晉書

卷四十四 列傳第十四

卷四十四 列傳第十四

晉書

原文晉書

卷四十四 列傳第十四

原文卷四十四 列傳第十四 ► 卷四十五 列傳第十五

鄭袤

原文鄭袤

鄭袤は、字あざなを林叔といい、滎陽けいよう郡開封県の人である。高祖父の鄭衆は、漢の大司農であった。父の鄭泰は、揚州刺史ししとなり、高い名声があった。鄭袤は幼くして孤児となり、早くから識見と鑑識眼を持っていた。荀攸が彼を見て言った。「鄭公業(鄭泰)は滅びないだろう。」叔父の鄭渾に従って江東に避難した。当時、華歆が豫章太守であり、鄭渾は彼を頼って行った。華歆はもともと鄭泰と親しく、鄭袤を自分の子のように養育した。十七歳になって、ようやく故郷に戻った。性格は清廉で公正であった。当時、済陰郡の魏諷が相国掾となり、当世で名声が重かった。鄭袤の同郡の任覧が彼と交際した。鄭袤は魏諷を奸雄とみなし、結局は禍をもたらすだろうと考え、任覧に彼から遠ざかるよう勧めた。魏諷が敗れた時、論者は鄭袤を称賛した。

原文鄭袤,字林叔,滎陽開封人也。高祖眾,漢大司農。父泰,揚州刺史,有高名。袤少孤,早有識鑒。荀攸見之曰:「鄭公業為不亡矣。」隨叔父渾避難江東。時華歆為豫章太守,渾往依之,歆素與泰善,撫養袤如己子。年十七,乃還鄉里。性清正。時濟陰魏諷為相國掾,名重當世,袤同郡任覽與結交。袤以諷奸雄,終必為禍,勸覽遠之。及諷敗,論者稱焉。

魏の武帝(曹操)が初めて諸子を侯に封じた時、賓客と友人を精選し、鄭袤と徐幹がともに臨淄侯(曹植)の文学となった。司隸功曹従事に転じた。司空しくうの王朗が彼を掾に辟召した。鄭袤は高陽の許允、扶風の魯芝、東萊の王基を推挙した。王朗は皆これらを任用し、後にいずれも高位に至り、重い名声を得た。鄭袤は尚書しょうしょ郎に昇進した。外任して黎陽県令となり、官吏と民衆は喜んで従った。太守が管下の諸城に通達を出した時、特に優れた者として選ばれ、諸県の中で最上とされた。尚書右丞に昇進した。済陰太守に転じ、着任すると孝悌を表彰し、賢能を敬い礼遇し、学校を興立し、後進を導き奨励した。大將軍從事中郎に補任され、散騎常侍に任じられた。ちょうど広平太守が欠員となった時、宣帝(司馬懿しばい)は鄭袤に言った。「あなたの賢い叔父(鄭渾)は大匠として陽平・魏郡で称賛され、百姓は恩恵的な教化を受けた。また、盧子家(盧毓)、王子雍(王昶)がこの郡を継いだ。世に賢者が絶えないようにしたいので、再びあなたに任せたい。」鄭袤は広平において、徳による教化を第一とし、条令や教えを上手く定め、郡中で慕われた。侍中に召されて中央に戻ることになり、百姓は慕い、道端で涙を流した。少府に転じた。高貴郷公(曹髦)が即位すると、鄭袤は河南尹の王肅とともに法駕を整えて元城で奉迎し、広昌亭侯に封じられた。光禄勲に移り、宗正を兼ねた。

原文魏武帝初封諸子為侯,精選賓友,袤與徐幹俱為臨淄侯文學,轉司隸功曹從事。司空王朗辟為掾,袤舉高陽許允、扶風魯芝、東萊王基,朗皆命之,後咸至大位,有重名。袤遷尚書郎。出為黎陽令,吏民悅服。太守班下屬城,特見甄異,為諸縣之最。遷尚書右丞。轉濟陰太守,下車旌表孝悌,敬禮賢能,興立庠序,開誘後進。調補大將軍從事中郎,拜散騎常侍。會廣平太守缺,宣帝謂袤曰:「賢叔大匠垂稱于陽平、魏郡,百姓蒙惠化。且盧子家、王子雍繼踵此郡,使世不乏賢,故復相屈。」袤在廣平,以德化為先,善作條教,郡中愛之。徵拜侍中,百姓戀慕,涕泣路隅。遷少府。高貴鄉公即位,袤與河南尹王肅備法駕奉迎於元城,封廣昌亭侯。徙光祿勳,領宗正。

毌丘倹かんきゅうけんが乱を起こすと、景帝(司馬師しばし)は自ら出征した。百官が城東で送別の儀式を行ったが、鄭袤は病気で出席できなかった。帝は中領軍の王肅に言った。「ただ鄭光禄(鄭袤)に会えないのが残念だ。」王肅がこの言葉を鄭袤に伝えると、鄭袤は自ら輿に乗って帝を追い、近くの道で追いついた。帝は笑って言った。「やはり侯生(鄭袤を指す)は必ず来ると知っていた。」そして鄭袤と同乗し、言った。「計略として何を先に行うべきか。」鄭袤は言った。「昔、毌丘倹とともに尚書台の郎官であり、特に彼のことを知っています。彼は謀略を好むが事情に通じておらず、以前に幽州で功績を立てて以来、望みは限りがありません。文欽は勇猛だが計算がない。今、大軍が不意を突いて出撃すれば、江・淮の兵卒は鋭いが堅固さに欠けます。深い堀と高い塁壁でその気勢を挫くのが、周亜夫の長所です。」帝は良いと言った。太常に転じた。高貴郷公が明堂と辟雍を建立することを議し、博士を精選した。鄭袤は劉毅、劉寔、程咸、庾峻を推挙し、後にいずれも三公や輔弼の高位に至った。常道郷公(曹奐)が立つと、策定を議論し、安城郷侯に進封され、邑千戸を賜った。景元の初め、病気で失明し、たびたび致仕を願い出たが、許されなかった。光禄大夫に任じられた。五等爵制が初めて制定された時、密陵伯に封じられた。

原文毌丘儉作亂,景帝自出征之,百官祖送於城東,袤疾病不任會。帝謂中領軍王肅曰:「唯不見鄭光祿為恨。」肅以語袤,袤自輿追帝,及於近道。帝笑曰:「故知侯生必來也。」遂與袤共載,曰:「計將何先?」袤曰:「昔與儉俱為台郎,特所知悉。其人好謀而不達事情,自昔建勳幽州,志望無限。文欽勇而無算。今大軍出其不意,江、淮之卒銳而不能固,深溝高壘以挫其氣,此亞夫之長也。」帝稱善。轉太常。高貴鄉公議立明堂辟雍,精選博士,袤舉劉毅、劉寔、程咸、庾峻,後並至公輔大位。及常道鄉公立,與議定策,進封安城鄉侯,邑千戶。景元初,疾病失明,屢乞骸骨,不許。拜光祿大夫。五等初建,封密陵伯。

武帝(司馬炎しばえん)が即位すると、侯に爵位を進めた。十数年臥病していたが、時の賢人たちは皆彼を推薦した。泰始年間、詔みことのりが下った。「光禄大夫密陵侯の鄭袤は、行いが純粋で正しく、道を守り謙虚で純粋であり、退いては清らかで温和な風があり、進んでは白い糸のような節操がある。三台の星の輝きに登らせ、三公の職の欠を補うべきである。今、鄭袤を司空とする。」天子は殿上に臨み、五官中郎将の国坦を邸宅に派遣して任命を授けた。鄭袤は前後して辞退し、息子の鄭称を使者として印綬を返上させ、その数は十数回に及んだ。国坦に言った。「魏は徐景山(徐邈)を司空にしようとした時、私は侍中であり、詔を受けて彼を説得する旨を伝えた。徐公は私に言った。『三公は天の心に応えるべきもので、もしその人でなければ、まさに和気を傷つける。垂死の年齢で朝廷を辱しめることはできない。』ついに就任しなかった。大雅の君子の跡を踏むことは、努めるべきではないか。」固く辞退し、長い間を経て許され、侯のまま邸宅に退き、儀同三司の待遇を与えられ、舍人と官騎を置き、寝台の帳、簟むしろ、敷物、銭五十万を賜った。

原文武帝踐阼,進爵為侯。雖寢疾十餘年,而時賢並相推薦。泰始中,詔曰:「光祿密陵侯袤,履行純正,守道沖粹,退有清和之風,進有素絲之節,宜登三階之曜,補袞職之闕。今以袤為司空。」天子臨軒,遣五官中郎將國坦就第拜授。袤前後辭讓,遣息稱上送印綬,至於十數。謂坦曰:「魏以徐景山為司空,吾時為侍中,受詔譬旨。徐公語吾曰:'三公當上應天心,苟非其人,實傷和氣,不敢以垂死之年,累辱朝廷也。'終於不就。遵大雅君子之跡,可不務乎!」固辭,久之見許,以侯就第,拜儀同三司,置舍人官騎,賜床帳簟褥、錢五十萬。

九年に死去した。八十五歳であった。帝は東堂で哀悼の意を表し、棺、朝服一具、衣一襲、銭三十万、絹と布をそれぞれ百匹を賜い、喪事に供させた。諡は元といった。子は六人あり、長子の鄭默が後を継ぎ、次は鄭質、鄭舒、鄭詡、鄭称、鄭予で、いずれも列卿の位に至った。

原文九年薨,時年八十五。帝於東堂發哀,賜秘器、朝服一具、衣一襲、錢三十萬、絹布各百匹,以供喪事。諡曰元。有子六人,長子默嗣,次質、舒、詡、稱、予,位並列卿。

子の鄭默

原文子默

鄭默は字を思元という。秘書郎として出仕し、古い文書を調査・考証し、虚飾や不要な部分を削除した。中書令の虞松が言った。「今から後は、朱と紫(正邪・優劣)が区別されるだろう。」尚書考功郎に転じ、蜀討伐の事柄を専管し、関内侯に封じられ、司徒しと左長史に昇進した。武帝が禅譲ぜんじょうを受けると、太原の郭奕とともに中庶子となった。朝廷では太子の官属は陪臣と称すべきだという意見があった。鄭默は上言した。「皇太子は皇極の尊さを体しており、天下に対して私心はありません。宮臣は皆天朝から任命を受けており、藩国と同じにすべきではありません。」この意見は遂に施行された。外任して東郡太守となった。凶作で人々が飢えている時に当たり、鄭默はすぐに倉を開いて救済し、都亭に宿泊して、自ら上表して罪を待った。朝廷は鄭默が国を憂えていることを嘉し、詔書で褒め称え、汲黯に例えた。天下に布告し、もし郡県に同様の事例があれば、皆出して給与することを許した。中央に戻り散騎常侍となった。

