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巻十八 志第八

巻一十八 志第八

律暦志 下

魏の 尚書 郎である楊偉が上表して言った。「臣が文献を調べ、暦数を考察しますと、季節は農事を記し、月は事柄を記すもので、その由来は遠く古くから尊重されてきました。少昊の時代には玄鳥が分至を司り、顓頊・帝嚳の時代には重黎が天を司りました。唐帝・虞舜の時代には羲和が日を掌り、三代はこれを踏襲し、代々に日官がいました。日官が暦を司ると、それを諸侯に頒布し、諸侯はそれを受け取ると、自らの領内に頒布しました。夏の末世には、羲和が酒に溺れ、時を廃し日を乱したので、『書経』に『胤征』が記されています。これを見ると、農時を明らかにし人事を重んじることは、歴代を通じてそうであったのです。周王室が衰え、戦国時代に諸侯が跋扈するに至ると、告朔の羊は廃れて継がれず、登台の礼は滅びて守られず、閏月の配分が暦の順序から外れて識別できず、正月の暦が乱れて誰も悟らず、大火星がなお西に流れているのに、蟄虫が隠れないのを怪しむような有様でした。この時代には、天子は時節に合わせず、司暦は日を記さず、諸侯は職務を受けず、日御は朔日を分けず、人事を顧みず、農時を廃棄していました。仲尼が『春秋』によって乱世を正すにあたり、褒貶を託して糾正し、司暦が閏を失えばそれを譏って記し、登台して朔を頒布することを礼有りと称えました。これ以降、秦漢に至るまで、また孟冬を歳首とし、閏月を後九月とし、中気が錯乱し、時と月が誤りました。時刻が天象より後れ、日蝕が朔日に起こらず、累代にわたって襲用され、久しく改められませんでした。武帝の元封七年に至って、ようやくその誤りを悟り、そこで正朔を改め、暦数を改め、大才の通人に命じて新たに『太初暦』を作らせ、中朔の差を較正して閏分を正し、中星の度を課して暦の疏密を考証し、建寅の月を正朔とし、黄鐘の月を暦の初めとしました。その暦は斗分が多すぎ、後には疏闊になりました。元和二年に至り、再び『四分暦』を用い、施行して今日に至っていますが、日蝕を考察すると、率として晦日にあることが多い。これは斗分が多すぎたため、先は密で後は疏になって用いるに堪えないのです。そこで臣は以前、制典の余日に、天路を推考し、前典に照らし合わせ、蝕朔をもって検証し、詳しく精査して、より密な暦を新たに建てました。そうすれば先にも後にもならず、古今を通じて天象に中ります。昔、唐帝の時代に、日を協わせ時を正し、百工を允かに治め、あらゆる功績が盛んになったようにです。当今の国の典礼、あらゆる制度を、ことごとく往古に符合させ、豊かに完備させたいと願い、正朔を改め、暦数を改め、大呂の月を歳首とし、建子の月を暦の初めとします。臣は考えますに、昔の帝代には法を『顓頊』と称し、軒轅の昔には暦を『黄帝』と称し、漢の孝武帝に至っては正朔を革め、暦数を改め、元号を太初と改めたので、それに因んで『太初暦』と名付けました。今、元号を景初と改めますので、『景初暦』と称すべきです。臣の建てる『景初暦』は、法数は簡約で要を得ており、施行すれば近密であり、治めるには功が省け、学ぶには容易に理解できます。たとえ研桑が心算し、隷首が運籌し、重黎が日影を司り、羲和が日影を観察して、天路を考証し、日月を歩測・検証し、精微を究め尽くし、術数の極みを尽くす者であっても、皆、臣のこの妙なる暦に並ぶことはできないでしょう。これゆえに累代の暦数は、皆、疏であって密ではなく、黄帝以来、常に改革が止まなかったのです。」

壬辰以来、景初元年丁巳の歳に至るまで、積算四千四十六年、算上。

この暦元は、天正で建子の黄鐘の月を暦の初めとし、元首の歳は、夜半甲子朔旦冬至とする。

元法、一万千五十八。

紀法、千八百四十三。

紀月、二万二千七百九十五。

章歳、十九。

章月、二百三十五。

章閏、七。

通数、十三万四千六百三十。

日法、四千五百五十九。

余数、九千六百七十。

周天、六十七万三千一百五十。

紀歳中、十二。

気法、十二。

没分、六万七千三百一十五。

没法、九百六十七。

月周、二万四千六百三十八。

通法、四十七。

会通、七十九万百一十。

朔望合数、六万七千三百一十五。

入交限数、七十二万二千七百九十五。

通周、十二万五千六百二十一。

周日日余、二千五百二十八。

周虚、二千三十一。

斗分、四百五十五。

甲子紀第一

紀の始めに朔が合い、月は日道の内側にある。

交会の差率は四十一万二千九百十九。

遅疾の差率は、十万三千九百四十七。

甲戌紀第二

紀の始めに朔が合い、月は日道の内側にある。

交会の差率は、五十一万六千五百二十九。

遅疾の差率は、七万三千七百六十七。

甲申紀第三

紀の始めに朔が合い、月は日道の内側にある。

交会の差率は、六十二万百三十九。

遅疾の差率は、四万三千五百八十七。

甲午紀第四

紀の始めに朔が合い、月は日道の内側にある。

交会の差率は、七十二万三千七百四十九。

遅疾の差率は、一万三千四百七。

甲辰紀第五

紀首の合朔は、月が日道の裏にある。

交会の差率は、三万七千二百四十九。

遅疾の差率は、十万八千八百四十八。

甲寅紀第六

紀首の合朔は、月が日道の裏にある。

交会の差率は、十四万八百五十九。

遅疾の差率は、七万八千六百六十八。

交会紀差は十万三千六百一十。その数が生じる由来を求めるには、一紀の積月を置き、通数を乗じ、会通で除して去った余りが、紀差の数である。これを転じて前紀に加えれば、後紀を得る。加えて会通に満たないものは、紀首の年の天正十一月合朔で月が日道の裏にある。満ちて去れば、月が日道の表にある。表に加えて満ちれば裏にあり、裏に加えて満ちれば表にある。

