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卷十六 志第六

『易経』に言う。「形而上なるものを道と謂い、形而下なるものを器と謂う。」神の道は広大であり、その妙なる根本は陰陽にある。形ある器物は精微であり、その理は律呂に先立つ。聖人は四時の変化を観察し、玉を刻んでその盈虚を記し、五行の音声を察知し、金を鋳てその清濁を均しくした。それによって八風を順応させ九徳を宣揚し、大楽を調和させて政道を成し遂げたのである。しかし金の性質は革に従い、形は一定しない。竹の体は円く中空で、長短を調整しやすい。それゆえ神瞽が律を作り、鐘の音を写し取った。三を以て紀し、六を以て平らげ、十二を以て成すのは、天の道である。また、日時を日影の長さに合わせ、地気を灰管で測る。ゆえに陰陽が調和すれば日影が正しく至り、律気が応じれば灰が飛ぶ。灰が飛び律が通じ、吹いて音を定めれば、それは天地の中声となる。故に百度を範囲し、万物を化成することができる。これが『虞書』にいう「時月を叶え日を正し、律度量衡を同じくする」というものである。中声が節度を得て文となり、徳音が顕れて和が備われば、天地を動かし、鬼神を感応させ、性情を導き、風俗を移すことができる。志を言葉に合わせて詠歌に託し、盛衰を治乱に照らして鑑みる。故に君子は声を審らかにして音を知り、音を審らかにして楽を知り、楽を審らかにして政を知る。およそこの道によるのである。太史公の律書に言う。「王者が事を制し物を立てるに、法度軌則はすべて六律に拠る。六律は万事の根本であり、特に兵器・軍備において重んじられる。故に敵を見て吉凶を知り、声を聞いて勝負を判断するというのは、百王が変えることのない道である。」

秦氏が学問を滅ぼすと、その道は次第に衰微した。漢王朝が興ると、丞相の張蒼が初めて律について言上したが、十分に審らかではなかった。孝武帝は協律の官を創設し、司馬遷は律呂が相生する順序について詳細に述べた。王莽の時代に至り、音律を考論し、劉歆が条奏したところ、おおむね五つあった。第一は数を備えること、一、十、百、千、万である。第二は声を和すること、宮、商、角、徴、羽である。第三は度を審らかにすること、分、寸、尺、丈、引である。第四は嘉量、龠、合、升、斗、斛である。第五は権衡、銖、両、斤、鈞、石である。班固はこれに基づいて志を記した。蔡邕はさらに建武以後の律呂について言及した者を記し、 司馬紹 統がこれを採って続けた。漢末に天下が大乱し、楽工は散亡し、楽器の法は埋もれ滅んだ。魏の武帝(曹操)が初めて杜夔を得て、楽器の声調を定めさせた。夔は当時の尺度に依拠し、一時的に典章を整えた。武帝( 司馬炎 )が天命を受けると、これに従って改めなかった。泰始十年に至り、光禄大夫の荀勖が新たな尺度を制定し、律呂を改めて鋳造するよう上奏した。元康年間、勖の子の 荀籓 じゅんはん がその事業を継いだが、成功する前に永嘉の乱に遭遇し、中朝の典章はすべて 石勒 せきろく に没収された。元帝が南遷すると、朝廷の制度は草創期にあり、礼容や楽器は跡形もなく尽きてしまった。少しずつ採集したが、多くは失われ、ついに恭帝、安帝の代になっても、完全には整備できなかった。今、古い律の相生の順序と、魏の武帝以後の音律・度量について言及した者を考察し、その説を篇に明らかにする。

『伝』に言う。「十二律は黄帝が作ったものである。伶倫を大夏の西から、崑崙の北へと遣わし、竹の生える嶰谷から、その孔の厚さが均一なものを取り、両節の間を長さ三寸九分で切り取って吹き、黄鐘の宮とし、含少と名付けた。次に十二の竹筒を作り、鳳凰の鳴き声を写し取った。雄の鳴き声が六つ、雌の鳴き声も六つで、黄鐘の宮と比べ、すべてこれから生じて律呂を定めることができる。律が最初に作られた時、竹を管としたのは、その自然に円く中空な性質を取ったからである。」また言う。「黄帝が律を作った時、玉を管とし、長さ一尺、六孔で、十二ヶ月の音とした。舜の時代に至り、西王母が昭華の琯を献上したが、玉で作られていた。」漢の章帝の時、零陵の文学である奚景が泠道の舜祠の下で白玉の琯を得た。また、武帝(司馬炎)の太康元年、汲郡の盗賊が六国時代の魏の襄王の墓を発掘した時も、玉律を得た。古くはまた玉を管としていたのである。玉を用いるのは、その体が廉潔で潤いを含むからである。漢の平帝の時、王莽はまた銅で作った。銅は自ら名を持つものであり、天下を同じくし、風俗を整えるためである。その物は極めて精妙で、燥湿寒暑によって節を改めず、確固として常があり、士君子の行いに似ている。故に用いられたのである。

『周礼』に、太師は六律・六呂を掌り、陰陽の声を合わせるとある。六律は陽声で、黄鐘、太蔟、姑洗、蕤賓、夷則、無射である。六呂は陰声で、大呂、応鐘、南呂、林鐘、仲呂、夾鐘である。また、太師は同律を執って軍声を聴き、吉凶を 詔 する。その典同は六律の和を掌り、天地四方の陰陽の声を弁別して楽器とし、すべて十二律を以てその数度とし、十二声を以てその量を均しくする。

