晉書

巻三十二 列伝第二 后妃下

巻三十二 列伝第二 后妃下

晉書

原文晉書

巻三十二 列伝第二 后妃下

原文卷三十二 列傳第二 后妃下 ► 列傳第三

元敬虞皇后

原文元敬虞皇后

元敬虞皇后は諱いみなを孟母といい、済陽外黄の人である。父は虞豫で、『外戚伝』に記載がある。帝が琅邪王であった時、后を妃に迎えたが、子はなかった。永嘉六年に薨去し、時に三十五歳であった。

原文元敬虞皇后諱孟母,濟陽外黃人也。父豫,見《外戚傳》。帝為琅邪王,納后為妃,無子。永嘉六年薨,時年三十五。

帝が晋王となると、后を追尊して王后とした。有司が王后には別に廟を立てるべきであると上奏した。令に曰く、「今、宗廟は未だ完成しておらず、更に造営すべきではない。ただ陵上の屋を修繕して廟とせよ」と。太興三年、冊書を下して曰く、「皇帝、前琅邪王妃虞氏に諮る。朕は昊天の成命を敬い順い、帝位に即いた。妃が早く逝き、その美しい音信がひそかに隠れたことを悼む。家国を治めるに当たり、模範とするべき姿がなく、内治に欠けるところがあり、心を痛めている。追号し諡を定めるのは、先王の定めである。今、使持節兼太尉たいいの万勝を遣わし、冊書を奉じて皇后の璽綬を贈り、太牢をもって祀る。魂あらば、この寵栄を嘉せよ」と。そこで太廟に合祀し、建平陵に葬った。

原文帝為晉王,追尊為王后。有司奏王后應別立廟。令曰:「今宗廟未成,不宜更興作,便修飾陵上屋以為廟。」太興三年,冊曰:「皇帝咨前琅邪王妃虞氏:朕祗順昊天成命,用陟帝位。悼妃夙徂,徽音潛翳,御于家邦,靡所儀刑,陰教有虧,用傷于懷。追號制諡,先王之典。今遣使持節兼太尉萬勝奉冊贈皇后璽綬,祀以太牢。魂而有靈,嘉茲寵榮。」乃祔於太廟,葬建平陵。

太寧年間、明帝は母として養育された恩を追懐し、虞豫の妻王氏を䢵陽県君に、従母の散騎常侍新野王司馬罕の妻を平陽郷君に追贈した。

原文太寧中,明帝追懷母養之恩,贈豫妻王氏為䢵陽縣君,從母散騎常侍新野王罕妻為平陽鄉君。

荀豫章君

原文荀豫章君

豫章君荀氏は、元帝の宮人である。初め寵愛を受け、明帝と琅邪王司馬裒を生んだため、これが元で虞后に忌まれた。自ら位が卑しいことを思い、常に怨みを抱き、帝に譴責され、次第に疎遠になった。明帝が即位すると、建安君に封じられ、別に邸宅を建てた。太寧元年、帝は彼女を宮中に迎え戻し、供奉は手厚かった。成帝が立つと、太后と同等に尊重された。咸康元年に薨去した。詔みことのりに曰く、「朕は幼くして憂いに遭い、慈愛に満ちた教えを受けることができなかった。育ててくれた勤めは、建安君の仁によるものである。一朝に薨去し、その報いを思うに、平素を思い返せば、感痛哀悼に堪えない。豫章郡君を贈り、京都に別に廟を立てよ」と。

原文豫章君荀氏,元帝宮人也。初有寵,生明帝及琅邪王裒,由是為虞后所忌。自以位卑,每懷怨望,為帝所譴,漸見疏薄。及明帝即位,封建安君,別立第宅。太寧元年,帝迎還臺內,供奉隆厚。及成帝立,尊重同于太后。咸康元年薨。詔曰:「朕少遭憫凶,慈訓無稟,撫育之勤,建安君之仁也。一旦薨殂,實思報復,永惟平昔,感痛哀摧。其贈豫章郡君,別立廟于京都。」

明穆庾皇后

原文明穆庾皇后

明穆庾皇后は諱を文君といい、潁川鄢陵の人である。父は庾琛で、『外戚伝』に記載がある。后は性質仁慈で、姿容が美しかった。元帝がこれを聞き、太子妃として聘した。その德行によって重んじられた。

原文明穆庾皇后諱文君,潁川鄢陵人也。父琛,見《外戚傳》。后性仁慈,美姿儀。元帝聞之,聘為太子妃,以德行見重。

明帝が即位すると、皇后に立てられた。冊書に曰く、「妃庾氏は昔、明命を承け、東宮に嫁ぎ、恭しく家事を務め、礼法に従うことを思った。信義を守り順和を思い、これによって肅雝の道を成し、閨房の正位につき、協和の美を顕著にした。朕は早くから不幸に遭い、孤独で憂いにあった。公卿士は、往代の例を考察し、皆、嫡を崇めて統を明らかにすることは、典籍に載せられているとし、長秋宮を建てて宗廟を奉ずべきであるとした。そこで先志を追述し、旧命を廃さず、使持節兼太尉を遣わして皇后の璽綬を授ける。坤徳は柔を尚び、婦道は姑に従うものであり、祭祀の礼を重んじ、子孫繁栄の義を厚くする。これによって永遠の貞固に利があり、堂々たる基を継承し、天下の母儀となり、ひそかに内治をよくする。六列(后妃の戒め)を鑑とし、篇籍を考察すれば、禍福には門がなく、盛衰は人による。たとえ善くても慢ることなかれ。敬え、慎まざるべけんや」と。

原文明帝即位,立為皇后。冊曰:「妃庾氏昔承明命,作嬪東宮,虔恭中饋,思媚軌則。履信思順,以成肅雝之道;正位閨房,以著協德之美。朕夙罹不造,煢煢在疚。群公卿士,稽之往代,僉以崇嫡明統,載在典謨,宜建長秋,以奉宗廟。是以追述先志,不替舊命,使使持節兼太尉授皇后璽綬。夫坤德尚柔,婦道承姑,崇粢盛之禮,敦螽斯之義。是以利在永貞,克隆堂基,母儀天下,潛暢陰教。鑒于六列,考之篇籍,禍福無門,盛衰由人,雖休勿休。其敬之哉,可不慎歟!」

成帝が即位すると、后を皇太后と尊称した。群臣が上奏した。天子が幼少であるので、漢の和熹皇后の故事に依るべきであると。数回辞退したが、やむを得ず臨朝して万機を摂理した。后の兄である中書令の庾亮ゆりょうが詔命を管轄し、公卿の奏事は皇太后陛下と称した。咸和元年、有司が后の父と夫人の毌丘氏を追贈するよう請うたが、后は辞退して許さず、三度請われても従わなかった。

