しん

卷十九 志第九 禮上

人は天地陰陽の霊気を含み、哀楽喜怒の情を持つ。そこで聖人が規範を示し、民の基準とし、その驕りと放縦を節制して暴乱を防ぎ、天地を崇高にし、鬼神を虔敬にし、尊卑の序列を定め、夫婦の義を成し、それから後に国と家を治めることができるのである。《伝》に言う、「一日でも己に克ち礼に復れば、天下仁に帰す」と。もし太一が初めて分かれ、燧人が火を鑽り出す時、志は恭倹に通じ、情は玉帛によるものではなく、春の澗の右で玄流を酌み、秋の林の外で封豕を焚くようなものであれば、これも欠くことはできない。軒頊は神に依り、唐虞は古を稽え、隆盛な周に至って、その文は大いに備わった。あるいは百官の範を垂れ、不刊の法を置き、あるいは礼経三百、威儀三千、いずれも天意を弘宣し、人理を彫刻するためのものであった。末世は薄く偽り、王の風は衰え、国を光らせる事柄は乖離し、礼もまた家に過ちを犯した。趙簡子が太叔に揖譲周旋の礼を問うたところ、答えて言うには、「いわゆる儀であって礼ではない」と。天経地義の道は、ここから特に欠けるようになった。哀公十一年、孔子が衛から魯に戻り、三代の典籍を跡付け、百王の訓戒を垂れたが、時に明君がなく、道は塞がれて行われなかった。

もし情が分流を尚び、堤防の仁を棄てるならば、薄く偽りの異なる術が行われ、洙泗の風はこれで滅びる。それゆえ漢の文帝は再期の喪を廃止し、中興の世は一郊の祭りとし、時勢に応じる意義は、その通りではないか。そして西京の元鼎の時、中興の永平の日、璧を流して冠帯を延べ、儒門を開いて諸生を導き、両京の盛況は、ここにおいて美しかった。山の魚が俎に登り、沢の豕が経に乖離するに及んで、礼楽は常に廃れ、浮華が互いに尊ばれ、郊禋の制度は、綱紀がかろうじて存続した。魏氏が天下を治め、憲章はこれが美しかった。王粛、高堂隆の徒は、前代の記録に博通し、三千条の礼、十七篇の学問を、それぞれ旧文によって当世に増減したが、いわゆる君を堯舜の道に致すものではなかった。世は雕牆に属し、時に秕政に逢い、周に因った典礼は、多く俗に違反し、遺編残冊は、なお見るべきものがある。景初元年、 洛陽 の南の委粟山を営んで円丘とし、祀る日に始祖の帝舜を配し、房俎に生魚を盛り、陶樽に玄酒を入れ、もし縉紳がその綱紀とならなければ、誰がこれを興すことができようか。

宣帝・景帝は軍旅にあり、この制度に遑がなかった。太康に呉を平定し、九州が一つとなり、礼経はことごとく至り、楽器は同じく帰した。そこで斉魯の諸生は、それぞれ緗素を携えた。武皇帝もまた初めて寇乱を平定し、儀範を先にしようと意図した。その吉礼は、三茅を剪らず、日観で瑄を停め、その凶礼は、深衣布冠とし、席を降り膳を撤けた。一謙三益の意義を明らかにし、教化が行われた。元皇の中興は、事柄多く権道であり、遺文旧典は、断えずとも髪のようであった。それゆえ常侍の戴邈が闕に詣でて上疏して言うには、「今、天地が更始し、万物が権輿し、近世の流弊を蕩し、千年の英範を創る。それゆえ双剣の節は崇められ、飛白の俗は成り、琴を挟む容飾は飾られ、曲に赴く和は作られる」と。その礼文を興起させた所以は、帝みずから率先するよう勧めたのである。穆帝・哀帝の後、王道は次第に廃れ、 桓温 が揆に居り、政は己から出て、有司はあるいはこの文を曜し、執事に輝きを増し、主威は長く謝し、臣道が専ら行われた。《記》に言う、「もしその位がなければ、礼楽を作ることはできない」と、まさにこれを言うのではないか。

しん の初めには荀顗・鄭沖が国典を裁成し、江左には荀崧・刁協が朝儀を損益した。《周官》の五礼は、吉凶軍賓嘉であり、吉礼の大なるものは、祭祀に過ぎるものはない。それゆえ《洪範》八政の三日は祀である。祀とは、孝を昭かにして祖に事え、神明に通じるためのものである。漢が興り、秦が学を滅ぼした後を承け、制度多く古に復することができなかった。東西両京四百余年を経て、しばしば改変された。魏氏は漢末の大乱を承け、旧章は滅び、侍中王粛・ 尚書 衛顗に命じて朝儀を草創させた。 しん 国が建てられると、文帝はまた荀顗に命じて魏代の前事に因り、新礼を撰ばせ、今古を参考し、その節文を改め、 羊祜 ・任愷・庾峻・応貞が共に刊定し、百六十五篇を成し、奏上した。太康の初め、尚書 僕射 ぼくや 朱整が奏上して尚書郎摯虞に討論させた。虞は表を奉って損増すべきことを述べた。

臣は故 太尉 たいい 顗の撰した《五礼》を典校する。臣は思うに、革命して統を垂れることは帝王の美事であり、礼を隆くして教えを率いることは邦国の大務である。それゆえ臣は前に表を奉り礼事が稽留していることを述べ、速やかに施行を終えることを求めた。また《喪服》は最も疑闕が多いので、補定されるべきであると考えた。また今の礼は篇巻が煩重なので、類に随って通合すべきである。事が久しく出されず、黙殺されることを恐れる。

冠婚祭会の諸吉礼は、その制度は少し変わるが、《喪服》は世の要として用いられ、特に旨を失いやすい。それゆえ子張は高宗の諒陰三年を疑い、子思はその子が出母に服することを聴かず、子游は異父昆弟を大功と謂い、子夏はこれを斉衰と謂い、孔子が没すると門人は服すべきことに疑った。これらは皆、明達で礼に習熟し、上は周典を読み、下は仲尼に師事し、聖訓に漸漬し、講肄積年し、喪事に遇っても尚おこのようである。喪礼が惑いやすいことを明らかにし、詳しくせざるを得ない。況やこれ以来、篇章は焚散し、聖人から遠ざかり、喪制が詭謬するのは、固より宜しい。それゆえ《喪服》一卷は、卷は握に満たないが、争説が紛然とする。三年の喪は、鄭は二十七月と言い、王は二十五月と言う。改葬の服は、鄭は緦を服して三月と言い、王は葬を終えて除くと言う。継母の出嫁は、鄭は皆服すると言い、王は継寄に従って育って初めてこれに服すると言う。無服の殤は、鄭は子が生まれて一月に一日これを哭すると言い、王は哭する日をもって服する月に易えると言う。このようなことが甚だ多い。《喪服》の本文は省略されており、必ず注解を待って事義が明らかになる。その伝説はやや詳しく、世に子夏の作と称する。鄭と王は《経》を祖とし《伝》を宗とするが、それぞれ異同があり、天下並びに疑い、定めるところを知らず、顗はただ古《経》の文を書いただけで、子夏の《伝》及び先儒の注説を全て除き、その事を行うことができない。その行事に及んでは、故に異説に還って頒ち、あれこれとし、定制とする所以ではない。臣は思うに、今は《礼記》を参采し、《伝》説を略取し、その未備を補い、その殊義を一つにすべきである。王景侯の撰した《喪服変除》に依準し、類統を明正にし、疑争を断ち、然る後に制に二門なく、皆その由る所を同じくすることができる。

またこの礼は天下に班すべきであり、繁多であるべきではない。顗は百六十五篇とし、篇を一卷とし、合わせて十五万余言であるが、臣はなお卷多く文煩わしく、類みな重出していると考える。案ずるに《尚書・堯典》の山川を祀る礼は、ただ東嶽においてのみ牲幣の数を備え称え、用いる儀を陳べ、その余はただ「初めの如し」と言う。《周礼》は天地五帝を祀り先王を享ける事柄で同じものは皆「亦た之の如し」と言い、文は約で義は挙がる。今の礼儀は事柄が同じで名が異なるものは、すぐに別の篇とし、卷煩わしくて典拠とならない。皆、文を省き事を通じ、類に随って合わせ、事柄に異なるものがある場合にのみ、その異を列べるべきである。このようにすれば、減ずる所は三分の一である。

虞が新しい礼制について議論を終え、元康元年に上奏した。陳べた内容は明堂における五帝、二社六宗および吉凶に関する王公の制度についてであり、合わせて十五篇であった。 詔 勅によりその議論は認可された。後に虞は傅咸とともにこの事業を引き継いだが、結局完成しなかった。中原が陥落した後、虞の『決疑注』はその遺された事業である。江左に至り、 僕射 ぼくや の刁協、太常の荀崧が旧来の文章を補い整え、光禄大夫の蔡謨がさらにその事業を引き継いで修めたという。

魏の明帝太和元年正月丁未、武帝を郊祀して天に配し、文帝を明堂で宗祀して上帝に配した。この時、二漢の郊祀の制度はすべて残っており、魏が加減した部分は知ることができる。四年八月、天子が東巡し、繁昌を通り過ぎた際、執金吾の臧霸に 太尉 たいい の職務を行わせ、特牛を用いて受禅壇を祀った。景初元年十月乙卯、初めて洛陽の南の委粟山に営造して圜丘とした。 詔 して言うには、「昔、漢の初め、秦が学問を滅ぼした後を受けて、残り欠けたものを採り集め、郊祀を整えた。甘泉・后土、雍宮・五畤より、神祇の位は百を数えるが、多くは経典に見えず、また興廃が常ならず、あちらこちらと、四百余年の間、禘礼は廃され、古代に改めて立てられたものは、ついに欠けるところとなった。曹氏の世系は、有虞氏から出ている。今、圜丘を祀り始祖の帝舜を配し、圜丘を号して皇皇帝天という。方丘で祭るものを皇皇后地といい、舜の妃の伊氏を配する。天郊で祭るものを皇天の神といい、太祖武皇帝を配する。地郊で祭るものを皇地の祇といい、武宣皇后を配する。皇考高祖文皇帝を明堂で宗祀し、上帝に配する。」十二月壬子冬至、初めて圜丘で皇皇帝天を祀り、始祖の有虞帝舜を配した。正始以後より、魏の世が終わるまで再び郊祀を行わなかった。