遅疾紀差は三万百八十。その数が生じる由来を求めるには、一紀の積月を置き、通数を乗じ、通周で除して去った余りを、通周から減じ、減じた余りが紀差の数である。これを転じて前紀から減じれば、後紀を得る。減じるのに不足するものは、通周を加える。次元の紀差率を求めるには、前元の甲寅紀差率から転じて減じ、余りが次元の甲子紀差率である。次紀を求めるのは、上記の方法と同じである。

朔積月を推算する術は次の通り。壬辰元以来から、求めようとする年までを置き、求めようとする年を外し、紀法で除する。得られた商(算外)が入る紀の番号であり、余りが入紀してからの年数である。章月を乗じ、章歳で除して一とし、積月とする。割り切れない余りが閏余である。閏余が十二以上であれば、その年には閏がある。閏月は中気がないものを正とする。

朔を推算する術は次の通り。通数に積月を乗じて、朔積分とする。日法で除して一とし、積日とする。割り切れない余りが小余である。六十で積日を去り、余りが大余である。大余を紀から数え始め(算外)、求めようとする年の天正十一月朔日である。

次の月を求めるには、大余に二十九を加え、小余に二千四百十九を加える。小余が日法に満てば大余に従い、前と同じように数え始めると、次の月の朔日である。小余が二千百四十以上であれば、その月は大の月である。

弦望を推算するには、朔の大余に七を加え、小余に千七百四十四を加え、小分に一を加える。小分が二に満てば小余に従い、小余が日法に満てば大余に従い、大余が六十に満てば去る。余りを紀から数え始め(算外)、上弦の日である。さらに加えれば、望、下弦、次の月の朔を得る。その月に月蝕がある望については、定小余が中節にある場合、定小余が近い中節の間限の数、限数以下のものは、算上を日とする。望が中節の前後各四日以内にあるものは、限数を見る。望が中節の前後各五日以上にあるものは、間限を見る。

二十四節気の推算術は次の通り。入っている紀年を置き、外に求めるものを以て、余数でこれを乗じ、紀法で満たせば大余とし、尽きなければ小余とする。大余が六十で満たせばこれを去り、余りを紀から起算し、算外とし、天正十一月の冬至の日である。

次の節気を求めるには、大余に十五を加え、小余に四百二を加え、小分に十一を加える。小分が気法で満たされれば小余に従い、小余が紀法で満たされれば大余に従う。起算は前と同じくし、次の節気の日である。

閏月の推算術は次の通り。閏余を以て章歳を減じ、余りを歳中で乗じ、章閏で満たせば一月を得、余りが半法以上であれば、これもまた一月を得る。数は天正十一月から起こし、算外とし、閏月である。閏には進退があり、中気のない月でこれを定める。

大雪(十一月の節)の限数は千二百四十二、間限は千二百四十八。

冬至(十一月の中)の限数は千二百五十四、間限は千二百四十五。

小寒(十二月の節)の限数は千二百三十五、間限は千二百二十四。

大寒(十二月の中)の限数は千二百一十三、間限は千一百九十二。

立春(正月の節)の限数は千一百七十二、間限は千一百四十七。

雨水(正月の中)の限数は千一百二十二、間限は千九十三。

驚蟄(二月の節)の限数は千六十五、間限は千三十六。

春分(二月の中)の限数は千八、間限は九百七十九。

清明(三月の節)の限数は九百五十一、間限は九百二十五。

穀雨(三月の中)の限数は九百、間限は八百七十九。

立夏(四月の節)の限数は八百五十七、間限は八百四十。

小満(四月の中)の限数は八百二十三、間限は八百一十二。

芒種(五月の節)の限数は八百、間限は七百九十九。

夏至(五月の中)の限数は七百九十八、間限は八百一。

小暑(六月の節)の限数は八百五、間限は八百十五。

大暑(六月の中)の限数は八百二十五、間限は八百四十二。

立秋(七月の節)の限数は八百五十九、間限は八百八十三。

処暑(七月の中)の限数は九百七、間限は九百三十五。

白露(八月の節)の限数は九百六十二、間限は九百九十二。

秋分(八月の中)の限数は千二十一、間限は千五十一。

寒露(九月の節)の限数は千八十、間限は千百七。

霜降(九月の中)の限数は千百三十三、間限は千百五十七。

立冬(十月の節)の限数は千百八十一、間限は千百九十八。

小雪(十月の中)の限数は千二百十五、間限は千二百二十九。

没と滅を推算する術に曰く、冬至の積日に小余がある場合、積に一を加え、没分を乗じ、没法で除する。得たものを大余とし、余りを小余とする。大余が六十に満てばこれを去り、余りを紀から起算し、算外とし、これが去年の冬至後の没日である。

次の没を求めるには、大余に六十九を加え、小余に五百九十二を加える。小余が没法に満てば一を得て、大余に従う。起算法は前と同じ。小余が尽きるのが滅である。

五行の用事日を推算する。立春、立夏、立秋、立冬は、それぞれ木、火、金、水が用事を始める日である。それぞれの大余から十八を引き、小余から四百八十三を引き、小分から六を引く。余りを紀から起算し、算外とする。これらがそれぞれ四立の前の、土が用事を行う日である。大余が引ききれない場合は六十を加える。小余が引ききれない場合は大余から一を引き、紀法を加える。小分が引ききれない場合は小余から一を引き、気法を加える。

卦を用いる日を推算する方法:冬至の大余を基にし、その小余を六倍すると、それが『坎卦』を用いる日である。小余に一万九十一を加え、元法を満たせば大余に繰り上げ、それが『中孚』を用いる日である。