原文及成帝即位,尊后曰皇太后。群臣奏:天子幼沖,宜依漢和熹皇后故事。辭讓數四,不得已而臨朝攝萬機。后兄中書令亮管詔命,公卿奏事稱皇太后陛下。咸和元年,有司奏請追贈后父及夫人毌丘氏,后陳讓不許,三請不從。

蘇峻が叛逆を起こし、京都が陥落すると、后は脅迫と辱めを受け、ついに憂いのうちに崩御した。時に三十二歳であった。后が位についてから凡そ六年であった。その後、帝の孝思は極まりなく、庾琛に驃騎大將軍・儀同三司を、毌丘氏に安陵県君を、従母の荀氏に永寧県君を、何氏に建安県君を追贈した。庾亮は表を奉って先志を述べ、辞退して受けなかった。

原文及蘇峻作逆,京都傾覆,后見逼辱,遂以憂崩,時年三十二。后即位凡六年。其後帝孝思罔極,贈琛驃騎大將軍、儀同三司,毌丘氏安陵縣君,從母荀氏永寧縣君,何氏建安縣君。亮表陳先志,讓而不受。

成恭杜皇后

原文成恭杜皇后

成恭杜皇后は諱を陵陽といい、京兆の人で、鎮南將軍杜預とよの曾孫である。父は杜乂で、『外戚伝』に記載がある。成帝は后が代々の名徳の家柄であることから、咸康二年に礼を整えて皇后に立て、即日宮中に入った。帝は太極前殿に臨御し、群臣がことごとく祝賀し、昼の漏刻が尽き、鍵がかけられて、百官はようやく引き上げた。后は若い頃から容色があったが、成長しても歯が生えず、求婚者が来てもいつも断っていた。帝が納采の礼を行った日、一夜にして歯がすべて生えた。宣城の陵陽県を広陽県と改称した。七年三月、后は崩御し、二十一歳であった。外官は五日に一度、内官は毎朝一度参内し、葬儀が終わるとやめた。后在位は六年で、子はなかった。

原文成恭杜皇后諱陵陽,京兆人,鎮南將軍預之曾孫也。父乂,見《外戚傳》。成帝以后奕世名德,咸康二年備禮拜為皇后,即日入宮。帝御太極前殿,群臣畢賀,晝漏盡,懸籥,百官乃罷。后少有姿色,然長猶無齒,有來求婚者輒中止。及帝納采之日,一夜齒盡生。改宣城陵陽縣為廣陽縣。七年三月,后崩,年二十一。外官五日一臨,內官旦一入,葬訖止。后在位六年,無子。

以前から、三呉の地の女性たちが互いに白い花を髪に挿し、遠くから見ると白い沙果の花のようであり、天の織女が死んだという噂が流れ、それに服喪するためだと言われていたが、この時に至って太后が崩御した。皇帝は詔を下して言った。「吉凶の儀礼は、確かに整えるべきである。しかし、贅沢と倹約の度合いは、時勢に応じるべきであり、ましてや厚い土の下で、無用な装飾を尊ぶことがあろうか。今、陵墓のことは一切倹約に従い、陵の中は清潔に掃除するだけで、塗車や芻霊を置いてはならない。」役人が凶門柏歴を作り、挽郎を調達するよう上奏したが、すべて許されなかった。また、遠近からの使者派遣も禁じた。翌年の元会では、役人が音楽を廃止するよう上奏した。詔で管弦楽は廃止したが、金石の楽器の演奏は従来通りとした。

原文先是,三吳女子相與簪白花,望之如素柰,傳言天公織女死,為之著服,至是而后崩。帝下詔曰:「吉凶典儀,誠宜備設;然豐約之度,亦當隨時,況重壤之下,而崇飾無用邪!今山陵之事,一從節儉,陵中唯潔掃而已,不得施塗車芻靈。」有司奏造凶門柏歷及調挽郎,皆不許。又禁遠近遣使。明年元會,有司奏廢樂。詔廢管絃,奏金石如故。

孝武帝が即位し、寧康二年に、太后の母の裴氏を広徳県君とした。裴氏の名は穆、長水校尉の裴綽の孫、太傅主簿しゅぼの裴遐の娘、太尉王夷甫の外孫である。中表の美しさは当世で高く評価された。裴遐は東海王司馬越に従って害に遭い、子がなかった。ただ裴穆だけが江を渡り、栄誉と慶事を享受し、南掖門の外に邸宅を構え、世にいう杜姥の宅である。

原文孝武帝立,寧康二年,以后母裴氏為廣德縣君。裴氏名穆,長水校尉綽孫,太傅主簿遐女,太尉王夷甫外孫。中表之美,高於當世。遐隨東海王越遇害,無子。唯穆渡江,遂享榮慶,立第南掖門外,世所謂杜姥宅云。

周太妃

原文周太妃

章太妃周氏は選ばれて成帝の後宮に入り、寵愛を受け、哀帝と海西公を産んだ。初め貴人に任じられた。哀帝が即位すると、詔で役人に貴人の位号を議させた。太尉桓温かんおんは夫人と称すべきと議し、尚書しょうしょ僕射ぼくやの江虨は太夫人と称すべきと議した。詔で皇太妃に崇め、儀礼と服飾は太后と同じとした。また詔で「朝臣が太妃に敬礼しないのは、礼典に合うか」と問うた。太常の江逌は「位号が極まっていないので、尽く敬うべきではない」と議した。興寧元年に薨去した。帝は重服を着ようとしたが、江虨が啓上して緦麻三月とすべきと述べた。詔で期年に降格しようとしたが、江虨はまた啓上して「私情を抑えるのは、祖考を厳かにするためである」と言い、帝はこれに従った。

原文章太妃周氏以選入成帝宮,有寵,生哀帝及海西公。始拜為貴人。哀帝即位,詔有司議貴人位號,太尉桓溫議宜稱夫人,尚書僕射江虨議應曰太夫人。詔崇為皇太妃,儀服與太后同。又詔「朝臣不為太妃敬,合禮典不」。太常江逌議「位號不極,不應盡敬」。興寧元年薨。帝欲服重,江虨啟應緦麻三月。詔欲降為期年,虨又啟「厭屈私情,所以上嚴祖考」,帝從之。

康獻褚皇后

原文康獻褚皇后

康獻褚皇后は諱を蒜子といい、河南陽翟の人である。父の褚裒は『外戚伝』に見える。后は聡明で器量と識見があり、若くして名家の娘として琅邪王の妃に入った。康帝が即位すると、皇后に立てられ、母の謝氏を尋陽郷君に封じた。

