晉書

卷五十六 列傳第二十六

卷五十六 列傳第二十六

晉書

原文晉書

卷五十六 列傳第二十六

原文卷五十六 列傳第二十六 ► 卷五十七

江統

原文江統

江統は、字あざなを應元といい、陳留郡圉県の人である。祖父の江蕤は、義行で知られ、譙郡太守となり、亢父男に封ぜられた。父の江祚は、南安太守であった。江統は沈黙寡言で遠大な志を持ち、当時の人は彼について「毅然として稀にしか話さぬ江應元」と言った。同郷の蔡克とともに名を知られた。父の爵位を継ぎ、山陰県令に任ぜられた。当時、関隴地方はしばしば氐や羌に悩まされ、孟観が西方討伐に赴き、自ら氐の首領である齊萬年を捕らえた。江統は、四夷が華夏を乱すことを深く憂慮し、その芽を摘むべきであると考え、『徙戎論』を作った。その文章は次のとおりである。

原文江統,字應元,陳留圉人也。祖蕤,以義行稱,為譙郡太守,封亢父男。父祚,南安太守。統靜默有遠志,時人為之語曰:「嶷然稀言江應元。」與鄉人蔡克俱知名。襲父爵,除山陰令。時關隴、屢為氐、羌所擾,孟觀西討,自擒氐帥齊萬年。統深惟四夷亂華,宜杜其萌,乃作《徙戎論》。其辭曰:

夷・蠻・戎・狄を四夷といい、九服の制度では、その地は要服・荒服にある。『春秋』の大義は、諸夏を内とし、夷狄を外とすることである。それは、言語が通じず、貢ぎ物が異なり、法や習俗が奇怪で、種族がかけ離れているからである。あるいは絶域の外、山河の彼方、険しい川や谷、阻害の地に住み、中国とは土地が断絶し隔てられており、互いに侵し合うこともなく、賦役も及ばず、正朔も加えられない。ゆえに「天子に道あれば、四夷を守る」というのである。禹が九土を平定したとき、西戎はすぐに服従した。その性質は貪婪で、凶暴で仁愛がなく、四夷の中でも戎狄が最も甚だしい。弱ければ畏れて服従し、強ければ侵攻して叛く。たとえ賢聖の世、大徳の君であっても、皆、通化して導き、恩徳で柔和に懐柔することはできなかった。彼らが強いときには、殷の高宗でさえ鬼方に疲弊し、周の文王でさえ昆夷・獫狁に悩まされ、高祖は白登に困り、孝文帝は霸上に軍を駐めた。彼らが弱いときには、周公は九訳の貢ぎ物を受け、中宗(漢宣帝)は単于の朝貢を受け入れ、元帝・成帝の微弱な時代でさえ、なお四夷は賓服した。これが既に現れた効果である。ゆえに匈奴が辺塞を守ることを求めたとき、侯應はそれができないと陳べ、単于が未央宮で屈膝したとき、蕭望之は臣としないことを議した。このように、道ある君主が夷狄を治めるには、ただ彼らに対して備えを持ち、防禦に常道を保つことである。たとえ額を地につけて貢ぎ物を捧げても、辺境の城は堅固な守りを緩めず、寇賊として強暴であっても、兵甲を遠征に加えず、ただ国内が安寧を得、国境が侵されないことを期するだけである。

原文夫夷蠻戎狄,謂之四夷,九服之制,地在要荒。《春秋》之義,內諸夏而外夷狄。以其言語不通,贄幣不同,法俗詭異,種類乖殊;或居絕域之外,山河之表,崎嶇川穀阻險之地,與中國壤斷土隔,不相侵涉,賦役不及,正朔不加,故曰「天子有道,守在四夷」。禹平九土,而西戎即敘。其性氣貪婪,凶悍不仁,四夷之中,戎狄為甚。弱則畏服,強則侵叛。雖有賢聖之世,大德之君,咸未能以通化率導,而以恩德柔懷也。當其強也,以殷之高宗而憊于鬼方,有周文王而患昆夷、獫狁,高祖困于白登,孝文軍於霸上。及其弱也,周公來九譯之貢,中宗納單于之朝,以元成之微,而猶四夷賓服。此其已然之效也。故匈奴求守邊塞,而侯應陳其不可,單于屈膝未央,望之議以不臣。是以有道之君牧夷狄也,惟以待之有備,禦之有常,雖稽顙執贄,而邊城不弛固守;為寇賊強暴,而兵甲不加遠征,期令境內獲安,疆埸不侵而已。

周王室が統治を失うに及んで、諸侯が専ら征伐を行い、大が小を併せ、互いに滅ぼし合い、封疆は固まらず、利害は心を異にした。戎狄はその隙に乗じて、中国に入り込むことができた。ある者は招き誘い、安撫して、自らのために利用した。ゆえに申・繒の禍は、宗周を覆し、襄公が秦を要請したとき、たちまち姜戎が興った。春秋の時代には、義渠・大荔は秦・晉の地域に居り、陸渾・陰戎は伊・洛の間に処し、鄋瞞の類は済東に害を及ぼし、齊・宋に侵入し、邢・衛を陵虐し、南夷と北狄が中国を交々に侵し、その勢いは絶え間ない糸のようであった。齊の桓公がこれを攘い、滅びた国を存続させ、絶えた家系を継がせ、北伐して山戎を討ち、燕への道を開いた。ゆえに仲尼(孔子)は管仲の力を称え、左衽(夷狄の服)を改めさせた功績を賞賛した。春秋の末に至り、戦国時代が盛んになると、楚は蠻氏を併呑し、晉は陸渾を滅ぼし、趙の武霊王は胡服を採用し、榆中の地を開き、秦は咸陽で雄となり、義渠などを滅ぼした。始皇帝が天下を併合したとき、南は百越を併せ、北は匈奴を退け、五嶺と長城に、戎卒を億単位で配置した。兵役は煩雑で盛大であり、寇賊は横暴であったが、一世の功績として、戎虜は奔走退却し、当時の中国にはもはや四夷はいなかった。

原文及至周室失統,諸侯專征,以大兼小,轉相殘滅,封疆不固,而利害異心。戎狄乘間,得入中國。或招誘安撫,以為己用。故申、繒之禍,顛覆宗周;襄公要秦,遽興姜戎。當春秋時,義渠、大荔居秦、晉之域,陸渾、陰戎處伊、洛之間,鄋瞞之屬害及濟東,侵入齊、宋,陵虐邢、衛,南夷與北狄交侵中國,不絕若線。齊桓攘之,存亡繼絕,北伐山戎,以開燕路。故仲尼稱管仲之力,嘉左衽之功。逮至春秋之末,戰國方盛,楚吞蠻氏,晉翦陸渾,趙武胡服,開榆中之地,秦雄咸陽,滅義渠之等。始皇之並天下也,南兼百越,北走匈奴,五嶺長城,戎卒億計。雖師役煩殷,寇賊橫暴,然一世之功,戎虜奔卻,當時中國無復四夷也。

漢が興って長安ちょうあんに都を置き、関中の郡は三輔と号し、『禹貢』の雍州で、宗周の豊・鎬の旧地である。王莽の敗北に及び、赤眉がこれに乗じ、西都は荒廃し、百姓は流亡した。建武年間(後漢光武帝)、馬援を隴西太守とし、叛いた羌を討ち、その残りの種族を関中に移し、馮翊・河東の空地に住まわせ、華人と雑居させた。数年後、その族類は繁殖し、すでにその肥え強さを恃み、かつ漢人が侵すのを苦にした。永初元年(後漢安帝)、騎都尉王弘が西域に使いし、羌・氏を徴発し、行衛とさせた。ここにおいて群羌は奔走驚き、互いに扇動し、二州(涼州・并州)の戎が一時に共に蜂起し、将軍や太守を覆没させ、城邑を屠り破った。鄧騭の征伐は、甲冑を棄て兵を委ね、屍を車に積み軍を喪い、前後相継ぎ、諸戎は遂に勢いを増し、南は蜀漢に入り、東は趙・魏を掠め、軹関を突き破り、河内かうちにまで侵攻した。北軍中候の硃寵が五営の兵士を率いて孟津で羌を防ぐこととなり、十年の間に、夷も夏も共に斃れ、任尚・馬賢が辛うじてこれを平定した。これが害が深重で、累年平定しなかった理由は、防禦者の無策、将の非才によるものであるが、また、寇が心腹から発し、害が肘腋から起き、病が重くて治療が難しく、瘡が大きくて癒えるのが遅い故ではなかったのか! この後、余燼は尽きず、少しでも機会があれば、また侵攻して叛いた。馬賢は慣れきって油断し、ついに覆敗し、段穎は臨衝(戦車)を用いて、西から楽浪まで進んだ。雍州の戎は、常に国の患いとなり、中世の寇賊では、これが最大であった。漢末の乱で、関中は滅び果てた。魏が興った初め、蜀と隔たり、国境の戎は、あちらこちらにいた。魏武皇帝(曹操)は将軍夏侯妙才(夏侯淵)に叛いた氏の阿貴・千万などを討たせ、後に漢中を放棄したため、武都の種族を秦川に移し、寇を弱め国を強くし、蜀の虜を防禦しようとした。これは権宜の計であり、一時の勢いであって、万世の利益とするものではなかった。今、それを被って、すでにその弊害を受けている。

原文漢興而都長安,關中之郡號曰三輔,《禹貢》雍州,宗周豐、鎬之舊也。及至王莽之敗,赤眉因之,西都荒毀,百姓流亡。建武中,以馬援領隴西太守,討叛羌,徙其餘種于關中,居馮翊、河東空地,而與華人雜處。數歲之後,族類蕃息,既恃其肥強,且苦漢人侵之。永初之元,騎都尉王弘使西域,發調羌、氏,以為行衛。於是群羌奔駭,互相扇動,二州之戎,一時俱發,覆沒將守,屠破城邑。鄧騭之征,棄甲委兵,輿屍喪師,前後相繼,諸戎遂熾,至於南入蜀漢,東掠趙、魏,唐突軹關,侵及河內。及遣北軍中候硃寵將五營士于孟津距羌,十年之中,夷夏俱斃,任尚、馬賢僅乃克之。此所以為害深重、累年不定者,雖由禦者之無方,將非其才,亦豈不以寇發心腹,害起肘腋,疢篤難療,瘡大遲愈之故哉!自此之後,餘燼不盡,小有際會,輒復侵叛。馬賢忸忲,終於覆敗;段穎臨沖,自西徂樂。雍州之戎,常為國患,中世之寇,惟此為大。漢末之亂,關中殘滅。魏興之初,與蜀分隔,疆埸之戎,一彼一此。魏武皇帝令將軍夏侯妙才討叛氏阿貴、千萬等,後因拔棄漢中,遂徙武都之種于秦川,欲以弱寇強國,扞禦蜀虜。此蓋權宜之計,一時之勢,非所以為萬世之利也。今者當之,已受其弊矣。」