原文默字思元。起家秘書郎,考核舊文,刪省浮穢。中書令虞松謂曰:「而今而後,硃紫別矣。」轉尚書考功郎,專典伐蜀事,封關內侯,遷司徒左長史。武帝受禪,與太原郭奕俱為中庶子。朝廷以太子官屬宜稱陪臣。默上言:「皇太子體皇極之尊,無私於天下。宮臣皆受命天朝,不得同之籓國。」事遂施行。出為東郡太守,值歲荒人饑,默輒開倉振給,乃舍都亭,自表待罪。朝廷嘉默憂國,詔書褒歎,比之汲黯。班告天下,若郡縣有此比者,皆聽出給。入為散騎常侍。

初め、帝(司馬炎)は貴公子として九品中正の品定めを受けることになったが、郷里では誰も彼と同列となることを敢えてせず、州内に求めた。そこで十二郡の中正が一同に鄭默を推挙した。文帝(司馬昭しばしょう)は鄭袤に手紙を書いて言った。「私の子供があなたの賢い子息の仲間入りをすることになり、賢者を汚すような負担をかけるのが恥ずかしい。」武帝が南郊で祭祀を行う時、詔によって鄭默に副乗(陪乗)を命じ、鄭默に言った。「卿はどうして副乗を得たか知っているか。昔、州里が卿と同輩を推挙した時、常に清談を汚す負担があることを恥じていた。」そして政事について問うと、鄭默は答えた。「農耕を勧め務めることは、国の基礎です。人材を選んで才能を得ることは、世を救う道です。官に長く留まり職務に就くことは、政事の適切なあり方です。罷免と昇進を明らかに慎重に行うことは、勧め戒める根拠です。儒教の質素さを尊ぶことは、教化と導きの根本です。このようなことだけです。」帝はこれを良しとした。

原文初,帝以貴公子當品,鄉里莫敢與為輩,求之州內,於是十二郡中正僉共舉默。文帝與袤書曰:「小兒得廁賢子之流,愧有竅賢之累。」及武帝出祀南郊,詔使默驂乘,因謂默曰:「卿知何以得驂乘乎?昔州裏舉卿相輩,常愧有累清談。」遂問政事,對曰:「勸穡務農,為國之基。選人得才,濟世之道。居官久職,政事之宜。明慎黜陟,勸戒之由。崇尚儒素,化導之本。如此而已矣。」帝善之。

後に父の喪のため官を去ったが、まもなく起用されて廷尉となった。この時、鬲県令の袁毅が賄賂の取り引きの罪に坐し、大規模な刑獄が起こされた。朝廷の者で多くが引き立てられ逮捕されたが、ただ鄭默兄弟だけは清廉で慎重であり、その流れに染まらなかった。太常に昇進した。当時、僕射ぼくやの山濤が一人の親族を博士に推挙しようとし、鄭默に言った。「卿は尹翁帰に似ている。私に再び言わせないようにする。」鄭默は人となりが篤実で重厚、柔和でありながら整然としており、皆このような類いであった。

原文後以父喪去官,尋起為廷尉。是時鬲令袁毅坐交通貨賂,大興刑獄。在朝多見引逮,唯默兄弟以潔慎不染其流。遷太常。時僕射山濤欲舉一親親為博士,謂默曰:「卿似尹翁歸,令吾不敢復言。」默為人敦重,柔而能整,皆此類也。

斉王司馬攸が封国に行くことになった時、礼官に命じて尊崇と賜与の典制を議論させた。博士祭酒の曹志らは異議を立て、鄭默はその事を見過ごしたため、連座して免官された。まもなく大鴻臚に任じられた。母の喪に遭った。旧制では、葬儀が終われば職務に戻ることになっていたが、鄭默は自ら誠意を込めて陳情し、長い間を経て許された。そこで法令を改めて定め、大臣が喪に服し終わることを許すことになり、鄭默から始まったのである。喪が明けて、大司農となり、光禄勲に転じた。

原文及齊王攸當之國,下禮官議崇錫典制。博士祭酒曹志等並立異議,默容過其事,坐免。尋拜大鴻臚。遭母喪,舊制,既葬還職,默自陳懇至,久而見許。遂改法定令,聽大臣終喪,自默始也。服闋,為大司農,轉光祿勳。

太康元年に死去した。六十八歳であった。諡は成といった。尚書令の衛瓘が上奏した。「鄭默の才能、行い、名声、声望は、論道(三公の職)にふさわしい。五度九卿に昇ったが、その位は徳にふさわしくない。三司(三公)を追贈すべきである。」しかし、後の父である楊駿が先に自分の娘を鄭默の子の鄭豫に娶せようとしたが、鄭默は言った。「私は『雋不疑伝』を読むたびに、常にその人を思う。権勢ある貴族を畏れて遠ざけることは、代々守ってきたことである。」遂にこれを辞退した。楊駿はこれを深く恨んだ。この時、楊駿の意見が異なり、遂に(衛瓘の上奏は)施行されなかった。鄭默は寛大で謙虚で博愛であり、謙虚で温厚で謹直で、才能や家柄を以て人を見下さず、上には礼をもって仕え、下には和をもって接した。童僕や下僕に対しても声や顔色を荒げることはなかったが、それでもなお嫌疑や怨みを受けることがあった。それゆえ士君子は世に生きることの難しさを感じた。子は鄭球。

原文太康元年卒,時年六十八,諡曰成。尚書令衛瓘奏:「默才行名望,宜居論道,五升九卿,位未稱德,宜贈三司。」而後父楊駿先欲以女妻默子豫,默曰:「吾每讀《雋不疑傳》,常想其人。畏遠權貴,奕世所守。」遂辭之。駿深為恨。至此,駿議不同,遂不施行。默寬沖博愛,謙虛溫謹,不以才地矜物,事上以禮,遇下以和,雖僮豎廝養不加聲色,而猶有嫌怨,故士君子以為居世之難。子球。

鄭默の子の鄭球

原文默子球

劉球は字を子瑜といった。若くして宰相の府に召され、二宮(皇太子と皇帝)に仕えた。成都王が大将軍となり、義兵を起こして趙王倫を討ったとき、劉球は頓丘太守から右長史に転じ、功績により平寿公に封ぜられた。累進して侍中・尚書・散騎常侍・中護軍・尚書右僕射となり、吏部を管轄した。永嘉二年に死去し、金紫光禄大夫を追贈され、諡は元といった。劉球の弟の劉豫は、永嘉の末年に尚書となった。

原文球字子瑜。少辟宰府,入侍二宮。成都王為大將軍,起義討趙王倫,球自頓丘太守為右長史,以功封平壽公。累遷侍中、尚書、散騎常侍、中護軍、尚書右僕射,領吏部。永嘉二年卒,追贈金紫光祿大夫,諡曰元。球弟豫,永嘉末為尚書。

李胤

原文李胤

李胤は、字を宣伯といい、遼東りょうとう郡襄平県の人である。祖父の李敏は、漢の河内かうち太守であったが、官を辞して故郷に戻った。遼東太守の公孫度が強引に仕えさせようとしたので、李敏は軽舟に乗って滄海(渤海)に浮かび、行方知れずとなった。李胤の父の李信は何年も探し求めて海を渡り塞外に出たが、ついに見つからず、喪に服して喪服を着ようとしたが、父がまだ生きているかもしれないと疑い、喪中にあるような心情でいたため、嫁を娶らなかった。後に、隣人の旧知で父と同年の者が亡くなったので、これに合わせて喪服を着て喪に服した。燕国の徐邈は彼と同州の出身で、不孝の中で後継ぎがないことが最も大きいとして、妻を娶るよう勧めた。李胤が生まれると、以後は妻との関係を絶ち、常に喪中の礼のようにして暮らし、その憂いには耐えられず、数年で亡くなった。李胤は幼くして孤児となり、母も再婚したので、物心がついてからは、粗食をとり悲しみに沈み、やはり喪礼に身を置いた。また、祖父の生死がわからないので、木の位牌を設けて祀った。このため孝行で知られるようになった。容貌は質素で、ぼんやりと不足があるかのようであったが、識見は深遠で、発言には必ず規範があった。

原文李胤,字宣伯,遼東襄平人也。祖敏,漢河內太守,去官還鄉里,遼東太守公孫度欲強用之,敏乘輕舟浮滄海,莫知所終。胤父信追求積年,浮海出塞,竟無所見,欲行喪制服,則疑父尚存,情若居喪而不聘娶。後有鄰居故人與其父同年者亡,因行喪制服。燕國徐邈與之同州裏,以不孝莫大於無後,勸使娶妻。既生胤,遂絕房室,恆如居喪禮,不堪其憂,數年而卒。胤既幼孤,母又改行,有識之後,降食哀戚,亦以喪禮自居。又以祖不知存亡,設木主以事之。由是以孝聞。容貌質素,頹然若不足者,而知度沈邃,言必有則。

初め郡の上計掾に仕え、州から部従事・治中に召され、孝廉に推挙され、鎮北軍事に参じた。楽平侯の相に転じ、政治は清廉簡素を尊んだ。中央に入って尚書郎となり、中護軍司馬・吏部郎に転じ、官吏の選考は廉潔公平であった。関中侯の爵位を賜り、外任して安豊太守を補った。文帝(司馬昭)が彼を大将軍従事中郎に抜擢し、御史中丞に転じた。恭順で慎み深く、厳正に法を適用したので、百官は彼を恐れた。蜀討伐の役では、西中郎将・関中諸軍事都督となった。後に河南尹となり、広陸伯に封ぜられた。泰始初年、尚書に任ぜられ、侯に爵位を進めた。李胤は上奏して、「昔、三公は座って道を論じ、内では六官の事に参与し、外では六卿の教化に関わり、あるいは三槐(三公の位)に座り、訴訟を兼ねて聴き、疑わしい事を審議する典では、卿士にまで諮問しました。陛下は聖徳が敬聡明で、万機に心を配られ、詔を発して古の様式を模範とされ、唐・堯の諮問、周の文王の謹み深さにも勝るものはありません。今後、国に大事があるときは、群公を親しく招き、正しい言葉を諮り受け入れるべきです。軍国に関する疑義については、省中に招き、侍中・尚書に諮問して適切なことを論議させてください。もし病気で参内できない場合は、臨時に侍臣を遣わして訊ね訪ねさせてください」と言った。詔はこれに従った。吏部尚書僕射に転じ、まもなく太子少傅に転任した。詔は、李胤が忠実で誠実、高潔で明るく、身を顧みず尽くす節操があるとして、司隸校尉を兼任させた。李胤はたびたび上表して辞退し、太子の傅という重責に辱くもあり、監司の官を兼ねるのはふさわしくないとした。武帝は二つの職務ともに忠賢を必要とするとして、常に許さなかった。

