卷五十四・列傳第二十四
陸機
陸機は、 字 を士衡といい、吳郡の人である。祖父の陸遜は、吳の丞相であった。父の陸抗は、吳の大司馬であった。陸機の身長は七尺あり、その声は鐘のようであった。若い頃から並外れた才能を持ち、文章は世に冠たるもので、儒術を心から信奉し、礼に合わないことはしなかった。陸抗が亡くなると、父の兵を引き継いで牙門将となった。二十歳の時に吳が滅び、故郷に退いて門を閉ざし勉学に励み、十年の歳月を積んだ。孫氏が吳にあったこと、また祖父と父が代々將相となり、江南に大きな功績を立てたことを思い、孫皓が國を挙げてこれを棄てたことを深く慨嘆し、そこで孫権がなぜ天下を得たか、孫皓がなぜ滅びたかを論じ、さらにその祖父の功業を述べようとして、『辯亡論』二篇を作った。その上篇に次のように言う。
昔、漢王朝が統御を失い、奸臣が天命を盗み、禍いの基は京畿に起こり、毒は天下に遍く及び、皇綱は弛緩し、王室はついに衰微した。そこで群雄が蜂の如くに起こり、義兵が四方から集まった。吳の武烈皇帝(孫堅)は慷慨として地方にありながら、電光の如く荊南より発し、権謀術数は盛んにめぐらされ、忠勇は世に優れ、威光は夷羿を震盪させ、兵を交えれば醜虜は首を差し出し、ついに宗廟を掃清し、皇祖を祭祀した。この時、雲の湧き起こるような將は州を帯び、疾風の起こるような師は邑を跨ぎ、哮り闞く群れは風に駆られ、熊羆の族は霧のように集まった。兵は義によって動き、同盟して力を合わせたとはいえ、皆、禍心を包み隠し、兵力を頼みにして乱に乗じ、あるいは軍に謀略や規律がなく、威を喪い敵を肥やすことになった。忠義の規矩と武人の節操は、これほど著しいものはなかった。
武烈皇帝が没すると、長沙桓王(孫策)は逸才をもって世に名を馳せ、弱冠にして優れた才能を発揮し、遺老を招き集め、彼らと共に事業を述べた。神兵は東へと駆け、寡兵を奮い起こして衆を犯し、攻めては堅城の將なく、戦っては交鋒する敵なしであった。叛逆を誅し、服従する者を柔らげて、江外を平定し、法を整え軍を修めれば、威徳は盛大であった。名賢を賓客の礼で遇すれば、張公(張昭)がその雄となり、豪俊と交わり防げば、周瑜がその傑となった。あの二人の君子は皆、度量が広く機敏で多くの奇策を持ち、高雅で道理に通じ聡明であった。だから同じ志を持つ者は類をもって付き従い、気脈を通じる者は気質によって集まり、江東には多くの士がいたのである。北の諸華を伐ち、綱紀を乱す者を誅伐し、皇輿を夷庚(平坦な道)に戻し、帝座を紫闥(宮中)に返し、天子を擁して諸侯に号令し、天下の歩みを清めて旧来の物事に帰そうとした。兵車がすでに駐屯した時、群凶は側目して見たが、大業は未だ成らず、中年にして逝去した。
そこで我が大皇帝(孫権)が集められ、奇跡的な足跡を継ぎ、優れた軌道を襲い、聡明な心で優れた計画に従い、政治を行うに古い実例に諮り、法を布くに遺された風習を考察した。そして篤実で敬虔な態度を加え、節倹を申し述べ、才能ある俊茂に広く諮問し、謀を好み善く決断し、束帛を丘園(隠者の住む所)に贈り、旌命(表彰の命令)を路地に交わらせた。だから豪傑や俊彦は名声を尋ねて響きのように集まり、志士は光を仰ぎ見て影のように駆けつけ、異能の人は車の輻が轂に集まるように集まり、猛士は林のようであった。ここにおいて張公(張昭)は師傅となり、周瑜、陸公(陸遜)、魯肅、呂蒙の輩は内では腹心となり、外では股肱となった。甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然の徒はその威を奮い起こし、韓當、潘璋、黄蓋、蔣欽、周泰の類はその力を発揮した。風雅の面では諸葛瑾、張承、歩騭が名声をもって國を輝かせ、政事の面では顧雍、潘濬、呂范、呂岱が器量と任務をもって職務を担い、奇偉の面では虞翻、陸績、張惇が風義をもって政治を挙行し、使者を奉じる面では趙咨、沈珩が機敏で道理に通じていることで名声を広め、術数の面では呉范、趙達が吉凶の兆しをもって徳に協力した。董襲、陳武は身を殺して主君を守り、駱統、劉基は強く諫めて過ちを補った。謀略に遺漏した計はなく、挙措に失策はなかった。そこでついに山川を割拠し、荊州と吳を跨いで制し、天下と覇を競うことになったのである。魏氏はかつて戦勝の威を借りて、百万の師を率い、鄧塞の舟を浮かべ、漢陰の衆を下し、羽楫(軍船)は万を数え、龍のように順流に躍り出て、鋭い師団は千旅、武歩は原隰を踏み、謀臣は室に満ち、武將は連衡し、喟然として江滸を呑み込む志、宇宙を一つにする気概を持った。しかし周瑜が我が偏師を駆って、これを赤壁で退け、軍旗を喪い車の轍を乱し、かろうじて免れ、跡を収めて遠く遁走した。漢王(劉備)もまた帝王の号を憑み、巴・漢の人を帥い、危険に乗じて変に駆け、千里にわたって陣営を結び、関羽の敗北を報いようと志し、湘西の地を収めようと図った。しかし我が陸公(陸遜)もまたこれを西陵で挫き、師団を覆滅させて敗北させ、窮地に陥れた後に救い、永安で命を絶たせた。続いて濡須の敵寇は、臨川で鋭気を摧き、蓬蘢の戦いでは、車輪一つ帰らなかった。これによって二國の將は、気力を喪い鋒を挫かれ、勢力は衰え財は乏しくなり、呉は莞然として座してその弊に乗じた。だから魏人は友好を請い、漢氏は盟を乞い、ついに天子の号に昇り、鼎の足のように対峙して立ったのである。西は庸・益の辺境を境とし、北は淮・漢の水辺で割き、東は百越の地を包み込み、南は群蠻の外にまで及んだ。ここにおいて八代の礼を講じ、三王の楽を搜し、上帝に類を告げ、群后に拱手して揖した。武臣と毅卒は、江に沿って守りを固め、長い棘と強い鎩は、疾風を見て奮い立った。百官は上で規を尽くし、民衆は下で業を展開し、教化は異なる種族にまで調和し、風俗は遠い辺境にまで広がった。そこで一人の行人を使者として、外域を巡撫させ、巨象や逸駿は外の厩舎で飼いならされ、明珠や瑋寶は内府で輝き、珍しい瑰寶は重なって跡を連ねて至り、奇玩は呼応して赴いた。軽車は南の荒野を駆け巡り、衝車は北の野に息を潜めた。民衆は干戈の患いを免れ、軍馬は朝に服する憂いがなく、帝業は固まったのである。
大皇帝が没すると、幼い主君が朝廷に臨んだが、奸邪な者が虐政をほしいままにした。景皇帝(孫休)が興り、遺された憲法を敬虔に修め、政治に大きな欠点はなく、文を守る良き主君であった。帰命侯(孫皓)の初めに至るまで、典刑はまだ滅びず、故老はなお存命していた。大司馬の陸公(陸抗)は文武の才で朝廷を盛んにし、左丞相の陸凱は直言して規諫を尽くし、施績と范慎は威厳と重厚さで顕れ、丁奉と鐘離斐は武毅をもって称えられ、孟宗、丁固の徒は公卿となり、楼玄、賀邵の類は機密事務を掌った。元首(君主)は病んでいたが、股肱(臣下)はなお良かった。末葉に至って、群公が既に亡くなると、その後、民衆には瓦解の患いが生じ、皇家には土崩の兆しが現れ、天命は応化に従って衰微し、王師( 晉 軍)は運に乗じて発動し、兵卒は陣中で散り、民衆は邑に奔り、城池には籬の如き堅固さはなく、山川には溝や丘のような地勢もなく、工輸(公輸盤)の雲梯のような兵器もなく、智伯の灌水激流のような害もなく、楚子の築室の囲みもなく、燕人の済西の軍もないのに、軍が十二日も経たないうちに 社稷 は平らげられてしまった。たとえ忠臣が孤憤を抱き、烈士が節を守って死んだとしても、どうして救えようか!