魏の元帝咸熙二年十二月甲子、使持節侍中太保の鄭沖、兼 太尉 たいい 司隸 校尉 こうい の李憙に皇帝の 璽綬 じじゅ と策書を持たせ、位を晋に 禅譲 させた。丙寅、武皇帝が南郊に壇場を設け、柴を焚いて類を告げて上帝に報告した。この時はまだ祖を配していなかった。泰始二年正月、 詔 して言うには、「有司が先に奏上した郊祀は暫定的に魏の礼を用いるとしたが、朕は改作の難しさを考慮せず、今すぐ永制とせよと命じたところ、衆議が紛糾し、ついに時を定めず、時に応じて神祇を供饗し、祖考を配することができなかった。日夜心を砕き、食事を減らしても安らかでない。早く郊祀を行え。」この時、群臣がまた議論し、五帝はすなわち天であり、王気が時に異なるのでその号を異にし、名は五つあっても、実は一神であるとし、明堂と南郊では五帝の座を除き、五郊では五精の号を改め、皆同じく昊天上帝と称し、それぞれ一つの座を設けるだけでよいとした。地郊ではまた先後の配祀を除いた。帝はすべてこれに従った。二月丁丑、宣皇帝を郊礼で天に配し、文皇帝を明堂で宗祀して上帝に配した。この年の十一月、有司がまた議して奏上した。古くは丘と郊は異ならず、円丘と方丘を南北の郊に併せ、さらに壇兆を修め立て、二至の祀りを二郊に合わせるべきであると。帝はまたこれに従い、すべて宣帝が用いた王肅の議の通りとした。この月庚寅冬至、帝は自ら南郊で円丘を祀った。この後より、円丘と方沢は別に立てられなかった。

太康三年正月、帝が自ら郊祀し、皇太子、皇子は皆侍祠した。十年十月、また 詔 して言うには、「『孝経』には郊祀で后稷を配して天とし、明堂で文王を宗祀して上帝に配するとある。しかし『周官』には天を祀り上帝に旅するとあり、また地を祀り四望に旅するとある。望は地ではないならば、明堂の上帝は天とはならない。以前、衆議で明堂の五帝の位を除いたが、礼の文を考証すると正しくない。また『詩序』に文武の功業は后稷に始まるとあるので、推して天に配するのである。宣帝は神武をもって創業し、既に天に配しているのに、さらに先帝を天に配するのは、義においても不安である。明堂および南郊の五帝の位を復せよ。」愍帝が 長安 に都したが、郊廟を立てるに及ばずに敗れた。

元帝が江を渡り、太興二年に初めて郊祀の儀礼を立てることを議論した。 尚書令 しょうしょれい の刁協、国子祭酒の杜夷は、都を洛邑に還してから修めるべきであると議した。 司徒 しと の荀組は、漢の献帝が許に都した時すぐに郊祀を立てた故事に拠り、ここで修め奉るのが当然であるとした。驃騎将軍の 王導 、 僕射 ぼくや の荀崧、太常の華恆、中書侍郎の 庾亮 は皆、荀組の議に同調し、事は遂に行われ、巳の地に南郊を立てた。その制度はすべて太常の賀循が定めたもので、多くは漢および晋初の儀礼に依った。三月辛卯、帝が自ら郊祀し、饗配の礼はすべて武帝が初めて郊祀した時の故事に依った。この時はまだ北壇を立てておらず、地祇の衆神は皆、天郊にあった。

明帝太寧三年七月、初めて 詔 して北郊を立てることを命じたが、建てるに及ばずに帝が崩御した。成帝咸和八年正月になって、前の旨を追って述べ、覆舟山の南にこれを立てた。天郊には五帝の佐、日月、五星、二十八宿、文昌、北斗、三台、司命、軒轅、后土、太一、天一、太微、句陳、北極、雨師、雷電、 司空 しくう 、風伯、老人、合わせて六十二神を祀った。地郊には五嶽、四望、四海、四瀆、五湖、五帝の佐、沂山、嶽山、白山、霍山、医無閭山、蔣山、松江、 会稽 山、銭唐江、先農、合わせて四十四神を祀った。江南の諸小山は、江左で立てられたもので、ちょうど漢の西京で関中の小水に皆、祭秩があったのと同じである。この月辛未、北郊を祀り、初めて宣穆張皇后を配した。これは魏氏の故事であり、晋の旧制ではない。

康帝建元元年正月、北郊を行おうとしたが、疑義が生じた。太常の顧和が上表して言うには、「泰始の中頃、二至の礼を二郊に合わせた。北郊の月は、古い明文がなく、夏至を用いるものもあり、陽月と同じく用いるものもある。漢の光武帝が正月辛未に初めて北郊を立てた。これは南郊と同じ月である。中興して草創の際、百事簡略に従い、七郊を一丘に合わせたが、憲章は整っておらず、暫定的にこの礼を用いたのは、時宜に適っていたからである。咸和の中頃、別に北郊を立てることを議し、同じく正月を用いた。魏は後漢を承け、正月に天を祭り地を配した。当時、高堂隆らは礼として天を祭るのに地を配さず、『周礼』に三王の郊は皆、夏正を用いると称した。」そこで顧和の議に従った。この月辛未に南郊、辛巳に北郊を行い、帝は皆、自ら奉行した。

安帝元興三年、劉裕が桓玄を討ち、これを敗走させた。己卯、南郊で義功を告げた。この年、帝は江陵に蒙塵して帰還しなかった。その翌年は郊祀を行うべきであったが、朝議では『周礼』に依り、宗伯が職を摂り、三公が行事を行うべきであるとした。尚書左丞の王納之だけが言うには、「既に殯があって郊祀を行うのは、これは天子が陽位に当たり、君主が存在しているのであり、命を受けて行うのであって、何を弁えることがあろうか。郊祀を行うか否かは、どうして今日の比べるところであろうか。」議者はまた言うには、「今、郊祀を行うべきであるから、これは承制によって三公に行事を行わせることができるのである。」また「天を郊祀することは極めて尊く、ただ一つだけであるので、天子でなければ祀らないのである。庶人以上は、誰も蒸嘗を行わず、嫡子が外に居り、介子が執事するが、自ら命を受けずして天を祭ることはない。」納之はまた言うには、「武皇が禅を受け、二月に郊祀を行い、元帝が中興し、三月に郊祀を行った。今、郊祀の時は過ぎておらず、日ごとに輿駕の帰還を望んでいる。速やかに行おうとして、皇輿が帰還したのに、さらに自ら奉行できなくなるようなことをしてはならない。」そこで納之の議に従った。

郊廟の犠牲・幣帛・璧玉の色については、既に成文があるが、秦の世は多くは騮駒を用い、漢ではただ犢と云うだけで、その色を弁えていない。江左では南北郊は同じく玄牲を用い、明堂・廟・社は同じく赤牲を用いた。

礼制には、事があって祖廟や社に告げる儀礼はあるが、郊に告げる典拠はない。漢代の儀礼では、天子の喪に際し、 太尉 たいい が南郊で諡号を告げたが、他には聞かない。魏の文帝の黄初四年七月、帝が東巡しようとした際、大軍が出動することから、太常に一頭の特牛を用いて南郊で祭祀を告げさせた。また文帝が崩御した時、 太尉 たいい の鍾繇が南郊で諡号を告げた。これらはいずれも郊で事を行う例である。江左(東晋)では廃止された。

礼制では、春分に東で朝日を祀り、秋分に西で夕月を祀る。漢の武帝が泰畤で郊祀した時、夜明けに竹宮を出て、東に向かって日を揖(礼)し、その夕方に西に向かって月を揖した。既に郊祀が明らかであり、また東西の郊で行うものではない。その後、朝晩常に拝礼するようになった。そこで魏の文帝は 詔 して言った、「漢代は東郊で日を拝礼せず、朝晩常に殿下で東西に向かって日月を拝礼した。煩わしくみだらなことは家人のすることのようで、天神に事える道ではない」。黄初二年正月乙亥、東門の外で朝日を祀ったが、これも二分の礼の意義に違背していた。魏の明帝の太和元年二月丁亥、東郊で朝日を祀り、八月己丑、西郊で夕月を祀り、ようやく古礼を得た。武帝の太康二年、有司が奏上した、春分には従来通り車駕を請いて朝日を祀るべきだが、寒暖が適さないので、親しく出向かなくてもよいと。 詔 して言った、「礼儀は常であるべきだ。もし奏上の通りなら、故 太尉 たいい が撰したものと異なり、また定まった制度がなくなる。近頃はちょうど難事が平定されていなかったので、毎度奏上に従ったが、今や軍事は止み、これこそが大事である」。この 詔 によれば、帝は再び親しく朝日を祀ったのである。その後廃止された。

礼では、「郊祀で后稷を祀って天に配し、明堂で文王を宗祀して上帝に配する」。魏の文帝が即位し、漢の明堂を用いたが、配祀はなかった。明帝の太和元年、初めて明堂で文帝を宗祀し、斉王もその礼を行った。