原文初仕郡上計掾,州辟部從事、治中,舉孝廉,參鎮北軍事。遷樂平侯相,政尚清簡。入為尚書郎,遷中護軍司馬、吏部郎,銓綜廉平。賜爵關中侯,出補安豐太守。文帝引為大將軍從事中郎,遷御史中丞,恭恪直繩,百官憚之。伐蜀之役,為西中郎將、督關中諸軍事。後為河南尹,封廣陸伯。泰始初,拜尚書,進爵為侯。胤奏以為:「古者三公坐而論道,內參六官之事,外與六卿之教,或處三槐,兼聽獄訟,稽疑之典,謀及卿士。陛下聖德欽明,垂心萬機,猥發明詔,儀刑古式,雖唐、虞疇諮,周文翼翼,無以加也。自今以往,國有大政,可親延群公,詢納讜言。其軍國所疑,延詣省中,使侍中、尚書諮論所宜。若有疾病,不任覲會,臨時遣侍臣訊訪。」詔從之。遷吏部尚書僕射,尋轉太子少傅。詔以胤忠允高亮,有匪躬之節,使領司隸校尉。胤屢自表讓,忝傅儲宮,不宜兼監司之官。武帝以二職並須忠賢,故每不許。

咸寧初年、皇太子が東宮に出て住むことになり、帝は司録の職務が重く、少傅には朝夕の輔導の務めがあるため、李胤が元来病弱で長く労させるのはよくないと考え、侍中に転任させ、特進を加えた。まもなく尚書令に転じ、侍中・特進はもとのままとした。李胤は内外の官職を歴任したが、家は極めて貧しく質素で、子供が病気になっても薬を買う金がなかった。帝はこれを聞き、十万銭を賜った。その後、帝は司徒が旧来の丞相の職務であると考え、詔を下して李胤を司徒とした。在任五年間、簡潔で明るく、重厚で、職務に適任と称された。呉・会稽かいけいが平定されたばかりで、大臣の多くに勲功があるため、昇進させるべきだと考え、上疏して退位を願い出た。帝は聞き入れず、侍中に命じて旨を伝えさせ、丁重な詔で諭し、上表を却下した。李胤はやむなく、職務に復帰した。

原文咸甯初,皇太子出居東宮,帝以司錄事任峻重,而少傅有旦夕輔導之務,胤素羸,不宜久勞之,轉拜侍中,加特進。俄遷尚書令,侍中、特進如故。胤雖曆職內外,而家至貧儉,兒病無以市藥。帝聞之,賜錢十萬。其後帝以司徒舊丞相之職,詔以胤為司徒。在位五年,簡亮持重,稱為任職。以吳會初平,大臣多有勳勞,宜有登進,乃上疏遜位。帝不聽,遣侍中宣旨,優詔敦諭,絕其章表。胤不得已,起視事。

太康三年に死去した。詔は御史に節を持たせて喪事を監督させ祭礼を行わせ、諡を成といった。皇太子は舎人の王賛に命じて誄を作らせたが、文義は非常に優れていた。帝は後に李胤の清い節操を思い、詔を下して「故司徒李胤、太常彭灌は、ともに忠実で清廉、質素な行いをし、身が没した後、家に余財がなかった。李胤の家に銭二百万・穀物千斛を賜い、彭灌の家にはその半分を賜う」と言った。三人の子、李固・李真長・李修がいた。李固は字を万基といい、散騎郎で、李胤より先に死去した。李固の子の李志が爵位を継いだ。李志は字を彦道といい、散騎侍郎・建威将軍・陽平太守を歴任した。李真長は太僕卿の位に至った。李修は黄門侍郎・太弟中庶子となった。

原文太康三年薨,詔遣御史持節監喪致祠,諡曰成。皇太子命舍人王贊誄之,文義甚美。帝后思胤清節,詔曰:「故司徒李胤,太常彭灌,並履忠清儉,身沒,家無餘積,賜胤家錢二百萬、穀千斛,灌家半之。」三子,固、真長、修。固字萬基,散騎郎,先胤卒,固子志嗣爵。志字彥道,歷位散騎侍郎、建威將軍、陽平太守。真長位至太僕卿。修黃門侍郎、太弟中庶子。

盧欽

原文盧欽

盧欽は、字を子若といい、范陽郡涿県の人である。祖父の盧植は漢の侍中であった。父の盧毓は魏の司空であった。代々儒学の家業で顕れた。盧欽は清く淡泊で遠大な識見を持ち、経史に志を厚くし、孝廉に推挙されたが応じず、魏の大将軍曹爽そうそうが彼を掾に召した。曹爽の弟があることを依頼してきたが、盧欽は曹爽に「子弟が法度を犯すべきではない」と申し出た。曹爽は深くこれを受け入れ、弟を罰した。尚書郎に任ぜられた。曹爽が誅殺されると、免官となった。後に侍御史となり、父の爵位大利亭侯を継ぎ、累進して琅邪太守となった。宣帝(司馬懿)が太傅となると、従事中郎に召し、外任して陽平太守となり、淮北都督・伏波将軍に転じ、非常に称賛される功績を挙げた。召されて散騎常侍・大司農となり、吏部尚書に転じ、大梁侯に封ぜられた。武帝が禅譲を受けると、沔北諸軍事都督・平南将軍・仮節とし、追鋒軺車と臥車を各一乗、第二駙馬車二乗、騎乗の具・刀・武器、御府の人馬用鎧など、および銭三十万を与えた。盧欽は任地で寛厳適中で、辺境に憂いがなかった。中央に入って尚書僕射となり、侍中・奉車都尉を加えられ、吏部を管轄した。清貧であるため、特に絹百匹を賜った。盧欽は人材を推挙する際は必ず才能に基づき、廉潔公平と称された。

原文盧欽,字子若,范陽涿人也。祖植,漢侍中。父毓,魏司空。世以儒業顯。欽清淡有遠識,篤志經史,舉孝廉,不行,魏大將軍曹爽辟為掾。爽弟嘗有所屬請,欽白爽子弟不宜干犯法度,爽深納之,而罰其弟。除尚書郎。爽誅,免官。後為侍御史,襲父爵大利亭侯,累遷琅邪太守。宣帝為太傅,辟從事中郎,出為陽平太守,遷淮北都督、伏波將軍,甚有稱績。徵拜散騎常侍、大司農,遷吏部尚書,進封大梁侯。武帝受禪,以為都督沔北諸軍事、平南將軍、假節,給追鋒軺臥車各一乘、第二駙馬二乘、騎具刀器、禦府人馬鎧等,及錢三十萬。欽在鎮寬猛得中,疆埸無虞。入為尚書僕射,加侍中、奉車都尉,領吏部。以清貧,特賜絹百匹。欽舉必以材,稱為廉平。

咸寧四年に死去した。詔は「盧欽は道を踏み行い清く正しく、徳を執り貞潔で質素であった。文武の称賛は、方夏(天下)に著しい。中央に入って機要の地位に登り、多くの事柄を公正に処理した。内外に勤勉に励み、身を顧みず尽くす節操があった。不幸にも薨去し、朕は甚だ悼む。衛将軍・開府儀同三司を追贈し、棺・朝服一具・衣一襲・布五十匹・銭三十万を賜う」と言った。諡は元といった。また、盧欽が忠実で清廉高潔で、産業を営まず、身が没した後、家に庇うものがないため、特に銭五十万を賜い、邸宅を建てさせた。さらに詔を下して「故司空王基・衛将軍盧欽・典軍将軍楊囂は、いずれも平素から清貧で、身が没した後、住居に私的な蓄えがなかった。近ごろ飢饉があり、その家が大いに困窮していると聞く。それぞれに穀物三百斛を賜う」と言った。盧欽は州郡の長官を歴任したが、功名を尊ばず、ただ公平な治理を務めとした。俸禄は親族や旧知に分け与え、資産を営まなかった。行動は常に礼典に従い、妻が亡くなると、喪屋を作り喪杖を持ち、喪が明けるまで外に住んだ。著した詩・賦・論難は数十篇あり、『小道』と名付けた。子の盧浮が後を継いだ。

原文咸寧四年卒,詔曰:「欽履道清正,執德貞素。文武之稱,著于方夏。入躋機衡,惟允庶事。肆勤內外,有匪躬之節。不幸薨沒,朕甚悼之。其贈衛將軍、開府儀同三司,賜秘器、朝服一具、衣一襲、布五十匹、錢三十萬。」諡曰元。又以欽忠清高潔,不營產業,身沒之後,家無所庇,特賜錢五十萬,為立第舍。復下詔曰:「故司空王基、衛將軍盧欽、領典軍將軍楊囂,並素清貧,身沒之後,居無私積。頃者饑饉,聞其家大匱,其各賜穀三百斛。」欽曆宰州郡,不尚功名,唯以平理為務。祿俸散之親故,不營貲產。動循禮典,妻亡,制廬杖,終喪居外。所著詩賦論難數十篇,名曰《小道》。子浮嗣。

子の盧浮

原文子浮

盧浮は字を子雲といい、太子舎人から出仕した。癰の病気で手を切断し、以後は官に就けなかった。しかし朝廷は彼を重んじ、国子博士・祭酒・秘書監に任じようとしたが、いずれも就任しなかった。

