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卷三十五 列傳第五

陳騫

陳騫は、臨淮郡東陽県の人である。父の陳矯は、魏の 司徒 しと であった。陳矯はもともと広陵郡の劉氏であったが、外祖父の陳氏に養育されたため、姓を改めたのである。陳騫は沈着で思慮深く、知謀に富んでいた。初め、陳矯が 尚書 令であった時、侍中の劉曄が魏の明帝に寵愛され、陳矯が権力を専断していると讒言した。陳矯は憂慮し恐れ、陳騫に相談した。陳騫は言った。「主上は聡明で聖明であり、父上は大臣です。今、もし主上の意に合わないことがあっても、せいぜい三公になれないだけのことでしょう。」後に帝の疑念は果たして解け、陳騫はまだ若かったが、夏侯玄に侮辱されても、表情や態度を平然と保ち、夏侯玄はこれによって彼を異才と見なした。

初め尚書郎として出仕し、中山太守、安平太守に転任し、いずれも優れた治績で名声を得た。相国司馬、長史、御史中丞に召され、尚書に昇進し、安国亭侯に封ぜられた。蜀の賊が隴右を侵すと、尚書として節を持ち征蜀将軍を代行し、賊を撃破して帰還した。 諸葛誕 の乱が起こると、再び尚書として安東将軍を代行した。 寿春 が平定されると、使持節・ 都督 ととく 淮北諸軍事・安東将軍に任ぜられ、広陵侯に爵位を進めた。 都督 ととく 州諸軍事・ 刺史 しし に転じ、持節・将軍の職はもとのままとした。さらに 都督 ととく 江南諸軍事に転じ、 都督 ととく 荊州諸軍事・征南大将軍に移り、郯侯に封ぜられた。武帝が 禅譲 を受けると、創業を補佐した功績により、車騎将軍に進み、高平郡公に封ぜられ、侍中・大将軍に昇進し、外任して 都督 ととく 揚州諸軍事となったが、その他の官職はもとのまま、黄鉞を仮授された。呉の枳裏城を攻略し、塗中の屯戍を撃破した。陳騫の兄の子の陳惺に関中侯の爵位が賜られた。

咸寧の初め、 太尉 たいい に転じ、さらに大司馬となった。陳騫は朝廷に入った際、帝に言上した。「胡烈と牽弘は、いずれも勇猛ではあるが謀略がなく、独断専行が強く、辺境を安寧にする人材ではありません。将来、国家の恥となるでしょう。どうか陛下にはよくお考えください。」当時、牽弘は揚州 刺史 しし であったが、陳騫の命令に従わなかった。帝は二人が不和で互いに争っていると考え、そこで牽弘を召還したが、到着すると間もなく、また涼州 刺史 しし に任じた。陳騫はひそかに嘆息し、必ず失敗すると考えた。二人は後に果たして きょう や戎との和を失い、いずれも賊の襲撃を受けて戦死し、征討は数年続き、ようやく平定されたので、帝は後悔した。

陳騫は若い頃から度量が大きく、恥辱を忍び欠点を隠し、任地では常に実績を上げた。賈充、石苞、裴秀らとともに腹心の臣となったが、陳騫の知略と器量は彼らを上回り、賈充らも自ら及ばないと認めていた。累ねて地方の要職を歴任し、士人や庶民に慕われた。すでに人臣の最高位にあり、致仕(引退)の年齢を超えていたため、身を退きたいと考えた。咸寧三年、朝廷に入ることを求め、それに伴って致仕を願い出た。袞冕の服を賜り、 詔 書が下された。「陳騫は元勲であり旧徳を備え、東夏を統治し、遠大な功績を広め、呉会を平定しようとしているのに、病苦が除かれず、毎度の上表は懇切で、国家の大事に重い労苦をかけている。今、京城に留まることを許す。以前の 太尉 たいい 府を大司馬府とし、祭酒二人を増設し、帳下司馬、官騎、大車、鼓吹はすべて以前の通りとし、親兵百人、厨田十頃、厨園五十畝、厨士十人を与え、器物や経費はすべて支給する。また乗輿の輦を与え、宮殿への出入りの際には鼓吹を加え、漢の蕭何の故事に倣う。」陳騫はたびたび病気を理由に辞任を願い出た。 詔 書が下された。「陳騫は徳を実践し道を論じ、朕が諮問する者である。今まさにその謀略に頼り、多くの功績を広めようとしている。時宜に応じて政務を見るべきである。 散騎常侍 さんきじょうじ を遣わして朕の意を伝えよ。」陳騫はすぐに邸宅に帰ったので、 詔 書によりまた侍中を遣わして説得し、役所に戻らせた。それでも固く請願したので、これを許し、太保・太傅と同等の地位とし、三司の上に置き、几杖を賜り、朝参を免除し、安車駟馬を与え、高平公として邸宅に帰った。帝はその功績と旧臣であり高齢であることを重んじ、非常に厚く礼遇した。また陳騫が病気であるため、輿に乗って殿上に上がることを許した。

陳騫はもともと直言敢諫の風格はなかったが、帝と語る時は傲慢な態度であった。一方で皇太子に対しては敬意を加えたので、当時の人々はこびへつらっていると考えた。弟の陳稚が自分の子の陳輿と激しく争い、ついに陳騫の子女の淫らな行いを言いふらしたため、陳騫は上表して弟を流刑に処し、これによって世間から非難を受けた。