関中の土地は肥沃で物産が豊かで、その田は上上であり、さらに涇水・渭水の流れがその塩鹹地を灌漑し、鄭国渠・白渠が灌漑でつながり、黍稷の豊かさは、一畝で一鐘と称され、百姓はその殷実さを謡い詠み、帝王の都は常にここを居所としたが、戎狄がこの土地にいるべきだとは聞いたことがない。我が族類でない者は、その心は必ず異なり、戎狄の志や様子は、華夏と同じではない。そして彼らの衰弊に乗じて、畿服の地に移し、士人や庶民が慣れ親しみ、その軽弱さを侮り、彼らに怨恨の気持ちを骨髓に毒するようにさせた。蕃育して衆多になると、たちまち異心を生じる。貪婪で凶悍な性質に、憤怒の情を抱き、隙をうかがい好機に乗じて、すぐに横逆を働く。そして封域の内に住み、障塞の隔てがなく、不備の人を襲い、散在する野の蓄えを収奪するので、禍を引き起こし騒擾し、暴害は予測できない。これは必然の勢いであり、既に験証された事実である。当今の適切な策は、兵威が盛んな今、諸事がまだ終わらないうちに、馮翊・北地・新平・安定の境界内の諸羌を移し、先零・罕幵・析支の地に居住させ、扶風・始平・京兆の氐を移し、隴右に出して帰らせ、陰平・武都の境界に居住させることである。移住の道中の食糧を与え、自ら到着できるだけのものとし、それぞれ本来の種族に付き従わせ、旧土に返し、属国都尉や撫夷校尉に就いて安んじて集住させる。戎と晉が雑居せず、それぞれその所を得れば、上は往古の即敘(服従させる)の義に合い、下は盛世の永久の規範となる。たとえ猾夏(華夏を乱す)の心があっても、風塵の警(戦乱の兆し)があっても、中国からは絶遠し、山河で隔てられるので、たとえ寇暴を働いても、害は広くない。ゆえに趙充国・馮子明(馮奉世)は数万の衆で群羌の命を制し、征伐はあっても戦いはなく、全軍でただ独り勝利し、深謀遠計、廟勝遠図があったにせよ、華夷が異なる所に処し、戎夏が区別され、要塞が守りやすい故に、その功績を成し遂げることができたのではないか。

原文夫關中土沃物豐,厥田上上,加以涇、渭之流溉其舄鹵,鄭國、白渠灌浸相通,黍稷之饒,畝號一鐘,百姓謠詠其殷實,帝王之都每以為居,未聞戎狄宜在此土也。非我族類,其心必異,戎狄志態,不與華同。而因其衰弊,遷之畿服,士庶玩習,侮其輕弱,使其怨恨之氣毒於骨髓。至於蕃育眾盛,則坐生其心。以貪悍之性,挾憤怒之情,候隙乘便,輒為橫逆。而居封域之內,無障塞之隔,掩不備之人,收散野之積,故能為禍滋擾,暴害不測。此必然之勢,已驗之事也。當今之宜,宜及兵威方盛,眾事未罷,徙馮翊、北地、新平、安定界內諸羌,著先零、罕並、析支之地;徙扶風、始平、京兆之氐,出還隴右,著陰平、武都之界。廩其道路之糧,令足自致,各附本種,反其舊土,使屬國、撫夷就安集之。戎晉不雜,並得其所,上合往古即敘之義,下為盛世永久之規。縱有猾夏之心,風塵之警,則絕遠中國,隔閡山河,雖為寇暴,所害不廣。是以充國、子明能以數萬之眾制群羌之命,有征無戰,全軍獨克,雖有謀謨深計,廟勝遠圖,豈不以華夷異處,戎夏區別,要塞易守之故,得成其功也哉!

反論者は言う。今、関中における災禍は、暴力的な兵乱が二年続き、征伐や守備の労苦、疲弊した十万の兵士、水害や旱害の被害、繰り返される飢饉と凶作、疫病の災い、病や夭折や死が相次いでいる。凶悪な逆賊は既に討伐され、悪事を悔いて帰順し始めた者たちは、なおも疑念と畏怖を抱き、皆が危惧を感じている。百姓は愁苦し、異なる者たちも同じ思いで、安寧と休息の時期が来ることを望み、枯れた旱魃が雨露を思うように切望している。まさに安らかで穏やかな統治によって鎮めるべきである。それなのに、あなたは今まさに労役を起こし人夫を動員し、工事を起こし事業を行おうとしている。疲れ果てた民衆に、自らを疑う賊を移住させ、穀物のない者たちに、食糧の乏しい虜を移住させようとしている。恐らくは勢力が尽き力が尽き、事業は完成せず、羌や戎は離散し、心を一つにすることはできず、前の害がまだ収まらないうちに、後の変事が再び横行するであろう。

原文難者曰:方今關中之禍,暴兵二載,征戍之勞,老師十萬,水旱之害,薦饑累荒,疫癘之災,劄瘥夭昏。凶逆既戮,悔惡初附,且款且畏,咸懷危懼,百姓愁苦,異人同慮,望寧息之有期,若枯旱之思雨露,誠宜鎮之以安豫。而子方欲作役起徒,興功造事,使疲悴之眾,徙自猜之寇,以無穀之人,遷乏食之虜,恐勢盡力屈,緒業不卒,羌戎離散,心不可一,前害未及弭,而後變復橫出矣。

答えて言う。羌や戎は狡猾で、勝手に称号を名乗り、城を攻め野で戦い、州牧や太守を傷つけ殺害し、兵を連ねて集団を結成し、寒暑を隔てて離反を続けてきた。しかし今、異なる種族は瓦解し、同種族は土崩し、老人や子供は捕虜となり、壮年の者は降伏して散り散りになり、鳥や獣のように離れ散って、一つにまとまることができない。あなたはこの者たちが、まだ余力を保ち、悪事を悔いて善に戻り、我が徳恵を慕って柔順に帰順してきたと思うのか?それとも、勢いが尽き道が尽き、知力も力も共に困窮し、我が兵の誅伐を恐れてここに至ったと思うのか?言うならば、余力はなく、勢いが尽き道が尽きたからである。そうであれば、我々は彼らの生死の運命を制し、その進退を己の意のままにすることができる。その生業を楽しむ者は仕事を変えず、その住処に安住する者は移住の志を持たない。まさに彼らが自ら疑い危惧し、畏怖して慌てている時だからこそ、兵威をもって制し、彼らが左右に違背しないようにすることができる。彼らが死に散り流れ離れ、離散してまだ集まっていない時、関中の人々と家ごとに仇敵となっている時だからこそ、遠く離れた場所に移住させ、彼らが故郷を懐かしむ心を持たないようにすることができる。聖賢が事を謀るのは、事がまだ起こらないうちに為し、乱れていないうちに治め、道が顕わにならないうちに平らかにし、徳が現れないうちに成し遂げる。次善としては、禍を転じて福とし、敗北を因って功績とし、困窮に直面すれば必ず救済し、行き詰まりに遭えば通じさせることができる。今、あなたは弊害の終わりに遭いながら、新たな制度の始まりを図らず、容易な道筋の労を惜しんで覆った車の轍を得ようとしている。それはなぜか?また、関中の人々は百余万の人口で、その多少を率いてみれば、戎狄が半分を占めている。彼らをそこに置くか移住させるかには、必ず食糧が必要である。もし窮乏して穀物が続かない者がいれば、当然に関中の穀物を傾けて彼らの生きるための生計を全うさせなければならず、必ずや溝や谷に押しやられて侵掠の害を為さないということはない。今、我々が彼らを移住させれば、食糧を伝えながら到着し、その種族に付き従い、自ら互いに養い合うようになり、秦の地の人々はその半分の穀物を得る。これは、旅立つ者に食糧を与え、留まる者に倉を積ませ、関中の逼迫を緩和し、盗賊の根源を取り除き、朝夕の損害を除き、永年の利益を建てることである。もし一時的な労苦を恐れて、永遠の安泰の大計を忘れ、日々の煩わしい苦しみを惜しんで、累代の敵を残すならば、それは物事を開き事業を成し、創業して統治を後世に伝え、その開拓の跡を崇め、子孫にまで謀り及ぼすと言えるものではない。

原文答曰:羌戎狡猾,擅相號署,攻城野戰,傷害牧守,連兵聚眾,載離寒暑矣。而今異類瓦解,同種土崩,老幼系虜,丁壯降散,禽離獸迸,不能相一。子以此等為尚挾餘資,悔惡反善,懷我德惠而來柔附乎?將勢窮道盡,智力俱困,懼我兵誅以至於此乎?曰,無有餘力,勢窮道盡故也。然則我能制其短長之命,而令其進退由己矣。夫樂其業者不易事,安其居者無遷志。方其自疑危懼,畏怖促遽,故可制以兵威,使之左右無違也。迨其死亡散流,離逷未鳩,與關中之人,戶皆為仇,故可遐遷遠處,令其心不懷土也。夫聖賢之謀事也,為之於未有,理之於未亂,道不著而平,德不顯而成。其次則能轉禍為福,因敗為功,值困必濟,遇否能通。今子遭弊事之終而不圖更制之始,愛易轍之勤而得覆車之軌,何哉?且關中之人百餘萬口,率其少多,戎狄居半,處之與遷,必須口實。若有窮乏糝粒不繼者,故當傾關中之谷以全其生生之計,必無擠於溝壑而不為侵掠之害也。今我遷之,傳食而至,附其種族,自使相贍,而秦地之人得其半穀,此為濟行者以廩糧,遺居者以積倉,寬關中之逼,去盜賊之原,除旦夕之損,建終年之益。若憚暫舉之小勞,而忘永逸之弘策;惜日月之煩苦,而遺累世之寇敵,非所謂能開物成務,創業垂統,崇其拓跡,謀及子孫者也。