原文浮字子雲,起家太子舍人。病疽截手,遂廢。然朝廷器重之,以為國子博士、祭酒、秘書監,皆不就。

弟の盧珽

原文弟珽

盧欽の弟の盧珽は、字を子笏といい、衛尉卿となった。盧珽の子は盧志である。

原文欽弟珽,字子笏,衛尉卿。珽子志。

盧珽の子の盧志

原文珽子志

盧志は字を子道といい、初め公府の掾・尚書郎に召され、出て鄴県令となった。成都王司馬穎が鄴を鎮守したとき、その才能と器量を愛し、心腹として委ね、ついに謀主となった。斉王司馬冏が義兵を起こし、使者を遣わして穎に告げた。穎は志を召して事を計らった。志は言った。「趙王は無道で、ほしいままに簒逆を行い、四海の人神は、怒りを抱かない者はいません。今、殿下は三軍を総率し、期に応じて電撃のように出発されました。民衆は自ら進んで集まり、召さずとも至ります。凶逆を掃討すれば、必ず征伐はあっても戦いはないでしょう。しかし兵事は最も重く、聖人も慎重にします。賢者を表彰し才能を任用して、時の声望を収めるべきです。」穎は深くそれに同意し、上佐を改選し、掾属を高く招聘し、志を諮議参軍とし、さらに左長史を補任し、文書を専管させた。穎の前鋒都督趙驤が司馬倫に敗れ、兵士は震駭し、議論する者の多くは朝歌に戻って守りを固めようとした。志は言った。「今、我が軍は利を得ず、敵は新たに勝ちを得て、必ず軽んじ侮る気持ちがあります。もし兵を留めて進まず、三軍が敗北を恐れ、恐れて用いることができなくなります。かつ戦いに勝敗のないことがありましょうか。さらに精兵を選び、星のごとく行軍し倍の速さで進み、賊の不意を突くべきです。これが用兵の奇策です。」穎はこれに従った。司馬倫が敗れると、志は穎を諫めて言った。「斉王は兵百万と号し、張泓らと相持して決着がつきません。大王は直接黄河を渡りました。この大功は、比べるものがないほどです。しかし斉王は今、大王と共に朝政を輔佐すべきです。志は聞きます。両雄はともに処せず、功名は並び立たぬと。今は太妃の微恙に因んで、帰藩して定省を求め、斉王を推戴し、ゆるやかに四海の心を結ぶべきです。これが上策です。」穎はこれを受け入れ、母の病気を理由に帰藩し、冏に重任を委ねた。これによって穎は四海の称賛を得て、天下の人心を帰した。朝廷は志を武強侯に封じ、散騎常侍を加えた。

原文志字子道,初辟公府掾、尚書郎,出為鄴令。成都王穎之鎮鄴也,愛其才量,委以心膂,遂為謀主。齊王冏起義,遣使告穎。穎召志計事,志曰:「趙王無道,肆行篡逆,四海人神,莫不憤怒。今殿下總率三軍,應期電發,子來之眾,不召自至。掃夷凶逆,必有征無戰。然兵事至重,聖人所慎。宜旌賢任才,以收時望。」穎深然之,改選上佐,高辟掾屬,以志為諮議參軍,仍補左長史,專掌文翰。穎前鋒都督趙驤為倫所敗,士眾震駭,議者多欲還保朝歌。志曰:「今我軍失利,敵新得勝,必有輕易陵轢之情,若頓兵不進,三軍畏衄,懼不可用。且戰何能無勝負,宜更選精兵,星行倍道,出賊不意,此用兵之奇也。」穎從之。及倫敗,志勸穎曰:「齊王眾號百萬,與張泓等相持不能決,大王逕得濟河,此之大勳,莫之與比,而齊王今當與大王共輔朝政。志聞兩雄不俱處,功名不並立,今宜因太妃微疾,求還定省,推崇齊王,徐結四海之心,此計之上也。」穎納之,遂以母疾還籓,委重於冏。由是穎獲四海之譽,天下歸心。朝廷封志為武強侯,加散騎常侍。

河間王司馬顒が李含の説を容れ、二王(斉王・長沙王)を内で除き、穎を皇太子に立てようとし、使者を送って穎に報せた。穎は応じようとしたが、志が正しく諫めたが、従わなかった。冏が滅びると、穎は遠くから朝政を掌握し、ついに不満の心を抱いた。長沙王司馬乂が朝廷内にいるため、思い通りにならず、密かに乂を除こうとした。当時、荊州に張昌の乱があり、穎は上表して親征を求めた。朝廷はこれを許した。ちょうど張昌らが平定されると、兵を返して乂を討とうとした。志は諫めて言った。「公は以前、皇統を回復する大功があり、事が平らかになった後、功績を斉王に帰し、九錫きゅうしゃくの賞を辞退し、朝政の権を執らず、陽翟の飢えた人を救済し、黄橋の白骨を葬りました。これらは皆、盛んな徳行の事柄で、四海の人は誰もが恩頼に浴しています。逆賊がほしいままに暴れ、荊・楚をかき乱しました。今、公は群難を掃清し、南方の地は安寧となりました。軍を整えて凱旋し、関外に軍を駐屯させ、文服で入朝する。これが覇王のなすべきことです。」穎は受け入れなかった。

原文及河間王顒納李含之說,欲內除二王,樹穎儲副,遣報穎,穎將應之,志正諫,不從。及冏滅,穎遙執期權,遂懷觖望之心。以長沙王乂在內,不得恣其所欲,密欲去乂。時荊州有張昌之亂,穎表求親征,朝廷許之。會昌等平,乃回兵以討乂。志諫曰:「公前有復皇祚之大勳,及事平,歸功於齊,辭九錫之賞,不當朝政之權,振陽翟饑人,葬黃橋白骨,皆盛德之事,四海之人莫不荷賴矣。逆寇縱肆,猾擾荊、楚,今公掃清群難,南土以寧,振旅而旋,頓軍關外,文服入朝,此霸王者之事也。」穎不納。

乂が死ぬと、穎は上表して志を中書監とし、鄴に留め、相府の事務に参与させた。帝の乗輿が蕩陰で敗れると、穎は志に兵を督させて帝を迎えさせた。王浚が鄴を攻撃すると、志は穎に天子を奉じて洛陽らくように還るよう勧めた。当時、甲士はなお一万五千人いた。志は夜に部署を分け、暁には皆が隊列を成した。しかし程太妃が鄴を恋しがって去りたがらず、穎は決断できなかった。まもなく兵衆は潰走し、志と子の盧謐、兄の子の盧綝、殿中の武賁千人だけが残った。志は再び穎に早く出発するよう勧めた。当時、黄姓の道士がいて、聖人と号していた。太妃は彼を信じていた。呼び入れると、道士は二杯の酒を求め、飲み干すと杯を投げ捨てて去った。そこで志の計略がようやく決まった。しかし人馬はまたも散り散りになった。志は営陣の間を探し求め、数乗の鹿車を得た。司馬督韓玄が黄門を収集し、百余人を得た。志が入ると、帝は志に問うた。「どうしてここまで散乱敗北したのか。」志は言った。「賊は鄴からまだ八十里離れていますが、人々は一朝にして驚き散りました。太弟(穎)は今、陛下を奉じて洛陽に還りたいと願っています。」帝は言った。「とても良い。」そこで犢車に乗って出発した。屯騎校尉郝昌が先に兵八千を率いて洛陽を守っていた。帝が召すと、汲郡に至ったとき郝昌が到着し、兵仗は非常に盛大であった。志は再び勢いを盛り返したことを喜び、天子に赦書を下し、百姓と共に慶びを分かち合うべきであると啓上した。洛陽に到着すると、志は満奮を司隸校尉とするよう啓上した。逃げ散った者も多く帰還し、百官がおおよそ整った。帝は喜び、志に絹二百匹、綿百斤、衣一襲、鶴綾袍一領を賜った。

原文及乂死,穎表志為中書監,留鄴,參署相府事。乘與敗于蕩陰,穎遣志督兵迎帝。及王浚攻鄴,志勸穎奉天子還洛陽。時甲士尚萬五千人,志夜部分,至曉,眾皆成列,而程太妃戀鄴不欲去,穎未能決。俄而眾潰,唯志與子謐、兄子綝、殿中武賁千人而已,志復勸穎早發。時有道士姓黃,號曰聖人,太妃信之。及使呼人,道士求兩杯酒,飲訖,拋杯而去,於是志計始決。而人馬復散,志于營陣間尋索,得數乘鹿車,司馬督韓玄收集黃門,得百餘人。志入,帝問志曰:「何故散敗至此?」志曰:「賊去鄴尚八十里,而人士一朝駭散,太弟今欲奉陛下還洛陽。」帝曰:「甚佳。」於是禦犢車便發。屯騎校尉郝昌先領兵八千守洛陽,帝召之,至汲郡而昌至,兵仗甚盛。志喜於復振,啟天子宜下赦書,與百姓同其休慶。既達洛陽,志啟以滿奮為司隸校尉。奔散者多還,百官粗備,帝悅,賜志絹二百匹、綿百斤、衣一襲、鶴綾袍一領。

初め、河間王司馬顒は王浚が兵を起こしたと聞き、右将軍張方を派遣して鄴を救援させた。張方は成都王の軍が敗れたと聞き、兵を洛陽に留めて進まず、兵を放任して略奪させ、密かに都を長安ちょうあんに遷そうとし、宗廟宮室を焼き払って人心を絶やそうとした。志は張方を説得して言った。「昔、董卓が無道で洛陽を焼き払い、怨嗟の声は百年経ってもなお残っています。どうしてそれを踏襲しようとするのですか。」やめてくれた。張方は遂に天子をその陣営に行幸させようと迫った。帝は涙を流して車に乗り、志だけが側に侍して言った。「陛下の今日のことは、右将軍に一任すべきです。臣は愚鈍で臆病で、補うべき言葉もありません。ただ微誠を尽くし、左右を離れぬことだけを知っています。」張方の陣営に三日留まって西に向かい、志はまた従って長安に至った。穎が廃されると、志も免官された。

原文初,河間王顒聞王浚起兵,遣右將軍張方救鄴。方聞成都軍敗,頓兵洛陽,不敢進,縱兵虜掠,密欲遷都長安,將焚宗廟宮室,以絕人心。志說方曰:「昔董卓無道,焚燒洛陽,怨毒之聲,百年猶存,何為襲之!」乃止。方遂逼天子幸其壘。帝垂泣就輿,唯志侍側,曰:「陛下今日之事,當一從右將軍。臣駑怯,無所雲補,唯知盡微誠,不離左右而已。」停方壘三日便西,志復從至長安。穎被黜,志亦免官。