周の景王が無射を鋳造しようとした時、泠州鳩に律について問うた。答えて言う。「六は中の色である。故に黄鐘と名付け、六気九徳を宣揚養育するためである。これによって順序を定める。第二は太蔟、金奏を以て陽を賛え、滞りを出すためである。第三は姑洗、百物を清潔に整え、神を祀り賓客を迎え入れるためである。第四は蕤賓、神と人を安らかに静め、献酬交酢するためである。第五は夷則、九徳を詠歌し、人を平らかにして二心なからしめるためである。第六は無射、哲人の令徳を宣布し、人に軌儀を示すためである。その間に六つを設け、沈んだ伏したものを揚げ、散り逸れたものを退けるためである。第一の間は大呂、物を助け宣揚する。第二の間は夾鐘、四方の隙間から細やかなものを出す。第三の間は中呂、中気を宣べる。第四の間は林鐘、百事を和らげ広げ、すべてが任に肅純恪であるようにする。第五の間は南呂、陽の秀でたものを賛える。第六の間は応鐘、利器用を均しくし、応じて復するようにする。」これらはすべて、律を以て時気を述べ、節物の効験を示すものである。

秦の始皇帝が書を焚き典策を覆滅させると、諸子の瑣言に時折遺記が残された。呂不韋の『春秋』に言う。黄鐘の宮は律の根本であり、下生して林鐘を生じ、林鐘は上生して太蔟を生じ、太蔟は下生して南呂を生じ、南呂は上生して姑洗を生じ、姑洗は下生して応鐘を生じ、応鐘は上生して蕤賓を生じ、蕤賓は下生して大呂を生じ、大呂は下生して夷則を生じ、夷則は上生して夾鐘を生じ、夾鐘は下生して無射を生じ、無射は上生して中呂を生じる。三分して生じるものは、その一分を益して上生とし、三分して生じるものは、その一分を去って下生とする。後代の音律を論ずる者は多くこの説を宗とした。

漢が興ると、秦の弊を承け、張蒼が初めて律暦を治めたが、あまり詳しくなかった。故に孝武帝が楽を正すに当たり、協律の官を置いた。律呂の清濁の体はおおよそ正され、金石の高低の音には基準ができたが、ただ遺存を拾い集めて一時の制度を作ったに過ぎず、数はなお五を用いていた。

当時、淮南王劉安は儒者や博識の士を招き寄せ、彼らもまた律呂について論じた。それによると、黄鐘の律は九寸で宮音が調和し、それに基づいて九を掛けると、九九八十一となるので、黄鐘の数が確立される。その位置は子にある。林鐘の位置は未にあり、その数は五十四である。太蔟の数は七十二、南呂の数は四十八、姑洗の数は六十四、応鐘の数は四十二、蕤賓の数は五十七、大呂の数は七十六、夷則の数は五十一、夾鐘の数は六十八、無射の数は四十五、中呂の数は六十で、極まって生じない。黄鐘を宮とし、太蔟を商とし、姑洗を角とし、林鐘を徴とし、南呂を羽とする。宮は徴を生じ、徴は商を生じ、商は羽を生じ、羽は角を生じ、角は応鐘を生じるが、これは正音と比べられないので和とされる。応鐘は蕤賓を生じるが、これも正音と比べられないので繆とされる。冬至の日には、音は林鐘に比べて次第に濁る。夏至の日には、音は黄鐘に比べて次第に清くなる。十二律は二十四時の変化に対応する。甲子は中呂の徴である。丙子は夾鐘の羽である。戊子は黄鐘の宮である。庚子は無射の商である。壬子は夷則の角である。音として、一律から五音が生じ、十二律から六十音が生じる。それに基づいて六を掛けると、六六三十六となり、三百六十音が一年の日数に相当する。ゆえに律暦の数は、天地の道理なのである。

司馬遷の八書で律呂について述べた部分は、大まかな経緯を挙げて前史に記されている。それによると、太極の元気は三を含んで一となり、子において動き始め、十二律の生成は必ずそこから起こる。そこで丑において一に三を掛けて三を得、それに基づいて九と三を掛け、本位を合わせて十辰とし、一万九千六百八十三を得る。これを成数と呼び、黄鐘の法とする。また、十二辰における律に三を掛け、十七万七千百四十七を得る。これを該数と呼び、黄鐘の実とする。実を法で割ると、黄鐘の律の長さ九寸を得、十一月冬至の気がそれに応じる。陰陽が徳を合わせ、気が子に集まり、万物を化生するので、物が生まれる際にはすべて三を含む。ゆえに十二律の空径は三分であり、上下に相生する際には、すべて三を損益する。その方法は、黄鐘の長さ九寸に基づき、下生する場合は実を倍にして法を三倍にし、上生する場合は実を四倍にして法を三倍にする。これは陽が下って陰を生じ、陰が上って陽を生じることを明らかにするためである。

子から始めて、黄鐘九寸、一とする。

丑、三分の二。

寅、九分の八。

卯、二十七分の十六。

辰、八十一分の六十四。

巳、二百四十三分の百二十八。

午、七百二十九分の五百十二。

未、二千百八十七分の千二十四。

申、六千五百六十一分の四千九十六。

酉、一万九千六百八十二分の八千百九十二。

戌、五万九千四十九分の三万二千七百六十八。

亥、十七万七千百四十七分の六万五千五百三十六。

このように十二辰を一周し、六律において陽である場合は、当位自得のまま下って陰を生じ、六呂において陰である場合は、その衡を得て上って陽を生じる。推算の術には重上生の方法はない。いわゆる律が妻を取り、呂が子を生むというのは、陰陽の昇降であり、律呂の大原則である。ところが司馬遷はまた十二律の長さについて述べ、今、淮南王の九九の数に依拠すると、蕤賓が重上生となる。また五音の相生について述べ、宮が角を生じ、角が商を生じ、商が徴を生じ、徴が羽を生じ、羽が宮を生じるとしている。その道理と実用を求めても、通じる道が見えない。

元始年間、王莽が政務を補佐した際、鐘律に通じた者を広く招集し、その音義を考証させ、羲和の劉歆に統率させて調律と演奏を担当させた。班固の『漢書』はこれを採録して志とし、その序論は広範ではあるが、十二律の損益の順序について述べた部分は、黄鐘の長さ九寸から始まり、三分の一を減じて林鐘を生じ、長さ六寸となる。三分の一を増して太蔟を生じ、左回りに進み、八八を位とする。一上一下して、無射で終わり、中呂を生じる。その相生によって得られるものを校合すると、司馬遷の説と全く同じである。班固はこれを採って志とした。

