しん

巻三十六 列伝第六

衛瓘

衛瓘は、 字 を伯玉といい、河東郡安邑県の人である。高祖父の衛暠は、漢の明帝の時代に、儒学をもって代郡から招聘され、河東安邑に至って没したため、その地を賜って葬られ、子孫はそこで家を構えた。父の衛覬は、魏の 尚書 であった。衛瓘は十歳で父を亡くし、孝行は人並み外れていた。性格は貞潔で静かであり、名理に通じ、明識で清廉公平であると称された。父の爵位である閿郷侯を継いだ。弱冠にして魏の尚書郎となった。当時、魏の法律は厳しく過酷であったため、母の陳氏が心配したので、衛瓘は自ら願い出て通事郎に移り、さらに中書郎に転じた。当時は権臣が専政していたが、衛瓘はその間を悠々と過ごし、誰とでも親しくも疎遠にもならず、傅嘏に非常に重んじられ、甯武子と呼ばれた。在位十年、職務に適任であると称され、累進して 散騎常侍 さんきじょうじ となった。陳留王が即位すると、侍中に任じられ、節を持って河北を慰労した。定議の功績により、封邑の戸数を増やされた。数年後、廷尉卿に転じた。衛瓘は法理に明るく、訴訟を聴くたびに、大小にかかわらず実情に基づいて裁いた。

鄧艾 と鐘会が蜀を討伐したとき、衛瓘は本来の官職のまま節を持って鄧艾と鐘会の軍事を監督し、鎮西軍司を代行し、兵一千人を与えられた。蜀が平定されると、鄧艾は勝手に 詔 を承ったふりをして官爵を授けた。鐘会はひそかに異心を抱き、鄧艾が専断したことを利用して、密かに衛瓘とともにその様子を上奏した。 詔 によって檻車で鄧艾を召還することになり、鐘会は衛瓘に先に鄧艾を捕らえさせた。鐘会は衛瓘の兵が少ないのを見て、鄧艾に衛瓘を殺させ、その罪を鄧艾に加えようとした。衛瓘は自分が危険にさらされようとしていることを知ったが、拒むことができず、夜に成都に至り、鄧艾が統率する諸将に檄を飛ばし、 詔 によって鄧艾を捕らえると告げ、その他は一切問わないとした。もし官軍に馳せ参じるならば、爵禄と褒賞は以前の通りとし、敢えて出て来ない者は三族に及ぶ誅罰を加えると。夜明けまでに、皆が衛瓘のもとに馳せ参じたが、鄧艾の幕内だけはそのままだった。夜が明けて門を開くと、衛瓘は使者の車に乗り、まっすぐに成都の殿前に入った。鄧艾はまだ床に臥して起きておらず、父子ともに捕らえられた。鄧艾の諸将は鄧艾を奪還しようと企み、武装して衛瓘の陣営に向かった。衛瓘は軽装で出迎え、偽りの上奏文の草稿を作り、鄧艾の件を申し開きしようとしているふりをしたので、諸将はそれを信じて引き下がった。やがて鐘会が到着すると、諸将の胡烈らをことごとく招き寄せ、捕らえて益州の官舎に監禁し、兵を起こして反乱を起こした。そこで兵士たちは帰郷を望み、内外が騒然とし、人々は憂慮と恐れを抱いた。鐘会は衛瓘を引き留めて謀議し、板に「胡烈らを殺そう」と書いて衛瓘に見せたが、衛瓘は同意せず、互いに疑心を抱いた。衛瓘が厠に行くと、胡烈の元の給使(使い走り)に会い、三軍に伝言させて鐘会が反乱を起こしたと告げさせた。鐘会は衛瓘に決断を迫り、一晩中眠らず、それぞれ膝の上に刀を横たえた。外にいた諸軍はすでにひそかに鐘会を攻撃しようとしていた。衛瓘が出て来ないので、先に手を出す勇気がなかった。鐘会は衛瓘に諸軍を慰労させようとした。衛瓘は去りたいと思い、その意志を固めて言った。「卿は三軍の主である。自ら行くべきだ。」鐘会は言った。「卿は監司である。まず先に行け。私は後から出よう。」衛瓘はすぐに殿を下りた。鐘会は彼を行かせたことを後悔し、衛瓘を呼び戻させた。衛瓘は眩暈の病気が起こったと断り、倒れたふりをした。閣を出るころには、数十人の使者が彼を追った。衛瓘は外の便所に至り、塩湯を飲んで大いに吐いた。衛瓘はもともと病弱だったので、重篤な状態に見えた。鐘会が親しい者や医者を遣わして診させると、皆がもう起きられないと言ったので、鐘会はそれ以降何の恐れも抱かなくなった。日が暮れると門が閉じられ、衛瓘は檄を作って諸軍に告げた。諸軍はすでにこぞって大義を唱え、夜明け前に共に鐘会を攻撃した。鐘会は左右を率いて防戦したが、諸将に撃破され、幕下の数百人だけが鐘会に従って殿の周りを逃げ回り、ことごとく殺された。衛瓘はそこで諸将を指揮分掌し、衆人の心情は厳粛であった。鄧艾の本営の将士が再び追いかけて檻車を破り鄧艾を救い出し、成都に戻ろうとした。衛瓘は自ら鐘会と共に鄧艾を陥れたことを思い、変事が起こることを恐れ、また鐘会を誅殺した功績を独占したいと考え、護軍の田続を綿竹に派遣し、夜に三造亭で鄧艾を襲撃し、鄧艾とその子の鄧忠を斬った。初め、鄧艾が江由に入ったとき、田続が進軍しなかったので斬ろうとしたが、後に赦免していた。衛瓘が田続を派遣するとき、彼に言った。「江由での辱めを返すことができる。」

事が平定されると、朝廷で衛瓘に封を与えることが議論された。衛瓘は、蜀を平定した功績は諸将帥の力によるものであり、鄧艾・鐘会の二将が跋扈して自滅したのであって、自分は智謀を巡らせたが、敵陣の旗を奪うような戦功はなかったとして、固辞して受けなかった。使持節・ 都督 ととく 関中諸軍事・鎮西将軍に任じられ、まもなく 都督 ととく 徐州諸軍事・鎮東将軍に転じ、封を増やされて菑陽侯とされ、余った爵位で弟の衛実を開陽亭侯に封じた。泰始初年、征東将軍に転じ、爵位を公に進め、 都督青州諸軍事 ととくせいしゅうしょぐんじ ・青州 刺史 しし に任じられ、征東大将軍・青州牧を加えられた。赴任した地ではすべて政績を上げた。征北大将軍・ 都督 ととく 幽州諸軍事・幽州 刺史 しし ・護烏桓 校尉 こうい に任じられた。任地に着くと、平州を設置するよう上表し、後にその 都督 ととく を兼ねた。当時、幽州・ へい 州の東には務桓が、西には力微がおり、ともに辺境の害となっていた。衛瓘は二つの異民族を離間させ、ついに互いに疑心を生じさせたので、務桓は降伏し、力微は憂い死んだ。朝廷はその功績を称え、一子に亭侯の爵位を賜った。衛瓘はそれを弟に封じるよう願い出たが、命を受ける前に弟が亡くなり、子の衛密が亭侯に封じられた。衛瓘には六人の男子がいたが爵位がなく、すべて二人の弟に譲ったので、遠近の人々に称賛された。たびたび朝廷に入ることを願い出て、到着すると、武帝は手厚く遇し、まもなく任地に戻らせた。咸寧初年、召されて 尚書令 しょうしょれい に任じられ、侍中を加えられた。性格は厳格で整っており、法をもって部下を統御し、尚書を参佐のように、尚書郎を掾属のように扱った。衛瓘は学問が深く広く、文芸に明るく習熟しており、尚書郎の敦煌の索靖とともに草書をよくし、当時の人々から「一台の二妙」と号された。漢末の張芝も草書をよくし、論者は「衛瓘は伯英(張芝)の筋を得、索靖は伯英の肉を得た」と言った。太康初年、 司空 しくう に昇進し、侍中・令はもとのままだった。政治は清廉で簡素であり、朝廷と民間の声望を大いに得た。武帝は衛瓘の四男の衛宣に繁昌公主を娶わせるよう命じた。衛瓘は自らを儒生の末裔と考え、婚姻の相手が微賎であるとして、上表して固く辞退したが、許されなかった。また太子少傅を兼任し、千人の兵と百騎の鼓吹の府を加えられた。日食があったため、衛瓘は 太尉 たいい の汝南王司馬亮・ 司徒 しと の魏舒とともに辞任を申し出たが、帝は聞き入れなかった。