次卦を求めるには、それぞれ大余に六、小余に九百六十七を加える。四正の卦はそれぞれその中日を基にし、その小余を六倍する。日の度数を推算する術:紀法で朔積日を割り、周天を満たした分を除き、余りを紀法で割ると、得られるものが度、割り切れないものが分である。度を牛宿の前五度から起算し、宿次を順に除いていき、宿を満たさなければ、それが天正十一月朔の夜半における太陽の所在する度と分である。

翌日を求めるには、日に一度を加え、分は加えない。斗宿を経る時は斗分を除き、分が不足すれば一度を戻す。

月の度数を推算する術:月周に朔積日を乗じ、周天を満たした分を除き、余りを紀法で割ると、得られるものが度、割り切れないものが分である。前述の方法で起算すれば、天正十一月朔の夜半における月の所在する度と分である。

翌月を求めるには、小月には度二十二、分八百六を加え、大月にはさらに一日を加え、度十三、分六百七十九を加える。分が紀法を満たせば一度を得て、合わせて月朔の夜半における月の所在する度分となる。その冬の下旬には、月は張宿・心宿にあると記す。

合朔の度数を推算する術:章歳に朔小余を乗じ、通法を満たせば大分とし、割り切れなければ小分とする。大分を朔の夜半の日の度分に加え、分が紀法を満たせば度に繰り上げ、前述のように起算すれば、天正十一月の合朔における日月が共に合う度である。

翌月を求めるには、度二十九、大分九百七十七、小分四十二を加える。小分が通法を満たせば大分に繰り上げ、大分が紀法を満たせば度に繰り上げ、斗宿を経る時はその分を除く。すると翌月の合朔における日月が共に合う度である。

弦・望の日の所在する度を推算する:合朔の度に七、大分七百五、小分十、微分一を加える。微分が二を満たせば小分に繰り上げ、小分が通法を満たせば大分に繰り上げ、大分が紀法を満たせば度に繰り上げ、前述のように起算すれば、上弦の日の所在する度である。さらに加えれば望、下弦、次の月の合朔を得る。

弦・望の月の所在する度を推算する:合朔の度に九十八、大分千二百七十九、小分三十四を加え、数が満ちれば前述のように起算する。これが上弦の月の所在する度である。さらに加えれば望、下弦、次の月の合朔を得る。

日月の昏・明の度を推算する術:日は紀法を、月は月周を、それぞれ近い節気の夜漏に乗じ、二百で割ると、明分となる。日は紀法から、月は月周からこれを減じ、余りが昏分となる。それぞれその分を夜半に加え、法に従って度とする。

合朔・交会・月蝕を推算する術:入る紀の朔積分を置き、入る紀の下にある交会差率の数を加え、会通で割って余りを除くと、余りが求める年の天正十一月合朔の交点からの距離(度分)である。通数を加え、会通を満たせば除き、余りが翌月の合朔の交点からの距離である。朔望合数をそれぞれその月の合朔の交点からの距離に加え、会通を満たせば除くと、余りがそれぞれその月の望の交点からの距離である。朔・望の交点からの距離が、朔望合数以下で、かつ入交限数以上であれば、朔では交会が、望では月蝕が起こる。

合朔・交会・月蝕における月が黄道の表(北)か裏(南)かを推算する術:入る紀の朔積分を置き、入る紀の下にある交会差率の数を加え、会通の二倍で割って余りを除く。余りが会通に満たない場合、紀首が表なら天正合朔の月は表に、紀首が裏なら天正合朔の月は裏にある。会通を満たして除いた場合、表から満たせば裏に、裏から満たせば表にある。

翌月を求めるには、通数を加え、会通を満たせば除く。裏に加えて満たせば表に、表に加えて満たせば裏にある。先に交会して後に月蝕がある場合、朔が表なら望も表に、朔が裏なら望も裏にある。先に月蝕して後に交会がある場合、蝕の月の朔が裏なら望は表に、朔が表なら望は裏にある。交会・月蝕が朔望合数以下であれば、前交后会(先に交点通過、後に合朔・望)であり、入交限数以上であれば、前会后交(先に合朔・望、後に交点通過)である。前交后会で限数に近い場合は、前もって観測し、前会后交で限数に近い場合は、後から観測する。

交点からの距離を求める術:前交后会の場合、現在の交点からの距離(度分)を日法で割ると、得られるものが後方への交点からの距離である。前会后交の場合、交点からの距離を会通から引き、余りを日法で割ると、得られるものが前方への交点からの距離である。余りはすべて度分である。交点からの距離が十五以上では、交点を通過しても蝕は起こらない。十以下では蝕が起こり、十以上では欠蝕がわずかで、光がかすめる程度である。欠ける多少は、十五を基準とする。

日蝕の欠け始める角を求める術:その月が外道(黄道より南)にあり、前交后会の場合、欠蝕は西南の角から始まる。前会后交の場合、欠蝕は東南の角から始まる。その月が内道(黄道より北)にあり、前交后会の場合、欠蝕は西北の角から始まる。前会后交の場合、欠蝕は東北の角から始まる。欠蝕の分の多少は、上記のように十五を基準とする。交点の中央で会すれば、完全な蝕となる。月蝕は太陽の対衝にあり、欠ける角は上記と反対である。