そもそも曹操や劉備の將は、一世で選ばれたものではなく、当時の軍勢も昔ほどの数はなく、戦い守る道理も前代の符節に抑えられ、険阻の利も突然変わったわけではないのに、成敗の道理は入れ替わり、古今の趣きは異なっている。なぜか? それは、彼我の教化が異なり、人材を任用する才能が違うからである。
その下篇に次のように言う。
昔、三方の国が鼎立していた時、魏は中原を占拠し、漢(蜀漢)は岷・益の地を有し、呉は荊・揚を支配し、さらに交州・広州を覆っていた。曹氏(魏)は華夏の諸国を救う功績はあったが、虐政もまた深く、その民は怨んでいた。劉翁(劉備)は険阻な地勢を利用して智謀を飾ったが、功績はすでに薄く、その風俗は鄙陋であった。呉においては、桓王(孫策)が武力をもって基礎を築き、太祖(孫権)が徳をもって完成させた。その聡明さと英知は卓越し、その度量は広大で遠大であった。賢人を求めることは追い付かないかのようであり、民を労わることは幼子に対するようであった。士人に接するには盛徳の容姿を尽くし、仁者に親しむには真心の愛を注いだ。呂蒙を兵士の列から抜擢し、潘浚を捕虜の中から試用した。誠信を士人に推し進め、人が自分を欺くことを気にかけず、能力に応じて官職を授け、権力が自分を脅かすことを憂えなかった。鞭を執り身をかがめて、陸公(陸遜)の威厳を重んじ、武衛の任をすべて委ねて、周瑜の軍勢を助けた。宮殿を質素にし食事を粗末にして、功臣への賞賜を豊かにし、襟を開き虚心坦懐で、謀士の献策を受け入れた。それゆえ魯肅は一度会っただけで身を託し、士燮は危険を冒して忠節を尽くした。張公(張昭)の徳を高く掲げて、遊猟の娯楽を控え、諸葛(諸葛瑾)の言葉を賢しとして、情欲の歓びを断ち切り、陸公(陸遜)の諫言に感じて、刑法の煩わしさを除き、劉基の議論を奇として、三爵の誓いを作った。息をひそめて謹慎し、子明(呂蒙)の病気を見守り、滋養を分け甘いものを減らして、淩統の孤児を育てた。壇に登って慷慨し、魯子(魯粛)の功績を称え、投書を削って怨言を退け、子瑜(諸葛瑾)の節義を信じた。このため忠臣は競ってその謀略を尽くし、志士はみな力を発揮することができ、宏大な規律と遠大な方略は、もとよりこの小さな国を満足させないものではなかった。ゆえに百官はおおむね和合し、諸々の政務に追われることはなかった。初めに建鄴に都した時、群臣は礼制と官位を整えるよう請うたが、天子(孫権)は辞退して許さず、「天下の人は朕をどう思うだろうか」と言った。宮室や車馬・衣服は、おおよそ満足しない程度であった。中世に至って、天と人の分界が定まったので、あらゆる制度の欠陥がおおむね修復され、濃厚な教化と美しい綱紀は、上古の時代には及ばないものの、その国を治め経営するための方策も、政治を行うには十分であった。国土はほぼ万里四方、武装兵は百万に近く、その田野は肥沃で、その兵士は訓練され、その武器は鋭利で、その財貨は豊かであった。東は蒼海を背負い、西は険しい要害に阻まれ、長江がその区域を制し、険しい山々がその封域を取り巻く。国家の利益は、これ以上に大きいものは見られなかった。仮に道をもってこれを守り、術をもってこれを統御し、遺された法典を篤実に守り、民を励まし政務を謹み、定まった策を修め、常に険阻な地を守れば、長く世を保ち永年に至り、危亡の患いはなかったであろう。
ある者は言う。「呉と蜀は唇と歯のような関係の国であり、蜀が滅べば呉も滅びる、道理として当然である」と。蜀は、まさに藩屏として援護する同盟国ではあるが、呉人の存亡そのものではない。両国の国境が接する地域は、重なる山々と積み重なる険阻で、陸路には長い車の通れる道はなく、川は狭く流れが速く、水路には驚くべき波濤の難所がある。たとえ鋭い軍勢が百万あっても、進軍できるのは千人を超えず、船が千里連なっても、先鋒は百艦を超えない。だから劉氏(蜀漢)の征伐について、陸公(陸遜)は長蛇に喩えたのであり、その地勢がそうさせるのである。昔、蜀が初めて滅亡した時、朝廷の臣たちは意見が分かれ、ある者は石を積んでその流れを険しくすべきと言い、ある者は機械仕掛けでその変事を防ぐべきと言った。天子(孫晧)は群臣の議論をまとめて大司馬の陸公(陸抗)に諮問した。陸公は、四瀆(長江・黄河・淮河・済水)は天地が気を調節し発散させるものであり、もともと塞ぎ止める道理はなく、機械仕掛けは敵味方ともに用いることができる、と述べた。もし彼ら(晋)が長所を捨てて短所に就き、荊・楚の地で舟船の利用を争うならば、それは天が我々を助けているのであり、峡口を厳重に守って敵の捕縛を待つだけである、と。歩闡の乱の時、彼は宝城(西陵)に拠って強敵の侵入を引き延ばし、多額の財貨を以て諸蛮族を誘った。当時、大国(晋)の大軍は、雲が翔け電光が発するが如く、旗を長江のほとりに掲げ、渚に沿って堡塁を築き、要害の地を襟帯のように押さえて、呉人の西進を阻止し、巴・漢の水軍は長江を下って東進した。陸公は偏師三万を率いて北の東坑を占拠し、深い堀を掘り高い塁を築き、甲冑を整え威勢を養った。反逆者はうずくまって誅殺を待つばかりで、北の生路を窺うことすらできず、強敵は敗走して夜のうちに逃げ去り、軍勢の大半を失った。さらに精鋭五千を分遣して西の水軍を防ぎ、東西で同時に勝利し、捕虜を数万単位で献上した。誠に賢人の謀りごとは、どうして我々を欺くことがあろうか。これ以来、烽火の警報はめったになく、封域に憂いは少なかった。陸公が没すると密かな謀略の兆しが現れ、呉に禍いが深まると六軍は震撼した。太康の役(晋の呉平定)では、軍勢はかつての師団ほど盛んではなかった。広州の乱では、災禍は以前の難事よりもひどかったが、国家は転覆し、宗廟は廃墟となった。ああ、「人がいなくなれば、国は病み衰える」というが、まさにその通りではないか。
『易経』に「湯王と武王の革命は天に順う」とあり、また「乱が極まらなければ治世は形を現さない」と言うのは、帝王が天の時勢に乗じることを言う。古人の言葉に「天の時勢は地の利に及ばない」とあり、『易経』に「王侯は険阻な地を設けてその国を守る」と言うのは、国を治める者が地の利に頼ることを言う。また「地の利は人の和に及ばない」「(国の存続は)徳にあって険にあらず」と言うのは、険阻な地を守るのは人にあることを言う。呉の興隆は、この三つ(天時・地利・人和)を兼ね備えていたのであり、荀子が言うところの「三つを合わせる」状態である。その滅亡に至っては、ただ地の利に頼っただけであり、また荀子が言うところの「三つを捨てる」状態である。四州の民衆は多くなくはなく、大江の以南には俊才が乏しいわけではなく、山川の険阻は守りやすく、鋭利な武器は使いやすく、先代の政事の方策は修めやすい。それなのに功業が興らず災禍が巡ってくるのはなぜか。それを使う者が誤っているからである。だから先王は、国を治める長遠な規律に通じ、存亡の根本的な道理を明らかにし、自らを謙って百姓を安んじ、恩恵を厚くして人の和を招き、寛大で虚心坦懐で俊才の謀略を誘い、慈愛と温和で士民の愛着を結んだ。このためその安泰な時には、民衆と共に慶び、その危険な時には、万民と共に患難を分かち合った。安泰を民衆と共に慶べば、その危険は生じ得ず、危険を臣下と共に患えば、その難事は憂えるに足らない。そうであるからこそ、その 社稷 を保ちその国土を固めることができ、『麦秀』の詩に殷を悲しむ思いはなく、『黍離』の詩に周を哀れむ感慨はないのである。