晋初は文帝を配祀したが、後にまた宣帝を配祀し、まもなくまた文帝を配祀に戻し、その他は変革がなかった。これでは郊と明堂で、同じものを配するか異なるものを配するか、まちまちで一致しない。摯虞が議して考えたには、「漢魏の故事では、明堂で五帝の神を祀る。新礼では、五帝は即ち上帝、即ち天帝である。明堂から五帝の位を除き、ただ上帝を祭る。仲尼(孔子)は郊祀で后稷を祀って天に配し、明堂で文王を宗祀して上帝に配すると称している。《周礼》では、天を祀る時は上帝に旅(祭祀)し、地を祀る時は四望に旅する。望が地でないなら、上帝は天ではないと、はっきり識別できる。郊丘の祭祀は、地を掃いて祭り、犠牲は繭栗(小牛)を用い、器は陶匏(土器やひさご)を用い、事をその始めに返すので、遠祖を配する。明堂の祭祀は、備物を整えて献じ、玉と犠牲を並べて陳列し、籩豆(祭器)を列ね、礼は人鬼と同じなので、近い父祖を配する。郊と明堂は百も千も位が違い、明らかに異なる体であり、犠牲や品物も、質実と文飾で趣が異なる。しかも祖と考(父)を同じく配するのは、尊厳の美をいうのではなく、三日のうちに再び祀るのは、みだりでないという意義ではない。それらが一神でないことも、十分明らかである。昔、上古においては、生きて明王となり、没すると五行に配した。故に太昊は木に配し、神農は火に配し、少昊は金に配し、顓頊は水に配し、黄帝は土に配した。この五帝は、天に配する神であり、四郊に同じく兆域を設け、明堂で報いる。天を祀る時は大裘(毛皮の礼服)を着て冕(冠)を戴き、五帝を祀る時も同じである。あるいは、五精の帝は、天を助けて物を育む者であると考えられた。前代から相承され、廃されることはなかったが、晋初になって初めて異議に従った。《庚午 詔 書》で、明堂および南郊から五帝の位を除き、ただ天神を祀るとし、新礼はこれに奉じて用いた。前太医令の韓楊が上書し、旧来のように五帝を祀るべきだと述べた。太康十年、 詔 ですでに施行された。新礼を定め、明堂および郊祀で五帝を旧来のように祀るべきである」。 詔 してこれに従った。江左以後は、修復する暇がなかった。

漢代の儀礼では、太史が毎年その年の暦を上奏し、立春、立夏、大暑、立秋、立冬の前に常に五時の令を読み上げ、皇帝の服色はそれぞれ五時の色に従った。帝が御座に昇ると、 尚書令 しょうしょれい 以下が席に就き、尚書三公郎が令を案の上に置き、奉じて入り、席に就いて伏して読み終えると、酒一卮を賜った。魏氏も常にこの礼を行った。魏の明帝の景初元年、通事が言上した、「前後ただ春夏秋冬の四時の令を読み上げるのを見るだけで、服黄の時については、ただ欠けて読み上げず、今その理由が分かりません」。 散騎常侍 さんきじょうじ で太史令を兼ねた高堂隆は、「黄は五行では中央の土であり、四季の各十八日を王とする。土は火から生じるので、火が用事をなす末に黄を服し、三季はそうではない。その令は四時に従い、五行を以て令としないので、服黄には令がないのである」と考えた。これが魏氏が大暑の令を読まなかった所以である。

晋が天命を受けると、これもその制度があった。傅咸が言うには、「立秋の一日、白い路車が紫庭に光り、白い旗が玉階に陳列される」。するとその日は旗も路車も皆白なのである。成帝の咸和五年六月丁未、有司が秋令を読むことを奏上した。兼侍中 散騎常侍 さんきじょうじ の荀奕、兼黄門侍郎散騎侍郎の曹宇が反駁して言った、「尚書三公曹が秋令を読むことを奏上しましたが、儀注の旧典は備わっていません。臣らが参議したところ、光禄大夫の華恆の議では、武皇帝は秋夏の盛暑のため、常に欠けて令を読まず、春冬では廃しませんでした。先王が時を順じて令を読むのは、天に後れて天時に奉じ、正服の尊厳を重んじる所によるのです。今、服章は多く欠けており、加えてこの暑さは厳しく、臣らは華恆の議の通り、故事に依って欠けて読まないのがよいと考えます」。 詔 して認可した。六年三月、有司が奏上した、「今月十六日は立夏です。今、正服は次第に備わり、四時に令を読むのは、天の和と隆殺の道を敬って述べるものであり、今は故に夏令を読むべきだと考えます」。奏上は認可された。

《礼》では、孟春の月に、「乃ち元辰を択び、天子親しく耒耜を載せ、これを参保介の御の間に措き、三公九卿諸侯大夫を帥いて帝藉の耕作に躬る」とある。秦が学を滅ぼすに至り、その礼は久しく廃れた。漢の文帝の後、初めてこの典を行った。魏の三祖(曹操、曹丕、曹叡)も皆、親しく藉田を耕した。

武帝の泰始四年、有司が先農を耕祠することを奏上し、認可され、有司に行事させた。 詔 して言った、「国の大事は、祀と農にある。それゆえ古の聖王は、躬って帝藉を耕し、以て郊廟の粢盛を供え、かつ以て天下を訓化した。近世以来、耕藉は数歩の中に止まり、空しく古を慕う名があり、曾て供祀訓農の実がなく、しかも百官の車徒の費用がある。今、千畝の制を修め、まさに群公卿士と共に稼穡の艱難を躬り、以て天下に率先すべきである。主者は詳しくその制を具え、河南に下し、田地を東郊の南、洛水の北に処せよ。もし官田がなければ、適宜に換えさせよ。ただし人を侵してはならない」。そこで乗輿は木輅に乗って耕し、太牢をもって先農を祀った。恵帝の後から、その事は廃された。

江左の元帝が耕藉を修めようとした時、尚書が符で問うた、「藉田で至尊は応に躬って先農を祠るべきか」。賀循が答えた、「漢代の儀礼にはなく、ただ至尊が応に自ら祭るという文があるだけです。しかし《周礼》では王者が四望を祭る時は毳冕を着け、 社稷 しゃしょく 五祀を祭る時は絺冕を着けるとあり、これをもって親祭の意義がないとはしないのです。宜しく両儀注を立てるべきです」。賀循らが上した儀注もまた詳しく妥当でなく、事はついに行われなかった。後に哀帝もまたその典を行おうとしたが、遂げることもできなかった。

漢代の儀礼では、県邑は常に乙未の日に先農を祠り、乃ち乙の地で耕し、丙戌の日に戌の地で風伯を祠り、己丑の日に丑の地で雨師を祠り、犠牲は羊と豕を用いた。立春の日には、皆青い幡と幘で東郊外の野中で春を迎えた。迎春が野中から出てくると、迎えて拝礼し、還ったが、祭祀はしなかった。三時(夏秋冬)には迎えなかった。

魏氏の時代には、天子が藉田を耕すことはあっても、藩鎮には諸侯の百畝の礼が欠けていた。武帝の末年になって、有司が奏上した。「古代の諸侯は藉田百畝を耕し、自ら耒を執って 社稷 しゃしょく と宗廟に奉仕し、農事を奨励・率先した。今、諸王が国を治めるにあたり、藉田を耕す儀礼の精神に則るべきです」。しかし、結局施行されることはなかった。

『周礼』によれば、王后は内外の命婦を率いて北郊で先蚕を祀る。漢代の儀礼では、皇后が東郊の苑中で自ら桑を採り、蚕室で蚕神を祭った。蚕神は苑窳婦人・寓氏公主と呼ばれ、祠には少牢を用いた。魏の文帝の黄初七年正月、中宮に命じて北郊で蚕事を行わせたのは、周の典制に依拠したものである。

武帝の太康六年、 散騎常侍 さんきじょうじ の華嶠が奏上した。「先王の制度では、天子・諸侯は千畝の藉田を自ら耕し、后夫人は自ら蚕桑に従事しました。今、陛下は聖明で至仁の徳をもって先王の事業を継承され、皇后は万物を生み育てる徳を体現され、天に配する道理に合致しておられます。しかし、坤道(皇后の道)がまだ輝かず、蚕礼がなお欠けております。古式に従い、この盛大な儀典を整えるべきと考えます」。 詔 して言った。「昔、天子が自ら藉田を行ったのは、祭祀の穀物を供えるためであり、后夫人が自ら蚕桑に従事したのは、祭服を整えるためであった。これは孝と敬を遵守し、教えと訓戒を明らかにするためである。今、藉田には制度があるが、蚕礼は整えられていない。これは、その間の政務が多く、崇め整える暇がなかったからである。今、天下に事がなく、礼を修めて四海に示すべきである。詳しく古典及び近代の故事に依拠し、現在の状況に合わせて検討し、来年施行せよ」。そこで西郊で蚕事を行った。これは藉田と方角を対にするためである。侍中の成粲に命じてその儀礼を草案させた。先蚕壇は高さ一丈、方二丈で、四方向に階段があり、階段の幅は五尺である。皇后の采桑壇の東南、帷宮の外門の外に位置し、帷宮から東南へ十丈離れ、蚕室の西南にあり、桑林はその東にある。列侯の妻六人を蚕母に選んだ。蚕が生まれようとする時、吉日を選び、皇后は十二笄の歩揺を着け、漢魏の故事に従い、青衣を着て、油絵の雲母をはめ込んだ安車に乗り、六頭の騩馬を駕した。女尚書は貂蟬を着け璽を佩き、陪乗し、筐と鉤を載せた。公主、三夫人、九嬪、世婦、諸太妃、太夫人及び県郷君、郡公侯特進夫人、外世婦、命婦は皆、歩揺を着け青衣を着て、それぞれ筐と鉤を載せて蚕事に従った。桑を採る二日前、蚕室で蚕を薄の上に生ませた。桑を採る日、皇后が到着する前に、太祝令が夜明けに一太牢を用いて祠に告げ、謁者一人が祠を監督した。祠が終わると饌を撤き、残った胙肉を桑採りに従事した者及び奉祠した者に分け与えた。皇后が西郊に到着し壇に昇ると、公主以下は壇の東に陪列した。皇后は東を向いて自ら桑を採り、三本の枝を採った。諸妃・公主はそれぞれ五本の枝を採り、県郷君以下はそれぞれ九本の枝を採り、すべて桑を蚕母に渡して蚕室に戻した。事が終わると、皇后は便座に戻り、公主以下はそれぞれの席に就き、饗宴を設け、絹をそれぞれ差に応じて賜った。

前漢では官社のみを置き官稷はなく、王莽が官稷を置いたが、後漢で再び廃止された。そのため漢から魏にかけては太社にのみ稷があり、官社には稷がなかったので、常に二社一稷であった。

しん の初めは魏の制度を踏襲し、増減はなかった。太康九年、宗廟を改築した際、 社稷 しゃしょく の壇も一つの廟とともに移転した。そこで 詔 して言った。「社は実は一神である。二社の祭祀を併せよ」。そこで車騎司馬の傅咸が上表して言った。