元帝の時、郎中の京房は五音六十律の数理を知り、帝は太子傅の玄成と諫議大夫の章に命じて楽府で京房を試問させた。京房は答えて言った。「故小黄令の焦延寿に学びました。六十律相生の法は、上から下を生ずる場合は皆、三が二を生じ、下から上を生ずる場合は皆、三が四を生じます。陽が下って陰を生じ、陰が上って陽を生じ、中呂で終わり、十二律が完結します。中呂が上って執始を生じ、執始が下って去滅を生じます。上下相生して、南事で終わり、六十律が完結します。十二律の変化が六十に至るのは、八卦の変化が六十四に至るのと同じです。宓犧が『易』を作り、陽気の初めを記して律法としました。日を建て冬至の声とし、黄鐘を宮とし、太蔟を商とし、姑洗を角とし、林鐘を徴とし、南呂を羽とし、応鐘を変宮とし、蕤賓を変徴とします。これが声気の元であり、五音の正しい姿です。故に各々が一日を統べ、残りは順次運行し、その日に当たるものがそれぞれ宮となり、商・角・徴・羽は類によって従います。『礼運』に『五声、六律、十二管、還り相い宮を為す』とあるのは、このことを言うのです。六十律をもって期日の日を分け、黄鐘は冬至から始まり、冬至に至って戻ります。陰陽、寒暖、風雨の占いがここから生じます。これをもって群音を検べ摂め、その高低を考証すれば、草や木の声でない限り、合わないものはありません。『虞書』に『律は声を和す』とあるのは、このことを言うのです。」

京房はまた言った。「竹の声だけでは調律の尺度とできません。故に準を作って数を定めます。準の形状は瑟のようで、長さ一丈、十三弦、隠れた間隔は九尺、黄鐘の律九寸に対応させます。中央の一弦の下に分寸の目盛りを描き、六十律の清濁の節とします。」京房の律についての言説は劉歆の上奏したものより詳しく、その術は史官によって施行され、候部で用いられたが、文章が多いので全ては記載しない。管を截って律とし、吹いて声を考証し、並べて気を験すのは、道の根本である。術家はその声が微かで実体が知り難く、その分数が明らかでないため、準を作って代用した。準の声は明瞭で暢達しやすく、分寸もまた粗いが、弦は緩急清濁によって、管がなければ正すことができない。その中弦を均し、黄鐘と相得させるようにし、目盛りに従って諸律を求めれば、数に従わずに応じるものはない。『続漢志』にはその六十律の準の度数が詳しく記載されており、その相生の順序は『呂覧』『淮南子』と同じである。

漢の章帝の元和元年、待 詔 の候鐘律である殷肜が上言した。「官には六十律によって音を調律する者はいません。故に待 詔 の厳崇が準法を全て子の厳宣に教えました。願わくば厳宣を召し補って学官とし、楽器の調律を主管させてください。」 詔 して言った。「厳崇の子が学問を審らかにし律を暁しているなら、その族を別け、その声を協わせる者か、審らかに試せ。父の学問に依託し、聾をもって聡と為すことは許されない。声は微妙であり、独り非とすれば知る者なく、独り是とすれば暁る者もない。律を錯いて吹き、十二律を一つも失わずに知ることができるなら、初めて厳崇の学問を伝えることができる者と言えよう。」厳宣に十二律を試したところ、二つは当たり、四つは外れ、六つは何の律か分からなかった。厳宣は遂に罷免された。これ以降、律の家で準を作れる者は誰もいなくなった。

霊帝の熹平六年、東観で典律者である太子舎人の張光らを召して準の意を問うたが、張光らは知らず、帰って旧蔵を閲覧して、ようやくその器を得た。形状は京房の書にある通りであったが、なおその弦の緩急を定めることができなかった。音は、書いて人に理解させることはできず、知る者は教えようとしても方法がなく、心で理解する者は体得しても師がいない。故に史官で清濁を弁別できる者は遂に絶えた。伝えることができるものは、候気だけとなった。

漢末の紛乱により、雅楽は失われた。魏の武帝の時、河南の杜夔は音韻に精通し、雅楽郎中となり、銅工の柴玉に命じて鐘を鋳造させた。その声の均合と清濁は多く法に合わず、何度も壊して作り直させたので、柴玉は甚だ厭い、杜夔が清濁を任意に決めていると言い、互いに魏の武王に訴え出た。魏の武王は柴玉の鋳造した鐘を取り混ぜてさらに試し、その後で杜夔が精確であることを知り、そこで柴玉を罪に問うた。

泰始十年、 中書監 ちゅうしょかん の荀勗と中書令の 張華 が御府の銅竹律二十五具を取り出し、太楽郎の劉秀らに部属させて校試させた。そのうち三具は杜夔および左延年の律法と同じであり、二十二具はその銘題の尺寸を見ると、笛律であった。協律中郎将の列和に問うと、答えて言った。「昔、魏の明帝の時、私に命じて笛の声を受け継いでこの律を作らせ、学ぶ者を別の一坊に住まわせ、歌詠講習させ、この律に依って調律させようとしました。都合して楽を奏する時には、ただその尺寸の名を識っていれば、絲竹歌詠は皆、均合を得ることができます。歌声が濁る者は長笛長律を用い、歌声が清い者は短笛短律を用います。凡そ弦歌を調律し清濁の制を定めるには、笛の尺寸の名に依らなければ、知ることができないのです。」