并州の胡は、本来は匈奴の凶悪な賊である。漢の宣帝の時代、飢え凍えて破壊され、国内は五つに分裂し、後に二つに合わさり、呼韓邪は遂に衰弱して孤立し危うくなり、自ら存立できず、塞の下に依り、質を委ねて柔順に服従した。建武年間、南単于が再び降伏帰順し、遂に塞内に入れ、漠南に居住させた。数世代の後、またしばしば反逆したので、何熙や梁槿が兵車を繰り出してしばしば征伐した。中平年間、黄巾賊が起こり、その兵を徴発調達しようとしたが、部衆は従わず、かえって羌渠を殺した。これにより於彌扶羅は漢に助けを求めて、その賊を討伐しようとした。ちょうど世が喪乱に遭い、遂に隙に乗じて起こり、趙や魏を略奪し、河南まで寇掠した。建安年間、また右賢王の去卑に呼廚泉を誘って質とさせ、その部落が六郡に散居することを許した。咸熙の頃、一部が強すぎるとして、三つの率に分けた。泰始の初め、また四つに増やした。そこで劉猛が内で反乱を起こし、外の虜と連絡を取った。近年の郝散の変乱は、穀遠で発生した。今、五部の衆は戸数が数万に至り、人口の盛んなことは西戎を上回る。しかしその天性は驍勇で、弓馬の扱いに長け、氐や羌の倍である。もし不測の風塵の憂いがあれば、并州の地域は寒心に値する。滎陽けいようの句驪は本来遼東りょうとうの塞外に居住していたが、正始年間、幽州刺史ししの毋丘儉がその反逆者を討伐し、残りの種族を移住させた。移住を始めた時、戸数は百ほどであったが、子孫が繁殖し、今では千を数え、数世代の後、必ずや殷盛となるであろう。今、百姓が職を失えば、なおも逃亡反乱することがあり、犬馬が肥え満ちれば、噛みつくことがある。まして夷狄において、変事を起こさないことがあろうか!ただその微弱で勢力が整っていないだけである。

原文并州之胡,本實匈奴桀惡之寇也。漢宣之世,凍餒殘破,國內五裂,後合為二,呼韓邪遂衰弱孤危,不能自存,依阻塞下,委質柔服。建武中,南單于復來降附,遂令入塞,居於漠南,數世之後,亦輒叛戾,故何熙、梁槿戎車屢征。中平中,以黃巾賊起,發調其兵,部眾不從,而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢,以討其賊。仍值世喪亂,遂乘釁而作,鹵掠趙、魏,寇至河南。建安中,又使右賢王去卑誘質呼廚泉,聽其部落散居六郡。咸熙之際,以一部太強,分為三率。泰始之初,又增為四。於是劉猛內叛,連結外虜。近者郝散之變,發于穀遠。今五部之眾,戶至數萬,人口之盛,過於西戎。然其天性驍勇,弓馬便利,倍於氐、羌。若有不虞風塵之慮,則并州之域可為寒心。滎陽句驪本居遼東塞外,正始中,幽州刺史毋丘儉伐其叛者,徙其餘種。始徙之時,戶落百數,子孫孳息,今以千計,數世之後,必至殷熾。今百姓失職,猶或亡叛,犬馬肥充,則有噬齧,況于夷狄,能不為變!但顧其微弱勢力不陳耳。

国を治める者は、貧しさを患うのではなく、不平等を患い、少なさを憂うのではなく、不安定を憂うのである。四海の広さ、士人や庶民の豊かさをもってすれば、どうして夷虜が内にいることを必要として、その後で満足を得る必要があろうか!この者たちは皆、告諭して発遣し、その本来の地域に帰還させ、彼ら旅人の故郷を思う心を慰め、我が華夏のわずかな憂いを解くべきである。この中国に恵みを与え、四方を安んじ、徳を永世に施すことが、計略として長遠である。

原文夫為邦者,患不在貧而在不均,憂不在寡而在不安。以四海之廣,士庶之富,豈須夷虜在內,然後取足哉!此等皆可申諭發遣,還其本域,慰彼羈旅懷土之思,釋我華夏纖介之憂。惠此中國,以綏四方,德施永世,于計為長。

帝は採用しなかった。十年も経たないうちに、夷狄が華夏を乱し、当時の人々はその深い見識に感服した。

原文帝不能用。未及十年,而夷狄亂華,時服其深識。

中郎に転任した。選司が統の叔父の春を宜春令に適任としたため、統は上疏して言った。「旧例では、父祖と官職の名が同じ場合、皆改選することができるが、自身と官職の名が同じ場合、改選の例に含まれない。臣は考えるに、父祖を改選するのは、臣子のために余地を開くためであって、父祖自身のためではない。しかし、自身の名が加わることも、臣子に及ぶ。佐吏は所属し、朝夕に事に従事し、官位の称号は、発言で称されるものである。もし実態を指して語れば、経礼の尊名を避ける義に違背する。もし言葉を偽って回避すれば、官を廃し擅りに憲制を犯すことになる。今、四海の広さ、職位の多さ、名号の繁雑さ、士人の豊富さにより、皇朝の寵愛を受け、宰牧の身分でありながら、佐吏がその官称を表せず、子孫がその位号を言えないという事態に至っている。これは上は君父を厳しくし、下は臣子のためであり、体例が通じない。もし私名を変えて官職を避けるならば、『春秋』の人親を奪わない義に違背する。臣は考えるに、自身の名と官職が同じ者は、父祖の名に触れる場合と同様に扱うべきであり、体例が完全となり、義において広大である。」朝廷はこれに従った。

原文遷中郎。選司以統叔父春為宜春令,統因上疏曰:「故事,父祖與官職同名,皆得改選,而未有身與官職同名,不在改選之例。臣以為父祖改選者,蓋為臣子開地,不為父祖之身也。而身名所加,亦施于臣子。佐吏系屬,朝夕從事,官位之號,發言所稱,若指實而語,則違經禮諱尊之義;若詭辭避回,則為廢官擅犯憲制。今以四海之廣,職位之眾,名號繁多,士人殷富,至使有受寵皇朝,出身宰牧,而令佐吏不得表其官稱,子孫不得言其位號,所以上嚴君父,下為臣子,體例不通。若易私名以避官職,則違《春秋》不奪人親之義。臣以為身名與官職同者,宜與觸父祖名為比,體例既全,於義為弘。」朝廷從之。

太子洗馬に転任した。東宮で数年を過ごし、非常に親しみ礼遇された。太子は朝覲をしばしば欠き、また奢侈浪費が過度で、多くの禁忌があったため、統は上書して諫言した。

原文轉太子洗馬。在東宮累年,甚被親禮。太子頗闕朝覲,又奢費過度,多諸禁忌,統上書諫曰:

臣は聞く。古の臣たる者は、進んでは忠を尽くすことを考え、退いては過ちを補うことを考え、適切なことを献言して不適切なことを取り替え、遺漏を拾い欠陥を補った。これにより人主は過失のない行動を挙げ、口過ちのない言葉を発し、徳の音声が聞こえ、後世に名を揚げることができた。臣らは及ばず、補うことができず、愚かな誠意を尽くして考え、謹んで五つの事を左に陳べる。どうか一省再省され、少しでもご察しご納めくださるよう。

原文臣聞古之為臣者,進思盡忠,退思補過,獻可替否,拾遺補闕。是以人主得以舉無失行,言無口過,德音發聞,揚名後世。臣等不逮,無能雲補,思竭愚誠,謹陳五事如左,惟蒙一省再省,少垂察納。

第一に、六行の義は孝を以て首とし、虞舜の徳は孝を以て称えられる。故に太子は朝夕に君の膳を見ることを職務とし、左右で養い方に定めがない。文王が世子であった時は、事親に篤実であったと言え、故に三代の美を独占し、百王の宗となることができた。近頃、聖体がしばしば疾患に罹り、数回朝侍を欠き、遠近の観察者は深くその故を知ることができず、疑惑を生じさせている。伏して願わくは、殿下には微かな苦しみがあっても、輿に支えられる程度であれば、自ら努められるべきである。『易』に曰く、「君子は終日乾乾す」と。これは自ら努めて止まないことを言うのである。

原文其一曰,六行之義,以孝為首,虞舜之德,以孝為稱,故太子以朝夕視君膳為職,左右就養無方。文王之為世子,可謂篤於事親者也,故能擅三代之美,為百王之宗。自頃聖體屢有疾患,數闕朝侍,遠近觀聽者不能深知其故,以致疑惑。伏願殿下雖有微苦,可堪扶輿,則宜自力。《易》曰:「君子終日乾乾。」蓋自勉強不息之謂也。

第二に申し上げます。古代の君主は、聡明な資質や英知に優れた素質を持っていても、必ず補佐の助けと導きの功績が必要でした。そのため、虞舜は五人の臣下によって興隆し、周の文王は四人の友によって隆盛しました。成王が太子であった時には、周公と召公が保傅となり、史佚が文章を明らかにしたので、早くから道を聞き備え、大業を高く崇めることができ、刑罰を用いる必要がなく、名声が広く響き渡りました。殿下は天から優れた才能を授かり、聡明で見識が抜きん出ておられますが、臣は、なお時折聖なる命令を発し、徳の音を宣揚し、保傅に諮問し、侍臣に尋ね、賓客と接見して、すべてを漏らさず接する機会を得るべきだと考えます。そうすれば、閉塞していた状況が一気に通じ、殿下の美徳は輝かしく明るくなるでしょう。このようにすれば、高く明るい風範は前人に広がり、大きな模範と良い軌範は永遠に後の世の手本となるでしょう。

原文其二曰,古之人君雖有聰明之姿,睿喆之質,必須輔弼之助,相導之功,故虞舜以五臣興,周文以四友隆。及成王之為太子也,則周、召為保傅,史佚昭文章,故能聞道早備,登崇大業,刑措不用,流聲洋溢。伏惟殿下天授逸才,聰鑒特達,臣謂猶宜時發聖令,宣揚德音,諮詢保傅,訪逮侍臣,覲見賓客,得令接盡,壅否之情沛然交泰,殿下之美煥然光明。如此,則高朗之風,扇於前人;弘範令軌,永為後式。