太康の末年に至り、弟の 陸雲 と共に 洛陽 に入り、太常の 張華 を訪れた。張華は平素から彼の名声を重んじており、旧知のように接し、「呉討伐の戦役の利は、二人の俊才を得たことだ」と言った。またかつて侍中の王済を訪れた時、王済は羊の乳酪を指して陸機に言った。「あなたの呉の地には、これに匹敵するものはあるか」と。陸機は答えて言った。「千里の蓴羹(じゅんこう)も、塩豉(えんし)を下す前には(及ばない)」と。当時の人はこれを名答対と呼んだ。張華は彼を諸公に推薦した。後に太傅の楊駿が彼を祭酒に辟召した。楊駿が誅殺されると、累進して太子洗馬、著作郎となった。范陽の盧志が大勢の中で陸機に尋ねた。「陸遜と陸抗はあなたとどのくらい近い関係か」と。陸機は言った。「あなたと盧毓、盧廷との関係と同じくらいです」と。盧志は黙り込んだ。退出後、陸雲が陸機に言った。「異国の遠方の地では、互いの事情を詳しく知らないこともあるだろう、どうしてそこまで言う必要があったのか」と。陸機は言った。「我が父祖の名は四海に轟いている、どうして知らないことがあろうか」と。議論する者はこれによって二陸(陸機と陸雲)の優劣を定めた。
呉王司馬晏が淮南に出鎮すると、陸機を郎中令とし、 尚書 中兵郎に昇進させ、殿中郎に転任させた。趙王 司馬倫 が政務を補佐すると、彼を相国参軍に引き入れた。賈謐誅殺の功績に与り、関中侯の爵位を賜った。 司馬倫 が帝位を 簒奪 しようとした時、彼を中書郎とした。 司馬倫 が誅殺された時、斉王司馬冏は、陸機が中書省に職務にあり、 九錫 の文と 禅譲 の 詔 書に関与したのではないかと疑い、陸機ら九人を逮捕して廷尉に引き渡した。成都王司馬穎と呉王司馬晏がともに救護して弁明したおかげで、死刑を減じられ辺境への流刑となり、赦令に遇って中止された。
かつて陸機には駿犬がいて、名を黄耳と言い、非常に可愛がっていた。その後、京師に寄寓していたが、長らく故郷からの便りがなかった。陸機は犬に笑いながら言った。「我が家からはまったく手紙が来ないが、お前は手紙を届けて消息を持って来ることができるか」と。犬は尾を振って声を立てた。陸機は手紙を書いて竹筒に入れ、それを犬の首に結びつけた。犬は道を尋ねて南へ走り、遂にその家に着き、返事を得て洛陽に戻った。その後、これが常例となった。当時、中原は多難であり、顧栄や戴若思らはみな陸機に呉に帰るよう勧めたが、陸機はその才能と声望を恃み、世の難を救おうとする志があったので、従わなかった。
司馬冏は功績を誇り自らを称え、爵位を受けるのに譲らず、陸機はこれを憎み、『豪士賦』を作ってこれを風刺した。その序文に言う。
徳を立てる基礎には不変のものがあるが、功績を立てる道筋は一つではない。なぜか。心を修めて度量とすることは自分にあり、物事に依って事業を成すことは相手によるからである。自分にあるものは、盛衰がその領域内に止まる。相手によるものは、豊かさや不足は遭遇する状況次第である。落ち葉は微風を待って落ちるが、風の力はむしろ少ない。孟嘗君は雍門周に遭って泣いたが、琴の感動は末梢的であった。なぜか。落ちようとする葉は烈風を借りる必要がなく、今にも落ちそうな涙は哀切な響きを煩わせるに足りないからである。だからもし天が時を開き、理が人に尽きるならば、凡夫でも聖賢の功績を成し遂げることができ、器量の小さい者でも烈士の事業を定めることができる。故に「才能は古代の半分にも及ばないのに、功績は倍になった」と言うのは、時勢によって得られたからである。古今を歴覧すると、一時の功績を頼みに伊尹や周公のような地位に居る者もいる。
自分自身を自分として認識することは、知者でもそのわずらわしさを免れない。物が互いに物として相対することは、昆虫でさえもこの情を持っている。自分自身の度量で並外れた勲功を抱え、神器(帝位)がその一瞥を輝かせ、万物がその俯仰に従い、心は常態の安らぎを楽しみ、耳はへつらいの言葉に飽き満ちている時、どうして功績が身の外にあり、任務が才能の外に出ていることを認識できようか。しかも栄誉を好み恥辱を嫌うことは、生き物の大きな願望であり、満ちることを忌み上を害うことは、鬼神でさえ免れない。君主が常柄を操り、天下がその大節に服するので、天に仇をなすことはできないと言うのである。それなのに時に黒衣を着て戟を担ぎ、廟門の下に立ち、旗を掲げて衆に誓い、阡陌の上で奮い立つ者がいる。ましてや世の君主が命令を制定し、下の者が物事を裁断する場合などなおさらである。広く恩を施しても怨みに敵わず、盛んに利益を興しても害を補えない。故に大工の代わりに木を削る者は必ず手を傷つけると言う。しかも政が甯氏によって行われれば、忠臣は慷慨する所以であり、祭祀だけが寡人(君主)であれば、君主は長く耐えられない。それ故に君奭はふてくされて、周公旦の挙動を喜ばず、高平侯(魏相)は師師として、博陸侯( 霍光 )の勢威を横目で見た。そして成王は懐に嫌疑の念を残さず、宣帝は背中に芒刺を負うような思いをした。そうではなかっただろうか。