原文康獻褚皇后諱蒜子,河南陽翟人也。父裒,見《外戚傳》。后聰明有器識,少以名家入為琅邪王妃。及康帝即位,立為皇后,封母謝氏為尋陽鄉君。

穆帝が即位すると、后を皇太后と尊んだ。当時、帝は幼少で、国政に親しく関わっていなかった。司徒しとを領する蔡謨らが上奏して言った。「嗣皇は生まれつき聡明で、天統を継承し、天下の人心を安んじ、万民は頼りにしている。陛下は坤道を体し、文母のように訓育を重んじられた。昔、塗山氏が夏を光栄させ、簡狄が殷を栄えさせたのは、まさに宣哲によって、大いなる福を隆盛させたからである。伏して考えるに、陛下の徳は二媯に等しく、淑やかさは関雎に美しく、朝政を摂行し、天下を安んじられた。今、社稷は危急にあり、万民の命が懸かっている。臣らは恐れ慌て、一日に万機を処理するが、事運の時期は天禄が注がれるところであり、もはや沖虚で高く譲る日ではない。漢の和熹・順烈両皇后もまた臨朝され、近くは明穆太后の故事があり、先例として定められている。臣らは悲しみと恐れに耐えかね、謹んで伏して上請する。陛下には上は祖宗に順い、下は臣吏を思い、公を推し弘道を広げ、天人と協和されんことを。そうすれば万邦が慶びを受け、民衆は更生するでしょう。」太后は詔して言った。「帝は幼少であり、群公卿士が順い匡救することを頼りとし、先帝が賢者を礼遇した意に報いるべきである。また、旧徳が代々受け継がれる美しさであれば、重んずべき天命は墜ちず、祖宗の基は奉られる。これが内で正位につこうとする所以である。上奏は懇切で、文面に表れているが、熟考せず、悲しみと恐れを抱いている。先の后は誠実で恭しく謙虚に、坤道に順うことを思い、群情に逆らわず、固より国を計られた。どうして沖闇を固執し、先の旨に背くことができようか。ただちに敬って上奏に従う。」こうして臨朝して制を称した。役人が上奏して、謝夫人が封じられたので、荀夫人と卞夫人も追贈すべきであると言った。二人は后の前母である。太后は許さなかった。太常の殷融は鄭玄の義に依拠して議し、衛将軍の褚裒が宮廷にいる時は臣下としての敬礼を尽くし、太后が里帰りする日は家人の礼のままであるとした。太后は詔して言った。「典礼は確かに詳らかでない。上奏の通りでは、心情として安らぐことができない。さらに詳しく議せよ。」征西将軍の桓翼と南中郎将の褚尚は議して「父の尊厳は一家の中で尽くされ、君主への敬いは天下において重んじられる。鄭玄の義は情と礼の中間に合致する」と言った。太后はこれに従った。以後、朝臣は皆褚裒を敬った。

原文及穆帝即位,尊后曰皇太后。時帝幼沖,未親國政。領司徒蔡謨等上奏曰:「嗣皇誕哲岐嶷,繼承天統,率土宅心,兆庶蒙賴。陛下體茲坤道,訓隆文母。昔塗山光夏,簡狄熙殷,實由宣哲,以隆休祚。伏惟陛下德侔二媯,淑美關雎,臨朝攝政,以寧天下。今社稷危急,兆庶懸命,臣等章惶,一日萬機,事運之期,天祿所鍾,非復沖虛高讓之日。漢和熹、順烈,並亦臨朝,近明穆故事,以為先制。臣等不勝悲怖,謹伏地上請。乞陛下上順祖宗,下念臣吏,推公弘道,以協天人,則萬邦承慶,群黎更生。」太后詔曰:「帝幼沖,當賴群公卿士將順匡救,以酬先帝禮賢之意,且是舊德世濟之美,則莫重之命不墜,祖宗之基有奉,是其所以欲正位于內而已。所奏懇到,形于翰墨,執省未究,以悲以懼。先后允恭謙抑,思順坤道,所以不距群情,固為國計。豈敢執守沖闇,以違先旨。輒敬從所奏。」於是臨朝稱制。有司奏,謝夫人既封,荀、卞二夫人亦應追贈,皆后之前母也。太后不許。太常殷融議依鄭玄義,衛將軍裒在宮庭則盡臣敬,太后歸寧之日自如家人之禮。太后詔曰:「典禮誠所未詳,如所奏,是情所不能安也,更詳之。」征西將軍翼、南中郎尚議謂「父尊盡於一家,君敬重於天下,鄭玄義合情禮之中」。太后從之。自後朝臣皆敬裒焉。

帝が元服すると、太后は詔して言った。「かつて不運に遭い、帝は幼少であり、皇統の微かさは、贅旒のようにかすかであった。百官卿士は前朝に従い、摂政を勧めた。社稷の重さと、先代の成義により、努力して敬って従い、固守する暇がなかった。上は七廟の霊に頼り、下は群后の力に杖り、帝は元服を加え、礼が成り徳が備わり、陽の当たる所で親しく政務を覧み、万国を治めるに至った。今、政事を返し政権を返還する。一切従来の典制に従う。」こうして崇徳宮に住み、群公に手詔して言った。「かつて皇帝が幼少であったため、群后の議に従い、暗弱であり、また頻繁に極めて艱難な事態に遭い、憂いを抱き年を重ね、深い憂いの中で苦しんできた。司徒は親しく尊く徳が重く、弊害を訓戒し救い、王室が壊れなかったのは、まさに公のおかげである。帝はすでにこの冠礼を備えているが、四海は未だ統一せず、五胡が叛逆し、豺狼が路に立ち、費用と労役が日増しに起こり、百姓は困苦している。願わくは諸君子が遠大な計略を考え、力を合わせ心を一つにして、幼主を輔翼し、及ばぬところを匡救されたい。未亡人は永遠に別宮に帰り、残りの生涯を終えたい。家と国を仰ぎ思うゆえ、一言を託して思いを述べる。」

原文帝既冠,太后詔曰:「昔遭不造,帝在幼沖,皇緒之微,眇若贅旒。百辟卿士率遵前朝,勸喻攝政。以社稷之重,先代成義,僶俛敬從,弗遑固守。仰憑七廟之靈,俯仗群后之力,帝加元服,禮成德備,當陽親覽,臨御萬國。今歸事反政,一依舊典。」于是居崇德宮,手詔群公曰:「昔以皇帝幼沖,從群后之議,既以闇弱,又頻丁極艱,銜恤歷祀,沈憂在疚。司徒親尊德重,訓救其弊,王室之不壞,實公是憑。帝既備茲冠禮,而四海未一,五胡叛逆,豺狼當路,費役日興,百姓困苦。願諸君子思量遠算,戮力一心,輔翼幼主,匡救不逮。未亡人永歸別宮,以終餘齒。仰惟家國,故以一言託懷。」