第三に申し上げます。古代の聖王は皆、倹約を徳としました。そのため、堯は採ったばかりの木材と茅葺き屋根を称え、禹は質素な宮殿と粗末な衣服を称え、漢の文帝は黒い粗布の衣を身にまとい、革の靴を履き、自ら率先して物事に臨み、政治は太平を実現し、生きている間は明王として、亡くなってからは宗廟で祀られました。諸侯でこれを実践した者では、魯の僖公は自ら倹約して支出を抑え、その名声は『雅頌』に列せられました。蚡冒は柴の車に粗末な衣服で、楚国を拡張しました。大夫でこれを実践した者では、文子が魯の宰相となった時、妾に絹の衣服を着せず、晏嬰が斉の宰相となった時、鹿の皮衣を繕わず、それでも君主を補佐し風俗を救い、国を興し家を隆盛させることができました。庶人でこれを実践した者では、顔回は一つの竹かごの飯とひしゃく一杯の水で、その仁の名声を広め、原憲は蓬で戸を作り縄で扉をしめて、その清らかな徳を高めました。これらは皆、聖主・明君・賢臣・智士が実行したことです。そのため、日月のように名を懸け、永遠に朽ちることなく、これが倹約の福なのです。末世になって、奢侈によって国を失った者では、帝王には瑤台や瓊室、玉の杯や象牙の箸があり、珍しい料理には熊の掌や豹の胎児、酒の池や肉の林がありました。諸侯では、赤い柱や彫刻を施した垂木、百牢もの饗応を徴収する者もいました。大夫には玉の冠飾りや玉の冠紐、庶人には鐘を鳴らし鼎で食事をする者もいました。そして、国を亡ぼし宗廟を失い、家を破り身を失い、醜い名声が広く知られ、後の戒めとなったのです。ひそかに聞くところでは、後園では金銀を彫刻で飾り、犀や象の角を刻み磨き、絵画の部屋の技巧は日々精巧さを競っているとのことです。臣らは、今や四海の広さ、万物の豊かさを考え、今を昔と比べても、奢侈とは言えないと考えます。しかし、上に立つ者の好むところは、下の者も必ず従うものです。ですから、上に立つ者は必ず自分の好みを慎まなければなりません。昔、漢の光武帝の時、千里馬と宝剣を献上する者がいましたが、馬は鼓車を引くのに用い、剣は騎士に賜りました。世祖武皇帝(晋の武帝)の時、雉の頭の毛皮の衣を献上する者がいましたが、すぐに役人に命じて都の街で焼かせました。高い世の君主は珍しい物を尊ばず、それゆえに天下の風俗を正し、四方の風化を整えることができたのです。臣らは、絵画の部屋の工事はしばらく減らし、後園の雑多な作業はすべて中止し、厳粛で清らかで静かな環境で、ゆったりと道徳を楽しむならば、日々新たなる美徳が四海に輝くだろうと考えます。

原文其三曰,古之聖王莫不以儉為德,故堯稱采椽茅茨,禹稱卑宮惡服,漢文身衣弋綈,足履革舄,以身先物,政致太平,存為明王,沒見宗祀。及諸侯修之者,魯僖以躬儉節用,聲列《雅頌》;蚡冒以篳路藍縷,用張楚國。大夫修之者,文子相魯,妾不衣帛;晏嬰相齊,鹿裘不補,亦能匡君濟俗,興國隆家。庶人修之者,顏回以簞食瓢飲,揚其仁聲;原憲以蓬戶繩樞,邁其清德。此皆聖主明君賢臣智士之所履行也。故能懸名日月,永世不朽,蓋儉之福也。及到末世,以奢失之者,帝王則有瑤台瓊室,玉懷象箸,肴膳之珍則熊蹯豹胎,酒池肉林。諸侯為之者,至於丹楹刻桷,餼征百牢。大夫有瓊弁玉纓,庶人有擊鐘鼎食。亦罔不亡國喪宗,破家失身,醜名彰聞,以為後戒。竊聞後園鏤飾金銀,刻磨犀象,畫室之巧,課試日精。臣等以為今四海之廣,萬物之富,以今方古,不足為侈也。然上之所好,下必從之,是故居上者必慎其所好也。昔漢光武皇帝時,有獻千里馬及寶劍者,馬以駕鼓車,劍以賜騎士。世祖武皇帝有上雉頭裘者,即詔有司焚之都街。高世之主,不尚尤物,故能正天下之俗,刑四方之風。臣等以為畫室之功,可且減省,後園雜作,一皆罷遣,肅然清靜,優遊道德,則日新之美光于四海矣。

第四に申し上げます。天下をもって一人に供え、百里をもって諸侯に供えるため、王侯は租税を食み衣料とし、公卿大夫は爵位を受け俸禄を資とするので、不足することはありませんでした。そのため、士・農・工・商の四つの業は混ざり合わなかったのです。取引をして引き下がり、有無を通じさせるのは、庶人の業です。『周礼』の三市では、朝は多くの民族、昼は商人、夕方は行商人や女商人がいました。安く買って高く売り、野菜や果物を売りさばき、十百倍の利益を得て、朝夕の命をつなぐ、これが庶人の貧賤な業です。樊遲という一介の男が、園芸を学びたいと請うたが、孔子は答えなかった。魯の大夫臧文仲が妾に蒲を織らせたことを、孔子は不仁だと批判した。公儀子が魯の宰相となった時、自分の園の葵を抜き、俸禄を食む者は貧賤な者と利益を争わないと言った。秦・漢以来、風俗は次第に薄くなり、公侯のような尊い者でも、園や畑の土地を増やし、市井の利益を収める者がおり、次第に模倣し合い、恥とも思わない。古代の道に照らせば、誠に恥ずべきことです。今、西園で葵菜、藍の実、鶏、麺などを売ることは、国の体面を損ない、良い評判を貶めるものです。

原文其四曰,以天下而供一人,以百里而供諸侯,故王侯食藉而衣稅,公卿大夫受爵而資祿,莫有不贍者也。是以士農工商四業不雜。交易而退,以通有無者,庶人之業也。《周禮》三市,旦則百族,晝則商賈,夕則販夫販婦。買賤賣貴,販鬻菜果,收十百之盈,以救旦夕之命,故為庶人之貧賤者也。樊遲匹夫,請學為圃,仲尼不答;魯大夫臧文仲使妾織蒲,又譏其不仁;公儀子相魯,則拔其園葵,言食祿者不與貧賤之人爭利也。秦、漢以來,風俗轉薄,公侯之尊,莫不殖園圃之田,而收市井之利,漸冉相放,莫以為恥,乘以古道,誠可愧也。今西園賣葵菜、藍子、雞、面之屬,虧敗國體,貶損令問。

第五に申し上げます。ひそかに見るに、禁中の土地では、壁を修繕したり、屋根瓦を動かしたり正したりすることが許されないとの命令があります。臣は、これはすでに典範や旧来の道理に背き、しかも小さな禁忌に拘束されて広大な道を廃していると考えます。これを取り除くのが適切であり、事柄にとってふさわしいでしょう。

原文其五曰,竊見禁土,令不得繕修牆壁,動正屋瓦。臣以為此既違典彝舊義,且以拘攣小忌而廢弘廓大道,宜可蠲除,於事為宜。

朝廷はこれらを良しとした。

原文朝廷善之。

太子が廃され許昌きょしょうに移された時、賈后は役人に命じて、東宮の臣下が追いかけて見送ることを許さなかった。江統は東宮の臣下らと共に禁令を犯して伊水まで行き、道の左で拝礼して別れを告げ、悲しみ泣いて涙を流した。都官従事は江統らをことごとく捕らえ、河南・洛陽らくようの獄に引き渡した。郡に引き渡された者は、河南尹の楽広がすべて釈放して帰したが、洛陽に拘束された者はまだ解放されなかった。都官従事の孫琰が賈謐に言った。「太子を廃して移した理由は、悪い行いがあったからです。東宮の旧臣が罪を冒して拝礼し別れを告げ、路傍で涙を流し、重い刑罰をも顧みないのは、かえって太子の徳を明らかにすることになります。釈放した方がよいでしょう。」賈謐が洛陽令の曹攄に話したため、これによって皆が赦免された。太子が薨去し、改葬された時、江統は誄を作って哀悼の意を述べ、世に重んじられた。

原文及太子廢,徙許昌,賈后諷有司不聽宮臣追送。統與宮臣冒禁至伊水,拜辭道左,悲泣流漣。都官從事悉收統等付河南、洛陽獄。付郡者,河南尹樂廣悉散遣之,系洛陽者猶未釋。都官從事孫琰說賈謐曰:「所以廢徙太子,以為惡故耳。東宮故臣冒罪拜辭,涕泣路次,不顧重辟,乃更彰太子之德,不如釋之。」謐語洛陽令曹攄,由是皆免。及太子薨,改葬,統作誄敘哀,為世所重。

後に博士・尚書しょうしょ郎となり、大司馬・斉王司馬冏の軍事に参画した。司馬冏が驕り高ぶって荒廃し、敗れようとしていた時、江統は切実に諫めたが、文章は多く記録されていない。廷尉正に転じ、州郡の疑わしい事件では、軽い処断を選んだ。成都王司馬穎が記室に請うと、多くを戒め諫めた。陸雲りくうん兄弟について論じ、言葉は非常に切実で痛切であった。母の喪で職を去った。喪が明けると、司徒しと左長史となった。東海王司馬越が兗州牧となった時、江統を別駕とし、州の事務を委ね、江統に手紙を送って言った。「昔、王子師(王允)が豫州に赴任した時、着任前に荀慈明(荀爽)を招聘し、着任後に孔文舉(孔融)を招聘した。貴州の人々にこれに応えられる者はいるか?」江統は高平の郗鑒を賢良として、陳留の阮修を直言として、済北の程收を方正として推挙し、当時は人を見る目があるとされた。まもなく黄門侍郎・散騎常侍に転じ、国子博士を兼任した。永嘉四年、難を避けて成皋に逃れ、病没した。作った賦・頌・表・奏はすべて後世に伝わった。二人の子、江虨と江惇がいた。

原文後為博士、尚書郎,參大司馬、齊王冏軍事。冏驕荒將敗,統切諫,文多不載。遷廷尉正,每州郡疑獄,斷處從輕。成都王穎請為記室,多所箴諫。申論陸雲兄弟,辭甚切至。以母憂去職。服闋,為司徒左長史。東海王越為兗州牧,以統為別駕,委以州事,與統書曰:「昔王子師為豫州,未下車,辟荀慈明;下車,辟孔文舉。貴州人士有堪應此者不?」統舉高平郗鑒為賢良,陳留阮修為直言,濟北程收為方正,時以為知人。尋遷黃門侍郎、散騎常侍,領國子博士。永嘉四年,避難奔于成皋,病卒。凡所造賦頌表奏皆傳於後。二子:虨、惇。

