晉書

卷五十九 列傳第二十九

卷五十九 列傳第二十九

晉書

原文晉書

卷五十九 列傳第二十九

原文卷五十九 列傳第二十九 ► 卷六十

序

原文序

古来より帝王が天下に臨むにあたり、皆、広く藩屏を樹立し、維城を固めることを望んだ。唐・虞以前は、典章制度は欠けていたが、夏・殷以後は、その遺跡を知ることができる。しかし、玉帛が塗山に会したとはいえ、万国と称されるものの、領土を分け与えることについては、なお詳らかでない。周代に至って、はじめて明らかとなり、親族や賢者を封建して、列国とした。その興隆さか時には、周公・召公がその昇平を助け、その衰退時には、桓公・文公がその危乱を補佐した。それゆえに、世数を占う卜のごとく国祚は栄え、年数を占う卜のごとく基盤は永続した。王赧が世を去るに及び、天の禄はすでに尽き、虚位に主なく、三十余年に及んだ。やがて暴秦に至り、天下を併呑し、衰えた周の弱体化を戒めとし、帝業の遠大な計画を軽んじ、王室の衰微は諸侯の強大によるものと断じた。そこで侯を廃し守を置き、ただ己のみを尊び、子弟に至るまで、みな匹夫とし、ただ暴威をふるうことを欲し、子孫を謀り守ることなど顧みなかった。枝葉は微弱となり、宗廟は孤危に陥り、内には社稷を支える臣なく、外には藩維として助ける者を欠いた。陳勝・項羽が一声をあげると、海内は沸騰し、(秦は)望夷宮で身を滅ぼし、軹道で首を縛られることとなった。古に師法せず、二世で滅亡した。漢の高祖が勃興し、この弊害を改めた。そこで子弟を分封し、功臣を列ね、山川を賜り、帯と礪石をもって誓った。しかし、枉まがったものを矯ためようとして過度に正しすぎ、羹あつものに懲りて膾なますを吹くがごとく、土地の封疆は往古を超越した。初めは韓信・彭越が醢ししびしおにされ、次いで呉・楚が乱を称した。しかし、権勢を脅かす者を滅ぼすことはできたが、なお王畿を支えるには十分であった。成帝・哀帝の後、外戚や藩王は衰え、君臣はこの隙に乗じて、位を窃み安きに就いた。光武帝は雄略天を緯よこぎり、慷慨して下国にありながら、ついに凶徒を除き乱を静め、禹のごとく天に配し、福祥は両京に盛んで、国祚は四百年に隆盛し、宗族の支えが絶えることのなかった力は、語ることができる。魏の武帝は経たて国の宏規を忘れ、猜疑心の強い小術を行い、功臣には立錐の地もなく、子弟には君として使う人材もなく、ただ名目上の封土を与え、実質のない爵位を伝えただけで、本根は庇うところなく、ついに三代で滅亡した。

原文自古帝王之臨天下也,皆欲廣樹蕃屏,崇固維城。唐、虞以前,憲章蓋闕,夏、殷以後,遺跡可知。然而玉帛會于塗山,雖云萬國,至於分疆胙土,猶或未詳。泊乎周室,粲焉可觀,封建親賢,並為列國。當其興也,周、召贊其升平;及其衰也,桓、文輔其危亂。故得卜世之祚克昌,卜年之基惟永。逮王赧即世,天祿已終,虛位無主,三十餘載。爰及暴秦,併吞天下,戒衰周之削弱,忽帝業之遠圖,謂王室之陵遲,由諸候之強大。於是罷侯置守,獨尊諸己,至乎子弟,並為匹夫,惟欲肆虐陵威,莫顧謀孫翼子。枝葉微弱,宗祐孤危,內無社稷之臣,外闕籓維之助。陳、項一呼,海內沸騰,隕身於望夷,系頸於軹道。事不師古,二世而滅。漢祖勃興,爰革斯弊。於是分王子弟,列建功臣,錫之山川,誓以帶礪。然而矯枉過直,懲羹吹齏,土地封疆,逾越往古。始則韓、彭菹醢,次乃吳、楚稱亂。然雖克滅權偪,猶足維翰王畿。洎成、哀之後,戚籓陵替,君臣乘茲間隙,竊位偷安。光武雄略緯天,慷慨下國,遂能除凶靜亂,復禹配天,休祉盛於兩京,鼎祚隆於四百,宗支繼絕之力,可得而言。魏武忘經國之宏規,行忌刻之小數,功臣無立錐之地,子弟君不使之人,徒分茅社,實傳虛爵,本根無所庇廕,遂乃三葉而亡。

晉は覆車の轍を改めようと考え、再び磐石のごとく固めようとした。ある者は外に出て旄節を擁し、岳牧(地方すじみち長官)の栄に臨み、ある者は内に入って台階きざはし(朝廷)を踏み、端揆(宰相)の重責に居た。しかし、託すところを誤り、任ずるに方を違え、政令は恒常せず、賞罰は乱れた。ある者は才能があっても任用せず、ある者は罪なくして誅殺され、朝には伊尹・周公のごとき忠臣でありながら、夕には王莽・董卓のごとき逆臣となった。機権が上に失われ、禍乱が下に起こった。楚王・趙王ら諸王は、相次いで争いを構え、徒らに晉陽の甲(兵)を興し、ついに王を助ける師とはならなかった。初めは身のために利を選び、利は加わらないうちに害が及び、初めは国を憂える心もなく、国が憂うべき状態でなければ何を救うというのか! ついに昭陽殿(朝廷)の興廃は、碁を打つよりも激しく、天子の車駕が幽閉されることは、羑里(監獄)に等しくなった。胡羯が陵辱し、宗廟は丘墟と化した。まことに悲しむべきことである。

原文有晉思改覆車,復隆磐石,或出擁旄節,蒞岳牧之榮;入踐臺階,居端揆之重。然而付託失所,授任乖方,政令不恆,賞罰斯濫。或有材而不任,或無罪而見誅,朝為伊、周,夕為莽、卓。機權失於上,禍亂作於下。楚、趙諸王,相仍構釁,徒興晉陽之甲,竟匪勤王之師。始則為身擇利,利未加而害及;初乃無心憂國,國非憂而奚拯!遂使昭陽興廢,有甚弈棋;乘輿幽縶,更同羑裏。胡羯陵侮,宗廟丘墟,良可悲也。

国に藩屏があるのは、川を渡るのに舟楫があるのと同じで、安危成敗は、まさに互いに助け合うものである。舟楫がもし完備していれば、波濤はその険しさを称えるに足りず、藩屏がもし固ければ、禍乱はどうしてその階梯きざはしとなりえようか! もし八王の中に、一つでも頼りになる藩屏があり、梁王(漢の文帝の子)が大変事を防いだように、あるいは朱虚侯(劉章)が大悪人を除いたように行動していたならば、外寇がどうして侵すことができ、内難がどうしてひそかに起こりえただろうか! たとえ天子が暗愚で劣っていても、鼎臣(重臣)が奢侈で放縦であっても、たとえ転倒することがあっても、土崩までは至らなかったであろう。どうしてそう言えるか。琅邪王(後の東晉元帝)を例にとれば、他の諸王と比べて権力は軽く衆寡も劣り、長短大小を比べても同年のものではない。それでも単騎で長江を渡り、呉会の地を領有し、宗廟社稷を存続させ、百有余年を保った。天時によるとはいえ、また人事によるものである。趙王倫や斉王冏の輩、河間王顒や東海王越の徒のように、家も国も共に滅び、身も名も共に滅びるようなことがあろうか。善悪の運命は、これがその証左ではないか! 西晉の政が乱れ朝廷が危うくなったのは、時の君主によるものではあるが、しかしその風を煽り、その禍を速めた者は、八王に罪がある。それゆえに序を立てて論じ、総じて彼らの伝とするのである。

原文夫為國之有籓屏,猶濟川之有舟楫,安危成敗,義實相資。舟楫且完,波濤不足稱其險;籓屏式固,禍亂何以成其階!向使八王之中,一籓繄賴,如梁王之禦大故,若硃虛之除大憝,則外寇焉敢憑陵,內難奚由竊發!縱令天子暗劣,鼎臣奢放,雖或顛沛,未至土崩。何以言之?琅邪譬彼諸王,權輕眾寡,度長絜大,不可同年。遂能匹馬濟江,奄有吳會,存重宗社,百有餘年。雖曰天時,抑亦人事。豈如趙倫、齊冏之輩,河間、東海之徒,家國俱亡,身名並滅。善惡之數,此非其效歟!西晉之政亂朝危,雖由時主,然而煽其風,速其禍者,咎在八王,故序而論之,總為其傳云耳。

汝南文成王亮

原文汝南文成王亮

汝南文成王亮は、字あざなを子翼といい、宣帝(司馬懿よしばい)の第四子である。若い頃から清く聡明で才能があり、魏に仕えて散騎侍郎・萬歳亭侯となり、東中郎将に任じられ、広陽郷侯に進封された。寿春じゅしゅんで諸葛誕しょかつたんを討伐したが、戦いに敗れ、官を免じられた。まもなく、左将軍に任じられ、散騎常侍・仮節を加えられ、出て豫州諸軍事を監督した。五等爵制が建てられると、祁陽伯に改封され、鎮西将軍に転じた。武帝(司馬炎しばえん)が即位すると、扶風郡王に封じられ、邑一万戸を与えられ、騎司馬を置き、参軍掾属を増員し、持節・関中雍・涼諸軍事を都督した。折しも秦州刺史しし胡烈が羌の虜に害されたため、亮は将軍劉旂と騎督敬琰を派遣して救援に向かわせたが、進軍せず、このことで罪に問われ平西将軍に貶された。劉旂は斬刑に処せられるはずであったが、亮は軍司曹冏とともに上言し、節度の過ちは亮から出たものであるから、劉旂の死罪を免除してほしいと乞うた。詔みことのりは言った。「高平(胡烈)が困窮危急に陥り、城中の兵力と劉旂の軍とで十分に救い出すことができたはずである。たとえ直接到着できなくても、なお深く進軍すべきであった。今、突進すれば救出の機会があったのに、坐視して敗北を見逃した。それゆえ劉旂に大刑を加えるのである。今、罪が劉旂にないならば、どこかにあるはずだ。」役人はまた亮の官を免じ爵土を削るよう上奏した。詔はただ官を免ずるのみとした。まもなく、撫軍将軍に任じられた。この年、呉の将軍歩闡が降伏してきたので、亮に仮節を与え諸軍事を都督させてこれを受け入れさせた。まもなく侍中の服を加えられた。

原文汝南文成王亮,字子翼,宣帝第四子也。少清警有才用,仕魏為散騎侍郎、萬歲亭侯,拜東中郎將,進封廣陽鄉侯。討諸葛誕于壽春,失利,免官。頃之,拜左將軍,加散騎常侍、假節,出監豫州諸軍事。五等建,改封祁陽伯,轉鎮西將軍。武帝踐阼,封扶風郡王,邑萬戶,置騎司馬,增參軍掾屬,持節、都督關中雍、涼諸軍事。會秦州刺史胡烈為羌虜所害,亮遣將軍劉旂、騎督敬琰赴救,不進,坐是貶為平西將軍。旂當斬,亮與軍司曹冏上言,節度之咎由亮而出,乞丐旂死。詔曰:「高平困急,計城中及旂足以相拔,就不能徑至,尚當深進。今奔突有投,而坐視覆敗,故加旂大戮。今若罪不在旂,當有所在。」有司又奏免亮官,削爵土。詔惟免官。頃之,拜撫軍將軍。是歲,吳將步闡來降,假亮節都督諸軍事以納之。尋加侍中之服。

咸寧初年、扶風郡池陽県の四千一百戸を太妃伏氏の湯沐邑とし、家令・丞・僕を置いた。後に食邑を南郡枝江県に改めた。太妃がかつて小病にかかったとき、洛水で祓いを行い、亮ら兄弟三人が侍従し、皆が節を持ち鼓吹を奏し、その威光は洛水のほとりを震わせた。武帝が陵雲台に登ってこれを見て言った。「伏妃は富貴であると言えよう。」その年、衛将軍に進号し、侍中を加えられた。当時、宗室は繁盛していたが、統率する者がいなかったので、亮を宗師とし、本来の官職はそのままに、訓導観察させ、礼法に従わない者があれば、小さいものは義方をもって正し、大きいものは事に従って上奏させることにした。

原文咸甯初,以扶風池陽四千一百戶為太妃伏氏湯沐邑,置家令丞僕,後改食南郡枝江。太妃嘗有小疾,祓于洛水,亮兄弟三人侍從,並持節鼓吹,震耀洛濱。武帝登陵雲臺望見,曰:「伏妃可謂富貴矣。」其年進號衛將軍,加侍中。時宗室殷盛,無相統攝,乃以亮為宗師,本官如故,使訓導觀察,有不遵禮法,小者正以義方,大者隨事聞奏。

三年、汝南王に転封され、出て鎮南大将軍・豫州軍事都督となり、開府・仮節を許され、封国に赴いた。追鋒車・皁輪犢車を与えられ、銭五十万を賜った。まもなく、亮を召し出して侍中・撫軍大将軍とし、後軍将軍を兼任させ、冠軍・歩兵・射声・長水などの諸営を統率させ、兵五百人、騎兵百匹を与えた。太尉たいい・録尚書しょうしょ事・太子太傅兼任に昇進し、侍中はもとのままとした。

原文三年,徙封汝南,出為鎮南大將軍、都督豫州軍事,開府、假節,之國,給追鋒車、皁輪犢車,錢五十萬。頃之,征亮為侍中、撫軍大將軍,領後軍將軍,統冠軍、步兵、射聲、長水等營,給兵五百人,騎百匹。遷太尉、錄尚書事、領太子太傅,侍中如故。

武帝が病床に伏すと、楊駿に排擠され、亮を侍中・大司馬・仮黄鉞・大都督・豫州諸軍事都督とし、許昌きょしょうに出鎮させ、軒懸の楽と六佾の舞を加えた。子の羕を西陽公に封じた。出発しないうちに、帝の病状が重くなり、詔を下して亮を留め後事を託した。楊駿はこれを聞き、中書監華暠から詔を借りて見ると、ついに返さなかった。帝が崩御すると、亮は楊駿が自分を疑うことを恐れ、病気を理由に宮中に入らず、大司馬門外で哀悼いたの意を表しただけで、葬儀が終わってから参内するよう上表した。楊駿は亮を討伐しようとしたが、亮はこれを知り、廷尉何勖に計略を問うた。何勖は言った。「今、朝廷の人心は皆、公に帰しています。公はどうして人を討たず、人に討たれることを恐れるのですか!」ある者が亮に率いる兵を率いて入り、楊駿を廃するよう勧めたが、亮はこれを用いず、夜に許昌へ馳せ向かい、難を免れた。楊駿が誅殺されると、詔が下った。「大司馬・汝南王亮は道を体して沖虚純粋であり、政理に通識があり、宣帝・景帝を翼賛した功績は本朝に顕あきられ、《周南》《召南》の風化は方夏(天下)に流布した。遠大な謀略をもって、王化を安んじようとする。亮を太宰・録尚書事とし、朝廷に入るのに小走りせず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許し、掾属を十人増員し、兵千・騎百を与え、太保衛瓘とともに朝政を執掌させる。」亮は楊駿誅殺の功績に対する論功行賞に過ちがあり、苟かりそめにも衆心を喜ばせようとしたため、人々は失望した。

原文及武帝寢疾,為楊駿所排,乃以亮為侍中、大司馬、假黃鉞、大都督、督豫州諸軍事,出鎮許昌,加軒懸之樂,六佾之舞。封子羕為西陽公。未發,帝大漸,詔留亮委以後事。楊駿聞之,從中書監華暠索詔視,遂不還。帝崩,亮懼駿疑己,辭疾不入,于大司馬門外敘哀而已,表求過葬。駿欲討亮,亮知之,問計于廷尉何勖。勖曰:「今朝廷皆歸心於公,公何不討人而懼為人所討!」或說亮率所領入廢駿,亮不能用,夜馳赴許昌,故得免。及駿誅,詔曰:「大司馬、汝南王亮體道沖粹,通識政理,宣翼之績,顯於本朝,《二南》之風,流于方夏,將憑遠猷,以康王化。其以亮為太宰、錄尚書事,入朝不趨,劍履上殿,增掾屬十人,給千兵百騎,與太保衛瓘對掌朝政。」亮論賞誅楊駿之功過差,欲以苟悅眾心,由是失望。

楚王司馬瑋は功績がありながらも威勢を立てるのを好んだため、司馬亮は彼を恐れ、その兵権を奪おうとした。司馬瑋はこれを非常に恨み、賈后の意を受けて、司馬亮と衛瓘が皇帝を廃立しようと謀っていると誣告し、詔を偽造してその長史公孫宏と積弩将軍李肇に夜間に兵を率いて包囲させた。帳下督の李龍が外に異変があると報告し、防戦を願い出たが、司馬亮は聞き入れなかった。間もなく楚兵が塀に登って叫び声をあげると、司馬亮は驚いて言った。「私に二心はない。どうしてここまでするのか。もし詔書があるなら、見せてもらえるか?」公孫宏らは許さず、兵を促して攻撃した。長史劉準が司馬亮に言った。「これを見ると必ずや奸計です。府中には俊才が林立しています。まだ全力で防戦できます。」司馬亮はまたも聞き入れず、ついに李肇に捕らえられ、嘆いて言った。「私の忠心は、天下に示して明らかにできるというのに、なんという無道なことであろうか。無辜の者を枉げて殺すとは!」この時は大変な暑さで、兵士たちは司馬亮を車の下に座らせた。当時の人々は彼を哀れみ、互いに扇いであげた。正午近くになっても、害を加える者は誰もいなかった。司馬瑋が命令を出して言った。「司馬亮を斬れる者には、布千匹を賞する。」ついに司馬亮は乱兵に害され、北門の壁に投げ捨てられ、鬢の毛や髪、耳や鼻がことごとく損なわれた。司馬瑋が誅殺された後、司馬亮の爵位が追復され、東園の溫明秘器が与えられ、朝服一襲、銭三百万、布絹三百匹が下賜され、喪葬の礼は安平献王司馬孚の故事に倣い、廟には軒懸の楽が設けられた。

原文楚王瑋有勳而好立威,亮憚之,欲奪其兵權。瑋甚憾,乃承賈后旨,誣亮與瓘有廢立之謀,矯詔遣其長史公孫宏與積弩將軍李肇夜以兵圍之。帳下督李龍白外有變,請距之,亮不聽。俄然楚兵登牆而呼,亮驚曰:「吾無二心,何至於是!若有詔書,其可見乎?」宏等不許,促兵攻之。長史劉准謂亮曰:「觀此必是奸謀,府中俊乂如林,猶可盡力距戰。」又弗聽,遂為肇所執,而歎曰:「我之忠心,可破示天下也,如何無道,枉殺不辜!」是時大熱,兵人坐亮于車下,時人憐之,為之交扇。將及日中,無敢害者。瑋出令曰:「能斬亮者,賞布千匹。」遂為亂兵所害,投於北門之壁,鬢髮耳鼻皆悉毀焉。及瑋誅,追復亮爵位,給東園溫明秘器,朝服一襲,錢三百萬,布絹三百匹,喪葬之禮如安平獻王孚故事,廟設軒懸之樂。

司馬亮の子孫

原文亮 子孫

五人の子がいた。司馬粹、司馬矩、司馬羕、司馬宗、司馬熙である。

原文有五子:粹、矩、羕、宗、熙。

司馬粹は字を茂弘という。早世した。

原文粹字茂弘。早卒。

司馬矩は字を延明という。世子に立てられ、屯むずか騎校尉となり、父の司馬亮とともに害された。典軍将軍を追贈され、諡は懐王といった。子の司馬祐が立った。これが威王である。

原文矩字延明。拜世子,為屯騎校尉,與父亮同被害。追贈典軍將軍,諡懷王。子祐立,是為威王。

司馬祐は字を永猷という。永安年間、恵帝に従って北征した。帝が長安ちょうあんに遷ると、司馬祐は封国に戻った。帝が洛陽らくように還ると、征南兵八百人が与えられ、特に四部牙門が設置された。永興初め、兵を率いて東海王司馬越に依り、劉喬を討って功績があり、揚武将軍に任じられ、江夏郡雲杜県を加増され、前の分と合わせて二万五千戸となった。司馬越が汲桑を征討する際、上表して司馬祐を留め、兵三千を率いて許昌を守らせ、鼓吹と麾旗を加えた。司馬越が帰還すると、司馬祐は封国に帰った。永嘉よ末、寇賊が充満したため、ついに南へ渡江し、元帝は彼を軍諮祭酒に任じた。建武初め、鎮軍将軍となった。太興末、左軍将軍を兼任し、太寧年間、衛将軍に進号し、散騎常侍を加えられた。咸和元年、薨去し、侍中・特進を追贈された。

原文祐字永猷。永安中,從惠帝北征。帝遷長安,祐反國。及帝還洛,以征南兵八百人給之,特置四部牙門。永興初,率眾依東海王越,討劉喬有功,拜揚武將軍,以江夏雲杜益封,並前二萬五千戶。越征汲桑,表留祐領兵三千守許昌,加鼓吹、麾旗。越還,祐歸國。永嘉末,以寇賊充斥,遂南渡江,元帝命為軍諮祭酒。建武初,為鎮軍將軍。太興末,領左軍將軍,太甯中,進號衛將軍,加散騎常侍。咸和元年,薨,贈侍中、特進。

子の恭つつし王司馬統が立ったが、南頓王司馬宗の謀反に連座して廃位された。その後、成帝は司馬亮一門が絶えるのを哀れみ、詔を下して司馬統の封を復し、累進して秘書監・侍中となった。薨去し、光禄勲を追贈された。子の司馬義が立ち、官は散騎常侍に至った。薨去し、子の司馬遵之が立った。義熙初め、梁州刺史劉稚が謀反し、司馬遵之を主に推戴したが、事が漏れ、誅殺された。弟の司馬楷の子の司馬蓮扶が立った。宋が禅を受けると、封国は除かれた。

原文子恭王統立,以南頓王宗謀反,被廢。其後成帝哀亮一門殄絕,詔統復封,累遷秘書監、侍中。薨,追贈光祿勳。子義立,官至散騎常侍。薨,子遵之立。義熙初,梁州刺史劉稚謀反,推遵之為主,事泄,伏誅。弟楷之子蓮扶立。宋受禪,國除。