月の運行の遅速の度合い  損益率  盈縮積分  月の運行分

一日 十四度十四分  益二十六  盈初  二百八十

二日 十四度十一分  益二十三  盈積分十一万八千五百三十四  二百七十七

三日 十四度八分  益二十  盈積分二十二万三千三百九十一  二百七十四

四日 十四度五分  益十七  盈積分三十一万四千五百七十一  二百七十一

五日 十四度一分  益十三  盈積分三十九万二千七十四  二百六十七

六日 十三度十四分  益七  盈積分四十五万一千三百四十一  二百六十一

七日 十三度七分  損  盈積分四十八万三千二百五十四  二百五十四

八日 十三度一分  損六  盈積分四十八万三千二百五十四  二百四十八

九日 十二度十六分  損十  盈積分四十五万五千九百  二百四十四

十日 十二度十三分  損十三  盈積分四十一万三百一十  二百四十一

十一日 十二度十一分  損十五  盈積分三十五万一千四百一十三  二百三十九

十二日 十二度八分  損十八  盈積分二十八万二千六百五十八  二百三十六

十三日 十二度五分  損二十一  盈積分二十万五百九十六  二百三十三

十四日 十二度三分  損二十三  盈積分十万四千八百五十七  二百三十一

十五日、十二度五分、益二十一、縮初、二百三十三

十六日、十二度七分、益十九、縮積分九万五千七百三十九、二百三十五

十七日、十二度九分、益十七、縮積分十八万二千三百三十六、二百三十七

十八日、十二度十二分、益十四、縮積分二十五万九千八百六十三、二百四十

十九日、十二度十五分、益十一、縮積分三十二万三千六百八十九、二百四十三

二十日、十二度十八分、益八、縮積分三十七万三千八百三十八、二百四十六

二十一日、十三度三分、益四、縮積分四十一万三百一十、二百五十

二十二日、十三度七分、損、縮積分四十二万八千五百四十六、二百五十四

二十三日、十三度十二分、損五、縮積分四十二万八千五百四十六、二百五十九

二十四日、十三度十八分、損十一、縮積分四十万五千七百五十一、二百六十五

二十五日、十四度五分、損十七、縮積分三十五万五千六百二、二百七十一

二十六日、十四度十一分、損二十三、縮積分二十七万八千九十九、二百七十七

二十七日、十四度十二分、損二十四、縮積分十七万三千二百四十二、二百七十八

周日、十四度十三分(小分六百二十六分)、損二十五(小分六百二十六)、縮積分六万三千八百二十六、二百七十九(小分六百二十六)

合朔・交会・月蝕の遅疾暦への入りを推算する術は次の通り。入る紀の朔積分を置き、入る紀の下にある遅疾差率の数をこれに加え、通周でこれを去る。余りが日法に満てば一日とし、満たないものは日余とする。日を算外から起算すれば、求める年の天正十一月の合朔が暦に入る日となる。

次の月を求めるには、一日を加え、日余は四千四百五十となる。望を求めるには、十四日を加え、日余は三千四百八十九となる。日余が日法に満てば一日となり、日数が二十七に達すればそれを除く。また余りを周日余で除し、日余が除しきれない場合は一日を減らし、周虚を加える。

合朔・交会・月蝕の定大小余を推算する:入暦日余に、入っている暦の損益率を乗じ、盈縮積分を損益して、定積分とする。章歳から入暦月行分を減じ、その余りで定積分を除し、得た値を以て盈の場合は本小余を減じ、縮の場合は加える。加えて日法に満てば、交会の加時は翌日となる;減じて不足すれば、交会の加時は前日となる。月蝕の場合は、定大小余に従って日加時とする。入暦が周日にある場合は、周日日余に縮積分を乗じて定積分とする。損率に入暦日余を乗じ、さらに周日日余を乗じ、周日日度小分と合わせて、定積分から減じ、余りを後定積分とする。章歳から周日月行分を減じ、その余りに周日日余を乗じ、周日度小分と合わせて、後定積分を除し、得た値を本小余に加え、上述の方法に従う。

加時を推算する:十二に定小余を乗じ、日法で除して一辰を得、数は子から始め、算外とし、これが朔望の加時が所在する辰である。余りが尽きない場合は四倍し、日法で除して一を少とし、二を半とし、三を太とする。さらに余りがある場合は三倍し、日法で除して一を強とし、半法以上は繰り上げて一とし、半法未満は廃棄する。強を少に合わせれば少強、半に合わせれば半強、太に合わせれば太強となる。二強を得れば少弱とし、これに少を合わせれば半弱、半を合わせれば太弱、太を合わせれば一辰弱となる。所在する辰を以て名付け、それぞれ少・太・半および強・弱を得る。月蝕の望が中節の前後四日以内にある場合は限数を視、中節の前後五日以上にある場合は間限を視る。定小余が間限・限数以下の場合は、算上を以て日とする。

斗二十六分四百五十五、牛八、女十二、虚十、危十七、室十六、壁九

北方九十八度分四百五十五

奎十六、婁十二、胃十四、昴十一、畢十六、觜二、参九

西方八十度

井三十三、鬼四、柳十五、星七、張十八、翼十八、軫十七

南方百十二度

角十二、亢九、 てい 十五、房五、心五、尾十八、箕十一

東方七十五度

表は略す

右の如く中節二十四気を、術に従って求めると、冬至は十一月中となる。これを加えて次月の節を得、節を加えてその月の中を得る。中星は日の所在を正とし、求める年の二十四気の小余を置き、四倍し、法で除して一を得れば少とする;少が尽きなければ、三倍し、法で除して強とする;得た値を以てその節気の昏明中星をそれぞれ減じて定める。

五星術を推算する

五星とは、木星を歳星、火星を熒惑星、土星を填星、金星を太白星、水星を辰星という。凡そ五星の運行には、遅いものと速いものがあり、留と逆行がある。昔、天地開闢より清濁が分かれ始めると、日月五星は星紀に聚まった。星紀より発し、並んで天を運行し、遅疾留逆し、互いに追い及ぶ。星が日と会い、同じ宿・同じ度にあれば、これを合という。合から次の合までの日数を、終という。それぞれ終の日数と一歳の日数を通分して約し、終を率とし、歳数を積めば合終歳数、歳の終わりを合終合数という。二つの率が定まれば、法数が生じる。章歳に合数を乗じて、合月法とする。紀法に合数を乗じて、日度法とする。章月に歳数を乗じて、合月分とする;合月法で除して合月数とし、合月の余りを月余とする。通数に合月数を乗じ、日法で除して、大余とする。六十を以て大余を去り、余りを星合朔大余とする。大余の余りを朔小余とする。通数に月余を乗じ、合月法に朔小余を乗じ、合わせ、日法に合月法を乗じたもので除し、得た値を星合入月日数とする。余りを通法で約して、入月日余とする。朔小余を日法から減じ、余りを朔虚分とする。暦斗分に合数を乗じて、星度斗分とする。木・火・土はそれぞれ合数を歳数から減じ、余りに周天を乗じ、日度法で除し、得た値を行星の度数とし、余りを度余とする。金・水は周天に歳数を乗じ、日度法で除し、得た値を行星の度数とし、余りを度余とする。