東海王司馬越が大駕を奉迎すると、顒は帝に啓上して穎を鄴に還らせ、志を魏郡太守とし、左将軍を加え、穎に従って北を鎮守させた。洛陽に至ったとき、平昌公司馬模が前鋒督護馮嵩を派遣して穎を阻んだ。穎は長安に戻ったが、到着する前に顒が張方を斬り、越に和を求めたと聞いた。穎は華陰に留まった。志は長安に進み、宮門に詣でて陳謝し、すぐに武関で穎のもとに戻った。南陽に奔り、また劉陶に追い立てられ、河北に赴いた。穎が薨じると、官属は逃げ散ったが、志だけが自ら殯送し、当時の人はこれを称賛した。越は志を軍諮祭酒に命じ、衛尉に遷し、永嘉の末に尚書に転じた。洛陽が陥落すると、志は妻子を連れて北に奔り、并州刺史劉琨に身を寄せた。陽邑に至り、劉粲に捕らえられ、次子の盧謐、盧詵らと共に平陽で害に遇った。長子は盧諶。

原文及東海王越奉迎大駕,顒啟帝復穎還鄴,以志為魏郡太守,加左將軍,隨穎北鎮。行達洛陽,而平昌公模遣前鋒督護馮嵩距穎。穎還長安,未至而聞顒斬張方,求和於越。穎住華陰,志進長安,詣闕陳謝,即還就穎于武關。奔南陽,復為劉陶所驅,回詣河北。及穎薨,官屬奔散,唯志親自殯送,時人嘉之。越命志為軍諮祭酒,遷衛尉,永嘉末,轉尚書。洛陽沒,志將妻子北投并州刺史劉琨。至陽邑,為劉粲所虜,與次子謐、詵等俱遇害於平陽。長子諶。

盧志の子、盧諶。

原文志子諶

盧諶は字を子諒といい、清く聡明で道理をわきまえ、『老子』『荘子』を好み、文章をよくした。武帝の娘滎陽公主に選ばれて婿となり、駙馬都尉に拝されたが、婚礼を挙げずに公主が卒去した。後に州から秀才に挙げられ、太尉たいい掾に召された。洛陽が陥落すると、志に従って北に奔り劉琨に身を寄せ、志と共に劉粲に捕らえられた。劉粲が晉陽を占拠し、諶を参軍として留めた。劉琨が散兵を収集し、猗盧の騎兵を引き連れて戻り劉粲を攻撃した。劉粲は敗走し、諶は劉琨のもとに赴くことができた。先に平陽にいた父母兄弟は、すべて劉聡りゅうそうに害された。劉琨が司空となると、諶を主簿しゅぼとし、転じて従事中郎とした。劉琨の妻は諶の従母(母の姉妹)であり、親愛を加えるとともに、その才能と家柄を重んじた。

原文諶字子諒,清敏有理思,好《老》《莊》,善屬文。選尚武帝女滎陽公主,拜駙馬都尉,未成禮而公主卒。後州舉秀才,辟太尉掾。洛陽沒,隨志北依劉琨,與志俱為劉粲所虜。粲據晉陽,留諶為參軍。琨收散卒,引猗盧騎還攻粲。粲敗走,諶得赴琨,先父母兄弟在平陽者,悉為劉聰所害。琨為司空,以諶為主薄,轉從事中郎。琨妻即諶之從母,既加親愛,又重其才地。

建興の末、劉琨に従って段匹磾に身を寄せた。段匹磾が自ら幽州を領すると、諶を別駕に取り立てた。段匹磾が劉琨を害すると、まもなく敗死した。当時、南路は遮断され、段末波が遼西にいた。諶は彼のもとに身を寄せた。元帝の初め、末波が江左に使者を通わせると、諶はその使者を通じて上表し、劉琨の無実を訴えた。文意は非常に切実で、朝廷はすぐに弔祭を加えた。累次、諶を散騎中書侍郎に徴したが、末波に留められ、ついに南渡できなかった。末波が死に、弟の段遼が代わって立つと、諶は世の変乱に流離すること二十年近くになった。石季龍せききりゅうが遼西を破ると、また季龍に捕らえられ、中書侍郎・国子祭酒・侍中・中書監とされた。冉閔ぜんびんが石氏を誅殺するに及び、諶は閔の軍に従い、襄国で害に遇った。時に六十七歳、この年は永和六年であった。

原文建興末,隨琨投段匹磾。匹磾自領幽州,取諶為別駕。匹磾既害琨,尋亦敗喪。時南路阻絕,段末波在遼西,諶往投之。元帝之初,末波通使于江左,諶因其使抗表理琨,文旨甚切,於是即加弔祭。累徵諶為散騎中書侍郎,而為末波所留,遂不得南渡。末波死,弟遼代立,諶流離世故且二十載。石季龍破遼西,復為季龍所得,以為中書侍郎、國子祭酒、侍中、中書監。屬冉閔誅石氏,諶隨閔軍,于襄國遇害,時年六十七,是歲永和六年也。

諶は名家の子で、早くから名声があり、才高く行い潔白で、当時の人々に推重された。中原の喪乱に遭い、清河の崔悦、穎川の荀綽、河東の裴憲、北地の傅暢と共に非業の地に陥り、ともに石氏に顕れたが、常に辱めと感じていた。諶はしばしば諸子に言った。「我が身が没した後は、ただ晋の司空従事中郎と称するだけでよい。」『祭法』を撰し、『荘子』に注し、文集があり、いずれも世に行われた。

原文諶名家子,早有聲譽,才高行潔,為一時所推。值中原喪亂,與清河崔悅、穎川荀綽、河東裴憲、北地傅暢並淪陷非所,雖俱顯于石氏,恆以為辱。諶每謂諸子曰:「吾身沒之後,但稱晉司空從事中郎爾。」撰《祭法》,注《莊子》,及文集,皆行於世。

崔悦。

原文崔悅

華悅は字を道儒といい、魏の司空華林の曾孫であり、劉琨の妻の甥である。華諶とともに劉琨の司空従事中郎となり、後に末波の佐史となった。石氏に滅ぼされた後も、大官の地位にあった。その子の華綽、華憲、華暢についてはそれぞれ別に伝がある。

原文悅字道儒,魏司空林曾孫,劉琨妻子之侄也。與諶俱為琨司空從事中郎,後為末波佐史。沒石氏,亦居大官。其綽、憲、暢並別有傳。

華表

原文華表

華表は、字を偉容といい、平原郡高唐県の人である。父の華歆は清廉な徳と高い行いを持ち、魏の太尉となった。華表は二十歳の時、散騎黄門郎に任じられ、累進して侍中となった。正元の初め、石苞が朝見に来て、高貴郷公(曹髦)を大いに称賛し、魏の武帝(曹操)が生き返ったかのようだと述べた。これを聞いた者たちは流れる汗が背中を濡らすほど恐れたが、華表は禍が起こることを恐れ、たびたび病気を理由に自宅に帰ったため、大難を免れた。後に尚書に転じた。五等爵制が確立すると、観陽伯に封じられた。喪事の供給が整わなかったことを理由に連座して免官された。泰始年間、太子少傅に任じられ、光禄勲に転じた。太常卿に昇進した。数年後、老病を理由に致仕を願い出た。詔書が下された。「華表は清廉で質素な行いをし、老成の風格がある。長く朝廷の仕事に携わり、静かで恭しく怠ることがなかった。しかし病気を理由に固く辞退し、上奏文は誠実である。今、願いの通りとし、太中大夫とし、銭二十万を賜い、寝台、帳、敷物、席の禄賜は卿と同じとし、門前に行馬を設けることを許す。」華表は苦節をもって名声を上げ、司徒の李胤、司隸の王宏らは皆、華表の清廉で淡泊、退いて静かな様子を称賛し、貴賤によって親しみや疎遠を決めるべきではないと感じた。咸寧元年八月に死去した。七十二歳であった。諡は康といい、詔により朝服が賜られた。六人の子があった。華廙、華岑、華嶠、華鑒、華澹、華簡である。

原文華表,字偉容,平原高唐人也,父歆,清德高行,為魏太尉。表年二十,拜散騎黃門郎,累遷侍中。正元初,石苞來朝,盛稱高貴鄉公,以為魏武更生。時聞者流汗沾背,表懼禍作,頻稱疾歸下舍,故免於大難。後遷尚書。五等建,封觀陽伯。坐供給喪事不整,免。泰始中,拜太子少傅,轉光祿勳。遷太常卿。數歲,以老病乞骸骨。詔曰:「表清貞履素,有老成之美,久幹王事,靜恭匪懈。而以疾固辭,章表懇至。今聽如所上,以為太中大夫,賜錢二十萬,床帳褥席祿賜與卿同,門施行馬。」表以苦節垂名,司徒李胤、司隸王宏等並歎美表清澹退靜,以為不可得貴賤而親疏也。咸寧元年八月卒,時年七十二,諡曰康,詔賜朝服。有六子:廙、岑、嶠、鑒、澹、簡。

子の華廙

原文子廙

華廙は字を長駿といい、広く聡明で才知と義理に富んでいた。妻の父の盧毓が官吏選考を担当していたが、姻戚を推挙することを難しくしたため、華廙は三十五歳になるまで官職に就けず、遅れて中書通事郎となった。泰始の初め、冗従僕射に転じた。若い頃から武帝に礼遇され、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事を歴任した。父の病が重くなるとすぐに帰還し、喪に服した。旧例では葬儀が終われば復職するが、華廙は固く辞退し、詔の意に背いた。

原文廙字長駿,弘敏有才義。妻父盧毓典選,難舉姻親,故廙年三十五不得調,晚為中書通事郎。泰始初,遷冗從僕射。少為武帝所禮,曆黃門侍郎、散騎常侍、前軍將軍、侍中、南中郎將、都督河北諸軍事。父疾篤輒還,仍遭喪舊例,葬訖復任,暠固辭,迕旨。