『祭法』にある王社と太社は、それぞれ異なる意義を持つ。天子は郊廟を尊んで事えるため、冕を着けて自ら耕す。自ら耕すのは、孝と享祀に用いる穀物を重んじるためである。自ら耕すからこそ自ら報いるのであり、自ら社を立てるのは、藉田のために報いるためである。国は人を根本とし、人は穀物を命とするため、また百姓のために社を立てて祈願と報謝を行うのである。事柄が異なり報謝も異なる、これが社が二つある理由である。

王景侯(王粛)が論じた王社も、春に藉田を祈願し、秋にそれを報謝するものとしている。彼が太社について論じたのは、「王者が領内に布令し、百姓のために立てるもので、これを太社と呼び、自ら京都に立てるものではない」という。景侯のこの論は『祭法』に基づく。『祭法』に「大夫以下が群をなして社を立てるのを置社という」とある。景侯はこれを「今の里社である」と解釈した。景侯が『祭法』を解釈する際は、置社を人間社会の社としている。ところが別の論では再び太社を人間社会の社としているが、この主旨は理解できない。太社は、天子が百姓のために祀るもので、故に天子社と称する。『郊特牲』に「天子の太社は必ず霜露風雨を受ける」とある。多くの民衆のために、王者が広く社を立てるので、太社と称するのである。置社については、その数は一定せず、里を単位として名付けられるもので、『左氏伝』の清丘の社で盟ったというのがそれである。衆庶の社は、すでに太とは称さないのであるから、もし再び京都に立てないのであれば、いったいどこに立てるというのか。

『祭法』にはまた、王が群姓のために七祀を立て、王が自らのために七祀を立てるとある。「自為」というのは、自らのために祀ることであり、「為群姓」というのは、群姓のために祀ることである。太社と七祀の文は正しく同等である。解釈者はこれに行き詰まり、それゆえに「文献には五祀のみがあり、七祀はない」と言う。案ずるに、祭祀において五祀は国の大祀であり、七祀は小祀である。『周礼』に言う「凡そ小祀を祭る」とは、墨冕の類である。景侯は大厲を解釈して「周の杜伯のようで、鬼に帰る所があれば、厲とならない」と言う。今、二社がないと言う者は景侯を引き合いに出し、『祭法』が二つないと言っていないのに、「口伝にはその文がない」と言う。景侯の明識をもって、熟慮した上で解釈したものを、口頭の議論で明文を除こうとするのは、このように二社について考えるべきであるばかりでなく、景侯の後の解釈も容易には除けない。

以前に 詔 勅を受けた際、『尚書・召誥』には新邑に社を立てるとあり、ただ一太牢のみで、二社がないことの明らかな根拠とされた。案ずるに、『郊特牲』には 社稷 しゃしょく に太牢とあり、必ず一牢の文を引き合いに出して社に二つがないことを明らかにするならば、稷には犠牲がないことになる。解釈者は、社を挙げれば稷は分かると言う。もし社を挙げて稷を明らかにすることができるなら、なぜただ一を挙げて二を明らかにしないのか。国の大事は、祀りと軍事にある。もし二つあるものを除くならば、過ってでも存置する方がましである。ましてや存置するには道理があり、除くには根拠がないではないか。

『周礼』の封人は社壇の設営を掌るとあるが、稷の 字 はない。今、帝社に稷がないのは、ここから出ているのであろう。しかし国は 社稷 しゃしょく を主とし、故に経伝では動的に 社稷 しゃしょく と称する。『周礼』に王が 社稷 しゃしょく を祭る時は絺冕を着るとあり、これが王社に稷があることの証拠である。封人の掌る社壇に稷の字がないのは、解釈者によって略文とされ、そこから推して知ることができる。旧来の通り二社を立て、帝社の稷を加えて立てるべきであると考える。

当時、成粲はその説で、景侯が太社は京都に立てないと論じたのは鄭氏(鄭玄)の学説を破ろうとしたものだと言った。傅咸は重ねて上表して、「成粲の論の通りだとすれば、景侯の解釈文はこれによって壊れることになる。『大雅』に『乃ち塚土を立つ』とあり、毛公は『塚土は大社なり』と解釈した。景侯が『詩』を解釈する時は、この説を用いている。『禹貢』に『惟れ土五色』とあり、景侯は『王者は五色の土を取って太社とし、四方の諸侯を封じる時は、それぞれの方角の色の土を割いて四方を覆う』と解釈した。このように、太社は再び京都に立てるものとしている。この論がどこから出たのか分からないが、解釈と矛盾し、上は経記の明文に背き、下は景侯の解釈を壊している。臣は頑迷で愚かではあるが、学問の門に少しばかり長じた者として、黙っているわけにはいかない。謹んで再び上申する」と言った。劉寔は傅咸の意見に同調した。 詔 して言った。「社は実は一神であるが、二位を相襲しており、衆議が一致しないのであれば、何も改作する必要はない。そのまま旧来の通り、魏の制度に従え」。

その後、摯虞が上奏して、「臣が『祭法』を調べますと、王が万民のために社を立てるのを太社といい、王が自らのために社を立てるのを王社といいます。『周礼』では大 司徒 しと がその 社稷 しゃしょく の壇を設け、また血祭をもって 社稷 しゃしょく を祭るとあり、これが太社です。また封人が王の社の壇を掌り設けるとあり、また軍旅があれば社に宜(祭祀)を行うとあり、これが王社です。太社は万民のために祈願と報謝を行い、祈願と報謝には時があり、その主体を廃することはできません。故に社を祓い、鼓を衅(血を塗る)する時には、その主体(神主)を奉じて従うのはこのためです。これらは皆、二社の明文であり、前代が尊んだところです。『尚書・召誥』に新邑で社を祭るのに三牲がそれぞれ別々に記されていること、『詩経』に乃ち塚土(大社)を立てると称え、両社の交わりがないことを根拠に、帝社を廃し、ただ太社のみを立てたことがあります。『詩経』『書経』に称えられていることは、それぞれ一事を指し、また皆周公旦が制度を作る以前のことであり、『周礼』の明らかな典拠や『祭法』の正しい義を変えることはできません。以前、廟と社を改めて建てる際、一つの社の場所を営みましたが、朝廷の議論は盛んで、古を執り今を正そうとしました。世祖武皇帝( 司馬炎 )は自ら明 詔 を発し、二社の意義を定め、永制とされました。新礼を定めるには、二社に従うべきです」と言いました。 詔 はこれに従いました。

元帝の建武元年に至り、また洛陽の都に倣って二社一稷を立てました。その太社の祝詞は、「地の徳は広く施し、恵みは限りなく存す。乃ち太社を建て、万邦を保佑す。悠々たる四海、皆嘉祥に頼る」といいます。その帝社の祝詞は、「坤(地)の徳は厚く載せ、邦畿(都)をこれ保つ。乃ち帝社を建て、以て地道を神とす。明らかな祀りは辰(時)にのみあり、大いなる福来たりて造る」といいます。

漢代の儀礼では、毎月の朔日(ついたち)に、太史がその月の暦を上奏し、役人の侍郎や尚書がその令を読み、その正しいところを奉行しました。朔日の前後二日、牛と酒を引いて社の下に至り、日を祭りました。日食などの変異があると、羊を割いて社に祠り、日食の変異を救うのに用いました。執事者は長冠をかぶり、衣は絳色の襟袖と縁取りのある中衣、絳色の縁取りで礼を行い、故事の通りとしました。晋が天命を受けて以来、日月が交会(日食)しようとする時、太史は合朔(日食)を上奏し、尚書は三日前に事に先立ち、内外に厳戒を宣べ布しました。摯虞の『決疑』に曰く、「日食を救う者は皆、赤い幘(頭巾)を着け、陽を助けるためである。日が蝕まれようとする時、天子は素服を着て正殿を避け、内外厳重に警戒する。太史は霊台に登り、日食の変異を待ち、門で鼓を打つ。鼓の音を聞くと、侍臣は皆赤い幘を着け、剣を帯びて入侍する。三台の令史以上は皆それぞれ剣を持ち、その戸の前に立つ。衛尉卿は駆け巡って宮中を回り、守備を伺い巡察する。周回して繰り返し、また社で鼓を打つのは、『周礼』を用いるためである。また赤い糸を縄として社に結びつけ、祝史が辞を陳べてこれを責める。社は勾龍の神であり、天子の上公であるから、辞を陳べてこれを責めるのである。日が平常に戻れば、やめる」とあります。

漢の建安年間、正会(正月の朝賀の儀式)を行おうとした時、太史が上言して、正月朔日に日食があると言いました。朝士たちは会を行うべきか疑い、共に 尚書令 しょうしょれい の荀彧に諮りました。その時、広平郡の計吏(上計の役人)劉邵が同席しており、言いました。「梓慎や裨灶は、古代の優れた史官ですが、特に水火を占い、天時を見誤りました。『礼』によれば、諸侯が天子に集団で謁見する時、入門しても礼を終えることができないことが四つあり、日食はその一つです。しかし聖人が制度を垂れたのは、変異のために前もって朝礼を廃止するためではなく、災いが消え異変が伏すこともあるか、あるいは推術が誤っていることもあるからです。」荀彧や人々は皆これを良しとして従い、そのまま旧来通り朝会を行い、日も蝕まれず、劉邵はこれによって名を顕わしました。

武帝の咸寧三年と四年には、いずれも正月朔日に合朔(日食)があったため、元会(正月の朝賀)を取りやめ、魏の故事を改めました。元帝の太興元年四月、合朔があり、中書侍郎の孔愉が上奏して言いました。「『春秋』によれば、日食がある時、天子は社で鼓を打ち、諸陰を攻撃します。諸侯は朝で鼓を打ち、臣下自らを攻撃します。尚書の符(文書)を調べますと、もし日食の変異があれば、諸門で鼓を打つことになっており、旧典に違反しています。」 詔 して言いました。「陳べたところに正しい道理がある。直ちに外(関係部署)に命じて改めさせよ。」