元康二年に死去した。八十一歳であった。袞服で納められ、太傅を追贈され、諡は武といった。葬儀の際、帝は大司馬門で喪に臨み、柩を望んで涙を流し、礼は大司馬石苞の故事に依った。子の陳輿が爵位を嗣いだ。

子の陳輿

陳輿は 字 を顯初といい、散騎侍郎、 洛陽 令に任ぜられ、黄門侍郎に昇進し、将校左軍、大司農、侍中を歴任した。叔父と不仲であったことを咎められて外任し、 河内 太守となった。陳輿は行いを正すことはなかったが、成果を上げる能力はあった。まもなく死去し、子の陳植(字は弘先)が嗣いだ。官は 散騎常侍 さんきじょうじ に至った。死去し、子の陳粹が嗣いだ。永嘉年間に害に遭い、孝武帝が陳騫の玄孫に爵位を継がせた。死去し、弟の子の陳浩之が嗣いだ。宋が禅譲を受けると、封国は除かれた。

裴秀

裴秀は、字を季彥といい、河東郡聞喜県の人である。祖父の裴茂は、漢の 尚書令 しょうしょれい であった。父の裴潛は、魏の 尚書令 しょうしょれい であった。裴秀は幼い頃から学問を好み、風格と節操があり、八歳で文章を作ることができた。叔父の裴徽は名声が高く、賓客が非常に多かった。裴秀が十歳余りの時、裴徽を訪ねる客が、退出する際に裴秀のもとにも立ち寄った。しかし裴秀の実母は身分が低く、嫡母の宣氏は彼女を礼遇しなかった。かつて客に食事を運ばせたところ、見た者たちは皆、彼女のために立ち上がった。裴秀の母は言った。「私がこのように微賤であるのに、子供(裴秀)のためだとお考えなのでしょう。」宣氏はこのことを知り、後にはやめた。当時の人々は彼についてこう言った。「後進の指導者は裴秀である。」

渡遼将軍の毌丘儉がかつて大将軍 曹爽 に裴秀を推薦し、言った。「生まれながらに聡明で、成長して自然のままに振る舞い、玄妙で静かに真実を守り、本性は道の奥義に入っている。博学で記憶力が強く、あらゆる文書に通じていないものはない。孝行と友愛は郷里で顕著であり、高い名声は遠近に聞こえている。誠に補佐して謀略を明らかにし、鼎の味を和らげるのを助け、大府を補佐し、盛んな教化を輝かせるのにふさわしい。単に子奇や甘羅の仲間というだけでなく、顔回、冉耕、子游、子夏の美徳を兼ね備えている。」曹爽はそこで彼を掾に召し出し、父の爵位である清陽亭侯を嗣がせ、黄門侍郎に昇進させた。曹爽が誅殺されると、旧臣であったため免官された。まもなく、廷尉正となり、文帝の安東将軍および衛将軍司馬を歴任し、軍国に関する政務の多くは、彼の意見が信頼され採用された。 散騎常侍 さんきじょうじ に昇進した。

帝が諸葛誕を討伐した時、裴秀は尚書 僕射 ぼくや の陳泰、黄門侍郎の 鍾会 とともに行台として従い、謀略に参与した。諸葛誕が平定されると、尚書に転じ、魯陽郷侯に進封され、封邑千戸を加増された。常道郷公(曹奐)が即位すると、策定に参与した功績により、県侯に爵位を進め、封邑七百戸を加増され、尚書 僕射 ぼくや に昇進した。魏の咸熙の初め、官制の改革が行われた。当時、荀顗が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀が官制を改めたのである。裴秀が五等の爵制を議し、騎督以上の六百余人をすべて封じた。これにより裴秀は済川侯に封ぜられ、封地は六十里四方、封邑千四百戸で、高苑県の済川墟を侯国とした。

当初、文帝( 司馬昭 )は後継者を定めず、舞陽侯の司馬攸に属意していた。武帝( 司馬炎 )は自分が立てられないのではないかと恐れ、裴秀に尋ねた。「人に相(人相)はあるか?」と。そこで奇異な印相を示した。裴秀は後に文帝に言った。「中撫軍(司馬炎)は人望が既に盛んであり、天の表相もこのようである。固より人臣の相ではありません。」これによって世子は定まった。武帝が晋王の位に即くと、裴秀は 尚書令 しょうしょれい ・右光祿大夫に任じられ、御史大夫の王沈、衛將軍の賈充とともに開府し、給事中を加えられた。そして帝が禅譲を受けると、左光祿大夫を加えられ、钜鹿郡公に封じられ、邑三千戸を与えられた。

当時、安遠護軍の郝詡が旧知に手紙を書いて言った。「 尚書令 しょうしょれい の裴秀と知己であり、彼が益となることを望む。」と。有司が裴秀の官を免ずるよう上奏したが、 詔 は言った。「人が自分に(言葉を)加えるのを防ぐことはできない、これは古人も難しとしたところだ。人事に関わる交渉は、郝詡の罪であって、どうして 尚書令 しょうしょれい が防げようか!これについて問うことはしないように。」司隸 校尉 こうい の李憙がまた上言した。騎都尉の劉尚が 尚書令 しょうしょれい 裴秀のために官有の田を占拠しているので、裴秀を禁止(処罰)するよう求めた。 詔 はまた、裴秀が朝廷の政治を輔翼し、王室に勲績があるので、小さな欠点で大きな徳を覆い隠すことはできないとして、劉尚の罪を推問正すように命じ、裴秀に対する禁止処分を解いた。