木星:合の終わりの歳数、一千二百五十五。

合の終わりの合数、一千一百四十九。

合の月法、二万一千八百三十一。

日の度法、二百十一万七千六百七。

合の月数、十三。

月の余り、一万一千一百二十二。

朔の大余、二十三。

朔の小余、四千九十三。

入月の日、十五。

日の余り、百九十九万五千六百六十四。

朔の虚分、四百六十六。

斗分、五十二万二千七百九十五。

行星の度、三十三。

度の余り、百四十七万二千八百六十九。

火星:合の終わりの歳数、五千一百五。

合計の終わりと合計の数は、二千三百八十八。

合計の月法は、四万五千三百七十二。

日度法は、四百四十万一千八十四。

合計の月数は、二十六。

月の余りは、二万三。

朔の大余は、四十七。

朔の小余は、三千六百二十七。

入月日は、十三。

日の余りは、三百五十八万五千二百三十。

朔の虚分は、九百三十二。

斗分は、百八万六千五百四十。

行星の度は、五十。

度の余りは、百四十一万二千百五十。

土星:合計の終わりの歳数は、三千九百四十三。

合計の終わりと合計の数は、三千八百九。

月の法を合わせると、七万二千三百七十一。

日の度の法は、七百一万九千九百八十七。

月の数を合わせると、十二。

月の余りは、五万八千百五十三。

朔の大余は、五十四。

朔の小余は、一千六百七十四。

月に入る日は、二十四。

日の余りは、六十七万五千三百六十四。

朔の虚分は、二千八百八十五。

斗の分は、百七十三万三千九十五。

行星の度は、十二。

度の余りは、五百九十六万二千二百五十六。

金星:合の終わりの歳数は、一千九百七。

合の終わりの合数は、二千三百八十五。

合の月の法は、四万五千三百十五。

日の度数法は、四百三十九万五千五百五十五。

月数を合わせると、九。

月の余りは、四万三百一十。

朔の大余は、二十五。

朔の小余は、三千五百三十五。

入月日は、二十七。

日の余りは、十九万四千九百九十。

朔の虚分は、一千二十四。

斗分は、一百八万五千一百七十五。

行星の度数は、二百九十二。

度の余りは、十九万四千九百九十。

水星:合の終わりの歳数は、一千八百七十。

合の終わりの合数は、一万一千七百八十九。

合の月法は、二十二万三千九百九十一。

日の度数法は、二千一百七十二万七千一百二十七。

合計月数は、一。

月余は、二十一万五千四百五十九。

朔大余は、二十九。

朔小余は、二千四百一十九。

入月日は、二十八。

日余は、二千三十四万四千二百六十一。

朔虚分は、二千一百四十。

斗分は、五百三十六万三千九百九十五。

行星度は、五十七。

度余は、二千三十四万千三百六十一。

五星を推算する術は次のように言う。壬辰元以来から求めようとする年までを置き、合終合数を乗じ、合終歳数で割って得たものを積合と名付け、割り切れなかったものを合余と名付ける。合終合数から合余を引き、一を得れば星は前年に合し、二を得れば前々年に合し、得られなければその年に合する。余りを合終合数から引いたものを度分とする。金星・水星の積合は、偶数であれば晨、奇数であれば夕となる。

五星の合月を推算する。月数・月余をそれぞれ積合に乗じ、余りが合月法に満てば月に加え、これを積月とし、満たないものを月余とする。紀月で積月を割り、得られた数の外側を計算し、入る紀が分かり、余りを入紀月とする。副として章閏を乗じ、章月で割って一を得れば閏とし、入紀月から引き、余りを歳中から引けば、余りが入歳月となり、天正から起算し、計算の外側を命ずれば、星が合する月である。閏の交際にある場合は、朔をもってこれを制する。

合月の朔を推算する。通数に入紀月を乗じ、日法で割って一を得れば積日とし、割り切れないものを小余とする。六十で積日を引き、余りを大余とし、入る紀から起算し、計算の外側を命ずれば、星が合する朔の日である。

入月日を推算する。通数に月余を乗じ、合月法に朔小余を乗じ、合わせて通法で約し、得られたものが日度法で割って一を得れば星が合する入月日であり、満たなければ日余となる。日を朔から起算し、計算の外側を命ずれば、入月日である。

星が合する度を推算する。周天に度分を乗じ、日度法で割って一を得れば度とし、割り切れないものを余りとする。牛宿の前五度から起算し、計算の外側を命ずれば、星が合する度である。

後の月を求める方法:月数を歳月に加え、余りを月余に加える。余りが合月法を満たせば一月を得る。月が歳中に満たなければ、その年に在る。満たして去れば、閏があれば計算に入れ、余りは後年となる。再び満たせば、後二年に在る。金星・水星は晨に加えて夕を得、夕に加えて晨を得る。

後の合朔を求める方法:朔の大余・小余の数に合朔月の大余・小余を加える。その月余が月を成す場合は、さらに大余二十九、小余二千四百一十九を加え、小余が日法を満たせば大余に従い、前述の法に従って命ずる。

後の入月日を求める方法:入月日・日余に入月日及び余りを加え、余りが日度法を満たせば一を得る。前の合朔の小余がその虚分を満たす場合は、一日を去る。後の小余が二千四百一十九以上であれば、二十九日を去る。満たさなければ三十日を去り、その余りが後の合の入月日となり、朔を以って命ずる。後の合の度を求めるには、度数及び分を、前の合の宿次に従って命ずる。