司馬羕は字を延年という。太康末、西陽県公に封じられ、散騎常侍に任じられた。司馬亮が害された時、司馬羕は八歳で、鎮南将軍裴楷は彼と姻戚関係にあり、密かに彼を連れて逃げ、一晩で八回も場所を変えたため、難を免れた。司馬瑋が誅殺された後、爵位が王に進み、歩兵校尉・左軍驍騎将軍を歴任した。元康初め、郡王に進封された。永興初め、侍中に任じられた。長沙王司馬乂の与党であったため、庶人に落とされた。恵帝が洛陽に還ると、司馬羕の封が復され、撫軍将軍となり、さらに汝南郡期思県・西陵県を封国に加増された。永嘉初め、鎮軍将軍に任じられ、散騎常侍を加えられ、後軍将軍を兼任し、さらに邾県・蘄春県を加増され、前の分と合わせて三万五千戸となった。東海王司馬越に従って東の鄄城に出て、ついに南へ渡江した。

原文羕字延年。太康末,封西陽縣公,拜散騎常侍。亮之被害也,羕時年八歲,鎮南將軍裴楷與之親姻,竊之以逃,一夜八遷,故得免。及瑋誅,進爵為王,曆步兵校尉、左軍驍騎將軍。元康初,進封郡王。永興初,拜侍中。以長沙王乂黨,廢為庶人。惠帝還洛,復羕封,為撫軍將軍,又以汝南期思、西陵益其國。永嘉初,拜鎮軍將軍,加散騎常侍,領後軍將軍,復以邾、蘄春益之,並前三萬五千戶。隨東海王越東出鄄城,遂南渡江。

元帝が制を承けると、さらに撫軍大将軍・開府に任じられ、千人の兵と百騎が与えられ、詔により南頓王司馬宗とともに流民を統率して中州を充実させることとなったが、江西は荒廃して道が塞がっていたため、また戻った。元帝が即位すると、侍中・太保に進位した。司馬羕は尊属であったため、元会の際には特に床を設けた。太興初め、録尚書事となり、まもなく大宗師を兼任し、羽葆・斧鉞を加えられ、班剣六十人を賜り、太宰に進位した。王敦が平定されると、太尉を兼任した。明帝が即位すると、司馬羕は宗室の元老であるため、特に彼に対して拝礼した。司馬羕は兵士を放縦して掠奪させたため、担当官庁が司馬羕の官を免ずるよう上奏したが、詔は問わなかった。帝が病床に伏すと、司馬羕は王導おうどうとともに顧命を受けて成帝を補佐した。当時、帝は幼少であったため、詔により司馬羕は安平献王司馬孚の故事に倣い、殿上に床帳を設け、帝は自ら迎えて拝礼した。咸和初め、弟の南頓王司馬宗に連座して官を免ぜられ、弋陽県王に降格された。蘇峻が乱を起こすと、司馬羕は蘇峻のもとを訪れてその功績を称え述べた。蘇峻は大いに喜び、詔を偽造して司馬羕の爵位を復した。蘇峻が平定されると、司馬羕は死を賜った。世子の司馬播、司馬播の弟の司馬充、および息子の司馬崧はともに誅殺され、封国は除かれた。咸康初め、その属籍が復され、司馬羕の孫の司馬瑉が奉車都尉・奉朝請となった。

原文元帝承制,更拜撫軍大將軍、開府,給千兵百騎,詔與南頓王宗統流人以實中州,江西荒梗,復還。及元帝踐阼,進位侍中、太保。以羕屬尊,元會特為設床。太興初,錄尚書事,尋領大宗師,加羽葆、斧鉞,班劍六十人,進位太宰。及王敦平,領太尉。明帝即位,以羕宗室元老,特為之拜。羕放縱兵士劫鈔,所司奏免羕官,詔不問。及帝寢疾,羕與王導同受顧命輔成帝。時帝幼沖,詔羕依安平獻王孚故事,設床帳於殿上,帝親迎拜。咸和初,坐弟南頓王宗免官,降為弋陽縣王。及蘇峻作亂,羕詣峻稱述其勳,峻大悅,矯詔復羕爵位。峻平,賜死。世子播、播弟充及息崧並伏誅,國除。咸康初,復其屬籍,以羕孫瑉為奉車都尉、奉朝請。

司馬宗は字を延祚という。元康年間、南頓県侯に封じられ、まもなく公に進爵した。劉喬討伐に功績があり、王に進封され、邑五千戸を加増され、前の分と合わせて一万戸となり、征虜将軍となった。兄の司馬羕とともに渡江した。元帝が制を承けると、散騎常侍に任じられた。湣帝が西都にいた時、司馬宗を平東将軍とした。元帝が即位すると、撫軍将軍に任じられ、左将軍を兼任した。明帝が即位すると、長水校尉を加えられ、左衛将軍に転じた。虞胤とともに帝に親昵され、禁軍を委ねられた。

原文宗字延祚。元康中,封南頓縣侯,尋進爵為公。討劉喬有功,進封王,增邑五千,並前萬戶,為征虜將軍。與兄羕俱過江。元帝承制,拜散騎常侍。湣帝之在西都,以宗為平東將軍。元帝即位,拜撫軍將軍,領左將軍。明帝踐阼,加長水校尉,轉左衛將軍。與虞胤俱為帝所昵,委以禁旅。

司馬宗は王導・庾亮ゆりょうと志趣が異なり、軽侠の徒と結びつき、腹心としていたため、王導と庾亮はともにこれを言上した。帝は司馬宗が外戚であるため、常に容赦した。帝の病が重くなると、司馬宗と虞胤は密かに乱を謀った。庾亮が扉を押し開けて入り、御床に昇って涙を流して言上したため、帝はようやく悟った。司馬宗は驃騎将軍に転じた。虞胤は大宗正となった。司馬宗はついに怨望の色を言葉や表情に表した。咸和初め、御史中丞鐘雅が司馬宗の謀反を弾劾し、庾亮は右衛将軍趙胤に彼を逮捕させた。司馬宗は兵を率いて防戦したが、趙胤に殺され、その一族は馬氏に改姓させられ、妻子は晉安に移されたが、後に赦された。三人の子、司馬綽・司馬超・司馬演は庶人に落とされた。咸康年間、その属籍が復された。司馬綽は奉車都尉・奉朝請となった。

原文宗與王導、庾亮志趣不同,連結輕俠,以為腹心,導、亮並以為言。帝以宗戚屬,每容之。及帝疾篤,宗、胤密謀為亂,亮排闥入,升御床,流涕言之,帝始悟。轉為驃騎將軍。胤為大宗正。宗遂怨望形於辭色。咸和初,御史中丞鐘雅劾宗謀反,庾亮使右衛將軍趙胤收之。宗以兵距戰,為胤所殺,貶其族為馬氏,徙妻子于晉安,既而原之。三子:綽、超、演,廢為庶人。咸康中,復其屬籍。綽為奉車都尉、奉朝請。

司馬熙は初め汝陽公に封じられ、劉喬討伐に功績があり、王に進爵した。永嘉末、石勒せきろくのもとで没した。

原文熙初封汝陽公,討劉喬有功,進爵為王。永嘉末,沒于石勒。

楚隠王司馬瑋

原文楚隱王瑋

楚隠王司馬瑋は、字を彦度といい、武帝の第五子である。初め始平王に封じられ、屯騎校尉を歴任した。太康末、楚に転封され、封国に出て、都督荊州諸軍事・平南将軍となり、鎮南将軍に転じた。武帝が崩御すると、入朝して衛将軍となり、北軍中候を兼任し、侍中・行太子少傅を加えられた。

原文楚隱王瑋,字彥度,武帝第五子也。初封始平王,曆屯騎校尉。太康末,徙封于楚,出之國,都督荊州諸軍事、平南將軍,轉鎮南將軍。武帝崩,入為衛將軍,領北軍中候,加侍中、行太子少傅。

楊駿が誅殺された時、司馬瑋は司馬門に駐屯していた。司馬瑋は若年で果断鋭敏であり、威刑を多く立てたため、朝廷は彼を忌み嫌った。汝南王司馬亮と太保の衛瓘は、司馬瑋の性質が強情で残忍であり、大きな任に就かせるべきではないと考え、彼を諸王と共に封国へ赴かせるよう建議した。司馬瑋はこれを非常に憤った。長史の公孫宏と舍人の岐盛はともに品行が卑しく、司馬瑋に親しまれていた。衛瓘らは彼らの人となりを憎み、禍乱を招くことを憂慮し、岐盛を捕らえようとした。岐盛はこれを知り、公孫宏と謀り、積弩将軍の李肇を利用して司馬瑋の命令を偽称し、賈后に対して司馬亮と衛瓘を讒言した。賈后はこれを確かめず、恵帝に詔を作らせた。「太宰(司馬亮)と太保(衛瓘)が伊尹・霍光のようなことを企んでいる。王(司馬瑋)は詔を宣布し、淮南王・長沙王・成都王に宮中の諸門を駐屯させ、二公を廃せ。」夜に黄門に命じて詔を司馬瑋に届けさせた。司馬瑋が再度上奏して確認しようとすると、黄門は言った。「事が漏れる恐れがあり、密詔の本来の意図に反します。」司馬瑋はやめた。そこで自軍を率い、さらに偽詔で三十六軍を召集し、手令で諸軍に告げた。「天が晉室に禍を降し、凶乱が相次いでいる。先頃の楊駿の難は、実に諸君が禍乱を平定したことによる。しかし二公は密かに不軌を図り、陛下を廃して武帝の祭祀を絶やそうとしている。今、詔を奉じて二公の官を免ずる。私は今、中外諸軍の都督を命じられた。直衛に当たる者は皆厳重に警備せよ。外営にいる者は、すぐに率いて直接行府へ赴け。順を助け逆を討つことは、天が福する所である。賞を懸け封を開き、忠誠と功績を待つ。皇天后土よ、まことにこの言葉を聞け。」また偽詔で司馬亮と衛瓘に太宰・太保の印綬と侍中の貂蟬を返上させ、封国へ赴かせ、官属はすべて罷免・遣散させた。さらに偽詔で司馬亮・衛瓘の官属を赦し、言った。「二公は密かに謀り、社稷を危うくしようとした。今、免官して邸宅に戻す。官属以下は、一切問わない。もし詔に従わなければ、ただちに軍法により処断する。率いる兵を率いて先に出て降る者は、侯に封じ賞を受ける。朕は約束を破らない。」こうして司馬亮と衛瓘を捕らえ、殺害した。

原文楊駿之誅也,瑋屯司馬門。瑋少年果銳,多立威刑,朝廷忌之。汝南王亮、太保衛瓘以瑋性很戾,不可大任,建議使與諸王之國,瑋甚忿之。長史公孫宏、舍人岐盛並薄於行,為瑋所昵。瓘等惡其為人,慮致禍亂,將收盛。盛知之,遂與宏謀,因積弩將軍李肇矯稱瑋命,譖亮、瓘于賈后。而后不之察,使惠帝為詔曰:「太宰、太保欲為伊、霍之事,王宜宣詔,令淮南、長沙、成都王屯宮諸門,廢二公。」夜使黃門齎以授瑋。瑋欲覆奏,黃門曰:「事恐漏泄,非密詔本意也。」瑋乃止。遂勒本軍,復矯詔召三十六軍,手令告諸軍曰:「天禍晉室,凶亂相仍。間者楊駿之難,實賴諸君克平禍亂。而二公潛圖不軌,欲廢陛下以絕武帝之祀。今輒奉詔,免二公官。吾今受詔都督中外諸軍。諸在直衛者皆嚴加警備,其在外營,便相率領,徑詣行府。助順討逆,天所福也。懸賞開封,以待忠效。皇天后土,實聞此言。」又矯詔使亮、瓘上太宰太保印綬、侍中貂蟬,之國,官屬皆罷遣之。又矯詔赦亮、瓘官屬曰:「二公潛謀,欲危社稷,今免還第。官屬以下,一無所問。若不奉詔,便軍法從事。能率所領先出降者,封侯受賞。朕不食言。」遂收亮、瓘,殺之。

岐盛は司馬瑋を説得し、兵勢を利用して賈模と郭彰を誅殺し、王室を匡正して天下を安んじるべきだと勧めた。司馬瑋は躊躇して決断できなかった。夜が明けると、帝は張華ちょうかの計を用い、殿中将軍の王宮に騶虞幡を持たせて派遣し、兵士に向かって振りかざさせて言った。「楚王が偽詔を出した。」兵士たちは皆、武器を捨てて逃げた。司馬瑋の側には一人も残らず、窮迫してどうすべきかわからなかった。ただ一人、十四歳の奴隷が牛車を駆って秦王司馬柬のもとへ赴こうとした。帝は謁者を遣わし、司馬瑋に帰営を命じる詔を下し、武賁署で彼を捕らえ、廷尉に下した。詔は、司馬瑋が詔を偽って二公父子を害し、さらに朝臣を誅滅しようと謀り、不軌を図ったとして、遂に斬刑に処した。時に二十一歳であった。その日は大風が吹き、雷雨と霹靂があった。詔は言った。「周公が管叔・蔡叔を誅し、漢武帝が昭平君の獄を断じたのは、やむを得なかったのである。廷尉が司馬瑋がすでに法に伏したと奏上したが、心情は悲痛であり、私は哀悼の意を表す。」司馬瑋は臨終に際し、懐中の青紙の詔を取り出し、涙を流して監刑の尚書劉頌に見せて言った。「詔を受けて行動し、社稷のためと思ったが、今は罪人となった。先帝の御体を託され、このように冤罪を受けた。幸いにも申し立ててほしい。」劉頌もまた涙を流して顔を上げて見ることができなかった。公孫宏と岐盛はともに三族皆殺しにされた。

原文岐盛說瑋,可因兵勢誅賈模、郭彰,匡正王室,以安天下。瑋猶豫未決。會天明,帝用張華計,遣殿中將軍王宮齎騶虞幡麾眾曰:「楚王矯詔。」眾皆釋杖而走。瑋左右無復一人,窘迫不知所為,惟一奴年十四,駕牛車將赴秦王柬。帝遣謁者詔瑋還營,執之于武賁署,遂下廷尉。詔以瑋矯制害二公父子,又欲誅滅朝臣,謀圖不軌,遂斬之,時年二十一。其日大風,雷雨霹靂。詔曰:「周公決二叔之誅,漢武斷昭平之獄,所不得已者。廷尉奏瑋已伏法,情用悲痛,吾當發哀。」瑋臨死,出其懷中青紙詔,流涕以示監刑尚書劉頌曰:「受詔而行,謂為社稷,今更為罪,托體先帝,受枉如此,幸見申列。」頌亦歔欷不能仰視。公孫宏、岐盛並夷三族。

司馬瑋の性質は寛大で施しを好み、衆心を得ることができた。この事件では誰もが涙を流さず、民衆は彼のために祠を建てた。賈后は以前から衛瓘と司馬亮を憎み、さらに司馬瑋を忌み嫌っていたので、計略を用いて次々と誅殺したのである。永寧元年、驃騎将軍を追贈し、その子の司馬范を襄陽じょうよう王に封じ、散騎常侍に任じたが、後に石勒に殺害された。

原文瑋性開濟好施,能得眾心,及此莫不隕淚,百姓為之立祠。賈后先惡瓘、亮,又忌瑋,故以計相次誅之。永寧元年,追贈驃騎將軍,封其子范為襄陽王,拜散騎常侍,後為石勒所害。

趙王 司馬倫

原文趙王倫

趙王司馬倫は、字を子彝といい、宣帝(司馬懿)の第九子である。母は柏夫人という。魏の嘉平の初め、安楽亭侯に封じられた。五等爵制が建てられると、東安子に改封され、諫議大夫に任じられた。武帝が禅譲ぜんじょうを受けると、琅邪郡王に封じられた。散騎将の劉緝に命じて工人が盗んだ御裘を買わせた罪で連座し、廷尉の杜友が劉緝を棄市に処すと定め、司馬倫は劉緝と同罪とされた。有司が奏上したところ、司馬倫は爵位が高く皇族であるため、連座すべきではないとした。諫議大夫の劉毅が反駁して言った。「王法の賞罰は、貴賤によって偏ることなく、そうして初めて礼制を整え典刑を明らかにすることができます。司馬倫は裘が普通のものではないと知りながら、隠して官吏に告げず、劉緝と同罪です。親族で貴いことを理由に減刑を議すべきであり、論じないままにしておくことはできません。一時の法の中で、杜友が定めた通りにすべきです。」帝は劉毅の反駁を正しいとしたが、司馬倫が親族であることを理由に、詔を下して赦した。封国に赴く際、東中郎将・宣威将軍を兼任した。咸寧年間、趙に改封され、平北将軍・鄴城守事都督に遷り、安北将軍に進んだ。元康の初め、征西将軍・開府儀同三司に遷り、関中を鎮守した。司馬倫は刑賞が適切でなく、氐・羌が反乱を起こしたため、召還されて京師に帰った。まもなく車騎将軍・太子太傅に任じられた。賈氏と郭氏と深く交わり、中宮(賈后)に諂い仕え、賈后に大いに親信された。録尚書事を求めたが、張華と裴頠が固執して許さなかった。また尚書令を求めたが、張華と裴頠が再び許さなかった。

原文趙王倫,字子彝,宣帝第九子也,母曰柏夫人。魏嘉平初,封安樂亭侯。五等建,改封東安子,拜諫議大夫。武帝受禪,封琅邪郡王。坐使散騎將劉緝買工所將盜御裘,廷尉杜友正緝棄市,倫當與緝同罪。有司奏倫爵重屬親,不可坐。諫議大夫劉毅駁曰:「王法賞罰,不阿貴賤,然後可以齊禮制而明典刑也。倫知裘非常,蔽不語吏,與緝同罪。當以親貴議減,不得闕而不論。宜自于一時法中,如友所正。」帝是毅駁,然以倫親親故,下詔赦之。及之國,行東中郎將、宣威將軍。咸甯中,改封于趙,遷平北將軍、督鄴城守事,進安北將軍。元康初,遷征西將軍、開府儀同三司,鎮關中。倫刑賞失中,氐、羌反叛,徵還京師。尋拜車騎將軍、太子太傅。深交賈、郭,諂事中宮,大為賈后所親信。求錄尚書,張華、裴頠固執不可。又求尚書令,華、頠復不許。

湣懐太子が廃されると、司馬倫に右軍将軍を兼任させた。当時、左衛司馬督の司馬雅と常従督の許超は、ともにかつて東宮に仕えたことがあり、二人は太子に罪がないことを悲しみ、殿中中郎の士猗らと謀って賈后を廃し、太子を復位させようとした。張華と裴頠は考えを変えられず、権謀を図るのが難しいと考え、司馬倫が兵権を握り、性質が貪欲であることを利用して事を成し遂げさせようと、司馬倫の寵臣孫秀を説いて言った。「中宮(賈后)は凶暴で嫉妬深く無道であり、賈謐らと共に太子を廃しました。今、国に嫡子の後継ぎがおらず、社稷が危うくなろうとしています。大臣たちが大事を起こそうとしています。しかし公(孫秀)は名目上中宮に仕え、賈氏・郭氏と親しく、太子の廃立にも皆、予め知っていたと言われています。一朝事が起これば、禍は必ず及ぶでしょう。どうして先に謀らないのですか。」孫秀は承諾し、司馬倫に話すと、司馬倫はこれを受け入れた。そこで通事令史の張林と省事の張衡、殿中侍御史の殷渾、右衛司馬督の路始に告げ、内応させた。事を起こそうとした時、孫秀は太子が聡明であることを知り、もし東宮に戻れば、賢人と政事を図り、自分は必ず志を得られないだろうと考え、さらに司馬倫を説いて言った。「太子は人となりが剛猛で、私的な請願は通用しません。明公はもともと賈后に仕え、世間の議論は皆、公を賈氏の党と見なしています。今、太子のために大功を立てようとしても、太子は積年の怒りを抱いており、必ずや明公に賞を加えることはないでしょう。むしろ民衆の期待に迫られて翻意し、罪を免れただけだと言われるでしょう。これはかえって禍を速めることになります。今はしばらく事を遅らせ、賈后が必ず太子を害するのを待ち、その後で賈后を廃して太子の仇を討てば、それもまた功を立てることであり、ただ禍を免れるだけではありません。」司馬倫はこれに従った。孫秀はわざと謀略を少し漏らし、賈謐の一派に聞こえさせた。司馬倫と孫秀はそこで賈謐らをそそのかして早く太子を害し、衆望を絶たせようとした。

原文湣懷太子廢,使倫領右軍將軍。時左衛司馬督司馬雅及常從督許超,並嘗給事東宮,二人傷太子無罪,與殿中中郎士猗等謀廢賈后,復太子,以華、頠不可移,難與圖權,倫執兵之要,性貪冒,可假以濟事,乃說倫嬖人孫秀曰:「中宮凶妒無道,與賈謐等共廢太子。今國無嫡嗣,社稷將危,大臣將起大事。而公名奉事中宮,與賈、郭親善,太子之廢,皆云豫知,一朝事起,禍必相及。何不先謀之乎?」秀許諾,言於倫,倫納焉。遂告通事令史張林及省事張衡、殿中侍御史殷渾、右衛司馬督路始,使為內應。事將起,而秀知太子聰明,若還東宮,將與賢人圖政,量己必不得志,乃更說倫曰:「太子為人剛猛,不可私請。明公素事賈后,時議皆以公為賈氏之黨。今雖欲建大功于太子,太子含宿怒,必不加賞於明公矣。當謂逼百姓之望,翻覆以免罪耳。此乃所以速禍也。今且緩其事,賈后必害太子,然後廢后,為太子報仇,亦足以立功,豈徒免禍而已。」倫從之。秀乃微泄其謀,使謐党頗聞之。倫、秀因勸謐等早害太子,以絕眾望。