哀帝と海西公の時代になると、太后は再び臨朝して制を称した。桓温が海西公を廃した時、太后はちょうど仏屋で香を焚いており、内侍が啓上して「外に急な上奏があります」と言うと、太后は出てきた。尚、戸の前に寄りかかって上奏を数行読み、そして「私はもともとこれを疑っていた」と言い、半分までで止め、筆を求めて上奏に答えて「未亡人はこの百の憂いに遭い、存命と死去を思い、心は切り裂かれるようである」と書いた。桓温が初めて詔の草稿を呈した時、太后の意向が異なるのではないかと心配し、恐れ動いて汗を流し、顔色に表れた。詔が出ると、桓温は大いに喜んだ。

原文及哀帝、海西公之世,太后復臨朝稱制。桓溫之廢海西公也,太后方在佛屋燒香,內侍啟云「外有急奏」,太后乃出。尚倚戶前視奏數行,乃曰「我本自疑此」,至半便止,索筆答奏云:「未亡人罹此百憂,感念存沒,心焉如割。」溫始呈詔草,慮太后意異,悚動流汗,見于顏色。及詔出,溫大喜。

簡文帝が即位すると、后を崇徳太后と尊んだ。帝が崩御し、孝武帝が幼少で、桓温もまた薨去した。群臣が啓上して言った。「王室は多難で、禍難が相次ぎ、国の憂いが始まって一周し、また元輔を喪い、天下は茫然として、頼るものがないようである。主上は聖なる資質に恵まれ奇抜で茂っているが、天が生まれつき与えられたものである。しかし年齢はまだ若く、諒闇の中にいるようで、孝養の思いにふけり、諸事に及ぶ暇がない。伏して考えるに、陛下の徳は坤の厚さに応じ、慈しみを宣べ聖善であり、家に多難に遭い、臨朝して親しく政務を覧みになった。光大の美は、昔に化け合い、謳歌は流れ詠われ、外にまで広く溢れた。有莘氏が殷を栄えさせ、妊姒が周を隆盛させたとしても、比べるに足りない。それゆえ五つの謀議が従い、人と鬼が心を一つにし、来蘇を仰ぎ望み、日月のように心を懸けている。時に随う義は『周易』が尊ぶところであり、社稷を安んじ固めるのは大人の任である。伏して願わくは陛下が万機を撫で綜理し、政道を調和させ、祖宗を慰め、万民を安んじられんことを。国を憂う喁喁たる至誠に耐えません。」太后は詔して言った。「王室は不幸にも、なお艱難が続いている。啓事を覧み省み、悲しみと嘆きが増す。内外の諸君は皆、主上が年若く、孝養の慕情に加え、親しく政務を覧むことができず、号令は何らかの由来を持つべきだと考える。もし社稷を安んじ、天下を利するならば、どうして固執することがあろうか。ただちに敬って啓上に従う。しかし暗昧な欠点があるので、輔弼調和の道を尽くすことを望む。」こうして太后は再び臨朝した。帝が元服すると、詔して言った。「皇帝は婚礼と冠礼が整い、遠近の人心が安んじられている。陽の当たる所で親しく政務を覧み、光明を始めるべきである。今、政事を返還し、一切従来の典制に従う。」こうして再び崇徳太后と称した。

原文簡文帝即位,尊后為崇德太后。及帝崩,孝武帝幼沖,桓溫又薨。群臣啟曰:「王室多故,禍艱仍臻,國憂始周,復喪元輔,天下惘然,若無攸濟。主上雖聖資奇茂,固天誕縱。而春秋尚富,如在諒闇,蒸蒸之思,未遑庶事。伏惟陛下德應坤厚,宣慈聖善,遭家多艱,臨朝親覽。光大之美,化洽在昔,謳歌流詠,播溢無外。雖有莘熙殷,妊姒隆周,未足以喻。是以五謀克從,人鬼同心,仰望來蘇,懸心日月。夫隨時之義,周易所尚,寧固社稷,大人之任。伏願陛下撫綜萬機,釐和政道,以慰祖宗,以安兆庶。不勝憂國喁喁至誠。」太后詔曰:「王室不幸,仍有艱屯。覽省啟事,感增悲歎。內外諸君,並以主上春秋沖富,加蒸蒸之慕,未能親覽,號令宜有所由。苟可安社稷,利天下,亦豈有所執,輒敬從所啟。但闇昧之闕,望盡弼諧之道。」於是太后復臨朝。帝既冠,乃詔曰:「皇帝婚冠禮備,遐邇宅心,宜當陽親覽,緝熙惟始。今歸政事,率由舊典。」於是復稱崇德太后。

太元九年、顕陽殿において崩御した。六十一歳。在位は合わせて四十年であった。太后は帝にとって従兄の妻にあたり、朝廷の議論ではその喪服をどうするか疑義が生じた。太学博士の徐藻が議して言った。「父に仕え君に仕えることは敬う点で同じである。また礼に『その夫が父の道に属するならば、妻は皆母の道である』とある。ならば夫が君の道に属するなら、妻も后の道である。后に斉衰の服を着せるのは、母としての義である。魯が逆祀を非難したのは、尊卑を明らかにするためである。今、上(帝)はみずから康帝、穆帝、哀帝および靖后の祭祀を奉じており、天と同じ敬意を払っている。どうして君の道として敬いながら、本来の親族に対する服喪を廃することができようか。斉衰期(一年の喪)とすべきであると考える。」これに従った。

原文太元九年,崩于顯陽殿,年六十一,在位凡四十年。太后於帝為從嫂,朝議疑其服。太學博士徐藻議曰:「資父事君而敬同。又禮云『其夫屬父道者,妻皆母道也』,則夫屬君道,妻亦后道矣。服后以齊,母之義也。魯譏逆祀,以明尊卑。今上躬奉康、穆、哀皇及靖后之祀,致敬同于所天,豈可敬之以君道,而服廢於本親。謂應齊衰期。」從之。

