しん

卷五十八 列傳第二十八

周處

周處は、 字 を子隱といい、義興郡陽羨県の人である。父の周魴は、呉の鄱陽太守であった。周處は幼くして孤児となり、まだ弱冠に達しないうちから、膂力が人に絶し、馬を走らせて狩りをすることを好み、細かい行いを修めず、感情のままに欲望をほしいままにしたので、郷里の人々は彼を悩みの種にしていた。周處は自分が人に憎まれていることを自覚し、慨然として改めて励む志を抱き、父老たちに言った。「今は時も和らぎ年も豊かであるのに、何を苦しんで楽しまないのか?」父老たちは嘆いて言った。「三つの害が除かれていないのに、何の楽しみがあろうか!」周處が「それはどういうことか」と尋ねると、答えて言った。「南山の白額の猛獣と、長橋の下の蛟(みずち)、そしてあなたを合わせて三つです。」周處は言った。「もしこれが害であるなら、私はこれを除くことができる。」父老たちは言った。「あなたがもしこれを除くならば、それは一郡の大いなる慶びであり、ただ害を取り除くだけではない。」周處はそこで山に入って猛獣を射殺し、続いて水に飛び込んで蛟と格闘した。蛟は沈んだり浮かんだりし、数十里も行ったが、周處はそれと共にあり、三日三夜が経った。人々は周處が死んだと思い、皆互いに慶賀し合った。周處は果たして蛟を殺して帰還し、郷里の人々が互いに慶賀しているのを聞き、初めて人々が自分をここまで患いとしていることを知り、そこで呉に入って二陸( 陸機 ・ 陸雲 )を尋ねた。その時、陸機は不在で、陸雲に会い、詳しく事情を告げて言った。「自ら修養したいが、年はすでに過ぎてしまい、もう間に合わないのではないかと恐れています。」陸雲は言った。「古人は朝に聞いて夕に改めることを貴んだ。あなたの前途はまだ有望である。ただ志が立たないことを患うべきで、名声が顕われないことを憂うるには及ばない。」周處はそこで志を励まして学問を好み、文才と思慮があり、義烈を志し、言葉は必ず忠信で己に克った。一年後、州と府がこぞって召し出した。呉に仕えて東観左丞となった。孫皓の末年、無難督となった。呉が平定されると、王渾が建鄴の宮殿で酒を注ぎ、すでに酣になった時、呉の人々に言った。「諸君は亡国の余りであるが、悲しみはないのか?」周處が答えて言った。「漢末に分崩し、三国が鼎立し、魏は前に滅び、呉は後に亡びました。亡国の悲しみは、ただ一人だけのものではありません!」王渾は恥じ入る様子を見せた。

洛陽 に入り、次第に昇進して新平太守となった。戎狄を慰撫して和合させ、叛いた きょう 族が帰順したので、雍州の地の人々は彼を称賛した。広漢太守に転任した。郡には滞った訴訟が多く、三十年を経ても決着しないものもあったが、周處はその曲直を詳しく調べ、一朝のうちに判決して処理した。母が老齢のため官を辞して帰郷した。まもなく楚国内史に任じられたが、まだその任地に赴かないうちに、 散騎常侍 さんきじょうじ に任命されて召し出された。周處は言った。「古人は大きな官を辞しても小さな官は辞さない。」そこでまず楚に赴いた。その郡はすでに喪乱を経ており、新旧の住民が雑居し、風俗が統一されていなかったので、周處は教えと義をもって厚く導き、また主のない屍骸や野にある白骨を収めて葬った後、ようやく召し出しに応じた。遠近の人々はこれを称賛した。

近侍の職に就くと、多く規諫した。御史中丞に昇進し、糾弾するものはすべて、寵臣や外戚をも憚らなかった。梁王司馬肜が法に違反したので、周處は厳しく文書で取り調べた。 てい 族の齊萬年が反乱を起こすと、朝臣たちは周處の強直さを嫌い、皆言った。「周處は呉の名将の子であり、忠烈で果断剛毅である。」そこで夏侯駿の配下として西征させた。伏波將軍孫秀は彼が死ぬことを知り、言った。「あなたには老母がいる。これを理由に辞退できる。」周處は言った。「忠と孝の道は、どうして両全できようか!すでに親に別れて君に仕えた以上、父母はどうして再び子として遇せられようか。今日は私の死ぬべき場所である。」齊萬年はこれを聞いて言った。「周府君(周處)はかつて新平に臨んだ時、私はその人となりを知っている。文武の才を兼ね備え、もし専断して来るならば、敵う者はいない。もし人の制を受けるならば、これは捕らえられるだけだ。」やがて梁王司馬肜が征西大将軍・ 都督 ととく 関中諸軍事となった。周處は司馬肜が不満を持っていることを知り、必ずや自分を陥れるだろうと思ったが、人臣として節を尽くすべきであり、辞退したり恐れたりすべきではないと考え、悲壮な慨嘆をもって出発し、生きて帰ることを志さなかった。中書令陳准は司馬肜が宿怨を晴らそうとしていることを知り、朝廷に言った。「夏侯駿と梁王はともに貴戚であり、将帥の才ではない。進んでも名声を求めず、退いても過失を恐れない。周處は呉の人で、忠勇果断剛勁であるが、怨みを持たれ援けがない。必ずや身を滅ぼすだろう。孟観に精兵一万を与えて周處の前鋒とすべき 詔 を下し、そうすれば必ずや賊を殲滅できる。そうでなければ、司馬肜は周處を先鋒に立てるだろうが、その敗北は必定である。」朝廷は従わなかった。当時、賊は梁山に駐屯し、七万の兵を有していたが、夏侯駿は周處に五千の兵でこれを撃つよう迫った。周處は言った。「軍に後続がなければ、必ずや覆滅に至る。たとえ身を滅ぼすことになろうとも、国に恥を取らせることになる。」司馬肜はさらに周處に進軍討伐を命じ、そこで振威將軍盧播・雍州 刺史 しし 解系と共に六陌で齊萬年を攻撃した。戦おうとする時、周處の軍兵はまだ食事をしておらず、司馬肜は速やかに進軍するよう促し、その後続を断った。周處は必ず敗れると知り、詩を賦して言った。「去り去りて世事已に、策馬して西戎を観る。藜藿も粱黍を甘んじ、期して克く令終をせん。」言い終わって戦い、朝から夕方まで、斬首は万を数えた。弦は尽き矢は尽き、盧播と解系は救援しなかった。左右の者が退却を勧めたが、周處は剣を押さえて言った。「これこそ私が節を尽くし命を授ける日である。どうして退くことがあろうか!かつて古の良将は命を受け、凶門を穿って出た。進むことはあっても退くことはなかったのである。今、諸軍は信義に背き、勢いは必ず振るわない。私は大臣として、身をもって国に殉ずる。それもまた良くないか!」そこで力戦して戦死した。平西將軍を追贈され、銭百万が賜られ、葬地一頃、京城の地五十畝が邸宅用地として与えられ、また王家の近くの田五頃が賜られた。 詔 して言った。「周處の母は年老いており、遠方の者であるので、朕は常に哀れみ思う。医薬と酒米を与え、天寿を全うさせるようにせよ。」