しばらくして、 詔 が下った。「三司( 司空 しくう 司徒 しと 太尉 たいい )の任は、皇極(帝王の道)を翼賛し宣揚し、王事を補佐し成し遂げる者である。故に国を経営し道を論ずるには、明哲な者に頼る。もしその人でなければ、官は虚しく備えることはない。 尚書令 しょうしょれい ・左光祿大夫の裴秀は、雅量が広く博く、思慮が遠くに通じ、先帝が登用され、前朝(魏)の事を補佐した。朕が明命を受け、大業を光り輝かせ補佐するにあたり、勲功と徳行が盛んに顕著で、元凱(八元八凱、古代の賢臣)の跡に匹敵する。正しい位につき体(政務の本)とすべきで、もって多くの功績を安んずるにふさわしい。裴秀を 司空 しくう とする。」

裴秀は儒学に通暁し博識であり、かつ政事に心を留め、禅譲交代の際には、納言(皇帝の言葉を取り次ぐ職)の要を総括し、その裁断は礼に違うことがなかった。また職が地官( 司空 しくう 、土地・水利を管轄)にあることから、『禹貢』の山川地名は、由来が久遠で、多く変易があった。後世の説明者は強引に牽引することがあり、次第に不明瞭になっていた。そこで古い文献を選別摘出し、疑わしいものは欠如させ、古代に名があり今はないものは、すべて事に従って注記し列挙し、『禹貢地域図』十八篇を作成し、上奏して秘府に蔵した。その序文に言う。

図書の設置は、由来が古い。古より象を立て制を垂れ、その用に頼ってきた。三代(夏・殷・周)にはその官を置き、国史がその職務を掌った。漢が咸陽を屠った時、丞相の蕭何は秦の図書・戸籍をことごとく収集した。今、秘書(省)には古の地図はなく、また蕭何が得たものもなく、ただ漢代の『輿地』および『括地』などの雑多な地図があるのみである。それぞれ分率(縮尺)を設けず、また准望(方位)を考証正さず、名山大川も備え載せていない。粗い形状はあるが、いずれも精確でなく、依拠できない。あるいは辺境の荒唐無稽な言葉で、事実に合わず、義理に取るべきものがない。

大晋が龍のように興起し、六合(天下)を統一し、宇宙を清めるにあたり、庸蜀(蜀漢)から始まり、深くその険阻な地に入った。文皇帝(司馬昭)は有司に命じ、呉と蜀の地図を撰述訪求させた。蜀の地が平定されると、六軍の経た地域の遠近、山川の険易、征路の迂直を、図記と照合検証したが、少しの誤差もなかった。今、上は『禹貢』の山海川流、原隰陂澤、古の九州、および今の十六州、郡国県邑、疆界郷陬、および古国の盟会の旧名、水陸の経路を考証し、地図十八篇とした。

地図製作の方法には六つある。第一は分率(縮尺)で、広狭の度合いを弁別するためのものである。第二は准望(方位)で、互いの位置関係を正すためのものである。第三は道里(距離)で、経由する数を定めるためのものである。第四は高下(高低差)、第五は方邪(角度の歪み)、第六は迂直(迂回と直線)で、この三者はそれぞれ地勢に因って適宜に定め、険易の違いを較正するためのものである。図像があって分率がなければ、遠近の差を審らかにすることはできない。分率があって准望がなければ、一隅では得られても、必ず他方では失うことになる。准望があって道里がなければ、山海で隔絶された地に施すとき、互いに通じることができない。道里があって高下・方邪・迂直の較正がなければ、経路の数は必ず遠近の実態に違反し、准望の正しさを失う。故にこの六者を参照して考証するのである。しかし遠近の実態は分率によって定まり、互いの位置関係の実態は道里によって定まり、度数の実態は高下・方邪・迂直の計算によって定まる。故に峻山や巨海の隔たりがあっても、絶域や異境の遠さがあっても、登り降りや曲がりくねった地形があっても、すべて挙げて定めることができる。准望の法が正しければ、曲直遠近はその形を隠すことがない。

裴秀は朝廷の儀礼を創制し、刑政を広く陳べ、朝廷では多くこれに従って用い、故事とした。在位四年、当世の名公であった。寒食散を服用し、熱い酒を飲むべきところで冷たい酒を飲み、泰始七年に 薨去 こうきょ した。時に四十八歳。 詔 が下った。「 司空 しくう は経(経書)と徳を履み、哲(知恵)を踏み、儒雅の体を実践し、天命を輔佐し世を翼賛し、勲業は広大で盛んである。まさに献策を宣べ制度を敷き、世の宗範となろうとしていたのに、不幸にも 薨去 こうきょ した。朕は甚だ痛む。秘器(棺)、朝服一具、衣一襲、銭三十万、布百匹を賜う。諡は元という。」

当初、裴秀は尚書三十六曹が事を統べる準例が不明確であるため、諸卿に職務を担当させるべきと考えていたが、上奏する前に 薨去 こうきょ した。その友人が彼の文書を整理したところ、呉平定に関する上表の草稿が見つかり、その文に言う。「孫皓は残酷で暴虐であり、聖明の世を治める陛下が弱きを兼ね昧きを攻めるに及ばず、子孫に遺すならば、遂に臣従させることができなくなるでしょう。時に否泰(順境と逆境)はありますが、万全の勢いではありません。臣は昔から既に繰り返し申し上げておりましたが、成るべき旨(決定)はありませんでした。今や病が篤く起き上がれず、謹んで屍(死体)のまま啓上します。願わくは陛下が時に応じて共に施行なさいますように。」そしてこれを封じて上聞した。 詔 が答えた。「 司空 しくう 薨去 こうきょ し、痛悼の念が去らない。また上表の草稿を得た。危篤の困窮の中にあっても、王室を忘れず、忠を尽くし国を憂えているのを見て、ますます傷心し切実である。すぐに諸賢と共に論議することにしよう。」