康帝の建元元年、太史が正月元日に合朔があると上奏し、後にまた会を取りやめるべきかどうか疑義が生じました。 庾冰 が政を補佐し、劉邵の議を書き写して八座(高官)に示しました。当時、劉邵は礼の趣旨を得ていないと言う者もあり、荀彧がこれに従ったのは、人の一失に勝っただけだと言われました。故に蔡謨は遂に議を著してこれを非難し、言いました。「劉邵が災いは消え異変は伏すと論じ、また梓慎や裨灶でさえ誤りがあるとし、太史の上言も必ずしも確かではないと言うのは、その道理は誠にその通りです。しかし、聖人が制度を垂れたのは、変異のために前もって朝礼を廃止するためではないと言うのは、これは誤りです。災いや祥瑞の発現は、人君を譴責し警告するためであり、王者が重く戒めるところです。故に素服で楽を廃し、正寝を退避し、百官は物(装飾)を下げ、幣を用いて鼓を打ち、自ら進んでこれを救うのです。敬い戒める事柄は、疑って廃するよりは、寧ろ慎重に行うべきです。故に孔子や老 聃 は巷党で葬儀を助け、喪中は星を見ずに行進したため、日食の時は柩を止め、どうして星を見ないと言えようかと言いました。それなのに劉邵はこれを廃したのは、聖賢の成規を棄てたことになります。魯の桓公の壬申の年に災いがあり、乙亥の日に嘗祭を行ったことを、『春秋』はこれを譏っています。災いの事が既に過ぎても、なお追って懼れてやまないため、宗廟の祭りを廃するのです。ましてや天の災いが来ようとしていると聞きながら、慶賀と楽しみの会を行うのは、礼に背いています。『礼記』に言う諸侯が入門しても礼を終えることができないというのは、日官が予め言わず、諸侯が既に入って、蝕まれるのを見て初めて知る場合を指し、先に蝕まれると聞いて朝会を廃しないことを指すのではありません。これを引き合いに出すのは、その意義と趣旨を失っていると言えます。劉邵が依拠するのは『礼記』ですが、夫子(孔子)や老聃の巷党の事もまた『礼記』に言うところであり、またこれに背き反するのは、進退根拠がありません。しかし荀令(荀彧)が良しとし、漢朝が従ったため、遂にこの言が今日まで称えられ、その誤りを知る者がいません。後世の君子がこれを模範としようとするでしょうから、正したまでです。」そこで庾冰は衆議に従い、遂に会を取りやめました。

永和年間に至り、 殷浩 が政を補佐し、また劉邵の議に従って会を取りやめないことを望みました。王彪之は咸寧・建元の故事を根拠とし、また言いました。「『礼』に諸侯が天子に集団で謁見する時、礼を終えることができずに廃することが四つあると言うのは、自ら突然にそれが起こることを言うのであって、先にその事が存することを予想し、史官の推術が誤っていることを僥倖として、前もって朝礼を廃しないことを言うのではありません。」そこでまた王彪之の議に従いました。

『尚書』に「六宗を禋(いん)する」とあるが、諸儒の解釈はまちまちで、しばしば一致しない。王莽は『易経』の六子(六十四卦のうちの六つの卦)に基づき、六宗の祠を立てた。魏の明帝の時にこの事が疑われ、王粛に問うたところ、やはり易の六子であるとして、廃止されなかった。晋が天命を受けると、司馬彪らが上表し、六宗の祭祀は特に新たな礼を立てるべきではないとし、そこでその祭祀は廃止された。その後、摯虞が上奏し、また次のように考えた。「舜が帝位を受け継いだ時、上帝に類祭し、六宗に繋(かか)り、山川を望祭したことを考えると、六宗は上帝の神でもなく、また山川の霊でもない。『周礼』の肆師の職務には、社と宗に犠牲を用いるとある。党正の職務には、春秋の祭禜(えい)もまたこれと同じであるとある。肆師のいう宗は、社と並列されており、その序列は社と同じである。党正のいう禜は、文面上社と結びついていないので、その神は社とは異なる。周代の命祀(天命による祭祀)で、郊社(天地の祭祀)ほど重要なものはなく、宗が社と同じなら、それは神として貴いものである。また、『月令』に孟冬(十月)に天宗に祈るとあるが、これが『周礼』の祭禜であり、『月令』の天宗であり、六宗の神である。漢の光武帝が高邑で即位した時、『虞書』に従って六宗を禋した。安帝の元初年間、乾(北西)の方位に祀りを立て、その礼は太社と同じであった。魏はこれを踏襲し、景初二年に至り、その神について大いに議論し、朝廷の士人たちは意見が分かれ、それぞれに主張した。ただ 散騎常侍 さんきじょうじ の劉邵だけが、万物は陰を背負い陽を抱き、沖気(中和の気)をもって和となすと考え、六宗とは太極の沖和の気であり、六気の宗(おおもと)であるとした。『虞書』ではこれを六宗といい、『周書』では天宗という。この時、異同を考論して、彼の議に従った。漢・魏を通じて踏襲され、貴い祭祀として定められた。およそ百神を崇祀するにあたり、放擲して顧みないことがあっても、一度興ったものは、敢えて廃止する者はいない。新たな礼を定め、六宗を旧来通り祀るべきである。」 詔 してこれに従った。

『礼』によれば、王は万民のために七つの祀りを立てる。すなわち司命、中霤(ちゅうりゅう)、国門、国行、大厲(たいれい)、戸、竈である。仲春(二月)に玄鳥(つばめ)が来る日、太牢(牛・羊・豚)をもって高禖(こうばい、子授けの神)を祀る。『毛詩』の「絲衣」の篇に、高子が「霊星の尸(し、神の依代)」と言っている。漢が興ると、高帝もまた霊星祠を立てた。武帝の時、李少君のためにはじめて竈を祀り、戾太子が生まれると、はじめて高禖を立てた。『漢儀』によれば、国家にも五祀があり、役人が行事を行い、その礼は 社稷 しゃしょく よりもかなり軽いが、その典(儀式)は存続していたという。また、常に仲春の月に、城南に高禖祠を立て、特牲(一頭の犠牲)で祀ったという。また、この月には、国都の南郊の老人星廟で老人星を祀った。立夏には竈を祭り、季秋(九月)には城南壇の心星廟で心星を祀った。元康の頃、洛陽にはまだ高禖壇があり、百姓がその傍らで祠り、あるいは落星と呼んだ。この後、これらの祭祀については聞かれず、江左(東晋)以来、七祀は立てず、霊星は南郊に配饗(合祀)され、特に置かれることはなくなった。

『左氏伝』に「龍星が現れて雩(う、雨乞いの祭)を行う」とあり、経典に明らかである。漢の儀礼では、立春から立夏、立秋まで、郡国で旱魃があると、郡県はそれぞれ 社稷 しゃしょく を掃除する。旱魃の時は、公卿官長が順次雩礼を行って雨を求め、諸陽(陽気の働き)を閉じ、黒衣を着て、土龍を起こし、土人を立て、舞僮(まいどう)二佾(二列の舞人)で舞い、七日ごとに様式を変え、故事に従った。武帝の咸寧二年、春から長く旱魃が続いた。四月丁巳、 詔 して「旱魃の地では広く祈請を加えよ」とした。五月庚午、はじめて 社稷 しゃしょく 山川に雨乞いをした。六月戊子、慈雨を得た。これが雩の旧典である。太康三年四月、十年二月にもまた同様に行った。雨が多い時は禜祭(ようさい、水害除けの祭)を行い、赤い頭巾と朱衣を着て、諸陰(陰気の働き)を閉じ、朱い縄で社をめぐらし、朱い太鼓を打ち鳴らした。

『周礼』によれば、王者は昊天上帝、日月星辰、司中司命、風伯雨師、 社稷 しゃしょく 、五土、五嶽、山林川澤、四方百物を祭り、四類(四種類の祭祀)の兆(祭壇)や四望(四方の山川)の祭祀もまたこれと同じである。魏の文帝の黄初二年六月庚子、はじめて五嶽四瀆を礼拝し、すべての群祀に順序をつけ、珪璧を埋めて沈めた。六年七月、帝は舟軍をもって淮に入った。九月壬戌、使者を遣わして璧を淮に沈めた。魏の明帝の太和四年八月、帝が東巡し、使者を遣わして特牛(一頭の牛)をもって中嶽を祀らせた。魏の元帝の咸熙元年、長安に行幸し、使者に璧幣を持たせて礼をもって華山を祀らせた。

穆帝の升平年間、何琦が五嶽祠の修復について論じて言った。「唐虞の制度では、天子は五年に一度巡狩し、時節に順った方角で五嶽を柴燎(焼き払って天に告げる祭祀)し、山川を望祭し、群神に遍く及んだ。ゆえに、名山によって天に中(ちゅう、成功)を升(のぼ)せ、神祇に明らかに告げ、功徳を饗(う)けて報いるのである。これによって災いや疫病が起こらず、風雨寒暑が時節に従うのである。三代に下っても、年数は異なるが、その礼は変わらず、五嶽は三公に、四瀆は諸侯に見立てられ、経書に明記され、いわゆる『これを挙げるものあれば、敢えて廃する者なし』である。秦漢が西京に都した時、涇水、渭水、長水は、祀典には入っていなかったが、咸陽に近いため、すべて大川の祭祀に比すことができ、正立の祀りを欠くことができようか。永嘉の乱以来、神州が傾覆し、この事は廃れた。ただ灊(せん)の天柱山だけは、王朝の領域内にあるので、旧来は台(尚書台)が百戸の吏卒を選んでその職務を奉じさせた。中興(東晋建国)の際には、官守がなく、廬江郡が常に大吏を遣わして兼務させ、四季の祈祷と賽祭(さいさい、願いが叶った感謝の祭)を行い、春には寒さを祓い、冬には氷を請うた。咸和から現在まで、またまた廃れ替わった。今、典拠のない祠りは、一つや二つではない。その正しい名称を考証すれば、淫らで昏い鬼であり、その浪費を推し量れば、百姓の蠹(どく、食い荒らす虫)である。しかるに山川の大神はかえって簡略に欠け、礼俗は頽れ乱れ、人と神が雑然と入り乱れ、公私ともに奔走し、次第に繁雑になっている。まことに近年国家が多難で、日々の暇がなく、廃れたものを再建する事ができなかったのである。今、元凶(大悪人)はすでに滅ぼされた。旧典を修めるべきである。嶽瀆の地域は、風教の及ぶところであり、苦しみから救われた民衆は、皆その徳沢を蒙っている。しかるに神明の禋祀は、まだ整えられておらず、巡狩による柴燎は、その廃れて久しい。前典を尊び明らかにするのは、皇輿が北に還るのを待ち、古を稽(かんが)え憲章に従い、大いに制度を整える時であろう。俎豆(祭器)や犠牲、祝詞や告神の文辞は、旧章が失われているので、礼官に式を作らせ、誠実で簡素なものに帰着させ、明徳の馨香を天に通じさせるようにすべきである。それだけのことである。その他の妖しい祭祀は、おおよそ法令に基づき、まずその甚だしいものを除き、邪と正が混濁しないようにすべきである。」当時、この意見は取り上げられなかった。