周處は『黙語』三十篇と『風土記』を著し、また『呉書』を編纂した。当時、潘岳は 詔 を受けて『関中詩』を作り、その中で言った。「周(處)は師の令に殉じ、身は齊斧(刑戮)の膏(あぶら)と化す。人の云う亡きや、貞節克く挙がる。」また、西戎 校尉 こうい 閻纘も詩を献上して言った。「周(處)はその節を全うし、令問已まず。身は云う雖も没すとも、名は良史に書かる。」元帝が しん 王となった時、周處に策諡を加えようとした。太常賀循が議して言った。「周處は徳を行い清く方正で、才量は高く抜きん出ている。四郡を歴任して守り、民を安んじ政を立てた。朝廷に入って百官を司り、貞節を曲げなかった。軍務においては身を致し、危険を見て命を授けた。これらはすべて忠賢の盛んな実績であり、烈士の遠大な節操である。諡法を案ずるに、徳を執りて回らざるを孝という。」そこでこの諡を贈った。三人の子があった。周玘、周靖、周劄である。周靖は早世し、周玘と周劄はともに名を知られた。

周處の長子 周玘

周玘は、字を宣佩という。強毅で沈着果断、父の風格があったが、文学の面では及ばなかった。門を閉ざして己を清く保ち、みだりに交遊せず、士や友人は皆その風采を望んで敬い畏れたので、一方で名が重かった。弱冠の時、州郡が任命しようとしたが、就任しなかった。 刺史 しし が初めて着任した時、別駕従事に召し出されたが、 刺史 しし が虚心に礼を尽くしたので、ようやく応命した。累次にわたって名高い宰相の府に推薦され、秀才に挙げられ、議郎に任じられた。

太安の初め、妖賊の張昌・丘沈らが江夏に徒党を集めると、百姓は帰するがごとくに従った。恵帝は監軍華宏にこれを討たせたが、障山で敗れた。張昌らは次第に勢いを盛んにし、平南將軍羊伊、鎮南大将軍・新野王司馬歆らを殺し、その所在する地で官軍を覆滅させた。張昌の別働隊の将帥封雲は徐州を攻め、石冰は揚州を攻め、 刺史 しし 陳徽は出奔したので、石冰はついに揚州の地をほぼ手中に収めた。周玘は密かに石冰を討とうと企て、ひそかに前南平内史王矩と結び、共に呉興太守顧秘を推して揚州九郡の軍事を 都督 ととく させ、江東の人士と共に義兵を起こし、石冰が置いた呉興太守區山と諸長史を斬った。石冰はその将 きょう 毒に数万の兵を率いさせて周玘を防がせたが、周玘は陣前に臨んで きょう 毒を斬った。当時、右將軍陳敏が広陵から兵を率いて周玘を助け、蕪湖で石冰の別働隊の将帥趙驡を斬り、そこで周玘と共に進軍して 建康 で石冰を攻撃した。石冰は北に逃れて封雲に投じたが、封雲の司馬張統が封雲と石冰を斬って降伏したので、徐州と揚州はともに平定された。周玘は功績に対する賞賜を言わず、兵を解散して家に帰った。

陳敏が揚州で反乱を起こすと、周玘を安豊太守に任じ、四品将軍の位を加えた。周玘は病気と称して赴任せず、密かに使者を遣わして鎮東将軍劉準に告げ、兵を起こして長江に臨ませ、自分が内応するので、髪を切って合図にすると伝えた。劉準は 寿春 におり、督護の衡彦に兵を率いて東進させた。当時、陳敏の弟の陳昶が広武将軍・歴陽内史であり、呉興の銭広を司馬としていた。周玘は密かに銭広をそそのかして陳昶を殺させた。周玘は顧栄、甘卓らと兵を挙げて陳敏を攻撃し、陳敏の軍勢は潰走し、単騎で北へ逃げたが、江乗の境界で捕らえられ、建康で斬られ、三族は滅ぼされた。東海王 司馬越 しばえつ はその名を聞き、参軍として召し出した。 詔 によって 尚書 郎、散騎郎に補任されたが、いずれも就任しなかった。元帝が初めて江左を鎮守した時、周玘を倉曹属とした。

初めに、呉興の人銭璯もまた義兵を起こして陳敏を討った。 司馬越 しばえつ は彼を建武将軍に任じ、配下を率いて京都に集まるよう命じた。銭璯が広陵に到着すると、 劉聡 りゅうそう が洛陽を脅かしていると聞き、臆病になって進もうとしなかった。帝が軍期を促すと、銭璯は謀反を企てた。当時、王敦は尚書に昇進し、召しに応じて銭璯と共に西上するはずであった。銭璯は密かに王敦を殺し、それを契機に挙兵しようとしたが、王敦はそれを聞き、駆けつけて帝に告げた。銭璯はそこで度支 校尉 こうい の陳豊を殺し、邸閣を焼き払い、自ら平西大将軍・八州 都督 ととく を称し、孫皓の子の孫充を脅迫して呉王に立てたが、やがて彼を殺した。そして周玘の県を襲撃した。帝は将軍の郭逸、郡尉の宋典らを派遣して討伐させたが、皆、兵が少ないことを理由に進もうとしなかった。周玘は再び郷里の義兵を糾合し、郭逸らと共に進軍し、銭璯を討って斬り、その首を建康に送った。

周玘は三度江南を平定し、王室の事業を回復させた。帝はその功績を称え、周玘を行建威将軍・呉興太守とし、烏程県侯に封じた。呉興は賊の乱の後で、百姓は飢饉に苦しみ、盗賊が公然と横行していたが、周玘は非常に威厳と恩恵があり、百姓は彼を敬愛し、一年の間に、管内は平穏になった。帝は周玘がたびたび義兵を起こし、功績と忠誠の両方が顕著であるとして、陽羨と長城の西郷、丹陽の永世を別に義興郡とし、その功績を顕彰した。