初め、華表には鬲県に賜客(与えられた戸)があり、華廙が県令の袁毅を通じて名簿を作成させた際、三人の客それぞれに代わりに奴隷を充てた。後に袁毅が賄賂の罪で捕らえられると、供述が混乱し、奴隷で客を代えたことは明らかにされず、単に三人の奴隷を華廙に送ったと述べた。袁毅もまた盧氏の婿であった。また、中書監の荀勖が以前、自分の次男に華廙の娘を娶らせようとしたが、華廙が許さなかったため、恨みを抱き、密かに帝に啓上して、「袁毅の賄賂事件に関与した者は多く、全てを罪に問うことはできません。最も親しい者の一人を責めるべきです」と言い、華廙をそれに当てはめた。さらに華廙には詔に背いた過失があったため、喪服中の身で華廙の官を免じ、爵位と封土を削った。大鴻臚の何遵が上奏して、華廙が免官されて庶人となった以上、封を継ぐべきではなく、華表の世孫である華混に華表の後を継がせるよう請うた。有司が奏上した。「華廙が受けた処分は除名と爵位削除であり、一時的な措置です。華廙は世子として名簿に記載されており、継承を許さないのは、刑罰を二度加えることになります。諸侯が法を犯した場合、八議によって公平に処断されるのは、功績を褒め爵位を重んじるためです。嫡流が終身にわたって棄てられるべき罪を犯したのでなければ、廃嫡することは重すぎます。律に依れば、封を継ぐことを許すべきです。」詔が下された。「諸侯が薨去すれば、子は年を越えて即位する。これは古い制度である。即位すべき時に廃すれば、爵位と任命は全て失われる。どうして罪罰を二度加えることがあろうか。かつて朕が華廙を責めたのは、貪汚を厳しくするためであり、もとより常法に基づく議論ではない。諸賢はこの意を明らかにして補佐できず、かえって礼と律を曲げ変え、法度を顧みなかった。君主の命によって廃したものを、臣下が復活させる。これは上下が正反対である。」これにより、有司がこの議論に関わった者の官を免じるよう奏上したが、詔では皆を贖罪で済ませた。華混は世孫として封を受けるべき立場であったが、逃げ隠れ、髪を切り狂人のふりをし、病気で声が出せなくなったため、拝命せずに済み、世間は彼を称えた。

原文初,表有賜客在鬲,使廙因縣令袁毅錄名,三客各代以奴。及毅以貨賕致罪,獄辭迷謬,不復顯以奴代客,直言送三奴與暠,而毅亦盧氏婿也。又中書監荀勖先為中子求廙女,廙不許,為恨,因密啟帝,以袁毅貨賕者多,不可盡罪,宜責最所親者一人,因指廙當之。又綠廙有違忤之咎,遂於喪服中免暠官,削爵土。大鴻臚何遵奏廙免為庶人,不應襲封,請以表世孫混嗣表。有司奏曰:「廙所坐除名削爵,一時之制。廙為世子,著在名簿,不聽襲嗣,此為刑罰再加。諸侯犯法,八議平處者,褒功重爵也。嫡統非犯終身棄罪,廢之為重,依律應聽襲封。」詔曰:「諸侯薨,子逾年即位,此古制也。應即位而廢之,爵命皆去矣,何為罪罰再加?且吾之責廙,以肅貪穢,本不論常法也。諸賢不能將明此意,乃更詭易禮律,不顧憲度,君命廢之,而群下復之,此為上下正相反也。」於是有司奏免議者官,詔皆以贖論。混以世孫當受封,逃避,斷髮陽狂,病喑不能語,故得不拜,世咸稱之。

華廙は家の巷に十年近く閑居し、子孫を教え導き、経典を講義し誦読した。経書の要点を集めて『善文』と名付け、世に行われた。陳勰とともに自宅の傍らに豚小屋を造った。帝(武帝)がたまたまこれを見に出向き、その理由を尋ねると、側近が実情を答えたので、帝は心の中で彼を哀れんだ。後に帝が陵雲台に登り、華廙の苜蓿園を見下ろすと、畦道が非常に整っており、昔を思い出して感慨にふけった。太康の初めの大赦により、ようやく封を継ぐことができた。しばらくして、城門校尉に任じられ、左衛将軍に転じた。数年後、中書監となった。恵帝が即位すると、侍中、光禄大夫、尚書令を加えられ、爵位は公に進んだ。華廙は楊駿の召しに応じて、すぐに戻らなかったため、有司が官を免じるよう奏上した。まもなく太子少傅に転じ、散騎常侍を加えられ、行動は礼典に従い、傅導(教え導く)の本義を体得した。後年、老衰して病が重くなると、詔により太医が治療に遣わされ、光禄大夫、開府儀同三司に進んだ。時、河南尹の韓寿が賈后に頼み、自分の娘を華廙の孫の華陶に娶わせようとしたが、華廙は拒絶して許さず、賈后はこれを深く恨んだため、華廙はついに三公の地位に登れなかった。七十五歳で死去した。諡は元といった。三人の子があった。華混、華薈、華恆である。

原文廙棲遲家巷垂十載,教誨子孫,講誦經典。集經書要事,名曰《善文》,行於世。與陳勰共造豬闌於宅側,帝嘗出視之,問其故,左右以實對,帝心憐之。帝后又登陵雲台,望見廙苜蓿園,阡陌甚整,依然感舊。太康初大赦,乃得襲封。久之,拜城門校尉,遷左衛將軍。數年,以為中書監。惠帝即位,加侍中、光祿大夫、尚書令,進爵為公。廙應楊駿召,不時還,有司奏免官。尋遷太子少傅,加散騎常侍,動遵禮典,得傅導之義。後年衰病篤,詔遣太醫療病,進位光祿大夫、開府儀同三司。時河南尹韓壽因托賈后求以女配廙孫陶,廙距而不許,後深以為恨,故遂不登臺司。年七十五卒,諡曰元。三子:混、薈、恆。

華混は字を敬倫といい、父の爵位を継いだ。清廉で貞潔、簡素で端正であり、侍中、尚書の官を歴任し、在官中に死去した。子の華陶が後を継ぎ、鞏県令に補されたが、石勒せきろくに殺害された。

原文混字敬倫,嗣父爵,清貞簡正,歷位侍中、尚書,卒官。子陶嗣,補鞏令,沒于石勒。

華薈は字を敬叔といい、河南尹となった。荀籓、荀組とともに賊を避け、臨穎に至ったが、父子ともに賊に遇害された。

原文薈字敬叔,為河南尹。與荀籓、荀組俱避賊,至臨穎,父子並遇害。

華廙の子の華恆

原文廙子恆

華恆は字を敬則といい、博学で清廉質素と称えられた。武帝の娘の滎陽長公主を娶り、駙馬都尉に任じられた。元康の初め、東宮が建てられると、華恆は選ばれて太子賓友となり、関内侯の爵位を賜り、百戸の食邑を与えられた。司徒王渾の倉曹掾に辟召され、散騎侍郎に任じられ、累進して散騎常侍、北軍中候となり、まもなく領軍を拝命し、散騎常侍を加えられた。

原文恆字敬則,博學以清素為稱。尚武帝女滎陽長公主,拜駙馬都尉。元康初,東宮建,恆以選為太子賓友,賜爵關內侯,食邑百戶。辟司徒王渾倉曹掾,屬除散騎侍郎,累遷散騎常侍、北軍中候,俄拜領軍,加散騎常侍。

湣帝が即位すると、華恆を尚書とし、苑陵県公に爵位を進めた。間もなく、劉聰が長安に迫ったため、詔により華恆を鎮軍将軍とし、潁川太守を兼ねさせ、外からの援軍とした。華恆は義兵を集め、二千人を得たが、西進して赴く前に、関中は陥落した。当時、群賊が盛んであり、各地の州郡は相次いで敗走した。華恆も郡を捨てて東に渡ろうとしたが、従兄の華軼が元帝に誅殺されたため、これを疑って躊躇した。まず驃騎将軍の王導おうどうに手紙を送り、王導が帝に取り次いだ。帝は言った。「兄弟の罪は互いに及ばない。ましてや従兄弟たちに及ぼすことがあろうか。」すぐに華恆を召し出し、光禄勲に補した。華恆が到着したが、拝命する前に、さらに衛将軍とし、散騎常侍、本州の大中正を加えた。

原文湣帝即位,以恆為尚書,進爵苑陵縣公。頃之,劉聰逼長安,詔出恆為鎮軍將軍,領潁川太守,以為外援。恆興合義軍,得二千人,未及西赴,而關中陷沒。時群賊方盛,所在州郡相繼奔敗,恆亦欲棄郡東渡,而從兄軼為元帝所誅,以此為疑。先書與驃騎將軍王導,導言於帝。帝曰:「兄弟罪不相及,況群從乎!」即召恆,補光祿勳。恆到,未及拜,更以為衛將軍,加散騎常侍、本州大中正。

まもなく太常に任じられ、郊祀(天地の祭祀)の実施について議論した。尚書の刁協と国子祭酒の杜彝は、洛陽に還都してから郊祀を行うべきだと議した。華恆は議して、漢の献帝が許にいた時、すぐに郊祀を行った例を挙げ、ここ(建康けんこう)で行うべきだと主張した。司徒の荀組と驃騎将軍の王導が華恆の意見に同調し、郊祀を行うことが決まった。間もなく病気を理由に辞任を願い出た。詔が下された。「太常の職責は宗廟を主管し、烝嘗の祭祀を敬重することにある。華恆の病気は、自ら職務に当たるに堪えない。夫子(孔子)が『吾祭らずんば、祭らざるが如し』と言われた。ましてや宗伯(礼官の長)の任にある者がその職務を果たせないとなればなおさらである。今、華恆を廷尉に転じる。」間もなく、特進を加えられた。

原文尋拜太常,議立郊祀。尚書刁協、國子祭酒杜彝議,須還洛乃修郊祀。恆議,漢獻帝居許,即便郊柴,宜於此修立。司徒荀組、驃騎將軍王導同恆議,遂定郊祀。尋以疾求解,詔曰:「太常職主宗廟,烝嘗敬重,而華恆所疾,不堪親奉職事。夫子稱'吾不與祭,如不祭',況宗伯之任職所司邪!今轉恆為廷尉。」頃之,加特進。

太寧の初め、驃騎将軍に転じ、散騎常侍を加えられ、石頭の水陸諸軍事を都督した。王敦が上表して華恆を護軍に転じさせようとしたが、病気のため拝命しなかった。金紫光禄大夫を授けられ、また太子太保を兼ねた。成帝が即位すると、散騎常侍を加えられ、国子祭酒を兼ねた。咸和の初め、湣帝の時代に賜った爵位と進封は全て削除され、華恆は改めて王敦討伐の功績により苑陵県侯に封じられ、再び太常を兼ねた。蘇峻の乱では、華恆は帝の左右に侍し、石頭まで従い、艱難危険を経験し、一年以上にわたって困窮憔悴した。

原文太甯初,遷驃騎將軍,加散騎常侍,督石頭水陸諸軍事。王敦表轉恆為護軍,疾病不拜。授金紫光祿大夫,又領太子太保。成帝即位,加散騎常侍,領國子祭酒。咸和初,以湣帝時賜爵進封一皆削除,恆更以討王敦功封苑陵縣侯,復領太常。蘇峻之亂,恆侍帝左右,從至石頭,備履艱危,困悴逾年。

