郭默を迎え入れようとしたとき、郭該は軍を派遣してこれを助け、また河南尹の任愔と連携した。後に次第に食糧が尽きて困窮し、曜の侵攻が日々に迫るようになったため、郭該は兵を率いて南方に移動しようとしたが、配下の兵士たちは従わず、郭該は単騎で南陽に逃れた。元帝はまた彼を前鋒 都督 ととく ・平北将軍・雍州 刺史 しし に任じた。馬瞻が郭該の残った兵を率いて曜に降伏した。曜の徴発は苦しく、馬瞻もまた傲慢で暴虐であったため、配下の者たちは使者を遣わして郭該を呼び寄せた。郭該は密かに赴き、配下の者たちは馬瞻を殺して郭該を受け入れた。郭該は新野に移り、兵を率いて周訪を助け杜曾を討伐平定し、 詔 によって郭該は順陽太守に任じられた。

王敦が反乱を起こしたとき、梁州 刺史 しし の甘卓はこれに従わず、郭該の去就をうかがい、王敦の意図を試して動かそうとした。郭該は言った。「私はもともと賊から離れ、ただ国に忠誠を尽くすのみである。今、王公が天子に対して兵を挙げるのは、私が関わるべきことではない。」こうして拒絶して応じなかった。蘇峻が反乱を起こしたとき、郭該は兵を率いて朝廷を救援し、軍を石頭に駐屯させ、 陶侃 とうかん の指揮下に入った。蘇峻がまだ平定されないうちに、郭該は病が重くなって駐屯地に帰還する途中で死去し、武陵に葬られた。甥の郭雄がその配下を統率した。

郭默

郭默は、河内郡懐県の人である。若い頃は身分が低く、その剛勇をもって太守の裴整に仕え、督将となった。永嘉の乱の際、郭默は生き残った兵を率いて自ら塢主となり、漁船で東へ帰る旅人を襲撃し、数年で巨万の富を築き、流浪の民が付き従う者が次第に多くなった。将士を慰撫し、非常にその歓心を得た。郭默の妻の兄で同郡の陸嘉が官の米を数石取って妹に贈ったが、郭默はこれが規定に違反しているとして陸嘉を殺そうとした。陸嘉は恐れて 石勒 せきろく のもとに逃げた。郭默は自ら妻を射殺して、私心のないことを示した。使者を派遣して劉琨に謁見を求め、劉琨は郭默を河内太守に加えた。劉元海は甥の 劉曜 りゅうよう を派遣して郭默を討伐させ、 劉曜 りゅうよう は三つの駐屯地を並べて郭默を包囲し、餓死させようとした。郭默は妻子を人質として送り、併せて食糧の購入を請うた。購入が終わると、守備を固めた。 劉曜 りゅうよう は怒り、郭默の妻子を河に沈めて攻撃した。郭默は弟の郭芝を派遣して劉琨に救援を求めたが、劉琨は郭默が狡猾であることを知り、郭芝を留め置いて救援を遅らせた。郭默はさらに人を派遣して危急を告げさせた。ちょうど郭芝が城外に出て馬を洗っていたとき、使者が強引に郭芝を連れて帰った。郭默は郭芝を人質として 石勒 せきろく のもとに送り、 石勒 せきろく は郭默が多く詐謀を用いるため、郭默への封書を 劉曜 りゅうよう に送った。郭默は人をやって 石勒 せきろく の書状を探らせ、手に入れるとすぐに包囲を突破して李矩のもとに身を寄せた。後に李矩と力を合わせて 劉曜 りゅうよう 石勒 せきろく に対抗した。事績は李矩の伝に見える。

太興初年、潁川太守に任じられた。郭默は石匆と戦って敗れ、李矩の勢力も次第に衰え弱くなったため、郭默は深く憂慮し恐れ、印綬を解いて参軍の殷嶠に渡し、彼に言った。「李使君(李矩)は私を非常に厚く遇してくれた。今、遂に去ろうとするが、彼に顔向けできない。三日後に私が去ったことを告げよ。」こうして陽翟に奔った。李矩はこれを聞いて大いに怒り、配下の将郭誦を派遣して郭默を追わせ、襄城で追いついた。郭默は家族を捨て、単騎で駆け去った。郭默が都に到着すると、明帝は彼を征虜将軍に任じた。劉遐が死去すると、郭默を北中郎将・監淮北軍事・仮節に任じた。劉遐の旧配下の李龍らが謀反を企てたため、 詔 によって郭默と右衛将軍の趙胤がこれを討伐平定した。

朝廷が蘇峻を征討しようとしたとき、彼が乱を起こすことを恐れ、郭默を召し出して後将軍に任じ、屯騎 校尉 こうい を兼任させた。初戦では功績があったが、六軍が大敗すると、南方に奔った。郗鑒が曲阿の北の大業裏に堡塁を築いて賊の勢力を分散させようと提案し、郭默にこれを守らせた。蘇峻が韓晁らを派遣して郭默を激しく攻撃した。堡塁の中は水がかなり不足し、郭默は恐れ、人馬を外に出して分遣し、密かに南門から突撃して出て、人を残して堅く守らせた。ちょうど蘇峻が死に、包囲が解かれると、郭默は右軍将軍に召し出された。