太子が殺害された後、司馬倫と孫秀の謀略はますます激しくなったが、牽秀と許超は後の災難を恐れ、その計画を悔やんで病気を理由に辞退した。孫秀はまた右衛佽飛督の閭和に告げ、閭和はこれに従い、四月三日の丙夜(午後11時から午前1時)の一籌(一更)を期日とし、太鼓の音を合図とした。期日になると、偽りの詔勅を発して三部司馬に命じた。「中宮(賈后)と賈謐らが我が太子を殺した。今、車騎将軍(司馬倫)をして中宮を廃せしめる。汝らは皆これに従うべし。関中侯の爵位を賜る。従わなければ三族を誅する。」そこで兵士たちは皆これに従った。司馬倫はまた偽詔で宮門を開けさせ夜間に侵入し、兵を道の南に配置し、翊軍校尉・斉王司馬冏に三部司馬百人を率いさせ、宮門を押し開けて入らせた。華林令の駱休が内応し、皇帝(恵帝)を東堂に迎えた。こうして賈后を庶人に廃し、建始殿に幽閉した。呉太妃、趙粲、および韓寿の妻賈午らを捕らえ、暴室に送って取り調べた。詔を下して尚書に賈后廃立の事を処理させ、引き続き賈謐らを逮捕させ、中書監、侍中、黄門侍郎、八坐(尚書令・僕射ぼくやと六曹尚書)を皆、夜間に殿中に召し入れ、張華、裴頠、解結、杜斌らを捕らえ、殿前で殺害した。尚書は初め詔に偽りがあるのではないかと疑い、郎の師景が露版(封をしない上奏文)で皇帝の直筆の詔を請うた。司馬倫らはこれが衆の気をくじくものとして、彼を斬って見せしめにした。翌日、司馬倫は端門に座し、兵を北に向けて駐屯させ、尚書の和郁に節を持たせ賈庶人を金墉城に送らせた。趙粲の叔父である中護軍の趙浚と散騎侍郎の韓豫らを誅殺し、内外の多くの官僚を罷免・左遷した。司馬倫は間もなく偽詔を発し、自ら使持節・大都督・督中外諸軍事・相国とし、侍中と王の位は元のまま、全て宣帝(司馬懿)と文帝(司馬昭しばしょう)が魏を輔佐した故事に倣い、左右の長史、司馬、従事中郎四人、参軍十人、掾属二十人、兵一万人を置いた。その世子で散騎常侍の司馬荂に冗従僕射を兼任させた。子の司馬馥を前将軍とし、済陽王に封じた。司馬虔を黄門郎とし、汝陰王に封じた。司馬詡を散騎侍郎とし、覇城侯に封じた。孫秀らは皆大きな郡に封じられ、兵権を握り、文武の官で侯に封じられた者は数千人に及び、百官は皆自らを統制して司馬倫に従った。

原文太子既遇害,倫、秀之謀益甚,而超、雅懼後難,欲悔其謀,乃辭疾。秀復告右衛佽飛督閭和,和從之,期四月三日丙夜一籌,以鼓聲為應。至期,乃矯詔敕三部司馬曰:「中宮與賈謐等殺吾太子,今使車騎入廢中宮。汝等皆當從命,賜爵關中侯。不從,誅三族。」於是眾皆從之。倫又矯詔開門夜入,陳兵道南,遣翊軍校尉、齊王冏將三部司馬百人,排閣而入。華林令駱休為內應,迎帝幸東堂。遂廢賈后為庶人,幽之於建始殿。收吳太妃、趙粲及韓壽妻賈午等,付暴室考竟。詔尚書以廢后事,仍收捕賈謐等,召中書監、侍中、黃門侍郎、八坐,皆夜入殿,執張華、裴頠、解結、杜斌等,於殿前殺之。尚書始疑詔有詐,郎師景露版奏請手詔。倫等以為沮眾,斬之以徇。明日,倫坐端門,屯兵北向,遣尚書和郁持節送賈庶人于金墉。誅趙粲叔父中護軍趙浚及散騎侍郎韓豫等,內外群官多所黜免。倫尋矯詔自為使持節、大都督、督中外諸軍事、相國,侍中、王如故,一依宣、文輔魏故事,置左右長史、司馬、從事中郎四人、參軍十人,掾屬二十人、兵萬人。以其世子散騎常侍荂領冗從僕射;子馥前將軍,封濟陽王;虔黃門郎,封汝陰王;羽散騎侍郎,封霸城侯。孫秀等封皆大郡,並據兵權,文武官封侯者數千人,百官總己聽於倫。

司馬倫は元来凡庸で、知略もなく、また孫秀に制せられ、孫秀の威権は朝廷に震い、天下の人々は皆孫秀に仕えて司馬倫には求めなかった。孫秀は琅邪の小史から身を起こし、趙国で官を重ね、諂媚によって自らを出世させた。機要の権力を握ると、その奸謀をほしいままにし、多くの忠良を殺害して私欲を満たした。司隷従事の游顥は殷渾と不和があり、殷渾は游顥の奴隷の晋興をそそのかし、偽って游顥に異心があると告げさせた。孫秀は詳しく調べもせず、すぐに游顥と襄陽中正の李邁を捕らえて殺し、晋興を厚遇して自らの部曲督とした。前衛尉の石崇たっと、黄門郎の潘岳は皆孫秀と怨恨があり、ともに誅殺された。こうして都の君子たちは生きることを楽しめなくなった。

原文倫素庸下,無智策,復受制於秀,秀之威權振於朝廷,天下皆事秀而無求於倫。秀起自琅邪小史,累官于趙國,以諂媚自達。既執機衡,遂恣其奸謀,多殺忠良,以逞私欲。司隸從事游顥與殷渾有隙,渾誘顥奴晉興,偽告顥有異志。秀不詳察,即收顥及襄陽中正李邁,殺之,厚待晉興,以為己部曲督。前衛尉石崇、黃門郎潘嶽皆與秀有嫌,並見誅。於是京邑君子不樂其生矣。

淮南王司馬允と斉王司馬冏は、司馬倫と孫秀が驕慢で僭上の振る舞いをするのを、内心憤慨していた。孫秀らも彼らを深く忌み嫌い、司馬冏を許昌に鎮守させ出し、司馬允から護軍の職を奪った。司馬允は憤慨して兵を起こし、司馬倫を討とうとした。司馬允が敗れて滅ぼされた後、司馬倫に九錫きゅうしゃくが加えられ、封戸五万戸が増加された。司馬倫は偽って辞退するふりをし、詔によって百官がその府に赴いて強く勧め、侍中が詔を宣し、その後でこれを受けた。司馬荂に撫軍将軍・領軍将軍を加え、司馬馥に鎮軍将軍・領護軍将軍を、司馬虔に中軍将軍・領右衛将軍を、司馬詡を侍中とした。また孫秀を侍中・輔国将軍・相国司馬とし、右率の職は元のままとした。張林らも皆顕要な地位についた。相府の兵を二万人に増やし、宿衛軍と同じとし、さらに兵士を隠匿したので、兵の数は三万人を超えた。東宮に三つの門と四隅に華やかな櫓を建て、宮中の東西の通路を断って外部の境界とした。ある者が孫秀に言った。「散騎常侍の楊准と黄門侍郎の劉逵が梁王司馬肜を奉じて司馬倫を誅殺しようとしている。」ちょうど星変があったので、司馬肜を丞相に転じさせ、司徒しと府に住まわせ、楊准と劉逵を外官に転任させた。

原文淮南王允、齊王冏以倫、秀驕僭,內懷不平。秀等亦深忌焉,乃出冏鎮許,奪允護軍。允發憤,起兵討倫。允既敗滅,倫加九錫,增封五萬戶。倫偽為飾讓,詔遣百官詣府敦勸,侍中宣詔,然後受之。加荂撫軍將軍、領軍將軍,馥鎮軍將軍、領護軍將軍,虔中軍將軍、領右衛將軍,詡為侍中。又以孫秀為侍中、輔國將軍、相國司馬,右率如故。張林等並居顯要。增相府兵為二萬人,與宿衛同,又隱匿兵士,眾過三萬。起東宮三門四角華櫓,斷宮東西道為外徼。或謂秀曰:「散騎常侍楊准、黃門侍郎劉逵欲奉梁王肜以誅倫。」會有星變,乃徙肜為丞相,居司徒府,轉准、逵為外官。

司馬倫は学がなく、書物を知らず、孫秀もまた狡猾で小才に過ぎず、貪欲で利に目がくらんでいた。共に事を成した者たちは皆、邪悪で諂う者ばかりで、ただ栄利を競うだけで、深い謀略や遠大な見識はなかった。司馬荂は浅薄で卑しく、司馬馥と司馬虔は暗愚で強情で残忍、司馬詡は愚かで喧嘩っ早く軽率で、それぞれが仲違いし、互いに憎み誹謗した。孫秀の子の孫会は二十歳で射声校尉となり、皇帝の娘である河東公主を娶った。公主の母の喪がまだ一年も経たないうちに、早くも聘礼を納めた。孫会は背が低く醜く、奴僕の中でも下等な者で、初めは富裕な家の子供と城西で馬を売買していたので、百姓たちが彼が公主を娶ると聞いて、誰もが驚愕した。

原文倫無學,不知書;秀亦以狡黠小才,貪淫昧利。所共立事者,皆邪佞之徒,惟競榮利,無深謀遠略。荂淺薄鄙陋,馥、虔暗很強戾,詡愚嚚輕訬,而各乖異,互相憎毀。秀子會,年二十,為射聲校尉,尚帝女河東公主。公主母喪未期,便納聘禮。會形貌短陋,奴僕之下者,初與富室兒於城西販馬,百姓忽聞其尚主,莫不駭愕。

司馬倫と孫秀はともに巫覡や鬼神に惑わされ、妖邪の説を聞き入れた。孫秀は牙門の趙奉に宣帝(司馬懿)の神託を偽らせ、司馬倫に早く西宮に入るよう命じさせた。また、宣帝が北芒で趙王(司馬倫)を助けると言い、そこで別に芒山に宣帝廟を建立した。逆謀が成就できると考えたのである。太子詹事の裴劭、左軍将軍の卞粹ら二十人を従事中郎とし、掾属もまた二十人とした。孫秀らは諸軍を配置し、腹心を分けて配置し、散騎常侍・義陽王司馬威に侍中を兼任させ、詔命の出納をさせ、禅譲の詔を偽造し、使持節・尚書令の満奮を使者とし、僕射の崔随を副使として、皇帝の璽綬を奉じて司馬倫に帝位を禅譲させた。司馬倫は偽って辞退して受けなかった。そこで宗室の諸王、群公卿士は皆、符瑞や天文を偽って称え、進めるよう勧めたので、司馬倫はようやく承諾した。左衛の王輿と前軍司馬の司馬雅らが甲士を率いて殿中に入り、三部司馬を譬え諭し、威嚇と恩賞を示したので、誰も敢えて逆らう者はなかった。その夜、張林らに諸門を守備させた。義陽王司馬威と駱休らが天子の璽綬を強奪した。夜漏(夜の更)がまだ尽きないうちに、内外の百官が乗輿と法駕で司馬倫を迎えた。恵帝は雲母車に乗り、鹵簿数百人を従え、華林園の西門から出て金墉城に移り住んだ。尚書の和郁、兼侍中・散騎常侍の琅邪王司馬睿しばえい、中書侍郎の陸機りくきが従い、城の下まで行って戻った。張衡に皇帝を護衛させたが、実質的には幽閉したのである。

原文倫、秀並惑巫鬼,聽妖邪之說。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語,命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助,於是別立宣帝廟於芒山。謂逆謀可成。以太子詹事裴劭、左軍將軍卞粹等二十人為從事中郎,掾屬又二十人。秀等部分諸軍,分佈腹心,使散騎常侍、義陽王威兼侍中,出納詔命,矯作禪讓之詔,使使持節、尚書令滿奮,僕射崔隨為副,奉皇帝璽綬以禪位於倫。倫偽讓不受。於是宗室諸王、群公卿士咸假稱符瑞天文以勸進,倫乃許之。左衛王輿與前軍司馬雅等率甲士入殿,譬喻三部司馬,示以威賞,皆莫敢違。其夜,使張林等屯守諸門。義陽王威及駱休等逼奪天子璽綬。夜漏未盡,內外百官以乘輿法駕迎倫。惠帝乘雲母車,鹵簿數百人,自華林西門出居金墉城。尚書和郁,兼侍中、散騎常侍、琅邪王睿,中書侍郎陸機從,到城下而反。使張衡衛帝,實幽之也。

司馬倫は兵五千人を従え、端門から入り、太極殿に登った。満奮、崔随、楽広が璽綬を司馬倫に進めたので、ついに帝位を僭称し、大赦を行い、元号を建始と改めた。この年、賢良方正、直言、秀才、孝廉、良将の各科の試験は行われなかった。計吏および四方からの使命で都にいた者、太学生で十六歳以上および学んで二十年になる者は、皆吏に任用された。郡県の二千石(太守・国相)や令長で赦日の時点で在職していた者は、皆侯に封じられた。郡の綱紀(功曹など)は皆孝廉とされ、県の綱紀は廉史とされた。世子の司馬荂を太子とし、司馬馥を侍中・大司農・領護軍・京兆王とし、司馬虔を侍中・大将軍領軍・広平王とし、司馬詡を侍中・撫軍将軍・覇城王とし、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司とした。張林ら諸党与は皆卿将の位に登り、並んで大いに封じられた。その他の共謀者も皆、階級を超えて抜擢され、数え切れないほどで、奴隷や兵卒、雑役夫に至るまで爵位が加えられた。毎回の朝会では、貂蝉(高官の冠飾り)を付けた者が座席に満ち、当時の人はこれについて諺を作って言った。「貂(テン)の尾が足りないので、狗(犬)の尾で継ぐ。」そして、その場しのぎの恩恵で人情を喜ばせようとしたが、府庫の蓄えは恩賞に充てるのに足りず、金銀を鋳造しても印章に間に合わなかったので、白版(官印のない)の侯爵が現れ、君子はその印章を身につけるのを恥じ、百姓もまた彼らが最後まで続かないことを知っていた。

原文倫從兵五千人,入自端門,登太極殿,滿奮、崔隨、樂廣進璽綬於倫,乃僭即帝位,大赦,改元建始。是歲,賢良方正、直言、秀才、孝廉、良將皆不試;計吏及四方使命之在京邑者,太學生年十六以上及在學二十年,皆署吏;郡縣二千石令長赦日在職者,皆封侯;郡綱紀並為孝廉,縣綱紀為廉史。以世子荂為太子,馥為侍中、大司農、領護軍、京兆王,虔為侍中、大將軍領軍、廣平王,詡為侍中、撫軍將軍、霸城王,孫秀為侍中、中書監、驃騎將軍、儀同三司,張林等諸黨皆登卿將,並列大封。其餘同謀者咸超階越次,不可勝紀,至於奴卒斯役亦加以爵位。每朝會,貂蟬盈坐,時人為之諺曰:「貂不足,狗尾續。」而以苟且之惠取悅人情,府庫之儲不充于賜,金銀冶鑄不給于印,故有白版之侯,君子恥服其章,百姓亦知其不終矣。

司馬倫は自ら太廟を祀り、帰還の途中、大風に遭い、麾蓋が吹き折られた。孫秀はすでに非常の事(クーデター)を成し遂げたため、司馬倫は彼を敬重した。孫秀は文帝(司馬昭)が相国であった時に住んでいた内府に住み、事の大小を問わず、必ず彼に諮問してから実行した。司馬倫の詔令も、孫秀はすぐに改変し、人事の任免などは、自ら青紙に詔書を書き、あるいは朝に出したものを夕方に改めることが一日に四度もあり、百官の人事は流れるように変わった。時に雉が殿中に入り、太極殿の東の階段から殿上に上がり、追い払うと、今度は西の鐘の下に飛び、しばらくして飛び去った。また、司馬倫が殿上で異様な鳥を得たが、誰もその名を知らなかった。数日後の夕方、宮殿の西で素衣の小児が、これは服劉鳥だと告げた。司馬倫は小児と鳥を捕らえて牢室に閉じ込めたが、翌朝開けてみると、戸は元のままで、人も鳥も所在がなくなっていた。司馬倫の目の上には瘤があり、当時は妖異と見なされた。

原文倫親祠太廟,還,遇大風,飄折麾蓋。孫秀既立非常之事,倫敬重焉。秀住文帝為相國時所居內府,事無巨細,必諮而後行。倫之詔令,秀輒改革,有所與奪,自書青紙為詔,或朝行夕改者數四,百官轉易如流矣。時有雉入殿中,自太極東階上殿,驅之,更飛西鐘下,有頃,飛去。又倫於殿上得異鳥,問皆不知名,累日向夕,宮西有素衣小兒言是服劉鳥。倫使錄小兒並鳥閉置牢室,明旦開視,戶如故,並失人鳥所在。倫目上有瘤,時以為妖焉。

当時、斉王司馬冏、河間王司馬顒、成都王司馬穎はいずれも強兵を擁し、それぞれ一方を占めていた。孫秀は司馬冏らが必ず異心を抱いていると知り、親族や党与、および司馬倫の旧臣を選んで三王の参佐や郡守に任命した。

原文時齊王冏、河間王顒、成都王穎並擁強兵,各據一方。秀知冏等必有異圖,乃選親黨及倫故吏為三王參佐及郡守。

孫秀はもともと張林と不和であり、表面上は推挙して高官にしたが、内心では実に彼を忌み嫌っていた。張林が衛将軍となった時、開府を許されなかったことを深く怨み、密かに司馬荂に手紙を送り、孫秀が権力を専断し、その行動が常に衆人の心に背き、功臣は皆小人で朝廷をかき乱していること、今すぐに彼を誅殺すべきだと詳しく述べた。司馬荂はその手紙を司馬倫に見せ、司馬倫は孫秀に見せた。孫秀は司馬倫に張林を誅殺するよう勧め、司馬倫はそれに従った。そこで司馬倫は宗室を華林園に集めて会合を開き、張林、孫秀、王輿を召し出し、その場で張林を捕らえて殺し、三族を誅滅した。

原文秀本與張林有隙,雖外相推崇,內實忌之。及林為衛將軍,深怨不得開府,潛與荂箋,具說秀專權,動違眾心,而功臣皆小人,撓亂朝廷,要一時誅之。荂以書白倫,倫以示秀。秀勸倫誅林,倫從之。於是倫請宗室會于華林園,召林、秀及王輿入,因收林,殺之,誅三族。

三王が兵を起こして司馬倫を討つ檄文が届くと、司馬倫と孫秀は初めて大いに恐れ、中堅の孫輔を上軍将軍に、積弩の李厳を折衝将軍に任じ、兵七千を率いて延寿関から出撃させ、征虜将軍張泓、左軍将軍蔡璜、前軍将軍閭和らに九千人を率いて堮阪関から出撃させ、鎮軍司馬雅、揚威将軍莫原らに八千人を率いて成皋関から出撃させた。東平王司馬楙を使持節・衛将軍に任じ、諸軍を都督して義軍を防がせた。楊珍を昼夜を問わず宣帝(司馬懿)の別廟に派遣して祈願させ、そのたびに「宣帝が陛下に申し上げます、某日に賊を破るでしょう」と伝えさせた。道士の胡沃を太平将軍に任じて福祐を招かせた。孫秀の家では毎日淫祀を行い、厭勝の文を作り、巫祝に戦いの日を選ばせた。また、近親者を嵩山に遣わして羽衣を着せ、仙人の王喬と偽らせ、神仙の書を作って司馬倫の帝位が長久であると述べさせ、衆人を惑わせた。孫秀は司馬馥と司馬虔に兵を率いさせて諸軍の戦いを助けさせようとしたが、馥と虔は承知しなかった。司馬虔は平素から劉輿を親愛していたので、孫秀は劉輿を説得させ、司馬虔はその後、兵八千を率いて三軍の後続支援となった。張泓、司馬雅らは連戦連勝したが、義軍は散ってもすぐに集結し、司馬雅らは前進できなかった。許超らは成都王司馬穎の軍と黄橋で戦い、一万余人を殺傷した。張泓はまっすぐ陽翟に進軍し、さらに城南で斉王司馬冏の輜重隊を破り、数千人を殺し、遂に城を占拠して邸閣を守った。一方、司馬冏の軍はすでに潁陰にあり、陽翟から四十里の距離にあった。司馬冏は軍を分けて潁水を渡り、張泓らを攻撃したが、うまくいかなかった。張泓は勝ちに乗じて潁上にまで進出し、夜に潁水に臨んで陣を布いた。司馬冏が軽兵を繰り出して攻撃したが、諸軍は動かず、孫輔と徐建の軍が夜中に混乱し、まっすぐ洛陽に帰還して自首した。孫輔と徐建が逃走した時、他の軍の督(指揮官)たちがまだ存命であることを知らず、「斉王の兵勢が盛んでとても敵わず、張泓らはすでに戦死した」と報告した。司馬倫は大いに動揺し、このことを秘匿したが、司馬虔と許超を召還した。ちょうど張泓が司馬冏を破ったという露布(勝利の報せ)が届き、司馬倫は大喜びして、再び許超を派遣したが、司馬虔はすでに庾倉に帰還していた。許超が帰還して黄河を渡ろうとした時、将士たちは疑念を抱き、鋭気は内から挫かれた。張泓らは諸軍を率いて潁水を渡り、司馬冏の本営を攻撃した。司馬冏は兵を出して張泓軍の別働隊の孫髦、司馬譚、孫輔を攻撃し、いずれも撃破した。兵士たちは散り散りになって洛陽に帰り、張泓らは兵を収めて本営に戻った。孫秀らは三方からの攻勢が日に日に切迫していることを知り、司馬冏の本営を破り、司馬冏を捕らえたと偽って伝え、衆人を欺き惑わせ、百官に皆祝賀させた。しかし、士猗、伏胤、孫会はいずれも節杖を持ち、互いに従わなかった。司馬倫は再び太子詹事の劉琨に節を与え、河北将軍を督させ、歩兵と騎兵千人を率いて諸軍の戦いを督励させた。孫会らは義軍と激水で戦い、大敗して黄河のほとりに退き、防衛した。劉琨は河橋を焼き切った。