衛瓘は、魏が九品官人法を立てたのは、一時の制度であり、恒久的に通用する道理ではないとして、古に戻って郷挙里選を行うべきだと主張した。 太尉 たいい の司馬亮らと上疏して言った。「昔、聖王は賢者を尊び、善行を挙げて教化し、朝廷に徳譲を行わせ、民間に邪悪な行いがないようにした。まことに、里や伍の政事は、互いに検察するに足り、事を尋ね言葉を考査すれば、必ずその善を得ることができ、人は名声が虚しく求められないことを知るので、自ら身を修めるに至る。それゆえ賢者を尊べば風俗はますます和らぎ、悪を退ければ行いはますます篤くなる。これが郷挙里選であり、先王の立派な法典である。これ以降、この法は廃れた。魏は覆滅の運命を継ぎ、喪乱の後に興り、人士が流離転徙し、詳しく考査する地がなかったので、九品の制度を立て、粗末ながら一時の選用の根本とした。その創始のころは、郷邑の清議は爵位に拘らず、褒貶を加えることで十分に勧励となり、まだ郷論の余風があった。中頃になって次第に影響を受け、ついに資歴を計算して品を定めるようになり、天下の人々が観望するのは、ただ官位にあることを貴しとし、人は徳を捨てて道業を軽んじ、錐の先ほどの些細な利害を争うようになり、風俗を傷つけ、その弊害は小さくない。今、九域は同じ規矩にあり、大いなる教化が始まろうとしている。臣らは、末法をすべて取り除き、一様に古制に倣い、土断によって、公卿以下すべて、居住地を正しい籍貫とし、再び遠方の異土に籍を懸けて所属する者がないようにすべきだと考えます。このようにすれば、同じ郷里の隣り合う伍はすべて邑里となり、郡県の長官はそのまま居住地の長となり、中正九品の制度をすべて除き、善を挙げ才能を進めることを、それぞれ郷論に委ねる。そうすれば、下は上を敬い、人はその教化に安んじ、風俗と政治がともに清くなり、教化と法がともに補い合う。人は善悪の教えが交遊にあるのではないと知れば、華やかな競争は自然に止み、各自が己に求めるようになる。今、九品を除くならば、古制に準じて、朝臣が共に推挙任用し、人材を出す道が広くなるばかりでなく、進賢の公心を励まし、在位者の明暗を核実することができ、まことに立派な法典である。」武帝はこれを良しとしたが、結局改めることはできなかった。

恵帝が皇太子であった頃、朝廷の臣下たちは皆、彼が純朴で素直すぎて、自ら政事を執り行うことができないと考えていた。衛瓘はたびたび彼を廃太子にするよう上奏したいと思ったが、敢えて実行には移せなかった。後に陵雲台で宴会が開かれた際、衛瓘は酔ったふりをして、帝の御座の前に 跪 き言った。「臣には申し上げたいことがございます。」帝が「貴公は何をおっしゃりたいのか?」と問うと、衛瓘は三度、言おうとしてやめた。そして手で御座を撫でながら言った。「この御座が惜しい!」帝はその意味を悟ったが、わざと間違えて言った。「貴公は本当に酔っておられるな。」衛瓘はこれ以上何も言わなかった。賈后はこのことから衛瓘を怨むようになった。

衛宣は公主(武帝の娘)を娶っていたが、酒と女色に関する過ちを繰り返していた。楊駿はもともと衛瓘と仲が悪く、さらに自ら権力を独占したいと考えていた。衛宣が離婚すれば、衛瓘は必ず官位を辞退するだろう。そこで楊駿は黄門侍郎らと共に衛宣を誹謗し、帝に衛宣から公主を奪わせるようそそのがした。衛瓘は恥じ恐れ、老齢を理由に辞職を願い出た。そこで 詔 が下された。「 司空 しくう の衛瓘はまだ致仕(引退)の年齢に達していないのに、長年辞退を申し出ている。精神と志がまだ衰えていないうちに、本心を貫かせたい。この至って真実な態度は、実に我が心を動かす。今、彼の願いを聞き入れ、位を太保に進め、公として邸宅に戻ることを許す。親兵百人を与え、長史、司馬、從事中郎掾属を置く。また大車、官騎、麾蓋、鼓吹などの諸威儀は、すべて旧典の通りとする。厨田十頃、園五十畝、銭百万、絹五百匹を与える。床帳や簟(竹製敷物)や褥(敷布団)などは、主管者が十分に優れたものを備えるようにし、我が賢者を尊ぶ気持ちにふさわしくせよ。」役人はさらに衛宣を廷尉に引き渡し、衛瓘の官位を免じるよう上奏したが、 詔 はこれを許さなかった。帝は後に黄門侍郎らの虚偽の告げ口を知り、公主を衛宣に返そうとしたが、衛宣は病気で亡くなった。

恵帝が即位すると、衛瓘に千人の兵士が再び与えられた。楊駿が誅殺された後、衛瓘は尚書事を録することを命じられ、緑綟綬を加えられ、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がること、朝廷に入る時に小走りにならないこと、騎司馬を与えられるなどの特権を得て、汝南王司馬亮と共に朝政を補佐した。司馬亮は諸王をそれぞれの封国に帰還させるよう上奏し、朝廷の臣下たちと廷議を行ったが、敢えて賛同する者はなく、ただ衛瓘だけがこの件を支持した。このため楚王司馬瑋は衛瓘を恨むようになった。賈后はもともと衛瓘を怨んでおり、その方正で剛直な性格を忌み嫌い、自分の淫虐な振る舞いを思いのままにできなかった。また衛瓘と司馬瑋の間に不和があると聞き、衛瓘と司馬亮が伊尹や 霍光 かくこう のような廃立を謀っていると誹謗し、帝に手 詔 を作らせて、司馬瑋に衛瓘らの官職を免じさせた。黄門が 詔 を司馬瑋に届けると、司馬瑋は軽薄で邪悪な性格で、私怨を晴らそうとし、夜間に清河王司馬遐に衛瓘を逮捕させた。衛瓘の側近たちは司馬遐が偽 詔 を持っているのではないかと疑い、皆諫めて言った。「礼律や刑名において、宰相や大臣をこのように扱う前例はありません。どうか抵抗なさってください。ご自身で上表して返答を得てから、処刑されても遅くはありません。」衛瓘は従わず、遂に子の衛恒、衛嶽、衛裔および孫ら九人が同時に害され、七十二歳であった。衛恒の二人の子、衛璪と衛玠は、当時医者の家にいて難を逃れた。

かつて 杜預 は衛瓘が鄧艾を殺したと聞き、人々に向かって言った。「伯玉(衛瓘の字)は免れられないだろう!名士としての身であり、総帥の地位にありながら、徳のある言葉もなく、また正しく部下を統率せず、これは小人が君子の器に乗っているようなもので、どうしてその責めに堪えられようか?」衛瓘はこれを聞くと、車を待たずに(急いで)謝罪に行った。結局は杜預の言う通りになった。かつて衛瓘の家で飯を炊いた時、飯が地面に落ちて全てタニシに変わった。一年余り後に禍が及んだ。太保の 主簿 劉繇らは危難を冒して衛瓘の遺体を収容し葬った。

かつて衛瓘が 司空 しくう であった時、帳下督の栄晦が罪を犯し、衛瓘は彼を追放した。難が起こると、栄晦は兵に随行して衛瓘を討ち、そのため子孫まで皆禍に及んだ。

楚王司馬瑋が誅殺された後、衛瓘の娘が国の臣下に手紙を送り言った。「亡き父の諡号も顕彰されず、凡人と何ら変わりがありません。一国が黙して何も言わないのが不思議でなりません。《春秋》に記されるような過失は、いったいどこにあるのでしょうか?悲憤感慨の思いで、このように意思を示します。」そこで劉繇らは黄幡を執り、登聞鼓を叩き、上言した。「かつて、偽 詔 を持った者が到着した時、公(衛瓘)は 詔 を受け官を免じられるべきと承知し、直ちに印綬を奉じて送り出しました。兵仗はありましたが、一つの刃も振るわず、重ねて命じられて邸宅を出て、単車に乗って命令に従いました。偽 詔 の文面ではただ公の官を免ずるだけであったのに、右軍以下の者は詐偽の命令を承け、その本文に違反して、勝手に宰輔を殺害し、再び上表することもなく、横暴にも公の子孫を捕らえて即座に処刑し、大臣父子九人を賊害しました。伏して 詔 書『楚王に欺かれた者で、もともと同謀でなかった者は皆、罪を解いて帰す』とあるのを拝見します。この文書の趣旨は、家来や邸宅の者が白杖(無実の証)を持たされて駆り立てられた者を指すものです。律によれば、教えを受けて人を殺した者は、死罪を免れることはできません。ましてや手ずから功臣を害し、忠良を賊殺した者は、謀りごとでなかったと言っても、道理上赦すべきではありません。今、元凶は誅殺されましたが、殺害の実行犯はまだ存命しています。臣は役人が事実を詳らかにせず、あるいは見逃し、精査を尽くさないことを恐れます。そうなれば公父子の仇敵が滅びず、冤魂が永遠に恨みを抱き、天に訴え、酷い痛みを負った臣下として、明世にあって悲しみます。臣らは身に傷を負い、殯(もがり)と斂(納棺)がようやく終わりました。謹んで条陳します。衛瓘が以前 司空 しくう であった時、帳下給使の栄晦は理由なく罷免されました。彼は衛瓘の家族の人数や幼い孫の名前を知っていました。栄晦は後に右軍に転属となり、その夜、門外で声を張り上げて叫び、 詔 を宣して公を免官し邸宅に戻らせると言いました。門が開くと、栄晦は中門まで進み、再び持参した偽 詔 を読み上げ、手ずから公の印綬と貂蟬(冠の飾り)を取り上げ、公に邸宅を出るよう催促しました。栄晦は順番に衛瓘の家族とその子孫を記録し、皆兵仗で護送し、東亭道の北に囲んで監視し、一時のうちに、全て斬り殺しました。公の子孫を害したのは、実に栄晦によるものです。また人を率いて府庫を強盗したことも、全て栄晦の仕業です。栄晦一人を拷問すれば、多くの奸計が明らかになるでしょう。どうか真情と虚偽を検証し尽くし、族誅の刑に処してください。」 詔 はこれに従った。