周玘の宗族は強盛で、人心が帰するところであったため、帝は彼を疑い恐れた。当時、中州の人士が王業を補佐していたが、周玘は自分が重用されないと思い、内心怨みを抱き、さらに刁協に軽んじられたため、恥辱と憤りがますます強くなった。当時、鎮東将軍祭酒の東萊の王恢もまた周顗に侮辱されており、そこで周玘と共に密かに執政者たちを誅殺し、周玘と戴若思を推して、諸々の南方の人士と共に帝を奉じて世の事を治めようと謀った。以前から、流民の首領の夏鉄らが淮水、泗水の地に寓居していた。王恢は密かに夏鉄に手紙を送り、兵を起こさせ、自分が周玘と共に三呉で呼応すると約束した。建興初年、夏鉄はすでに数百人の兵を集めていたが、臨淮太守の蔡豹が夏鉄を斬って報告した。王恢は夏鉄の死を聞き、罪を恐れて周玘のもとに逃げた。周玘は彼を殺し、豚小屋に埋めた。帝はこれを聞いて秘匿し、周玘を鎮東司馬に召し出した。着任前に、また建武将軍・南郡太守に改めて任命した。周玘が南へ赴く途中、蕪湖に至った時、また命令が下った。「周玘は代々忠烈で、義と誠が顕著であり、孤が欽慕喜ぶところである。今、軍諮祭酒とし、将軍は元のままとし、爵位を公に進め、俸禄と役人の配置はすべて開国の例と同じとする。」周玘は任命の変更に憤り、また自分の謀略が漏れたことを知り、憂い憤って背中に腫れ物ができて死去した。時に五十六歳であった。死に臨んで、子の周勰に言った。「私を殺したのはあの傖子どもだ。復讐できるなら、それは我が子である。」呉人は中州の人を「傖」と言ったので、こう言ったのである。輔国将軍を追贈し、諡は忠烈といった。子の周勰が後を嗣いだ。

周玘の子 周勰

周勰は字を彦和という。常に父の言葉を心に留めていた。当時、中国で官を失い守りを失った士人で避乱して来た者は、多くが顕位に居り、呉人を支配したため、呉人は甚だ怨んだ。周勰はこれに乗じて兵を起こそうとし、密かに呉興郡功曹の徐馥と結んだ。徐馥の家には私兵がおり、周勰は徐馥に叔父の周札の命令と偽って兵を集めさせた。豪侠で乱を好む者はたちまちこれに従い、 王導 と刁協を討つことを名目とした。孫皓の一族の孫弼もまた広徳で兵を起こしてこれに呼応した。徐馥は呉興太守の袁琇を殺し、数千の兵を擁し、周札を主君として奉じようとした。当時、周札は病気で家に帰っており、これを聞いて大いに驚き、義興太守の孔侃に乱のことを告げた。周勰は周札が同意しないと知り、兵を起こすことができなかった。徐馥の仲間は恐れ、徐馥を攻めて殺した。孫弼の兵もまた潰走し、宣城太守の陶猷がこれを滅ぼした。元帝は周氏が代々豪族として声望があり、呉人の宗仰するところであるため、徹底的に追及せず、以前のように慰撫した。周勰は周札に責められ、失意して家に帰り、淫らで奢侈にふけり放縦であった。常に人に言った。「人生はどれほどの時があるというのか、ただ快く思うままに振る舞うべきだ。」臨淮太守の任で終わった。

周勰の弟 周彝

周勰の弟の周彝は、若くして名を知られ、元帝が丞相掾に辟召したが、早世した。

周処の末子 周札

周札は字を宣季という。性格は傲慢で険しく利を好み、外見は堂々としているが内面は弱く、若い頃から豪族として振る舞い、州郡からの辟召や任命にはいずれも応じなかった。孝廉に察挙され、郎中、大司馬斉王司馬冏の参軍に任じられた。出て句容県令を補任され、呉国の上軍将軍に転じた。東海王 司馬越 しばえつ の参軍に辟召されたが、就任しなかった。銭璯討伐の功により、漳浦亭侯の爵位を賜った。元帝が丞相となった時、周札を寧遠将軍・歴陽内史に上表したが、赴任せず、転じて從事中郎となった。徐馥が平定された後、周札を奮武将軍・呉興内史とし、前後の功績を記録し、東遷県侯に改封し、征虜将軍の号を進め、揚州江北の軍事を監し、東中郎将として塗中に鎮したが、赴任せず、転じて右将軍・ 都督 ととく 石頭水陸軍事となった。周札は足の病気があり、拝礼に耐えられず、長年にわたって固辞したが、有司が弾劾上奏したため、やむを得ず職務に就いた。 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

王敦が兵を挙げて石頭を攻撃すると、周札は門を開いて王敦に呼応したため、官軍は敗北した。王敦は周札を光禄勲に転じ、まもなく尚書を補任した。しばらくして、右将軍・ 会稽 内史に転じた。当時、周札の兄の周靖の子の周懋は晋陵太守・清流亭侯、周懋の弟の周筵は征虜将軍・呉興内史、周筵の弟の周賛は大将軍從事中郎・武康県侯、周賛の弟の周縉は太子文学・都郷侯、次兄の子の周勰は臨淮太守・烏程公であった。周札の一門は五侯を出し、皆が列位にあり、呉の士人の中で貴盛な者は、彼らに比べる者がなく、王敦は深く忌み恐れた。後に周筵が母の喪に服すと、送る者が数千人に及び、王敦はますます恐れた。王敦が病気になった時、銭鳳は周氏の宗族が強く、沈充と権勢が互角であることから、沈充に身を寄せ、周氏を滅ぼして、沈充に揚州の地で専権を得させようと謀り、王敦に説いた。「国を持つ者は強勢な者に脅かされることを憂える。古来、禍難は常に必ずこれから起こる。今、江東の豪族で周氏、沈氏より強い者はない。公が万世の後、この二族は必ず静かではあるまい。周氏は強くて多くの俊才を有する。先んじて手を打つべきである。そうすれば後嗣は安泰となり、国家は保たれるであろう。」王敦はこれを受け入れた。当時、道士の李脱という者がおり、妖術で大衆を惑わし、自ら八百歳であると言い、故に李八百と号した。中州から建鄴に至り、鬼道で病気を治し、また人に官位を授け、当時の人は多くこれを信じて仕えた。弟子の李弘は灊山で徒党を養い、讖に応じて王となるべきであると言った。そこで王敦は廬江太守の李恆に命じて、周札とその諸々の兄の子たちが李脱と共に不軌を謀っていると告発させた。当時、周筵は王敦の諮議参軍であり、すぐに陣営の中で周筵と李脱、李弘を殺した。また参軍の賀鸞を派遣して沈充のもとに行かせ、周札の兄弟の子たちをことごとく襲撃して殺させ、その後、軍を進めて会稽に至り、周札を襲撃した。周札は最初は知らず、突然兵が来たと聞き、麾下の数百人を率いて出て防戦したが、兵は散り散りになり、殺された。周札は性来、財を貪り色を好み、ただ家産を営むことに専念していた。兵が来た日、武器庫には精良な武器があったが、外から兵士に配るよう申し出ると、周札はまだ惜しんで与えず、粗悪なものを渡した。その鄙吝さはこのようなものであり、だから兵卒たちは彼のために力を尽くそうとしなかった。