原文及三王起兵討倫檄至,倫、秀始大懼,遣其中堅孫輔為上軍將軍,積弩李嚴為折沖將軍,率兵七千自延壽關出,征虜張泓、左軍蔡璜、前軍閭和等率九千人自堮阪關出,鎮軍司馬雅、揚威莫原等率八千人自成皋關出。召東平王楙為使持節、衛將軍,都督諸軍以距義師。使楊珍晝夜詣宣帝別廟祈請,輒言宣帝謝陛下,某日當破賊。拜道士胡沃為太平將軍,以招福祐。秀家日為淫祀,作厭勝之文,使巫祝選擇戰日。又令近親于嵩山著羽衣,詐稱仙人王喬,作神仙書,述倫祚長久以惑眾。秀欲遣馥、虔領兵助諸軍戰,馥、虔不肯。虔素親愛劉輿,秀乃使輿說虔,虔然後率眾八千為三軍繼援。而泓、雅等連戰雖勝,義軍散而輒合,雅等不得前。許超等與成都王穎軍戰于黃橋,殺傷萬餘人。泓徑造陽翟,又于城南破齊王冏輜重,殺數千人,遂據城保邸閣。而冏軍已在潁陰,去陽翟四十里。冏分軍渡潁,攻泓等不利。泓乘勝至於潁上,夜臨潁而陣。冏縱輕兵擊之,諸軍不動,而孫輔、徐建軍夜亂,徑歸洛自首。輔、建之走也,不知諸軍督尚存,乃云:「齊王兵盛,不可當,泓等已沒。」倫大震,秘之,而召虔及超還。會泓敗冏露布至,倫大喜,及復遣超,而虔還已至庾倉。超還濟河,將士疑阻,銳氣內挫。泓等悉其諸軍濟潁,進攻冏營,冏出兵擊其別率孫髦、司馬譚、孫輔,皆破之,士卒散歸洛陽,泓等收眾還營。秀等知三方日急,詐傳破冏營,執得冏,以誑惑其眾,令百官皆賀,而士猗、伏胤、孫會皆杖節各不相從。倫復授太子詹事劉琨節,督河北將軍,率步騎千人催諸軍戰。會等與義軍戰于激水,大敗,退保河上,劉琨燒斷河橋。

義兵が起こって以来、百官や将士は皆、司馬倫と孫秀を誅殺して天下に謝罪したいと願っていた。孫秀は衆怒が犯しがたいことを知り、省(官庁)に出ることを敢えてしなかった。河北の軍がことごとく敗れたと聞き、憂い憤懣でどうしてよいかわからなかった。義陽王司馬威が孫秀に、尚書省に行って八坐(三公・尚書令・左右僕射・諸曹尚書)と征戦の準備を議するよう勧め、孫秀はそれに従った。京城の四品以下の官の子弟で十五歳以上の者をすべて司隸に赴かせ、司馬倫に従って出戦させた。内外の諸軍は皆、孫秀を襲撃して殺そうとしたので、司馬威は恐れ、崇礼闥から走って下屋敷に戻った。許超、士猗、孫会らの軍がすでに帰還したので、孫秀と謀議し、ある者は残兵を収めて出戦しようとし、ある者は宮室を焼き払い、自分に従わない者を誅殺し、司馬倫を擁して南の孫旂や孟観のもとに行こうとし、ある者は船に乗って東へ海に入ろうとしたが、まだ決めかねていた。王輿はこれに反対し、営兵七百余人を率いて南掖門から入り、宮中の兵に命じてそれぞれ諸門を守衛させ、三部司馬を内応させた。王輿自ら孫秀を攻撃に向かい、孫秀は中書省の南門を閉ざした。王輿は兵に命じて塀に登らせ屋敷に火を放ち、孫秀と許超、士猗は急いで逃げ出したが、左衛将軍の趙泉が孫秀らを斬り、その首をさらし回した。右衛営で孫奇を捕らえ、廷尉に引き渡して誅殺させた。前将軍の謝惔、黄門令の駱休、司馬督の王潜を捕らえ、いずれも殿中で斬った。三部司馬の兵は宣化闥の中で孫弼を斬り、その首をさらし回した。この時、司馬馥は孫秀のもとにいたが、王輿が将士に命じて彼を散騎省に監禁し、大戟を持たせて省の門を守らせた。八坐は皆、殿中に入り、東の階段の下の木の下に座った。王輿は雲龍門に駐屯し、司馬倫に詔書を作らせた。「朕は孫秀らに誤らされ、三王を怒らせてしまった。今や孫秀を誅殺したので、太上皇(恵帝)を迎えて復位させ、朕は農耕の地に帰って老いを養うこととする。」詔書を伝えて騶虞幡を持たせ、将士に兵を解くよう命じた。文武の官は皆、逃げ走り、敢えて留まる者はいなかった。黄門が司馬倫を華林園の東門から出し、司馬荂とともに汶陽里の邸宅に帰した。そこで甲士数千人をもって天子(恵帝)を金墉城から迎え、百姓は皆万歳を称えた。帝は端門から入り、殿に昇り、広室に着座し、司馬倫と司馬荂らを金墉城に送り届けた。

原文自義兵之起,百官將士咸欲誅倫、秀以謝天下。秀知眾怒難犯,不敢出省。及聞河北軍悉敗,憂懣不知所為。義陽王威勸秀至尚書省與八坐議征戰之備,秀從之。使京城四品以下子弟年十五以上,皆詣司隸,從倫出戰。內外諸軍悉欲劫殺秀,威懼,自崇禮闥走還下舍。許超、士猗、孫會等軍既並還,乃與秀謀,或欲收余卒出戰,或欲焚燒宮室,誅殺不附己者,挾倫南就孫旂、孟觀等,或欲乘船東走入海,許未決。王輿反之,率營兵七百餘人自南掖門入,敕宮中兵各守衛諸門,三部司馬為應於內。輿自往攻秀,秀閉中書南門。輿放兵登牆燒屋,秀及超、猗遽走出,左衛將軍趙泉斬秀等以徇。收孫奇于右衛營,付廷尉誅之。執前將軍謝惔、黃門令駱休、司馬督王潛,皆於殿中斬之。三部司馬兵於宣化闥中斬孫弼以徇,時司馬馥在秀坐,輿使將士囚之於散騎省,以大戟守省閣。八坐皆入殿中,坐東除樹下。王輿屯雲龍門,使倫為詔曰:「吾為孫秀等所誤,以怒三王。今已誅秀,其迎太上復位,吾歸老于農畝。」傳詔以騶虞幡敕將士解兵。文武官皆奔走,莫敢有居者。黃門將倫自華林東門出,及荂皆還汶陽里第。於是以甲士數千迎天子于金墉,百姓咸稱萬歲。帝自端門入,升殿,御廣室,送倫及荂等付金墉城。

初め、孫秀は西の軍(成都王穎ら)が迫るのを恐れ、再び司馬虔を召還した。この日、司馬虔は九曲に宿泊していたが、詔が使者を遣わして司馬虔の官を免じた。司馬虔は恐れ、軍を捨てて数十人を率いて汶陽里に帰った。

原文初,秀懼西軍至,復召虔還。是日宿九曲,詔遣使者免虔官,虔懼,棄軍將數十人歸於汶陽里。

梁王司馬肜が上表して、司馬倫父子の凶逆は誅殺に伏すべきだと述べた。百官が朝堂で会議し、皆、司馬肜の上表の通りとした。尚書の袁敞を使持節として遣わし、司馬倫に死を賜り、金屑を混ぜた苦酒を飲ませた。司馬倫は恥じ、手巾で顔を覆い、「孫秀が私を誤らせた!孫秀が私を誤らせた!」と言った。そこで司馬荂、司馬馥、司馬虔、司馬詡を捕らえて廷尉の獄に引き渡し、取り調べの上で処刑した。司馬馥は死に臨んで司馬虔に言った。「お前のせいで家が滅びたのだ!」司馬倫が任用した百官は皆、罷免され、台省や府衛に残った者はわずかであった。兵乱が起こってから六十余日、戦闘による殺害者はおよそ十万人に及んだ。

原文梁王肜表倫父子凶逆,宜伏誅。百官會議於朝堂,皆如肜表。遣尚書袁敞持節賜倫死,飲以金屑苦酒。倫慚,以巾覆面,曰:「孫秀誤我!孫秀誤我!」於是收荂、馥、虔、詡付廷尉獄,考竟。馥臨死謂虔曰:「坐爾破家也!」百官是倫所用者,皆斥免之,臺省府衛僅有存者,自兵興六十餘日,戰所殺害僅十萬人。

司馬倫とともに逆謀に加わり大事を計画した者のうち、張林は孫秀に殺され、許超、士猗、孫弼、謝惔、殷渾は孫秀とともに王輿に誅殺され、張衡、閭和、孫髦、高越は陽翟から帰還し、伏胤は戦いに敗れて洛陽に帰還したが、いずれも東市で斬られた。蔡璜は陽翟から斉王司馬冏に降伏し、洛陽に帰還して自殺した。王輿は功績により誅殺を免れたが、後に東萊王司馬蕤とともに司馬冏を殺害しようと謀り、また法に伏して誅殺された。

原文凡與倫為逆豫謀大事者:張林為秀所殺;許超、士猗、孫弼、謝惔、殷渾與秀為王輿所誅;張衡、閭和、孫髦、高越自陽翟還,伏胤戰敗還洛陽,皆斬於東市;蔡璜自陽翟降齊王冏,還洛自殺;王輿以功免誅,後與東萊王蕤謀殺冏,又伏法。

斉武閔王司馬冏

原文齊武閔王冏

齊武閔王司馬冏は、字を景治といい、獻王司馬攸の子である。幼い頃から仁恵を称えられ、施しを好み、父の風があった。初め、司馬攸が病気になった時、武帝は信じず、太医を派遣して診察させたが、皆病気ではないと言った。司馬攸が薨去すると、帝は喪に臨み、司馬冏は号泣して父の病気が医者に誣告されたと訴えたため、詔によって直ちに医者を誅殺した。これによって称賛され、ついに後継者となった。元康年間、散騎常侍に任じられ、左軍将軍・翊軍校尉を兼任した。趙王司馬倫は密かに彼と結び、賈后を廃し、功績によって遊撃将軍に転任した。司馬冏は地位に満足せず、恨みの表情を見せた。孫秀は微かにこれを察知し、また彼が朝廷内にいることを恐れ、平東将軍・仮節として出向させ、許昌を鎮守させた。司馬倫が簒奪すると、鎮東大将軍・開府儀同三司に昇進させ、寵愛して安心させようとした。

原文齊武閔王冏,字景治,獻王攸之子也。少稱仁惠,好振施,有父風。初,攸有疾,武帝不信,遣太醫診候,皆言無病。及攸薨,帝往臨喪,冏號踴訴父病為醫所誣,詔即誅醫。由是見稱,遂得為嗣。元康中,拜散騎常侍,領左軍將軍、翊軍校尉。趙王倫密與相結,廢賈后,以功轉遊擊將軍。冏以位不滿意,有恨色。孫秀微覺之,且憚其在內,出為平東將軍、假節,鎮許昌。倫篡,遷鎮東大將軍、開府儀同三司,欲以寵安之。

司馬冏は衆人の怨望に乗じ、密かに離狐の王盛・潁川の王処穆と謀り、兵を起こして司馬倫を誅殺しようとした。司馬倫は腹心の張烏を派遣して偵察させたが、張烏は戻って「齊王に異心はありません」と報告した。司馬冏は既に計画を立てていたがまだ発動せず、漏洩を恐れたため、軍司の管襲に王処穆を殺させ、その首を司馬倫に送って安心させようとした。計画が固まると、今度は管襲を捕らえて殺した。そして豫州刺史の何勗・龍驤将軍の董艾らとともに挙兵し、使者を派遣して成都王・河間王・常山王・新野王の四王に告げ、征鎮・州郡県国に檄を飛ばして、天下に知らしめた。揚州刺史の郗隆は檄を受け取ったが、躊躇して決断できず、参軍の王邃が彼を斬り、その首を司馬冏に送った。司馬冏は軍を陽翟に駐屯させた。司馬倫は配下の将軍閭和・張泓・孫輔を堮阪に出撃させ、司馬冏と交戦させた。司馬冏軍は不利となり、堅固な陣を築いて自守した。ちょうど成都王の軍が黄橋で司馬倫の軍を破ったため、司馬冏は軍を出して閭和らを攻撃し、大破した。王輿が司馬倫を廃し、恵帝が復位すると、司馬冏は賊党の誅討を終え、軍勢を率いて洛陽に入り、通章署に駐屯した。甲士数十万、旌旗や兵器の盛んな様は京都を震わせた。天子はその場で司馬冏を大司馬に任命し、九錫の礼を加え、器物や典策を備えさせた。かつて宣帝・景帝・文帝・武帝が魏を補佐した故事の通りである。

原文冏因眾心怨望,潛與離狐王盛、潁川王處穆謀起兵誅倫。倫遣腹心張烏覘之,烏反,曰:「齊無異志。」冏既有成謀未發,恐或泄,乃與軍司管襲殺處穆,送首於倫,以安其意。謀定,乃收襲殺之。遂與豫州刺史何勖、龍驤將軍董艾等起軍,遣使告成都、河間、常山、新野四王,移檄天下征鎮、州郡縣國,咸使聞知。揚州刺史郗隆承檄,猶豫未決,參軍王邃斬之,送首於冏。冏屯軍陽翟,倫遣其將閭和、張泓、孫輔出堮阪,與冏交戰。冏軍失利,堅壘自守。會成都軍破倫眾于黃橋,冏乃出軍攻和等,大破之。及王輿廢倫,惠帝反正,冏誅討賊党既畢,率眾入洛,頓軍通章署,甲士數十萬,旌旗器械之盛,震於京都。天子就拜大司馬,加九錫之命,備物典策,如宣、景、文、武輔魏故事。

司馬冏はこれにより政務を補佐し、司馬攸の旧宮殿に住み、掾属四十人を置いた。大規模に邸宅を築造し、北は五穀市を取り込み、南は諸官署を開拓し、数百もの家屋を破壊して、大匠に営造させ、西宮と同等のものとした。千秋門の塀を穿って西閣に通じさせ、後房には鐘懸を設け、前庭では八佾の舞をさせ、酒色に沈溺し、朝廷に出仕しなかった。百官を座ったまま拝礼させ、三臺に符勅を発し、選挙は公平でなく、寵愛する側近だけを重用した。車騎将軍の何勗に中領軍を兼任させた。葛旟を牟平公に、路秀を小黄公に、衛毅を陰平公に、劉真を安郷公に、韓泰を封丘公に封じ、「五公」と号し、腹心として委任した。殿中御史の桓豹が事を奏上する際、先に司馬冏の府を通さなかったため、即座に拷問して死に至らしめた。これにより朝廷は側目し、海内は失望した。南陽の処士鄭方が露板で極諫し、主簿しゅぼの王豹もたびたび諫言したが、司馬冏はどちらも用いず、ついに王豹を殺すよう上奏した。白髪の老人が大司馬府に入って大声で叫び、兵乱が起こり、甲子の旬を出ないと言った。即座に捕らえて殺した。

原文冏於是輔政,居攸故宮,置掾屬四十人。大築第館,北取五穀市,南開諸署,毀壞廬舍以百數,使大匠營制,與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣,後房施鐘懸,前庭舞八佾,沈於酒色,不入朝見。坐拜百官,符敕三臺,選舉不均,惟寵親昵。以車騎將軍何勖領中領軍。封葛𣄣為牟平公,路秀小黃公,衛毅陰平公,劉真安鄉公,韓泰封丘公,號曰「五公」,委以心膂。殿中御史桓豹奏事,不先經冏府,即考竟之。於是朝廷側目,海內失望矣。南陽處士鄭方露版極諫,主簿王豹屢有箴規,冏並不能用,遂奏豹殺之。有白頭公入大司馬府大呼,言有兵起,不出甲子旬。即收殺之。

司馬冏の驕慢と放恣は日増しに甚だしく、ついに悔い改める気配はなかった。かつての賊曹属の孫恵が再び諫言を上書した。

原文冏驕恣日甚,終無悛志。前賊曹屬孫惠復上諫曰:

孫恵は聞くところによれば、天下には五つの難事と四つの不可があり、明公はそのすべてに当てはまっておられます。宗廟の主君を捨て、千乗の重責を軽んじ、自ら甲冑を身に着け、鋒刃を冒して戦う、これが第一の難事です。三百の兵卒を奮い立たせ、全勝の策を決断し、四方の衆を集め、英豪の士を招く、これが第二の難事です。殿堂の尊厳を捨て、粗末な単幕の陋屋に住み、騒がしい塵埃の惨状に安んじ、将士の労苦を共にする、これが第三の難事です。烏合の衆を駆り、凶暴な強敵に当たり、神武の謀略を任じ、疑いや障害への恐れがない、これが第四の難事です。六合の内に檄を飛ばし、盟信の誓いを明らかにし、幽宮の帝(恵帝)を即位させ、皇位の大業を回復する、これが第五の難事です。大きな名声は長く担うことはできず、大きな功績は長く任じることはできず、大きな権力は長く執ることはできず、大きな威勢は長く居座ることはできません。五つの難事を行いながら難事と思わず、四つの不可を残しながら可であると言うようなことは、かつてありません。孫恵はひそかに不安に思います。

原文惠聞天下五難,四不可,而明公皆以居之矣。捐宗廟之主,忽千乘之重,躬貫甲胄,犯冒鋒刃,此一難也。奮三百之卒,決全勝之策,集四方之眾,致英豪之士,此二難也。舍殿堂之尊,居單幕之陋,安囂塵之慘,同將士之勞,此三難也。驅烏合之眾,當凶強之敵,任神武之略,無疑阻之懼,此四難也。檄六合之內,著盟信之誓,升幽宮之帝,復皇祚之業,此五難也。大名不可久荷,大功不可久任,大權不可久執,大威不可久居。未有行其五難而不以為難,遺其不可而謂之為可。惠竊所不安也。

永熙以来、十一年が経ち、人々は徳を見ず、ただ殺戮ばかりが聞こえてきます。公族は簒奪の禍を構え、骨肉は梟夷の刑に遭い、諸王は囚檻の困苦を受け、妃や公主は離絶の悲哀を味わいました。歴代を見渡しても、国家の禍い、至親の乱れは、今日ほど甚だしいものはありません。良史が過ちを書き記せば、後世の者は何を見るというのでしょうか!天下がなお晋を去らず、符命が世に長く存続しているのは、主君に厳虐な暴政がなく、朝廷に酷烈な政治がなく、武帝の残した恩恵、獻王の遺した慈愛、聖なる慈しみと恵みと調和が、なお人心に経っているからです。四海が繫がっているのは、まさにここにあります。

原文自永熙以來,十有一載,人不見德,惟戮是聞。公族構篡奪之禍,骨肉遭梟夷之刑,群王被囚檻之困,妃主有離絕之哀。曆觀前代,國家之禍,至親之亂,未有今日之甚者也。良史書過,後嗣何觀!天下所以不去于晉,符命長存於世者,主無嚴虐之暴,朝無酷烈之政,武帝餘恩,獻王遺愛,聖慈惠和,尚經人心。四海所系,實在於茲。

今、明公は世に並ぶものなき大義を立てられましたが、世に並ぶものなき譲りをなさっておらず、天下は惑い、悟りを求めています。長沙王・成都王は、魯と衛のように密接な関係にあり、国の親族として、明公と功績を計って賞を受けるにも、まだ自ら先んじてはいません。今、明公は桓公・文公の勲功を放ち、臧文仲・季札の風範に邁進し、万物を芻狗(軽んじる対象)とし、その教化を仁とせず、親族を崇め近臣を推挙し、功績を成し遂げて身を退き、万機を二王(長沙王・成都王)に委ね、方岳の任を諸侯に命じ、義と譲りの旗を掲げ、帰還を思う鑾鈴を鳴らし、大齊の故地に住まい、泱泱たる風を振るい起こし、青州・徐州の地で垂拱の治を行い、営丘の藩屏で高枕して安らぐべきです。金石もその高さを銘記するには足りず、八音もその美を賛美するには足りず、周の文王も前に聖を専有できず、太伯も後に賢を独り占めできません。今、明公は極みに達した後の悔いを忘れ、高みに窮まった凶事を軽んじ、五嶽のような安泰を捨て、累卵の危険に居座り、外では権勢によって疑念を受け、内では百揆(政務)によって精神を損なっておられます。高台の上に居ながらえ、重仞の城壁の中で逍遥していても、その危亡の憂いは、潁川や翟(狄)の地での苦慮よりも甚だしいでしょう。臣下たちは戦慄し、誰も敢えて言う者はいません。

原文今明公建不世之義,而未為不世之讓,天下惑之,思求所悟。長沙、成都,魯、衛之密,國之親親,與明公計功受賞,尚不自先。今公宜放桓、文之勳,邁臧、劄之風,芻狗萬物,不仁其化,崇親推近,功遂身退,委萬機于二王,命方岳於群后,燿義讓之旗,鳴思歸之鑾,宅大齊之墟,振泱泱之風,垂拱青、徐之域,高枕營丘之籓。金石不足以銘高,八音不足以讚美,姬文不得專聖於前,太伯不得獨賢於後。今明公忘亢極之悔,忽窮高之凶,棄五嶽之安,居累卵之危,外以權勢受疑,內以百揆損神。雖處高臺之上,逍遙重仞之墉,及其危亡之憂,過於潁、翟之慮。群下竦戰,莫之敢言。

孫恵は衰亡の末裔として、陽九の厄運に遭い、矢石の禍を甘んじ、大王の大義に赴き、粗衣を脱ぎ兜をかぶり、許昌で軍務に従いました。戦陣で苦労しましたが、記すべき功績はなく、風塵に従い、初服(元の身分)に戻って罪を待つ身です。屈原は放逐されても、心は南郢(楚の都)にありました。楽毅は趙に去っても、志は北燕に恋慕しました。ましてや孫恵は恩恵を受け、特に識別と養育を蒙りました。たとえ一時的に離れても、情はこの二人の臣下のように厚いのです。そこで血の誠を披瀝し、冒昧にも干犯いたします。言葉が入れば身は戮され、義を譲り功績を挙げ、退いて鈇鑕(刑具)に就くことになっても、これこそ孫恵にとって死ぬことが生きるよりも賢明なことです。

原文惠以衰亡之餘,遭陽九之運,甘矢石之禍,赴大王之義,脫褐冠胄,從戎于許。契闊戰陣,功無可記,當隨風塵,待罪初服。屈原放斥,心存南郢;樂毅適趙,志戀北燕。況惠受恩,偏蒙識養,雖復暫違,情隆二臣,是以披露血誠,冒昧幹迕。言入身戮,義讓功舉,退就鈇鑕,此惠之死賢於生也。

司馬冏は受け入れず、また罪を加えることもなかった。

原文冏不納,亦不加罪。

翊軍校尉の李含が長安に奔り、密詔を受けたと偽って、河間王司馬顒に司馬冏を誅殺するよう仕向け、利益のある謀略を導いた。司馬顒はこれに従い、上表した。

原文翊軍校尉李含奔于長安,詐云受密詔,使河間王顒誅冏,因導以利謀。顒從之,上表曰:

王室には多くの変事があり、禍難は尽きることがありません。大司馬司馬冏は、大義を唱えて皇位を興復する功績はありますが、都邑を定め、社稷を安寧にしたのは、実は成都王の功績と力です。しかし司馬冏は臣下の節操を固く守ることができず、実際には異なる望みを抱いています。許昌の営には東西の掖門を設け、官として治書侍御史を置き、長史・司馬を左右に直立させ、侍臣の礼儀と同じにしています。京城は大いに清まり、簒逆の徒は誅滅されたのに、百万の軍勢を率いて洛城を取り囲んでいます。兵権を握って一年経っても、一度も朝覲せず、百官が拝伏するのを、平然として南面して受けています。楽官や市の官署を壊して、自らの邸宅を増築しています。勝手に武庫の秘蔵の武器を取り出し、厳重に陳列して解きません。故に東萊王司馬蕤はその叛逆の兆候を知り、事状を表上して陳べましたが、誣告されて罪を加えられ、罷免・左遷されました。私的な党派を育て、僭越にも官属を立てています。寵愛する妻や妾に、中宮(皇后)に比する名号を与えています。酒色に沈溺し、民衆を顧みません。董艾は放縦で、何の畏れも忌憚もなく、中丞が弾劾奏上しても、退け免職させています。張偉は惚恫ぼんやりとして、詔書の可否を擁して停止させ、葛旟は小僧に過ぎないのに、国命を維持しています。王爵を操り弄び、賄賂が公然と行われています。多くの奸臣が党を結び、勝手に生殺与奪を断じています。腹心を密かに任命し、実は財貨のための謀略です。忠良の臣を罪に陥れ、神器(帝位)を伺っています。

原文王室多故,禍難罔已。大司馬冏雖唱義有興復皇位之功,而定都邑,克寧社稷,實成都王勳力也。而冏不能固守臣節,實協異望。在許昌營有東西掖門,官置治書侍御史,長史、司馬直立左右,如侍臣之儀。京城大清,篡逆誅夷,而率百萬之眾來繞洛城。阻兵經年,不一朝覲,百官拜伏,晏然南面。壞樂官市署,用自增廣。輒取武庫秘杖,嚴列不解。故東萊王蕤知其逆節,表陳事狀,而見誣陷,加罪黜徙。以樹私黨,僭立官屬。幸妻嬖妾,名號比之中宮。沈湎酒色,不恤群黎。董艾放縱,無所畏忌,中丞按奏,而取退免。張偉惚恫,擁停詔可,葛旟小豎,維持國命。操弄王爵,貨賂公行。群奸聚黨,擅斷殺生。密署腹心,實為貨謀。斥罪忠良,伺窺神器。

私は重い任務を受け、方岳を守衛しているが、冏の行いを見て、実に激しい憤りを抱いている。即日、翊軍校尉の李含が駅馬で密かに到着し、詔の趣旨を伝えた。私は伏して読み、感銘と痛切さに五情が焼けるようだ。『春秋』の義によれば、君主や親族に対して謀反の心を抱いてはならない。冏は強兵を擁し、私的な党派を立て、権力ある官職や重要な地位は、すべて腹心でない者はない。たとえ重い責めの誅罰を加えても、おそらく義によって服従させることはできないだろう。今、兵を率い、精鋭の兵士十万を率いて、州の征討軍とともに忠義を協力し、共に洛陽で会合する。驃騎将軍長沙王乂は、ともに忠誠を奮い起こし、冏を廃して邸宅に戻らせる。命令に従わない者があれば、軍法によって処断する。成都王穎は明徳があり親族として優れ、功績は高く勲功は重い。昨年の去就は、確かに衆望に適っている。宰相としてふさわしく、冏に代わって阿衡の任に当たるべきである。

原文臣受重任,蕃衛方嶽,見冏所行,實懷激憤。即日翊軍校尉李含乘驛密至,宣騰詔旨。臣伏讀感切,五情若灼。《春秋》之義,君親無將。冏擁強兵,樹置私黨,權官要職,莫非腹心。雖復重責之誅,恐不義服。今輒勒兵,精卒十萬,與州征並協忠義,共會洛陽。驃騎將軍長沙王乂,同奮忠誠,廢冏還第。有不順命,軍法從事。成都王穎明德茂親,功高勳重,往歲去就,允合眾望,宜為宰輔,代冏阿衡之任。

顒の上表が届くと、冏は大いに恐れ、百官を集めて言った。「昔、孫秀が逆賊となり、帝王を脅迫して簒奪し、社稷が傾覆した時、難を防ぐ者は誰もいなかった。私は義兵を糾合し、元凶を掃討し、臣子の節義は、確かに神明に明らかである。二王は今日、讒言を聞き入れ、大難を引き起こしている。忠義の謀略に頼って不和を和らげるべきである。」司徒の王戎と司空しくうの東海王越は、冏に権力を委ねて譲るよう勧めた。冏の従事中郎の葛旟は怒って言った。「趙庶人(趙王倫)は孫秀を信任し、天を移し日を易えたが、当時は喋々と議論する者がいても、先に声を上げる者は誰もいなかった。公は矢石の危険を冒し、自ら甲冑を貫き、攻囲して陣を陥落させ、今日に至ることができた。功績を計って封を行うが、事は多くてまだ行き渡っていない。三臺の納言は、王事を顧みず、賞の報いは遅滞しているが、その責は府(大司馬府)にはない。讒言による僭逆は、共に誅討すべきであり、偽りの詔書を虚しく受け、公に邸宅に退くよう命じるなどとは。漢、魏以来、王侯が邸宅に退いて妻子を保った者があるだろうか!このような意見を言う者は斬るべきである。」これにより百官は震え上がり、顔色を失わない者はなかった。

原文顒表既至,冏大懼,會百僚曰:「昔孫秀作逆,篡逼帝王,社稷傾覆,莫能禦難。孤糾合義眾,掃除元惡,臣子之節,信著神明。二王今日聽信讒言,造構大難,當賴忠謀以和不協耳。」司徒王戎、司空東海王越說冏委權崇讓。冏從事中郎葛旟怒曰:「趙庶人聽任孫秀,移天易日,當時喋喋,莫敢先唱。公蒙犯矢石,躬貫甲胄,攻圍陷陣,得濟今日。計功行封,事殷未遍。三臺納言,不恤王事,賞報稽緩,責不在府。讒言僭逆,當共誅討,虛承偽書,令公就第。漢、魏以來,王侯就第甯有得保妻子者乎!議者可斬。」於是百官震悚,無不失色。

長沙王乂はまっすぐに宮中に入り、兵を発して冏の府を攻撃した。冏は董艾に命じて宮城の西に兵を配置させた。乂はまた宋洪らに命じて諸観閣や千秋門、神武門に放火させた。冏は黄門令の王湖に命じて騶虞幡をすべて盗ませ、「長沙王が詔を偽った」と叫ばせた。乂もまた「大司馬が謀反を企てている。助ける者は五族を誅する」と称した。この夜、城内で大戦が起こり、飛び交う矢が雨のように降り注ぎ、火の光が天に連なった。帝は上東門に行幸し、矢が御前にも降り注いだ。群臣が消火に当たったが、死者は互いに枕を重ねるほどであった。翌日、冏は敗北し、乂は冏を捕らえて殿前まで連れて来た。帝は哀れに思い、生かしておこうとした。乂は左右を叱り、急いで引き出させた。冏はなおも振り返ったが、遂に閶闔門の外で斬首され、その首を六軍に示した。諸党与は皆三族に処された。その子の淮陵王超、楽安王冰、済陽王英を金墉城に幽閉した。冏の屍を西明亭に晒し、三日間誰も収容しようとする者はなかった。冏の旧掾属の荀闓らが表を奉って埋葬を乞うと、許された。

原文長沙王乂徑入宮,發兵攻冏府。冏遣董艾陳兵宮西。乂又遣宋洪等放火燒諸觀閣及千秋、神武門。冏令黃門令王湖悉盜騶虞幡,唱云:「長沙王矯詔。」乂又稱:「大司馬謀反,助者誅五族。」是夕,城內大戰,飛矢雨集,火光屬天。帝幸上東門,矢集御前。群臣救火,死者相枕。明日,冏敗,乂擒冏至殿前,帝惻然,欲活之。乂叱左右促牽出,冏猶再顧,遂斬於閶闔門外,徇首六軍。諸黨屬皆夷三族。幽其子淮陵王超、樂安王冰、濟陽王英于金墉。暴冏屍於西明亭,三日而莫敢收斂。冏故掾屬荀闓等表乞殯葬,許之。

初め、冏が盛んだった時、一人の婦人が大司馬府を訪れて出産のための寄宿を求めた。役人が問い詰めると、婦人は「私は臍の緒を切ったらすぐに去ります」と言った。識者はこれを聞いて嫌悪した。当時また歌謡があった。「布の腹巻きを着け、斉(斉王)のために喪服を着ける。」間もなくして冏は誅殺された。

原文初,冏之盛也,有一婦人詣大司馬府求寄產。吏詰之,婦人曰:「我截齊便去耳。」識者聞而惡之。時又謠曰:「著布袙腹,為齊持服。」俄而冏誅。

永興初年、詔により、冏が軽率に重刑に陥ったが、以前の勲功は埋もれさせてはならないとして、その三子の超、冰、英を赦免して邸宅に戻し、超を県王に封じて冏の祭祀を継がせ、員外散騎常侍を歴任させた。光熙初年、冏を追冊して言った。「故大司馬、斉王冏に告ぐ。王はかつて宗藩として穆(和やか)な胤(後継)を紹(継)ぎ、東国に緒(端緒)を開き、許京の作翰(柱石)となり、確かに我が王室を鎮静させた。義徒を率いて同盟し、触沢(地名)で元勲を成し遂げ、潁東を大いに救った。朕はその嘉き茂績に応え、爾その労苦を篤あついと謂おもい、先典(先例)に倣い、この顕かな懿き功績に報いた。広大な土地を特別に分け、呉楚を跨またぎ兼ね、礼を崇び物を備え、寵遇は蕭何、霍光に並び、翼戴(補佐擁護)の重みを頼みに、永遠に邦家の望みを隆んにしようとした。しかし恭みある徳を建てず、二方(二王)に侮りを取られ、有司の過った挙動により、王は誅戮に至った。古人に言う、『その法を用いるに、なおその人を思う』と。ましてや王の功績は朕の身を救い、勲功は社稷に存する。過ぎ去ったことを追い想うと、その心に悼みがある。今、王の本来の封を復し、嗣子に命じてその緒(後継)を紹(継)がせ、礼秩と典度はすべて旧制の通りとする。使者を持節、大鴻臚として墓に遣わし策書を賜い、太牢で祭祀を行う。魂にして霊あらば、朕の命を敬って服し、爾の心を安んじ、この寵栄を嘉(よみ)せよ。」子の超が爵を嗣いだ。

原文永興初,詔以冏輕陷重刑,前勳不宜堙沒,乃赦其三子超、冰、英還第,封超為縣王,以繼冏祀,曆員外散騎常侍。光熙初,追冊冏曰:「咨故大司馬、齊王冏:王昔以宗籓穆胤紹世,緒于東國,作翰許京,允鎮靜我王室。涎率義徒,同盟觸澤,克成元勳,大濟潁東。朕用應嘉茂績,謂篤爾勞,俾式先典,以疇茲顯懿。廓士殊分,跨兼吳楚,崇禮備物,寵侔蕭、霍,庶憑翼戴之重,永隆邦家之望。而恭德不建,取侮二方,有司過舉,致王於戮。古人有言曰:'用其法,猶思其人。'況王功濟朕身,勳存社稷,追惟既往,有悼於厥心哉!今復王本封,命嗣子還紹厥緒,禮秩典度,一如舊制。使使持節、大鴻臚即墓賜策,祠乙太牢。魂而有靈,祗服朕命,肆寧爾心,嘉茲寵榮。」子超嗣爵。

永嘉年間、懐帝が詔を下し、冏が義を唱えた元勲であることを重ねて述べ、大司馬の位を追贈し、侍中、仮節を加え、追諡した。洛陽が傾覆すると、超兄弟は皆劉聰に殺され、冏は遂に後継者がいなくなった。太元年間、詔により故南頓王宗の子の柔之に斉王を襲封させ、攸と冏の祭祀を継がせ、散騎常侍を歴任させた。元興初年、会稽かいけい王道子が桓玄を討伐しようとした時、詔により柔之を兼侍中とし、騶虞幡を持って江州と荊州の二州に宣告させた。姑孰に至った時、桓玄の前鋒に殺害された。光禄勲を追贈された。子の建之が立った。宋が禅譲を受けると、国は除かれた。

原文永嘉中,懷帝下詔,重述冏唱義元勳,還贈大司馬,加侍中、假節,追諡。及洛陽傾覆,超兄弟皆沒于劉聰,冏遂無後。太元中,詔以故南頓王宗子柔之襲封齊王,紹攸、冏之祀,曆散騎常侍。元興初,會稽王道子將討桓玄,詔柔之兼侍中,以騶虞幡宣告江、荊二州,至姑孰,為玄前鋒所害。贈光祿勳。子建之立。宋受禪,國除。

鄭方

原文鄭方

鄭方は、字を子回といい、慷慨として志節があり、史伝を広く渉猟し、卓犖として常ならず、郷里の識者はその奇抜さを嘆いたが、推薦して出世させることはできなかった。冏が政を輔佐して専横に振る舞うと、方は憤りを発して歩いて洛陽に赴き、自ら荊楚の逸民と称し、冏に書を献じて言った。「方は聞く、聖明な輔佐は世を治め、日夜慎み恐れ、泰(安)んじて驕らず、それによって長く貴きを守るのだと。今、大王は安泰を考えて危険を慮らず、酒色に耽り、宴楽が過度であり、これが第一の過失である。大王の檄命は、天下を清風のように和やかにし、宗室の骨肉に微塵のわだかまりも永遠にないようにすべきであるが、今はそうではない。これが第二の過失である。四夷が交わり侵し、辺境が静かでないのに、大王は自ら功業が興隆していると思い、これを念頭に置かない。これが第三の過失である。大王が義兵を興すと、群庶が競って赴いた。天下は平穏になったが、人々は労苦に窮しているのに、大王が救済の令を発するのを聞かない。これが第四の過失である。また義兵と血をすすって盟を結び、事が定まった後は、賞は時を過ぎずに行うと約束したが、清泰(平穏)になって以来、論功行賞がまだ分かたれていない。これは約束を破るものであり、第五の過失である。大王は非常の功を建て、宰相の任に居るが、誹謗の声が道に満ち、人々は忿怨を抱いている。方は狂愚をもって、死を冒して誠を陳べる。」冏は我慢して答えて言った。「孤は五つの欠点を招くことができなかった。もしお前がいなければ、その過ちを聞くことはなかっただろう。」間もなくして冏は敗北した。

原文鄭方者,字子回,慷慨有志節,博涉史傳,卓犖不常,鄉閭有識者歎其奇,而未能薦達。及冏輔政專恣,方發憤步詣洛陽,自稱荊楚逸民,獻書於冏曰:「方聞聖明輔世,夙夜祗懼,泰而不驕,所以長守貴也。今大王安不慮危,耽于酒色,燕樂過度,其失一也。大王檄命,當使天下穆如清風,宗室骨肉永無纖介,今則不然,其失二也。四夷交侵,邊境不靜,大王自以功業興隆,不以為念,其失三也。大王興義,群庶競赴,天下雖甯,人勞窮苦,不聞大王振救之令,其失四也。又與義兵歃血而盟,事定之後,賞不逾時,自清泰已來,論功未分,此則食言,其失五也。大王建非常之功,居宰相之任,謗聲盈塗,人懷忿怨,方以狂愚,冒死陳誠。」冏含忍答之云:「孤不能致五闕,若無子,則不聞其過矣。」未幾而敗焉。

長沙厲王乂

原文長沙厲王乂

長沙厲王乂は、字を士度といい、武帝の第六子である。太康十年に封を受け、員外散騎常侍に任じられた。武帝が崩御すると、乂は当時十五歳で、慕情が礼を越えていた。楚王瑋が喪に赴く時、諸王は皆近くの道で迎えたが、乂だけは陵所に行き、号泣して瑋を待った。步兵校尉に任じられた。瑋が二公(汝南王亮と衛瓘)を誅殺した時、乂は東掖門を守備した。騶虞幡が出ると、乂は弓を投げ出して涙を流し、「楚王は詔を受けたので、それに従ったのだ。どうしてそれが偽りでないと知ろうか!」と言った。瑋が誅殺されると、乂は同母弟であったため、常山王に降格され、封国に赴いた。

原文長沙厲王乂,字士度,武帝第六子也。太康十年受封,拜員外散騎常侍。及武帝崩,乂時年十五,孺慕過禮。會楚王瑋奔喪,諸王皆近路迎之,乂獨至陵所,號慟以俟瑋。拜步兵校尉。及瑋之誅二公也,乂守東掖門。會騶虞幡出,乂投弓流涕曰:「楚王被詔,是以從之,安知其非!」瑋既誅,乂以同母,貶為常山王,之國。

乂の身長は七尺五寸で、明朗果断、才力は人に絶し、虚心で士を敬い、非常に名声があった。三王が義挙を起こすと、乂は国兵を率いて応じ、趙国を通り過ぎた時、房子令が守りを固めたので、乂はこれを殺し、進軍して成都王の後衛となった。常山内史の程恢が乂に二心を抱こうとしたので、乂は鄴に到着すると、恢とその五人の子を斬った。洛陽に至り、撫軍大将軍に任じられ、左軍将軍を兼任した。間もなく、驃騎将軍、開府に昇進し、本来の封国(長沙)に復した。

原文乂身長七尺五寸,開朗果斷,才力絕人,虛心下士,甚有名譽。三王之舉義也,乂率國兵應之,過趙國,房子令距守,乂殺之,進軍為成都後系。常山內史程恢將貳於乂,乂到鄴,斬恢及其五子。至洛,拜撫軍大將軍,領左軍將軍。頃之,遷驃騎將軍、開府,復本國。

司馬乂は斉王司馬冏が次第に権力を専断するのを見て、かつて成都王司馬穎と共に陵墓を拝した際、穎に言った。「天下は先帝の事業である。王はこれを維持すべきである。」当時、この言葉を聞いた者は皆彼を恐れた。河間王司馬顒が冏を誅殺しようとした時、檄文を伝えて乂を内応の主役とした。冏はその将軍董艾を派遣して乂を襲撃させたが、乂は左右の百余人を率い、自ら車の覆いを切り落として、幌のない車で宮中へ急行し、諸門を閉ざし、天子を奉じて冏と戦い、火を放って冏の府を焼き、三日間連戦して冏を破り、これを斬り、二千人余りの党与を皆誅殺した。

原文乂見齊王冏漸專權,嘗與成都王穎俱拜陵,因謂穎曰:「天下者,先帝之業也,王宜維之。」時聞其言者皆憚之。及河間王顒將誅冏,傳檄以乂為內主。冏遣其將董艾襲乂,乂將左右百餘人,手斫車幰,露乘馳赴宮,閉諸門,奉天子與冏相攻,起火燒冏府,連戰三日,冏敗,斬之,並誅諸黨與二千餘人。

顒はもともと乂が弱く冏が強いと考え、乂が冏に捕らえられることを期待し、その後乂を口実として四方に宣告し共に討伐し、帝を廃して成都王を立て、自分が宰相となり天下を専制しようとしていた。ところが乂が冏を殺したため、その計画は実現せず、ひそかに侍中馮蓀、河南尹李含、中書令卞粹らを派遣して乂を襲撃させた。乂は彼らを皆誅殺した。顒はそこで穎と共に京都を討伐した。穎は刺客を派遣して乂を暗殺しようとしたが、当時長沙国の左常侍王矩が侍直しており、刺客の顔色が動くのを見て、遂にこれを殺した。詔により乂を大都督として顒を防がせた。八月から十月まで連戦し、朝廷の議論では乂と穎は兄弟であるから、言葉で説得して和解させられるだろうと考え、中書令王衍を行太尉とし、光禄勲石陋を行司徒として派遣し、穎を説得させ、乂と分かれて陝を境に統治するよう求めたが、穎は従わなかった。乂はそこで穎に手紙を送った。

原文顒本以乂弱冏強,冀乂為冏所擒,然後以乂為辭,宣告四方共討之,因廢帝立成都王,己為宰相,專制天下。即而乂殺冏,其計不果,乃潛使侍中馮蓀、河南尹李含、中書令卞粹等襲乂。乂並誅之。顒遂與穎同伐京都。穎遣刺客圖乂,時長沙國左常侍王矩侍直,見客色動,遂殺之。詔以乂為大都督以距顒。連戰自八月至十月,朝議以乂、穎兄弟,可以辭說而釋,乃使中書令王衍行太尉,光祿勳石陋行司徒,使說穎,令與乂分陝而居,穎不從。乂因致書於穎曰:

先帝は天命に応じて時運を治め、四海を統治され、御自身を労苦にさらし、帝業を成し遂げられ、天下は清く安泰で、その慶びは子孫にまで及んだ。孫秀が叛逆を起こし、天の常道を逆転させたが、卿は義兵を起こし、帝位を回復させた。斉王は功績を恃み、法を無視して勝手な振る舞いをし、上には宰相としての心がなく、下には忠臣としての行いがなく、その讒言と悪行により、骨肉を疎遠にし、主上を怨み悲しませたが、すぐに掃討された。私と卿は、十人の兄弟として、同じ皇室に生まれ、外郡に封ぜられ、それぞれ王の教えを広め、遠大な計画を実現することができなかった。今、卿はまた太尉と共に大軍を起こし、百万の兵で宮城を包囲している。群臣は共に憤り、暫く将軍を任命し、国の威を示しただけで、まだ殲滅しようとは考えていない。自ら溝や谷に身を投げ、山谷を平定し、死者は日に万を数え、罪のない者が酷く痛めつけられている。これは国恩が慈愛に欠けるからではなく、刑罰の適用に常道があるからである。卿が派遣した陸機は卿の節鉞を受けることを喜ばず、その率いる兵を率いてひそかに朝廷に通じた。叛逆を考えている者は、一尺進む前に一丈退くべきであり、卿は鎮所に戻り、四海を安寧にし、宗族に恥をかかせず、子孫の福とすべきである。もしそうでなければ、骨肉が分裂する痛みを思って、改めて手紙を送る。