穆章何皇后

原文穆章何皇后

穆章何皇后、諱は法倪。廬江郡灊県の人である。父は何準。『外戚伝』に記載がある。名家の出身として選ばれた。升平元年八月、璽書が下された。「皇帝、前太尉参軍何琦に諮る。混元が資始し、人倫が肇まり、夫婦に及び、天地宗廟社稷を奉ずる。公卿と謀り、皆が旧典に従うべきとす。今、使持節太常の彪之、宗正の綜を使者として、礼をもって納采を行う。」何琦は答えて言った。「前太尉参軍、都郷侯、糞土の臣何琦、頓首頓首再拝す。皇帝の嘉命、陋族に訪婚し、採択の数に備える。臣の従祖弟、故散騎侍郎何準の遺女は、教訓に慣れておらず、衣履も人並みである。旧章を欽承し、典制を粛奉する。」また、兼太保・武陵王の司馬晞き、兼太尉・中領軍の司馬洽を使者とし、節を持たせ冊を奉じて皇后に立てた。

原文穆章何皇后諱法倪,廬江灊人也。父準,見《外戚傳》。以名家膺選。升平元年八月,下璽書曰:「皇帝咨前太尉參軍何琦:混元資始,肇經人倫,爰及夫婦,以奉天地宗廟社稷。謀于公卿,咸以宜率由舊典。今使使持節太常彪之、宗正綜,以禮納采。」琦答曰:「前太尉參軍、都鄉侯糞土臣何琦稽首頓首再拜。皇帝嘉命,訪婚陋族,備數採擇。臣從祖弟故散騎侍郎準之遺女,未閑教訓,衣履若如人。欽承舊章,肅奉典制。」又使兼太保、武陵王晞,兼太尉、中領軍洽,持節奉冊立為皇后。

后には子がなかった。哀帝が即位すると、穆皇后と称し、永安宮に住んだ。桓玄が帝位を簒奪すると、后を司徒府に移した。道中、太廟の前を通るとき、后は輿を停めて慟哭し、その哀しみは路人をも感動させた。桓玄はこれを聞いて怒り、「天下の禅代は常の理である。何氏の女子がどうかかわるというのか!」と言い、后を零陵県君に降格させた。后は安帝とともに西へ行き、巴陵に至った。劉裕が義兵を起こすと、殷仲文が后を奉じて京都に還し、命令を下した。「軍の車がたびたび警報を発し、民衆は飢えに苦しんでいる。にもかかわらず、宮中の食事や御用は豊かで贅沢である。どうして百姓と倹約を共にできようか。供給を減損し、過分にならないようにせよ。」后はこの時、遠方から還ってきたので、陵廟を拝礼したいと願った。担当官は賊の難がまだ平定されていないとして、停止するよう上奏した。元興三年に崩御した。六十六歳。在位は合わせて四十八年であった。

原文后無子。哀帝即位,稱穆皇后,居永安宮。桓玄篡位,移后入司徒府。路經太廟,后停輿慟哭,哀感路人。玄聞而怒曰:「天下禪代常理,何預何氏女子事耶!」乃降后為零陵縣君。與安帝俱西,至巴陵。及劉裕建義,殷仲文奉后還京都,下令曰:「戎車屢警,黎元阻饑。而膳御豐靡,豈與百姓同其儉約。減損供給,勿令游過。」后時以遠還,欲奉拜陵廟。有司以寇難未平,奏停。元興三年崩,年六十六,在位凡四十八年。

哀靖王皇后

原文哀靖王皇后

哀靖王皇后、諱は穆之。太原郡晉陽県の人である。司徒左長史の王濛の娘である。后は初め琅邪王の妃であった。哀帝が即位すると、皇后に立てられ、母の爰氏は安国郷君を追贈された。后在位三年、子がなかった。興寧二年に崩御した。

原文哀靖王皇后諱穆之,太原晉陽人也。司徒左長史濛之女也。后初為琅邪王妃。哀帝即位,立為皇后,追贈母爰氏為安國鄉君。后在位三年,無子。興寧二年崩。

廃帝孝庾皇后

原文廢帝孝庾皇后

廃帝孝庾皇后、諱は道憐。潁川郡鄢陵県の人である。父は庾冰ゆひょう。別に伝がある。初め東海王の妃であった。帝が即位すると、皇后に立てられた。太和六年に崩御し、敬平陵に葬られた。帝が海西公に廃されると、后も追って海西公夫人と貶称された。太元十一年、海西公が呉で薨去すると、后も合わせて呉陵に合葬された。

原文廢帝孝庾皇后諱道憐,潁川鄢陵人也。父冰,自有傳。初為東海王妃。及帝即位,立為皇后。太和六年崩,葬于敬平陵。帝廢為海西公,追貶后曰海西公夫人。太元十一年,海西公薨于吳,又以后合葬于吳陵。

簡文宣鄭太后

原文簡文宣鄭太后

簡文宣鄭太后、諱は阿春。河南郡滎陽けいよう県の人である。代々冠族であった。祖父は鄭合、臨済県令。父は鄭愷、字あざなは祖元、安豊太守。

原文簡文宣鄭太后諱阿春,河南滎陽人也。世為冠族。祖合,臨濟令。父愷,字祖元,安豐太守。

后は幼くして孤となり、兄弟がなく、ただ姉妹四人だけで、后が最も年長であった。先に渤海の田氏に嫁ぎ、一男を生んで寡婦となり、母方の叔父の濮陽の呉氏を頼った。元帝が丞相であった時、敬后が先に崩御したため、呉氏の娘を夫人に迎えようとしていた。后と呉氏の娘がともに後園を遊んでいると、ある者がこれを見て、元帝に言った。「鄭氏の娘は未亡人ではあるが、呉氏の娘よりはるかに賢い。」建武元年、琅邪王の夫人として迎えられ、大変寵愛を受けた。后は貴幸であったが、常に憂いの色があった。帝がその理由を尋ねると、答えて言った。「妾には妹がおり、中の妹はすでに長沙王の王褒に嫁ぎましたが、残り二人の妹はまだ嫁ぐ先がありません。姉が人の妾となったので、もう求める者もいないのではないかと心配です。」帝はそこで劉隗に気軽に言った。「鄭氏の二人の妹のために、良い相手を求めてやってくれ。旧家に匹敵するように。」劉隗は自分の従子に第三の妹を娶らせ、末の妹を漢中の李氏に嫁がせ、いずれも旧家を得させた。帝は王褒を尚書郎に召し出し、后の気持ちを喜ばせた。后は琅邪悼王、簡文帝、尋陽公主を生んだ。帝が尊号を称すると、后は夫人のままであったが、詔で太子および東海王、武陵王が皆、母として仕えるように命じられた。帝が崩御すると、后は建平国夫人と称された。