咸寧の初め、石苞らとともに王公として、廟庭に配享された。二人の子がいた。裴浚と裴頠。裴浚が後を嗣いだが、 散騎常侍 さんきじょうじ に至り、早世した。裴浚の庶子の裴憬は愚かであったため、別に高陽亭侯に封じられ、裴浚の末弟の裴頠が後を嗣いだ。

子の裴頠

裴頠、字は逸民。弘雅で遠識があり、博学で古を考察し、幼少時から有名であった。御史中丞の周弼は彼を見て嘆じて言った。「裴頠は武庫のようだ。五兵(各種武器)が縦横に並び、一時の傑物である。」賈充は裴頠の従母(母の姉妹)の夫であった。上表して「裴秀には天命を輔佐した勲功があり、不幸にも嫡長子が亡くなり、遺された孤児は幼弱である。裴頠は才徳が英茂で、国嗣(後継者)を興隆させるに足る。」と言った。 詔 により裴頠が爵位を襲うことになったが、裴頠は固辞したが、許されなかった。太康二年、太子中庶子に徴され、 散騎常侍 さんきじょうじ に遷った。恵帝が即位すると、国子祭酒に転じ、右軍將軍を兼ねた。

当初、裴頠の兄の子の裴憬は無官(白衣)であったが、裴頠が累代の勲功を論述したため、高陽亭侯の爵位を賜った。楊駿が誅殺されようとした時、楊駿の党与である左軍將軍の劉 が兵を率いて門に陣取っており、裴頠に出会い、太傅(楊駿)の所在を尋ねた。裴頠は彼を欺いて言った。「さきほど西掖門で公(楊駿)が素車に乗り、二人を従えて西に出て行くのに遇いました。」劉 は言った。「私はどこへ行けばよいか?」裴頠は言った。「廷尉へ行くべきでしょう。」劉 は裴頠の言葉に従い、兵を委ねて去った。間もなく 詔 が下り、裴頠が劉 に代わって左軍將軍を領し、万春門に駐屯した。楊駿が誅殺されると、功績により武昌侯に封じられるはずであったが、裴頠は裴憬に封じるよう請うた。帝は結局裴頠の次子の裴該を封じた。裴頠は苦しく陳べて、裴憬は本来嫡流を承け、钜鹿公を襲うべきであり、先帝の恩旨であり、辞退しても命を獲られなかった。武昌侯の封は、自分が蒙るものであり、特に裴憬に封じるよう請うた。裴該は当時公主を娶っていたので、帝は聞き入れなかった。累遷して侍中となった。

当時、天下はしばらく安寧であり、裴頠は国学を修復し、石碑に経典を刻写するよう上奏した。皇太子が講義を終えると、釈奠の礼で孔子を祀り、飲饗や射侯の儀式を行い、非常に儀礼の順序が整っていた。また、 荀籓 じゅんはん に命じて父の荀勖の志を継がせ、鐘や磬を鋳造・彫刻させ、郊廟や朝廷の饗宴における礼楽を整備させた。裴頠は学識が広く博識で、医術にも通じていた。荀勖が律度(音律の基準)を制定した際、古代の尺度を検証したところ、当時使用されていた尺度よりも四分余り短かった。裴頠は上言した。「諸々の度量衡を改めるべきです。もし全てを一挙に改革できないなら、まず太医院の秤や升を改めるべきです。これが誤っていると、神農や岐伯の正しい基準を失うことになります。薬物の軽重や分量が食い違えば、それによって傷つき夭折する者が出て、害は特に深刻です。古代に長寿だった者が今は短命なのは、必ずしもこのためではないかもしれません。」結局、採用されなかった。楽広がかつて裴頠と清談し、理屈で説得しようとしたが、裴頠の論議は豊富で博識であり、楽広は笑って何も言わなかった。当時の人々は裴頠を「言談の林藪(議論の宝庫)」と呼んだ。

裴頠は、賈后が太子を快く思っていないことを憂慮し、上表して太子の生母である謝淑妃の位号を増やして尊ぶよう請願し、さらに東宮の後衛率吏を増設し、三千の兵を与えるよう上奏した。これにより、東宮の宿衛は一万人となった。尚書に昇進し、侍中の職はそのままで、光禄大夫を加えられた。毎回官職を授けられるたびに、必ず熱心に固辞し、上表文を十数回も提出し、古今の成敗を広く引用して論じたので、それを見る者は誰もが寒心した。