原文先帝應乾撫運,統攝四海,勤身苦己,克成帝業,六合清泰,慶流子孫。孫秀作逆,反易天常,卿興義眾,還復帝位。齊王恃功,肆行非法,上無宰相之心,下無忠臣之行,遂其讒惡,離逖骨肉,主上怨傷,尋已蕩除。吾之與卿,友于十人,同產皇室,受封外都,各不能闡敷王教,經濟遠略。今卿復與太尉共起大眾,阻兵百萬,重圍宮城。群臣同忿,聊即命將,示宣國威,未擬摧殄。自投溝澗,蕩平山谷,死者日萬,酷痛無罪。豈國恩之不慈,則用刑之有常。卿所遣陸機不樂受卿節鉞,將其所領,私通國家。想來逆者,當前行一尺,卻行一丈,卿宜還鎮,以甯四海,令宗族無羞,子孫之福也。如其不然,念骨肉分裂之痛,故復遣書。

穎は返書を送った。「文帝、景帝は天命を受け、武帝は時運に乗り、堯や舜に匹敵し、共に政治の道を盛んにし、洪大な事業に恩恵を加え、本流も枝葉も百代続くはずであった。どうして骨肉が災禍に預かり、后族が権力を専断し、楊駿、賈充が毒を振るい、斉王、趙王が内で簒奪することを予期できようか。幸いにも誅伐されて消滅したが、まだ静まっていない。常に王室を憂え、心臓は震え肝臓は爛れる思いである。羊玄之、皇甫商らが寵愛を恃んで災いを起こすのを見て、どうして慨嘆せずにいられようか。そこで征西将軍の檄文に、四海が雲のように応じた。本来は仁兄が同じ思いを抱いていると思い、すぐに内で商らを捕らえ、首級を遠くに送り届けるものと期待していた。どうして惑い、自ら戦いの首謀者となったのか。上では君主の詔を偽り、下では愛する弟を離反させ、天子の車を動かし、妄りに兵威を振るい、豺狼のような者を任用し、親しい善人を殺戮する。悪を行って福を求めるとは、どうして自らを戒め励ますというのか。以前陸機を派遣して節鉞を監督させたが、黄橋では退却したものの、温県の南では勝利を収め、あちらこちらで、慶びを増すには足りない。今、武士百万、良将は鋭く勇猛であり、兄と共に海内を整頓するつもりである。もし太尉の命令に従い、商らの首を斬り、武器を投げ出して退き、自ら多くの福を求めるなら、穎も自ら鄴都に帰り、兄と共にこれを分かち合おう。来告を拝見し、遠く思いを馳せて慷慨する。慎むのだ、大兄よ、進退を深く考えよ。」

原文穎復書曰:「文、景受圖,武皇乘運,庶幾堯、舜,共康政道,恩隆洪業,本枝百世。豈期骨肉豫禍,後族專權,楊、賈縱毒,齊、趙內篡。幸以誅夷,而未靜息。每憂王室,心悸肝爛。羊玄之、皇甫商等恃寵作禍,能不興慨!於是征西羽檄,四海雲應。本謂仁兄同其所懷,便當內擒商等,收級遠送。如何迷惑,自為戎首!上矯君詔,下離愛弟,推移輦轂,妄動兵威,還任豺狼,棄戮親善。行惡求福,如何自勉!前遣陸機董督節鉞,雖黃橋之退,而溫南收勝,一彼一此,未足增慶也。今武士百萬,良將銳猛,要當與兄整頓海內。若能從太尉之命,斬商等首,投戈退讓,自求多福,穎亦自歸鄴都,與兄同之。奉覽來告,緬然慷慨。慎哉大兄,深思進退也!」

乂は前後して穎の軍を破り、六七万人を斬り捕らえた。戦いが長引き兵糧が乏しくなり、城中は大飢饉となった。疲弊しているとはいえ、将士は心を一つにし、皆死を尽くすことを願った。乂が天子に奉じる礼儀に欠けるところはなく、張方はまだ攻め落とせないと考え、長安に帰還しようとした。しかし東海王司馬越は事が成就しないことを憂慮し、ひそかに殿中の将兵と謀り、乂を捕らえて金墉城に送ろうとした。乂は上表した。「陛下は篤く和睦され、臣に朝政を委ねられた。臣は小心に忠孝を尽くし、神祇がご覧になっている。諸王は誤りを受け継ぎ、兵を率いて責めに来ており、朝臣は正しい者がなく、それぞれ私的な窮状を慮り、臣を別の官署に収監し、臣を幽閉された宮殿に送った。臣は身命を惜しむものではないが、ただ大晉が衰微し、枝葉の党与が尽きようとし、陛下が孤立して危ういことを思う。もし臣の死によって国が安寧になるなら、これも家の利益である。ただ、凶悪な者の志を快くさせるだけであり、陛下には何の益もないことを恐れる。」

原文乂前後破穎軍,斬獲六七萬人。戰久糧乏,城中大饑,雖曰疲弊,將士同心,皆願效死。而乂奉上之禮未有虧失,張方以為未可克,欲還長安。而東海王越慮事不濟,潛與殿中將收乂送金墉城。乂表曰:「陛下篤睦,委臣朝事。臣小心忠孝,神祇所鑒。諸王承謬,率眾見責,朝臣無正,各慮私困,收臣別省,送臣幽宮。臣不惜軀命,但念大晉衰微,枝黨欲盡,陛下孤危。若臣死國寧,亦家之利。但恐快凶人之志:無益于陛下耳。」

殿中の左右の者は、乂の功績が成りかけていたのに敗れたことを恨み、乂を奪い出して再び穎を防ごうと謀った。越は難事が起こることを恐れ、乂を誅殺しようとした。黄門郎潘滔は越に密かに張方に告げるよう勧め、張方は部将郅輔に兵三千を率いさせ、金墉城へ行って乂を捕らえさせ、陣営に連れ帰り、焼き殺した。乂の冤罪と苦痛の叫び声は左右にまで届き、三軍の兵は皆涙を流さなかった者はなかった。時に二十八歳であった。

原文殿中左右恨乂功垂成而敗,謀劫出之,更以距穎。越懼難作,欲遂誅乂。黃門郎潘滔勸越密告張方,方遣部將郅輔勒兵三千,就金墉收乂,至營,炙而殺之。乂冤痛之聲達於左右,三軍莫不為之垂涕。時年二十八。

乂の遺体を城東で葬ろうとした時、官属で敢えて行く者はなく、かつての属官劉佑だけが一人で送り、徒歩で喪車を支え、悲しみの声は絶え絶えとなり、哀しみは通行人の心を動かした。張方は彼が義士であるとして、咎めなかった。初め、乂が権力を握り始めた時、洛陽では歌謡があった。「草木が芽を出す時、長沙を殺す。」乂は正月二十五日に廃され、二十七日に死んだ。歌謡の通りであった。永嘉年間、懐帝は乂の子司馬碩を後継ぎとし、散騎常侍に任じたが、後に劉聰に滅ぼされた。

原文乂將殯於城東,官屬莫敢往,故掾劉佑獨送之,步持喪車,悲號斷絕,哀感路人。張方以其義士,不之問也。初,乂執權之始,洛下謠曰:「草木萌牙殺長沙。」乂以正月二十五日廢,二十七日死,如謠言焉。永嘉中,懷帝以乂子碩嗣,拜散騎常侍,後沒于劉聰。

成都王司馬穎

原文成都王穎

成都王司馬穎は、字を章度といい、武帝の第十六子である。太康の末に封を受け、邑十万戸を賜った。後に越騎校尉に任じられ、散騎常侍、車騎将軍を加えられた。賈謐がかつて皇太子と博打をし、道を争ったことがあった。穎が同席しており、厳しい声で謐を叱責した。「皇太子は国の儲君である。賈謐、どうして無礼なのか。」謐は恐れ、これにより穎を平北将軍として出し、鄴に鎮守させた。後に鎮北大将軍に転じた。

原文成都王穎,字章度,武帝第十六子也。太康末受封,邑十萬戶。後拜越騎校尉,加散騎常侍、車騎將軍。賈謐嘗與皇太子博,爭道。穎在坐,厲聲呵謐曰:「皇太子國之儲君,賈謐何得無禮!」謐懼,由此出穎為平北將軍,鎮鄴。轉鎮北大將軍。

趙王司馬倫が簒奪した時、征北大将軍に進み、開府儀同三司を加えられた。斉王司馬冏が義兵を挙げると、穎は兵を発して冏に応じ、鄴令盧志を左長史とし、頓丘太守鄭琰を右長史とし、黄門郎程牧を左司馬とし、陽平太守和演を右司馬とした。兗州刺史王彦、冀州刺史李毅、督護趙驤、石超らを前鋒とした。檄文の届く所は、応じない所はなかった。朝歌に至った時、兵二十万余りとなった。趙驤が黄橋に至った時、司馬倫の将軍士猗、許超に敗れ、死者八千余人を出し、兵士は震え恐れた。穎は朝歌に退いて守ろうとしたが、盧志、王彦の策を用い、また趙驤に兵八万を率いさせ、王彦と共に進軍させた。司馬倫はまた孫会、劉琨らに三万人を率いさせ、士猗、許超と合流して趙驤らを防がせた。精鋭の鎧は日を輝かせ、鉄騎が先駆けした。士猗は既に勝利していたため、趙驤を軽んじる心があった。温県から十余里手前で、再び大戦となり、士猗らは敗走した。穎はそこで黄河を渡り、勝ちに乗じて長駆した。左将軍王輿が孫秀を殺し、趙王司馬倫を幽閉し、天子を迎えて正統に復した。穎が京都に入ると、司馬倫を誅殺した。趙驤、石超らを派遣して斉王司馬冏を助け、陽翟で張泓を攻撃させ、張泓らは遂に降伏した。冏が初めて兵を率いて洛陽に入り、自らが最初に大計を立てたと考え、威権を専断した。穎は太学に陣営を張り、朝廷に入ると、天子が自ら労った。穎は拝礼して謝した。「これは大司馬臣冏の功績であり、臣は関与しておりません。」拝謁が終わると、すぐに辞去し、陣営に戻らず、そのまま太廟を拝し、東陽城門から出て、鄴に帰った。使者を送って冏に別れを告げると、冏は大いに驚き、急いで出て穎を見送り、七里澗で追いついた。穎は車を止めて別れを告げ、涙を流したが、時事には触れず、ただ太妃の病気の苦しみが顔色に表れているだけであり、見物の民衆は皆心を傾けた。

原文趙王倫之篡也,進征北大將軍,加開府儀同三司。及齊王冏舉義,穎發兵應冏,以鄴令盧志為左長史,頓丘太守鄭琰為右長史,黃門郎程牧為左司馬,陽平太守和演為右司馬。使兗州刺史王彥,冀州刺史李毅,督護趙驤、石超等為前鋒。羽檄所及,莫不回應。至朝歌,眾二十餘萬。趙驤至黃橋,為倫將士猗、許超所敗,死者八千餘人,士眾震駭。穎欲退保朝歌,用盧志、王彥策,又使趙驤率眾八萬,與王彥俱進。倫復遣孫會、劉琨等率三萬人,與猗、超合兵距驤等,精甲耀日,鐵騎前驅。猗既戰勝,有輕驤之心。未及溫十餘里,復大戰,猗等奔潰。穎遂過河,乘勝長驅。左將軍王輿殺孫秀,幽趙王倫,迎天子反正。及穎入京都,誅倫。使趙驤、石超等助齊王冏攻張泓于陽翟,泓等遂降。冏始率眾入洛,自以首建大謀,遂擅威權。穎營於太學,及入朝,天子親勞焉。穎拜謝曰:「此大司馬臣冏之勳,臣無豫焉。」見訖,即辭出,不復還營,便謁太廟,出自東陽城門,遂歸鄴。遣信與冏別,冏大驚,馳出送穎,至七里澗及之。穎住車言別,流涕,不及時事,惟乙太妃疾苦形于顏色,百姓觀者莫不傾心。

鄴に至ると、詔により兼太尉の王粹を派遣して九錫の殊礼を加え、位を進めて大将軍・都督中外諸軍事・仮節・黄鉞を加え、録尚書事とし、朝廷に入る際に小走りせず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許された。穎は徽号を拝受したが、殊礼と九錫を辞退し、上表して義兵を興した功臣である盧志・和演・董洪・王彦・趙驤ら五人を論じ、皆を開国公侯に封じるよう請うた。また上表して言った。「大司馬(司馬冏)は以前陽翟におり、強賊と長く対峙したため、百姓は傷つき、飢え凍えています。急いで救済すべきです。郡県の車を徴発し、一度に河北の邸閣の米十五万斛を運び、陽翟の飢えた人々を救済することをお願いします。」盧志が穎に言った。「黄橋の戦いで亡くなった者は八千余人います。夏の暑さを経て、野中に骨をさらしています。これは哀れむべきことです。昔、周の王は枯骨を葬りました。故に『詩経』に『行くに死人あれば、尚ほ或いはこれに墐うずむ』とあります。ましてやこれらは王事のために死んだ者たちではありませんか。」穎はそこで棺を八千余り造り、成都国の俸禄で衣服を調え、収殮して祭り、黄橋の北に葬り、枳の籬を植えて塋域とした。また都祭堂を立て、石に刻み碑を立て、その義に赴いた功績を記し、亡くなった者の家が四季の祭祀を行う場所とした。さらにその門閭を顕彰し、通常の戦死者より二等加えた。また河内かうち郡温県に命じて、趙倫(司馬倫)の戦死した士卒一万四千余人を埋葬させた。穎は容姿は美しいが精神は昏く、書物を知らなかったが、器量と性質は敦厚で、事を盧志に委ねたので、その美事を成し遂げることができた。

原文至鄴,詔遣兼太尉王粹加九錫殊禮,進位大將軍、都督中外諸軍事、假節、加黃鉞、錄尚書事,入朝不趨,劍履上殿。穎拜受徽號,讓殊禮九錫,表論興義功臣盧志、和演、董洪、王彥、趙驤等五人,皆封開國公侯。又表稱:「大司馬前在陽翟,與強賊相持既久,百姓創痍,饑餓凍餒,宜急振救。乞差發郡縣車,一時運河北邸閣米十五萬斛,以振陽翟饑人。」盧志言於穎曰:「黃橋戰亡者有八千餘人,既經夏暑,露骨中野,可為傷惻。昔周王葬枯骨,故《詩》云'行有死人,尚或墐之'。況此等致死王事乎!」穎乃造棺八千餘枚,以成都國秩為衣服,斂祭,葬于黃橋北,樹枳籬為之塋域。又立都祭堂,刊石立碑,紀其赴義之功,使亡者之家四時祭祀有所。仍表其門閭,加常戰亡二等。又命河內溫縣埋藏趙倫戰死士卒萬四千餘人。穎形美而神昏,不知書,然器性敦厚,委事於志,故得成其美焉。

斉王司馬冏が驕り奢って礼を欠くようになると、人々の期待は穎に集まった。詔により侍中馮蓀・中書令卞粹を派遣し、穎に入朝して政務を補佐するよう諭し、併せて九錫を受けるよう命じた。穎はなおも辞退して拝受しなかった。まもなく太子太保を加えられた。穎の寵臣孟玖は洛陽に戻りたがらず、また程太妃も鄴都を愛し慕っていたため、この議論は長く決まらなかった。義勇兵として募集した将士を長く留め置いたため、皆が別離に怨み、帰郷を思い、ある者は勝手に去る者もいた。そこで鄴城の門に題して言った。「大事解散、蚕は急ぎたし。請う、暫く帰り、時務に赴かん。昔は義をもって来たり、今は義をもって去る。若しまた急事あらば、更に相語らん。」穎は留められないと知り、そこで彼らを帰したので、百姓はようやく安堵した。冏が敗れると、穎は朝廷の政務を遠隔で執り、事の大小を問わず、すべて鄴に諮問した。後に張昌が荊州の地を乱すと、穎は上表して南征を拝命し、所在の地で呼応して赴いた。功績を恃んで驕り奢り、あらゆる制度が弛み廃れ、冏の時よりも甚だしくなった。

原文及齊王冏驕侈無禮,於是眾望歸之。詔遣侍中馮蓀、中書令卞粹喻穎入輔政,並使受九錫。穎猶讓不拜。尋加太子太保。穎嬖人孟玖不欲還洛,又程太妃愛戀鄴都,以此議久不決。留義募將士既久,咸怨曠思歸,或有輒去者,乃題鄴城門云:「大事解散蠶欲遽。請且歸,赴時務。昔以義來,今以義去。若復有急更相語。」穎知不可留,因遣之,百姓乃安。及冏敗,穎懸執朝政,事無巨細,皆就鄴諮之。後張昌擾亂荊土,穎拜表南征,所在響赴。既恃功驕奢,百度弛廢,甚于冏時。

穎が欲望をほしいままにしていた時、長沙王司馬乂が朝廷内にいるのを恐れ、河間王司馬顒と共に上表して后父の羊玄之・左将軍皇甫商らを誅殺するよう請い、檄を飛ばして乂に邸宅に退くよう命じた。そして顒の将軍張方と共に京都を討伐し、平原内史の陸機を前鋒都督・前将軍・仮節とした。穎は朝歌に駐屯し、毎夜、矛戟に火のような光があり、その陣営の井戸の中には皆、龍の象があった。進軍して河南に駐屯し、清水を防壁として陣を築き、浮き橋を造って河北と通じさせ、大木の箱に石を詰めて沈め、橋を繋ぎ止めるものとし、石鱉と名付けた。陸機が戦いに敗れ、死者が甚だ多く、陸機はまた孟玖に讒言されたため、穎は陸機を捕らえて斬り、三族を誅滅した。詳細は『陸機伝』にある。そこで京城を攻撃した。時に常山人の王輿が一万余りの兵を集め、穎を襲おうとしたが、ちょうど乂が捕らえられたので、その同党が王輿を斬って降伏した。穎は京師に入ると、再び鄴に戻って鎮守し、封邑を二十郡増やされ、丞相に任じられた。河間王顒が上表して穎を皇太子の後継とすべきとし、ついに太子司馬覃を廃し、穎を皇太弟とし、丞相は元のままとし、制度はすべて魏の武帝(曹操)の故事に倣い、乗輿や服御の品々はすべて鄴に移された。上表して宿衛兵を相府に属させるのをやめ、代わりに王官をもって宿衛させた。僭越と奢侈は日増しに甚だしく、君主をないがしろにする心があり、孟玖らを任用したため、大いに衆望を失った。

原文穎方恣其欲,而憚長沙王乂在內,遂與河間王顒表請誅後父羊玄之、左將軍皇甫商等,檄乂使就第。乃與顒將張方伐京都,以平原內史陸機為前鋒都督、前將軍、假節。穎次朝歌,每夜矛戟有光若火,其壘井中皆有龍象。進軍屯河南,阻清水為壘,造浮橋以通河北,以大木函盛石,沈之以系橋,名曰石鱉。陸機戰敗,死者甚眾,機又為孟玖所譖,穎收機斬之,夷其三族,語在《機傳》。於是進攻京城。時常山人王輿合眾萬餘,欲襲穎,會乂被執,其黨斬輿降。穎既入京師,復旋鎮於鄴,增封二十郡,拜丞相。河間王顒表穎宜為儲副,遂廢太子覃,立穎為皇太弟,丞相如故,制度一依魏武故事,乘輿服御皆遷於鄴。表罷宿衛兵屬相府,更以王官宿衛。僭侈日甚,有無君之心,委任孟玖等,大失眾望。

永興初年、左衛将軍陳眕、殿中中郎の褾苞・成輔および長沙王の旧将上官巳らが、天子の車駕を奉じて穎を討伐し、四方に檄を飛ばすと、赴く者は雲のように集まった。軍は安陽に駐屯し、兵十余万、鄴中は震え恐れた。穎は逃げ出そうとしたが、その掾の歩熊に道術があり、言った。「動くな!南軍は必ず敗れる。」穎は配下を集めて策を問うと、東安王司馬繇が言った。「天子が親征なさっています。武装を解き、喪服を着て出迎え、罪を請うべきです。」司馬王混・参軍崔曠が穎に抗戦を勧め、穎はこれに従い、奮武将軍石超に命じて五万の兵を率いさせ、蕩陰に駐屯させた。陳眕の二人の弟、陳匡と陳規が鄴から官軍に赴き、「鄴の中はすでに離散している」と言った。このため、あまり防備を整えなかった。石超の軍が突然到来し、官軍は大敗し、矢が天子の車駕に及び、侍中嵇紹が帝の側で死に、左右の者は皆逃げ散り、天子を草むらの中に置き去りにした。石超はついに帝を奉じて鄴に行幸させた。穎は元号を建武と改め、東安王司馬繇を害し、百官を任命し、生殺与奪を自ら決し、鄴の南に郊祀を立てた。

原文永興初,左衛將軍陳眕,殿中中郎褾苞、成輔及長沙故將上官巳等,奉大駕討穎,馳檄四方,赴者雲集。軍次安陽,眾十餘萬,鄴中震懼。穎欲走,其掾步熊有道術,曰:「勿動!南軍必敗。」穎會其眾問計,東安王繇乃曰:「天子親征,宜罷甲,縞素出迎請罪。」司馬王混、參軍崔曠勸穎距戰,穎從之,乃遣奮武將軍石超率眾五萬,次於蕩陰。眕二弟匡、規自鄴赴王師,云:「鄴中皆已離散。」由是不甚設備。超眾奄至,王師敗績,矢及乘輿,侍中嵇紹死於帝側,左右皆奔散,乃棄天子于槁中。超遂奉帝幸鄴。穎改元建武,害東安王繇,署置百官,殺生自己,立郊于鄴南。

安北将軍王浚・寧北将軍東嬴公司馬騰が、穎の任命した幽州刺史和演を殺した。穎は王浚を征討したが、王浚は冀州に駐屯して進まず、司馬騰および烏丸・羯朱らと共に穎を襲撃した。偵察騎兵が鄴に至ると、穎は幽州刺史王斌および石超・李毅らを派遣して王浚を防がせたが、羯朱らに敗れた。鄴中大いに震動し、百官は逃走し、士卒は分散した。穎は恐れ、麾下の数十騎を率い、天子を擁し、中書監の盧志と単車で逃走し、五日かかって洛陽に至った。羯朱が朝歌まで追撃したが、追いつけずに引き返した。河間王顒が張方に甲卒二万を率いさせて穎を救援させ、洛陽に至ると、張方は帝を脅し、穎および豫章王司馬熾しばし、ならびに高光・盧志らを擁して長安に帰った。顒は穎を廃して藩王に戻し、豫章王を皇太弟とした。