王敦が死ぬと、周劄と周莚の旧臣たちがそろって朝廷に赴き、周氏の冤罪を訴え、贈官と諡号を加えるべきだと主張した。事案は八座に下され、尚書の卞壺は議して「周劄は石頭の戦いで城門を開いて賊を招き入れ、ついに賊の王敦に暴乱をほしいままにさせた。これは周劄の責めである。追贈することは妥当でない。周懋と周筵の兄弟は本来の官位に復すべきである」とした。 司徒 しと の王導は議して「周劄は石頭において、 社稷 しゃしょく を思う忠誠があり、身を捨てる義があった。往年の事件については、臣ら有識者以上は、周劄の心情とどうして異なることがあろうか。この言葉は実際に聖上のご明察に通じている。論者は奸逆の心がすでに明らかになったのを見て、往年すでに不臣の兆しがあったと責めようとする。たとえそうであったとしても、当時はまだ人々が悟っていなかったのである。その奸悪な芽生えを悟ってからは、周劄と臣らは身を国に捧げ、死して後已む覚悟であった。周劄もまた間もなく誅殺された。朝廷の檄文が下り、大事が定まった後、すぐに逆党として正された。邪と正がその場を失い、進退のよりどころがなく、まことに国家の体面として深く惜しむべきである。臣は周顗や戴若思などと同様に扱うべきであると考える」とした。 尚書令 しょうしょれい の郗鑒は議して「褒貶や善悪の評価は、その本質を明らかにし、先例に通じるようにすべきである。今、周顗と戴若思は死節によって官位を回復し、周劄は城門を開いたことで同様に扱おうとしている。事は異なるのに賞は同じであり、疑問を抱かざるを得ない。 司徒 しと の議のごとく、往年の事件については有識者以上は皆周劄と異ならないというなら、これは邪と正がはっきりと存在するということである。昔、宋の文公が礼を失った時、華楽は不臣の罰を受けた。斉の霊公が寵愛した孽臣に対し、高厚は暗君に従った罪で誅殺された。古を以て今に比べるなら、譙王(司馬承)と周顗、戴若思はこのような責めを受けるべきであり、どうして贈官や復位などありえようか。今、すでに明らかに復位した者に基づけば、周劄は貶責されるべきであることは明らかである」とした。王導は重ねて議して「令君(郗鑒)の議を拝見するに、必ずや周劄の城門開放と譙王、周顗、戴若思の場合は異なるとお考えのようだ。今、周劄の城門開放は、単なる風説から出たもので、果たして事実だったのか。風説だけで褒貶を定めるなら、心情を推し量り証拠を考察する方がまさっている。論者は周劄が劉隗や刁協の乱政を知り、王敦がこれを匡正救おうとしていると信じたという。もし匡救が真実であり、奸佞が除かれるなら、いわゆる四凶の族を流して君主の偉大な功績を高めることにほかならない。そうであれば、これこそ周劄が 社稷 しゃしょく に忠誠を尽くした所以である。後に王敦が思いがけず悖逆を起こした時、周劄もまた一族を挙げてこれに与せず、これによって滅族された。これは義のために死んだのである。当時の王敦の匡救を信じ、将来の大逆を図らず、劉隗や刁協の乱政を憎み、臣下としての貞節を失わなかった者として、当時の朝士で周劄だけだっただろうか。もし皆不忠とみなすなら、譙王や周顗、戴若思を誣いることになる恐れがある。各々死をもって国を守った。これもまた人臣の節操である。ただ見解に同異があるだけで、必ず忠であることを期した点では同じであるから、申し述べて明らかにすべきなのである。今、君の議によれば、宋の華楽や斉の高厚は劉隗や刁協の立場にあることになる。昔、子糾の難に際し、召忽はこれに殉死し、管仲は死ななかった。もし死ぬことを賢とすれば、管仲は貶されるべきである。もし死なないことを賢とすれば、召忽の死は過ちとなる。先人の典籍はなぜ両方を称えるのか。忠誠の心情が同じであることを明らかにしているからである。死は忠の一つの側面ではあるが、忠である者が皆死なねばならないわけではない。漢の高祖の遺訓に、劉氏でなければ王にせず、功臣でなければ侯にせず、これに違えば天下共にこれを誅す、とある。後に呂后が諸呂を王とした時、周勃はこれに従い、王陵は朝廷で争った。これを忠と言わないことができようか。周勃が諸呂を誅し文帝を尊び、漢の 社稷 しゃしょく を安んじた忠はこれ以上なく、王陵など言うに足りないが、前史は両方を美談としている。死ぬことと死なぬこと、争うことと争わぬことは、心情を推し量り意図を尽くして見れば、一概に定めることはできないと知られる。かつ周劄は棺を蓋いて諡が定まり、逆党に背き順臣として、凶邪の徒に殺された。忠義に背かなかったことは明らかである」とした。郗鑒はまた異論を駁したが、朝廷はついに王導の議に従い、周劄を衛尉に追贈し、使者を遣わして少牢で祭祀を行った。

周劄の子 周澹

周劄の長子の周澹は、太宰府の掾となった。次子の周稚は孝廉に察挙されたが、就任しなかった。

周劄の従子 周筵

周筵は卓越した才能と幹略を持ち、征虜将軍・呉興太守に任じられ、黄門侍郎に転じた。徐馥の乱の時、周筵の族兄の周續もまた兵を集めてこれに応じた。元帝は討伐を議したが、王導は「兵が少なければ賊を制圧できず、多く派遣すれば根本が空虚になる。黄門侍郎の周筵は忠烈至誠で、一郡の人々から敬われている。直ちに周筵を派遣するだけで、周續を殺すのに十分であると考える」と言った。そこで 詔 により力士百人を周筵に与え、軽騎で陽羨に帰還させた。周筵は即日道を取り、昼夜兼行で進んだ。郡に到着し、入ろうとした時、門で周續に出会った。周筵は周續に「君と共に孔府君(太守)の所へ行き、話し合おう」と言った。周續は入るのを拒んだが、周筵は無理に引っ張って共に行った。着席すると、周筵は太守の孔侃に言った。「府君はどうして賊を座に置いているのですか」。周續は衣の内に小刀を帯びており、すぐに刃を取って周筵を脅した。周筵は郡の伝教の呉曾を叱って「なぜ手を挙げないのか」と言った。呉曾は胆力があり、すぐに刀の環で周續を打ち殺した。周筵は続いて周勰をも誅殺しようとしたが、周劄が許さず、従兄の周邵に罪を負わせて誅殺した。周筵は家に帰って母に会おうとせず、すぐに長駆して去った。母は慌てふためいて彼を追った。その忠公ぶりはこのようなものであった。