裴頠は賈后の乱政を深く憂慮し、 司空 しくう の 張華 や侍中の賈模と協議して賈后を廃し、謝淑妃を立てようとした。張華と賈模はともに言った。「皇帝自身に廃位する意思はない。もし我々が独断で行えば、上(皇帝)はそれを良しとしないだろう。しかも諸王はまさに勢い盛んで、党派を組んで異議を唱えるだろう。禍いは弩の引き金を引くように突然起こり、身は死に国は危うくなり、 社稷 しゃしょく のためにならない。」裴頠は言った。「確かにご懸念の通りです。しかし、愚かで暴虐な者は何も憚るところがなく、乱はすぐにでも起こりましょう。どうすればよいのでしょうか。」張華は言った。「卿たち二人はまだ信頼されている。しきりに左右(賈后ら)に禍福の戒めを説き、大過のないことを願おう。幸い天下はまだ安泰だ。どうか悠々と歳月を過ごせるように。」この計画はそこで中止となった。裴頠は朝夕、従母(母の従姉妹)の広城君を説得し、賈后に太子を親しく遇するよう戒め諭させるだけだった。ある人が裴頠に言った。「幸いにも中宮(賈后)の内外で意見を尽くすことができる立場です。もし意見が採用されなければ、病気を理由に退くことができます。この二つのどちらも成り立たなければ、たとえ十回上表しても、難を免れるのは難しいでしょう。」裴頠はしばらく慨嘆したが、結局実行できなかった。

尚書左 僕射 ぼくや に昇進し、侍中の職はそのままであった。裴頠は賈后の親族ではあったが、元来声望が高く、天下の人々は彼が親戚関係で昇進したとは考えず、むしろその地位に就かないことを恐れたほどであった。間もなく、裴頠に門下省の事務を専任させようとしたが、固辞したが聞き入れられなかった。裴頠は上言した。「賈模がちょうど亡くなり、また私が代わることになりました。これは外戚の声望を高め、偏私の行いを明らかにするものです。后族(皇后の一族)で常に自らを保てた者などおらず、皆、親族を重用することから逃れられないことを知っています。しかし、漢の二十四帝のうち、孝文帝、光武帝、明帝だけが外戚を重用せず、その宗族を保ちました。彼らが特に賢明だったのではなく、実は安定的な統治を実現したからです。昔、穆叔は礼を越えた饗応を受けなかった。私もまた、尋常でない 詔 勅を聞くことはできません。」また上表して言った。「咎繇は虞を助け、伊尹は商に仕え、呂望は周を補佐し、蕭何・張良は漢を輔けた。皆、功績と教化を広め、その光輝は四方の果てにまで及んだ。その後を継いだ咎単、傅説、祖己、樊仲もまた、中興を隆盛させた。ある者は辺境の陋巷から明らかに登用され、ある者は庶族から起用された。これらはみな、徳を尊ぶ行いによって、このような美事を達成したのではないでしょうか。近世を歴覧すると、遠大なことを慕わず、近しい情実に溺れ、多く后親を任用したため、不安を招いています。昔、疏広は太子に、舅氏を官属とすることについて戒めた。前世の人はこれを礼を知る者としました。まして朝廷が外戚に何を求めるというのでしょう。仮に才能が同等であっても、まず疎遠な者を優先すべきで、これによって至公の精神を明らかにするのです。漢代が馮野王を用いなかったのは、まさにこのことです。」上表が提出されると、いずれも丁寧な 詔 書で慰留と諭しがなされた。

当時、陳准の子の陳匡と韓蔚の子の韓嵩がともに東宮に侍っていた。裴頠は諫言した。「東宮が建てられるのは、皇太子としての極位を備えるためです。そこで交遊し接する者は、必ず英俊を選び、徳を成した者を用いるべきです。陳匡と韓嵩は幼弱で、人倫や立身の節度をわきまえていません。東宮は実質的に早くから成熟した模範であるべきなのに、今では童子が侍従するという評判があり、遠大な風教を広く明らかにする道理にはなりません。」湣懐太子が廃された時、裴頠は張華とともに苦しく争ったが聞き入れられず、その話は『張華伝』にある。

裴頠は当時の風俗が放蕩で儒術が尊ばれないことを深く憂い、 何晏 や阮籍が世間で高い名声を持ち、口先では空虚な議論をし、礼法に従わず、禄を食んで寵愛に耽り、官職にあって職務を果たさず、さらに王衍の徒は声価が高すぎ、高位高官でありながら、実務に自ら関わらず、互いに模倣しあい、風俗教化が衰えているのを見て、『崇有論』を著してその弊害を解き明かした。その論は次の通りである。

あらゆる根本を総合し混ぜ合わせることが、究極の道である。形や性質によって種類が異なり、それが万物の品類である。形象が明らかに区別されることが、生きとし生けるものの本体である。変化と感応が錯綜することが、道理の跡(現れ)の根源である。品類として族をなせば、受け継ぐものは偏り、偏りは自足できないので、外部の資(頼るもの)に依拠する。それゆえに、生起して後から探求できるものを、理という。理が体現されるもの、それを有という。有が必要とするもの、それを資という。資と有がうまく合致すること、それを宜(適切)という。その宜を選択すること、それを情という。識見と知恵が授けられた以上、出世するか隠遁するか職業が異なり、沈黙するか語るか道が違っても、生存を貴び適切に生きようとする心情は同じである。多くの理が並存して害がないので、貴賤という形が現れる。得失は接触するものによって生じるので、吉凶の兆しが現れる。それゆえ、賢人君子は欲望を絶つことはできないと知りながら、物事との関わりには節度がある。往復(循環)を観察し、中道を考察して務めを定める。ただ天道を用い、地の利を分かち、自らその任務に力を尽くし、労して後に報いを受ける。仁と順によって住まい、恭と倹によって守り、忠と信によって導き、敬と譲によって行動し、志に満ちた要求を持たず、事を行っても過度に用いず、そうして初めて成功するのである。だから、大いにその極(根本原理)を確立し、衆生を安んじて治め、物事を教え導き模範を示すことは、ここにある。これが聖人が政治を行う所以である。