原文安北將軍王浚、甯北將軍東嬴公騰殺穎所置幽州刺史和演,穎征浚,浚屯冀州不進,與騰及烏丸、羯硃襲穎。候騎至鄴,穎遣幽州刺史王斌及石超、李毅等距浚,為羯硃等所敗。鄴中大震,百僚奔走,士卒分散。穎懼,將帳下數十騎,擁天子,與中書監慮志單車而走,五日至洛。羯硃追至朝歌,不及而還。河間王顒遣張方率甲卒二萬救穎,至洛,方乃挾帝,擁穎及豫章王並高光、慮志等歸於長安。顒廢穎歸籓,以豫章王為皇太弟。

穎が廃されると、河北の人々は彼を慕った。鄴の旧将公師藩・汲桑らが兵を起こして穎を迎えようとし、衆人の心情は一致した。顒は再び穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に任じ、兵千人を与えて鄴を鎮守させた。穎が洛陽に着くと、東海王司馬越が兵を率いて天子の車駕を迎えようとし、所在の地で鋒を鋭くした。穎は北方の勢力が盛んであることを恐れ、進むことができないと怖れ、洛陽から関中へ奔った。ちょうど天子の車駕が洛陽に還幸する時で、穎は華陰から武関へ向かい、新野に出た。帝は詔を下し、鎮南将軍劉弘・南中郎将劉陶に穎を捕らえさせた。そこで穎は母と妻を捨て、単車で二人の子、廬江王司馬普と中都王司馬廓と共に黄河を渡り朝歌へ赴き、旧将士数百人を収集し、公師藩のもとに行こうとした。頓丘太守馮嵩が穎および司馬普・司馬廓を捕らえて鄴に送ると、范陽王司馬虓が彼らを幽閉したが、他意はなかった。ちょうど司馬虓が急死した。司馬虓の長史劉輿は、穎が鄴都の人々に信服されているのを見て、後患となることを憂慮し、喪を秘して発せず、偽って人を使者とし、詔と称して夜に穎に死を賜った。穎は看守の田徽に言った。「范陽王は亡くなったのか?」田徽は言った。「知りません。」穎は言った。「卿はいくつか?」田徽は言った。「五十です。」穎は言った。「天命を知っているか?」田徽は言った。「知りません。」穎は言った。「私が死んだ後、天下は安らかだろうか、安らかでないだろうか?私は放逐されてから、今三年になる。身体や手足を洗ったこともない。数斗の湯を取って来い!」二人の子が号泣したので、穎は人に命じて連れ去らせた。そして髪を解き東を頭にして臥し、田徽に命じて絞め殺させた。時に二十八歳。二人の子も死んだ。鄴中の人々はこれを哀しんだ。

原文穎既廢,河北思之。鄴中故將公師籓、汲桑等起兵以迎穎,眾情翕然。顒復拜穎鎮軍大將軍、都督河北諸軍事,給兵千人,鎮鄴。穎至洛,而東海王越率眾迎大駕,所在鋒起。穎以北方盛強,懼不可進,自洛陽奔關中。值大駕還洛,穎自華陰趨武關,出新野。帝詔鎮南將軍劉弘、南中郎將劉陶收捕穎,於是棄母妻,單車與二子廬江王普、中都王廓渡河赴朝歌,收合故將士數百人,欲就公師籓。頓丘太守馮嵩執穎及普、廓送鄴,范陽王虓幽之,而無他意。屬虓暴薨,虓長史劉輿見穎為鄴都所服,慮為後患,秘不發喪,偽令人為臺使,稱詔夜賜穎死。穎謂守者田徽曰:「范陽王亡乎?」徽曰:「不知。」穎曰:「卿年幾?」徽曰:「五十。」穎曰:「知天命不?」徽曰:「不知。」穎曰:「我死之後,天下安乎不安乎?我自放逐,於今三年,身體手足不見洗沐,取數斗湯來!」其二子號泣,穎敕人將去。乃散發東首臥,命徽縊之,時年二十八。二子亦死。鄴中哀之。

穎が敗れた時、官属は皆逃げ散ったが、ただ盧志だけが従って怠らず、論者はこれを称えた。その後、汲桑が東嬴公司馬騰を害し、穎の仇を討つと称し、ついに穎の棺を出し、軍中に載せて、何事にも霊前に啓上し、軍令を行った。汲桑が敗れると、棺を古い井戸の中に投げ捨てた。穎の旧臣がこれを収容し、洛陽に改葬し、懐帝は県王の礼を加えた。

原文穎之敗也,官屬並奔散,惟盧志隨從不怠,論者稱之。其後汲桑害東贏公騰,稱為穎報仇,遂出穎棺,載之於軍中,每事啟靈,以行軍令。桑敗,度棺于故井中。穎故臣收之,改葬於洛陽,懷帝加以縣王禮。

穎の死後数年、開封の間に穎の子が十余歳で、百姓の家に流離しているという噂が立ち、東海王司馬越が人を遣わして殺させた。永嘉年間、東萊王司馬蕤の子司馬遵を穎の後継とし、華容県王に封じた。後に賊に滅ぼされ、封国は除かれた。

原文穎死後數年,開封間有傳穎子年十餘歲,流離百姓家,東海王越遣人殺之。永嘉中,立東萊王蕤子遵為穎嗣,封華容縣王。後沒于賊,國除。

河間王司馬顒

原文河間王顒

河間王司馬顒は、字を文載といい、安平献王司馬孚の孫で、太原烈王司馬瑰の子である。初め父の爵位を継ぎ、咸寧二年に封国に赴いた。三年、河間に改封された。若い頃から清廉な名声があり、財を軽んじ士を愛した。諸王と共に朝見に来た時、武帝は司馬顒が諸侯国の模範となりうると感嘆した。元康初年、北中郎将となり、鄴城を監した。九年、梁王司馬肜に代わって平西将軍となり、関中を鎮守した。石函の制度では、親族でなければ関中を都督できないが、司馬顒は諸王の中では疎遠な関係にあったが、特に賢才として推挙されたのである。

原文河間王顒,字文載,安平獻王孚孫,太原烈王瑰之子也。初襲父爵,咸寧二年就國。三年,改封河間。少有清名,輕財愛士。與諸王俱來朝,武帝歎顒可以為諸國儀錶。元康初,為北中郎將,監鄴城。九年,代梁王肜為平西將軍,鎮關中。石函之制,非親親不得都督關中,顒于諸王為疏,特以賢舉。

趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、斉王司馬冏がこれを討伐しようと謀った。前安西参軍の夏侯奭が侍御史を自称し、始平で兵を集め、数千人を得て司馬冏に呼応し、使者を送って司馬顒を誘った。司馬顒は主簿の房陽と河間国の人張方を派遣して夏侯奭を討ち捕らえ、その徒党十数人と共に長安市で腰斬に処した。司馬冏の檄文が届くと、司馬顒は司馬冏の使者を捕らえ、司馬倫のもとに送った。司馬倫が司馬顒に兵を徴発すると、司馬顒は張方に関右の精鋭の将兵を率いて赴かせた。張方が華陰に到着した時、司馬顒は二王(斉王・成都王)の軍勢が盛んであると聞き、長史の李含に龍驤将軍の位を加え、督護の席薳らを率いて張方の軍を追い返させ、二王に呼応させた。義兵が潼関に到着した時、すでに司馬倫と孫秀は誅殺され、天子(恵帝)が復位したので、李含と張方はそれぞれ軍勢を率いて帰還した。司馬冏が論功行賞を行う際、司馬顒が最初は同調しなかったことを怒りながらも、結局は大義を成就させたとして、侍中・太尉に進位させ、三賜の礼を加えた。

原文及趙王倫篡位,齊王冏謀討之。前安西參軍夏侯奭自稱侍御史,在始平合眾,得數千人,以應冏,遣信要顒。顒遣主簿房陽、河間國人張方討擒奭,及其黨十數人,于長安市腰斬之。及冏檄至,顒執冏使,送之於倫。倫徵兵於顒,顒遣方率關右健將赴之。方至華陰,顒聞二王兵盛,乃加長史李含龍驤將軍,領督護席薳等追方軍回,以應二王。義兵至潼關,而倫、秀已誅,天子反正,含、方各率眾還。及冏論功,雖怒顒初不同,而終能濟義,進位侍中、太尉,加三賜之禮。

後に李含が翊軍校尉となったが、司馬冏の参軍皇甫商や司馬趙驤らと恨みを抱き、ついに司馬顒のもとに奔り、密詔を受けて司馬冏を討伐すると偽って利害を説いた。司馬顒はこれを受け入れ、直ちに兵を起こし、使者を遣わして成都王司馬穎を誘った。李含を都督とし、諸軍を率いて陰盤に駐屯させ、前鋒を新安に進め、洛陽から百二十里の地点に置いた。長沙王司馬乂に檄を飛ばして司馬冏を討伐させた。司馬冏が敗れると、司馬顒は李含を河南尹とし、馮蓀や卞粹らと共に密かに司馬乂を害する計画を立てさせた。皇甫商は李含が以前詔を偽ったことと、司馬顒との陰謀を知り、詳細を司馬乂に告げた。司馬乂は李含らを誅殺した。司馬顒は李含の死を聞くと、直ちに皇甫商を討つことを名目に兵を起こし、張方を都督として精兵七万を率いて洛陽に向かわせた。張方は皇甫商を攻撃し、皇甫商は防戦したが潰走し、張方は西明門を攻撃した。司馬乂は中軍の左右衛を率いてこれを迎撃し、張方の軍は大敗し、五千人以上が戦死した。張方は初め駃水橋の西に陣営を構えていたが、ここに来て数重の塁を築き、外部から食糧を引き入れて軍資を充足させた。司馬乂が再び天子を奉じて出撃し張方を攻めたが、戦うたびに不利であった。司馬乂が死ぬと、張方は長安に帰還した。詔により司馬顒は太宰・大都督・雍州牧となった。司馬顒は皇太子司馬覃を廃し、成都王司馬穎を皇太弟に立て、元号を改め、大赦を行った。

原文後含為翊軍校尉,與冏參軍皇甫商、司馬趙驤等有憾,遂奔顒,詭稱受密詔伐冏,因說利害。顒納之,便發兵,遣使邀成都王穎。以含為都督,率諸軍屯陰盤,前鋒次於新安,去洛百二十里。檄長沙王乂討冏。及冏敗,顒以含為河南尹,使與馮蓀、卞粹等潛圖害乂。商知含前矯妄及與顒陰謀,具以告乂。乂乃誅含等。顒聞含死,即起兵以討商為名,使張方為都督,領精卒七萬向洛。方攻商,商距戰而潰,方遂進攻西明門。乂率中軍左右衛擊之,方眾大敗,死者五千餘人。方初于駃水橋西為營,於是築壘數重,外引廩穀,以足軍資。乂復從天子出攻方,戰輒不利。及乂死,方還長安。詔以顒為太宰、大都督、雍州牧。顒廢皇太子覃,立成都王穎為太弟,改年,大赦。

左衛将軍陳眕が天子を奉じて司馬穎を討伐すると、司馬顒はまた張方に兵二万を率いて鄴を救援させた。天子はすでに鄴に行幸していた。張方は洛陽に駐屯した。王浚らが司馬穎を討伐すると、司馬穎は天子を挟持して洛陽に帰還した。張方は兵を率いて殿中に入り、帝をその陣営に行幸するよう迫り、府庫を掠奪し、宮廟を焼いて人々の心を絶とうとした。盧志が諫めたのでやめた。張方はさらに天子を長安に行幸するよう迫った。司馬顒は百官を選任配置し、秦州を定州と改めた。東海王司馬越が徐州で兵を起こし、西進して天子の車駕を迎えようとすると、関中は大いに恐れ、張方は司馬顒に言った。「私の率いる兵はなお十余万います。天子の車駕を奉じて洛陽の宮殿にお返しし、成都王を鄴に帰還させ、公ご自身は関中に留まって鎮守し、私が北進して博陵を討ちます。このようにすれば、天下は少しは安らかになり、再び手を挙げる者はいなくなるでしょう。」司馬顒は事が大きすぎて成就が難しいと考え、許さなかった。そこで劉喬に節を仮授し、鎮東大将軍に進位させ、成都王司馬穎に楼褒や王闡らの諸軍を総統させ、河橋を占拠して司馬越を防がせた。王浚は督護劉根を派遣し、三百騎を率いて河上に至らせた。王闡が出戦し、劉根に殺された。司馬穎は張方の旧陣営に軍を駐屯させた。范陽王司馬虓は鮮卑の騎兵と平昌・博陵の兵を派遣して河橋を襲撃し、楼褒は西に逃走し、追撃の騎兵は新安まで至り、道路上の死者は数えきれなかった。

原文左衛將軍陳眕奉天子伐穎,顒又遣方率兵二萬救鄴。天子已幸鄴。方屯兵洛陽。及王浚等伐穎,穎挾天子歸洛陽。方將兵入殿中,逼帝幸其壘,掠府庫,將焚宮廟以絕眾心。盧志諫,乃止。方又逼天子幸長安。顒及選置百官,改秦州為定州。及東海王越起兵徐州,西迎大駕,關中大懼,方謂顒曰:「方所領猶有十餘萬眾,奉送大駕還洛宮,使成都王反鄴,公自留鎮關中,方北討博陵。如此,天下可小安,無復舉手者。」顒慮事大難濟,不許。乃假劉喬節,進位鎮東大將軍,遣成都王穎總統樓褒、王闡等諸軍,據河橋以距越。王浚遣督護劉根,將三百騎至河上。闡出戰,為根所殺。穎頓軍張方故壘,范陽王虓遣鮮卑騎與平昌、博陵眾襲河橋,樓褒西走,追騎至新安,道路死者不可勝數。

当初、司馬越は張方が車駕を強奪して遷したため、天下が怨憤しているとして、山東の諸侯と期日を定めて天子を奉迎する義兵を唱え、まず説客を送って司馬顒を説得し、帝を都に送還させ、司馬顒と陝を分けて統治しようとした。司馬顒はこれに従おうとしたが、張方が同意しなかった。東軍が大勝し、成都王らが敗れると、司馬顒は張方の親信の将である郅輔に命じて夜に張方を斬らせ、その首を東軍に示して送った。すぐに考えを変え、今度は刁默を派遣して潼関を守らせ、郅輔が張方を殺したことを咎めて、また郅輔を斬った。司馬顒は先に将の呂朗らを派遣して滎陽けいようを占拠させていたが、范陽王司馬虓の司馬劉琨が張方の首を呂朗に見せると、呂朗は降伏した。当時、東軍はすでに勢いが盛んで、刁默を破って関中に入り、司馬顒は恐れ、また馬瞻と郭伝を派遣して霸水でこれを防がせたが、馬瞻らは戦いに敗れて散り散りに逃走した。司馬顒は単騎で太白山に逃れた。東軍が長安に入り、天子の車駕が帰還すると、皇太弟太保の梁柳を鎮西将軍として関中を守らせた。馬瞻らは出て梁柳のもとに赴き、城内で共謀して梁柳を殺した。馬瞻らは始平太守梁邁と合流し、南山から司馬顒を迎えた。司馬顒は初め府に入ることを肯わなかったが、長安令の蘇衆と記室督の朱永が、司馬顒に上表して梁柳が病死したと称し、張方の件について知らせるよう勧めた。弘農太守の裴暠、秦国内史の賈龕、安定太守の賈疋らが義兵を起こして司馬顒を討ち、馬瞻や梁邁らを斬った。東海王司馬越は督護の麋晃を派遣し、国兵を率いて司馬顒を討伐させた。鄭に至ると、司馬顒の将の牽秀が麋晃を防いだが、麋晃は牽秀を斬り、その二人の子も共に斬った。義軍は関中を占拠し、司馬顒は城を守るだけとなった。

原文初,越以張方劫遷車駕,天下怨憤,唱義與山東諸侯克期奉迎,先遣說顒,令送帝還都,與顒分陝而居。顒欲從之,而方不同。及東軍大捷,成都等敗,顒乃令方親信將郅輔夜斬方,送首以示東軍。尋變計,更遣刁默守潼關,乃咎輔殺方,又斬輔。顒先遣將呂朗等據滎陽,范陽王虓司馬劉琨以方首示朗,於是朗降。時東軍既盛,破刁默以入關,顒懼,又遣馬瞻、郭傳于霸水禦之,瞻等戰敗散走。顒乘單馬,逃於太白山。東軍入長安,大駕旋,乙太弟太保梁柳為鎮西將軍,守關中。馬瞻等出詣柳,因共殺柳於城內。瞻等與始平太守梁邁合從,迎顒于南山。顒初不肯入府,長安令蘇眾、記室督硃永勸顒表稱柳病卒,輒知方事。弘農太守裴暠、秦國內史賈龕、安定太守賈疋等起義討顒,斬馬瞻、梁邁等。東海王越遣督護麋晃率國兵伐顒。至鄭,顒將牽秀距晃,晃斬秀,並其二子。義軍據有關中,顒保城而已。

永嘉初年、詔書により司馬顒は司徒に任じられ、召しに応じた。南陽王司馬模は将の梁臣を派遣し、新安の雍谷で車中で司馬顒を扼殺させ、その三人の子も共に殺した。詔により彭城元王司馬植の子の司馬融を司馬顒の後継ぎとし、楽成県王に改封した。司馬融は死去し、子がなかった。建興年間、元帝はまた彭城康王司馬釋の子の司馬欽を司馬融の後継ぎとした。

原文永嘉初,詔書以顒為司徒,乃就徵。南陽王模遣將梁臣于新安雍谷車上扼殺之,並其三子。詔以彭城元王植子融為顒嗣,改封樂成縣王。薨,無子。建興中,元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣。

東海孝献王司馬越

原文東海孝獻王越

東海孝献王司馬越は、字を元超といい、高密王司馬泰の次子である。若い頃から良い名声があり、謙虚で布衣の操りを保ち、朝廷内外から尊敬された。初め世子として騎都尉となり、駙馬都尉の楊邈および琅邪王司馬伷の子の司馬繇と共に東宮で侍講し、散騎侍郎に任じられ、左衛将軍を歴任し、侍中を加えられた。楊駿討伐に功があり、五千戸侯に封じられた。散騎常侍・輔国将軍・尚書右僕射に遷り、遊撃将軍を兼任した。再び侍中となり、奉車都尉を加えられ、温信五十人を与えられ、別に東海王に封じられ、六県を食邑とした。永康初年、中書令となり、侍中に転じ、司空に遷り、中書監を兼任した。

原文東海孝獻王越,字元超,高密王泰之次子也。少有令名,謙虛持布衣之操,為中外所宗。初以世子為騎都尉,與駙馬都尉楊邈及琅邪王伷子繇俱侍講東宮,拜散騎侍郎,曆左衛將軍,加侍中。討楊駿有功,封五千戶侯。遷散騎常侍、輔國將軍、尚書右僕射,領遊擊將軍。復為侍中,加奉車都尉,給溫信五十人,別封東海王,食六縣。永康初,為中書令,徙侍中,遷司空,領中書監。

成都王司馬穎が長沙王司馬乂を攻撃すると、司馬乂は洛陽を固守した。殿中の諸将および三部司馬は戦闘と守備に疲弊し、密かに左衛将軍の朱默と共に夜間に司馬乂を別の役所で捕らえ、司馬越を主君に立てるよう迫り、恵帝に司馬乂の官職を免ずるよう上奏した。事が決着すると、司馬越は病気を理由に辞任を申し出た。帝は許さず、尚書令を加えて守らせた。太安初年、帝が北征して鄴に向かう際、司馬越を大都督とした。六軍が敗れると、司馬越は下邳に逃れたが、徐州都督の東平王司馬楙は受け入れず、司馬越は直接東海に戻った。成都王司馬穎は司馬越兄弟が宗室の優れた者であるとして、寛大な命令を下して招いたが、司馬越は応じなかった。帝が西へ行幸した際、司馬越を太傅とし、太宰の司馬顒と共に朝政を補佐させようとしたが、司馬越は辞退して受けなかった。東海中尉の劉洽が司馬越に兵を起こして司馬穎に備えるよう勧めると、司馬越は劉洽を左司馬とし、尚書の曹馥を軍司とした。兵を起こすと、司馬楙は恐れて、州を司馬越に譲った。司馬越は司空として徐州都督を兼任し、司馬楙に兗州刺史を領させた。司馬越の三人の弟はいずれも方面の任に就いて征伐を行い、刺史や太守を選任する際には、朝廷の人士の多くが司馬越のもとに赴いた。一方、河間王司馬顒は天子を擁し、詔を発して司馬越らを罷免し、皆に封国に帰るよう命じた。司馬越は大義を唱えて天子を奉迎し、旧都に戻すため、甲兵三万を率いて西進し、蕭県に駐屯した。豫州刺史の劉喬は司馬越の命令を受けず、子の劉祐を派遣してこれを防がせ、司馬越軍は敗れた。范陽王司馬虓は督護の田徽に突騎八百を率いて司馬越を迎えさせ、譙で劉祐と遭遇し、劉祐の軍は潰走した。司馬越は進軍して陽武に駐屯した。山東の兵勢が盛んになり、関中は大いに恐れ、司馬顒は張方の首を斬って送り和睦を求めたが、まもなく方針を変えて司馬越を防いだ。司馬越は諸侯および鮮卑の許扶歴、駒次宿帰らの歩兵・騎兵を率いて恵帝を洛陽に戻した。詔により、司馬越は太傅・録尚書事とされ、下邳・済陽の二郡を加増された。