ああ、四方に光を放ち、徳はこれ以上に豊かなものはない。王が叔父と呼び、親密さはこれ以上に近いものはない。帝位に登り、功績はこれ以上に厚いものはない。節操を守って生涯を終え、忠誠はこれ以上に至極なものはない。それでも傾き倒れて転び、かろうじて自らを全うするだけである。ならば伊尹は明允を抱いて殺害され、文子は忠敬を懐いて剣にかかったのも、もとより当然のことであった。これによって言えば、篤実で聖明、和やかで親密、あのように優れた者でも、大徳と至忠、このように盛んな者でも、なお君主の懐に信頼を得ず、多くの口による誹謗を止めることができない。これ以上のことについては、どうしてその可能なところを見ることができようか。安泰と危険の道理は、はっきりと認識できる。ましてや大きな名声を貪って道家の忌 諱 を冒し、短い才能を働かせて聖哲ですら難しいことを容易にしようとする者など、なおさらである。身の危険は勢威の過剰から生じるのに、勢威を去って安泰を求めることを知らない。禍が積もるのは寵愛の盛んなことから起こるのに、寵愛を辞して福を招くことを知らない。百姓が自分を謀っているのを見れば、宮殿を警備して守りを固め、蓄えられない威厳を高める。万方が服従しないのを恐れれば、厳しい刑罰と峻烈な制度で、心を傷つける怨みを買う。そうして威光は君主を震え上がらせるほどに窮まり、怨みは上下に行き渡り、衆人の心は日に日に崩れ、危機が発しようとしているのに、あぐらをかいて目をむき、世に誇るに足ると言い、古人の未熟さを笑い、自分自身の事柄のすでに拙いことを忘れ、過去の勲功が誇れるものと知りながら、成敗には機会があることを暗くする。それ故に事が窮まり運が尽きれば、必ず転倒する。風が起こり塵が合わされば、禍は常に酷いものとなる。聖人は功績名声が自分を超えることを忌み、寵愛と禄が度量を超えることを嫌う。まさにこのためである。
悪と欲の大きな端緒は、賢者と愚者がともに持つものである。遊子は生前に高位のために命を捨て、志士は死後に名を残そうと考える。生き物としての本分は、これだけである。世を覆う事業は、名声以上に盛んなものはない。思いのままに違わず、欲望以上に順調なものはない。もしその人が天道を少し見て、尽きるものは増やせず、満ちたものは長く保てないことを知り、超然として自ら引き、高らかに揖して退けば、そびえ立つ盛んな様は、仰いで前の賢者を遠くにし、広々とした風は、俯いて後の歴史を見渡し、大きな欲望は身に止まらず、最高の楽しみは旧来のものに過ちがなく、節操はますます効果を発揮し徳はますます広がり、身はますます安楽で名声はますます高くなる。これをせず、あれに必ず迷うならば、その後、河海の跡は埋もれて細流となり、一つの箱のひび割れが積もって山岳となり、名は凶悪な頑迷者の列に編まれ、身は苦痛の毒に飽き満ちる。なんと誤りではないか。それ故にしばらく賦を作る。百世の後、少しでも悟る者があればよいと思う。
司馬冏はこれを悟らず、ついに敗北した。
陸機はまた、聖王が国を経営するには、封建に意義があると考え、その遠大な主旨を採り上げて『五等論』を著した。その文は次のようである。
国を治め野を経営することは、先王が慎重にしたことであり、制度を創始して基礎を後世に伝えることは、後代を隆盛にしようと考えるからである。しかし経営の方略は同じではなく、長く世を治める術も異なる。五等(公・侯・伯・子・男)の制度は、黄帝・堯の時代に始まり、郡県の統治は、秦・漢の時代に創始された。得失成敗は、典籍に詳しく記されているので、その詳細を述べることができる。
王者は帝業が最も重く、天下が最も広いことを知っている。広いものは偏った統制ではできず、重いものは独力で担うことはできない。重い任務を担うには必ず力を借り、広いものを統制するには結局人による。それ故に官を設け職を分けるのは、その任務を軽くするためである。伍長を並べて建てるのは、その制度を広げるためである。そこで封疆の典を立て、親疏の宜しきを裁断し、万国が互いに支え合って、盤石のように固いものとし、宗族と庶民が雑居して、城を守る事業を定める。また、世を安んじる長い統治の術を見、人情の大きな道理を識り、他人のためにするより自分を厚くする方が良いこと、物事に利益を与えるより身を図る方が良いことを知る。上を安んじるには下を喜ばせることにあり、自分のためにするには他人を利することにある。故に『易経』に「喜ばせて人を使えば、人はその労苦を忘れる」と言い、荀子に「利益を与えずに利益を得ようとするより、利益を与えてから利益を得る方が利益である」と言う。それ故に天下を分けて厚い楽しみを与えれば、自分もそれと憂いを共にし、天下に豊かな利益を享受させれば、自分もそれと害を共にする。利益が広く恩が篤ければ、楽しみが遠く憂いは深くなる。故に諸侯は土地を食む実を享受し、万国は代々伝わる福を受ける。そうすれば、南面する君主はそれぞれその政務に務め、九服の内には定まった主君がいることを知り、上からの慈愛はここに生まれ、下からの礼儀と信義はここに結ばれる。世が平穏であれば風俗を厚くするのに十分であり、道が衰えれば暴虐を防ぐのに十分である。故に強固な国でも一時の勢いに専横できず、雄俊な人でも覇王の志を託すところがない。そうして後に国が安泰なのは万邦が教化を思うからであり、君主が尊ばれるのは諸侯が身を図るからである。あたかも多くの目が四方を営めば、天の網は自ら広がり、四肢が難を辞すれば、心臓と脊骨は治まるようなものである。これが三代が正道を行い、四王が業績を後世に伝えた所以である。
盛衰と隆弊は、道理上固有のものであり、教化の廃興は、人による。法の根源は必ず信頼されることを期し、道を明らかにすることも時に暗くなる。故に世襲の制度は強暴な者によって弊害が生じ、下を厚くする法典は末端の折衝に漏れが出る。弱い者を侵す禍いは三つの委任から遭遇し、衰微の禍いは七雄に至って終わる。昔、成湯は自ら夏の君主の鑑を照らし、周公旦は目の当たりに商人の戒めを見た。文と質は互いに補い合い、損益には物事がある。しかし五等の礼は時代によって変わらず、封土の境界の制度はむしろ隆盛した者がいる。二王の禍いを軽んじて経世の計算を暗くしたのだろうか。百世のことは予め統御できないこと、良い制度でも弊害がないわけではないことを固く知り、弱い者を侵す恥辱は祭祀を絶つよりひどく、土崩れの苦しみは衰微より痛ましいからである。それ故に経営を始めて多くの福を得、終わりを慮って少ない禍を取るのであって、侯伯には乱れのない符契がなく、郡県には教化を興す道具がないと言うのではない。故に国の憂いはその位を解くことに頼り、君主が弱ければ翼賛と擁戴に依る。微かな弊害が積もり、王室が遂に卑下しても、なお名位を保ち、福が後嗣に伝わり、皇統は幽かでも絶えず、神器は塞がっても必ず存続するのは、まさに事勢がそうさせたのではないか。