太子右衛率に転じた。王敦が乱を起こすと、冠軍将軍・ 都督 ととく 会稽・呉興・義興・ しん 陵・東陽諸軍事を加えられ、水軍三千を率いて沈充を討つことになったが、出発しないうちに官軍が敗北した。周筵は周劄が城を開いて王敦を迎え入れたと聞き、憤慨し激昂の色を言葉と表情に表した。間もなく殺害された。王敦の乱が平定された後、周劄とともに官位を回復された。

初め、周筵は姑孰に五間の屋を建てたが、六本の梁が一度に跳ね出して地面に落ち、一つの梁だけが柱頭の零節の上に立った。非常に危うく、人の力ではこのようにはできないことであった。後に結局、一族は滅亡した。

周筵の弟 周縉

周筵の弟の周縉は、若い頃から品行が悪く、かつて建康の烏衣道で孔氏の婢に逢った。当時同僚二人と共に車に乗っており、すぐに左右の者に命じて婢を車に引き上げさせた。その強暴ぶりはこのようなものであった。

周訪

周訪は、字を士達といい、もとは汝南郡安城県の人である。漢末に江南に避難し、周訪で四代目となった。呉が平定されると、廬江郡尋陽県に家を定めた。祖父の周纂は、呉の威遠将軍であった。父の周敏は、左中郎将であった。周訪は若い頃から沈着で剛毅、謙虚で譲ることができ、決断力に富み、貧窮者を救済し困窮者を助けたため、家に余財がなかった。県の功曹となった時、 陶侃 とうかん が散吏であったが、周訪は彼を 主簿 に推薦し、互いに友となり、娘を 陶侃 とうかん の子の陶瞻に嫁がせた。周訪は孝廉に察挙され、郎中・上甲県令に任じられたが、いずれも赴任しなかった。同郷の者が墓所で周訪の牛を盗んで殺した。周訪はこれを見つけると、密かにその肉を埋め、人に知らせなかった。

元帝が長江を渡ると、鎮東軍事に参与するよう命じられた。当時、周訪と同じ姓名の者がおり、罪は死に当たったが、役人が誤って周訪を捕らえようとした。周訪は捕らえようとする者たちを奮撃し、数十人を皆散り散りに走らせ、自ら帝のもとに帰って罪を請うたが、帝は彼を罰しなかった。間もなく揚烈将軍に任じられ、兵一千二百を率いて尋陽の鄂陵に駐屯し、甘卓や趙誘とともに華軼を討った。配下の厲武将軍丁乾が、華軼配下の武昌太守馮逸と内通したので、周訪はこれを捕らえて斬った。馮逸が攻めて来ると、周訪は兵を率いてこれを撃破した。馮逸は柴桑に逃れて守りを固めた。周訪は勝ちに乗じて進軍討伐した。華軼はその与党の王約や傅劄ら一万余人を派遣して馮逸を助けさせ、湓口で大戦し、王約らはまた敗れた。周訪は甘卓らと彭沢で合流し、華軼の水軍の将の硃矩らと戦い、またこれを破った。華軼の将の周広が城を焼いて周訪に応じ、華軼の軍は潰走した。周訪は華軼を捕らえて斬り、こうして江州を平定した。

帝は周訪を振武将軍・尋陽太守とし、鼓吹と曲蓋を加えた。さらに周訪に諸軍とともに杜弢を征討するよう命じた。杜弢は桔槔を作って官軍の船艦を打ち、周訪は長岐棖を作ってこれに対抗し、桔槔は害をなすことができなかった。しかし賊は青草湖から密かに官軍を襲撃し、またその将の張彦を派遣して 章を陥落させ、城邑を焼き払った。王敦は当時湓口に駐屯していたが、督護の繆蕤と李恆を派遣して周訪の指揮下につけ、ともに張彦を攻撃させた。繆蕤は 章の石頭で張彦と交戦し、張彦の軍は退却した。周訪は麾下の将李午らを率いて張彦を追撃し、これを破り、戦場で張彦を斬った。このとき周訪は流れ矢に当たり、前歯二本を折ったが、顔色は変わらなかった。日が暮れて、周訪は賊と川を隔てて対峙した。賊の兵力は数倍であり、周訪は力では敵わないと悟った。そこで密かに樵夫のような格好をした者を派遣し、陣を整え太鼓を鳴らして進軍し、「左軍が到着した!」と大声で叫ばせた。兵士たちは皆万歳を唱えた。夜になると、軍中に多くの火を焚いて食事をさせた。賊は官軍の増援が来たと思い、夜明け前に退却した。周訪は諸将に言った。「賊は必ず退却するが、やがて我々に援軍がないと知れば、引き返して襲ってくるだろう。急いで川を渡って北岸に移るべきだ。」渡河を終え、橋を断ち切ると、賊は果たしてやって来たが、川を隔てて進むことができず、そこで湘州に帰還した。周訪は再び水軍を率いて湘城に赴き、軍は富口に達した。杜弢は杜弘を派遣して海昏から出撃させた。このとき湓口が騒然となったため、周訪は歩いて柴桑に上り、密かに渡河して賊と戦い、数百の首級を挙げた。賊は廬陵に退いて守りを固めた。周訪は追撃してこれを破り、賊は城に籠って自ら守備した。まもなく軍糧が賊に奪われたため、巴丘に退いて駐屯した。食糧が到着すると、再び廬陵で杜弘を包囲した。杜弘は城外に宝物を大量に投げ出した。兵士たちが競ってこれを拾ううちに、杜弘は陣が乱れた隙に包囲を突破して脱出した。周訪は軍を率いてこれを追撃し、得た鞍・馬・鎧・杖は数えきれなかった。杜弘は南康に入ったが、太守が兵を率いて迎撃し、またもこれを破り、臨賀に逃げた。帝はさらに周訪を龍驤将軍に進めた。王敦は彼を 章太守に上表した。征討 都督 ととく を加えられ、尋陽県侯の爵位を賜った。