木星:晨に日と合し、伏し、順行、十六日九十九万七千八百三十二分で行星二度百七十九万五千二百三十八分し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、疾く、日行五十七分の十一、五十七日で十一度行く。順行、遅く、日行九分、五十七日で九度行き留まる。二十七日行かずして旋回する。逆行、日行七分の一、八十四日で十二度退き再び留まる。二十七日で再び遅く、日行九分、五十七日で九度行き再び順行する。疾く、日行十一分、五十七日で十一度行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、十六日九十九万七千八百三十二分で行星二度百七十九万五千二百三十八分し、日と合する。凡そ一終、三百九十八日百九十九万五千六百六十四分、行星三十三度百四十七万二千八百六十九分。

火星:晨に日と合し、伏し、七十二日百七十九万二千六百一十五分で行星五十六度百二十四万九千三百四十五分し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、日行二十三分の十四、百八十四日で百十二度行く。更に順行、遅く、日行十二分、九十二日で四十八度行き留まる。十一日行かずして旋回する。逆行、日行六十二分の十七、六十二日で十七度退き再び留まる。十一日で再び順行、遅く、日行十二分、九十二日で四十八度行き再び疾くなる。日行十四分、百八十四日で百十二度行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、七十二日百七十九万二千六百一十五分で行星五十六度百二十四万九千三百四十五分し、日と合する。凡そ一終、七百八十日三百五十八万五千二百三十分、行星四百十五度二百四十九万八千六百九十分。

土星:晨に日と合し、伏し、十九日三百八十四万七千六百七十五分半で行星二度六百四十九万一千一百二十一分半し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、百七十二分の十三を運行、八十六日で六度半行き留まる。三十二日半行かずして旋回する。逆行、日行十七分の一、百二日で六度退き再び留まる。三十二日半行かずして再び順行、日行十三分、八十六日で六度半行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、十九日三百八十四万七千六百七十五分半で行星二度六百四十九万一千一百二十一分半し、日と合する。凡そ一終、三百七十八日六十七万五千三百六十四分、行星十二度五百九十六万二千二百五十六分。

金星:晨に日と合し、伏し、六日で四度退き、晨に東方に現れ、日の後にあるが逆行する。遅く、日行五分の三、十日で六度退く。留まり、七日行かずして旋回する。順行、遅く、日行四十五分の三十三、四十五日で三十三度行き順行する。疾く、日行一度九十一分の十四、九十一日で百五度行き順行する。益々疾く、日行一度九十一分の二十一、九十一日で百十二度行き、日の後に在り、晨に東方に伏す。順行、四十二日十九万四千九百九十分で行星五十二度十九万四千九百九十分し、日と合する。一合、二百九十二日十九万四千九百九十分、行星も同様。

金星:夕に日と合し、伏し、順行、四十二日十九万四千九百九十分で行星五十二度十九万四千九百九十分し、夕に西方に現れ、日の前にある。順行、疾く、日行一度九十一分の二十一、九十一日で百十二度行き更に順行する。遅く、日行一度十四分、九十一日で百五度行き順行する。益々遅く、日行四十五分の三十三、四十五日で三十三度行き留まる。七日行かずして旋回する。逆行、日行五分の三、十日で六度退き、日の前に在り、夕に西方に伏す。逆行、六日で四度退き、日と合する。凡そ再び合して一終、五百八十四日三十八万九千九百八十分、行星も同様。

水星:晨に日と合し、伏し、十一日で七度退き、晨に東方に現れ、日の後にある。逆行、疾く、一日で一度退き留まる。一日行かずして旋回する。順行、遅く、日行八分の七、八日で七度行き順行する。疾く、日行一度十八分の四、十八日で二十二度行き、日の後に在り、晨に東方に伏す。順行、十八日二千三十四万四千二百六十一分で行星三十六度二千三十四万四千二百六十一分し、日と合する。凡そ一合、五十七日二千三十四万四千二百六十一分、行星も同様。

水星:夕に日と合し、伏し、十八日二千三十四万四千二百六十一分で行星三十六度二千三十四万四千二百六十一分し、夕に西方に現れ、日の前にある。順行、疾く、日行一度十八分の四、十八日で二十二度行き更に順行する。遅く、日行八分の七、八日で七度行き留まる。一日行かずして旋回する。逆行、一日で一度退き、日の前に在り、夕に西方に伏す。逆行、十一日で七度退き、日と合する。凡そ再び合して一終、百十五日千八百九十六万千三百九十五分、行星も同様。

五星の暦歩術

法伏日の度余に星合日の度余を加え、余が日度法に満てば一を得て全に従い、前述のように命じて、星の見える日及び度余を得る。星行の分母で見える度分を乗じ、日度法で割って一を得、分が尽きなければ、半法以上もまた一を得、そして日に加える所の行分、分がその母に満てば一度を得る。逆順の母が同じでない場合、当行の母で故の分を乗じ、故の母で割って、当行分とする。留は前を承け、逆ならばこれを減じ、伏は度を尽くさず、斗分を除き、行母を率とする。分に損益があり、前後相いに対応する。

武帝の侍中である平原の劉智は、斗暦によって憲を改め、『四分法』を推し、三百年で一日を減じ、百五十を度法とし、三十七を斗分とした。甲子を上元として推し、泰始十年に至り、歳は甲午に在り、九万七千四百十一歳、上元天正甲子朔夜半冬至、日月五星は星紀より始まり、元首の端を得た。浮説で飾り、『正暦』と名付けた。

当陽侯の 杜預 が著した『春秋長暦』に、次のように説いている。

太陽は一日に一度運行し、月は十三度十九分の七あまり運行する。日官はこの遅速を会集して、晦朔を考成し、閏月を設けるべきである。閏月には中気がなく、北斗が斜めに二辰の間を指すので、他の月とは異なる。これを積み重ねて相通じさせ、四時八節に違わず、初めて歳を成すことができる。その精微さは極まりない。その精微を得て、天道に合致させれば、事は順序立てられ過ちがない。故に『伝』に曰く、「閏は時を正し、時は事を作す」と。しかし陰陽の運行は、動きに従って差が生じ、差が止まなければ、遂に暦と錯綜する。故に仲尼、丘明は毎に朔閏について文を発し、得失を矯正し、それによって暦数を宣明したのである。