秦が滅亡するに至り、道を捨てて術策に頼り、周の過ちを戒めとして、自らの得策を誇った。庇護すべき所から斧を探し始め、国を治めるのに弱い下位者を愚弄し、国の慶事は独りでその利益を享受し、君主の憂いは共に害を分かち合う者がいなかった。速やかに滅亡し乱れに急ぐのは、必ずしも一つの道理によるものではないが、転倒困窮のきっかけは、実に孤立から生じた。これは五等爵制の小さな怨みを思い、万国の大いなる恩徳を忘れ、衰微の患いを知りながら、土崩れの痛みを暗愚にしていたのである。周が競争力を失ったのは、由来があった。国には名君が乏しく、十余世に及んだ。しかし一片の言葉で王を助けようとすれば、諸侯は必ず応じ、一朝にして傲慢に振る舞えば、遠国の諸侯が先に叛いた。だから強大な晋はその請隧の企てを阻止し、暴虐な楚はその鼎を観る野心を挫かれた。どうして劉邦や項羽が関を窺い、陳勝や呉広が沢で号令を敢えてできようか。仮に秦の人が周の制度を踏襲していたならば、たとえ無道であっても、共に滅びる者がいたはずで、覆滅の禍いは、どうして昔のようになっただろうか。
漢は秦の過ちを正し、大いに王侯を封じたが、領土が過剰に広がり、旧来の典範に従わなかった。それ故に賈誼はその危険を憂え、晁錯はその乱れを痛んだ。このため諸侯はその国家の富を頼みとし、その士民の力を背景にし、勢力が十分な者はかえって急速に、土地が狭い者は逆に遅く、六人の臣下がその弱い綱紀を犯し、七人の王子がその漏れた網を突き破った。皇祖は平民の徒に殺され、西京( 長安 )は東帝(呉王劉濞)に苦しめられた。これは過度な是正の災いであって、封建諸侯を置いたことの累ではなかった。しかし呂氏の難に際しては、朝廷の士人は外の諸侯を顧みた。宋昌が漢の文帝即位を策した時も、必ず諸侯を称えた。中世に至り、その節操を失うことを忌み嫌い、宗族の子弟を削減し、名ばかりで実がなく、天下は広漠として、再び滅びた秦の軌跡を踏襲したのである。このため五侯が威を振るい、万国を憚らなかった。新都侯王莽が漢を襲うのは、遺物を拾うよりも容易だった。光武帝が中興し、皇統を継いで隆盛を極めたが、それでも覆った車のわだちを踏襲し、喪家の持病を養い、わずか数世の間に、奸悪の輩が斥けられた。ついに強臣が朝廷を専断すれば、天下は風靡し、一人の者が合従連衡を唱えれば、城壁は自ら崩れた。どうして危険でないと言えようか。
周の衰微の時、王室に難が起こり、命令を放棄した者が七人の臣下、地位を犯した者が三人の王子、継承した王はその九鼎を委ね、凶暴な一族がその王都を占拠し、征鼓が宮廷内に響き渡り、矢が宮殿に飛び交った。しかし禍いは京畿に止まり、害が広く及ぶことはなく、天下は平穏で、危険を待ちながら安泰であった。このため宣王は共和の時代に興り、襄王と恵王は晋や鄭によって振るい立たされた。どうして二漢のように、宮中の階段や門が一時乱れただけで、四海が沸騰し、寵臣が朝に入れば、九服が夕には乱れるようなことがあろうか。
遠くは王莽の 簒 逆の事を思い、近くは董卓が権力を擅にした際を眺めると、億兆の民が心を痛め、愚者も智者も同じく悲しんだ。しかし周はそれによって存続し、漢はそれによって滅亡した。それはなぜか。はたして世に昔のような臣下が乏しく、士人に国を匡正し天下を合わせる志がなかったからか。おそらく遠大な功績が時代の違いによって屈し、雄心が卑しい勢力によって挫かれたからであろう。それ故に烈士は腕を扼んで悔しがり、ついには敵の手に委ね、中途半端な者は節操を変えて、暴虐な国の傑物を助けた。たとえ時に同志を鳩合して王室を謀る者があったとしても、上には奥深い主君がおらず、下は皆市井の人であり、軍旅にはあらかじめ定まった序列がなく、君臣には互いを保とうとする志がなかった。このため義兵が雲のように集まったが、劫略殺戮の禍を救うことはできず、衆望がまだ変わらないうちに、すでに大漢の滅亡を見たのである。
ある者は「諸侯が世襲の地位にあると、必ずしも常に完全ではなく、暗愚な主君や暴虐な君主が時として並び立つ。それ故に五等爵制は乱れが多い。今の州牧や郡守は皆、官職に相応しい凡庸な能力の持ち主であり、たとえ失敗することはあっても、成功することの方が確かに多い。だから郡県制は政治を行いやすい」と言う。徳が美しく明らかであれば、罷免や昇進が日常的に行われ、長官とその配下が連携し、皆その職務を遂行する。そして淫乱で暗愚な郡には過失を容れる余地がなく、どうして治まらないことがあろうか。それ故に先代はこれによって興ったのである。もし衰微し傾けば、あらゆる制度は自ら乱れ、官職を売る役人は財貨で価値を計り、貪欲で残忍な輩が皆諸侯のようになる。どうして乱れないことがあろうか。それ故に後の王はこれによって廃れたのである。要するに、五等爵の君主は、自らのために政治を正そうとし、郡県の長官は、官吏として物事を図ろうとする。どうしてこれを証明できるか。およそ及ぼうとし進取することは、士人の常なる志であり、己を修め人を安んじることは、優れた士人が希求し及ぼすところである。進取の情熱は鋭く、人を安んじる名誉は遅い。それ故に百姓を侵して己の利益を図ることは、在位者が憚らないことであり、実事を損なって名声を養うことは、官長が昔から慕うことである。君主には一年を貫く計画がなく、臣下は一時の志を抱く。五等爵制はそうではない。国が己の土地であり、民衆が皆我が民であることを知っている。民が安らかであれば、己もその利益を受け、国が傷つけば、家もその病を被る。それ故に前の者は後世に伝えようと欲し、後継者はその祖先の事業を思う。上位者に苟且の心がなく、群下には結束固き義理を知る。彼らを並べて賢者として政務に就かせれば、功績には厚薄があり、二人の愚者が乱れた状況に置かれれば、過失には深浅がある。そうすると、八代の制度は、ほぼ一つの道理で貫くことができ、秦や漢の法典は、ほぼ一言で蔽うことができる。
当時、成都王司馬穎は功績を誇らず、労を惜しまず謙虚に士人に接した。陸機は既に全うされ救われた恩義に感じ入り、また朝廷にたびたび変難があるのを見て、司馬穎が必ずや晋室を隆盛に導けると考え、ついに身を委ねた。司馬穎は陸機を大将軍軍事に参じさせ、平原内史に上表した。太安初年、司馬穎は河間王 司馬顒 と共に兵を起こして長沙王司馬乂を討ち、陸機を後将軍・河北大 都督 に仮任し、北中郎将王粹、冠軍将軍牽秀ら諸軍二十余万人を督させた。陸機は三代にわたって将軍となり、道家の忌むところであり、また他郷から官途につき、多くの士人の上位に立って駐屯することになり、王粹や牽秀らは皆怨みの心を持っていたので、 都督 の任を固辞した。司馬穎は許さなかった。陸機の同郷人孫恵もまた陸機に 都督 を王粹に譲るよう勧めたが、陸機は「私が首鼠両端で賊を避けていると思われるなら、かえって禍を速めることになる」と言った。ついに出発した。司馬穎は陸機に言った。「もし功績が成り事が定まれば、郡公に爵位を与え、台司の位に就けよう。将軍、努めよ」。陸機は言った。「昔、斉の桓公は管仲を任用して九合の功を建て、燕の恵王は楽毅を疑って成りかけた事業を失った。今日の事は、公(司馬穎)にかかっており、機(私)にはかかっていません」。司馬穎の左長史盧志は内心、陸機の寵愛を妬み、司馬穎に言った。「陸機は自らを管仲や楽毅に比べ、君を暗愚な主君に擬しています。古来、将を命じ師を遣わすのに、臣下がその君主を凌いで事を成し遂げた例はありません」。司馬穎は黙り込んだ。陸機が初めて軍務に臨んだ時、牙旗が折れ、非常に不吉に思った。軍を朝歌から河橋まで列ね、鼓の音は数百里に聞こえ、漢や魏以来、出師の盛んなこと、かつてなかった。長沙王司馬乂が天子を奉じて陸機と鹿苑で戦い、陸機の軍は大敗し、七里澗に赴いて死んだ者は積み重なるほどで、水は流れなくなった。将軍賈棱もまたそこで戦死した。