そのとき梁州 刺史 しし の張光が死去した。湣帝は侍中の第五猗を征南大将軍とし、荊・梁・益・寧の四州を監察させ、武関から出させた。賊の頭目である杜曾・摯瞻・胡混らはともに第五猗を迎え、これを奉じて、数万の兵を集め、石城で 陶侃 とうかん を破り、宛で平南将軍の荀崧を攻めたが落とせず、兵を向けて江陵へ向かった。王敦は従弟の王暠を荊州 刺史 しし とし、督護の征虜将軍趙誘・ 襄陽 太守の硃軌・陵江将軍の黄峻らに杜曾を討伐させたが、女観湖で大敗し、趙誘と硃軌はともに戦死した。杜曾はついに王暠を追い払い、まっすぐに沔口に至り、大いに寇害をなして、江・沔の地に威を震わせた。元帝は周訪にこれを討たせた。周訪は八千の兵を擁し、沌陽に進軍した。杜曾らの勢いは非常に盛んであった。周訪は言った。「先んずれば人を奪う心あり、これ軍の善き謀りごとである。」将軍の李恆に左甄を監督させ、許朝に右甄を監督させ、周訪自らは中軍を率い、旗幟を高く掲げた。杜曾は果たして周訪を恐れ、まず左右の甄を攻撃した。杜曾の勇猛は三軍に冠たるもので、周訪はこれを非常に憎んだが、自ら陣の後方で雉を射って兵士たちの心を落ち着かせた。配下の兵士たちに命じて言った。「一つの甄が敗れたら、三つの太鼓を鳴らせ。二つの甄が敗れたら、六つの太鼓を鳴らせ。」趙胤は父の残兵を率いて左甄に属し、奮戦して、敗れてもまた集結した。趙胤は馬を駆って周訪に報告した。周訪は怒り、叱ってさらに進撃するよう命じた。趙胤は号泣して戦場に戻り、朝から申の刻(午後3~5時)まで戦い、両甄はともに敗れた。周訪は太鼓の音を聞くと、精鋭八百人を選び、自ら酒を酌んで彼らに飲ませ、むやみに動かないよう命じ、太鼓の音を聞いてから進撃するよう言い渡した。賊が三十歩まで近づかないうちに、周訪自ら太鼓を鳴らすと、将兵は皆躍り上がって突進し、杜曾はついに大敗し、千余人が討たれた。周訪は夜間にこれを追撃した。諸将は明日を待つよう請うたが、周訪は言った。「杜曾は ぎょう 勇でよく戦う。先ほどの敗戦は、彼が疲れ我々が休息していたからこそ勝てたのだ。その衰えに乗じて攻めるべきで、そうすれば滅ぼすことができる。」太鼓を鳴らして進軍し、ついに漢水・沔水の地を平定した。杜曾らは武当に逃げて籠城した。周訪は功績により南中郎将・梁州諸軍事 都督 ととく ・梁州 刺史 しし に昇進し、襄陽に駐屯した。周訪はその幕僚たちに言った。「昔、城濮の戦いで、晋の文公は得臣(楚の将)が死ななかったことを憂いの色を示した。今、杜曾を斬らなければ、禍難はまだ終わらない。」そこで不意を突いて、またもこれを撃破した。杜曾は逃走した。周訪の部将の蘇溫が杜曾を捕らえて軍に連行し、第五猗・胡混・摯瞻らをも捕らえ、王敦のもとに送った。また王敦に申し出て、第五猗は杜曾に脅迫されていたので殺すべきではないと説いた。しかし王敦は聞き入れずに彼らを斬った。周訪は安南将軍に進位し、持節、 都督 ととく 刺史 しし の職はもとのままとした。

初め、王敦は杜曾の難を恐れ、周訪に言った。「杜曾を捕らえたら、そなたを荊州 刺史 しし に取り立てよう。」ところがこの時になっても王敦は約束を果たさなかった。王廙が職を去ると、 詔 によって周訪を荊州の長官とすることになった。王敦は周訪が名将であり、勲功が重く大きいことを慮り、疑わしい顔色を示した。その從事中郎の郭舒が王敦を説得して言った。「弊州(荊州)は寇難に遭い荒廃していますが、実は武を用いるべき国です。もし他人に任せれば、尾大不掉の憂いが出ましょう。公ご自身が統領されるべきで、周訪には梁州で十分です。」王敦はこれに従った。周訪は大いに怒った。王敦は手紙を送って諭し、また玉環と玉碗を贈って厚意を示した。周訪は碗を地面に投げつけて言った。「私は商人の子ではない。宝物で喜ばせることができようか!」密かに王敦を除こうと図った。襄陽にあっては、農業に励み兵士を訓練し、意見の採用に勤め、守宰に欠員が出ればすぐに補充し、その後で上奏した。王敦はこれを憂慮したが、その強勢を恐れて、異を唱えることができなかった。周訪の威風はすでに顕著で、遠近の人々は喜んで服従し、智勇は人に優れ、中興の名将となった。性格は謙虚で、一度も自分の功績を論じたことがなかった。ある人が周訪に尋ねた。「人は小さな善行があっても、自ら称えない者はほとんどいません。あなたはこれほどの功勲があるのに、一言も言わないのはなぜですか。」周訪は答えた。「朝廷の威霊と将兵の奮闘によるもので、私に何の功があろうか。」士人はこのことで彼を重んじた。周訪は兵を訓練し士卒を精選し、中原に力を奮いたいと考え、李矩や郭默と結び、慨然として黄河・洛陽の地を平定する志を持っていた。人々を慰撫し受け入れることに長け、兵士たちは皆、命をかけて尽くした。王敦に不臣の心があると聞くと、周訪は常に歯ぎしりして憤った。王敦は逆謀を抱いていたが、もとより周訪が生きている間は敢えて悪事を働くことができなかった。

初め、周訪が若い頃、相術に優れた廬江の陳訓に会った。陳訓は周訪と 陶侃 とうかん について言った。「お二人とも方岳(地方長官)の位に至り、功名はほぼ同じでしょう。ただし陶公は上寿を得、周公は下寿を得ます。優劣はさらに年数によるでしょう。」周訪は 陶侃 とうかん より一歳年下で、太興三年に死去した。享年六十一。帝は非常に悲しみ、 詔 を下して征西将軍を追贈し、諡を壮とし、その本郡に碑を立てた。二人の子、周撫と周光がいた。