朝廷は衛瓘の一家が罪なく禍を受けたと考え、衛瓘の蜀討伐の功績を追認し、蘭陵郡公に封じ、封邑三千戸を加増し、諡を成とし、仮黄鉞を追贈した。

子に衛恒がいる。

衛恒は字を巨山といい、若くして 司空 しくう 斉王府に辟召され、太子舎人、尚書郎、秘書丞、太子庶子、黄門郎に転じた。

衛恒は草書と隷書に優れ、『四体書勢』を著して言った。

昔、黄帝の時代に、物事が創造され制定された。沮誦と倉頡という者がいて、初めて書契(文字)を作り、結縄に代え、おそらく鳥の跡を見て着想を得たのだろう。それによって次第に増え広がり、それを字と呼び、六つの原理(六書)がある。第一は指事で、上、下がこれである。第二は象形で、日、月がこれである。第三は形声で、江、河がこれである。第四は会意で、武、信がこれである。第五は転注で、老、考がこれである。第六は仮借で、令、長がこれである。指事とは、上にあるものを上とし、下にあるものを下とする。象形とは、日は満ち月は欠け、その形を模す。形声とは、類をもって形とし、それに声を配する。会意とは、戈を止めるが武であり、人の言が信である。転注とは、老から寿考を派生させる。仮借とは、いくつかの言葉が同じ字を用い、その発音は異なっても、文字の意味は一つである。黄帝から三代(夏・殷・周)まで、その文字は変わらなかった。秦が篆書を用い、先代の典籍を焼き払ったため、古文は絶えてしまった。漢の武帝の時、魯恭王が孔子の旧宅を壊し、『尚書』、『春秋』、『論語』、『孝経』を得た。当時の人々はもはや古文の存在を知らず、それを科斗文字と呼んだ。漢代には秘蔵され、めったに見ることができなかった。魏の初めに古文を伝えたのは、邯鄲淳であった。私の祖父の敬侯(衛覬)は邯鄲淳の『尚書』を書き写し、後に淳に見せたが、淳は区別がつかなかった。正始年間(240-249)になると、三字石経が立てられたが、次第に淳の法を失い、科斗の名に因んで、その形を模倣するようになった。太康元年(280年)、汲県の人が魏の襄王の墓を盗掘し、策書(竹簡の書)十余万言を得た。敬侯が書いたものと照らし合わせると、まだ似ているところがあった。古書にも数種類あり、そのうちの一卷で楚の事を論じたものが最も精巧で優れていた。私はひそかにこれを喜び、愚かな考えを尽くしてその美を称え、前賢の著作に並べるには足りないことを恥じるが、古人の姿を留めることを願うものである。古には別名がなく、これを字勢と呼んだ。

黄帝の史官である沮誦と倉頡は、鳥の足跡を見て、初めて文字を作った。万物の秩序を整え、法を伝え制度を立て、帝王の典籍が広まり、質実と文飾が世に顕れた。そして暴虐な秦の時代に至り、天を覆うほどの悪政が行われ、大道は既に滅び、古文もまた滅んだ。魏の文帝は古を好み、世に伝わる古い典籍があったが、歴代誰も開かず、真偽は分からなかった。大晋が開国し、道を広め教えを施すと、天はその象を垂れ、地はその文を輝かせた。その文は輝き、鮮やかに章を成し、音によって意味を会得し、物事を分類する方法がある。日は君主の位置にありその運行は満ち、月は臣下の位置を執ってその脇が欠け、雲はうねうねと上に広がり、星は離れ離れに光を放つ。禾や草花は茂って穂を垂れ、山岳は高く険しく連なる。虫は足を動かしているかのようで、鳥は飛び立とうとしてまだ飛ばない。その筆遣いと墨の連なりを見ると、心を込めて精緻に専念している。勢いは調和し体裁は均整がとれ、始めと終わりに間隙がない。あるいは正道を守り規範に従い、矩を折り規を巡らす。あるいは方円に法則なく、事に応じて権宜を図る。曲がっているものは弓のようで、真っ直ぐなものは弦のようだ。高く抜きん出ては、龍が川に躍り出るようである。森然と下に垂れては、雨が天から落ちるようである。あるいは筆を引いて力を奮い起こせば、鴻雁が高く飛び、はるかにはるかに軽やかである。あるいは縦横にたゆたえば、房飾りの羽根が垂れ下がるようで、なよなよとしなやかである。だから遠くから眺めると、翔る風が水を切るようで、清らかな波にさざ波が立つ。近づいて観察すると、あたかも自然のようである。まことに黄帝・唐堯の時代の遺跡であり、六芸の模範として先んじている。籀書や篆書はその子孫であり、隷書や草書はその曾孫や玄孫である。物の形象を見て思いを致すのであって、言葉で言い表せるものではない。

昔、周の宣王の時代に、史官の籀が初めて『大篆』十五篇を著した。これは古い字体と同じものもあり、異なるものもあり、世間では籀書と呼んだ。平王が東遷すると、諸侯は力を競い、家ごと国ごとに異なり、文字の形も乱れた。秦の始皇帝が初めて天下を統一した。丞相の李斯は上奏してこれを増補し、秦の文字に合わないものを廃止した。李斯は『倉頡篇』を作り、中車府令の趙高は『爰歴篇』を作り、太史令の胡毋敬は『博学篇』を作った。いずれも史籀の大篆を取り、あるいはかなり省略・改変したもので、いわゆる小篆である。ある説によると、下級官吏の程邈が衙獄の吏となり、始皇帝に罪を得て、雲陽に十年間幽閉された。獄中で大篆を基に、少ないものは増やし、多いものは減らし、四角いものを丸くし、丸いものを四角くして、始皇帝に上奏した。始皇帝はこれを良しとし、彼を出して御史とし、文字を定めさせた。あるいは、程邈が定めたのは隷字であるという。秦が古文を廃して以来、八体の書体があった。第一は大篆、第二は小篆、第三は刻符、第四は虫書、第五は摹印、第六は署書、第七は殳書、第八は隷書である。王莽の時代、 司空 しくう の甄豊に命じて文字部門を校訂させ、古文を改定し、再び六書があった。第一は古文、孔子の壁中から出た書である。第二は奇字、古文と異なるものである。第三は篆書、秦の篆書である。第四は佐書、すなわち隷書である。第五は繆篆、印を摹刻するためのものである。第六は鳥書、旗や符節に書くためのものである。許慎が『説文解字』を撰すると、篆書を正体として用い、これを体例とし、最も論じ得るところとなった。秦の時代、李斯は二篆(大篆・小篆)の名手と称され、諸山の碑や銅人の銘文はすべて李斯の書である。漢の建初年間、扶風の曹喜は李斯と少し異なるが、やはり善書と称された。邯鄲淳は彼に師事し、その妙をほぼ究め、韋誕は淳に師事したが及ばなかった。太和年間、韋誕は武都太守となったが、書の才能により留め置かれて侍中を補任し、魏の宝器の銘題はすべて韋誕の書である。漢末にはまた蔡邕がおり、李斯と曹喜の法を採り入れて古今の雑多な形としたが、精密さと理に適っている点では淳に及ばなかった。