初めに、宦官の孟玖の弟の超は共に司馬穎に寵愛されていた。超は一万人を率いて小 都督 となり、戦わないうちに兵を放って大いに略奪させた。陸機はその主犯者を捕らえた。超は百余騎の鉄騎を率いて、まっすぐに陸機の麾下に突入してこれを奪い返し、振り返って陸機に言った。「貉奴め、 都督 が務まるか!」陸機の司馬の孫拯は陸機に超を殺すよう勧めたが、陸機は採用しなかった。超は大衆に向かって宣言した。「陸機は反乱を起こそうとしている。」また、孟玖に手紙を送り返し、陸機が両端を持ち、軍を迅速に決断させないと述べた。戦いになると、超は陸機の指揮を受けず、軽兵を率いて単独で進撃し、戦死した。孟玖は陸機が超を殺したと疑い、ついに陸機を司馬穎に讒言し、異心があると述べた。将軍の王闡、郝昌、公師籓らは皆孟玖に任用された者で、牽秀らと共にこれを証言した。司馬穎は大いに怒り、牽秀に密かに陸機を逮捕させた。その夜、陸機は黒い車帷が車を巡る夢を見、手で引き裂こうとしても開かなかった。夜が明けると牽秀の兵が到着した。陸機は軍服を脱ぎ、白い帢(か)をかぶり、牽秀と面会した。神色は自若としており、牽秀に言った。「呉の朝廷が滅亡して以来、我が兄弟と宗族は国の厚い恩恵を受け、内では帷幄に侍し、外では符節や竹符を授かってきた。成都王(司馬穎)は私に重任を命じられたが、辞退できなかった。今日誅殺されるのは、まさに天命ではないか!」そこで司馬穎に手紙を書き、言葉は非常に悲しみに満ちていた。やがて嘆息して言った。「華亭での鶴の鳴き声を、再び聞くことができようか!」ついに軍中で殺害され、その時四十三歳だった。二人の子、蔚と夏も共に殺害された。陸機は罪なくして死んだので、兵士たちはこれを痛み、涙を流さない者はいなかった。この日は暗い霧が昼間も立ち込め、大風が木を折り、平地に一尺の雪が積もった。議論する者はこれを陸氏の冤罪のためだと考えた。
陸機は天賦の才能が秀でて優雅で、文章の修辞は雄大で華麗であった。張華はかつて彼に言った。「人が文章を書くとき、常に才能が少ないことを恨むものだが、あなたはむしろ才能が多すぎることを患っている。」弟の陸雲はかつて手紙で言った。「君苗(崔君苗)は兄の文章を見ると、すぐに自分の筆硯を焼きたくなる。」後に葛洪が著書で称えて言った。「陸機の文章は玄圃(伝説の玉の園)に積まれた玉のようで、夜光の玉でないものはなく、五つの河が流れを吐くようで、泉源は一つであるかのようだ。その雄大で華麗、美しく豊かで、英気鋭く飄逸なところも、一代の絶品であろう!」彼が人々に推賞され敬服されたのはこのようであった。しかし、権力の門に遊ぶことを好み、賈謐と親しく交わり、進んで権勢に近づいたことで非難を受けた。著した文章は合わせて三百余篇あり、すべて世に行われた。
孫拯
孫拯という者は、字を顯世といい、呉郡富春の人である。文章を書くことができ、呉に仕えて黄門郎となった。孫皓の時代、侍臣の多くが罪を得たが、孫拯と顧栄だけが知恵をもって身を全うした。呉が平定された後、涿県令となり、称賛される実績を上げた。陸機が孟玖らに誣告されて逮捕されると、孫拯も拷問を受け、両足のくるぶしの骨が露出するほどだったが、終始供述を変えなかった。門下生の費慈と宰意の二人が獄に赴いて孫拯の無実を明らかにしようとした。孫拯は譬えを用いて彼らを帰らせようとして言った。「私は義によって友人を知りながら誣告されるわけにはいかない。あなたがたはどうしてまたそうする必要があるのか。」二人は言った。「私どももどうしてあなたに背けましょうか!」孫拯はついに獄中で死に、費慈と宰意も死んだ。
陸雲
陸雲は字を士龍といい、六歳で文章を書くことができ、性格は清く正しく、才知と道理を備えていた。幼い頃から兄の陸機と並び称され、文章は陸機に及ばないが、議論を立てる点では陸機を超え、「二陸」と号された。幼い時、呉の尚書の広陵の閔鴻が彼を見て驚き、「この子は龍の子駒でなければ、鳳凰の雛であろう。」と言った。後に陸雲を賢良に推挙した時、十六歳だった。呉が平定されると、洛陽に入った。陸機が初めて張華を訪れた時、張華は陸雲はどこにいるかと尋ねた。陸機は「陸雲は笑い癖があり、自らお目にかかることをためらっています。」と言った。間もなく陸雲が到着した。張華は風采がよく、また帛の紐でひげを縛ることを好んでいた。陸雲はそれを見て大笑いし、自分を抑えることができなかった。以前、喪服を着て船に乗り、水中に自分の影を見て、大笑いして水に落ち、人に救われて助かったことがあった。陸雲と荀隠は以前から面識がなかったが、かつて張華の座で会ったことがある。張華が「今日の出会いは、常套的な話はやめよう。」と言うと、陸雲は手を挙げて言った。「雲間(松江)の陸士龍。」荀隠は言った。「日下(洛陽)の荀鳴鶴。」鳴鶴は荀隠の字である。陸雲はまた言った。「青雲を開いて白雉を見たなら、どうして弓を張り、矢を挟まないのか。」荀隠は言った。「元々雲中の龍が駿足で走ると思っていたら、山鹿や野の麋であった。獣は小さく弩は強いので、発射が遅れたのだ。」張華は手を打って大笑いした。 刺史 の周浚は彼を召し出して従事とし、人に言った。「陸士龍は当今の顔回である。」
間もなく公府の掾から太子舎人となり、出向して浚儀県令を補った。県は都会の要衝に位置し、治めるのが難しい所として知られていた。陸雲が官に着くと厳粛に治め、下の者は欺くことができず、市場では二つの価格がなかった。人が殺害された事件があり、犯人の名前が確定しなかった。陸雲はその妻を拘留したが、何も尋問しなかった。十日ほどして彼女を釈放し、密かに人を後につけて行かせ、「彼女が去って十里も出ないうちに、男が待ち構えて話しかけるだろう。すぐに縛って連れて来い。」と言った。果たしてその通りになった。尋問すると詳しく自白し、「この妻と通じ、共謀してその夫を殺した。妻が釈放されると聞き、話したいと思ったが、県の近くを恐れ、遠くで待ち合わせた。」と言った。これによって県中は彼を神明のようだと称賛した。郡守は彼の才能を妬み、たびたび責め立てたので、陸雲は官を去った。百姓は彼を追慕し、肖像を描いて県の社に祀った。