もし放縦で高ぶりほしいままに振る舞えば、危害が芽生える。だから欲望が拡大すれば速やかに禍患が生じ、情が逸れば怨みが広がり、専横に振る舞えば攻撃が起こり、利益を独占すれば敵寇が招かれる。これは厚生(生を豊かにすること)によって却って生を失うと言える。はるかなる人々は、このような争いを恐れ、その原因を探し求める。偏った性質には弊害があることを察知し、簡素で抑制された善を見て、ついに貴無の議論を唱え、賤有の論を立てる。有を軽んじれば必ず外形(形骸を外に置く)し、外形すれば必ず制度を遺棄し、制度を遺棄すれば必ず防備を軽視し、防備を軽視すれば必ず礼を忘れる。礼制が存在しなければ、政治を行うことができない。民衆が上に従うのは、水が器の中にあるようなものだ。だから万民の心情は、慣れ親しんだものに信を置く。慣れればその業(仕事・習慣)に心服し、業に服すればそれが理にかなっていると思う。それゆえ君主は必ず教えることを慎重にし、その政令刑罰一切の事務を整え、百姓に住まいを分け与え、それぞれに四つの職務(士農工商)を授け、命令を受ける者が厳しくしなくても安んじ、自然に違いを忘れ、志を変える者がいなくなるようにする。ましてや三公の尊位にあり、厚く思う心情を抱き、手厚く教訓とする者にとってはなおさらである。これは暗愚と明察の分かれ目であり、慎重に審らかにしなければならない。

欲望は減らすことはできても完全に絶つことはできず、過度な使用は節制できても貴重さがないとは言えない。

老子は五千言の文を著し、穢れや雑多さの弊害を指摘し、静寂と統一の意義を明らかにし、人々が自ら穢れを払い、『易経』の『損』『謙』『艮』『節』の趣旨に合致するようにした。

完全な無は何も生み出すことができないので、最初に生じるものは自ら生じるのである。

王衍の一派が次々と難問を浴びせて攻撃したが、誰も彼を屈服させることはできなかった。

当初、趙王 司馬倫 しばりん は賈后に諂い仕え、裴頠はこれを非常に嫌っていた。

裴秀の従弟の裴楷。

裴楷は字を叔則という。父の裴徽は、魏の冀州 刺史 しし であった。

裴楷は風采が高邁で、容姿や立ち振る舞いが優美で爽やかであり、広く群書に通じ、特に理義に精通していたため、当時の人々は彼を「玉の人」と呼び、また「裴叔則に会うのは玉山に近づくようで、人を照らすようだ」とも称した。

石崇は功臣の子として才気があり、裴楷とは志趣が異なり、交際しなかった。

楷は性質が寛厚で、物事と対立することがなかった。倹約質素を堅持せず、しばしば栄華富貴の家を訪れては、その珍しい宝物を手に入れた。たとえ車馬や器物・衣服であっても、一晩のうちに、それらを貧しい者たちに施してしまった。かつて別邸を営んだとき、その従兄の衍がそれを見て気に入ったので、すぐにその邸宅を衍に与えた。梁王・趙王の二人は、皇室の近親であり、当時重んじられていたが、楷は毎年この二国の租税百万銭を請い受け、親族に分け与えた。ある人がこれを非難すると、楷は言った。「余りあるものを減らして不足を補うのは、天の道理である。」毀誉褒貶に動じず、自分の行いを率直に任せるのは、みなこのような類いであった。山濤・和嶠とともに盛んな徳をもって高位にあり、帝がかつて尋ねた。「朕は天に応じ時に順い、海内を一新した。天下の評判は、何を得て何を失ったのか。」楷は答えて言った。「陛下が天命を受け、四海が教化を受けております。それでもなお堯・舜の徳に比べられないのは、ただ賈充の徒がまだ朝廷にいるからです。まさに天下の賢人を招き入れ、正しい道を広めるべきであり、人々に私心を見せるべきではありません。」当時、任愷・庾純もまた賈充について同様の意見を述べたので、帝は賈充を関中 都督 ととく として出させようとした。賈充が娘を太子に納れたため、取りやめになった。呉を平定した後、帝は太平の教化を整えようとし、しばしば公卿を招いて政治の道理を論じた。楷は三皇五帝の風を述べ、次いで漢・魏の盛衰の跡を順序立てて語った。帝は良しとし、座っていた者たちは感嘆して敬服した。

楷の子の瓚は楊駿の娘を娶ったが、楷はもともと楊駿を軽んじており、彼と仲が良くなかった。楊駿が政権を執ると、楷は衛尉に転じ、太子少師に遷ったが、悠々として何事もなく、沈黙していた。楊駿が誅殺されると、楷は婚姻関係にある親族として廷尉に収監され、処刑されようとした。この日は事が突然で、誅殺が縦横に行われ、人々はそれに震え恐れた。楷は顔色一つ変えず、挙動は平常通りで、紙筆を求めて親しい旧知に手紙を書いた。侍中の 傅祗 ふし が救護したおかげで免れることができたが、それでも官を免ぜられることになった。太保の衛瓘と太宰の亮は、楷が貞正でへつらわないと称え、爵土を受けるにふさわしいと言い、そこで臨海侯に封じられ、食邑二千戸を与えられた。楚王の瑋に代わって北軍中候となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。瑋は衛瓘と亮が自分を退けて楷を任用したことを怨み、楷はそれを聞いて、拝命することを敢えず、尚書に転じた。