子に江虨、江惇がいる。

原文子虨、惇

江虨は字を思玄といい、本州から秀才に推挙され、平南将軍の温嶠が参軍とした。再び州の別駕となり、司空しくうの郗鑒の掾に招聘され、長山県令に任じられた。郗鑒がまた司馬に請うと、黄門郎に転じた。車騎将軍の庾冰ゆひょうが江州を鎮守した時、長史に請うた。庾冰が没すると、庾翼ゆよくが諮議参軍とし、まもなく再び長史を補った。庾翼が没すると、大将の幹瓚が乱を起こしたが、江虨が討伐して平定した。尚書吏部郎に任じられ、そのまま御史中丞・侍中・吏部尚書に転じた。永和年間、桓景に代わって護軍将軍となった。出向して会稽かいけい内史を補い、右軍将軍を加えられた。王彪之に代わって尚書僕射ぼくやとなった。哀帝が即位し、周貴人の名号についてどうすべきか疑った時、江虨の議論は『礼志』に見える。帝が殿庭に鴻祀を立てようとし、また自ら藉田を行おうとしたが、江虨はともに礼が廃れて久しく、儀式の規定が残っておらず、中興以来行われていないとして、停止すべきだと述べた。僕射を長年務め、簡文帝が宰相となった時、政事を訪ねるたびに、江虨は多くを補い益した。護軍将軍に転じ、国子祭酒を兼任し、在官中に没した。子の江敳は、琅邪内史・驃騎諮議を歴任した。江敳の子の江恆は、元熙年間に西中郎長史となった。江恆の弟の江夷は尚書となった。

原文虨字思玄,本州辟舉秀才,平南將軍溫嶠以為參軍。復為州別駕,辟司空郗鑒掾,除長山令。鑒又請為司馬,轉黃門郎。車騎將軍庾冰鎮江州,請為長史。冰薨,庾翼以為諮議參軍,俄而復補長史。翼薨,大將幹瓚作難,虨討平之。除尚書吏部郎,仍遷御史中丞、侍中、吏部尚書。永和中,代桓景為護軍將軍。出補會稽內史,加右軍將軍。代王彪之為尚書僕射。哀帝即位,疑周貴人名號所宜,虨議見《禮志》。帝欲於殿庭立鴻祀,又欲躬自藉田,虨並以為禮廢日久,儀注不存,中興以來所不行,謂宜停之。為僕射積年,簡文帝為相,每訪政事,虨多所補益,轉護軍將軍,領國子祭酒,卒官。子敳,曆琅邪內史、驃騎諮議。敳子恆,元熙中為西中郎長史。恆弟夷,尚書。

惇は字を思悛といい、孝行と友愛に厚く純粋で、高潔な節操は世俗を超越していた。性質は学問を好み、儒学と玄学をともに総合した。常に、君子が行いを立てるには礼に従って行動すべきであり、隠遁するか顕達するか道は異なっても、礼教に依拠しないものはないと考えた。もし放達で束縛されず、ほしいままに振る舞うことを貴ぶような者は、行動が礼法に背くだけでなく、道からも見捨てられる者である。そこで『通道崇檢論』を著し、世間は皆これを称賛した。蘇峻の乱の時、東陽山に避難し、太尉たいい郗鑒が檄を飛ばして兗州治中に任命し、また太尉掾に招聘した。康帝が司徒となった時も招聘した。征西将軍庾亮ゆりょうが儒林参軍を請うた。博士、著作郎に任命されたが、いずれも就任しなかった。郷里の人々はその道を尊び、何事があれば必ず相談してから行動した。東陽太守の阮裕、長山県令の王濛はいずれも当代の名士で、ともに惇と交遊し、深く敬重した。志を養うこと二十余年、永和九年に死去した。時に四十九歳。友人たちが共に石碑を刻み頌を立て、その徳の美しさを顕彰したという。

原文惇字思悛,孝友淳粹,高節邁俗。性好學,儒玄並綜。每以為君子立行,應依禮而動,雖隱顯殊途,未有不傍禮教者也。若乃放達不羈,以肆縱為貴者,非但動違禮法,亦道之所棄也。乃著《通道崇檢論》,世咸稱之。蘇峻之亂,避地東陽山,太尉郗鑒檄為兗州治中,又辟太尉掾;康帝為司徒,亦辟焉;征西將軍庾亮請為儒林參軍;徵拜博士、著作郎,皆不就。邑裏宗其道,有事必諮而後行。東陽太守阮裕、長山令王濛,皆一時名士,並與惇遊處,深相欽重。養志二十餘年,永和九年卒,時年四十九,友朋相與刊石立頌,以表德美雲。

孫楚

原文孫楚

孫楚は、字を子荊といい、太原郡中都県の人である。祖父の孫資は、魏の驃騎将軍であった。父の孫宏は、南陽太守であった。孫楚は才能と文藻が卓絶し、爽快で邁進し群を抜き、多くの者を凌ぎ傲岸であったため、郷里での評判は欠けていた。四十歳を過ぎてから、初めて鎮東軍事に参じた。文帝(司馬昭しばしょう)が符劭と孫郁を呉に派遣した時、将軍石苞が孫楚に命じて孫皓に送る書簡を作らせた。その文は以下の通りである。

原文孫楚,字子荊,太原中都人也。祖資,魏驃騎將軍。父宏,南陽太守。楚才藻卓絕,爽邁不群,多所陵傲,缺鄉曲之譽。年四十餘,始參鎮東軍事。文帝遣符劭、孫郁使吳,將軍石苞令楚作書遺孫皓曰:

機を見て行動することは、『周易』が貴ぶところである。小国が大国に仕えないことは、『春秋』が誅伐するところである。これこそが吉凶の萌芽であり、栄辱の生じる所以である。それゆえ、許と鄭は璧を口に銜えて国を全うし、曹と譚は礼を欠いたために滅亡を招いた。文献にはすでにその成敗が記され、古今を通じてその愚かさと賢明さが明らかになっている。これ以上広く譬えを引いて、虚飾の言葉を並べることはしない。もし誇大を名目とするならば、かえって忠告の実を失うことになる。今、事柄の要点を大まかに論じて、目を覚まさせよう。

原文蓋見機而作,《周易》所貴;小不事大,《春秋》所誅。此乃吉凶之萌兆,榮辱所由生也。是故許、鄭以銜璧全國,曹譚以無禮取滅。載藉既記其成敗,古今又著其愚智,不復廣引譬類,崇飾浮辭。苟以誇大為名,更喪忠告之實。今粗論事要,以相覺悟。

昔、漢の火徳の運は暗く衰え、天命は終わろうとしていた。桓帝、霊帝は徳を失い、災いと禍がともに起こり、豺狼のような者が爪牙の毒を振るい、民衆は塗炭の苦しみに遭った。これにより九州は連絡を絶ち、朝廷の綱紀は緩み、四海は荒廃し、もはや漢のものではなかった。太祖(曹操)は天命を受け継ぎ、神武をもって時運に応じ、暴乱を征討して中国を平定した。瑞祥の符に協力して天命が集まり、ついに宏大な基盤を開き、魏の領域を覆うこととなった。国土は神州の中枢であり、宝器である九鼎はなお存在し、代々美徳を伝え、光栄が相継いだ。ゆえに四方の奥地が同じく帰する、帝王の壮大な景観であることを知る。かつて公孫氏(公孫淵)は父兄の基盤を受け継ぎ、代々東方の辺境に居住し、燕や胡の地を擁し、険阻で遠隔の地を頼みとして、武事を講じ遊興にふけり、職貢を納めず、内では帝命を軽んじ、外では南国(呉)と通じ、船で大海を渡り、物資の取引を行い、葛越の布を北方の地に広め、貂の皮や馬を呉の地まで届けた。自らは弓兵十万を統べ、奔走する力を信じ、確かに右に燕・斉を屈服させ、左に扶桑を震動させ、沙漠を蹂躙し、南面して王を称することができると思い込んでいた。宣王(司馬懿しばい)が軽装で討伐し、猛鋭に長駆し、軍を遼陽に駐屯させると、城は守れず、戦鼓が一時鳴り響くと、元凶は首を斬られた。そこで遠近の国境、諸郡の広大な荒野において、離散した者を収容し集散させ、その居住を大いに安定させ、民衆は喜んで服従し、異なる風俗の者も真心を込めて帰附した。これ以降、天下は清らかで安泰となり、東夷は楽器を献上し、粛慎は楛矢を貢ぎ、長い間束縛されなかった者たちも、教化に応じて到来し、その偉大で広大な様は、お聞き及びのことと思う。

原文昔炎精幽昧,歷數將終,恆、靈失德,災釁並興,豺狼抗爪牙之毒,生靈罹塗炭之難。由是九州絕貫,王綱解紐,四海蕭條,非復漢有。太祖承運,神武應期,征討暴亂,克甯區夏;協建靈符,天命既集,遂廓弘基,奄有魏域。土則神州中嶽,器則九鼎猶存,世載淑美,重光相襲,故知四隩之攸同,帝者之壯觀也。昔公孫氏承藉父兄,世居東裔,擁帶燕胡,憑陵險遠,講武遊盤,不供職貢,內傲帝命,外通南國,乘桴滄海,交酬貨賄,葛越布於朔土,貂馬延于吳會;自以控弦十萬,奔走之力,信能右折燕、齊,左震扶桑,輮轢沙漠,南面稱王。宣王薄伐,猛銳長驅,師次遼陽,而城池不守;枹鼓暫鳴,而元凶折首。於是遠近疆埸,列郡大荒,收離聚散,大安其居,眾庶悅服,殊俗款附。自茲以降,九野清泰,東夷獻其樂器,肅慎貢其楛矢,曠世不羈,應化而至,巍巍蕩蕩,想所具聞也。

呉の先祖は、荊州、楚の地から興り、時世の混乱に遭い、ひそかに江南に移住した。劉備も震え恐れ、巴や岷の地に逃れた。そこで山陵や積石の堅固さを頼りとし、三江五湖の広大で果てしない水域を利用し、気勢を借りて遊魂のごとく、今に至るまで四紀(四十八年)を過ごしてきた。両国(呉と蜀)は合従し、東西で呼応し、互いに扇動し合い、中国(中原の王朝)に抵抗してきた。自らは天下三分の鼎足の勢いは、泰山と共に終始をともにできると思い込んでいた。相国晉王(司馬昭)は帝室を補佐し、文武の威容は盛んで、志は秋霜のように厳しく、廟堂での勝算は、変化に対応して尽きることがなく、独自の見識は、衆人と懸け離れている。主上(曹奐)は聡明で、万機を委ね、長い手綱で遠くを統御し、妙なる計略を密かに授け、偏師も心を一つにし、上下が力を合わせ、威勢をあげて奮い伐ち、深くその険阻な地に攻め入り、敵を一方向に集中させ、その胆力を奪った。江由で小戦を交えると、成都は自ら崩壊し、剣閣に兵を輝かせると、姜維は縛られて出頭した。六千里の地を開拓し、三十郡を領有した。兵は時を過ぎず、梁州、益州は粛清され、僭称した雄は、朝廷の門前に額を地につけ、玉や美しい錦が府庫に満ちた。韓が魏に併合され、虢が滅び虞が亡びたこと、これらはすべて前の鑑戒であり、後の事柄の表れである。また、南中の呂興は、深く天命を悟り、蝉が抜け殻を脱ぐように内附し、臣下となることを願った。外には輔車唇歯の援助を失い、内には羽毛が零落していく兆しがありながら、危険な国に留まり、日月の延長を願うのは、かつて魏の武侯(呉起を指すか)が山河を指して、自ら強しと思い込んだのと同じで、物事には興亡があるため、自慢の地もやがては自分のものではなくなる道理を知らないのである。