荀勗らは上奏した。「昔、先王が楽を作られたのは、風を振るい俗を蕩し、神を饗し賢を祐けんがためであり、必ず律呂の和に協わせ、八音の中を節することにありました。この故に郊祀や朝宴には、用いることに制があり、歌奏や分献には、清濁に適宜がありました。故に『五声、十二律、還り相い宮を為す』と言うのであり、これは経伝記籍によって知り得ることです。列和の答えた言葉によれば、笛の長短には象るべき則がなく、率意に作られ、曲度によっていません。正律をもって考証すると、皆、相応せず、その声均を吹くと、多く諧合しません。また、『先師が笛を伝え、その清濁を別けるのに、ただ長短によるだけである。工人が裁制するのに、旧来より律に依らなかった』と述べています。これは笛を作るのに法がないということです。そして列和は笛を写して律を造り、さらに琴瑟歌詠に、これに従うことを正しいとさせています。これは古の先哲を稽え、後世に憲を垂れることにはなりません。謹んで諸律を条牒し、列和の意状を左のように問います。そして典制に依り、十二律を用いて笛を象ったものを十二枚造り、声均は調和し、器用は便利です。講肄や弾撃には、必ず律呂に合い、ましてや万国を宴饗し、廟堂で奏する場合にはどうでしょうか。伶や夔は遠く隔たっており、至音は精しくするのが難しいとはいえ、なお古昔を儀形し、その衷を求め、経礼に合致させ、制について詳しくすべきです。もし施用できるなら、請うてさらに笛工を部し竹を選んで造作させ、下して太楽楽府に施行させてください。諸々の杜夔、左延年の律については平議し、皆、留めることができるかどうか。御府の笛、正声と下徴各一具は、皆、作者の姓名を銘題しており、その他は施用する所がなく、御府に還付して毀棄させてください。」上奏は許可された。

荀勖はまた荀和に尋ねた。「笛を作るのに、十二律に基づいて十二本の笛を作り、一つの孔が一律に対応するようにして、それから音楽に用いることはできないか?」荀和は答えた。「太楽署の東廂にある長笛の正声はすでに長さ四尺二寸です。今、その下徴の声を取ろうとすれば、法によれば、声が濁るものは笛が長くなるはずで、その尺寸を計算すると五尺余りになります。私が以前に作ったことがありますが、吹くことができませんでした。また、笛の諸孔は試し合わせてはいませんが、一つの孔が一律に正確に応じることはできないと思います。」調べてみると、太楽署の四尺二寸の笛の正声は蕤賓に応じ、十二律が還相為宮する方法で推すと、下徴の孔は律の大呂に応ずるはずである。大呂の笛の長さは二尺六寸余りで、五尺余りにはならない。そこで直ちに太楽郎の劉秀、鄧昊らに命じて律に基づいて大呂笛を作らせ、荀和に見せた。また七律を吹き、一孔ごとに調律を合わせると、声はすべて相応じた。それから郝生に箏を弾かせ、宋同に笛を吹かせて、雑引や『相和』などの曲とした。すると荀和は言った。「私の父祖が漢代以来、笛の家として伝えてきたが、この方法は知りませんでした。調律が律に相応じるようにすることは、実に及ばないところです。」郝生、魯基、種整、朱夏は皆、荀和と同じであった。

また荀和に尋ねた。「笛には六つの孔があり、その笛体の中の空洞を合わせて七つになるが、あなたはその宮・商・角・徴・羽をすべて言い当てることができるか?孔の調子が合っているか合っていないかは、どのようにして検証して知るのか?」荀和は答えた。「先師から伝えられてきたのは、笛を吹くときはただ曲を作るためであり、互いに『某の曲では某の指を挙げる』と話すだけで、初めから七つの孔がすべてどの声に応じるかは知りませんでした。もし笛を作るなら、尚方の笛工に古い図像に基づいて作らせ、ただ鳴るものを吹いて取るだけで、初めからその諸孔の調子が合っているかどうかは再び調べませんでした。」調べてみると、『周礼』には楽器の鐘や磬を調律することは一定の声があるとされ、それゆえ鐘や磬を作る者はまず律に基づいて調律し、それから廂懸に施す。音楽を奏でるとき、諸音は皆、鐘や磬の均(調律)を受けるので、すべて律に応じることになる。饗宴が殿堂の上で行われるとき、廂懸の鐘や磬がない場合、笛には一定の調子があるので、諸弦歌は皆、笛を正として従う。これは笛が鐘や磬と同じで、必ず律呂に合うべきであるということだ。荀和の答えたところによれば、ただ思いつきで作り、おおむね一寸短くし、七つの孔の声を均等にしたが、それがすべてどの律に応じるか知らず、調子が合っているかどうか検証する方法がなく、ただ竹の鳴るものを取るだけで、法の制約がない。そこで部郎の劉秀、鄧昊、王豔、魏邵らに笛工と共に笛を作らせた。工人がその形を作り、律を知る者がその声を定め、それによって器の形に制約が生まれ、音の均が和協した。

また荀和に尋ねた。「もし律呂の意味を知らずに音楽を作り、音の均の高低清濁の調子を、何と名付けるべきか?」荀和は答えた。「毎回音楽を合わせるとき、歌い手の声の清濁に従って、長短の異なる笛を用います。仮に声が濁る者には三尺二寸の笛を用い、それゆえこれを三尺二調と名付けます。声が清らかな者には二尺九寸の笛を用い、それゆえこれを二尺九調と名付けます。漢魏以来伝えられ、施行されるものは皆そうです。」調べてみると、『周礼』には六楽を奏で、すなわち黄鐘を奏で、大呂を歌い、すなわち太蔟を奏で、応鐘を歌うとあり、皆、律呂の意味をもって歌と奏の清濁を記している。しかし荀和が称えるところでは、二尺、三尺をもって名付けるが、漢魏で用いられていても、俗であって典拠に適わない。部郎の劉秀、鄧昊らは律に基づいて笛を作り、三尺二寸のものは無射の律に応じ、もし長笛を用いるべきなら、楽を執る者は「無射を奏でてください」と言い、二尺八寸四分四厘は黄鐘の律に応じ、もし短笛を用いるべきなら、楽を執る者は「黄鐘を奏でてください」と言う。そうすれば歌と奏の意味は、経礼に合い、古典を考察すれば、制度として雅である。