蔡邕は『篆勢』を作り、次のように言った。「鳥の足跡を残し、皇頡(倉頡)がそれに従った。聖人が法則を作り、この文字を制定した。字体には六種あるが、篆書が真実である。形は微妙で、巧みさは神に入る。あるいは亀の甲羅の文様や針が並ぶようで、櫛の歯のように龍の鱗が並ぶ。体を伸ばし尾を放ち、長短が体に重なる。垂れ下がるのは黍や稷の垂れた穂のようで、たたえ込むのは虫や蛇がもつれ絡まったようだ。波を揚げては振るい立たせ、鷹が立ち止まり鳥が震えるようだ。首を延ばし翼を張れば、その勢いは雲を凌ぐようである。あるいは軽く筆を内側に入れ、根本は微かで末は濃く、絶えているようでつながっている。水の露が緑の糸を垂らし、凝り固まって下端に下がるようだ。縦のものは懸かるようで、横のものは編まれたようだ。はるか遠く斜めに向かい、四角くも丸くもない。歩いているようで飛んでいるようで、足を上げては控えめに進む。遠くから眺めると、鴻鵠の群れが遊び、連なっては延びるようである。近くで見ると、端や境目を見ることができず、指し示してもその根源を尽くすことはできない。研桑(古代の計数に長じた者)でもその屈曲を数えられず、離婁(目が非常に良かったとされる伝説的人物)でもその隙間を見ることができない。般と倕(古代の名工)は揖譲して巧みさを辞退し、籀と誦(沮誦)は拱手して筆をしまい込む。書物の冒頭に置かれ、鮮やかに文質彬彬として観るに値する。絹の上に華やかさと艶を散りばめ、学芸の模範として先んじる。文徳の広大な美しさを喜び、作者(自分)がこれを刊行できないことを憤る。字体の上下を思い、その大略を挙げて論じよう。」

秦は篆書を用いたが、上奏する事柄が多く、篆字では書き上げるのが難しいため、すぐに隷人(下級役人)に補助的な書写をさせ、これを隷字と呼んだ。漢はこれを受け継いで行い、符節・印璽・幡信・題署だけは篆書を用いた。隷書とは、篆書を速く書いたものである。上谷の王次仲が初めて楷法(楷書の法)を作った。霊帝は書を好み、当時は多くの能書家がいたが、師宜官が最も優れており、大きいものは一字が径一丈、小さいものは方寸の中に千字を書き、その才能を大いに誇った。ある時は金を持たずに酒屋に行って飲み、壁に書をしたため、見物人に酒代を払わせ、金が足りるとそれを消した。書くたびに下書きの板を削り取って焼いた。梁鵠はそこで板を増やして彼に酒を飲ませ、酔った隙にその下書きを盗んだ。梁鵠はついに書の才能で選部尚書にまで至った。師宜官は後に袁術の将軍となり、今、鉅鹿の宋子にある『耿球碑』は袁術が建立したもので、その書は非常に巧みで、師宜官の書だと言われている。梁鵠は劉表に奔ったが、魏の武帝が荊州を破ると、梁鵠を募求した。梁鵠が選部であった時、魏武帝は 洛陽 令になりたかったが、北部尉に任命されたため、恐れて自ら縛られて門に詣で、軍仮司馬に任じられた。秘書省では勤勉に書写して自らの務めを果たしたので、今でも梁鵠の直筆が多く残っている。魏武帝はそれを帳中に掛け、また壁に釘で留めて賞玩し、師宜官より優れていると考えた。今、宮殿の題署は多くが梁鵠の篆書である。梁鵠は大字を書くのに適し、邯鄲淳は小字を書くのに適していた。梁鵠は淳が王次仲の法を得ていると言ったが、梁鵠の筆勢はその極みを尽くしていた。梁鵠の弟子の毛弘は秘書省で教え、今の八分書はすべて毛弘の法である。漢末に左子邑がおり、淳や鵠とは少し異なるが、やはり有名であった。

魏の初めに鍾繇と胡昭の二家が行書法をなし、ともに劉徳升に学んだが、鍾氏は少し異なり、やはりそれぞれに巧みさがあり、今は世に広く行われているという。『隷勢』を作り、次のように言った。「鳥の足跡の変化から、ただ補助的な隷書が生まれた。あの煩雑な文体を除き、この簡易なものを尊ぶ。その用途は既に広く、字体と形象には法度がある。星が並ぶように輝き、雲が広がるように豊かである。大きいものは一尋にもなり、細いものは髪の毛も通さない。事に従って適宜に従い、常に一定の制約はない。あるいは高く広大で、あるいは櫛の歯や針のように並び、あるいは砥石のように平らで縄のように真っ直ぐ、あるいはうねうねと曲がりくねり、あるいは長く斜めに角ばって進み、あるいは円を巡らし角を折る。長短は互いに調和し、異なる字体も同じ勢いを持つ。筆を奮い上げ軽く挙げれば、離れていても絶えない。細い波や濃い点が、その間に錯綜しており、鐘や虡(楽器を掛ける架台)が設けられ、庭のたいまつが煙を尽くすようで、険しい岩山が高く低く連なる。高い楼閣や重なる屋根のようで、雲を増して山を冠する。遠くから眺めると、飛龍が天にいるようである。近くで観察すると、心は乱れ目は眩む。奇抜な姿態と変幻自在さは、その根源を尽くすことができない。研桑でも計り知れず、宰我や子貢でも言い表せない。どうして草書や篆書などが計算に足りようか、この文章(隷書の美)がまだ宣べられていない。はたして字体が大きすぎて見難いのか、それとも秘奥が伝わらないのか? 暫し上下を観察し、その大略を挙げて論じよう。」

漢が興ると草書が生まれたが、作者の姓名は分からない。章帝の時代に至り、斉の相である杜度が文章を上手に作ると評判になった。その後、崔瑗、崔寔がおり、彼らも皆巧みであると称された。杜氏は文字の処理が非常に安定しているが、書体はやや細い。崔氏は筆勢を大いに得ているが、文字の構成にやや粗さがある。弘農の張伯英という者は、これらを基にさらに精巧で巧妙なものへと転じた。家にある衣類の布帛は全て、必ず書をしたためてから染め上げた。池のほとりで書を学び、池の水が真っ黒になった。筆を下ろせば必ず楷書の規範とし、「忙しくて草書を書く暇がない」と言われ、一寸の紙も無駄にせず、今に至るまで世間では特にその書を宝物としている。韋仲将は彼を草聖と呼んだ。伯英の弟の文舒は、伯英に次ぐ者である。また、姜孟穎、梁孔達、田彦和、そして韋仲将の一派など、皆伯英の弟子で、世に名を知られたが、文舒にははるかに及ばなかった。羅叔景、趙元嗣という者は、伯英と同時代で、西州で称賛されたが、技巧を誇り独りよがりで、人々は大いに惑わされた。そこで伯英は自ら「上は崔・杜には及ばないが、下は羅・趙には余裕がある」と称した。河間の張超も有名であったが、崔氏と同じ州にいながらも、伯英のようにその法を得ることはできなかった。

崔瑗が『草書勢』を作り、次のように述べた。「文字が興ったのは、蒼頡皇帝から始まる。鳥の跡を写し、文章を定めた。末葉に至って、典籍はますます繁雑となった。時世は偏りが多く、政治は権謀が多い。官事は荒廃し、その筆墨を廃した。ただ隷書を作り、古い文字を削除した。草書の法は、さらに簡略である。時勢に応じて趣旨を述べ、急迫した場面で用いる。複数の効用を兼ね備え、時間を惜しみ労力を省く。純粋で倹約な変化は、必ずしも古い様式に従う必要があろうか。その法象を観ると、俯仰に儀礼がある。方形は矩に中らず、円形は規に合わない。左を抑え右を揚げ、遠くから見れば険しく見える。高く立つ鳥が佇むように、志は大きく飛翔する。狡猾な獣が突然驚き、走り出そうとしてまだ駆け出さない。あるいは点画が連なり、連珠のように見え、絶えていても離れていない。怒りを蓄え鬱屈し、奔放で奇抜さが生まれる。あるいは深淵に臨んで慄き、枯れ木に寄り危険に臨むかのようだ。傍らの点が斜めに付き、蝉が枝にしがみつくようである。筆を絶ち勢いを収めると、余った糸が絡み合い、杜伯が毒を携えて険しい山道を登り、騰蛇が穴に赴き、頭を没し尾を垂れるようだ。それ故、遠くから望めば、崩れ落ちる崖のようである。近づいて観察すれば、一画も動かすことができない。機微で要妙であり、臨機応変に適宜従う。大略を挙げれば、このようなものである。」

そして衛瓘が楚王司馬瑋に陥れられた時、衛恆は変事を聞き、何劭が(衛恆の)兄嫁の父であることから、壁の穴から彼のもとに行き、消息を尋ねた。何劭は知っていたが告げなかった。衛恆が帰る途中、台所を通りかかると、捕らえていた者がちょうど食事をしており、そこで殺害に遭った。後に長水 校尉 こうい を追贈され、諡は蘭陵貞世子。二人の子がいた:衛璪と衛玠。