周訪の長子 周撫

周撫は字を道和という。強毅で父の風格があったが、将帥としての統率力は及ばなかった。元帝に召し出されて丞相掾となったが、父の喪のため官を去った。喪が明けると、爵位を継ぎ、鷹揚将軍・武昌太守に任じられた。王敦は彼を從事中郎に任命し、鄧嶽とともに王敦の手足となった。甘卓が殺害されると、王敦は周撫を沔北諸軍事・南中郎将とし、沔中に駐屯させた。王敦が叛逆を起こすと、周撫は二千人を率いてこれに従った。王敦が敗れると、周撫は鄧嶽とともに逃亡した。周撫の弟の周光は兄に物資を送ろうとしたが、密かに鄧嶽を殺そうとした。周撫は怒って言った。「私は伯山(鄧嶽の字)とともに逃亡しているのに、なぜまず私を斬らないのか!」ちょうど鄧嶽が到着したので、周撫は門を出て遠くから彼に言った。「なぜ急いで去らないのか!今、肉親でさえ互いに危害を加えようとしているのに、まして他人をどうしようか!」鄧嶽は船を回して逃げ、周撫はついに彼とともに西陽の蛮地に入り、蛮族の首長の向蠶が彼らを受け入れた。初め、鄧嶽が西陽にいた時、諸蛮を討伐しようとしたため、この時諸蛮は皆怨んで、彼を殺そうとした。向蠶は聞き入れず、言った。「鄧府君が困窮して私に帰ってきたのだ。どうして忍んで殺せようか!」このおかげで二人とも難を免れた。翌年、 詔 によって王敦の党与は赦され、鄧嶽と周撫は宮廷に出向いて罪を請うた。 詔 によって彼らは禁錮の刑に処せられた。

咸和の初め、 司徒 しと の王導が周撫を従事中郎とし、出向させて寧遠将軍・江夏相とした。蘇峻が叛逆を起こすと、率いる所領を率いて温嶠に従いこれを討伐した。蘇峻が平定されると、監沔北軍事・南中郎将に転任し、襄陽を鎮守した。 石勒 せきろく の将郭敬が騎兵を率いて周撫を攻撃し、周撫は守りきれず、率いる所領を率いて武昌に逃れ、官を免ぜられた。まもなく振威将軍・ 章太守に転任し、後に毋丘奧に代わって巴東諸軍事を監察し、益州 刺史 しし ・仮節となり、将軍の位は元のままとした。まもなく征虜将軍に進み、寧州諸軍事の 都督 ととく を加えられた。永和の初め、 桓温 が蜀を征伐すると、周撫を進めて梁州の漢中・巴西・梓潼・陰平の四郡軍事を 都督 ととく させ、彭模を鎮守させた。周撫は蜀の残党の賊寇である隗文・鄧定らを撃破し、偽の尚書 僕射 ぼくや 王誓・平南将軍王潤を斬り、功績により平西将軍に転任した。隗文・鄧定らが再び反乱を起こし、範賢の子の範賁を皇帝として立てた。初め、範賢は 李雄 りゆう の国師となり、左道で百姓を惑わし、多くの人が彼に仕えたため、範賁は遂に一万の兵を得た。周撫は龍驤将軍の朱燾と共にこれを撃破して斬り、功績により建城県公の爵位に進んだ。征西督護の蕭敬文が乱を起こし、征虜将軍の楊謹を殺害し、涪城を占拠して自ら益州牧と称した。桓温は督護の鄧遐に命じて周撫を助けさせてこれを討伐させたが、陥落させることができず、退却した。桓温はまた梁州 刺史 しし の司馬勳らに命じて周撫と合流させてこれを討伐させた。蕭敬文は堅固に守り、二月から八月に至るまで、ようやく出て降伏したので、周撫はこれを斬り、首を京師に伝送した。升平年間、鎮西将軍に進んだ。州に在ること三十余年、興寧三年に卒去し、征西将軍を追贈され、諡を襄といった。子の周楚が後を嗣いだ。

周撫の子 周楚

周楚は字を元孫という。初め征西軍事に参じ、父に従って蜀に入り、鷹揚将軍・犍為太守に任ぜられた。父が卒去すると、周楚を梁・益二州を監察させ、仮節を与え、建城公の爵位を襲封させた。代々梁・益に在り、非常に人心を得た。時に梁州 刺史 しし の司馬勳が叛逆を起こすと、周楚は朱序と共にこれを討伐平定し、冠軍将軍に進んだ。太和年間、蜀の盗賊の李金銀、広漢の妖賊の李弘が共に兵を集めて賊寇となり、偽って 李勢 の子と称し、聖道王となるべきとし、年号を鳳皇とした。また隴西の人李高が偽って 李雄 りゆう の子と称し、涪城を陥落させた。梁州 刺史 しし の楊亮が守りを失うと、周楚はその子の周詩を派遣してこれを平定させた。この年、周楚は卒去し、諡を定といった。子の周瓊が後を嗣いだ。

周瓊は剛毅で烈しく将略があり、数郡を歴任し、楊亮に代わって梁州 刺史 しし ・建武将軍となり、西戎 校尉 こうい を兼任した。初め、 てい 人の竇沖が降伏を求めたので、朝廷は彼を東 きょう 校尉 こうい とした。後に竇沖が反乱を起こし、漢中に入ろうとし、安定の人皇甫釗、京兆の人周勳らが竇沖を迎え入れようと謀ったが、周瓊は密かにこれを知り、皇甫釗・周勳らを捕らえて斬った。まもなく卒去した。子の周虓が後を嗣いだ。

周楚の子 周虓

周虓は字を孟威という。若い頃から節操があった。州から召されて祭酒となり、後に歴任して西夷 校尉 こうい に至り、梓潼太守を兼任した。寧康の初め、 苻堅 の将の楊安が梓潼を侵寇し、周虓は涪城を堅守し、歩騎数千を派遣し、母と妻を漢水に沿って江陵に送り届けようとしたが、苻堅の将の朱肜に遮られて捕らえられ、周虓は遂に楊安に降伏した。苻堅は彼を尚書郎にしようとしたが、周虓は言った。「国恩に浴して今日に至りました。しかし老母が捕らえられ、ここで節を失いました。母子共に命が助かったのは、秦の恵みです。公侯の貴き地位といえども、栄誉とは思わず、まして郎官の任などどうでしょうか。」苻堅はやめた。これ以後、苻堅に謁見するたびに、いつも足を投げ出して座り、彼を てい 賊と呼んだ。苻堅は快く思わなかった。元会の儀式に際し、威儀が非常に整っていたので、苻堅は周虓に言った。「晋の元会はこれに比べてどうか。」周虓は袖をまくり上げて声を荒げて言った。「戎狄が集まるのは、犬や羊が群れをなすようなもので、どうして天子と比べられようか。」呂光が西域を征伐する時、苻堅は見送りに出て、兵士二十万、旌旗数百里に及び、また周虓に言った。「朕の軍勢はどうか。」周虓は言った。「戎狄が現れて以来、これほどのものはありません。」苻堅の側近は周虓が不遜であるとして、しばしば誅殺を請うた。苻堅はますます厚く遇した。周虓は密かに桓沖に手紙を送り、賊の奸計を説いた。太元三年、周虓は密かに漢中に至ったが、苻堅に追跡されて捕らえられた。後にまた苻堅の兄の子の苻苞と謀って苻堅を襲撃しようとしたが、事が漏れ、苻堅は周虓を引き出してその様子を問うた。周虓は言った。「昔、漸離や 讓は、燕や智伯の微臣でありながら、なお漆を身に塗り炭を呑み、忠節を忘れませんでした。まして周虓は代々晋の恩を受け、どうして忘れられましょう。生きては晋の臣、死しては晋の鬼、さらに何を問うことがありましょうか。」苻堅は言った。「今彼を殺せば、かえってその名を成すことになる。」そこで鞭打ち、太原に移した。後に苻堅がまた順陽・魏興を陥落させ、二人の太守を捕らえたが、皆節を執って撓まず、苻堅は嘆いて言った。「周孟威は前に屈せず、丁彦遠は後に己を潔くし、吉祖沖は食を絶って死んだ。皆忠臣である。」