昔、武王が殷に入り、車から降りる間もなく先代の後裔を封じたのは、その徳を追慕したからである。孔子は大聖人でありながら陪臣として終わり、封爵はなかった。漢の元帝の時、孔覇が帝師として爵を賜り、褒成君と号し、孔子の後を奉じた。魏の文帝の黄初二年正月、議郎の孔羨を宗聖侯とし、邑百戸を与え、孔子の祭祀を奉じさせ、魯郡に命じて旧廟を修復し、百戸の吏卒を置いて守衛させた。武帝の泰始三年十一月、宗聖侯の孔震を奉聖亭侯に改封した。また 詔 して太学及び魯国に、四季に三牲を備えて孔子を祀らせた。明帝の太寧三年、 詔 して奉聖亭侯の孔亭に、孔子を祀る四季の祭直(祭祀費用)を与え、泰始の故事の通りとした。

礼においては、学を始めて設立する際には必ず先ず先聖先師に釈奠の礼を行い、また行事を行う際には必ず幣を用いる。漢代には学が設立されていたが、この礼については聞かれない。魏の斉王の正始二年二月、帝が『論語』を通じて講義し、五年五月に『尚書』を通じて講義し、七年十二月に『礼記』を通じて講義し、いずれも太常に釈奠を行わせ、太牢をもって孔子を辟雍に祀り、顔回を配祀した。武帝の泰始七年、皇太子が『孝経』を通じて講義した。咸寧三年、『詩経』を通じて講義し、太康三年、『礼記』を通じて講義した。恵帝の元康三年、皇太子が『論語』を通じて講義した。元帝の太興二年、皇太子が『論語』を通じて講義した。太子はいずれも自ら釈奠を行い、太牢をもって孔子を祀り、顔回を配祀した。成帝の咸康元年、帝が『詩経』を通じて講義した。穆帝の升平元年三月、帝が『孝経』を通じて講義した。孝武帝の寧康三年七月、帝が『孝経』を通じて講義した。いずれも故事に従って釈奠を行った。穆帝と孝武帝はともに中堂を仮に太学とした。

故事では、皋陶を廷尉寺で祀っていたが、新礼では律署に祀る場所を移し、太学で先聖を祭るのと同じようにした。故事では、社の日に祀っていたが、新礼では孟秋の月に改め、秋の政事に応じた。摯虞は「『虞書』を調べると、皋陶は士師(司法官)となり、明察で公正であり、国はその功績を重んじ、人々はその妥当さを思った。それゆえに獄官はその神を礼し、囚人はその祭りを捧げた。その功績は刑獄を断ずる完成にあり、律令の始まりにあるのではない。大学の設置は、その意義が太常に重きを置くため、太学で祭るのは聖人を崇め重んじることに従うのである。律署の設置は、廷尉よりも卑しく、祀る場所を署に移すのは、重きを去って軽きに就くことである。律署は正規の官署ではなく、廃興が定まらない。旧来通り廷尉で祀るべきである。また、祭りを仲春に行うのは、再生の意味を取るのであり、孟秋に改めるのは刑殺に応じるためであり、道理としては互いに代えるに足りない。新礼を定めるには、すべて旧来の通りにすべきである」と考えた。 詔 が下された。「よろしい」。

歳旦には常に葦茭と桃梗を設け、鶏を磔にして宮殿および百官の官寺の門に掛け、悪気を祓った。漢の儀礼を調べると、仲夏にこれを設け、桃印はあったが磔鶏はなかった。魏の明帝が大いに禳礼を修めた時、 何晏 の禳祭に関する議論で鶏が特別な犠牲として禳釁の事に供された。磔鶏は魏に始まり、桃印は本来漢の制度であり、卯金(劉氏)を補佐するものであったが、また魏によって除かれるべきものでもあった。ただ、仲夏から歳旦に改められた由来は詳らかでない。魏の明帝の青龍元年、 詔 を下して郡国に対し、山川で祀典に載っていないものは祀ってはならないとした。

武帝の泰始元年十二月、 詔 を下して言った。「昔、聖帝明王は五嶽四瀆や名高い山川沢を修め、それぞれに定められた制度があった。それは陰陽の功に報いるためである。しかし、道をもって天下に臨む者は、その鬼は神とならず、その神は人を傷つけない。それゆえ祝史が薦めても恥じる言葉はなく、その人々は幽冥を敬慎して淫祀は行われない。末世には道が篤く信じられず、礼を僭越し神を汚し、欲のままに祈請し、敬して遠ざけることをせず、ただ幸いを求めて怠惰に過ごし、妖妄が互いに煽り合い、正を捨てて邪に就く。故に魏朝はこれを忌み嫌った。旧礼に照らしてこれを定め、人々に功績が著しい者には必ずその報いがあり、妖淫の鬼がその間に乱れ入らないようにせよ」。二年正月、有司が春分に厲殃を祠りおよび禳祠を行うことを奏上した。 詔 して言った。「祀典にないものは除け」。

『王制』によれば、天子は七廟、諸侯以下はそれぞれ等差があり、礼の条文は詳しい。漢の献帝の建安十八年五月、河北十郡をもって魏の武帝を魏公に封じた。この年七月、鄴に初めて宗廟を建て、自ら諸侯の礼によって五廟を立てた。後に爵を進めて王となっても、改易することはなかった。延康元年、文帝が王位を継ぎ、七月に皇祖を大王と追尊し、丁夫人を大王后とした。黄初元年十一月に禅譲を受けると、また大王を大皇帝と追尊し、皇考の武王を武皇帝と追尊した。二年六月、洛京の宗廟が未完成であったため、建始殿で武帝を祠り、自ら饋奠を執り行い、家人の礼のようにした。『礼』を調べると、宮室を営もうとする時は宗廟が先であり、庶人は廟を持たないので寝で祭る。帝がこれを行ったのは礼に甚だしく外れている。

明帝の太和三年六月、また高祖の大長秋を高皇と追尊し、夫人の呉氏を高皇后と追尊し、ともに鄴の廟に祀った。廟で祀られたのは、文帝の高祖である処士、曾祖の高皇、祖の大皇帝が一つの廟を共にし、父の太祖武皇帝は特に一廟とし、百世毀たず、しかしながら祀られたのは親廟四室に限られた。その年十一月、洛京の廟が完成すると、親等が尽きた処士の神主を園邑に遷して安置し、行太傅太常の韓暨と行太常宗正の曹恪に節を持たせて迎えさせ、高皇以下の神主と共に一廟とし、依然として四室のみであった。景初元年六月に至り、群公と有司が初めて更に奏上して七廟の制度を定め、言った。「大魏は三聖が相継いで帝業を成した。武皇帝は洪大な基盤を肇め建て、乱を撥ね除け険を夷らし、魏の太祖となった。文皇帝は天に継いで革命し、期に応じて禅譲を受け、魏の高祖となった。上は大命を集成し、華夏を清定し、礼楽を興して制し、魏の烈祖とすべきである。太祖廟の北に二つの祧廟を設け、その左を文帝の廟とし、号を高祖昭祧とし、その右は明帝に擬え、号を烈祖穆祧とする。三祖の廟は万世毀たず。その余の四廟は、親等が尽きるごとに順次遷され、すべて周の后稷、文王・武王の廟祧の礼の通りとする」。

文帝の甄后は賜死されたので、廟に列せられなかった。明帝が即位すると、有司が追諡して文昭皇后とし、 司空 しくう の王朗に節を持たせ策を奉じて陵で告祠することを奏請した。三公がまた奏上して言った。「古より周人は祖の后稷に帰し、また特に廟を立てて薑嫄を祀った。今、文昭皇后は後嗣に対して、聖徳と至化は量り知れない。皇家の世妃という尊貴さを持ち、神霊が遷化されたのに、寝廟がなくて享祀を承けることができないのは、顕徳に報い、孝敬を明らかにするものではない。古制を考証すると、周礼に依って別に寝廟を立てるべきである」。奏上は認可された。太和元年二月、鄴に廟を立てた。四月、洛邑で初めて宗廟を営む際、地を掘ると玉璽を得た。一寸九分四方で、その文に「天子羨思慈親」とあった。明帝はこれに顔色を変え、太牢をもって廟に告げた。景初元年十二月己未に至り、有司がまた文昭皇后の廟を京師に立て、永く享祀を伝え、楽舞は祖廟と同じとし、鄴の廟を廃することを奏上した。