衛恆の子 衛璪

衛璪は字を仲宝といい、衛瓘の爵位を継いだ。後に東海王 司馬越 しばえつ が蘭陵を自らの封国に加えたため、江夏郡公に改封され、邑八千五百戸を与えられた。懐帝が即位すると、散騎侍郎となった。永嘉五年、劉聰に殺された。元帝は衛瓘の玄孫である衛崇に後を継がせた。

衛璪の弟 衛玠

衛玠は字を叔宝といい、五歳の時、風采が優れて秀でていた。祖父の衛瓘は言った。「この子は衆人と異なっているが、私は年老いて、彼の成長を見届けることができないのが残念だ!」幼少時に羊車に乗って市場に入ると、見た者は皆、玉のような人だと思い、見物する者が都を傾けた。驃騎将軍の王済は、衛玠の母方の叔父で、才気煥発で風采があり、衛玠を見るたびに嘆息して言った。「珠玉が側にいると、自分の姿が汚れて見える。」またかつて人に語った。「衛玠と共に遊ぶと、あたかも明珠が側にあるようで、明るく人を照らす。」成長すると、玄理を好んで語った。その後、病が多く体が弱り、母は常に彼が語るのを禁じた。良い天気の日には、親友が時折一言を請うと、皆が感嘆し、精妙に入り込んでいると考えた。琅邪の王澄は名声が高く、めったに人を推服しなかったが、衛玠の言葉を聞くたびに嘆息してひっくり返りそうになった。そこで当時の人々は彼についてこう言った。「衛玠が道を談ずると、平子(王澄)がひっくり返る。」王澄と王玄、王済はいずれも盛名があったが、皆衛玠の下にあり、世間では「王家の三子も、衛家の一児には及ばない」と言われた。衛玠の妻の父である楽広は、天下に重い名声があり、議論する者は「舅は氷のように清く、婿は玉のように潤う」と考えた。

召し出しの命令が何度も来たが、全て就任しなかった。長い間を経て、太傅西閣祭酒となり、太子洗馬に任じられた。衛璪は散騎侍郎で、懐帝に内侍していた。衛玠は天下が大乱であるため、家族を連れて南方へ移りたいと考えた。母は言った。「私は仲宝(衛璪)を捨てて行くことはできない。」衛玠が深く道理を説き、家門の大計であることを告げると、母は涙を流して従った。別れ際、衛玠は兄に言った。「君臣・父子・師弟の義は、人が重んじるものである。今こそ身を尽くすべき時と言えよう。兄上、どうか努めてください。」そして車に母を乗せ、江夏へと転居した。

衛玠の妻は先に亡くなっていた。征南将軍の山簡が彼を見て、非常に敬重した。山簡は言った。「昔、戴叔鸞が娘を嫁がせる時、ただ賢さを基準とし、貴賤を問わなかった。まして衛氏のような権貴の家柄で声望のある人においてはなおさらだ!」そこで娘を妻として与えた。そして 章へ進んだ。この時、大将軍の王敦が 章を鎮守しており、長史の謝鯤は以前から衛玠を大いに重んじており、喜んで会い、終日語り合った。王敦は謝鯤に言った。「昔、王輔嗣が中朝で金声を吐いたが、この子はまた江表で玉振する。微妙な言説の系譜が絶えてまた続く。永嘉の末に、正始の音声を再び聞くとは思わなかった。何平叔がもし生きていたら、またひっくり返っただろう。」衛玠は常々、人に及ばない点があっても、事情を考慮して許すべきであり、意図せずに干渉されても、道理をもって退けるべきだと考え、それ故に生涯、喜びや怒りの表情を見せなかった。

王敦が豪放で群を抜き、しかも人より上に立つのを好むため、国の忠臣ではない恐れがあると考え、建鄴へ向かおうと求めた。都の人士は彼の姿容を聞きつけ、見物する者が壁のように立ち並んだ。衛玠は労咳がますます重くなり、永嘉六年に死去した。時に二十七歳。当時の人々は衛玠が「見られ殺された」と言った。南昌に葬られた。謝鯤は慟哭して悲しんだ。人が尋ねた。「あなたは何を憂いてこれほど哀しむのですか?」答えて言った。「棟梁が折れたのだ。哀しまずにはいられない。」咸和年間に、墓を江寧に改葬した。丞相の 王導 は教令を出して言った。「衛洗馬が近く改葬される。この君は風流な名士で、海内が仰ぎ見る人物である。薄い祭りを整え、旧交を厚くすべきである。」後に劉惔と謝尚が中朝の人士について共に論じた時、ある者が尋ねた。「杜乂は衛洗馬と比べられますか?」謝尚は言った。「どうして比べられようか。その間には数人を容れることができる。」劉惔もまた言った。「杜乂は肌膚が清く、叔宝(衛玠)は精神が清い。」彼が有識者からこのように重んじられたのである。当時の中興の名士では、王承と衛玠のみが当代第一とされた。

衛恆の同族の弟である衛展は字を道舒といい、尚書郎、南陽太守を歴任した。永嘉年間、江州 刺史 しし となり、累進して晋王の大理となった。 詔 勅で、子を拷問して父を証言させたり、父母を鞭打って子の所在を尋ねたりすることがあったが、衛展は正しい教化を損なう恐れがあると考え、ともに上奏して廃止させた。中興が成ると、廷尉となり、上疏して肉刑を復活させるべきだと述べた。その言葉は『刑法志』にある。死去し、光禄大夫を追贈された。

張華

張華は、字を茂先といい、范陽方城の人である。父の張平は、魏の漁陽郡守であった。張華は幼くして孤児となり貧しく、自ら羊を飼い、同郡の盧欽が彼を見て器量ある者と認めた。郷里の劉放もまたその才能を奇異とし、娘を妻として与えた。張華は学業に優れ博識で、文章は穏やかで麗しく、明快で見識が広く、図緯や方伎の書を詳しく読まないものはなかった。若い頃から自ら修養に慎み、どんな時でも礼法に従った。義に赴くことを勇み、急難を救うことに篤実であった。器量と見識は広大で、当時の人々には測り知ることができなかった。初めは名を知られず、『鷦鷯賦』を著して自らの思いを託した。その詞は次のようである。

造化の多端なること、群形を万類に播く。鷦鷯の微禽といえども、生を摂り気を受けて、翩翾たる陋体を育み、玄黄をもって自ら貴ぶことなし。毛は器用に施すことなく、肉は俎味に登らず。鷹鸇すら過ぐれば翼を戢えるに、なお何ぞ罒童罻を懼れんや!薈蒙籠たる蔭に、ここに遊集す。飛ぶも飄揚せず、翔るも翕集せず。その居は容れやすく、その求むるは給しやすし。林に巣くうも一枝を過ぎず、食するごとに数粒を過ぎず。棲むに滞るところなく、遊ぶに盤るところなし。荊棘を陋とせず、茝蘭を栄とせず。翼を動かして逸し、足を投じて安んず。命を委ね理に順い、物と患いなし。この禽の無知なるに、身を処するは智に似たり。宝を懐いて害を賈わず、表を飾って累を招かず。静かに性を守って矜らず、動くに因循して簡易なり。自然を任じて資と為し、世偽に誘慕せられず。雕鶡はその觜距を介し、鵠鷺は雲際に軼れ、鶤雞は幽険に竄れ、孔翠は遐裔に生まる。かの晨鳧と帰雁は、また翼を矯めて逝くを増し、みな美羽にして豊肌なれば、故に罪なくして皆斃る。ただ蘆を銜えて繳を避くるも、終にこの世に戮せらる。蒼鷹は鷙にして絏を受け、鸚鵡は慧にして籠に入る。猛志を屈して養いに服し、塊然として幽縶せられ九重にあり。音声を変えて旨に順い、翮を摧かれて庸と為らんことを思う。鍾岱の林野を恋い、隴坻の高松を慕う。日に蒙幸するといえども、昔の従容に如かず。海鳥の爰居は、風を避けて至り、条支の巨爵は、嶺を逾えて自ら致る。万里を提挈し、飄颻として畏れ逼る。ただ体大なるがゆえに物を妨げ、形瑰なるがゆえに足るに偉たり。陰陽陶烝し、万品一区。巨細舛錯し、種繁く類殊なり。鷦冥は蚊睫に巣くい、大鵬は天隅に弥がる。上は方足らず、下は比するに余りありとせんとす。普く天壤を遐観すれば、吾また安んぞ大小の如くする所を知らんや。