まもなく呉王司馬晏の郎中令に任命された。司馬晏は西園で大規模に邸宅を営んだ。陸雲は上書して言った。
臣がひそかに拝見しますに、世祖武皇帝( 司馬炎 )は朝廷で拱手して黙し、倹約をもって世を導かれ、即位されて二十六年、宮室や台榭を新たに営むことはなく、たびたび明らかな 詔 を発し、豊かさと奢侈を厳しく戒められました。国家が継承するにあたり、務めとして遵奉すべきところですが、世の風俗は衰え、家々は競って富み溢れ、波が広がるように浸透し、すでに風潮となっております。厳しい 詔 がたびたび宣布されても、奢侈の風俗はますます広がっております。 詔 書を拝見するたびに、衆庶は嘆息しております。清河王がかつて墓宅を建てようとした時、手 詔 で先帝の倹約の教えを追い述べ、懇切なご意志が四海に示されました。清河王は完成した宅を壊して 詔 命に奉じ、海内の耳目は皆、喜びをもってこれに従いました。臣の愚見では、先帝の遺された教えは日々に衰え替わっております。今、国家と協力して大いなる教化を尊び、前の跡を追い明らかにするのは、まさに殿下にあります。まず素朴を重んじて後に四方を正しく導くことができます。凡そ華麗なものは、すべて制度によって節制し、その後で上は帝心を満たし、下は時の望みに応えるべきです。臣は凡庸な才能で、特別に抜擢されました。また忠誠を尽くし節義を尽くして受けた恩恵に報いようと思い、慮外を恐れず、敢えて懐くところを申し上げます。もし愚臣の言葉に採用すべきところがあれば、どうか三思されることをお願いします。
当時、司馬晏は部将を信任し、諸官の銭帛を再調査させた。陸雲はまた上奏して言った。
伏して令書を拝見しますに、部曲将の李咸、馮南、司馬の呉定、給使の徐泰らに諸官の市買銭帛の帳簿を再校閲させるとあります。臣の愚見では、聖徳が龍のように興り、大国を広く有し、衆官の中から人材を選び、多くの役人が職務に励んでおります。中尉の該、大農の誕は皆清廉で慎み深く、職務を謹んでおります。その下の衆官はすべて州閭の一介の者で、疎漏や不明の過失は日々聞こえるかもしれませんが、義に処し情を用いる点では、おおむね大きな過ちはないでしょう。今、李咸、馮南は軍旅の小人であり、呉定、徐泰は士卒の賤しい者で、清廉・慎みが普段から顕著であったわけでも、忠公で称賛に足るわけでもありません。大臣に関わることでさえ、まだ詳しくないと言われるのに、李咸らが監督して初めて信頼を得るというのは、既に開国時に用いないという道理にも合わず、また殿下の誠意を推し量り広大な度量を傷つけることになります。たとえ李咸らが節義を尽くして国に益をもたらし、功利が百倍になったとしても、国の美を光り輝かせ補佐する点では、まだ懐を開いて信頼する士を用いて過ちがないようにするには及びません。ましてや益とするところは姑息の利に過ぎず、小人に事を行わせ、大道が衰え替わるならば、これが臣が慷慨する所以です。臣は大臣の位を備え、職は献言にあります。管見があれば、敢えて規諫を尽くさないわけにはまいりません。愚かにも、明らかな命令を発し、このような再調査をやめ、諸事をすべて治書に任せるべきだと考えます。そうすれば大いなる信頼が下に臨み、人は皆節義を尽くそうと思うでしょう。
陸雲は人材を愛し士を好み、多くを推薦して朝廷に達した。太常府に移書して同郡の張贍を推薦し、言った。
かつて聞くところによれば、昔の聖王は天を承けて世を治め、盛んに明徳を薦め、人と神を和合させようと考えた。みな典謨を尊んで教えを広め、礼学を興して遠くを教化した。それゆえ帝堯は輝かしく道は人と天に調和し、西伯(周の文王)は質実と文飾を備え、周は二代にわたって隆盛した。大晋が皇業を建て、天地に配することを尊び、中華がすでに統一されると、礼楽が用いられようとしている。君侯(成都王司馬穎)は歴運の機会に応じ、天人の期を助け、俊茂を広く招き、載典(礼楽制度)を盛んにしようとしている。伏して見るに、衛将軍の舎人で同郡の張贍は、盛んな徳行と清らかな純粋さを持ち、器量と思慮は深く通じている。初め聖人の門を慕い、心を重仞の高みに置き、道を開き階に及び、ついに枢奥(奥義)に昇った。秘宮から霊匱(貴重な書物)を引き出し、玄夏(深遠な夏の時代)から金滕(秘密の文書)を開き、百家を楽しみ思い、広くその珍宝を採った。翰林(文筆の府)を超える文辞、その藻飾を敷く言葉。微を探り逸を集め、思う心は神に通じる。道を論じて書を著し、篇章は光り輝く。奇を秘めて宰府(丞相府)に含み、公門(朝廷)で悠然としている。静かに隠れて宝を秘め、虚に沈み器を蔵す。褧裳(麻の単衣)に錦を襲い、緇衣(黒衣)に玉をまとう。曾泉(朝の時)が道を変え、懸車(引退)しようとし、隠遁の下位にあり、歳月はたびたび過ぎた。搢紳の士は皆、憤りと恨みを抱いている。今、太清(天)が宇を開き、四門が鍵を開き、玄綱(天の綱)が地を包み、天網が広く張り巡らされている。慶雲が起こって龍を招き、和風が起こって鳳を迎える。まさに岩穴の才が輝く秋、河津(登竜門)に乗る日である。しかし張贍は下位に沈淪し、人々の期待は心を悼ませる。もし太学に端委(礼服)を正して立ち、先典を錯綜させ、玉階に垂纓し、紫宮で道を論じることができれば、まさに帝室の瑰宝、清廟(宗廟)の偉器である。広楽(盛大な音楽)が九回奏でられれば、必ず昊天の庭に登り、『韶』『夏』の六変があれば、必ず上帝の祀りを享けるであろう。
(陸雲は)朝廷に入って尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎となった。成都王司馬穎が彼を清 河内 史に任命するよう上表した。司馬穎が斉王司馬冏を討伐しようとした時、陸雲を前鋒 都督 とした。ちょうど司馬冏が誅殺されたので、転じて大将軍右司馬となった。司馬穎は晩年に政治が衰え、陸雲はたびたび正論をもってその意に逆らった。孟玖が自分の父を邯鄲県令に任用しようとし、左長史盧志らはみなその意に迎合して従ったが、陸雲は固執して許さず、「この県は皆、公府の掾の資格を持つ者が就くもので、どうして黄門(宦官)の父がこれに居られようか」と言った。孟玖は深く憤り怨んだ。張昌が乱を起こすと、司馬穎は陸雲を使持節・大 都督 ・前鋒将軍として上表し、張昌を討伐させようとした。ちょうど長沙王司馬乂を討伐することになり、中止された。
陸機が敗れた時、(司馬穎は)陸雲も捕らえた。司馬穎の官属である江統、蔡克、棗嵩らが上疏して言った。