魏の元帝の咸熙元年、文帝の爵を王に進め、舞陽宣文侯を宣王と、忠武侯を景王と追命した。この年八月、文帝が崩御し、諡して文王とした。

武帝の泰始元年十二月丙寅、禅譲を受け、丁卯、皇祖の宣王を追尊して宣皇帝とし、伯父の景王を景皇帝とし、父の文王を文皇帝とし、宣王の妃の張氏を宣穆皇后とし、景王の夫人の羊氏を景皇后とした。二年正月、有司が七廟を設置するよう上奏した。帝はその工事を重んじ、 詔 を下して暫定的に一廟を立てるのが適当であるとした。そこで群臣が議論して上奏した。「上古には清廟一宮があり、神祇を遠く尊んだ。周の時代に至り、七廟の制を定めて宗廟の区別を明らかにした。聖旨は深く広大で、上古の跡を遠く追い、唐虞を厚く尊崇し、七廟の繁華を捨てて、一宮の遠い趣旨に従われる。昔、舜は堯の禅譲を受け、文祖で受終の礼を行い、帝位に即いたが、およそ三十年後、正月の元日に再び文祖に至り、帝位に即いた。これは虞氏が唐の廟を改めず、旧宮をそのまま用いた例である。有虞氏の故事に依拠し、魏の廟をそのまま用いるのがよい。」上奏は認可された。そこで征西将軍、 章府君、潁川府君、京兆府君を追祭し、宣皇帝、景皇帝、文皇帝と合わせて三昭三穆とした。この時、宣皇(宣帝 司馬懿 )はまだ太祖として昇格しておらず、太祖の位は空位であったため、六世を祀り、景帝と合わせて七廟とした。その礼は王粛の説に基づくものである。七月、また 詔 を下した。「主事者が以前に上奏した、魏の旧廟をそのまま用いる案は、確かに根拠がある。しかし、神明を敬い奉るという点では、心情的にまだ安らかでない。改めて造営すべきである。」そこで宗廟を改めて創建した。十一月、景帝の夫人の夏侯氏を追尊して景懐皇后とした。任茂が議して、夏侯氏が嫁いだ時にはまだ王業がなかったと論じたが、帝は従わなかった。太康元年、霊寿公主が修麗の儀式で太廟に合祀されたが、周や漢にはその先例がなかった。魏の明帝は平原主の廟を別に立てたが、晋はまた魏とは異なる措置を取った。六年、宗廟が陥没したため、改修創建することとなり、群臣がまた議論して上奏した。「古くは七廟は別々の場所にあった。当然、礼に従うべきである。」 詔 はまた言った。「古くは七廟であったが、近代以来は皆一廟七室であり、礼を廃するものではなく、心情的にも順序がつき、また時勢に適ったものである。そのまま旧来の方式でよい。」十年に至り、ようやく宣陽門内に改めて築造し、壮麗を極めたが、坎位の制度は依然として当初のままであった。廟が完成すると、帝は摯虞の議を用い、百官を率いて神主を新廟に遷した。征西将軍以下、車服や導従の儀仗は皆皇帝の儀礼のようであった。武帝が崩ずると征西将軍の神主が遷され、恵帝が崩ずるとまた 章府君の神主が遷された。恵帝の代には、愍懐太子、太子の二人の子である哀太孫の臧、沖太孫の尚がともに廟に合祀された。元帝の代には、懐帝の殤太子がまた廟に合祀され、陰室四殤と号した。懐帝の初め、また武帝の楊后に策諡して武悼皇后とし、峻陽陵の側に改葬し、弘訓宮に別に祠を立て、廟には列しなかった。

元帝が尊位に即くと、武帝を継承し、元帝にとっては父(禰)となるが、これは漢の光武帝が元帝を継承した故事と同じである。この時、西京(洛陽)の神主は、虜の朝廷で埋もれ滅びており、江左に廟を建てるにあたり、皆新たに造った。まもなく懐帝の神主を安置し、また潁川府君の神主を遷した。位は七室であったが、実際は五世であり、これは刁協が兄弟を一世と数える説に従ったためである。当時は諸制度が草創期で、旧来の礼が整っておらず、廃された神主は暫定的に別室に安置された。太興三年正月乙卯、 詔 を下した。「朕は上では世祖(武帝)を継いではいるが、懐帝、愍帝に対しては皆北面して臣と称していた。今、太廟を祀るのに、自ら觴酌を執らず、有司に行事を行わせるのは、心情と礼の上で安らかでない。礼に従って改めて処置すべきである。」太常の恒が議した。「今、聖上は武皇帝を継承されている。漢の世祖(光武帝)の故事に準じ、自ら觴爵を執られないのがよい。」また言った。「今上は武帝を承継されているが、廟の昭穆は四世に過ぎない。前太常の賀循、博士の傅純はともに、恵帝、懐帝および愍帝は別に廟を立てるべきだとしている。しかし臣が愚かに考えるに、廟室は神主を収容できることを限度とすべきで、常の数に拘る必要はない。殷の世には二祖三宗があり、もし七室に拘るならば、父(禰)のみを祭ることになってしまう。この論を推すならば、 章、潁川の二府君を戻し、七廟の礼を完全に行うべきである。」驃騎長史の温嶠が議した。「兄弟は廟に入れないという説は、礼の条文にない。かつ光武帝は剣を奮って興起し、孝平帝に策名していない。事を神聖化し、九世の讖に応じようとし、また古くは共廟としなかったので、別に立てたのである。今上は策名の点で言えば、光武帝の事とは異なり、自ら蒸嘗を奉じるのは、経典上も正しく、心情的にも安らかである。太常の恒が二府君を戻して七世を全うしようとするのは、嶠はこれが適当であると考える。」驃騎将軍の王導は温嶠の議に従った。嶠はまた言った。「その(神主が)子でない場合には、直言して『皇帝敢えて某皇帝に告ぐ』とすればよい。また、もし一帝を一世とするならば、父(禰)を祭らず、かえって庶人に及ばないことになる。」帝は温嶠の議に従い、全てこれを施行した。そこで更に制度を改め、 章、潁川を昭穆の位に戻し、恵帝が武帝を嗣いだ故事と同じとし、恵帝、懐帝、愍帝の三帝は『春秋』の尊尊の義に従い、廟に在って廃されないこととした。

元帝が崩ずると、 章府君の神主がまた遷された。しかし元帝の神位は依然として愍帝の下にあり、したがって坎室は十室あった。明帝が崩ずると、潁川府君の神主がまた遷され、依然として十室であった。当時、太廟を拡張したため、三度遷された神主はともに西の儲蔵所に戻され、それを祧と名付け、遠廟に準じた。成帝の咸康七年五月、初めて武悼皇后の神主を作り、廟に合祀し、世祖(武帝)に配饗した。成帝が崩ずり康帝が統を承けると、兄弟は一世とされたため、京兆府君は遷されず、ここに始めて十一室となった。

康帝が崩御し、穆帝が即位した。永和二年(346年)七月、有司が上奏した。「十月の殷祭(大祭)において、京兆府君(司馬防)の神主を祧室(遠祖の廟)に遷すべきです。かつて征西将軍(司馬鈞)、 章府君(司馬量)、潁川府君(司馬儁)の三府君の毀主(親等が遠くなり廟から除かれた神主)は、中興(東晋建国)の初めに一時的に天府(太廟の倉庫)に安置され、廟門の西にありました。咸康年間(335-342年)、太常の馮懐が上表して引き続き西儲(西側の付属建物)の夾室に奉遷し、それを祧と呼びましたが、これも礼に適っていないと思われます。今、京兆府君が遷入されると、これは四世の遠祖となり、常に太祖(司馬懿)の上に位置することになります。昔、周王室では太祖(后稷)の世代が遠かったため、遷すべき神主には帰着する場所がありました。今、晋の廟では宣皇帝(司馬懿)が主となっています。それなのに四祖(四府君)がそこに居るのは、祖を屈して孫に就かせることです。殷祫(合祭)の際に上位に置くのは、太祖に代わることです。」領 司徒 しと の蔡謨が議して言った。「四府君は別室を改築すべきであり、もしまだ(別室が)整っていないなら、太廟の室に入れるべきです。人は誰も自分の祖を卑しめることはできず、文王・武王も(祖の)不窋より先にはなりません。殷祭の日には、征西将軍(の神主)を東面させ、宣皇帝の上に置きます。その後、廟から遷された神主は、征西将軍の祧に蔵し、祭祀と供物は絶やさないようにします。」護軍将軍の馮懐が議して言った。「礼では、廟のない者は壇を設けて祭ります。別室を立ててそこに蔵し、殷祭や禘祭の時には壇で祭るのがよいでしょう。」輔国将軍の譙王司馬無忌らが議して言った。「諸儒は、太王・王季の遷主(遷された神主)は、文王・武王の祧に蔵されると言っています。そうであれば、府君の遷主は宣帝の廟の中にあるべきです。しかし今は寝室がないので、変通して改築すべきです。また、太廟での殷祫の際には、征西将軍(の神主)を東面させます。」尚書郎の孫綽は無忌の意見と同じで、言った。「太祖(司馬懿)はその位こそ九五の尊位に始まるが、その道は従順で暢やかであり、人爵の尊さを退け、天倫の道を篤くした。これが教えの根本を成し、百代を輝かす所以である。」尚書郎の徐禅が議して言った。「『礼』によれば、祧から去れば壇とし、壇から去れば墠とし、歳時の祫祭ではそこで祭ります。今、四祖の遷主は石室に蔵し、祈りの時には壇や墠で祭るのがよいでしょう。」また、徐禅を会稽に遣わし、処士の虞喜に意見を求めた。虞喜は答えて言った。「漢代の韋玄成らは、毀主を園に埋めました。魏朝の議者は、両階の間に埋めるべきだと言いました。そもそも神主は本来太廟にあるもので、もし今、別室で祭るなら、永久に蔵する方がましです。また、四君には追号の礼がないことからも、毀すべきで祭らないことがより明らかです。」この時、簡文帝が撫軍将軍であり、尚書郎の劉邵らとともに上奏した。「四祖は西祧に同居させ、神主を石室に蔵し、禘祭・祫祭および祭祀は、先朝の旧儀の通りとします。」当時、陳留の范宣の兄の子がこの礼について問うた。范宣は答えて言った。「舜の廟で祭られるのは皆、庶人(一般の先祖)です。その後の世代が遠くなって毀されても、舜の上には居らず、昭穆の序列にも入りません。今、四君の称号は依然として本来のままですが、これは功德による祭祀ではありません。もし虞の神主を埋める例に依るなら、依然として子孫の場所に蔵することになります。もし夏の神主を埋める例に依るなら、また本来の廟の階ではありません。その変化を考えるべきで、一室を築き、親等が尽きていない間は禘祭・祫祭の際に宣帝の上に置き、親等が尽きれば、下って子孫の列に就く理由はありません。」その後、太常の劉遐らは蔡謨の意見に同調した。博士の張憑が議して言った。「ある者は、太祖の前に陳列されるのは、皆その後の毀主であると疑っているが、張憑が古義を調べたところ、前後の区別についての文はない。禹が鯀より先にならないのと同様に、遷主が太祖の上に居ることも、何の疑いがあろうか。」そこで京兆府君は西儲に遷入され、前三祖の遷主と同様に祧と呼ばれ、正室は依然として十一室であった。穆帝が崩御すると、哀帝と海西公はともに兄弟であり、(廟制上)登除(神主の入れ替え)するものはなかった。咸安(371-372年)の初め、簡文皇帝が元皇帝( 司馬睿 しばえい )の後を継ぎ、世系の秩序が進んだため、潁川府君と京兆府君の二神主は再び昭穆の位に戻った。簡文帝が崩御すると、潁川府君はまた遷された。