陳留の阮籍これを見て、嘆じて言った。「王佐の才である!」これにより名声が初めて顕著となった。郡守の鮮于嗣が張華を太常博士に推薦した。盧欽が文帝にこれを言上し、河南尹丞に転じたが、拝命せず、佐著作郎に任じられた。まもなく、長史に遷り、中書郎を兼ねた。朝議の表奏は多く採用施行され、ついに正任となった。晋が 禅譲 を受けると、黄門侍郎に任じられ、関内侯に封ぜられた。

張華は記憶力が強く黙識し、四海の内を、掌を指すがごとくに知っていた。武帝がかつて漢の宮室制度および建章宮の千門万戸について問うたところ、張華は流れるように応対し、聞く者は倦むことを忘れ、地面に図を描けば、左右の者が注目した。帝は大いにこれを異とし、当時の人は子産に比した。数年後、中書令に任じられ、後に 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。母の喪に遭い、哀傷が礼を過ぎたので、 詔 を中から下して勉励し、職務を執るよう命じた。

初め、帝は密かに 羊祜 と謀って呉を伐とうとしたが、群臣の多くは不可とし、ただ張華のみがその計略に賛成した。その後、羊祜が病篤くなると、帝は張華を羊祜のもとに遣わし、呉を伐つ計略について問わせた。その言葉は『羊祜伝』にある。大挙して出撃しようとする際、張華を度支尚書とし、運漕の量を計り、廟算を決定させた。諸軍が進んだが、まだ勝利を得られず、賈充らは張華を誅して天下に謝罪すべきと上奏した。帝は言った。「これは朕の意思であり、張華はただ朕と同じにしただけである。」当時、大臣たちは皆、軽々しく進軍すべきでないと考えていたが、張華だけは堅く主張し、必ず克服できるとした。呉が滅びると、 詔 して言った。「尚書、関内侯張華は、以前に故太傅羊祜と共に大計を創め、ついに軍事を典掌し、各方面を部署し、権略を算定し、運籌して勝を決し、謀謨の勲がある。広武県侯に進封し、邑一万戸を増やし、子一人を亭侯に封じ、千五百戸とし、絹一万匹を賜う。」

張華の名声は一世に重く、衆人に推服され、晋の歴史および儀礼憲章はすべて張華に属し、多く損益を加えた。当時の 詔 誥はすべて彼が起草制定し、声誉はますます盛んとなり、台輔の望みがあった。しかし荀勖は自ら大族であることを恃み、帝の恩寵が深いことを頼みとして、張華を憎み嫉み、常に隙を窺い、張華を外鎮に出そうとした。折しも帝が張華に問うた。「誰に後事を託すべきか?」答えて言った。「明徳の至親は、斉王司馬攸に如くはありません。」すでに上の意に適わず、わずかに旨に逆らったので、間言が遂に行われることとなった。そこで張華を持節・ 都督 ととく 幽州諸軍事・領護烏桓 校尉 こうい ・安北將軍として出鎮させた。新旧の民を撫納し、戎夏ともにこれを懐いた。東夷の馬韓・新弥などの国々は山に依り海に帯し、州から四千余里離れており、歴代附かなかった二十余国が、すべて使者を遣わして朝献した。これにより遠夷は賓服し、四境に憂いなく、連年豊作で、士馬は強盛となった。

朝廷の議論では張華を召し入れて宰相とし、また儀同の号を進めようとした。初め、張華は徴士の馮恢を帝の前で誹謗したが、馮紞は馮恢の弟であり、帝の深い寵愛を受けていた。馮紞がかつて帝に侍し、ゆったりと魏 しん の事について論じた際、言った。「臣はひそかに考えるに、 鍾会 の禍は、かなり太祖( 司馬昭 )によるものと思います。」帝は顔色を変えて言った。「卿は何を言うのか!」馮紞は冠を脱いで謝罪し言った。「臣の愚かで冗漫な盲言、罪は万死に値します。しかし臣の微意には、なお申し上げられることがあります。」帝は言った。「どういうことか。」馮紞は言った。「臣は思いますに、善く御する者は必ず六轡の盈縮の勢いを識り、善く政をなす者は必ず官方の控帯の宜しきを審らかにするものです。故に仲由は兼人であることで抑えられ、冉求は退弱であることで進められ、漢の高祖の八王は寵愛が過ぎて夷滅され、光武帝の諸将は抑損によって終わりを全うしました。上に仁暴の違いがあるのではなく、下に愚智の違いがあるのでもなく、抑揚と与奪がそうさせたのです。鍾会の才見は限られていましたが、太祖は誇奨しすぎ、その謀猷を賞賛し、その名器を盛んにし、重勢の地位に居らせ、大兵を委ねたので、鍾会は自ら算に遺策なく、功は賞うるに及ばずと思い、輈張跋扈して、ついに凶逆を構えるに至りました。もし太祖がその小能を録し、大礼をもって節し、権勢をもって抑え、軌則をもって納めていたならば、乱心の生ずる由なく、乱事の成る由もなかったでしょう。」帝は言った。「その通りだ。」馮紞は稽首して言った。「陛下がすでに微臣の言葉を然りとされたならば、堅氷の漸を思われ、鍾会の徒のごとき者が再び覆喪を致さないようにすべきです。」帝は言った。「当今に鍾会のごとき者がいるのか?」馮紞は言った。「東方朔に『談何容易』という言葉があり、『易経』に『臣密ならざれば則ち身を失う』とあります。」帝は左右を退かせて言った。「卿は極言せよ。」馮紞は言った。「陛下の謀謨の臣で、天下に大功を著し、海内に聞こえざるものなく、方鎮を拠り戎馬の任を総べる者は、すべて陛下の聖慮の中にあります。」帝は黙然とした。まもなく、張華を太常に召し返した。太廟の屋棟が折れたため、官を免じられた。こうして帝の世が終わるまで、列侯として朝見した。

恵帝が即位すると、張華を太子少傅とし、王戎・裴楷・和嶠とともに徳望をもって楊駿に忌まれ、皆朝政に関与しなかった。楊駿が誅殺された後、皇太后を廃そうとし、朝堂で群臣を集めて議した。議する者は皆、風旨を承けて、『春秋』が文姜を絶ったように、今、太后は自ら宗廟から絶たれたのだから、廃黜すべきであると考えた。ただ張華のみが議して、「夫婦の道は、父も子から得ることができず、子も父から得ることはできません。皇太后は先帝に罪を犯したわけではありません。今、その親しい者を党することをもって、聖世において母たらずとし、漢が趙太后を廃して孝成后とした故事に依り、太后の号を貶し、武皇后と称して戻し、別の宮に住まわせ、貴終の恩を全うすべきです」と主張した。聞き入れられず、ついに太后を庶人に廃した。

楚王司馬瑋が密 詔 を受けて太宰の汝南王司馬亮と太保の衛瓘らを殺害すると、内外の兵が騒擾し、朝廷は大いに恐れ、どうすべきか方策がなかった。張華は帝に「司馬瑋が 詔 を偽って二公を害したのであり、将士たちは突然のことで、これが国家の意思だと思ったから従っただけです。今、騶虞幡を派遣して外軍に戒厳を解除させれば、道理からして必ず風靡するでしょう」と申し上げた。帝がこれに従うと、司馬瑋の兵は果たして敗れた。司馬瑋が誅殺されると、張華は首謀として功があり、右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・ 中書監 ちゅうしょかん に任じられ、金章紫綬を授けられた。張華は開府を固辞した。

賈謐と賈后が共謀し、張華は庶族でありながら儒雅で計略に富み、進んでは主君を脅かす嫌疑がなく、退けば衆望の寄るところであるとして、彼に朝廷の綱紀を任せ、政事を諮問しようと考えた。疑って決めかね、裴頠に問うと、裴頠はもともと張華を重んじており、このことを深く賛成した。張華はそこで忠を尽くして補佐し、過ちを繕い欠けたところを補った。暗愚な君主と暴虐な皇后の治世であっても、海内は平穏であったのは、張華の功績である。張華は皇后の一族の勢いが盛んなのを恐れ、『女史箴』を作って諷諫した。賈后は凶暴で嫉妬深かったが、張華を敬重することを知っていた。しばらくして、前後の忠勲を論じ、壮武郡公に進封された。張華は十余回も辞譲したが、宮中からの 詔 で強く諭されたため、ようやく受けた。数年後、下邳王司馬晃に代わって 司空 しくう となり、著作を領した。