原文后少孤,無兄弟,唯姊妹四人,后最長。先適渤海田氏,生一男而寡,依于舅濮陽吳氏。元帝為丞相,敬后先崩,將納吳氏女為夫人。后及吳氏女並游後園,或見之,言於帝曰:「鄭氏女雖嫠,賢於吳氏遠矣。」建武元年,納為琅邪王夫人,甚有寵。后雖貴幸,而恒有憂色。帝問其故,對曰:「妾有妹,中者已適長沙王褒,餘二妹未有所適,恐姊為人妾,無復求者。」帝因從容謂劉隗曰:「鄭氏二妹,卿可為求佳對,使不失舊。」隗舉其從子傭娶第三者,以小者適漢中李氏,皆得舊門。帝召王褒為尚書郎,以悅后意。后生琅邪悼王、簡文帝、尋陽公主。帝稱尊號,后雖為夫人,詔太子及東海、武陵王皆母事之。帝崩,后稱建平國夫人。

咸和元年に薨去した。簡文帝が当時琅邪王であったが、重い喪服を着た。担当官は、王が出継ぎしているのだから、実母に対する礼は降格すべきであり、国の臣下がこれを正さなかったとして、国相の諸葛頤の免職を上奏した。王は上疏して言った。「亡き母は生きて臣の国に臨み、亡くなって国第に留まりました。臣は出継ぎしていますが、厭うところはなく、私情を述べることができます。昔、敬后が崩御した時、孝王はすでに出継ぎしていましたが、やはり重い喪服に戻りました。これは明白な先例であり、臣が拠り所とするものです。」明穆皇后はその志を奪わず、琅邪王を会稽かいけい王に移封し、后を追号して会稽太妃とした。簡文帝が即位した時、追尊するには至らなかった。臨終に際し、皇子の司馬道子を琅邪王に封じ、会稽国を領させ、太妃の祭祀を奉じさせた。

原文咸和元年薨,簡文帝時為琅邪王,制服重。有司以王出繼,宜降所生,國臣不能匡正,奏免國相諸葛頤。王上疏曰:「亡母生臨臣國,沒留國第,臣雖出後,亦無所厭,則私情得敘。昔敬后崩,孝王已出繼,亦還服重。此則明比,臣所憲章也。」明穆皇后不奪其志,乃徙琅邪王為會稽王,追號后曰會稽太妃。及簡文帝即位,未及追尊。臨崩,封皇子道子為琅邪王,領會稽國,奉太妃祀。

太元十九年、孝武帝は詔を下して言った。「会稽太妃は文母の徳を持ち、徽音が融和し、聖明(簡文帝)を生み出し、その光栄は晋にまで及んだ。先帝は聖善を追尊しようとしたが、朝廷の議論は一致せず、疑義によって屈した。朕は先志を述べ遵い、常に心に戒めている。今、遺旨を仰ぎ奉り、陽秋と二漢の孝懐皇帝の故事に依り、太妃の尊号を簡文太后と上る。」そこで太廟の路西に廟を立て、陵を嘉平陵とした。当時、群臣は上意を伺い、多くが鄭太后は元帝に配食すべきであると言った。帝は太子前率の徐邈に問うた。徐邈は言った。「臣が陽秋の義を案ずるに、母は子によって貴くなる。魯の隠公は桓公の母を尊び、仲子の宮を別に立てて、恵公の廟に配食させなかった。また、平素の時、先帝と夫婦ではなかったのであれば、子孫に至って、どうして祖考のために配を立てることができようか。その崇尊と礼を尽くすことは、臣子によるものであるから、太后と称することができ、陵廟の典も備わるのである。もし合葬配食となれば、義として許されない。」これに従った。

原文太元十九年,孝武帝下詔曰:「會稽太妃文母之德,徽音有融,誕載聖明,光延于晉。先帝追尊聖善,朝議不一,道以疑屈。朕述遵先志,常惕于心。今仰奉遺旨,依陽秋二漢孝懷皇帝故事,上太妃尊號曰簡文太后。」于是立廟于太廟路西,陵曰嘉平。時群臣希旨,多謂鄭太后應配食于元帝者。帝以問太子前率徐邈,邈曰:「臣案陽秋之義,母以子貴。魯隱尊桓母,別考仲子之宮而不配食于惠廟。又平素之時,不伉儷于先帝,至于子孫,豈可為祖考立配?其崇尊盡禮,由於臣子,故得稱太后,陵廟備典。若乃祔葬配食,則義所不可。」從之。

簡文順王皇后

原文簡文順王皇后

簡文順王皇后、諱は簡姫。太原郡晉陽県の人である。父は王遐。『外戚伝』に記載がある。后は冠族の出身で、初め会稽王の妃となり、子の道生を生み、世子とした。永和四年、母子ともに帝の意にそむき、ともに幽閉・廃され、后は憂いのうちに薨去した。咸安二年、孝武帝が即位すると、順皇后と追尊し、高平陵に合葬した。后の父の王遐に特進・光禄大夫を追贈し、散騎常侍を加えた。

原文簡文順王皇后諱簡姬,太原晉陽人也。父遐,見《外戚傳》。后以冠族,初為會稽王妃,生子道生,為世子。永和四年,母子並失帝意,俱被幽廢,后遂以憂薨。咸安二年,孝武帝即位,追尊曰順皇后,合葬高平陵,追贈后父遐特進、光祿大夫,加散騎常侍。

孝武文李太后

原文孝武文李太后

孝武文李太后の諱は陵容といい、もともと微賤の出自であった。はじめ簡文帝が会稽王であった時、三人の子がいたが、いずれも夭折した。道生が廃嫡され、献王が早世してからは、その後、諸姫が懐妊することなく十年近くが経過していた。帝は卜者の扈謙に占わせたところ、「後宮の中に一人の女がおり、二人の貴い男子を生むでしょう。そのうちの一人はついに晉室を盛んにするでしょう」と言った。当時、徐貴人は新安公主を生み、その徳と美しさによって寵愛を受けていた。帝は常に彼女が懐妊することを期待していたが、一年経っても子がなかった。ちょうど道士の許邁という者がおり、朝臣で時望のある者たちは多くが彼が道を得たと称していた。帝がさりげなく尋ねると、答えて言った。「許邁は山水を愛する者であり、もともと道術はありません。このような事をどうして判断できましょうか。ただ殿下は徳が厚く慶事が深いので、代々続くご子孫を隆盛にされるべきです。扈謙の言葉に従い、広く受け入れる道を保たれるのがよいでしょう。」帝はこれを認め、さらに採用した。また数年経っても子がなかったため、よく相を見る者を召して愛妾たちを見せたが、皆がその人ではないと言い、さらに諸々の婢や媵妾をすべて見せた。当時、后は宮人として織坊におり、背が高く色が黒かったので、宮人たちは皆、彼女を崑崙と呼んでいた。彼女が来ると、相見る者は驚いて言った。「この人です。」帝は大事を考え、彼女を召して侍寝させた。后はしばしば二匹の龍が膝を枕にし、太陽と月が懐に入る夢を見た。これを吉祥の兆しと思い、同輩たちに話した。帝はこれを聞いて異とし、ついに孝武帝および会稽文孝王、鄱陽長公主を生んだ。