孝武帝太元十二年(387年)五月壬戌、 詔 を下して言った。「昔、太廟を建てた時、何事も倹約に従い、太祖(司馬懿)の位は虚位とし、明堂は建てられなかった。郊祀は国家の大事であるのに、古制を考察した制度が欠けている。詳しく議論せよ。」祠部郎中の徐邈が議して言った。「円丘と郊祀は、経典では区別がなく、宣皇帝(司馬懿)がかつてこの義を弁明され、聖典によって検証されました。中興(東晋建国)に至っても、詳しく研究を尽くし、南北二郊を定めました。これはまさに異学が軽々しく改めるべきものではありません。従前のままが安泰であると考えます。武皇帝(司馬炎)は六世の廟を建て、三昭三穆の祖を祀りました。宣皇帝は創業の主であり、まさに太祖であられ、親等では王考(祖父)です。四廟が上にあり、まだ遷すべき世代に至っていないため、一時的に東向きの位を虚位としているのです。兄弟が相継ぐのは、義理上二世とは見なしません。故に当今の廟祀では、世数が足りず、太祖を正位にしようとすれば、七廟の義に違背します。また『礼』に、『庶子王もまた祖を禘祭し廟を立てる』とありますが、これは支流の胤が擁立された場合、親等の近い者は必ず復位するということを言うのでしょう。京兆府君は今から六世前ですから、この室を再建すべきであり、そうすれば宣皇帝は六世の上にはいらっしゃらず、前の世代が既に遷されて初めて、太祖の位が定まるのです。京兆府君が遷毀される際は、神主を石室に蔵すべきで、禘祭や祫祭にも及ぼさないのがよいでしょう。なぜですか? 伝に『毀主は太祖に升合(昇って合祀)する』と言いますが、『升』は下から上への名称であり、尊い者が卑しい者に就くことを言うのではありません。太子や太孫、陰室の四主は、儲嗣の重みがあり、皇祖に升祔(昇格合祀)します。配祀される廟は、世代が遠くなれば遷されるべきであり、その後、従食する孫(の神主)はそれとともに毀されます。明堂の方形・円形の制度は、綱領が既に挙げられており、配帝の祀りを欠くべきではありません。また、王者は天下を家とするので、必ずしも一つの邦国に限らず、故に周の平王や光武帝は二京(長安と洛陽)を廃しませんでした。明堂に配祀される神については、積もった疑問があり決着しません。『易』に『上帝を殷(盛大)に薦(すす)め、以て祖考に配す』とあります。祖考が同様に配祀されるなら、上帝も天であり、厳父の義が顕わになります。『周礼』に『旅上帝』とありますが、これは有事の際に天に告げるもので、郊祀の常礼と同じく四圭を用いるので、併せて言っているのです。もし上帝が五帝であるなら、経文はなぜ『天を祀り五帝に旅する』『地を祀り四望に旅する』と言わないのでしょうか?」侍中の車胤も同じ意見であった。また言った。「明堂の制度は、既に詳しく述べるのが難しい。かつ、楽は和を主とし、礼は敬を主とするので、質実と文飾は同じでなく、音と器も異なります。茅葺きの屋根も広大な宮殿も、その尺度は一つでないのですから、なぜその形式や規範に固執し、根本を弘めて習俗に従わないのでしょうか? 九服(天下)が皆安寧し、河朔に塵一つ立たなくなってから、明堂や辟雍を崇めて修築すべきです。」当時、朝議の多くはこれに同調し、そこで奉行され、何一つ改められなかった。十六年(391年)、初めて太廟の殿を改作し、正室十四間、東西の儲室各一間、合わせて十六間とし、棟の高さは八丈四尺とした。法駕を整えて神主を行廟に遷し、征西将軍から京兆府君までの四神主および太子・太孫の神主には、それぞれその位に応じた儀服を用いた。四神主は皇帝の儀礼に従わなかった。これは太康年間(280-289年)の例とは異なる。諸神主が廟に入ると、脯醢(干し肉と塩辛)の奠(供物)を設けた。新廟が完成すると、神主を室に還し、また脯醢の奠を設けた。十九年(394年)二月、簡文帝の母である会稽太妃鄭氏を簡文皇帝宣太后と追尊し、その廟を太廟の道の西に立てた。孝武帝が崩御すると、京兆府君はまた遷され、穆帝の時代の四祧の故事の通りであった。

義熙九年(413年)四月、殷祭を行おうとした際、遷毀の礼について広く議論するよう 詔 が下った。大司馬琅邪王の 司馬徳文 が議して言った。「泰始(265-274年)の初め、太祖の位を虚位とし、情実によって流れを遠くし、征西将軍にまで及んだ。故に世が尽きれば毀すべきであり、宣帝が太祖の位に正されるべきです。また、漢の光武帝が十一帝の神主を洛邑に移した時は、毀主は設けられませんでした。この理は推し量ることができます。別室を築き、四府君の神主をそこに安置し、永久に蔵して祀らないのがよいでしょう。」大司農の徐広が議して言った。「四府君はかつて廟堂の首位にあり、率土の祭りを享受されました。もし幽壤(地下)に埋めてしまえば、情理に必ずしも尽くされないかもしれません。西儲に遷して蔵し、遠祧とし、禘祭や饗宴は永久に絶つべきだと考えます。」 太尉 たいい 諮議参軍の袁豹が議して言った。「従前のまま改めず、殷祭でも依然として四府君に及ぶのが、情理に適っています。」当時、劉裕が輔政しており、意見は大司馬の議と同じで、後の殷祭の行事を待って制度を改めることとした。ちょうど安帝が崩御し、禘祭を行う前に(晋の)天禄(天命)は終焉を迎えた。

武帝の咸寧五年十一月己酉、弘訓羊太后が崩御し、宗廟では一時的に祭祀を廃止し、天地明堂では音楽を除去し、かつ胙肉を供えなかった。穆帝の升平五年十月己卯、殷の祭祀が行われたが、帝の崩御後に音楽を奏でなかった。孝武帝の太元十一年九月、皇女が亡くなり、烝祭を行うべき時期となったが、中書侍郎の范寧が上奏した。「『喪服伝』を調べると、宮中で死者が出た場合は三月間祭祀を行わないとあり、長幼や貴賤の区別はない。皇女はまだ嬰児ではありますが、臣は疑問を抱きます。」そこで尚書が上奏し、三公に行事を行わせた。

武帝の泰始七年四月、帝が親祭を行おうとし、車駕で夕牲の儀式に臨んだが、儀注ではまだ拝礼を行わないことになっていた。 詔 でその理由を問うと、博士が歴代このように受け継がれてきたと上奏した。帝は「宗廟への敬意を示す礼ではない」と言い、そこで実際に拝礼してから帰り、以後これを制度とし、夕牲の儀には必ず自ら臨んで拝礼することになったが、江左以来また廃止された。

魏の故事では、天子は廟殿の北東に次殿を設け、天子は北門から入った。新礼では、南門の中門外の右に次殿を設け、天子は南門から入ることになっていた。摯虞は「次殿は休息の場所であり、尊貴な方に近づくには目立たないことが恭順であり、目立たないところから入ることが順当である。上位に設け、南門から入るのは謙遜して控える意味に合わない。新礼を定めるには、すべて旧説の通りにするべきだ」と考えた。これに従った。

礼では、大事があれば祖廟と父廟に告げ、小事があれば特に父廟に告げるが、秦漢以来長く廃れていた。魏の文帝の黄初四年七月、東巡を行うことになり、大軍が出動するため、太常に特牛を用いて南郊に告げさせた。文帝が崩御した時も、 太尉 たいい に南郊で諡策を告げさせた。これ以来晋まで受け継がれ、郊に告げた後も引き続き廟に告げたが、江左に至ってその礼は廃れた。成帝の咸和三年、蘇峻が京都を覆滅させ混乱させた時、温嶠らが白石に行廟を立て、再びその典を行った。先君と后に告げて言った。「逆臣蘇峻は 社稷 しゃしょく を傾覆し、三正を毀棄した。海内を汚辱した。臣の侃、臣の嶠、臣の亮らは手ずから戎の首領を斬り、天罰を謹んで行う。中宗元皇帝、肅祖明皇帝、明穆皇后の霊よ、罪ある者を見下ろし、その命を絶ち、この群凶を滅ぼし、宗廟を安んじてください。臣らはたとえ首を落とし身を砕くとも、生きているのと同じです。」

魏の明帝の太和三年、 詔 して言った。「礼では、王后に嗣子がない場合、支子を選んで立てて大宗を継がせ、正統を継ぎ公義を奉ずるべきであり、どうして再び私的な親族を顧みることができようか。漢の宣帝は昭帝の後を継いだが、悼考に皇号を加えた。哀帝は外藩から援けられて立ったが、董宏らが滅びた秦を引き合いに出し、朝議を惑わせ誤らせ、遂に恭皇を尊び、京師に廟を立てた。また藩妾を寵愛し、長信宮と同等にさせ、分を超えた無礼を行い、人神もこれを助けなかった。師丹の忠正な諫言を罪としなかったため、丁氏傅氏の焚如の禍を招いた。これ以来、相次いで行われた。公卿有司に命じ、深く前世を戒めとするように。後嗣が万一諸侯から入って大統を奉ずるようなことがあれば、人の後を継ぐ者の道理を明らかにすべきである。佞邪なことをして君上を諂い誤らせ、正しくない号を妄りに建て、父を皇と称し、母を后と称するようなことがあれば、股肱の大臣はこれを誅し赦さない。これを金策に書き、宗廟に蔵する。」この後、高貴郷公や常道郷公が援けられて立ったが、いずれも外尊を行わなかった。愍帝の建興四年、 司徒 しと の梁芬が追尊の礼を議したが、帝は従わず、左 僕射 ぼくや 索綝 さくちん らも魏の制度を引き合いに出し、不可であるとしたため、呉王を追贈して太保としただけだった。元帝の太興二年、有司が琅邪恭王を皇考と称すべきだと上言した。賀循が議して言った。「礼典の意義では、子は自分の爵位をもって父の号に加えることはできない。」帝はまたこれに従った。