賈后が太子を廃そうと謀った時、左衛率の劉卞は太子に非常に信頼され遇されており、宴会があるたびに、劉卞は必ず参加していた。劉卞はたびたび賈謐が驕慢なのを見て、太子がそれを恨み、言葉や表情に表れているのを知り、賈謐もまた心穏やかでなかった。劉卞は賈后の陰謀について張華に尋ねた。張華は「聞いていない」と言った。劉卞は言った。「私は寒賤の身から、須昌の小吏として公の引き立てを受け、今日に至りました。士は知己を知り、それゆえに言い尽くすのです。公は私を疑っているのですか!」張華は言った。「仮にそのようなことがあったとして、君はどうしようというのか。」劉卞は言った。「東宮には俊才が林のごとくおり、四率の精兵は一万人います。公は阿衡の任にあり、もし公の命令を得て、皇太子が朝参の機会に尚書事を録し、賈后を金墉城に廃すれば、二つの黄門の力で足ります。」張華は言った。「今、天子が在位し、太子は人子である。私はまた阿衡の命を受けておらず、突然このようなことを行えば、君父をないがしろにし、不孝を天下に示すことになる。たとえ成功したとしても、なお罪を免れない。ましてや権勢ある外戚が朝廷に満ち、権柄が一つでないのに、どうして安泰でいられようか。」帝が式乾殿で群臣を集めた時、太子の手書を取り出して群臣に示し回したが、敢えて言う者はなかった。ただ張華だけが諫めて言った。「これは国家の大禍です。漢の武帝以来、正嫡を廃黜するたびに、常に喪乱に至りました。しかも国家が天下を有して日が浅い。願わくは陛下、よくお考えください。」尚書左 僕射 ぼくや の裴頠は、まず伝書者を検校すべきであり、また太子の手書と照合するよう請うた。そうでなければ、詐りがある恐れがあると。賈后はそこで内から太子の平素の啓事を十余枚出し、人々が照合してみたが、やはり敢えて違うと言う者はなく、議論は日が西に傾くまで決着しなかった。賈后は張華らの意思が固いことを知り、そこで表を奉って庶人に免じることを乞うた。帝はその上奏を許可した。

初め、趙王 司馬倫 しばりん が鎮西将軍として関中を撹乱し、 てい きょう が反乱したため、梁王司馬肜を代わりに任じた。ある人が張華に言った。「趙王は貪欲で愚かで、孫秀を信用し、任地で乱を起こしています。孫秀は変詐に富み、奸人の雄です。今、梁王に孫秀を斬らせ、趙王の勢力を半減させて関右に謝罪させれば、よろしいではありませんか。」張華はこれに従い、司馬肜は承諾した。孫秀の友人である辛冉が西から来て、司馬肜に言った。「 てい きょう の反乱は、孫秀の仕業ではありません。」そのため孫秀は死を免れた。 司馬倫 しばりん が都に戻ると、賈后に諂って仕え、録尚書事を求め、後にまた 尚書令 しょうしょれい を求めた。張華と裴頠はともに固執して認めず、これによって怨みを買い、 司馬倫 しばりん と孫秀は張華を仇のように憎んだ。武庫が火災に遭った時、張華はこれによって変事が起こることを恐れ、兵を並べて固く守り、その後で消火に当たったため、累代の宝物や漢の高祖の斬蛇剣、王莽の首、孔子の履などがすべて焼失した。その時、張華は剣が屋根を突き破って飛んで行くのを見たが、どこへ行ったか分からなかった。

初め、張華が封じられた壮武郡で桑が柏に化けたことがあり、識者はこれを不吉とした。また張華の邸宅や監省(中書省)でたびたび妖怪があった。末子の張韙は中台星が分裂するのを見て、張華に退位を勧めた。張華は従わず、言った。「天道は玄遠であり、ただ徳を修めてこれに応じるのみだ。静かに待って天命を待つのがよい。」 司馬倫 しばりん と孫秀が賈后を廃そうとした時、孫秀は司馬雅を夜に遣わして張華に告げさせた。「今、 社稷 しゃしょく が危うくなろうとしています。趙王は公と共に朝廷を正し、覇者の事業をなさんと望んでおります。」張華は孫秀らが必ずや 簒奪 さんだつ を成し遂げると知り、拒絶した。司馬雅は怒って言った。「刃が頸に加わろうとしているのに、このようなことを言うのか!」振り返らずに出て行った。張華が昼寝をしていると、突然、家屋が崩れる夢を見て、目覚めてこれを嫌った。その夜、難が起こり、 詔 と偽って張華を召し出し、ついに裴頠とともに捕らえられた。張華は死の間際、張林に言った。「卿は忠臣を害しようとするのか。」張林は 詔 を称して詰問した。「卿は宰相として天下の事を任じ、太子が廃された時、死をもって節を全うしなかったのは、なぜか。」張華は言った。「式乾殿での議論で、臣が諫めた事柄はすべて記録に残っています。諫めなかったのではありません。」張林は言った。「諫めて従わないなら、なぜ去らなかったのか。」張華は答えることができなかった。しばらくして使者が来て言った。「 詔 により公を斬る。」張華は言った。「臣は先帝の老臣であり、心は丹のごとく赤い。臣は死を惜しむのではなく、王室の難を恐れ、禍が測り知れないことを憂えるのです。」ついに前殿の馬道の南で殺害され、三族が誅滅された。朝野、悲しまない者はなかった。時に六十九歳であった。

張華は人材を好み、倦むことなく推挙し、貧賤の身で門を候う者でも、わずかな善行があれば、ため息をついて称え、その名声を広めた。書籍を特に愛し、死んだ日には、家に余財はなく、ただ文史の書が机や箱からあふれていた。かつて転居した時、書物を三十車も載せた。秘書監の摯虞が官書を撰定する際、すべて張華の蔵書を基にして正しいものを取った。天下の奇秘で、世に稀有なものは、すべて張華の所にあった。これによって博識で見聞が広く、世に比べる者がなかった。

恵帝の時代、ある人が三丈の鳥の羽を得て、張華に見せた。張華はそれを見て、悲しげに言った。「これは海鳧の毛というもので、これが出ると天下が乱れる。」 陸機 がかつて張華に鮓(なれずし)を贈ったことがあった。その時、賓客が満座していた。張華が容器を開けると、すぐに言った。「これは龍の肉だ。」皆は信じなかった。張華は言った。「苦酒(酢)で洗ってみれば、必ず異変がある。」すると五色の光が立ち上った。陸機が帰って鮓の持ち主に尋ねると、果たして言うには、「園の茅の積みの下で一匹の白魚を得ました。質状が並外れており、鮓にしたところ、非常に美味しかったので、献上したのです。」武庫は密閉されていたが、その中から突然、雉が鳴いた。張華は言った。「これは必ず蛇が雉に化けたのだ。」開けてみると、雉の側に果たして蛇の抜け殻があった。呉郡の臨平で堤防が崩れ、石鼓が一つ現れたが、叩いても音がしなかった。帝が張華に問うと、張華は言った。「蜀中の桐材を取って魚の形に刻み、それを叩けば鳴るでしょう。」そこでその言葉通りにすると、果たして数里先まで音が聞こえた。

初めに、呉がまだ滅んでいなかった頃、斗宿と牛宿の間に常に紫気が現れ、道術者たちは皆、呉が強盛であり、まだ謀るべきではないと考えていたが、ただ張華だけはそうではないと考えた。呉が平定された後、紫気はますます明るくなった。張華は 章郡の人である雷煥が緯象(天文・占星)に精通していると聞き、雷煥を招いて宿泊させ、人払いをして言った。「共に天文を探り、将来の吉凶を知ることができる。」そこで楼に登って仰ぎ見ると、雷煥は言った。「私が長く観察してきましたが、ただ斗宿と牛宿の間に異様な気があるだけです。」張華は言った。「それは何の兆しか。」雷煥は言った。「宝剣の精気が、天にまで達しているのです。」張華は言った。「君の言う通りだ。私が若い頃、相見師が言ったことがある。私の年齢が六十を過ぎ、三公の位に登った時、宝剣を得て佩用するだろうと。その言葉が果たして効験があるのだろうか。」そこで尋ねて言った。「どの郡にあるのか。」雷煥は言った。「 章郡の豊城にあります。」張華は言った。「君に県令になってもらい、密かに共に探し求めることはできないか。」雷煥は承諾した。張華は大いに喜び、すぐに雷煥を豊城県令に補任した。雷煥が県に着くと、牢獄の建物の基礎を掘り、地中四丈余りに入り、一つの石函を得た。光と気が並々ならず、中に二振りの剣があり、共に銘が刻まれていた。一つは龍泉、一つは太阿といった。その夜、斗宿と牛宿の間の気は再び見られなくなった。雷煥は南昌の西山の北巌の下の土で剣を拭うと、光芒が鮮やかに発した。大盆に水を満たし、その上に剣を置くと、それを見る者は精気の光芒に目が眩んだ。使者を遣わして一振りの剣と土を張華に送り、一振りは自ら佩用した。ある者が雷煥に言った。「二振り得て一振りを送るとは、張公を欺くことができようか。」雷煥は言った。「この朝廷は乱れようとしており、張公はその禍いを受けるだろう。この剣はやがて徐君の墓の木に結びつけられることになるだろう。霊異の物は、終いには化けて去り、長く人の佩用するものとはならない。」張華は剣を得て、宝物として愛し、常に座る側に置いた。張華は南昌の土は華陰の赤土に及ばないと考え、雷煥に返書を送って言った。「詳しく剣の文様を観察すると、これは干将であり、莫邪はどうしてまだ来ないのか。とはいえ、天が生んだ神物は、終いには合うはずだ。」そこで華陰の土一斤を雷煥に送った。雷煥がさらにそれで剣を拭うと、倍増して精妙明るくなった。張華が誅殺された後、剣は所在を失った。雷煥が死去し、その子の雷華が州の従事となり、剣を持って延平津を行き過ぎた時、剣が突然腰の間から躍り出て水に落ちた。人を遣わして水に潜って取りに行かせたが、剣は見えず、ただ二匹の龍がそれぞれ数丈の長さで、絡み合って文様があり、潜った者は恐れて戻った。しばらくして光と色彩が水を照らし、波が驚いて沸き立ち、そこで剣は失われた。雷華は嘆いて言った。「父君の化去の言葉、張公の終合の論、これがその証拠か。」張華の博識多才はこの類が多く、詳しく記すことはできない。