江統らが聞くところによれば、人主が聖明であれば、臣下はみな規諫し、もし思うところがあれば、献上しないわけにはいかない。先日、教令により陸機が後に軍期に遅れ、軍勢が敗北したので、法によって刑を加えたと聞き、誰もが当然であると言った。確かに三軍を粛然と整え、遠近に威を示すのに十分であり、いわゆる一人が殺戮されれば、天下が誡めを知るというものである。また重ねての教令で、陸機が反逆を謀ったとして、一族誅殺に応じると聞き、本末を知らない者は、誰もが疑惑を抱いている。朝廷で人に爵位を与えるのは、衆人と共に行うものであり、市で人を刑するのは、衆人と共に棄てるものである。ただ刑罰を慎むことは、古人が慎重にしたことである。今、明公は義兵を興して国難を除き、四海は同心し、雲が合い呼応している。罪人の命は漏刻(わずかな時間)にかかっており、太平の期は、朝でなければ夕方であろう。陸機兄弟はともに抜擢を受け、ともに重任を担っており、極まりない恩に背き、滅びゆく賊に向かうべきではなく、泰山のような安泰を去り、累卵の危険に赴くべきではない。ただ陸機の計慮が浅近で、群帥を統率監督できず、果敢に敵を殺すことができず、進退の間に、事柄に疑わしい点があったため、聖鑑がその実情を察することができなかっただけである。刑罰誅殺は重大な事柄であり、陸機に反逆の兆しがあると言うなら、王粹、牽秀にその事柄を検査させるべきである。事柄が明らかになった後、万姓に暴き、それから陸雲らを誅殺しても、遅くはない。今のこの措置は、実に重すぎる。成功すれば天下の心情を服させることができるが、失敗すれば必ず四方の心を離反させる。審らかにせざるを得ず、詳しく慎まざるを得ない。江統らが微力を尽くすのは、陸雲のために一身の命を請うのではなく、実はこの挙動に得失の機微があることを慮り、愚直な考えを尽くして、誹謗に備えようとするのである。
司馬穎は受け入れなかった。江統らが重ねて請うと、司馬穎は三日間ためらった。盧志がまた言った。「昔、趙王( 司馬倫 )が中護軍趙浚を殺し、その子の趙驤を赦したが、趙驤は明公のもとに来て趙王を撃った。これが前例です」。蔡克が司馬穎の前に進み入り、頭を叩いて血を流し、「陸雲は孟玖に怨まれていることは、遠近に聞こえています。今、もし殺されれば、罪の明らかな証拠がなく、群衆の心に疑惑を生じさせます。ひそかに明公のためを惜しみます」と言った。蔡克に従って入った僚属数十人が涙を流して固く請うと、司馬穎は哀れみの情を示し、陸雲を赦すような表情を見せた。孟玖が司馬穎を支えて中に入り、陸雲を殺すよう急がせた。時に四十二歳。二人の娘がおり、男子はいなかった。門生故吏が喪を迎えて清河に葬り、墓を修め碑を立て、四季に祠祭を行った。著した文章は三百四十九篇あり、また『新書』十篇を撰し、ともに世に行われた。
かつて、陸雲が旅をし、旧知の家に逗留して宿ったことがあった。夜が暗く道に迷い、どこへ行くべきかわからなかった。突然、草むらの中に火光が見えたので、そこへ急いだ。一軒の家に着き、宿を借りた。一人の若者に会い、風采が美しく、ともに老子について語り合ったが、言葉の趣は深遠であった。夜明け前に辞去し、十里余り行って旧知の家に着くと、その家の者はこの数十里の中に人家はないと言い、陸雲はようやく悟った。引き返して昨夜宿った場所を探すと、それは王弼の墓であった。陸雲は本来玄学はなかったが、これ以来、老子についての議論が格段に進歩した。
陸雲の弟の陸耽。
陸雲の弟の陸耽は平東祭酒となり、清い評判もあり、陸雲とともに害に遇った。大将軍参軍の孫惠が淮南内史の朱誕に送った手紙に、「思いがけず三陸(陸機、陸雲、陸耽)が暗い朝廷で相携え、一朝にして滅び、道業が淪喪した。痛みの深さは、言葉では言い尽くせない。国が俊望を喪い、悲しむのは一人だけではない」とある。彼らが州里でこのように痛悼されたのである。後に東海王 司馬越 が司馬穎を討伐した時、天下に檄を飛ばし、また陸機・陸雲兄弟が冤罪で害されたことを司馬穎の罪状として挙げた。
従叔の陸喜。
陸喜は字を恭仲という。父の陸瑁は、呉の吏部尚書であった。陸喜は呉に仕え、累進して吏部尚書となった。若い時から名声があり、学問を好み才思があった。かつて自叙を書き、その概略は次のようである。「劉向は『新語』を省みて『新序』を作り、桓譚は『新序』を詠じて『新論』を作った。余は自ら量らず、子雲(揚雄)の『法言』に感じて『言道』を作り、賈子(賈誼)の美才を見て『訪論』を作り、子政(劉向)の『洪範』を見て『古今曆』を作り、蔣子通(蔣済)の『万機論』を鑑みて『審機』を作り、『幽通賦』『思玄賦』『四愁詩』を読んで『娛賓』『九思』を作った。まさにいわゆる恥を忍ぶ者である」。その書は百篇近くに及んだ。
呉が平定された後、また『西州清論』を作って世に伝えたが、諸葛孔明を借り称してその書を行ったのである。『較論格品篇』というものがあり、次のように言う。
ある人が私に問うた。薛瑩は最も国士の第一人者か? 答えて言った。『理によって推すと、四、五の間にある』。問う者は愕然として理由を請うた。答えて言った。『孫皓は無道で、その暴虐をほしいままにした。もし龍蛇のように身を潜め、沈黙して体を隠し、潜んで用いられず、その趣向が測り知れないならば、これが第一の人である。尊きを避けて卑しきに居り、禄で耕作を養い代え、玄静で約を守り、沖虚で退き澹然としている。これが第二の人である。侃然として国を思い治めを考え、貴きを辞さず、方正をもって畏れられ、執政を懼れない。これが第三の人である。時宜を斟酌し、乱れている時にも顕著であり、忠を忘れず、時に微かな益を献じる。これが第四の人である。温恭で慎み深く、諂う先頭に立たず、補うところがなくとも、従容として寵を保つ。これが第五の人である。これ以上は、数えるに足りない。故に第二以上は多くは淪没して遠く悔いやみがあり、第三以下は名声と地位があって近くに咎や累(わずらい)がある。それゆえ深識の君子は、その明を晦まして柔順を履むのである』。問う者が言った。『初めに高論を聞き、終年にわたって悟りが開けました』。
太康年間、 詔 を下して言う。「偽尚書の陸喜ら十五人は、南方の士人の中で称賛されており、皆、貞潔のため孫皓の朝廷に容れられず、ある者は忠義のために罪を得、ある者は身を退いて志を修め、草野に放たれた。主務の者は皆、本来の位階に従って下位から任命し、所在の地で礼を尽くして発遣し、到着次第、才能に応じて任用せよ」と。そこで陸喜を 散騎常侍 としたが、まもなく死去した。子の陸育は、尚書郎・弋陽太守となった。
史評