楷の長子の輿は先に亮の娘を娶り、娘は衛瓘の子に嫁いでいた。楷は朝廷内の災難がまだ収まらないことを憂慮し、外鎮に出ることを求めた。安南將軍・仮節・ 都督 ととく 荊州諸軍事に任ぜられ、出発しようとしていた時に、瑋が果たして 詔 を偽って亮と衛瓘を誅殺した。瑋は楷が以前に自分の北軍中候の職を奪い、また亮・衛瓘と婚姻関係にあることを理由に、密かに楷を討伐するよう遣わした。楷はもともと瑋が自分に恨みを抱いていることを知っており、変事があると聞くと、単車で城に入り、妻の父である王渾の家に匿われ、亮の末子と一夜のうちに八回も場所を移したので、難を免れることができた。瑋が誅殺された後、楷は中書令とされ、侍中を加えられ、張華・王戎とともに機密の要務を管掌した。

楷は渇利疾(多飲多尿の病)を患っており、権勢の座にいることを好まなかった。王渾が楷のために請うて言った。「楷は先帝の抜擢の恩を受け、さらに陛下の寵遇を蒙り、まさに節義を尽くすべき時であります。しかし楷の性質は物事に競わず、かつて常侍であった時、出て河内太守となることを求め、後に侍中となってからは、また出て河南尹となることを求めました。楊駿と仲が悪くなると、衛尉となることを求め、東宮に転じた後は、同輩の下位に甘んじ、淡泊で退くことを安んじ、識者はそれによってその心を見ることができました。楷は今衰弱しており、臣は深く憂えております。光祿勳に欠員がありますが、これを用いることができると思います。今、張華は中書におり、王戎は尚書におりますので、十分にその職務を挙行できます。楷を再び朝廷に入らせる必要はなく、名臣は多くありませんので、養生させ、その志に背かず、将来の大きな益を得させるべきです。」聞き入れられず、そのまま光祿大夫・開府儀同三司を加えられた。病が重篤になると、 詔 によって黄門郎の王衍が見舞いに遣わされた。楷は振り返って彼を見つめ、「ついに面識を得られなかった。」と言った。王衍はその神韻の優れた様子を深く嘆賞した。

楷には人を見抜く鑑識眼があった。初め河南にいた時、楽広が郡内に寄寓していたが、まだ有名ではなかった。楷は彼を見て非凡だと思い、宰相の府に推薦した。かつて夏侯玄を見て「厳かで宗廟に入ったようだ。ただ礼楽の器を見るだけである」と言い、鍾会については「武器庫を見るようで森然としており、ただ矛戟が前に並んでいるのを見るだけである」と言い、傅嘏については「広く翔け巡って見えないものはない」と言い、山濤については「山に登って下を臨むようで、幽玄として深遠である」と言った。

初め、楷の家で黍を甑で炊いていたところ、あるものは拳のようになり、あるものは血のようになり、あるものは蕪菁の種のようになった。その年に楷は死去し、時に五十五歳であった。諡は元といった。五人の子がいた。輿、瓚、憲、礼、遜である。

輿は字を祖明といった。若くして父の爵位を継ぎ、官は散騎侍郎に至り、死去して諡は簡といった。

瓚は字を国宝といい、中書郎であった。風采と精神が高邁で、見る者は皆彼を敬った。特に王綏に重んじられ、しばしば彼に従って遊んだ。綏の父の戎が彼に言った。「国宝は初めから来ないのに、お前は何度も行くのはどうしてか。」答えて言った。「国宝は綏を知らないかもしれませんが、綏は国宝を知っています。」楊駿が誅殺された時、乱兵に害された。

楷の子の憲

憲は字を景思といった。幼少の頃から聡明で悟りが早く、軽佻な侠客と交わることを好んだ。弱冠を過ぎると、さらに節操を改めて厳粛慎重になり、儒学を尊び修め、数年も門を出なかった。陳郡の謝鯤と潁川の庾敳はいずれも優れた士であったが、彼を見て非凡だと思い、互いに言った。「裴憲は剛直で明るく広く通じ、機微に通じ天命を知っている。父と比べてどうかはわからないが、深く広く素朴な本性を保ち、世俗の事物に心を煩わせない点では、おそらく父を超えているだろう。」

初め、東宮で侍講を務め、黄門吏部郎・侍中を歴任した。東海王の越が彼を 刺史 しし ・北中郎将・仮節とした。王浚が制を承けると、憲を尚書とした。永嘉の末、王浚が 石勒 せきろく に破られると、棗嵩らはこぞって軍門に謝罪し、賄賂の贈り物が交錯したが、ただ憲と荀綽だけが恬然として私邸にいた。 石勒 せきろく はかねてからその名を聞いており、召し出して言った。「王浚は幽州で暴虐をふるい、人も鬼も共に憎んだ。孤は恭しく天の法を実行し、この民衆を救った。旧来の者たちは皆喜び、慶賀と感謝の声が道に満ちている。そなたたち二人は共に悪に与し威に傲り、誠信を断絶させている。防風氏の誅戮は、誰に帰するというのか。」憲の神色は侃々として、涙を流して答えた。「臣らは代々晋の栄誉を担い、恩遇は重厚でございました。王浚は凶暴で粗野であり、正しいものを醜くしましたが、それでもなお晋の遺された藩屏でした。聖なる教化を喜んではおりますが、大義の上では誠心を阻んでおります。かつて武王が紂を伐った時、商容の里に表彰の標を立てましたが、商容が倒戈の列に加わったとは聞いておりません。明公が既に道をもって物事を励ますことを望まず、必ず刑罰と忍耐をもって治めようとされるのであれば、防風氏の誅戮は、臣の本分でございます。どうか有司に引き渡してください。」拝礼せずに出て行った。 石勒 せきろく は深く彼を賞賛し、賓客の礼をもって遇した。 石勒 せきろく は王浚の官僚と親族の財産を調査したが、皆巨万の富であった。ただ憲と荀綽の家には書物百余帙と、塩と米がそれぞれ十数斛あるだけだった。 石勒 せきろく はこれを聞き、その長史の張賓に言った。「名は虚ではない。私は幽州を得たことを喜ばず、この二人を得たことを喜ぶ。」彼を從事中郎に任じ、出して長楽太守とした。 石勒 せきろく が僭号を称した時、まだ制度を整える暇がなく、王波とともに朝儀を撰した。そこで典章文物は王者に擬するものとなった。 石勒 せきろく は大いに喜び、太中大夫に任じ、 司徒 しと に遷した。