後に 司馬倫 しばりん と孫秀が誅殺され、斉王司馬冏が政務を補佐すると、摯虞が司馬冏に書簡を送って言った。「張華が没した後、中書省に入り、張華が先帝の時に下された 詔 勅に対する答申の草稿を得ました。先帝が張華に、政務を補佐し重責を担い後事を託すことができる者を問うと、張華は答えて言いました。『明徳と至親は、先王に及ぶものはなく、 社稷 しゃしょく の鎮めとして留めるべきです。』その忠良の謀りごと、誠実な言葉は、幽冥に通じ、没して後明らかになり、苟且に時流に従う者と同列に論じることはできません。議論する者の中には、湣懐太子の件について張華が節を守って朝廷で争わなかったことを責める者があります。その当時、諫言する者は必ず命に背く死を免れませんでした。先聖の教えでは、死んでも益のないことについては、人を責めません。故に晏嬰は斉の正卿でありながら、崔杼の難に死なず、季札は呉の宗臣でありながら、逆順の理を争いませんでした。理が尽きて施すべきところがない場合、固より聖教が責めないところです。」司馬冏はそこで上奏して言った。「臣は聞きます。微なるものを興し絶えたものを継ぐことは、聖王の高い政治であり、悪を貶め善を嘉することは、『春秋』の美しい義です。それ故に武王は比干の墓を封じ、商容の里門を表彰し、誠に幽冥の故に相通ずるものがあるからです。孫秀が逆乱を起こし、天命を助けた国を滅ぼし、骨鯁の臣を誅殺し、王室を損なわせ、その虐げと暴戾をほしいままにし、功臣の後裔は多く滅ぼされました。張華と裴頠はそれぞれ憎まれて当時に誅殺され、解系と解結は同じく清廉な臣として共にその害を受け、欧陽建らは無罪で死に、百姓は彼らを哀れみました。今、陛下は日月の光を改め、維新の命を布かれましたが、しかしこれらの諸族はまだ恩理を蒙っていません。昔、欒氏と郤氏が賤しい身分に落ちた時、『春秋』はその違背を伝え、幽王が功臣の後裔を絶やし、賢者の子孫を棄てた時、詩人はそれを諷刺しました。臣は職に忝くし、愚かな誠意を納めようと思います。もし聖意に合うならば、群官に通議させることができます。」議論する者はそれぞれ主張があり、多くはその冤罪を称えた。壮武国の臣である竺道がまた長沙王の下に赴き、張華の爵位の復活を求め、長い間決着がつかなかった。

太安二年、 詔 勅が下された。「愛と悪が相攻め、佞邪が正を醜くするのは、古よりあることである。故 司空 しくう ・壮武公張華はその忠貞を尽くし、朝廷の政治を助けようとし、謀議の功績は、何事にも頼りにされた。以前、張華の補佐救済の功績により、封建と同じくすべきであったが、張華は固く辞退して八九度に及び、大制度はこのようには得られないと深く陳べ、終いには転倒敗北し危辱を受ける憂いがあるとし、言葉と義は懇切誠実で、遠近を勧めるに足りた。張華の至誠の心は、神明に誓われている。張華は呉討伐の功績により、先帝より爵を受けた。後の封は国体に非ず、また小さな功績で以前の大賞を超えるべきではなく、張華の害を受けたのは、共に奸逆が乱を図り、濫りに枉げられ賊害されたためである。その張華の侍中・ 中書監 ちゅうしょかん 司空 しくう ・公・広武侯及び没収された財物と印綬符策を回復し、使者を遣わして弔祭せよ。」

初めに、陸機兄弟は志気が高く爽やかで、自らを呉の名家とし、初めて洛陽に入った時、中国の人士を推挙せず、張華に一度会うと旧知の如く、張華の徳と範を敬い、師資の礼のようであった。張華が誅殺された後、誄を作り、また『詠徳賦』を作って彼を悼んだ。

張華は『博物志』十篇を著し、文章と共に世に行われた。二人の子:張禕、張韙。

子の張禕、張韙

張禕は字を彦仲といい、学問を好み、謙虚で礼儀正しく父の風があり、 散騎常侍 さんきじょうじ の位を歴任した。張韙は儒学に博く、天文に通暁し、散騎侍郎となった。同時に害に遇った。張禕の子の張輿は字を公安といい、張華の爵を襲った。難を避けて長江を渡り、丞相掾・太子舎人に辟召された。

劉卞

劉卞は字を叔龍といい、東平郡須昌県の人である。もとは兵士の家の子で、質朴で正直で言葉が少なかった。若い時は県の小吏となり、功曹が夜に酔って厠に行き、劉卞に燭を持たせようとしたが、従わなかった。功曹はこれを恨みに思い、別の事で亭子に補任した。祖秀才という者が、亭の中で 刺史 しし に書簡を書いていたが、長く完成せず、劉卞が数言を教えると、卓抜して大筋があった。秀才は県令に言った。「劉卞は公府の掾の中でも精鋭です。あなたはどうして亭子にしているのですか。」県令はすぐに召して門下史とし、百事は疎略で、周密ではなかった。県令が劉卞に問うた。「学問ができるか。」答えて言った。「願います。」すぐに学問に就かせた。間もなく、劉卞の兄が太子長兵となり、すぐに死んだ。兵士は例によって代役が必要で、功曹は劉卞に兄の役を代わらせるよう請うた。県令は言った。「祖秀才が言ったことがある。」そこで聞き入れなかった。劉卞は後に県令に従って洛陽に行き、太学に入ることができ、『経書』の試験で台の四品吏となった。訪問が黄紙一鹿車を書写するよう命じたが、劉卞は言った。「劉卞は人のために黄紙を書写する者ではありません。」訪問は怒りを知り、中正に言い、 尚書令 しょうしょれい 吏に降格させた。ある者が劉卞に言った。「あなたの才能は簡略で、大は堪えられても小は堪えられない。守舎人になる方が良い。」劉卞はその言葉に従った。

後に吏部令史となり、斉王司馬攸の 司空 しくう 主簿に転じ、太常丞・ 司徒 しと 左西曹掾・尚書郎を歴任し、いずれの職も適任と称された。累進して散騎侍郎となり、 へい 刺史 しし に任ぜられ、左衛率として中央に召されたが、賈后が太子を廃そうとしている計画を知り、大いに憂慮した。策略を用いて張華に諫言したが採用されず、ますます不満を募らせた。賈后の側近が私服で外間の様子を探り聞き、卞壼の言葉をかなり耳にしたため、卞壼を軽車将軍・雍州 刺史 しし に転任させた。卞壼は言葉が漏れたことを知り、賈后に誅殺されることを恐れ、毒を飲んで自害した。初め、卞壼が へい 州に赴任する際、かつて同時に須昌の小吏だった十数人が餞別をしたが、そのうちの一人が卞壼を軽んじたので、卞壼はその者を引きずり出させた。人々はこのことで卞壼を軽んじた。

史評

史臣が言う。忠は美しい徳であり、学問は国家の華である。それは多くの星々の中の礼義の星、人倫の中の冠冕のようなものである。衛瓘が武帝の寝台を撫で、張華が趙王 司馬倫 しばりん の命令を拒んだ。進んで諫言する点では衛瓘が多く、危険に臨む点では張華が優れている。険しい道を歩むことには、理屈で言えることがある。昏乱がまさに凝り固まっている時は、事態はその趣旨に背く。松や竹が変わらないように、死は生に勝ることもある。もとより身を投げ出すことを期し、覆滅を辞さない者たちである。ともに淫らな網にかかり、同じく剣を承けることを嘆く。国家が病み衰えるのは、まことに悲しいことではないか。