原文孝武文李太后諱陵容,本出微賤。始簡文帝為會稽王,有三子,俱夭。自道生廢黜,獻王早世,其後諸姬絕孕將十年。帝令卜者扈謙筮之,曰:「後房中有一女,當育二貴男,其一終盛晉室。」時徐貴人生新安公主,以德美見寵。帝常冀之有娠,而彌年無子。會有道士許邁者,朝臣時望多稱其得道。帝從容問焉,答曰:「邁是好山水人,本無道術,斯事豈所能判!但殿下德厚慶深,宜隆奕世之緒,當從扈謙之言,以存廣接之道。」帝然之,更加採納。又數年無子,乃令善相者召諸愛妾而示之,皆云非其人,又悉以諸婢媵示焉。時后為宮人,在織坊中,形長而色黑,宮人皆謂之崑崙。既至,相者驚云:「此其人也。」帝以大計,召之侍寢。后數夢兩龍枕膝,日月入懷,意以為吉祥,向儕類說之,帝聞而異焉,遂生孝武帝及會稽文孝王、鄱陽長公主。

孝武帝が即位した初め、淑妃として尊ばれた。太元三年、貴人に進んだ。九年、また夫人に進んだ。十二年、皇太妃に加えられ、儀礼や服飾はすべて太后と同じであった。十九年、会稽王道子が上奏した。「母は子によって貴くなり、慶事は厚く礼は尊ばれます。伏して思うに、皇太妃は純粋な徳が光大で、吉福が集まり、聖明なる天子に嘉き御代を開き、上列に美しい音信を嗣いでおられます。幽顕ともに謀るところではありますが、称謂がまだ尽くされておらず、聖心を仰ぎ述べ、天人に允かに答えるものではありません。正しい名号を尊び、旧典を詳しく調べるべきです。」八月辛巳、帝は軒に臨み、兼太保の劉耽を遣わして皇太后として尊び、崇訓宮と称した。安帝が即位すると、太皇太后として尊ばれた。

原文及孝武帝初即位,尊為淑妃。太元三年,進為貴人。九年,又進為夫人。十二年,加為皇太妃,儀服一同太后。十九年,會稽王道子啟:「母以子貴,慶厚禮崇。伏惟皇太妃純德光大,休祐攸鍾,啟嘉祚於聖明,嗣徽音于上列。雖幽顯同謀,而稱謂未盡,非所以仰述聖心,允答天人。宜崇正名號,詳案舊典。」八月辛巳,帝臨軒,遣兼太保劉耽尊為皇太后,稱崇訓宮。安帝即位,尊為太皇太后。

隆安四年、含章殿で崩御した。朝議はその服制について疑義を抱き、左僕射の何澄、右僕射の王雅、尚書の車胤、孔安国、祠部郎の徐廣らが議して言った。「太皇太后の名位は允正であり、皇極と同じ体制で、理と制は備わり尽くし、情と礼がともに示されています。春秋の義によれば、母は子によって貴くなるのであり、すでに夫人と称している以上、礼服は正礼に従うべきです。故に成風は夫人の号を顕わにし、文公は三年の喪に服しました。子にとって父母の生んだ者に対するのは、体は尊く義は重い。また礼では祖は孫を厭わないので、固より追服して屈することなく、情に縁って制を立てるべきです。もし明文が存在しないことを嫌うならば、疑わしい場合は重きに従うべきであり、祖母の後として斉衰三年に同じくすべきであると言えます。」これに従った。皇后および百官は皆、斉衰の期服に服し、永安皇后は一度哀悼の礼を行った。ここにおいて西堂に廬を設け、凶儀を神獣門に施し、修平陵に葬り、神主は宣太后廟に合祀された。

原文隆安四年,崩于含章殿。朝議疑其服制,左僕射何澄、右僕射王雅、尚書車胤、孔安國、祠部郎徐廣等議曰:「太皇太后名位允正,體同皇極,理制備盡,情禮兼申。陽秋之義,母以子貴,既稱夫人,禮服從正。故成風顯夫人之號,文公服三年之喪。子于父母之所生,體尊義重。且禮祖不厭孫,固宜追服無屈,而緣情立制。若嫌明文不存,則疑斯從重,謂應同于為祖母後齊衰三年。」從之。皇后及百官皆服齊衰期,永安皇后一舉哀。於是設廬於西堂,凶儀施于神獸門,葬修平陵,神主祔于宣太后廟。

孝武定王皇后

原文孝武定王皇后

孝武定王皇后の諱は法慧といい、哀靖皇后の姪である。父は蘊であり、『外戚伝』に見える。

原文孝武定王皇后諱法慧,哀靖皇后之姪也。父蘊,見《外戚傳》。

初め、帝が后を納れようとした時、公卿に諮問した。当時、蘊の子の恭が弱冠で僕射の謝安しゃあんに会い、謝安は深く敬重した。その後、人に言った。「昔、毛嘉は魏朝で恥をかき、楊駿は晉室を傾けかけた。もし帝が后を納れるなら、父を持つ者では、声望が王蘊のようでなければならない。」その後、蘊の娘を訪ねると、容姿と徳行が淑やかで良く、そこで推挙して応選させた。寧康三年、中軍将軍の桓沖らが上奏した。「臣は聞く、天地の道は、相い須って化を成し、帝后の徳は、必ず相い協って政を隆盛にすると。その後、万物が形を流し、常道が整い、霊根が長く固まり、本枝が百世続きます。天人ともに至るのは、みなこれによらないことはありません。このため塗山の女が配偶となり、夏の族はこれによって栄え、任姒が周に配し、姬の国運はこれによって昌えました。今、長秋宮を建てようとしており、時に簡択すべきです。伏して聞く、試守の晉陵太守王蘊の娘は、天性柔順で、四業(婦徳・婦言・婦容・婦功)が允かに備わっています。かつ盛徳の子孫であり、美善が先に積まれています。臣らが参議するに、乾元の徳に配し、恭しく宗廟を承け、六宮に徽音を響かせ、天下の母儀となることができます。」ここにおいて帝は初めて彼女を納れた。蘊の妻の劉氏を楽平郷君に封じた。