原文吳之先祖,起自荊、楚,遭時擾攘,潛播江表。劉備震懼,亦逃巴、岷。遂因山陵積石之固,三江五湖浩汗無涯,假氣遊魂,迄茲四紀。兩邦合從,東西唱和,互相扇動,距捍中國。自謂三分鼎足之勢,可與泰山共相終始也。相國晉王輔相帝室,文武桓桓,志厲秋霜,廟勝之算,應變無窮,獨見之鑒,與眾絕慮。主上欽明,委以萬機,長轡遠禦,妙略潛授,偏師同心,上下用力,陵威奮伐,罙入其阻,并敵一向,奪其膽氣。小戰江由,則成都自潰;曜兵劍閣,則姜維面縛。開地六千,領郡三十。兵不逾時,梁、益肅清,使竊號之雄,稽顙絳闕,球琳重錦,充於府庫。夫韓並魏徙,虢滅虞亡,此皆前鑒,後事之表。又南中呂興,深睹天命蟬蛻內附,願為臣妾。外失輔車脣齒之援,內有羽毛零落之漸,而徘徊危國,冀延日月,此由魏武侯卻指山河,自以為強,殊不知物有興亡,則所美非其地也。

今、百官は多く揃い、俊傑が朝廷に満ち、武臣猛将は万里の彼方で敵を防ぎ、国は富み兵は強く、六軍は精練され、再び飛翔し、南海に馬に水を飲ませようとしている。近頃、国家は器械を整備し、舟船を建造し、水戦の訓練を簡素化して習熟させ、楼船は万艘、千里にわたって相望み、木を刳りぬいて以来、舟車の用は今日のように盛大であったことはない。驍勇の兵百万、力を蓄えて時を待つ。役事を二度起こす必要はなく、今日の軍勢である。しかし、主上と宰相が電撃的に発動することを未だにためらっているのは、人を愛し国を治めることが道家の尊ぶところであり、城を高く築いても結局は低く見え、文王が軍を退いた故事のように、まず大いなる信義を示し、存亡の道理を説き、懇切な意図を、往復する使者によって究明させようとしているからである。もし、情勢の安危をよく考え、自ら多くの幸福を求め、蹴るように態度を改め、かつての賜物を敬って受け、南越の趙佗が子の嬰斉を入朝させて侍らせた故事を追慕し、北面して臣と称し、伏して詔みことのり策を聴くならば、代々江南に封ぜられ、永遠に魏の藩屏となり、豊かな功績と顕著な報いは、今日よりも盛大であろう。もしなお侮り軽んじて、王命に従わないならば、その後は謀略と武力が雲のように集まり、指揮に風のように従い、雍州、梁州の二州からは、流れに沿って東へ、青州、徐州の戦士は、長江に沿って西へ、荊州、揚州、兗州、豫州の兵は、八方の要衝を争って駆けつけ、征東の甲卒は、武歩をもって秣陵に至る。その時こそ王の車駕は整い、六軍がゆっくりと進軍し、羽飾りの部隊は日を照らし、旌旗は流星のように流れ、龍の旗が道を輝かせ、歌吹の音が耳に満ち、士卒は奔り進み、その集結は林のごとく、煙塵がともに立ち上がり、天を震わし地を驚かせ、賞を渇望する士は、鋒先を争って進み、ある日突然、身首は別れ、宗廟の祭祀は滅び覆り、万世の戒めとなるであろう。首を伸ばして南を望めば、まことに寒心に耐えない!膏肓の病を治療する者は、必ず苦い薬を進め、狐疑の念を断つ者は、逆耳の言葉を告げる。もしためらい、迷って戻らなければ、恐らくは俞附(古代の名医)がその死を見届け、扁鵲もその無功を知るであろう。よく考えて良策を図り、どちらを取るか決めるがよい。

原文方今百僚濟濟,俊乂盈朝,武臣猛將,折沖萬里,國富兵強,六軍精練,思復翰飛,飲馬南海。自頃國家整修器械,興造舟楫,簡習水戰,樓船萬艘,千里相望,刳木已來,舟車之用未有如今之殷盛者也。驍勇百萬,畜力待時。役不再舉,今日之師也。然主相眷眷未便電發者,猶以為愛人治國,道家所尚,崇城遂卑,文王退舍,故先開大信,喻以存亡,殷勤之指,往使所究也。若能審勢安危,自求多福,蹶然改容,祗承往錫,追慕南越,嬰齊入侍,北面稱臣,伏聽告策,則世祚江表,永為魏籓,豐功顯報,隆於今日矣。若猶侮慢,未順王命,然後謀力雲合,指麾從風,雍、梁二州,順流而東,青、徐戰士,列江而西,荊、揚兗、豫,爭驅八沖,征東甲卒,武步秣陵,爾乃王輿整駕,六戎徐征,羽校燭日,旌旗星流,龍游曜路,歌吹盈耳,士卒奔邁,其會如林,煙塵俱起,震天駭地,渴賞之士,鋒鏑爭先,忽然一旦,身首橫分,宗祀淪覆,取戒萬世,引領南望,良助寒心!夫療膏肓之疾者,必進苦口之藥;決狐疑之慮者,亦告逆耳之言。如其猶豫,迷而不反,恐俞附見其已死,扁鵲知其無功矣。勉思良圖,惟所去就。

符劭らは呉に到着したが、通訳する勇気がなかった。

原文劭等至吳,不敢為通。

孫楚は後に佐著作郎に転任し、再び石苞の驃騎軍事に参じた。孫楚はその才能と気概を恃み、石苞をかなり侮り軽んじた。初めて到着した時、長揖して言った。「天子が私に卿の軍事に参与するよう命じられた。」これによって不和が生じた。石苞は孫楚が呉人の孫世山と共に時政を誹謗中傷したと上奏し、孫楚もまた上表して自らを弁明し、紛糾すること数年、事は決着せず、また同郷の郭奕と憤り争った。武帝(司馬炎しばえん)はその罪を明らかにはしなかったが、若く身分が低い時に責めを受けたことを理由に、長年にわたって埋もれさせて起用しなかった。初め、参軍が府主(長官)を敬わない慣例があったが、孫楚が石苞を軽んじたため、遂に敬礼の作法を定めたのは、孫楚から始まったのである。

原文楚後遷佐著作郎,復參石苞驃騎軍事。楚既負其材氣,頗侮易於苞,初至,長揖曰:「天子命我參卿軍事。」因此而嫌隙遂構。苞奏楚與吳人孫世山共訕毀時政,楚亦抗表自理,紛紜經年,事未判,又與鄉人郭奕忿爭。武帝雖不顯明其罪,然以少賤受責,遂湮廢積年。初,參軍不敬府主,楚既輕苞,遂制施敬,自楚始也。

征西将軍の扶風王司馬駿は孫楚と旧知の間柄であったため、彼を参軍として起用した。その後、梁県令に転じ、衛将軍司馬に昇進した。当時、武庫の井戸の中に龍が現れたため、群臣は祝賀の上奏をしようとしたが、孫楚は上言して言った。「近ごろ武庫の井戸の中に二匹の龍がいたと聞きました。群臣の中には、これを吉祥として祝賀を称える者もいれば、吉祥ではないとして祝賀すべきでないとする者もいます。これは、楚(孫楚)がすでに間違っているが、斉(群臣)もまた正しいとは言えない、と言えるでしょう。そもそも龍は、うつむいて鱗をひそめ深い泉に潜むこともあれば、仰ぎ見て雲漢に登り青空を遊ぶこともあります。しかし今、穴井戸の中に蟠り、蛙やエビと同じようになっているのは、ただ倉庫番の中に隠れている者や、雑役の中に埋もれている賢者がいるからではないでしょうか。ですから、龍が姿を現したのは、何かを感じ悟らせるためなのです。願わくば陛下には、小さな過ちを赦し、賢才を推挙し、傅岩で夢を見たように、渭水のほとりで望みをかけたように、学官を整備し、埋もれている者を起用し、公卿に命じて、風俗を篤くし励ますことができる独行の君子を推薦させ、また、煩わしさを除き難局を治め、世を正し直言するのにふさわしい、聡明で抜きん出た異才を推薦させてください。世族にこだわらず、必ずまず隠逸した賤しい者から選んでください。戦いに勝ち攻め取る勢いや、併合して統一する威光は、五覇の事績や、韓信・白起の功績に過ぎません。礼を制定し楽を作り、道を闡明し教化を広めることこそ、まさに士人が力を尽くす時なのです。伏して願います。陛下には、狂った者の言葉をお選びください。」

原文征西將軍,扶風王駿與楚舊好,起為參軍。轉梁令,遷衛將軍司馬,時龍見武庫井中,群臣將上賀,楚上言曰:「頃聞武庫井中有二龍,群臣或有謂之禎祥而稱賀者,或有謂之非祥無所賀者,可謂楚既失之,而齊亦未為得也。夫龍或俯鱗潛於重泉,或仰攀雲漢遊乎蒼昊,而今蟠于坎井,同於蛙蝦者,豈獨管庫之士或有隱伏,廝役之賢沒于行伍?故龍見光景,有所感悟。願陛下赦小過,舉賢才,垂夢于傅岩,望想於渭濱,修學官,起淹滯,申命公卿,舉獨行君子可惇風厲俗者,又舉亮拔秀異之才可以撥煩理難矯世抗言者,無系世族,必先逸賤。夫戰勝攻取之勢,並兼混一之威,五伯之事,韓、白之功耳;至於制禮作樂,闡揚道化,甫是士人出筋力之秋也。伏願陛下擇狂夫之言。」