季龍( 石虎 )の時代になると、ますます礼遇と重用を受けた。憲には二人の子がいた。挹と㲄で、ともに文才で知られた。㲄は季龍に仕えて太子中庶子・ 散騎常侍 さんきじょうじ となった。挹と㲄はともに豪侠で酒に耽り、人物の評判を好んだ。河間の邢魚と不和があり、邢魚は密かに㲄の馬に乗って段遼のもとに奔ったが、人に捕らえられた。邢魚は㲄が自分に、季龍が鮮卑を襲撃しようとしていると告げて備えさせたと誣告した。時季龍はちょうど段遼を討伐しようと謀っており、邢魚の供述とぴたりと合った。季龍は挹と㲄を皆誅殺し、憲も連座して免官された。間もなく、また右光祿大夫・ 司徒 しと ・太傅とし、安定郡公に封じた。

憲は官を歴任しても、実績があると称えられることはなかった。しかし朝廷にあっては沈黙を守り、一度も世俗の事務に心を煩わせたことはなかった。ただ徳が重く名が高いために、行動するごとに尊ばれ礼遇された。ついに石氏の下で死去し、族人の峙の子の邁を後継ぎとした。

楷の長兄は黎、次兄は康、ともに名を知られた。康の子の盾は、若くして顕位を歴任した。永嘉年間、徐州 刺史 しし となり、長史の司馬奥に任を委ねた。奥は盾に刑殺をもって威を立てるよう勧め、多くの良民を兵士として徴発し、法を奉じない者は罪が死に至るほどであった。在任三年、百姓は嘆き怨んだ。東海王の越は、盾の妹婿であった。越が薨じると、騎督の満衡はすぐに徴発した良民を引き連れて東へ帰還した。まもなく劉元海が将の王桑・趙固を派遣して彭城に向かわせ、前鋒の数騎が下邳に至ると、文武の官は苛政に耐えられず、ことごとく散り散りに逃げ去り、盾と奥は淮陰に奔り、妻子は賊の手中に落ちた。奥はさらに盾を誘って趙固に降伏させようとした。固の妻は盾の娘で、寵愛を受けていた。盾が娘に向かって涙を流すと、固はついに盾を殺した。

盾の弟の邵は、字を道期という。元帝が安東将軍であったとき、邵を長史とし、 王導 を司馬とし、二人は深い交わりを結んだ。太子中庶子に召され、さらに 散騎常侍 さんきじょうじ に転じ、使持節・ 都督 ととく 揚州江西淮北諸軍事・東中郎将となり、越に従って項に出たが、軍中で卒した。王導が 司空 しくう となったとき、拝命した後、嘆息して言った。「裴道期と劉王喬が生きていれば、私は一人でこの位に登ることはできなかっただろう。」導の子の仲 は康と同じ字であったため、導は旧交を思い、それを敬 と改めさせた。

楷の弟の綽は、字を季舒といい、器量は広大で、官は黄門侍郎・長水 校尉 こうい に至った。綽の子の遐は、玄理を語ることに長け、言葉は清らかで流暢、琴瑟の音のように澄んでいた。かつて河南の郭象と談論し、一座の人々はみな感服した。またかつて平東将軍周馥の座で、人と囲碁を打っていたことがある。馥の司馬が酒を行ったが、遐がすぐに飲まなかったので、司馬は酔って怒り、遐を引きずり下ろして地面に落とした。遐はゆっくりと立ち上がって座に戻り、顔色一つ変えず、以前と同じように碁を打ち続けた。その性質はこのように虚ろかで温和であった。東海王の越が 主簿 に引き立てたが、後に越の子の毗に害された。

初め、裴・王の二族は魏・晋の世に盛んであり、当時の人は八裴を八王になぞらえた。すなわち、徽は王祥に、楷は王衍に、康は王綏に、綽は王澄に、瓚は王敦に、遐は王導に、頠は王戎に、邈は王玄雲に比せられた。

史評

史臣が言う。周は多くの士を称え、漢は人を得たと言い、星象に類を取って、符契に頡頏する。時に名流が乏しく、多くは幹翮(才能)をもって称えられ、家を栄え国を光らせたが、まさに陳騫の言うところであろうか。秀は名声が同僚を覆い、領袖と称された。楷は機神を幼くして発し、清通と目された。ともに晋の名臣であり、まことに理由のあることである。