原文初,帝將納后,訪于公卿。于時蘊子恭以弱冠見僕射謝安,安深敬重之。既而謂人曰:「昔毛嘉恥于魏朝,楊駿幾傾晉室。若帝納后,有父者,唯廕望如王蘊乃可。」既而訪蘊女,容德淑令,乃舉以應選。寧康三年,中軍將軍桓沖等奏曰:「臣聞天地之道,蓋相須而化成;帝后之德,必相協而政隆。然後品物流形,彝倫攸敘,靈根長固,本枝百世。天人同致,莫不由此。是以塗山作儷,而夏族以熙;妊姒配周,而姬祚以昌。今長秋將建,宜時簡擇。伏聞試守晉陵太守王蘊女,天性柔順,四業允備。且盛德之冑,美善先積。臣等參議,可以配德乾元,恭承宗廟,徽音六宮,母儀天下。」於是帝始納焉。封蘊妻劉氏為樂平鄉君。

后は酒を嗜み驕慢で嫉妬深い性質であり、帝は深く憂えた。そこで蘊を東堂に召し、后の過ちの様子を詳しく説明し、訓戒を加えるよう命じた。蘊は冠を脱いで謝罪した。后はこれにより少し自ら改めて飾った。太元五年に崩じ、二十一歳、隆平陵に葬られた。

原文后性嗜酒驕妒,帝深患之。乃召蘊於東堂,具說后過狀,令加訓誡。蘊免冠謝焉。后於是少自改飾。太元五年崩,年二十一,葬隆平陵。

安德陳太后

原文安德陳太后

安德陳太后の諱は帰女といい、松滋潯陽の人である。父の広は、倡優として進み、平昌太守まで仕えた。后は美色で歌や琴ができ、宮中に入って淑媛となり、安帝、恭帝の二帝を生んだ。太元十五年に薨じ、夫人を追贈された。皇太后と追尊し、神主は宣太后廟に合祀され、陵を熙平陵といった。

原文安德陳太后諱歸女,松滋潯陽人也。父廣,以倡進,仕至平昌太守。后以美色能歌彈,入宮為淑媛,生安、恭二帝。太元十五年薨,贈夫人。追崇曰皇太后,神主祔于宣太后廟,陵曰熙平。

安僖王皇后

原文安僖王皇后

安僖王皇后の諱は神愛といい、琅邪臨沂の人である。父は献之であり、別伝に見える。母は新安愍公主である。后は太元二十一年に太子妃として納れられた。安帝が即位すると、皇后に立てられた。子はなかった。義熙八年、徽音殿で崩じ、時に二十九歳、休平陵に葬られた。

原文安僖王皇后諱神愛,琅邪臨沂人也。父獻之,見別傳;母新安愍公主。后以太元二十一年納為太子妃。及安帝即位,立為皇后。無子。義熙八年崩于徽音殿,時年二十九,葬休平陵。

恭思褚皇后

原文恭思褚皇后

恭思褚皇后の諱は霊媛といい、河南陽翟の人で、義興太守の爽の娘である。后は初め琅邪王妃であった。元熙元年、皇后に立てられ、海塩公主、富陽公主を生んだ。帝が宋に禅位すると、零陵王妃に降格された。宋の元嘉十三年に崩じ、時に五十三歳、沖平陵に合葬された。

原文恭思褚皇后諱靈媛,河南陽翟人,義興太守爽之女也。后初為琅邪王妃。元熙元年,立為皇后,生海鹽、富陽公主。及帝禪位于宋,降為零陵王妃。宋元嘉十三年崩,時年五十三,祔葬沖平陵。

史評

原文史評

史臣が言う。大地は安らかに体を保ち、天と対をなしてその徳に合致する。太陽は軌道を巡り、羲和の光に配して明るさを同じくする。それゆえ、陽が照り陰が凝ることで、万物はその陶冶を受けること、火が燃え水が潤すことで、六気はそれによって調理されることを知る。これを賢淑な女性に譬え、文思皇后として配偶とし、霊根を固くし、実にこれによって資するのである。宣穆皇后は礼を学び、潜龍のごとき帝の徳に偶し、天の造りし艱難を助け、塗山の遺響を継ぎ、宝運はその子孫に帰した。母儀の助けがあったからであろう。武元皇后楊氏は朝政に預かり聞いたが、明察は遠くに及ばず、私情に溺れて愛し、衛瓘の言葉を深く拒み、張泓の詐りを悟らず、その陰気を運び、乾明を覆い隠し、晋の道は中ほどで衰微し、その基はここに始まった。恵帝は資質を受け継いだが、賈后がその愚かさを放任し、識見は蛙の鳴き声にも暗く、知恵は文蛤にも昏かった。南風(賈后)は狡さをほしいままにし、禍を煽って天に及んだ。初めて椒宮に践み、長楽宮で梟の心を逞しくし、梓樹を眺めようとする時に、離明殿で鴆の羽を頒った。褒姒が周を滅ぼしたのも、これに比べれば小さく、妹喜が夏を傾けたのも、どうして比べられようか。中原が鳴鏑に陥ったその兆しは、ここに明らかであった。昔、高宗は諒闇にあり、百官を元老に総べさせ、成王は幼少で、万機を上公に託した。太后が宸極に臨むのは、古に非ざるを知る。しかし明穆太后、康献太后は、代を重ねて朝に臨み、時に幼帝を委ね、自ら負扆に立った。それぞれ華陽の禍を免れ、ついに和熹太后の跡を踏み、陵遅を保って終わりを全うした。幸いであったことは実に多い。

原文史臣曰:方祇體安,儷乾儀而合德;圓舒循晷,配羲曜以齊明。故知陽爍陰凝,萬物假其陶鑄;火炎水潤,六氣由其調理。取譬賢淑,作伉文思,靈根式固,實資於此。宣穆閱禮,偶德潛鱗,翊天造之艱虞,嗣塗山之逸響,寶運歸其後胤,蓋有母儀之助焉。武元楊氏預聞朝政,明不逮遠,愛溺私情,深杜衛瓘之言,不曉張泓之詐,運其陰沴,韜映乾明,晉道中微,基于是矣。惠皇稟質,王縱其嚚,識暗鳴蛙,智昏文蛤。南風肆狡,扇禍稽天。初踐椒宮,逞梟心于長樂;方觀梓樹,頒鴆羽於離明。褒后滅周,方之蓋小;妹妃傾夏,曾何足喻。中原陷於鳴鏑,其兆彰於此焉。昔者高宗諒闇,總百官於元老;成王沖眇,託萬機於上公。太后御宸,諒知非古。而明穆、康獻,仍世臨朝,時屬委裘,躬行負扆。各免華陽之釁,竟躡和熹之蹤,保陵遲以克終,所幸實為多矣。