恵帝の初め、馮翊太守となった。元康三年に死去した。

原文惠帝初,為馮翊太守。元康三年卒。

初め、孫楚は同郡の王済と親しくしていた。王済が本州の大中正となった時、属官に命じて郷里の人物の評定を尋ねさせた。孫楚に至ると、王済は言った。「この人はあなたが目を付けられるような者ではない。私が自分でやろう。」そして孫楚について評定して言った。「天賦の才能は英邁で博識、聡明で抜きん出て群を抜いている。」孫楚は若い頃、隠居しようと思い、王済に言った。「石を枕にし流れで口を漱ぎたい。」誤って「石で口を漱ぎ流れを枕にしたい」と言ってしまった。王済が「流れは枕にできず、石は口を漱ぐことはできない」と言うと、孫楚は言った。「流れを枕にするのは、耳を洗いたいからだ。石で口を漱ぐのは、歯を磨きたいからだ。」孫楚が推服することは少なかったが、ただ王済だけはひどく敬っていた。初め、孫楚が妻の喪服を脱いだ時、詩を作って王済に見せた。王済は言った。「文が情から生まれたのか、情が文から生まれたのかわからないが、読むと悲しくなり、夫婦の絆の重さを増す思いがする。」

原文初,楚與同郡王濟友善,濟為本州大中正,訪問銓邑人品狀,至楚,濟曰:「此人非卿所能目,吾自為之。」乃狀楚曰:「天才英博,亮拔不群。」楚少時欲隱居,謂濟曰:「當欲枕石漱流。」誤云「漱石枕流」。濟曰:「流非可枕,石非可漱。」楚曰:「所以枕流,欲洗其耳;所以漱石,欲厲其齒。」楚少所推服,惟雅敬濟。初,楚除婦服,作詩以示濟,濟曰:「未知文生於情,情生於文,覽之淒然,增伉儷之重。」

三人の息子がいた。孫衆、孫洵、孫纂である。孫衆と孫洵はともに官に就かずに早く亡くなった。ただ孫纂の子の孫統と孫綽がともに有名になった。

原文三子:眾、洵、纂。眾及洵俱未仕而早終,惟纂子統、綽並知名。

孫纂の子、孫統

原文纂子統

孫統は字を承公という。幼い頃に孫綽や従弟の孫盛と共に長江を渡った。放縦で束縛されず、よく文章を書いたので、当時の人は孫楚の風格があると思った。征北将軍の褚裒がその名を聞き、参軍に任命しようとしたが、辞退して就任せず、会稽に住んだ。山水を好む性質で、鄞県令を求めて就任し、その後、呉寧に転任した。職務に就いても細かい事務には気を留めず、思いのままに遊び歩き、名山や勝れた川をくまなく探求した。後に余姚県令となり、死去した。子の孫騰が後を継ぎ、博学で知られ、廷尉の官位に至った。孫騰の弟の孫登は、若い頃から名理を得意とし、『老子』に注釈を施し、世に行われた。尚書郎まで官位が至ったが、早く亡くなった。

原文統字承公。幼與綽及從弟盛過江。誕任不羈,而善屬文,時人以為有楚風。征北將軍褚裒聞其名,命為參軍,辭不就,家於會稽。性好山水,乃求為鄞令,轉在吳寧。居職不留心碎務,縱意遊肆,名山勝川,靡不窮究。後為余姚令,卒。子騰嗣,以博學著稱,位至廷尉。騰弟登,少善名理,注《老子》,行於世,仕至尚書郎,早終。

孫統の弟、孫綽

原文統弟綽

孫綽は字を興公という。博学で文章を書くのが上手く、若い頃から高陽の許詢と共に高尚な志を持っていた。会稽に住み、山水を遊び歩くこと十余年、そこで『遂初賦』を作ってその思いを表した。かつて山濤を軽蔑し、人に言った。「山濤は私には理解できない。官吏でもなく、隠者でもない。もし李膺の門を龍門の渡し場とするなら、額に点を打たれ鱗をむき出しにされるだろう。」住んでいる書斎の前に一本の松の木を植え、常に自ら守り育てていた。隣人が彼に言った。「この木は確かに楚々として愛らしいが、永遠に棟梁の材になる日はないのではないかと恐れるだけだ。」孫綽は答えて言った。「楓や柳はたとえ両手で抱えられるほど太くなっても、何の役に立つというのか。」孫綽と許詢は当代の名士であったが、ある者は許詢の高邁さを愛して孫綽を軽蔑し、ある者は孫綽の文才を愛して許詢を評価しなかった。沙門の支遁が試しに孫綽に尋ねた。「あなたは許詢と比べてどうですか。」答えて言った。「高い情趣と遠大な趣向については、弟子はすでに早くから敬服しています。しかし、一つの詩を詠み一つの文を吟ずることに至っては、許詢は私の弟子となるでしょう。」張衡や左思の賦を非常に重んじ、常に言った。「『三都賦』と『二京賦』は、五経を鼓吹するようなものだ。」かつて『天臺山賦』を作り、文辞の趣きが非常に優れていた。完成したばかりの時、友人である范栄期に見せて言った。「あなたが試しに地面に投げてみなさい。きっと金石の音がするはずだ。」范栄期は言った。「この金石の音が音律に合っているかどうかは疑わしい。」しかし、佳句に至るたびに、常に言った。「これは我々の仲間の言葉だ。」著作佐郎に任じられ、長楽侯の爵位を継いだ。

原文綽字興公。博學善屬文,少與高陽許詢俱有高尚之志。居於會稽,遊放山水,十有餘年,乃作《遂初賦》以致其意。嘗鄙山濤,而謂人曰:「山濤吾所不解,吏非吏,隱非隱,若以元禮門為龍津,則當點額暴鱗矣。」所居齋前種一株松,恆自守護,鄰人謂之曰:「樹子非不楚楚可憐,但恐永無棟樑日耳。」綽答曰:「楓柳雖復合抱,亦何所施邪!」綽與詢一時名流,或愛詢高邁,則鄙於綽,或愛綽才藻,而無取於詢。沙門支遁試問綽:「君何如許?」答曰:「高情遠致,弟子早已伏膺;然一詠一吟,許將北面矣。」絕重張衡、左思之賦,每云:「《三都》、《二京》,五經之鼓吹也。」嘗作《天臺山賦》,辭致甚工,初成,以示友人范榮期,云:「卿試擲地,當作金石聲也。」榮期曰:「恐此金石非中宮商。」然每至佳句,輒云:「應是我輩語。」除著作佐郎,襲爵長樂侯。」

孫綽の性質は率直で、よく人をからかって言いくるめることを好んだ。かつて習鑿歯と一緒に歩いていた時、孫綽が前を歩き、振り返って習鑿歯に言った。「砂を汰い分けると、瓦や石は後ろに残る。」習鑿歯は言った。「簸いでふるい分けると、糠や秕は前に出る。」

原文綽性通率,好譏調。嘗與習鑿齒共行,綽在前,顧謂鑿齒曰:「沙之汰之,瓦石在後。」鑿齒曰:「簸之揚之,糠秕在前。」

征西将軍の庾亮が参軍に請じ、章安県令に補任され、太学博士に任命され、尚書郎に昇進した。楊州刺史の殷浩いんこうが建威長史とした。会稽内史の王羲之おうぎしが右軍長史に引き立てた。永嘉太守に転じ、散騎常侍に昇進し、著作郎を兼任した。

原文征西將軍庾亮請為參軍,補章安令,徵拜太學博士,遷尚書郎。楊州刺史殷浩以為建威長史。會稽內史王羲之引為右軍長史。轉永嘉太守,遷散騎常侍,領著作郎。

当時、大司馬の桓温かんおんは中国を経営しようとし、河南がほぼ平定されたので、都を洛陽に移そうとした。朝廷は桓温を恐れ、異を唱えることができなかった。しかし、北方の地は荒廃し、人々の心情は疑念と恐れに満ちており、皆それができないと知りながらも、誰も先に諫言する者がいなかった。そこで孫綽は上疏して言った。

原文時大司馬桓溫欲經緯中國,以河南粗平,將移都洛陽。朝廷畏溫,不敢為異,而北土蕭條,人情疑懼,雖並知不可,莫敢先諫。綽乃上疏曰:

伏して拝見しますに、征西大将軍の臣下桓温の上表には、「直ちに自ら三軍を率いて二つの賊を討伐し除き、黄河と渭水を蕩涤し、旧都を清め洒掃し、その後、神の旗を電光のように翻し、朝服を着て長江を渡り、皇帝の居所を中原に戻し、北斗七星の玉衡を天の極に正す」とあります。これは世を超えた宏大な計画であり、千年の盛大な事業です。しかし、私の考えでは、ひそかに不安を感じるところがあります。帝王が興るには、地の利と人の和を借りて功業を立てるものであり、貴いのは義をもって暴を平定し、それに乗じて民を撫でることにあると思います。懐帝と愍帝が帝位を保てず、秦の都は滅びに滅び、ついに胡や戎が交わり侵入し、神州は綱紀を絶ち、土崩れの兆しは、まさに道が喪われたことによるものでした。しかし、中原は広々として、一時的に洪水が横溢し、百の郡、千の城に完全な城郭があったためしがないのは、なぜでしょうか。これもまた、地を守ることができず、投奔する場所があったからです。天の福祐が変わらず、中宗(元帝)が龍のように飛翔したのは、ただ信義と順理が天と人に合致しただけでなく、実は万里の長江を境として守ったからに他なりません。『易経』に「王公は険阻を設けてその国を守る」と称えられており、険阻の時の意義は大きいのです。これはすでに明らかな効果です。今、勝れた議論をなさるのであれば、自ら道に任せて険阻を忘れるべきですが、実情を考え分を量れば、小さなものを保って存続を固めざるを得ません。喪乱以来六十余年、民衆は滅び、百人に一人も残らず、黄河と洛水の流域は丘や廃墟となり、中国は荒廃し、井戸は埋まり木は切り倒され、田畑の道は消え失せ、生きる道は果てしなく、永遠に帰るよりどころがありません。長江の南に流れ移って、すでに数世代を経て、生き残った者は長男や年老いた孫であり、亡くなった者は墳墓が列をなしています。たとえ北風を思う気持ちがその純粋な心を感動させても、目前の哀しみは実に切実に交わっています。もし都を遷し車を返す日が来れば、五陵(先帝の陵墓)を中原に挙げることになり、すぐにまた遠い地域となってしまうでしょう。泰山のような安泰はすでに理屈で保つことが難しく、盛んなる思いが聖なる心にまとわりつかないでしょうか。

原文伏見征西大將軍臣溫表「便當躬率三軍,討除二寇,蕩滌河、渭,清灑舊京,然後神旂電舒,朝服濟江,反皇居於中土,正玉衡於天極。」斯超世之弘圖,千載之盛事。然臣之所懷,竊有未安,以為帝王之興,莫不藉地利人和以建功業,貴能以義平暴,因而撫之。懷湣不建,滄胥秦京,遂令胡戎交侵,神州絕綱,土崩之釁,誠由道喪。然中夏蕩蕩,一時橫流,百郡千城曾無完郛者,何哉?亦以地不可守,投奔有所故也。天祚未革,中宗龍飛,非惟信順協於天人而已,實賴萬里長江畫而守之耳。《易》稱「王公設險以守其國」,險之時義大矣哉!斯已然之明效也。今作勝談,自當任道而遺險;校實量分,不得不保小以固存。自喪亂已來六十餘年,蒼生殄滅,百不遺一,河洛丘、虛,函夏蕭條,井堙木刊,阡陌夷滅,生理茫茫,永無依歸。播流江表,已經數世,存者長子老孫,亡者丘隴成行。雖北風之思感其素心,目前之哀實為交切。若遷都旋軫之日,中舉五陵,即復緬成遐域。泰山之安既難以理保,烝烝之思豈不纏於聖心哉!