『書経』に言う。「私は六律、五声、八音を聞き、治乱を知りたい。」『周礼』、『国語』には六律六同が載せられ、『礼記』にもまた「五声、十二律還相為宮」と言う。劉歆、班固が撰んだ『律暦志』にも十二律が記されているが、京房が初めて六十律を創始した。章帝の時代には、その法はすでに絶え、蔡邕がその言葉を追記したが、やはり今では行う者がないと言う。古典および今の音律家が用いるところに基づいて調べると、六十律は楽に施すところがない。謹んで典記に基づき、五声、十二律還相為宮の法によって、十二の笛の象を制し、注記を図の側に記す。別のものと同様であるが、図を見るよりは笛の孔を見る方が良いので、再び蕤賓伏孔笛を作り直した。その制度は次の通りである。

黄鐘の笛は、正声が黄鐘に応じ、下徴が林鐘に応じ、長さは二尺八寸四分四厘余りである。正声の調法は、黄鐘を宮とすると、姑洗が角となり、笛の声は姑洗に応じるので、四角の長さを黄鐘の笛とするのである。その宮声は正しく倍音ではないので、正声と言う。

正声の調法:黄鐘が宮で、第一の孔である。応鐘が変宮で、第二の孔である。南呂が羽で、第三の孔である。林鐘が徴で、第四の孔である。蕤賓が変徴で、第五の附孔である。姑洗が角で、笛体の中の声である。太蔟が商で、笛の後ろに出る孔である。商声は角より濁り、角の下にあるべきだが、角声は体の中にあるので、その商孔を上にし、宮より上に置き、宮より清らかにする。そうすると宮と商は正であり、残りの声は皆、倍音である。それゆえ宮以下では、孔が下に行くほど次第に濁くなる。この章は笛の孔の上下の次第の名を記したものである。次の章では律呂が相生する、笛の制度を説く。正声の調法、黄鐘を宮とする。黄鐘の笛を作るには、宮孔を求めようとして、始洗および黄鐘の律を用い、笛の首から下に度り、二律の長さを尽くして孔とすれば、宮声を得る。宮は徴を生じ、黄鐘は林鐘を生じる。林鐘の律を宮孔から下に度り、律を尽くして孔を作れば、徴声を得る。徴は商を生じ、林鐘は太蔟を生じる。太蔟の律を徴孔から上に度り、律を尽くして孔とすれば、商声を得る。商は羽を生じ、太蔟は南呂を生じる。南呂の律を商孔から下に度り、律を尽くして孔とすれば、羽声を得る。羽は角を生じ、南呂は姑洗を生じる。姑洗の律を羽孔から上行して度り、律を尽くして孔とすれば、角声を得る。しかしそれは商孔の上に出て、笛を吹く者の左手が届かない。羽孔から下行して度り、律を尽くして孔としても、角声を得るが、それは商附孔の下に出て、吹く者の右手が届かないので、角孔を作らない。推して下れば、またその均を倍にするので、角声は笛体の中にある。これが古い制度である。音律家の旧法では、一倍でも再倍でも、ただ均が同じであれば、ちょうど唱和の声として足り、曲の均に害がないからである。『国語』に言う、「匏竹は制に利あり、議は宜し」とは、事を用いるのに便利で、従うべきところに従うことを言うのである。角は変宮を生じ、姑洗は応鐘を生じる。上の句で角孔とすべきだが商の上に出ると言ったところに、墨で点を付け、応鐘の律に応じる。この点から下行して度り、律を尽くして孔とすれば、変宮の声を得る。変宮は変徴を生じ、応鐘は蕤賓を生じる。蕤賓の律を変宮から下に度り、律を尽くして孔とすれば、変徴の声を得る。十二笛の制度は、それぞれその宮を主とし、相生の法は、倍にしたり半分にしたりして、事を用いるのに便利であり、例は皆、同じである。

下徴調法:林鐘を宮とし、第四孔である。本来は正声の黄鐘の徴である。徴は清く、宮の上にあるべきだが、笛を用いるのに適した方法として、倍音を濁らせて下げるので、下徴という。下徴をさらに宮とするのは、『記』にいう「五声、十二律が互いに宮となる」ことである。すると正声は清く、下徴は濁いということになる。南呂を商とし、第三孔である。本来は正声の黄鐘の羽であり、今は下徴の商である。応鐘を角とし、第二孔である。本来は正声の黄鐘の変宮であり、今は下徴の角である。黄鐘を変徴とする。下徴の調では林鐘を宮とし、大呂が変徴となるべきだが、黄鐘の笛には本来大呂の音がないので、仮に黄鐘を用いて変徴とするのである。仮用の方法は、変徴の音を出すときには、黄鐘と太蔟、応鐘の三孔を同時に鳴らす。黄鐘は濁く応じ、太蔟は清い。大呂の律は二律の間にあり、三孔を同時に鳴らして徴の音体を獲得すれば、大呂の変徴の音が得られるのである。諸笛の下徴調で変徴を求める方法は、皆このようである。太蔟を徴とし、笛の後出孔である。本来は正声の商であり、今は下徴の徴である。姑洗を羽とし、笛体の中の翕声である。本来は正声の角であり、今は下徴の羽である。蕤賓を変宮とする。附孔である。本来は正声の変徴であり、今は下徴の変宮である。すると正声の調では、孔が下に転ずるほど濁くなり、下徴の調では、孔が上に転ずるほど清くなるのである。