初め、華恆が州の大中正であった時、同郷の任譲は軽薄で品行が悪く、華恆によって罷免された。後に任譲が蘇峻の軍中にいた時、権勢を任せて多くの殺害を行ったが、華恆に会うと常に恭敬の態度を取り、暴虐をふるわなかった。鐘雅と劉超が殺害された時、華恆にも危険が及ぶところであったが、任譲が心を尽くして救護したため、難を免れることができた。

原文初,恆為州大中正,鄉人任讓輕薄無行,為恆所黜。及讓在峻軍中,任勢多所殺害,見恆輒恭敬,不肆其虐。鐘雅、劉超之死,亦將及恆,讓盡心救衛,故得免。

帝が元服を加えられ、さらに皇后を迎え入れようとした時、寇難の後で典籍が散逸し、婚礼や冠礼の儀式には拠るべきものがなかった。温恆は旧典を推し量って探求し、礼儀を撰定し、郊祀・宗廟・辟雍・朝廷の軌則を定め、これらはすべて施行された。左光禄大夫・開府に昇進し、常侍の職は従前のままだったが、固辞して拝命しなかった。そのまま死去した。享年六十九歳。侍中・左光禄大夫・開府を追贈され、諡を敬といった。

原文及帝加元服,又將納後。寇難之後,典籍靡遺,婚冠之禮,無所依據。恆推尋舊典,撰定禮儀,並郊廟辟雍朝廷軌則,事並施用。遷左光祿大夫、開府,常侍如故,固讓未拜。會卒,時年六十九,冊贈侍中、左光祿大夫、開府,諡曰敬。

温恆は清廉で慎み深く質素であり、顕職にあっても常に布衣と粗食で、年老いてもますますその志を固くした。死んだ日、家には余財がなく、ただ数百巻の書物があるだけであった。当時の人々はこのことで彼を尊んだ。子の温俊が後を嗣ぎ、尚書郎となった。温俊の子の温仰之は、大長秋となった。

原文恆清恪儉素,雖居顯列,常布衣蔬食,年老彌篤。死之日,家無餘財,唯有書數百卷,時人以此貴之。子俊嗣,為尚書郎。俊子仰之,大長秋。

温廙の弟の温嶠

原文廙弟嶠

温嶠は字を叔駿といい、才学が深く広く、若い頃から良い評判があった。文帝が大将軍であった時、掾属に辟召され、尚書郎を補し、車騎從事中郎に転じた。泰始初年、関内侯の爵位を賜った。太子中庶子に昇進した。安平太守として出向したが、親が年老いていることを理由に辞退して赴任せず、改めて散騎常侍に拝され、中書著作を管掌し、国子博士を兼任し、侍中に昇進した。

原文嶠字叔駿,才學深博,少有令聞。文帝為大將軍,辟為掾屬,補尚書郎,轉車騎從事中郎。泰始初,賜爵關內侯。遷太子中庶子。出為安平太守。辭親老不行,更拜散騎常侍,典中書著作,領國子博士,遷侍中。

太康の末、武帝はしばしば宴楽に親しみ、また病気が多かった。少し快癒した時、温嶠は侍臣たちと共に上表して祝賀し、それに乗じてひそかに諫言した。「伏して考えますに、聖体が次第に平和に近づかれ、上下ともに慶賀し、思わず手を打って舞う思いです。臣らは愚かで頑なですが、ひそかに微かな思いを抱いております。それは、軽視していたところにこそ成功を収めれば、事に悔いはなく、完成目前に福を考えれば、国運は日々新たになるということです。ただ願わくは、陛下が深く聖明をお垂れになり、遠く軽視することの悔いを思い、日々新たなる福を成し遂げられますように。穏やかで静かな和気を保ち、精神を養い、清簡な住まいでご自身を保養され、虚ろで広大な境地に心を留められますように。世俗の常なる戒めを厭わず、臣下たちの言葉を軽んじることなく、豊かな慶事が日々延び、天下の幸いこれに過ぎることはありません。」帝は手詔で答えた。「自ら養生するので、何も心配することはない。」元康初年、宣昌亭侯に封ぜられた。楊駿が誅殺された後、楽郷侯に改封され、尚書に昇進した。

原文太康末,武帝頗親宴樂,又多疾病。屬小瘳,嶠與侍臣表賀,因微諫曰:「伏惟聖體漸就平和,上下同慶,不覺抃舞。臣等愚戇,竊有微懷,以為收功於所忽,事乃無悔;慮福于垂成,祚乃日新。唯願陛下深垂聖明,遠思所忽之悔,以成日新之福。沖靜和氣,嗇養精神,頤身于清簡之宇,留心於虛曠之域。無厭世俗常戒,以忽群下之言,則豐慶日延,天下幸甚!」帝手詔報曰:「輒自消息,無所為慮。」元康初,封宣昌亭侯。誅楊駿,改封樂鄉侯,遷尚書。

後に温嶠が博識で物知りであり、書物や典籍に詳しく、優れた史官の志を持っていることから、秘書監に転じ、散騎常侍を加官され、班位は中書と同格となった。寺は内台となり、中書・散騎・著作および治礼音律、天文数術、南省の文章、門下の撰集を、すべて統轄した。初め、温嶠は『漢紀』が煩雑で雑多なのを慨嘆し、改作しようという意思を持っていた。たまたま台郎となり、官制の事を管掌したため、これによって秘蔵の書物を遍く閲覧することができ、ついにその事業に着手した。光武帝から始め、孝献帝で終わり、百九十五年を扱い、帝紀十二巻、皇后紀二巻、十典十巻、伝七十巻および三譜・序伝・目録を合わせて九十七巻とした。温嶠は、皇后は天に配して合するものであり、前史が外戚伝を作って巻末に置くのはその道理に合わないと考えたので、皇后紀と改めて帝紀の次に置いた。また志を典と改めたのは、『堯典』があったからである。そして書名を『漢後書』と改めて上奏した。詔により朝臣たちが会議した。当時、中書監の荀勗、中書令の和嶠、太常の張華ちょうか、侍中の王済は皆、温嶠の文章は質実で事実に基づき、司馬遷や班固の規範を持ち、実録の風格があるとして、秘府に蔵することを認めた。後に太尉の汝南王司馬亮と司空の衛瓘が東宮の傅となり、上奏して講義に用いるべきだと列挙したため、ついに施行されることとなった。温嶠の著した論議・難駁・詩賦の類は数十万字に及び、彼が上奏した官制、太子は宮中に戻るべきこと、辺境の安定、雨乞いの祭祀、明堂辟雍、河渠の疏導、禹の旧跡を巡って都水官を置くこと、蚕宮の礼を修めて長秋を置くことなど、多くが施行された。元康三年に死去し、少府を追贈され、諡を簡といった。

原文後以嶠博聞多識,屬書典實,有良史之志,轉秘書監,加散騎常侍,班同中書。寺為內台,中書、散騎、著作及治禮音律,天文數術,南省文章,門下撰集,皆典統之。初,嶠以《漢紀》煩穢,慨然有改作之意。會為台郎,典官制事,由是得遍觀秘笈,遂就其緒,起于光武,終於孝獻,一百九十五年,為帝紀十二卷、皇后紀二卷、十典十卷、傳七十卷及三譜、序傳、目錄,凡九十七卷。嶠以皇后配天作合,前史作外戚傳以繼末編,非其義也,故易為皇后紀,以次帝紀。又改志為典,以有《堯典》故也。而改名《漢後書》奏之。詔朝臣會議。時中書監荀勖、令和嶠、太常張華、侍中王濟咸以嶠文質事核,有遷固之規,實錄之風,藏之秘府。後太尉汝南王亮、司空衛瓘為東宮傅,列上通講,事遂施行。嶠所著論議難駁詩賦之屬數十萬言,其所奏官制、太子宜還宮及安邊、雩祭、明堂辟雍、浚導河渠,巡禹之舊跡置都水官,修蠶宮之禮置長秋,事多施行。元康三年卒,追贈少府,諡曰簡。

温嶠は酒を好む性分で、常に深く酔っていた。撰述した書物の十典は完成しないうちに終わり、秘書監の何劭が温嶠の次子の温徹を佐著作郎に奏上し、事業を継続させて完成させようとしたが、完成しないうちに死去した。後に監の繆徵がまた温嶠の末子の温暢を佐著作郎に奏上し、十典を完成させ、さらに魏・晋の紀伝を起草し、著作郎の張載らと共に史官に在った。永嘉の喪乱で経籍が失われ、温嶠の書物で現存するものは五十余巻であった。

原文嶠性嗜酒,率常沈醉。所撰書十典未成而終,秘書監何劭奏嶠中子徹為佐著作郎,使踵成之,未竟而卒。後監繆徵又奏嶠少子暢為佐著作郎,克成十典,並草魏、晉紀傳,與著作郎張載等俱在史官。永嘉喪亂,經籍遺沒,嶠書存者五十餘卷。

温嶠には三人の子がいた。温頤、温徹、温暢である。温頤が後を嗣ぎ、長楽内史まで官位が昇った。温暢は才思に富み、著した文章は数万字に及んだ。寇乱に遭い、荊州に避難したが、賊に害され、享年四十歳であった。