郭默は辺境の将となることを好み、宮中の警備役を望まなかった。召し出しに応じる際、平南将軍の劉胤に言った。「私は胡族を防衛できるのに用いられない。右軍将軍は禁兵を主管するが、もし国境に憂い事があって出征を命じられたとき、その時になって初めて兵士が配給され、将と兵卒に普段からの関係がなく、恩信が明らかでない。この状態で敵に臨めば、敗れないことの方が少ない。時勢に応じて官職に適した人材を選ぶべきであり、もし人臣が自ら官職を選ぶなら、どうして乱が起こらないことがあろうか。」劉胤は言った。「おっしゃることはその通りだが、私のような者の及ぶところではない。」出発するとき、郭默は劉胤に資金を求めた。当時、劉胤は 詔 によって官を免ぜられていたが、すぐに罪を認めて帰ることはせず、自ら釈明しようとしており、かえって傲慢で奢侈がひどくなり、遠近の人々はこれを怪しんだ。

かつて、郭默が蘇峻を防ぐために召し出されたとき、尋陽に立ち寄り、劉胤に会った。劉胤の参佐の張満らが郭默を軽んじ、裸で彼を見たため、郭默は常に歯ぎしりして恨んだ。この時、劉胤が臘の日に郭默に酒一器と豚肉の塊一つを贈ったが、郭默は使者の面前でこれを水中に投げ捨て、憤りをますます強めた。また、流寓の民の蓋肫が以前に祖煥に殺された孔煒の娘を略奪して妻としていたが、孔煒の家族が彼女を求め、張満らが家に返すよう命じた。蓋肫は与えず、これによって劉胤や張満と不和になった。この時、蓋肫が郭默に言った。「劉江州(劉胤)は免官を受け入れず、密かに異心を抱き、長史司馬の張満、荀楷らと日夜計略を練り、反逆の形跡がすでに現れている。ただ郭侯(郭默)だけを恐れており、まず郭侯を除いてから挙兵するべきだと言っている。禍が迫っている。深く備えるべきだ。」郭默はすでに恨みを抱いていたため、配下の者を率いて夜明けに門が開くのを待ち襲撃して劉胤を殺した。劉胤の将吏が郭默を防ごうとしたが、郭默は大声で言った。「私は 詔 を受けて討伐に来たのだ。動く者は三族まで誅する。」こうして内室まで入った。劉胤はまだ妾と寝ていたので、郭默は引きずり下ろして斬った。外に出て劉胤の僚佐の張満、荀楷らを捕らえ、大逆の罪を着せた。劉胤の首を都に送り、偽りの 詔 書を作って内外に示させた。劉胤の娘や諸々の妾、そして金銀財宝を奪って船に戻った。初めは都へ下ると言っていたが、すぐに戻り、劉胤の旧府に留まり、桓宣と王愆期を招いた。王愆期は脅迫を恐れ、郭默が平南将軍・江州 刺史 しし となるよう勧め、郭默はこれに従った。王愆期はこれによって廬山に逃れ、桓宣は固く守って応じなかった。

司徒 しと の 王導 は郭默を制御できないことを恐れ、天下に大赦を行い、劉胤の首を大航にさらし、郭默を西中郎将・ 刺史 しし に任じた。武昌太守の鄧岳が馳せ参じて 太尉 たいい 陶侃 とうかん に報告した。 陶侃 とうかん はこれを聞くと、袖を払って立ち上がり言った。「これは必ずや詐りだ。」その日に兵を率いて郭默を討伐し、上疏して郭默の罪悪を述べた。王導はこれを聞くと、劉胤の首を回収し、 詔 によって 庾亮 に 陶侃 とうかん を助けて郭默を討伐させた。郭默は南の 章を占拠しようとしたが、 陶侃 とうかん はすでに城下に至り土山を築いて城を臨んだ。諸軍が大挙して集まり、幾重にも包囲した。 陶侃 とうかん は郭默の勇猛さを惜しみ、生かそうと考え、郭誦を派遣して郭默に会わせた。郭默は降伏を承諾したが、郭默の将の張醜、宋侯らが 陶侃 とうかん に殺されることを恐れ、進退をためらい、すぐに出て行くことができなかった。攻撃が次第に激しくなり、宋侯は遂に郭默を縛り上げて降伏を求め、すぐに軍門で斬り、同党の者四十人が死に、首は都に送られた。

【史評】

史臣が言う。邵続、李矩、魏該、郭默ら諸将は、離乱の時代に苦労し、軍馬を駆って戦う間にあって、威厳と懐柔で人々を容れることができ、勇略で人を制することができ、危険な城を守り、千里の外で敵を撃退し、義勇の兵を招集し、仇敵に抵抗した。艱難辛苦をなめ尽くしたが、皆、心は王室にあった。そして李矩は少ない兵で大軍を撃ち、多くを戦勝し捕獲したので、遂に張寔(玄明)を憤慨させ、 石勒 せきろく (世龍)を敗退させた。その兵が少なく弱かったことを惜しむ。功は一歩及ばなかった。数人の中では、最も優れていたと言えようか。郭默は危亡の中から抜け出し、朝廷の列に加わったが、些細な恨みから憤り、誅殺の禍に及んだ。狂乱した者でなければ、どうしてここまでなることがあろうか。段匹磾はもともと遠方の出身であったが、心は朝廷に結ばれ、初めは国の難に忠を尽くし、終わりには虜廷で節を守って抵抗した。蘇武以来、ただ一人である。劉琨(越石)が段氏に誅殺されたのは、実にその威名のためであり、段匹磾が 石勒 せきろく (世龍)に殺されたのも、衆望によるものであった。禍福の報いは、なんと速いことか。『詩経』に「言わずして報いられぬものはなく、徳を行わずして報いられぬものはない」とあるが、これを言うのである。