劉子駿が『三正暦』を造って『春秋』を修めたが、日蝕に甲乙があるものが三十四あるのに、『三正暦』ではただ一つの蝕を得るのみで、諸家と比べて最も疎らである。また六千余歳ごとに一日を益し、凡そ歳は日を累ねて次とすべきところを、敢えてこれを益すのは、これが甚だしく実行不可能な点である。

古来より、『春秋』を論ずる者は多く違謬があり、或いは家術を造り、或いは黄帝以来の諸暦を用いて、経伝の朔日を推したが、皆調和しない。日蝕は朔にある、これは天の験である。『経伝』はまたその朔蝕を書き記しており、天を得たと言える。しかし劉賈らの諸儒の説は、皆これを月の二日或いは三日とし、聖人の明文に公然と違背している。その弊は一元を守り、天の消息に応じないことにある。

私は『春秋』の事に感じて、かつて『暦論』を著し、暦の通理を極言した。その大旨は次のようである。「天の運行は止まず、日月星辰は各々その舎を運行し、皆動く物である。物が動けば一様ではなく、行度に大量あって限りを得ることはできても、日を累ねて月とし、月を累ねて歳とするにあたり、新旧が相いに関わるので、毫末の差を生ぜざるを得ない。これは自然の理である。故に春秋には月を頻りに重ねて蝕する日があり、また年を隔てて蝕しない年がある。理が一様でないのに、算は恒数を守るので、暦には先後がないものはない。始めは毫毛の失いで、まだ覚えることができないが、積もって多くなり、弦望晦朔を失うに至れば、則ち憲を改めてこれに従わざるを得ない。『書経』に所謂「昊天を欽み、日月星辰を暦象す」、『易経』に所謂「暦を治め時を明らかにす」とは、天に順って合致を求めるべきことを言い、合致させて天を験するためではない。この論を推すに、春秋二百余年の間、その暦を治めて変通すること多かった。数術は絶滅しているが、遠く『経伝』の微旨を尋ねれば、大量は知ることができ、時の違謬は、『経伝』に験がある。学者は固より曲く『経伝』の月日、日蝕に従って、晦朔を考証し、時を推して験すべきである。しかし皆そうではなく、各々その学に拠って春秋を推している。これは己の足跡を測って、他人の足を削ろうとするのと異ならない。

私は『暦論』を著した後、咸寧年間に至り、算に優れた者李修、卜顕が、論の体裁に依って術を作り、『乾度暦』と名付け、朝廷に上表した。その術は日行の四分の数に合致させて月行を微増し、三百歳で憲を改める意を用い、二元を相い推し、七十余歳、強弱を以て承け、強弱の差は少ないが、恰も盈縮を通じるに足るものであった。当時尚書及び史官は、『乾度暦』と『泰始暦』で古今の記注を参校し、『乾度暦』は『泰始暦』に殊に勝り、官暦より四十五事勝っていた。今その術は具に存する。また古今の十暦を並び考証して『春秋』に験し、『三統暦』が最も疎らであることを知った。

『春秋』は大凡七百七十九日、三百九十三が『経』、三百八十六が『伝』である。そのうち三十七が日食である。三つは甲乙がない。

『黄帝暦』では四百六十六日を得、一つの蝕。

『顓頊暦』では五百九日を得、八つの蝕。

『夏暦』では五百三十六日を得、十四の蝕。

『真夏暦』では四百六十六日を得、一つの蝕。

『殷暦』では五百三日を得、十三の蝕。

『周暦』では五百六日を得、十三の蝕。

『真周曆』では四百八十五日で、日食が一度あった。

『魯曆』では五百二十九日で、日食が十三度あった。

『三統曆』では四百八十四日で、日食が一度あった。

『乾象曆』では四百九十五日で、日食が七度あった。

『泰始曆』では五百一十日で、日食が十九度あった。

『乾度曆』では五百三十八日で、日食が十九度あった。

現在の『長曆』では七百四十六日で、日食が三十三度あった。三十三日の誤差は『経伝』の誤りであり、四度の日食は、三度が甲乙の日付を欠いている。

漢の末期、宋仲子が七種の暦法を集めて『春秋』を考証したところ、その夏暦・周暦の術数はいずれも『芸文志』に記されたものと異なっていたため、改めて『真夏曆』『真周曆』と名付けたのである。