清角の調:姑洗を宮とする。すなわち笛体の中の翕声である。正声に対しては角であり、下徴に対しては羽である。清角の調はこれを宮とし、哨吹して清くするので、清角という。ただ宛詩や謠俗の曲に適するだけで、雅楽には合わない。蕤賓を商とする。正しい。林鐘を角とする。正しくない。南呂を変徴とする。正しくない。応鐘を徴とする。正しい。黄鐘を羽とする。正しくない。太蔟を変宮とする。正しくない。清角の調では、宮、商および徴だけが律と相応し、残りの四声は正しくないものは皆濁っており、一律哨吹して清くし、仮に用いるのである。その例は一つである。

およそ笛体に律を用いる場合、長いものは八分の一、蕤賓、林鐘である。短いものは四分の一である。その他の十笛は、皆四角である。空中の実容は、長いものは十六である。短笛の竹は八律の黍を受けるのに適している。もし長短大小がこれに合わないか、器物が不便で声の均や法度の斉等に合わない場合がある。しかし笛の竹は概して上が大きく下が小さいので、均斉にはできず、やむを得ず、その声の均合を取るのである。三宮とは、第一を正声、第二を下徴、第三を清角という。二十一変である。宮に七声があり、錯綜して用いるので、二十一変となるのである。諸笛の例は皆同じである。伏孔は四つあり、事を用いるのに便利にするためである。第一を正角といい、商の上に出るものである。第二を倍角といい、笛の下に近いものである。第三を変宮といい、宮孔に近く、倍音を下げるものである。第四を変徴といい、徴孔から遠く、倍音を高くするものである。あるいは倍、あるいは半、あるいは四分の一とし、琴徽の法則を取るのである。四者ともその孔を作らず、その度を取って、上下に退く法に応じるので、声の均を協わせ、事を用いるのに便利にするのである。その本孔は隠れて見えないので、伏孔というのである。

大呂の笛は、正声は大呂に応じ、下徴は夷則に応じ、長さ二尺六寸六分三厘有奇である。

太蔟の笛は、正声は太蔟に応じ、下徴は南呂に応じ、長さ二尺五寸三分一厘有奇である。

夾鐘の笛は、正声は夾鐘に応じ、下徴は無射に応じ、長さ二尺四寸である。

姑洗の笛は、正声は姑洗に応じ、下徴は応鐘に応じ、長さ二尺二寸三分三厘有奇である。

蕤賓の笛は、正声は蕤賓に応じ、下徴は大呂に応じ、長さ三尺九寸九分五厘有奇である。変宮は宮孔に近いので、倍半して下げ、用いるのに便利にするのである。林鐘もまたこれと同じである。林鐘の笛は、正声は林鐘に応じ、下徴は太蔟に応じ、長さ三尺七寸九分七厘有奇である。

夷則の笛は、正声は夷則に応じ、下徴は夾鐘に応じ、長さ三尽六寸である。変宮の法も、蕤賓と同じく、体は四角を用いるので、四分の一を益すのである。

南呂の笛は、正声は南呂に応じ、下徴は姑洗に応じ、長さ三尺三寸七分有奇である。

無射の笛は、正声は無射に応じ、下徴は中呂に応じ、長さ三尺二寸である。

応鐘の笛は、正声は応鐘に応じ、下徴は蕤賓に応じ、長さ二尺九寸九分六厘有奇である。

五音十二律

土の音は宮、数は八十一、声の始まりである。土に属するのは、その最も濁っていることにより、君主の象である。季夏の気が和らげば、宮声は調う。宮が乱れれば荒れ、その君主は驕る。黄鐘の宮は、律が最も長いのである。

火の音は徴、宮の三分の一を去って生じ、その数は五十四である。火に属するのは、その徴が清いことにより、事の象である。夏の気が和らげば、徴声は調う。徴が乱れれば哀しみ、その事は勤勉である。

金の音は商であり、三分の一を徴から増やして生じ、その数は七十二である。金に属するのは、その濁りが宮に次ぐため、臣下の象徴である。秋の気が調和すれば、商の声は調う。商が乱れれば偏り、その官職は壊れる。

水の音は羽であり、三分の一を商から減らして生じ、その数は四十八である。水に属するのは、最も清いものとされ、物の象徴である。冬の気が調和すれば、羽の声は調う。羽が乱れれば危険であり、その財は乏しくなる。

木の音は角であり、三分の一を羽から増やして生じ、その数は六十四である。木に属するのは、その清濁が中ほどであるため、人の象徴である。春の気が調和すれば、角の声は調う。角が乱れれば憂い、その人は怨む。

音声の尊卑は、五行の象を取る。数の多いものは濁り、数の少ないものは清い。大きいものは宮を超えず、細かいものは羽を超えない。

十一月、律は黄鐘に中る。これは律の始まりであり、長さは九寸である。仲冬の気が至れば、その律が応じ、六気と九徳を養い宣べる所以である。班固は三分の一を損じて、林鐘を下生する。

十二月、律は大呂に中る。司馬遷の未だ下生していない律であり、長さは四寸二百四十三分寸の五十二、これを倍すると八寸二百四十三分寸の百四となる。季冬の気が至れば、その律が応じ、物を助け宣べる所以である。三分の一を益して、夷則を上生する。京房は三分の一を損じて、夷則を下生する。

正月、律は太蔟に中る。未だ上生していない律であり、長さは八寸である。孟春の気が至れば、その律が応じ、陽気を賛し滞りを出す所以である。三分の一を損じて、南呂を下生する。

二月、律は夾鐘に中る。酉から下生する律であり、長さは三寸二千一百八十七分寸の千六百三十一、これを倍すると七寸二千一百八十七分寸の千七十五となる。仲春の気が至れば、その律が応じ、四隙の細かいものを出す所以である。三分の一を益して、無射を上生する。京房は三分の一を損じて、無射を下生する。

三月、律は姑洗に中る。酉から上生する律であり、長さは七寸九分寸の一である。季春の気が至れば、その律が応じ、百物を修め清め、神を考へ賓を納れる所以である。三分の一を損じて、応鐘を下生する。

四月、律は中呂に中る。亥から下生する律であり、長さは三寸萬九千六百八十三分寸の六千四百八十七、これを倍すると六寸萬九千六百八十三分寸の萬二千九百七十四となる。孟夏の気が至れば、その律が応じ、中気を宣べる所以である。