原文成都王穎攻長沙王乂,乂固守洛陽,殿中諸將及三部司馬疲于戰守,密與左衛將軍硃默夜收乂別省,逼越為主,啟惠帝免乂官。事定,越稱疾遜位。帝不許,加守尚書令。太安初,帝北征鄴,以越為大都督。六軍敗,越奔下邳,徐州都督、東平王楙不納,越徑還東海。成都王穎以越兄弟宗室之美,下寬令招之,越不應命。帝西幸,以越為太傅,與太宰顒夾輔朝政,讓不受。東海中尉劉洽勸越發兵以備穎,越以洽為左司馬,尚書曹馥為軍司。既起兵,楙懼,乃以州與越。越以司空領徐州都督,以楙領兗州刺史。越三弟並據方任征伐,輒選刺史守相,朝士多赴越。而河間王顒挾天子,發詔罷越等,皆令就國。越唱義奉迎大駕,還復舊都,率甲卒三萬,西次蕭縣。豫州刺史劉喬不受越命,遣子祐距之,越軍敗。范陽王虓遣督護田徽以突騎八百迎越,遇祐於譙,祐眾潰,越進屯陽武。山東兵盛,關中大懼,顒斬送張方首求和,尋變計距越。越率諸侯及鮮卑許扶曆、駒次宿歸等步騎迎惠帝反洛陽。詔越乙太傅錄尚書,以下邳、濟陽二郡增封。

懐帝が即位すると、政務を司馬越に委ねた。吏部郎の周穆は、清河王司馬覃の母方の叔父であり、司馬越の従兄弟(母方の姉妹の子)であった。彼は妹婿の諸葛玫と共に司馬越に言った。「主上が皇太弟となられたのは、張方の意向によるものです。清河王は本来の太子であり、凶徒どもによって廃されました。先帝が急に崩御されたのも、東宮(太子)を疑われたためが多いのです。公はどうか伊尹や霍光のような挙兵を考え、社稷を安んじてはなりませんか。」言葉が終わらないうちに、司馬越は「これは言うべきことではない!」と言い、左右の者を叱って彼らを斬らせた。諸葛玫と周穆が名家の出身であることから、罪は彼ら自身に限るとし、このことを理由に三族誅殺の法を廃止するよう上表した。帝が自ら万機を親裁し、諸事に心を留めるようになると、司馬越は不満を抱き、外藩に出ることを求めたが、帝は許さなかった。司馬越はついに許昌に出鎮した。

原文及懷帝即位,委政於越。吏部郎周穆,清河王覃舅,越之姑子也,與其妹夫諸葛玫共說越曰:「主上之為太弟,張方意也。清河王本太子,為群凶所廢。先帝暴崩,多疑東宮。公盍思伊、霍之舉,以寧社稷乎?」言未卒,越曰:「此豈宜言邪!」遂叱左右斬之。以玫、穆世家,罪止其身,因此表除三族之法。帝始親萬機,留心庶事,越不悅,求出籓,帝不許。越遂出鎮許昌。

永嘉初年、司馬越は許昌から苟晞きおよび冀州刺史の丁劭を率いて汲桑を討伐し、これを破った。司馬越が許昌に戻ると、長史の潘滔が彼に進言した。「兗州は天下の要衝です。公ご自身が治められるべきです。」そして苟晞を青州刺史に転任させたことから、司馬越は苟晞と不和になった。

原文永嘉初,自許昌率苟晞及冀州刺史丁劭討汲桑,破之。越還于許,長史潘滔說之曰:「兗州天下樞要,公宜自牧。」及轉苟晞為青州刺史,由是與晞有隙。

まもなく詔により司馬越は丞相となり、兗州牧を兼任し、兗・豫・司・冀・幽・并の六州を都督した。司馬越は丞相の位を辞退して受けず、許昌から鄄城に移った。司馬越は清河王司馬覃が結局は皇太子の後継となることを恐れ、詔を偽って彼を捕らえ金墉城に幽閉し、まもなく殺害した。

原文尋詔越為丞相,領兗州牧,督兗、豫、司、冀、幽、并六州。越辭丞相不受,自許遷於鄄城。越恐清河王覃終為儲副,矯詔收付金墉城,尋害之。

王彌が許昌に入ると、司馬越は左司馬の王斌に甲士五千人を率いさせて京都の守衛に入らせた。鄄城の城壁が自然に崩れたので、司馬越はこれを嫌い、濮陽に移って駐屯し、さらに滎陽に移った。田甄ら六人の将軍を召し寄せたが、田甄は命令を受けず、司馬越は監軍の劉望を派遣して田甄を討伐させた。初め、東嬴公の司馬騰が鄴に鎮守した時、并州の将軍であった田甄、その弟の田蘭、任祉、祁済、李惲、薄盛らの部衆一万余人を連れて鄴に至り、彼らを冀州に派遣して食糧を得させ、「乞活」と号した。司馬騰が敗れると、田甄らは赤橋で汲桑を迎え撃って破り、司馬越は田甄を汲郡太守、田蘭を钜鹿太守とした。田甄が魏郡を求めたが、司馬越は許さず、田甄は怒って、召しに応じなかったのである。劉望が黄河を渡ると、田甄は退いた。李惲と薄盛が田蘭を斬り、その配下を率いて降伏した。田甄、任祉、祁済は軍を捨てて上党に逃れた。

原文王彌入許,越遣左司馬王斌率甲士五千人入衛京都。鄄城自壞,越惡之,移屯濮陽,又遷于滎陽。召田甄等六率,甄不受命,越遣監軍劉望討甄。初,東嬴公騰之鎮鄴也,攜并州將田甄、甄弟蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛等部眾萬餘人至鄴,遣就谷冀州,號為乞活。及騰敗,甄等邀破汲桑於赤橋,越以甄為汲郡,蘭為钜鹿大守。甄求魏郡,越不許,甄怒,故召不至。望既渡河,甄退。李惲、薄盛斬田蘭,率其眾降,甄、祉、濟棄軍奔上黨。

司馬越は滎陽から洛陽に戻り、太学を自分の役所とした。朝廷の臣下が自分に二心を抱いているのではないかと疑い、帝の母方の叔父である王延らが乱を企てたと誣告し、王景に甲士三千人を率いさせて宮中に入り王延らを捕らえ、廷尉に引き渡して殺させた。司馬越は兗州牧を解かれ、司徒を兼任した。司馬越は苟晞と不和になった上に、近頃の事変が多く宮中や省庁から起こっていると考え、宿衛にいて侯爵を持つ者を全て罷免するよう上奏した。当時、殿中の武官は皆侯爵に封じられていたので、罷免されて出て行く者がほぼいなくなり、皆涙を流して去っていった。そこで東海国の上軍将軍の何倫を右衛将軍、王景を左衛将軍とし、国兵数百人を率いて宿衛させた。

原文越自滎陽還洛陽,以太學為府。疑朝臣貳己,乃誣帝舅王延等為亂,遣王景率甲士三千人入宮收延等,付廷尉殺之。越解兗州牧,領司徒。越既與苟晞構怨,又以頃興事多由殿省,乃奏宿衛有侯爵者皆罷之。時殿中武官並封侯,由是出者略盡,皆泣涕而去。乃以東海國上軍將軍何倫為右衛將軍,王景為左衛將軍,領國兵數百人宿衛。

司馬越は王延らを誅殺して以来、大いに衆望を失い、猜疑心が強くなっていた。散騎侍郎の高韜が国を憂える発言をしたので、司馬越は時政を誹謗したと誣告して殺害したが、自らも不安を感じた。そこで軍服を着て参内し、石勒を討伐し、かつ兗州・豫州を鎮撫・集結させて京師を救援することを請願した。帝は言った。「今、逆賊が都の近郊に侵攻し、王室は動揺し、固い決意を持つ者はいない。朝廷と社稷は公に頼っているのだ。どうして遠くに出て根本を孤立させることができようか。」司馬越は答えた。「臣が今、兵を率いて賊を迎え撃てば、必ずや滅ぼすことができます。賊が滅びれば、野心家も消え去り、東方の諸州からの貢物も流通するでしょう。これは国威を宣揚し、藩屏として適切なことです。もし京師に座して機会を失えば、禍いは日増しに大きくなり、憂いはますます重くなります。」こうして出発した。妃の裴氏、世子で鎮軍将軍の司馬毗、および龍驤将軍の李惲と何倫らを残して京都を守衛させた。行台を軍に随行させるよう上表し、甲士四万を率いて東進し項に駐屯した。王公卿士で随従する者は非常に多かった。詔により九錫が加えられた。司馬越は四方に羽檄を飛ばして言った。「皇綱が統御を失い、社稷は多難である。孤は弱い才能ながら、大任を担うことになった。近頃、胡寇が内に迫り、副将たちは敗北し、帝都はすぐに戎狄の州となり、文明の地はたちまち異域となった。朝廷上下は憂慮と恐れを抱いている。これは皆、諸侯が時を過ごしたために、この難に至ったのである。袖を振るって履き物を忘れるほど急いでも、討伐はすでに遅い。人情として根本を奉ずる者は、義憤に駆られない者はいない。戦いと守備の準備のために、合流する兵を待たねばならない。宗廟と主上は、匡救を頼みにしている。この檄が届いた日には、ただちに風に応じて奮起せよ。忠臣戦士が誠を尽くす時である。」しかし、徴発した兵は誰も来なかった。一方、苟晞もまた司馬越を討伐するよう上表した。その言葉は『苟晞伝』にある。司馬越は豫州刺史の馮嵩を左司馬とし、自ら豫州牧を兼任した。

原文越自誅王延等,大失眾望,而多有猜嫌。散騎侍郎高韜有憂國之言,越誣以訕謗時政害之,而不自安。乃戎服入見,請討石勒,且鎮集兗、豫以援京師。帝曰:「今逆虜侵逼郊畿,王室蠢蠢,莫有固心。朝廷社稷,倚賴於公,豈可遠出以孤根本!」對曰:「臣今率眾邀賊,勢必滅之。賊滅則不逞消殄,已東諸州職貢流通。此所以宣暢國威,籓屏之宜也。若端坐京輦以失機會,則釁弊日滋,所憂逾重。」遂行。留妃裴氏,世子、鎮軍將軍毗,及龍驤將軍李惲並何倫等守衛京都。表以行臺隨軍,率甲士四萬東屯于項,王公卿士隨從者甚眾。詔加九錫。越乃羽檄四方曰:「皇綱失御,社稷多難,孤以弱才,備當大任。自頃胡寇內逼,偏裨失利,帝鄉便為戎州,冠帶奄成殊域,朝廷上下,以為憂懼。皆由諸侯蹉跎,遂及此難。投袂忘履,討之已晚。人情奉本,莫不義奮。當須合會之眾,以俟戰守之備。宗廟主上,相賴匡救。檄至之日,便望風奮發,忠臣戰士效誠之秋也。」所征皆不至。而苟晞又表討越,語在《晞傳》。越以豫州刺史馮嵩為左司馬,自領豫州牧。

司馬越は威権を専断し、覇業を図り、朝廷の賢人で声望のある者を選んで属吏とし、名将や精兵を自分の府に充実させ、臣下としての道を外れた行跡は、天下に知られていた。しかし公的にも私的にも物資は枯渇し、至る所で賊寇の乱が起こり、州郡は離反し、上下は崩壊・離散し、禍いは深く結びつき、ついに憂慮と恐れから病気になった。永嘉五年、項で死去した。死は秘され、喪は発せられなかった。襄陽王の司馬范を大将軍としてその配下を統率させた。遺体は東海に戻って葬られた。石勒が苦県の寧平城で追いつき、将軍の銭端が兵を出して石勒を防いだが、戦死し、軍は潰走した。石勒は司馬越の棺を焼くよう命じて言った。「この者が天下を乱した。私は天下のために報復するのだ。だからその骨を焼いて天地に告げるのである。」こうして数十万の民衆を、石勒は騎兵で包囲して射かけ、互いに踏みつけ合って山のようになった。王公士庶で死者は十余万に及んだ。王彌の弟の王璋が残った民衆を焼き、食らった。天下はその罪を司馬越に帰した。帝は詔を発して司馬越を県王に貶めた。

原文越專擅威權,圖為霸業,朝賢素望,選為佐吏,名將勁卒,充於己府,不臣之跡,四海所知。而公私罄乏,所在寇亂,州郡攜貳,上下崩離,禍結釁深,遂憂懼成疾。永嘉五年,薨于項。秘不發喪。以襄陽王范為大將軍,統其眾。還葬東海。石勒追及于苦縣甯平城,將軍錢端出兵距勒,戰死,軍潰。勒命焚越柩曰:「此人亂天下,吾為天下報之,故燒其骨以告天地。」於是數十萬眾,勒以騎圍而射之,相踐如山。王公士庶死者十餘萬。王彌弟璋焚其餘眾,並食之。天下歸罪於越。帝發詔貶越為縣王。

何倫と李惲は司馬越の死を聞くと、喪を秘して発せず、妃の裴氏と司馬毗を奉じて京邑を出た。従う者は城を傾けるほどで、通過する地で暴虐と略奪を行った。洧倉に至り、また石勒に敗れ、司馬毗と宗室三十六王はともに賊の手に落ちた。李惲は妻子を殺して広宗に奔り、何倫は下邳に逃げた。裴妃は人に略奪され、呉氏に売られたが、太興年間に長江を渡ることができ、司馬越の招魂葬を行おうとした。元帝は有司に詳しく議論するよう詔を下した。博士の傅純は言った。「聖人は礼を制定し、事によって情に縁る。塚槨を設けて形を蔵め、凶事をもってこれに事える。廟祧を立てて神を安んじ、吉事をもってこれを奉る。形を送って往かせ、精を迎えて還す。これが墓と廟の大別であり、形と神の異なる制度である。室廟・寝廟・祊祭が一か所でないのは、神を求める道を広くするためであり、ただ墓では祭らないのは、そこが神の居場所でないことを明らかにするためである。今、形と神の区別を乱し、廟と墓の適宜を誤り、礼制と義に背くことは、これより大きいものはない。」そこで詔を下して許可しなかった。裴妃は詔に従わず、ついに司馬越を広陵に葬った。太興の末、墓が毀されたため、丹徒に改葬した。

原文何倫、李惲聞越之死,秘不發喪,奉妃裴氏及毗出自京邑,從者傾城,所經暴掠。至洧倉,又為勒所敗,毗及宗室三十六王俱沒於賊。李惲殺妻子奔廣宗,何倫走下邳。裴妃為人所略,賣于吳氏,太興中,得渡江,欲招魂葬越。元帝詔有司詳議,博士傅純曰:「聖人制禮,以事緣情,設塚槨以藏形,而事之以凶;立廟祧以安神,而奉之以吉。送形而往,迎精而還。此墓廟之大分,形神之異制也。至於室廟寢廟祊祭非一處,所以廣求神之道,而獨不祭於墓,明非神之所處也。今亂形神之別,錯廟墓之宜,違禮制義,莫大於此。」於是下詔不許。裴妃不奉詔,遂葬越於廣陵。太興末,墓毀,改葬丹徒。

初め、元帝が建鄴を鎮守したのは、裴妃の意向によるものであった。帝は深くその恩に感じ、たびたびその邸宅に行幸し、第三子の司馬沖に司馬越の後を継がせた。司馬沖が薨じ、子がなかったので、成帝は少子の司馬奕しばえきを継がせた。哀帝は司馬奕を琅邪王に移し、東海王には後継者がいなくなった。隆安初め、安帝はさらに会稽忠王の次子の司馬彦璋を東海王とし、司馬沖の曾孫として継がせた。司馬彦璋は桓玄に害され、封国は除かれた。

原文初,元帝鎮建鄴,裴妃之意也,帝深德之,數幸其第,以第三子沖奉越後。薨,無子,成帝以少子奕繼之。哀帝徙奕為琅邪王,而東海無嗣。隆安初,安帝更以會稽忠王次子彥璋為東海王,繼沖為曾孫。為桓玄所害,國除。

史臣が言う。

原文【史論】

昔、高辛氏が時運を治めた時、禍いは参商から起こった。宗周が歴を継いだ時、災いは管叔・蔡叔に纏わりついた。詳しく昔の書冊を観察し、遠く前古のことを聞けば、乱臣賊子のことは、明らかに鑑とすべきものがそこにある。晋が盛んに興り、藩屏を重んじ、茅土を分け瑞玉を賜り、道は恒典を光らせた。儀台で袞衣を飾り、礼は彝章に備わった。汝南王(司馬亮)は純和な資質を持ちながら、決断力のなさによって失敗した。楚隠王(司馬瑋)は果敢で鋭い性格を習い、ついに凶暴で残忍な者となった。ある者は朝廷の高位にあり、ある者は近衛の職に参じたが、ともに女子に欺かれ、次々と誅殺された。自ら招いたとはいえ、まことに哀れむべきである。司馬倫は実に凡庸で取るに足らず、孫秀に欺かれ、ひそかに異なる図りを構え、奸悪を煽り立てて成し遂げた。ついに太子(司馬遹)に怨酷を遭わせ、宰相(張華ら)を誅夷に陥れ、天の輝きはこれによって一時傾き、皇綱はここで中途で崩れた。そして冠を裂き冕を毀ち、百六の厄会を幸いとし、璽を綰ね纛を揚げて、九五の尊位を窺った。神器(帝位)はどうして安きに偷むことができようか。鴻名(大いなる名)はどうして妄りに仮ることを許されようか。それなのにこの淫祀(不当な祭祀)に託して、あの天年を享けようとした。凶悪で暗愚の極み、未だかつてなかったことである。司馬冏は名高い父の子として、義を唱えて王事に勤め、偽りの業を既成の時に摧き、皇輿を既に墜ちたところから救い上げた。勲を策し績を考うれば、まことに称えるに足る。しかしながら禍いに臨んで憂いを忘れ、心のままに欲をほしいままにし、かつて楽しみは極めるべからず、満ちたものは久しく保ち難いことを知らず、古人の未だ巧みでないことを笑い、己が事の既に拙いことを忘れた。もし向こう(以前)に王豹の奇策を採り、孫恵の嘉謀を納れ、袞章(三公の位)を高く謝絶して、永遠に東海に表し続けていたならば、古の伊尹・霍光といえども、どうしてこれに加えることができただろうか。長沙王(司馬乂)は材力人に絶し、忠誠の概(気概)は俗を超え、掖門に弓を投じて、落落として壮夫の気を標し、魏闕に車を馳せて、懍懍として烈士の風を懐いた。たとえ陽九の数が屯しくとも、三(父・師・君)に対する情は奪われなかった。その遺された節義を撫でれば、終始観るに値する。司馬穎はすでに内に入って大権を総べ、外に出て重鎮に居り、中台(尚書省)はこれによって事を成し、東夏(東方)はこれによってその心を安んじる資とした。それなのに河間王(司馬顒)と協力し契り合って、ともに進取を図った。しかし司馬顒は李含の狡猾な詐りを任用し、張方の陵虐を杖とし、ついに武閔王(司馬允)をして首を喪わせ、長沙王をして首を授からしめ、その君無き志を逞しくし、その不義の強さを誇った。鑾駕(皇帝の車駕)が北に巡幸したのは、征ありて戦い無きとは異なり、乗輿が西に幸したのは、望秩(山川を望んで祭祀すること)や観風(風俗を観察すること)によるものではなかった。もし火が原を燎くならば、まだ撲滅することができる。ましてやこの安んじて忍ぶ(残忍を平然と行う)こと、どうして及ばないことがあろうか。東海王(司馬越)は同盟を糾合し、義挙を創始したが、匡復の功は未だ立たず、陵暴の禍いの兆しは既に明らかとなり、あの車徒を尽くして、固く出鎮を求めた。その後、帝京は寡弱となり、狡猾な寇が陵駕し、ついに神器が劫遷され、宗社が顛覆し、数十万の衆はともに豺狼の餌食となり、三十六王はみな鋒刃に身を隕とした。禍難の極み、振古(昔を振り返っても)未だ聞いたことがない。焚如(火刑)に及んだとしても、まだ幸いであったと言えよう。恵帝が政を失って以来、難は蕭牆(宮中の壁、内輪)から起こり、骨肉が相い争い、黎元(民)は塗炭の苦しみに陥った。胡塵が驚いて天地は閉ざされ、戎兵が接して宮廟は毀された。支属(皇族)がその禍端を開き、戎羯がその間隙に乗じた。悲しいかな。『詩経』にいう「誰が禍いの階を生みしや、今に至るまで梗さまたげとなる」とは、まさにこの八王のことを言うのであろう。

原文史臣曰:昔高辛撫運,釁起參商;宗周嗣曆,禍纏管、蔡。祥觀曩冊,逖聽前古,亂臣賊子,昭鑒在焉。有晉鬱興,載崇籓翰,分茅錫瑞,道光恆典;儀臺飾袞,禮備彝章。汝南以純和之姿,失於無斷;楚隱習果銳之性,遂成凶很。或位居朝右,或職參近禁,俱為女子所詐,相次受誅,雖曰自貽,良可哀也!倫實庸瑣,見欺孫秀,潛構異圖,煽成奸慝。乃使元良遘怨酷,上宰陷誅夷,乾耀以之暫傾,皇綱於焉中圮。遂裂冠毀冕,幸百六之會;綰璽揚纛,窺九五之尊。夫神器焉可偷安,鴻名豈容妄假!而欲托茲淫祀,享彼天年,凶暗之極,未之有也。冏名父之子,唱義勤王,摧偽業于既成,拯皇輿於已墜,策勳考績,良足可稱。然而臨禍忘憂,逞心縱欲,曾不知樂不可極,盈難久持,笑古人之未工,忘己事之已拙。向若采王豹之奇策,納孫惠之嘉謀,高謝袞章,永表東海,雖古之伊、霍,何以加焉!長沙材力絕人,忠概邁俗,投弓掖門,落落標壯夫之氣;馳車魏闕,懍懍懷烈士之風。雖復陽九數屯,在三之情無奪。撫其遺節,終始可觀。穎既入總大權,出居重鎮,中臺藉以成務,東夏資其宅心,乃協契河間,共圖進取。而顒任李含之狙詐,杖張方之陵虐,遂使武閔喪元,長沙授首,逞其無君之志,矜其不義之強。鑾駕北巡,異乎有征無戰;乘輿西幸,非由望秩觀風。若火燎原,猶可撲滅,矧茲安忍,能無及乎!東海糾合同盟,創為義舉,匡復之功未立,陵暴之釁已彰,罄彼車徒,固求出鎮。既而帝京寡弱,狡寇憑陵,遂令神器劫遷,宗社顛覆,數十萬眾並垂餌於豺狼,三十六王咸隕身於鋒刃。禍難之極,振古未聞。雖及焚如,猶為幸也。自惠皇失政,難起蕭牆,骨肉相殘,黎元塗炭,胡塵驚而天地閉,戎兵接而宮廟隳,支屬肇其禍端,戎羯乘其間隙,悲夫!《詩》所謂「誰生厲階,至今為梗」,其八王之謂矣。