原文嶠有三子:頤、徹、暢。頤嗣,官至長樂內史。暢有才思,所著文章數萬言。遭寇亂,避難荊州,為賊所害,時年四十。

石鑒

原文石鑒

石鑒は字を林伯といい、楽陵郡厭次県の人である。寒素の家柄から出て、公正で誠実な志操を持っていた。魏に仕え、尚書郎・侍御史・尚書左丞・御史中丞を歴任し、多くを糾弾・是正し、朝廷は彼を畏れた。并州刺史・仮節・護匈奴中郎将として出向した。武帝が禅譲を受けると、堂陽子に封ぜられた。入朝して司隸校尉となり、尚書に転じた。当時、秦州・涼州が虜に敗れたため、石鑒を都督隴右諸軍事として派遣したが、功績を虚偽で論じた罪で免官された。後に鎮南将軍・豫州刺史となったが、呉の賊討伐で首級の数を水増しした罪に坐した。詔が下された。「昔、雲中太守の魏尚は斬首の数を実数通りでないとして刑罰を受け、武牙将軍の田順は虜の捕獲数を詐って増やしたため自殺した。事実を偽り法を損なうことは、古今を通じて忌み嫌われることである。石鑒は大臣の任に備え、朕が信頼を置く者である。以前の西方での事変では、公は朝廷を欺き、敗北を勝利と偽り、ついに追及されなかった。その間、罷免されてから間もなく、またすぐに任用され、過ちを補うことを期待したのに、かえって下僚と共に詐りを行った。いわゆる大臣たる者、道理としてこのようなことがあってよいのか。役所の奏上はその通りであるが、朕はまだ忍びない。今、郷里に帰す。終身にわたり再び任用することはない。ただし爵位と封土は削らない。」長い時を経て、光禄勲に拝され、再び司隸校尉となり、次第に特進を加えられ、右光禄大夫・開府に昇進し、司徒を兼任した。前代の三公の冊拝には、皆小さな宴会を設け、宰輔の制度を尊ぶためであった。魏の末年以来、廃れて行われなくなっていた。石鑒の時に至り、詔によって宴会を行うよう命じられ、以後これを常例とした。太康の末、司空に拝され、太子太傅を兼任した。

原文石鑒,字林伯,樂陵厭次人也。出自寒素,雅志公亮。仕魏,曆尚書郎、侍御史、尚書左丞、御史中丞,多所糾正,朝廷憚之,出為并州刺史、假節、護匈奴中郎將。武帝受禪,封堂陽子。入為司隸校尉,轉尚書。時秦、涼為虜所敗,遣鑒都督隴右諸軍事,坐論功虛偽免官。後為鎮南將軍、豫州刺史,坐討吳賊虛張首級。詔曰:「昔雲中守魏尚以斬首不實受刑,武牙將軍田順以詐增虜獲自殺,誣罔敗法,古今所疾。鑒備大臣,吾所取信。往者西事,公欺朝廷,以敗為得,竟不推究。中間黜免未久,尋復授用,冀能補過,而乃與下同詐。所謂大臣,義得爾乎!有司奏是也,顧未忍耳。今遣歸田里,終身不得復用,勿削爵土也。」久之,拜光祿勳,復為司隸校尉,稍加特進,遷右光祿大夫、開府,領司徒。前代三公冊拜,皆設小會,所以崇宰輔之制也。自魏末已後,廢不復行。至鑒,有詔令會,遂以為常。太康末,拜司空,領太子太傅。

武帝が崩御すると、石鑒は中護軍の張劭と共に山陵の監統を務めた。当時、大司馬の汝南王司馬亮は太傅の楊駿に疑われ、喪に臨むことができず、城外に駐屯していた。その時、司馬亮が兵を挙げて楊駿を討とうとしているという告げ口があり、楊駿は大いに恐れ、太后に上奏して帝に手詔を出させ、石鑒と張劭に命じて陵兵を率いて司馬亮を討たせようとした。張劭は楊駿の甥であったので、すぐに配下を率いて石鑒に急ぎ出発するよう催促したが、石鑒はそうすべきでないと考え、これを抑え、密かに人を遣わして司馬亮の様子を窺わせたところ、すでに別の道から許昌きょしょうに戻っていた。そこで楊駿は中止し、世論は石鑒を称えた。山陵の工事が終わると、昌安県侯に封ぜられた。元康初年、太尉となった。八十余歳でも壮健で気概に満ち、自らを少年のように遇し、当時の人々は彼を称賛した。まもなく薨去し、諡を元といった。子の石陋は字を処賤といい、封を襲い、屯騎校尉を歴任した。

原文武帝崩,鑒與中護軍張劭監統山陵。時大司馬、汝南王亮為太傅楊駿所疑,不敢臨喪,出營城外。時有告亮欲舉兵討駿,駿大懼,白太后令帝為手詔,詔鑒及張劭使率陵兵討亮。劭,駿甥也,便率所領催鑒速發,鑒以為不然,保持之,遣人密覘視亮,已別道還許昌,於是駿止,論者稱之。山陵訖,封昌安縣侯。元康初,為太尉。年八十餘,克壯慷慨,自遇若少年,時人美之。尋薨,諡曰元。子陋,字處賤,襲封,曆屯騎校尉。

温羨

原文溫羨

温羨は字を長卿といい、太原郡祁県の人で、漢の護羌校尉温序の後裔である。祖父の温恢は魏の揚州刺史、父の温恭は済南太守であった。兄弟六人とも当世に名を知られ、「六龍」と号された。温羨は若い頃から聡明で悟りが早いと称され、斉王司馬攸に掾に辟召され、尚書郎に昇進した。恵帝が即位すると、豫州刺史に拝され、入朝して散騎常侍となり、累進して尚書となった。斉王司馬冏が政を補佐すると、温羨が司馬攸の旧臣であったため、特に親しく思い、吏部尚書に転じた。

原文溫羨,字長卿,太原祁人,漢護羌校尉序之後也。祖恢,魏揚州刺史。父恭,濟南太守。兄弟六人並知名於世,號曰「六龍」。羨少以朗寤見稱,齊王攸辟為掾,遷尚書郎。惠帝即位,拜豫州刺史,入為散騎常侍,累遷尚書。及齊王冏輔政,以羨攸之故吏,意特親之,轉吏部尚書。

以前、張華が誅殺された際、司馬冏は彼の官爵を復活させるよう提案した。論者の中には反対する者もいたが、温羨は反論して言った。「天子以下、諫言する臣にはそれぞれ格差があり、一人に罪を帰することはできない。故に晏子は言った。『自分のために死ぬのは、親しい者でなければ誰が引き受けられようか』。里克が二人の庶子を殺し、陳乞が陽生を立て、漢朝が諸呂を誅したのは、皆、長年の後に初めて事を成し遂げたのである。君主が存命中に、数ヶ月の内に自分の志を遂げた例はない。式乾殿の会議では、張華だけが諫言した。上宰(宰相)たちが不和で、風潮に従って善を助けることができず、彼が指揮に従うことを望むのは、あまりにも難しいことではないか。況してや今、皇后がその子を讒言して害し、内乱に関与せず、礼の所在ではない。また、皇后の身分は帝と同等で、尊さは皇極と同じであり、罪は子を曲げたことにあり、事は逆賊ではないので、討伐すべき義理ではない。今、張華が曲がった子の後を廃することができなかったことを、趙盾が君主を殺した賊を討たなかったことと同じとし、彼を貶めて責めるのは、義理に通じない。」結局、張華は爵位を追復されることとなった。

原文先是,張華被誅,冏建議欲復其官爵。論者或以為非,羨駁之曰:「自天子已下,爭臣各有差,不得歸罪於一人也。故晏子曰:'為已死亡,非其親昵,誰能任之?」裏克之殺二庶,陳乞之立陽生,漢朝之誅諸呂,皆積年之後乃得立事。未有事主見存,而得行其志於數月之內者也。式乾之會,張華獨諫。上宰不和,不能承風贊善,望其指麾從命,不亦難乎!況今皇后譖害其子,內難不預,禮非所在。且後體齊於帝,尊同皇極,罪在枉子,事不為逆,義非所討。今以華不能廢枉子之後,與趙盾不討殺君之賊同,而貶責之,於義不經通也。」華竟得追復爵位。

その後、従駕して成都王司馬穎を討伐した功績により、大陵県公に封ぜられ、邑千八百戸を賜った。冀州刺史として出向し、後将軍を加えられた。范陽王司馬虓が許昌で敗れた時、自ら冀州を治めようとしたので、温羨はこれを避けた。恵帝が長安に行幸した際、温羨を中書令に任じたが、就任しなかった。帝が洛陽に還った時、中書監に徴され、散騎常侍を加えられた。拝受する前に、帝が崩御した。懐帝が即位すると、左光禄大夫・開府に昇進し、司徒を領した。論者は皆、昇進が速すぎると言った。在任して間もなく、病没し、司徒を追贈され、諡は元といった。三人の子がいた。温祗、温允、温裕である。

原文其後以從駕討成都王穎有勳,封大陵縣公,邑千八百戶。出為冀州刺史,加後將軍,范陽王虓敗於許昌也,自牧冀州,羨乃避之。惠帝之幸長安,以羨為中書令,不就。及帝還洛陽,徵為中書監,加散騎常侍。未拜,會帝崩。懷帝即位,遷左光祿大夫、開府,領司徒。論者僉謂為速。在位未幾,病卒,贈司徒,諡曰元。有三子:祗、允、裕。

温祗は字を敬斉といい、太傅西曹掾となった。温允は字を敬咸といい、太子舎人となった。温裕は字を敬嗣といい、武安長公主を娶り、官は左光禄大夫に至った。

原文祗字敬齊,太傅西曹掾。允字敬咸,太子舍人。裕字敬嗣,尚武安長公主,官至左光祿大夫。

史臣が言う。

原文【史評】

晋朝の中朝期は、累代の基盤を受け継ぎ、兼併の事業を建て、衣冠(士大夫)がこれほど盛んで、英彦が林のごとくいた。この数公は、あるいは雅望をもって台槐(三公)の地位にあり、あるいは高名をもって保傅(太保・太傅)の地位にあった。一時の俊秀でなければ、どうしてここまで至れようか。惜しむらくは、論道の時に参画し、兼済の日に独善したことである。良き計画や鯁直な議論は、多く語るに足りない。しかし、己を退けて賢を進めたことは、林叔(温羨)が推譲の美を広め、家を治めて国を正したことは、宣伯(温羨の諡か)が恭孝の規範に合致した。温子若(温羨の子か)は儒素を基とし、温偉容(温羨か)は苦節で名声を流し、慶事が後世に伝わるのは、まさに当然であろう。石鑒は公亮によって昇進し、温羨は明悟によって顕れた。危乱の時にあっても、その名を損なうことはなかった。歳寒にして松柏の後凋を見るとは、この人たちのことを言うのである。

原文史臣曰:晉氏中朝,承累世之資,建兼併之業,衣冠斯盛,英彥如林。此數公者,或以雅望處台槐,或以高名居保傅,自非一時之秀,亦曷能至於斯。惜其參緘於論道之辰,獨善於兼濟之日,良圖鯁議,無足多談。然退已進賢,林叔弘推讓之美;自家刑國,宣伯協恭孝之規。子若之儒素為基,偉容之苦節流譽,慶垂來葉,不亦宜哉!石鑒以公亮升,溫羨以明寤顯,屬於危亂,不隕其名。歲寒見松柏之後凋,斯人之謂矣。