五月、律は蕤賓に中る。亥から上生する律であり、長さは六寸八十一分寸の二十六である。仲夏の気が至れば、その律が応じ、人神を安静にし、献酬交酢を行う所以である。三分の一を損じて、大呂を下生する。京房は三分の一を益して、大呂を上生する。

六月、律は林鐘に中る。丑から下生する律であり、長さは六寸である。季夏の気が至れば、その律が応じ、百物を和らげ展べ、すべてが任せられ肅純恪であるようにする所以である。三分の一を益して、太蔟を上生する。

七月、律は夷則に中る。丑から上生する律であり、長さは五寸七百二十九分寸の四百五十一である。孟秋の気が至れば、その律が応じ、九則を詠歌し、百姓を平らかにして貸し与えることのない所以である。三分の一を損じて、夾鐘を下生する。京房は三分の一を益して、夾鐘を上生する。

八月、律は南呂に中る。卯から下生する律であり、長さは五寸三分寸の一である。仲秋の気が至れば、その律が応じ、陽気の秀でるのを賛する所以である。三分の一を益して、姑洗を上生する。

九月、律は無射に中る。卯から上生する律であり、長さは四寸六千五百六十一分寸の六千五百二十四である。季秋の気が至れば、その律が応じ、哲人の令徳を宣布し、人に軌儀を示す所以である。三分の一を損じて、中呂を下生する。京房は三分の一を益して、中呂を上生する。

十月は律が応鐘に当たり、巳から下生する律で、長さは四寸二十七分寸の二十である。孟冬の気が至ると、その律が応じる。これは利器用を均しくし、復に応じさせるためである。三分益一して、上生して蕤賓となる。

淮南子、京房、鄭玄ら諸儒が律暦について述べたところでは、皆上下相生とし、蕤賓に至ってまた重ねて上生して大呂となり、長さは八寸二百四十三分寸の百四である。夷則は上生して夾鐘となり、長さは七寸千一百八十七分寸の千七十五である。無射は上生して中呂となり、長さは六寸萬九千六百八十三分寸の萬二千九百七十四である。この三品は、司馬遷や班固が生じさせた寸数及び分のいずれも倍になっているが、その他は全て同じである。これは泠州鳩のいう六間の道であり、沈伏を揚げ、散越を退け、これを借りて用いるところのものである。変通は半ばずつで、事に随って適宜であり、助けを補う方法である。およそ音声の本体は、和と均を務めとし、益すれば倍加し、損すれば半減する。それは本音に対して常に誤りがない。そうであれば、一上一下というのは相生の道であり、重上生というのは吹候の用である。蕤賓で重上生するのは、ちょうど用いられる数に適うからであり、故に律を論ずる者はこれに因るのであって、相生の正しい道ではないのである。

楊子雲が言うには、「声は日に生じる。甲己を角とし、乙庚を商とし、丙辛を徴とし、丁壬を羽とし、戊癸を宮とすることをいう。律は辰に生じる。子を黄鐘とし、丑を大呂とする類である。声は情によって質とし、質とは正である。各々その行う本情を以て正とする。律は声を和する。律管と鐘均を以てその清濁の声を和すべきである。声と律が相協して八音が生じる。協とは和である。」宮・商・角・徴・羽を五声という。金・石・匏・革・絲・竹・土・木を八音という。声が和し音が諧うことを五楽という。

陰陽が和すれば景(日影)が至り、律気が応ずれば灰が除かれる。それゆえ天子は常に冬夏至の日に前殿に臨み、八能の士を集め、八音を陳べ、楽均を聴き、晷景を測り、鐘律を候い、土灰を量り、陰陽を験する。冬至に陽気が応ずれば灰が除かれ、それゆえ楽均は清く、景は長く極まり、黄鐘が通じ、土灰は軽く衡(秤)は仰ぐ。夏至に陰気が応ずれば楽均は濁り、景は短く極まり、蕤賓が通じ、土灰は重く衡は低い。先後五日の中に進退し、八能は各々候った状況を上聞し、太史令が封をして上奏する。効験あれば和し、なければ占う。

候気の法は、室を三重とし、戸を閉じ、塗りと隙間を周密にし、緹幔を張る。室の中に木で案(台)を作り、各律ごとに一つずつ、内は低く外は高く、その方位に従い、律をその上に加え、葭莩の灰でその内端を抑え、暦に従って候う。気が至れば灰が去る。気によって動かされるものは、その灰が散る。人や風によって動かされるものは、その灰が聚まる。殿中で候うには玉律十二を用い、二至のみ候う。霊台では竹律を用いる。楊泉の記に云う、「弘農郡宜陽県の金門山の竹を取って管とし、 河内 の葭莩を灰とする。」あるいは、律を室の中に置き、十二辰に随って埋め、上を地と平らにし、竹莩の灰で律の中を満たし、羅縠で律呂を覆い、気が至れば灰を吹き動かし縠が動くと云う。小動は和、大動は君弱臣強、動かざるは君厳暴の応である。

審度

度の基準を立てることについては、『漢書』律暦志に詳しく述べられている。武帝泰始九年、 中書監 ちゅうしょかん 荀勖が太楽を校した際、八音が和せず、後漢から魏にかけて、尺が古より四分余り長いことを初めて知った。勖は著作郎劉恭に命じて『周礼』に依って尺を制させ、いわゆる古尺である。古尺に依って更に銅の律呂を鋳造し、声韻を調えた。この尺で古器を量ると、本来の銘の尺寸と差がなかった。また、汲郡で盗賊が六国時代の魏襄王の塚を発掘し、古い周代の玉律及び鐘・磬を得たが、新律と声韻が暗に同じであった。この時、郡国で漢代の古い鐘を得たものがあり、律を吹いて命ずると皆応じた。勖はその尺に銘して曰く、「晋泰始十年、中書が古器を考証し、今の尺を校合したところ、四分半長い。校合した古法は七品ある。一は姑洗玉律、二は小呂玉律、三は西京銅望臬、四は金錯望臬、五は銅斛、六は古銭、七は建武銅尺である。姑洗は微かに強く、西京望臬は微かに弱いが、その他はこの尺と同じである。」八十二 字 の銘である。この尺とは勖の新尺であり、今尺とは杜夔の尺である。