桓溫の今度の挙兵は、確かに大局を見渡し、国家の長遠な計画を立てようとするものである。もし先帝の陵墓の危急がなければ、また最初から大計を決断し、天下の最も困難な任務を一手に引き受けることもなかったであろう。今、憤りに駆られて食事も忘れ、忠誠と慷慨の情が明らかに表れている。心ある者は誰も感動しない者があろうか。しかし、民衆が震撼し、共に危惧を抱いているのは、旧地に戻る楽しみが遠く、死に急ぐ憂いが迫っているからではないか。なぜか。江南に根を下ろして数十年、一朝にしてこれを引き抜き、急いで空漠の地に駆り立て、万里を引き連れ、険しい道を越え深い川を渡り、先祖の墓を離れ、生業を捨て、富める者も三年分の食糧がなく、貧しい者は一食の飯にも事欠き、田畑や家屋は再び売ることもできず、船や車も得る術がなく、安楽の国を捨てて乱れ慣れた郷へ赴き、必ず安泰な地を出て累卵の危うさに就くのである。道中で倒れ、川に漂い溺れ、わずかに到達する者があるだけである。そもそも国は人を本とし、賊を討つのは人のためである。民衆が失われて賊が除かれたとしても、何を得るというのか。これは仁者が哀れみをかけるべきことであり、国家が深く考慮すべきことである。古今の帝王の都に、常に定まった場所があろうか。時勢が盛んな時は中央に居を構えて大計を図り、勢いが衰えれば養生して時機を待つ。徳が勝ち、家に三年分の蓄えがあって、初めて太平の事業を謀ることができるのである。今、天時と人事はまだその時が来ていない。一朝にして天下を統一しようとするのは、あまりに急で困難なことではないか。

原文溫今此舉,誠欲大覽始終,為國遠圖。向無山陵之急,亦未首決大謀,獨任天下之至難也。今發憤忘食,忠慨亮到,凡在有心,孰不致感!而百姓震駭,同懷危懼者,豈不以反舊之樂賒,而趣死之憂促哉!何者?植根于江外數十年矣,一朝拔之,頓驅踧於空荒之地,提挈萬里,逾險浮深,離墳墓,棄生業,富者無三年之糧,貧者無一餐之飯,田宅不可復售,舟車無從而得,舍安樂之國,適習亂之鄉,出必安之地,就累卵之危,將頓僕道塗,飄溺江川,僅有達者。夫國以人為本,疾寇所以為人,眾喪而寇除,亦安所取裁?此仁者所宜哀矜,國家所宜深慮也。自古今帝王之都,豈有常所,時隆則宅中而圖大,勢屈則遵養以待會。使德不可勝,家有三年之積,然後始可謀太平之事耳。今天時人事,有未至者矣,一朝欲一宇宙,無乃頓而難舉乎?

臣の愚かな考えでは、まずもう一人、威名と実力のある将軍を派遣し、洛陽を鎮守させ、陵墓の傍らに二つの砦を築いて山陵を守護させ、梁・許の地を掃討平定し、黄河以南を清め統一し、水運の路が開通した後、開墾に尽力し、田畑を広げ穀物を蓄積し、次第に移住者の資産とすべきである。このようにすれば、賊は滅亡の兆しを見て、必ず遠くに逃げ去るであろう。もし彼らが迷い逆らい改めず、再び死を求めるならば、南北の諸軍が風のごとく馳せ電のごとく赴き、まるで手足が痛痒を救うように、率然たる蛇が首尾に応じるように、山陵が固まり、中原は小康を得るであろう。陛下は紫極殿に端座し、徳政を増し修め、漢の文帝の簡素・質朴の極みを躬行し、小さな恩恵を去り、遊興費を節約し、官吏を審査し、兵士を訓練し、士を養い賊を滅ぼすことを優先すべきである。十年これを実行し、廃れさせなければ、貧しい者は財を殖やし、臆病な者は勇気を満たし、人々は天の徳を知り、死に赴くこと帰るが如くとなる。これをもって政治を行えば、まるで掌中を運ぶが如くである。なぜ百戦百勝の長策を捨てて、天下を一擲しようとするのか。陛下は年齢もまだ若く、桓溫も壮年の謀略があり、君臣が互いに徳業を大きく養い、吉事を包み込めば、何と愉快ではないか。

原文臣之愚計,以為且可更遣一將有威名資實者,先鎮洛陽,於陵所築二壘以奉衛山陵,掃平梁、許,清一河南,運漕之路既通,然後盡力於開墾,廣田積穀,漸為徙者之資。如此,賊見亡征,勢必遠竄。如其迷逆不化,復欲送死者,南北諸軍風馳電赴,若身手之救痛癢,率然之應首尾,山陵既固,中夏小康。陛下且端委紫極,增修德政,躬行漢文簡樸之至,去小惠,節游費,審官人,練甲兵,以養士滅寇為先。十年行之,無使隳廢,則貧者殖其財,怯者充其勇,人知天德,赴死如歸,以此致政,猶運諸掌握。何故舍百勝之長理,舉天下而一擲哉!陛下春秋方富,溫克壯其猷,君臣相與,弘養德業,括囊元吉,豈不快乎!

今、桓溫が高らかに議論を唱え、聖朝もこれに同調している。臣は軽微な身分でありながら、管見を独り献じる。発言の難しさは、まさに今日にある。しかし臣が微力を尽くして必ず天聴に達せんとするのは、諫言を憚らない朝廷において、狂った盲人が説を進め、刈り取った草や薪を取る者の謀りごとでも、聖賢はこれを察するからである。それゆえに、この上ない憂いを耐えかね、冒して陳述するのである。もし陛下が御心を垂れ、桓溫が少しでも思いを留めてくだされば、一人を屈して億兆の願いを允すことにならないだろうか。もしも干犯の罪が大きく、明らかな誅戮を加えようとされるならば、丹誠を上達させた後、退いて刑罰を受け誅殺されても、たとえ泉下に没しても、屍は朽ちないであろう。

原文今溫唱高議,聖朝互同,臣以輕微,獨獻管見。出言之難,實在今日,而臣區區必聞天聽者,竊以無諱之朝,狂瞽進說,芻蕘之謀,聖賢所察,所以不勝至憂,觸冒幹陳。若陛下垂神,溫少留思,豈非屈於一人而允億兆之顧哉!如以幹忤罪大,欲加顯戮,使丹誠上達,退受刑誅,雖沒泉壤,屍且不朽。

桓溫は孫綽の上表文を見て、快く思わず、「興公(孫綽)に伝えてくれ、どうして君の『遂初賦』を顧みず、人の家や国のことを知ろうとするのか」と言った。まもなく孫綽は廷尉卿に転じ、著作を兼任した。孫綽は若い頃から文才で称えられ、当時の文士の中で、孫綽がその筆頭であった。桓溫、王導おうどう、郗鑒、庾亮といった諸公が薨去した時は、必ず孫綽が碑文を作り、その後で石に刻んだ。五十八歳で亡くなった。

原文桓溫見綽表,不悅,曰:「致意興公,何不尋君《遂初賦》,知人家國事邪!」尋轉廷尉卿,領著作。綽少以文才垂稱,于時文士,綽為其冠。溫、王、郗、庾諸公之薨,必須綽為碑文,然後刊石焉。年五十八,卒。

子の孫嗣は、孫綽の風があり、文章はそれに次ぎ、官位は中軍参軍に至ったが、早世した。

原文子嗣,有綽風,文章相亞,位至中軍參軍,早亡。

【史評】

原文【史評】

史臣曰く、江統の風格・品行は、確かに称賛すべき点が多い。陳留には多くの士人がいたが、彼がその筆頭である。『徙戎』の論は、まさに国家経営の遠大な計画であった。しかし、国運が中衰に近づき、衰微が次第に進んでいた。仮に彼の言葉が用いられたとしても、恐らく禍を速め怨みを招き、傾きかけたものを救うことはできなかったであろう。湣懐太子が廃されて移された時、禁を犯して拝辞したのは、いわゆる命は鴻毛よりも軽く、義は熊掌よりも貴いということである。江虨は高位にあり、誠を尽くして献言と廃止を行った。江惇は栄利を遺棄し、天爵を修めた。出処は異なる道であったが、いずれも難兄難弟である。孫楚は英絢の姿を持ち、超然として群を抜き、張華ちょうかに知られたことは、誠に恥じるところがない。彼が閻纘に与えた書簡を見れば、まさに昔の優れた文章である。しかし、才能に任せて傲慢で、苞や奕を蔑ろにし、謙譲の道に背き、陵辱と憤りの気を恣にした。壮年にして沈淪したのは、まさに自ら招いたものである。江統と孫綽は、兄弟で華やかに才能を発揮し、名を中興の世に顕わし、祖先に恥じないと言えよう。江統は結局下邑に沈み、勝地を窮め、その心にかなった。孫綽は直言の論を献じ、桓溫に全く恐れず、身を顧みない節操があり、ただ文雅だけではなかった。

原文史臣曰:江統風檢操行,良有可稱,陳留多士,斯為其冠。《徙戎》之論,實乃經國遠圖。然運距中衰,陵替有漸,假其言見用,恐速禍招怨,無救於將顛也。逮湣懷廢徙,冒禁拜辭,所謂命輕鴻毛,義貴熊掌。虨位隆端石,竭誠獻替。惇遺忽榮利,聿修天爵。雖出處異途,俱難兄弟矣。孫楚體英絢之姿,超然出類,見知武子,誠無愧色。覽其貽皓之書,諒曩代之佳筆也。而負才誕傲,蔑苞忿奕,違遜讓之道,肆陵憤之氣,丁年沈廢,諒自取矣。統、綽棣華秀髮,名顯中興,可謂無忝爾祖。統竟淪跡下邑,窮觀勝地,會其心焉。綽獻直論辭,都不懾元子,有匪躬之節,豈徒文雅而已哉!