周虓は遂に病により太原で卒去した。その子の周興がその喪を迎えに来て、冠軍将軍の謝玄が自ら臨んでこれを哭し、上疏して言った。「臣は聞きます。善を表彰し功を表し、義を崇め節を明らかにするのは、声教を振るい起こし、美を来葉に垂れるためであると。故に西夷 校尉 こうい ・梓潼太守の周虓は、心に忠烈を執り、賊庭において節を励まし、遂に禍いに陥り荒裔に斃れ、痛ましくも泉下に葬られました。臣は常にその志を悲しみ、蘇武の賢さもこれ以上ではあるまいと思いました。先に へい 州に告げて、周虓の喪を訪ね求め、その家族も探させました。数千里の重荷を負って、ようやくここに来ることができました。直ちに資金を送り、その旧い墓所に還しました。伏して願わくは聖朝がその志心を追い、その殊なる節を表し、霜を負う志が地に墜ちることなからしめられれば、栄誉は存亡を慰め、恵みは幽顕に及ぶでしょう。」孝武帝は 詔 して言った。「周虓は志を励まし貞亮であり、古の烈士に愧じない。身を抜くに及ばず、あえなくその命を落とした。義節を顕彰するのは、国の典である。龍驤将軍・益州 刺史 しし を追贈し、賻として銭二十万、布百匹を与える。」またその家に賜物を与えた。

周訪の次子 周光

周光は若い頃から父の風格があり、十一歳の時、王敦に会い、王敦が言った。「貴郡には将がいないが、誰を用いることができるか。」周光は言った。「明公が下問を恥とされないので、ひそかにこれに勝る者はいないと思います。」王敦は笑って寧遠将軍・尋陽太守とした。王敦が挙兵すると、周光は千余人を率いてこれに赴いた。到着した時、王敦は既に死んでいたが、周光はそれを知らず、王敦に会見を求めた。王応は秘密にして言わず、病気と告げた。周光は退いて言った。「今私は遠くから来たのに王公に会えない。公は死んだのか。」急いでその兄の周撫に会って言った。「王公は既に死んだ。兄はなぜ銭鳳と賊をなすのか。」一同は皆愕然とした。その夜、兵は散り、銭鳳は逃げ出し、闔廬洲に至ったので、周光は銭鳳を捕らえ、宮闕に詣でて罪を贖い、故に廃されずに済んだ。蘇峻が叛逆を起こすと、温嶠に従って力戦し功績があった。蘇峻が平定されると、曲江男の爵位を賜り、官のまま卒去した。

周光の子 周仲孫

子の周仲孫は、興寧の初めに寧州軍事を 都督 ととく し、振武将軍・寧州 刺史 しし となった。州において貪暴で、人々はその命に堪えられなかった。桓温は梁・益に賊寇が多いこと、周氏が代々威名があることを理由に、また周仲孫を除して益・ ・梁州の三郡を監察させた。寧康の初め、楊安が蜀を侵寇し、周仲孫は守りを失い、官を免ぜられた。後に光禄勳に徴され、卒去した。

初め、 陶侃 とうかん が微賤の時、父母の喪に服し、葬ろうとしたが、家中の牛が突然いなくなりどこにあるか分からなくなった。一人の老人に会い、言った。「前の丘に一頭の牛が山の窪みで眠っているのを見た。その地に葬れば、位は人臣の極みに至るだろう。」また一つの山を指して言った。「これも次善の地で、代々二千石が出るだろう。」言い終わると見えなくなった。 陶侃 とうかん は牛を探して見つけ、その場所に葬り、指さされた別の山を周訪に与えた。周訪の父が死んだ時、そこに葬ったところ、果たして 刺史 しし となり、寧州・益州に称えられ、周訪以下、三代にわたり益州を治めること四十一年、その言った通りであった。

史評

史臣が言う。仁義に常があるだろうか。それを実践すれば君子であり、背けば小人である。周子隠(周処)は放縦な才能を持ち、束縛されない行いをし、凶暴な蛟竜や猛獣に譬えられ、郷里に毒を振るったが、ついに己を克服し精神を奮い立たせ、朝に聞いて夕に改め、生命を軽んじて義を重んじ、国のために身を捧げて死んだ。志操と節義の士と言えよう。宣佩(周札)はこの忠勇を奮い起こし、たびたび妖気を滅ぼし、威略は当朝で第一となり、功績は王府に記録された。その後、朝廷の宰相に恨みを結び、ひそかに異心を抱き、憤りに駆られて難を考えず、これは狭量であった。ついに憤慨して死んだのは、惜しむべきではないか。周劄・周筵らは俊逸の才を持ち、雄豪を自任し、初めは朝廷に疑われ、終には権力者に罪を得た。強い者が弱い者に及ばないのは、確かに証拠がある。そして周劄は城を守る任を受けたのに、門を開いて賊を招き、順を去って逆に従った。彼にその実があった。後に凶徒の手を借りたとはいえ、罪人が得られたと言える。朝廷が栄誉ある追贈を加えようと議したのは、僭越ではなかったか。晋の刑罰と政治が衰えたのは、このような道によるのである。周訪は文武の器量を兼ね、任は敵を撃退することにあり、湘州・羅県を平定し、江・漢を清め、孫を謀り子を助け、節を杖し旄を擁し、西蜀はその威風を仰ぎ、中興の名将として推された。功を成し名を立てたことは、美しいことではないか。孟威は虜の朝廷に身を置き、偽りの君主に対して堂々と意見を述べた。図や史書に記されるものでも、これ以上に何を加えられようか。