荀勖が新たな鐘律を造り、古器と声韻が調和したので、当時の人はその精密さを称えたが、ただ散騎侍郎陳留の阮咸だけがその声が高いと譏り、声が高ければ悲しくなり、興国の音ではなく、亡国の音であると述べた。亡国の音は哀しみと思いに満ち、その人は困窮する。今の声は雅に合わず、徳正至和の音ではないことを恐れる。必ずや古今の尺に長短があることによるものであろう。ちょうど阮咸が病死したので、武帝は荀勖の律が周漢の器と合うとして、これを施行した。後に始平で地を掘って古い銅尺を得たが、歳月を経て腐りかけ、どの時代のものか分からなかった。果たして荀勖の尺より四分長く、当時の人は阮咸の妙を服したが、どうすることもできなかった。

史臣が案ずるに、「荀勖は千載の外にありながら、百代の法を推し、度数も適宜で、声韻もまた合致しており、切密と言え、信じて徴とすることができる。しかし当時の人は識見が乏しく、聞こえざる一尺に拠り、周漢の二つの器を軽んじ、雷同して臧否し、なんと謬っていることか。『世説新語』に「田父が野地の中で周代の玉尺を得たが、これこそ天下の正尺であり、荀勖が試みにこれで自分が治めた金石絲竹を校合すると、皆一米短かった」と称している。また、漢章帝の時、零陵の文学史奚景が泠道の舜祠の下で玉律を得、度を以て尺とし、伝えてこれを漢官尺と謂った。これで荀勖の尺を校合すると、荀勖の尺は四分短い。漢官尺と始平尺は、長短の度が同じである。また、杜夔が用いた調律尺は、荀勖の新尺と比べると、一尺四分七厘を得る。魏の景元四年、劉徽が『九章算術』に注して云う、王莽の時、劉歆の斛尺は今尺より四分五厘弱く、魏尺と比べるとその斛は深さ九寸五分厘である。即ち荀勖の謂う今尺が四分半長いというのはこれである。元帝の後、江東で用いた尺は、荀勖の尺と比べると一尺六分二厘である。趙の 劉曜 りゅうよう の光初四年に渾儀を鋳造し、八年に土圭を鋳造したが、その尺は荀勖の尺と比べると一尺五分である。荀勖の新尺はただ音律を調えるのに用いただけで、世間にはあまり流布しなかったので、江左及び 劉曜 りゅうよう の儀表は、共に魏尺を略々依拠している。

嘉量

『周礼』に「栗氏が量を作る。鬴の深さは一尺、内は一尺四方で外を円くし、その実は一鬴である。その臀は一寸、その実は一豆である。その耳は三寸、その実は一升である。重さは一鈞、その声は黄鐘に中る。概(ます)で量って税を取らない。その銘に曰く、『時文思索し、允に其の極に臻る。嘉量既に成り、以て四国を観る。永く厥の後を啓き、茲の器維れ則とす。』」とある。『春秋左氏伝』に曰く、「斉の旧い四量は、豆・区・釜・鐘である。四升を豆とし、各々その四倍で釜に登る。」四豆が一区で、区は一斗六升である。四区が一釜で、六斗四升である。釜の十倍が鐘で、六十四斗である。鄭玄は釜を一尺四方とし、積は千立方寸と考えるが、『九章算術』粟米法に比べると二升八十一分升の二十二少ない。算術でこれを考証すると、古い斛の積は凡そ千五百六十二立方寸半であり、一尺四方で外を円くし、傍を一厘八毫減じると、その直径は一尺四寸一分四毫七秒二忽有奇で、深さ一尺、これが古い斛の制度である。

『九章算術』の商功の法では、粟一斛の体積は二千七百立方寸、米一斛の体積は一千六百二十七立方寸、豆・小豆・麻・麦一斛の体積は二千四百三十立方寸としている。これは精粗の度合いを基準として、価格を揃える一方で、容器の体積(立方寸)を等しくしないためである。米斛を基準とすれば、『漢書』律暦志の記述と同じになる。魏の陳留王景元四年(263年)、劉徽が『九章算術』の商功に注釈を加えて言うには、「現在の大司農斛は、円の直径が一尺三寸五分五厘、深さが一尺で、体積は一千四百四十一立方寸と十分の三立方寸である。王莽の銅斛は、現在の尺度で測ると深さが九寸五分五厘、直径が一尺三寸六分八厘七毛である。私の算法で計算すると、現在の斛に換算して容積は九斗七升四合あまりである」。魏の斛は大きく尺は長く、王莽の斛は小さく尺は短いのである。

衡と権

衡と権について。衡とは平らにするもの、権とは重りである。衡は権を受け止めて物を均等にし、軽重を平らにするために用いる。古くには黍・壘・錘・錙・鐶・鈞・鋝・鎰といった名称があったが、歴代でばらつきがある。『漢書』律暦志には衡権の名称と道理が詳しく述べられているが、その後変更され、その詳細は伝わっていない。元康年間(291-299年)、裴頠は医方は人命に関わる急務であるのに、秤量する両の単位が古制と合わず、害が特に大きいと考え、この機会に権衡を改めるべきだと上奏したが、聞き入れられなかった。後趙の 石勒 せきろく の十八年(326年)七月、建徳殿を造営した際、円い石が出土し、水碓のような形状で、銘文に「律権石、重さ四鈞、律度量衡と同じ。有辛氏が造る」とあった。続咸が議論し、これは王莽の時代の物であるとした。