穆帝の永和八年、著作郎の琅邪王朔之が『通曆』を作り、甲子を上元とし、積算九万七千年、四千八百八十三を紀法、千二百五を斗分とし、その上元を天地開闢の始まりとした。

後秦の姚興の時代、孝武帝の太元九年、甲申の年に当たり、天水の姜岌が『三紀甲子元曆』を作り、その概要は次のとおりである。「暦法を治める道は、必ず日月の運行を詳しく調べ、それによって初めて上は天時を考証し、下は地の変化を察することができる。その根本を一つ誤れば、四季が変移してしまう。それゆえ仲尼が『春秋』を作るにあたり、日をもって月を継ぎ、月をもって時を継ぎ、時をもって年を継ぎ、年をもって事の始めとし、天時を明らかにすることが人事の根本であることを示し、それゆえ王者はこれを重んじたのである。皇羲(伏羲)以来、漢魏に至るまで、それぞれが暦を作り、その適中を求めてきた。その粗密を考証するには、日月の交会と薄蝕(日食・月食)によってのみ検証することができる。しかし文 字 で記録されたもののうち、『春秋』だけが日食の変異を著している。隠公から哀公に至るまで、凡そ二百四十二年の間に、日食は三十六度あったが、その晦朔(月の最終日と朔日)を考証しても、どの暦法を用いたのかわからない。班固は『春秋』が『魯曆』に依拠し、『魯曆』が正しくなかったため、閏月を置く順序を誤ったと考えた。魯では閏余一の年を蔀首としたが、『春秋』に置かれた閏月を検証すると、この蔀と符合しない。『命曆序』に言う。孔子は『春秋』を治めるために、殷の古い暦法を修め、その数値を後世に伝えられるようにした。そうであるならば、『春秋』は『殷曆』によって正されるべきである。今、その交会を考証すると、『殷曆』と相応せず、『殷曆』で『春秋』を考証すると、月朔がその日付に及ばないことが多く、また『経』文を検証すると、概ね一日多く、『伝』文は概ね一日少ない。ただ『公羊伝』では『経』と『伝』で朔が異なっており、理屈上は従うことができるが、『経』には蝕朔の証拠があり、『伝』の方が誤っているのである。服虔が『伝』を解釈するのに太極上元を用いたが、太極上元は『三統曆』の劉歆が作った元(暦の起点)である。どうしてそれを『春秋』に適用できようか。『春秋』に対して『漢曆』を用いるのは、道理からしてあまりにも遠くないか。『伝』の誤り失うところは多く、この事柄だけではない。襄公二十七年冬十一月乙亥朔に、日食があった。『伝』に言う。『辰(太歳)が申にある。司曆が過ち、閏月を二度失ったのである。』その去交分(交点からの距離)を考証すると、交会はこの月にあるはずで、閏月を二度失ったわけではない。劉歆の暦法を『春秋』の日食に当てはめると、一度は朔日に合うが、その他は多く二日目にある。そこで『五行伝』に付会し、朓(月が早く出る)と側匿(月が遅く出る)の説を著して言う。春秋時代は諸侯が多くその政を失ったため、月の運行が常に遅かったのだと。劉歆は暦法が天象に合わないことを認めず、かえってこのような誤った説を立てた。日が朔日に食われるのは、これは天の験(証拠)であるのに、劉歆はかえって暦法がこれに合わないことを理由に、天を冤罪に陥れ、時の暦法に背いたのである。杜預はまた、周が衰え世が乱れ、学者がその真実を得られなかったため、今伝わる七種の暦法は、いずれも当時の王者の術では未必であると考えた。今、誠に七家の暦法をもって古今の交会を考証すると、確かにその験(証拠)はなく、すべて斗分の粗さによって引き起こされたのである。『殷曆』は四分の一を斗分とし、『三統』は一千五百三十九分の三百八十五を斗分とし、『乾象』は五百八十九分の百四十五を斗分とし、現在の『景初』暦は一千八百四十三分の四百五十五を斗分とする。粗密が同じでなく、法数もそれぞれ異なる。『殷曆』の斗分は粗いため、今に適用できない。『乾象』の斗分は細かいため、古に通じることができない。『景初』の斗分は粗細の中間にあるが、太陽の所在が四度も差があり、日月の虧食は、いずれもその次(宿度)に及ばない。仮に太陽が東井にあって食われるとしても、月をもって検証すると、参宿六度にあり、誤差がこれほどあるのでは、どうして天時と人事を考証できようか。今、新暦を治め、二千四百五十一分の六百五を斗分とし、太陽は斗宿十七度にあり、天正の首(暦の起点)とする。上は『春秋』に考合することができ、下は今の世に取って験証することができる。これをもって『春秋』の三十六の日食を考証すると、朔日に正しく合うものが二十五、二日目に食われるものが二、晦日に食われるものが二、誤っているものが五、合わせて三十三の日食である。その他の日食は経文に日付を記した名がなく、その得失を考証するすべがない。図緯(讖緯の書)は皆『三百歳で斗曆が改憲される』と言う。今の新暦を春秋の時代に適用すると、日食は多く朔日にある。春秋の時代から下って現在に至るまで、凡そ千余歳、交会・弦望は三度の日食の間で進退し、この法こそ永く用いるに足りるものであり、どうして三百歳で斗曆が改憲されるということがあろうか。」

甲子上元以来、魯の隠公元年(己未の年)まで、凡そ八万二千七百三十六年、 しん の孝武帝太元九年(甲申の年)まで、凡そ八万三千八百四十一年、算上。

元法は七千三百五十三。

紀法は二千四百五十一。

通数は十七万九千四十四。

日法は六千六十二。

月の周回数は、三万二千七百六十六。

気の分は、一万二千八百六十。

元月は、九万九百四十五。

紀月は、三万三百一十五。

没分は、四万四千七百六十一。

没法は、六百四十三。

斗分は、六百五。

周天は、八十九万五千二百二十。一名を紀日という。

章月は、二百三十五。

章歳は、十九。

章閏は、七。

歳中は、十二。

会数は、四十七。日月八百九十三歳で、凡そ四十七会し、分が尽きる。

気中は、十二。

甲子紀交差は、九千一百五十七。

甲申紀の交差は、六千三百三十七。

甲辰紀の交差は、三千五百一十七。

周の半分は、一百二十七。

朔望の合数は、九百四十一。

会歳は、八百九十三。

会月は、一万一千四十五。

小分は、二千一百九十六。

章数は、一百二十九。

小分は、二千一百八十三。

周閏の大分は、七万六千二百六十九。

暦周は、四十四万七千六百一十。半周天

会分は、三万八千一百三十四。

差分は、一万一千九百八十六。

会率は、一千八百八十二。

小分法は、二千二百九。

入交限は、一万百四。

小周は、二百五十四。

甲子紀の差率は、四万九千百七十八。

甲申紀の差率は、五万八千二百三十一。

甲辰紀の差率は、六万七千二百八十四。

通周は、十六万七千六十三。

周日の日餘は、三千三百六十二。

周虚は、二千七百一。

五星の約法は、出現・見え始めを基準として正しいものとし、元本(暦元)には拘束されない。しかしながら、計算と歩推は元初(暦元)において究められ、約法は現在の運用に適用される。その趣旨を詳しく求めれば、それぞれに適した方法があるので、作者は両方の方法を設けたのである。姜岌は月食を用いて太陽の宿度の所在を検証し、暦術を行う者の宗とされた。また『渾天論』を著し、太陽の黄道上の運行を推算し、先儒の誤りを論駁して、いずれも中正を得た。